【基礎 世界史】Module 3: 南アジア・東アジアの古典文明
【本記事の目的と構成】
本記事は、Module 2で探求したオリエント・地中海世界と並行し、あるいはそれらと相互に影響を与えながら、アジアの広大な大地で独自の発展を遂げた二つの巨大文明圏――南アジア(インド)と東アジア(中国)――の古典時代に焦点を当てます。この二つの地域は、現代に至るまで世界人口の大きな部分を占め、その文化と思想は人類全体に計り知れない影響を与え続けています。
本稿では、この二つの文明が、いかにしてそれぞれの自然環境と歴史的経緯の中で、特有の社会構造、宗教・思想、そして政治体制を築き上げていったのか、そのダイナミックな軌跡を追います。本稿は、以下の三部構成で探求を進めます。
- 第1部 古代インド世界の形成と展開: インダス川のほとりに生まれた謎多き都市文明から、アーリヤ人の進入によって形成されたヴァルナ制社会、そしてその社会の中から生まれた仏教の挑戦とヒンドゥー教の確立、さらにはマウリヤ朝やグプタ朝といった統一帝国の興亡を通じて、インド古典文化の重層的な発展を解き明かします。
- 第2部 古代中国世界の形成と展開: 黄河・長江流域に誕生した初期王朝から、春秋戦国の大分裂時代に花開いた諸子百家の思想、そして秦の始皇帝による初の統一帝国の建設と、漢帝国における統治イデオロギーとしての儒教の確立まで、巨大な中央集権国家がいかにして形成され、維持されたのか、その論理を探ります。
- 第3部 アジアにおける交流の道: 地理的には隔てられたこれら二つの文明世界、そして西方のヘレニズム・ローマ世界が、「シルクロード」という細い糸によっていかに結びつき、物資だけでなく、宗教や文化がユーラシア大陸を横断していったのか、その実態に迫ります。
このモジュールを学び終える時、あなたはアジアの二大古典文明のそれぞれの発展の特質を深く理解するとともに、それらが決して孤立していたわけではなく、ユーラシアという大きな舞台の上で相互に連関していたことを、立体的に把握する視座を獲得していることでしょう。
第1部 古代インド世界の形成と展開:宗教と社会の重層的発展
インド亜大陸は、その広大さと地理的な多様性の中で、極めてユニークで重層的な文明を育んできました。その歴史は、外部からの民族移動と、内部から生まれる宗教・思想の革新とが複雑に絡み合いながら展開します。特に、宗教が社会構造(ヴァルナ制)と不可分に結びつき、人々の生活様式から国家のあり方までを深く規定している点が、インド世界の最大の特徴と言えるでしょう。本章では、この「宗教と社会の相互作用」という視座から、古代インド世界の形成と展開を追っていきます。
第1章 インダス文明とアーリヤ人の到来
インド亜大陸における最初の文明は、オリエントの文明とほぼ同時期に、インダス川流域で誕生しました。しかし、その文明は突如として姿を消し、その後、中央アジアからやってきた新たな人々が、後のインド社会の基礎を築くことになります。
1.1. インダス文明の成立と謎(紀元前2600年頃~前1800年頃)
- 発見と特徴:
- 20世紀初頭、イギリスの考古学者ジョン・マーシャルらによって、インダス川中流域のハラッパー、下流域のモヘンジョ=ダロなどの巨大な都市遺跡が発見され、メソポタミア、エジプトに匹敵する青銅器時代の都市文明の存在が明らかになりました。
- 計画的な都市設計: これらの都市は、驚くほど計画的に建設されていました。碁盤の目状に整備された道路網、焼成煉瓦で造られた堅固な建物、沐浴場や穀物倉とみられる大規模な公共施設、そして非常に発達した下水道設備など、高度な測量技術と都市計画能力がうかがえます。
- 経済活動: 農耕(小麦、大麦など)を基盤とし、度量衡(重さの基準となる分銅)が統一されていました。また、インダス式印章(スタンプ印)がメソポタミアの遺跡からも発見されており、両文明間に活発な交易があったことが分かっています。
- 残された多くの謎:
- インダス文明は、多くの点で謎に包まれています。
- インダス文字: 印章などに刻まれた象形文字(インダス文字)は、現在に至るまで未解読です。そのため、この文明を担った人々の言語系統や、彼らがどのような社会、歴史、神話を持っていたのか、詳細はほとんど分かっていません。
