【基礎 物理(熱力学)】Module 6:等温変化と断熱変化
本モジュールの目的と構成
Module 5では、「体積一定」と「圧力一定」という、制御しやすい条件下での状態変化を探求しました。それにより、私たちはモル比熱という新しい物理量を手に入れ、熱力学第一法則の理解を深めました。本モジュールでは、熱力学の探求をさらに進め、残る二つの重要な基本プロセス—「等温変化」と「断熱変化」—の世界に分け入ります。
この二つのプロセスは、ある意味で対極的な性質を持っています。
- 等温変化は、系の温度を常に一定に保つために、外部の熱源(熱浴)とゆっくりと熱をやり取りし続ける、いわば「オープン」なプロセスです。ここでの主役は、温度を一定に保つという「制約」です。
- 断熱変化は、系を断熱材で完全に覆うか、あるいはプロセスを極めて高速に行うことで、外部との熱のやり取りを完全に遮断する、いわば「クローズド」なプロセスです。ここでの主役は、熱の出入りがゼロ (\(Q=0\)) という「制約」です。
この対照的な二つのプロセスに対して、熱力学第一法則と理想気体の法則を適用することで、私たちは気体の振る舞いに関する、さらに深い洞察を得ることができます。特に、断熱変化の際に圧力と体積が従う「ポアソンの法則」の導出は、本モジュールの数学的なクライマックスであり、これまでの知識を総動員する、論理的思考の訓練の場となります。
このモジュールを学ぶことで、あなたは以下の知的な探求を行います。
- 等温変化の定義とP-V図上の表現: 温度が一定という特殊な条件下での変化を理解します。
- 等温変化における内部エネルギー変化: 理想気体において、等温変化がもたらす決定的な帰結(\(\Delta U = 0\))を学びます。
- 等温変化における熱力学第一法則の適用: 吸収した熱がすべて仕事に変わる(\(Q = -W\))、というエネルギー変換の純粋な形を分析します。
- 断熱変化の定義とP-V図上の表現: 熱の出入りがゼロという、もう一つの重要な条件下での変化を理解します。
- 断熱変化における熱の出入り: 断熱変化を定義づける根本的な制約(\(Q=0\))を確認します。
- 断熱変化における熱力学第一法則の適用: 仕事がすべて内部エネルギーの変化になる(\(\Delta U = W\))、という力学的エネルギーと熱的エネルギーの直接変換を分析します。
- ポアソンの法則の導出と応用: 断熱変化を支配する関係式 \(PV^\gamma = \text{一定}\) を、第一法則と状態方程式から理論的に導出します。
- 断熱変化における温度、圧力、体積の関係: ポアソンの法則を様々な形で表現し、使いこなす術を学びます。
- 等温曲線と断熱曲線の傾きの比較: なぜ断熱変化のグラフは等温変化のグラフよりも急になるのかを、定性的かつ定量的に理解します。
- 断熱圧縮と断熱膨張の具体例: 身の回りに潜む断熱変化の数々の例を通して、物理法則の普遍性を実感します。
等温変化と断熱変化は、エンジンや冷凍機といった熱機関の理論的なモデル(カルノーサイクルなど)を構成する、基本的な部品です。このモジュールをマスターすることは、熱力学の応用分野への扉を開く、不可欠なステップとなるでしょう。
1. 等温変化の定義とP-V図上の表現
1.1. 温度を一定に保つプロセス:等温変化
熱力学における四つの基本的な状態変化のうち、三つ目が「等温変化 (isothermal process)」です。その名は、「iso(等しい)」と「thermal(熱の)」というギリシャ語の語源が示す通り、
気体の温度 (\(T\)) を常に一定に保ったまま、体積や圧力を変化させるプロセス
を指します。
1.1.1. 実験的な実現方法
系の温度を一定に保つ、というのは、実は口で言うほど簡単なことではありません。例えば、気体を圧縮すれば、外部から仕事をされるため、何もしなければ温度は上昇するはずです(断熱圧縮)。逆に膨張させれば、外部に仕事をするため、温度は下降するはずです(断熱膨張)。
では、どうすれば温度を一定に保ちながら、体積や圧力を変化させることができるのでしょうか。
そのためには、二つの重要な条件が必要です。
- 熱源(熱浴)との接触: 系(シリンダー内の気体)を、熱容量が非常に大きい、温度が一定の外部環境と接触させておく必要があります。このような外部環境を「熱源 (heat source)」または「熱浴 (heat bath)」と呼びます。
- 気体を圧縮して温度が上がろうとすると、その熱は直ちに熱浴へと逃げていき、温度は元に戻ります。
- 気体を膨張させて温度が下がろうとすると、熱浴から熱が直ちに流入してきて、温度は元に戻ります。
- 極めてゆっくりとした操作(準静的過程): 上記の熱のやり取りが、系の隅々まで完全に行き渡るための時間を確保する必要があります。そのため、ピストンを押したり引いたりする操作は、限りなくゆっくりと行わなければなりません。このような、系が常に熱平衡状態を保ちながら進む理想的なプロセスを「準静的過程 (quasi-static process)」と呼びます。
したがって、等温変化とは、「熱浴と接した系を、準静的に変化させるプロセス」である、とより厳密に言うことができます。
1.2. 等温変化における状態量の関係
温度 \(T\) と物質量 \(n\) が一定という条件下では、理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) はどうなるでしょうか。
右辺の \(n, R, T\) がすべて定数となるため、その積 \(nRT\) もまた、プロセスを通じて常に一定の値をとります。したがって、
等温変化では、気体の圧力 (\(P\)) と体積 (\(V\)) は反比例する。
これは、Module 2で学んだ「ボイルの法則」そのものです。
\[ PV = \text{一定} \quad (\text{at constant } T, n) \]
