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【基礎 日本史(通史)】Module 6:鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは鎌倉幕府が世界帝国モンゴルの侵攻という未曾有の国難を乗り越えた栄光の歴史を見ました。しかしその勝利は皮肉にも幕府の支配の根幹である「御恩と奉公」のシステムを崩壊させ解決不可能な内部矛盾を抱え込ませる結果となりました。本モジュールでは栄光の頂点からわずか50年でこの日本初の本格的な武家政権がいかにして崩壊へと至ったのかその衰退と滅亡のプロセスを追跡します。さらに幕府崩壊後に後醍醐天皇が試みた天皇親政への回帰「建武の新政」がなぜ多くの人々の期待を裏切りわずか3年足らずで崩壊してしまったのかその理想と現実の乖離を探ります。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず元寇の勝利がもたらした御家人社会の経済的窮乏とそれに伴う社会秩序の動揺という幕府衰退の根本原因を分析します。次に幕府の権威を揺るがした朝廷内部の分裂とそれに乗じて討幕計画を断行した後醍醐天皇という特異な天皇の登場を見ます。そして楠木正成足利尊氏新田義貞といった多様な勢力がいかにして150年続いた巨大政権を打倒したのかその劇的な滅亡の過程を追います。最後に幕府崩壊後に始まった建武の新政が掲げた壮大な理念とそれが武士や公家といった各階層の現実的な利害と衝突し支持を失っていく様相を解き明かしその歴史的な失敗の原因を考察します。
- 元寇後の御家人社会の窮乏: 勝利の代償として深刻化した御家人たちの経済的苦境の実態に迫る。
- 永仁の徳政令: 幕府が打った起死回生策がなぜ逆に経済を混乱させ事態を悪化させたのかを分析する。
- 悪党の活動と社会秩序の動揺: 既存の支配体制に従わない新たな勢力「悪党」が幕府の支配をいかにして地方から蝕んでいったかを見る。
- 鎌倉末期の朝廷分裂(両統迭立): 幕府が介入した皇位継承問題がなぜ朝廷を不安定化させ討幕の土壌を生んだのかを理解する。
- 後醍醐天皇の討幕計画: 律令時代への回帰という壮大な理想を掲げた異色の天皇がなぜ執拗に幕府打倒を目指したのかその動機を探る。
- 楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの挙兵: 倒幕運動の中で活躍した個性豊かな武将たちがどのような背景を持ちいかにして幕府を追い詰めたかを追う。
- 鎌倉幕府の滅亡: 盤石に見えた武家政権がなぜかくも呆気なく崩壊したのかその最終局面を分析する。
- 建武の新政の理念と政策: 幕府崩壊後に後醍醐天皇が目指した天皇親政の理想国家の具体的な構想を明らかにする。
- 新政への武士・公家の不満: 新政権がなぜ武士だけでなく公家からも支持を失っていったのかその政策の失敗を検証する。
- 建武の新政の崩壊: 理想主義的な天皇の夢が武士の時代の現実の前にいかにして砕け散ったのかその悲劇的な結末を見る。
このモジュールを学び終える時皆さんは一つの時代が終わりを告げ新たな時代が生まれようとする過渡期の混沌とそこに生きた人々の理想と野望が交錯する歴史のダイナミズムを深く理解することになるでしょう。それは鎌倉から室町へという日本の歴史の大きな転換点を読み解くための不可欠な視座を提供します。
1. 元寇後の御家人社会の窮乏
鎌倉幕府が元寇という未曾有の国難に勝利したことは日本の独立を守り抜いた輝かしい功績でした。しかしその勝利は幕府の屋台骨を支える御家人社会に深刻で回復不可能なほどの経済的ダメージを与えました。戦勝国であるにもかかわらず国内が疲弊するというこの逆説的な状況こそが150年続いた鎌倉幕府を内側から崩壊させる最大の要因となったのです。本章では元寇の勝利がなぜ御家人たちの窮乏を招いたのかその構造的な問題を深く掘り下げます。
1.1. 崩壊した「御恩と奉公」の原則
鎌倉幕府の支配体制は将軍と御家人とを結ぶ「御恩と奉公」という双務的な契約関係によって成り立っていました。御家人は命がけで戦う(奉公)。その見返りに将軍は土地を与える(御恩)。この単純明快な原理が御家人たちの忠誠心の源泉でした。
しかし元寇はこの原理を根底から覆してしまいました。源平合戦や承久の乱のような国内の戦争では敵の所領を没収しそれを恩賞として分配することができました。しかし元寇は外国の侵略者を撃退する防衛戦争です。勝利してもそこに分配すべき新たな土地(戦利品)は存在しません。
御家人たちは二度の元寇に際して莫大な私財を投じました。武器や兵糧を自弁し長期間にわたる九州での警備任務(異国警固番役)に就きました。そして命を懸けて戦いました。彼らは多大な「奉公」を果たしたのです。しかし戦後幕府から与えられた「御恩」はほとんどありませんでした。幕府には与えるべき土地がなかったのです。
この「奉公あれども御恩なし」という前代未聞の事態は幕府の支配の正当性を著しく損ないました。御家人たちの間には幕府に対する深刻な不満と失望感が広がっていきました。「御恩と奉公」という幕府存立の基本原則が崩壊した瞬間でした。
1.2. 深刻化する経済的負担
恩賞がなかったばかりか元寇は御家人たちの経済に追い打ちをかけました。
- 恒常化した軍事費:弘安の役が終わった後も幕府は元の三度目の襲来を極度に警戒しました。そのため西国の御家人たちに対する異国警固番役は継続されました。この終わりの見えない警備任務は御家人たちに恒常的な軍事費の負担を強いました。彼らは所領からの収入の多くを防衛費に充てなければならず経済状況はますます悪化しました。
- 分割相続による所領の細分化:当時の武士の相続は子供たちに土地を分け与える「分割相続」が主流でした。これは一族の団結を保つという利点がありましたが代を重ねるごとに一つの武士団が所有する土地は細分化され個々の御家人の経済基盤は脆弱になっていきました。広大な所領を持つ有力御家人ならまだしも零細な御家人はこの分割相続と重い軍役負担のダブルパンチによって急速に没落していきました。
1.3. 貨幣経済の浸透と御家人の借金問題
こうした御家人たちの窮乏に拍車をかけたのが貨幣経済の急速な浸透でした。日宋貿易などによって宋銭が大量に流入し経済活動は米や布を介した物々交換から貨幣を介した取引へと大きく変化していました。
しかし御家人たちの収入の基本はあくまで土地からの年貢(米)です。彼らは「土地持ち」ではあっても「現金持ち」ではありませんでした。そのため軍役のための武具の購入や日々の生活費のために現金が必要になると彼らは**商人や高利貸し(酒屋・土倉など)**から借金をするしかありませんでした。
その際担保として差し出したのが先祖伝来の所領です。返済が滞れば所領は借金のカタとして商人や高利貸しの手に渡ってしまいます。こうして御家人の所領が武士ではない人々の手に流出するという事態が深刻化しました。土地を失った御家人はもはや御家人としての「奉公」を果たすことができません。これは幕府の支配体制の根幹を揺るгаす重大な危機でした。
