【基礎 物理(熱力学)】Module 9:熱力学第二法則
本モジュールの目的と構成
これまでのモジュールで、私たちは熱力学第一法則、すなわちエネルギー保存則という、自然界の厳格な「会計ルール」を学びました。この法則は、あるプロセスが起こる「可能性」があるかどうかを、エネルギーの収支が合うか否かで判断します。しかし、私たちの日常経験は、第一法則だけでは説明できない、より深い謎に満ちています。
床に落ちて割れた卵が、自然に元の姿に戻ることはありません。熱いコーヒーは必ず冷めますが、冷めたコーヒーが勝手に熱くなることはありません。これらの「逆向きの変化」は、エネルギー保存則には全く反していないにもかかわらず、なぜか決して起こらないのです。自然界の変化には、明らかに「進む向き」と「進まない向き」が存在します。まるで、時間には「過去」から「未来」へと流れる、逆行不可能な「矢」があるかのようです。
本モジュールで探求する「熱力学第二法則」は、この変化の不可逆的な「方向性」を支配する、自然界のもう一つの、そしてより深遠な根本法則です。第一法則が「何が起こりうるか」のルールブックだとすれば、第二法則は「その中で、何が自発的に起こるか」のコンパスなのです。
私たちはまず、この法則の古典的な二つの表現、「クラウジウスの原理」と「トムソンの原理」を学び、それらがなぜ熱機関の効率に根本的な限界を与えるのかを理解します。次に、「不可逆性」という概念そのものの意味を掘り下げ、その背後にある確率・統計的な考え方に迫ります。そして、この不可逆性を定量的に測るための指標である「エントロピー」という、熱力学における最も重要で美しい概念を定性的に導入します。
このモジュールを学習することで、あなたは以下の知的な旅を経験します。
- 熱力学第二法則の表現(クラウジウス、トムソン): 第二法則の二つの古典的な表現を学び、それらが論理的に等価であることを理解します。
- 熱の不可逆的な移動: なぜ熱は常に高温から低温へと流れるのか、その不可逆性を再確認します。
- 第二種永久機関の不可能性: 熱を100%仕事に変える夢の機関が、なぜ実現不可能なのかを学びます。
- 熱現象の不可逆性の意味: 「元に戻れない」という変化の性質が、時間という概念にどう関わるのかを探ります。
- エントロピー増大の法則の定性的理解: 自発的な変化が常に「エントロピー」が増大する方向に進む、という第二法則の現代的な表現を学びます。
- 確率的な現象としての熱力学第二法則: 第二法則が、絶対的な禁止命令ではなく、圧倒的な「確率の法則」であることの意味を理解します。
- 巨視的な現象と微視的な状態数: エントロピーの正体が、ミクロな「場合の数」とどう結びついているのか、その統計力学的な本質に触れます。
- 可逆変化と不可逆変化の再検討: エントロピーという新しい視点から、二つの変化の違いをより深く理解します。
- 「乱雑さ」の増大としてのエントロピー: エントロピーを「乱雑さ」と捉えるポピュラーな解釈とその有効性、限界について学びます。
- 熱力学法則が示す世界の非対称性: 第二法則が、なぜ「時間の矢」を定義し、私たちの世界の非対称な性質を説明するのか、その壮大な射程を考察します。
このモジュールは、単なる計算物理学を超え、確率、情報、そして「時間」そのものの本質に迫る、知的で哲学的な探求です。熱力学が描き出す、壮大で、時に非情でもある宇宙の姿に、耳を傾けてみましょう。
1. 熱力学第二法則の表現(クラウジウス、トムソン)
1.1. 経験則から生まれた根本法則
熱力学第二法則は、一つの普遍的な原理を、異なる側面から表現した、いくつかの同等な「表現(原理)」が存在します。これらはすべて、私たちの日常的な経験則、すなわち「決して起こらないこと」を、物理学の言葉で厳密に定式化したものです。ここでは、歴史的に重要で、かつ物理的イメージを掴みやすい、二人の科学者の名を冠した原理を紹介します。
1.2. クラウジウスの原理:熱の流れの方向性
ドイツの物理学者ルドルフ・クラウジウスは、熱の移動という、最も基本的な不可逆現象に着目しました。熱い物体と冷たい物体を接触させると、熱は必ず高温側から低温側へと移動します。その逆、すなわち、低温側の物体がさらに冷たくなり、高温側の物体がさらに熱くなる、という現象は、決して自発的には起こりません。
この自明とも思える経験則を、彼は以下のように厳密な物理法則として表現しました。
クラウジウスの原理 (Clausius statement):
他に何の変化も残すことなく、熱を低温の物体から高温の物体へ移すことは不可能である。
この原理のポイントは、「他に何の変化も残すことなく」という部分です。
もちろん、私たちは「冷凍機」や「エアコン」を使えば、低温の場所(庫内)から熱を汲み上げ、高温の場所(室外)へ排出することができます。しかし、そのためには、コンプレッサーを動かすための**仕事(電気エネルギー)**を外部から供給するという、「他の変化」が必要不可欠です。
クラウジウスの原理が主張しているのは、そのような外部からの仕事の助けなしに、自発的に熱が「坂を逆流」することはない、ということです。これは、熱の流れに、高温→低温という、不可逆的な方向性があることを宣言しています。
1.3. トムソンの原理:熱から仕事への変換の限界
一方、イギリスの物理学者ウィリアム・トムソン(ケルビン卿)は、Module 8で学んだ「熱機関」の限界に着目しました。熱機関は、高温熱源から熱 \(Q_{in}\) を吸収し、その一部を仕事 \(W_{by}\) に変え、残りの熱 \(|Q_{out}|\) を低温熱源に排出するのでした。
では、この低温熱源への排熱 \(|Q_{out}|\) をゼロにして、吸収した熱 \(Q_{in}\) を100%すべて仕事 \(W_{by}\) に変換する、熱効率 \(e=1\) の完璧な熱機関を作ることは可能でしょうか。トムソンは、これもまた、経験的に不可能であると結論づけました。
トムソンの原理 (Kelvin statement) / ケルビン・プランクの原理:
ただ一つの熱源から周期的に熱を吸収し、それをすべて仕事に変えることは不可能である。
この原理のポイントは、「周期的に(サイクルで)」という部分です。
もし、気体を一度だけ膨張させるのであれば、等温膨張(\(\Delta U=0\))のように、吸収した熱をすべて仕事に変えることは可能です。しかし、エンジンとして継続的に作動するためには、作動物質はサイクルを経て元の状態に戻らなければなりません。
トムソンの原理が主張しているのは、サイクルを完結させて継続的に仕事を生み出すためには、必ず、熱の一部をどこか別の場所(低温熱源)に捨てなければならない、ということです。海や大気という、ほぼ無限の熱源から熱を汲み出して、それを100%動力に変えて進み続ける夢の船は、実現不可能なのです。これは、熱から仕事への変換に、根本的な限界があることを宣言しています。
1.4. 二つの原理の論理的等価性
クラウジウスの原理(熱の流れの方向性)と、トムソンの原理(仕事への変換の限界)は、一見すると異なる現象について述べているように見えます。しかし、熱力学的には、これらは完全に論理的に等価です。すなわち、「もし片方が破れたと仮定すれば、もう片方も必ず破れる」という関係にあります。
この等価性を、「背理法」を用いて証明してみましょう。
証明:もしトムソンの原理が破れたら、クラウジウスの原理も破れる
- 仮定: トムソンの原理を破る、熱効率100%の「反トムソン機関 (Anti-Kelvin engine)」が存在したと仮定します。この機関は、高温熱源(温度 \(T_H\))から熱量 \(Q_H\) を受け取り、それをすべて仕事 \(W = Q_H\) に変換します。低温熱源は不要です。
- 組み合わせ: この反トムソン機関が生み出した仕事 \(W\) を使って、普通の冷凍機を動かします。この冷凍機は、低温熱源(温度 \(T_L < T_H\))から熱量 \(|Q_L|\) を汲み上げ、高温熱源(温度 \(T_H\))へ熱量 \(|Q_H’|\) を排出します。エネルギー収支は、\(W = |Q_H’| – |Q_L|\) です。
- 全体の収支: この二つの装置を組み合わせた「複合機関」全体で、エネルギーの出入りを見てみましょう。
- 仕事: 反トムソン機関が生んだ仕事 \(W\) は、すべて冷凍機を動かすのに使われたので、外部との仕事のやり取りはゼロです。
- 高温熱源との熱のやり取り: 反トムソン機関は \(Q_H\) を吸収し、冷凍機は \(|Q_H’|\) を放出します。ここで、\(Q_H = W = |Q_H’| – |Q_L|\) なので、正味の熱の出入りは、\(Q_H – |Q_H’| = -|Q_L|\) となります。つまり、高温熱源は、全体として \(|Q_L|\) の熱を放出しています。
- 低温熱源との熱のやり取り: 冷凍機が、低温熱源から熱量 \(|Q_L|\) を吸収しています。
- 結論: この複合機関は、全体として見ると、「外部から仕事をされることなく、低温熱源から熱量 \(|Q_L|\) を吸収し、それをすべて高温熱源へと移動させた」ことになります。これは、まさにクラウジウスの原理が「不可能だ」と述べている現象そのものです。
- 論理: したがって、「トムソンの原理が破れる」という仮定は、「クラウジウスの原理が破れる」という結論を導きます。
(逆の証明、すなわち「クラウジウスの原理が破れたらトムソンの原理も破れる」も同様に示すことができます。)
この論理的な繋がりは、二つの原理が、同じ一つの根本的な自然法則の、異なる側面に光を当てたものに過ぎないことを示しています。その根本的な法則こそが、熱力学第二法則なのです。
2. 熱の不可逆的な移動
2.1. 第二法則の最も身近な現れ
熱力学第二法則のクラウジウスの原理が示す「熱は低温の物体から高温の物体へ自発的に移ることはない」という主張は、私たちの最も基本的な日常経験と一致します。熱いお茶は必ず冷め、冷たいジュースは必ずぬるくなります。この高温から低温へという熱の流れの方向性は、絶対的であり、逆向きの変化は決して起こりません。
この熱移動の「不可逆性 (irreversibility)」こそが、熱力学第二法則が支配する世界の、最も身近で、かつ最も本質的な特徴です。
2.2. なぜ熱は一方向にしか流れないのか?ミクロな視点からの洞察
エネルギー保存則(第一法則)だけを考えれば、低温の物体の分子がさらに運動を緩め、その分のエネルギーが高温の物体の分子に移動して、温度差がさらに開く、という現象が起こっても、何ら不思議はありません。エネルギーの総量は変わらないからです。しかし、現実はそうなりません。なぜでしょうか。
その答えは、Module 3で触れた、確率・統計的な考え方にあります。
- 設定: 高温の物体(分子が激しく振動している)と、低温の物体(分子が穏やかに振動している)を接触させます。接触面では、両者の分子が絶えず衝突を繰り返します。
- 衝突の結果:
- 典型的な衝突: 激しく動いている「高温分子」が、穏やかに動いている「低温分子」に衝突すれば、運動エネルギーは、確率的に、高温分子から低温分子へと移動する可能性が非常に高いです。パチンコ玉が静止した玉に当たれば、静止していた玉が動き出すのと同じです。
- 稀な衝突: 逆に、穏やかに動いている「低温分子」が、ちょうど良いタイミングと角度で、激しく動いている「高温分子」の運動をさらに加速させるような衝突も、原理的にはあり得ます。しかし、そのような「ラッキーパンチ」が起こる確率は、極めて低いと言えます。
- 統計的な結論:接触面では、天文学的な数の分子が、一瞬のうちに無数の衝突を繰り返しています。個々の衝突の結果は様々ですが、それらをすべて平均すると、エネルギーは圧倒的な確率で、運動が激しい集団(高温側)から、運動が穏やかな集団(低温側)へと、正味として移動することになります。
つまり、熱が高温から低温へと流れるのは、何か特別な「力」がそのように仕向けているからではありません。それは、単に、その方が、逆向きのプロセスよりも、圧倒的に確率が高いからという、統計的な必然なのです。
2.3. 平衡状態へ向かう流れ
