【基礎 世界史】Module 6: 近代世界の確立と動揺(1750-1914年)

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【本記事の目的と構成】

本記事は、18世紀半ばから第一次世界大戦前夜までの約160年間、すなわち「長い19世紀」と呼ばれる、人類史における最も劇的な変革の時代を探求します。この時代、ヨーロッパ、とりわけ西ヨーロッパで発生した二つの巨大な革命――産業革命(経済・社会構造の変革)と市民革命(政治・思想の変革)――は、不可分の「二重革命」として、ヨーロッパ社会のあり方を根底から覆しました。そして、この革命によって前例のない力と富を手にしたヨーロッパは、その力を全世界に投射し、地球上のほとんどの地域を自らの経済・政治システムに組み込む「帝国主義」の時代を現出させます。

本稿は、この近代世界が確立され、同時にその内部矛盾によって激しく動揺していくプロセスを、以下の四部構成で構造的に解き明かします。

  • 第1部 二重革命:近代のエンジン: 18世紀のヨーロッパで、近代世界を駆動する二つのエンジン、すなわち理性の力で社会を再設計しようとする啓蒙思想と、化石燃料の力で生産様式を根底から変えたイギリス産業革命が、いかにして誕生したのかを分析します。
  • 第2部 大西洋革命の時代: 啓蒙思想と社会の矛盾が爆発した「大西洋革命」の時代を扱います。アメリカ独立革命が、いかにして史上初の近代的な共和制国家を誕生させ、フランス革命とナポレオンが、自由、平等、国民主義といった理念をヨーロッパ全土に、そして世界へと拡散させていったのか、その激動の過程を追います。
  • 第3部 19世紀ヨーロッパ:秩序と自由の相克: フランス革命後のヨーロッパで、旧来の君主制秩序を維持しようとするウィーン体制と、それに抵抗する自由主義・国民主義の運動が、いかにして激しく衝突したのか。そして、その中からイギリスの議会制民主主義の発展や、イタリア・ドイツの統一といった、近代的な国民国家が形成されていく様相を詳述します。
  • 第4部 帝国主義の時代と世界の反応: 第二次産業革命によってさらに力を増したヨーロッパ列強が、アジア・アフリカをいかにして分割・植民地化していったのか(帝国主義)。そして、その圧倒的な圧力に対し、清朝中国が衰退していく一方で、日本が明治維新によって近代化に成功するなど、非ヨーロッパ世界がどのように反応し、変容していったのかを比較検討します。

このモジュールを学び終える時、あなたは近代という時代が、単なる進歩の物語ではなく、自由と抑圧、富と貧困、ナショナリズムの高揚と帝国主義的支配といった、光と影の側面を併せ持つ、複雑でダイナミックな時代であったことを深く理解し、20世紀の二つの世界大戦へと至る歴史の不可逆的な流れを、明確に把握することができるでしょう。


目次

第1部 二重革命:近代のエンジン

18世紀のヨーロッパは、来るべき革命の時代を準備する、知的かつ経済的な地殻変動の時代でした。科学革命によって確立された合理主義の精神は、ついに人間社会そのものへと向けられ、旧来の権威や制度を理性の法廷で裁こうとする「啓蒙思想」を生み出しました。時を同じくして、大西洋の島国イギリスでは、技術革新が生産のあり方を根底から覆し、人類を化石燃料の時代へと導く「産業革命」が静かに、しかし力強く始動していました。この思想と経済の「二重革命」こそ、近代世界を創り出す不可逆的なエンジンとなったのです。

第1章 知的革命:啓蒙思想の展開

啓蒙思想とは、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパで隆盛した、知的・思想的運動です。その根本精神は、科学革命の成功に自信を得て、人間理性の光によって、旧来の権威、偏見、非合理的な制度(旧体制(アンシャン=レジーム))といった「闇」を照らし出し、人間社会を進歩させようとすることにありました。

1.1. 啓蒙思想の主要な潮流

  • イギリス:経験論と政治思想の源流:
    • ロック: 彼は、名誉革命を理論的に正当化し、『市民政府二論』の中で、人間は生まれながらにして生命・自由・財産といった自然権を持つと説きました。そして、政府の役割は、この自然権を保障するために、人民の信託によって設立された社会契約に基づくものであると主張しました。もし政府がこの信託に反して人民の権利を侵害するならば、人民は政府に**抵抗する権利(革命権)**を持つとしました。彼の思想は、アメリカ独立革命やフランス革命に絶大な影響を与えました。
  • フランス:啓蒙思想の中心地:
    • 18世紀のフランスでは、絶対王政の矛盾が深まる中、貴族のサロンなどを舞台に啓蒙思想が最も華やかに展開されました。
      • モンテスキュー: イギリスの立憲君主制を理想とし、その主著『法の精神』の中で、国家権力を立法・行政・司法の三つに分立させる三権分立が、個人の自由を守るために不可欠であると説きました。この思想は、アメリカ合衆国憲法に直接的な影響を与えています。
      • ヴォルテール: 封建的な特権や、教会の不寛容を痛烈に批判し、理神論の立場から宗教的寛容を訴えました。また、プロイセンのフリードリヒ2世との交流でも知られます。
      • ルソー: 彼は、文明社会が人間を堕落させたと批判し、『社会契約論』の中で、「自然に帰れ」と説きました。彼は、個々の人民の意思の総和である一般意志に基づく、直接民主制的な国家(人民主権)を理想としました。その思想は、フランス革命のジャコバン派に大きな影響を与え、より急進的な民主主義の理論的支柱となりました。
  • 『百科全書』の編纂:
    • ディドロダランベールが中心となって編纂した『百科全書』は、啓蒙思想の集大成でした。それは、単なる知識の集成ではなく、合理主義的な観点から、当時の学問、技術、社会制度を体系的に整理・批判し、知識を広く民衆に解放しようとする、啓蒙精神そのものを体現したプロジェクトでした。

1.2. 啓蒙専制君主

啓蒙思想は、革命家だけでなく、一部の君主にも影響を与えました。彼らは、自らを「国家第一の僕」と称し、啓蒙思想家と交流しながら、上からの近代化改革(内政改革、産業育成、宗教的寛容など)を進めようとしました。これを啓蒙専制君主と呼びます。

  • プロイセンのフリードリヒ2世: ヴォルテールと親交を結び、「君主は国家第一の僕」と公言しました。
  • ロシアのエカチェリーナ2世: ディドロらを宮廷に招き、法典の編纂などを試みました。
  • オーストリアのヨーゼフ2世: 宗教的寛容令や農奴解放令など、急進的な改革を行いました。

しかし、彼らの改革は、あくまで君主の権力を強化し、富国強兵を図るという目的の範囲内で行われたものであり、人民の政治参加や、君主権そのものを制限する方向には進みませんでした。

第2章 経済革命:イギリス産業革命の発生

18世紀後半、イギリスで始まった産業革命は、人間の歴史における生産様式の最も根源的な変化でした。それは、道具を用いていた時代から、機械を用いて工場で大量生産を行う時代への移行であり、その動力源として、人力や自然力(水力、風力)に代わり、**化石燃料(石炭)**が利用され始めたことを特徴とします。

2.1. なぜイギリスで始まったのか?

