【基礎 化学】Module 6: 化学熱力学

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本モジュールの学習目標

Module 5では、化学反応を「レシピ」として定量的に扱う化学量論と、反応をパターンで分類する「地図」を学びました。私たちは、ある反応で何がどれだけできるか、そしてその反応がどのような種類に属するかを分析する力を手に入れました。しかし、化学の世界には、さらに根源的な「なぜ?」が横たわっています。

「なぜ燃焼は熱を発するのに、氷が融けるときには周りから熱を奪うのか?」

「なぜ鉄は自然に錆びていくのに、錆が自然に鉄に戻ることはないのか?」

「ある反応が、そもそも自発的に起こるのか、それとも起こらないのか。もし起こるとすれば、どちらの方向に進むのか。それを予測することはできないだろうか?」

これらの問いに答えるのが、化学熱力学 (Chemical Thermodynamics) です。このモジュールでは、まず化学反応に伴う熱の出入り(反応熱)を精密に記述し、計算する方法を学びます。そして、反応の方向性を支配する二つの根源的な力、すなわち「より安定なエネルギー状態へ向かおうとする力(エンタルピー)」と「より無秩序で確率の高い状態へ向かおうとする力(エントロピー)」という概念を導入します。最終的に、この二つの力を統合した究極の判断基準であるギブズエネルギーを用いて、化学反応の自発性と方向性を予言する普遍的な法則を解き明かします。

このモジュールを修了するとき、あなたは単に反応のエネルギー計算ができるようになるだけではありません。自然界のあらゆる変化の背後で働く、エネルギーと秩序の壮大なせめぎ合いを理解し、物質世界の根本原理をより深く洞察する「眼」を手にしているはずです。


目次

1. 化学反応と熱エネルギー:熱化学方程式とヘスの法則

化学反応が起こるとき、多くの場合、熱の放出または吸収が伴います。この熱エネルギーは、化学結合のエネルギーが形を変えたものであり、反応の性質を特徴づける重要な量です。この章では、この反応熱を定量的に扱い、計算するための基本的なルールとテクニックを学びます。

1.1. 発熱反応と吸熱反応:エネルギーの出入り

  • 反応熱 (Heat of Reaction): 化学反応に伴って出入りする熱量のこと。
  • 発熱反応 (Exothermic Reaction): 反応によって熱が外部に放出される反応。
    • エネルギー状態(生成物のエネルギー) < (反応物のエネルギー)。系はより安定な、エネルギーの低い状態へと変化します。その差額分のエネルギーが、熱として外部に放出されます。
    • エネルギー図: 反応物から生成物へ、下り坂を下るようなイメージで描かれます。
    • : 燃焼、中和、金属の酸化(さび)、呼吸など。
  • 吸熱反応 (Endothermic Reaction): 反応が進むために外部から熱を吸収する必要がある反応。
    • エネルギー状態(生成物のエネルギー) > (反応物のエネルギー)。系はより不安定な、エネルギーの高い状態へと変化します。そのためには、外部からエネルギーを供給してもらう必要があります。
    • エネルギー図: 反応物から生成物へ、上り坂を上るようなイメージで描かれます。
    • : 多くの熱分解反応、氷の融解、塩化アンモニウムの溶解、光合成など。

1.2. 熱化学方程式:熱の情報を含む化学式

反応熱を化学反応式の中に組み込んで、エネルギーの出入りを明記した式を熱化学方程式 (Thermochemical Equation) といいます。これには、通常の化学反応式とは異なる、いくつかの厳密なルールがあります。

例:メタン(CH_4)の燃焼熱は 891 kJ/mol である。CH4​(気)+2O2​(気)=CO2​(気)+2H2​O(液)+891 kJ

熱化学方程式の書き方のルール:

  1. 右辺に反応熱を記述する:
    • 発熱反応の場合は + (正の符号) で熱量を記述します。(熱が生成物の一部として出てくるイメージ)
    • 吸熱反応の場合は – (負の符号) で熱量を記述します。(熱が反応物の一部として消費されるイメージ)
    • ※注意: 後述するエンタルピー変化(DeltaH)の符号とは逆になるため、混同しないように注意が必要です。
  2. 物質の状態を明記する:
    • 同じ物質でも、気体、液体、固体といった状態によってエネルギーが異なります。そのため、各物質の化学式の後に、**(気)、(液)、(固)**のように状態を必ず明記します。水溶液の場合は (aq)と書きます。
  3. 着目する物質の係数を1にする:
    • 反応熱は、通常「〇〇 1 mol あたり」で定義されます。熱化学方程式では、その定義の基準となる物質の係数が1になるように、式全体の係数を調整します。分数係数を用いることも許されます。

