【基礎 倫理】Module 8: 現代社会の倫理的諸課題

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本章の目的と概要

これまでの七つのモジュールにわたる壮大な旅路で、私たちは、古代ギリシアの哲学の揺りかごから、中世の信仰の時代を経て、近代の理性の高揚と、その後の複雑な現代思想の森に至るまで、人類が「善く生きる」という問いに、いかに格闘してきたかの軌跡を辿ってきました。私たちは今、その旅の終着点に立ち、手にした思想の地図と羅針盤を携えて、私たち自身が生きる、この現代社会が直面する、生々しく、そして避けることのできない倫理的な課題群へと向き合います。

科学技術の爆発的な進歩は、生命の始まりと終わりに、かつては神々の領域であったはずの介入を可能にし、私たちの「人間」の定義そのものを揺さぶっています。グローバル化は、地球の裏側の出来事を、瞬時に私たちの生活と結びつけ、環境、貧困、文化摩擦といった、地球規模での責任を問いかけます。情報技術は、私たちのコミュニケーションを豊かにする一方で、プライバシーの危機や、真実そのものの価値を脅かしています。

本章は、これまでの思想史の学びを総動員する「応用倫理学」の実践の場です。私たちは、以下の七つの現代的な課題領域を一つ一つ取り上げ、その複雑な論点を解きほぐしていきます。

  1. 生命倫理: 脳死、遺伝子操作など、医療技術の進歩が突きつける「生命」の尊厳をめぐる問い。
  2. 環境倫理: 地球温暖化、生物多様性の損失に直面し、未来世代や他の生命に対する私たちの責任を問う。
  3. 情報倫理: 監視社会、AIの台頭の中で、プライバシー、真実、そして人間と機械の関係を考える。
  4. 社会正義と公正: 自由で平等な社会とは何か。富や機会の公正な分配をめぐる、ロールズらの現代正義論。
  5. グローバリゼーションと多文化共生: 異なる文化を持つ人々が、いかにして共存し、相互理解を深めることができるか。
  6. 家族とジェンダー: 多様化する家族観の中で、「男らしさ」「女らしさ」といった規範を問い直し、性の平等を追求する。
  7. 平和主義の思想: 戦争、テロ、貧困といった、構造的な暴力の連鎖を断ち切り、真の平和をいかにして構築するか。

本章の目的は、これらの難問に、唯一絶対の「正解」を示すことではありません。むしろ、カントの義務論、ミルの功利主義、ロールズの正義論、あるいはケアの倫理といった、私たちがこれまで学んできた多様な思想的ツールを用いることで、問題を多角的に分析し、その核心にある価値の対立を理解し、他者との理性的な対話に参加し、そして最終的には、自分自身の言葉で、これらの問いに誠実に応答するための、知的基盤を構築することにあります。思想の旅の最後に、過去の賢人たちの知恵を、現代という羅針盤なき海原を航海するための、確かな碇(いかり)としていきましょう。


目次

1. 生命の始まりと終わりにどう向き合うか:生命倫理

1.1. 生命倫理(バイオエシックス)の誕生:科学技術の進歩がもたらした新たな問い

20世紀後半以降、医学と生命科学の技術は、驚異的な進歩を遂げました。人工呼吸器や臓器移植は、かつては救えなかった命を救い、生殖補助医療は、子どもを持つことを諦めていた人々に希望を与えました。しかし、この進歩は同時に、これまで人類が直面したことのない、新しい倫理的なジレンマを生み出しました。

  • 伝統的医療倫理との違い: かつての医療倫理(ヒポクラテスの誓いなど)は、主に医師と患者の間の関係性を律するものでした。しかし、新しい技術は、社会全体の価値観や、法律、そして「人間とは何か」「生命とは何か」という根源的な問いを、私たち全員に突きつけます。
  • 生命倫理(Bioethics)の登場: このような、生命科学の進歩がもたらす倫理的・法的・社会的な課題(ELSI: Ethical, Legal, and Social Issues)を、学際的に研究する分野として、「生命倫理(バイオエシックス)」が、1970年代頃から本格的に登場しました。

1.2. 脳死と臓器移植:死の定義と自己決定権、ドナー不足の問題

生命倫理が直面した最初の大きな課題の一つが、「死の定義」をめぐる問題でした。

  • 伝統的な死の定義: 伝統的に、人の死は、「心臓の停止」「呼吸の停止」「瞳孔の散大」という三徴候によって判断されてきました。
  • 脳死の登場: しかし、人工呼吸器などの生命維持技術の進歩により、脳の機能が完全に、かつ不可逆的に停止しても(脳死)、心臓だけを動かし続けることが可能になりました。この状態の人間は、生きているのか、死んでいるのか。
  • 臓器移植との関連: この問いは、臓器移植の必要性と密接に結びついています。心臓が動いている脳死状態の身体からは、新鮮で機能的な臓器を移植のために取り出すことができます。もし脳死を「人の死」と認めれば、臓器移植によって、より多くの命を救う道が開かれます。
  • 日本の臓器移植法: 日本では、長年の国民的議論を経て、1997年に「臓器移植法」が制定されました。この法律は、脳死をただちに「人の死」と定義するのではなく、「脳死した者の身体は、死体である」とみなし、本人が生前に臓器提供の意思表示をしており、かつ家族が承諾する場合に限り、脳死判定と臓器摘出を認める、という極めて限定的なものでした。(2009年の法改正で、本人の意思が不明でも家族の承諾で提供が可能になるなど、条件は緩和されました。)
  • 倫理的論点:
    • 死の定義: 人間の死を、心臓の停止という生物学的な終わりと見るか、意識や人格の基盤である脳の機能停止と見るか。これは、人間を、単なる生命体として捉えるか、人格的存在として捉えるかという、人間観の対立に関わります。
    • 自己決定権: 自分の死に方や、死後の身体の扱いを、本人がどこまで決定できるか。
    • ドナー不足と公正な分配: 移植を待つ患者の数に対し、提供される臓器(ドナー)の数は圧倒的に不足しています。限られた臓器を、誰に、どのような基準で分配すべきか。功利主義的な観点(救命効果の最大化など)と、公平性の観点が問われます。

