【基礎 日本史】Module 7: 通史を横断する構造理解(テーマ史Ⅰ:政治・社会)
【本記事の概要】
本稿から始まるテーマ史のシリーズは、これまでの時代順に歴史を追う通史学習(クロノロジー)とは異なるアプローチで、日本史の深層構造を解き明かすことを目的とします。通史が歴史を「横糸」として時代ごとに見ていくものだとすれば、テーマ史は、特定のテーマ、例えば「土地制度」や「税制」といった重要な「縦糸」を抜き出し、それが古代から現代に至るまで、どのように変化し、また、どのように変わらずに在り続けたのかを追跡する学習法です。
このモジュールでは、政治・社会分野における5つの根幹的なテーマ**(①土地制度、②税制、③法制度、④民衆運動、⑤家族・ジェンダー)**を取り上げます。それぞれのテーマが、各時代の政治権力や社会構造と、いかに密接に結びついていたのかを解き明かしていきます。例えば、律令国家の理想であった「公地公民制」がなぜ崩壊し、中世の「荘園公領制」へと移行したのか。その土地制度の変化が、税の形を「租庸調」から「年貢」へと、どのように変えたのか。そして、その支配に対して民衆は、いかなる形で抵抗や要求を行ったのか。
このような**「通史を横断する視点」**を身につけることで、これまで学んできた各時代の知識が、有機的な因果関係で結びつきます。これにより、個々の出来事を単なる暗記事項としてではなく、大きな歴史のうねりの中に位置づけ、その構造的な意味を論理的に理解することが可能になります。これは、難関大学の論述問題などで問われる、歴史を多角的に分析し、本質を捉える思考力を養う上で、極めて有効な訓練となるでしょう。
1. 土地制度の変遷史:公地公民制から寄進地系荘園、近代的土地所有へ
土地は、農業を基盤とする社会において、生産の源泉であり、富そのものでした。したがって、時の権力者が土地と、そこに住む人々をいかに支配したかを見ることは、その時代の国家の形を理解する上で最も基本的な鍵となります。
1.1. 古代の理想:律令国家の公地公民制
- 理念の導入: 7世紀後半から8世紀にかけて、日本は唐(中国)の律令制度をモデルに、天皇を中心とする中央集権国家を建設しました。その根幹をなす理念が**公地公民制(こうちこうみんせい)**でした。これは、「全国の土地(公地)と人民(公民)は、すべて天皇(国家)に帰属する」という、極めて壮大な理想でした。
- 理念の具現化:班田収授法: この公地公民の理念を具体化したのが、**班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)**です。
- 政府は、6年ごとに戸籍を作成して人民を把握し、6歳以上のすべての男女に、身分に応じて**口分田(こうぶんでん)**という田地を貸し与えました。
- 人々はその土地を耕作し、税を納める義務を負い、死ねばその土地は国家に返還される(収公)という仕組みでした。
- 制度の崩壊: しかし、この壮大なシステムは、1世紀も経たずに綻びを見せ始めます。
- 人口増加と口分田不足: 人口が増えるにつれて、人々に分け与える口分田が絶対的に不足していきました。
- 民衆の抵抗: 重い税負担から逃れるため、戸籍に偽りを記載する偽籍や、本籍地から逃げ出す浮浪・逃亡が後を絶たず、正確な人民把握が困難になりました。
- 墾田永年私財法(743年): 口分田不足を解消するため、政府は、新たに開墾した土地については、永久に私有を認めるという法令を出しました。これは、公地公民の原則を自ら崩す、大きな転換点でした。この法令をきっかけに、有力な貴族や寺社は、労働力を使って大規模な土地を開発・集積し始めます。これが、初期荘園の始まりです。
1.2. 中世の現実:荘園公領制の展開と解体
- 荘園公領制の成立: 平安時代中期(10~11世紀頃)には、日本の土地支配は、律令国家の公地公民制から、貴族・寺社が私的に支配する荘園(しょうえん)と、国司が管轄する公領(こうりょう、国衙領)が、モザイク状に入り組んで存在する荘園公領制へと完全に移行しました。
- 荘園の拡大:寄進地系荘園:
- 地方の有力者(開発領主)は、自らが開発した土地の所有権を国司の介入などから守るため、その土地を中央の有力貴族(摂関家など)や大寺社に寄進し、自らはその荘園の管理者である荘官(しょうかん)として、現地の支配を任されるという手法をとりました。これを寄進地系荘園と呼びます。