鎌倉幕府は国難には勝利しました。しかしその勝利の過程で自らの経済的・社会的な基盤を蝕む時限爆弾を抱え込んでしまったのです。御家人たちの窮乏というこの静かなる危機がやがて幕府そのものを崩壊へと導く直接的な引き金となっていきます。
2. 永仁の徳政令
元寇後の御家人社会を襲った深刻な経済的窮乏。多くの御家人が借金のために先祖伝来の所領を手放し幕府の支配体制は根底から揺らぎ始めていました。この危機的状況を打開するため9代執権・北条貞時は1297年(永仁5年)起死回生の一手として幕府の権限で債務を破棄させるという前代未聞の法令を発布します。それが「永仁の徳政令(えいにんのとくせいれい)」です。この徳政令は困窮する御家人を救済するという意図で出されましたがその結果は幕府の思惑とは全く異なる経済の大混乱と社会のさらなる不安定化でした。本章ではこの永仁の徳政令の内容とその失敗がなぜ鎌倉幕府の統治能力の限界を露呈させることになったのかを分析します。
2.1. 徳政令発布の意図
徳政令の「徳政」とは本来「天子が仁徳をもって行う善政」を意味する言葉でした。天変地異や社会不安が起こった際に代替わりなどをきっかけに天皇が恩赦を行ったり税を免除したりする儀礼的な政策を指していました。
しかし北条貞時はこの「徳政」という言葉をより具体的でラディカルな意味で用いました。すなわち幕府の権力によって御家人たちの債務問題を強制的に解決するという政策です。その狙いは明確でした。
- 御家人層の経済的救済:借金によって土地を失った御家人にその所領を回復させ彼らの経済的基盤を立て直すこと。
- 幕府支配体制の維持:御家人が土地を失えば幕府の軍事力の基盤である「奉公」が不可能になります。御家人を土地に繋ぎとめることで幕府の支配体制を維持すること。
- 幕府の権威の誇示:御家人たちが抱える問題を解決できるのは幕府だけであるということを示し失墜しつつあった幕府の権威を回復すること。
この徳政令は御家人たちの窮状に対する幕府の危機感の表れでありその支配体制を守るための必死の試みでした。
2.2. 徳政令の具体的な内容
永仁の徳政令は主に三つの柱から構成されていました。
- 所領売買の無効化:御家人が売却した土地(越訴の対象となっていた係争地を除く20年以内のもの)は買主が誰であれ無償で元の所有者である御家人に返還しなければならないと定めました。これは土地取引の契約そのものを幕府の権限で遡って無効にするという極めて強力な内容でした。
- 質入れ地の無効化:御家人が質入れした土地についても同様に無償で元の所有者に返還することが命じられました。
- 今後の訴訟の不受理(越訴の禁止):最も重要なのがこの第三点です。幕府は今後御家人が関わる金銭の貸し借りに関する訴訟(金銭債務訴訟)は一切受理しないと宣言しました。また御家人の土地の売買や質入れも禁止しました。
この第三条項には幕府の二つの本音が隠されていました。一つは急増する金銭関連の訴訟業務に幕府の裁判機関が対応しきれなくなっていたという現実。そしてもう一つは「そもそも武士たるもの借金などすべきではない」という幕府の道徳的なメッセージでした。
2.3. 政策の失敗と経済の混乱
この徳政令は一時的に多くの御家人に土地を取り戻させました。しかしその副作用はあまりにも大きく日本社会に深刻な混乱をもたらしました。
- 金融市場の麻痺(クレジット・クランチ):土地を取り上げられ貸した金が返ってこなくなった商人や高利貸したちは当然ながら莫大な損害を被りました。その結果彼らは「御家人に金を貸しても徳政令で踏み倒されるだけだ」と考え御家人に対して一切の融資を停止してしまいました。金融市場が完全に麻痺してしまったのです。
- 御家人のさらなる窮乏:これにより御家人たちは逆に深刻な事態に陥りました。一時的に現金が必要になってもどこからもお金を借りることができなくなってしまったのです。土地を取り戻したはいいものの手元に現金がないため生活はさらに困窮するという本末転倒の結果を招きました。多くの御家人は結局「闇市場」で法外な高金利で金を借りるかあるいは法令をかいくぐって所領を再び手放すしかありませんでした。
- 社会道徳の混乱:「徳政」という美名のもとに借金を踏み倒すことが正当化されたため社会全体の契約遵守の精神が著しく損なわれました。「徳政令が出るかもしれないから借金は返さなくてもよい」という風潮が蔓延し社会道徳は大きく乱れました。
この徳政令の失敗は幕府の意図とは全く逆の結果を生み出しました。御家人を救うどころか彼らをさらに苦しめ経済を大混乱に陥れてしまったのです。この政策はあまりの混乱ぶりに翌年には事実上撤回されることになります。
2.4. 幕府の限界の露呈
永仁の徳政令の失敗が示したものは極めて重大でした。それは鎌倉幕府という統治システムがもはや貨幣経済の発展という新しい時代の変化に全く対応できていないという統治能力の限界でした。
幕府は依然として土地(所領)を経済の基本とする古い価値観に縛られていました。そして御家人が窮乏する原因を彼ら個人の不心得の問題と捉え商人や高利貸しを「悪」と見なして罰するという短絡的な解決策しか打ち出せませんでした。
しかし問題の本質はより構造的なものでした。貨幣経済が社会の隅々にまで浸透し土地さえもが売買の対象となる流動的な社会が到来していたのです。この新しい現実に対して幕府は有効な経済政策を何一つ打ち出すことができませんでした。
永仁の徳政令は幕府の権威を回復させるどころかその無能ぶりを天下に晒す結果となりました。御家人たちの幕府への信頼は地に落ち彼らの心は幕府からますます離れていくことになります。この政策の失敗は鎌倉幕府の時計の針を滅亡へと大きく進める出来事となったのです。
3. 悪党の活動と社会秩序の動揺
元寇後の鎌倉幕府を揺るがしたもう一つの深刻な問題。それは「悪党(あくとう)」と呼ばれる新たな社会勢力の出現と彼らによる社会秩序の激しい動揺でした。「悪党」という言葉は現代では単に「悪人」を意味しますが鎌倉時代後期におけるこの言葉はより複雑で深い歴史的な意味合いを持っていました。彼らは既存の荘園公領制や幕府の支配秩序の枠外にありその権威に従わず時には武力を用いて公然と抵抗する人々の総称でした。本章ではこの悪党がどのような人々で構成されどのような活動を行いそして彼らの存在がなぜ鎌倉幕府の支配を地方から蝕んでいく大きな要因となったのかを探ります。
3.1. 悪党とは何者か
「悪党」というレッテルは支配者側である荘園領主(貴族・寺社)や幕府が自らの支配に従わない者に対して一方的に貼り付けたものです。そのためその実態は極めて多様でした。
