【基礎 日本史(通史)】Module 5:鎌倉幕府の成立と執権政治

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは源平合戦という壮絶な内乱の果てに源頼朝が守護・地頭の設置という画期的な手法によって武家による全国支配の「骨格」を築き上げるまでを見ました。しかしそれはあくまで頼朝という一人のカリスマ的な指導者の下に御家人たちが人格的に結びついた未だ属人的な支配体制に過ぎませんでした。本モジュールではこの草創期の武家政権がいかにして法と制度に基づく恒久的な統治機構「鎌倉幕府」へと発展していったのかその確立のプロセスを探ります。この過程は決して平坦なものではありませんでした。それは頼朝の死後に起こる源氏将軍の断絶とそれに伴う有力御家人たちの熾烈な権力闘争でした。そして将軍の補佐役に過ぎなかったはずの北条氏が巧みな政治手腕で実権を掌握していく「執権政治」の時代への移行でした。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず鎌倉幕府がどのような統治機構を備えていたのかその中央政府の仕組みを解剖します。そして武士たちの社会を支えた「御恩と奉公」という封建制度の本質を解き明かします。次に頼朝の死後源氏の将軍がいかにして形骸化し北条氏が「執権」として台頭していく過程を具体的な権力闘争を通じて分析します。そして朝廷が失われた権威を取り戻すべく幕府に対して起こした史上初の戦い「承久の乱」とそれに勝利した幕府がいかにして朝廷を凌駕する全国的な支配権を確立したのかその画期的な転換点を見ます。さらに武士による武士のための法典「御成敗式目」の制定が持つ歴史的意義や執権政治がやがて北条氏本家による独裁「得宗専制政治」へと変質していく様相を追います。最後に未曾有の国難であった「元寇」が幕府の政治にいかなる栄光とそして同時に破滅の種をもたらしたのかを考察します。

  1. 鎌倉幕府の成立と支配体制: 武士による武士のための政府はどのような組織で運営されたのかその統治機構を解剖する。
  2. 封建制度(御恩と奉公): 鎌倉殿と御家人たちを結びつけた土地を媒介とする人格的な主従関係の本質を理解する。
  3. 頼朝の死と御家人の権力闘争: カリスマ的指導者の死がいかにして将軍の権威を揺るがし有力御家人たちの権力闘争を激化させたかを見る。
  4. 北条氏の台頭と執権政治の始まり: 将軍の外戚に過ぎなかった北条氏がいかにして「執権」として幕府の実権を掌握していったかを分析する。
  5. 承久の乱と朝廷・幕府関係の変化: 武家が朝廷を武力で屈服させた史上初の事件が両者の力関係をいかに決定的に変えたかを探る。
  6. 六波羅探題の設置: 承久の乱の戦後処理として幕府がいかにして京都の朝廷を恒久的な監視下に置くシステムを構築したかを解明する。
  7. 御成敗式目の制定: 日本初の武家法がなぜそしてどのようにして作られたのかその理念と歴史的意義を考察する。
  8. 得宗専制政治への移行: 執権政治がいかにして北条氏本家(得宗)による独裁体制へと変質し御家人たちの不満を募らせていったかを見る。
  9. 元寇(文永・弘安の役): 日本が初めて直面した世界帝国モンゴルとの存亡をかけた戦いの実態を探る。
  10. 元寇が幕府政治に与えた影響: 未曾有の国難を乗り越えた幕府がなぜその勝利の代償として衰退への道を歩み始めることになったのかその構造的矛盾を解き明かす。

このモジュールを学び終えたとき皆さんは鎌倉幕府という日本初の本格的な武家政権がいかにしてその支配を確立しそしてその内部から自らを崩壊させる要因を育てていったのかその栄光と矛盾に満ちた歴史の全貌を深く理解することができるでしょう。


目次

1. 鎌倉幕府の成立と支配体制

源平合戦という長い戦乱を勝ち抜き全国の武士団をその支配下に収めた源頼朝。彼は京都の朝廷とは一線を画した武士による武士のための全く新しい政治拠点を東国・鎌倉に築きました。この鎌倉に置かれた頼朝の政権こそが「鎌倉幕府」です。「幕府」という言葉は元々戦場で将軍が指揮を執る「幕営」を意味し当時はまだ使われていませんでした。しかし後の時代に武家政権を指す呼称として定着します。そして1192年に後白河法皇の死を待って頼朝は朝廷から「征夷大将軍」に任命されました。これにより鎌倉の武家政権は朝廷からも公認された全国の武士を統率する正統な政府として名実ともに成立したのです。本章ではこの鎌倉幕府がどのような中央統治機構を備えていたのかその組織の仕組みを解剖します。

1.1. 征夷大将軍:新たな意味を帯びた称号

「征夷大将軍」という官職は元々奈良時代に東北地方の蝦夷を征討するために臨時で任命された軍の最高司令官の称号でした。坂上田村麻呂が任命されたのがその代表例です。

しかし頼朝はこの本来は一時的な軍事司令官に過ぎなかった称号に全く新しい恒久的な意味を与えました。彼にとって征夷大将軍とは二つの性格を併せ持つ特別な地位でした。一つは**「鎌倉殿(かまくらどの)」すなわち全国の武士(御家人)の棟梁であること。もう一つは朝廷から日本の軍事権・警察権を公式に委任された最高責任者である**こと。頼朝はこの称号を自らが率いる武家政権の法的・制度的な頂点として位置づけたのです。これにより鎌倉幕府は単なる頼朝個人の私的な政権ではありません。それは朝廷から公認された国家の公式な統治機関としてその正統性を主張することが可能になりました。

1.2. 幕府の中央統治機構:三つの柱

頼朝は鎌倉に武家政権を運営するためのシンプルかつ効率的な中央統治機構を整備しました。それは主に三つの役所をその柱としていました。政所・侍所・問注所です。

1.2.1. 侍所(Samurai-dokoro):御家人の統制機関

「侍所」は幕府の軍事と警察を担う最も重要な機関でした。その主な職務は幕府の構成員である全国の**御家人(ごけにん)**たちの統制と指揮でした。

侍所は全国に散らばる御家人たちの名簿の管理や様々な任務への動員計画の策定を行いました。任務には軍役や警備役などがありました。戦時においては軍の編成や作戦の立案を行います。平時においては鎌倉市中の警備や謀反人・犯罪人の取り締まりなど警察としての役割を担いました。

侍所の長官は「別当(べっとう)」と呼ばれました。初代別当には有力御家人であった**和田義盛(わだよしもり)**が任命されています。侍所はまさに幕府の軍事的な背骨をなす中枢機関でした。

1.2.2. 政所(Mandokoro):一般政務・財政機関

「政所」(当初は公文所と呼ばれた)は幕府の一般政務と財政を司る行政の中枢機関でした。

その職務は多岐にわたります。朝廷との交渉や法令の制定を行いました。また御家人からの訴訟以外の一般的な政治案件の処理も担当しました。財政管理も重要な役割です。幕府の財源となる関東御領(頼朝の直轄荘園)からの年貢の管理や様々な経費の出納など幕府の財政全般を一手に担いました。

政所の長官も「別当」と呼ばれました。初代別当には頼朝の側近で京都の公家出身であった**大江広元(おおえのひろもと)**が就任しています。彼の律令や朝廷の儀礼に関する深い知識と実務能力は草創期の幕府の運営に不可欠でした。政所は幕府の頭脳であり心臓部であったと言えます。

1.2.3. 問注所(Monchūjo):裁判機関

「問注所」は御家人たちの間で起こる所領の所有権などをめぐる訴訟を専門に扱う幕府の司法機関でした。

問注所は御家人から提出された訴状を受理します。そして当事者双方から証拠や主張を聞き取り審理を行いました。審理の結果に基づいて判決の原案を作成します。将軍の裁可を得た上でその判決を執行しました。

武士にとって先祖代々受け継いできた土地(所領)は最も重要な財産でした。この所領をめぐる紛争を公平にかつ迅速に裁くことは御家人たちの幕府に対する信頼を維持する上で極めて重要です。問注所は御家人たちの権利を守り幕府の支配の正当性を示す重要な役割を担っていたのです。

問注所の長官は「執事(しつじ)」と呼ばれました。初代執事にはこれも京都の公家出身の法律専門家であった**三善康信(みよしやすのぶ)**が任命されています。

1.3. 幕府支配の全国への浸透

これら鎌倉の中央機関に加えて幕府の支配を全国の隅々にまで及ぼすための二つの重要な地方機関が既に設置されていました。

  • 守護(Shugo): 国単位で置かれ国内の御家人を統率し軍事・警察権を担いました。
  • 地頭(Jitō): 荘園・公領単位で置かれ土地の管理や年貢の徴収治安維持を担いました。