産業革命が、世界の他のどの地域でもなく、イギリスで最初に始まったのには、いくつもの前提条件が重なっていました。

  • 資本の蓄積: 大航海時代以降の三角貿易や植民地貿易を通じて、産業に投資するための莫大な資本が蓄積されていました。
  • 資源: 国内に、動力源となる石炭と、機械の材料となる鉄鉱石が豊富に産出しました。
  • 労働力: 第二次囲い込み(エンクロージャー)によって土地を失った農民が、都市に流入し、工場で働く安価な労働力となりました。
  • 市場: 広大な海外植民地は、工業製品の巨大な市場となると同時に、原料(綿花など)の供給地でもありました。
  • 政治的安定: 名誉革命以降、議会政治が安定し、個人の財産権が保障されていたため、企業家は安心して投資活動を行うことができました。
  • 技術革新: これらの条件を背景に、必要に迫られて様々な技術革明が連鎖的に起こりました。

2.2. 技術革新の連鎖

  • 綿工業から始まる革命:
    • 産業革命は、需要が高まっていた綿工業の分野から始まりました。飛び杼(ひ)の発明で織布の効率が上がると、今度は糸が不足し、紡績機の改良が求められました。
    • ハーグリーヴズジェニー紡績機アークライト水力紡績機、そしてクロンプトンミュール紡績機といった発明が相次ぎ、糸の生産量が飛躍的に増大しました。
    • すると今度は、織布の能力が追いつかなくなり、カートライト力織機を発明しました。
  • 動力革命:蒸気機関の改良:
    • 当初、機械の動力は水力に頼っていましたが、天候や立地に左右されるという欠点がありました。
    • この問題を解決したのが、ワットによる蒸気機関の改良でした。彼は、従来、鉱山の排水用にしか使えなかった蒸気機関を、回転運動を取り出すことで、あらゆる機械の動力源として利用できるようにしました。
    • 蒸気機関の登場により、工場は川の近くでなくとも、都市の近くに建設できるようになり、生産効率は劇的に向上しました。
  • 交通革命:
    • 大量生産された製品を、大量に、かつ迅速に輸送する必要性から、交通手段の革命が起きました。
    • スティーヴンソンが実用化した蒸気機関車は、鉄道網の建設を促し、人やモノの移動を根底から変えました。フルトン蒸気船を実用化し、水上交通も大きく変化しました。

2.3. 産業革命がもたらした社会の変容

産業革命は、イギリス社会の構造を不可逆的に変えました。

  • 社会構造の変化:
    • 産業革命は、土地を持つ貴族や農民が中心であった社会から、産業資本家(工場経営者、銀行家など)と、自らの労働力以外に売るものを持たない**賃金労働者(プロレタリアート)**という、二つの新しい階級が社会の中心となる、資本主義社会を確立しました。
  • 都市化の進展:
    • 工場が集中する都市に、労働者が大量に流入し、マンチェスターリヴァプールといった新しい工業都市が急成長しました。
  • 社会問題の発生:
    • しかし、急激な都市化は、スラムの形成、不衛生な環境、伝染病の流行といった都市問題を生み出しました。
    • 工場では、利益を最大化しようとする資本家によって、労働者は劣悪な環境で、低賃金・長時間労働を強いられました。特に、安価な労働力として、女性や児童が過酷な労働に従事させられました。
    • このような状況に対し、労働者たちは、団結して労働組合を結成したり、機械を打ち壊すラダイト運動を起こしたりして抵抗を試みました。また、これらの社会の矛盾を批判し、新たな社会体制を構想する社会主義思想も、この時代を背景として生まれてくるのです。

第2部 大西洋革命の時代

啓蒙思想によって理論武装し、社会経済の変動によって力をつけた市民階級は、ついに旧体制(アンシャン=レジーム)の打倒へと立ち上がります。18世紀後半から19世紀初頭にかけて、大西洋の両岸で連鎖的に発生した一連の市民革命は、近代的な「国民国家」と「民主主義」の理念を、現実の政治制度として世界で初めて確立しました。

第3章 アメリカ独立革命:新しい共和国の誕生(1775-1783)

アメリカ独立革命は、ヨーロッパの周縁と見なされていた植民地が、本国の圧政に対して、啓蒙思想を武器に独立を勝ち取り、歴史上初の本格的な近代共和制国家を建設したという点で、世界史的に大きな意義を持ちます。

3.1. 革命の原因:植民地と本国の対立

  • 「有用なる怠慢」とその終わり:
    • 当初、イギリス本国は、北米の13植民地に対して比較的寛容な政策をとり、植民地は事実上の自治を享受していました(「有用なる怠慢」)。
    • しかし、フレンチ=インディアン戦争(ヨーロッパの七年戦争と連動)でフランスに勝利し、広大な領土を獲得したイギリスは、戦費の増大と、新たな領土の統治費用を賄うため、植民地への課税を強化する方針に転換しました。
  • 課税をめぐる対立:
    • 印紙法(1765年)やタウンゼンド諸法など、本国議会が次々と新たな税を課したことに対し、植民地側は、「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて激しく抵抗しました。これは、植民地には本国議会に代表を送る権利がないのだから、そこで決定された課税に従う義務はない、という論理でした。
  • ボストン茶会事件:
    • 本国が、東インド会社に茶の独占販売権を与えた茶法に対し、植民地の商人が反発。1773年、ボストン港で、インディアンに変装した急進派の人々が、停泊中の東インド会社の船を襲い、積荷の茶箱を海に投げ捨てました。これがボストン茶会事件です。
    • この事件に対し、イギリス本国がボストン港の閉鎖など、強圧的な報復措置をとったため、両者の対立は決定的となりました。

3.2. 独立戦争と合衆国の成立

  • 戦争の開始と独立宣言:
    • 1775年、レキシントン・コンコードの戦いで武力衝突が始まり、独立戦争が勃発しました。
    • 各植民地の代表は、フィラデルフィアで大陸会議を開き、ワシントンを植民地軍の総司令官に任命しました。
    • 1776年7月4日、トマス=ジェファソンらが起草した「独立宣言」が採択されました。この宣言は、ロックの思想に深く影響を受けており、すべての人間の平等、生命、自由、幸福追求といった自然権、そして圧政に対する革命権を高らかに謳い、その後の世界の民主主義運動に大きな影響を与えました。
  • 国際関係と勝利:
    • 当初、装備に劣る植民地軍は苦戦しますが、イギリスの覇権を快く思わないフランス(ルイ16世の決断)、スペイン、オランダなどが、植民地側を支援して参戦したことで、戦況は有利に転じました。
    • 1781年のヨークタウンの戦いで決定的な勝利を収め、1783年のパリ条約で、イギリスはアメリカの独立を正式に承認しました。
  • アメリカ合衆国憲法の制定:
    • 独立後、各州の権限が強いアメリカ連合規約のもとでは、国家としての統一が困難であったため、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開かれ、アメリカ合衆国憲法が制定されました。
    • この憲法は、
      1. 人民主権の原則
      2. モンテスキューの思想に基づく、厳格な三権分立(大統領制、二院制議会、独立した司法)
      3. 各州の自治権を尊重しつつ、中央政府にも強力な権限を与える連邦主義を三大原則とする、画期的なものでした。
    • しかし、この憲法は、黒人奴隷の存在や、先住民、女性の権利を認めていないという、大きな限界も抱えていました。この「奴隷制」という建国の矛盾は、約80年後の南北戦争で、国家を二分する悲劇を生むことになります。

第4章 フランス革命とナポレオン:旧世界の崩壊

アメリカ独立革命が、遠い新大陸での出来事であったのに対し、フランス革命は、ヨーロッパの中心で、旧体制(アンシャン=レジーム)を根こそぎ破壊し、「自由・平等・友愛」の理念を全ヨーロッパに、そして全世界に拡散させた、最も巨大で影響力の大きい市民革命でした。

4.1. 革命の勃発:アンシャン=レジームの崩壊

  • 革命前夜のフランス:
    • 18世紀後半のフランスは、深刻な矛盾を抱えていました。
      • 身分制度: 人口のわずか2%に過ぎない、**第一身分(聖職者)第二身分(貴族)**が、広大な土地を所有し、免税特権などの封建的な特権を享受していました。
      • 第三身分: 人口の98%を占める**第三身分(平民)**は、富裕なブルジョワジーから、都市の民衆(サン=キュロット)、そして大多数の農民まで、多様な階層を含んでいましたが、彼らが国家の重い税負担のすべてを担っていました。
      • 財政危機: ルイ14世以来の対外戦争と、宮廷の奢侈、そしてアメリカ独立戦争への支援などによって、国家財政は破綻寸前でした。
  • 三部会と革命の始まり:
    • 国王ルイ16世は、財政改革のために、特権身分への課税を試みますが、貴族たちはこれに反発。175年ぶりに、三つの身分の代表からなる三部会の召集を要求しました。
    • しかし、三部会では、議決方法をめぐって特権身分と第三身分が対立。第三身分の代表たちは、三部会から離脱し、自らこそが国民を代表するものであるとして「国民議会」の成立を宣言し、憲法制定まで解散しないことを誓いました(球戯場(テニスコート)の誓い)。
    • これに対し、国王が武力で議会を弾圧しようとしたため、怒ったパリの民衆が、1789年7月14日、圧政の象徴と見なされていたバスティーユ牢獄を襲撃しました。この事件が、フランス革命の始まりとなります。