1.3. 生殖補助医療の光と影:不妊治療、代理出産、デザイナーベビーの倫理

生命の「終わり」だけでなく、「始まり」もまた、科学技術の介入の対象となりました。

  • 生殖補助医療(ART): 体外受精(IVF)に代表される、不妊に悩むカップルを支援するための医療技術。多くの人々に子どもを持つ喜びをもたらしましたが、同時に新たな倫理問題を生み出しました。
    • 余剰胚の扱い: 体外受精では、複数の受精卵が作られますが、子宮に戻されなかった「余剰胚」をどう扱うか。受精卵を「生命の萌芽」と見なすならば、それを廃棄することは許されるのか。
    • 着床前診断(PGD): 受精卵が子宮に着床する前に、遺伝的な疾患の有無を調べる技術。重い遺伝病を避ける目的で用いられますが、これは、特定の性質を持つ胚だけを選別する「命の選別」につながらないか。
  • 代理出産(サロガシー): 妻が妊娠・出産できない場合に、夫の精子と妻の卵子(または提供卵子)から作った受精卵を、第三者の女性(代理母)の子宮に移植し、出産してもらう方法。
    • 倫理的論点: 子どもを産むという行為を、商品やサービスのように見なしてよいのか。代理母の身体の道具化や、経済的搾取につながらないか。「産みの親」と「育ての親」が異なることによる、親子関係や子どものアイデンティティへの影響は。
  • デザイナーベビー: 受精卵の段階で遺伝子を操作し、親が望む外見や能力を持つように「デザイン」された子ども。現在はSFの世界の話ですが、技術的には可能になりつつあります。これは、子どもを、親の欲望を満たすための対象と見なす、究極の形の優生思想ではないか、という深刻な懸念があります。

1.4. 遺伝子操作とゲノム編集:治療と能力増強の境界線

21世紀に入り、生命倫理の最前線となっているのが、ゲノム編集技術、特に「CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)」の登場です。

  • ゲノム編集とは: 生物の設計図であるゲノム(全遺伝情報)を、狙った箇所で、極めて効率的に、書き換える技術。
  • 光と影: この技術は、これまで治療法がなかった遺伝病の根本的な治療法を開発する、大きな可能性を秘めています。しかし、その応用範囲は、治療に留まりません。
  • 治療と能力増強(エンハンスメント)の境界:
    • 遺伝病を「治療」するために遺伝子を操作することと、病気ではないが、身長を高くしたり、知能を高めたり、筋肉を増強したりする「能力増強」のために遺伝子を操作することの、境界線はどこにあるのか。
    • もし、能力増強が許されるようになれば、経済的に裕福な人々だけが、自らの子どもを遺伝的に「アップグレード」し、そうでない人々との間に、生物学的な格差(遺伝子デバイド)が生まれる、ディストピア的な未来が訪れるのではないか。
  • 生殖細胞系列への介入: さらに深刻なのは、個人の体細胞だけでなく、精子や卵子、受精卵といった生殖細胞系列の遺伝子を操作することです。これによって加えられた変更は、その子どもだけでなく、将来のすべての子孫に、永続的に受け継がれていきます。私たちは、未来世代の遺伝子を、取り返しのつかない形で改変する権利を持っているのでしょうか。

1.5. 終末期医療と尊厳死:QOL(生命の質)と安楽死をめぐる議論

医療技術は、生命の長さを伸ばすことを可能にしましたが、それは必ずしも「幸福な生」の長さを伸ばすことと同義ではありません。

  • QOL(Quality of Life, 生命の質): 延命治療によって、ただ長く生きるだけでなく、その人にとって、人間としての尊厳が保たれた、質の高い生を送れているか、という観点が、終末期医療において重要になります。
  • 尊厳死(Death with dignity): 回復の見込みがなく、死期が迫っている患者が、延命のための治療を自らの意志で拒否し、自然な死を迎えること。これは、患者の自己決定権を尊重する考え方として、広く受け入れられつつあります(インフォームド・コンセント、リビング・ウィルなど)。
  • 安楽死(Euthanasia): 患者の耐えがたい苦痛を取り除くために、医師が、薬物の投与など、積極的な手段を用いて、患者の死期を早めること。
    • 積極的安楽死と消極的安楽死: 延命治療の中止(消極的安楽死)は尊厳死とほぼ同義で容認される傾向にありますが、積極的な措置による安楽死は、多くの国で殺人罪と見なされ、法的に禁じられています(オランダ、ベルギーなど一部の国を除く)。
    • 倫理的論点: 医師が人の死に積極的に関与することは、「殺してはならない」という医療の根本倫理に反しないか。患者の「死にたい」という意志は、本当に自発的で、不変のものか(一時的な抑うつ状態の可能性はないか)。安楽死が合法化されれば、社会的・経済的なプレッシャーから、望まない死を選ばざるを得ない人々が出てくる「滑りやすい坂(slippery slope)」の問題はないか。

1.6. 適用される思想:カントの人格主義、功利主義、ケアの倫理

これらの複雑な生命倫理の問題を考える上で、私たちがこれまで学んできた思想は、重要な思考の枠組みを提供してくれます。

  • カントの人格主義: 「汝の人格における人間性を、常に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱ってはならない」という定言命法は、人間(やその身体、遺伝子)を、他の目的のための道具として利用すること(代理出産、デザイナーベビーなど)に、強い警鐘を鳴らします。人間の尊厳を絶対的な価値とする立場です。
  • 功利主義: 臓器移植の分配問題や、高額な医療技術の保険適用などを考える際に、「最大多数の最大幸福」という原理は、社会全体の利益を最大化するための、一つの有効な基準を提供します。しかし、少数者の権利を犠牲にする危険性もはらんでいます。
  • ケアの倫理: 抽象的な原理や権利だけでなく、患者やその家族が置かれた、具体的な状況や、人間関係、感情的な側面に寄り添うことの重要性を教えてくれます。終末期医療の意思決定など、当事者間のコミュニケーションと、共感的な配慮を重視する視点です。

2. 地球という共同体の一員として:環境倫理

2.1. 近代の自然支配観とその帰結:環境問題の発生

近代以降の西洋思想は、デカルトの物心二元論や、フランシス・ベーコンの「知は力なり」という言葉に象徴されるように、自然を、人間の理性が分析し、支配し、利用するための、客観的な「対象(モノ)」として捉えてきました。この「自然支配観」は、科学技術を発展させ、私たちの生活を豊かにしましたが、その一方で、深刻な環境問題を引き起こす原因ともなりました。

  • 人間中心主義(Anthropocentrism):
    • 伝統的な西洋倫理学の多くは、人間のみが、道徳的な配慮の対象となる、固有の価値を持つ存在である、という「人間中心主義」の立場に立っていました。
    • 自然は、人間の生存や幸福に役立つ限りにおいてのみ、道具的な価値を持つと考えられてきたのです。
  • 環境問題の顕在化: 20世紀後半になると、公害、森林破壊、オゾン層の破壊、そして地球温暖化といった、地球規模での環境破壊が、人類の生存そのものを脅かす問題として、深刻に認識されるようになります。