- 荘園領主となった中央の権力者は、その政治力を背景に、朝廷から不輸の権(税の免除)や不入の権(国司の役人の立ち入りを拒否する権利)を獲得し、荘園を国家の支配から独立した「プライベートな領地」としていきました。
- 荘園の所有権は、現地の管理者である荘官から、上級の領主である領家(りょうけ)、さらに最上位の権威である**本家(ほんけ)**へと、重層的に積み重なっており(職の体系)、一つの土地に複数の権利が複雑に絡み合う、極めて分かりにくい構造でした。
- 中世における土地制度の変化:
- 鎌倉時代: 幕府は、荘園・公領に地頭を設置することで、現地の土地管理や年貢徴収に介入し、その支配を全国に浸透させました。地頭は、しばしば荘園領主と対立し、その権利を侵食していきました(地頭請(じとううけ)、下地中分(したじちゅうぶん))。
- 室町時代: 守護が半済令によって荘園の年貢の半分を徴収する権利を得るなど、荘園は武士階級によってさらに侵食され、解体が進んでいきました。
1.3. 近世の再編:太閤検地と石高制
- 中世的土地所有の終焉:太閤検地: 100年以上続いた戦国時代の動乱に終止符を打った豊臣秀吉は、全国の土地支配のあり方を根底から作り変える、画期的な政策を断行しました。それが太閤検地です。
- 検地の内容と目的:
- 秀吉は、全国の田畑の面積を、統一された基準(枡や測量法)で測り直し、その土地の生産力を米の量(石高・こくだか)で表示させました。
- そして、その土地を実際に耕作している農民を検地帳に登録し、その土地に対する唯一の権利者(納税責任者)と定めました。
- 歴史的意義:一元的な支配の確立:
- 太閤検地によって、一つの土地に複数の権利者が重なり合っていた、中世以来の複雑な荘園制度は完全に破壊されました。
- これにより、全国のすべての土地と人民が、「石高」という統一された物差しの下で、天下人(秀吉、そして後の徳川将軍)によって一元的に把握される体制が確立したのです。これは、日本の土地制度史における一大革命でした。
- 江戸時代の土地制度: 江戸幕府はこの石高制を継承しました。将軍は大名に石高で示される領地を与え(封建)、大名は領地内の村々(村高)から、石高に応じた年貢を徴収しました。農民は、土地の耕作権は保障されましたが、土地を自由に売買することは禁じられ(田畑永代売買の禁令)、土地に縛り付けられました。
1.4. 近代の革命:地租改正と近代的土地所有権の確立
- 明治新政府の課題: 幕藩体制を打倒した明治新政府の課題は、近代的な中央集権国家を建設し、その財政基盤を安定させることでした。そのためには、土地と税の制度を根本から変革する必要がありました。
- 地租改正(1873年):
- 目的: 不安定な米の収穫量に左右される年貢制度を廃止し、安定した現金収入を確保すること。
- 内容:
- 土地所有権の確認: 政府は、土地の所有者を確定させ、その証明書として地券(ちけん)を発行しました。これにより、日本で初めて、土地を自由に売買・譲渡・担保にできる近代的土地所有権が法的に確立されました。
- 課税基準の変更: 課税の基準を、収穫量(石高)から、政府が定めた**地価(土地の価格)**に変更。
- 金納化: 税の納付方法を、現物(米)から**現金(金納)**に改めました。
- 税率: 税率は、当初**地価の3%**と定められました。
- 歴史的意義: 地租改正は、日本の土地制度を、封建的なものから近代的なものへと転換させた、極めて重要な改革でした。これにより、政府は安定した財政基盤を得て、殖産興業や軍備拡張を進めることができました。一方で、農民の負担は依然として重く、地価の算定をめぐる不満などから、各地で大規模な地租改正反対一揆が起こりました。
1.5. 戦後の大変革:GHQによる農地改革
- 改革の背景: 第二次世界大戦前の日本では、土地を持つ地主と、土地を持たずに地主から借りて耕作する小作人という関係(寄生地主制)が、依然として広く存在していました。高い小作料に苦しむ農村の貧困が、軍国主義を支える温床になったと、占領軍(GHQ)は考えました。
- 農地改革の内容(1946年~):
- GHQの強力な指示の下、政府は、地主が持つ小作地を、きわめて安い価格で強制的に買い上げました。
- そして、その土地を、実際に耕作していた小作人たちに、安価で売り渡しました。