4.2. 革命の進展と急進化

  • 封建的特権の廃止と人権宣言:
    • バスティーユ襲撃に呼応して、全国の農村で農民反乱が勃発。国民議会は、事態を収拾するため、「封建的特権の(有償)廃止」を宣言しました。
    • さらに、ラ=ファイエットらが起草した「人権宣言(人間と市民の権利の宣言)」を採択。これは、ロックやルソーの思想に基づき、人間の自由・平等、国民主権、私有財産の不可侵などを謳った、近代市民社会の基本原則を示す文書でした。
  • 立憲君主制から共和制へ:
    • 1791年憲法が制定され、フランスは立憲君主制となりますが、国王ルイ16世が国外逃亡を図ったヴァレンヌ逃亡事件によって、国民の国王への信頼は失墜します。
    • 周辺のオーストリアやプロイセンが革命に干渉すると(革命戦争の勃発)、祖国の危機と反革命の動きに怒ったパリの民衆(サン=キュロット)と義勇兵が、王宮を襲撃(8月10日事件)。王権は停止され、男性普通選挙による国民公会が召集されました。
    • 国民公会は、王政の廃止と共和政の樹立を宣言(第一共和政)。そして、裁判の末、1793年1月、ルイ16世はギロチンで処刑されました。
  • ジャコバン派の独裁と恐怖政治:
    • 国王の処刑は、イギリスなども加わった対仏大同盟を結成させ、国内外の危機は一層深刻化しました。
    • このような状況下で、国民公会では、ロベスピエールを中心とする急進的なジャコバン派が権力を握りました。
    • 彼らは、公安委員会を設置し、封建的特権の無償廃止、最高価格令、革命暦の採用など、急進的な改革を次々と断行する一方、反対派を次々とギロチンにかける恐怖政治を行いました。
  • テルミドールの反動と総裁政府:
    • しかし、ロベスピエールの行き過ぎた独裁と恐怖政治は、やがて支持を失い、1794年、テルミドールの反動と呼ばれるクーデタによって、彼自身が処刑されました。
    • その後、有産市民を中心とする、より穏健な総裁政府が成立しますが、政治は安定せず、国民は強力な指導者の登場を待ち望むようになります。

4.3. ナポレオンの登場とヨーロッパの再編

  • ナポレオンの台頭:
    • このような混乱の中から、革命戦争における軍事的な才能によって頭角を現したのが、コルシカ島出身の軍人ナポレオン=ボナパルトでした。
    • 彼は、エジプト遠征から帰国すると、1799年、ブリュメール18日のクーデタによって総裁政府を倒し、統領政府を樹立。第一統領として、事実上の独裁権を握りました。
  • ナポレオンの国内改革:
    • 彼は、フランス銀行の設立や、ローマ教皇との和解(コンコルダート)など、革命で混乱した国内の安定に努めました。
    • 彼の最大の功績は、1804年に発布されたフランス民法典(ナポレオン法典)です。これは、革命の成果である法の下の平等、私有財産の絶対、個人の自由などを保障するもので、その後の近代市民社会の法の基本となりました。
  • ナポレオン帝国(第一帝政):
    • 1804年、ナポレオンは国民投票で皇帝となり、ナポレオン1世を名乗りました(第一帝政)。
    • 彼は、ヨーロッパの覇権を目指して、征服戦争を繰り返しました。トラファルガーの海戦でイギリス海軍に敗れますが、アウステルリッツの三帝会戦でオーストリア・ロシア連合軍を破るなど、陸上では連戦連勝を重ね、一時はイギリスとロシアを除くヨーロッパ大陸のほとんどを支配下に置きました。
  • ナポレオン支配とヨーロッパの覚醒:
    • ナポレオンは、その支配地域に、ナポレオン法典を適用し、自由主義的な改革を導入しました。これにより、フランス革命の理念がヨーロッパ各地に広まり、封建的な社会の解体を促しました。
    • しかし、その支配は、同時にフランスの過酷な支配でもありました。各国では、フランスへの抵抗運動を通じて、自らの民族的な一体性を意識する**ナショナリズム(国民主義)**が芽生え始めました。スペインのゲリラ反乱や、プロイセンの改革(シュタイン、ハルデンベルクによる)などがその例です。
  • 帝国の崩壊:
    • イギリスを経済的に孤立させるための大陸封鎖令(1806年)は、大陸諸国の経済を苦しめ、反発を招きました。
    • これに違反したロシアに対し、ナポレオンは破滅的なロシア遠征(1812年)を敢行しますが、焦土作戦と厳しい冬(冬将軍)によって大敗を喫します。
    • これを機に、ヨーロッパ諸国は一斉に解放戦争に立ち上がり、**ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)**でナポレオン軍を破りました。
    • ナポレオンは退位し、エルバ島へ流されますが、一度はパリに帰還。しかし、1815年、ワーテルローの戦いで再び敗れ、南大西洋の孤島セントヘレナに流され、その生涯を終えました。

(以下、第3部第5章以降に続く)

(前回の続き)


第3部 19世紀ヨーロッパ:秩序と自由の相克

ナポレオンがヨーロッパ全土に刻みつけた傷跡と、彼がばらまいた革命の種。この二つの遺産を前に、19世紀のヨーロッパは、大きく揺れ動きます。ナポレオンを打倒した君主たちは、革命の再発を恐れ、ヨーロッパを1789年以前の旧秩序へと引き戻そうと試みます。しかし、一度目覚めた自由主義とナショナリズムの理念は、もはや抑えつけることのできない巨大な力となっていました。本章では、保守的な国際秩序である「ウィーン体制」と、それに挑戦する諸改革・諸革命との、約半世紀にわたる激しい相克を追います。そして、その中からイタリアやドイツといった新たな国民国家が誕生し、ヨーロッパの勢力図が塗り替えられていく様相を詳述します。

第5章 保守反動の時代と「諸国民の春」

5.1. ウィーン体制:復古と勢力均衡の秩序

  • ウィーン会議(1814-1815):
    • ナポレオン戦争の後処理のため、ヨーロッパ各国の君主や宰相がウィーンに集まり、戦後の国際秩序を再建するための会議が開かれました。会議は、オーストリアの外相メッテルニヒが主導し、「会議は踊る、されど進まず」と風刺されるように、各国の利害が対立して難航しました。
    • この会議で確立された19世紀前半の国際的な保守反動体制をウィーン体制と呼びます。その基本原則は以下の二つでした。
      1. 正統主義: フランス革命前の正統な君主と主権を復活させるという原則。フランスではブルボン朝が復活しました。これは、フランスのタレーランが提唱したものです。
      2. 勢力均衡(バランス・オブ・パワー): 一つの国が強大になりすぎないよう、各国が相互に牽制しあい、ヨーロッパの平和を維持するという原則。
  • 神聖同盟と四国同盟:
    • ウィーン体制を維持するため、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で、キリスト教の友愛精神に基づき、各国の君主が相互に協力することを約した神聖同盟が結成されました。
    • より実効性の高い軍事・政治同盟として、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの間で四国同盟(後にフランスも加盟し五国同盟)が結成され、自由主義やナショナリズムの運動を弾圧するための国際的な警察機構として機能しました。