2.2. 地球温暖化と気候正義:原因と影響の不均衡

現代における、最も喫緊で、包括的な環境問題が、地球温暖化です。

  • 原因: 人間活動、特に先進国による化石燃料の大量消費によって、温室効果ガス(二酸化炭素など)の濃度が増加し、地球の平均気温が上昇しています。
  • 影響: 海面の上昇、異常気象の頻発、生態系の破壊など、その影響は、地球全体に及びます。
  • 気候正義(Climate Justice):
    • 地球温暖化の問題には、深刻な「不正義」の構造があります。
    • 原因と影響の不均衡: 歴史的に、温暖化の原因となる温室効果ガスを大量に排出してきたのは、主に先進工業国です。しかし、海面上昇や干ばつといった、温暖化の深刻な影響を最も受けやすいのは、排出責任が少なく、気候変動への適応能力が低い、途上国や小島嶼国の人々なのです。
    • この、原因を作った者と、被害を受ける者が異なるという不正義を問い直し、責任に応じた負担と、脆弱な立場の人々への支援を求める考え方が、「気候正義」です。

2.3. 生物多様性の損失:生態系中心主義と種の保存の倫理

  • 生物多様性とは: 地球上の生命の豊かさを意味し、①生態系の多様性、②種の多様性、③遺伝子の多様性、という三つのレベルがあります。
  • 損失の現状: 開発や環境汚染、気候変動などによって、現在、生物の絶滅は、過去にないスピードで進行しており、多くの科学者は「第六の大量絶滅」の時代にあると警告しています。
  • 倫理的問い: なぜ、私たちは生物多様性を守るべきなのでしょうか。
    • 人間中心主義的な理由: 生物多様性は、人間に、食料、医薬品、あるいは生態系サービスといった、多くの恵みを与えてくれるから(道具的価値)。
    • 非人間中心主義的な理由: 人間以外の、個々の生物(生命中心主義, Biocentrism)や、種、そして生態系全体(生態系中心主義, Ecocentrism)もまた、人間への有用性とは無関係に、それ自体として存在する価値(内在的価値)を持っており、道徳的な配慮の対象となるべきである。

2.4. 「持続可能な社会」の理念:世代間倫理と未来世代への責任

環境問題は、空間的な広がりだけでなく、時間的な広がりも持っています。

  • 世代間倫理(Intergenerational Ethics):
    • 私たち現世代の行動(資源の大量消費、環境汚染など)は、まだ生まれていない未来世代の生存環境に、深刻な、そして不可逆的な影響を及ぼします。
    • 世代間倫理は、現世代が、未来世代に対して、どのような倫理的な責任を負うのかを問う分野です。
  • 「持続可能な開発(Sustainable Development)」:
    • この世代間倫理の考え方を具体化したのが、「将来の世代の欲求を満たしうる能力を損なうことなしに、現在の世代の欲求を満たすような開発」と定義される、「持続可能な開発」の理念です(1987年、ブルントラント委員会報告)。
    • これは、環境保全と経済開発を、対立するものではなく、両立可能なものとして捉え、長期的な視点から社会のあり方を見直そうとする、現代の環境政策の基本理念となっています。

2.5. 代表的な思想家:ピーター・シンガー、ハンス・ヨナス、アルネ・ネス

環境倫理の分野では、伝統的な倫理学の枠組みを拡張しようとする、多くの思想家が登場しました。

  • ピーター・シンガー:
    • オーストラリアの功利主義の哲学者。『動物の解放』を著し、人間だけでなく、快楽や苦痛を感じる能力(感応性)を持つ動物もまた、道徳的配慮の対象であると主張しました。
    • 人間が、自らの種(ホモ・サピエンス)の利益を、他の種の利益よりも不当に優先させることを、「種差別(speciesism)」と呼び、人種差別や性差別と同様の、不当な偏見であると批判しました。
  • ハンス・ヨナス:
    • ドイツの哲学者。『責任という原理』の中で、近代科学技術が持つ、地球規模での破壊的な力に対して、新しい倫理が必要であると説きました。
    • 彼は、未来世代と自然の生存可能性そのものを守ることを、現代世代の至上の義務とし、「汝の行為の帰結が、地球上における真正な人間的生命の永続と、両立しうるように行為せよ」という、新しい定言命法を提唱しました。
  • アルネ・ネス:
    • ノルウェーの哲学者。「ディープ・エコロジー(Deep Ecology)」を提唱しました。
    • 彼は、公害対策など、人間中心的な視点からの環境保護(シャロー・エコロジー)を批判し、人間が自然から自立しているという考え方自体を改め、**人間と自然が一体であるという生態学的な自己(エコ・セルフ)**に目覚めるべきだと主張しました。自然との一体化を目指す、より根源的で、精神的な環境思想です。

2.6. アニミズムの再評価:日本の自然観からのアプローチ

西洋の「自然支配観」への反省から、自然と人間の共生を重視する、非西洋的な自然観が、近年、再評価されています。

  • 日本の自然観: Module 7で見たように、日本の伝統的な神道的自然観は、森羅万象に霊性(カミ)を見出すアニミズム的な性格を持ち、自然を、支配の対象ではなく、共生し、畏敬すべき対象として捉えてきました。
  • 現代的意義: このような自然観は、環境倫理が直面する、人間中心主義の限界を乗り越えるための、重要な思想的資源となる可能性を秘めています。

3. デジタル化する世界と人間:情報倫理

3.1. 情報化社会の進展と新たな倫理的問題

20世紀末からのインターネットの爆発的な普及と、スマートフォンの登場は、私たちの生活を劇的に変えました。私たちは、いつでも、どこでも、世界中の情報にアクセスし、他者と繋がることができるようになりました。しかし、この「情報化社会」は、プライバシー、真実、そして人間のあり方そのものをめぐる、新たな倫理的問題群を私たちに突きつけています。