この鎌倉の「侍所・政所・問注所」という中央政府と地方の「守護・地頭」という出先機関が有機的に結びつきました。これにより鎌倉幕府は京都の朝廷とは全く別の独自の指揮命令系統を持つ全国的な統治システムを完成させたのです。

このシステムは平安時代の王朝国家の複雑で公私の区別が曖昧な統治システムとは対照的です。「軍事」「行政」「司法」という機能別の極めてシンプルで実用的な組織であったことが大きな特徴です。それはまさに武士による武士のための全く新しい実力本位の政府の誕生でした。


2. 封建制度(御恩と奉公)

鎌倉幕府という武士による武士のための政府。その巨大なピラッド構造を内側から支えていた最も基本的な人間関係の原理こそが「御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)」の関係でした。これは鎌倉殿(将軍)とその家臣である御家人(ごけにん)とが土地という具体的な利益と命を懸けた忠誠という人格的な義務によって一対一でそして強く結びつく社会システムです。日本の「封建制度(ほうけんせいど)」の根幹をなすものでした。この極めてウェットで人格的な主従関係のあり方を理解することなくして武士の社会と鎌倉幕府の本質を真に理解することはできません。本章ではこの「御恩と奉公」の具体的な内容とそれがどのようにして武士団の秩序を維持し幕府の支配を支えたのかを探ります。

2.1. 契約の根幹:「御恩(Go-on)」

「御恩」とは主人である鎌倉殿がその家臣である御家人に対して与える様々な恩恵や保護のことです。これは単なる慈悲や温情ではありません。御家人が鎌倉殿に対して忠誠を誓う(奉公する)ことの直接的な見返りとして与えられる具体的な利益でした。

御家人たちが鎌倉殿から受ける「御恩」には主に二つの種類がありました。

  • 本領安堵(ほんりょうあんど):これが御家人にとって最も重要で基本的な「御恩」でした。「本領」とは御家人が先祖代々受け継いできた所領(土地)のことです。鎌倉殿は御家人がその土地の支配者であることを幕府の権威をもって公式に承認し保証しました。これを「本領安堵」と呼びます。当時の武士社会では土地の所有権は必ずしも安定したものではありませんでした。常に周辺のライバルや強欲な国司によって奪われる危険に晒されていました。その中で「鎌倉殿が我々の土地の所有を保証してくださる」という事実は御家人たちにとって何物にも代えがたい最大の安心材料でした。彼らはこの保証を得るためにこそ鎌倉殿の御家人となったのです。
  • 新恩給与(しんおんきゅうよ):これは鎌倉殿が御家人に対して新たな土地や守護・地頭の職といった新しい恩賞を与えることです。源平合戦の際には平家から没収した膨大な荘園や公領(平家没官領)が恩賞として分け与えられました。戦で手柄を立てた御家人たちに次々と与えられたのです。この「新恩給与」は御家人たちの鎌倉殿への忠誠心をさらに高めるための極めて効果的なインセンティブとなりました。「鎌倉殿に仕えれば新たな土地が手に入るかもしれない」という期待が多くの武士を幕府の傘下へと引き寄せたのです。

このように「御恩」とは鎌倉殿が御家人の土地所有(所領支配)を保証し拡大するという極めて現実的な経済的利益に根差したものでした。

2.2. 忠誠の義務:「奉公(Hōkō)」

「奉公」とは御家人が鎌倉殿から受けた「御恩」に報いるために主人に対して果たすべき様々な義務や忠誠のことです。これは御家人にとって自らの存在意義そのものに関わる絶対的な責務でした。

御家人が鎌倉殿に対して果たすべき「奉公」には主に以下のようなものがありました。

  • 軍役(ぐんやく):これが最も重要な「奉公」です。幕府が戦争を始めたり反乱の鎮圧を行ったりする際には御家人は直ちに鎌倉殿の命令に従う必要がありました。一族郎党を率いて戦場へと駆けつけなければなりませんでした。この際武器や食料馬などは全て自前で用意するのが原則でした。戦場で主人のために命を懸けて戦うことこそが武士の最大の名誉であり奉公の神髄であると考えられていました。
  • 番役(ばんやく):平時における重要な奉公が警備の任務である「番役」でした。これには鎌倉番役と京都大番役の二種類があります。鎌倉番役は鎌倉に上り幕府の御所などを一定期間警備する任務です。京都大番役は京都に上り内裏や院の御所などを警備する任務でした。後者は幕府が朝廷を守護していることを示す象徴的な意味も持っていました。これらの番役の費用も基本的には御家人の自己負担であり彼らにとっては大きな経済的負担でもありました。
  • 経済的な負担(公事、くじ):上記の軍役・番役以外にも御家人は経済的な負担を負いました。幕府が御所の造営や寺社の修復といった公共事業を行う際にその費用の一部を負担する義務があったのです。

このように「奉公」とは御家人が鎌倉殿のために軍事的・経済的なあらゆる犠牲を払って尽くすことを意味しました。そしてその奉公の対価として鎌倉殿は御恩(所領の保証)を与えます。この「御恩と奉公」のギブ・アンド・テイクの関係こそが鎌倉幕府という巨大な主従関係のネットワークを強固に支える基本原理だったのです。

2.3. 封建制度の特質:人格的で双務的な契約

この「御恩と奉公」に基づく鎌倉時代の主従関係はヨーロッパの封建制度(Feudalism)としばしば比較されます。しかし日本独特の際立った特徴もいくつか持っていました。

  • 人格的な結びつきの強さ:鎌倉殿と御家人の関係は単なる土地を媒介としたドライな契約関係ではありませんでした。そこには「譜代」の家臣すなわち先祖代々源氏に仕えてきたという強い歴史的な絆がありました。また主人のためには命をも惜しまないという情的な忠誠心が極めて大きな役割を果たしていました。この関係はしばしば擬制的な親子関係にもなぞらえられました。
  • 双務的な契約関係:一方でこの主従関係は主人からの一方的な支配ではありませんでした。御家人が命がけの奉公をするのはあくまで主人からの「御恩」が保証されているからです。もし主人が十分な御恩を与えなかったり不公平な扱いをしたりすれば御家人はその主人を見限ることもあり得ました。別の主人に仕えることも可能でした。つまり**「御恩なくして奉公なし」**という双務的な契約としての側面も強く持っていたのです。

鎌倉殿と一人一人の御家人とが個別に結んだ「御恩と奉公」。それは無数の人格的で双務的な契約の総体でした。それこそが鎌倉幕府という武家政権の実態だったのです。そしてこのシステムの根幹をなす「御恩」すなわち「御家人に与えるべき土地」が不足し始めた時この強固に見えた主従関係のネットワークはその根底から揺らぎ始めることになります。


3. 頼朝の死と御家人の権力闘争

1199年鎌倉幕府の創設者であり絶対的なカリスマとして全ての御家人を束ねてきた源頼朝が突然の死を遂げます。落馬が原因とされています。享年53。このあまりにも呆気ない偉大な指導者の死はまだ制度化が不十分であった草創期の幕府に深刻な権力の空白を生み出しました。頼朝という絶対的な「重し」がなくなったことでそれまで抑えられていた有力御家人たちの野心と権力への欲望が一気に噴出します。頼朝の跡を継いだ若い二代将軍・源頼家のもと鎌倉は血で血を洗う熾烈な権力闘争の舞台と化していくのです。本章では頼朝の死後将軍の権威がいかにして揺らぎ有力御家人たちによる粛清と合議制への移行が進んでいったのかその過程を追います。

3.1. 二代将軍・源頼家の独裁志向

頼朝の死後鎌倉殿の地位を継いだのは嫡男であった18歳の**源頼家(みなもとのよりいえ)**でした。彼は父・頼朝とは対照的でした。鎌倉で生まれ育ち武芸には秀でていましたが政治家としての経験や老獪さに著しく欠けていました。

頼家は父が築いた有力御家人たちとの協調路線を軽んじます。自らの側近(近習)だけを重用し独裁的に物事を決定しようとしました。特に御家人たちの生命線ともいえる所領に関する訴訟の裁決を独断で覆すなどしたため幕府の宿老であった御家人たちの強い反発と不信感を招きました。