5.2. 自由主義とナショナリズムの挑戦

ウィーン体制による抑圧に対し、ヨーロッパ各地で抵抗運動が起こります。

  • 初期の抵抗運動:
    • ドイツでは、学生たちが自由と統一を求めてブルシェンシャフト運動を起こしますが、メッテルニヒによって弾圧されました。
    • イタリアでは、秘密結社カルボナリが、オーストリアの支配からの解放と統一を目指して反乱を起こしました。
    • ロシアでは、ナポレオン戦争に従軍し、西欧の自由主義思想に触れた青年将校たちが、皇帝の専制政治(ツァーリズム)に対してデカブリストの乱(1825年)を起こしましたが、これも鎮圧されました。
  • ラテンアメリカ諸国の独立:
    • ウィーン体制が最初に揺らいだのは、ヨーロッパ本国ではなく、大西洋の対岸にあるラテンアメリカでした。
    • ナポレオン戦争で、宗主国であるスペインやポルトガルが混乱した隙に、現地のクリオーリョ(植民地生まれの白人)たちが、アメリカ独立革命やフランス革命の理念に影響を受けて、独立運動を開始しました。
    • シモン=ボリバルサン=マルティンらの指導のもと、1820年代までに、コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン、メキシコ、ブラジルなど、多くの国が次々と独立を達成しました。
    • メッテルニヒらは、この独立運動に武力干渉しようとしますが、ラテンアメリカ市場との自由な貿易を望むイギリスの反対と、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を排除するアメリカのモンロー教書(1823年)によって、その試みは阻止されました。
  • ギリシア独立戦争(1821-1829):
    • オスマン帝国からの独立を目指すギリシアの運動に対しては、ヨーロッパの知識人や青年たちが、古代ギリシアへの憧憬から、義勇兵として参加しました(詩人バイロンなど)。当初、君主制の秩序を重んじるメッテルニヒは、オスマン帝国を支持しましたが、最終的には、ギリシア正教徒の保護を名目にロシアが、またイギリス、フランスも介入し、ギリシアは独立を達成しました。

5.3. 七月革命と二月革命:「諸国民の春」

  • フランス七月革命(1830年):
    • フランスで復活したブルボン朝のシャルル10世が、議会を解散し、言論・出版の自由を奪うなど、極端な反動政治を行ったため、パリの民衆が蜂起し、王を追放しました。
    • この革命の結果、より自由主義的なオルレアン家のルイ=フィリップが王位につき、七月王政が始まりました。これは、富裕な大ブルジョワジーの利益を代表する政権でした。
    • この革命の影響は、ベルギーのオランダからの独立や、ポーランド・イタリア・ドイツでの反乱を誘発しましたが、その多くは鎮圧されました。
  • フランス二月革命と「諸国民の春」(1848年):
    • 七月王政が、労働者や中小ブルジョワジーの選挙権拡大要求を拒否したため、1848年2月、パリで再び革命が起こりました。ルイ=フィリップは亡命し、第二共和政が樹立されます。
    • この二月革命の知らせは、全ヨーロッパに衝撃を与え、各地で革命運動が連鎖的に発生しました。
      • ウィーンとベルリンで三月革命が起こり、メッテルニヒは失脚、ウィーン体制は事実上崩壊しました。
      • ハンガリー(コシュートが指導)、ベーメン(チェコ)、イタリアでも、独立や統一を求める運動が激化しました。
    • この一連の動きは、「諸国民の春」と呼ばれ、ウィーン体制に対する自由主義とナショナリズムの最終的な勝利を象徴するかに見えました。しかし、革命勢力内部の対立などから、これらの運動の多くは、最終的には鎮圧されてしまいました。

第6章 国民国家の形成と展開

1848年の革命は、短期的には失敗に終わりましたが、もはや旧来の秩序を維持できないことは明らかでした。これ以降、ヨーロッパの主要国は、国民国家の形成という課題に、それぞれの方法で取り組んでいきます。

6.1. イギリス:ヴィクトリア朝の繁栄と漸進的改革

19世紀のイギリスは、大陸の革命の嵐から距離を置き、「世界の工場」としての圧倒的な経済力を背景に、繁栄の時代を謳歌しました。

  • 自由主義的改革:
    • イギリスは、革命ではなく、漸進的な議会改革を通じて、社会の矛盾を解消し、安定を維持しました。
    • 第1回選挙法改正(1832年): 七月革命の影響を受け、腐敗選挙区を廃止し、産業革命で成長した産業資本家や、新興工業都市に選挙権を与えました。
    • 自由貿易体制の確立: 穀物法(地主の利益を守るための穀物輸入制限法)や航海法を廃止し、自由貿易を国策としました。これは、工業製品を世界中に輸出し、食料や原料を安価に輸入するという、イギリスの経済的利益に合致するものでした。
  • ヴィクトリア時代(1837-1901):
    • ヴィクトリア女王の長い治世は、「パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ばれる、イギリスの国力が絶頂に達した時代でした。
    • 議会では、保守党(ディズレーリ)と自由党(グラッドストン)の二大政党が、交互に政権を担当し、選挙法改正をさらに進めるなど、議会制民主主義を発展させました。
    • ロンドンで第1回万国博覧会が開催されるなど、その繁栄は世界に示されましたが、その裏では、アイルランド問題や、労働者の貧困といった社会問題も深刻化していました。

6.2. フランス:第二帝政から第三共和政へ

1848年の二月革命後、フランスは再び激しい政治的揺り戻しを経験します。

  • 第二帝政(1852-1870):
    • 第二共和政の大統領選挙で、偉大な叔父(ナポレオン1世)の名声を利用して当選したルイ=ナポレオンは、クーデタによって独裁権を握り、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世として即位しました。
    • 彼は、パリの大改造や産業博覧会の開催など、国内の産業を育成し、国民の支持を得る一方、クリミア戦争やイタリア統一戦争への介入、インドシナ出兵、メキシコ遠征など、積極的な対外政策を展開しました。
  • 第三共和政の成立:
    • しかし、**プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)**で、ナポレオン3世自身が捕虜となるという惨めな敗北を喫し、第二帝政は崩壊。
    • パリでは、労働者たちによる史上初の社会主義的な自治政府であるパリ=コミューンが樹立されますが、臨時政府によって血の鎮圧を受けました。
    • この混乱の末、1875年に憲法が制定され、第三共和政が確立しました。第三共和政は、第一次世界大戦後まで続く、フランス史上最も長命な共和政となりました。

6.3. イタリアとドイツの統一

19世紀後半、ヨーロッパの国際関係を最も大きく変えたのは、長年分裂状態にあったイタリアとドイツが、それぞれ国民国家として統一を達成したことでした。

  • イタリアの統一(リソルジメント):
    • 北イタリアのサルデーニャ王国が、統一の中心となりました。
    • 宰相カヴールは、巧みな外交政策を展開し、フランス(ナポレオン3世)の支援を得てオーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得。
    • 一方、南部では、青年イタリア出身の革命家ガリバルディが、千人隊(赤シャツ隊)を率いてシチリアとナポリを征服。彼は、自らが征服した土地を、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上しました。
    • 1861年、ヴェネツィアとローマを除くイタリア王国の成立が宣言されました。残るヴェネツィアと教皇領ローマも、それぞれ普墺戦争、普仏戦争の際に併合され、イタリアの統一が完成しました。
  • ドイツの統一とビスマルク:
    • ドイツの統一は、オーストリアを排除し、プロイセンを中心とする形で進められました(小ドイツ主義)。
    • その立役者が、プロイセンの首相ビスマルクです。彼は、自由主義的な議会の反対を押し切り、「ドイツの問題は、演説や多数決によってではなく、**鉄と血(軍備と戦争)**によってのみ解決される」と演説し、軍備拡張を強行しました(鉄血政策)。
    • 彼は、周到な外交戦略と、強力なプロイセン軍を駆使して、3つの戦争を仕掛け、勝利します。
      1. デンマーク戦争:オーストリアを誘ってデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪う。
      2. プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争):巧みな口実でオーストリアと戦い、わずか7週間で勝利。オーストリアをドイツ統一から完全に排除し、北ドイツ連邦を結成。
      3. プロイセン=フランス戦争(普仏戦争):スペイン王位継承問題をめぐってフランスを巧みに挑発し、ナポレオン3世に宣戦布告させる。セダンの戦いでフランス軍に圧勝。
    • 1871年1月、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、敵国フランスのヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で、ドイツ皇帝としての即位を宣言。ここに、強力なドイツ帝国が誕生しました。これは、ヨーロッパの勢力均衡を根本から覆す、画期的な出来事でした。