3.2. 監視社会とプライバシーの権利:パノプティコンの現代的実現

  • ビッグデータと監視資本主義:
    • 私たちが、検索エンジン、SNS、オンラインショッピングなどを利用するたびに、私たちの行動履歴、興味関心、人間関係といった、膨大な**個人情報(ビッグデータ)**が、巨大IT企業(GAFAなど)によって収集・分析されています。
    • これらのデータは、ターゲティング広告などに利用され、巨大な利益を生み出しています。社会学者のショシャナ・ズボフは、このような、人間の経験を商品化し、行動を予測・制御しようとする新しい資本主義の形態を「監視資本主義」と呼び、警鐘を鳴らしました。
  • 現代のパノプティコン:
    • この状況は、ベンサムが考案し、フーコーが分析した「パノプティコン」の、現代的な実現と見ることができます。私たちは、目に見えないアルゴリズムによって、常に監視され、評価され、そして知らず知らずのうちに、行動を誘導されているのかもしれません。
  • プライバシーの権利:
    • プライバシーとは、単に私生活を覗かれない権利(「一人にしておいてもらう権利」)だけでなく、**自分の個人情報を、いつ、誰に、どこまで開示するかを、自らコントロールする権利(情報自己コントロール権)**をも含みます。
    • 国家や企業による過度な情報収集に対し、このプライバシーの権利をいかに守るかは、情報倫理の根幹をなす課題です。

3.3. フェイクニュースとフィルターバブル:真理と公共圏の危機

  • フェイクニュースの蔓延: SNSなどを通じて、政治的・経済的な意図を持って作られた、虚偽の情報(フェイクニュース)が、真実の情報よりも速く、広く拡散される現象が、深刻な社会問題となっています。
  • ポスト・トゥルース(Post-truth): 客観的な事実よりも、個人の感情や信念に訴えかける言説の方が、世論形成に大きな影響力を持つようになってしまった状況を指します。
  • フィルターバブルとエコーチェンバー:
    • 検索エンジンやSNSのアルゴリズムは、ユーザーの過去の閲覧履歴に基づいて、その人が「見たいであろう」と判断した情報を、優先的に表示します。
    • その結果、ユーザーは、自分の考え方と似た情報ばかりに囲まれ、異なる意見に触れる機会が失われてしまいます(フィルターバブル)。
    • さらに、SNS上で、自分と似た意見を持つ人々とばかり繋がることで、自分の考えが増幅・強化されていく現象(エコーチェンバー)も起こります。
  • 公共圏の危機: これらの現象は、ハーバーマスが理想とした、異なる意見を持つ市民が、理性的な対話を通じて合意形成を目指す「公共圏」を蝕み、社会の分断を深刻化させる危険性をはらんでいます。

3.4. AI(人工知能)と人間の関係:シンギュラリティ、AIの判断、人間の尊厳

近年、ディープラーニングなどの技術的ブレークスルーにより、**AI(人工知能)**は、目覚ましい発展を遂げています。

  • シンギュラリティ(技術的特異点):
    • AIが、自らよりも賢いAIを再帰的に開発し始め、その知能が、人間の知能を遥かに超越する時点が、将来訪れるかもしれない、という予測。これが「シンギュラリティ」です。
    • もしそうなった場合、人間とAIの関係は、どうなるのでしょうか。AIは、人類にとっての脅威となるのか、それとも、人類を新たなステージへと導くパートナーとなるのでしょうか。
  • AIの倫理的判断:
    • 自動運転車のトロッコ問題: 自動運転車が、事故を避けられない状況で、歩行者をはねるか、乗員を守るかの選択を迫られた場合、AIは、どのように判断すべきか。功利主義的な計算(犠牲者の数を最小化する)で判断してよいのか。
    • アルゴリズムのバイアス: AIの判断は、学習に用いたデータに含まれる、人種や性別に関する偏見(バイアス)を、無自覚に再生産・増幅してしまう危険性があります。
  • 人間の尊厳の危機:
    • 医療診断、裁判、採用といった、人間の人生を左右する重要な判断が、人間には理解できないブラックボックス化したAIによって下されるようになったとき、私たちの自律性尊厳は、保たれるのでしょうか。
    • AIが、人間の知的労働や創造的な活動さえも代替するようになったとき、人間の「仕事」や「生きる意味」は、どうなるのでしょうか。

3.5. デジタル・デバイド(情報格差)と情報リテラシー

  • デジタル・デバイド: インターネットやPCなどの情報通信技術を利用できる人と、できない人との間に生じる、経済的・社会的な格差。これは、国内の地域間や世代間、あるいは国際的な先進国と途上国の間にも存在します。
  • 情報リテラシー: 膨大な情報の中から、必要な情報を見つけ出し、その真偽を批判的に吟味し、それを適切に活用する能力。フェイクニュースや情報過多の時代を生き抜く上で、すべての人に不可欠な能力となっています。

3.6. 適用される思想:ミルの自由論、ハーバーマスの討議倫理、フーコーの権力論

  • J.S.ミルの自由論: 彼の「思想・言論の自由」の擁護は、フェイクニュースなどの「害悪な言論」も、自由な討論の市場に委ねるべきか、という現代的な問いを投げかけます。また、「他者危害の原則」は、ネット上の誹謗中傷などに対する、規制の根拠となりえます。
  • ハーバーマスの討議倫理: フィルターバブルやエコーチェンバーによって分断された社会において、彼の理想とする「公共圏」と、理性的な対話を、いかにして再建するかは、現代民主主義の喫緊の課題です。
  • フーコーの権力論: 彼の「パノプティコン」と「規律訓練型権力」の分析は、GAFAなどによる「監視資本主義」のメカニズムを、鋭く解き明かすための、強力な理論的ツールとなります。

4. 公正な社会を求めて:社会正義と分配の倫理

4.1. 社会正義とは何か:機会の平等、結果の平等、能力の平等

私たちは皆、自分が生きる社会が「公正(fair)」であってほしい、と願っています。しかし、何をもって「公正」とするかについては、様々な考え方があります。特に、社会の富や、地位、機会といった、基本的な財を、人々の間でいかに分配するべきか、という「分配的正義」をめぐっては、古来、多くの議論がなされてきました。

  • 機会の平等: すべての人に、競争に参加するための、形式的に平等な機会が与えられるべきである、という考え方。しかし、スタートラインが不平等なままであれば、結果の不平等は拡大してしまいます。
  • 結果の平等: すべての人が、最終的に等しい富や資源を得られるように、結果を再分配すべきである、という考え方。しかし、努力や才能の違いを無視することは、人々の勤労意欲を削ぎ、非効率につながる可能性があります。
  • アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置): 歴史的に不利益を被ってきた集団(人種的マイノリティや女性など)に対し、入学や雇用の際に、一定の優遇措置を与えること。これは、「機会の平等」を実質的に保障するための措置ですが、「逆差別」であるという批判もあります。