このエネルギーの移動は、いつまで続くのでしょうか。
それは、二つの物体の分子の平均運動エネルギーが等しくなるまで、すなわち、二つの物体の温度が等しくなり、熱平衡状態に達するまで続きます。
熱平衡状態では、高温側から低温側へ移動するエネルギーの量と、低温側から高温側へ移動するエネルギーの量が、統計的に釣り合います。その結果、マクロな視点では、正味の熱の移動は停止したように見えます。
この、孤立した系が、時間とともに、より確率の高い状態(この場合は温度が均一な状態)へと自発的に移行していくというプロセスこそ、熱力学第二法則が記述する、世界の基本的な姿なのです。熱の不可逆的な移動は、その最も単純明快な一例に過ぎません。
3. 第二種永久機関の不可能性
3.1. 永久機関の再分類
Module 4で、私たちは「第一種永久機関」が、エネルギー保存則(熱力学第一法則)によって禁じられていることを見ました。これは、無からエネルギーを創造する機械でした。
ここで、熱力学第二法則によって禁じられる、もう一つの架空の機関、「第二種永久機関 (perpetual motion machine of the second kind)」を定義します。
第二種永久機関の定義:
ただ一つの熱源から熱を吸収し、それを100%仕事に変換することで、永久に仕事を続ける機関。
この機関は、トムソンの原理が「不可能だ」と述べている、まさにそのものです。
3.2. 第一種と第二種の違い
この二つの永久機関の違いを明確に理解することは、第一法則と第二法則の役割分担を理解する上で、極めて重要です。
- 第一種永久機関:
- 破る法則: 熱力学第一法則(エネルギー保存則)
- 主張: エネルギー入力ゼロで、仕事を生み出す(\(Q_{in}=0, W_{by}>0\))。
- 問題点: エネルギーを無から創造している。
- 第二種永久機関:
- 破る法則: 熱力学第二法則
- 主張: 一つの熱源からのエネルギー入力(\(Q_{in}>0\))を、**100%**仕事に変換する(\(W_{by} = Q_{in}\))。
- 問題点: エネルギーは保存されている(創造はしていない)。しかし、サイクルを完結させるために不可欠な、低温熱源への排熱(\(|Q_{out}| > 0\))を行っていない。
3.3. なぜ第二種永久機関は魅力的なのか
第二種永久機関は、もし実現できれば、第一種永久機関と実質的に同じくらい、人類にとっての「夢のエネルギー源」となり得ます。
なぜなら、私たちの周りには、膨大な熱エネルギーを蓄えた「巨大な熱源」が、無尽蔵に存在するからです。
- 大気: 地球全体を覆う空気は、莫大な内部エネルギーを持っています。
- 海水: 地球の表面の7割を占める海洋もまた、巨大な熱の貯蔵庫です。
もし、第二種永久機関が存在すれば、私たちは、船を動かすのに、燃料を燃やす必要はありません。ただ、船の周りの海水から熱を汲み出し、それを100%スクリューを回す仕事に変換し、冷たくなった氷を海に捨てればよいのです(実際には熱を奪うだけなので氷もできない)。これは、エネルギー保存則には反しません。
しかし、熱力学第二法則は、このような都合の良い装置の実現に、冷徹に「No」を突きつけます。海水から熱を汲み出して仕事をするためには、海水よりもさらに温度の低い「低温熱源」を用意し、そこへ熱の一部を捨てなければ、エンジンはサイクルとして連続的に作動することはできないのです。
3.4. 第二法則の工学的な意味
このように、熱力学第二法則は、熱機関の効率に、根本的な理論的限界を与える、極めて実践的な法則です。第一法則が「エネルギー収支は必ず合わなければならない」という会計のルールを定めたのに対し、第二法則は「熱を仕事に変える商売では、必ず『仕入れ原価(\(Q_{in}\))』の一部が『廃棄ロス(\(|Q_{out}|\))』となり、利益(\(W_{by}\))には上限がある」という、経営の現実を突きつけるのです。
この「効率の限界」が、具体的に何によって決まるのかについては、Module 10で学ぶ「カルノーサイクル」の理論によって、定量的に明らかにされることになります。
4. 熱現象の不可逆性の意味
4.1. 時間の矢
熱力学第二法則が明らかにする「不可逆性」は、単なる熱現象の性質にとどまらず、私たちの世界認識の根幹に関わる、より深い意味を持っています。それは、「時間」というものの本質と深く結びついています。
力学の世界、例えば、摩擦のない理想的なビリヤード台の上での二つの球の衝突を考えてみましょう。この衝突の様子をビデオに撮り、それを順再生で見ても、逆再生で見ても、私たちはその区別をつけることができません。どちらの映像も、ニュートンの運動法則に完璧に従っており、物理的に全くあり得ないものではありません。このように、力学の基本法則は、**時間の向きに対して対称(可逆)**です。
しかし、熱力学が支配するマクロな世界は、そうではありません。
- 割れた卵が元に戻る映像は、明らかに「逆再生」だとわかります。
- 冷たい水にインクが広がっていく映像は「順再生」で、インクが一箇所に集まってくる映像は「逆再生」だとわかります。
これらの現象では、時間の向きは**非対称(不可逆)**です。私たちは、過去と未来を明確に区別することができます。この、マクロな世界における時間の不可逆的な流れを、比喩的に「時間の矢 (arrow of time)」と呼びます。
熱力学第二法則は、この「時間の矢」の向きを、物理法則として初めて定義したものなのです。第二法則によれば、孤立した系において、時間は、エントロピーが増大する方向へと進むのです。
4.2. ミクロな可逆性とマクロな不可逆性の謎
ここには、物理学における大きな謎の一つが潜んでいます。
- ミクロな世界: 個々の分子の運動や衝突は、時間的に可逆なニュートン力学によって支配されている。
- マクロな世界: その分子の巨大な集団が示す振る舞いは、時間的に不可逆な熱力学第二法則によって支配されている。
なぜ、時間的に可逆なルールに従う無数の要素の集まりが、全体として、時間的に不可逆な性質を示すのでしょうか?