- 統治システム: エジプトのピラミッドやメソポタミアのジッグラトのような、王の絶大な権力を象徴する巨大な宮殿や王墓が見つかっていません。そのため、神官や有力商人たちによる寡頭的な統治が行われていたのではないかなど、様々な推測がなされていますが、その政治体制は不明です。
- 衰退: 紀元前1800年頃、インダス文明は急速に衰退し、都市は放棄されます。その原因は、気候変動によるインダス川の流路変更や、大規模な洪水、あるいは後述するアーリヤ人の侵入など、諸説ありますが、確定していません。
- インダス文明は、多くの点で謎に包まれています。
1.2. アーリヤ人の進入とヴェーダ時代(紀元前1500年頃~)
- アーリヤ人の到来:
- インダス文明が衰退した後、紀元前1500年頃、中央アジアの草原地帯から、インド=ヨーロッパ語族に属し、サンスクリット語の原型となる言語を話す**アーリヤ人(アーリア人)**が、カイバル峠を越えてパンジャーブ地方(インダス川上流域)に侵入してきました。
- 彼らは、戦車(チャリオット)と青銅器(後に鉄器)を用いて先住民(ドラヴィダ系など、インダス文明の担い手の子孫ともいわれる)を征服し、その支配を確立していきました。
- 『ヴェーダ』とバラモン教:
- アーリヤ人の初期の社会や文化を知る上で最も重要な史料が、**『ヴェーダ』**と呼ばれる一連の宗教文献です。ヴェーダとは「知識」を意味するサンスクリット語で、神々への讃歌や祭儀の規定などが収められています。
- 特に最も古い**『リグ=ヴェーダ』**には、インドラ(雷霆神)、ヴァルナ(司法神)、アグニ(火神)といった自然現象を神格化した多数の神々への讃歌が記されています。
- このヴェーダを聖典とし、神官階級であるバラモンが司る複雑な祭祀儀礼を中心とする宗教をバラモン教と呼びます。バラモンは、祭儀を通じて神々と人間を仲介する唯一の存在として、社会の最高位に位置づけられました。
- ガンジス川流域への進出と社会の変化:
- 紀元前1000年頃から、アーリヤ人はさらに東方のガンジス川流域へと進出しました。
- この地域は森林地帯でしたが、鉄製農具の普及によって開墾が進み、農業生産力が飛躍的に向上しました。これにより、社会はより複雑化し、定住化が進展しました。
1.3. ヴァルナ制社会の形成
- ヴァルナの成立:
- アーリヤ人が先住民を支配し、社会が複雑化する中で、後のインド社会を強く規定することになる厳格な身分階層制度が形成されました。これがヴァルナ制です。ヴァルナとは「色」を意味し、肌の色の違いが当初の区別の根底にあったとも言われます。
- 『リグ=ヴェーダ』に収められた「プルシャ(原人)讃歌」によれば、神々が原人を解体した際、その体の各部位から4つのヴァルナが生まれたとされます。
- バラモン(司祭):口から生まれ、祭祀を司る最高位。
- クシャトリヤ(武士・貴族):腕から生まれ、政治と軍事を担当する支配階級。
- ヴァイシャ(庶民):腿から生まれ、農耕、牧畜、商業に従事する一般庶民。
- シュードラ(隷属民):足から生まれ、アーリヤ人に征服された先住民が中心で、上記3つのヴァルナに奉仕する義務を負う。
- この4つのヴァルナは、生まれによって定まり、原則として異なるヴァルナ間の結婚や転職は認められませんでした。
- ヴァルナ制の意義と展開:
- この制度は、アーリヤ人(上位3ヴァルナ)が少数者として多数の先住民(シュードラ)を支配するための社会秩序として機能しました。
- バラモンを頂点とするこの階層秩序は、バラモン教の宗教的な権威によって正当化され、人々の生活のあらゆる側面を規定しました。
- さらに後代になると、ヴァルナの枠組みは、職業や出身地などに基づいてより細分化されたジャーティ(カースト)と呼ばれる内婚集団へと発展していきます。このカースト制度は、ヴァルナ制を基盤としながら、インド社会に深く根ざしていくことになります。
第2章 都市国家の興隆と新宗教の挑戦
紀元前6世紀頃、ガンジス川流域では鉄器の普及による農業生産力の向上が、商業の発展と都市の勃興を促しました。この社会変動は、従来のバラモン教の権威を揺るがし、新たな思想や宗教が生まれる土壌となりました。人々は、バラモンが独占する祭式による救済に疑問を抱き、自らの力で生・老・病・死の苦しみ(輪廻)から解放される道(解脱)を模索し始めたのです。
