- 本記事は生成AIを用いて作成しています。内容の正確性には配慮していますが、保証はいたしかねますので、複数の情報源をご確認のうえ、ご判断ください。
【基礎 日本史(通史)】Module 3:摂関政治と王朝国家
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは、法典「律令」に基づき、天皇が公的に人民と土地を支配する、整然とした中央集権国家の完成を見ました。しかし、その理想的なシステムは、永遠には続きませんでした。本モジュールでは、律令国家がその内部から徐々に変質し、特定の貴族、すなわち藤原氏が天皇に代わって政治の実権を握る「摂関政治」の時代へと移行していく過程を追跡します。この変質は、日本の歴史における「公」から「私」への大きな揺り戻しであり、その中で、国家のあり方そのものが、律令の建前とは異なる「王朝国家」という実態へと変化していくダイナミズムを探ります。このモジュールを学ぶことの戦略的重要性は、単に藤原氏の権力掌握の過程を追うことにあるのではありません。それは、律令の公的な支配システムがなぜ、そしてどのようにして形骸化し、その隙間から荘園という私的な土地支配が拡大し、さらには後の時代を主導する「武士」という新たな階層が誕生するに至ったのか、その根本的な構造変化を理解することにあります。
本モジュールは、以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず、奈良の旧仏教勢力の影響を断ち切り、天皇の権威を再確立しようとした桓武天皇による平安京遷都から始めます。次に、藤原氏、特にその中の北家が、巧みな婚姻政策(外戚政策)を駆使して、いかにして他の貴族を排斥し、権力の中枢へと上り詰めたかを分析します。そして、摂関政治が確立され、藤原道長の時代にその全盛期を迎える様相と、その権力構造の本質を解き明かします。しかし、この私的な支配は、地方政治の混乱と武士の台頭を促し、さらには「荘園公領制」という新たな土地支配システムを発展させます。最後に、盤石に見えた藤原氏の支配が、皇統の隙間を突いた上皇による「院政」の開始によって、いかにしてその終焉を迎えるのか、その劇的な転換点までを考察します。
- 桓武天皇と平安京遷都: 奈良の仏教勢力から脱却し、天皇親政の理想を掲げた新たな都の建設とその意義を探る。
- 平安初期の政治と藤原氏北家の台頭: 天皇と他の貴族との権力闘争の中で、藤原氏北家がいかにして他氏排斥を進め、権力の礎を築いたかを分析する。
- 摂関政治の確立とその権力構造: 摂政・関白という地位の確立過程と、天皇の外戚として政治を壟断した藤原氏の権力システムを解明する。
- 菅原道真と遣唐使の廃止: 藤原氏に対抗しうる存在として登用された異才の末路と、日本が独自の文化(国風文化)へと舵を切る画期的な決断を理解する。
- 荘園公領制の展開と王朝国家体制: 律令国家が変質し、公領と私領(荘園)が並存する、新たな国家体制「王朝国家」の実態に迫る。
- 受領の強欲と地方政治の乱れ: 中央の統制が緩んだ地方で、私腹を肥やす国司(受領)たちが引き起こした混乱の実態を見る。
- 武士の発生と武士団の形成: 地方の治安悪化の中から、自衛のために武装した者たちが、いかにして「武士」という新たな社会階層を形成していったかを探る。
- 承平・天慶の乱: 新興の武士階級が、国家を揺るがす大規模な反乱を起こし、その存在感を初めて天下に示した事件を分析する。
- 藤原道長の全盛期: 「この世をば…」の歌に象徴される、摂関政治の栄華がその頂点に達した時代の光と影を考察する。
- 院政の開始と上皇による政治: 藤原氏の支配を打ち破り、新たな権力構造を創出した上皇による「院政」の開始と、その歴史的意義を解き明かす。
このモジュールを通じて、皆さんは、華やかな王朝文化の裏で、法と現実、公と私、そして中央と地方が複雑に絡み合いながら、古代の律令国家が、次なる中世の武家社会へと、不可逆的に変貌していく壮大な歴史の転換点を目の当たりにするでしょう。
1. 桓武天皇と平安京遷都
道鏡事件の混乱と、天武天皇系の皇統の断絶を経て、8世紀後半、日本の政治は大きな転換期を迎えます。天智天皇の孫にあたる光仁天皇、そしてその子である桓武(かんむ)天皇(在位781-806)の登場です。特に、桓武天皇は、律令制度が導入されて以来、蓄積されてきた様々な矛盾や淀みを一掃し、天皇の権威を再確立して、律令政治を再建しようとした、極めて強力な意志を持つ改革者でした。その改革の第一歩であり、最も象徴的な事業が、794年に行われた「平安京(へいあんきょう)」への遷都でした。本章では、桓武天皇が、なぜ繁栄していた平城京を捨てるという重大な決断を下したのか、その背景にある政治的・宗教的な理由、そして新たな都に込められた彼の国家構想を探ります。
1.1. 平城京放棄の動機:旧弊からの脱却
710年の遷都以来、約70年間にわたって日本の首都であった平城京は、壮麗な都城であり、天平文化の中心地でした。しかし、桓武天皇の目には、この都はもはや、改革を断行するにはあまりにも多くの旧弊と既得権益に縛られた場所と映っていました。
- 奈良仏教勢力の強大化:聖武天皇の時代以来、東大寺や興福寺、薬師寺といった南都(奈良)の大寺院は、国家から手厚い保護を受け、広大な荘園を所有し、多数の僧兵を抱えるなど、政治的にも経済的にも強大な勢力となっていました。彼らは、しばしば国政に介入し、その意向は天皇や政府にとっても無視できない重圧となっていました。道鏡事件は、その危険性が極限まで高まった例でした。桓武天皇は、この巨大な仏教勢力の影響下にある平城京を離れることで、政治と宗教を切り離し、天皇の主導権を取り戻す必要があると考えたのです。
- 天武天皇系旧勢力の一掃:平城京は、天武天皇とその子孫たちが築き上げた都であり、そこには天武系の皇統に仕えてきた旧来の貴族たちの勢力が根強く残っていました。天智天皇の系統から即位した桓武天皇にとって、これらの旧勢力は、自らの改革を進める上での潜在的な抵抗勢力でした。人心を一新し、自らのリーダーシップを確立するためには、物理的に都を移し、彼らの息のかかっていない新しい場所で、新しい政治を始めることが効果的だと判断したのです。
- インフラの老朽化と経済的問題:平城京は、長年の発展の結果、人口が増加し、宮殿やインフラの老朽化が進んでいました。また、その立地は内陸の盆地であり、全国から物資を輸送するための水運にも不便がありました。これらの現実的な問題も、遷都を後押しする一因となったと考えられます。
1.2. 長岡京の悲劇:挫折と怨霊への恐怖
桓武天皇が、平城京に代わる最初の新都として選んだのが、山城国(やましろのくに、現在の京都府)の**長岡京(ながおかきょう)**でした。この地は、桂川と淀川の水運を利用でき、交通の便に優れた場所でした。784年、桓武は遷都を断行し、急ピッチで都の造営を進めます。
しかし、この長岡京の造営は、悲劇的な事件によって、わずか10年で頓挫することになります。
785年、長岡京造営の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が、何者かによって暗殺されるという事件が発生します。この事件の首謀者として、桓武天皇の同母弟であり、皇太子であった**早良親王(さわらしんのう)**が疑われました。親王は、無実を訴えましたが、その訴えは聞き入れられず、乙訓寺(おとくにでら)に幽閉され、皇太子の位を廃されました。そして、淡路国へと配流される途上で、憤りのうちに亡くなったと伝えられています。
この事件の後、桓武天皇の周辺では、次々と不幸な出来事が起こります。天皇の母や后が相次いで病死し、皇子たちも病に倒れ、都では疫病が流行しました。人々は、これを無実の罪で亡くなった早良親王の「怨霊(おんりょう)」の祟りであると噂し、恐怖しました。科学的な知見が乏しい古代社会において、怨霊の存在は、極めてリアルな脅威として受け止められていたのです。
この一連の凶事は、桓武天皇に、長岡京が呪われた土地であるという強迫観念を抱かせました。彼は、早良親王の怨霊を鎮めるために、「崇道天皇(すどうてんのう)」という追号を贈り、鎮魂の儀式を繰り返しましたが、遷都計画そのものを放棄するという、苦渋の決断を下さざるを得ませんでした。長岡京の挫折は、桓武天皇の改革事業にとって、大きな痛手となりました。
1.3. 平安京の建設(794年):王城鎮護の思想
長岡京の悲劇を乗り越え、桓武天皇が、新たな都として最終的に選んだのが、長岡京の北東に位置する、山背国の葛野(かどの)・愛宕(おたぎ)の地でした。四方を山に囲まれ、鴨川と桂川という二つの清流が流れるこの地は、古代中国の風水思想において、理想的な「四神相応(しじんそうおう)の地」とされていました。
- 北に玄武(船岡山)
- 東に青龍(鴨川)
- 西に白虎(山陰道)
- 南に朱雀(巨椋池、おぐらいけ)
桓武天皇は、この地が、怨霊や災厄から都を守る、地理的な要害であると考えたのです。794年、都は正式にこの地に移され、「平安京」と命名されました。その名には、「平和で安らかな都が、末永く続くように」という、桓武天皇の切実な祈りが込められていました。
平安京の都市計画は、長岡京のそれを引き継ぎつつ、唐の長安をモデルとした、壮大なものでした。都の中央を朱雀大路が南北に貫き、内裏(だいり)や大極殿といった宮殿が北端に置かれました。そして、都の入り口である羅城門の左右には、東寺(とうじ)と西寺(さいじ)という二つの官寺が建立され、仏法の力によって都を鎮護する役割を担いました。桓武天皇は、奈良の旧仏教勢力を厳しく統制する一方で、最澄(さいちょう)や空海(くうかい)といった新しい仏教の才能を登用し、仏教を、政治から切り離した上で、国家鎮護の力として利用しようとしたのです。
1.4. 桓武天皇の二大事業:軍事と財政の再建
平安京への遷都と並行して、桓武天皇は、律令制の二つの大きな課題であった、軍事と財政の再建にも、精力的に取り組みました。