- 不在地主の全小作地と、在村地主の一定面積(平均1ヘクタール)を超える小作地が、買い上げの対象となりました。
- 歴史的意義: この徹底した農地改革により、日本の農村から寄生地主制はほぼ一掃され、国民の大多数が土地を所有する自作農となりました。これは、戦後日本の社会構造を最も大きく変えた改革の一つであり、農村の民主化と安定に大きく貢献し、その後の保守政権の強固な支持基盤を形成する要因にもなりました。
2. 税制の変遷史:租庸調から年貢、そして近代税制へ
税は、国家がその活動を維持するための血液です。時の権力者が、誰から(人か土地か)、何を(米か布か労働か金か)、どのように徴収したのか。その変遷は、各時代の国家の性格と経済のあり方を、如実に映し出しています。
2.1. 古代:人頭税を基本とする「租・庸・調」
- 律令国家の税制: 7世紀末から8世紀にかけて確立した律令国家の税制は、唐の制度をモデルとしており、公民一人ひとりを課税単位とする人頭税的な性格が非常に強いものでした。
- 租(そ):
- 班田収授法で与えられた口分田の収穫量に対して課される、唯一の地税。
- 税率は**収穫量の約3%**で、**稲(穀物)**で納めました。これは、地方の国衙(国府)の財源となりました。
- 庸(よう):
- 成人の男性(正丁)に課される人頭税。
- 本来は、都に出て年間10日間働く労役(歳役・さいえき)でしたが、遠方の場合は代わりに布などの物品で納めることができました。
- 庸として集められた布などは、都に運ばれ、中央政府の財源となりました。
- 調(ちょう):
- これも成人の男性に課される人頭税。
- 絹、布、糸、あるいは塩、海産物、紙、染料といった、その地方の特産物を納めました。
- 調も庸と同様、中央政府の財源となりました。
- その他の負担:
- この三つの基本税の他にも、地方の土木工事などに年間60日を限度に無償で動員される労役(雑徭・ぞうよう)や、兵役の義務などがあり、公民の負担は極めて重いものでした。この重税が、偽籍や逃亡を招き、律令制崩壊の一因となっていきます。
2.2. 中世:土地を基準とする「年貢・公事・夫役」
- 税制の大きな転換: 荘園公領制が成立した平安時代中期以降、税のあり方は大きく変わりました。人一人ひとりを把握して課税する人頭税的なシステムは崩壊し、代わって、土地そのものを課税単位とする地税が、税の中心となっていきました。
- 年貢(ねんぐ):
- 荘園や公領の田畑から収穫される米や麦などを、領主(荘園領主や国司)に納める、中世の最も基本的な税。
- 税率は、荘園によって様々でしたが、収穫の4~5割に達することも珍しくなく、農民にとって大きな負担でした。
- 公事(くじ):
- 年貢の他に、農民が領主に対して納めた、様々な物品や手工業製品の総称。
- 絹、布、紙、油、野菜、魚、炭、薪など、その種類は多岐にわたりました。荘園によっては、年貢よりも公事の負担の方が重い場合もありました。
- 夫役(ぶやく):
- 領主の館の普請や、堤防の修理、荷物の運搬など、領主のために労働力を提供する義務。
- その他の税: 鎌倉・室町時代には、幕府や守護が、臨時に課す税も現れました。家屋の棟数に応じて課される**棟別銭(むなべつせん)や、田地の面積に応じて課される段銭(たんせん)**などがその代表です。
2.3. 近世:石高を基準とする年貢制度の完成
- 太閤検地と石高制: 豊臣秀吉の太閤検地によって、全国の土地の生産力が石高という統一基準で示されたことは、税制にも大きな変革をもたらしました。
- 近世の年貢: 江戸時代の年貢は、個々の農民ではなく、村全体(村高)に対して課税されました(村請制・むらうけせい)。
- 村は、領主から課された年貢を、村役人(名主など)の責任で取りまとめ、一括して納入しました。
- 税率は、四公六民(収穫の4割を領主、6割を農民)や五公五民(収穫の5割ずつ)などと言われ、土地の状況や領主の方針によって異なりましたが、非常に高いものでした。
- 本途物成(ほんとものなり)と小物成(こものなり):
- 本途物成: 田畑の石高に対して課される、最も基本的な年貢(米で納める)。
- 小物成: 山野河海の利用や、その他の副業(漆、茶、漁業など)に対して課される雑税。
- この他にも、国や地域の土木工事に動員される**国役・助郷役(すけごうやく)**などの負担がありました。