この問いに対する答えの鍵を握るのが、前にも述べた**「確率」**という概念です。
割れた卵の破片や中身を構成する無数の分子が、偶然、元のきれいな卵の形に再配置されるような、力学的に「正しい」運動をすることは、原理的には可能です。しかし、そのような特定の、秩序だった状態が実現される「場合の数」は、破片や中身が床に無秩序に散らばっている状態が実現される「場合の数」に比べて、天文学的に、絶望的なほど小さいのです。
マクロな世界の不可逆性とは、ミクロな世界の決定論的な法則が破れているということではありません。そうではなく、あまりにも多くの要素が関わる複雑な系では、確率的に圧倒的に起こりやすい状態(無秩序な状態)へと変化が進むという、統計的な必然性の現れなのです。
4.3. 第二法則の射程
この不可逆性の概念は、物理学や化学にとどまらず、広範な領域に影響を及ぼします。
- 生命: 生命体は、食物を摂取してエネルギーを得て、老廃物を排出することで、自身の内部の高度に秩序だった状態(低いエントロピー状態)を、絶えず維持しようとする存在と見ることができます。これは、宇宙全体のエントロピー増大という大きな流れに、局所的に「逆らおう」とする、驚くべき現象です。
- 宇宙: 宇宙全体もまた、孤立した系と見なせます。ビッグバンという、極めて低エントロピーの秩序だった状態から始まった宇宙は、時間とともに膨張し、星が生まれ、そして死に、全体としてエントロピーが増大する方向へと進化している、と考えることができます。第二法則は、宇宙の過去、現在、そして未来の運命を考える上での、基本的な指針を与えるのです。
熱力学第二法則は、単なる「熱機関の法則」ではなく、時間、確率、そして存在のあり方そのものに関わる、広大で深遠な射程を持った、自然界の根本法則なのです。
5. エントロピー増大の法則の定性的理解
5.1. 第二法則の現代的な表現
クラウジウスやトムソンの原理は、第二法則の具体的な現れを記述するものでしたが、その背後にある、より普遍的で抽象的な原理を表現するために、クラウジウスは「エントロピー (Entropy, 記号: \(S\))」という新しい状態量を導入しました。
エントロピーを用いると、熱力学第二法則は、以下のような、非常に強力で一般的な形で表現することができます。
エントロピー増大の法則:
外部から孤立した系(断熱系)の内部で起こる、いかなる自発的な変化も、その系の総エントロピー (\(S\)) が増大する方向に起こる。
数式で表現すると、孤立系における変化量 \(\Delta S\) は、
\[ \Delta S \ge 0 \]
となります。ここで、
- \(\Delta S > 0\) となるのは、その変化が不可逆変化(現実の自発的な変化)である場合です。
- \(\Delta S = 0\) となるのは、その変化が理想的な可逆変化である場合です。
孤立した系において、総エントロピーが自発的に減少する (\(\Delta S < 0\)) ことは、絶対にありません。
この法則は、自然界におけるすべての自発的な変化の「方向」を、エントロピーというただ一つの量の増減によって、完全に予言するものです。ある変化が起こりうるかどうかを知りたければ、その変化の前後で、宇宙全体のエントロピーがどうなるかを計算すればよいのです。もし、増大するのであれば、その変化は自発的に起こりえます。もし、減少するのであれば、その変化は決して自発的には起こりません。
5.2. エントロピーとは何か?「乱雑さ」のアナロジー
では、このエントロピーとは、一体何なのでしょうか。
その物理的本質は、後のセクションで「ミクロな状態数」としてより深く探求しますが、まずは、その定性的なイメージを掴むための、最もポピュラーなアナロジーを紹介します。
エントロピーとは、系の「乱雑さ (disorder)」や「無秩序さ」の度合いを示す尺度である。
このアナロジーによれば、エントロピー増大の法則は、「自然は、ひとりでに、より整然とした(秩序だった)状態から、より乱雑な(無秩序な)状態へと向かう」と読み替えることができます。
- 机の上の状態:
- 低エントロピー状態: 書類や本がテーマごとに分類され、きれいに積み重ねられ、ペンがペン立てにきちんと収まっている、整然とした机。
- 高エントロピー状態: 書類は散らばり、本は開きっぱなしになり、ペンが床に転がっている、乱雑な机。
- 自発的な変化: 机を放置しておけば、時間とともに、自然に高エントロピー状態(乱雑な状態)へと移行していくでしょう。しかし、乱雑な机が、ひとりでに整然とした状態に戻ることは、決してありません。
- 物質の状態:
- 低エントロピー状態: 分子が結晶格子という規則的な配置に固定されている固体の状態。
- 高エントロピー状態: 分子が容器全体を自由に、そしてランダムに飛び回っている気体の状態。
- 自発的な変化: 固体のドライアイスを放置すれば、それは昇華して、より乱雑な気体の二酸化炭素へと変化します。これはエントロピーが増大するプロセスです。
この「乱雑さ」というアナロジーは、多くの場合、エントロピーの振る舞いを直感的に理解する上で、非常に有効です。
5.3. 孤立系という条件の重要性
エントロピー増大の法則を適用する上で、絶対に忘れてはならないのが、「外部から孤立した系において」という大前提です。
私たちは、乱雑になった机を、自分の意志(仕事)を使って片付け、整然とした低エントロピー状態に戻すことができます。また、水を冷凍庫に入れれば、より秩序だった固体の氷(低エントロピー)を作ることができます。これらは、エントロピー増大の法則に反しているように見えるかもしれません。