1.3. 様々な反応熱の種類

反応熱は、その反応の種類に応じて、固有の名前で呼ばれます。定義を正確に理解することが重要です。

  • 生成熱 (Heat of Formation):
    • 定義成分元素の単体から、化合物 1 mol が生成するときに出入りする熱量。
    • 単体: その元素の、標準状態(25℃, 1 atm)で最も安定な状態の単体を指します。(例: 酸素ならO_2(気)、炭素ならC(黒鉛))
    • 例: 二酸化炭素の生成熱C(黒鉛)+O2​(気)=CO2​(気)+394 kJ
  • 燃焼熱 (Heat of Combustion):
    • 定義物質 1 mol が、完全燃焼するときに発生する熱量。(燃焼は必ず発熱反応です)
    • 完全燃焼: CはCO_2に、HはH_2O(液)に、SはSO_2になるまで燃焼すること。
    • 例: メタンの燃焼熱CH4​(気)+2O2​(気)=CO2​(気)+2H2​O(液)+891 kJ
  • 中和熱 (Heat of Neutralization):
    • 定義塩基が中和して、水 1 mol が生成するときに発生する熱量。(中和も必ず発熱反応です)
    • 強酸と強塩基の中和: 酸や塩基の種類によらず、その熱量はほぼ一定で、約 56.5 kJ/mol となります。これは、反応の本質が H+(aq)+OH−(aq)=H_2O(液) であり、他のイオンは反応に関与しない「傍観イオン」であるためです。
    • 弱酸や弱塩基の場合: 中和熱は56.5 kJより小さくなります。これは、中和で発生した熱の一部が、弱酸や弱塩基の電離(吸熱過程)のために使われてしまうからです。
  • 溶解熱 (Heat of Solution):
    • 定義物質 1 mol を、多量の溶媒に溶解したときに出入りする熱量。発熱の場合も吸熱の場合もあります。
    • 例: 濃硫酸の溶解熱H2​SO4​(液)+aq=H2​SO4​aq+95.3 kJ

1.4. ヘスの法則(総熱量保存の法則)

測定が困難な反応熱を、測定が容易な他の反応熱のデータから計算するための、極めて強力な法則です。

  • 法則の内容:「化学反応において、反応の経路が異なっても、反応物と生成物が同じであれば、反応全体の熱量の出入り(反応熱)は常に一定である。」
  • 法則の根拠: 反応熱が、反応物と生成物のエネルギー準位のだけで決まる「状態量」であることに由来します。山の頂上と麓の標高差が、どの登山ルートを通っても変わらないのと同じです。
  • ヘスの法則を用いた計算: ヘスの法則を利用すると、複数の熱化学方程式を、あたかも連立方程式のように足したり引いたりして、目的の反応の熱化学方程式を導き出すことができます。

計算手法1:エネルギー図を用いる方法

エネルギーの高低関係を視覚的に図に描いて、エネルギー差から反応熱を求める方法。直感的で理解しやすいです。

  • 思考例題: 炭素(黒鉛)の燃焼熱 (394 kJ/mol) と、一酸化炭素の燃焼熱 (283 kJ/mol) から、一酸化炭素の生成熱 Q [kJ/mol] を求めよ。
    1. エネルギー準位の序列を決める:
      • 燃焼は発熱反応なので、燃焼するほどエネルギーは低くなる。
      • 最もエネルギーが高いのは、燃焼前の単体など (C,O_2)。
      • 次に、不完全燃焼生成物 (CO)。
      • 最もエネルギーが低いのは、完全燃焼生成物 (CO_2)。
    2. エネルギー図を描く: ↑ エネルギー高 │ │ C(黒鉛) + O2(気) │ │ │ │ Q [kJ] (COの生成熱) │ └─────────→ CO(気) + 1/2 O2(気) │ │ │ │ 283 [kJ] (COの燃焼熱) │ 394 [kJ] └─────────→ CO2(気) │ (Cの燃焼熱) └───────────────────────────→
    3. エネルギー差の関係からQを求める:
      • 図から、一番上から一番下までのエネルギー差は、2つの経路で表せる。
      • 経路1: C+O_2rightarrowCO_2 の直接経路 rightarrow394 kJ
      • 経路2: C+O_2rightarrowCO+1/2O_2rightarrowCO_2 の経由経路 rightarrowQ+283 kJ
      • 両者は等しいので、394=Q+283
      • Q=394−283=111 kJ/mol

