【基礎 化学】Module 3: 化学結合と分子の構造

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本モジュールの学習目標

Module 2では、原子という小さな宇宙の内部構造、とりわけその化学的性質を支配する「電子配置」について深く探求しました。孤立した原子の性質を理解した今、私たちは化学における最も根源的で重要な問いへと進みます。「原子は、なぜ、そしてどのようにして互いに結びつき、我々の目にする無数の分子や物質を形成するのか?」この問いに答えるのが、本モジュールで学ぶ「化学結合」の理論です。

このモジュールでは、まず原子が結合を形成する根本的な駆動力が「安定化」にあることを確認し、三大化学結合であるイオン結合共有結合金属結合のそれぞれの形成メカニズム、特徴、そしてそれによって生まれる物質の性質を徹底的に解き明かします。さらに、共有結合でできた分子が、なぜ特定の立体的な「形」をとるのかを、VSEPR理論混成軌道理論といった強力なモデルを用いて予測・説明する技術を習得します。最終的には、より本質的な結合の描像である分子軌道法への扉を開き、物質の多様な性質の根源を、電子レベルの相互作用から理解することを目指します。

このモジュールを学び終えるとき、あなたは単にH₂Oが折れ線形であると知っているだけでなく、「なぜ」折れ線形なのかを、電子の反発や軌道の重なりといった言葉で論理的に説明できるようになります。この「なぜ」を理解することが、複雑な化学反応を予測し、新しい物質をデザインするための不可欠な「思考のOS」を構築する鍵となるのです。


目次

1. 究極の安定を求めて:化学結合の基本原理とオクテット則

そもそも、なぜ原子はわざわざ他の原子と結びつこうとするのでしょうか?自然界のあらゆる現象は、よりエネルギーの低い、より安定な状態へと向かう傾向があります。原子が結合を形成するのも、その大原則の現れに他なりません。

1.1. なぜ原子は結合するのか?:ポテンシャルエネルギーの視点

  • 安定化への渇望: 孤立して存在する原子の多くは、実はエネルギー的に不安定な状態にあります。他の原子と相互作用し、結合を形成することで、原子は孤立している時よりも低いエネルギー状態(安定な状態)になることができます。この安定化こそが、化学結合を形成する根本的な駆動力です。
  • ポテンシャルエネルギー曲線: 二つの原子が互いに接近する際の、系全体のポテンシャルエネルギーの変化をグラフで考えてみましょう。
    • 遠く離れている状態: 原子同士が十分に離れているとき、互いの相互作用はほぼゼロで、エネルギーは変化しません(グラフの右側)。
    • 接近する状態: 原子が近づくにつれて、一方の原子核が他方の電子を引きつける引力が働き始め、系は安定化し、ポテンシャルエネルギーは低下していきます。
    • 最も安定な点(結合距離): ある特定の距離まで近づくと、引力と、原子核同士および電子同士の反発力が釣り合い、ポテンシャルエネルギーが最小となる最も安定な状態になります。このときの原子核間の距離が結合距離(結合長)であり、この最も低いエネルギー準位と、離れている状態とのエネルギー差が結合エネルギーに相当します。
    • さらに接近する状態: 結合距離よりもさらに近づくと、今度は原子核同士の強い反発力が支配的になり、エネルギーは急激に増大し、系は不安定になります。
  • 結合エネルギー (Binding Energy): このようにして形成された化学結合を切断し、再びばらばらの原子に戻すために必要なエネルギーのこと。結合エネルギーが大きいほど、その結合は強く、安定であることを意味します。

1.2. 希ガスに学ぶ安定性:オクテット則

では、原子はどのような状態を目指して安定化するのでしょうか。その答えの手がかりは、周期表の18族にあります。

  • 孤高の貴族、希ガス: ヘリウム(He)、ネオン(Ne)、アルゴン(Ar)などの希ガス元素は、他の元素とほとんど反応せず、単原子分子として安定に存在します。なぜ彼らはこれほどまでに「非社交的」なのでしょうか?
  • 安定な電子配置: Module 2で学んだように、希ガス原子は、その最外殻電子配置に著しい特徴があります。
    • ヘリウム(He): K殻(n=1)に2個の電子が満たされた閉殻構造 (1s2)。
    • ネオン(Ne)以降: 最外殻に8個の電子(s2p6)が満たされた構造。
  • オクテット則 (Octet Rule): この希ガスの電子配置の安定性から、アメリカの化学者G. N. ルイスは、以下の経験則を提唱しました。「典型元素の原子は、化学結合を形成する際、その最外殻電子が希ガス原子と同じ8個(オクテット)になるように、電子をやり取りしたり、共有したりする傾向がある。」(※水素(H)やリチウム(Li)のような第1周期付近の元素は、ヘリウム(He)型の2個の電子配置を目指します)
  • 化学結合の羅針盤: このオクテット則は、化学結合を理解するための、極めて強力でシンプルな指導原理となります。原子は、この「魔法の数字8」を達成するために、他の原子と手を結ぶのです。その手の結び方には、大きく分けて3つの戦略があります。それがイオン結合、共有結合、金属結合です。

2. 電子の完全譲渡:イオン結合とイオン結晶の秩序

オクテット則を満たすための一つの戦略は、電子を完全にあげてしまうか、逆にもらってしまうことです。この電子の「譲渡」によって生じるのがイオン結合です。これは主に、周期表の左側に位置する金属元素と、右側に位置する非金属元素との間で形成されます。

2.1. イオン結合の形成メカニズム

  • 登場人物:
    • 金属元素: 価電子の数が少なく(1~3個)、イオン化エネルギーが小さい。電子を放出して陽イオンになりやすい性質を持つ。(例: Na, Mg, Ca)
    • 非金属元素: 価電子の数が多く(5~7個)、電子親和力が大きい。電子を受け取って陰イオンになりやすい性質を持つ。(例: F, Cl, O)
  • 電子の受け渡し (Electron Transfer):
    • 金属原子は、最外殻の価電子をすべて非金属原子に明け渡すことで、一つ内側の安定な閉殻構造(オクテット)を満たした陽イオン (cation) になります。
    • 非金属原子は、その電子を受け取ることによって、自身の最外殻にオクテットを満たした陰イオン (anion) になります。
  • 例:塩化ナトリウム (NaCl) の場合:
    • ナトリウム原子 (Na): 電子配置は [Ne]3s1。3s軌道の電子を1個失うと、ネオン(Ne)と同じ安定な電子配置になります。Na([Ne]3s1)→Na+([Ne])+e−
    • 塩素原子 (Cl): 電子配置は [Ne]3s23p5。あと1個電子を受け取れば、アルゴン(Ar)と同じ安定な電子配置になります。Cl([Ne]3s23p5)+e−→Cl−([Ar])
  • 静電気的引力(クーロン力): このようにして生じた正電荷を持つ陽イオン (Na+) と負電荷を持つ陰イオン (Cl−) は、互いに強力な静電気的な引力で引きつけ合います。この引力こそが、イオン結合 (Ionic Bond) の正体です。
    • クーロン力 F は、イオンの電荷を q1​,q2​、イオン間の距離を r とすると、F=kr2q1​q2​​ で表されます。電荷が大きいほど、また距離が近いほど、結合は強くなります。