- 蝦夷(えみし)征討と軍事制度改革:当時、東北地方には、律令国家の支配に服さない人々(蝦夷)が、強大な勢力を保っていました。桓武天皇は、国家の威信をかけて、この蝦夷を征討するための大規模な軍を、繰り返し派遣しました。この事業の指揮官として抜擢されたのが、**坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)です。彼は、初代の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、802年には、現在の岩手県に、蝦夷支配の拠点として胆沢城(いさわじょう)**を築くなど、大きな戦果を上げました。しかし、この大規模な軍事行動は、国家財お政を著しく圧迫しました。また、律令制の基本であった、農民を徴発する「軍団制」が、士気の低下などにより、もはや機能不全に陥っていることも明らかになりました。そこで桓武天皇は、軍団制を大幅に縮小・廃止し、代わりに、地方の郡司の子弟など、武芸に優れた者を選抜して組織する、少数精鋭の「健児(こんでい)」の制度を導入しました。これは、国民皆兵という律令の建前から、専門的な技能を持つ者が軍事を担うという、専門兵士への移行を示す、重要な軍事制度改革でした。この健児の中から、後の「武士」の源流の一つが生まれてくることになります。
- 財政再建と徳政論争:遷都事業と蝦夷征討という二大事業は、国家財政に破綻をきたすほどの、莫大な費用を必要としました。人民の負担は限界に達し、社会には疲弊が広がっていました。この状況に対し、参議であった藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)は、「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作となり(今、天下の人々が苦しんでいるのは、蝦夷征討と平安京造営の二つです)」と述べ、これらの事業の中止を強く訴えました。一方、同じく参議の菅野真道(すがののまみち)は、事業の継続を主張し、激しい論争(徳政論争)が繰り広げられました。最終的に、桓武天皇は緒嗣の意見を容れ、805年、蝦夷征討と平安京造営の中止を決定します。これは、自らの悲願であった事業を、人民の困窮を救うという、君主としての徳を優先して断念するという、為政者としての苦渋の、しかし賢明な決断でした。
桓武天皇の治世は、律令国家を再建しようとする、壮大な試みの時代でした。平安京への遷都は、その後の日本の文化の中心を千年以上にわたって築き、軍事制度の改革は、武士の時代の到来を遠く予感させるものでした。しかし、彼の改革は、律令制そのものの限界を浮き彫りにする結果ともなり、その死後、政治の実権は、再び天皇の手から、藤原氏という一貴族の手へと、大きく傾いていくことになるのです。
2. 平安初期の政治と藤原氏北家の台頭
桓武天皇が築いた強力な天皇親政の時代は、彼の死後、長くは続きませんでした。桓武の子である平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇、淳和(じゅんな)天皇の治世(9世紀前半)は、皇位継承をめぐる深刻な対立や、天皇と貴族との間の権力闘争が絶えない、不安定な時代でした。そして、この政治的混乱の中から、着実に、そして巧みにその勢力を伸張させていったのが、藤原氏、特にその中の一族である「北家(ほっけ)」でした。彼らは、天皇との個人的な関係を武器に、他の有力氏族を次々と排斥し、政治の中枢を独占するための、揺るぎない基盤を築き上げていきます。本章では、平安初期の権力闘争の実態と、その中で藤原北家が、どのようにして台頭していったのか、その過程を追跡します。
2.1. 薬子の変(810年):上皇と天皇の対立
桓武天皇の死後、皇位を継いだのは、長子の平城天皇でした。しかし、彼は病弱であったため、在位わずか3年で、弟の嵯峨天皇に譲位してしまいます。そして、自らは上皇(太上天皇)として、旧都である平城京に移り住みました。
ここに、日本の都が二つ存在する、異常な事態が生まれます。
- 平安京の嵯峨天皇:現在の政府を率いる。
- 平城京の平城上皇:前天皇としての権威を持つ。
当初、両者の関係は良好でしたが、次第に、平城上皇の周囲に集まった人々が、独自の政治勢力を形成し始めます。その中心にいたのが、平城上皇の寵愛を受けていた、藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原薬子(ふじわらのくすこ)とその兄・仲成(なかなり)でした。彼らは、平城上皇を動かし、平城京への再遷都を画策するなど、嵯峨天皇の政権と公然と対立するようになります。
810年、平城上皇は、「平城京に都を戻す」という詔を発し、事態はついに、二つの朝廷による内乱寸前の状況にまで発展します。これに対し、嵯峨天皇は、坂上田村麻呂らを将軍として派遣し、迅速に行動。藤原仲成を捕らえて射殺し、薬子は毒を仰いで自殺しました。平城上皇は、なすすべなく出家し、政治の舞台から完全に退きました。
この「薬子の変(平城太上天皇の変)」は、いくつかの重要な意味を持っています。
- 二所朝廷の否定: 天皇と上皇が並立し、政治が分裂することの危険性が、改めて認識されました。これにより、政治の中心は平安京に一本化され、嵯峨天皇の権威が確立されました。
- 藤原式家の没落: 事件を主導した藤原薬子・仲成が属していた藤原式家は、この事件によって大打撃を受け、政治の中枢から後退します。
- 藤原北家の浮上: 一方、この事件で嵯峨天皇を支持し、迅速な対応に貢献したのが、藤原北家の**藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)**でした。彼は、嵯峨天皇の深い信任を得て、新設された天皇の秘書官長である「蔵人頭(くろうどのとう)」に任命されます。この蔵人頭という役職は、天皇の側近として、詔勅の伝達や機密文書の管理を担う、極めて重要なポストであり、藤原北家が、天皇と直接結びついて権力を伸張させていくための、強力な足がかりとなりました。
薬子の変は、藤原氏内部の権力争いにおいて、式家に代わって北家が優位に立つ、決定的な転換点となった事件でした。
2.2. 藤原北家の権力掌握戦略:外戚政策の確立
薬子の変以降、藤原北家は、一貫した、そして極めて有効な戦略を用いて、その権力を盤石なものにしていきます。それが、「外戚(がいせき)政策」です。
「外戚」とは、母方の親戚を意味します。藤原北家の戦略は、自らの一族の娘を、天皇の后(きさき)として嫁がせ、その間に生まれた皇子を、次の天皇として即位させるというものでした。
この戦略が成功すると、藤原氏の当主は、以下のようないくつもの有利な立場を、同時に手に入れることができます。
- **天皇の義父(舅)**として、天皇に対して強い発言力を持つ。
- **天皇の母方の祖父(外祖父)**として、幼い天皇の後見人となり、政治の実権を握る。
- 新たに即位した天皇は、自分と同じ藤原氏の血を引いており、藤原氏との関係は極めて密接になる。
この外戚政策を最初に本格的に成功させたのが、藤原冬嗣でした。彼は、自らの娘・順子(じゅんし)を、嵯峨天皇の次の仁明(にんみょう)天皇の后とし、その間に生まれた道康親王(みちやすしんのう、後の文徳天皇)を皇太子とすることに成功します。
そして、この戦略をさらに推し進め、摂関政治への道を開いたのが、冬嗣の子である**藤原良房(ふじわらのよしふさ)**でした。彼は、自らの娘・明子(あきらけいこ)を、文徳天皇の后とし、その間に生まれた惟仁親王(これひとしんのう、後の清和天皇)を、生後わずか9ヶ月で皇太子とすることに成功します。これにより、良房は、未来の天皇の母方の祖父という、絶大な権力を約束された地位を確保したのです。
2.3. 他氏排斥の完成:承和の変と応天門の変
藤原北家が権力の頂点へと上り詰める過程は、単に天皇との関係を深めるだけではありませんでした。それは同時に、ライバルとなりうる他の有力氏族を、政治的な陰謀によって、次々と排除していく、冷徹な権力闘争の歴史でもありました。その代表的な事件が、「承和の変」と「応天門の変」です。
2.3.1. 承和の変(842年)
仁明天皇の時代、皇太子には、藤原氏を母としない恒貞親王(つねさだしんのう)が立てられていました。藤原良房にとって、これは自らの外戚政策の障害となる、看過できない存在でした。
仁明天皇が病に倒れると、良房は、恒貞親王の側近であった伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)らが、恒貞親王を奉じて謀反を企てている、という情報をでっち上げ、彼らを逮捕させました。これにより、恒貞親王は皇太子の位を廃され、代わりに、良房の甥(妹の子)にあたる道康親王(文徳天皇)が、新たな皇太子となりました。
この「承和の変」は、藤原良房が、有力なライバルであった伴氏や橘氏を失脚させ、自らが望む皇位継承を実現した、最初の大きな政治的勝利でした。
2.3.2. 応天門の変(866年)
承和の変から約20年後、良房は、最後の強力なライバルを排除するための、決定的な策動を開始します。
866年、宮城の正門である応天門が、不審火によって炎上するという事件が発生しました。当初、犯人として、大納言であった伴善男(とものよしお)が、政敵である左大臣・源信(みなもとのまこと)を告発しました。しかし、調査が進むうちに、逆に、この放火は伴善男とその一族による陰謀であったことが「発覚」します。
この事件の真相は、今なお謎に包まれていますが、多くの歴史家は、藤原良房が裏で糸を引き、伴善男を巧みに罠にはめ、失脚させたのではないかと考えています。事件の結果、伴善男は伊豆へと流罪となり、名門であった伴氏(大伴氏)は、完全に没落しました。また、事件の捜査の過程で、もう一つの有力氏族であった紀(き)氏も巻き添えとなり、その勢力を失いました。
この「応天門の変」によって、藤原北家は、朝廷内で対抗しうる有力な貴族を、ほぼ完全に排除することに成功しました。そして、この事件処理の功績により、藤原良房は、ついに、人臣(臣下)としては初めて、天皇が幼少の際にその政務を代行する最高職、「摂政(せっしょう)」に、正式に任命されるのです。
この時、天皇は、良房の外孫である清和天皇(9歳)でした。ここに、藤原氏が、天皇の外戚として、公に国家の最高権力を掌握する「摂関政治」が、その幕を開けたのです。平安初期の約半世紀にわたる権力闘争は、藤原北家の、周到かつ冷徹な戦略の前に、完全な勝利をもって終結したのでした。
3. 摂関政治の確立とその権力構造