4.2. ジョン・ロールズの正義論:『正義論』とリベラリズムの再興

20世紀後半の政治哲学において、この社会正義の問題に、最も体系的で、影響力のある答えを与えたのが、アメリカの哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002)です。1971年に出版された、彼の主著『正義論』は、当時支配的であった功利主義を批判し、カント的な社会契約説を現代に復活させることで、リベラリズムの理論を再興させました。

4.3. 無知のヴェールと原初状態:公正な原理を選択するための思考実験

ロールズは、公正な社会の基本原理を導き出すために、巧みな思考実験を提案します。

  • 原初状態(original position):
    • 社会の基本構造を決定する、公正な「正義の原理」を選ぶための、仮想的な話し合いの状況。
  • 無知のヴェール(veil of ignorance):
    • この話し合いに参加する人々は、「無知のヴェール」を被っている、と仮定されます。
    • すなわち、彼らは、自分が、現実の社会で、どのような立場に置かれるのかを、一切知らないのです。
    • 自分が、金持ちか貧乏か、才能に恵まれているか否か、どの人種・性別に属するか、どのような価値観(人生観)を持っているか、といった、自分に有利/不利に働きうる、すべての個別的な情報を遮断された状態で、正義の原理を選択します。
  • 思考実験の目的:
    • この「無知のヴェール」は、人々の判断から、利己的なバイアスを取り除き、誰もが、公平・公正な視点から、全員にとって受け入れ可能な原理を選択せざるを得ないようにするための、巧妙な仕掛けなのです。
    • このような状況で、合理的な人々は、自分が社会の最も不遇な立場に置かれる可能性を考慮し、最悪の事態を避けるような、慎重な選択をするだろう(マキシミン・ルール)、とロールズは考えました。

4.4. ロールズの正義の二原理:第一原理(平等な自由の原理)と第二原理(格差原理と機会均等原理)

この原初状態での合意の結果、人々は、以下の二つの正義の原理を選択するだろう、とロールズは論じます。

  1. 第一原理(平等な自由の原理):
    • 各人は、他の人々の同様な自由の体系と両立しうる、平等な基本的自由の最も広範な体系に対する、対等な権利を持つべきである。
    • これは、思想・良心の自由、言論の自由、政治参加の自由といった、基本的な自由(人権)を、すべての人に、最大限、平等に保障することを求める、絶対的に優先される原理です。
  2. 第二原理:
    • 社会的・経済的な不平等は、以下の二つの条件を満たすように、編成されなければならない。
      • (a) 格差原理(difference principle): それらの不平等が、最も不遇な立場にある人々の利益を、最大にすること。(ある程度の格差を認めるが、それは、結果として、最も恵まれない人々の状況を改善する場合に限られる)
      • (b) 公正な機会均等の原理(principle of fair equality of opportunity): それらの不平等が、すべての人に、公正に開かれた職務と地位に付随すること。(単なる形式的な機会の平等だけでなく、家庭環境などによる実質的な機会の不平等を、教育などを通じて是正することが求められる)

この二つの原理は、**①自由の優先、②機会の均等、③結果の平等(格差の是正)**という、現代社会が求める価値を、巧みに統合した、リベラルで平等主義的な社会構想を示しています。

4.5. リバタリアニズム(ロバート・ノージック)からの批判:最小国家と自己所有権

ロールズの平等主義的なリベラリズムに対し、個人の「自由」を至上の価値とする**リバタリアニズム(自由至上主義)**の立場から、強力な批判がなされました。

  • ロバート・ノージック(1938-2002):
    • 彼は、主著『アナーキー・国家・ユートピア』で、ロールズの格差原理を批判しました。
    • 自己所有権: 各人は、自分自身の身体と能力、そしてそれを用いて正当に獲得した財産について、絶対的な所有権を持っています。
    • 最小国家: 国家の役割は、暴力や盗難から個人の権利を守る、夜警国家のような「最小国家」に限定されるべきです。
    • 再分配への批判: ロールズが言うような、貧しい人々を助けるための、富裕層からの税金による「再分配」は、個人の正当な所有権を侵害する、一種の「強制労働」であり、正当化できない、と彼は主張しました。正義とは、分配の「パターン」ではなく、財産が「どのようにして」獲得されたか、という**手続きの公正さ(権原理論)**にある、と考えたのです。

4.6. コミュニタリアニズム(マイケル・サンデル)からの批判:共通善と共同体

もう一つの重要な批判は、個人の自律性や権利を重視するリベラリズムそのものに対して、共同体の価値を強調する「コミュニタリアニズム(共同体主義)」の立場からなされました。

  • マイケル・サンデル(1953-):
    • 彼は、ロールズの「無知のヴェール」の思考実験を批判します。
    • 負荷なき自己の批判: ロールズが想定する個人は、共同体や歴史、価値観から切り離された、空虚で「負荷なき自己」です。しかし、現実の私たちは、家族、地域、国家といった、特定の共同体の一員として、その歴史や価値観を深く内面化して生きています。
    • 共通善の重視: したがって、正義を考える上で、個人の権利(ライト)を、共同体が目指すべき「善(グッド)」、すなわち「共通善」から切り離して考えることはできない、とサンデルは主張します。私たちは、どのような共同体で、どのような「善き生」を送りたいのかを、市民として共に討議することから始めなければならないのです。

4.7. アマルティア・センの潜在能力(ケイパビリティ)アプローチ:真の豊かさとは何か

インド出身の経済学者・哲学者アマルティア・セン(1933-)は、従来の富や所得といった基準で「公正」や「幸福」を測ることを批判し、新しい視点を提示しました。

  • 潜在能力(ケイパビリティ, capability)アプローチ:
    • 社会の公正さや、個人の幸福(ウェルビーイング)を測る上で重要なのは、その人がどれだけの資源(モノ)を持っているかではなく、その人が、人間として価値ある様々な「機能(functionings)」を実現するための、実質的な「自由(機会)」を、どれだけ持っているかである。
    • この、人が「何ができ、何であることができるか」という、可能性の集合を、「潜在能力(ケイパビリティ)」と呼びます。
    • 例えば、同じ一台の自転車を持っていても、健康な人と、障害のある人では、その自転車を使って「移動する」という機能を実現できる度合いは異なります。
    • センは、社会開発や正義の目標を、所得の増大から、人々の潜在能力の拡大へと転換させることを提唱し、国連の人間開発指数(HDI)などにも、大きな影響を与えました。