第7章 広がる世界と新たな火種

19世紀後半、国民国家の形成が進む一方で、アメリカ大陸では内戦が、そして東ヨーロッパではオスマン帝国の衰退が、新たな対立の火種となっていました。

7.1. アメリカ南北戦争:分裂か統一か(1861-1865)

  • 対立の背景:
    • 19世紀のアメリカは、北部と南部で、全く異なる社会経済構造を発展させていました。
      • 北部: 商工業が発展し、保護貿易を求める産業資本家と、賃金労働者が中心。
      • 南部奴隷制を基盤とする綿花プランテーションが経済の中心であり、自由貿易を求める大土地所有者が支配。
    • この両者の対立は、西部に新しい州が作られるたびに、それを奴隷州とするか自由州とするかをめぐって、激化していきました。
  • 戦争の勃発と経過:
    • 1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部の諸州は合衆国からの離脱を宣言し、アメリカ連合国を結成。これに対し、連邦の統一を掲げるリンカンが武力行使を決断し、南北戦争が勃発しました。
    • 当初、南部が優勢でしたが、人口と工業力で勝る北部が次第に有利となっていきます。
    • 1863年、リンカンは「奴隷解放宣言」を発表。これにより、戦争の大義名分は、連邦の統一から、奴隷解放という人道的な目的へと転換し、国際的な支持を得ました。
  • 結果と影響:
    • 北部の勝利によって、連邦の統一は維持され、奴隷制は廃止されました。
    • この戦争は、アメリカ史上最も多くの犠牲者を出した悲劇でしたが、その結果、南部の大プランターの支配は終わりを告げ、北部主導の工業化が国全体で進むことになります。奴隷解放後も、南部では深刻な人種差別が続きますが、アメリカは、統一された国民国家として、世界的な大国へと発展していくための基礎を固めたのです。

7.2. 東方問題とロシアの南下政策

  • 「瀕死の病人」オスマン帝国:
    • 19世紀、かつてヨーロッパを震撼させたオスマン帝国は、国内の民族運動(ギリシア、セルビアなど)や、ヨーロッパ列強の介入によって、弱体化の一途をたどっていました。「ヨーロッパの瀕死の病人」と称されるこの帝国の衰退は、バルカン半島や黒海周辺に力の真空地帯を生み出し、列強の利害が衝突する「東方問題」を引き起こしました。
  • ロシアの南下政策:
    • この東方問題に最も積極的に介入したのがロシアでした。ロシアは、凍らない港を求めて、黒海方面から地中海へ抜けるルート(ボスポラス・ダーダネルス海峡)の確保を目指し、南下政策を国是としていました。
    • ロシアは、オスマン帝国支配下のスラヴ系民族やギリシア正教徒の「保護」を名目に、オスマン帝国への圧力を強めていきました。
  • クリミア戦争(1853-1856):
    • 聖地イェルサレムの管理権をめぐるフランスとの対立を口実に、ロシアがオスマン帝国に侵攻すると、ロシアの地中海進出を警戒するイギリスフランスが、オスマン帝国側について参戦。近代的な兵器が投入された、最初の本格的な近代戦争となりました。
    • ナイティンゲールの活躍でも知られるこの戦争は、ロシアの敗北に終わりました。これにより、ロシアの南下政策は一時的に頓挫し、ウィーン体制以来の列強間の協調体制(ヨーロッパ協奏)は完全に崩壊しました。東方問題は、その後もバルカン半島を「ヨーロッパの火薬庫」として、第一次世界大戦の直接的な原因となるまで、国際政治の不安定要因であり続けました。

(以下、第4部に続く)

(前回の続き)


第3部 19世紀ヨーロッパ:秩序と自由の相克

ナポレオンがヨーロッパ全土に刻みつけた傷跡と、彼がばらまいた革命の種。この二つの遺産を前に、19世紀のヨーロッパは、大きく揺れ動きます。ナポレオンを打倒した君主たちは、革命の再発を恐れ、ヨーロッパを1789年以前の旧秩序へと引き戻そうと試みます。しかし、一度目覚めた自由主義とナショナリズムの理念は、もはや抑えつけることのできない巨大な力となっていました。本章では、保守的な国際秩序である「ウィーン体制」と、それに挑戦する諸改革・諸革命との、約半世紀にわたる激しい相克を追います。そして、その中からイタリアやドイツといった新たな国民国家が誕生し、ヨーロッパの勢力図が塗り替えられていく様相を詳述します。

第5章 保守反動の時代と「諸国民の春」

5.1. ウィーン体制:復古と勢力均衡の秩序

  • ウィーン会議(1814-1815):
    • ナポレオン戦争の後処理のため、ヨーロッパ各国の君主や宰相がウィーンに集まり、戦後の国際秩序を再建するための会議が開かれました。会議は、オーストリアの外相メッテルニヒが主導し、「会議は踊る、されど進まず」と風刺されるように、各国の利害が対立して難航しました。
    • この会議で確立された19世紀前半の国際的な保守反動体制をウィーン体制と呼びます。その基本原則は以下の二つでした。
      1. 正統主義: フランス革命前の正統な君主と主権を復活させるという原則。フランスではブルボン朝が復活しました。これは、フランスのタレーランが提唱したものです。
      2. 勢力均衡(バランス・オブ・パワー): 一つの国が強大になりすぎないよう、各国が相互に牽制しあい、ヨーロッパの平和を維持するという原則。
  • 神聖同盟と四国同盟:
    • ウィーン体制を維持するため、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱で、キリスト教の友愛精神に基づき、各国の君主が相互に協力することを約した神聖同盟が結成されました。
    • より実効性の高い軍事・政治同盟として、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの間で四国同盟(後にフランスも加盟し五国同盟)が結成され、自由主義やナショナリズムの運動を弾圧するための国際的な警察機構として機能しました。

5.2. 自由主義とナショナリズムの挑戦

ウィーン体制による抑圧に対し、ヨーロッパ各地で抵抗運動が起こります。

  • 初期の抵抗運動:
    • ドイツでは、学生たちが自由と統一を求めてブルシェンシャフト運動を起こしますが、メッテルニヒによって弾圧されました。
    • イタリアでは、秘密結社カルボナリが、オーストリアの支配からの解放と統一を目指して反乱を起こしました。
    • ロシアでは、ナポレオン戦争に従軍し、西欧の自由主義思想に触れた青年将校たちが、皇帝の専制政治(ツァーリズム)に対してデカブリストの乱(1825年)を起こしましたが、これも鎮圧されました。
  • ラテンアメリカ諸国の独立:
    • ウィーン体制が最初に揺らいだのは、ヨーロッパ本国ではなく、大西洋の対岸にあるラテンアメリカでした。
    • ナポレオン戦争で、宗主国であるスペインやポルトガルが混乱した隙に、現地のクリオーリョ(植民地生まれの白人)たちが、アメリカ独立革命やフランス革命の理念に影響を受けて、独立運動を開始しました。
    • シモン=ボリバルサン=マルティンらの指導のもと、1820年代までに、コロンビア、ベネズエラ、アルゼンチン、メキシコ、ブラジルなど、多くの国が次々と独立を達成しました。
    • メッテルニヒらは、この独立運動に武力干渉しようとしますが、ラテンアメリカ市場との自由な貿易を望むイギリスの反対と、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を排除するアメリカのモンロー教書(1823年)によって、その試みは阻止されました。
  • ギリシア独立戦争(1821-1829):
    • オスマン帝国からの独立を目指すギリシアの運動に対しては、ヨーロッパの知識人や青年たちが、古代ギリシアへの憧憬から、義勇兵として参加しました(詩人バイロンなど)。当初、君主制の秩序を重んじるメッテルニヒは、オスマン帝国を支持しましたが、最終的には、ギリシア正教徒の保護を名目にロシアが、またイギリス、フランスも介入し、ギリシアは独立を達成しました。