2.1. バラモン教への批判と自由思想家の登場
- ウパニシャッド哲学:
- バラモン教の内部からも、祭式万能主義に対する内省的な思索が生まれました。紀元前800年頃から編纂され始めた**ウパニシャッド(奥義書)では、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人に内在する本質であるアートマン(我)**とが、本来は一体である(梵我一如)という深遠な哲学が説かれました。
- この梵我一如の境地を瞑想によって悟ることこそが、苦しみに満ちた輪廻転生のサイクルから抜け出す解脱への道であるとされました。これは、後のインド思想全体の基調となります。
- 新興階級の台頭と自由思想家:
- ガンジス川流域にコーサラ国やマガダ国といった**都市国家(小王国)**が成立し、商工業が活発化すると、クシャトリヤ階級の王侯や、ヴァイシャ階級の富裕な商人たちが社会的に台頭してきました。
- 彼らは、バラモンの権威や高価で形式的な祭儀に批判的であり、より合理的で実践的な教えを求めました。このような時代背景のもと、**沙門(しゃもん)**と呼ばれる、既成の権威にとらわれない自由な思想家たちが数多く登場し、その中から仏教とジャイナ教という二大宗教が生まれました。
2.2. 仏教の成立
- ガウタマ=シッダールタの教え:
- 仏教の開祖は、ヒマラヤ山麓の小国シャーキャ族の王子として生まれたガウタマ=シッダールタ(釈迦、ブッダ)です。
- 彼は、王子の身分を捨てて出家し、厳しい修行の末にブッダガヤの菩提樹の下で悟りを開きました。ブッダとは「目覚めた者」を意味します。
- 彼の教えの核心は、快楽と苦行の両極端を避ける「中道」の実践にあります。
- また、人生の苦しみの原因とその克服の方法を、**四諦(したい)と呼ばれる4つの真理(苦諦・集諦・滅諦・道諦)として論理的に示し、その具体的な実践道として八正道(はっしょうどう)**を説きました。
- 彼は、すべての物事は相互依存の関係(縁起)によって成り立っており、固定的な実体(我)はないと説き、カーストのような生まれによる差別を否定しました。
- 仏教の特色と支持:
- 仏教は、ヴァルナに関係なく、万人に開かれた救済の道を説いたため、特にバラモンの権威に批判的であったクシャトリヤやヴァイシャ層から熱心な支持を得ました。
- また、難しい祭儀や哲学よりも、慈悲の心に基づいた倫理的な実践を重んじたことも、多くの人々の心をとらえました。
2.3. ジャイナ教の成立
- ヴァルダマーナの教え:
- 仏教とほぼ同時期に、同じくクシャトリヤ出身のヴァルダマーナ(尊称マハーヴィーラ)が開いた宗教がジャイナ教です。
- ジャイナ教も輪廻からの解脱を目指しますが、その方法として徹底した不殺生(アヒンサー)と苦行を説きました。
- 生命を傷つけることを極度に恐れるため、信者は農業を避け、主に商業に従事することが多く、インドの経済界で重要な役割を担うことになります。
- その教義の厳格さから、仏教ほど広範な支持を得るには至りませんでしたが、インド社会に深く根付き、現代まで続く宗教として存続しています。
第3章 統一帝国の出現と変容
ガンジス川流域の諸国家が抗争を続ける中、北西インドにマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢が侵入したことは、インドに大きな衝撃を与え、政治的統一への機運を高めました。こうして、インド史上初の統一帝国が誕生します。
3.1. マウリヤ朝とアショーカ王の治世(紀元前317年頃~前180年頃)
- インド初の統一帝国:
- アレクサンドロスの軍が去った後の混乱の中から、マガダ国のチャンドラグプタが台頭し、マウリヤ朝を建国しました。彼は、北西インドでセレウコス朝シリアを破り、インド史上初めて、北インドからデカン高原の一部までを覆う広大な統一帝国を築き上げました。首都はパータリプトラ。
- アショーカ王とダルマによる統治:
- マウリヤ朝の最盛期を築いたのが、第3代のアショーカ王(在位:前268頃~前232頃)です。
- 彼は即位後、南東部のカリンガ国を征服しましたが、その戦いの悲惨さを目の当たりにして深く悔い、仏教に帰依しました。