5. グローバル化の中での共生:多文化主義と差異の倫理

5.1. グローバリゼーションの光と影:相互依存の深化と文化摩擦

20世紀末以降、冷戦の終結と情報通信技術の発展により、人、モノ、カネ、情報が、国境を越えて、地球規模で、瞬時に移動する「グローバリゼーション」が、急速に進展しました。

  • 光の側面: グローバル化は、経済的な相互依存を深め、多様な文化の交流を促進し、私たちの生活を豊かにしました。
  • 影の側面: しかし同時に、先進国と途上国の経済格差の拡大、地球規模での環境破壊、そして、異なる文化や価値観を持つ人々との間で起こる「文化摩擦」といった、新たな問題も生み出しています。

5.2. 多文化共生の理念と現実:同化主義、文化多元主義(多文化主義)

多くの国々で、移民や難民の増加により、社会の多文化化が進んでいます。このような社会で、多数派(マジョリティ)と少数派(マイノリティ)は、いかにして共生すべきでしょうか。

  • 同化主義(Assimilationism): 少数派が、自らの文化や言語を捨て、多数派の文化に同化することを求める考え方。
  • 文化多元主義(多文化主義, Multiculturalism):
    • 同化主義を批判し、社会は、少数派の文化の差異(違い)を、積極的に承認し、尊重すべきである、という考え方。
    • 公的な領域でも、少数派の言語の使用や、宗教的な慣習(例えば、公立学校でのヒジャブの着用など)を認めることを目指します。
    • しかし、この多文化主義に対しても、「社会の統合を損ない、文化の『ゲットー化』を招くのではないか」という批判や、女性抑圧的な慣習など、リベラルな価値観と両立しない文化も尊重すべきなのか、といった難しい問題が指摘されています。

5.3. アイデンティティ・ポリティクスと承認をめぐる闘争

  • アイデンティティ・ポリティクス:
    • 人種、民族、ジェンダー、セクシュアリティといった、特定の文化的アイデンティティを持つグループが、自らの尊厳が社会的に不当に扱われているとして、その**承認(recognition)**を求めて行う政治的な運動。
  • 承認をめぐる闘争:
    • カナダの哲学者チャールズ・テイラーは、現代社会における対立の多くが、富の再分配だけでなく、この文化的な「承認」をめぐる闘争として現れていると指摘します。
    • 人間のアイデンティティは、他者から、その価値を正当に認められる(承認される)ことによって形成されます。誤った承認や、承認の欠如は、個人に深刻なダメージを与えるため、文化的な承認は、基本的な人権の一部である、と彼は主張します。

5.4. 普遍主義 vs. 文化相対主義の再検討

多文化社会の現実は、「人権は普遍的か」という、古くて新しい問いを、再び私たちに突きつけます。

  • 普遍主義(Universalism): 人間の尊厳や基本的な権利は、文化や伝統を超えて、すべての人間に等しく適用されるべきである、という立場。
  • 文化相対主義(Cultural Relativism): すべての文化は、それぞれ独自の価値基準を持っており、外部の文化の基準で、その優劣を判断することはできない、という立場。
  • 現代の課題: 普遍的な人権を主張することが、西洋的な価値観の押し付け(文化帝国主義)にならないか。一方で、文化の多様性を尊重することが、その文化内部で行われている人権抑圧(女性差別など)を容認すること(「野蛮な文化は野蛮なりの理由がある」という言い訳)につながらないか。両者の間の、困難なバランスが求められています。

5.5. 異文化理解と対話の倫理:エドワード・サイードのオリエンタリズム批判

パレスチナ出身のアメリカの批評家エドワード・サイード(1935-2003)は、その主著『オリエンタリズム』で、西洋がいかに「東洋(オリエント)」という他者像を、構築してきたかを分析しました。

  • オリエンタリズム:
    • 西洋は、東洋を、神秘的で、非合理的で、停滞しており、支配されるべき「他者」として、表象(イメージ)してきました。
    • この「オリエンタリズム」という知の体系は、客観的な研究ではなく、西洋が東洋を植民地支配するための、権力と結びついた言説であった、とサイードは暴きました。
  • 異文化理解への示唆:
    • 彼の批判は、私たちが、異文化を理解しようとするとき、いかに無意識のうちに、自文化中心的なステレオタイプや、権力的な眼差しに囚われているかを、自覚することの重要性を示しています。真の異文化理解は、このような自己批判的な省察から始まらなければなりません。

5.6. コスモポリタニズム(世界市民思想)の現代的可能性

グローバル化の時代にあって、ヘレニズム時代のストア派にまで遡る「コスモポリタニズム(世界市民思想)」が、再び注目を集めています。

  • 現代のコスモポリタニズム:
    • これは、ナショナルなアイデンティティを否定するものではありません。
    • むしろ、自らが、特定の国や文化に属すると同時に、全人類という、より大きな共同体の一員であるという二重のアイデンティティを自覚し、国境を越えた人々の幸福や、地球全体の課題に対して、責任を負うべきである、という倫理的な立場です。

6. 変容する親密圏:家族とジェンダー

6.1. 「近代家族」という理念とその動揺

近代社会は、「近代家族」という、特定の家族のあり方を、普遍的で自然なものとして理想化してきました。

  • 近代家族の理念:
    • 公私分離: 経済活動が行われる「公的領域(職場)」と、安らぎの場である「私的領域(家庭)」の分離。
    • 性別役割分業: 男性が、外で働き、家計を支え、女性が、家庭内で、家事や育児(ケア)に専念するという役割分業。
    • 愛情で結ばれた、一夫一婦の、異性愛カップルとその子どもからなる「核家族」が、その標準モデルとされました。
  • 動揺する家族:
    • しかし、20世紀後半以降、女性の社会進出、離婚率の上昇、非婚化・晩婚化、少子高齢化といった社会変動の中で、この「近代家族」というモデルは、大きく揺らいでいます。

6.2. 家族の多様化:核家族から単身世帯、事実婚、同性婚へ

現代社会では、家族の形態は、ますます多様化しています。核家族だけでなく、単身世帯、夫婦のみの世帯、ひとり親世帯、事実婚、同性カップルなど、様々な形の「家族」が存在しています。このような現実を前に、私たちは、「家族とは何か」という定義そのものを、問い直すことを迫られています。

6.3. ジェンダーという視点:生物学的性(セックス)と社会的・文化的性(ジェンダー)

