【基礎 倫理】Module 7: 日本思想の特質と展開

当ページのリンクには広告が含まれています。

本章の目的と概要

これまでの長きにわたる旅で、私たちは西洋、インド、中国という、人類史における巨大な思想圏の山脈をそれぞれ踏破してきました。ギリシア・ローマの理性の光、ユダヤ・キリスト教の啓示の衝撃、インドの解脱への深い渇望、そして中国の社会秩序への飽くなき探求。それぞれの思想は、その風土と歴史の中で、独自の論理と世界観を築き上げてきました。本章では、その旅の締めくくりとして、私たちの視点を、今私たちが立っているこの場所、すなわち「日本」の思想の系譜へと向けます。

日本思想の歴史を貫く最大の特徴、それは、外からやってくる異質な思想を拒絶するのではなく、それを巧みに受容し、自らの土壌の上で変容させ、元からあった固有の精神性と重層的に共存させてきた、その驚くべき「編集能力」と「重層性」にあります。それは、大陸から伝わった仏教や儒教、そして近代に怒涛の如く押し寄せた西洋思想といった、強力な外来文化の波を、次々と乗りこなし、自らの血肉としてきた、類稀な知的格闘の歴史でした。

このモジュールでは、そのダイナミックな思想の展開を、以下の八つのステップで辿っていきます。

  1. 古代日本の精神的原風景: まず、あらゆる外来思想が伝来する以前の、日本列島に生きた人々の素朴な自然観や死生観、そしてそこから生まれた固有の信仰「神道」の世界を探ります。これは、後の日本思想全体の基層となるものです。
  2. 聖徳太子の「和」の思想: 大陸から仏教や儒教が伝わり、日本が初めて国家としての形を整えようとした時代、聖徳太子が、いかにしてこれらの外来思想を統合し、「」という日本独自の政治・社会理念を打ち立てたかを見ます。
  3. 奈良・平安仏教の展開: 国家仏教として、鎮護国家の役割を担った奈良仏教と、最澄・空海によって、より体系的で深遠な密教思想がもたらされた平安仏教の展開を追います。
  4. 鎌倉新仏教の革新: 平安末期の社会動乱と末法思想の中から、もはや貴族のものではない、武士や民衆を救済するための新しい仏教が、法然、親鸞、道元、日蓮といった革新的な宗祖たちによって、いかに力強く生み出されたかを探ります。
  5. 武士道精神の形成と展開: 鎌倉時代以降、日本の支配階級となった武士たちが、いかにして死と向き合い、自らの生き方の規範である「武士道」を形成していったか、その精神の軌跡を辿ります。
  6. 江戸時代の儒学: 戦乱が終わり、泰平の世となった江戸時代に、幕府の統治イデオロギーとして「儒学(特に朱子学)」が隆盛し、またそれに反発する形で、陽明学や古学といった多様な学派が花開いた様を見ます。
  7. 国学の成立: 儒教や仏教といった「漢意(からごころ)」に覆われる以前の、日本固有の精神(真心)とは何か。それを『古事記』などの古典のうちに探求しようとした本居宣長らの国学の挑戦を追います。
  8. 近代日本の思想: 最後に、幕末・明治維新期における西洋思想との衝撃的な出会いと、それを受容し、あるいは「超克」しようとした、近代日本の知識人たちの苦闘の歴史を探ります。

この旅を通じて、私たちは、日本思想が、外来の普遍的な理念と、固有の具体的な感性との間で、常に揺れ動き、対話し、独自の綜合を生み出してきたダイナミックなプロセスを理解します。それは、グローバル化する現代において、私たちが自らのアイデンティティを問い直し、多様な価値観と共生していくための、重要な自己認識の道標となるでしょう。

目次

1. 古代日本の精神的原風景:自然観・死生観と神道

1.1. アニミズム的自然観:八百万の神々と森羅万象に宿る霊性

文字による記録が残る以前の古代日本列島。そこに住む人々は、豊かで、しかし同時に厳しくもある自然環境の中で生きていました。彼らの世界観の根底にあったのは、**アニミズム(animism)**と呼ばれる、素朴で生命力に満ちた自然観です。

  • 八百万(やおよろず)の神々:
    • 古代日本人にとって、自然は、単なる物質的な存在ではありませんでした。山、川、海、岩、木、風、雷といった、森羅万象のあらゆるものに、**霊的な力や生命(カミ)**が宿っていると考えられていました。
    • これらのカミは、西洋の一神教におけるような、超越的で、全知全能の絶対者ではありません。彼らは、人間に恵みをもたらす「和魂(にぎみたま)」の側面と、災いをもたらす「荒魂(あらみたま)」の側面の両方を持ち合わせ、時に人間と交感し、時に畏怖の対象となる、身近で多様な存在でした。この無数の神々を指して「八百万の神」と呼びます。
  • 自然との一体感:
    • このような世界観では、人間と自然は、明確に対立するものではありません。人間もまた、自然という大きな生命の循環の一部であり、神々と共に生きる存在です。
    • 西洋近代のように、自然を客観的な対象として分析し、支配しようとする発想ではなく、自然の働きに寄り添い、その恵みに感謝し、その猛威を畏れ、共生していこうとする態度が、日本人の精神性の基層を形作りました。

1.2. 「清き明き心」:穢れ(ケガレ)の思想と禊・祓

古代日本人の倫理観の中心には、「善悪」という対立よりも、「清(きよ)」と「穢(けがれ)」という対立がありました。

  • 清き明き心(清明心):
    • 理想的な心の状態は、「清き明き心」あるいは「明き清き心」と呼ばれました。これは、嘘や偽りのない、公明正大で、曇りのない純粋な精神状態を指します。
  • 穢れ(ケガレ):
    • これに対し、倫理的に最も忌避されたのが「穢れ」です。
    • 「ケガレ」とは、もともと「気枯れ」、すなわち生命力が枯渇し、不浄な状態になることを意味します。
    • 死、病気、出産、犯罪、災害といった、日常の秩序を乱す異常な出来事が、「穢れ」をもたらすと考えられました。
    • 重要なのは、この「穢れ」が、キリスト教における「罪(sin)」のような、個人の内面的な意志の悪(原罪)とは異なる点です。穢れは、意志とは無関係に、外部から付着する、一種の災厄、不浄な力として捉えられました。
  • 禊(みそぎ)・祓(はらえ):
    • このように外部から付着した穢れは、神々への儀式を通じて、洗い流し、清めることができると信じられていました。
    • 川や海の水で身を洗い清める儀式が「」であり、神官が祝詞(のりと)を唱え、供え物をすることで穢れを取り除く儀式が「」です。
    • この、過ちを犯しても、水に流してリセットし、共同体の清浄さを回復するという発想は、その後の日本人の罪悪感や倫理観に、深く影響を与え続けています。

1.3. 古代の死生観:現世主義と水平的な他界観

  • 現世主義:
    • 古代日本人の関心は、来世での救済よりも、この現世での生活を、豊かで、清浄に、共同体の中で調和して生きることに、強く向けられていました。これを「現世主義」的な傾向と呼びます。
  • 死後の世界:
    • 死後の世界については、明確な地獄や天国といった観念は希薄でした。死者の魂は、山の向こうや海の彼方にある「常世国(とこよのくに)」や、地下にある「黄泉国(よみのくに)」へ行くと考えられていました(水平的な他界観)。
    • 死者の魂は、完全にこの世から断絶するのではなく、祖先の霊(祖霊)として、子孫の繁栄を見守り、盆や正月には、再びこの世に帰ってくるとも信じられていました。