- 商業への課税: 幕府や藩は、商業活動に対しても、**運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)**といった営業税を課しました。しかし、税収の中心は、あくまで農村からの年貢であり、これが幕藩体制の経済的基盤でした。
2.4. 近代:金納地租から所得税・法人税へ
- 地租改正という革命: 1873年の地租改正は、土地制度だけでなく、税制においても一大革命でした。
- 金納化: 税の納付方法が、米(現物)から現金へと全面的に変わりました。これにより、農民は米を一度市場で売って、現金に換えてから納税する必要が生じ、否応なく商品経済に組み込まれていきました。
- 安定税収: 課税基準が地価となったことで、政府は米価の変動に左右されない、安定した税収を得られるようになりました。この地租が、明治初期の国家財政の大部分を支えました。
- 近代産業国家への税制転換:
- 日清戦争後、日本の産業革命が進展すると、税収の構造も大きく変化していきます。
- 1887年には、個人の所得に対して課税する所得税が導入され、1899年には、企業の利益に対して課税する法人税が導入されました。
- また、酒税や砂糖消費税といった、間接税の比重も高まっていきました。
- 20世紀に入ると、地租が国家の税収に占める割合は急速に低下し、代わって所得税、法人税、酒税が三大財源となっていきます。これは、日本が農業国家から、近代的な産業国家へと転換したことを、税制の面から明確に示しています。
- 戦後と現代の税制: 戦後のシャウプ勧告に基づく税制改革では、個人の所得税を中心とする直接税中心主義が確立されました。その後、高度経済成長を経て、1989年には消費税が導入されるなど、現代に至るまで、社会経済の状況に応じて、税制は常に変化を続けています。
(記事が長大になるため、ここで一度区切ります。続きは次のセクションからとなります。)
3. 法制史の展開:律令から御成敗式目、武家諸法度、近代法典へ
法は、社会の秩序を維持し、権力のあり方を規定する骨格です。どのような法が作られ、運用されたかを見ることで、その時代の国家が何を目指し、どのような社会を理想としていたのかが明らかになります。
3.1. 古代:国家を創るための法典「律令」
- 律令とは: 7世紀末から8世紀にかけて、日本が唐をモデルに導入・編纂した、体系的な国家法典。
- 律(りつ): 主に刑法にあたる規定。「してはならないこと」を定め、違反した場合の罰則を規定。
- 令(りょう): 主に行政法・民法にあたる規定。「すべきこと」を定め、官僚制度、税制、身分制、人民の義務など、国家の統治システム全般を規定。
- 法の性格と目的:
- 律令は、日本という国がまだ形成途上にあった段階で、**「かくあるべき国家の理想像」**をトップダウンで示し、社会をその型にはめ込もうとする、極めて理念的な性格の強い法でした。
- その目的は、豪族の連合体であった国家を、天皇を中心とする官僚制に基づいた、中央集権的な法治国家へと作り変えることにありました。
- 律令の限界: しかし、日本の社会は、律令が想定したような均質な社会ではなく、氏族的な共同体の原理が根強く残っていました。そのため、律令の理念と社会の実態との間には常に乖離があり、平安時代に入ると、律令の条文そのものよりも、その時々の実情に合わせて出される格式(きゃくしき)(天皇の勅令や太政官符など)が、実際の法の運用で重視されるようになっていきました。
3.2. 中世:武士社会の慣習法「御成敗式目」と「分国法」
- 武士の法の誕生: 鎌倉幕府が成立し、武士が新たな支配階級となると、公家社会の法である律令とは異なる、武士社会の実情に合った、新たな法が必要とされました。
- 御成敗式目(貞永式目、1232年):
- 制定者: 3代執権・北条泰時。
- 性格: 日本で最初の武家法。律令のように国家全体を包括するものではなく、あくまで幕府の支配が及ぶ御家人同士の紛争、特に所領(土地)をめぐる争いを裁くための裁判規範でした。
- 法源: 成文化された条文ではなく、源頼朝以来の先例(判例)や、武士社会で長年培われてきた慣習や道徳観(「道理」)を基準としていました。これは、理念よりも現実の慣習を重んじる、きわめてプラグマティック(実利的)な法でした。
- 影響: 御成敗式目は、その後の武家社会の法の基本となり、室町幕府の建武式目や、後の戦国大名の分国法にも大きな影響を与えました。
