【明治 全学部 現代文】Module 4: 明治大学・頻出テーマ特講 – 背景知識の戦略的活用
本モジュールの目的と概要
これまでのModuleでは、文章をいかにして「読む」かという、普遍的な**技術(スキル)を磨いてきた。しかし、明治大学の現代文で高得点を安定して獲得するためには、もう一つの重要な要素が存在する。それは、出題される文章の「内容」そのもの、すなわち頻出テーマに関する背景知識(スキーマ)**である。
もちろん、これは特定の知識を暗記し、それを文章に当てはめるという単純な作業ではない。ここでいう背景知識とは、それぞれのテーマにおいて、どのような問題が、どのような論理(対立構造や因果関係)で語られやすいのかという**「議論の型」**を理解しておくことである。この「型」を知っていれば、初見の文章であっても、筆者の議論の立ち位置や、文章全体の構造を素早く、かつ深く予測しながら読み解くことが可能となる。
本Module 4では、明治大学の過去問を徹底的に分析し、特に出題頻度の高い6つのテーマを取り上げる。それぞれのテーマにおける主要な概念、思想家の名前、そして典型的な議論のパターンを戦略的にインプットすることで、読解のスピードと精度を飛躍的に向上させるための「知的体力」を養成する。これは、あなたの読解力を「技術」から「見識」へと引き上げるための、最後の仕上げである。
1. 『近代批判と西洋中心主義:明治大学が問う「自己」と「他者」』
1.1. 「近代」とは何か?―光と影の二面性
- 「近代」の定義: 評論で用いられる「近代」とは、単に「昔ではない現代」という意味ではない。それは、おおよそ17世紀の科学革命や18世紀の産業革命以降に西洋で確立された、以下のような特徴を持つ時代精神や社会システムを指す。
- 合理主義: 神話や宗教に代わり、理性と論理ですべてを説明・支配しようとする態度。
- 個人(主体)の確立: 共同体や身分制度から解放された、自由で自律的な個人が社会の基本単位となる。
- 国民国家: 明確な国境によって区切られ、単一の言語・文化を持つとされる国民(ネイション)によって構成される国家。
- 進歩史観: 歴史は常に「より良いもの」へと進歩していくという信念。
1.2. 明治大学が問う「近代の影」
- 明治大学の評論では、上記のような「近代」の輝かしい側面が称賛されることは稀である。むしろ、その**「光」がもたらした「影」の部分**、すなわち近代化の弊害や矛盾を告発し、その超克の可能性を問う文章が圧倒的に多い。
- 典型的な近代批判の論点:
- 人間疎外: 山本理顕『権力の空間/空間の権力』(2016年度)で論じられるように、分業化された工場労働は、労働者から仕事の喜びや全体性を奪い、「たんなる人間の断片」にしてしまう。これは、効率性や合理性を追求する近代が生み出した典型的な「疎外」である。
- 共同体の解体: 近代的な個人が確立される一方で、人々がかつて帰属していた伝統的な共同体(村や大家族など)は解体され、個人は孤独で断片化された存在となった。
- 自然の支配: 近代科学は自然を克服・支配すべき対象とみなし、その結果、深刻な環境破壊を引き起こした。
1.3. 「西洋中心主義」の超克と「自己」の問い直し
- 「近代」は西洋で生まれた概念であるため、近代化とはしばしば「西洋化」と同一視される。この「西洋の価値観こそが普遍的で優れたものである」という思想が**西洋中心主義(ユーロセントリズム)**である。
- 明治大学の入試問題は、この西洋中心主義を無批判に受け入れてきた日本人の「自己」のあり方を問い直す傾向が強い。
- 鈴木孝夫『新・武器としてのことば』(2010年度)では、日本人が名前をローマ字表記する際に欧米の順序に合わせることや、握手という西洋の挨拶様式に無自覚に従うことを例に挙げ、日本人がいかに自らの文化を客観視できず、西洋の基準に自らを合わせているかを批判している。
- 「アメリカ大陸はコロンブスによって発見された」という歴史認識も、そこに先住民がいたという事実を無視した、典型的な西洋中心主義の表れとしてしばしば言及される。
- これらの文章は、受験生に対し、「他者」である西洋の視点から自らを一方的に規定するのではなく、自らの文化的な文脈から「自己」を再確立し、世界を多角的に見る視座を持つことを要求している。
1.4. キーワード