1.4. 神道の成立:自然発生的な信仰から氏神・祖先神信仰へ

このような、古代からのアニミズム的な自然崇拝や祖霊信仰が、時代と共に体系化され、形成されていった、日本固有の民族宗教が「神道」です。

  • 神道の特質:
    • 神道には、キリスト教の聖書やイスラームのクルアーンのような、絶対的な教義や教典が存在しません
    • また、特定の開祖も存在せず、人々の生活の中から、自然発生的に生まれてきた信仰です。
    • 中心となるのは、神々を祀る祭り(祭祀)と、神々が鎮座する神社です。
  • 氏神信仰と祖先神信仰:
    • 大和朝廷による国家統一が進むと、血縁を基盤とする**氏族(氏)**ごとに、特定の神(氏神)を祀る信仰が一般化します。氏神は、しばしばその氏族の祖先神と同一視されました。
    • そして、これらの氏族を束ねる存在として、大和朝廷の支配者である天皇家の祖先神が、最高の神として位置づけられることになります。

1.5. 『古事記』『日本書紀』にみる神話的世界観

8世紀初頭に編纂された『古事記』と『日本書紀』(総称して「記紀」と呼ぶ)は、神々の時代から歴代天皇に至るまでの物語を記した、日本の神話・歴史書です。

  • 天地創造と神々の誕生:
    • 天と地が分かれ、高天原(たかまがはら)に神々が次々と誕生します。そして、イザナギノミコトイザナミノミコトの二神が、日本の国土(大八島国)と、多くの神々を産み出します。
  • アマテラスオオミカミとスサノオノミコト:
    • イザナギから、太陽の女神であるアマテラスオオミカミ、月の神ツクヨミノミコト、そして嵐の神スサノオノミコトの三貴子が生まれます。
    • 姉であるアマテラスの治める高天原で、弟のスサノオが乱暴を働き、アマテラスが天の岩戸に隠れてしまう神話は、世界の秩序が危機に瀕し、神々の協力によってそれが回復される物語として有名です。
  • 葦原中国の平定と天孫降臨:
    • 地上の世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)を、高天原の神々が平定し、アマテラスは、孫であるニニギノミコトを、三種の神器(鏡・玉・剣)と共に地上に降臨させます(天孫降臨)。

1.6. 天皇の神聖性と祭政一致

この神話は、天皇による日本の統治を、神聖なものとして正当化する役割を果たしました。

  • 天皇の神聖性: 天皇は、天照大神の直系の子孫であり、現世に生きる神「現人神(あらひとがみ)」として、特別な権威を持つとされました。
  • 祭政一致:
    • 天皇の最も重要な務めは、国民の安寧と五穀豊穣を、神々に祈る祭祀を執り行うことでした。
    • このように、政治的な統治(政)と、宗教的な祭祀(祭)が、分かちがたく結びついている統治形態を「祭政一致」と呼びます。
    • この、自然と人間、神と人が連続する世界観、清浄さを尊ぶ倫理観、そして現世を肯定する精神は、その後の日本思想の基層となり、外来思想を受け入れる際の、いわば「OS」のような役割を果たしていくことになります。

2. 国家形成期の理想:聖徳太子の「和」の思想

2.1. 時代背景:大陸文化の受容と律令国家の建設

6世紀から7世紀にかけて、日本は、東アジアの国際情勢の激動の中で、初めて中央集権的な「国家」としての体制を整えようとしていました。

  • 大陸からの影響: 朝鮮半島を通じて、中国の進んだ文化や技術、そして仏教儒教といった体系的な思想が、本格的に流入してきました。
  • 国家建設の必要性: 隋や唐といった、強力な統一王朝が中国に出現し、日本もまた、これらの大国と対等に渡り合うために、天皇を中心とする、法(律令)に基づいた統一国家を建設する必要に迫られていました。

このような、内外の危機と変革の時代に、推古天皇の摂政として、国家建設の中心的な役割を担ったのが、聖徳太子(厩戸皇子)(574-622)です。

2.2. 仏教・儒教・法家思想の総合者としての聖徳太子

聖徳太子は、日本古来の神道的な伝統の上に立ちながら、新しく流入した仏教や儒教、法家思想といった外来の思想を、深く理解し、それらを巧みに統合して、新しい国家の理想を示そうとしました。

  • 冠位十二階: 家柄や氏族ではなく、個人の才能や功績に応じて、冠の色で役人の位階を定める制度。中国の思想を取り入れた、能力主義的な官僚制の試み。
  • 十七条憲法: 聖徳太子が制定したとされる、役人たちが守るべき道徳的・政治的な心構えを示したもの。日本で最初の成文法とも言われますが、法律というよりは、官僚への「訓戒」といった性格が強いものです。

2.3. 十七条憲法第一条:「和(わ)を以て貴しと為し」

十七条憲法の冒頭に掲げられた、最も有名な条文が、第一条です。

一に曰く、和(わ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。

(第一に、和をなによりも大切なものとし、いさかいを起こすことのないようにせよ。)

この「」の精神こそ、聖徳太子が示した、日本の理想とする共同体のあり方でした。

2.4. 「和」の思想の多義性:調和、協調、そして議論の重要性

聖徳太子の言う「和」は、単に表面的に仲良くし、波風を立てないようにする、ということだけを意味するものではありません。

  • 調和と協調:
    • 憲法が制定された当時、朝廷では、蘇我氏のような有力豪族たちが、互いに権力闘争を繰り広げていました。「和」は、まず、このような豪族間の対立や、個人の利己的な欲望を抑え、共同体全体の調和と秩序を優先することを求めるものでした。
  • 議論の重要性:
    • しかし、第一条は、続けてこう述べています。「人皆党(たむら)有り、亦達(さと)る者少なし。(…)然れども、上和(かみやわら)ぎ下睦(したむつ)びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)うときは、則ち事理自(おのずか)ら通ふ。」
    • これは、人々が徒党を組んで対立するのではなく、上の者も下の者も、協調して、徹底的に議論を尽くすならば、物事の道理はおのずと明らかになり、何事も成し遂げられる、ということを意味します。
    • つまり、聖徳太子の「和」は、異論を封じ込める同調圧力ではなく、異なる意見を持つ人々が、理性的な議論を通じて、合意形成(コンセンサス)に至るプロセスそのものを、極めて重視していたのです。これは、儒教の礼の精神や、仏教の共生の思想が反映された、高度な政治理念でした。

2.5. 第二条「篤く三宝を敬え」:仏教の受容とその役割

十七条憲法の第二条では、外来の新しい思想である仏教への、絶対的な帰依が命じられています。

二に曰く、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬へ。三宝とは仏(ぶつ)・法(ほう)・僧(そう)なり。

(第二に、篤く三宝を敬いなさい。三宝とは、仏と、その教えである法と、それを実践する僧のことである。)