御家人たちにとって鎌倉殿とは自分たちの権利と利益を公平に守ってくれる存在であるはずでした。しかし頼家はその期待を裏切ります。まるで平安時代の専制君主のように振る舞おうとしたのです。

3.2. 十三人の合議制:将軍権力の形骸化への第一歩

この若き将軍の独裁的な振る舞いに深刻な危機感を抱いたのが頼朝の代から幕府を支えてきた有力御家人たちでした。その中心にいたのが頼家の母方の祖父(外祖父)にあたる**北条時政(ほうじょうときまさ)**です。

1199年頼家の将軍就任からわずか数ヶ月後北条時政や大江広元三善康信そして和田義盛梶原景時といった13人の有力御家人たちは連名である取り決めを強行します。それは**「これ以降将軍(頼家)は訴訟について直接裁決を下すことを停止し我々13人の合議によって審議・決定する」**というものでした。

これが「十三人の合議制」と呼ばれる鎌倉幕府の歴史における極めて重要な決定です。これは事実上のクーデターでした。この決定によって将軍の親裁権(直接裁判する権力)が剥奪されました。また幕府の最高意思決定は将軍個人の判断ではなく有力御家人たちによる合議制へと移行しました。

つまりこの瞬間鎌倉幕府はもはや将軍による独裁政権ではありません。有力御家人たちによる「寡頭制(オリガーキー)」へとその性格を大きく変えたのです。これが後の執権政治へと繋がる将軍の権威の形骸化への決定的な第一歩でした。

3.3. 有力御家人の粛清①:梶原景時の変(1200年)

十三人の合議制によって有力御家人たちが共同で幕府を運営する体制ができたかのように見えました。しかしそれは彼らの間で新たなそしてより熾烈な権力闘争が始まることを意味していました。

その最初の標的となったのが頼朝の側近として侍所の長官などを務め絶大な権勢を誇っていた**梶原景時(かじわらのかげとき)**でした。景時は頼朝の信任が厚いことを背景に他の御家人たちの動向を厳しく監視しました。些細な過ちでも頼朝に讒言したため多くの御家人から恨みを買っていました。「鎌倉一の嫌われ者」とまで言われていました。

頼朝が亡くなるとこの溜まりに溜まった不満が一気に爆発します。結城朝光が景時に謀反の疑いをかけられたことをきっかけに66名もの御家人たちが連名で景時を弾劾する連判状を作成しました。そしてそれを将軍・頼家に提出したのです。

追い詰められた景時は鎌倉を追われ一族を率いて上洛しようとします。しかしその途中の駿河国で在地の武士たちに襲撃され一族もろとも滅ぼされてしまいました。これが「梶原景時の変」です。

この事件は北条氏が直接手を下したわけではありません。しかし他の御家人たちの反感を利用して有力なライバルの一人であった景時を巧みに排除したという側面がありました。

3.4. 有力御家人の粛清②:比企能員の変(1203年)

次に北条氏がその牙を剥いたのは将軍・頼家のもう一つの外戚であった**比企能員(ひきよしかず)**でした。

頼家は北条政子との関係が必ずしも良好ではありませんでした。しかし比企能員の娘(若狭局)を妻として深く寵愛しその間に生まれた一幡(いちまん)を自らの後継者と考えていました。比企氏は頼家の乳母の一族でもあり頼家の最も信頼する側近としてその権勢を急速に強めていました。

これは自らの一族こそが将軍家の外戚として幕府を主導すべきであると考える北条時政にとって看過できない事態でした。

1203年頼家が重い病に倒れ危篤状態に陥ります。この機を千載一遇の好機と捉えた時政は驚くべき行動に出ます。彼は「頼家の跡は頼家の長男・一幡と弟の千幡(後の実朝)とで日本を分割して相続させるべきだ」という前代未聞の提案をします。

これに激怒したのが一幡を唯一の後継者と考える比企能員でした。彼は時政を討つ計画を密かに立てます。しかしこの計画は病床の頼家が妻(若狭局)に漏らしたことからその母である北条政子の耳に入ってしまいました。

情報を得た時政は先手を打ちます。彼は比企能員を「仏事の相談がある」と偽って自らの邸宅に呼び出しました。そしてその場で待ち構えていた兵にだまし討ちで殺害してしまいました。さらに直ちに軍勢を差し向けて比企氏の一族をことごとく滅ぼしてしまったのです。これが「比企能員の変」です。

3.5. 頼家の追放と実朝の擁立

比企氏を滅ぼした北条時政はその勢いを駆って病から回復した将軍・頼家の将軍職を強引に剥奪。頼家は伊豆の修禅寺に幽閉され翌年時政が送った刺客によって暗殺されてしまいました。

そして時政は頼家の弟でまだ12歳であった千幡を新たな三代将軍として鎌倉に迎え入れます。この千幡こそ後の**源実朝(みなもとのさねとも)**です。

この一連の血塗られた政変を通じて将軍家の外戚として北条氏に対抗しうる有力御家人は全て排除されました。また将軍は完全に北条氏の意のままに廃立される「傀儡(あやつり人形)」となったのです。

そして北条時政は1203年この幼い将軍・実朝を補佐するという名目で幕府の最高職である「執権(しっけん)」の地位に就任します。ここに鎌倉幕府の政治は将軍政治から執権政治へとその姿を決定的に変えたのです。頼朝の死からわずか4年。鎌倉はもはや源氏の政権ではなく北条氏の政権へとその実態を大きく変貌させていたのでした。


4. 北条氏の台頭と執権政治の始まり

源頼朝の死後鎌倉幕府は有力御家人たちによる血で血を洗う権力闘争の時代に突入しました。そしてこの熾烈なサバイバルゲームの最終的な勝者となったのが頼朝の妻・北条政子の実家であり伊豆の在地豪族に過ぎなかった北条氏でした。彼らは将軍家の外戚という極めて有利な立場を最大限に利用します。巧みな政略と時には非情な手段を駆使してライバルとなる有力御家人を次々と排除しました。そしてついに幕府の最高権力者として「執権(しっけん)」の地位を確立し将軍に代わって政治の実権を握る「執権政治」の時代を創り上げたのです。本章では一地方豪族に過ぎなかった北条氏がいかにして鎌倉幕府の事実上の支配者へと上り詰めていったのかその過程を追います。

4.1. 北条氏の出自:伊豆の小豪族から将軍の外戚へ

北条氏はその祖先を桓武平氏の流れをくむと自称していました。しかし頼朝の時代には伊豆国(静岡県)の数ある在地豪族(武士団)の一つに過ぎず全国的には全く無名の存在でした。

彼らが歴史の表舞台に登場する大きなきっかけとなったのが1160年に流人となった源頼朝の監視役を朝廷から命じられたことでした。当時の北条氏の当主であった**北条時政(ほうじょうときまさ)は頼朝を監視する一方でその非凡な器量を見抜きます。やがて自らの娘である政子(まさこ)**との結婚を最終的に認めました。

そして1180年頼朝が平氏打倒の兵を挙げると時政は一族を率いてその挙兵を全面的に支援しました。この頼朝の最も困難な時期に味方となったという事実が北条氏のその後の運命を決定づけることになります。

鎌倉幕府が成立すると北条氏は将軍・頼朝の舅の一族すなわち「外戚(がいせき)」として特別な地位を与えられました。他の御家人とは一線を画す存在となったのです。これはかつて平安時代に藤原氏が天皇の外戚として摂政・関白の地位を独占した権力掌握のモデルを武家社会で再現するものでした。時政自身は頼朝の存命中幕府の要職に就くことはありませんでした。しかし彼は静かにしかし着実に自らの一族の勢力を幕府内部に浸透させていったのです。

4.2. 初代執権・北条時政:権力掌握と失脚

頼朝の死後十三人の合議制が始まるとその中心人物となった北条時政はいよいよその権力への野心を露わにしていきます。

前章で見たように彼はまず梶原景時や比企能員といった有力なライバルを次々と滅ぼしました。そして将軍・頼家を追放します。1203年には自らの外孫である幼い源実朝を三代将軍として擁立しました。すると自らはその後見人として「執権」の地位に就任します。

「執権」という役職は元々は幕府の行政機関である「政所」の長官(別当)を補佐する次官(令)を指す唐風の呼称でした。しかし時政はこの地位を将軍に代わって幕府の最高意思決定を行う事実上の最高権力者のポストへとその意味を完全に変えてしまったのです。ここに「執権政治」がその幕を開けました。