- 主体: 自由な意志を持ち、自律的に判断・行動する個人。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」がその典型。
- 合理主義: 感情や伝統よりも、論理的で計算可能な思考を優先する態度。
- 共同体: 地縁や血縁など、伝統的なつながりに基づく、情緒的な一体感を持つ集団。近代社会では失われたものとして描かれることが多い。
- 疎外: 本来一体であるべきものから切り離され、人間が非人間的な状態に置かれること。
- ポストモダン: 「大きな物語」(近代の進歩史観など)が失われた後の時代状況。近代の普遍性や合理性を批判的に捉える思想。
2. 『メディア論の系譜:複製技術・情報社会が変容させる認識の枠組み』
2.1. メディアはメッセージ「だけ」ではない
- メディア論の基本的な考え方は、メディア(媒体)が伝える**内容(メッセージ)**だけでなく、メディアの形式そのものが人間の認識や社会構造を大きく変える、というものである。
- 加藤秀俊『社会学』(2019年度)で論じられているように、ラジオという放送メディアの登場は、単に遠くの情報を伝えるだけでなく、それまで存在しなかった「国民」という規模の巨大な「世間」を創り出し、国民国家の形成に決定的な役割を果たした。これは、メディアの技術的特性が社会を規定した典型例である。
2.2. ヴァルター・ベンヤミンと「アウラの消滅」
- メディア論、特に複製技術を論じる際に頻繁に引用されるのが、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」という概念である。
- アウラとは: オリジナルの芸術作品だけが持つ、「いま、ここにしかない」という一回性、権威、輝き、雰囲気のこと。
- アウラの消滅: 写真や映画といった機械的な複製技術は、このアウラを破壊する。誰でも、いつでも、どこでも同じ作品を見られるようになることで、オリジナル作品の持つ唯一無二の価値は失われる。
- 松浦寿輝『平面論』(2020年度)では、このベンヤミンの議論が直接的に参照されている。「アウラの消滅」の後に出現するのが、「等距離性」(遠いものも近いものも同じ平面に並ぶ)と「再現性」(同じものが際限なくコピーされる)であるとされ、これが近代の「イメージ」の特質だと論じられている。
2.3. デジタル複製と「オリジナルなきコピー」
- ベンヤミンが論じたのはアナログな複製技術だったが、現代のデジタル技術は、メディア環境をさらに根底から変容させた。
- 粉川哲夫『メディアの臨界』(2021年度)では、このデジタル化の問題が中心的に扱われている。アナログレコードが針でこすれることで劣化していくのに対し、デジタルデータ(CDなど)は全く劣化しないコピーを無限に作ることが可能である。
- これにより、「最高の価値を持つオリジナル」と「それより劣るコピー」という区別自体が無意味になり、**「オリジナルなき複製」**が氾濫する時代となった。これは、著作権(コピーライト)という近代的な概念の根幹を揺るがす事態であり、明治大学の入試問題が好んで取り上げるテーマの一つである。
2.4. キーワード
- アウラ: オリジナルの芸術作品だけが持つ、一回性の輝きや権威。
- 複製技術: 写真、映画、印刷、デジタルコピーなど、オリジナルを複製する技術全般。
- 活字文化: 印刷技術を基盤とした文化。書物による論理的思考を育んだとされる。
- 映像文化: テレビやインターネットなど、視覚イメージを中心とした文化。
- 情報社会: モノの生産よりも、情報の生産・伝達・消費が社会の中心となった社会。
3. 『言語と認識:「ことば」が世界を分節する様態の読解』
3.1. 「ことば」が世界を創る―言語が認識の枠組みとなる
- 言語論の基本的な出発点は、「言葉は、既に存在する世界に名前を付けるための単なる道具(ラベル)ではない」という考え方にある。
- むしろ、我々は言語というフィルターを通してしか世界を認識できない。言語は、連続的で混沌とした現実世界に切れ目を入れ、整理・分類するための「枠組み」なのである。この働きを「分節」という。
- 例えば、虹の色を日本では「七色」と分節するが、文化によっては「三色」や「五色」と分節する。これは、虹そのものが違うのではなく、世界を切り分ける「言葉」のシステムが違うからに他ならない。