  • 仏教の位置づけ:
    • 聖徳太子は、仏教を、「四生の終帰、万国の極宗」、すなわち、すべての生きとし生けるものの最終的な拠り所であり、世界中の国々が仰ぐ究極の教えである、と位置づけました。
    • 彼は、仏教が持つ、普遍的な真理と、個人の内面的な救済の教えが、部族的な対立を超えて、人々を一つの共同体へと統合するための、精神的な支柱となると考えたのです。

2.6. 世俗倫理と超越的真理の共存

十七条憲法全体を見ると、そこには、儒教的な徳目(信、義、礼など)や、法家的な役人の心構えと共に、仏教という超越的な教えが、巧みに織り込まれています。

  • 思想の総合:
    • 聖徳太子は、これらの異なる思想を、対立するものとしてではなく、それぞれの役割を持つものとして、総合しようとしました。
    • 儒教は、君臣、親子といった、現実社会における人間関係の倫理を提供します。
    • 仏教は、その世俗的な倫理を超えた、普遍的な真理と、人間の苦悩からの救済を提供します。
    • そして、それらすべてを包み込む基盤として、日本古来の「和」の精神がある。
  • 日本思想の原型:
    • この、外来の思想を、自国の伝統的な精神性(和)を基盤としながら、その普遍性と有用性に着目して受容し、重層的に共存させていくという聖徳太子の姿勢は、その後の日本思想の展開の、まさに「原型」となったのです。

3. 貴族社会の仏教:奈良・平安仏教の展開

3.1. 鎮護国家思想の確立:仏教による国家の安泰と繁栄の祈願

聖徳太子によって、国家建設の精神的支柱とされた仏教は、続く奈良時代(8世紀)において、その性格をより明確にしていきます。

  • 鎮護国家思想:
    • 奈良時代の仏教の最大の特徴は、「鎮護国家」の思想です。
    • これは、仏教の持つ呪術的な力によって、国家を災厄から守り、その平和と繁栄を実現しようとする考え方です。
    • 為政者たちは、仏教を、個人の内面的な救済のためというよりは、国家の安泰を祈願するための、強力なツールとして受容しました。
  • 国家事業としての仏教:
    • 聖武天皇は、相次ぐ反乱や疫病の流行を鎮めるため、仏教の力に深く帰依しました。
    • 彼は、「一枝の草、一握りの土を持てる者も、みな共に盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造ることに協力せよ」と詔を発し、国を挙げての大事業として、東大寺に巨大な**盧舎那仏像(奈良の大仏)**を造立しました。
    • また、全国の国ごとに国分寺国分尼寺を建立させ、仏教による中央集権的な国家支配のネットワークを築こうとしたのです。

3.2. 南都六宗の学問仏教:教理研究の深化

この国家的な保護のもと、奈良の都(平城京)では、仏教の教理研究が飛躍的に進みました。

  • 南都六宗:
    • 当時の奈良では、中国から伝わった、三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗の六つの学派が、大寺院を中心に研究されていました。これを「南都六宗」と呼びます。
    • これらは、後世の宗派のように、排他的な信仰集団ではなく、学問的な研究グループといった性格が強く、一人の僧侶が複数の学派を兼ねて学ぶことも普通でした。
  • 学問仏教:
    • 彼らは、膨大な仏教経典を、極めて精緻に、哲学的に研究しました。特に、法相宗の「唯識思想」や、華厳宗の「重々無尽の縁起」といった教えは、高度に体系的なものでした。
    • しかし、その教えは、あまりに学問的・専門的であったため、もっぱら国家に保護された僧侶たちのものであり、一般民衆の救済に直接結びつくものではありませんでした。

3.3. 平安遷都と最澄・空海の登場

8世紀末、桓武天皇は、奈良の巨大化した仏教寺院の政治的影響力を嫌い、都を平安京(現在の京都)へと移します(794年)。この新しい都で、日本の仏教に、新たな時代を切り拓く二人の天才が登場します。唐に渡って、最新の仏教を学んできた、最澄空海です。

3.4. 最澄と天台宗:法華一乗思想と「一切衆生悉有仏性」

最澄(767-822)は、比叡山に延暦寺を創建し、日本の天台宗の開祖となりました。

  • 法華経中心主義:
    • 最澄は、数ある仏教経典の中でも、『法華経』こそが、ブッダの究極の真実の教えであるとしました。
  • 一乗思想:
    • 『法華経』は、声聞(仏の教えを聞く者)、縁覚(独力で悟る者)、菩薩といった、能力の異なる人々が、それぞれ別々の道(三乗)で救われるのではなく、すべての人が、ただ一つの乗り物(一乗)、すなわち仏の道に乗って、平等に成仏できると説きます。
    • 最澄は、この「一乗思想」を掲げ、奈良の旧仏教が、宗派ごとに教えの優劣を競っていたことを批判しました。
  • 「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」:
    • この思想の根底には、「すべての生きとし生けるものは、誰もが等しく、仏となる可能性(仏性)を、生まれながらに持っている」という、大乗仏教の根本的な人間観があります。
  • 大乗戒壇の設立:
    • 最澄は、旧仏教の戒律(小乗戒)ではなく、大乗菩薩戒こそが、真の国宝的人材を育てるものであるとして、比叡山に独自の大乗戒壇を設立することを目指し、奈良仏教と激しく対立しました。彼のこの悲願は、死後に実現されることになります。

3.5. 空海と真言宗:密教の体系と即身成仏

最澄と同時期に唐に渡った空海(774-835)は、密教の奥義を究め、帰国後、高野山に金剛峯寺を創建し、真言宗の開祖となりました。

  • 密教(Esoteric Buddhism):
    • 密教とは、「秘密の教え」を意味し、ブッダの悟りの内容そのものである、深遠で神秘的な教えを、師から弟子へと、秘密裏に伝授していくことを特徴とします。
    • その教えは、宇宙の究極的な真理を体現する、大日如来という本初仏を中心に展開されます。
  • 三密加持:
    • 密教の修行では、手に印を結び(身密)、口に真言(マントラ)を唱え(口密)、心を集中させて仏と一体化する(意密)という、「三密」の実践が重視されます。
    • この三密の修行を通じて、行者の身・口・意と、大日如来の身・口・意が一体となる(加持)ことで、この身このままの姿で、速やかに仏になることができる、と説きます。
  • 即身成仏(そくしんじょうぶつ):
    • この、「この肉体を持ったまま、この世で仏になることができる」という「即身成仏」の思想は、空海の教えの核心であり、長い修行期間を必要とせず、現世での悟りを可能にする、力強いメッセージでした。

3.6. 神仏習合の進展:本地垂迹説

平安時代を通じて、外来の仏教と、日本固有の神道との関係は、対立ではなく、**融合(習合)**の道を歩んでいきます。

  • 神仏習合:
    • 当初は、日本の神々も、仏の教えを聞き、解脱を目指す衆生の一人である、という考え方(神身離脱説)が生まれました。
    • やがて、日本の神々は、人々を救うために、仏が、仮の姿(権現)としてこの世に現れたものである、という思想が生まれます。
  • 本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ):
    • この考え方が、平安時代後期に理論化されたものが「本地垂迹説」です。
    • 本地(ほんじ): 仏や菩薩といった、本来の姿。
    • 垂迹(すいじゃく): 人々を救うために、迹(あと)を垂れて、日本の神として現れた、仮の姿。
    • 例えば、天照大神の本地仏は大日如来、八幡神の本地仏は阿弥陀如来、というように、神と仏が一体のものとして信仰されるようになりました。この思想は、仏教が、日本の精神風土に深く根を下ろしていく上で、決定的な役割を果たしました。