5.3. 七月革命と二月革命:「諸国民の春」

  • フランス七月革命(1830年):
    • フランスで復活したブルボン朝のシャルル10世が、議会を解散し、言論・出版の自由を奪うなど、極端な反動政治を行ったため、パリの民衆が蜂起し、王を追放しました。
    • この革命の結果、より自由主義的なオルレアン家のルイ=フィリップが王位につき、七月王政が始まりました。これは、富裕な大ブルジョワジーの利益を代表する政権でした。
    • この革命の影響は、ベルギーのオランダからの独立や、ポーランド・イタリア・ドイツでの反乱を誘発しましたが、その多くは鎮圧されました。
  • フランス二月革命と「諸国民の春」(1848年):
    • 七月王政が、労働者や中小ブルジョワジーの選挙権拡大要求を拒否したため、1848年2月、パリで再び革命が起こりました。ルイ=フィリップは亡命し、第二共和政が樹立されます。
    • この二月革命の知らせは、全ヨーロッパに衝撃を与え、各地で革命運動が連鎖的に発生しました。
      • ウィーンとベルリンで三月革命が起こり、メッテルニヒは失脚、ウィーン体制は事実上崩壊しました。
      • ハンガリー(コシュートが指導)、ベーメン(チェコ)、イタリアでも、独立や統一を求める運動が激化しました。
    • この一連の動きは、「諸国民の春」と呼ばれ、ウィーン体制に対する自由主義とナショナリズムの最終的な勝利を象徴するかに見えました。しかし、革命勢力内部の対立などから、これらの運動の多くは、最終的には鎮圧されてしまいました。

第6章 国民国家の形成と展開

1848年の革命は、短期的には失敗に終わりましたが、もはや旧来の秩序を維持できないことは明らかでした。これ以降、ヨーロッパの主要国は、国民国家の形成という課題に、それぞれの方法で取り組んでいきます。

6.1. イギリス:ヴィクトリア朝の繁栄と漸進的改革

19世紀のイギリスは、大陸の革命の嵐から距離を置き、「世界の工場」としての圧倒的な経済力を背景に、繁栄の時代を謳歌しました。

  • 自由主義的改革:
    • イギリスは、革命ではなく、漸進的な議会改革を通じて、社会の矛盾を解消し、安定を維持しました。
    • 第1回選挙法改正(1832年): 七月革命の影響を受け、腐敗選挙区を廃止し、産業革命で成長した産業資本家や、新興工業都市に選挙権を与えました。
    • 自由貿易体制の確立: 穀物法(地主の利益を守るための穀物輸入制限法)や航海法を廃止し、自由貿易を国策としました。これは、工業製品を世界中に輸出し、食料や原料を安価に輸入するという、イギリスの経済的利益に合致するものでした。
  • ヴィクトリア時代(1837-1901):
    • ヴィクトリア女王の長い治世は、「パクス=ブリタニカ(イギリスの平和)」と呼ばれる、イギリスの国力が絶頂に達した時代でした。
    • 議会では、保守党(ディズレーリ)と自由党(グラッドストン)の二大政党が、交互に政権を担当し、選挙法改正をさらに進めるなど、議会制民主主義を発展させました。
    • ロンドンで第1回万国博覧会が開催されるなど、その繁栄は世界に示されましたが、その裏では、アイルランド問題や、労働者の貧困といった社会問題も深刻化していました。

6.2. フランス:第二帝政から第三共和政へ

1848年の二月革命後、フランスは再び激しい政治的揺り戻しを経験します。

  • 第二帝政(1852-1870):
    • 第二共和政の大統領選挙で、偉大な叔父(ナポレオン1世)の名声を利用して当選したルイ=ナポレオンは、クーデタによって独裁権を握り、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世として即位しました。
    • 彼は、パリの大改造や産業博覧会の開催など、国内の産業を育成し、国民の支持を得る一方、クリミア戦争やイタリア統一戦争への介入、インドシナ出兵、メキシコ遠征など、積極的な対外政策を展開しました。
  • 第三共和政の成立:
    • しかし、**プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)**で、ナポレオン3世自身が捕虜となるという惨めな敗北を喫し、第二帝政は崩壊。
    • パリでは、労働者たちによる史上初の社会主義的な自治政府であるパリ=コミューンが樹立されますが、臨時政府によって血の鎮圧を受けました。
    • この混乱の末、1875年に憲法が制定され、第三共和政が確立しました。第三共和政は、第一次世界大戦後まで続く、フランス史上最も長命な共和政となりました。

6.3. イタリアとドイツの統一

19世紀後半、ヨーロッパの国際関係を最も大きく変えたのは、長年分裂状態にあったイタリアとドイツが、それぞれ国民国家として統一を達成したことでした。

  • イタリアの統一(リソルジメント):
    • 北イタリアのサルデーニャ王国が、統一の中心となりました。
    • 宰相カヴールは、巧みな外交政策を展開し、フランス(ナポレオン3世)の支援を得てオーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得。
    • 一方、南部では、青年イタリア出身の革命家ガリバルディが、千人隊(赤シャツ隊)を率いてシチリアとナポリを征服。彼は、自らが征服した土地を、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上しました。
    • 1861年、ヴェネツィアとローマを除くイタリア王国の成立が宣言されました。残るヴェネツィアと教皇領ローマも、それぞれ普墺戦争、普仏戦争の際に併合され、イタリアの統一が完成しました。
  • ドイツの統一とビスマルク:
    • ドイツの統一は、オーストリアを排除し、プロイセンを中心とする形で進められました(小ドイツ主義)。
    • その立役者が、プロイセンの首相ビスマルクです。彼は、自由主義的な議会の反対を押し切り、「ドイツの問題は、演説や多数決によってではなく、**鉄と血(軍備と戦争)**によってのみ解決される」と演説し、軍備拡張を強行しました(鉄血政策)。
    • 彼は、周到な外交戦略と、強力なプロイセン軍を駆使して、3つの戦争を仕掛け、勝利します。
      1. デンマーク戦争:オーストリアを誘ってデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタインを奪う。
      2. プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争):巧みな口実でオーストリアと戦い、わずか7週間で勝利。オーストリアをドイツ統一から完全に排除し、北ドイツ連邦を結成。
      3. プロイセン=フランス戦争(普仏戦争):スペイン王位継承問題をめぐってフランスを巧みに挑発し、ナポレオン3世に宣戦布告させる。セダンの戦いでフランス軍に圧勝。
    • 1871年1月、プロイセン王ヴィルヘルム1世は、敵国フランスのヴェルサイユ宮殿「鏡の間」で、ドイツ皇帝としての即位を宣言。ここに、強力なドイツ帝国が誕生しました。これは、ヨーロッパの勢力均衡を根本から覆す、画期的な出来事でした。

第7章 広がる世界と新たな火種

19世紀後半、国民国家の形成が進む一方で、アメリカ大陸では内戦が、そして東ヨーロッパではオスマン帝国の衰退が、新たな対立の火種となっていました。

7.1. アメリカ南北戦争:分裂か統一か(1861-1865)

  • 対立の背景:
    • 19世紀のアメリカは、北部と南部で、全く異なる社会経済構造を発展させていました。
      • 北部: 商工業が発展し、保護貿易を求める産業資本家と、賃金労働者が中心。
      • 南部奴隷制を基盤とする綿花プランテーションが経済の中心であり、自由貿易を求める大土地所有者が支配。
    • この両者の対立は、西部に新しい州が作られるたびに、それを奴隷州とするか自由州とするかをめぐって、激化していきました。
  • 戦争の勃発と経過:
    • 1860年、奴隷制の拡大に反対する共和党のリンカンが大統領に当選すると、南部の諸州は合衆国からの離脱を宣言し、アメリカ連合国を結成。これに対し、連邦の統一を掲げるリンカンが武力行使を決断し、南北戦争が勃発しました。
    • 当初、南部が優勢でしたが、人口と工業力で勝る北部が次第に有利となっていきます。
    • 1863年、リンカンは「奴隷解放宣言」を発表。これにより、戦争の大義名分は、連邦の統一から、奴隷解放という人道的な目的へと転換し、国際的な支持を得ました。
  • 結果と影響:
    • 北部の勝利によって、連邦の統一は維持され、奴隷制は廃止されました。
    • この戦争は、アメリカ史上最も多くの犠牲者を出した悲劇でしたが、その結果、南部の大プランターの支配は終わりを告げ、北部主導の工業化が国全体で進むことになります。奴隷解放後も、南部では深刻な人種差別が続きますが、アメリカは、統一された国民国家として、世界的な大国へと発展していくための基礎を固めたのです。

