【基礎 日本史】Module 6: 現代日本の歩み
【本記事の概要】
本稿は、1945年の敗戦という未曾有の国難から始まり、平成という一つの時代が終わりを告げるまでの、日本の**「現代」史**を体系的に解き明かすことを目的とします。この約70数年間は、日本が国家として、そして社会として、根源的な変革を遂げた、まさに激動と再生の時代でした。
私たちの旅は、焼け野原の中から、連合国軍の占領下で始まった戦後改革、すなわち非軍事化と民主化のプロセスから始まります。特に、日本国憲法の制定と象徴天皇制の確立、財閥解体と農地改革といった、今日の日本の骨格を形作った根本的な変革を詳解します。
次に、冷戦という新たな国際秩序の中で、日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復し、同時に日米安全保障条約によって西側陣営の一員としての道を歩み始める過程を追います。そして、国内政治における**「55年体制」の成立を背景に、世界が驚嘆した高度経済成長**を達成し、経済大国へと駆け上がっていくメカニズムとその光と影を分析します。
さらに、経済大国となった日本が、日韓国交正常化や沖縄返還といった戦後処理の課題に取り組み、石油危機を乗り越えて安定成長へと移行する様を見ます。しかし、その成功は、やがて制御不能なバブル経済とその壮絶な崩壊を生み出し、日本は**「失われた時代」**と呼ばれる長い停滞期へと突入します。冷戦終結後の政治改革の試みや、平成の時代に深刻化した社会構造の変化までを概観します。
このモジュールを通じて、現代日本がどのようにして形成され、どのような課題を抱えてきたのかを、政治・経済・外交・社会の各側面から多角的に理解します。これは、現代社会を生きる私たちが、自らの立つ位置を歴史的に認識し、未来を展望するための不可欠な知的基盤となるでしょう。
1. 焼け跡からの再出発:連合国軍の占領と戦後改革 (1945年~1952年)
1.1. 連合国による占領と日本の非軍事化・民主化
- ポツダム宣言の受諾と占領の開始
- 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏しました。これにより、日本は建国以来初めて、外国軍隊による占領下に置かれることになりました。
- 占領は、形式的にはアメリカ、イギリス、ソ連、中国などの連合国によって行われましたが、事実上はアメリカが単独で主導しました。連合国軍最高司令官総司令部、通称GHQ/SCAPが東京に置かれ、その最高司令官であるダグラス・マッカーサーが、日本の占領政策の最高責任者となりました。
- 占領の方式は、GHQが日本政府に指令や勧告を発し、日本政府を通じて統治を行う間接統治の形式がとられました。
- 占領の二大方針:非軍事化と民主化
- GHQが掲げた初期の占領政策の基本方針は、日本が二度と世界の平和に対する脅威とならないようにするための、徹底した非軍事化と民主化でした。
- 非軍事化:
- 軍隊の解体: 大日本帝国陸海軍は完全に解体され、関連する省庁も廃止されました。
- 戦争指導者の逮捕: 東条英機元首相をはじめとする、戦争を指導した疑いのある者(戦争犯罪人)が次々と逮捕されました。
- 国家神道の解体: 政治と宗教を分離するため、神社が国家の管理を離れることを命じる神道指令が出されました。
- 民主化:
- 人権指令: 治安維持法の廃止、特別高等警察の廃止、思想・信条・集会の自由の保障、政治犯の釈放など、基本的人権の確立を指示。これにより日本共産党も合法化されました。
- 婦人の解放: 衆議院議員選挙法が改正され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、女性参政権が初めて実現しました。
- 労働者の権利保護: 労働組合法、労働関係調整法、労働基準法の「労働三法」が制定され、労働者の団結権、団体交渉権、争議権(ストライキ権)が保障されました。
- 教育改革: 教育基本法と学校教育法が制定され、軍国主義教育が否定され、男女共学、義務教育9年制といった、民主主義教育の基本が定められました。
1.2. 戦後日本の土台:日本国憲法の制定と象徴天皇制