家族や社会における、男女の役割分業を、根底から問い直すための、最も重要な分析的視点が、「ジェンダー(gender)」という概念です。

  • セックスとジェンダーの区別:
    • セックス(sex): 生まれつきの、解剖学的な、生物学的な性別
    • ジェンダー(gender): 社会的・文化的に作られた、「男らしさ」「女らしさ」という規範や、性別役割意識
  • ジェンダーの構築性:
    • ジェンダーは、自然で、普遍的なものではなく、それぞれの社会や歴史の中で、構築されてきたものです。
    • 私たちは、社会化の過程で、「男の子だから」「女の子だから」という形で、特定のジェンダー規範を内面化していきます。

6.4. フェミニズムの思想的展開:第一波から第三波まで

このジェンダーという概念を武器に、女性が、男性中心的な社会構造(家父長制, パトリアーキー)の中で、不当な抑圧を受けてきた歴史を批判し、その解放を目指す思想と運動が、「フェミニズム(Feminism)」です。

  • 第一波フェミニズム(19世紀末〜20世紀初頭): 主に、女性の**参政権(選挙権)**の獲得を目指す運動。
  • 第二波フェミニズム(1960年代〜):
    • 法的な権利の平等だけでなく、家庭や職場、文化の中に根強く残る、性差別性別役割分業の撤廃を目指しました。
    • シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』は、その聖典とされます。彼女は、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」と述べ、女性が、いかにして社会的に「女性」という、男性に従属する「他者」として作られてきたかを、哲学的に分析しました。
  • 第三波フェミニズム(1990年代〜):
    • 第二波が、主に白人中産階級の女性の視点から語られていたことを批判し、人種、階級、セクシュアリティなど、**女性たちの間の「差異」**に注目し、多様な女性の経験を尊重することを主張します。

6.5. ケアの倫理(キャロル・ギディガン):正義の倫理との対比

フェミニズムの思想家の中から、伝統的な西洋倫理学そのものが、男性的な価値観に基づいている、という批判が生まれます。

  • キャロル・ギリガン(1936-):
    • 心理学者のギリガンは、男女の道徳的判断の発達を調査し、そこに異なる傾向があることを見出しました。
    • 正義の倫理(男性的な声): 抽象的な権利公正の原理を重視し、普遍的な規則に従って、公平に判断しようとする。
    • ケアの倫理(女性的な声): 個々の具体的な状況や、人間関係のネットワークを重視し、他者への共感や**配慮(ケア)**に基づいて、関係性を維持・修復するように判断しようとする。
  • ケアの倫理の主張:
    • ギリガンは、「ケアの倫理」が、「正義の倫理」より劣っているのではなく、それとは異なる、独自の価値を持つ、重要な道徳的視点であると主張しました。
    • この思想は、これまで私的な領域のものとして軽視されてきた、育児や介護といった「ケア」の営みの、倫理的な重要性を再評価する、大きなきっかけとなりました。

6.6. LGBTQ+と性の多様性の承認をめぐる課題

ジェンダーの視点は、さらに、**セクシュアリティ(性愛のあり方)**の多様性の承認へとつながっていきます。

  • LGBTQ+: レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア(またはクエスチョニング)など、性的少数者を表す総称。
  • 異性愛規範の批判: 私たちの社会が、無意識のうちに、「異性愛」を唯一正常で、自然な性のあり方であると前提としていること(異性愛規範, ヘテロノーマティヴィティ)を批判し、多様な性のあり方が、尊重され、承認されるべきであると主張します。
  • 現代的課題: 同性婚の法制化、学校教育における性の多様性の扱い、トランスジェンダーの人々の権利保障など、多くの倫理的・法的な課題が、活発に議論されています。

7. 暴力の連鎖を断ち切るために:平和主義の思想

7.1. 戦争と平和をめぐる思想史:正戦論から平和主義へ

人類の歴史は、悲しいことに、戦争の歴史でもありました。戦争という、最大の人権侵害であり、組織的な暴力に対して、哲学や宗教は、どのように向き合ってきたのでしょうか。

  • 正戦論(Just War Theory):
    • 戦争を、全面的に肯定も否定もせず、特定の厳格な条件を満たす場合に限り、それが「正しい(正義の)戦争」として許容されうるとする、西洋の伝統的な考え方。アウグスティヌスやトマス・アクィナスによって理論化されました。
    • 開戦の正義(jus ad bellum): 正当な理由(自衛など)、正当な権威、最後の手段、成功の可能性など。
    • 戦闘中の正義(jus in bello): 民間人と戦闘員の区別、釣り合いの原則(軍事的必要性と被害のバランス)など。
  • 平和主義(Pacifism):
    • あらゆる戦争や暴力を、道徳的に悪であるとして、絶対的に否定する立場。初期キリスト教や、一部の宗教宗派(クエーカー教徒など)に見られます。

7.2. カントの『永久平和のために』:共和制、国際連合、世界市民法

近代において、戦争をなくし、恒久的な平和を実現するための、最も体系的で、影響力のある構想を提示したのが、イマヌエル・カントです。

  • 『永久平和のために』:
    • 彼はこの著作で、国家間の永久平和を実現するための、具体的なプランを提案しました。
    • 第一確定条項(国内法): 各国の市民的体制は、共和制でなければならない。(国民の同意なしに戦争を始められないようにするため)
    • 第二確定条項(国際法): 国際法は、自由な諸国家の**連合(国際連合)**に基礎を置かれなければならない。(国家の主権を尊重しつつ、戦争を防止するための国際的な枠組み)
    • 第三確定条項(世界市民法): 世界市民法は、普遍的な**友好(歓待)**の条件に限定されなければならない。(外国人が、他国で、敵として扱われない権利)
  • カントのこの構想は、その後の国際連盟や国際連合の設立、そして現代の国際法の思想に、大きなインスピレーションを与えました。

7.3. 現代の課題① 核兵器と抑止力の倫理

20世紀に登場した核兵器は、戦争の性質を根本的に変えました。

  • 相互確証破壊(MAD): 核保有国同士が戦争をすれば、双方が確実に壊滅的な打撃を受け、共倒れになる。この「恐怖の均衡」が、かえって大国間の全面戦争を防ぐ「核抑止力」として機能してきた、という考え方。
  • 倫理的ジレンマ:
    • 核抑止論は、功利主義的には、戦争を防ぐという「結果」を正当化するかもしれません。
    • しかし、義務論的には、罪のない民間人を大量に殺戮する兵器を、使用する「意図」を持つこと自体が、道徳的に許されるのか。
    • また、偶発的な戦争や、テロリストの手に渡るリスクを、人類は永遠に管理し続けることができるのでしょうか。