3.7. 浄土思想の萌芽と末法思想の蔓延

平安時代中期以降、貴族社会が成熟し、優雅な文化が花開く一方で、その内実には、次第に不安の影が差し始めます。

  • 浄土思想の広まり:
    • 阿弥陀仏を信じ、その名(名号)を唱えることで、死後に、苦しみのない「極楽浄土」に往生できる、という「浄土思想」が、貴族たちの間で広まっていきます。
    • 源信の『往生要集』は、地獄の恐ろしい様と、極楽浄土の素晴らしい様を、生き生きと描き出し、人々に念仏を勧め、大きな影響を与えました。
  • 末法思想:
    • 仏の死後、時代が下るにつれて、教えが廃れ、悟りを開く者がいなくなる、という終末論的な思想が「末法思想」です。
    • 日本では、1052年から、この末法の世に入ると信じられており、平安末期の社会不安(政争、飢饉、戦乱)と相まって、人々の間に、終末的な絶望感と、救済への切実な渇望を広めていきました。この切迫した状況が、次の鎌倉時代に、新しい仏教が生まれるための、思想的な土壌となったのです。

4. 民衆の救済へ:鎌倉新仏教の革新

4.1. 時代背景:武士の台頭と社会動乱、末法思想の深刻化

平安末期から鎌倉時代(12世紀末〜14世紀)は、日本の歴史における大きな転換期でした。

  • 武士の台頭: 貴族に代わって、武士階級が、社会の新たな支配者として登場しました。彼らは、常に死と隣り合わせの生活を送っており、貴族的な優雅さよりも、より直接的で、実践的な精神性を求めていました。
  • 社会動乱: 源平の争乱をはじめ、戦乱が相次ぎ、飢饉や天災も頻発し、社会は大きな混乱に陥りました。多くの民衆は、明日の命も知れない、過酷な現実に苦しんでいました。
  • 末法思想の現実化: 人々は、この悲惨な状況を、「末法」の世が到来したことの証と受け止め、旧来の貴族仏教では救われない、という無力感と、新しい救済への渇望を、ますます強めていきました。

このような時代状況に応えるように、鎌倉時代には、それまでの仏教とは全く異なる、新しい思想と実践を掲げた、革新的な仏教が、次々と誕生します。これが「鎌倉新仏教」です。

4.2. 専修念仏の道:法然の浄土宗と「選択本願念仏」

鎌倉新仏教の口火を切ったのが、法然(1133-1212)です。彼は、比叡山で長年学びましたが、既存の仏教では救われないと悟り、新しい教えを打ち立てました。これが浄土宗です。

  • 選択本願念仏集:
    • 彼の主著『選択本願念仏集』は、浄土宗の独立宣言とも言える書物です。
  • 他力本願:
    • 法然は、末法の世の、罪深く、愚かな凡夫(私たち)が、自らの力(自力)で、厳しい修行を積んで悟りを開くこと(聖道門)は、もはや不可能である、と断じました。
    • 救われる道はただ一つ、阿弥陀仏が、すべての衆生を救うために立てた誓い(本願)の力、すなわち「他力」に、全面的にすがる(浄土門)ことしかない、と説きます。
  • 専修念仏:
    • では、どうすれば阿弥陀仏の救いにあずかれるのか。法然の答えは、極めてシンプルでした。
    • 難しい学問や、厳しい修行は一切不要。「ただひたすらに、『南無阿弥陀仏』と、阿弥陀仏の名を口で称える(称名念仏)こと」、これさえすれば、善人でも悪人でも、男女の区別なく、誰もが平等に救われ、極楽浄土に往生できる。
    • この、他の行を捨てて、念仏一つに専念する実践を「専修念仏」と呼びます。

4.3. 絶対他力の信仰:親鸞の浄土真宗と「悪人正機説」

法然の弟子の中で、その「他力」の思想を、最もラディカルに、徹底させたのが、親鸞(1173-1262)です。彼は、浄土真宗の宗祖とされます。

  • 絶対他力:
    • 親鸞は、法然の思想をさらに推し進め、人間が救われるのは、100%、阿弥陀仏の本願の働きによるものであり、人間側の「念仏を称えよう」という意志や努力(自力)さえも、差し挟む余地はない、としました。これを「絶対他力」と呼びます。
    • 信心さえも、阿弥陀仏から与えられるもの(他力回向の信心)であり、私たちが称える念仏は、救いのための「行」ではなく、すでに救ってくださったことへの、感謝の念仏である、と考えました。
  • 悪人正機説(あくにんしょうきせつ):
    • この絶対他力の思想から、親鸞独自の、最も有名な思想である「悪人正機説」が導かれます。
    • 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(『歎異抄』)(善人でさえも往生することができるのだから、ましてや悪人が往生できないはずがあろうか。)
    • これは、一見すると逆説的です。しかし、親鸞によれば、「善人」とは、自分の力で善い行いができるとうぬぼれ、自力に頼っている人のことです。彼らは、阿弥陀仏の救いに素直にすがることができない。
    • これに対し、「悪人」とは、自らが罪深く、自力では到底救われない存在であることを、徹底的に自覚している人のことです。そのような悪人こそ、**阿弥陀仏が、本来、救おうとされている、中心的な対象(正機)**であり、彼らこそが、自力を捨てて、完全に他力に身を委ねることができるのです。
  • 非僧非俗:
    • 親鸞は、自ら妻帯し、自らを「僧にあらず、俗にあらず(非僧非俗)」と名乗りました。これは、出家者と在家者の区別を超え、すべての人が、それぞれの生活の中で、等しく阿弥陀仏の救いにあずかることができる、という彼の思想を体現するものでした。

4.4. 踊り念仏の普及:一遍の時宗

法然、親鸞の念仏の教えを、さらに多くの遊行民や下層民衆にまで広めたのが、一遍(1239-1289)です。彼は時宗の開祖とされます。

  • 遊行と賦算: 彼は、特定の寺を持たず、生涯、全国を旅して(遊行)、人々に「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏の札を配り歩きました(賦算)。
  • 踊り念仏:
    • 彼の布教の最大の特徴は、「踊り念仏」です。
    • 彼は、信者たちと共に、念仏を唱えながら、恍惚として踊り続けました。これは、難しい教義の理解を超え、念仏を称える喜悦そのもののうちに、浄土の体験を現前させようとする、身体的な実践でした。
    • 「称える我も、称えられる仏も、すべては南無阿弥陀仏という声そのものである」という彼の思想は、主観と客観の対立を超えた、絶対的な境地を示しています。

4.5. 禅宗の伝来:栄西の臨済宗と「公案」

浄土系の仏教が、阿弥陀仏への信仰(他力)を説いたのに対し、同じく鎌倉時代に、中国から新しい仏教が伝わります。それは、坐禅を通じて、自らの内なる仏性(自力)を悟ろうとする、「禅宗」でした。