しかし初代執権となった時政の権力は盤石ではありませんでした。彼の後妻であった牧の方が時政をそそのかし自らの娘婿である平賀朝雅を将軍に立てようと陰謀を企てます。そしてこの陰謀の障害となる将軍・実朝を暗殺しようとまでしたのです。

この時政と牧の方の動きに断固として立ちふさがったのが時政自身の実の子供たちでした。姉の北条政子と弟の**北条義時(ほうじょうよしとき)**です。彼らは亡き父・頼朝が築いた源氏将軍による幕府の体制を守ることを最優先に考えました。

1205年政子と義時は有力御家人たちを味方につけ父・時政を鎌倉から追放します。執権の地位を剥奪してしまいました。(牧氏の変)時政は伊豆へと隠退させられ二度と政治の表舞台に戻ることはありませんでした。

初代執権・時政は非情な権力闘争の末に幕府の実権を握りました。しかし最後は自らの子供たちによってその座を追われるという皮肉な結末を迎えたのです。

4.3. 二代執権・北条義時と和田合戦

父・時政を追放した後二代執権の地位に就いたのが北条義時でした。彼は姉である政子(「尼将軍」と呼ばれ絶大な権威を持っていた)と巧みに連携します。そして北条氏による執権政治の体制をさらに強固なものにしていきました。

義時の時代北条氏の最後のそして最大のライバルとして立ちはだかったのが和田義盛でした。彼は侍所の別当(長官)であり幕府創設以来の最有力御家人でした。

1213年些細な事件をきっかけに和田義盛は北条義時に対して強い不満を抱きます。ついに一族を率いて反乱の兵を挙げました。これが「和田合戦」です。

和田一族は源平合戦以来の勇猛な武士団でありその戦いは鎌倉の市街地を舞台とした激しいものとなりました。しかし義時は他の多くの御家人たちを味方につけることに成功。数で勝る幕府軍の前に和田一族は奮戦むなしく滅ぼされてしまいました。

この和田合戦の勝利によって幕府創設以来の有力御家人はほぼ全て排除されました。また北条義時は侍所の別当の地位をも兼任することになります。幕府の行政権(政所)と軍事権(侍所)の両方をその手中に収めたのです。

これにより北条義時の権力は絶対的なものとなり執権政治の基盤は完全に確立されたのです。

4.4. 尼将軍・北条政子の役割

この北条氏による権力掌握の過程で極めて重要な役割を果たしたのが頼朝の未亡人であり義時の姉である北条政子の存在です。

彼女は頼朝の死後出家して尼となっていました。しかしその政治的な影響力は全く衰えませんでした。彼女は頼朝の妻として多くの御家人たちから母のようにあるいは頼朝の代弁者として深く尊敬されていました。

十三人の合議制の成立や父・時政の追放そして後の承久の乱において彼女が御家人たちの精神的な支柱として果たした役割は計り知れません。彼女は将軍が次々と暗殺されたり追放されたりする中で幕府の求心力を維持しました。そして北条氏の支配の正当性を裏打ちするまさに「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ぶにふさわしい存在でした。

執権政治は執権という男性の権力者だけでなくこの尼将軍・政子という女性のカリスマ的な権威によっても支えられていたのです。


5. 承久の乱と朝廷・幕府関係の変化

北条義時が二代執権として幕府の権力を完全に掌握する一方京都の朝廷では鎌倉幕府の存在そのものを快く思わない一人の上皇がいました。彼は虎視眈々と討幕の機会を窺っていました。その人物こそ稀代の策謀家とも多芸多才の文化人とも評される後鳥羽(ごとば)上皇です。1219年に三代将軍・源実朝が暗殺され源氏の正統な血筋が断絶したことを絶好の好機と捉えました。上皇はついに全国の武士に対して執権・北条義時を討伐せよとの命令を下します。1221年に勃発したこの動乱が「承久の乱(じょうきゅうのらん)」です。これは朝廷と幕府の史上初そして唯一の本格的な武力衝突でした。この乱の結末はそれまでの朝廷と幕府の力関係を根底からそして決定的に覆す日本の歴史における重大な分水嶺となりました。

5.1. 討幕の首謀者:後鳥羽上皇の野心

後鳥羽上皇は和歌や蹴鞠刀剣の製作などあらゆる分野に優れた才能を発揮した魅力的な人物でした。しかしその一方で彼は自らが天皇家の長として再び政治の実権を取り戻すことに強い意欲を燃やしていました。

彼にとって鎌倉幕府は許しがたい存在でした。朝廷の権威を地に貶め武士という身分の低い者たちが国政を壟断していると考えていました。彼は院政を通じて自らの権力基盤を強化しようと様々な手を打ちます。

まず**西面の武士(さいめんのぶし)**を設置しました。後白河法皇が北面の武士を置いたのに倣い自らの御所を警備する直属の武士団として組織しました。これには幕府に不満を持つ西国の御家人たちが多く集められました。また荘園の整理も行いました。上皇は自らの荘園を増やすため幕府の御家人が地頭として管理する荘園を没収しようとするなど幕府の経済的基盤を脅かす動きを見せました。

そして1219年1月鎌倉の鶴岡八幡宮で衝撃的な事件が起こります。三代将軍・源実朝が甥の公暁(二代将軍・頼家の子)によって暗殺されてしまったのです。これにより頼朝以来の源氏の正統な将軍の血筋は完全に断絶しました。

この幕府の指導者不在という最大の危機を後鳥羽上皇は討幕のための天与の好機と捉えました。彼は幕府が新たな将軍として皇族を迎えることを拒否。朝廷と幕府の関係は決定的に悪化します。

5.2. 乱の勃発(1221年):上皇の挙兵と幕府の動揺

1221年5月後鳥羽上皇はついに討幕の兵を挙げます。彼は近畿地方の武士たちを中心に約2000の兵を集めました。そして京都の守護であった伊賀光季を討ち取ります。

さらに上皇は全国の武士特に鎌倉の御家人たちに対して院宣を発しました。それは「執権・北条義時を朝敵として追討せよ」という内容でした。

これは御家人たちにとって究極の踏み絵でした。鎌倉殿(幕府)への忠誠(奉公)を取るか。それとも天皇・上皇への伝統的な権威に従うか。

この上皇挙兵の報が鎌倉にもたらされると幕府の御家人たちはかつてないほどの動揺と混乱に陥りました。「上皇様が我々を朝敵とお考えならばもはや戦う術はない」と多くの御家人たちが戦う前から諦めムードに支配されていました。

5.3. 尼将軍・北条政子の演説

この幕府存亡の危機に断固として立ち上がったのが頼朝の妻北条政子でした。彼女は動揺する御家人たちを一堂に集め涙ながらに歴史に残る大演説を行います。

「皆心を一つにしてこれを聴きなさい。これが私の最後の言葉です。故右大将軍(頼朝公)が朝敵(平氏)を征伐し関東を草創して以来官位といい俸禄といいその御恩は既に山よりも高く海よりも深いものです。その恩に報いる志は決して浅いはずがありません。しかるに今逆臣(後鳥羽上皇の側近)の讒言によって非義の綸旨が下されました。名を惜む者は早く藤原秀康・三浦胤義(上皇方についた御家人)らを討ち取り三代将軍(実朝)の遺功を全うしなさい。ただし院中に参内したいと思う者はただ今この場で申し出なさい。」

(『吾妻鏡』より現代語訳)

この演説は御家人たちの心を激しく揺さぶりました。政子は巧みに論点をすり替えたのです。この戦いを「上皇 vs 幕府」という構図から「頼朝公から受けた大いなる御恩に今こそ報いる時である」という御家人たちの最も琴線に触れる人格的な問題へと転換させました。また「悪いのは上皇様ではない。上皇様をそそのかしている周りの悪しき側近たちなのだ」と主張することで御家人たちが朝廷に弓を引くことへの心理的なためらいを取り除きました。

政子のこの魂の演説によって鎌倉の御家人たちは一致団結。幕府のために戦うことを決意したのです。

5.4. 幕府軍の圧勝と乱の結末

幕府の対応は迅速かつ圧倒的でした。北条義時の子である**泰時(やすとき)**と弟の時房(ときふさ)を総大将とする実に19万騎もの大軍が京都へと進撃します。東海道・東山道・北陸道の三方から攻め上りました。