3.2. シンボル環境としての言語―実在からの離脱
- 加藤秀俊『情報行動』(2012年度)は、この「言語と認識」のテーマを非常に分かりやすく解説している。
- 筆者は、人間はネコのように「無言の実在世界そのもの」を生きているのではなく、言葉や概念といった**「シンボル」で構築された二次的な環境(シンボル環境)**を生きていると主張する。
- 我々が「山」を見るとき、それは物理的な山そのものではなく、我々の頭の中にある「山」というシンボル(概念)を通して見ているに過ぎない。
- この文章で挙げられている「耳なし芳一」の比喩は秀逸である。芳一の身体が経文で覆われたように、現代の世界は、地球の隅々まで名前(シンボル)が貼り付けられ、実在が覆い隠されてしまった状態だと筆者は言う。この比喩の意図を理解することが、文章読解の鍵となる。
3.3. キーワード
- 記号(シーニュ): あるものを指し示すためのしるし。言語も記号の一種。
- シニフィアン/シニフィエ: スイスの言語学者ソシュールが提唱した概念。シニフィアンは「意味するもの」(例:「イヌ」という音声)、シニフィエは「意味されるもの」(例:犬という概念)。この二つの結びつきは恣意的(任意)であるとされる。
- 分節: 連続した世界に切れ目を入れて、意味のある単位に区切ること。言語の基本的な機能。
- 言霊: 言葉に宿ると信じられている神秘的な力。
4. 『文化とアイデンティティ:グローバリゼーションの中の日本』
4.1. グローバリゼーションの二重性―均質化と固有化
- グローバリゼーションとは、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて地球規模で一体化していく動きを指す。
- この動きは、二つの相反する側面を持つ。
- 均質化: 世界中どこへ行っても同じ商品(マクドナルドなど)や文化(ハリウッド映画など)が広まり、地域ごとの文化的な差異が失われていく側面。
- 固有化(多様化): グローバルな文化とローカルな文化が混ざり合って新たな文化(ハイブリッド文化)が生まれたり、逆に均質化への抵抗として、自らの民族的・文化的なアイデンティティをより強く意識する動き(ナショナリズムの再燃など)が生まれたりする側面。
4.2. 揺らぐ「国民国家」とアイデンティティ
- 伊豫谷登士翁「移動経験の創りだす場」(2015年度)は、現代におけるグローバリゼーションとアイデンティティの問題を正面から扱った典型的な文章である。
- 筆者は、近代という時代が「国民国家」を自明の単位とし、その国境の内側で政治・経済・文化が完結する、という考え方に基づいていたと指摘する。
- しかし、現代においては、かつてない規模での人の移動(移民、観光、ビジネスなど)が常態化し、この「国民国家」という囲い込みが根底から揺らいでいる。
- その結果、「自分は何者か」という問い、すなわちアイデンティティのあり方もまた、流動的にならざるを得ない。人々は、単一の国籍や民族に帰属するだけでなく、複数の場所に拠点を置いたり、様々な文化を横断したりしながら、新たなアイデンティティを模索する必要に迫られている。このような状況が、明治大学の評論では頻繁に論じられる。
4.3. キーワード
- グローバリゼーション: 地球規模化。経済、文化、政治など様々な側面を持つ。
- ナショナリズム: 国家や民族を最優先する思想。グローバリゼーションへの対抗として現れることがある。
- アイデンティティ: 自己同一性。「自分は何者か」という問いに対する答え。
- 文化相対主義: どの文化にも固有の価値があり、文化間に優劣はないとする考え方。西洋中心主義と対立する。
- 共生: 異なる文化を持つ人々が、互いの違いを認め合いながら共に生きること。
5. 『科学技術と人間:現代社会における倫理的問いの構造』
5.1. 科学の「客観性」への問い
- 近代において、科学は最も信頼できる「客観的」な真理を探究する方法だと考えられてきた。
- しかし、現代思想では、科学もまた特定の歴史的・文化的な文脈の中で成立する一つの「物語」に過ぎないのではないか、という問いが立てられることがある。
- 例えば、トーマス・クーンが提唱した「パラダイム」という概念は、科学が常に進歩していくのではなく、時としてその時代の科学者共同体が共有する根本的な枠組み(パラダイム)そのものが革命的に転換すること(パラダイムシフト)を指摘した。これは、科学の絶対的な客観性に対する重要な批判となっている。