- 以後、彼は武力による征服(ディグ・ヴィジャヤ)を放棄し、**ダルマ(法、倫理)**による統治(ダルマ・ヴィジャヤ)へと政策を大転換しました。
- 具体的な政策:
- 磨崖碑・石柱碑: 自らの詔勅を刻んだ石碑を帝国の各地に建立し、民衆にダルマに基づく政治理念を伝えました。そこでは、不殺生、父母への孝順、他宗教への寛容などが説かれています。
- 仏教の保護と布教: 仏典の編纂事業(第3回結集)を援助し、各地にストゥーパ(仏塔)を建設しました。また、王子マヒンダらをセイロン(スリランカ)へ派遣するなど、国外への仏教布教にも努めました。これが、後に東南アジアへ広まる上座部仏教の基礎となります。
- アショーカ王の死後、マウリヤ朝は急速に衰退し、インドは再び分裂の時代へと入ります。
3.2. クシャーナ朝とガンダーラ美術(1世紀中頃~3世紀)
- 東西文化の十字路:
- マウリヤ朝滅亡後、イラン系のクシャーナ人が、中央アジアのバクトリアから北西インドにかけてクシャーナ朝を建国しました。
- この王朝は、ローマ帝国、漢帝国、そして南インドを結ぶ東西交易路の要衝に位置し、その中継貿易で大いに繁栄しました。
- カニシカ王(2世紀)の時代に最盛期を迎え、彼は仏教を篤く保護しました。
- 大乗仏教の興隆とガンダーラ美術:
- この時代、従来の出家者中心の仏教(上座部仏教)に対し、在家信者の救済をも目指す、より大衆的な大乗仏教が盛んになりました。大乗仏教では、悟りを開いた後も衆生を救済するためにこの世に留まる存在として菩薩が崇拝されるようになります。
- クシャーナ朝の支配領域の中心地であったガンダーラ地方(現在のパキスタン北部)では、この大乗仏教の思想と、アレクサンドロスの遠征以来この地に根付いていたヘレニズム文化とが融合し、独特の仏教美術が花開きました。
- これがガンダーラ美術であり、その最大の特徴は、**ギリシア彫刻の写実的な表現技法を用いて、史上初めて仏陀の姿を人間像として表現した(仏像の誕生)**ことです。ギリシア神話の神アポロンを思わせるような顔立ち、深く彫られた写実的な衣のひだなどが特徴で、この仏像製作の伝統は、シルクロードを通って東アジアへと伝播していきました。
3.3. グプタ朝とインド古典文化の黄金時代(4世紀~6世紀)
- インドの再統一とヒンドゥー教の確立:
- 4世紀前半、チャンドラグプタ1世がパータリプトラを都としてグプタ朝を建国し、北インドを再統一しました。
- この時代に、バラモン教がインド古来の民間信仰や仏教・ジャイナ教の要素などを吸収して、より民衆的な宗教へと発展したヒンドゥー教が確立しました。
- ヒンドゥー教では、ブラフマー(創造神)、ヴィシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)の三神が最高神として崇拝され、ヴァルナ制社会の秩序を宗教的に支える役割を担いました。
- インド古典文化の完成:
- グプタ朝時代は、政治的な安定のもとで、インドの古典文化が黄金期を迎えました。
- 公用語サンスクリット: 文学や学術の分野では、古典サンスクリット語が公用語として用いられました。
- 詩人カーリダーサが、戯曲『シャクンタラー』などの傑作を残しました。
- 古代からの叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』が、今日の形にまとめられました。
- 科学技術の発達:
- 数学の分野で、ゼロの概念が発見され、十進法と合わせて計算技術が飛躍的に発展しました。これらの知識は、後にアラビア世界を経てヨーロッパに伝わり、科学革命の基礎の一つとなりました。
- 天文学も発達し、地球の自転や円周率の計算などが行われました。
- 美術: グプタ朝の仏像は、ガンダーラ様式とインド古来の様式が融合した、純インド的なグプタ様式として完成の域に達しました。その洗練された優美な様式は、アジャンターやエローラの石窟寺院の壁画とともに、インド美術の最高傑作とされます。
- しかし、5世紀以降、中央アジアから侵入した遊牧民エフタルの攻撃によってグプタ朝は衰退し、インドは再び長い分裂の時代へと入っていきます。
第2部 古代中国世界の形成と展開:巨大統一帝国の論理