ある状態(\(P_1, V_1\))から別の状態(\(P_2, V_2\))への等温変化では、
\[ P_1V_1 = P_2V_2 \]
という関係が常に成り立ちます。
1.3. P-V図上での表現
ボイルの法則が支配する等温変化は、P-V図(縦軸P、横軸V)上で、どのような軌跡を描くでしょうか。
\(PV = \text{一定}\) という反比例の関係は、数学的には双曲線として描かれます。P-V図において、この等温変化の軌跡である双曲線のことを、特に「等温線 (isotherm)」と呼びます。
- 等温膨張: 気体をゆっくり膨張させると、体積 \(V\) が増加し、ボイルの法則に従って圧力 \(P\) は減少します。したがって、P-V図上では、点は等温線に沿って、右下方向へと移動します。
- 等温圧縮: 気体をゆっくり圧縮すると、体積 \(V\) が減少し、圧力 \(P\) は増加します。したがって、P-V図上では、点は等温線に沿って、左上方向へと移動します。
また、異なる温度の等温線は、異なる位置に描かれます。状態方程式 \(PV=nRT\) から、\(PV\) の積は絶対温度 \(T\) に比例します。したがって、より温度が高い等温線ほど、P-V図の原点から遠い位置(右上側)に描かれます。この性質は、後の断熱変化のグラフと比較する際に、極めて重要になります。
2. 等温変化における内部エネルギー変化
2.1. 理想気体の内部エネルギーの性質の再確認
熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) を等温変化に適用する前に、まず、主役である内部エネルギーの変化 \(\Delta U\) がどうなるかを考えましょう。これは、理想気体の最も重要な性質の一つであり、思考のショートカットを可能にする、決定的なポイントです。
Module 4で、私たちは以下の極めて重要な結論を学びました。
理想気体の内部エネルギー (\(U\)) は、その絶対温度 (\(T\)) のみの関数であり、体積 (\(V\)) や圧力 (\(P\)) には依存しない。
単原子分子理想気体の場合、その関係は \(U = \frac{3}{2}nRT\) という具体的な形で与えられました。
2.2. 等温変化がもたらす必然的な帰結
この理想気体の基本性質を、等温変化というプロセスに適用してみましょう。
等温変化の定義は、「温度 \(T\) が常に一定に保たれる」というものです。
- プロセスの始状態の温度を \(T\) とします。
- プロセスの終状態の温度も、同じく \(T\) です。
したがって、このプロセスにおける温度の変化量 \(\Delta T\) は、
\[ \Delta T = T_{final} – T_{initial} = T – T = 0 \]
となります。
内部エネルギーの変化量 \(\Delta U\) は、温度の変化量 \(\Delta T\) に直接関係していました(\(\Delta U = nC_V \Delta T\))。
温度が一切変化しないのであれば、内部エネルギーもまた、一切変化しないはずです。
等温変化における内部エネルギー変化:
\[ \Delta U = 0 \quad (\text{等温変化}) \]
これは、理想気体を扱う限り、等温変化において常に成り立つ、絶対的なルールです。
気体の体積が2倍に膨張しようが、1/3に圧縮されようが、その間に温度が一定に保たれている限り、その気体の内部エネルギーの「残高」は、1円たりとも増えも減りもしないのです。
2.3. 物理的な意味とアナロジー
この \(\Delta U = 0\) という事実は、物理的に何を意味しているのでしょうか。
ミクロな視点で見れば、温度が一定であるということは、分子1個あたりの平均運動エネルギー \(\overline{KE} = \frac{3}{2}k_B T\) が、プロセスを通じて常に一定に保たれていることを意味します。分子の運動の「激しさ」の平均レベルが変わらないので、当然、その総和である内部エネルギーも変化しない、というわけです。
銀行口座のアナロジーで考えてみましょう。
あなたの銀行口座の「預金残高」が、内部エネルギー \(U\) です。
「等温変化」とは、「月の初めと終わりで、預金残高を全く同じに保つ」という厳しい制約が課せられた月だと考えてください。
この1ヶ月の間に、あなたは大きな買い物をしたり(外部に仕事をする)、アルバイトをしたり(外部から仕事をされる)するかもしれません。しかし、月末の残高は、月初と全く同じでなければなりません。この「残高の変化がゼロ」というのが、\(\Delta U = 0\) の意味するところです。
この、等温変化においては \(\Delta U = 0\) と即座に結論できるという事実は、熱力学第一法則の適用を劇的に単純化します。次のセクションでは、この結論が、熱と仕事の間にどのような特別な関係をもたらすのかを見ていきます。
3. 等温変化における熱力学第一法則の適用
3.1. 第一法則の劇的な単純化
さて、いよいよ熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) を、等温変化という舞台の上で機能させてみましょう。
前節で確立した、等温変化における絶対的なルール、
\[ \Delta U = 0 \]
を、第一法則の式に代入します。
\[ 0 = Q + W \]
この式を移項すると、熱 \(Q\) と仕事 \(W\) の間に、非常にシンプルで美しい関係式が現れます。
等温変化における第一法則:
\[ Q = -W \]
3.2. \(Q = -W\) の物理的解釈
この式が、等温変化におけるエネルギーのやり取りの本質を、すべて物語っています。
ここで、\(W\) が「気体が外部からされた仕事」であったことを思い出しましょう。
一方で、\(W_{by} = -W\) は「気体が外部にした仕事」でした。