- 出自の多様性:悪党の中核をなしたのは幕府の統制から外れた武士でした。元寇後の経済的窮乏によって所領を失い没落した御家人やもともと幕府の支配に属していなかった非御家人の武士たちがいました。彼らはその武力を背景に既存の秩序に挑戦しました。しかし悪党は武士だけではありませんでした。荘園の現地管理者である荘官が領主の命令に背いて年貢の納入を拒否し悪党化するケース。あるいは商品経済の発展の中で力をつけた商人や輸送業者が武装し既存の関所や徴税システムに抵抗するケース。さらには農民たちが団結し年貢の減免などを求めて荘園領主と武力で対決するケースなど様々な階層の人々が悪党と呼ばれました。
- 地理的背景:悪党の活動が特に活発であったのは畿内およびその周辺地域でした。この地域は荘園が密集し貴族・寺社・武士といった多様な権利主体が複雑に入り組んでいました。そのため支配関係が曖昧な境界地域が多く存在し幕府の画一的な支配が及びにくいという特徴がありました。悪党はこのような権力の空白地帯を拠点として活動したのです。
3.2. 悪党の活動様式
悪党の活動は単なる盗賊行為とは一線を画すものでした。彼らの行動には既存の支配体制に対する明確な抵抗の意志が見られます。
- 年貢の強奪・不払い:荘園領主へ運ばれる年貢の輸送隊を襲撃し年貢を奪い取りました。あるいは自らが管理する荘園の年貢を意図的に納めないという形で抵抗しました。
- 違法な関所の設置:交通の要衝に勝手に関所を設け通行する商人などから通行税を徴収しました。これは本来領主や幕府のみが持つ権利の侵害でした。
- 土地の占拠:荘園の境界を実力で侵犯し土地を不法に占拠しました。彼らは「この土地は元々我々が開墾したものだ」といった独自の論理を掲げて自らの行動を正当化しようとしました。
- ゲリラ戦法:幕府が追討の軍を派遣してくると彼らは山城に立てこもったり神社の境内に逃げ込んだりして巧みなゲリラ戦法で抵抗しました。彼らは特定の主人に仕えない身軽さと地域の地理を熟知しているという強みを持っていました。
その代表的な例として東大寺領黒田荘(くろだのしょう)の悪党が挙げられます。伊賀国(三重県)にあったこの荘園では現地の武士たちが長年にわたって東大寺の支配に抵抗し年貢の納入を拒み続けました。幕府は何度も追討の命令を出しましたが彼らは巧みに抵抗を続けその支配を覆すことはできませんでした。
3.3. 楠木正成と悪党
後に後醍醐天皇の討幕運動で中心的な役割を果たすことになる**楠木正成(くすのきまさしげ)**もまたその出自は河内国(大阪府)の悪党であったとする説が有力です。
彼は特定の主人を持たない在地武士でありながら商業活動(水銀の取引など)にも関わり独自の経済力と軍事力を築いていたと考えられています。幕府の公式な御家人ではない彼がなぜ後醍醐天皇の呼びかけに応じそしてなぜ幕府の大軍を相手に驚くべきゲリラ戦を展開できたのか。その背景には彼が悪党として培った既存の秩序にとらわれない自由な発想と神出鬼没の戦術があったのです。
彼の有名な籠城戦である赤坂城・千早城の戦いでは幕府の大軍を相手に地形を巧みに利用し丸太や巨石を落としたり偽の情報を流して敵を混乱させたりするなどまさに悪党的な戦法を駆使して幕府軍を翻弄しました。楠木正成の活躍は悪党という社会の周縁に生まれたエネルギーが時代の転換期においていかに大きな役割を果たしうるかを示す象徴的な例でした。
3.4. 幕府支配の動揺
悪党の活動が活発化したことは鎌倉幕府の支配体制がその末期において深刻な機能不全に陥っていたことを示しています。
- 警察権の衰退:幕府は守護を通じて国内の治安を維持する責任を負っていました。しかし広範囲にわたって出没する神出鬼没の悪党を幕府の力だけではもはや完全に取り締まることができなくなっていました。幕府の権威は地方から徐々に崩れていきました。
- 荘園公領制の崩壊:悪党が荘園の支配を脅かし年貢の安定的な徴収を困難にしたことは荘園領主である京都の貴族・寺社の経済的基盤を揺るがしました。これは幕府が守るべきとされた荘園公領制という社会の基本構造そのものが崩壊しつつあったことを意味します。
- 新たな価値観の台頭:悪党は「下剋上」という言葉が生まれる前の時代に実力さえあれば既存の権威を覆すことができるということを身をもって示しました。彼らの存在は「御恩と奉公」という幕府の主従関係の秩序や家柄を重んじる伝統的な価値観を揺るがし社会全体に新しい変化の気運をもたらしました。
元寇後の御家人の窮乏が幕府の「内なる敵」を増やしたとすれば悪党の台頭は幕府の「外なる敵」を増大させました。この内外からの圧力によって鎌倉幕府という巨大な建造物には無数の亀裂が入り始めていたのです。そしてその亀裂に最後の一撃を加えることになるのが朝廷に現れた一人の特異な天皇でした。
4. 鎌倉末期の朝廷分裂(両統迭立)
鎌倉幕府の支配体制が御家人の窮乏や悪党の活動によって内側から揺らぎ始めていた14世紀初頭。京都の朝廷もまた深刻な内部対立を抱えその権威を自ら失墜させていました。その対立とは皇位継承をめぐる天皇家内部の分裂です。後嵯峨上皇の二人の皇子を祖とする二つの皇統が互いに正統性を主張し激しく争いました。この問題を調停する力を持っていた鎌倉幕府は両方の皇統から交互に天皇を即位させるという「両統迭立(りょうとうてつりつ)」と呼ばれる解決策を提示します。しかしこの幕府による介入は結果として朝廷の対立をさらに深刻化・恒常化させ討幕運動が生まれる格好の土壌を提供するという皮肉な結果を招くことになります。
4.1. 分裂の始まり:後嵯峨上皇の遺言問題
皇室が二つに分裂するきっかけは1272年の後嵯峨上皇の崩御に遡ります。彼は生前自らの跡を継いで院政を行う治天の君(ちてんのきみ)を明確に指名しないまま亡くなってしまいました。
後嵯峨上皇には二人の有力な皇子がいました。
- 兄・後深草(ごふかくさ)上皇:既にかつて天皇として即位していましたが父である後嵯峨上皇に促されて弟に譲位していました。彼は自らの血筋こそが正統な皇統であると考えていました。この後深草上皇の系統を**持明院統(じみょういんとう)**と呼びます。
- 弟・亀山(かめやま)上皇:父・後嵯峨上皇から寵愛され兄から譲位を受けて天皇となりました。彼もまた自らの血筋こそが父の真意を継ぐものであると主張しました。この亀山上皇の系統を**大覚寺統(だいかくじとう)**と呼びます。
治天の君が誰になるかによって朝廷の権力と全国の皇室領荘園(長講堂領など)の所有権が決定されるため両者の対立は極めて深刻なものでした。後嵯峨上皇の皇后(大宮院)は幕府にこの問題の裁定を依頼。幕府は亀山上皇が治天の君となることを支持しました。これにより持明院統の不満は増大し天皇家は二つの派閥に分裂してしまったのです。
4.2. 幕府の調停策「両統迭立」
この天皇家内部の分裂は鎌倉幕府にとって頭の痛い問題でした。朝廷が不安定化すれば幕府の支配にも悪影響が及びかねません。一方で幕府はこの対立に介入することで皇位継承問題に対する影響力を強めることができるという側面もありました。
幕府は一方の皇統を支持してもう一方を完全に排除するという抜本的な解決策を避けました。代わりに両者の顔を立てる一種の妥協案を提示します。それが「両統迭立」の原則です。