しかし、これらのプロセスは、孤立系で起こっているわけではありません。
- 机を片付けるためには、あなたは食物からエネルギーを摂取し、その過程で熱や二酸化炭素を外部環境に放出しています。あなたと机を合わせた系だけを見るとエントロピーは減少していますが、あなたと机と外部環境をすべて含めた、より大きな孤立系全体で見れば、エントロピーは増大しているのです。
- 冷凍庫は、電気エネルギーという外部からの仕事を使って、庫内の熱を外部の部屋に排出しています。冷蔵庫の庫内という局所的な系のエントロピーは減少していますが、部屋を含めた系全体のエントロピーは、コンプレッサーの発熱などにより、それを上回る量だけ増大しています。
局所的にエントロピーを減少させる(秩序を創り出す)ことは可能ですが、そのためには、必ず、系の外部のどこかで、それを上回る量のエントロピーを増大させなければならないのです。宇宙全体としてみれば、エントロピーの総量は、増え続ける一方なのです。
6. 確率的な現象としての熱力学第二法則
6.1. なぜ「乱雑」な状態へと向かうのか?
「自然は乱雑な状態を好む」というのは、比喩としては分かりやすいですが、物理的な説明としては不十分です。自然には「好み」などありません。では、なぜ、変化は常にエントロピーが増大する、すなわち、より「乱雑」な方向へと進むのでしょうか。
その根本的な答えは、ボルツマンによって与えられました。熱力学第二法則は、ニュートンの法則のような、個々の粒子を支配する絶対的な決定論的法則ではありません。そうではなく、無数の粒子が集まった巨大な集団が示す、統計的・確率的な傾向を記述した法則なのです。
6.2. 思考実験:気体の自由膨張
この確率的な本質を理解するために、最も分かりやすい思考実験である「気体の自由膨張」を、ミクロな視点から再訪してみましょう。
- 初期状態(低エントロピー):容器が中央の仕切りで二つの部屋(左室、右室)に分かれており、\(N\) 個の気体分子がすべて左室に集まっている状態を考えます。右室は真空です。この状態は、分子の位置が「左室」という狭い範囲に限定された、比較的「秩序だった」状態です。
- 変化:ここで、仕切りを静かに取り除きます。
- 観測される最終状態(高エントロピー):十分に時間が経つと、私たちは、気体分子が容器全体(左室+右室)に、ほぼ均一に分布している状態を観測するでしょう。これは、分子の位置がより広い範囲に広がった、「乱雑な」状態です。
問い: なぜ、分子は自発的に、容器全体に広がっていったのでしょうか?
6.3. 確率による説明
- ミクロな状態:個々の分子に注目してみましょう。仕切りがなくなった後、それぞれの分子は、熱運動によってランダムに動き回ります。ある瞬間に、それぞれの分子が「左室にいる」か「右室にいる」かの確率は、全くの偶然で決まり、ほぼ等しい(それぞれ 1/2)と考えてよいでしょう。
- 全体の状態の確率:では、\(N\) 個の分子すべてが、偶然にも、初期状態のように左室に集まっている確率は、いくらになるでしょうか。これは、コインを \(N\) 回投げて、すべてが「表」になる確率を計算するのと同じです。\[ P(\text{すべて左}) = \left(\frac{1}{2}\right) \times \left(\frac{1}{2}\right) \times \dots \times \left(\frac{1}{2}\right) = \left(\frac{1}{2}\right)^N \]
- 具体的な数値:仮に、容器の中の気体がわずか 1 mol であったとしても、分子の数 \(N\) はアボガドロ定数 \(N_A \approx 6 \times 10^{23}\) です。したがって、この確率は、\[ P(\text{すべて左}) = \left(\frac{1}{2}\right)^{6 \times 10^{23}} \]という、想像を絶する、天文学的にも比較対象がないほど、ゼロに近い数値になります。
- 最も確率の高い状態:一方で、分子が左右の部屋にほぼ半分ずつ(左に \(N/2\) 個、右に \(N/2\) 個)分布している状態を考えてみましょう。この状態を実現する「分子の組み合わせの数」は、すべての分子が片方に偏っている状態の組み合わせの数に比べて、圧倒的に、そして桁違いに大きいのです。(これは、組み合わせの数 \(N C{N/2}\) を計算することでわかります。)
6.4. 第二法則の確率的本質
この思考実験が明らかにするのは、以下の事実です。
系が、低エントロピー状態(秩序だった状態)から高エントロピー状態(乱雑な状態)へと自発的に移行するのは、高エントロピー状態の方が、ミクロなレベルで実現されうる「場合の数」が、圧倒的に多いからである。
第二法則は、「すべての分子が左室に戻ることは、物理法則によって絶対に禁じられている」と言っているのではありません。そうではなく、「すべての分子が左室に戻ることは、統計的に事実上あり得ない (practically impossible)」と言っているのです。
その確率はゼロではありませんが、宇宙が始まってから終わるまでの間に、ただの一度も観測されることが期待できないほど、ゼロに近いのです。
マクロな世界の不可逆性とは、この圧倒的な確率の差が生み出す、統計的な必然性の現れに他なりません。熱力学第二法則は、物理学に「確率」という新しい視点を導入し、その後の物理学の発展(量子力学など)に、計り知れない影響を与えました。
7. 巨視的な現象と微視的な状態数
7.1. マクロ状態とミクロ状態