2.2. イオン結晶の形成と構造

  • 無限に続く配列: イオン結合は、特定の方向性を持たない(どの方向からも等しく引力が働く)ため、Na+ イオンは1個の Cl− イオンとだけ結合するわけではありません。自身の周りのあらゆる方向にある Cl− イオンを引きつけ、同時に Cl− イオンも周りの Na+ イオンを引きつけます。
  • イオン結晶 (Ionic Crystal): この結果、陽イオンと陰イオンが、三次元空間において互いに隣り合うように規則正しく配列し、巨大なイオン結晶を形成します。
  • 配位数 (Coordination Number): 結晶中の一つのイオンに対して、最も近くで接している反対符号のイオンの数のこと。配位数は、イオンの半径比によって決まります。
  • 代表的なイオン結晶の構造:
    • 塩化ナトリウム (NaCl) 型構造:
      • Na+ と Cl− が、それぞれ面心立方格子 (fcc) と同じ配置をとり、それらが互いに少しずれて組み合わさった構造。
      • 配位数: Na+ の周りに6個の Cl−、Cl− の周りに6個の Na+ があり、配位数は6:6
      • 多くのアルカリ金属のハロゲン化物 (LiF, KClなど) や、酸化マグネシウム(MgO)などがこの構造をとります。
    • 塩化セシウム (CsCl) 型構造:
      • Cs+ イオンと Cl− イオンの半径が比較的近い場合にみられる。
      • 体心立方格子 (bcc) の頂点と中心に、それぞれ Cl− と Cs+ が位置するような構造。
      • 配位数: 8:8
    • 硫化亜鉛 (ZnS) 型構造:
      • ダイヤモンド構造に似ており、配位数が比較的小さい。
      • 配位数: 4:4

2.3. 格子エネルギーとボルン・ハーバーサイクル

  • 格子エネルギー (Lattice Energy): イオン結晶がどれほど安定かを定量的に示す指標。
    • 定義気体状態の陽イオンと陰イオンが、1 mol のイオン結晶を形成するときに放出されるエネルギーのこと。
    • Na+(g)+Cl−(g)→NaCl(s)+(格子エネルギー)
    • 格子エネルギーが大きいほど、イオン間の結合が強く、結晶が安定であることを意味します。イオンの電荷が大きく、イオン半径が小さいほど、格子エネルギーは大きくなる傾向があります。
  • ボルン・ハーバーサイクル (Born-Haber Cycle):
    • 格子エネルギーを直接測定することは困難です。そこで、熱化学のヘスの法則を利用して、間接的に格子エネルギーを算出する手法がボルン・ハーバーサイクルです。
    • これは、イオン結晶の生成を、以下のいくつかのステップに分解し、それらのエネルギーの総和として考えるものです。
      1. 単体の標準生成エンタルピー(基準)
      2. 金属の昇華エネルギー(固体→気体)
      3. 非金属の結合解離エネルギー(分子→原子)
      4. 金属原子のイオン化エネルギー(原子→陽イオン)
      5. 非金属原子の電子親和力(原子→陰イオン)
      6. 格子エネルギー(気体イオン→固体結晶)
    • これらのエネルギー収支をサイクル図で考えることで、未知の格子エネルギーの値を求めることができます。このサイクルは、イオン結合の安定性が、単なる電子の授受だけでなく、多くのエネルギー的要因の複雑なバランスの上に成り立っていることを示しています。

2.4. イオン結晶の性質とその理由

イオン結晶が示す特徴的な性質は、すべてその強いイオン結合と規則正しい結晶構造から説明できます。

  • 融点・沸点が非常に高い:
    • 理由: 多数の陽イオンと陰イオンが、強力なクーロン力で三次元的に固く結びついているため。この強い束縛を断ち切って、イオンを自由に運動する液体や気体の状態にするには、非常に大きな熱エネルギーが必要となります。
  • 硬いが、もろい(劈開):
    • 理由(硬さ): イオン同士が強く結合しているため、変形しにくい。
    • 理由(もろさ): 結晶に強い力を加えてずらすと、同じ符号のイオン同士が向かい合う面が生じます。すると、そこに強烈な反発力が働き、その面に沿って結晶は簡単にパリンと割れてしまいます。この特定の面に沿って割れる性質を劈開といいます。
  • 電気伝導性:
    • 固体状態: イオンが結晶格子に固く固定されており、自由に動ける電荷の担い手(キャリア)が存在しないため、電気を通しません
    • 融解(液体)状態・水溶液状態: 結晶構造が壊れ、陽イオンと陰イオンが自由に動き回れるようになります。この状態で電極を入れて電圧をかけると、陽イオンは陰極へ、陰イオンは陽極へと移動して電荷を運ぶため、電気を通します(イオン伝導)。
  • 水への溶解性:
    • 理由: 水は、酸素原子側が負、水素原子側が正に分極した極性分子です。イオン結晶を水に入れると、多数の水分子がイオンを取り囲み、静電気的な引力でイオンを安定化させます(水和)。この水和によって得られるエネルギーが、イオンを格子から引き剥がすのに必要な格子エネルギーを上回る場合、イオン結晶は水に溶解します。

3. 電子の共有による絆:共有結合とルイス構造式

周期表の右側に位置する非金属元素同士が出会った場合、両者とも電子を欲しがるため、一方が電子を完全に手放すイオン結合は形成されにくいです。そこで原子たちは、オクテット則を満たすための第二の戦略、「電子の共有」を選択します。これが共有結合であり、分子の世界の基本となる、極めて重要な結合様式です。