- 憲法改正の始まり
- GHQは、天皇に絶対的な権限を与えていた大日本帝国憲法が、軍国主義の温床であったと考え、その改正を日本政府に強く求めました。
- 当初、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の松本烝治(じょうじ)国務大臣が中心となって作成した改正案(松本案)は、大日本帝国憲法の基本原則を維持する、保守的な内容でした。
- GHQ草案と日本政府案
- この松本案に不満を持ったGHQは、マッカーサーの指示の下、わずか1週間余りで、根本的な改正案(マッカーサー草案)を独自に作成。これを日本政府に提示し、この草案を基に憲法を作成するよう強く示唆しました。
- マッカーサー草案の三大原則は、①国民主権、②戦争の放棄、③基本的人権の尊重であり、これは現在の日本国憲法の骨格となっています。
- 日本政府は、このGHQ草案を基に日本語の憲法草案を作成し、帝国議会での審議に臨みました。
- 日本国憲法の成立(1946年)
- 議会での審議を経て、若干の修正(「芦田修正」など)が加えられた後、憲法改正案は可決。1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日に施行されました。
- 憲法の三大原則と象徴天皇制
- 国民主権: 主権が天皇から国民に移ったことは、最大の変更点でした。天皇は、日本国および日本国民統合の**「象徴」**と位置づけられ、国政に関する権能を一切持たない存在となりました(象徴天皇制)。
- 基本的人権の尊重: 国民の権利は、「侵すことのできない永久の権利」として保障されました。
- 平和主義: 第9条において、**「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とし、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」**と定め、徹底した平和主義を宣言しました。この戦争放棄の規定は、世界でも類を見ないものであり、その後の日本のあり方を大きく規定することになります。
1.3. 経済の民主化:財閥解体と農地改革
- 財閥解体
- 目的: 三井、三菱、住友、安田といった財閥が、その経済力で軍国主義を支援したとして、その支配力を解体するため。
- 内容:
- 財閥本社(持株会社)を解散させ、その所有する株式を公開。
- 独占禁止法や過度経済力集中排除法を制定し、巨大企業の分割を行った。
- これにより、日本の産業構造における同族支配の構造は解体されましたが、後の経済復興の過程で、旧財閥系の企業は企業グループ(三井グループなど)として再結集していくことになります。
- 農地改革
- 目的: 農村における地主・小作人という封建的な土地所有関係を解体し、農村を民主化するため。戦前の日本では、多くの農民が地主から土地を借りて耕作する小作人であり、高い小作料に苦しんでいました。この構造が、農村の貧困と、軍部の支持基盤を生み出したと考えられました。
- 内容:
- 地主が持つ小作地を、政府が強制的に安値で買い上げ、それを実際に耕作していた小作人に安く売り渡す。
- 不在地主の全小作地と、在村地主の一定面積以上の小作地が対象となった。
- 歴史的意義: この農地改革は、占領期改革の中でも最も徹底して行われ、絶大な効果を上げました。寄生地主制はほぼ解体され、多くの小作人が自作農となり、農村の民主化と安定に大きく貢献しました。これが、後の保守政党(自民党)の強固な支持基盤ともなっていきます。
1.4. 過去への断罪:東京裁判(極東国際軍事裁判)
- 戦争責任の追及
- 1946年、連合国は、日本の戦争指導者たちの責任を裁くため、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)を開廷しました。
- A級戦争犯罪人として、東条英機元首相ら28名が、「平和に対する罪」(侵略戦争の計画・遂行)などで起訴されました。
- 判決とその後の議論
- 約2年半にわたる審理の末、1948年に判決が下され、東条英機ら7名に死刑、16名に終身禁錮刑などの有罪判決が言い渡されました。