ユーラシア大陸の東端に広がる中国では、インドとは全く異なる論理で文明が展開しました。ここでは、宗教が社会を規定するのではなく、むしろ政治が社会と思想を規定する傾向が強く見られます。黄河と長江という二つの大河に育まれた文明は、やがて「天」の思想に裏打ちされた普遍的な王朝を生み出し、春秋戦国という大分裂時代を経て、強力な中央集権的官僚制を持つ「統一帝国」へと結実します。本章では、この巨大統一帝国の形成と、それを支えた統治イデオロギーの確立の過程を追います。
第4章 初期王朝から大分裂の時代へ
中国文明は、新石器文化を基盤として、二つの大河流域に誕生した初期王朝からその歴史をスタートさせます。
4.1. 中国文明の起源と初期王朝
- 黄河文明と長江文明:
- 伝統的に中国文明の発祥地とされてきたのは、黄河中・下流域です。ここではアワやキビなどの畑作農業を基盤とし、仰韶(ヤンシャオ)文化(彩陶)や竜山(ロンシャン)文化(黒陶)などの新石器文化が栄えました。
- 一方、近年の発掘調査により、温暖湿潤な長江流域でも、稲作を基盤とする高度な新石器文化(河姆渡遺跡など)が、黄河文明と並行して存在したことが明らかになっています。
- 殷王朝(紀元前16世紀頃~前11世紀):
- 伝説上の夏王朝に続き、実在が確認されている中国最古の王朝が殷です。都は殷墟(河南省安陽市)。
- 政治: 殷王は、占いによって神の意思を問い、政治を行う祭政一致の神権政治を行いました。
- 甲骨文字: その占いの記録が、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた甲骨文字です。これが、現在の漢字の直接の祖先であり、高度な文字体系がこの時代にすでに確立していたことを示しています。
- 青銅器: 殷代の青銅器は、武器や農具ではなく、主に祭祀に用いられる祭器として、極めて精巧で複雑な文様を持つものが作られました。これは、王の宗教的権威の象徴でした。
- 邑(ゆう)の連合体: 殷は、王が直接支配する領域(大邑)と、その周辺の多数の小規模な邑(都市国家)が連合した、緩やかな国家であったと考えられています。
- 周王朝(紀元前11世紀~前256年):
- 殷の西方、渭水流域から興った周が、殷を滅ぼして新たな王朝を建てました。都は鎬京(こうけい)。
- 封建制度: 周王は、広大な領域を直接統治する代わりに、首都周辺のみを直轄し、その他の土地は、王族や功臣を諸侯として封じ、その土地(封土)の統治を世襲で任せました。
- 義務と権利: 諸侯は、周王に対して軍役や貢納の義務を負う一方、封土内では君主として振る舞うことができました。
- 宗族の秩序: この王と諸侯の関係は、宗族と呼ばれる父系の血縁集団の秩序によって維持されていました。周王を本家(大宗)とし、諸侯を分家(小宗)とする関係性が、政治的な支配関係の基盤となっていました。
- 天命思想: 周は、殷を滅ぼしたことを正当化するため、天命思想を唱えました。これは、「天は徳のある者に天命を下して王とし、徳を失った王からは天命を奪う」という考え方です。この思想は、王朝交代を正当化する論理として、その後の中国の歴史を通じて繰り返し用いられました。
4.2. 春秋・戦国時代(紀元前770年~前221年)
- 周王室の権威失墜:
- 紀元前770年、周が北西の異民族犬戎(けんじゅう)の攻撃を受けて都を東の洛邑(らくゆう)に移すと、周王室の権威は完全に失墜しました。これ以降の時代を東周時代と呼び、前半を春秋時代、後半を戦国時代と区分します。
- 春秋時代(前770年~前403年):
- この時代、各地の有力な諸侯が、周王に代わって覇権を争いました。「尊王攘夷(周王を尊び、異民族を打ち払う)」をスローガンに掲げ、諸侯の同盟を主導した者を覇者と呼び、斉の桓公、晋の文公などが「春秋の五覇」として知られます。
- しかし、実質的には、諸侯は周王室から自立した独立国家として振る舞い始めていました。
- 戦国時代(前403年~前221年):
- 晋が韓・魏・趙の3国に分裂したことを画期とし、弱肉強食の様相はさらに激化します。諸侯はもはや「覇者」ではなく、自らが「王」を名乗るようになり、中国統一を目指して争いました。この時代、特に有力であったのが戦国の七雄(秦、楚、斉、燕、韓、魏、趙)です。