これは持明院統と大覚寺統から交互に天皇を即位させるという取り決めでした。1317年には幕府の斡旋のもと両統の間で「文保の和談(ぶんぽうのわだん)」が結ばれこの原則が正式に合意されました。その内容は「今後は両統から交互に天皇を立て在位期間は10年程度とする」というものでした。
一見するとこれは公平な解決策のように見えます。しかし実際には多くの問題点を抱えていました。
- 対立の恒常化:この原則は対立を解決するのではなくむしろ恒常化させるものでした。それぞれの皇統は自らが天皇の座にある間にいかにして相手方を蹴落とし自らの皇統に皇位を永続させるかという陰謀に明け暮れることになります。
- 幕府への依存:両統は自らにとって有利な皇位継承を実現するためには幕府の支持が不可欠であると考えるようになります。これにより幕府は天皇家の家督争いを調停する「家長」のような立場となり皇位継承に対する介入をさらに深めていきました。
- 討幕の動機:しかしこの状況は逆に幕府を打倒する動機も生み出しました。もし幕府の調停を待っていては自らの皇統がいつ即位できるかわからない。ならば幕府そのものを打倒し自らの力で皇位をコントロールしようと考える天皇が登場する素地を作ってしまったのです。
4.3. 後醍醐天皇の登場と両統迭立の破綻
この両統迭立という不安定な均衡を内側から破壊しようとした人物こそ大覚寺統から即位した後醍醐(ごだいご)天皇でした。
彼は1318年に即位するとまず父である後宇多法皇の院政を停止し天皇親政を開始します。そして「文保の和談」で定められた在位10年という約束を無視し自らの皇子に皇位を譲ろうと画策しました。彼の目的は両統迭立の慣例を破り皇位を自らが属する大覚寺統に永続させることでした。
しかし彼の野心はそれだけにとどまりませんでした。彼は皇位継承問題の根本原因が幕府の介入にあることを見抜いていました。そして天皇家の分裂を乗り越えかつてのような天皇中心の強力な国家を再興するためには鎌倉幕府そのものを打倒する以外に道はないと考えるに至ります。
幕府が作り出した両統迭立というシステムは皮肉にもそのシステムを破壊し幕府そのものを滅ぼそうとする後醍醐天皇という強力な個性を生み出してしまったのです。朝廷の分裂はもはや朝廷内部の問題ではなく幕府の存亡をかけた政治闘争の序章へと転化していきました。
5. 後醍醐天皇の討幕計画
鎌倉時代の末期両統迭立という朝廷の内部対立と幕府の支配の揺らぎという二重の危機の中で日本の歴史を大きく転換させる一人の天皇が即位します。それが第96代天皇後醍醐(ごだいご)天皇です。彼は単に自らの皇統の繁栄を願うだけでなく分裂した天皇家を統合し武家や貴族に奪われた権力を天皇の手に取り戻し古代の律令国家のような天皇親政を復活させるという壮大な政治的理想を掲げた異色の天皇でした。本章ではこの後醍醐天皇がどのような思想を持ちなぜ執拗に鎌倉幕府の打倒を目指したのかその二度にわたる討幕計画の経緯と失敗を探ります。
5.1. 異色の天皇、後醍醐の政治思想
後醍醐天皇(在位1318-1339)は即位する前から学問特に儒学に深い関心を持っていました。彼は宋学(朱子学)に影響を受け君主が絶対的な権威を持って国家を統治すべきであるという思想を強く信奉していました。
彼の政治思想は以下の点でそれまでの天皇や上皇とは一線を画すものでした。
- 天皇親政への強い意志:彼は父である後宇多法皇の院政を早い段階で停止させ自らが直接政治を行う「天皇親政」を宣言しました。これは上皇が実権を握る「院政」と幕府が武士を支配する「武家政治」の両方を否定するものでした。
- 記録所の活用:彼は政治の中心機関として自らが主宰する「記録所」を復活させ重要政策の決定や訴訟の裁判をここで行いました。これは摂関家や幕府を介さず天皇が直接統治を行うための重要な装置でした。
- 両統迭立の打破:彼は幕府が定めた両統迭立の原則を無視し自らの皇子である尊良親王を皇太子に立てました。これは皇位を自らの大覚寺統に永続させようとする明確な意志の表れであり幕府に対する公然とした挑戦でした。
後醍醐天皇が目指したのは単なる権力闘争の勝利ではありません。それは日本の統治のあり方を根本から変革し天皇を唯一絶対の君主とする中央集権国家を再興するという壮大な「復古」の理想でした。そしてその理想を実現するためには鎌倉幕府という武家政権の存在そのものが最大の障害であると彼は考えていました。
5.2. 最初の挑戦:正中の変(1324年)
後醍醐天皇は自らの理想を実現するためひそかに討幕の計画を進め始めます。彼は側近である日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしもと)らと共に美濃国の土岐氏など幕府に不満を持つ武士たちを味方に引き入れようと画策しました。
しかしこの計画は事前に幕府の知るところとなります。1324年(正中元年)幕府の六波羅探題は計画に関与した者たちを逮捕。首謀者であった日野資朝らは処罰されました。これが「正中の変(しょうちゅうのへん)」です。
この時後醍醐天皇自身も嫌疑をかけられました。しかし彼は「自分は全く関与していない」と頑なに主張し幕府も天皇を直接処罰するという前代未聞の事態を避けるためこの時は天皇の罪を問いませんでした。
この最初の挑戦は失敗に終わりました。しかし後醍醐天皇の討幕への意志は全く衰えませんでした。彼はこの失敗を教訓としてより周到にそしてより深く討幕の準備を水面下で進めていくことになります。
5.3. 二度目の挑戦:元弘の変(1331年)
正中の変の後も後醍醐天皇は討幕の意志を捨てませんでした。彼は大寺社の僧兵を味方につけようとしたり皇子である護良親王(もりよししんのう)を天台座主(天台宗のトップ)に送り込んで延暦寺の勢力を掌握しようとしたりするなど様々な策動を続けます。
しかし1331年(元弘元年)側近であった吉田定房(よしださだふさ)の密告によってこの二度目の討幕計画もまた発覚してしまいます。これが「元弘の変(げんこうのへん)」です。
今回は幕府の追及も厳しく後醍醐天皇はもはや言い逃れができないと悟ります。彼は三種の神器を持ってひそかに京都を脱出。南都(奈良)を経て山城国の笠置山(かさぎやま)に立てこもり全国の武士に討幕の兵を挙げるよう呼びかけました。
これに呼応したのが河内国の武将楠木正成でした。彼は赤坂城に立てこもり幕府の大軍を相手に奮戦します。
しかし幕府の軍事力は依然として強大でした。笠置山はわずか1ヶ月で陥落し後醍醐天皇は捕らえられてしまいます。楠木正成の赤坂城も落城しました。
5.4. 隠岐への配流と討幕運動の継続
幕府は首謀者である後醍醐天皇に対して前代未聞の厳しい処分を下しました。
- 天皇の廃位と配流:幕府は後醍醐天皇を強制的に退位させ持明院統の光厳(こうごん)天皇を新たに即位させました。そして後醍醐上皇を**隠岐(おき)**という遠い島へと流罪に処したのです。天皇が島流しにされるのは承久の乱の後鳥羽上皇以来のことであり幕府の権威を天下に示すものでした。