したがって、\(Q = -W\) という関係は、\(Q = W_{by}\) と書き換えることができます。
この二つの表現が、それぞれ何を意味しているのかを、二つの具体的なシナリオに沿って見ていきましょう。
3.2.1. シナリオ1:等温膨張
- プロセス: 熱浴に接したシリンダー内の気体が、ピストンをゆっくりと押し、外部に対して仕事をする(膨張する)。
- 仕事: 気体は外部に正の仕事をするので、\(W_{by} > 0\)。したがって、された仕事 \(W\) は負(\(W < 0\))になります。
- 第一法則の適用: \(Q = -W\) であり、\(W\) が負なので、\(Q\) は正(\(Q > 0\))となります。
- 物理的意味:\[ Q = W_{by} > 0 \]これは、「系が外部にした仕事 (\(W_{by}\)) と、全く同じ量の熱 (\(Q\)) を、系は外部の熱浴から吸収しなければならない」ということを意味します。気体は、ピストンを押すという仕事をすることで、自身のエネルギーを消費します。もし外部からのエネルギー補給がなければ、この仕事は内部エネルギーを消費して行われるため、気体の温度は下がってしまうはずです(断熱膨張)。しかし、等温変化では、温度を一定に保つという至上命令があります。そのため、仕事で失ったエネルギーと寸分違わぬ量のエネルギーを、熱という形で、外部の熱浴からリアルタイムで「補給」し続けるのです。アナロジー: あなたが、残高を一定に保ったまま(\(\Delta U=0\))、1万円の買い物(仕事 \(W_{by} = 1\)万円)をするとします。そのためには、買い物をした瞬間に、ATMから1万円を引き出して(熱を吸収 \(Q = 1\)万円)、支払いに充てる必要があります。
3.2.2. シナリオ2:等温圧縮
- プロセス: 熱浴に接したシリンダー内の気体が、外部からピストンでゆっくりと押し込まれる(圧縮される)。
- 仕事: 気体は外部から仕事をされるので、\(W_{by} < 0\)。したがって、された仕事 \(W\) は正(\(W > 0\))になります。
- 第一法則の適用: \(Q = -W\) であり、\(W\) が正なので、\(Q\) は負(\(Q < 0\))となります。
- 物理的意味:これは、「系が外部からされた仕事 (\(W\)) と、全く同じ量の熱 (\(Q\)) を、系は外部の熱浴へ放出しなければならない」ということを意味します。気体は、ピストンに押し込まれるという仕事をされることで、エネルギーを受け取ります。もし、このエネルギーをどこにも逃がさなければ、それは内部エネルギーの増加となり、気体の温度は上がってしまうはずです(断熱圧縮)。しかし、温度を一定に保つためには、仕事として受け取ったエネルギーと全く同じ量のエネルギーを、熱という形で、外部の熱浴へとリアルタイムで「廃棄」し続けなければなりません。アナロジー: あなたが、残高を一定に保ったまま(\(\Delta U=0\))、親から1万円のお小遣いをもらった(仕事をされた \(W = 1\)万円)とします。残高を増やさないためには、お小遣いをもらった瞬間に、その1万円を募金箱に入れる(熱を放出 \(Q = -1\)万円)必要があります。
3.3. まとめ:エネルギー変換器としての等温変化
以上のことから、理想気体の等温変化は、熱と仕事を相互に100%変換する、理想的なエネルギー変換プロセスであると見なすことができます。
- 等温膨張: 吸収した熱を、完全に仕事に変換するプロセス。
- 等温圧縮: された仕事を、完全に熱に変換するプロセス。
このとき、気体自身は、エネルギーの「仲介役」として機能するだけであり、その内部エネルギー(エネルギー残高)は一切変化しません。この性質は、後の熱機関の理論(カルノーサイクル)において、極めて重要な役割を果たします。
4. 断熱変化の定義とP-V図上の表現
4.1. 熱の出入りを遮断するプロセス:断熱変化
熱力学の四つの基本プロセスの最後を飾るのが、「断熱変化 (adiabatic process)」です。これは、等温変化とは対極的な状況設定であり、
系(気体)と外部との間で、熱のやり取り (\(Q\)) が一切ない状態で、体積や圧力を変化させるプロセス
を指します。「adiabatic」という言葉は、ギリシャ語の「a(否定)」+「dia(通して)」+「bainein(行く)」に由来し、「(熱が)通り抜けることがない」という意味を持っています。
4.1.1. 実験的な実現方法
熱のやり取りをゼロにする (\(Q=0\)) には、どうすればよいでしょうか。現実には、二つの異なるアプローチがあります。
- 断熱材による隔離:系を、魔法瓶(デュワー瓶)のような、性能の極めて高い断熱材で完全に覆い、外部から熱的に隔離します。この状態で、内部の気体をピストンで圧縮したり膨張させたりすれば、それは断熱変化に近くなります。しかし、完璧な断熱材は存在しないため、ゆっくりとした変化では、わずかな熱の漏れが避けられません。
- 極めて高速な操作:より現実的で、多くの現象に当てはまるのが、このアプローチです。熱の移動(伝導、対流、放射)には、ある程度の時間がかかります。したがって、状態変化を、熱が移動する暇もないほど、極めて高速に行えば、そのプロセスは実質的に断熱変化と見なすことができます。
- 例: 自転車のタイヤに、空気入れで勢いよく空気を入れるとき、ポンプ内の空気は急速に圧縮されます。この圧縮は非常に速いため、発生した熱がポンプの外に逃げる時間がなく、断熱圧縮に近い状態になります。結果として、ポンプは顕著に熱くなります。
- 例: スプレー缶のボタンを押して、内部のガスを一気に噴出させるとき、ガスは急速に膨張します。この膨張もまた、外部から熱が流入する暇がないため、断熱膨張に近い状態です。結果として、缶は急速に冷たくなります。
4.2. P-V図上での表現