戦力も士気もそして実戦経験も全く比較にならない朝廷軍は各地でなすすべもなく敗走。幕府軍は挙兵からわずか1ヶ月で京都を完全に制圧してしまいました。

承久の乱は幕府の圧勝に終わりました。

5.5. 乱がもたらした歴史的な大変革

この承久の乱の戦後処理はそれまでの日本の歴史を根底から覆す革命的なものでした。

まず幕府は乱の首謀者であった後鳥羽上皇を隠岐へ順徳上皇を佐渡へそれぞれ配流(島流し)にしました。また土御門上皇も自ら望んで土佐へと移ります。さらに仲恭天皇は廃位させられました。上皇の側近であった貴族や味方した武士たちは処刑または所領を没収されました。武士の力で天皇・上皇が処罰されるという前代未聞の事態は朝廷の権威を地に貶めました。

次に幕府はこれ以降皇位の継承や朝廷の重要な人事にも深く介入するようになります。天皇・上皇の権力は大きく制限され院政は事実上その実権を失いました。

経済的にも大きな変化がありました。幕府は上皇や貴族たちから約3000箇所もの膨大な荘園を没収しました。そしてこれらの土地に新たに幕府の御家人を地頭として任命します。これによりそれまで幕府の支配が手薄であった西国においても幕府の経済的・軍事的な支配権が確立されました。

そして最も重要な戦後処理が京都の六波羅に幕府の出先機関である「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置したことでした。

承久の乱の勝利によって鎌倉幕府はもはや単なる関東の武家政権ではありません。朝廷の権威をもその支配下に置く日本で唯一の全国的な統治権力としての地位を確立したのです。ここに公家(朝廷)の時代は名実ともに終わりを告げ武家の時代が本格的に始まったのでした。


6. 六波羅探題の設置

承久の乱における鎌倉幕府の圧倒的な勝利。それは単に一つの軍事的な勝利にとどまりませんでした。勝利者となった幕府はその戦後処理において朝廷の権威を恒久的に無力化し西国の支配を確固たるものにするための全く新しい統治システムを京都に打ち立てます。それが「六波羅探題(ろくはらたんだい)」の設置でした。この京都に置かれた幕府の「出先機関」はさながら占領地に置かれた総督府のように絶大な権限を握っていました。朝廷の監視西国武士の統率そして裁判権の行使です。本章ではこの六波羅探題がどのような経緯で設置されどのような機能を持ちそして鎌倉幕府の全国支配においていかなる重要な役割を果たしたのかを解き明かします。

6.1. 六波羅の地:平氏から源氏へ

「六波羅」という地名は現在の京都市東山区鴨川の東岸一帯を指す歴史的な地名です。この地が日本の政治史において重要な意味を持つようになったのは平氏政権の時代でした。

平清盛はこの六波羅の地に自らの一門の広大な邸宅群を構えました。ここを平氏の政治的・軍事的な本拠地としたのです。平治の乱の際には後白河上皇と二条天皇をここに迎え入れ平氏の権威の源泉としました。つまり六波羅はもともと「武士が京都を支配するための拠点」としてその歴史をスタートさせたのです。

源平合戦の後この六波羅の地は源氏に接収されます。源頼朝はここに「京都守護」という役職を置き在京する御家人を統率させました。そして京都の治安維持と朝廷の警備を担当させました。

承久の乱の直前には伊賀光季がこの京都守護の任にありましたが彼は後鳥羽上皇の討幕軍の最初の攻撃目標とされ討ち死にしてしまいます。

6.2. 探題の設置:承久の乱の戦後処理として

承久の乱に勝利し京都を占領した幕府軍はこの六波羅の地を新たな西国支配の拠点とすることを決定します。

乱の直後北条義時は自らの子である泰時と弟の時房を軍勢と共に京都に留め置きました。彼らの当初の任務は乱の戦後処理でした。すなわち後鳥羽上皇をはじめとする反乱者の処罰や没収した貴族の所領の管理そして京都の治安回復でした。

しかし幕府はこの臨時的な占領統治の仕組みをやがて恒久的な制度へと発展させていきます。こうして1221年正式に設置されたのが「六波羅探題」です。

「探題」とは本来中国の官職名に由来する言葉です。「重要事項を審議し決定する者」といった意味合いを持ちます。幕府はこの重々しい名称を新たに設置する京都の最高機関に与えたのです。

六波羅探題はそれまでの京都守護の機能を大幅に格上げ・拡充したものでした。その長官には北条氏の一族から有力者が任命されるのが慣例となりました。

6.3. 六波羅探題の絶大な権限

六波羅探題は単なる幕府の連絡事務所ではありませんでした。それは「西の小幕府」とも呼ばれるほどの絶大なそして多岐にわたる権限を持っていました。その機能は主に三つに大別されます。

6.3.1. 朝廷の監視(Censorship of the Imperial Court)

これが六波羅探題の最も重要な任務でした。探題は天皇や上皇の日常の動向を厳しく監視しました。朝廷内に再び討幕の動きが起こらないように常に目を光らせていたのです。そして天皇の譲位や新たな天皇の即位といった皇位継承の最重要問題においても幕府の意向を朝廷に伝えその決定に深く関与しました。また朝廷の公卿たちが幕府に不利益な行動をとらないように監視し時にはその行動を直接制圧することもあったのです。

このように六波羅探題は鎌倉幕府が京都の朝廷をその恒久的な政治的・軍事的な監視下に置くためのまさに「」であり「」であったのです。

6.3.2. 西国御家人の統率(Command of the Western Gokenin)

六波羅探題は鎌倉に代わって西国(近畿、中国、四国、九州)の御家人たちを統率する軍事司令部としての機能も持っていました。西国で反乱や紛争が発生した際には探題が現地最高司令官として御家人たちを動員しその鎮圧にあたりました。また西国の御家人たちが務める京都大番役の指揮・監督も探題の重要な職務でした。

これにより幕府は遠く離れた鎌倉から直接指示を出すことなく西国における軍事的な即応体制を確立することができたのです。

6.3.3. 西国の裁判権(Judicial Authority in the West)

六波羅探題のもう一つの重要な機能が司法権すなわち裁判を行う権限でした。それまで西国の御家人たちは所領をめぐる訴訟が発生した場合わざわざ鎌倉まで出向いて幕府の問注所に訴え出る必要がありました。しかし六波羅探題が設置されると西国で発生した御家人同士の所領紛争やその他の訴訟については六波羅探題がその第一審を担当することになりました。また地頭として荘園に派遣された御家人とその土地の荘園領主(貴族・寺社)との間で年貢の徴収などをめぐる紛争が頻発しました。このような武士と公家の間の訴訟についても六波羅探題がその裁判と調停を行ったのです。

この裁判機能によって六波羅探題は西国の人々の生活に直接関わる最も身近な幕府の権力機関としてその支配を浸透させていったのです。

6.4. 六波羅探題の歴史的意義

六波羅探題の設置は鎌倉幕府の全国支配の完成を象徴する出来事でした。

この後日本の支配体制は関東(鎌倉)の幕府が東国を直接統治し京都の六波羅探題が西国を統治するという二元的な支配構造が確立しました。そしてその両者を執権を中心とする北条氏が統括するという巧みなシステムでした。

また六波羅探題という「監視役」が常に京都に睨みを利かせている状況では朝廷が再び幕府に牙を剥くことはもはや不可能でした。承久の乱の敗北と六波羅探題の設置によって天皇と朝廷の政治的な権威は事実上失われました。日本の政治の中心は名実ともに鎌倉へと移ったのです。

この六波羅探題はその後約110年間にわたって幕府の西国支配の拠点として機能し続けます。そしてその最期は鎌倉幕府の最期と運命を共にすることになります。1333年後醍醐天皇の討幕運動の中で足利高氏(尊氏)や赤松円心といった寝返った御家人たちの大軍に攻め滅ぼされその歴史の幕を閉じるのです。


7. 御成敗式目の制定

承久の乱の勝利によって全国支配を確立した鎌倉幕府。しかしその統治は依然として源頼朝以来の先例や個別の決定に大きく依存しており武士社会全体に適用される統一的で成文化された法典は存在しませんでした。所領をめぐる御家人たちの訴訟は増加の一途をたどり公平で予測可能な裁判の基準が強く求められていました。この武士社会の内なる要請に応えたのが三代執権・**北条泰時(ほうじょうやすとき)**でした。彼は1232年(貞永元年)日本の歴史上初となる武家独自の法典「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」(貞永式目とも呼ばれる)を制定します。これは貴族の法(公家法)や荘園の法(本所法)とは全く異なる武士社会の実情と慣習に根差した画期的な法律でした。本章ではこの御成敗式目がなぜ制定されどのような理念と内容を持ちそしてその後の日本の法制史にいかなる巨大な影響を与えたのかを探ります。