  • 栄西(ようさい)(1141-1215)は、中国の宋から臨済宗を伝えました。
  • 禅の特色:
    • 禅宗は、経典の文言や、教理の知的理解ではなく、**師から弟子へと、心をもって心を伝えること(以心伝心)**を重んじ、**経典の外で、言葉によらずに真理を伝える(教外別伝、不立文字)**ことを特徴とします。
  • 公案(こうあん):
    • 臨済宗の修行の中心となるのが、「公案」の工夫です。
    • 公案とは、師が弟子に与える、論理的には解決不可能な禅問答です(例えば、「父母未生以前の本来の面目如何」「隻手の音声」など)。
    • 弟子は、この公案と格闘し、分別的な思考(知性)が行き詰まり、完全に行き詰まった果てに、**突如として、理屈を超えた悟り(見性)**を得ることを目指します。この師と弟子の間の、真剣でダイナミックな問答が、臨済禅の特色です。

4.6. 只管打坐の道:道元の曹洞宗と「身心脱落」

栄西に続いて、道元(1200-1253)は、宋に渡って曹洞宗の禅を学び、日本に伝えました。

  • 只管打坐(しかんたざ):
    • 道元は、臨済宗のように、悟りという「目的」のために、坐禅を「手段」として用いることを批判しました。
    • 彼が説いたのは、「只管打坐」、すなわち、ただひたすらに坐禅すること、そのものです。
    • 坐禅という行いそのものが、既に仏の悟りの姿であり、坐禅と悟りは、分かちがたく一体である(修証一等)、と彼は考えました。
  • 身心脱落(しんじんだつらく):
    • この只管打坐の実践を通じて、身も心も、そして自己という意識さえもが、抜け落ちていく。この、あらゆる計らいから解放された境地が「身心脱落」です。
  • 『正法眼蔵』:
    • 道元の主著『正法眼蔵』は、日本語で書かれた、極めて独創的で、深遠な哲学的思索の書として、現代に至るまで多くの思想家に影響を与えています。

4.7. 法華経への帰依:日蓮の法華宗(日蓮宗)と「立正安国」

鎌倉新仏教の最後を飾る、最も情熱的で、戦闘的な思想家が、日蓮(1222-1282)です。彼は、**法華宗(日蓮宗)**の開祖です。

  • 法華経至上主義:
    • 日蓮は、末法の世において、人々を救うことができる唯一の正しい教えは、『法華経』のみである、と固く信じました。
    • 彼は、当時広まっていた、法然の専修念仏を、国を滅ぼす邪教であるとして、激しく攻撃しました。
  • 唱題:
    • 救済の道は、ただひたすらに、「南無妙法蓮華経」という題目を、声に出して唱えること(唱題)にある、と説きました。
  • 立正安国(りっしょうあんこく):
    • 日蓮の思想の最大の特徴は、個人の救済(成仏)と、国家社会の安泰とが、密接に結びついていると考えた点にあります。
    • 主著『立正安国論』の中で、彼は、当時相次いでいた災害や、モンゴル襲来(元寇)という国難の原因は、人々が、法然の念仏のような間違った教えを信じ、正しい法(法華経)をないがしろにしていることにある、と主張しました。
    • 国家が、正しい仏法(正法)を信奉して、それを確立(立正)して初めて、国家の安泰(安国)は実現される、と説き、時の鎌倉幕府に、繰り返しその思想を訴え、激しい弾圧を受けました。

4.8. 易行と専修:鎌倉新仏教の共通する特徴

浄土宗、浄土真宗、時宗、禅宗、日蓮宗と、その教えは多様ですが、鎌倉新仏教には、いくつかの共通する特徴が見られます。

  • 易行(いぎょう): 難しい学問や、厳しい修行(難行)ではなく、誰にでも実践できる、やさしい行(念仏、唱題、坐禅)を、救済の道として提示したこと。
  • 専修(せんじゅ): その一つの行い(一行)に、ひたすら専念することを説いたこと。
  • 選択(せんちゃく): 多くの教えの中から、ただ一つの正しい教え、一つの正しい行いを選び取る、という強い自覚を持っていたこと。
  • 信仰の個人化: 救済の対象を、国家や貴族から、悩み苦しむ個々の人間へと、明確に転換させたこと。

これらの特徴によって、仏教は、初めて、日本の一般民衆の心に深く根を下ろし、その後の日本人の精神性を形作る、決定的な力となったのです。

5. 武士の生き方:武士道精神の形成と展開

5.1. 武士階級の成立と「弓馬の道」

鎌倉時代以降、武士は、貴族に代わって日本の支配階級となりました。彼らは、戦場で命を懸けて戦うことを本分とする人々であり、その生活と価値観の中から、独自の倫理規範、すなわち「武士道」が形成されていきました。

  • 弓馬の道: 初期の武士の倫理は、「弓馬の道」と呼ばれ、主君への忠誠、武勇、そして一族の名誉を重んじる、実践的な戦闘者の規範でした。

5.2. 鎌倉武士の質実剛健:「いざ鎌倉」の精神

  • 御恩と奉公: 鎌倉幕府の御家人たちは、将軍から土地の所有を保障される「御恩」に対し、戦の際には、命を懸けて駆けつける「奉公」で応える、という契約関係にありました。「いざ鎌倉」という言葉は、この即応の精神を象徴しています。
  • 質実剛健: 鎌倉武士は、貴族的な優雅さよりも、飾り気のない、素朴で、心身ともに強くたくましい「質実剛健」の気風を尊びました。

5.3. 禅と武士:精神鍛錬と生死の超克

鎌倉時代に伝わった禅宗、特に臨済宗は、その厳しい精神性と、生死を超越する教えが、武士の気風と合致し、多くの武士たちに受け入れられました。

  • 精神の鍛錬: 公案の工夫など、禅の修行は、極度の精神集中と、不動の精神力を養う上で、戦場を生きる武士にとって、格好の精神鍛錬となりました。
  • 生死の超克: 禅は、生と死を、分別的な思考が生み出した虚構と見なし、その二元論を超越することを教えます。この教えは、常に死と隣り合わせの武士に、死の恐怖を乗り越えるための、精神的な支えを与えました。

5.4. 『葉隠』にみる武士道:「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」

江戸時代中期、佐賀鍋島藩の武士、山本常朝の言葉をまとめた『葉隠』は、武士道の精神を、最も純粋で、ラディカルな形で表現した書物として知られます。

  • 死の覚悟:
    • 武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。
    • この有名な一節は、単なる死への憧憬を意味するものではありません。
    • それは、いつ死んでも悔いのないように、今この一瞬一瞬を、全力で、純粋に生きよ、という、徹底した覚悟の表明です。
    • 生か死かという究極の場面で、生への執着が判断を誤らせる。常に「死」を覚悟して、我を捨て、主君への奉公という、今なすべきことに自己を没入させるとき、人は、かえって過ちなく生きることができる、という逆説的な生の哲学が、ここにはあります。
  • 忠義: 『葉隠』は、主君への絶対的で、無私な忠義(奉公)を、最高の徳として強調します。

5.5. 山鹿素行の士道論:儒学による武士のアイデンティティの再定義

戦乱の世が終わり、泰平の世となった江戸時代、武士の役割は、戦闘者から、社会の秩序を担う為政者・官僚へと変化しました。この新しい時代の武士のあり方を、儒学(特に古学)の立場から理論づけたのが、山鹿素行(1622-1685)です。