7.2. 東方問題とロシアの南下政策

  • 「瀕死の病人」オスマン帝国:
    • 19世紀、かつてヨーロッパを震撼させたオスマン帝国は、国内の民族運動(ギリシア、セルビアなど)や、ヨーロッパ列強の介入によって、弱体化の一途をたどっていました。「ヨーロッパの瀕死の病人」と称されるこの帝国の衰退は、バルカン半島や黒海周辺に力の真空地帯を生み出し、列強の利害が衝突する「東方問題」を引き起こしました。
  • ロシアの南下政策:
    • この東方問題に最も積極的に介入したのがロシアでした。ロシアは、凍らない港を求めて、黒海方面から地中海へ抜けるルート(ボスポラス・ダーダネルス海峡)の確保を目指し、南下政策を国是としていました。
    • ロシアは、オスマン帝国支配下のスラヴ系民族やギリシア正教徒の「保護」を名目に、オスマン帝国への圧力を強めていきました。
  • クリミア戦争(1853-1856):
    • 聖地イェルサレムの管理権をめぐるフランスとの対立を口実に、ロシアがオスマン帝国に侵攻すると、ロシアの地中海進出を警戒するイギリスフランスが、オスマン帝国側について参戦。近代的な兵器が投入された、最初の本格的な近代戦争となりました。
    • ナイティンゲールの活躍でも知られるこの戦争は、ロシアの敗北に終わりました。これにより、ロシアの南下政策は一時的に頓挫し、ウィーン体制以来の列強間の協調体制(ヨーロッパ協奏)は完全に崩壊しました。東方問題は、その後もバルカン半島を「ヨーロッパの火薬庫」として、第一次世界大戦の直接的な原因となるまで、国際政治の不安定要因であり続けました。

(以下、第4部に続く)

(前回の続き)


第4部 帝国主義の時代と世界の反応

19世紀後半、ヨーロッパとアメリカで展開した第二次産業革命は、鉄鋼、化学、電力を基盤とする新たな技術革新によって、生産力を異次元のレベルへと引き上げました。この圧倒的な経済力と軍事力を背景に、欧米列強は、地球上の残された地域のほとんどを、自らの植民地や勢力圏として分割・支配する、新たな段階へと突入します。それが「帝国主義(インペリアリズム)」です。この時代、アジアやアフリカの諸地域は、否応なく世界資本主義のシステムに組み込まれ、その主権と伝統的な社会は、深刻な挑戦と解体の危機に直面しました。本章では、この帝国主義の時代がどのように展開し、それに対して非ヨーロッパ世界がどのように反応したのか、その対照的な軌跡を追います。

第8章 欧米列強による世界の分割

8.1. 第二次産業革命と帝国主義の動機

  • 第二次産業革命:
    • 19世紀後半になると、産業革命は新たな段階に入ります。
      • エネルギー源の変化: 従来の石炭・蒸気に加え、電力石油が新たな動力源として登場しました。
      • 重化学工業の発展: 製鉄技術の革新(ベッセマー法など)により、安価で良質な鉄鋼の大量生産が可能になりました。また、化学工業が発展し、合成染料や肥料、火薬などが生産されるようになりました。
      • 新たな産業と大企業: 電気を利用したモーターや、石油を燃料とする内燃機関(自動車、飛行機)といった新技術が、新たな産業を生み出しました。この時代、産業の独占・寡占化が進み、巨大な独占資本(カルテル、トラスト、コンツェルン)が形成されました。
    • この第二次産業革命では、先行するイギリスに加え、豊富な資源と巨大な国内市場を持つアメリカと、国家主導で急速な工業化を成し遂げたドイツが、新たな工業大国として台頭しました。
  • 帝国主義の動機:
    • このような経済構造の変化を背景に、欧米列強は、より攻撃的で全面的な植民地獲得競争(新帝国主義)へと乗り出します。その動機は、複雑に絡み合っていました。
      1. 経済的動機: 第二次産業革命によって過剰に生産された工業製品を売りさばくための新たな市場、そして工業に必要な原料(ゴム、石油、銅など)の安価な供給地として、植民地が求められました。また、国内に蓄積された余剰資本を、より高い利潤が見込める植民地のインフラ(鉄道、鉱山など)に投資する必要もありました。
      2. 政治的・軍事的動機: ヨーロッパにおける国民国家間の対立が激化する中で、海外植民地の領有は、国家の威信を高め、国際的な発言力を増すための象徴となりました。また、海軍基地や石炭補給地といった、世界戦略上の軍事的拠点を確保する目的もありました。
      3. 思想的背景: ダーウィンの進化論を人間社会に誤って適用した社会ダーウィニズムは、「生存競争」において優越した人種や国家が、劣等な人種や国家を支配するのは自然なことであるという、侵略を正当化する思想を生み出しました。また、「白人の責務」という名の下に、「未開」な人々を「文明化」し、キリスト教化することが、ヨーロッパ人の崇高な使命であるという、独善的な考え方も広まりました。

8.2. アジア・アフリカの植民地化

  • アフリカ分割:
    • 19世紀後半まで、ヨーロッパ人にとって「暗黒大陸」であったアフリカは、わずか数十年の間に、列強によって草刈り場のように分割されてしまいました。
    • スエズ運河の開通(1869年)は、ヨーロッパとアジアを結ぶ最短ルートとして、エジプトの戦略的重要性を高めました。財政難に陥ったエジプトを支配下に置いたイギリスは、アフリカを南北に縦断する植民地帝国(縦断政策)の建設を目指し、カイロとケープタウンを結ぶルートの確保を進めました。
    • 一方、フランスは、アルジェリアを拠点に、アフリカを東西に横断する植民地(横断政策)の獲得を目指しました。両国の政策は、スーダンで衝突し、**ファショダ事件(1898年)**で戦争寸前となりますが、フランスが譲歩しました。
    • ベルギー王レオポルド2世のコンゴ領有をきっかけに、列強間の対立が激化すると、1884年、ビスマルクの提唱でベルリン会議が開催され、アフリカ分割のルール(沿岸部を領有した国が内陸部の領有権を主張できるなど)が定められました。これ以降、分割のペースは一気に加速し、20世紀初頭には、独立を保ったのはエチオピアリベリアの二国のみという状況になりました。
  • アジアの植民地化:
    • インド: 1857年、イギリス東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、セポイ)が、宗教的感情を無視されたことをきっかけに、大規模な反乱(インド大反乱)を起こしました。この反乱は、農民や旧支配層も巻き込み、全土に広がりましたが、イギリスによって鎮圧されました。反乱後、イギリスは東インド会社を解散させ、インドを本国政府の直接統治下に置き(インド帝国の成立)、ヴィクトリア女王が皇帝を兼任しました。
    • 東南アジア: フランスがベトナム、カンボジア、ラオスをまとめてフランス領インドシナ連邦を形成。イギリスは、マレー半島とビルマ(ミャンマー)を、オランダはインドネシアを、それぞれ植民地としました。独立を維持したのは、英仏間の緩衝国としての役割を果たしたタイのみでした。
    • 太平洋: アメリカが、米西戦争でスペインからフィリピンとグアムを獲得し、ハワイを併合するなど、太平洋地域にも進出しました。