7.4. 現代の課題② テロリズムと「対テロ戦争」のジレンマ

  • テロリズム: 非国家主体が、政治的な目的を達成するために、民間人を標的として、無差別に行う暴力。
  • 「対テロ戦争」の困難:
    • 2001年のアメリカ同時多発テロ以降、アメリカは「対テロ戦争」を宣言しました。
    • しかし、敵が国家ではなく、世界中に潜伏するテロ組織であるため、従来の国家間の戦争とは全く様相が異なります。
    • 「正戦論」の基準(正当な権威、戦闘員と非戦闘員の区別など)を適用することが、極めて困難になります。
    • 予防的な自衛戦争や、捕虜の拷問、ドローンによる無差別攻撃といった、国際法や人権を揺るがす事態が、正当化されがちになるという、深刻なジレンマを抱えています。

7.5. 現代の課題③ 貧困、飢餓、開発をめぐる南北問題

  • 構造的暴力: 平和とは、単に戦争がない状態(消極的平和)だけではありません。ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは、貧困、飢餓、抑圧、差別といった、社会の構造そのものに組み込まれた、目に見えにくい暴力(構造的暴力)が存在し、それによって多くの人々が、潜在的な可能性を十分に実現できずにいる状態を指摘しました。
  • 積極的平和: 真の平和(積極的平和)とは、このような構造的暴力をも克服し、すべての人々が、人間としての尊厳を全うできる社会を実現することにあります。
  • 南北問題: グローバルな経済システムの中で、豊かな先進国(グローバル・ノース)と、貧困に苦しむ途上国(グローバル・サウス)との間の、構造的な格差が、依然として深刻な問題となっています。この不平等を是正し、地球規模での「積極的平和」を実現することは、現代の最も重要な倫理的課題の一つです。

7.6. 非暴力の思想:ガンディーのサティヤーグラハとキング牧師の公民権運動

20世紀には、国家による暴力(戦争)や、社会的な不正義に対し、武力ではなく、「非暴力」の力で抵抗しようとする、力強い思想と実践が生まれました。

  • マハトマ・ガンディー:
    • インド独立の父。彼は、イギリスの植民地支配に対し、「サティヤーグラハ(真理の把握)」という、独自の非暴力抵抗運動を指導しました。
    • これは、単なる消極的な不服従ではなく、自らの苦しみを通じて、相手の良心に訴えかけ、相手の心を変革させようとする、積極的で、精神的な闘争でした。
  • マーティン・ルーサー・キング・ジュニア:
    • アメリカの公民権運動の指導者。ガンディーの非暴力の思想に学び、人種差別という不正義に対し、座り込みやデモ行進といった、非暴力直接行動を貫きました。
    • 彼は、「不正な法は、法ではない」とし、良心に従って、あえて法を破り、その罰を甘んじて受ける「市民的不服従」を、民主主義社会における、重要な抵抗の手段として位置づけました。

7.7. 日本国憲法の平和主義とその思想的意義

第二次世界大戦での壊滅的な被害への反省から、日本国憲法は、その前文と第九条において、徹底した平和主義を掲げています。

  • 第九条:
    • 第一項: 国際紛争を解決する手段としての、戦争の放棄
    • 第二項: その目的を達するため、戦力の不保持と、交戦権の否認
  • 思想的意義:
    • この憲法の平和主義は、単に戦争をしない、という消極的なものに留まりません。
    • 前文では、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と述べ、ガルトゥングの言う「積極的平和」の理念を、世界に先駆けて、高らかに謳いあげています。
    • この理念を、今日の複雑な国際情勢の中で、いかにして維持し、実現していくか。それは、現代日本に生きる私たちに課せられた、重く、そして重要な倫理的課題であり続けています。

結び:終わらない探求へ

全八章にわたる、私たちの長い思想の旅は、ここで一旦の区切りを迎えます。私たちは、古代ギリシアの哲人たちが「善く生きるとは何か」という問いを立てた、その源流から出発し、西洋、そして東洋の、広大な知の海を航海してきました。そして今、その旅で得た、数々の思想という名の海図を手に、現代社会という、複雑で、時に荒れ狂う大海原へと、再び漕ぎ出そうとしています。

この旅を通じて、私たちが学んだことは何だったでしょうか。それは、おそらく、生命倫理、環境問題、社会正義といった、現代の難問に対する、唯一絶対の「正解」ではなかったはずです。もしそうした安易な答えがあるのなら、人類二千数百年以上の、苦闘に満ちた知的探求は、そもそも不要だったでしょう。

私たちが手にしたのは、むしろ、**物事を、より深く、より多角的に、そしてより粘り強く思考するための、「思考のOS」**そのものです。

カントの義務論は、たとえ結果がどうであれ、守るべき人間の「尊厳」とは何かを、私たちに問いかけます。ミルの功利主義は、社会全体の幸福という、無視できない視点を提供してくれます。ロールズの正義論は、最も恵まれない人々の視点に立つという、公正さへの想像力を鍛えてくれます。アリストテレスや孔子の共同体主義は、孤立した個人では見失いがちな、人間関係の網の目の重要性を教えてくれます。そして、キルケゴールやニーチェ、あるいは禅仏教の思想は、理性だけでは捉えきれない、生の非合理な深淵へと、私たちの目を向けさせてくれます。

現代社会が直面する倫理的課題は、ますます複雑化し、グローバル化しています。そこには、簡単に白黒をつけられる問題は、ほとんどありません。あるのは、様々な価値観の対立であり、異なる正義の間の、困難な調整です。

このような時代にあって、私たちに求められるのは、性急な答えに飛びつくことではなく、まず、その問題の構造を、歴史的な文脈の中で、冷静に分析すること。そして、自分とは異なる立場の人々の声に、真摯に耳を傾け、その論理と感情を理解しようと努めること。さらに、これまで人類が蓄積してきた、豊かな思想の遺産に学び、自らの思考の偏りを自覚し、修正していく、知的謙虚さを持つこと。そして何よりも、「善く生きる」ことへの問いを、決して手放さず、自分自身の人生と、自分が属する社会の中で、問い続ける勇気を持つことです。

この壮大な思想史の旅は、一つの終わりであると同時に、皆さん一人ひとりにとっての、新しい探求の始まりでもあります。過去の賢人たちとの対話を糧に、皆さんが、これからの人生で出会うであろう、数々の倫理的な問いに対して、自分自身の誠実な答えを見出していくことを、心から願っています。探求の旅に、終わりはありません。

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