3.1. 共有結合の概念とルイス構造

  • G. N. ルイスの洞察 (1916年): ギルバート・ニュートン・ルイスは、原子が価電子を互いに出し合い、「共有」することで、両方の原子が同時に希ガス型の安定な電子配置(オクテット)を獲得できる、という画期的なアイデアを提唱しました。
  • 共有電子対 (Shared Pair / Bonding Pair): 共有結合を形成するために、2つの原子によって共有されている電子対のこと。
  • 非共有電子対 (Unshared Pair / Lone Pair): 共有に関与せず、1つの原子にのみ属している最外殻の電子対のこと。
  • 例:水素分子 (H2​) の形成:
    • 水素原子(H)は価電子を1個持っています。2つの水素原子が、それぞれの価電子を1個ずつ出し合うことで、1対の共有電子対を作ります。
    • この共有電子対は、両方の原子核に同時に引きつけられ、2つの原子を結びつける「かすがい」の役割を果たします。
    • 結果として、それぞれの水素原子は、ヘリウム(He)と同じ安定な電子配置(2個の電子)を獲得したと見なすことができます。
  • ルイス構造式 (Lewis Structure):
    • 原子を元素記号で、価電子を点 (・) で表し、原子間の結合と電子の配置を視覚的に示した化学式のこと。
    • 共有電子対は、2つの原子を結ぶ1本の線(価標)で表すことが多いです。1本の線は2個の電子を意味します。
    • 非共有電子対は、点のペア (:) で表します。
    • ルイス構造式は、分子内のどの原子がどの原子と結びついているか(結合様式)、そして価電子がどのように分布しているかを理解するための、最も基本的な「設計図」です。

3.2. ルイス構造式の書き方(ステップ・バイ・ステップ)

正確なルイス構造式を書くことは、分子の構造や反応性を理解する第一歩です。以下の手順に従うことで、機械的に描くことができます。

例として、二酸化炭素 (CO2​) のルイス構造式を書いてみましょう。

  1. 全価電子数の合計を計算する:
    • 分子を構成するすべての原子の価電子数を合計します。
    • C (14族) は4個、O (16族) は6個。Oは2個あるので、
    • 全価電子数 = 4+(6×2)=16 個。
    • 最終的に描く構造式には、この数の電子が過不足なく含まれていなければなりません。
  2. 原子の骨格構造を決める:
    • どの原子が中心に来て、どの原子がその周りに来るかを決めます。
    • 一般的に、電気陰性度が最も小さい原子が中心原子になります(Hは除く)。
    • CO2​ の場合、Cの電気陰性度(2.6)はO(3.4)より小さいので、Cが中心原子です。
    • 骨格: O – C – O
  3. 単結合で原子をつなぎ、残りの電子を計算する:
    • まず、骨格構造の原子間をすべて単結合(1本の価標)でつなぎます。
    • O – C – O (価標2本使用 = 4個の電子を使用)
    • 残りの電子数 = 全価電子数 – (結合に使った電子数) = 16−4=12 個。
  4. 末端原子のオクテットを満たす:
    • 残った電子を、まず末端原子(中心でない原子)の周りに非共有電子対として配置し、オクテットを満たすようにします。
    • 両端のO原子に、それぞれ6個ずつ電子(3対の非共有電子対)を配置します。
    • :Ö-C-Ö: (ここで12個の電子をすべて使い切りました)
  5. 中心原子のオクテットを確認し、必要なら多重結合を作る:
    • この時点で、中心原子であるCの周りの電子数を確認します。Cは2つの単結合しか持っておらず、電子は4個しかありません。オクテットを満たしていません。
    • 中心原子がオクテットを満たしていない場合、末端原子にある非共有電子対を、中心原子との間の結合に移動させ、二重結合または三重結合(多重結合)を形成します。
    • 両端のO原子から、それぞれ非共有電子対を1対ずつCとの間に移動させます。
    • :Ö=C=Ö:
    • この最終的な構造では、Cの周りには4つの結合(電子8個)、両端のOの周りには結合電子4個+非共有電子4個(合計8個)となり、すべての原子がオクテットを満たしています。これがCO2​の正しいルイス構造式です。

3.3. 多重結合と配位結合

  • 単結合 (Single Bond): 1対 (2個) の共有電子対からなる結合。(例: H−H, C−C in エタン)
  • 二重結合 (Double Bond): 2対 (4個) の共有電子対からなる結合。(例: O=C=O, C=C in エチレン)
  • 三重結合 (Triple Bond): 3対 (6個) の共有電子対からなる結合。(例: N≡N in 窒素分子)
  • 一般に、結合の次数(単、二重、三重)が上がるほど、結合エネルギーは大きく(結合は強く)結合距離は短くなります。
  • 配位結合 (Coordinate Bond):
    • 通常の共有結合では、結合する2つの原子が1個ずつ電子を出し合います。
    • これに対し、共有電子対を一方の原子だけが提供して形成される共有結合を、特に配位結合といいます。
    • 電子対を提供する原子を供与体 (donor)、電子対を受け取る原子を受容体 (acceptor) といいます。
    • 例:アンモニウムイオン (NH4+​) の形成
      • アンモニア (NH3​) は、窒素原子上に1対の非共有電子対を持っています。
      • 水素イオン (H+) は、電子を全く持っておらず、空の1s軌道を持っています。
      • NH3​ が自身の非共有電子対を H+ に提供することで、N-H間の共有結合が形成されます。
      • H3​N:+H+→[H3​N→H]+
    • 配位結合は、一度形成されてしまえば、他の共有結合と全く区別がつきません。NH4+​ の4つのN-H結合は、すべて等価です。

3.4. 共鳴と形式電荷:ルイス構造式の限界を超える

ルイス構造式は非常に有用ですが、単一の構造式では分子の真の姿を表現できない場合があります。

  • 共鳴 (Resonance):
    • 例:オゾン (O3​): オゾンのルイス構造式を描くと、O=O−O と O−O=O という、二重結合の位置が異なる2つの等価な構造式が描けてしまいます。
    • 実験事実として、オゾンの2つのO-O結合は、距離も強さも全く同じであり、単結合と二重結合の中間的な性質を持つことが知られています。
    • 共鳴の概念: このような場合、分子の真の電子状態は、描画可能な複数のルイス構造式(共鳴構造式)の「重ね合わせ(ハイブリッド)」として表現される、と考えます。この仮想的な中間状態を共鳴混成体といいます。
    • 重要: 共鳴とは、2つの構造の間を行ったり来たりしているわけではありません。真の構造は、常にただ一つの共鳴混成体であり、それを我々のルイス構造式という不完全なモデルで表現するために、複数の構造式を便宜的に用いているのです。共鳴は、電子が特定の原子間に局在せず、分子全体に非局在化(広がっている)していることを示唆しています。
  • 形式電荷 (Formal Charge):
    • ある分子内で、各原子がどれだけ電荷を「形式的に」帯びているかを示すための便利な指標。分子全体の電荷を、あるルールに基づいて各原子に割り振ったものです。
    • 計算式:(形式電荷)=(孤立原子での価電子数)−(非共有電子の数)−21​(共有電子の数)
    • 意義:
      • 複数の共鳴構造式が描ける場合、各原子の形式電荷がなるべくゼロに近くなる構造や、電気陰性度の大きい原子上に負の形式電荷が乗る構造が、より現実の構造に近い(寄与が大きい)と考えられます。
      • 分子内の反応性の高い部位(正または負に帯電している箇所)を予測する手がかりになります。
      • 注意: 形式電荷は、あくまで帳簿上の電荷であり、原子が実際に帯びている電荷(部分電荷)とは異なります。