藤原良房が人臣として初めて摂政に就任した866年。この年は、日本の政治史において、一つの時代が終わり、新しい時代が始まった画期として記憶されています。天皇が自ら政治を行う「天皇親政」の時代は事実上終焉を迎え、天皇が幼少の時には「摂政(せっしょう)」が、成人して後は「関白(かんぱく)」が、天皇に代わって、あるいは天皇を輔弼(ほひつ)して政務の実権を握る、「摂関政治」の時代が本格的に始まったのです。この政治体制は、その後、約200年間にわたって続き、藤原氏の栄華の頂点を築き上げます。本章では、摂政と関白の職務の違い、そして摂関政治の権力構造を決定づけた二つの重要な事件、「応天門の変」と「阿衡の紛議」を軸に、この特異な政治システムがどのように確立され、機能したのかを解き明かします。
3.1. 摂政と関白:その違いと権能
摂関政治の「摂関」とは、「摂政」と「関白」を合わせた言葉です。両者は、共に天皇を補佐し、政治の実権を握るという点で共通していますが、その設置根拠と対象となる天皇の状態において、明確な違いがありました。
- 摂政(Sesshō):摂政は、天皇が幼少である場合、または女性である場合に、その政務を全面的に代行するために置かれる役職です。その起源は古く、神功皇后や聖徳太子にも摂政の伝説がありますが、皇族以外の臣下(人臣)が正式に任命されたのは、866年の藤原良房が最初です。良房は、自らの外孫である清和天皇(当時9歳)の摂政となり、事実上の最高権力者となりました。摂政の権限は絶大であり、天皇の名のもとに、全ての国政を主宰しました。
- 関白(Kanpaku):関白は、天皇が成人した後も、引き続きその後見人として、政務を輔弼(ほひつ)するために置かれる役職です。その語源は、中国の前漢の時代、皇帝に奏上される全ての文書は、まず霍光(かくこう)という重臣に「関(あずか)り白(もう)す」、すなわち目を通させてからにせよ、とされた故事に由来します。つまり、関白とは、「天皇の最終決裁の前に、全ての政務に関与し、意見を述べる権限を持つ者」を意味します。日本で最初の関白に任命されたのは、良房の養子である**藤原基経(ふじわらのもとつね)**でした。清和天皇が譲位し、陽成(ようぜい)天皇が即位した後も、基経は摂政として権力を握り続けました。そして、884年、陽成天皇が不行跡を理由に退位させられ、光孝(こうこう)天皇が即位すると、基経は、成人である光孝天皇を補佐するため、新たに「関白」の職を創設し、自らがその座に就いたのです。
この摂政と関白の二つの職を、藤原北家の当主が、父から子へと世襲的に独占すること。これが、摂関政治の基本的な権力構造です。天皇が幼い時には摂政として全権を握り、天皇が成人すれば関白として引き続き実権を掌握し、そしてまた次の幼い天皇を立てて摂政に戻る。このサイクルを繰り返すことで、藤原氏は、恒常的に国家の最高権力を掌握し続けるシステムを完成させたのです。
3.2. 権力基盤の確立:応天門の変(866年)の再評価
藤原良房が、人臣として初の摂政に就任する直接的なきっかけとなったのが、866年の「応天門の変」でした。前章でも触れたこの事件は、単に藤原氏がライバルを排除したという側面だけでなく、藤原氏の権力が、どのような基盤の上に成り立っていたのかを示す、重要なケーススタディです。
応天門炎上の犯人として、当初、左大臣・源信が疑われ、次に大納言・伴善男が犯人とされました。この捜査の過程で、良房は、一見すると公平な仲裁者のように振る舞いながら、巧みに情報と世論を操作し、最終的に、自らの政治的利益が最大になるような形で事件を収束させました。
- 天皇の信任の掌握: 良房は、事件の報告を受けて動揺する清和天皇(当時17歳)を冷静になだめ、的確な助言を与えることで、天皇からの絶対的な信頼を勝ち取りました。政治的危機において、天皇が誰を頼るのか。そのポジションを確保することが、権力掌握の第一歩でした。
- 情報操作と世論形成: 事件の真相は不明な点が多いですが、良房が、自らに有利な証言や噂が流れるように、裏で工作した可能性が指摘されています。特定の人物を犯人に仕立て上げ、世論の非難をそこに集中させることで、政敵を社会的に抹殺するという、高度な情報戦を展開したのです。
- 法的・軍事的な正当性の確保: 良房は、自らが直接手を下すのではなく、あくまで検非違使(けびいし)などの公的な捜査機関や、太政官での公卿会議といった、律令に定められた手続きを踏むことで、自らの行動の正当性を確保しました。彼の権力は、単なる腕力ではなく、法と制度を巧みに利用する能力に支えられていたのです。
この応天門の変の巧みな処理によって、良房は、朝廷内での圧倒的な優位性を確立し、清和天皇から「摂行天下之政(天下の政を摂行せよ)」という詔を引き出し、正式に摂政の地位に就きました。これは、藤原氏の権力が、①天皇との個人的な信頼関係、②情報と世論を操作する能力、③法と制度を自らに有利に運用する能力、という三つの柱によって支えられていることを、明確に示した事件でした。
3.3. 関白の権威の確立:阿衡の紛議(887年)
藤原基経が、光孝天皇、そして次の宇多(うだ)天皇の関白として権勢を振るっていた時代に、関白という職の絶大な権威を、天下に知らしめる象徴的な事件が起こります。それが、「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」です。
887年、宇多天皇は即位にあたり、藤原基経に対して、関白として引き続き政務を補佐するよう求める詔を出しました。その詔書の中で、天皇は、基経を中国の殷の時代の名宰相・伊尹(いいん)が就いたとされる「阿衡(あこう)」の職に任ずる、という表現を用いました。これは、天皇としては、基経に対する最大限の敬意と信頼を示したつもりでした。
しかし、基経は、この詔を受け取ると、突如、全ての政務をボイコットし、自邸に引きこもってしまいます。学者であった藤原佐世(ふじわらのすけよ)が、「阿衡とは、位は高いが、具体的な職掌(仕事の内容)を持たない名誉職である」と基経に進言したためです。基経は、「自分は、実権のない名誉職に追いやられた」と抗議し、国政を完全に麻痺させてしまったのです。
新天皇であった宇多天皇は、これに狼狽します。関白である基経が政務を執らなければ、国家の運営は一日も成り立ちません。宇多天皇は、詔を起草した橘広相(たちばなのひろみ)を罷免し、基経に対して何度も謝罪の使者を送り、詔を撤回して、改めて関白の職務を遂行してくれるよう、必死に懇願しました。
この紛議は、数ヶ月にわたって続き、最終的に基経が折れる形で収束しますが、この事件が示した意味は、極めて重大でした。
- 関白の優越性: 天皇が、自らの意思で発した詔でさえ、関白の意に沿わないものであれば、それを撤回させることができる。つまり、関白の意向は、天皇の意思よりも優先されるという、異常な権力構造が、白日の下に晒されたのです。
- 学問の政治的利用: この紛議は、漢籍(中国の古典)の解釈という、極めて学術的な論争が、現実の政治闘争の道具として利用された例です。藤原氏は、橘氏のような学問の家柄の貴族を失脚させるため、意図的にこの問題を政治問題化させた側面がありました。
- 天皇の無力さの露呈: この事件を通じて、宇多天皇は、関白である藤原基経の協力なしには、政治を行うことがいかに不可能であるかを、痛感させられました。
この阿衡の紛議を経て、関白という職は、単なる天皇の補佐役ではなく、天皇の任免権にさえ影響を及ぼしかねない、事実上の最高執政者としての地位を、不動のものとしたのです。
3.4. 摂関政治の権力構造:私的関係の公的支配
摂関政治の権力構造は、律令に定められた太政官(二官八省)という公的なシステムの上に、藤原氏の当主(氏の長者)と天皇との個人的な関係(外戚関係)という、私的な支配システムが、屋上屋を架すように、覆いかぶさった、二重構造を特徴としていました。
- 人事権の掌握: 摂政・関白は、大臣以下の全ての官職の任命権を、事実上、手中に収めました。これにより、朝廷の主要なポストは、藤原氏の一族や、藤原氏に忠実な人々で固められることになります。
- 財政権の掌握: 全国の荘園から集まる莫大な富は、藤原氏の家政機関に集積され、その財力が、彼らの政治活動の源泉となりました。
- 儀式・典礼の主宰: 藤原氏は、大嘗祭(だいじょうさい)などの重要な宮中儀式を主宰し、その費用を負担することで、自らが国家の支柱であることを、儀礼的・文化的な側面からも示しました。
このように、摂関政治とは、藤原氏が、天皇との外戚関係を基盤として、人事・財政・儀礼の全てを私的に掌握し、律令国家という公的なシステムを、いわば「乗っ取る」形で支配した、極めて日本的な貴族政治の形態であったと言えるのです。
4. 菅原道真と遣唐使の廃止
藤原氏が摂政・関白として権力の絶頂へと向かう9世紀末、日本の朝廷に、一人の異色の才能が現れます。それが、**菅原道真(すがわらのみちざね)**です。彼は、藤原氏のような血筋の力ではなく、傑出した学問の才能(漢詩文の能力)だけを武器に、異例の出世を遂げ、宇多天皇の深い信任を得て、政治の中枢にまで上り詰めました。宇多天皇は、この道真を重用することで、強大化しすぎた藤原氏の勢力を牽制し、天皇親政の理想を取り戻そうと試みます。しかし、この試みは、藤原氏の巧妙な政治力学の前に、悲劇的な結末を迎えることになります。本章では、菅原道真の栄光と悲劇の生涯を追いながら、彼が日本の歴史に残したもう一つの大きな功績、「遣唐使の廃止」が持つ画期的な意味を探ります。
4.1. 学者官僚の星:菅原道真の登場
菅原道真は、代々、学問(特に文章道、もんじょうどう)を家業とする、中流貴族の家に生まれました。彼は、幼い頃から神童として知られ、その漢詩文の才能は、同時代において比類なきものでした。
当時の貴族社会では、政治的な能力と同じくらい、あるいはそれ以上に、漢詩を巧みに詠み、美しい文章を書く能力が、個人の評価を決定づける重要な要素でした。宮中での儀式や宴、外交文書の作成など、あらゆる場面で、高度な漢文の素養が求められたのです。道真は、この学問の力によって、官僚としてのキャリアを順調に積み上げていきました。