  • 士道論:
    • 彼は、武士を、単なる支配階級ではなく、農工商の三民の模範となるべき、道徳的な指導者(「士」)として位置づけました。
    • 武士は、常に死を覚悟し、義を重んじ、文武両道に励み、民を治めるという、自らの職分を自覚すべきである、と説きました。
    • 山鹿の士道論は、武士の存在意義を、戦闘能力から、儒教的な倫理の体現者へと、再定義する試みでした。

5.6. 新渡戸稲造『武士道』:キリスト教との対比で語られる武士の徳目

明治時代、国際的に活躍した農学者・教育家の新渡戸稲造(1862-1933)は、日本の精神文化を、欧米人に向けて紹介するために、英文で『武士道(Bushido: The Soul of Japan)』を著しました。

  • 比較文化論としての武士道:
    • 新渡戸は、武士道を、西洋の騎士道(キリスト教)と比較しながら、その精神的な構造を分析しました。
    • 彼は、武士道の徳目として、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義などを挙げ、それらが、神道、仏教、儒教の影響のもとで、いかに育まれてきたかを解説しました。
    • この書物は、欧米でベストセラーとなり、「武士道」という言葉を世界に広めるきっかけとなりましたが、同時に、武士道の多様なあり方を、やや理想化・単純化して提示している、という側面も持っています。

6. 泰平の世の秩序:江戸時代の儒学

6.1. 徳川幕府と朱子学の官学化:林羅山と上下定分の理

江戸時代(17世紀〜19世紀半ば)、徳川幕府は、長期にわたる安定した封建秩序(幕藩体制)を維持するために、思想的な支柱を必要としました。その役割を担ったのが、中国の宋代に大成された「朱子学」でした。

  • 朱子学の官学化:
    • 徳川家康に仕えた儒学者、林羅山は、朱子学の教えが、社会の秩序を安定させる上で、極めて有効であると考え、その採用を幕府に進言しました。
    • その後、朱子学は、幕府公認の学問(官学)となり、幕府直轄の学校である昌平坂学問所を中心に、武士階級の必須の教養となっていきました。
  • 上下定分の理:
    • なぜ、朱子学が幕府に好まれたのか。それは、朱子学の「」の思想が、封建的な身分制度を、宇宙の根本原理として正当化するのに、都合が良かったからです。
    • 朱子学によれば、すべてのものには、そのあるべき秩序(理)があります。人間社会における、君臣、父子、士農工商といった上下の身分関係もまた、この普遍的な「理」の現れであり、各人が、自らの「」をわきまえ、その職分を全うすることこそが、社会の秩序(和)を保つ道である(上下定分の理)、とされたのです。

6.2. 朱子学の展開:山崎闇斎と垂加神道

朱子学は、日本の思想家たちによって、独自の展開を遂げていきます。

  • 山崎闇斎(やまざきあんさい):
    • 彼は、朱子学の厳格な君臣関係の倫理と、日本固有の神道を結合させ、「垂加神道(すいかしんとう)」を創始しました。
    • 彼は、日本の天皇を、天照大神の子孫として、絶対的な尊崇の対象とし、君臣の義を、宇宙の最高原理であると説きました。この思想は、後の尊王論にも影響を与えます。

6.3. 朱子学批判と陽明学:中江藤樹と熊沢蕃山

官学として形式化していく朱子学に対し、その思弁性や権威主義を批判し、より主体的で、実践的な生き方を説く思想も現れます。それが「陽明学」です。

  • 陽明学の特色: 朱子学が、客観的な「理」の探求を重んじたのに対し、陽明学は、個人の**内なる「心(良知)」**を、善悪の絶対的な基準としました。
  • 中江藤樹(なかえとうじゅ):
    • 「近江聖人」と呼ばれた、日本陽明学の祖。
    • 彼は、身分に関係なく、すべての人が、その心に、天から与えられた**明徳(良知)**を持っていると説きました。
    • そして、親への「」こそが、すべての徳の根源であり、良知を実践する第一歩である、と強調しました。
  • 熊沢蕃山(くまざわばんざん):
    • 藤樹の弟子。陽明学の立場から、幕府の政策を批判し、現実の社会に即した実践的な改革を提言しました。

6.4. 古学の成立:聖人の教えへの直接回帰

江戸時代中期になると、朱子学や陽明学が、後世の解釈によって、孔子・孟子の本来の教えから離れてしまっている、と批判する新しい学派が登場します。それが「古学」です。

  • 古学の主張:
    • 彼らは、宋代の儒学(新儒教)を介さず、『論語』や『孟子』といった、古代の経典(古典)に直接立ち返り、そこに示されている聖人の真意を、客観的な文献学的方法によって解明しようとしました。

6.5. 山鹿素行の古学:実践的・日常的な道徳

武士道論で見た山鹿素行は、古学の先駆者でもあります。彼は、朱子学が「理」といった抽象的な概念を弄していると批判し、道とは、君臣、父子といった、日々の人間関係における、実践的な道徳に他ならない、と説きました。

6.6. 伊藤仁斎の古義学:『論語』にみる仁愛

京都の町人出身の伊藤仁斎(1627-1705)は、その学問を「古義学」と名付け、『論語』こそが「宇宙第一の書」であるとしました。

  • 仁愛の重視:
    • 彼は、朱子学が「理」を静的なものとして捉えたことを批判し、『論語』に示された孔子の教えの核心は、「仁」、すなわち、他者への**能動的で、活発な「愛」**にある、と主張しました。
    • そして、その愛は、最も身近な親子・兄弟の間から、他者へと広がっていく、具体的な人間関係のうちにこそ実現される、と説きました。

6.7. 荻生徂徠の古文辞学:経世済民の学としての儒学

古学を大成させ、江戸の思想界に絶大な影響力を持ったのが、荻生徂徠(おぎゅうそらい)(1666-1728)です。彼の学問は「古文辞学」と呼ばれます。

  • 「道」の再定義:
    • 徂徠は、仁斎さえもが、道を内面的な徳として捉えていると批判します。
    • 彼によれば、「」とは、個人の内面的な道徳ではなく、古代の聖人(先王)が、天下を治めるために人為的に制作した、礼楽刑政(儀礼、音楽、刑罰、政治)という、客観的な社会制度そのものである、としました。
  • 経世済民の学:
    • したがって、儒学の目的は、個人の道徳的完成(修己)にあるのではなく、古代の聖人の制度を、古典の言葉(古文辞)を厳密に解読することを通して学び、それを現代に応用して、**世を治め、民を救う(経世済民)**ことにあるのです。
    • 徂徠の思想は、儒学を、個人の修養の学から、社会科学的な、政治・政策の学へと、大きく転換させるものでした。