計算手法2:代数的に解く方法

与えられた熱化学方程式を連立方程式とみなし、文字式のように移項や加減を行って、目的の式を導き出す方法。機械的に計算できます。

  1. 与えられた情報を熱化学方程式で書く:
    • (a) C(黒鉛)+O_2(気)=CO_2(気)+394 kJ
    • (b) CO(気)+frac12O_2(気)=CO_2(気)+283 kJ
  2. 求めたい反応の熱化学方程式を書く:
    • (c) C(黒鉛)+frac12O_2(気)=CO(気)+Q kJ
  3. (a)と(b)を組み合わせて(c)を作る:
    • (c)式の左辺には C と 1/2O_2 が、右辺には CO が必要。
    • (a)式にはCがある。(b)式を移項すると CO(気)=CO_2(気)+283−frac12O_2 となり、右辺にCOを作れる。
    • (a)式から(b)式を引いてみる。(C+O_2)−(CO+frac12O_2)=(CO_2)−(CO_2)+(394−283)C+frac12O_2−CO=111C+frac12O_2=CO+111
    • これは、求めたい(c)式の形と一致する。よって、Q=111 kJ/mol。

1.5. 結合エネルギーと反応熱

  • 結合エネルギー (Bond Energy):
    • 定義気体状態の分子において、原子間の共有結合 1 mol を切断して、気体状態の原子にするのに必要なエネルギー。
    • これは必ず吸熱過程なので、結合エネルギーの値は常に正です。
  • 反応熱と結合エネルギーの関係:
    • 化学反応の本質は、「反応物分子の化学結合の切断」と「生成物分子の化学結合の形成」です。
      • 結合の切断:エネルギーを吸収する(吸熱)。
      • 結合の形成:エネルギーを放出する(発熱)。
    • したがって、反応熱は、これらのエネルギーの差し引き(収支)として計算できます。反応熱 = (切断される結合エネルギーの総和) – (生成する結合エネルギーの総和)
  • 計算例: メタンの燃焼熱を、結合エネルギーから求めてみよう。
    • 反応式: CH_4(気)+2O_2(気)rightarrowCO_2(気)+2H_2O(気)
    • 結合エネルギー [kJ/mol]: C-H=413, O=O=498, C=O=804, O-H=463
    • 切断される結合:
      • CH_4 の C-H 結合 times 4本:413times4=1652 kJ
      • O_2 の O=O 結合 times 2本:498times2=996 kJ
      • 吸収する総エネルギー = 1652+996=2648 kJ
    • 生成する結合:
      • CO_2 の C=O 結合 times 2本:804times2=1608 kJ
      • H_2O の O-H 結合 times 4本 (2times2):463times4=1852 kJ
      • 放出する総エネルギー = 1608+1852=3460 kJ
    • 反応熱: 2648−3460=−812 kJ
    • この値は、約812 kJの発熱反応であることを示しています。(※この計算ではH_2Oが気体の場合を計算しているため、液体の水が生成する場合の燃焼熱891 kJとは値が異なります)

2. 反応の方向性を支配する二大要因:エンタルピーとエントロピー

「発熱反応は自発的に進みやすい」というのは、多くの場合に当てはまる経験則です。しかし、氷が室温で自然に融けたり、食塩が水に勝手に溶けたりするように、吸熱的な変化が自発的に起こることも珍しくありません。これは、化学反応の方向性が、熱の出入りだけでは決まらないことを示唆しています。実は、反応の方向性を支配しているのは、「エネルギー」と「乱雑さ」という、二つの異なる要因なのです。