彼の才能に特に注目したのが、宇多天皇でした。宇多天皇は、阿衡の紛議で藤原基経に苦杯をなめさせられて以来、藤原氏の専横を抑え、天皇主導の政治を取り戻す機会を窺っていました。彼は、藤原氏とは家柄も縁も遠い菅原道真を、自らの側近として抜擢し、蔵人頭、参議、そして中納言へと、異例のスピードで昇進させていきます。そして、899年、宇多天皇が譲位し、醍醐(だいご)天皇の時代になると、道真はついに、藤原氏の当主であった藤原時平(ふじわらのときひら)と並んで、右大臣の地位にまで上り詰めます。これは、学者の家柄からとしては、前代未聞の大出世でした。
宇多上皇の意図は、明確でした。左大臣である藤原時平と、右大臣である菅原道真を、政権の両輪として競わせることで、藤原氏一族への権力集中を防ぎ、天皇がその間でバランスを取りながら、主導権を発揮できるようにすることでした。道真は、宇多上皇の期待に応え、天皇親政の理想を実現するための、重要な駒となったのです。
4.2. 遣唐使の廃止(894年):国風文化への転換点
右大臣に昇進する直前の894年、菅原道真は、彼の政治家としての識見を示す、一つの重要な建議を行います。それが、「遣唐使の停止」です。
道真は、この年、遣唐大使に任命されていました。しかし、彼は、唐の国内情勢や、渡航の危険性などを総合的に判断し、もはや公式な使節団を派遣する利益はないと結論づけ、その停止を宇多天皇に進言したのです。
「道真、奏して請ふ、唐国のことを以て、… 商客の伝える所を聞くに、彼の地の乱、未だ寧(やす)からず。… 臣、入唐の諸公に歴問するに、皆な愁色有り。… 願はくは、且(しばら)く来年(の派遣)を停(とど)め、以て後図を定められんことを。」
(道真は奏上してお願いした。唐国のことについて、… 商人たちが伝えるところによると、かの地の内乱はまだ収まっていない。… 私が、唐に渡る人々に尋ねると、皆、憂いの表情を浮かべている。… どうか、来年の派遣を一旦停止して、今後の対応を改めてお考えください。)
この建議が、宇多天皇に受け入れられ、894年を最後に、約250年間にわたって日本の政治・文化に絶大な影響を与え続けてきた公式な遣唐使は、その歴史に幕を閉じることになります(その後、唐は907年に滅亡)。
この遣唐使の廃止は、単に一つの外交政策の変更にとどまらない、日本の文化史における、極めて重大な転換点でした。
- 大陸文化の「消化」の時代の始まり:これまでの日本は、常に唐の先進的な文化を「お手本」として、それを貪欲に吸収・模倣することに努めてきました。しかし、遣唐使の廃止は、もはや唐から学ぶべきものは学び尽くした、これからは、これまで吸収してきた大陸文化を、日本の風土や日本人の感性に合わせて、独自に「消化」し、発展させていく時代に入る、という文化的な独立宣言でもありました。
- 国風文化(こくふうぶんか)の開花:この後、10世紀から11世紀にかけて、日本の文化は、唐風の模倣から脱却し、より優美で洗練された、日本独自の貴族文化、いわゆる「国風文化」を開花させていきます。
- かな文字の発達: 漢字を簡略化した「仮名文字(ひらがな・カタカナ)」が発明・普及し、女性たちによって、日本語の繊細なニュアンスを表現する、優れた文学作品が生み出されました(『古今和歌集』、『土佐日記』、『蜻蛉日記』、そして『源氏物語』や『枕草子』など)。
- 大和絵(やまとえ)の成立: 唐の絵画の影響から脱し、日本の風景や風俗を題材とする、優美な様式の絵画「大和絵」が確立されました。
- 寝殿造(しんでんづくり): 日本の気候風土に合わせた、開放的な貴族の住宅様式「寝殿造」が発展しました。
菅原道真による遣唐使の廃止の建議は、このような、日本文化が独自のアイデンティティを確立していく、大きな流れの出発点を告げる、歴史的な決断だったのです。
4.3. 昌泰の変(901年):藤原氏の反撃と道真の左遷
菅原道真の栄華は、長くは続きませんでした。右大臣として、宇多上皇の信任を背景に、政治の主導権を握る道真の存在は、左大臣であった藤原時平にとって、自らの一族の権力を脅かす、排除すべき最大の政敵でした。時平は、道真を失脚させるための機会を、虎視眈々と狙っていました。
その機会は、901年に訪れます。藤原時平は、「菅原道真が、醍醐天皇を廃して、自らの娘婿である斉時親王(ときよしんのう)を、新たに天皇に立てようと陰謀を企てている」という、全くの事実無根の罪状を、醍醐天皇に讒言(ざんげん)しました。
若い醍醐天皇は、この讒言を信じ込み、激怒します。宇多上皇は、道真を救おうとしますが、時平は、上皇が醍醐天皇に会うことさえ妨害しました。味方を失った道真は、弁明の機会も与えられないまま、右大臣の職を剥奪され、九州の大宰府の権帥(ごんのそち、名目だけの副司令官)として、事実上の流罪に処せられてしまいました。これが、「昌泰の変(しょうたいのへん)」です。
この事件は、承和の変や応天門の変と同様、藤原氏が、ライバルとなりうる他氏族を、政治的な陰謀によって排除した、典型的な他氏排斥事件でした。これにより、宇多上皇が目指した天皇親政の夢は完全に潰え、藤原氏、特に時平の権力は、揺るぎないものとなりました。
4.4. 怨霊伝説と天神信仰へ
不遇のうちに、903年、大宰府で亡くなった菅原道真。しかし、彼の物語は、ここで終わりませんでした。
道真の死後、都では、奇妙な災厄が次々と起こり始めます。まず、道真を陥れた藤原時平が、39歳の若さで急死。その後も、時平の関係者や、道真の左遷に関わったとされる皇族が、相次いで亡くなりました。そして、極めつけは、930年、内裏の清涼殿に落雷が直撃し、多くの公卿たちが死傷するという事件が発生します。人々は、これらの一連の災厄を、無実の罪で亡くなった道真の「怨霊」の祟りであると信じ、恐れおののきました。
朝廷は、道真の怨霊を鎮めるため、彼の罪を許し、右大臣の官位を復旧させ、さらには正一位太政大臣という最高の位を追贈しました。そして、京都の北野に、道真を神として祀る「北野天満宮」を建立します。
こうして、悲劇の政治家であった菅原道真は、その死後、雷の神、そして、彼が生前、最も得意とした学問の神様、「天神(てんじん)さま」として、後世の人々から篤い信仰を集める存在へと、昇華していったのです。彼の生涯は、平安時代の貴族社会の光と影、そして政治と信仰が、いかに密接に結びついていたかを、私たちに雄弁に物語っています。
5. 荘園公領制の展開と王朝国家体制
菅原道真の左遷によって、藤原氏による摂関政治の基盤が確固たるものとなった10世紀以降、日本の国家システムは、律令に定められた建前の姿から、その実態が大きく乖離していく、新たな段階に入ります。この時代の国家体制を、歴史学では「王朝国家(おうちょうこっか)体制」と呼びます。これは、律令国家が完全に消滅したわけではなく、律令の法体系や官僚機構という「殻」は残りつつも、その中身の運営原理が、天皇と藤原氏を中心とする私的な家政機関や、貴族たちの私的な利害関係によって動かされるようになった状態を指します。そして、この王朝国家の経済的な土台をなし、その性格を決定づけたのが、「荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)」と呼ばれる、公的な土地(公領)と私的な土地(荘園)が、モザイク状に混在する、新しい土地支配のシステムでした。本章では、この複雑な王朝国家体制と荘園公領制の構造を解き明かし、律令国家がどのように変質していったのかを探ります。
5.1. 王朝国家とは何か:公と私の二重構造
「王朝国家」という言葉は、律令国家が崩壊した後の、全く新しい国家体制を指すのではありません。むしろ、律令国家が、その理念を維持できなくなり、現実の社会経済状況に対応する形で、自らを変容させていった結果、生まれた国家形態と理解するべきです。
5.1.1. 律令制の形骸化
律令の根幹であった公地公民の原則は、墾田永年私財法(743年)によって、既に崩れ始めていました。9世紀から10世紀にかけて、班田収授法は、もはや全国で統一的に実施することが困難となり、多くの口分田が、実質的に農民の世襲的な土地となっていきました。また、重い税負担から逃れるため、戸籍に登録された本籍地を離れて、他の土地で耕作する「浮浪(ふろう)」や、完全に姿をくらます「逃亡(とうぼう)」が後を絶たず、律令の根幹であった人民支配のシステムも、機能不全に陥っていました。
5.1.2. 国政の「私物化」
このような状況の中、国家の統治は、律令に定められた公的な手続き(太政官での合議など)よりも、天皇や摂政・関白の私的な判断や、彼らの家政機関(政所、まんどころ)での決定が、より大きな意味を持つようになっていきます。
- 官職の請負化:国司などの官職は、もはや国家のために奉仕する公務ではなく、その地位を利用して、私的な富を蓄えるための「利権」と見なされるようになります。貴族たちは、私財を投じて、特定の官職を得ようと運動し(猟官運動)、その見返りとして、任地で得た利益を、摂関家などの有力者に上納するという、私的な関係が公的な人事・行政を歪めていきました。
- 権門勢家による支配:政治の実権と経済的な富は、皇室や摂関家をはじめとする、一部の有力な貴族や大寺社(これらを「権門勢家、けんもんせいか」と呼びます)に、極端に集中していきます。国家の運営は、これらの権門勢家間の、利害調整とパワーバランスによって行われるようになり、律令が目指した、天皇の下での一元的な支配は、有名無実化していったのです。
この、公的な律令の「建前」と、権門勢家による私的な支配という「実態」が、二重構造となって併存している国家。それが、王朝国家の本質です。
5.2. 荘園の発達:不輸・不入の権を持つ私的世界
王朝国家の経済基盤を理解する上で、鍵となるのが「荘園(しょうえん)」の発達です。初期荘園は、墾田永年私財法に基づいて開墾された、輸租(国家に租を納める)の義務を持つ私有地でした。しかし、10世紀以降、荘園は、国家の支配から、より独立した「特権的」な領域へと進化していきます。
その特権の核心が、「不輸(ふゆ)の権」と「不入(ふにゅう)の権」です。
- 不輸の権(Fuyu no Ken):これは、荘園が、国衙(こくが、国の役所)へ納めるべき官物(かんもつ、租・庸・調に代わる税)や、臨時雑役(りんじぞうやく)といった、一切の税を免除される特権です。荘園の領主(権門勢家)が、その政治力を背景に、太政官や民部省から、自らの荘園を「不輸の地」として公的に認めてもらうことで、この特権を獲得しました。これにより、荘園は、国家の課税権が及ばない、独立した経済単位となりました。