- 東京裁判は、侵略戦争を個人の犯罪として裁いた、国際法上画期的な裁判でした。しかし、その一方で、
- 天皇の戦争責任が問われなかったこと。
- 連合国側の戦争行為(例:原爆投下)は一切裁かれなかったこと。
- 「平和に対する罪」は、事後法(行為の後から作られた法律)で裁くものであり、法的に不当であるという批判(「勝者の裁き」論)。
- など、多くの問題点を抱えており、その評価は今日に至るまで、歴史的・政治的な論争の的となっています。
2. 国際社会への復帰:冷戦と55年体制
2.1. 占領政策の転換:冷戦の開始と日本の再軍備
- 冷戦の始まりと「逆コース」
- 1947年頃から、アメリカを中心とする資本主義・自由主義陣営と、ソ連を中心とする共産主義・社会主義陣営との間の対立、すなわち冷戦が激化します。
- 1949年には、中国で毛沢東率いる共産党が内戦に勝利し、中華人民共和国が成立。東アジアにおける共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカは、対日占領政策を大きく転換させます。
- それまでの、日本を弱体化させる非軍事化・民主化政策から、日本を**「反共の防波堤」として、西側陣営の一員に組み込み、経済的に復興させるという政策へと舵を切りました。この政策転換を「逆コース」**と呼びます。
- 日本の再軍備:警察予備隊の創設
- 1950年、朝鮮半島で朝鮮戦争が勃発すると、在日米軍が朝鮮半島へ出動したため、日本の治安維持に空白が生まれることを懸念したGHQは、日本政府に、警察力の増強を指示しました。
- これを受けて、吉田茂内閣は警察予備隊を創設。これは、事実上の再軍備であり、後に保安隊を経て、現在の自衛隊へと発展していきます。
- この再軍備は、憲法第9条の「戦力不保持」の規定との間で、深刻な憲法解釈上の問題を生み、今日に至るまで続く大きな政治的争点となりました。
- レッド・パージ
- 占領政策の転換に伴い、GHQと日本政府は、共産主義者の追放(レッド・パージ)を推進。多くの共産党員やその同調者が、公職や企業から追放されました。これは、初期の占領政策とは180度異なる動きでした。
2.2. 「片面講和」:サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約
- 講和条約をめぐる対立
- 日本の独立回復(講和)をめぐり、国内では意見が対立しました。
- 全面講和論: ソ連などの共産主義国を含めた、全ての交戦国との講和を目指すべきだという考え方。
- 単独講和(片面講和)論: アメリカなど、西側陣営の国々と先に講和を結び、独立を急ぐべきだという考え方。首相の吉田茂はこちらの立場をとりました。
- 日本の独立回復(講和)をめぐり、国内では意見が対立しました。
- 二つの条約の締結(1951年)
- 冷戦の激化を背景に、アメリカ主導で片面講和が進められました。
- サンフランシスコ講和条約:
- 1951年、サンフランシスコで開かれた講和会議で、日本を含む49か国が調印。これにより、日本の独立が国際的に承認され、7年近くに及んだ連合国軍による占領は終わりを告げました。
- ただし、ソ連や中国などは会議に参加・調印せず、文字通りの**「片面講和」**となりました。日本はこの条約で、朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖諸島、千島列島などの領有権を放棄しました。
- 日米安全保障条約(旧安保):
- 講和条約と同じ日、同じ場所で、日本とアメリカとの間で調印されました。
- 内容: 日本の独立後も、アメリカ軍が引き続き日本の国内に駐留することを認めるもの。
- 目的: 日本の防衛をアメリカに委ねる一方、アメリカにとっては、日本をアジアにおける反共の軍事拠点とすることが目的でした。
- 歴史的意義
- この二つの条約により、日本は主権を回復しましたが、同時に、アメリカの軍事戦略下に組み込まれるという形で、西側陣営の一員として国際社会に復帰することになりました。この**「吉田ドクトリン」**(軽武装・経済重視・日米同盟基軸)とも呼ばれる路線が、その後の日本の進路を決定づけたのです。