2.1. エンタルピー(H):熱の出入りを司るエネルギー

  • 熱力学第一法則(エネルギー保存則): 「エネルギーは、その形態を変えることはあっても、新たに創られたり消滅したりすることはない」という物理学の大原則。
  • 内部エネルギー (U): ある系(物質)が内部に蓄えているエネルギーの総和(分子の運動エネルギー、分子間力のポテンシャルエネルギー、化学結合のエネルギーなど)。
  • エンタルピー (H) の導入:
    • 多くの化学反応は、大気圧下のような定圧条件下で行われます。このような定圧条件下で系に出入りする熱量 Q_p は、エンタルピー (H) という新しい状態量の変化量 DeltaH として表されます。Qp​=ΔH
    • エンタルピー変化 (DeltaH):ΔH=(生成系のエンタルピー)−(反応系のエンタルピー)
    • これにより、これまで「反応熱」と呼んでいた現象論的な量を、「エンタルピー変化」という厳密な物理量として扱うことができるようになります。
  • DeltaH の符号と反応の種類:
    • 発熱反応: 系から外部へ熱が放出される (Q_p0)。系のエンタルピーは減少するので、$\\Delta H \< 0$ (負)
    • 吸熱反応: 系が外部から熱を吸収する ($Q\_p \< 0$)。系のエンタルピーは増大するので、DeltaH0(正)
    • 熱化学方程式の現代的な表記法: 現在では、反応熱を + Q kJ のように書く代わりに、エンタルピー変化 ΔH = -Q kJ のように、符号を逆にして付記する表記法が国際標準となっています。CH4​(気)+2O2​(気)=CO2​(気)+2H2​O(液)ΔH=−891 kJ

自然界の多くの現象は、エンタルピーがより低い状態、すなわち**DeltaHが負になる方向**へ進みやすい傾向があります。これは、物がより安定な状態へ向かおうとする自然な欲求と解釈できます。

2.2. エントロピー(S):乱雑さ・無秩序さを司る指標

しかし、エンタルピーの減少だけが自発変化の駆動力ではありません。もう一つの、そしてしばしばエンタルピーと対立する重要な駆動力がエントロピー (S) です。

  • エントロピーとは何か?:
    • 直感的な説明:エントロピーは、系の**「乱雑さ」「無秩序さ」の度合い**を示す状態量です。エントロピーが大きいほど、その系はより乱雑で、無秩序であるとされます。
    • 統計熱力学的な本質:より厳密には、エントロピーは、その系がとりうる**状態の数(場合の数)**の多さの指標です。オーストリアの物理学者ボルツマンは、エントロピーSと状態の数Wの間に、S=klnW という関係式を見出しました(kはボルツマン定数)。状態の数が多い(=ごちゃごちゃになり方が何通りもある)ほど、エントロピーは大きくなります。
  • 熱力学第二法則:「孤立系(外部とエネルギーや物質のやり取りがない系)において、自発的に起こる変化は、常にエントロピーが増大する(DeltaS0)方向に進む。」
  • これは、自然界のすべての自発的な変化は、全体として、より確率の高い、より無秩序な方向へと向かうという、経験則に基づいた宇宙の大原則です。トランプのカードをシャッフルすれば混ざっていくが、混ざったカードが自然に数字順に並ぶことはない、というのと同じです。
  • エントロピーが増大する変化の例:
    • 状態変化: 分子の運動の自由度が高まるほど、エントロピーは増大します。固体 < 液体 << 気体(例: 氷が融けて水になる変化は、吸熱反応(DeltaH0)ですが、分子の乱雑さが増大する(DeltaS0)ため、自発的に進行します。)
    • 溶解: 固体を溶媒に溶かすと、粒子が溶液中に拡散し、乱雑さが増大するため、エントロピーは増大します。
    • 化学反応における分子数の増加: 反応によって、気体分子の数が増加すると、系の乱雑さは増大し、エントロピーは増大します。(例: 2H_2O_2(l)rightarrow2H_2O(l)+O_2(g) の反応では、気体が発生するため、エントロピーは大きく増大します。)

2.3. 二つの力のせめぎ合い

化学反応の方向性は、この二つの相反する欲求の「せめぎ合い」によって決まります。

  • エンタルピー的欲求: エネルギーを放出して、より安定な状態になりたい (DeltaH をできるだけ小さくしたい)。
  • エントロピー的欲求: より乱雑で、確率の高い状態になりたい (DeltaS をできるだけ大きくしたい)。