- 社会経済の変動:
- この大分裂と抗争の時代は、同時に大きな社会経済の変革期でもありました。
- 鉄製農具と牛耕の普及: 農業生産力が飛躍的に増大し、富国強兵の基盤となりました。
- 商業の発展: 各地で都市が発達し、青銅貨幣(刀銭、布銭など)が流通するようになりました。
- 実力主義と下剋上: 従来の血縁に基づく身分秩序が崩れ、家臣が主君を倒す下剋上が頻発しました。諸侯は、出身を問わず有能な人材を官僚として登用し、国力の増強を図りました。
- この大分裂と抗争の時代は、同時に大きな社会経済の変革期でもありました。
第5章 知の爆発:諸子百家
春秋戦国という激しい社会変動と実力主義の時代は、旧来の価値観が崩壊する一方で、新たな社会秩序や人間の生き方を模索する、かつてない知的エネルギーの爆発を生み出しました。各国に仕官を求めて遊説する思想家たちが数多く現れ、彼らは諸子百家と総称されます。
- 儒家:
- 孔子: 春秋時代の魯の思想家。周の時代の封建的な秩序が崩壊するのを憂い、家族道徳(孝、悌)を社会秩序の基本に据えるべきだと考えた。血縁的な愛情である「仁」と、それを社会的な規範として表現する「礼」によって国を治める徳治主義を説いた。その言行は弟子によって『論語』にまとめられた。
- 孟子: 戦国時代の儒家。人間の本性は善であるとする性善説を唱え、統治者が仁に基づいた王道政治を行えば、民は自ずから従うと説いた。
- 荀子: 同じく戦国時代の儒家。人間の本性は利己的であるとする性悪説を唱えた。そのため、人間は後天的な学習、すなわち「礼」による教育を通じて善を学ぶ必要があると説いた。彼の思想は、法家にも影響を与えた。
- 道家:
- 老子、荘子に代表される思想。
- 儒家が説くような人為的な道徳や社会制度(仁、礼)を、人間を束縛し、かえって混乱の原因となるものとして批判した。
- 宇宙万物の根源的な法則である「道(タオ)」に従い、人為を捨てて自然のままに生きる「無為自然」の生き方を理想とした。その思想は、権力から距離を置く知識人や、政治に疲れた民衆の心をとらえた。
- 法家:
- 商鞅、韓非らに代表される、富国強兵を目指す現実主義的な思想家。
- 人間の本性を、荀子以上に徹底して利己的なものと捉えた。したがって、国を治めるには、君主が定めた厳格な法と、信賞必罰による巧みな術、そして絶対的な勢(権威)によって臣下と民衆を統制すべきだと考えた。
- 徳治主義や無為自然といった理念を空論として退け、その現実的で強力な統治術は、戦国時代の君主たち、特に秦に採用され、その中国統一の原動力となった。
- その他の思想:
- 墨家: 墨子が創始。儒家の仁を身分による差別的な愛(別愛)として批判し、すべての人を無差別に愛する「兼愛」と、侵略戦争に反対する「非攻」を説いた。
- 兵家: 孫子らが代表。戦争の戦略・戦術を論じた。
第6章 最初の統一帝国:秦と漢
数百年にわたる戦乱の末、法家思想を採用して国力増強に成功した西方の秦が、他の六国を次々と滅ぼし、中国に初めての統一帝国を打ち立てます。
6.1. 秦の統一と始皇帝の中央集権体制(前221年~前206年)
- 中国統一:
- 紀元前221年、秦王の政が、中国史上初めて全土の統一を成し遂げました。
- 彼は、もはや従来の「王」の称号では不十分と考え、伝説上の三皇五帝から一字ずつ取って、自らを「皇帝」と称しました。これが始皇帝です。
- 徹底した中央集権政策:
- 始皇帝は、法家の李斯(りし)を宰相として、二度と国内が分裂しないよう、徹底した中央集権化と標準化の政策を断行しました。
- 郡県制の全国実施: 周の封建制を完全に否定し、全国を36の郡に分け、さらにその下に県を置く郡県制を施行した。郡県の長官は、すべて皇帝が中央から派遣する官僚とし、世襲を認めなかった。これにより、皇帝が全国を直接支配する体制が確立された。
- 文字・貨幣・度量衡の統一: それまで国ごとに異なっていた文字(篆書体に統一)、貨幣(半両銭に統一)、度量衡(長さ・重さ・容積の単位)を全国で統一した。これにより、広大な帝国の経済的・文化的な一体化が促進された。
- 思想統制(焚書・坑儒): 思想の多様性が国家統一を妨げると考え、自らの政策を批判した儒者らを弾圧し、医薬・占い・農業以外の民間書物を焼き払わせた(焚書・坑儒)。