2.3. 戦後政治の枠組み:55年体制の成立
- 保守合同と社会党の再統一
- 1950年代前半、保守勢力である自由党と日本民主党は、左右両派に分裂していた日本社会党が再統一を果たし、勢力を拡大したことに危機感を抱きました。
- 財界からの強い要請もあり、1955年11月、自由党と日本民主党は合併し、**自由民主党(自民党)**を結成しました(保守合同)。
- 55年体制とは
- これにより、日本の政界は、**議席の3分の2を占める巨大な保守与党(自民党)**と、**3分の1を占める野党第一党の革新政党(日本社会党)とが、長期にわたって対立するという構図が生まれました。この政治体制を「55年体制」**と呼びます。
- 体制の特徴と対立軸
- 自民党: 日米安保体制を堅持し、資本主義経済の発展を目指す。憲法改正を主張。大企業や農村が主な支持基盤。
- 社会党: 非武装中立を掲げ、日米安保条約の廃棄と、憲法9条の護持(護憲)を主張。労働組合(特に総評)が主な支持基盤。
- この55年体制の下で、安全保障や憲法といった根本的な問題では激しく対立しつつも、自民党が長期安定政権を維持し、経済成長を最優先課題としていく、という戦後日本の政治の基本的な枠組みが定まりました。この体制は、1993年に自民党が下野するまで、約38年間にわたって続くことになります。
3. 高度経済成長の時代:経済大国への道と社会の変貌 (1955年頃~1973年)
3.1. 「奇跡」のメカニズム:高度経済成長
- 高度経済成長の軌跡
- 1950年代半ばから1970年代初頭にかけて、日本経済は、年平均10%を超える、世界史的にも稀な驚異的な成長を遂げました。これを高度経済成長と呼びます。
- 「もはや戦後ではない」と経済白書が宣言した1956年頃から本格化し、神武景気、岩戸景気、そしてオリンピック景気(1964年東京五輪)、いざなぎ景気と、好景気が続きました。
- 所得水準は飛躍的に向上し、人々の生活は豊かになりました。「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や、後の「3C」(カラーテレビ、クーラー、カー)が、憧れの対象として家庭に普及していきました。
- 高度成長を支えた要因
- この「経済の奇跡」は、様々な要因が複合的に作用した結果でした。
- 政府・官僚による産業政策: 通商産業省(通産省)などが、鉄鋼や石油化学、自動車といった基幹産業を育成するため、計画的な資金援助や保護政策を実施。
- 企業の積極的な設備投資: 企業は、銀行からの間接金融(借入)によって、欧米から最新の技術を導入し、積極的に設備投資を行いました。
- 質の高い豊富な労働力: 地方から都市へ、多くの若者が「金の卵」として集団就職し、安価で質の高い労働力となりました。
- 高い貯蓄率: 国民は所得の多くを貯蓄に回し、それが銀行を通じて企業の設備投資の資金源となりました。
- 安定した労使関係: 企業別労働組合は、春闘などで賃上げを要求しつつも、企業の成長を優先する協調的な姿勢をとりました。
- 政治的安定と軽武装: 55年体制の下での自民党長期政権が、経済政策に専念できる環境を提供。また、日米安保体制の下で、防衛費を低く抑え、その分を経済投資に回すことができました。
- この「経済の奇跡」は、様々な要因が複合的に作用した結果でした。
- 高度成長の「影」:公害問題
- 一方で、経済成長を最優先するあまり、環境への配慮が欠かれ、深刻な公害が全国で発生しました。
- 四大公害訴訟: 新潟水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病、熊本水俣病。これらの公害は、多くの人々の健康と命を奪いました。
- 公害問題の深刻化を受け、1971年には環境庁が設置され、経済優先の政策が見直されるきっかけとなりました。
3.2. 戦後処理と外交:日韓国交正常化と沖縄返還
- 日韓国交正常化(1965年)
- サンフランシスコ講和条約に参加しなかった韓国との間では、戦後、国交がない状態が続いていました。
- 両国間では、日本の植民地支配の清算(賠償問題)や、李承晩ライン(漁業水域問題)などをめぐり、交渉は難航していました。