7.1. 制定の背景:武士社会の要請

御成敗式目が制定された13世紀前半は承久の乱を経て幕府の支配が安定期に入った時代でした。しかしその安定は新たな社会問題をも生み出していました。

幕府の支配が全国に及んだことで地頭として各地に派遣された御家人と現地の荘園領主や他の武士との間で紛争が爆発的に増加しました。土地の境界や年貢の分配をめぐる争いです。これらの訴訟を公平に裁くことが幕府の最も重要な統治課題となっていました。

また当時の日本には二つの異なる法体系が並存していました。一つは天皇の下で公家社会を規律する律令などの「公家法(くげほう)」。もう一つは武士たちの間で長年培われてきた慣習や道徳律である「武家の道理(ぶけのどうり)」です。しかし律令は中国の古い法を手本としたものであり難解な漢文で書かれていました。土地の私有が常識となった武士社会の実情には全く合わない部分も多くありました。裁判の基準が曖昧であったため御家人たちは常に不安を抱えていたのです。

この状況を深く憂慮したのが執権・北条泰時でした。彼は承久の乱で六波羅探題として京都の統治を経験し公家法の知識も深く学んでいました。しかし同時に武士たちの素朴な正義感や慣習を何よりも重んじる優れた為政者でした。彼は武士が武士自身の言葉で理解でき納得できる明確な裁判の基準を成文法として示すことが幕府の永続的な安定に不可欠であると考えたのです。

7.2. 制定者・北条泰時の理念

御成敗式目の制定にあたり北条泰時がその弟である重時(しげとき)に宛てて書いた手紙(書状)が現存しています。そこには泰時の為政者としての真摯な理念が記されています。

「(この式目は)京都の律令の学者たちが見ればきっと『文字も知らぬ田舎者どもが』と笑うだろう。しかし彼らがいくら笑おうとも我々武士にとってはこれが最も重要なのだ。… 裁判というものはただ片方の言い分を聞いて決めてはならない。双方の言い分をよく聞き道理を尽くして公平に裁かなければならない。」

この手紙から泰時の二つの強い意志を読み取ることができます。

一つは武士のための実用的な法を作ることです。彼は公家たちが重んじる学問的な法の権威や体裁よりも実際に武士社会で通用する分かりやすく実用的な法律を作ることを目指しました。もう一つは公平性の徹底です。彼は裁判において最も重要なのは身分や権力に左右されない「道理」すなわち公平性と正義であると考えていました。この公平な裁判を保証することこそが御家人たちの幕府への信頼を勝ち取る唯一の道であると確信していたのです。

泰時は幕府の法務官僚であった三善康信らと共に頼朝以来の判例や武士の慣習を丹念に収集・整理しました。そして約4年の歳月をかけてこの新しい法典を完成させました。

7.3. 御成敗式目の主な内容と特徴

1232年8月に制定された御成敗式目は全51箇条から構成されています。その内容は武士社会の根幹に関わる極めて実践的な規定が中心でした。

その構成は以下の通りです。

  • 第1条・第2条:神社・仏寺の保護
  • 第3条~第31条:御家人・所領に関する規定
  • 第32条~第41条:財産・相続に関する規定
  • 第42条~第51条:訴訟・刑罰に関する規定

主な規定とその特徴としては所領支配権の保護が挙げられます。頼朝の時代から20年以上平穏に支配してきた土地はたとえ文書による証拠がなくてもその支配権を認めるという規定(年紀法)がありました。これは武士社会の実情を追認するものです。また女性の財産権の保護も大きな特徴です。女子にも所領の相続権(一期分)を認めるなどヨーロッパの中世に比べて女性の権利が比較的強く保護されていました。これは武士の家が存続するためには女子の婚姻関係が重要であったという現実を反映しています。

式目の条文の多くは「右この条道理の至極なり」といった言葉で締めくくられています。これはこの法律が単なる権力者からの命令ではなく武士社会の誰もが納得できる普遍的な正義(道理)に基づいているのだということを強調するものです。

式目はあくまで幕府の支配が及ぶ御家人同士の紛争や武士に関わる事柄にのみ適用されることを原則としていました。京都の朝廷や公家社会では引き続き律令などの公家法が荘園の内部ではその荘園の本所法が適用されるという法体系の多元的な並存状態が続きました。

7.4. 御成敗式目の歴史的意義

御成敗式目の制定は鎌倉幕府の統治の安定に貢献しただけでなくその後の日本の法制史に計り知れない影響を与えました。

まず幕府が朝廷の律令とは全く異なる独自の法体系を創出したことは幕府がもはや朝廷の一機関ではなくそれ自体が独自の法治理念を持つ自立した国家権力であることを内外に明確に示しました。次に成文化された法律ができたことで御家人たちは自らの権利が何であるかを予測できるようになりまた裁判の公平性に対する信頼も高まりました。これにより幕府の支配の正当性は大きく強化されました。

御成敗式目はその簡潔で実践的な内容から武士たちの間で広く受け入れられました。室町幕府の基本法典としても引き継がれ江戸時代に至るまで約600年間にわたって武家社会の憲法ともいえる基本的な役割を果たし続けたのです。

北条泰時が制定したこのわずか51箇条の法律は頼朝が武力で創始した鎌倉幕府という政権に法という永続的な魂を吹き込む画期的な事業だったのです。


8. 得宗専制政治への移行

北条泰時・時房兄弟によって確立された執権政治は当初有力御家人たちが参加する評定衆による合議制を基本としていました。公平な裁判(御成敗式目)を重んじる比較的安定した統治体制でした。しかし13世紀半ば以降この集団指導体制は徐々にその姿を変えていきます。権力は執権という「公的な役職」から北条氏の嫡流の当主すなわち「得宗(とくそう)」という「私的な家督」へと集中し始めます。そして得宗が自らの私的な家臣(御内人)や側近たちだけで幕府の重要事項を決定する「得宗専制政治」の時代へと移行していくのです。本章ではこの鎌倉幕府の後期に見られる政治体制の変質がどのようにして起こりそれが幕府の支配のあり方と御家人たちの意識にどのような深刻な変化をもたらしたのかを探ります。

8.1. 「得宗」とは何か:北条氏嫡流の家督

「得宗」という少し聞き慣れない言葉。これは鎌倉幕府の後期の政治を理解する上で最も重要なキーワードです。

その語源は二代執権・北条義時の法名(出家後の名前)である「徳崇(とくそう)」に由来します。この言葉はやがて義時の血筋を受け継ぐ北条氏の嫡流(本家)の当主が代々受け継ぐ特別な称号となりました。

つまり「執権」が幕府の公式な役職名であるのに対し「得宗」はあくまで北条氏という一族の私的な家督を指す言葉でした。

しかし鎌倉時代が進むにつれて幕府の実質的な最高権力は執権という公的な役職からこの得宗という私的な家督へと徐々に移っていくのです。

8.2. 権力集中のプロセス

なぜこのような権力の私物化ともいえる現象が起こったのでしょうか。そのプロセスは五代執権・**北条時頼(ほうじょうときより)**の時代から本格的に始まります。

8.2.1. 有力御家人のさらなる淘汰

時頼は1246年将軍・藤原頼経を中心とする反北条氏勢力のクーデター計画を未然に防ぎます(宮騒動)。さらに翌1247年には幕府創設以来の有力御家人であった三浦泰村の一族を謀反の疑いで攻撃し滅ぼしてしまいました(宝治合戦)。

この宝治合戦によって北条氏に対抗しうる有力御家人は完全に一掃されました。これにより北条氏特にその中の得宗家の権力は幕府内で絶対的なものとなりました。

8.2.2. 評定衆の形骸化と引付衆の設置

北条泰時が設置した「評定衆」はもともと有力御家人たちが幕府の最高意思決定に参加するための重要な合議機関でした。

しかし北条時頼は増加する所領裁判を迅速に処理するという名目で評定衆の下に「引付衆」という新たな裁判専門の機関を設置します。引付衆は訴訟を審理するいくつかのグループ(番)に分かれておりそのトップである「引付頭人」には北条氏の一族が任命されました。

これにより裁判の実質的な審理権は評定衆から引付衆へと移りました。有力御家人たちが国政に関与する機会は大きく減少し評定衆は次第に儀礼的な存在へと形骸化していきます。

8.2.3. 御内人(みうちびと)と寄合(よりあい)