- 不入の権(Funyū no Ken):これは、国司の配下である検田使(けんでんし)などの、国衙の役人が、荘園の領域内に立ち入って調査を行うことを拒否できる特権です。この特権が認められると、荘園は、国家の行政権や警察権が及ばない、治外法権的な領域となります。荘園内の人民の管理や、紛争の解決は、荘園領主が派遣した荘官(しょうかん)が行うようになり、荘園は、さながら一つの独立した「ミニ国家」のような様相を呈していきました。
5.3. 荘園の寄進と重層的な土地支配
では、地方の土地所有者(開発領主)は、どのようにして、自らの土地を、不輸・不入の特権を持つ荘園へと変えていったのでしょうか。その最も一般的な方法が、「寄進(きしん)」でした。
地方の有力者(郡司や富裕農民など)は、自らが開発した土地(私領)を、そのままでは国司による過酷な収奪から守りきることができませんでした。そこで彼らは、その土地の「名目上の所有権」を、中央の権門勢家(摂関家や大寺社など)に「寄進」しました。
- 寄進の仕組み:開発領主は、自らの土地を、例えば藤原氏の荘園として登録してもらいます。その見返りとして、彼らは、その荘園の現地管理者である「荘官(下司、公文など)」に任命され、その土地の実質的な支配権を、世襲的に確保しました。一方、寄進を受けた権門勢家は、その政治力を利用して、その荘園に「不輸・不入の権」を獲得します。そして、彼らは、「領家(りょうけ)」として、荘園から得られる収益(年貢、公事、夫役など)の一部を、取り分として受け取りました。さらに、領家が、より権威のある皇族や摂関家などに、荘園の収益の一部を上納して、名義上の保護者となってもらうこともありました。この最上位の荘園領主を「本家(ほんけ)」と呼びます。
この結果、一つの荘園に対して、現地で直接支配する「荘官」、中間的な所有者である「領家」、そして最上位の名義人である「本家」という、複数の権利主体が、ピラミッド状に重なり合う、極めて複雑で重層的な土地支配関係が生まれました。
5.4. 公領の変質と荘園公領制の確立
荘園が全国に拡大していく一方で、律令制以来の公的な土地である「公地」も、消滅したわけではありませんでした。国司が支配するこれらの土地は、「公領(こうりょう)」または「国衙領(こくがりょう)」と呼ばれ、荘園と並存する、もう一つの重要な土地支配の形態でした。
しかし、その公領のあり方も、大きく変質していきます。国司は、もはや班田収授法に基づいて人民を支配するのではなく、公領を「名(みょう)」と呼ばれる、納税の単位に再編成しました。そして、それぞれの名を、現地の有力農民(田堵、たと)に、期間を定めて耕作を請け負わせ、一定額の税(官物・臨時雑役)を徴収するという方式(負名体制、ふみょうたいせい)に移行していきました。
この結果、11世紀頃までには、日本の土地支配は、
- 権門勢家が支配する、私的な領域としての「荘園」
- 国司が支配する、公的な領域としての「公領」
という、二つの異なる原理で動く領域が、モザイク状に日本列島を覆う「荘園公領制」という体制が、完全に確立しました。
この体制は、律令国家が、もはや全ての土地と人民を一元的に支配することを断念し、荘園領主や国司(受領)といった、多様な支配主体に、土地と人民の支配と、そこからの収益を「請け負わせる」ことで、かろうじて国家としての統合を維持しようとした、妥協と現実主義の産物でした。この複雑な土地支配のあり方が、後の社会に、新たな動乱の火種を生み出していくことになるのです。
6. 受領の強欲と地方政治の乱れ
中央の政治が、藤原氏の摂関政治と、それに伴う王朝国家体制へと移行していく中で、地方の政治もまた、律令の建前とは全く異なる、深刻な変質を遂げていました。律令制の下で、地方に派遣される国司は、あくまで天皇の代理として、法に基づいて公正に人民を治める「公務員」であるはずでした。しかし、王朝国家の時代になると、国司の地位は、私的な富を蓄えるための絶好の「利権」と化し、任地に赴任する国司、特にその最高責任者である「受領(ずりょう)」たちの、飽くなき強欲が、地方政治を著しく混乱させ、人民を極度に疲弊させる原因となっていきました。本章では、この受領たちがどのようにして巨万の富を築いたのか、そのメカニズムと、彼らの収奪に苦しむ農民たちの抵抗の実態に迫ります。
6.1. 国司から受領へ:官職の請負化
律令制における国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官からなるチームで構成され、中央から派遣されて任国の統治にあたりました。しかし、平安時代中期になると、この制度は形骸化します。四等官のうち、実際に任国に赴任するのは、最高責任者である「守」ただ一人となるケースが一般的になりました。この、任国に赴任して、その国の行政と徴税の全責任を負う筆頭国司のことを、特に「受領」と呼びます。
なぜ、このような変化が起こったのでしょうか。それは、国司という官職の性格が、公的な「任務」から、私的な「利益追求の請負事業」へと変質したためです。
10世紀以降、中央政府は、全国の公領から安定した税収を確保するため、各国の国司に対して、任期中に中央へ上納すべき税(官物)の量と品目を、あらかじめノルマとして課すようになります。受領は、このノルマさえきちんと果たせば、任国内での統治のやり方については、大幅な裁量権が与えられました。
つまり、受領は、規定のノルマ以上に税を取り立て、その超過分を、自らの私的な利益(収入)とすることが、半ば公然と認められていたのです。このため、受領の地位は、一攫千金を狙う貴族たちにとって、極めて魅力的なポストとなりました。彼らは、摂関家などの有力者に多額の賄賂を贈ってでも、肥沃で利益の上がりやすい国の受領に任命してもらおうと、激しい猟官運動を繰り広げました。この成功を「栄転」と呼び、その任期を満了して、莫大な富を携えて京都に帰ることを「成功(じょうごう)」と呼びました。
6.2. 受領の貪欲な収奪メカニズム
では、受領たちは、具体的にどのような手口で、私腹を肥やしていったのでしょうか。その方法は、巧妙かつ多岐にわたり、まさに悪徳商法さながらでした。
- 不正な測量と税率の引き上げ:田地の面積を測る際に、不正確な升(ます)を用いて、実際の面積よりも大きく見積もり、過大な租税を課しました。
- 交易における不正:農民が税として納めた米や布を、都の相場よりも不当に安い公定価格(官物価)で買い上げ、それを都に運んで高く売りさばき、その差額を利益としました。
- 出挙(すいこ)の悪用:本来は公的な融資制度であった出挙を、強制的な貸付とし、法外な利息を付けて取り立てました。これは、受領の最も重要な収入源の一つでした。
- 臨時雑役(ぞうやく)の濫発:明確な規定のない「臨時」の労役を、様々な名目で農民に課し、その労役の代わりとして、金品を納めさせることで、利益を上げました。
- 成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)のための収奪:受領としての任期が終わり、無事に勤め上げた際には、その功績を認められて、別の官職に任命されたり(成功)、同じ国の受領に再任されたり(重任)することがありました。この成功や重任の見返りとして、彼らは、私財の中から、宮殿の造営費用や、寺社の修復費用などを、中央政府に献上することが期待されました。この費用を捻出するため、受領たちは、任期の終わりが近づくと、ますます苛烈な収奪を農民に行ったのです。
このような受領たちの振る舞いは、『今昔物語集』などの説話文学にも、強欲で滑稽な地方官僚として、数多く描かれています。有名な「信濃守藤原陳忠(しなののかみ ふじわらののぶただ)」の物語では、任期を終えて帰京する途中で、川に落ちてずぶ濡れになった陳忠が、他の荷物には目もくれず、ただ、受領の任期中に書きためた、利益計算の帳簿だけが濡れていないかと心配し、「受領は倒れる所に土をもつかめ」と言って、川の砂を一把つかんで懐に入れた、という逸話が語られています。これは、当時の人々の目に、受領がいかに利益の追求に執着していたかを、風刺的に示しています。
6.3. 農民の抵抗:国司苛政上訴
受領による際限のない収奪に対して、農民たちも、ただ黙って耐えていたわけではありませんでした。彼らは、自らの生活と権利を守るため、様々な形で抵抗を試みます。
最も代表的な抵抗の形が、「国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)」です。これは、国司(受領)の非法で過酷な政治(苛政)の実態を、現地の郡司や有力農民(田堵)らが連名で文書にまとめ、都の太政官に直接訴え出るという、合法的な抵抗運動でした。
その最も有名な例が、988年(永延2年)に提出された、「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにのぐんじひゃくしょうらのでげ)」です。この文書には、尾張守であった藤原元命(ふじわらのもとなが)が行った、31カ条にもわたる非法行為が、極めて具体的に、そして生々しく告発されています。
「国司元命は、…(農民が納めた)官稲一万三千六百束を、すべて自分のものとしてしまいました。」
「出挙の稲の利息を、法外な割合で取り立てています。」
「(税を運ぶ)農民たちを、自分の私的な雑用に使い、食事も与えず、飢えさせています。」
この上訴の結果、藤原元命は、朝廷によって罷免されました。これは、農民たちの抵抗が、一定の成果を上げたことを示す重要な事例です。しかし、このような成功例は稀であり、多くの場合、上訴は握りつぶされるか、あるいは訴え出た農民たちが、逆に受領から報復を受ける危険も伴いました。
6.4. 地方政治の混乱がもたらしたもの
受領による強欲な政治は、地方社会に深刻な影響を及ぼしました。
- 農民層の没落と逃亡:過酷な収奪に耐えきれなくなった多くの農民は、口分田を捨てて逃亡し、より条件の良い荘園に流れ込んだり、あるいは武装集団に身を投じたりしました。これにより、律令制の基盤であった公領の荒廃は、さらに進みました。
- 地方の治安悪化:受領が私的な利益追求に没頭し、公正な行政を放棄した結果、地方の治安は著しく悪化しました。税を逃れた「盗賊」の集団が横行し、荘園間の水の利権をめぐる争いも頻発しました。