前節の議論を、より専門的な用語を用いて整理し、エントロピーの統計力学的な本質に、さらに一歩近づいてみましょう。ここでのキーワードは、「マクロ状態 (macrostate)」と「ミクロ状態 (microstate)」です。
- マクロ状態:
- 私たちが、圧力計、体積計、温度計といった測定器具を使って、マクロな視点から認識・記述する系の状態。
- 例: 「容器に入った 1 mol の理想気体が、体積 \(V\)、温度 \(T\) の状態にある」というのが、一つのマクロ状態の記述です。
- ミクロ状態:
- そのマクロ状態を実現している、ミクロな視点から見た、個々の粒子の具体的な状態。
- ある瞬間の、系内のすべての分子の「位置」と「運動量(速度)」の完全なリストが、一つのミクロ状態を定義します。
7.2. 一つのマクロ状態に対応する、膨大なミクロ状態
この二つの概念の最も重要な関係は、
ただ一つのマクロ状態に対して、それを実現するミクロ状態は、一般に、天文学的な数だけ存在する。
ということです。
先の自由膨張の例で考えてみましょう。
- マクロ状態A: 「気体が容器の左半分に存在する状態」
- マクロ状態B: 「気体が容器全体に均一に広がっている状態」
これらのマクロ状態を実現するミクロ状態の「場合の数」を考えます。
- マクロ状態Aを実現するためには、\(N\) 個の分子すべてが、容器の左半分という限られた空間内に、特定の位置と速度の組み合わせで存在しなければなりません。
- マクロ状態Bを実現するためには、\(N\) 個の分子が、容器全体という、より広い空間内に、特定の位置と速度の組み合わせで存在すればよいのです。
同じ分子の集団であっても、より広い空間に分布することを許される方が、可能な「配置の数(ミクロ状態の数)」が、はるかに多くなることは、直感的にも明らかでしょう。
7.3. ボルツマンの関係式:エントロピーの統計力学的定義
ルートヴィッヒ・ボルツマンは、この「ミクロ状態の数」と、熱力学的な量である「エントロピー」との間に、直接的な関係があることを見抜きました。彼は、あるマクロ状態のエントロピー \(S\) が、そのマクロ状態に対応するミクロ状態の数 \(W\)(ドイツ語の Wahrscheinlichkeit = 確率 に由来)の対数に比例する、という画期的な関係式を提唱しました。
ボルツマンの関係式:
\[ S = k_B \ln W \]
ここで、\(k_B\) はボルツマン定数、\(\ln\) は自然対数です。この式は、ボルツマンの墓碑銘にも刻まれており、統計力学の出発点となる、最も重要な式の一つです。
この式は、計算に使うというよりも、その概念的な意味を理解することが重要です。
エントロピーとは、系のマクロな状態が、ミクロなレベルで、どれだけ多くの異なる「場合の数」によって実現されうるかを示す尺度である。
- \(W\) が大きい(場合の数が多い) → エントロピー \(S\) が大きい (乱雑で、確率的に起こりやすい状態)
- \(W\) が小さい(場合の数が少ない) → エントロピー \(S\) が小さい (秩序だっていて、確率的に起こりにくい状態)
この定義によれば、「エントロピー増大の法則」は、もはや神秘的な法則ではなくなります。
孤立した系は、時間とともに、より少ない場合の数の状態(低エントロピー)から、より多くの、すなわち、より確率の高い場合の数の状態(高エントロピー)へと、自然に移り変わっていく。
これは、物理法則というよりは、むしろ数学的な、あるいは確率論的な必然性を述べているに過ぎないのです。熱力学第二法則の深遠さは、この確率論的な必然性が、私たちの世界の不可逆的な時間の流れや、熱現象の方向性を、完璧に説明してしまうという点にあるのです。
8. 可逆変化と不可逆変化の再検討
8.1. エントロピーの視点からの再定義
Module 7で、私たちは「可逆変化」と「不可逆変化」を、主に「元に戻れるか否か」「準静的か否か」という、操作的な観点から学びました。エントロピーという新しい概念を手に入れた今、私たちは、この二つの変化の違いを、より物理的で本質的なレベルで、再定義することができます。
ここでの議論の対象は、「系とその外部環境をすべて含んだ、宇宙全体」のエントロピー \(S_{total}\) です。
8.2. 不可逆変化:エントロピーを「生成」するプロセス
不可逆変化とは、
宇宙の総エントロピーを増大させる (\(\Delta S_{total} > 0\)) ような、現実の自発的なプロセス。
と定義されます。
すべての自発的なプロセス—熱が高温から低温へ伝わる、気体が真空へ膨張する、インクが水に拡散する、摩擦によって熱が発生する—は、この定義に当てはまります。これらのプロセスは、より確率の低い(秩序だった)状態から、より確率の高い(乱雑な)状態へと移行するプロセスであり、その過程で、宇宙に新しいエントロピーが「生成 (generate)」されます。
一度生成されたエントロピーは、決して消滅することはありません。これが、不可逆変化が「元に戻れない」理由です。プロセスを逆行させることは、宇宙の総エントロピーを減少させることを意味し、それはエントロピー増大の法則によって固く禁じられているからです。
8.3. 可逆変化:エントロピーを生成しない、理想の極限
一方、可逆変化とは、
宇宙の総エントロピーを変化させない (\(\Delta S_{total} = 0\))、理想化されたプロセス。
と定義されます。
可逆変化は、エントロピーを一切生成しない、完璧に「効率的な」プロセスです。これは、系が、無限にゆっくりと(準静的に)、一連の平衡状態をたどっていく、理想の極限状態に対応します。