- 関係者の処罰:日野俊基らは捕らえられて処刑され討幕計画に関わった貴族たちも処罰されました。
これにより後醍醐天皇の討幕計画は完全に失敗し幕府の勝利が確定したかのように見えました。しかし討幕の火は消えていませんでした。
後醍醐天皇の皇子である護良親王や河内国で再起した楠木正成は後醍醐上皇が隠岐に流された後も諦めず各地でゲリラ的な抵抗運動を続けました。護良親王は吉野を拠点とし「綸旨(りんじ)」という天皇の命令書を全国に発して反幕府勢力の結集を呼びかけます。楠木正成は千早城に立てこもり再び幕府の大軍を相手に驚異的な籠城戦を展開しました。
彼らの不屈の戦いは全国に雌伏していた反北条氏勢力を勇気づけます。「幕府は必ずしも無敵ではない」という認識が徐々に広まっていきました。後醍醐天皇の二度の失敗は結果として全国的な討幕の気運を醸成するという皮肉な効果をもたらしたのです。そしてこの燻り続ける討幕の炎に油を注ぎ一気に燃え上がらせることになる二人の大物がついに歴史の表舞台に登場します。
6. 楠木正成、足利尊氏、新田義貞らの挙兵
後醍醐天皇が隠岐に流され討幕運動が絶望的な状況に陥ったかに見えた時その流れを劇的に変える三人の武将が歴史の表舞台に登場します。一人は河内を拠点に神出鬼没のゲリラ戦を展開する「悪党」出身の楠木正成。そしてもう二人は幕府の最有力御家人であり源氏の名門の血を引く**足利尊氏(あしかがたかうじ)と新田義貞(にったよしさだ)**です。彼らの出自も思惑も全く異なっていましたがその行動は期せずして鎌倉幕府という巨大な建造物を崩壊させるという一点に収斂していきました。本章ではこの三人の英雄たちがそれぞれの背景を持ちながらいかにして討幕の主役となっていったのかその劇的な挙兵の過程を追います。
6.1. 不屈のゲリラ戦:楠木正成
楠木正成は河内国(大阪府)の在地領主でありその出自は幕府の公式な御家人ではなく商業活動にも通じた「悪党」に近い存在であったと考えられています。彼は特定の主従関係や旧来の戦いの常識に縛られない自由な発想と卓越した軍事センスを持っていました。
後醍醐天皇が笠置山で捕らえられ赤坂城が陥落した後も正成は諦めませんでした。1332年彼は赤坂城を奪回。さらに翌1333年には金剛山の**千早城(ちはやじょう)**に立てこもり数十万ともいわれる幕府の大軍を相手に驚異的な籠城戦を開始します。
- 千早城の戦い:千早城は険しい山に築かれた天然の要害でした。正成はわずか1000程度の兵で幕府の大軍を迎え撃ちます。彼は伝統的な一騎討ちの戦法を全く用いず地形を最大限に利用したゲリラ戦法で幕府軍を翻弄しました。
- 偽の城壁: 藁人形を兵士に見せかけて城壁に並べ敵が攻めてきたところを巨石や丸太を落として撃退した。
- 心理戦: 夜間に鬨の声を上げさせたり奇妙な音を出したりして敵兵を不安に陥れ睡眠不足にさせた。
- 断崖絶壁の利用: 梯子をかけて崖を登ってくる敵兵に対しては油をまいて滑り落としたり上から熱湯を浴びせかけたりした。
この正成の天才的な防衛戦は数ヶ月にも及びました。幕府は一向に千早城を落とすことができずその権威は地に落ちました。楠木正成の不屈の戦いぶりは全国に伝わり「幕府の大軍も恐るるに足らず」という認識を広め各地の反幕府勢力を大いに勇気づけたのです。彼は討幕の火を消さなかった最大の功労者でした。
6.2. 幕府の裏切り者:足利尊氏の決断
楠木正成が千早城で幕府軍を引きつけている間に隠岐を脱出した後醍醐天皇は伯耆国(ほうきのくに、鳥取県)の船上山(せんじょうさん)で再び討幕の兵を挙げます。
この事態に対し幕府は西国の反乱を鎮圧するための総大将として最も信頼する有力御家人を派遣します。それが足利尊氏(当時は高氏)でした。
足利氏は清和源氏の嫡流を自認する名門中の名門であり北条氏とも婚姻関係を結ぶ幕府の最有力御家人でした。しかし尊氏は内心では北条氏の得宗専制政治に対して強い不満を抱いていたと言われています。「源氏の正統な後継者である自分こそが武家の棟梁にふさわしい」という野心も持っていました。
1333年4月尊氏は幕府の命令に従い大軍を率いて京都へと向かいます。しかし彼は京都近郊の丹波国(たんばのくに)で突如として幕府への反旗を翻しました。そして後醍醐天皇方につくことを宣言し逆に京都にある幕府の拠点六波羅探題を攻撃したのです。
この幕府最大の実力者による突然の裏切りは討幕運動の帰趨を決する決定的な一撃となりました。尊氏の軍勢に攻められた六波羅探題はあっけなく陥落。探題であった北条仲時・時益は自害しました。
6.3. 関東の反乱:新田義貞の挙兵
足利尊氏が京都で幕府を裏切ったのとほぼ時を同じくして関東でもう一人の源氏の名門武将が立ち上がります。上野国(こうずけのくに、群馬県)の新田義貞です。
新田氏もまた足利氏と並ぶ源氏の名門でしたが足利氏に比べてその勢力は小さく北条氏から冷遇されていました。義貞もまた幕府から千早城攻めに参加するよう命じられていましたがその途中で後醍醐天皇の綸旨を受け取ります。
1333年5月義貞は自らの本拠地である上野国に引き返し幕府打倒の兵を挙げました。彼の挙兵には北条氏の支配に不満を持つ多くの関東の御家人たちが次々と合流。その軍勢は瞬く間に膨れ上がりました。
義貞軍は鎌倉街道を南下し利根川や入間川で幕府軍を次々と撃破。そしてついに幕府の本拠地である鎌倉へと迫ります。
6.4. 鎌倉幕府の最期
鎌倉は三方を山に囲まれ一方が海に面した天然の要害でした。幕府は各所の切通(きりどおし)と呼ばれる狭い通路を固めて義貞軍の侵攻を防ぎます。
しかし義貞は驚くべき作戦でこの鉄壁の防御を破りました。伝説によれば彼は海が干潮になるのを待ち軍勢を率いて稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海岸線を迂回し鎌倉市中への突入に成功したと言われています。
市中に乱入した義貞軍の前に幕府軍は総崩れとなりました。もはやこれまでと覚悟を決めた14代執権・北条高時をはじめ北条氏一門そして家臣たち800人以上が鎌倉の東勝寺(とうしょうじ)で次々と自害しました。
1333年5月22日。源頼朝の挙兵から約150年。日本を支配し続けた鎌倉幕府はその歴史に幕を下ろしたのです。それは楠木正成というアウトサイダーの抵抗と足利尊氏・新田義貞というインサイダーの離反という二つの力が奇跡的に結びついた結果でした。
7. 鎌倉幕府の滅亡
1333年5月新田義貞の軍勢が鎌倉に突入し執権・北条高時以下一門数百人が自害したことで源頼朝以来約150年にわたって日本を支配してきた鎌倉幕府は滅亡しました。世界帝国モンゴルの侵攻さえも撃退した強大な武家政権がなぜかくも呆気なく内部から崩壊してしまったのでしょうか。その原因は単一ではありません。元寇の戦後処理の失敗に端を発する構造的な社会経済問題と後醍醐天皇という特異な天皇の出現そして有力御家人たちの離反といった複数の要因が複雑に絡み合った結果でした。本章では鎌倉幕府が滅亡へと至った最終的なプロセスとその歴史的な要因を分析します。