- 武士の台頭:この治安の悪化と、国衙の機能不全という状況の中で、自らの土地と財産を、自らの力で守る必要に迫られたのが、地方の有力者たちでした。彼らは、一族や郎党を率いて武装し、地域の自警団のような役割を担うようになります。また、時には、受領の側が、国内の反乱を鎮圧したり、税の徴収を強行したりするために、これらの武装勢力を「傭兵」として利用することもありました。
このように、受領の強欲によって引き起こされた地方政治の混乱は、律令国家の支配が、もはや地方の隅々まで及ばなくなっている現実を露呈させました。そして、その権力の空白地帯に、自らの武力によって秩序を形成する、新たな社会階層、すなわち「武士」が、その存在感を着実に増していくための、格好の土壌を提供したのです。
7. 武士の発生と武士団の形成
平安時代の中期、中央では藤原氏が摂関政治の栄華を極める一方、地方では、国司(受領)による過酷な支配と、それに伴う治安の悪化が深刻化していました。律令国家が定めた公的な軍事・警察システム(軍団制)は、もはや機能不全に陥り、中央政府の力は、地方の隅々にまで及ばなくなっていました。この権力の空白地帯ともいえる状況の中から、自らの土地と家族を、自らの力で守るために武装した人々が登場します。彼らこそが、「武士(ぶし)」、あるいは「侍(さむらい)」と呼ばれる、新たな社会階層でした。本章では、この武士が、どのような人々を起源として発生し、主従関係を基盤とする「武士団」という戦闘集団を、どのように形成していったのか、その誕生のプロセスを探ります。これは、貴族の時代から、武家の時代への、長い移行期の始まりを告げる物語です。
7.1. 武士の起源:多様なルーツ
「武士」と一言で言っても、その出自は単一ではありませんでした。彼らは、いくつかの異なる社会階層を源流として、10世紀から11世紀にかけて、同時多発的に発生し、やがて一つの社会階層としてまとまっていったと考えられています。
- 起源①:地方の富裕農民・在地領主(田堵・負名層):武士の最も広範な母体となったのが、地方に在住し、土地の開発や経営にあたっていた有力者たちです。彼らは、国衙から公領の耕作を請け負う「田堵(たと)」や「負名(ふみょう)」であり、また、自ら開墾した土地を私有する開発領主でもありました。彼らは、強欲な受領による不当な課税や、周辺のライバルとの水や土地をめぐる紛争、あるいは盗賊の襲撃など、常に自らの財産が脅かされる危険に晒されていました。国衙の警察力が頼りにならない以上、彼らには、自らの「名字」の地(苗字の地)を、自力で守るという選択肢しかありませんでした。そこで、彼らは、一族の子弟や、配下の農民(郎党、ろうとう)を武装させ、日常的に弓馬の訓練に励むようになります。これが、「武装した在地領主」としての武士の原型です。
- 起源②:中央貴族の末裔:平安時代、皇族や上級貴族の一族からは、数多くの子供たちが生まれましたが、都で与えられる官職の数には限りがありました。そのため、皇位継承の可能性が低い皇族や、出世の見込みがない貴族の子弟の一部は、自らの活路を求めて、地方に下っていきました。彼らは、天皇や有力貴族の血を引くという、高い家柄と権威を背景に、地方に土着し、在地の有力者たちを束ねて、その地の支配者となっていきました。そして、自らも武装し、強力な武士団を形成していきます。後の武家の棟梁となる**清和源氏(せいわげんじ)や桓武平氏(かんむへいし)**は、まさに、それぞれ清和天皇、桓武天皇の子孫が、地方に下って武士化した、その代表例です。彼らは、高い血統的権威と、卓越した軍事能力を兼ね備えることで、他の武士たちを統率する「貴種(きしゅ)」として、特別な存在となっていきました。
- 起源③:「兵(つわもの)」の系譜:桓武天皇の時代に導入された「健児(こんでい)」の制度や、受領が、国内の治安維持や徴税のために、私的に雇い入れた武装した従者たちなど、専門的な戦闘技術を持つ「兵(つわもの)」の流れをくむ人々も、武士の源流の一つと考えられます。彼らは、特定の土地に根ざすというよりは、その武芸を、様々な主人(貴族や他の武士)に提供することで生計を立てる、いわばプロフェッショナルな戦闘員でした。
このように、武士は、土地に根ざした「領主」としての側面と、武芸に秀でた「戦闘のプロ」としての側面を、併せ持つ存在として、歴史の舞台に登場したのです。
7.2. 武芸の家:「弓馬の道」
武士を、他の社会階層から区別する最大の特徴は、彼らが「武芸」、特に馬上で弓を射る「騎射(きしゃ)」を、専門的な技能とし、それを家業として代々受け継いでいった点にあります。彼らは、自らの戦闘技術を「弓馬の道(きゅうばのみち)」と呼び、それを磨くことに、誇りとアイデンティティを見出しました。
平時から、彼らは、狩猟を通じて、実践的な戦闘訓練を積みました。特に、犬を射る「犬追物(いぬおうもの)」や、笠を的にする「笠懸(かさがけ)」、そして馬を走らせながら連続して的を射る「流鏑馬(やぶさめ)」といった騎射の訓練は、単なる武芸の鍛錬にとどまらず、武士団の結束を確認し、その武威を誇示するための、重要な儀式でもありました。
7.3. 武士団の形成:血縁と主従関係
個々の武士は、単独で行動するのではなく、必ず「武士団(ぶしだん)」と呼ばれる、戦闘共同体を形成していました。武士団は、二つの異なる結合原理によって、強固に結ばれていました。
- 惣領制(そうりょうせい):武士団の基本的な核となるのは、「家の子(いえのこ)」と呼ばれる、一族の長(惣領、そうりょう)と、その分家の者たちからなる、血縁的な結合でした。惣領は、一族の祭祀を主宰し、戦闘の際には、一族郎党を率いて指揮を執りました。この血縁に基づく結束は、武士団の最も強固な基盤でした。
- 主従関係(擬制的な親子関係):武士団は、血縁者だけで構成されるわけではありませんでした。惣領は、血縁関係のない周辺の武士たちと、個別に主従関係を結び、彼らを「郎党(ろうとう)」または「郎等(ろうどう)」として、自らの戦闘力に組み込んでいきました。この主従関係は、単なる契約関係ではなく、極めて人格的で、強い精神的な絆で結ばれていました。
- 御恩(ごおん): 主人(惣領)は、郎党に対して、その生活を保障し、戦闘で手柄を立てた際には、新たな土地や褒賞を与えるなど、様々な「御恩」を与えました。
- 奉公(ほうこう): 郎党は、主人から受けた御恩に報いるため、平時には主人の警護などにあたり、戦時には、自らの命を懸けて、主人のために戦う「奉公」の義務を負いました。この「御恩と奉公」の関係は、しばしば、擬制的な親子関係にもなぞらえられ、「命を懸けて忠誠を尽くす」という、武士独特の倫理観の基礎を形成していきました。
このように、武士団は、血縁という「縦の糸」と、主従関係という「横の糸」によって織りなされた、強固な戦闘組織でした。そして、小規模な武士団は、さらに、清和源氏や桓武平氏といった、貴種としての権威を持つ、より大きな武士団の傘下に入り、全国的なネットワークを形成していくことになります。彼らは、初めは地方の治安維持勢力に過ぎませんでしたが、やがてその卓越した軍事力は、中央の貴族たちにとっても、無視できない存在となっていきます。貴族たちは、政争や、荘園間の紛争を解決するために、これらの武士団を「傭兵」として利用するようになります。こうして武士は、徐々に、中央の政治史にも、その姿を現し始めるのです。
8. 承平・天慶の乱
10世紀の中頃、発生期にあった武士という新たな社会階層が、その存在と、そして恐るべき破壊力を、初めて天下に知らしめる、二つの大規模な反乱が、ほぼ同時期に、東国(関東)と西国(瀬戸内海)で勃発しました。東国で起こった「平将門(たいらのまさかど)の乱」と、西国で起こった「藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱」です。この二つの乱を、当時の元号にちなんで、「承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)」と総称します。この反乱は、律令国家の軍事システムが完全に崩壊している現実を白日の下に晒し、もはや国家の治安を維持するためには、武士の力に頼らざるを得ないという事実を、中央の貴族たちに痛感させる、決定的な出来事となりました。
8.1. 東国の風雲児:平将門の乱(939-940年)
平将門は、桓武天皇の子孫である桓武平氏の出身で、下総国(しもうさのくに、現在の千葉県北部)を本拠地とする、有力な武士でした。彼の乱のきっかけは、当初、一族の内部における、所領をめぐる私的な争いに過ぎませんでした。
しかし、将門は、その卓越した武勇によって、伯父や従兄弟たちを次々と打ち破り、その勢力を急速に拡大。やがて、彼の周辺には、常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)の国司と対立していた藤原玄明(ふじわらのはるあき)など、国司(受領)の苛政に不満を持つ者たちが、次々と集まってきます。
将門は、彼らを助けるという名目で、常陸国の国府を襲撃し、国司を追い出して、その印綬(国司の印鑑と鍵)を奪い取ってしまいます。これは、もはや私闘ではなく、国家に対する公然とした反逆に他なりませんでした。
一度、国家に反旗を翻した将門の行動は、エスカレートしていきます。彼は、そのまま下野国(しもつけのくに、栃木県)、上野国(こうずけのくに、群馬県)の国府をも次々と攻略し、瞬く間に関東地方のほぼ全域を制圧してしまいました。そして、939年12月、将門は、自らを「新皇(しんのう)」と称し、関東に新たな独立国家を樹立することを宣言。下総国に新たな王宮を造営し、独自の官僚組織まで任命するという、前代未聞の行動に出ます。
これは、日本の歴史上、初めて、武士が、中央政府に対して、明確な政治的独立を掲げた瞬間でした。彼の反乱は、単なる盗賊の蜂起ではなく、王朝国家の支配に対する、地方からの武装した異議申し立てだったのです。
8.2. 西海の梟雄:藤原純友の乱(939-941年)
平将門が関東で「新皇」を名乗っていたのと、ほぼ時を同じくして、西日本の瀬戸内海では、もう一人の反乱の指導者が、その勢いを増していました。藤原純友です。