断熱変化は、P-V図上でどのような軌跡を描くのでしょうか。
- 断熱膨張: 気体は外部に仕事をする(\(W_{by}>0\))が、外部からの熱の補給(\(Q\))はゼロです。したがって、気体は自身の内部エネルギー \(U\) を消費して仕事をせざるを得ません。内部エネルギーが減少するため、気体の温度 \(T\) は下降します。
- 断熱圧縮: 気体は外部から仕事をされる(\(W_{on}>0\))が、そのエネルギーを熱として外部に逃がすことができません。したがって、された仕事はすべて内部エネルギー \(U\) の増加となり、気体の温度 \(T\) は上昇します。
この「断熱変化では温度が変わる」という事実が、P-V図上の軌跡を決定する上で極めて重要です。
- ある初期状態A(温度 \(T_1\))から断熱膨張を始めると、気体の温度は \(T_1\) よりも低くなっていきます。P-V図では、より低温の等温線は、より原点に近い位置に描かれるのでした。したがって、断熱膨張の軌跡は、出発点である等温線 \(T_1\) を横切って、それよりも内側にある、より低温の等温線(例えば \(T_2 < T_1\))へと向かう、急な曲線となります。
- 同様に、断熱圧縮の軌跡は、出発点である等温線を横切って、それよりも外側にある、より高温の等温線へと向かう、急な曲線となります。
結論として、
断熱変化のP-V図上のグラフは、等温線よりも傾きが急な曲線となる。
この傾きの違いは、定性的には、断熱膨張では圧力低下に加えて温度低下も起こるため、圧力の減少がより急激になる、と理解できます。この傾きの違いの定量的な証明は、後のセクションで行います。
この「断熱線は等温線より急」という事実は、熱サイクル(カルノーサイクルなど)の図を描き、その性質を理解する上で、必須の知識となります。
5. 断熱変化における熱の出入り
5.1. 定義そのもの
このセクションは、これまでのモジュールの中で最もシンプルかもしれません。断熱変化における熱の出入りは、その「定義」そのものによって、議論の余地なく決まっています。
断熱変化の定義:
系と外部との間で、熱のやり取り (\(Q\)) が一切ないプロセス。
したがって、断熱変化のプロセスを考える際には、常に、そして無条件に、
\[ Q = 0 \]
と置くことができます。
5.2. なぜ Q=0 が重要なのか
この \(Q=0\) という条件は、単なるプロセスの特徴の一つではありません。それは、熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) を支配する、極めて強力な「制約条件」です。
熱 \(Q\) は、内部エネルギー \(U\) や仕事 \(W\) と並ぶ、エネルギー収支の三人の主役の一人でした。断熱変化とは、この三人のうちの一人が舞台から完全に降りてしまい、残された二人(内部エネルギーと仕事)だけで、エネルギーのドラマを演じなければならない状況なのです。
- 通常の状態変化では、内部エネルギーの変化(\(\Delta U\))は、熱の吸収・放出(\(Q\))と、仕事の授受(\(W\))という、二つの異なる原因によって引き起こされます。
- しかし、断熱変化では、熱のチャネルが完全に閉じられているため、内部エネルギーを変化させることができる唯一の手段は、「仕事」だけになります。
この制約が、内部エネルギーと仕事の間に、非常に直接的で、力学的な関係をもたらします。次のセクションでは、この \(Q=0\) という条件が、第一法則をどのように変え、どのような物理的帰結をもたらすのかを詳しく見ていきます。
6. 断熱変化における熱力学第一法則の適用
6.1. 第一法則の最も力学的な形
断熱変化を特徴づける絶対的な条件、
\[ Q = 0 \]
を、熱力学第一法則の基本式 \(\Delta U = Q + W\) に代入してみましょう。
\[ \Delta U = 0 + W \]
断熱変化における第一法則:
\[ \Delta U = W \]
この、この上なくシンプルな関係式こそが、断熱変化におけるエネルギー保存則の表現です。
6.2. \(\Delta U = W\) の物理的解釈
この式が物語る物理的な意味は、非常に直接的で、かつ深遠です。
ここで、\(W\) は「外部が系(気体)にした仕事」であったことを、もう一度思い出してください。
断熱変化においては、外部から系に対してなされた仕事 (\(W\)) は、すべて、その系の内部エネルギーの増加 (\(\Delta U\)) に等しい。
これは、力学的エネルギー(仕事)と、熱的エネルギー(内部エネルギー)との、直接的な変換関係を示しています。熱という仲介者を介さずに、仕事がそのまま内部エネルギーに、あるいは内部エネルギーがそのまま仕事に、100%の効率で変換されるプロセスなのです。
この関係を、二つの具体的なシナリオで見ていきましょう。
6.2.1. シナリオ1:断熱圧縮
- プロセス: 断熱されたシリンダー内の気体を、外部からピストンで急速に圧縮する。
- 仕事: 気体は外部から仕事をされるので、\(W\) は正(\(W > 0\))の値をとります。
- 第一法則の適用: \(\Delta U = W\) であり、\(W\) が正なので、\(\Delta U\) も正(\(\Delta U > 0\))となります。
- 物理的意味: 内部エネルギーが増加したことを意味します。理想気体の内部エネルギーは温度にのみ依存するため、これは、気体の温度が上昇することを意味します。\[ \Delta U > 0 \quad \implies \quad \Delta T > 0 \]ピストンを押すという、純粋に力学的な行為(仕事)が、熱を加えることなく、気体の温度を直接上昇させるのです。これは、ピストンが気体分子に衝突し、分子をより速く跳ね返す(運動エネルギーを与える)という、ミクロな描像とも完全に一致しています。自転車の空気入れが熱くなる現象は、まさにこの断熱圧縮の実例です。