6.8. 町人思想の展開:石田梅岩の心学と商人の道の肯定

江戸時代には、経済力を持った町人階級が台頭し、彼らの生き方を肯定する思想も生まれます。

  • 石田梅岩(いしだばいがん)(1685-1744)は、「心学(せきもんしんがく)」を創始しました。
  • 商人の道の肯定:
    • 彼は、儒教、仏教、神道の教えを融合させ、平易な言葉で、町人たちに人の道を説きました。
    • 彼は、商人の利潤の追求を、武士の俸禄と同じく、その職分に応じた正当なものとして肯定しました。
    • そして、商人が、正直と倹約に励み、私欲をなくして取引に臨む(「心を尽くす」)ならば、それは、武士の道にも劣らない、立派な道徳的実践である、と説き、町人たちに、自らの仕事への誇りと、倫理的な自覚を与えました。

7. 日本古来の精神へ:国学の成立

7.1. 儒教・仏教以前の「古(いにしえ)の道」の探求

江戸時代中期、儒学、特に荻生徂徠の古文辞学が、文献学的な実証主義を推し進めたことは、一つの皮肉な結果を生み出しました。すなわち、その実証的な目が、儒教や仏教といった、**外来の思想(漢意)**が伝来する以前の、**日本固有の精神(古の道)**とは何であったのか、という問いへと向けられていったのです。この、日本の古典(『万葉集』『古事記』など)の中に、純粋な日本の道を探求しようとする学問が、「国学」です。

7.2. 国学の源流:契沖、荷田春満、賀茂真淵

  • 契沖(けいちゅう): 僧侶でありながら、『万葉集』を、儒教的な解釈を排し、実証的に研究し、国学の基礎を築きました。
  • 荷田春満(かだのあずままろ): 神官の立場から、古代の法や制度、神道の研究を提唱しました。
  • 賀茂真淵(かものまぶち): 荷田春満の弟子。『万葉集』の研究を通じて、古代日本人の精神が、飾り気のない、素朴で、雄々しい「ますらをぶり」であったことを明らかにしました。

7.3. 本居宣長の国学大成:『古事記伝』の執筆

これらの国学の流れを集大成し、その学問水準を飛躍的に高めたのが、伊勢松阪の医者であった本居宣長(1730-1801)です。

  • 『古事記伝』:
    • 宣長は、その生涯をかけた大事業として、35年を費やして『古事記』の精密な注釈書である『古事記伝』を完成させました。
    • 彼は、『日本書紀』が、漢文で書かれ、中国思想の影響を強く受けているのに対し、『古事記』こそが、日本古来の言葉と精神を、最も純粋に伝えていると考えたのです。

7.4. 「漢意(からごころ)」の批判と「真心(まごころ)」の探求

宣長の思想の中心には、外来思想、特に儒教・仏教の知的な考え方に対する、徹底的な批判があります。

  • 漢意(からごころ):
    • 宣長は、儒教や仏教が説くような、善悪を理屈で判断し、物事を教訓的に解釈しようとする、小賢しい知性の働きを「漢意」と呼び、これを厳しく批判しました。
  • 真心(まごころ):
    • この「漢意」によって曇らされる以前の、日本人が本来持っていた、ありのままで、素直な心。それが「真心」です。
    • 真の道は、この「真心」のうちにこそ見出されるべきである、と彼は考えました。

7.5. 「もののあはれ」論:日本人の自然な感情の肯定

では、この「真心」は、どのような形で現れるのか。宣長は、その答えを、平安時代の貴族文化、特に『源氏物語』の中に見出しました。

  • もののあはれ:
    • 宣長によれば、『源氏物語』の中心的な精神は、「もののあはれ」を知ることにあります。
    • 「もののあはれ」とは、物事に触れたときに、理屈や道徳的な善悪の判断を超えて、心の中に、自然と、しみじみと湧き上がってくる、深い感動や哀感のことです。
    • 儒教が、恋愛(特に不倫)を不道徳として断罪するのに対し、『源氏物語』は、そうした人間の抑えがたい感情の機微を、善悪の判断を差し挟まずに、ありのままに描き、その「あはれ」を深く味わう。これこそが、「漢意」に汚されていない、日本人の「真心」のあり方なのだ、と宣長は主張しました。
    • この思想は、人間の自然な感情(人情)を、道徳的な理屈よりも上位に置き、それを全面的に肯定する、という、儒教倫理に対する、根本的な価値転換でした。

7.6. 宣長の神道観と天皇中心思想

宣長は、この「真心」を体現したものが、日本古来の「神の道(惟神の道、かんながらのみち)」であるとしました。

  • 惟神の道: 神の道は、人間の知恵で理解できるものではなく、ただ『古事記』に書かれた神々の行いを、ありのままに信じるべきである。
  • 天皇への尊崇: そして、その神々の中心にいる天照大神の子孫である天皇こそが、日本の正統な統治者であり、絶対的な尊崇の対象である、と説きました。

7.7. 復古神道への展開:平田篤胤と幕末の尊王攘夷運動への影響

宣長の死後、その思想は、弟子の**平田篤胤(ひらたあつたね)**らによって、より宗教的で、国家主義的な「復古神道」へと展開していきます。

  • 復古神道: 宣長の思想に、幽冥界の思想や、キリスト教の影響なども加え、より実践的な宗教体系を構築しました。
  • 尊王攘夷運動へ:
    • 国学が明らかにした、天皇を中心とする日本古来の国のあり方と、外来思想への批判的な精神は、江戸時代末期、外国の脅威が高まる中で、天皇を尊び、外国勢力を打ち払おうとする「尊王攘夷」運動の、強力な思想的バックボーンとなり、明治維新への道を拓く、一つの大きな力となったのです。

8. 西洋との出会い:近代日本の思想

8.1. 幕末・明治維新:西洋思想の怒涛の流入

19世紀半ば、ペリーの黒船来航をきっかけに、日本は、二百年以上にわたる鎖国政策を終え、西洋列強の圧倒的な軍事力・技術力の前に、開国を迫られます。この、西洋文明との衝撃的な出会いは、日本の思想界に、未曾有の激動をもたらしました。

  • 「和魂洋才」:
    • 明治新政府は、「富国強兵」をスローガンに、西洋の進んだ科学技術や、政治・社会制度を、猛烈な勢いで導入し始めます。
    • この時の基本精神が、「和魂洋才」でした。日本の伝統的な精神(和魂)を保ちながら、西洋の優れた技術や知識(洋才)を、道具として取り入れる、という考え方です。

8.2. 明六社の啓蒙思想:福沢諭吉『学問のすゝめ』と天賦人権論

明治初期の思想界をリードしたのが、森有礼を中心に設立された、日本最初の学術団体「明六社」の知識人たちでした。彼らは、西洋の近代思想を積極的に紹介し、日本の**啓蒙(enlightenment)**に努めました。

  • 福沢諭吉(ふくざわゆきち)(1835-1901):
    • 明治最大の啓蒙思想家。ベストセラーとなった『学問のすゝめ』の冒頭で、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」と述べ、人間の生まれながらの平等を高らかに宣言しました。
    • 彼は、ロック流の「天賦人権論」を紹介し、個人の「独立自尊」の精神こそが、国家の独立の基礎であると説きました。
    • また、学問の目的を、実生活に役立つ「実学」であるとし、封建的な身分制度を支えた儒教を、厳しく批判しました。
  • 明六社の思想家たち: 彼らは、功利主義、社会契約説、進化論といった、最新の西洋思想を次々と紹介し、日本の近代化の思想的基盤を築きました。