純友は、摂関家である藤原北家の傍流の出身で、伊予国(いよのくに、現在の愛媛県)の役人(掾、じょう)でした。しかし、彼は、その任地で、瀬戸内海を拠点とする海賊たちと結びつき、やがてその頭領となります。
当初、純友は、伊予国の国司の命令を受け、他の海賊を取り締まる役割を担っていましたが、次第にその強大な武力を背景に、自らが海賊集団を率いて、瀬戸内海沿岸の国々を襲撃し、官物(税)を強奪するようになります。彼の武士団は、1000隻以上の船を擁する、巨大な海賊艦隊へと成長しました。
939年、朝廷が将門の乱への対応に追われている隙をついて、純友は、ついに公然と反旗を翻します。彼は、備前国(びぜんのくに、岡山県)や淡路国(あわじのくに)を襲撃し、ついには、西国の行政・防衛の中心であった大宰府を焼き討ちにするなど、西日本一帯を恐怖に陥れました。
8.3. 乱の鎮圧と武士の役割
東と西で同時に起こった、二つの大規模な反乱。この報に、都の朝廷は震撼しました。律令制下の軍団は、もはや反乱を鎮圧する力を持っていません。追い詰められた朝廷が、この国家的な危機を乗り越えるために頼ったのは、皮肉にも、反乱者たちと同じ「武士」の力でした。
- 将門の乱の鎮圧:朝廷は、将門追討の勅令を出し、征東大将軍として藤原忠文(ふじわらのただふみ)を派遣します。しかし、忠文の軍が関東に到着するよりも早く、将門は、同族である**平貞盛(たいらのさだもり)と、下野国の有力な武将であった藤原秀郷(ふじわらのひでさと)**の連合軍によって、討ち取られてしまいます。貞盛は、将門に父を殺された恨みを持ち、秀郷は、関東の覇権を将門と争うライバルでした。彼らは、朝廷の権威を利用し、将門を「朝敵」とすることで、自らの私闘を正当化し、結果として、国家の危機を救ったのです。940年2月、将門の首は、京都の七条河原で晒されました。
- 純友の乱の鎮圧:将門の死の報が伝わると、純友の軍の士気は大きく低下しました。朝廷は、追捕使(ついぶし)として小野好古(おののよしふる)や、源氏の武士である源経基(みなもとのつねもと、清和源氏の祖)らを派遣。彼ら朝廷軍は、九州の博多湾で、純友の海賊船団と激突し、これを撃破。純友は、伊予国に逃げ帰ったところを、現地の役人に捕らえられ、殺害されました。
8.4. 乱が残した歴史的インパクト
承平・天慶の乱は、わずか数年で鎮圧されました。しかし、この一連の出来事が、その後の日本の歴史に与えた影響は、計り知れないほど大きいものでした。
- 律令国家の軍事力の完全な崩壊の露呈:国家の正規軍が、反乱に対して全く無力であることが、誰の目にも明らかになりました。中央政府は、もはや自らの力で、地方の秩序を維持することができない。この現実は、王朝国家の権威に、大きな傷をつけました。
- 武士の存在価値の証明:国家を揺るがすほどの大規模な反乱を、最終的に鎮圧したのは、国家の軍隊ではなく、平貞盛や藤原秀郷といった、地方の武士団でした。これにより、**「武士なくしては、国家の安泰はありえない」**という認識が、中央の貴族たちの間に、広く共有されることになります。
- 武士の中央政界への進出:乱の鎮圧に功績のあった武士たちは、朝廷から、貴族としての位や、受領などの官職を与えられ、中央政界へと進出する足がかりを掴みました。特に、源経基を祖とする清和源氏と、平貞盛の系統である桓武平氏は、この乱をきっかけに、「武家の棟梁(とうりょう)」としての地位を確立し、その後、摂関家などの有力貴族に、その武力を提供する「侍」として仕えながら、着実にその勢力を伸ばしていくことになります。
承平・天慶の乱は、貴族の時代から武士の時代への、大きな地殻変動の始まりを告げる、最初の大きな揺れでした。それは、地方で生まれた武力という新しいエネルギーが、もはや中央の古い権力構造では抑えきれなくなり、歴史の表舞台へと、その姿を現した瞬間だったのです。
9. 藤原道長の全盛期
承平・天慶の乱を経て、武士が新たな社会階層として台頭し始める一方で、10世紀末から11世紀前半にかけて、都の貴族社会は、藤原氏、特にその北家による摂関政治が、まさに栄華の頂点を迎えていました。その黄金時代を象徴する人物こそ、歴史上、おそらく最も有名な貴族である、**藤原道長(ふじわらのみちなが)**です。彼は、巧みな政略と、何よりも幸運に恵まれ、自らの一族から次々と天皇の后を送り込み、天皇の外祖父として、前代未聞の権勢を手にしました。彼の時代は、摂関政治の完成形であると同時に、国風文化が爛熟し、『源氏物語』などの文学作品が生み出された、華やかな王朝文化の最盛期でもありました。本章では、藤原道長がいかにして権力の頂点に上り詰めたのか、その権力構造の秘密と、彼の栄華が象徴する時代の光と影を考察します。
9.1. 道長への道:権力闘争と幸運
藤原道長は、摂政・関白を務めた藤原兼家(ふじわらのかねいえ)の五男として生まれました。当初、彼が藤原氏のトップ(氏の長者、うじのちょうじゃ)になる可能性は、極めて低いものでした。彼の上には、道隆(みちたか)、道兼(みちかね)といった、有能な兄たちがいたからです。
しかし、一連の政争と、疫病の流行という偶然が、道長に信じがたい幸運をもたらします。
- 兄たちの相次ぐ死:父・兼家の死後、関白の地位は、長兄の道隆に受け継がれました。道隆は、自らの娘・定子(ていし)を一条天皇の中宮(ちゅうぐう、皇后と同格)とし、その子である伊周(これちか)を、次の後継者として盤石の体制を築こうとします。しかし、995年、道隆は病で急死。関白の地位は、次兄の道兼に移りますが、この道兼も、関白就任からわずか7日後に、当時流行していた疫病(疱瘡、ほうそう)で急死してしまいました。このため、「七日関白」と呼ばれています。
- 長徳の変(996年):兄たちが相次いで亡くなった後、道隆の子である内大臣・伊周と、叔父である道長との間で、次の政権の主導権をめぐる激しい争いが起こります。この権力闘争の最中、伊周とその弟・隆家(たかいえ)が、花山法皇(かざんほうおう)に対して矢を射かけるという、前代未聞の不祥事を起こしてしまいます。この事件(長徳の変)を好機と捉えた道長は、彼らを失脚させ、伊周を大宰府へ、隆家を出雲国へ、それぞれ左遷することに成功します。
こうして、ライバルであった兄たちと、甥の伊周を、政争と幸運によって排除した藤原道長は、996年、ついに左大臣として、政界の最高実力者の地位に就くことになります。
9.2. 「一家三后」:外戚政策の極致
権力を掌握した道長は、歴代の藤原氏が用いてきた「外戚政策」を、前代未聞のスケールで、そして驚くべき執念で展開していきます。彼の目標は、自らの娘たちを次々と天皇や皇太子の后とし、天皇家の血筋を、自らの血で完全に染め上げることでした。
- 一条天皇への入内:当時、一条天皇には、既に道長の兄・道隆の娘である中宮・定子(ていし)がいました。しかし、道長は、999年、自らの長女である**彰子(しょうし)**を、強引に一条天皇の後宮に入れます。そして、本来は一人しか置けないはずの皇后(中宮)の位を、「中宮」と「皇后」という二つの名目に分け、定子を「皇后宮」、彰子を「中宮」として、**史上初の「一帝二后」**を実現させました。この彰子のもとには、紫式部(むらさきしきぶ)や和泉式部(いずみしきぶ)といった、当代一流の女房(女官)たちが集められ、彼女たちのサロンから、日本文学の最高傑作である『源氏物語』が生まれることになります。
- 三条天皇への入内:一条天皇の次に即位した三条天皇には、次女の**妍子(けんし)**を嫁がせ、中宮としました。
- 後一条天皇への入内:そして、一条天皇と彰子の間に生まれた敦成親王(あつひらしんのう)が、後一条天皇として即位すると、道長は、ついに天皇の「外祖父」としての地位を手にします。さらに、この甥にあたる幼い天皇に、三女の**威子(いし)**を嫁がせ、中宮としました。
これにより、道長は、**自らの娘三人が、同時に后の位に就く(一条院の后・彰子、三条院の后・妍子、後一条院の后・威子)**という、「一家三后(いっかさんごう)」という空前絶後の状況を現出させました。そして、彼自身も、後一条、後朱雀、後冷泉という、三代の天皇の外祖父として、約30年間にわたり、摂政・太政大臣として、絶頂の権勢を振るうことになります。
9.3. 「この世をば…」:栄華の頂点
1018年(寛仁2年)、娘の威子が後一条天皇の中宮に立てられたことを祝う宴の席で、53歳になっていた藤原道長は、その栄華の絶頂を象徴する、有名な和歌を詠みました。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」
(この世は、まさに自分のためにある世だと思う。満月が、全く欠けるところがないように、私の権勢にも、何一つ足りないものはないと思うので。)
この歌は、藤原氏による摂関政治が、その頂点を極めたことを、高らかに宣言するものでした。彼の権力は、もはや政治の世界にとどまりませんでした。
- 莫大な経済力:全国に所有する数多くの荘園から上がる莫大な収入は、道長の権勢を経済的に支えました。彼は、その財力を惜しみなく使い、壮麗な邸宅を構え、豪華な宴を催しました。
- 仏教への傾倒と法成寺の建立:道長は、深く仏教に帰依し、特に、阿弥陀仏を信じ、死後にその極楽浄土に往生することを願う「浄土教」を篤く信仰しました。彼は、その財力の全てを注ぎ込み、京都に、極楽浄土を地上に再現したかのような、壮大な寺院「法成寺(ほうじょうじ)」を建立しました。その中心であった無量寿院(阿弥陀経)は、内部がきらびやかな装飾で埋め尽くされ、道長は、自らを「御堂関白(みどうかんぱく)」とも呼ばれました。
9.4. 摂関政治の光と影
藤原道長、そしてその子である**頼通(よりみち)**の時代(11世紀)は、摂関政治の最盛期であり、日本の歴史上、最も平和で、文化的に洗練された時代の一つでした。戦乱は少なく、都では、優雅な王朝文化が花開きました。
- 国風文化の爛熟:遣唐使の廃止以降、発展してきた国風文化は、この時代に、その黄金期を迎えます。道長の娘・彰子のサロンから生まれた**紫式部の『源氏物語』や、一条天皇の中宮・定子のサロンから生まれた清少納言の『枕草子』**など、ひらがなを用いた女性文学の傑作が、次々と生み出されました。これらは、現代に至るまで、日本文学の最高峰として輝き続けています。