7.1. 滅亡への三つの要因
鎌倉幕府の滅亡は大きく分けて三つの要因によって引き起こされたと考えられます。
- 経済的基盤の脆弱化(御家人の不満):元寇後の恩賞問題と経済的窮乏によって幕府の支配の根幹である御家人たちの忠誠心が失われていたこと。
- 社会秩序の動揺(悪党の活動):悪党に象徴されるような既存の支配体制に従わない勢力が台頭し幕府の地方支配が機能不全に陥っていたこと。
- 政治的求心力の喪失(天皇の討幕運動):後醍醐天皇という幕府の存在そのものを否定する強力な政治的リーダーが朝廷に出現し反幕府勢力の結集軸となったこと。
これら三つの要因は互いに連関し合っていました。御家人の窮乏が悪党を生み出し悪党の活動が幕府の権威を失墜させそして失墜した幕府の権威が後醍醐天皇に討幕の機会を与えたのです。
7.2. 討幕運動の最終局面
元弘の変で後醍醐天皇が隠岐に流された後も楠木正成や護良親王らによる不屈の抵抗は続いていました。特に楠木正成が千早城で演じた神がかり的な籠城戦は幕府の軍事力の限界を天下に示し全国の反北条勢力を勇気づける象徴的な出来事となりました。
この状況を見て1333年2月後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆国の名和長年(なわながとし)らに迎えられ船上山で再び討幕の綸旨を全国に発します。この呼びかけに播磨国(兵庫県)の赤松円心(則村)など西国の武士たちが次々と呼応しました。
事態を重く見た幕府は総力を挙げてこの西国の反乱を鎮圧しようとします。そしてその総大将として幕府の命運を託したのが御家人の中でも最高の家格を誇る足利尊氏でした。しかしこれが幕府にとって致命的な失策となります。
7.3. 足利尊氏と新田義貞の離反
足利尊氏は源氏の嫡流としての高いプライドを持ちながらも北条氏の得宗に臣従しなければならない現状に強い不満を抱いていました。彼は幕府を討てば自らが武家の新たな棟梁になれるという野心を秘めていました。
1333年4月京都に到着した尊氏は幕府を裏切り後醍醐天皇方につくことを宣言。六波羅探題を攻め滅ぼしてしまいます。この幕府軍の総大将による裏切りは戦局を決定づけるものでした。
時を同じくして関東ではもう一人の源氏の名門新田義貞が挙兵します。彼もまた北条氏の支配に不満を持つ関東御家人たちをまとめ上げ一気呵成に鎌倉へと攻め上りました。
- なぜ彼らは裏切ったのか:足利・新田といった有力御家人たちが幕府を裏切った背景には得宗専制政治への強い反発がありました。幕府の政治が北条氏の得宗とその側近である御内人によって私物化され譜代の有力御家人でさえもが政治の中枢から排除されていたことへの不満が爆発したのです。彼らはもはや北条氏のために命を懸けて戦う義理はないと考えていました。
7.4. 鎌倉の陥落と北条氏の最期
京都の六波羅探題が陥落し関東からは新田義貞の大軍が迫る。幕府はまさに東西から挟み撃ちにされる形となりました。
新田軍は1333年5月鎌倉の防衛線を突破し市中へと乱入します。鎌倉は炎に包まれ壮絶な市街戦が繰り広げられました。
もはや敗北を悟った執権・北条高時をはじめとする北条氏一門と家臣たちは一族の菩提寺である東勝寺に集まります。そしてそこで一族郎党870人あまりが次々と自害を遂げるという壮絶な最期を迎えました。
この北条氏の滅亡をもって鎌倉幕府は崩壊しました。その滅亡は単に一つの政権の終わりではありません。それは頼朝以来の「御恩と奉公」という主従関係のあり方や御成敗式目に代表される武家の道理に基づいた統治がもはや時代に対応できなくなったことを示す歴史的な転換点でした。
鎌倉幕府は外的要因である元寇に勝利しながらもその勝利が引き起こした内的要因によって崩壊するという歴史の大きな皮肉を体現した政権であったと言えるでしょう。そしてその廃墟の中から後醍醐天皇によるかつてない理想を掲げた新しい政治が始まろうとしていました。
8. 建武の新政の理念と政策
鎌倉幕府の滅亡。それは多くの武士たちそして朝廷の貴族たちにとって北条氏による得宗専制という圧政からの解放を意味しました。隠岐から京都に凱旋した後醍醐天皇のもとに人々は新しい時代への大きな期待を寄せます。そして1334年後醍醐天皇は元号を「建武」と改め天皇自らが全ての権力を掌握する新しい政治「建武の新政(けんむのしんせい)」を開始しました。その理念は武家政治や院政を完全に否定し古代の律令国家のような天皇親政を復活させるという極めて壮大かつ復古的なものでした。本章ではこの建武の新政が掲げた理想とそれを実現するために打ち出された具体的な政策の内容を解き明かします。
8.1. 新政の根本理念:天皇親政と一元支配
建武の新政の最も根本的な理念は天皇による親政の復活でした。後醍醐天皇は中国の儒教思想特に宋学の影響を強く受けており国家の唯一絶対の君主は天皇であり全ての統治権は天皇に集中すべきであると考えていました。
この理念に基づき彼は日本の統治システムを根底から作り変えようとしました。
- 武家政治の否定:鎌倉幕府のような武家政権は天皇から統治権を簒奪した存在であり認められない。征夷大将軍の職も廃止されました。
- 院政の否定:天皇が譲位して上皇として政治を行う院政もまた天皇の親政を妨げるものとして否定されました。後醍醐天皇は自らが退位することなく生涯天皇として君臨し続けることを目指しました。
- 摂政・関白の否定:藤原氏が天皇を補佐する摂政・関白の制度も形式的なものとされ政治の実権は天皇自身が握るものとされました。
つまり後醍醐天皇が目指したのは全ての権力が天皇という一つの頂点に集約される中央集権的な一元支配体制でした。これは鎌倉時代を通じて続いてきた朝廷と幕府という二元的な権力構造を完全に破壊し日本の統治システムを根本からリセットしようとする壮大な革命の構想でした。
8.2. 新政の中央統治機構
この天皇親政を実現するため後醍醐天皇は鎌倉幕府の統治機構を廃止し全く新しい中央政府の組織を創設しました。
- 記録所(きろくじょ):新政の最高政務機関として重要な役割を果たしたのが記録所です。これはかつて後三条天皇が設置したものを復活させたものであり恩賞の決定や所領に関する重要な訴訟の裁判などを扱いました。天皇自身がこの記録所の会議を主宰し重要事項を直接裁決しました。
- 恩賞方(おんしょうかた):倒幕戦争で功績のあった武士や貴族たちに対する恩賞(土地の給付など)を専門に扱う役所です。功績の審査と恩賞地の配分を行いました。
- 雑訴決断所(ざっそけつだんしょ):所領に関する訴訟が激増したためそれを迅速に処理するために設置された裁判機関です。貴族と武士の双方から裁判官が任命されました。
- 武者所(むしゃどころ):京都の警備や天皇の警護を担当する武力組織です。新田義貞がその長官に任命されました。