- 対外政策と大土木事業: 北方の遊牧民匈奴を討伐し、その侵入を防ぐために、戦国時代の各国の長城を連結・修築して「万里の長城」を建設した。また、自身の巨大な陵墓(兵馬俑で有名)や、首都咸陽と各地を結ぶ馳道(ちどう)を建設した。
- 始皇帝は、法家の李斯(りし)を宰相として、二度と国内が分裂しないよう、徹底した中央集権化と標準化の政策を断行しました。
- 秦の急激な滅亡:
- これらの急進的な改革や大土木事業は、民衆に過酷な負担を強いました。始皇帝の死後、その圧政に対する不満が爆発し、中国史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱(前209年)が勃発。これをきっかけに全国で反乱が相次ぎ、秦は統一からわずか15年で滅亡しました。
6.2. 漢帝国の成立と発展(前202年~後220年)
- 前漢(西漢)の成立と郡国制:
- 秦の滅亡後、農民出身の劉邦(高祖)が、楚の貴族出身の項羽との激しい争いに勝利し、長安を都として新たな統一王朝、漢を建国しました(前202年)。
- 劉邦は、秦の急激な中央集権化の失敗に鑑み、首都周辺の直轄地には郡県制を、遠隔地の功臣や一族には領地を与える封建制を、それぞれ併用する郡国制を採用しました。
- 武帝の時代と中央集権化の完成:
- 前漢は、第7代武帝(在位:前141~前87)の時代に最盛期を迎えます。
- 武帝は、呉楚七国の乱などの諸侯の反乱を経て、諸侯の力を巧みに削ぎ、事実上、全国を郡県制で支配する中央集権体制を完成させました。
- 積極的な対外政策: 北方の宿敵匈奴に対して大規模な遠征軍を送り、その勢力を後退させました。また、匈奴を挟撃するため、張騫を西域の大月氏国へ派遣しました。これは失敗に終わりましたが、西域の事情が初めて中国に伝わり、後のシルクロード交易の端緒となりました。
- 財政政策: 度重なる外征で悪化した財政を再建するため、塩・鉄・酒の専売制や、物価調整・財政確保を目的とした均輸・平準法を導入しました。
- 儒教の国教化:
- 武帝は、統治イデオロギーの確立にも取り組みました。彼は、儒学者の**董仲舒(とうちゅうじょ)**の献策を受け入れ、**儒教を国家の公認の学問(官学)**としました。
- 五経博士を設置して儒教経典を研究させ、儒教の教養を身につけた者を官僚として登用する道を開きました。これにより、法家思想に代わって儒教が、その後の中国歴代王朝の支配を支える正統イデオロギーとしての地位を確立しました。
- 王莽の簒奪と後漢(東漢)の成立:
- 前漢は、武帝の死後、外戚(皇后の一族)や宦官(去勢された官吏)の力が強まり、政治が混乱。外戚の王莽が帝位を奪い、新を建国しました(後8年)。
- 王莽は、周の制度を理想とする復古的な改革を行いましたが、実情に合わず、豪族の反発や農民反乱(赤眉の乱)を招いて失敗。
- 漢の一族である劉秀(光武帝)が、豪族の力を借りて新を倒し、漢王朝を再興しました(後25年)。都を洛陽に置いたため、これを後漢と呼びます。
- 後漢の社会と文化:
- 後漢時代は、地方の豪族の力がますます強大化し、大土地所有を進めて中央政府の統制を弱めていきました。
- 官界では、宦官と儒教的教養を持つ官僚(士大夫)との対立が激化し、官僚たちが弾圧される党錮の禁が起こりました。
- 文化面では、蔡倫による実用的な製紙法の改良(105年)が特筆されます。これは、記録媒体の革命であり、知識の普及に絶大な貢献をしました。歴史学では、司馬遷が紀伝体で壮大な通史『史記』を著し、班固が前漢一代の歴史『漢書』を編纂しました。
第7章 シルクロードと文化の伝播
インドと中国という二つの巨大な文明圏は、ヒマラヤ山脈によって隔てられていましたが、その西方の回廊地帯、すなわち中央アジアのオアシス地帯を通じて、間接的につながっていました。この道が、後に「シルクロード」と呼ばれるようになります。
- シルクロードの形成:
- この東西交易路が本格的に開かれたのは、前漢の武帝が、匈奴討伐の協力者を求めて張騫を西域に派遣したことが大きな契機となりました。
- 張騫の派遣自体は軍事同盟の目的を達しませんでしたが、彼の往来によって、それまで中国に知られていなかった西域の地理、物産、民族に関する貴重な情報がもたらされ、公式な交易が始まりました。