- 建築と美術:道長の子・頼通が、父が建立した法成寺に対抗して、宇治に建立したのが「平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)」です。池に浮かぶように建てられたその優美な姿は、まさに貴族たちが夢見た極楽浄土のイメージを具現化したものであり、国風文化の建築・美術の最高傑作とされています。堂内に安置されている、仏師・**定朝(じょうちょう)**作の阿弥陀如来像は、複数の木材を組み合わせて作る「寄木造(よせぎづくり)」の技法を完成させた、優美な仏像の代表です。
しかし、この華やかな都の文化の裏では、摂関政治が内包する構造的な矛盾が、静かに進行していました。
- 地方政治の荒廃:中央の貴族たちが、文化的な生活や権力闘争に明け暮れる一方で、地方の政治は、強欲な受領たちに委ねられ、その支配はますます過酷なものとなっていました。
- 武士の成長:地方の治安悪化は、武士の力を、さらに必要不可欠なものとしていきました。彼らは、摂関家に「侍」として仕え、その警護や、荘園の管理を担うことで、中央政界との結びつきを強め、着実にその社会的地位を高めていきました。
藤原道長の栄華は、まさに満月のように、完璧に見えました。しかし、月が満ちれば、やがて欠けていくのが自然の摂理であるように、その栄華の陰では、次の時代を動かす、新しい力が、静かに、しかし確実に、育っていたのです。
10. 院政の開始と上皇による政治
11世紀後半、藤原道長・頼通親子によって築かれた摂関政治の栄華は、盤石であるかのように見えました。しかし、その華やかな貴族社会の足元では、荘園の拡大による律令公地公民制の崩壊と、武士の台頭という、大きな地殻変動が静かに進行していました。そして、この構造変化を背景に、摂関政治の権力基盤そのものを揺るがす、画期的な政治システムが登場します。それが、「院政(いんせい)」です。これは、天皇が、その位を子に譲った後、「上皇(じょうこう)」または「太上天皇(だいじょうてんのう)」として、政治の実権を握るという、特異な統治形態でした。本章では、なぜ院政というシステムが生まれたのか、その画期をなした後三条天皇の改革、そして院政を完成させた白河上皇の政治手法と、その歴史的意義を解き明かします。これは、藤原氏の時代から、次なる武士の時代への、大きな橋渡しとなる物語です。
10.1. 摂関政治の揺らぎ:後三条天皇の登場
藤原氏による摂関政治の権力は、天皇との「外戚関係」に、全面的に依存していました。つまり、藤原氏の娘が天皇の母(国母)であるという関係が、彼らの権力の源泉でした。
しかし、道長の子・頼通の時代になると、この盤石のはずのシステムに、綻びが生じ始めます。頼通は、50年にもわたって関白を務めましたが、彼の娘たちには、ついに皇子が生まれませんでした。
そして1068年、ついに、摂関政治の歴史を揺るがす事態が発生します。後三条(ごさんじょう)天皇の即位です。
後三条天皇は、その母が、藤原氏の娘ではありませんでした。彼は、実に約170年ぶりに、藤原氏を直接の外戚としない天皇として即位したのです。
これは、摂関家にとって、致命的な事態でした。天皇に対して、「外祖父」や「叔父」として、私的な影響力を行使することができない。後三条天皇は、藤原頼通に対して、儀礼的な敬意は払いつつも、政治的には、摂政・関白の意向に縛られることなく、自らの意思で、主体的に政治を行うことができる、稀有な天皇でした。
10.2. 延久の荘園整理令:摂関家への挑戦
親政を開始した後三条天皇が、まず最初に取り組んだのが、当時、国家の最大の懸案事項となっていた、荘園問題でした。全国に無秩序に拡大した荘園は、国家の税収を著しく減少させ、律令国家の財政基盤を蝕んでいました。そして、その最大の荘園領主こそが、摂関家であった藤原氏でした。
1069年、後三条天皇は、荘園の整理・淘汰を目的とした、画期的な法令、「延久の荘園整理令(えんきゅうのしょうえんせいりれい)」を発布します。
これまでの荘園整理令と、延久の整理令が決定的に異なっていたのは、その厳格さと、実行力でした。
- 記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいじょ)の設置:天皇は、自らの直轄機関として、太政官に「記録所」という新しい役所を設置しました。そして、全国の荘園領主に対して、その荘園がいつ、どのような経緯で成立したのかを証明する、正式な書類(券契)を提出するよう命じました。
- 厳格な審査基準:記録所は、提出された書類を厳密に審査し、少しでも不備があったり、成立の経緯が不明確であったりする荘園は、容赦なく没収し、公領へと戻しました。
- 聖域なき適用:最も重要な点は、この整理令が、摂関家の荘園や、石清水八幡宮のような大寺社の荘園に対しても、一切の例外なく、厳格に適用されたことです。「この度の整理令は、関白殿の荘園であっても、免除はしない」という天皇の強い意志が示されました。
この延久の荘園整理令は、絶大な効果を上げ、多くの不正な荘園が廃止されました。これは、藤原氏の経済的基盤に、直接的な打撃を与えるものであり、天皇が、摂関家の政治的・経済的支配から、国家の統治権を取り戻そうとする、明確な挑戦状でした。
10.3. 院政の開始:白河上皇の統治
後三条天皇は、在位わずか4年で、病のため、息子の白河(しらかわ)天皇に譲位し、まもなく崩御してしまいます。しかし、彼の遺志は、白河天皇に、そして彼が発明した新たな政治システムによって、さらに強力に引き継がれることになります。
白河天皇は、父の政策を継承し、親政を行っていましたが、1086年、まだ34歳の若さで、8歳の皇子(堀河天皇)に位を譲り、自らは「上皇(太上天皇)」となります。そして、上皇の住まいである「院(いん)」において、政治の実権を握り続けました。これが、「院政」の始まりです。
なぜ、白河上皇は、天皇の位を退いてまで、院政という形を選んだのでしょうか。そこには、極めて巧妙な政治的計算がありました。
- 摂関政治の無力化:摂政・関白は、あくまで「天皇」を補佐する役職です。上皇は、その補佐の対象外でした。そのため、上皇として政治を行えば、藤原氏の関白が、政治決定に介入する余地を、完全に封じることができました。これは、摂関政治のシステムを、いわばハッキングするような、画期的な手法でした。
- 儀式・慣習からの解放:天皇は、即位している限り、国家の公式な儀式や、宮中の煩雑なしきたりに、その多くの時間を拘束されます。しかし、上皇は、そのような公的な束縛から自由であり、より迅速かつ柔軟に、政治的な意思決定を行うことができました。
- 独自の政治機関の設置:白河上皇は、自らの院の中に、「院庁(いんのちょう)」という、私的な家政機関を設置しました。そして、自らの側近である「院近臣(いんのきんしん)」を、この院庁の役人に任命し、彼らを通じて、人事や財政に関する命令(院庁下文、いんのちょうくだしぶみ)を発しました。この院庁は、太政官という公的な政府機関とは別に機能する、事実上の「もう一つの政府」でした。
10.4. 院政の権力基盤と歴史的意義
院政の権力基盤は、大きく二つありました。
- 経済力(荘園支配):上皇は、「知行国(ちぎょうこく)」や「院分国(いんぶんこく)」という制度を用いて、特定の国の支配権を、事実上、私有化しました。これにより、その国から上がる全ての税収を、自らの院の財源とすることができました。また、多くの荘園領主が、藤原氏に代わって、上皇に荘園を寄進するようになり、上皇は、全国の荘園の頂点に立つ、最大の荘園領主ともなりました。
- 軍事力(武士の掌握):白河上皇は、武士の軍事力に着目し、彼らを積極的に登用しました。特に、伊勢平氏(いせへいし)や、源義家(みなもとのよしいえ)亡き後の河内源氏(かわちげんじ)といった、**北面の武士(ほくめんのぶし)**と呼ばれる、院の警護にあたる直属の武士団を組織しました。これにより、上皇は、摂関家にはない、直接的な軍事力を、自らの手中に収めたのです。
白河上皇は、その後、堀河・鳥羽・崇徳という三代の天皇の治世にわたり、実に43年間も、院の頂点に君臨し続けました。彼の始めた院政は、鳥羽上皇、後白河(ごしらかわ)上皇へと受け継がれ、約100年間にわたって続くことになります。
院政の開始は、日本の政治史において、以下のようないくつかの重要な意味を持っています。
- 摂関政治の終焉:藤原氏による、外戚関係を基盤とした政治の独占は、ここに終わりを告げました。
- 権力の二重化:天皇と公的な政府(太政官)の上に、上皇と私的な政府(院庁)が君臨するという、極めて複雑で、二重の権力構造が常態化しました。
- 武士の中央政界への本格的な進出:院が、その権力基盤として、武士の軍事力を公的に利用し始めたことは、武士の政治的地位を、飛躍的に向上させました。院の武力として重用された平氏や源氏は、やがて、院の権威をも凌駕する力を持ち、自らが政治の主役となる、次なる「武家の時代」の扉を、開いていくことになるのです。
院政とは、摂関政治という貴族政治を終わらせる、最後の貴族政治でした。そして、それは、意図せざる結果として、自らの墓堀人となる武士を、政治の中枢へと導き入れる、歴史の大きな皮肉を内包していたのです。
Module 3:摂関政治と王朝国家の総括:私的権力と新たな担い手の胎動
本モジュールでは、律令国家がその内実を大きく変容させ、藤原氏が天皇の外戚として権力を掌握する「摂関政治」の時代と、その経済基盤となった「荘園公領制」の確立、そしてその支配体制を打破した「院政」の開始までを追った。我々は、桓武天皇の改革の意志が、子の世代には藤原氏の巧みな外戚政策の前に後退し、承平・天慶の乱を経て武士という新たな階級がその存在価値を示す様を見た。道長の栄華は王朝文化の頂点を築いたが、それは同時に、受領の強欲に象徴される地方の疲弊と、公的システムの私物化が極まった時代でもあった。そして、その矛盾の果てに、後三条天皇と白河上皇は、院政という新たな統治形態を発明し、摂関家から権力を奪取した。しかし、院がその権力基盤として武士の軍事力に依存したことは、結果として、貴族の時代そのものに終止符を打ち、武家が歴史の表舞台に登場する道を開くという、歴史の大きな皮肉を生んだ。この時代は、公的な法体系が私的な関係性によって侵食され、その権力の真空地帯から、次代の担い手たちが静かに、しかし確実に胎動していく、壮大な過渡期だったのである。