3.5. オクテット則の例外

オクテット則は強力な規則ですが、万能ではありません。いくつかの重要な例外が存在します。

  • 電子不足化合物 (Electron Deficient):
    • 中心原子の周りの電子が8個に満たない化合物。
    • 主に、ベリリウム(Be)やホウ素(B)のような、2族や13族の元素の化合物で見られます。
    • 例: 三フッ化ホウ素 (BF3​) では、中心のB原子の周りの電子は6個しかありません。Bは電子不足であるため、非共有電子対を持つ分子(例: NH3​)から電子を受け取りやすい性質(ルイス酸性)を示します。
  • 奇数電子分子 (Odd Electron):
    • 分子全体の価電子数が奇数であるため、どうしても不対電子(ペアになっていない電子)が残ってしまう分子。
    • 例: 一酸化窒素 (NO)、二酸化窒素 (NO2​) など。
    • 不対電子を持つ分子は、一般に反応性が高く、フリーラジカルと呼ばれます。
  • 拡大原子価殻 (Expanded Octet):
    • 中心原子の周りの電子が8個を超えている化合物。
    • この現象は、第3周期以降の元素でのみ見られます。これは、これらの元素が、価電子殻に空のd軌道を持っており、そのd軌道を利用して8個以上の電子を収容できるためです。
    • 例:
      • 五塩化リン (PCl5​): 中心Pの周りに電子10個。
      • 六フッ化硫黄 (SF6​): 中心Sの周りに電子12個。
      • リン酸イオン (PO43−​) や硫酸イオン (SO42−​) の共鳴構造を考える際にも、中心原子の形式電荷を小さくするために、拡大原子価殻を考慮することがあります。

4. 結合の個性を決める綱引き:電気陰性度と結合の極性

イオン結合(電子の完全な譲渡)と共有結合(電子の対等な共有)。これらは、化学結合の二つの理想的な極端な姿です。しかし、現実の化学結合の多くは、この両極端の間に位置する、いわば「グラデーション」のような性質を持っています。この結合の個性、すなわち共有された電子対がどれだけ一方の原子に偏っているかを決定づける普遍的な指標が、Module 2の最後に学んだ電気陰性度です。この章では、電気陰性度が結合の性質をどのように決定し、それが分子全体の性質にどう影響を与えるのかを探求します。

4.1. 結合の連続スペクトル(スペクトラム)

  • 電気陰性度の役割の再確認: 電気陰性度とは、原子が化学結合を形成したときに、共有電子対を自分の方に引きつける強さの度合いでした。この「綱引きの強さ」の差が、結合の性格を決定します。
  • 結合の三分類: 電気陰性度の差 (ΔEN) に基づいて、化学結合を以下のように分類することができます。
    1. 無極性共有結合 (Nonpolar Covalent Bond):
      • 形成電気陰性度が等しい原子同士(同じ種類の原子間)の結合。
      • 電子の状態: 共有電子対は、2つの原子核のちょうど中間に、完全に公平に分布します。電子の偏りは全くありません。
      • 電気陰性度の差: ΔEN=0
      • : H−H, Cl−Cl, O=O, N≡N
    2. 極性共有結合 (Polar Covalent Bond):
      • 形成電気陰性度が異なる原子同士(異なる種類の原子間)の結合。
      • 電子の状態: 共有電子対は、電気陰性度の大きい方の原子に、より強く引きつけられます。これにより、電子雲の分布に偏りが生じます。
      • 電荷の偏り(分極): 電子対が引き寄せられた側の原子は、本来の中性状態よりも電子が過剰になるため、わずかに負の電荷を帯びます。これをデルタ・マイナス (δ−) の電荷と呼びます。逆に、電子対を奪われ気味になった側の原子は、わずかに正の電荷を帯びます。これをデルタ・プラス (δ+) の電荷と呼びます。このように電荷が偏った状態を、結合が分極しているといいます。
      • 電気陰性度の差: 0<ΔEN≲1.7 (この数値はあくまで目安)
      • : H−Cl (Clの方が電気陰性度が大きいので Hδ+−Clδ−), H−O (Hδ+−Oδ−), C=O(Cδ+=Oδ−)
    3. イオン結合 (Ionic Bond):
      • 形成電気陰性度の差が非常に大きい原子同士(典型的な金属と非金属)の結合。
      • 電子の状態: 共有電子対の偏りが極限まで進み、電子が電気陰性度の小さい原子から大きい原子へ、ほぼ完全に移動したと見なせる状態。
      • 電荷の状態: δ+ や δ− といった部分的な電荷ではなく、完全な整数電荷(+1,−1,+2,−2 など)を持つ陽イオンと陰イオンが形成されます。
      • 電気陰性度の差: ΔEN≳1.7 (あくまで目安であり、絶対的な境界線ではありません)
      • : Na+Cl−, Mg2+O2−

このように、化学結合は「完全な共有」から「部分的な共有(偏り)」を経て「完全な譲渡」へと至る、連続的なスペクトルとして捉えることが、より現実に即した理解と言えます。

4.2. 双極子モーメント:結合の極性の大きさを測る

結合の極性、すなわち電荷の偏りの度合いは、「双極子モーメント」という物理量で定量的に表すことができます。

  • 双極子 (Dipole): 大きさが等しく符号が反対の二つの電荷(+q と −q)が、距離 r だけ離れて存在している状態のこと。
  • 双極子モーメント (μ):
    • 定義: 結合の極性の大きさと方向を示すベクトル量。
    • 大きさ: μ=q×r。電荷の分離の大きさと、その距離の積で表されます。結合の極性が大きいほど、双極子モーメントの大きさも大きくなります。
    • 方向: ベクトルの向きは、正の電荷から負の電荷へと向かう方向と定義されます。化学では、習慣的にプラスの側(δ+)に十字の尾翼をつけた矢印(+→)で表します。
    • 例:HCl分子:Hδ+Clδ−​この矢印は、結合電子がHからClの方向へ偏っていることを視覚的に示しています。

4.3. 分子全体の極性:形がすべてを決める

個々の化学結合に極性があっても、分子全体として極性を持つ(極性分子)か、持たない(無極性分子)かは、分子の立体構造に依存します。分子全体の極性は、分子内に存在するすべての結合モーメントのベクトル和として決まります。