6.2.2. シナリオ2:断熱膨張
- プロセス: 断熱されたシリンダー内の気体が、外部のピストンを押して、急速に膨張する。
- 仕事: 気体は外部に仕事をするので、された仕事 \(W\) は負(\(W < 0\))の値をとります。
- 第一法則の適用: \(\Delta U = W\) であり、\(W\) が負なので、\(\Delta U\) も負(\(\Delta U < 0\))となります。
- 物理的意味: 内部エネルギーが減少したことを意味します。これは、気体の温度が下降することを意味します。\[ \Delta U < 0 \quad \implies \quad \Delta T < 0 \]気体は、外部に仕事をするためのエネルギーを、どこからも補給してもらうことができません(\(Q=0\) なので)。そのため、気体は、唯一のエネルギー源である自分自身の「内部エネルギーの貯金」を取り崩して、仕事の支払いに充てるしかないのです。その結果、内部エネルギーは減少し、温度は下がります。スプレー缶からガスを噴射したときに缶が冷たくなる現象や、雲ができるメカニズム(湿った空気が上昇して断熱膨張し、温度が下がって水蒸気が凝結する)は、この断熱膨張の好例です。
6.3. まとめ:エネルギー変換の二つの顔
等温変化と断熱変化は、エネルギー変換という観点から、美しい対比をなしています。
- 等温変化 (\(\Delta U=0\) より \(Q = -W\)): 気体自身はエネルギー状態を変えず、熱と仕事を100%の効率で相互変換する「仲介役」。
- 断熱変化 (\(Q=0\) より \(\Delta U = W\)): 熱の介在を許さず、仕事と内部エネルギーを100%の効率で相互変換する「直接変換器」。
この二つの理想的なプロセスを理解することが、現実の複雑な熱現象を分析するための、強力な基礎となるのです。
7. ポアソンの法則の導出と応用
7.1. 断熱変化を支配する新しい法則
ボイルの法則(等温変化:\(PV=\text{一定}\))やシャルルの法則(定圧変化:\(V/T=\text{一定}\))のように、断熱変化においても、状態量(\(P, V, T\))の間に成り立つ、何か特別な関係式は存在するのでしょうか。
その答えはイエスです。断熱変化における圧力 \(P\) と体積 \(V\) の間には、
\[ PV^\gamma = \text{一定} \]
という、一見すると少し複雑な関係が成り立ちます。ここで、\(\gamma\)(ガンマ)は、Module 5で学んだ比熱比 (\(\gamma = C_p/C_V > 1\)) です。この関係式を「ポアソンの法則」と呼びます。
この法則は、単なる経験則ではありません。熱力学第一法則、理想気体の状態方程式、そしてモル比熱の定義という、私たちがこれまでに築き上げてきた理論体系から、純粋に数学的な手続きによって導出することができる、理論的な帰結です。この導出は、大学入試の物理においても最重要のテーマの一つであり、熱力学の理解度を測る試金石となります。
7.2. ポアソンの法則の導出
\(n\) mol の理想気体が、ある状態 (\(P, V, T\)) から、微小に断熱変化して (\(P+\Delta P, V+\Delta V, T+\Delta T\)) へと移る、微小過程を考えます。
ステップ1:第一法則の微小変化への適用
- 断熱変化なので、\(Q=0\)。
- 熱力学第一法則は、\(\Delta U = W\) となります。
- この微小変化において、内部エネルギーの変化量 \(\Delta U\) は、\(\Delta U = nC_V\Delta T\)。
- 気体がされる仕事 \(W\) は、\(W = -P\Delta V\)。(微小変化なので、圧力は \(P\) で一定とみなせます。)
- したがって、第一法則は以下のように書けます。\[ nC_V\Delta T = -P\Delta V \quad \cdots ① \]
ステップ2:状態方程式の微小変化への適用
- 理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) は、変化の前後で常に成り立ちます。
- 始状態: \(PV = nRT\)
- 終状態: \((P+\Delta P)(V+\Delta V) = nR(T+\Delta T)\)
- 終状態の式を展開します。\[ PV + P\Delta V + V\Delta P + \Delta P \Delta V = nRT + nR\Delta T \]
- ここで、\(\Delta P \Delta V\) は「微小量 × 微小量」なので、他の項に比べて非常に小さく、無視することができます。また、左辺の \(PV\) は \(nRT\) と等しいので、両辺から消去できます。\[ P\Delta V + V\Delta P = nR\Delta T \quad \cdots ② \]これは、状態方程式の「変化量バージョン」と考えることができます。
ステップ3:温度 \(\Delta T\) の消去
- 私たちの目標は \(P\) と \(V\) の関係式なので、邪魔な \(\Delta T\) を消去します。
- ②の式から、\(\Delta T = \frac{P\Delta V + V\Delta P}{nR}\)。
- これを、①の式 \(nC_V\Delta T = -P\Delta V\) に代入します。\[ nC_V \left( \frac{P\Delta V + V\Delta P}{nR} \right) = -P\Delta V \]
- \(n\) を消去し、\(R\) を右辺に移項します。\[ C_V(P\Delta V + V\Delta P) = -R(P\Delta V) \]
ステップ4:マイヤーの関係式と比熱比 \(\gamma\) の導入