この二つの力のバランスをとり、反応の自発性を最終的に判断するための究極の指標が、次に学ぶギブズエネルギーです。


3. 究極の判断基準:ギブズエネルギーと化学反応の自発性

熱力学第二法則は、宇宙全体のエントロピー増大を語りますが、目の前の化学反応を考える際に、宇宙全体のことを考えるのは現実的ではありません。私たちは、反応が起こっている「系」の中のパラメーターだけで、自発性を判断できる指標が欲しいのです。この問題を解決したのが、アメリカの物理学者ウィラード・ギブズでした。

3.1. ギブズエネルギー(G)の導入

  • ギブズエネルギー(またはギブズの自由エネルギー): ギブズは、エンタルピー(H)、エントロピー(S)、そして絶対温度(T) を組み合わせた、以下の新しい状態量を定義しました。G=H−TS
  • ギブズエネルギー変化 (DeltaG): 一定温度・一定圧力の条件下で起こる化学反応において、そのギブズエネルギーの変化量 DeltaG は、以下のように表されます。ΔG=ΔH−TΔS
  • DeltaG と自発性の関係:一定温度・一定圧力の条件下で、化学反応が自発的に進む方向は、常にギブズエネルギーが減少する($\\Delta G \< 0$)方向である。
  • 究極の判断基準: この DeltaG を計算すれば、エンタルピーとエントロピーという二つの要因を総合して、その反応が自発的に進むかどうかを、一意に、かつ定量的に判断することができます。
    • $\\Delta G \< 0$: その反応は自発的に進行する
    • DeltaG=0: その反応は平衡状態にある。(正反応も逆反応も、見かけ上進まない)
    • DeltaG0: その反応は非自発的である。(その方向へは進まず、逆向きの反応が自発的に進行する)

3.2. DeltaG=DeltaH−TDeltaS の解釈

この化学熱力学で最も重要な式は、反応の方向性を決める二つの力の綱引きを、見事に表現しています。

  • DeltaH 項(エンタルピー因子): エネルギーを安定化させようとする力。これが負に大きい(大きな発熱反応)ほど、DeltaG は負になりやすく、反応は進みやすい。
  • TDeltaS 項(エントロピー因子): 乱雑さを増大させようとする力。DeltaSが正に大きい(乱雑さが増す反応)ほど、−TDeltaS は負に大きくなり、DeltaG は負になりやすく、反応は進みやすい。
  • T(絶対温度)の役割: 温度は、エントロピー因子(TDeltaS)の重みを決める「調停役」です。温度が高くなるほど、エントロピー変化 (DeltaS) の効果が、エンタルピー変化 (DeltaH) の効果に対して相対的に重要になります。

3.3. 温度による自発性の変化:4つのパターン

DeltaH と DeltaS の符号の組み合わせによって、温度と自発性の関係は4つのパターンに分類できます。

ケースDeltaHDeltaSDeltaG=DeltaH−TDeltaS自発性
1– (発熱)+ (乱雑さ増)常に負常に自発的燃焼反応、過酸化水素の分解
2+ (吸熱)– (乱雑さ減)常に正常に非自発的(逆反応が常に自発的)水の電気分解の逆反応など
3– (発熱)– (乱雑さ減)低温で負、高温で正低温で自発的、高温で非自発的水蒸気の凝縮、鉄のさび
4+ (吸熱)+ (乱雑さ増)低温で正、高温で負低温で非自発的、高温で自発的氷の融解、炭酸カルシウムの熱分解
  • ケース3の例(水蒸気の凝縮): H_2O(気)rightarrowH_2O(液)。これは発熱($\\Delta H \< 0$)ですが、気体から液体になるので乱雑さは減少($\\Delta S \< 0$)します。低温では$\Delta H項が優勢で自発的に凝縮しますが、高温になると-T\Delta S$項(正の値になる)が優勢になり、凝縮は起こらなくなります。
  • ケース4の例(氷の融解): H_2O(固)rightarrowH_2O(液)。これは吸熱(DeltaH0)ですが、固体から液体になるので乱雑さは増大(DeltaS0)します。低温(0℃未満)では$\Delta H項が優勢で自発的には融けませんが、高温(0℃以上)になると-T\Delta S項(負の値)が優勢になり、自発的に融解が進みます。自発性が切り替わる温度、すなわち\Delta G = 0$となる温度が、まさに融点(0℃)なのです。