- 分国法(ぶんこくほう):
- 応仁の乱後、実力で領国を支配するようになった戦国大名が、自らの領国を統治するために制定した独自の法律。
- 家臣団の統制、喧嘩両成敗の原則、土地の売買、商工業の規制など、領国支配に必要なあらゆる事柄を細かく規定しており、戦国大名の権力の強大化を示しています。(例:今川氏の『今川仮名目録』、武田氏の『甲州法度之次第』、伊達氏の『塵芥集』)
3.3. 近世:支配者のための法「武家諸法度」
- 近世の法秩序: 江戸幕府は、社会の安定と秩序維持を最優先課題とし、法によって身分ごとの人々の行動を厳しく規制しました。
- 武家諸法度(ぶけしょはっと):
- 幕府が、大名や旗本といった武士階級を統制するために制定した、基本的な法律。
- 将軍の代替わりごとに発布され、大名に対し、学問と武芸に励むこと、許可なく城を修理したり婚姻を結んだりしないこと、参勤交代の義務などを課しました。
- これは、一般民衆を対象としたものではなく、あくまで支配者である武士の「服務規程」のような性格を持っていました。
- その他の法:
- 天皇・公家に対しては**禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)**を、寺社に対しては宗派ごとの法度を定め、それぞれの行動を規制しました。
- 一般民衆の犯罪については、判例をまとめた**『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』**(8代将軍吉宗の時代に制定)などが、裁判の基準として用いられました。近世の法は、身分ごとに異なる法が適用される、多元的な構造をしていたのです。
3.4. 近代:西洋法思想の継受と「近代法典」の編纂
- 不平等条約改正という至上命題: 明治新政府にとって、幕末に結ばれた不平等条約(特に治外法権の撤廃)を改正することは、国家の最重要課題でした。そのためには、日本が欧米列強と同じような、近代的な法典を持つ「文明国」であることを示す必要がありました。
- 近代法典の編纂: 政府は、欧米の法制度をモデルに、近代的な法典の編纂を急ピッチで進めました。
- 民法: フランス民法をモデルに起草されましたが、家父長的な家族制度を重んじる保守派の反対(民法典論争)に遭い、最終的にはドイツ民法を参考に、日本の「家」制度の要素を取り入れた明治民法が1898年に施行されました。
- 刑法・刑事訴訟法: フランスの法をモデルに編纂。
- 商法: ドイツの法をモデルに編纂。
- 大日本帝国憲法の制定(1889年):
- これらの個別の法典の頂点に立つ、国家の最高法規として、大日本帝国憲法が制定されました。
- これは、天皇を絶対的な主権者と位置づける、プロイセン(ドイツ)の憲法を強く参考にした欽定憲法でした。
- この憲法の制定により、日本は、外見上は欧米列強と同じ立憲君主制の法治国家としての体裁を整え、条約改正への道を切り開いていきました。
3.5. 現代:国民主権の最高法規「日本国憲法」
- 戦後改革と法の革命: 第二次世界大戦の敗戦は、日本の法体系に、再び革命的な変化をもたらしました。
- 日本国憲法の制定(1947年施行):
- 大日本帝国憲法が、天皇主権と統帥権の独立によって軍国主義の温床となったという反省から、GHQの強力な指導の下、全く新しい憲法が制定されました。
- 国民主権、基本的人権の尊重、**平和主義(戦争放棄)**を三大原則とするこの憲法は、日本の法のあり方を根底から変えました。
- 法体系の全面的な再編:
- この新憲法の理念に基づき、民法、刑法、刑事訴訟法をはじめとする、あらゆる法律が改正されました。
- 特に民法では、個人の尊厳と両性の平等を基本とし、家父長的な「家」制度が廃止され、夫婦と未婚の子からなる核家族を単位とする、近代的な家族観が法的に確立されました。
- 古代の律令に始まり、中世・近世の武家の法を経て、近代の西洋法継受、そして現代の国民主権の憲法へと至る法の変遷は、日本の国家と社会のあり方が、時代と共にいかに劇的に変化してきたかを物語っています。
4. 民衆運動の系譜:一揆、打ちこわしから労働・農民運動へ
権力者の支配に対し、民衆はただ無力に従っていたわけではありません。時代ごとに形は変えながらも、彼らは自らの生活と権利を守るため、団結し、時には実力で抵抗を行ってきました。そのエネルギーの軌跡は、歴史を動かすもう一つの大きな力でした。