- この交易路は、中国の長安から、タリム盆地のオアシス都市群(オアシスの道)を経て、パミール高原を越え、中央アジア、イラン高原を抜け、地中海東岸に至る、広大なネットワークでした。
- 交易品:
- その名の通り、中国からは特産品である**絹(シルク)**が、西方のローマ帝国などで極めて高価な奢侈品としてもてはやされました。
- 西方からは、ガラス製品、金貨、ブドウ、ゴマなどが中国にもたらされました。
- 文化の伝播:
- シルクロードは、単に物資が往来するだけの道ではありませんでした。それは、文化、宗教、技術、そして人々が移動し、交流するダイナミックな舞台でした。
- ヘレニズム文化の東漸: アレクサンドロスの遠征以来、中央アジアにはギリシア系の文化が根付いており、それがこの道を通じて東へと伝わりました。クシャーナ朝のガンダーラ美術は、その最も顕著な例です。
- 仏教の東伝: インドで生まれた仏教も、このシルクロードを経由して、西域のオアシス都市に広まり、紀元1世紀頃には後漢の中国に伝来しました。当初は外来の思想として奇異の目で見られましたが、やがて中国社会に深く根を下ろし、その思想や芸術に巨大な影響を与えていくことになります。
- 技術の伝播: 漢代に改良された製紙法も、やがてこの道を通って西へと伝わり、イスラーム世界を経てヨーロッパにまで至り、世界の歴史を大きく変えることになります。
【Module 3 結論:アジアにおける二つの古典文明の特質】
本モジュールでは、オリエント・地中海世界とは異なる発展の軌跡を辿った、アジアの二大古典文明、インドと中国の歴史を、それぞれの内的な論理と相互の関わりに着目しながら探求してきました。両者は、その社会構造、価値体系、政治形態において、極めて対照的な姿を見せています。
第1部で見た古代インド世界は、「宗教が社会を規定する」文明でした。アーリヤ人の進入とともに確立したバラモン教と、それを社会制度として具現化したヴァルナ制は、その後のインドの歴史を貫く基本的な枠組みとなりました。紀元前6世紀、この硬直した秩序に対するアンチテーゼとして、都市の自由な空気の中から仏教やジャイナ教といった普遍的な救済を説く宗教が生まれました。マウリヤ朝のアショーカ王は、仏教の「ダルマ」を帝国の統治理念に据えるという壮大な試みを行いましたが、その死後、帝国は再び分裂します。クシャーナ朝時代には、東西文化の交差点としてヘレニズムの影響を受けた仏教美術が花開き、やがてグプタ朝時代には、バラモン教が民間信仰を吸収してヒンドゥー教へと発展し、ヴァルナ制社会をより強固に支えるイデオロギーとして再確立されました。インドでは、政治的な統一はあくまで一時的な現象であり、その基層には常に宗教と結びついた社会構造が、強固な連続性を保ち続けたのです。
これに対し、第2部で見た古代中国世界は、「政治が社会と思想を規定する」文明でした。周の封建制が崩壊し、数百年にわたる春秋戦国の大分裂時代に突入すると、社会は激しく流動化し、その危機の中から諸子百家と呼ばれる多様な思想が生まれました。しかし、この知的な自由の時代は、法家の思想を採用した秦による、あまりにも強力な政治的統一によって終焉を迎えます。始皇帝が創出した、皇帝を頂点とする中央集権的な官僚制国家(郡県制)と、文字や度量衡の標準化という統治モデルは、その後の中国二千年の帝国の基本設計となりました。続く漢帝国は、秦の強圧的な統治を緩和しつつも、その中央集権体制を継承し、さらに儒教を国家の統治イデオロギーとして採用することで、巨大帝国の長期的な安定に成功しました。中国では、政治的な統一こそが至上の価値とされ、思想や社会は、その巨大な政治権力をいかに維持し、正当化するかという要請のもとに再編されていったのです。
そして第3部では、この対照的な二つの世界が、シルクロードという一本の細い線によって結ばれていたことを見ました。それは、物資だけでなく、仏教というインド起源の宗教が中国へ、そして後には中国起源の技術(製紙法)が西へと伝わる、文明交流の偉大な動脈でした。この交流は、まだ限定的なものではありましたが、後の時代に、より大規模で多層的なユーラシア世界の相互作用へと発展していく、重要な序章となったのです。