3.4. 熱力学と化学平衡

  • 標準生成ギブズエネルギー ($\\Delta G\_f^\\circ$): 標準状態(25℃, 1atm)で、成分元素の単体から化合物1 molが生成するときのギブズエネルギー変化。
  • 反応の標準ギブズエネルギー変化 ($\\Delta G^\\circ$): ヘスの法則と同様に、各物質の$\Delta G_f^\circの値を用いることで、任意の反応の標準状態での\Delta G^\circ$を計算できます。$\\Delta G^\\circ = (\\text{生成物の}\\Delta G\_f^\\circ\\text{の総和}) – (\\text{反応物の}\\Delta G\_f^\\circ\\text{の総和})$
  • ギブズエネルギーと化学平衡: DeltaGがゼロになる点が「平衡」であるということは、ギブズエネルギーと、反応の進みやすさの指標である「平衡定数 K」との間に、深いつながりがあることを示唆しています。
  • 実際、この二つの量の間には、以下のような極めて重要な関係式が成り立っています。ΔG∘=−RTlnK
  • この式は、熱力学的なデータ($\\Delta G^\\circ$)から、その反応が最終的にどこまで進むのか(平衡定数 K)を定量的に予測できることを意味しており、化学熱力学と、次のモジュールで学ぶ化学平衡論とを結びつける、重要な橋渡しとなります。

Module 6:結論と次への展望

このModule 6では、化学反応を支配する、目に見えないエネルギーと秩序の法則を探求しました。

  1. 反応熱とエンタルピー: 私たちは、化学反応に伴う熱の出入り(反応熱)が、エンタルピー変化(DeltaH)という物理量で厳密に記述できることを学びました。そして、熱化学方程式のルールと、ヘスの法則や結合エネルギーを用いた計算によって、未知の反応熱を予測する強力な手法を身につけました。
  2. エントロピーと自発性: 私たちは、反応の方向性がエンタルピー(エネルギーの安定化)だけでは決まらず、「より乱雑で確率の高い状態へ向かう」という宇宙の普遍的な傾向、すなわちエントロピー増大の法則が、もう一つの強力な駆動力であることを理解しました。
  3. ギブズエネルギーによる最終判断: そして私たちは、これら二つの要因、エンタルピーとエントロピーを統合した究極の判断基準である**ギブズエネルギー(DeltaG)**にたどり着きました。DeltaG=DeltaH−TDeltaS というこの式は、化学反応が自発的に進むかどうかを、温度との関係性の中で見事に予言してくれます。$\\Delta G \< 0$ という条件こそが、あらゆる自発変化の指標なのです。

結論として、私たちは化学反応が「どちらの方向へ向かうか」という問いに対して、熱力学という確固たる羅針盤を手に入れました。

しかし、ここにはまだ大きな謎が残されています。「ダイヤモンドは、常温・常圧では黒鉛よりもギブズエネルギーが高い(準安定状態)ため、いずれ黒鉛に変化するはずだ($\\Delta G \< 0$)。しかし、現実にはダイヤモンドは永遠に輝き続けているように見える。なぜだろうか?」

この問いは、熱力学の限界を示唆しています。熱力学は、反応の「ポテンシャル(可能性)」や最終的な「目的地」は教えてくれますが、そこへ至る「道のり」や「速さ」については何も語ってくれないのです。ダイヤモンドから黒鉛への変化は、熱力学的には自発的ですが、その反応速度が極めて遅いため、人間の一生スケールでは実質的に進行しないのです。

したがって、化学反応を完全に理解するためには、次なる視点、すなわち「反応の速さ」と、反応が途中で止まったように見える「平衡状態」のダイナミズムを学ぶ必要があります。

次の Module 7: 化学反応の速さと平衡 では、反応がどのようなメカニズムで、どれくらいの速さで進むのか(反応速度論)、そして、正反応と逆反応の速度が釣り合った動的な平衡状態(化学平衡)の謎に迫ります。化学反応の、もう一つの重要な側面への探求が始まります。

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