- この式を整理していきます。\[ C_V P\Delta V + C_V V\Delta P = -R P\Delta V \]\[ (C_V + R)P\Delta V + C_V V\Delta P = 0 \]
- ここで、Module 5のクライマックスであったマイヤーの関係式 \(C_p = C_V + R\) を使います。\[ C_p P\Delta V + C_V V\Delta P = 0 \]
- この式の両辺を、\(C_V PV\) で割ってみます。\[ \frac{C_p P\Delta V}{C_V PV} + \frac{C_V V\Delta P}{C_V PV} = 0 \]\[ \left(\frac{C_p}{C_V}\right) \frac{\Delta V}{V} + \frac{\Delta P}{P} = 0 \]
- 最後に、比熱比の定義 \(\gamma = C_p/C_V\) を代入します。\[ \gamma \frac{\Delta V}{V} + \frac{\Delta P}{P} = 0 \]
ステップ5:積分による最終公式の導出
- この式は、\(P\) と \(V\) の間の微小変化の関係を示しています。これを、有限の変化に対する関係式にするには、数学の「積分」という操作を行います。
- 高校物理では、ここから直接、積分の結果である以下の関係が成り立つ、と理解すれば十分です。\[ \gamma \ln V + \ln P = \text{一定} \](\(\ln\) は自然対数)
- 対数の性質 \(a \ln x = \ln x^a\) と \(\ln x + \ln y = \ln xy\) を使うと、\[ \ln V^\gamma + \ln P = \ln(PV^\gamma) = \text{一定} \]
- 両辺の対数を外すと、最終的な結論が得られます。
ポアソンの法則:
\[ PV^\gamma = \text{一定} \]
この導出は、熱力学の理論体系がいかに整合的で、強力であるかを示す見事な一例です。
7.3. 応用:二状態間の関係
この法則は、気体が状態1 (\(P_1, V_1\)) から状態2 (\(P_2, V_2\)) へと断熱変化した場合に、
\[ P_1 V_1^\gamma = P_2 V_2^\gamma \]
という形で、具体的な計算問題に応用されます。\(P_1, V_1, V_2\) が分かっていれば、\(P_2\) を計算できる、といった具合です。
8. 断熱変化における温度、圧力、体積の関係
8.1. ポアソンの法則の異なる表現
前節で導出したポアソンの法則 \(PV^\gamma = \text{一定}\) は、断熱変化における圧力と体積の関係を記述するものです。しかし、時には、体積と温度の関係、あるいは圧力と温度の関係を知りたい場合があります。
これらの関係式は、\(PV^\gamma = \text{一定}\) に、理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) を組み合わせることで、簡単に導出することができます。
8.2. 体積と温度の関係式 (\(T\) と \(V\) の関係)
- 目標: \(PV^\gamma = \text{一定}\) から、圧力 \(P\) を消去し、\(T\) と \(V\) だけの式を作る。
- 手順:
- 状態方程式 \(PV=nRT\) を、\(P\) について解く。\[ P = \frac{nRT}{V} \]
- これを、ポアソンの法則 \(PV^\gamma = \text{一定}\) に代入する。\[ \left( \frac{nRT}{V} \right) V^\gamma = \text{一定} \]
- 式を整理する。\(V^\gamma / V = V^{\gamma-1}\)。\[ nR T V^{\gamma-1} = \text{一定} \]
- \(n\) と \(R\) は定数なので、「一定」の部分に吸収させることができる。
ポアソンの法則(T-V 表現):
\[ TV^{\gamma-1} = \text{一定} \]
この式は、断熱変化では、体積が増加(膨張)すると、温度は必ず下がることを示しています。また、二状態間の関係は、
\[ T_1 V_1^{\gamma-1} = T_2 V_2^{\gamma-1} \]
と書くことができます。
8.3. 圧力と温度の関係式 (\(P\) と \(T\) の関係)
- 目標: \(PV^\gamma = \text{一定}\) から、体積 \(V\) を消去し、\(P\) と \(T\) だけの式を作る。
- 手順:
- 状態方程式 \(PV=nRT\) を、\(V\) について解く。\[ V = \frac{nRT}{P} \]
- これを、ポアソンの法則 \(PV^\gamma = \text{一定}\) に代入する。\[ P \left( \frac{nRT}{P} \right)^\gamma = \text{一定} \]
- 式を整理する。\[ P \cdot \frac{(nR)^\gamma T^\gamma}{P^\gamma} = \text{一定} \]\[ P^{1-\gamma} T^\gamma (nR)^\gamma = \text{一定} \]
- \((nR)^\gamma\) は定数なので、「一定」の部分に吸収させる。
ポアソンの法則(P-T 表現):
\[ P^{1-\gamma}T^\gamma = \text{一定} \]
この式は、このままでも使えますが、指数にマイナスが入っているのが少し扱いにくいかもしれません。そこで、両辺を \(1/(1-\gamma)\) 乗するという変形を行うことがあります。(結果は同じです。)
この式は、断熱変化では、圧力が上昇(圧縮)すると、温度も必ず上昇することを示しています。二状態間の関係は、