5.2. テクノロジーと倫理的ジレンマ
- 科学技術の発展は、我々の生活を豊かにする一方で、これまで存在しなかった新たな倫理的な問題を生み出す。
- 例えば、人工知能(AI)、ゲノム編集、生命倫理(クローン技術、延命治療など)といったテーマは、私たちに「人間とは何か」「生命とは何か」といった根源的な問いを突きつける。
- 明治大学の入試問題では、こうした科学技術の発展を楽観的に捉えるのではなく、それがもたらす倫理的なジレンマや、人間のあり方への影響を批判的に考察する文章が出題される可能性が高い。
5.3. キーワード
- 技術決定論: 技術が社会のあり方を一方的に決定するという考え方。
- 科学主義: 科学的な方法や知識を万能とみなし、それ以外の知のあり方を軽視する態度。
- パラダイム: ある時代の科学者たちに共有されている、物の見方や考え方の根本的な枠組み。
- 倫理: 人として守るべき道。何が「善い」行ないであるかを問う学問。
6. 『芸術論・身体論の深層:近代における「見る」「見られる」の変容』
6.1. 「見る」ことの変容と「視線」の政治学
- 近代以降、特に写真や映画といった視覚メディアの発達は、「見る」という行為の意味を大きく変容させた。
- フランスの思想家ミシェル・フーコーは、近代社会を、人々が常に「見られている」という意識のもとに自らを規律づける「パノプティコン(一望監視装置)」的な社会であると分析した。この「視線」の権力性は、現代の監視カメラ社会やSNSにも通じる問題である。
- 松山巌『乱歩と東京』(2021年度)では、鏡に取り憑かれた男の物語を通して、近代的な「自己」がいかに「見ること/見られること」という欲望と恐怖に囚われているかが描かれている。鏡の中に無限に映し出される自己像は、統一された自己という近代的な幻想が崩壊していく様を象徴している。
6.2. 芸術における「身体性」の復権
- 近代の合理主義が、精神を身体よりも上位に置く「心身二元論」に基づいていたのに対し、現代思想では、思考や認識の基盤としての**「身体」**の重要性が見直されている。
- 内田樹「活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?」(2014年度)は、このテーマを扱った優れた一例である。筆者は、電子書籍では、紙の本を読む際に得られる「残り頁の厚み」といった身体実感が失われると指摘する。この身体感覚の欠如が、「物語の終わりの接近」を感じ取る能力や、書物との「宿命的な出会い」という経験を困難にすると論じている。
- これは、情報が非物質的なデータとして流通する現代において、失われつつある「身体性」の価値を再評価しようとする、身体論の典型的な議論の型である。
6.3. キーワード
- 身体: 単なる物質的な肉体ではなく、文化的に意味づけされ、経験を生きる主体としての身体。
- 視線: 単なる「見ること」ではなく、権力関係や欲望を伴うまなざし。
- 表象(レプリゼンテーション): あるものを別のもの(イメージ、記号など)で表現すること、またその表現されたもの。
- パフォーマティヴィティ: 言葉や行為が、単に何かを記述するだけでなく、その行為自体を遂行する力を持つという考え方。
本モジュールのまとめ
本Module 4では、明治大学の評論で頻出する6つの重要テーマについて、その基本的な概念と議論の「型」を学んだ。これらの背景知識は、未知の文章に対する「地図」の役割を果たす。文章を読み始める前に、そのテーマがどのような対立軸や論理で語られやすいのかを予測できれば、読解の道筋は格段に明確になるだろう。
しかし、繰り返しになるが、これは知識の暗記を推奨するものではない。重要なのは、これらの「型」を意識しながら、あくまで目の前の本文の論理を最優先で読解することである。背景知識は、あなたの読解を補助し、深化させるためのツールであり、本文の記述を無視して結論を出すためのものではない。
これまでのModuleで培った読解の「技術」と、本モジュールで得たテーマ理解という「見識」。この両輪が揃った今、いよいよ最終段階へと進む。次のModule 5では、試験本番で確実に合格点を叩き出すための、時間配分や得点最大化といった、より実践的な「最終戦略」を伝授する。