  • 無極性分子になる場合:
    • ケース1:結合自体が無極性: H2​ や Cl2​ のように、無極性共有結合のみからなる二原子分子は、当然ながら無極性分子です。
    • ケース2:結合は極性だが、ベクトル和がゼロ: 分子内に極性結合が存在しても、分子が対称的な形をしているために、各結合の双極子モーメントが互いに完全に打ち消し合ってしまう場合があります。
      • 例1:二酸化炭素 (CO2​)
        • 結合:2つの C=O 結合は、Oの電気陰性度が大きいため、強い極性を持っています (Cδ+=Oδ−) 。双極子モーメントは、Cから両側のOに向かう2つのベクトル(←C→)となります。
        • 分子の形:直線形
        • ベクトル和:大きさが同じで向きが正反対の2つのベクトルは、完全に打ち消し合います。したがって、CO2​ は無極性分子です。
      • 例2:メタン (CH4​)
        • 結合:C-H結合はわずかに極性を持ちます。
        • 分子の形:正四面体形
        • ベクトル和:4つのC-H結合のモーメントは、正四面体の中心から4つの頂点へ向かいます。この対称性の高い構造では、4つのベクトルは完全に打ち消し合い、ベクトル和はゼロになります。したがって、CH4​ は無極性分子です。
      • その他: 三フッ化ホウ素 (BF3​, 平面三角形)、四塩化炭素 (CCl4​, 正四面体)、六フッ化硫黄 (SF6​, 正八面体) なども、この理由で無極性分子となります。
  • 極性分子になる場合:
    • 分子内の結合モーメントのベクトル和が、ゼロにならずに残る場合、その分子は極性を持ちます。これは通常、分子が非対称な形をしているために起こります。
      • 例1:水 (H2​O)
        • 結合:2つの O-H 結合は、強い極性を持っています (Oδ−−Hδ+)。
        • 分子の形:折れ線形
        • ベクトル和:2つの結合モーメントは、約104.5°の角度をなしています。これらのベクトルを合成すると、H原子の間からO原子の方向へと向かう、ゼロではない合成ベクトルが残ります。したがって、H2​O は強い極性分子です。
      • 例2:アンモニア (NH3​)
        • 結合:3つの N-H 結合は極性を持ちます (Nδ−−Hδ+)。
        • 分子の形:三角錐形
        • ベクトル和:3つの結合モーメントのベクトル和は、H原子が作る底面からN原子の頂点へと向かう合成ベクトルとなり、ゼロにはなりません。したがって、NH3​ は極性分子です。
      • その他: 塩化水素 (HCl)、クロロホルム (CHCl3​) なども極性分子です。CHCl3​ は、メタンと同じ四面体構造ですが、C-H結合と3つのC-Cl結合の極性が異なるため、ベクトルが打ち消し合わないのです。

4.4. 分子極性の重要性

分子が極性を持つか持たないかは、その物質の物理的・化学的性質に絶大な影響を及ぼします。これは、次のModule 4で学ぶ「分子間力」の主役となるからです。

  • 融点・沸点: 極性分子は、分子間に静電気的な引力(双極子-双極子相互作用)が働くため、無極性分子に比べて分子同士が強く引きつけ合います。その結果、一般に融点や沸点が高くなる傾向があります。
  • 溶解性: 「似たものは似たものを溶かす (Like dissolves like.)」という大原則があります。
    • 極性溶媒(例:水、エタノール)は、他の極性分子イオン性物質をよく溶かします。
    • 無極性溶媒(例:ヘキサン、ベンゼン)は、他の無極性分子をよく溶かします。
    • 水に油が溶けないのは、水が極性分子、油が無極性分子という、性質の大きな違いが原因なのです。

5. 分子のアーキテクチャ:原子価殻電子対反発(VSEPR)理論

分子の極性を判断するためには、その分子の立体構造、すなわち「形」を知ることが不可欠でした。では、分子の形はどのようにして決まるのでしょうか? この問いに、驚くほどシンプルかつ強力な予測モデルを提供してくれるのが、原子価殻電子対反発(VSEPR)理論 (Valence Shell Electron Pair Repulsion theory) です。

5.1. VSEPR理論の基本原理

  • 根底にある考え方: この理論の根底にあるのは、「負の電荷を持つ電子対は、互いに静電気的に反発し合うため、中心原子の周りで可能な限り互いに遠ざかり、反発が最小となるような配置をとる」という、非常に直感的なアイデアです。
  • 主役は「電子対」: VSEPR理論では、共有電子対非共有電子対を区別せず、中心原子の周りの価電子対すべてを、反発し合う「電子のグループ」として考えます。
  • 電子領域 (Electron Domain): 予測を容易にするため、電子対を「電子領域」という概念で捉えます。
    • 単結合、二重結合、三重結合は、いずれも2原子間を結ぶ方向としては1つの方向なので、それぞれ 1つの電子領域として数えます。
    • 非共有電子対も、1つの電子領域として数えます。

5.2. 分子の形を予測する手順

VSEPR理論を使えば、以下の手順で機械的に分子の形を予測できます。

  1. 中心原子を特定し、そのルイス構造式を描く。
  2. 中心原子の周りの電子領域の総数を数える。 (共有電子領域数 + 非共有電子対数)
  3. 電子領域の総数に基づいて、電子領域の基本的な幾何学的配置(電子領域配置)を決定する。 (この配置は、反発を最小にする理想的な形です)
  4. 非共有電子対の位置を無視して、原子の配置だけを見ることで、最終的な分子の形(分子構造)を決定する。

5.3. 電子領域の数と分子の形

電子領域の総数によって、基本となる電子領域配置と、そこから派生する分子の形が決まります。

電子領域の総数電子領域配置共有領域非共有領域分子構造結合角 (理想)
2直線形20直線形180°CO2​,BeCl2​
3平面三角形30平面三角形120°BF3​,SO3​
21折れ線形< 120°SO2​
4四面体形40正四面体形109.5°CH4​,SiCl4​
31三角錐形< 109.5°NH3​,PCl3​
22折れ線形< 109.5°H2​O,H2​S
5三方両錐形50三方両錐形90°, 120°PCl5​
41シーソー形SF4​
32T字形ClF3​
23直線形I3−​
6八面体形60正八面体形90°SF6​
51四角錐形BrF5​
42平面四角形XeF4​

5.4. 非共有電子対の強い反発とその影響

  • なぜ非共有電子対はより強く反発するのか?:
    • 共有電子対: 2つの原子核に引きつけられているため、その存在領域は比較的細長く、限定されています。
    • 非共有電子対: 1つの原子核にしか引きつけられていないため、その電子雲はより広く、ずんぐりと広がる傾向があります。
  • 反発力の強さの順序: この空間的な広がりの違いから、電子対間の反発力には以下の順序が生まれます。(非共有 – 非共有) > (非共有 – 共有) > (共有 – 共有)
  • 結合角の歪み: この反発力の違いが、分子の形を理想的な角度からわずかに「歪ませる」原因となります。
    • メタン (CH4​): 共有電子対が4つ。反発力はすべて等しいため、理想的な正四面体となり、結合角は**109.5°**です。
    • アンモニア (NH3​): 共有3つ、非共有1つ。(非共有-共有)の反発が(共有-共有)の反発より強いため、非共有電子対が3つのN-H結合を押しつぶすように作用します。その結果、H-N-Hの結合角は109.5°より小さい**約107°**になります。
    • 水 (H2​O): 共有2つ、非共有2つ。最も強い(非共有-非共有)の反発と、(非共有-共有)の反発が働くため、H-O-H結合はさらに強く押しつぶされます。その結果、結合角はさらに小さい**約104.5°**になります。