例:準静的な等温膨張
気体が、温度 \(T\) の熱浴から、微小な熱量 \(\Delta Q_{rev}\) を吸収して、微小に膨張する可逆プロセスを考えます。
- 系のエントロピー変化: このとき、系のエントロピーは \(\Delta S_{system} = \Delta Q_{rev} / T\) だけ増加します。
- 外部環境(熱浴)のエントロピー変化: 熱浴は、同じ量の熱 \(\Delta Q_{rev}\) を失うので、そのエントロピーは \(\Delta S_{bath} = -\Delta Q_{rev} / T\) だけ減少します。
- 宇宙全体のエントロピー変化:\[ \Delta S_{total} = \Delta S_{system} + \Delta S_{bath} = \frac{\Delta Q_{rev}}{T} – \frac{\Delta Q_{rev}}{T} = 0 \]となり、宇宙全体のエントロピーは変化しません。
可逆変化とは、系と外部環境との間で、エントロピーの「やり取り」はするものの、そのプロセスにおいて新しいエントロピーが生成されることがない、という特別な状態なのです。
現実のプロセスは、必ず何らかの摩擦や、急激な変化(非平衡状態)を伴うため、常に \(\Delta S_{total} > 0\) となります。可逆変化は、現実には到達できない、理論上の「理想」であり、現実のプロセスの効率が目指すべき「上限」を示す、ベンチマークとしての役割を果たします。
9. 「乱雑さ」の増大としてのエントロピー
9.1. 有効なアナロジー、しかし注意も必要
エントロピーを「乱雑さ (disorder / randomness)」の尺度と捉えるアナロジーは、その概念を直感的に理解する上で、非常に強力でポピュラーな方法です。
このアナロジーがうまく機能する例:
- 状態変化:
- 固体(結晶): 分子が規則正しく格子状に並んだ、極めて秩序だった状態 → 低エントロピー
- 液体: 分子が互いの位置を交換しながら動き回る、やや乱雑な状態 → 中エントロピー
- 気体: 分子が容器内を完全にランダムに飛び回る、極めて乱雑な状態 → 高エントロピーこのため、一般に、融解(固体→液体)や蒸発(液体→気体)は、エントロピーが増大するプロセスです。
- 混合:
- 分離された純粋な気体AとB → 比較的秩序だった状態 → 低エントロピー
- 均一に混ざり合った混合気体 → より乱雑な状態 → 高エントロピーしたがって、拡散や混合は、エントロピーが増大する自発的なプロセスです。
これらの例では、「乱雑さ」という言葉は、私たちの直感と、エントロピー増大の法則の予測とを、うまく結びつけてくれます。
9.2. 「乱雑さ」アナロジーの限界と、より正確な解釈
しかし、「乱雑さ」という言葉は、主観的で曖昧な側面も持っており、使い方を誤ると、エントロピーの物理的な意味を誤解させる可能性があります。
例:油と水の混合
油と水をかき混ぜても、やがて二つの層に分離してしまいます。これは、均一に混ざった状態よりも、分離した状態の方が、熱力学的に安定(この場合は、系と環境を合わせた総エントロピーが大きい)だからです。これを単純に「乱雑さ」で説明しようとすると、「分離した状態の方が乱雑だ」と言わねばならず、直感に反するかもしれません。(これは、水分子間の水素結合という強い秩序が、油を排除することで、全体としてより安定な状態になるためです。)
より正確な解釈:
「乱雑さ」という言葉の代わりに、エントロピーを以下のように解釈する方が、より本質的で、誤解が少なくなります。
- ミクロな状態の「場合の数」:ボルツマンの定義 \(S = k_B \ln W\) に立ち返り、エントロピーを**可能なミクロ状態の数(の対数)**と捉えるのが、最も厳密です。
- エネルギーの「拡散」または「分散」の度合い:エントロピーは、系が持つエネルギーが、いかに空間的に、あるいは運動量的に、広く散らばっているかを示す尺度である、と解釈することもできます。
- 低エントロピー: エネルギーが、特定の場所や、特定の運動モードに集中している状態。(例:熱い小さな鉄球)
- 高エントロピー: エネルギーが、空間全体に、そして様々な分子の運動モードに、均一に分散している状態。(例:全体が均一な温度になった、鉄球と水の系)第二法則は、「エネルギーは、集中した状態から、より広く分散した状態へと、自発的に拡散していく」と述べることができます。
9.3. 結論
「乱雑さ」は、エントロピーを学ぶ上での、優れた第一歩となる入門的なアナロジーです。しかし、より深いレベルで熱力学を理解するためには、その背後にある「確率」や「場合の数」、「エネルギーの分散」といった、より物理的で定量的な概念へと、思考をステップアップさせていくことが重要です。
10. 熱力学法則が示す世界の非対称性
10.1. 二つの法則、二つの世界観
私たちは、熱力学の二つの大きな柱、第一法則と第二法則を学び終えました。この二つの法則は、互いに補い合いながら、私たちの世界の物理的現実を記述しますが、その根底にある世界観は、ある意味で対照的です。
- 熱力学第一法則(エネルギー保存則):
- 対称性の法則: この法則は、時間の向きに対して対称です。あるプロセスで \(\Delta U = Q+W\) が成り立てば、その逆向きのプロセスでも \(-\Delta U = -Q-W\) が成り立ち、エネルギー収支は合います。第一法則は、プロセスがどちらの向きに起こるかについては、何も教えてくれません。