- しかし、アジアの安定を望むアメリカからの強い働きかけもあり、池田勇人内閣、佐藤栄作内閣の下で交渉が進展。1965年、日韓基本条約が調印され、国交が正常化しました。
- この条約で、日本は韓国に無償・有償の経済協力を行うことで、両国間の請求権問題は「完全かつ最終的に解決された」とされましたが、歴史認識や個人の請求権などをめぐる問題は、その後も両国間に横たわる課題として残りました。
- 沖縄返還(1972年)
- 沖縄は、戦後もアメリカの施政権下に置かれ、広大な米軍基地が集中する「太平洋の要石」とされていました。
- 日本本土への復帰を願う沖縄県民の運動が高まる中、佐藤栄作内閣はアメリカとの交渉を精力的に行いました。
- 1971年に沖縄返還協定が調印され、1972年5月15日、沖縄は27年ぶりに日本に復帰しました。
- 佐藤栄作首相は、「核抜き、本土並み」の返還を約束しましたが、実際には、有事の際の核持ち込みなどをめぐる密約の存在が後に明らかになり、また広大な米軍基地は返還後も残り続け、沖縄の人々の大きな負担となっています。
3.3. 成長の終焉:石油危機と安定成長への移行
- ニクソン・ショック(1971年)
- 1971年、アメリカのニクソン大統領が、ドルの金兌換(だかん)停止を発表。これにより、1ドル=360円の固定相場制を基礎としていた戦後の国際通貨体制(ブレトン・ウッズ体制)は崩壊し、為替レートが変動する変動相場制へと移行しました。急激な円高は、日本の輸出産業に打撃を与えました。
- 第一次石油危機(オイルショック、1973年)
- 1973年、第四次中東戦争が勃発すると、アラブ産油国は、イスラエルを支持する国々への対抗措置として、原油価格の大幅な引き上げと、輸出の削減を断行しました。
- 資源のほとんどを輸入に頼る日本経済は、この**石油危機(オイルショック)**によって、深刻な打撃を受けました。物価は狂乱的に上昇し(狂乱物価)、戦後初めてマイナス成長を記録しました。
- 安定成長への移行
- この石油危機を境に、日本の高度経済成長は完全に終わりを告げました。
- 日本企業は、徹底した省エネルギー化や合理化(「減量経営」)を進めることで、この危機を乗り切ります。
- 以後、日本経済は、年率10%のような高い成長率ではなく、3~5%程度の安定成長の時代へと移行していきました。産業構造も、鉄鋼などの重厚長大型から、半導体などの軽薄短小型、知識集約型の産業へとシフトしていきました。
4. バブル経済と「失われた時代」:成熟社会の挑戦 (1980年代~)
4.1. 狂騒と崩壊:バブル経済
- バブル経済の発生
- 1980年代後半、日本は、異常な好景気、いわゆるバブル経済に突入します。
- 発生のメカニズム:
- プラザ合意(1985年): アメリカの貿易赤字是正のため、先進5か国が協調してドル安円高に誘導することに合意。急激な円高は、輸出企業に打撃を与えました(円高不況)。
- 低金利政策: 政府・日本銀行は、この円高不況対策として、公定歩合を大幅に引き下げる、超低金利政策をとりました。
- 投機熱の発生: 市場にあふれた大量の余剰資金が、銀行の過剰な融資姿勢にも煽られ、株式と土地への投機に流れ込みました。
- これにより、株価と地価は、本来の価値とはかけ離れて、異常な高騰を続けます。「土地神話」(土地の価格は絶対に下がらない)が生まれ、東京23区の地価でアメリカ全土が買える、とまで言われました。
- バブル経済の崩壊
- この異常な事態を懸念した日本銀行は、1989年から金融引き締めに転じ、公定歩合を段階的に引き上げました。また、大蔵省も不動産融資の総量規制に乗り出しました。
- これをきっかけに、1990年初頭から株価が暴落を開始。続いて地価も下落に転じ、バブルはあっけなく崩壊しました。
- 崩壊の影響:不良債権問題
- バブル崩壊後には、巨額の不良債権が残されました。銀行は、土地などを担保に企業に多額の融資を行っていましたが、地価の暴落で担保価値は失われ、貸した金が回収不能となったのです。
- 多くの企業や金融機関が倒産し、日本経済は、長く深刻な不況に突入していくことになります。
4.2. 政治の転換点:55年体制の崩壊と連立政権の時代