4.1. 中世:団結による自力救済「一揆」
- 一揆の時代: 鎌倉時代末期から室町、戦国時代にかけては、まさに「一揆の時代」でした。公的な権力(幕府や荘園領主)が弱体化し、自らの権利を法的に保障してもらえない状況で、人々は**「自力救済」**の原則に頼らざるを得ませんでした。
- 一揆の本質: 「一揆」とは、特定の目的のために人々が心を一つにして団結し、神仏に誓いを立てて盟約を結ぶこと(一味神水・いちみしんすい)を意味します。その形態は様々でした。
- 土一揆(つちいっき): 室町時代に頻発した、農民(惣村)を中心とする一揆。重い年貢の軽減や、借金の帳消し(徳政・とくせい)を求めて、武装蜂起しました。1428年の正長の土一揆は、その大規模なものとして知られます。
- 国一揆(くにいっき): 武士(国人)と農民が一体となって、守護大名の支配に抵抗し、一国単位で自治を行ったもの(例:山城国一揆)。
- 一向一揆(いっこういっき): 浄土真宗(一向宗)の信仰で強く結びついた門徒たちが、守護大名と戦い、加賀国では約100年間にわたり「百姓の持ちたる国」と呼ばれる自治支配を実現しました。
4.2. 近世:領主への抵抗と都市の騒乱「百姓一揆」と「打ちこわし」
- 百姓一揆: 江戸時代、幕藩体制という強固な支配の下でも、農民の抵抗は絶えませんでした。
- 形態: 当初は、代表者が領主に直訴する**代表越訴(だいひょうおっそ)や、村全体で耕作を放棄して他領へ逃げる逃散(ちょうさん)といった、非暴力的なものが中心でした。しかし、時代が下るにつれて、数千人、数万人規模の農民が竹槍などで武装して蜂起する、暴力的な惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)**が増加していきます。
- 要求: 主な要求は、年貢の軽減や、不正を行う役人の罷免など、あくまで藩の政治の「不正を正す」ことを目的とする**「世直し」**的な性格のものであり、幕藩体制そのものを打倒しようとするものではありませんでした。
- 打ちこわし:
- 主に都市で発生した、民衆の暴動。
- 飢饉などで米価が高騰した際に、貧しい都市民衆が、米を買い占めていると見なされた米屋や、不正を働くと噂された豪商の家などを襲撃し、家財を破壊したり、米俵を放出させたりしました。
- 江戸時代の三大飢饉(享保、天明、天保)の際には、江戸や大坂などの大都市で、大規模な打ちこわしが頻発し、幕府を震撼させました。天明の飢饉の際の天明の打ちこわしは、その最大規模のものでした。
4.3. 近代①:政治参加を求める「自由民権運動」
- 新しい民衆運動の誕生: 明治時代に入ると、民衆運動の性格は大きく変わります。封建領主への抵抗ではなく、国民として、国家の政治に参加する権利を求める、近代的な政治運動が始まりました。
- 自由民権運動(1870年代~80年代):
- 担い手: 当初は、征韓論に敗れて下野した板垣退助ら不平士族が中心でしたが、やがて地租改正に苦しむ豪農層、そして一般民衆へと、その担い手は広がっていきました。
- 要求: 運動の最大の目標は、国民の代表からなる国会の開設と、国民の権利を保障する憲法の制定でした。
- 展開: 全国各地で演説会が開かれ、政治結社(政社)が結成され、国民の政治意識は急速に高まりました。政府の弾圧を受け、福島事件や秩父事件のように、一部が武装蜂起に至る激化事件も起こりましたが、運動の主流は言論による抵抗でした。
- 成果: この国民的な運動の高まりが、政府に国会開設を約束させ、大日本帝国憲法の制定へと繋がっていったという点で、日本の議会制民主主義の原点となりました。
4.4. 近代②:資本主義への抵抗「労働運動」と「農民運動」
- 産業革命と新たな社会問題: 明治後期から大正にかけて、日本の産業革命が進展すると、劣悪な労働条件や低賃金に苦しむ工場労働者や、地主からの高い小作料に苦しむ小作人といった、新たな社会問題が深刻化しました。
- 労働運動:
- 社会主義思想の影響を受け、労働者が自らの権利を守るために労働組合を結成し、使用者(資本家)に対して、労働条件の改善や賃上げを求めてストライキなどの労働争議を行うようになりました。
- 1912年には友愛会が結成され、第一次世界大戦後には、労働運動はさらに活発化しました。
- 農民運動:
- 小作人たちも、団結して地主に対し、小作料の引き下げなどを求める小作争議を繰り広げました。1922年には、全国的な組織である日本農民組合が結成されました。
- 政府の弾圧: 政府は、こうした社会運動が、社会主義・共産主義革命に繋がることを恐れ、1925年には治安維持法を制定。労働運動や農民運動、そして無産政党(労働者・農民の立場を代表する政党)の活動を、厳しく弾圧していきました。
4.5. 現代:平和と民主主義を求める「大衆運動」
- 戦後民主主義と大衆運動: 戦後、日本国憲法の下で、集会・結社の自由や言論の自由が保障されると、様々な**大衆運動(市民運動)**が花開きました。
- 安保闘争(1960年):
- 岸信介内閣が、日米安全保障条約の改定を強行採決したことに反対し、学生、労働者、市民が国会を取り囲むなど、戦後最大規模の国民運動となりました。
- この運動は、条約改定そのものを覆すことはできませんでしたが、岸内閣を総辞職に追い込み、その後の政治に大きな影響を与えました。
- 多様な市民運動:
- 1960年代には、ベトナム戦争に反対する反戦運動や、大学のあり方を問う大学紛争が激化。
- 1970年代には、高度経済成長の影で深刻化した公害問題に対し、被害者や住民が企業や行政の責任を問う公害反対運動が各地で起こりました。
- その後も、消費者運動、環境保護運動、平和運動など、市民が主体となって社会問題の解決を求める運動は、現代社会の重要な一部となっています。
5. 家族制度とジェンダーの歴史的変遷
家族は、社会の最小単位であり、その時代の価値観や法制度、経済状況を色濃く反映する鏡です。特に、家父長制の強弱や、女性の地位の変遷は、日本社会の構造的変化を理解する上で、欠かせない視点です。
5.1. 古代:多様な婚姻形態と律令の「家」
- 古代の婚姻と家族: 古代の日本では、多様な婚姻形態が存在しました。
- 特に、妻が自分の親元に住み、夫がそこに通う**妻問婚(つまどいこん)**が一般的でした。これは、女性が夫の家に完全に従属するのではなく、ある程度の独立性を保っていたことを示唆しています。
- 財産の相続においても、女性が戸主(家の長)となったり、財産を相続したりする例も見られ、後の時代に比べて女性の地位は比較的高かったと考えられています。
- 律令国家の目指した家族像:
- 律令国家は、中国的な父系(父方の血縁)を中心とする、家父長的な家族制度を、日本社会に導入しようと試みました。
- 戸籍は、男性の**戸主(こしゅ)**を中心に編纂され、人民を「家」という単位で把握し、支配しようとしました。しかし、この律令の理念は、日本の伝統的な慣習とは異なる部分も多く、完全には浸透しませんでした。
5.2. 中世:武士の「家」と家父長制の確立
- 武士社会と「家(いえ)」制度: 中世に入り、武士が社会の主役となると、家族のあり方は大きく変わります。
- 武士にとって最も重要なのは、先祖から受け継いだ**所領(土地)**を、一族で維持し、子孫に伝えていくことでした。
- そのため、所領が分割されて弱体化することを防ぐため、**単独相続(特に長男による家督の単独相続)**が主流となっていきました。
- 家父長権の強化と女性の地位の変化:
- 家の財産と統率権が、家の長である家長(家父長)に集中するようになり、その権威は絶対的なものとなっていきました。これが、日本独自の「家(いえ)」制度の確立です。
- この過程で、女性の地位は相対的に低下していきました。所領の相続から排除されるようになり、婚姻も、個人の意志よりも「家」と「家」との結びつきが重視される、政治的な意味合いを強く持つようになりました。女性は、嫁ぎ先の「家」に従属する存在と見なされるようになっていきます。
5.3. 近世:儒教的道徳と「家」制度の浸透
- 幕藩体制と「家」: 江戸幕府は、社会の安定を維持するための基本単位として、この武士の「家」制度を、社会全体のモデルとして推奨しました。
- 儒教(朱子学)によるイデオロギー的補強:
- 幕府は、朱子学を公式の学問とし、その教えを武士の教育に用いました。
- 朱子学は、君臣、父子、夫婦といった身分秩序と、主君への「忠」、親への「孝」といった道徳を絶対視します。この思想は、将軍を頂点とする幕藩体制と、家長を頂点とする「家」制度を、イデオロギー的に正当化し、補強する役割を果たしました。