VSEPR理論は、このように非常にシンプルな原理に基づいて、驚くほど多様な分子の形を系統的に予測し、説明することができる、化学における強力な思考ツールなのです。


6. 軌道のハイブリッド:混成軌道理論による結合の説明

VSEPR理論は分子の形をうまく予測しますが、「なぜ」電子対がそのように配置されるのか、その量子力学的な根拠は示していません。また、原子の持つs軌道(球形)やp軌道(亜鈴形)から、メタンの4つの等価な正四面体状の結合や、エチレンの平面構造がどのようにして形成されるのかを直接説明することは困難です。このギャップを埋めるために、ライナス・ポーリングによって提唱されたのが混成軌道理論 (Hybrid Orbital Theory) です。

6.1. なぜ「混成」という考え方が必要なのか?

  • メタン (CH4​) のジレンマ:
    • 実験事実: メタンは、4つのC-H結合がすべて等価(同じ長さ、同じ強さ)であり、分子はH-C-H結合角が109.5°の完璧な正四面体形をしています。
    • 原子価結合理論の困難: 炭素原子の価電子配置は 2s22p2 です。このまま結合を考えると、2つあるp軌道の電子(px​,py​)が2つのH原子と結合し、互いに90°の角度をなす2本の結合ができます。これでは4つの等価な結合も、正四面体の形も説明できません。
  • ポーリングの解決策: この矛盾を解決するために、ポーリングは「原子が結合を形成する直前に、価電子殻にあるエネルギーの異なる複数の原子軌道を数学的に混ぜ合わせ(混成)、新しい、等価で、特定の方向を向いた混成軌道を形成する」という、画期的なモデルを提案しました。

6.2. sp³混成軌道と正四面体構造

  • 形成プロセス: 炭素原子の中心にある1つの2s軌道3つの2p軌道 (px​,py​,pz​) を混ぜ合わせます。
  • 結果: エネルギーも形も等価な、4つの新しいsp³混成軌道が生成されます。
    • 「sp³」という名前は、s軌道1つとp軌道3つから作られたことを意味します。
  • 形状と配向: 各sp³混成軌道は、s軌道の性質とp軌道の性質を併せ持ち、片方のローブが非常に大きくなった非対称な亜鈴形をしています。そして、これら4つの軌道は、互いの反発を最小にするため、正四面体の4つの頂点方向を向きます(軌道間の角度は109.5°)。
  • メタン (CH4​) の結合形成:
    1. 炭素原子が4つのsp³混成軌道を形成し、それぞれに1個ずつ電子が入ります。
    2. 4つの水素原子の1s軌道が、それぞれ炭素の4つのsp³混成軌道と正面から重なり合い(軸上重なり)、4つの等価なσ(シグマ)結合を形成します。
    3. これにより、4つのC-H結合が等価であることと、分子が正四面体形であることが見事に説明できます。
  • 応用: エタン(C2​H6​)のC-C単結合や、アンモニア(NH3​)、水(H2​O)の結合も、sp³混成軌道を用いて説明されます。NH3​やH2​Oでは、4つのsp³混成軌道の一部を非共有電子対が占めている、と解釈します。

6.3. sp²混成軌道と平面三角形構造

  • エチレン (C2​H4​) の謎: エチレンは、すべての原子が同一平面上にあり、H-C-HやH-C-Cの結合角が約120°の平面構造をとります。これはsp³混成では説明できません。
  • 形成プロセス1つの2s軌道2つの2p軌道(例: px​,py​)を混ぜ合わせます。
  • 結果3つの新しいsp²混成軌道が生成され、混成に関与しなかった1つのp軌道(例: pz​)がそのまま残ります。
  • 形状と配向: 3つのsp²混成軌道は、同一平面上で互いに120°の角度をなして、平面三角形の頂点方向を向きます。残ったp軌道は、この平面に対して垂直な方向を向いています。
  • エチレン (C2​H4​) の結合形成:
    1. 2つの炭素原子が、それぞれsp²混成軌道を形成します。
    2. まず、一方の炭素のsp²混成軌道と、もう一方の炭素のsp²混成軌道が正面から重なり、C-C間のσ結合を1つ形成します。
    3. 各炭素に残った2つずつのsp²混成軌道が、それぞれ2つずつの水素原子の1s軌道とσ結合を形成します。ここまでで、分子の骨格(シグマ骨格)が完成します。
    4. 次に、各炭素原子に残っていた、互いに平行なp軌道が、σ結合の軸の側面で重なり合います。この側面での重なりによって形成される、比較的弱い結合がπ(パイ)結合です。
  • 二重結合の本質: C=C二重結合は、このようにして形成された「1本の強いσ結合」と「1本の弱いπ結合」の組み合わせから成り立っています。π結合は、分子平面の上下に電子雲が広がった形をしており、このπ結合があるために、C=C結合は自由に回転することができません(これが幾何異性体を生む原因です)。

6.4. sp混成軌道と直線構造

  • アセチレン (C2​H2​) の謎: アセチレンは、4つの原子がすべて一直線上に並んだ、結合角が180°の直線構造をとります。
  • 形成プロセス1つの2s軌道1つの2p軌道(例: px​)を混ぜ合わせます。
  • 結果2つの新しいsp混成軌道が生成され、混成に関与しなかった2つのp軌道(例: py​,pz​)がそのまま残ります。
  • 形状と配向: 2つのsp混成軌道は、互いに180°の角度をなして、一直線上に反対向きに突き出しています。残った2つのp軌道は、この直線に対して互いに垂直な平面内にあります。
  • アセチレン (C2​H2​) の結合形成:
    1. 炭素原子間でsp混成軌道同士が重なり、C-C間のσ結合を1つ形成します。
    2. 各炭素の残ったsp混成軌道が、水素原子の1s軌道とσ結合を形成します。
    3. 各炭素に残っていた、互いに平行な2組のp軌道(py​同士, pz​同士)がそれぞれ側面で重なり合い、2つのπ結合を形成します。
  • 三重結合の本質: C≡C三重結合は、「1本の強いσ結合」と「2本の弱いπ結合」の組み合わせから成り立っています。この2つのπ結合は、σ結合を取り囲むように、円筒状の電子雲を形成しています。