これらの機関は天皇の直接的なコントロール下に置かれ貴族と武士が共同で政務にあたるという形式をとっていました。しかしその実態は天皇とごく一部の側近の貴族たちが主導権を握るものでした。
8.3. 主要な政策
建武の新政ではその理想を実現するためにいくつかの野心的な政策が打ち出されました。
- 綸旨万能(りんじばんのう)の原則:新政権は鎌倉幕府が保障していた武士の所領の所有権をいったん全て白紙に戻しました。そして全ての土地の所有権は**天皇が発給する命令書(綸旨)**によって改めて承認されなければならないとしました。これは全ての土地は天皇のものであるという公地公民の理念を復活させようとするものでした。
- 中央集権的な地方支配:国の支配は国司が郡の支配は郡司が行うという律令制の原則を復活させようとしました。鎌倉幕府が任命した守護の多くは廃止され代わりに天皇が任命した国司が地方統治の責任者とされました。足利尊氏や新田義貞といった有力武将もそれぞれいくつかの国の国司に任命されました。
- 新貨幣の鋳造と徳政令:財政基盤を強化するため「乾坤通宝(けんこんつうほう)」という新しい銅銭や「楮幣(ちょへい)」という紙幣を発行しようとしました。しかしこれらはほとんど流通しませんでした。また混乱した経済を立て直すために徳政令も計画されました。
- 新宮殿の造営計画:天皇の権威を内外に示すため京都に壮大な新しい宮殿を建設する計画を立てその費用を捻出するために全国の土地に対して特別な税を課しました。
これらの政策はどれも天皇の権力を絶対化し国家の全てを天皇の下に一元的に管理しようという強い意志に貫かれていました。しかしそのあまりにも急進的で理想主義的な内容は武士社会の現実とは大きくかけ離れたものであり次章で見るように各階層からの深刻な反発を招くことになるのです。
9. 新政への武士・公家の不満
後醍醐天皇が掲げた建武の新政。その理想は壮大でしたが現実の政治運営は極度の混乱と不公平に満ちていました。天皇親政という復古的な理念は鎌倉時代を通じて独自の社会と慣習を築き上げてきた武士たちの現実とは相容れないものでした。また天皇の独裁的な政治スタイルは彼を支えるべき貴族たちからも反発を招きました。期待が大きかっただけに失望もまた大きく新政権は急速に支持を失っていきます。本章では建武の新政がなぜ武士と公家双方から見放されてしまったのかその失敗の原因を具体的に探ります。
9.1. 武士階級の深刻な不満
討幕の主役であった武士たちは新政権に対して最も大きな不満を抱くことになります。
- 恩賞の不公平:武士たちが最も不満だったのは倒幕戦争における恩賞の分配が極めて不公平であったことです。
- 公家・寺社の優遇: 恩賞の配分は天皇の側近である公家や討幕に協力した寺社に手厚く与えられ実際に命を懸けて戦った武士たちへの恩賞は後回しにされました。
- 審査の混乱と遅延: 全国から恩賞を求める武士が京都に殺到しましたが恩賞方の審査は遅々として進みませんでした。また恩賞の決定は天皇や側近の寵愛の度合いに左右されることが多く客観的な功績が正当に評価されませんでした。
- 武家社会の慣習の無視:新政権は鎌倉幕府が制定した御成敗式目や武士社会の慣習(「道理」)を軽視しました。そして土地に関する訴訟を古代の律令や公家の法で裁こうとしました。これは武士たちにとって全く馴染みがなく予測不可能な裁判であり彼らの既得権益を脅かすものでした。彼らが求めていたのは頼朝以来の公平で分かりやすい「武家の政」の復活であり公家による煩雑な支配ではありませんでした。
- 身分的な差別:京都の貴族たちは地方から上ってきた武士たちを「田舎者」として見下し差別的な態度をとりました。武士たちは自らが血を流して勝ち取った革命の成果を公家たちに横取りされたという強い疎外感と屈辱感を抱きました。
- 経済的負担:天皇が計画した新宮殿の造営費用を賄うため全国の荘園・公領に対して特別な税が課されました。これは元寇以来経済的に疲弊していた武士たちにとって耐え難い負担でした。
9.2. 二条河原の落書:民衆の声
当時の京都の混乱ぶりと新政権への痛烈な批判を伝える有名な史料が「二条河原の落書(にじょうがわらのらくしょ)」です。これは1334年に二条河原の掲示板に貼り出された匿名の風刺文です。
「此頃都ニハヤル物。夜討、強盗、謀綸旨(にせりんじ)。…」
(この頃、都で流行っているもの。夜討ち、強盗、偽の天皇の命令書。…)
「公家(くげ)ハ自由ニ成リ給ヒ、武家(ぶけ)ノイン(犬)ハ見ズサリヌルゾ。」
(公家は自由気ままになり、(幕府の番犬であった)武士の姿は見かけなくなった。)
「器用ノ堪否(かんぷ)沙汰モナク、何(いか)様(やう)ノ悪党(あくとう)ニテモ、皆(みな)々(みな)朝(てう)ノ御(おん)用(よう)人(にん)。」
(能力があるかないかのお構いもなく、どのような悪党でも、みんな朝廷のお役人になっている。)
この落書は新政権下で京都の治安が極度に悪化し偽の綸旨が横行し能力よりも天皇への忠誠心(あるいはコネ)が重視される人事が行われている実態を痛烈に皮肉っています。そして「下克上する物(が)成(なり)ぞ当世(たうせい)は」と締めくくり実力さえあれば上の者を倒せるのが今の世の中だと喝破しています。これは新政権が既に民衆の支持を完全に失っていたことを雄弁に物語っています。
9.3. 公家社会の不満
新政権は武士だけでなく貴族社会からも反発を受けていました。後醍醐天皇の政治は天皇個人への権力集中を極端に目指すものであり伝統的な貴族社会の秩序や慣例を無視するものでした。
- 天皇の独裁:重要事項は記録所における天皇の親裁によって決定され摂政・関白や太政官の公卿会議は軽視されました。これは天皇と密接な関係を持つ一部の側近(寵臣)だけが権力を振るうことになり藤原氏をはじめとする伝統的な上級貴族たちは政治の中枢から排除される結果を招きました。
- 綸旨の乱発:天皇の個人的な命令書である綸旨が正規の太政官符に代わって多用されたため法的な手続きの安定性が失われました。また天皇の寵愛を受ける女性や側近が綸旨の発給に介入するなど政治の私物化も進みました。
このように後醍醐天皇は武士の支持を失っただけでなく自らを支えるべき貴族社会の内部にも多くの敵を作ってしまったのです。
9.4. 足利尊氏の台頭
武士たちの不満が渦巻く中で彼らの期待を一身に集めるようになった人物がいました。足利尊氏です。
彼は討幕における最大の功労者であり源氏の名門としての血統的権威も持っていました。多くの武士たちは彼こそが頼朝の後継者として新たな武家の棟梁にふさわしいと考えていました。
しかし後醍醐天皇は尊氏の強大な武力と人望を危険視し彼を鎮守府将軍という名目的な役職に任命するだけで政治の中枢からは意図的に遠ざけました。そして尊氏のライバルであった新田義貞を重用するなど尊氏を牽制する動きを見せます。
この後醍醐天皇の尊氏に対する冷遇は武士たちの不満をさらに増大させました。彼らは「我々の苦労も知らずに武士をないがしろにする公家の政治はもうたくさんだ。我々には尊氏公がついている」と考えるようになります。