- 貝原益軒の**『女大学』**に代表されるように、女性は「家に仕える」存在として、従順であることが美徳とされ、その行動は厳しく制限されました。
- 庶民への浸透: このような家父長的な「家」のあり方は、武士階級だけでなく、次第に裕福な農民や商人といった庶民層にも浸透していきました。
5.4. 近代:明治民法と「家」制度の法制化
- 「富国強兵」と「家」制度: 明治新政府は、欧米列強に伍する強い国家を作るため、国民を一つの大きな「家族」とし、天皇をその「家長(国父)」とする、家族国家観をイデオロギーとして利用しました。その社会的な基盤として、伝統的な「家」制度が重視されました。
- 明治民法(1898年施行)による法制化:
- 近代的な私有財産制を確立する一方で、明治民法は、この家父長的な**「家」制度**を、法律として明確に規定しました。
- 戸主権: 家の長である**戸主(こしゅ)**に、家族員の婚姻や居住地などに対する同意権をはじめとする、絶大な権限が与えられました。
- 女性の無能力: 妻は法的に「無能力者」と見なされ、夫の許可がなければ、財産の処分などの重要な法律行為を行うことができませんでした。
- 家督相続: 財産は、原則として長男が単独で相続する家督相続制が定められました。
- 「良妻賢母」教育: 学校教育においても、女性は、将来「良い妻となり、賢い母となる」こと(良妻賢母)が理想とされ、国家のために尽くす子を育てる役割を期待されました。
5.5. 現代:戦後改革と「家」制度の解体
- 日本国憲法と両性の平等: 第二次世界大戦の敗戦は、日本の家族制度にも革命的な変化をもたらしました。
- 日本国憲法は、その第24条で、**「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」し、「夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」**と定めました。
- また、第14条で法の下の平等を保障し、性別による差別を禁じました。
- 新民法による「家」制度の廃止:
- この新憲法の理念に基づき、民法は全面的に改正され、明治民法の根幹であった**「家」制度と戸主権は、完全に廃止**されました。
- 家督相続制は、配偶者や子が共同で財産を相続する、均分相続制へと変わりました。
- 現代の課題: 法制度の上では、家父長制は解体され、男女平等が達成されました。しかし、現実の社会には、「男は仕事、女は家庭」といった性別役割分業の意識や、様々な形でのジェンダー格差が、依然として根強く残っています。法と実態、理念と現実のギャップをいかに埋めていくかは、現代日本社会が直面する大きな課題の一つです。
【本モジュールのまとめ】
本モジュールでは、日本の歴史を貫く5つの重要な「縦糸」を辿ることで、時代を横断した構造的な変化を考察しました。
- 土地制度は、古代の国家による一元的な人民支配(公地公民制)の試みから、中世の複雑で多元的な権利関係(荘園制)、そして近世の石高による再統一を経て、近代の私的所有権へと、国家と個人の関係性を映し出しながら変遷しました。
- 税制は、土地制度と密接に連動し、古代の人を基準とした租庸調から、中世以降の土地を基準とした年貢へ、そして近代の金納地租から所得税へと、国家の財政基盤と経済構造の変化を如実に示しました。
- 法制度は、古代の理念的な国家創造の道具(律令)から、中世武士社会の実践的な規範(御成敗式目)、近世の身分秩序維持の装置(武家諸法度)、そして近代以降の西洋法思想の継受と国民主権の憲法へと、その時代の権力の正統性と社会秩序のあり方を規定してきました。
- 民衆運動は、支配に対する受動的な存在と見られがちな民衆が、一揆、打ちこわし、自由民権運動、労働運動、市民運動と、時代ごとに形を変えながらも、常に歴史を動かす主体的なエネルギーを持ち続けてきたことを証明しています。
- 家族とジェンダーの歴史は、土地所有や国家のイデオロギーと深く結びつき、古代の比較的高い女性の地位から、中世・近世にかけての家父長的な「家」制度の確立、そして近代におけるその法制化と、戦後の解体・個人の尊厳への転換という、劇的な変貌を遂げました。
このように、テーマ史の視点から歴史を再構成することで、一つ一つの出来事が、より大きな文脈の中での意味を持つようになります。この構造的な理解こそが、歴史を深く、そして面白く学ぶための鍵となるのです。