そして権力の得宗への集中を決定づけたのが「御内人」の台頭と「寄合」の重要性の増大でした。

御内人とは得宗家に直接仕える私的な家臣のことです。彼らは幕府の公式な御家人ではありませんでした。しかし得宗の側近としてその身の回りの世話から機密文書の管理そして警察・軍事活動まであらゆる実務を担いました。代表的な御内人に内管領と呼ばれた長崎氏や侍所の所司を務めた安達氏諏訪氏などがいます。

得宗は幕府の重要事項をもはや評定衆という公式な会議の場で議論することはなくなりました。代わりに自らの邸宅で御内人や一部の信頼できる北条氏の一族だけを集めて私的な会議(寄合)を開きそこで全ての方針を決定するようになったのです。

この寄合での決定がそのまま幕府の公式な決定となり評定衆はそれをただ追認するだけの機関となってしまいました。

8.3. 得宗専制政治の確立

このようにして13世紀後半八代執権・北条時宗(ほうじょうときむね)の時代までには二つの大きな変化がありました。まず幕府の最高権力は執権という公職から得宗という私的な家督に完全に移行しました。次に幕府の意思決定は得宗とその私的な家臣である御内人による私的な会議(寄合)で全て決定されるようになりました

この政治体制を「得宗専制政治」と呼びます。

この体制は強力なリーダーシップを発揮できるという利点もありました。事実北条時宗はこの得宗専制政治の強力な権力基盤があったからこそ元寇という未曾有の国難に迅速かつ断固として対応することができたのです。

8.4. 体制の矛盾と御家人の不満

しかしこの得宗専制政治は同時に鎌倉幕府の根幹を揺るがす深刻な矛盾を内包していました。

まず一般御家人が政治から疎外されました。幕府はもともと将軍と全ての御家人たちが「御恩と奉公」で結ばれた主従関係の共同体でした。しかし得宗専制政治の下では一部の得宗家の側近(御内人)だけが権力を独占します。大多数の一般御家人たちは政治の意思決定プロセスから完全に排除されてしまいました。彼らはもはや幕府の主体的な構成員ではなくただ得宗家に支配されるだけの客体へと転落してしまったのです。

また御内人と御家人の対立も深刻化しました。得宗の寵愛を受ける御内人たちは時に伝統的な家柄を持つ御家人たちよりも大きな権勢を振るうようになりました。これにより譜代の御家人たちと成り上がりの御内人たちとの間で深刻な対立と反目が生まれることになります。1285年に起こった有力御家人・安達泰盛と内管領・平頼綱との武力衝突(霜月騒動)はその対立が爆発した典型的な事件でした。

このように得宗専制政治は鎌倉幕府を創り上げた御家人たちの一体感を失わせました。そして彼らの幕府に対する忠誠心を著しく低下させる結果を招いたのです。御家人たちの心は徐々に北条氏から離れていきました。

そしてこの募り積もった不満の火薬庫に元寇の戦後処理の失敗という火の粉が降りかかった時鎌倉幕府という巨大な建造物はその土台から崩れ落ちていくことになるのです。


9. 元寇(文永・弘安の役)

13世紀後半執権・北条時宗が率いる鎌倉幕府は日本の歴史上類例のないそして国家の存亡を揺るがす巨大な対外的危機に直面します。当時アジア大陸からヨーロッパにまでその版図を広げた史上最大の帝国モンゴル帝国(元)が日本に対して服属を要求し二度にわたって大軍を送り込んできたのです。この未曾有の国難を「元寇(げんこう)」あるいはそれぞれの襲来時の元号にちなんで「文永の役」「弘安の役」と呼びます。本章ではこの日本と世界帝国モンゴルとの二度にわたる壮絶な戦いの経緯とその勝敗を分けた要因を探ります。

9.1. モンゴル帝国の拡大と服属要求

13世紀初頭チンギス・カンによって統一されたモンゴル民族は強力な騎馬軍団を武器にユーラシア大陸を席巻。瞬く間に巨大な世界帝国を築き上げました。

その第5代皇帝(大ハーン)となったフビライ・ハンは1271年国号を「」と改め都を大都(現在の北京)に定めます。そして残る南宋を滅ぼすための足がかりとして朝鮮半島の高麗を完全に服属させました。

フビライの次なる目標は黄金の国「ジパング」すなわち日本でした。1268年フビライは高麗を通じて最初の国書を日本の大宰府に送ってきます。その内容は「元に臣下として服属し朝貢せよ。さもなくば武力を用いるであろう」という高圧的な最後通牒でした。

この国書を受け取った京都の朝廷は衝撃を受け返事を出すべきか迷い混乱します。しかし鎌倉幕府の若き八代執権・北条時宗の決断は迅速かつ断固たるものでした。彼は元の要求を黙殺し戦うことを決意します。そして元の使者は空しく追い返されました。

時宗は直ちに西国の御家人たちに九州北部の防備を固めるよう命令。博多湾沿岸の防衛体制の強化を急がせました。フビライはその後も数回にわたり使者を送ってきますが時宗はその都度これを断固として拒否。ついにフビライは日本への武力侵攻を決定します。

9.2. 文永の役(1274年):新戦術への衝撃

1274年10月元・高麗の連合軍約3万の大軍が900隻の軍船に分乗し朝鮮半島を出発。対馬・壱岐を次々と攻略・蹂躙した後博多湾にその姿を現しました。これが一度目の襲来「文永の役」です。

上陸した元軍と迎え撃つ日本の武士(御家人)たちとの間で激しい戦闘が繰り広げられました。日本の武士たちはこれまでの国内の戦いとは全く異なる元軍の新しい戦い方に大きな衝撃を受け苦戦を強いられます。

元軍は集団戦法を展開しました。日本の武士の戦いは「やあやあ我こそは」と名乗りを上げ一対一で雌雄を決する「一騎討ち」が基本でした。しかし元軍は銅鑼や太鼓の合図で一糸乱れぬ集団戦法を駆使しました。日本の武士が名乗りを上げている間に集団で取り囲み矢を射かけてきたのです。また元軍は新しい武器(てつはう)も使用しました。火薬を鉄の球に詰めた「てつはう(鉄砲)」と呼ばれる爆弾のような武器です。これが炸裂すると轟音と閃光を発し日本の武士たちの馬は驚いて暴れ回り大きな混乱が生じました。さらに元軍が用いる矢には毒が塗られておりかすり傷でも致命傷となることがありました。

日本の武士たちは元軍の圧倒的な火力と集団戦法の前に大きな損害を出しながらも必死に海岸線で敵の内陸への侵攻を食い止めました。

しかしその日の戦闘を終えた元軍は夜になると陸上での夜襲を警戒してか自らの船団へと引き上げていきました。そしてその夜博多湾は猛烈な暴風雨に見舞われます。元軍の軍船はその多くが沈没または大破し残った船も大きな損害を受けました。元軍はやむなく朝鮮半島へと撤退していきました。

こうして文永の役は謎の多い突然の終結を迎えたのです。

9.3. 弘安の役(1281年):防塁と「神風」

文永の役での辛勝に安堵することなく執権・北条時宗は元が必ずや再来すると予測。全国の御家人を動員して沿岸の防衛体制をさらに徹底的に強化します。

まず石塁(元寇防塁)を構築しました。博多湾の沿岸約20kmにわたって高さ2~3メートルの石の防塁を築かせました。これは元軍の騎馬軍団が容易に上陸するのを防ぐための長大な防御壁でした。また防衛体制も再編しました。九州だけでなく中国・四国の御家人たちにも交代で九州北部の警備を命じるなど全国的な防衛体制を敷きました。

そして1281年5月時宗の予測通り元は前回を遥かに上回る大軍を再び日本へと差し向けます。これが二度目の襲来「弘安の役」です。

元軍は二手に分かれていました。朝鮮半島から出発した東路軍は約4万。中国南部から出発した江南軍は約10万の巨大な軍でした。

先に博多湾に到着した東路軍は日本の武士たちが築いた石塁の前に上陸を阻まれ苦戦します。江南軍との合流を待つ元軍は志賀島などで激しい攻防戦を繰り広げました(志賀島の戦い)。日本の武士たちは小さな船を巧みに操り元軍の大型船に夜襲をかけるなどゲリラ的な戦法で果敢に戦いました。

そして7月ついに江南軍の大船団が九州北方の鷹島沖に到着。東路軍と合流し総攻撃の準備を整えようとしていました。まさに日本が絶体絶命の危機に瀕したその時でした。7月30日の夜から翌日にかけてかつてないほどの巨大な台風が九州北部を直撃したのです。元の巨大な船団はこの暴風雨によってそのほとんどが海底に沈むか互いに衝突して大破。兵士の多くが海に溺れ元軍は壊滅的な打撃を受けました。