\[ P_1^{1-\gamma}T_1^\gamma = P_2^{1-\gamma}T_2^\gamma \]
と書くことができます。
8.4. どの公式を使うべきか
私たちは、断熱変化を記述する3つの等価な関係式を手に入れました。
- \(PV^\gamma = \text{一定}\)
- \(TV^{\gamma-1} = \text{一定}\)
- \(P^{1-\gamma}T^\gamma = \text{一定}\)
具体的な問題を解く際には、これらをすべて暗記する必要はありません。基本となる \(PV^\gamma = \text{一定}\) だけを確実に覚えておき、必要に応じて、その場で状態方程式を使って他の形を導出する、というのが最も安全で応用が利くアプローチです。
しかし、入試では時間の制約もあるため、\(TV^{\gamma-1} = \text{一定}\) の形も、導出過程とセットで覚えておくと、計算を大幅にスピードアップさせることができます。
9. 等温曲線と断熱曲線の傾きの比較
9.1. P-V図上の視覚的な違いの再確認
これまでの議論で、P-V図上において、
- 等温変化は、\(PV = \text{一定}\) に従う「等温線」(双曲線)。
- 断熱変化は、\(PV^\gamma = \text{一定}\) に従う「断熱線」。
となり、断熱線の方が等温線よりも傾きが急になる、ということを定性的に学びました。この傾きの違いは、熱サイクルの図を描いたり、仕事の大小を比較したりする上で、極めて重要な意味を持ちます。
このセクションでは、この傾きの違いを、数学的に、そして定量的に証明します。
9.2. 傾きの数学的導出
P-V図における「傾き」とは、数学的には、\(P\) を \(V\) の関数とみなしたときの導関数 \(dP/dV\) のことです。
9.2.1. 等温線の傾き
- 出発点: \(PV = K_1\) (\(K_1\) は定数)
- この式の両辺を、体積 \(V\) で微分します。(積の微分法を用います。)\[ \frac{d(PV)}{dV} = \frac{d(K_1)}{dV} \]\[ \frac{dP}{dV} \cdot V + P \cdot \frac{dV}{dV} = 0 \]\[ V\frac{dP}{dV} + P = 0 \]
- この式を、傾き \(dP/dV\) について解きます。\[ \frac{dP}{dV}_{\text{iso}} = -\frac{P}{V} \]これが、P-V図上の任意の点 \((P, V)\) における、等温線の傾きです。傾きが負であることは、グラフが右下がりであることを意味しており、直感と一致します。
9.2.2. 断熱線の傾き
- 出発点: \(PV^\gamma = K_2\) (\(K_2\) は定数)
- 同様に、この式の両辺を、体積 \(V\) で微分します。\[ \frac{d(PV^\gamma)}{dV} = \frac{d(K_2)}{dV} \]\[ \frac{dP}{dV} \cdot V^\gamma + P \cdot \frac{d(V^\gamma)}{dV} = 0 \]ここで、\(V^\gamma\) の微分は \(\gamma V^{\gamma-1}\) となります。\[ V^\gamma \frac{dP}{dV} + P (\gamma V^{\gamma-1}) = 0 \]
- この式を、傾き \(dP/dV\) について解きます。\[ V^\gamma \frac{dP}{dV} = – \gamma P V^{\gamma-1} \]\[ \frac{dP}{dV}_{\text{adia}} = – \frac{\gamma P V^{\gamma-1}}{V^\gamma} = – \gamma \frac{P}{V} \]これが、P-V図上の任意の点 \((P, V)\) における、断熱線の傾きです。
9.3. 結論:傾きの定量的比較
二つの傾きの式が出揃いました。
- 等温線の傾き: \(\left(\frac{dP}{dV}\right)_{\text{iso}} = -\frac{P}{V}\)
- 断熱線の傾き: \(\left(\frac{dP}{dV}\right)_{\text{adia}} = -\gamma \frac{P}{V}\)
この二つの式を比較すると、
\[ \left(\frac{dP}{dV}\right){\text{adia}} = \gamma \left(\frac{dP}{dV}\right){\text{iso}} \]
という、見事な関係が成り立っていることがわかります。
比熱比 \(\gamma = C_p/C_V\) は、常に1より大きい値(単原子分子では 5/3)をとります。
したがって、
P-V図上の任意の点において、断熱線の傾きの大きさ(絶対値)は、その点を通る等温線の傾きの大きさの、ちょうど \(\gamma\) 倍である。
これは、断熱線が等温線よりも常に急であることの、厳密な数学的証明です。
この傾きの違いは、物理的には、断熱膨張では体積増加による圧力低下に加えて、仕事による内部エネルギー減少(温度低下)の効果も加わるため、圧力の減少がより「急激」になることを反映しています。逆に、断熱圧縮では、体積減少による圧力増加に、仕事をされたことによる内部エネルギー増加(温度上昇)の効果が加わるため、圧力の増加がより「急激」になるのです。
10. 断熱圧縮と断熱膨張の具体例
10.1. 法則の現実世界での現れ
断熱変化は、実験室の中だけの特殊な現象ではありません。熱が移動する時間がないほど「高速な」プロセスは、私たちの身の回りや自然界の至るところで発生しています。ここでは、断熱圧縮と断熱膨張の代表的な例をいくつか紹介し、物理法則が現実の現象をいかに支配しているかを見ていきましょう。