- 自民党長期政権への不信
- 1980年代末、リクルート事件や東京佐川急便事件など、自民党の金権腐敗(構造汚職)が次々と発覚し、国民の政治不信は頂点に達しました。
- バブル崩壊後の深刻な経済不況に対し、有効な手を打てない自民党への批判も高まりました。
- 55年体制の崩壊(1993年)
- 政治改革をめぐる対立から、宮沢喜一内閣への不信任案が可決。これをきっかけに、自民党から小沢一郎、羽田孜らが離党し、新生党を結成。
- 1993年の衆議院総選挙で、自民党は過半数を割り込み、結党以来初めて野党に転落しました。
- 選挙後、日本新党の細川護熙(もりひろ)を首班とし、新生党、社会党、公明党など、自民党と共産党を除く8党派による非自民連立政権が誕生。これにより、38年間続いた55年体制は崩壊しました。
- 連立政権の時代へ
- 細川内閣は、懸案であった政治改革を実現し、従来の衆議院の選挙制度(中選挙区制)を、小選挙区比例代表並立制へと改めました。
- しかし、連立政権の足並みは乱れ、細川内閣は1年足らずで退陣。その後も、自民党が社会党、新党さきがけと連立を組む(自社さ連立政権、村山富市内閣)など、日本の政治は、単独政権から、複数の政党が協力する連立政権の時代へと移行していきました。
4.3. 長い停滞:平成の「失われた時代」と社会構造の変容
- 「失われた10年(20年)」
- バブル崩壊後、日本経済は、深刻なデフレーション(物価の継続的な下落)と、長期にわたる経済停滞に陥りました。これは当初「失われた10年」と呼ばれましたが、停滞がさらに続いたことから、「失われた20年」、あるいは「失われた30年」とも呼ばれています。
- 不良債権処理の遅れが、金融機関の体力を奪い、経済全体の回復を妨げました(金融危機)。
- 社会構造の大きな変容
- この長期停滞は、日本の社会構造を根底から変えました。
- 雇用形態の変化: 企業は、コスト削減のため、正社員の採用を抑制し、パートタイマーや派遣社員といった非正規雇用の割合を大幅に増やしました。かつての日本的経営の柱であった終身雇用や年功序列といった慣行は、大きく揺らぎました。
- 格差社会の拡大: 安定した正社員と、不安定な非正規労働者との間の経済的格差が拡大。「フリーター」や「ネットカフェ難民」といった言葉も生まれました。
- 少子高齢化の深刻化: 出生率の低下と平均寿命の伸長により、少子高齢化が急速に進行。年金や医療といった社会保障制度の維持が、国家の大きな課題となっています。
- 1995年の阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件は、人々に「安全神話」の崩壊を痛感させ、社会全体に大きな不安感を与えました。
【本モジュールのまとめ】
本モジュールでは、第二次世界大戦の敗戦という断絶から始まり、今日に至る現代日本の歩みを概観しました。
- 戦後改革と再出発: 連合国軍の占領下で、日本国憲法の制定をはじめとする徹底した非軍事化・民主化改革が行われ、戦後日本の原型が築かれました。
- 冷戦下の復興と成長: 冷戦の激化という国際情勢の変化は、日本の独立と再建を後押ししました。日米安保体制の下で、高度経済成長を成し遂げ、日本は焼け跡から経済大V国へと奇跡的な復活を遂げました。
- 経済大国の光と影: 経済的な成功は、国民生活を豊かにした一方、深刻な公害問題も引き起こしました。石油危機を乗り越え、安定成長期に入った日本経済は、やがて制御不能なバブル経済とその崩壊を経験します。
- 長期停滞と模索の時代: バブル崩壊後、日本は**「失われた時代」と呼ばれる長期の経済停滞に陥り、その中で55年体制の崩壊という政治的な転換期を迎えました。終身雇用といった社会システムが揺らぎ、少子高齢化や格差社会**といった、新たな課題が深刻化しています。
戦後日本は、「平和と民主主義」「経済的繁栄」という価値を追求し、大きな成功を収めました。しかし、その成功モデルが限界を迎え、グローバル化が進む中で、日本は今、新たな国家像と社会像を模索する、大きな転換点に立たされています。現代史を学ぶことは、まさに私たちが直面する課題の根源を理解し、未来を考えるための、最も重要な羅針盤となるのです。