混成軌道理論は、VSEPR理論による分子の形の予測を、原子軌道の重なりという物理的な描像で裏付ける、強力なモデルなのです。


7. より本質的な結合描像へ:分子軌道(MO)法入門

混成軌道を含む原子価結合理論(VB法)は、分子の形を直感的に理解する上で絶大な成功を収めました。しかし、この理論にも説明できない現象があります。その最も有名な例が、酸素分子 (O2​) の磁性です。O2​のルイス構造式は O=O であり、すべての電子がペアになっているように見えます。したがって、VB法ではO2​は磁場に反発する「反磁性」を示すと予測されます。しかし、実験では液体酸素は磁石に引きつけられる「常磁性」を示すのです。この謎を解く鍵が、より高度で本質的な結合理論である分子軌道(MO)法 (Molecular Orbital Theory) です。

7.1. MO法の基本思想:分子は分子の軌道を持つ

  • VB法とMO法の違い:
    • 原子価結合理論 (VB法): 結合を2つの原子の間に局在したものとして捉えます。まず個々の原子の軌道(混成軌道など)を考え、それらが重なり合うことで結合が形成されると考えます。
    • 分子軌道法 (MO法): 結合電子は特定の原子間に束縛されるのではなく、分子全体にわたって広がる「分子軌道」に属していると考えます。原子軌道(AO)が出発点であることは同じですが、それらを最初にすべて組み合わせて、分子全体をカバーする新しい軌道(MO)を作ってしまう、というアプローチです。

7.2. 分子軌道の形成:結合性軌道と反結合性軌道

  • LCAO近似: 分子軌道は、原子軌道の**線形結合(Linear Combination of Atomic Orbitals)**で近似できる、というのがMO法の基本です。簡単に言えば、原子軌道の「足し算」と「引き算」で分子軌道を作る、ということです。
  • 例:水素分子 (H2​):
    • 2つの水素原子の1s原子軌道(1sA​,1sB​)を考えます。
    • 足し算(同位相の重なり): 2つの波を強め合うように重ねると、2つの原子核の間に電子雲が盛り上がり、電子が両方の原子核に強く引きつけられるようになります。これにより系は安定化します。この新しい軌道を結合性分子軌道 (Bonding MO) といい、σ結合を形成するので $\sigma_{1s}$軌道と呼びます。元のAOよりエネルギーは低くなります。
    • 引き算(逆位相の重なり): 2つの波を打ち消し合うように重ねると、2つの原子核の間に電子が存在できない面()ができてしまいます。電子は原子核間に存在できず、反発が強まり、系は不安定化します。この新しい軌道を反結合性分子軌道 (Antibonding MO) といい、アスタリスク()をつけて **$\sigma^_{1s}$軌道と呼びます。元のAOよりエネルギーは高く**なります。
  • MOエネルギー準位図: このプロセスをエネルギーの上下関係で示した図がMOエネルギー準位図です。両端に元のAOのエネルギー準位を、中央に生成したMOのエネルギー準位を描きます。

7.3. 結合次数と分子の安定性

  • 電子の充填: 作られた分子軌道に、構成原子が持っていた価電子の合計を、構成原理、パウリの排他原理、フントの規則に従って、エネルギーの低い方から詰めていきます。
  • 結合次数 (Bond Order): 分子内の結合の強さを示す指標。以下の式で計算されます。結合次数 = 21​ [ (結合性MOの電子数) – (反結合性MOの電子数) ]
  • 結合次数の意味:
    • 結合次数 > 0: 結合性電子が反結合性電子より多いため、分子は安定に存在できる。
    • 結合次数 = 0: 結合による安定化がなく、分子は形成されない。(例: He2​ 分子は存在しない)
    • 結合次数 = 1, 2, 3: それぞれ、単結合、二重結合、三重結合に相当すると考えられます。

7.4. 酸素分子の常磁性の説明

では、このMO法を使ってO2​分子を見てみましょう。

  • 電子配置: 酸素原子(O)の価電子配置は 2s22p4 です。O2​分子では、合計12個の価電子をMOに詰めていきます。
  • p軌道からできるMO: 2つの原子のp軌道からは、σ結合を作る $\sigma_{2p}$軌道と、π結合を作る2つの縮重した $\pi_{2p}$軌道、そしてそれらに対応する反結合性軌道($\sigma^*_{2p}, \pi^*_{2p}$)ができます。
  • エネルギー準位と電子充填: O2​ の場合、エネルギー準位は σ2s​<σ2s∗​<σ2p​<π2p​<π2p∗​<σ2p∗​ の順になります。ここに12個の電子を詰めていくと…
    • σ2s2​, $\sigma^*_{2s}^2$, σ2p2​, π2p4​ ここまでで10個の電子が入ります。
    • 残りの2個の電子は、次にエネルギーの高い $\pi^*_{2p}$軌道 に入ります。この $\pi^*_{2p}$軌道は2つ縮重しているため、**フントの規則**に従い、2つの電子はスピンを平行に保ったまま、**別々の $\pi^*_{2p}$ 軌道に1個ずつ**入ります。
  • 結論: この結果、O2​分子は、最もエネルギーの高い軌道に2個の不対電子を持つことになります。不対電子を持つ物質は常磁性を示すため、MO法はVB法では説明できなかったO2​の常磁性を見事に説明することができるのです。
  • 結合次数: (8−4)/2=2 となり、O=O二重結合を持つという事実とも一致します。

MO法は、VB法に比べて抽象的で難解ですが、分子の電子的性質や光との相互作用(スペクトル)などを議論する上で不可欠な、より本質的で強力な理論なのです。


8. 電子の海に浮かぶ原子核:金属結合と金属の性質

三大結合の最後を飾るのは、金属元素の原子同士を結びつけている金属結合 (Metallic Bond) です。これは、イオン結合や共有結合とは全く異なる、独特のメカニズムに基づいています。金属が示す、あの特有の輝きや、叩くと延びるしなやかさ、そして電気をよく通す性質は、すべてこの金属結合に由来しています。

8.1. 金属結合のモデル:自由電子の海

  • 金属原子の特徴: 金属元素は、周期表の左側および中央に位置し、以下のような共通の特徴を持っています。
    • 価電子の数が少ない
    • イオン化エネルギーが小さい(価電子が原子核から比較的離れており、束縛が緩い)。
    • 価電子殻には、電子が入っていない空の原子軌道が多く存在する。
  • 自由電子モデル (Electron Sea Model):
    • これらの特徴から、金属の固体中では、個々の原子は価電子を容易に手放し、金属陽イオンとなります。
    • 手放された価電子は、もはや特定の一個の原子に属することなく、多数の金属陽イオンが規則正しく並んだ結晶格子全体を、まるで気体分子のように自由に動き回ります。
    • この、結晶全体に非局在化し、自由に動き回る電子の集団を「自由電子 (Free Electron)」と呼び、その様子を「電子の海」と比喩します。
    • 金属結合とは、この負の電荷を持つ「電子の海」と、その海に浮かぶ多数の金属陽イオンとの間の、静電気的な引力である、と考えるのが自由電子モデルです。