第9章 アジアの挑戦と苦悩

ヨーロッパの圧倒的な力の前に、アジアの伝統的な大国は、深刻な危機に直面しました。その圧力に対し、いかに対応するかによって、各国の運命は大きく分かれていきます。

9.1. 清朝中国の動揺と衰退

19世紀、かつて東アジア世界の中心として君臨した清朝は、内部の矛盾と外部からの衝撃によって、長い衰退の道を歩むことになります。

  • アヘン戦争(1840-42):
    • イギリスは、中国との貿易における慢性的・巨額な輸入超過(茶、陶磁器など)を解消するため、植民地インドで生産したアヘンを、非合法に中国へ密輸出し始めました。
    • アヘンの蔓延による健康被害と、銀の大量流出に危機感を抱いた清朝政府が、林則徐を派遣してアヘンの厳禁・没収を断行すると、イギリスは、自由貿易の保護を名目に、艦隊を派遣して戦争を開始しました。
    • 近代的な兵器の前に、清はなすすべなく敗北。不平等条約である南京条約を結ばされ、香港の割譲、5港の開港、そして莫大な賠償金の支払いを認めさせられました。
  • 太平天国の乱(1851-64):
    • アヘン戦争の敗北と、不平等条約による経済の混乱は、民衆の生活を圧迫し、社会不安を増大させました。
    • このような中、キリスト教の影響を受けた洪秀全が、「滅満興漢(満州人の清を滅ぼし、漢人の国を復興する)」をスローガンに、太平天国を樹立。土地均分や男女平等を掲げたこの反乱は、多くの貧しい農民の支持を得て、一時は南京を首都とするなど、中国南部の広範囲を支配しました。
    • 清朝は、自力での鎮圧が困難となり、曾国藩や李鴻章といった漢人官僚が組織した郷勇(義勇軍)や、欧米列強の支援(常勝軍など)を得て、ようやく反乱を鎮圧しました。
  • 洋務運動と日清戦争:
    • アヘン戦争と太平天国の乱という、内外の危機を経験した清朝内部では、西洋の進んだ軍事技術を導入して、国力の回復を図ろうとする洋務運動が始まりました。
    • 中体西用(中国の伝統的な思想・体制を本体とし、西洋の技術を末端の手段として利用する)」をスローガンに、軍事工場や官営企業が設立されましたが、その改革は、政治制度の変革には踏み込まない、表面的なものに留まりました。
    • この洋務運動の限界が露呈したのが、朝鮮の支配をめぐる日清戦争(1894-95)でした。近代化に成功した日本に惨敗したことで、清の威信は失墜し、列強による中国分割の動きが激化しました。
  • 辛亥革命と中華民国の成立:
    • 日清戦争後、康有為らによる立憲君主制を目指す改革(戊戌の変法)も失敗に終わり、義和団事件を経て、清朝の支配に対する失望は決定的となりました。
    • 孫文らは、革命による清朝打倒と共和政の樹立を掲げ、活動を続けました。
    • 1911年、武昌での軍隊の蜂起をきっかけに、辛亥革命が勃発。翌1912年、孫文を臨時大総統とする中華民国の成立が宣言され、清の最後の皇帝溥儀が退位。ここに、秦の始皇帝以来、2000年以上続いた中国の皇帝支配は、終わりを告げたのです。

9.2. 日本の開国と明治維新

中国とは対照的に、日本は、欧米列強の圧力に対し、迅速かつ根本的な国内改革を断行することで、植民地化を免れ、近代国家への道を歩むことに成功します。

  • 開国:
    • 1853年、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリーが、軍艦を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求しました。
    • 圧倒的な武力の差を前に、徳川幕府は、翌年日米和親条約を結んで開国。その後、不平等な内容を含む日米修好通商条約などを欧米列強と結び、約200年続いた鎖国は終わりを告げました。
  • 明治維新(1868年~):
    • 開国による経済の混乱や、幕府の弱腰な対応に対し、「尊王攘夷(天皇を尊び、外国勢力を打ち払う)」を掲げる下級武士たちの間で、倒幕の機運が高まりました。
    • 薩摩藩や長州藩などを中心とする倒幕派は、幕府を倒し、天皇を中心とする新政府を樹立しました(王政復古の大号令)。これが明治維新です。
    • 明治新政府は、「富国強兵」をスローガンに、欧米に追いつくため、矢継ぎ早に上からの近代化改革を断行しました。
      • 政治: 版籍奉還、廃藩置県による中央集権化。四民平等。大日本帝国憲法の発布(1889年)。
      • 経済: 殖産興業政策による官営工場の設立と、その後の民間への払い下げ。
      • 軍事: 徴兵令の施行による近代的軍隊の創設。
      • 社会・文化: 欧米の進んだ文物や制度を積極的に導入する文明開化。
  • 東アジア国際秩序の再編:
    • 急速な近代化に成功した日本は、欧米列強の帝国主義を模倣し、自らも対外的な膨張へと向かいます。
    • 日清戦争(1894-95): 朝鮮をめぐる対立から清と戦い、勝利。下関条約で、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾の割譲などを認めさせ、東アジアにおける伝統的な華夷秩序を覆しました。
    • 日露戦争(1904-05): 満州(中国東北部)や朝鮮半島における権益をめぐって、ロシアと衝突。日本海海戦などで勝利を収め、ポーツマス条約で、南樺太などを獲得しました。
    • アジアの有色人種国家が、ヨーロッパの白色人種大国に勝利したこの戦争は、インドやオスマン帝国など、アジアの被支配民族の独立運動を大いに勇気づけることになりました。しかし、同時に、日本自身が、欧米列強と肩を並べる新たな帝国主義国家として、アジアの国際政治に登場したことを意味していました。

【Module 6 結論:確立された近代と、その矛盾の胎動】

1750年から1914年に至る「長い19世紀」は、人類史における真の分水嶺でした。ヨーロッパで生まれた「二重革命」――すなわち、理性の名の下に旧来の権威を打倒した政治革命(市民革命)と、化石燃料の力で生産様式を覆した経済革命(産業革命)――は、西洋世界に、それ以外の世界に対する圧倒的な力の優位性をもたらしました。

この時代、啓蒙思想に源流を持つ「自由」「平等」「国民主権」といった理念は、アメリカ独立革命フランス革命という激しい爆発を経て、近代市民社会の揺るぎない原則となりました。19世紀を通じて、ヨーロッパは、旧秩序を守ろうとする保守主義と、これらの新しい理念を求める自由主義・国民主義との間の、絶え間ない緊張と闘争の舞台となります。その相克の末に、イギリスでは漸進的な改革を通じて議会制民主主義が、そして大陸では、イタリアやドイツの統一に象徴される、強力な国民国家が次々と確立されました。

しかし、このヨーロッパ内部での「近代」の確立は、その外部世界に対しては、全く異なる顔を見せました。第二次産業革命によってさらに増大した経済力・軍事力は、欧米列強を帝国主義へと駆り立て、地球上のほとんどの土地が、わずかな期間のうちに分割・植民地化されました。アジア・アフリカの諸文明は、この圧倒的な力の前に、その主権を奪われ、世界資本主義の末端に組み込まれていったのです。

この西洋からの衝撃に対し、非西洋世界の反応は一様ではありませんでした。巨大な伝統を持つ清朝中国は、その衝撃に有効に対応できず、半植民地化と内乱の中で、長い衰退の道を歩みました。それとは対照的に、日本は、明治維親というラディカルな国内改革を断行することで、驚異的な速さで近代化を成し遂げ、自らが帝国主義国家の仲間入りを果たすという、特異な道を歩みました。

1914年の世界は、一見すると、ヨーロッパ文明がその頂点を極め、全世界を支配する、安定した秩序が完成したかのように見えました。しかし、その水面下では、帝国主義を駆動した熾烈な国家間競争、工業化が生み出した軍事技術の破壊的な進化、そして植民地支配が生み出した被支配民族の抵抗ナショナリズムといった、巨大な矛盾と対立のエネルギーが、臨界点に達しつつありました。この張り詰めた緊張の糸が断ち切られた時、世界は、近代が自ら産み出した力によって自らを破滅させる、未曾有の大戦へと突入していくのです。

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