この二度にわたる元の襲来を退けた奇跡的な暴風雨を人々は神々が日本を守るために吹かせた「神風」であると信じ感謝しました。

9.4. 勝利の代償

鎌倉幕府は執権・北条時宗の強いリーダーシップと御家人たちの命がけの奮戦によって二度にわたる元寇という未曾有の国難を打ち破ることに成功しました。これは日本の独立を守り抜いた輝かしい勝利でした。

しかしこの勝利は幕府に栄光だけをもたらしたわけではありません。むしろその勝利の代償として幕府は自らを崩壊へと導く深刻なそして解決不可能な問題を抱え込むことになったのです。その問題こそが次の時代の幕開けを告げる大きな引き金となっていくのでした。


10. 元寇が幕府政治に与えた影響

弘安の役においていわゆる「神風」によって元の大船団が壊滅し日本は奇跡的な勝利を収めました。執権・北条時宗の断固たる指導力と御家人たちの命を懸けた奮戦は見事に日本の独立を守り抜いたのです。この未曾有の国難を克服したことは鎌倉幕府の武威と権威を内外に高らかに示す輝かしい成果でした。しかしこの栄光の勝利の裏側で幕府の支配体制の根幹をなす「御恩と奉公」のシステムは修復不可能なほどの深刻なダメージを受けていました。勝利はしたもののその代償はあまりにも大きくそしてその代償のツケを支払うことができなかった幕府はここから緩やかでしかし確実な衰退の道を歩み始めることになります。本章では元寇という勝利がなぜ鎌倉幕府の終わりの始まりとなったのかその構造的な矛盾と歴史の皮肉を解き明かします。

10.1. 恩賞問題:御恩なき奉公

鎌倉幕府の支配体制の根幹は「御恩と奉公」という将軍と御家人との間の双務的な契約関係にありました。御家人は将軍のために命がけで戦う(奉公)。その見返りとして将軍は御家人に新たな土地や所領を与える(御恩)。この極めて分かりやすいギブ・アンド・テイクの関係が御家人たちの幕府への忠誠心を支えていました。

しかし元寇はこれまでの日本の内乱とは全く性格の異なる戦争でした。内乱の場合敵を倒せばその敵が所有していた膨大な荘園や所領を「戦利品」として没収できました。そして幕府はその没収した土地を手柄を立てた御家人たちに「新恩給与」として惜しみなく分け与えることができたのです。

しかし元寇は外国からの侵略者を撃退する「防衛戦争」でした。たとえ敵を打ち破ったとしてもそこには没収すべき敵の領地は存在しません。つまり幕府には御家人たちに恩賞として与えるべき新たな土地が全くなかったのです。

御家人たちは二度の元寇に際して自らの私財を投じて武器や兵糧を用意しました。長期間にわたって九州北部の警備(異国警固番役)につきそして命がけで戦いました。彼らは幕府に対して多大な「奉公」をしたのです。しかし戦いが終わった後彼らが幕府から受け取った「御恩」はほとんどありませんでした。

この「奉公はあったのに御恩がない」という前代未聞の事態は鎌倉幕府の支配の正当性を根底から揺るがす深刻な事態でした。「御恩と奉公」という基本的な契約が履行されないのであればもはや御家人たちが幕府に忠誠を誓う理由も失われていきます。

10.2. 御家人たちの経済的窮乏

恩賞が得られなかったばかりか元寇は御家人たちの経済状況を破滅的な状況へと追い込みました。

まず軍事費負担が増大しました。文永の役から弘安の役までの7年間そしてその後も三度目の襲来を警戒して幕府は御家人たちに九州北部の警備を継続させました。この長期間にわたる軍役の費用は全て御家人たちの自己負担でした。彼らは自らの所領からの収入の多くをこの終わりの見えない国防費に注ぎ込まなければなりませんでした。

また所領の分割相続も問題でした。当時の武士の相続制度は一人の跡継ぎが全ての財産を相続する「単独相続」ではなく子供たちに財産を分け与える「分割相続」が一般的でした。代を重ねるごとに一人の御家人が持つ所領はどんどん細分化され零細化していきました。

この軍事費の増大と所領の零細化によって多くの御家人たちは経済的に極度に困窮し生活が立ち行かなくなってしまいました。

10.3. 徳政令の発布とその混乱

経済的に困窮した御家人たちはやむにやまれず先祖伝来の大切な所領を商人や高利貸し(土倉や酒屋)に売却したり質に入れたりするようになりました。

武士の土地が武士以外の人々の手に渡っていくこの事態は幕府の支配基盤そのものを崩壊させかねない深刻な危機でした。御家人が土地を失えば彼らはもはや「奉公」を果たすことができなくなるからです。

この危機的な状況に対応するため元寇後の九代執権・北条貞時は1297年一つの起死回生策を打ち出します。それが「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」です。

この徳政令はいわば債務放棄令であり一見すると御家人に有利な政策のように見えます。その内容は御家人が売却した土地は無償で元の持ち主に返還させ質入れした土地も同様に返還させるというものでした。また今後御家人の土地の売買・質入れを禁止し金銭をめぐる訴訟は幕府は一切取り上げないとも定めました。

しかしその結果は幕府の意図とは全く逆のものでした。土地を取り上げられた商人や高利貸しは当然大きな損害を被りました。そして彼らは「どうせ徳政令で取り上げられてしまうのなら」と今後御家人には一切お金を貸さないという態度に出ました。これにより御家人たちは一時的に土地を取り戻すことはできましたが逆にいざという時にお金を借りることが全くできなくなります。かえって経済的に追い詰められるという皮肉な結果を招いたのです。

この徳徳政令の大失敗は幕府がもはや社会の経済的な変化に有効な手を打つことができない統治能力の限界を露呈するものでした。幕府は翌年この徳政令を撤回せざるをえませんでしたが一度失われた幕府への信頼は回復しませんでした。

10.4. 悪党の出現と幕府支配の動揺

幕府への不満と社会の混乱が広がる中で畿内や西国を中心に「悪党(あくとう)」と呼ばれる新たな社会勢力が登場します。

「悪党」とは単なる盗賊やならず者という意味ではありません。彼らは荘園領主や幕府といった既存の支配体制に従わず武力で抵抗するあらゆる人々を指す言葉でした。その中には没落した御家人や荘園の管理者あるいは武装した農民や商人など様々な階層の人々が含まれていました。

彼らは荘園の境界を侵したり年貢の輸送を襲撃したりしました。あるいは関所を勝手に設けて通行料を徴収するなど既存の支配秩序を暴力的に破壊する活動を展開しました。

この悪党の出現は鎌倉幕府の支配がもはや地方の隅々にまで及ばなくなっていることを象徴する現象でした。幕府の権威は失墜し社会は再び自らの力だけが頼りの混沌とした時代へと逆戻りしようとしていたのです。

元寇の勝利は鎌倉幕府に最後の輝きをもたらしました。しかしその勝利の代償として生じた深刻な経済問題と社会の亀裂はもはや誰にも修復することはできませんでした。御家人たちの幕府への不満そして悪党の台頭。この二つの時限爆弾を抱え込んだ鎌倉幕府はその滅亡の足音を静かにしかし確実に聞きながら14世紀へと入っていくのでした。


Module 5:鎌倉幕府の成立と執権政治の総括:武家法と制度の完成そしてその限界

本モジュールでは源頼朝の死後草創期の鎌倉幕府がいかにして血塗られた権力闘争を経て北条氏による「執権政治」という安定した統治体制を確立していったのかその過程を追った。我々は将軍が傀儡と化しその権力が執権そして北条氏の家督である「得宗」へと私的に集中していく様を見た。承久の乱における朝廷に対する決定的勝利は幕府を名実ともに日本の唯一の統治権力へと押し上げた。六波羅探題の設置はその支配を盤石なものとした。そして北条泰時が制定した「御成敗式目」は武士の道理に基づく初のそして永続的な武家法をこの国にもたらした。しかしその完成された支配体制は得宗専制という内部の硬直化を招いた。未曾有の国難であった「元寇」の勝利は皮肉にも「御恩なき奉公」という致命的な構造的矛盾を露呈させた。勝利の栄光のまさにその頂点において鎌倉幕府は自らが拠って立つ基盤そのものを失い緩やかでしかし確実な崩壊への道を歩み始めたのである。この時代は武士による法と制度が完成の域に達すると同時にその制度疲労と限界が明らかになっていく歴史の弁証法的な展開を示している。

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