8.3. 自由民権運動と中江兆民のルソー紹介

政府による急進的な欧化政策と、藩閥政府の専制的な政治に対し、国民の自由と権利を求め、国会の開設を要求する「自由民権運動」が、全国的に高まります。

  • 中江兆民(なかえちょうみん)(1847-1901):
    • 「東洋のルソー」と呼ばれ、フランスの思想家ルソーの『社会契約論』を翻訳・紹介し、自由民権運動に、理論的な支柱を与えました。
    • 彼は、人間が生まれながらに持つ、回復することのできない権利「恩賜的民権」と、自らの力で獲得し、発展させていくべき権利「恢復的民権」を区別し、日本国民が、後者の精神に目覚めることの重要性を説きました。

8.4. 国権論と国粋主義の台頭

急激な西洋化と、自由民権運動の盛り上がりに対し、その行き過ぎを警戒し、国家の独立と権力を優先すべきである、という「国権論」や、日本の伝統文化の独自性を強調する「国粋主義」の思想も、力を増していきます。この、民権(自由)と国権(ナショナリズム)の間の緊張関係は、近代日本の思想を貫く、大きな対立軸となりました。

8.5. 内村鑑三のキリスト教:「二つのJ」と無教会主義

明治期には、キリスト教も、新しい思想として、多くの知識人の心を捉えました。

  • 内村鑑三(うちむらかんぞう)(1861-1930):
    • 日本を代表するキリスト教思想家。
    • 彼は、「二つのJ」、すなわち、**Jesus(イエス)Japan(日本)**に、一身を捧げると宣言し、西洋の教会制度を介さず、聖書に直接依拠する、日本独自のキリスト教「無教会主義」を提唱しました。
    • 彼の思想は、西洋文明の普遍的な価値(キリスト教)と、日本のナショナルなアイデンティティとを、いかにして統合するか、という近代日本の根本的な課題に対する、真摯な応答でした。

8.6. 近代の超克という課題

日清・日露戦争の勝利を経て、日本が帝国主義国家として歩みを進める中で、思想界では、西洋近代がもたらした、個人主義、合理主義、資本主義といった価値観そのものを、乗り越えるべきである、という「近代の超克」が、大きなテーマとして浮上してきます。

8.7. 西田幾多郎と京都学派の哲学:「純粋経験」と「場所の論理」

この「近代の超克」の課題に、最も本格的に、哲学的に取り組んだのが、京都大学を拠点とする「京都学派」の哲学者たちであり、その創始者が、西田幾多郎(にしだきたろう)(1870-1945)です。彼は、西洋哲学(特にウィリアム・ジェームズやカント、ヘーゲル)と、東洋思想(特に禅仏教)を、深く学び、両者を融合させることで、独自の哲学体系を築き上げました。

  • 『善の研究』と純粋経験:
    • 彼の処女作にして主著である『善の研究』は、日本人が自らの思索によって書き上げた、最初の本格的な哲学書とされます。
    • その出発点となったのが、「純粋経験」という概念です。純粋経験とは、主観と客観がまだ分かれる以前の、直接的で、ありのままの経験のことです。例えば、音楽を聴いて感動している瞬間には、「聴いている私」と「聴かれている音楽」の区別はなく、ただ純粋な経験の事実があるだけです。西田は、この直接的な経験のうちに、真の実在を見出そうとしました。
  • 場所の論理:
    • 後期には、彼は、西洋の論理学(主語が述語を規定する、主語中心の論理)を乗り越える、独自の「場所の論理」を構想します。
    • それは、個々の存在(判断)が、それらを包み込み、成立させる、より根源的な「場所(場、トポス)」のうちに自己を限定していく、という、逆説的な論理でした。
    • 究極の「場所」は、あらゆる対立を自己のうちに含みながら、それ自体は何も規定するものを持たない「絶対無の場所」であり、そこにおいて、宗教的な自己と世界との合一が実現される、と彼は考えました。

8.8. 和辻哲郎の倫理学:『風土』と『人間の学としての倫理学』

京都学派のもう一人の代表的な思想家が、和辻哲郎(わつじてつろう)(1889-1960)です。

  • 『風土』:
    • 彼は、ハイデガーが人間の存在構造を「時間性」から分析したのに対し、人間のあり方は、その土地の**自然環境(風土)**によって、深く規定されている、と主張しました。
    • 彼は、風土を、厳しい自然と闘うモンスーン型(インド、日本など)、乾燥した砂漠と向き合う砂漠型(アラビアなど)、そして合理的な自然に恵まれた牧場型(ヨーロッパ)の三つに分類し、それぞれの文化や人間の性格を分析しました。
  • 『人間の学としての倫理学』:
    • 彼は、倫理学の対象を、西洋のような孤立した「個人」に求めるのではなく、人間と人間の「間柄(あいだがら)」、すなわち、共同体的な人間関係のうちに求めました。
    • 人間は、個人であると同時に、常に、親子、夫婦、社会といった、具体的な「間柄」の中に生きる「間柄的存在」です。倫理とは、この「間柄」における、人間の正しいあり方の道筋を明らかにすることに他ならない、と彼は考えたのです。

本章のまとめ

本章「日本思想の特質と展開」では、古代から近代に至る、日本の知的探求の、長く、そして重層的な道のりを辿ってきました。

その旅は、森羅万象に神が宿るとする、古代のアニミズム的な自然観と、清浄さを尊ぶ神道の精神から始まりました。この基層の上に、大陸から伝来した仏教儒教が、聖徳太子の「」の理念のもとで受容され、日本の思想世界を豊かにしていきます。

奈良・平安時代には、仏教が鎮護国家のイデオロギーとなり、貴族的な学問として深化する一方で、神仏習合が進み、日本の風土に根ざしていきました。鎌倉時代には、末法の世の苦しみのなかから、法然、親鸞、道元、日蓮といった革新的な宗祖たちによって、武士や民衆を救済するための、力強い新仏教が次々と生まれます。

江戸時代には、泰平の世の秩序を支える思想として、儒学が隆盛を極め、朱子学、陽明学、古学といった多様な学派が、互いに競い合いました。それと同時に、外来思想に覆われる以前の日本固有の精神を探求しようとする国学が、本居宣長によって大成され、「もののあはれ」という独自の美意識・倫理観を打ち立てました。

そして、幕末・明治維新期には、西洋思想との衝撃的な出会いが、日本の思想界を根底から揺さぶります。啓蒙思想、自由民権、国粋主義、キリスト教といった、多様な思想が渦巻く中で、近代日本の知識人たちは、西洋の普遍性と日本の固有性との間で、いかに自らのアイデンティティを確立するか、という苦闘を続けました。その知的格闘の一つの頂点が、西洋哲学と東洋思想の融合を目指した、西田幾多郎らの京都学派の哲学でした。

外来の思想を、ただ模倣するのではなく、常に自らの精神的風土の上で「編集」し、独自の意味を与え、重層的に共存させてきた、この日本思想のダイナミズム。この歴史的特質を理解することは、グローバルな知の文脈の中で、私たちがどのような立ち位置にいるのかを知る上で、不可欠の視点です。そして、この自己認識こそが、いよいよ最終章で扱う、現代社会が直面する、複雑で具体的な倫理的課題群に立ち向かうための、確かな足場となるでしょう。

目次