10.2. 断熱圧縮 (Compression → Temperature Rise)
断熱圧縮(\(W>0, \Delta U>0, \Delta T > 0\))は、外部からの仕事が内部エネルギーに変換され、温度が上昇する現象です。
- ディーゼルエンジン:ガソリンエンジンが点火プラグの火花で混合気に点火するのに対し、ディーゼルエンジンには点火プラグがありません。その代わりに、シリンダー内の空気をピストンで極めて高い圧縮比(15:1〜20:1程度)で、急速に圧縮します。この強烈な断熱圧縮により、空気の温度は500〜800℃もの高温に達します。この高温の空気中に軽油を噴射すると、軽油は自然に発火し、燃焼(爆発)が起こります。ディーゼルエンジンは、断熱圧縮による温度上昇を、点火源として巧みに利用しているのです。
- 自転車の空気入れ:タイヤのバルブを指でふさぎ、空気入れのポンプを素早く何度も往復させると、ポンプの根元(シリンダー部分)が熱くなるのを経験したことがあるでしょう。これは、ポンプ内の空気を急速に圧縮するたびに、あなたの腕がした仕事が、空気の内部エネルギーに変換され、温度が上昇するためです。
- フェーン現象:山を越えて吹き降りる風が、麓に異常な高温と乾燥をもたらす「フェーン現象」も、断熱圧縮の好例です。湿った空気が山の斜面を上昇する際は、断熱膨張によって冷却され、雨や雪を降らせます(このとき、水蒸気の凝縮熱が放出されるため、温度の下降は緩やかです)。山頂を越え、乾燥した空気が反対側の斜面を吹き降りる際には、気圧が高くなるため、断熱的に圧縮されます。これにより、空気の温度は100m下降するごとに約1℃という高い割合で上昇し、麓に達する頃には、非常に高温で乾燥した風となるのです。
10.3. 断熱膨張 (Expansion → Temperature Drop)
断熱膨張(\(W<0, \Delta U<0, \Delta T < 0\))は、気体が外部に仕事をする際に自身の内部エネルギーを消費し、温度が下降する現象です。
- エアゾール缶(スプレー缶):制汗スプレーや冷却スプレーなどを噴射すると、缶が急速に冷たくなるのを感じます。これは、缶内部の高圧のガス(液化ガス)が、ノズルから外部の低圧な空間へと一気に噴出し、急速に膨張するためです。この断熱膨張の過程で、ガスは周囲の空気を押しのける仕事をするために、自身の内部エネルギーを使い、その結果、温度が著しく低下するのです。
- 雲の生成:地上付近の暖かく湿った空気が、上昇気流によって上空に運ばれると、周囲の気圧が低くなるため、空気塊は断熱的に膨張します。断熱膨張すると温度が下がるため、やがて空気の温度が露点(空気中の水蒸気が飽和して凝結を始める温度)に達します。すると、水蒸気は微小な水滴や氷の結晶となり、これらが集まることで「雲」が生成されます。山に雲がかかりやすいのも、山の斜面に沿って空気が強制的に上昇させられ、断熱膨張・冷却されるためです。
- シャンパンの栓:シャンパンの栓を抜くと、「ポン」という音とともに、白い霧が発生することがあります。これは、ボトル内部の高圧の炭酸ガスが、栓を抜くことで一気に断熱膨張し、その温度が急激に下がるためです。これにより、ボトルネック付近の空気中の水蒸気が冷却され、凝結して細かい霧(雲と同じ原理)となるのです。
これらの例は、\(\Delta U = W\) という断熱変化の法則が、エンジンのシリンダーから地球規模の大気の動きまで、あらゆるスケールで普遍的に成り立っていることを示しています。
Module 6:等温変化と断熱変化の総括:熱と仕事のドラマを彩る、二つの理想的プロセス
本モジュールでは、熱力学の基本的な四つの状態変化の最後を飾る、そして最も対照的な二つのプロセス、「等温変化」と「断熱変化」を深く探求しました。これらは、熱力学第一法則という普遍的な脚本が、異なる舞台設定(制約条件)の下で、いかに異なるドラマを演じるかを示す、見事な実例でした。
「等温変化」の舞台は、温度を一定に保つという厳格なルールの下で、系が外部の巨大な熱源と常にコミュニケートする、オープンな世界でした。この制約は、理想気体の内部エネルギーの変化をゼロ (\(\Delta U=0\)) にするという、劇的な単純化をもたらしました。その結果、第一法則は \(Q = -W\) という、エネルギー変換の純粋な形を現しました。吸収した熱がすべて外部への仕事に変わり、された仕事がすべて熱として放出される。気体自身はエネルギー残高を変えずに、熱と仕事を仲介する、完璧なエネルギー変換器として振る舞うのです。
一方、「断熱変化」の舞台は、熱の出入りを完全に遮断された (\(Q=0\))、孤立した世界でした。この制約は、第一法則を \(\Delta U = W\) という、最も力学的で直接的な形へと変えました。外部からされた仕事は、逃げ場なく、すべて内部エネルギーの増加(温度上昇)となり、外部へした仕事は、補給源なく、すべて内部エネルギーの減少(温度下降)から捻出されます。このダイナミックなエネルギーの直接変換を支配する法則として、私たちは第一法則と状態方程式を組み合わせ、比熱比 \(\gamma\) を含む「ポアソンの法則 (\(PV^\gamma = \text{一定}\))」を導出しました。そして、断熱線が等温線よりも常に傾きが急になることを数学的に証明し、その物理的な意味を、身の回りの数々の現象(ディーゼルエンジンから雲の生成まで)に見出しました。
等温変化と断熱変化。一方はゆっくりと熱を交換し、もう一方は速やかに熱を遮断する。この対照的な二つの理想的プロセスは、現実の複雑な熱現象を理解するための基本的な「語彙」となります。特に、これらを巧みに組み合わせることで、熱を仕事に変換する装置「熱機関」の理論的な限界を探ることが可能になります。四つの基本変化という強力な分析ツールをすべて手に入れた今、私たちは、熱力学の応用と、そのさらに奥深い法則性を探る、次なるステージへと進む準備が整いました。