こうして足利尊氏は期せずして反新政権の武士たちの象徴的なリーダーとして祭り上げられていきました。建武の新政は自らの政策の失敗によって自らを滅ぼすことになる最大の敵を自らの手で作り出してしまったのです。
10. 建武の新政の崩壊
後醍醐天皇の理想主義的な政治は武士社会の現実とあまりにもかけ離れておりその統治はわずか2年余りで深刻な機能不全に陥りました。全国の武士たちの不満が頂点に達する中彼らの期待を一身に背負う形で歴史の表舞台に再び躍り出たのが足利尊氏でした。彼は当初後醍醐天皇への恭順の姿勢を見せていましたが一つの反乱事件をきっかけに天皇と袂を分かち新たな武家政権の樹立へと動き出します。本章では建武の新政が崩壊に至る直接的な経緯とその後の日本の歴史を決定づける足利尊氏と後醍醐天皇の最終的な決裂の物語を追います。
10.1. 中先代の乱(1335年):尊氏離反のきっかけ
建武の新政が崩壊する直接的な引き金となったのが1335年7月に信濃国で起こった「中先代の乱(なかせんだいのらん)」でした。
これは滅亡した鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児である**北条時行(ほうじょうときゆき)**が北条氏の残党を率いて幕府の再興を目指して起こした大規模な反乱です。反乱軍の勢いは凄ままじく鎌倉にいた尊氏の弟・足利直義(ただよし)の軍を破り一時的に鎌倉を占領してしまいます。
この鎌倉陥落という緊急事態に際し足利尊氏は自らが反乱鎮圧の指揮を執るため後醍醐天皇に対して征夷大将軍の役職と出陣の許可を求めました。しかし後醍醐天皇は尊氏に武力が集中することを警戒しこれを許可しませんでした。
業を煮やした尊氏はついに天皇の許可(綸旨)を得ないまま独断で軍を率いて関東へと出陣します。そして圧倒的な兵力で反乱軍を打ち破りわずか1ヶ月ほどで鎌倉を奪還しました。
この反乱自体は鎮圧されましたがその意味は極めて重大でした。
- 新政権の無力さの露呈:関東で起こった大規模な反乱に対して新政権が有効な手を打てず結局は足利尊氏という一個人の武力に頼らざるを得なかったこと。
- 尊氏の自立:尊氏が天皇の命令を待たずに独断で行動し関東の武士たちをまとめ上げて勝利したことで彼はもはや天皇の臣下ではなく独立した武家の棟梁であることを天下に示しました。
10.2. 尊氏の反逆と新政権の終焉
鎌倉を平定した後尊氏はそのまま鎌倉に留まり後醍醐天皇からの再三の上洛命令を無視します。そして天皇の許可なく独自の判断で戦功のあった武士たちに恩賞として土地を与えるなどさながら新しい幕府を開いたかのように振る舞い始めました。
ここに及んで後醍醐天皇も尊氏の離反を確信します。1335年11月天皇は尊氏を「朝敵」と断じ新田義貞を総大将とする追討軍を関東へと派遣しました。
こうして昨日までの討幕の同志であった足利尊氏と新田義貞が今度は敵味方に分かれて雌雄を決することになったのです。当初は新田軍が優勢で尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで敗れ九州へと落ち延びていきました。
10.3. 湊川の戦い(1336年):楠木正成の死
九州で再起を図った尊氏は多々良浜の戦いで現地の有力武将たちの支持を取り付け再び強大な軍事力を回復します。そして海と陸から大軍を率いて再び京都を目指し東上を開始しました。
後醍醐天皇はこれを迎え撃つため新田義貞と楠木正成に迎撃を命じます。この時楠木正成は圧倒的な兵力差を考慮し一旦京都を放棄して尊氏軍を誘い込み兵糧攻めにするという戦略を天皇に進言しました。しかし天皇親政の権威に固執する公家たちは天皇が都を落ちることを「不吉である」としてこれを退けあくまで正面からの決戦を主張します。
敗北を予期しながらも天皇への忠義を貫いた正成は1336年5月摂津国の**湊川(みなとがわ、現在の神戸市)**で足利軍と激突します。兵力で圧倒的に劣る正成軍は奮戦むなしく壊滅。正成は弟の正季(まさすえ)と共に「七生報国(しちしょうほうこく、七度生まれ変わっても国に報いる)」を誓って自害しました。天皇への忠義を最後まで尽くした彼の死は後世まで「忠臣」の鑑として語り継がれることになります。
10.4. 建武の新政の完全な崩壊
湊川の戦いで官軍の主力を失った後醍醐天皇はもはや戦う術を失いました。彼は三種の神器を持って比叡山へと逃れます。
京都に入った足利尊氏は持明院統の光明天皇を新たに即位させました。そして自らが幕府を開くための法的な根拠として1336年に「建武式目(けんむしきもく)」を発表します。これは新しい武家政権の基本方針を示したものであり実質的な幕府の始まりを宣言するものでした。
その後尊氏は比叡山に立てこもる後醍醐天皇と和議を結びます。そして後醍醐天皇から三種の神器を受け取り光明天皇に譲渡させました。しかし後醍醐天皇はこれは偽物であると主張。ひそかに京都を脱出して南方の吉野に逃れ「こここそが正統な朝廷である」と宣言します。
こうして京都には足利尊氏が擁立する**北朝(持明院統)が吉野には後醍醐天皇の南朝(大覚寺統)**が並立し以後約60年間にわたる全国的な内乱の時代「南北朝時代」が幕を開けることになります。
建武の新政はわずか3年足らずで完全に崩壊しました。その失敗の原因は後醍醐天皇が掲げた「天皇親政」という復古的な理想がもはや武士の力が社会の全てを動かすという新しい時代の現実を全く無視したものであったことに尽きます。武士たちはもはや天皇の権威の下で動く駒ではなく自らの力で自らの政府を打ち立てる新しい時代の主役となっていたのです。建武の新政の崩壊は日本の歴史がもはや古代へと後戻りすることはできず武家が支配する中世の道を歩み続けることを決定づけた出来事でした。
Module 6:鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の総括:システムの寿命と理想の挫折
本モジュールでは元寇の勝利という栄光の裏で深刻な構造的矛盾を抱え込んだ鎌倉幕府がその崩壊へと至る必然のプロセスを追った。我々は御家人の窮乏と悪党の台頭が幕府の支配を地方から蝕み両統迭立という朝廷の分裂が後醍醐天皇という特異な指導者を生み出す土壌となったことを見た。そして楠木正成足利尊氏新田義貞という多様な勢力の蜂起が北条氏による150年の支配に終止符を打つ様を目の当たりにした。しかしその後に続いた建武の新政は天皇親政という復古的な理想に固執するあまり討幕の主役であった武士たちの現実的な要求を無視した。その結果わずか3年で支持を失い足利尊氏の離反によって崩壊し日本はさらなる南北朝の動乱へと突入していく。鎌倉幕府の滅亡は一つの統治システムがその寿命を終える物語であり建武の新政の失敗は高邁な理想がそれを支える社会の現実から乖離した時いかに脆く崩れ去るかを示す歴史的な教訓の物語であった。