8.2. 金属の性質と自由電子モデルによる説明

金属が示す様々な巨視的な性質は、この「自由電子」の存在によって、驚くほど統一的に説明することができます。

  • 高い電気伝導性と熱伝導性:
    • 電気伝導性: 金属の両端に電圧をかけると、「自由電子」の海全体が、負の電荷の担い手として一斉に陽極の方向へと移動します。この電子の流れが電流です。自由電子が潤沢に存在するため、金属は優れた電気伝導体となります。
    • 熱伝導性: 金属の一端を熱すると、その部分の自由電子が熱エネルギーを得て運動エネルギーを増大させ、高速で結晶内を移動して他の電子や格子と衝突することで、熱を素早く反対側へと伝えます。
  • 展性と延性:
    • 展性 (Malleability): 叩くと薄く広がる性質。
    • 延性 (Ductility): 引っ張ると長く伸びる性質。
    • 理由: 金属結晶に外力が加わって原子の位置がずれても、「電子の海」が接着剤や潤滑剤のような役割を果たし、金属陽イオン同士が直接反発するのを防ぎます。結合は維持されたまま、原子の層が滑るようにして変形できるため、金属は破壊されずに形を変えることができるのです。これは、少しずれただけで同符号イオンの反発で割れてしまうイオン結晶(劈開)とは対照的です。
  • 金属光沢 (Metallic Luster):
    • 理由: 金属の表面には、様々なエネルギー状態をとりうる自由電子がびっしりと存在しています。そこに可視光のような電磁波が当たると、自由電子はその光のエネルギーを吸収して、より高いエネルギー準位へと励起されます。しかし、励起状態は不安定なため、すぐに元の低いエネルギー準位に戻ります。その際、吸収した光とほぼ同じエネルギー(同じ波長)の光を再放出します。この一連の吸収と再放出があらゆる波長の可視光に対して起こるため、金属の表面は光をよく反射し、特有の輝きを示すのです。

8.3. バンド理論入門:より現代的な金属結合像

自由電子モデルは金属の性質を定性的にうまく説明しますが、なぜある物質は導体で、ある物質は半導体、ある物質は絶縁体なのか、という違いを説明することはできません。この問いに答えるのが、MO法を固体全体に拡張したようなバンド理論 (Band Theory) です。

  • エネルギーバンドの形成: 孤立した原子では、電子のエネルギー準位はとびとびの値をとります。しかし、金属結晶のようにN個の原子が巨大な数(~$10^{23}$個)集まると、パウリの排他原理により、それぞれの原子の軌道がわずかに異なるエネルギー準位に分裂します。この無数のエネルギー準位が、ほぼ連続的なエネルギーの「帯(バンド)」を形成します。
  • 価電子帯と伝導帯:
    • 価電子帯 (Valence Band): 価電子によって占められているエネルギーバンド。
    • 伝導帯 (Conduction Band): 価電子帯のすぐ上にある、通常は電子がいない空のエネルギーバンド。
  • 導体・半導体・絶縁体の違い:
    • 導体(金属): 価電子帯と伝導帯がエネルギー的に重なっているか、あるいは価電子帯が半分しか満たされていない状態。そのため、電子はごくわずかなエネルギーで価電子帯から伝導帯へ、あるいは価電子帯内の空の準位へ移動でき、「自由電子」として振る舞うことができます。
    • 絶縁体(不導体): 価電子帯は電子で完全に満たされており、伝導帯との間に**禁制帯(バンドギャップ)**と呼ばれる、電子が存在できない非常に広いエネルギー領域があります。電子がこの大きなギャップを乗り越えて伝導帯に移ることはほぼ不可能なため、電気を通しません。
    • 半導体 (例: Si, Ge): 絶縁体と同様に禁制帯がありますが、その幅が比較的小さい。そのため、熱や光によってエネルギーを与えられると、一部の電子が禁制帯を飛び越えて伝導帯に移動でき、電気伝導性を示すようになります。

Module 3:結論と次への展望

このModule 3では、原子たちがどのようにして互いに手を結び、この世界の物質を形作っているのか、その根源的なメカニズムである「化学結合」について探求しました。

  1. 三大化学結合: 私たちは、原子がオクテット則という安定性を求めて、電子を完全に譲渡する(イオン結合)、公平または不公平に共有する(共有結合)、あるいは集団全体で**共有する(金属結合)**という、三者三様の戦略をとることを学びました。そして、これらの結合様式が、イオン結晶の硬さやもろさ、金属のしなやかさや輝きといった、物質のマクロな性質を直接的に決定づけていることを見ました。
  2. 分子の設計図と立体構造: 共有結合でできた分子の世界では、ルイス構造式が原子の結びつきを示す基本設計図となり、VSEPR理論が電子対の反発というシンプルな原理から、その分子が三次元空間でどのような「形」をとるのかを力強く予測してくれることを学びました。メタンが正四面体、アンモニアが三角錐、水が折れ線形である理由を、私たちは今や論理的に説明できます。
  3. 結合の量子的描像: さらに私たちは、混成軌道理論によって、メタンの正四面体構造やエチレンの平面構造が、s軌道とp軌道の「ハイブリッド」によって形成されるσ結合とπ結合で巧みに説明されることを見ました。そして、分子軌道法というより本質的な理論に触れ、分子全体の軌道を考えることで、VB法では説明できなかった酸素の常磁性のような性質さえも解き明かせることを知りました。

結論として、原子の電子構造が化学結合の種類を決定し、化学結合が分子の立体構造を決定し、そして分子の立体構造がその分子の極性のような性質を決定づける、という壮大な因果の連鎖を、私たちは理解しました。

では、分子という一個の単位が完成した今、次の舞台では何が起こるのでしょうか? 水滴の中で、無数の水分子はどのように振る舞っているのか? なぜ氷は水に浮き、エタノールは水とよく混ざり合うのか? これらの問いに答えるためには、分子と分子の「間」に働く、より微弱だが決定的に重要な力、「分子間力」に目を向ける必要があります。

次の Module 4: 物質の状態と分子間力 では、このModule 3で学んだ分子の形と極性の知識を武器に、物質が集団として見せる気体、液体、固体という状態や、融点、沸点、溶解性といった性質が、分子間に働く力によってどのように支配されているのかを探求していきます。分子レベルのミクロな構造から、私たちの目に見えるマクロな世界の現象への橋渡しが、いよいよ始まるのです。

目次