- 変化の「可能性」を規定する: エネルギーの会計が合う限り、あらゆる変化は原理的に可能である、という楽観的な世界観を示します。
- 熱力学第二法則(エントロピー増大則):
- 非対称性の法則: この法則は、時間の向きに対して、明確に非対称です。孤立系では、エントロピーは増えることはあっても、減ることはない。これにより、過去(低エントロピー)と未来(高エントロピー)が、明確に区別されます。
- 変化の「方向性」を規定する: 可能な変化の中でも、自発的に起こるのは、エントロピーが増大する向きの変化だけである、という厳しい制約を課します。
10.2. 時間の矢と宇宙の運命
この第二法則がもたらす「非対称性」こそが、私たちが経験する世界の、あらゆる「時間的な」現象の根源にあります。
- 記憶: 私たちは過去の出来事を記憶していますが、未来の出来事を「記憶」することはできません。これは、脳の情報処理プロセスが、エントロピーが増大する物理的なプロセスと結びついているからだと考えられています。
- 老化と死: 生命体は、秩序を維持するために絶えずエネルギーを消費し、エントロピーを外部に排出していますが、このプロセスは完璧ではなく、時間とともに損傷が蓄積し、やがてはよりエントロピーの高い、分解された状態(死)へと向かいます。
- 因果律: 「原因」が「結果」に先行するという因果律もまた、時間の矢の現れです。
そして、この法則を宇宙全体という最大の孤立系に適用すると、宇宙の究極的な運命についての、壮大な、しかし少し寂しい示唆が得られます。
宇宙は、ビッグバンという、極めて秩序だった(信じられないほど低エントロピーの)状態で始まったと考えられています。それ以来、宇宙は膨張を続け、星が輝き、銀河が形成され、生命が誕生するという、局所的には複雑で秩序だった構造を生み出しながらも、宇宙全体としては、エントロピーは増大の一途をたどっています。
このプロセスが永遠に続いた先にある、宇宙の最終的な姿とは何でしょうか。
それは、宇宙の中のすべてのエネルギーが完全に均一に分散し、すべての場所が同じ温度となり、もはや温度差が存在しない、完全な熱平衡状態です。このような状態では、熱の流れは存在せず、したがって、熱を仕事に変換する熱機関も、生命活動も、いかなる意味のあるプロセスも、もはや起こりえません。この、宇宙が最大限のエントロピーに達し、すべての活動が停止した、静かで永遠の状態は、「宇宙の熱的死 (Heat Death of the Universe)」と呼ばれています。
10.3. 結論
熱力学第二法則は、私たちに、変化には方向があり、資源には限りがあり、そして時間には終わりがあるかもしれない、ということを教えてくれます。それは、エネルギー保存則が示す、変化は可逆で永遠に続くという、単純で楽観的な世界観に、深みと、ある種の哀愁を与えるものです。
しかし、同時に、このエントロピー増大という大きな流れの中で、いかにして局所的な秩序(生命や文明)が生まれ、維持されるのかを問うことは、物理学だけでなく、化学、生物学、情報科学の最も刺激的なテーマの一つであり続けています。第二法則は、終わりを語ると同時に、始まりと構造の謎を解く鍵をも、私たちに与えてくれるのです。
Module 9:熱力学第二法則の総括:時間の矢を定め、変化の運命を告げる法則
本モジュールにおいて、私たちは熱力学の頂、そして物理学全体の中でも最も深遠な法則の一つである「熱力学第二法則」の頂きへと登攀しました。それは、エネルギーの「量」を問う第一法則を超え、変化の「質」と「方向」を問う、全く新しい次元への知的探求でした。
私たちは、クラウジウスとトムソンという二人の巨人が、それぞれ「熱の流れ」と「仕事への変換」という異なる現象から定式化した原理が、論理的に完全に等価であり、同じ一つの根本法則の異なる側面であることを確認しました。それは、熱は自発的に低温から高温へは流れず、また、熱を100%仕事に変えることはできない、という、経験が教える世界の「不可能性」を厳密に述べたものでした。この法則は、「第二種永久機関」という夢の機械を禁じ、熱機関の効率に根本的な限界を課す、実践的な指針でもありました。
しかし、第二法則の真の深淵は、「不可逆性」と「時間の矢」という、より哲学的な領域に広がっていました。私たちは、ミクロな世界の可逆な法則から、なぜマクロな世界の不可逆な現象が生まれるのか、その謎を解く鍵が「確率」にあることを見出しました。そして、この確率的な性質を定量化する指標として、「エントロピー」という偉大な概念を導入しました。
エントロピーを、ミクロな「場合の数」やマクロな「乱雑さ」と結びつけることで、「エントロピー増大の法則」—孤立した系は、より確率の高い、より乱雑な状態へと向かう—が、すべての自発的な変化の方向を支配する、究極のコンパスであることを理解しました。この法則の光の下で、可逆変化(エントロピーを生成しない理想)と不可逆変化(エントロピーを生成する現実)の違いは、より一層明確になりました。
最終的に、私たちは、このエントロピー増大の法則が、私たちの世界の根源的な「非対称性」—過去と未来の違い、原因と結果の連鎖、そして生命と死—を規定し、さらには宇宙の究極的な運命である「熱的死」をも示唆する、壮大な射程を持つことを見てきました。
熱力学第二法則は、私たちに世界の限界と運命を告げると同時に、その中でなぜ秩序が生まれ、生命が輝くのかという、最も根源的な問いを投げかけます。この深遠な問いを胸に、次なるモジュールでは、第二法則が効率に課す具体的な「限界値」を、理論的に最も美しい熱サイクルである「カルノーサイクル」を通じて、定量的に探求していきます。