【基礎 日本史(通史)】Module 7:南北朝の動乱と室町幕府

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは鎌倉幕府がその内部矛盾から崩壊し後醍醐天皇による建武の新政がわずか3年で失敗に終わる様を見ました。その後醍醐天皇の理想主義的な夢の挫折は日本に安定ではなくむしろより深刻で長期的な分裂と動乱をもたらしました。京都には足利尊氏が擁立する北朝が吉野には後醍醐天皇が立てた南朝が存在し二つの朝廷が約60年間にわたって互いに正統性を主張し争う「南北朝時代」の幕開けです。本モジュールではこの未曾有の動乱期にいかにして足利氏が新たな武家政権「室町幕府」を樹立しその支配を確立していったのかを探ります。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず建武の新政崩壊直後の混沌の中から足利尊氏が室町幕府を成立させる過程を追います。次に約半世紀にわたる南北朝の動乱が日本社会にいかなる影響を与えたのかを分析します。そして成立間もない幕府を根底から揺るがした内部抗争「観応の擾乱」の実態に迫ります。この動乱期を通じて地方の守護がいかにして力を蓄え自立的な領国支配を行う「守護大名」へと変貌していったのかそのメカニズムを解き明かします。その後三代将軍・足利義満の時代に幕府がいかにしてその権力を絶頂へと導き南北朝の合一と日明貿易の開始という偉業を成し遂げたのかを見ます。しかしその栄華の裏では農民一揆や将軍暗殺といった社会の不穏な動きが顕在化し始めます。最後に幕府の権威が失墜し日本全土を11年にもわたる戦乱に巻き込む「応仁・文明の乱」がなぜ勃発したのかその原因を探ります。

  1. 足利尊氏と室町幕府の成立: 動乱の中から新たな武家政権がいかにして産声を上げたのかその founding moment を探る。
  2. 南北朝の動乱: 二つの朝廷が並立した60年間の内乱が社会のあり方をいかに根底から変えたかを分析する。
  3. 観応の擾乱と幕府の内紛: 内乱のさなかに起こった幕府内部の深刻な分裂がその後の権力構造に何をもたらしたかを解明する。
  4. 守護大名の権限強化と守護領国制: 守護が単なる地方官から半独立的な領主「守護大名」へと変貌していくプロセスを理解する。
  5. 足利義満の権力確立: 三代将軍・義満がいかにして幕府の権威を絶頂に高め内外にその力を誇示したかを見る。
  6. 南北朝の合一: 約半世紀にわたる国家の分裂を義満がいかにして終焉させたのかその政治手腕を分析する。
  7. 勘合貿易(日明貿易): 幕府が中国・明との公式な貿易をいかにして開始しそこから何を得たのかを探る。
  8. 正長の土一揆: 日本史上初の大規模な農民蜂起がなぜ起こりそれが何を意味していたのかを考察する。
  9. 嘉吉の変と将軍暗殺: 現職の将軍が家臣に殺害されるという前代未聞の事件が幕府の権威にいかなる打撃を与えたかを見る。
  10. 応仁・文明の乱: 室町幕府の権威を事実上崩壊させ日本を「戦国時代」へと導いた大乱の勃発原因とその帰結を探る。

このモジュールを学び終えたとき皆さんは室町幕府という政権が鎌倉幕府とは全く異なる脆弱で矛盾をはらんだ権力構造の上に成り立っていたことそしてその構造的欠陥が最終的に自らを崩壊させ次なる下剋上の時代を準備した歴史の大きな流れを深く理解することができるでしょう。


目次

1. 足利尊氏と室町幕府の成立

建武の新政の崩壊は日本の政治に巨大な権力の空白を生み出しました。湊川の戦いで楠木正成を破り京都を制圧した足利尊氏。しかし彼の前には吉野に逃れて抵抗を続ける後醍醐天皇の南朝勢力そして全国に割拠する武士たちをいかにしてまとめ上げるかという困難な課題が山積していました。この未曾有の混乱と分裂の中から尊氏は新たな武家政権の創設へと乗り出します。その政権はかつての鎌倉幕府とは異なる多くの課題と矛盾を抱えながらもその後約240年間にわたって続く「室町幕府」の礎となりました。本章では建武の新政崩壊直後の混沌の中から足利尊氏がいかにして室町幕府を成立させていったのかその過程を追います。

1.1. 南北朝時代の幕開け

湊川の戦いに勝利し京都を占領した足利尊氏は1336年8月持明院統から光明天皇を新たに擁立しました。そして後醍醐天皇から受け取った三種の神器をこの新天皇に譲渡させ自らが立てた朝廷の正統性を主張します。これが北朝です。

しかし後醍醐天皇はこの和議を破棄。ひそかに京都を脱出して南方の吉野(奈良県)に拠点を移します。そして「京都にある神器は偽物であり真の神器を持つ我こそが正統な朝廷である」と宣言しました。これが南朝です。

こうして日本には京都の北朝と吉野の南朝という二つの朝廷そして二人の天皇が同時に存在する前代未聞の分裂状態が生まれました。この後1392年に両朝が合一するまでの約60年間を南北朝時代と呼びます。この時代を通じて全国の武士たちは北朝方と南朝方に分かれ自らの利害のために絶え間ない戦いを繰り広げることになります。

1.2. 建武式目:新政権の基本方針

足利尊氏は後醍醐天皇の政治がなぜ失敗したのかを冷静に分析していました。彼は天皇親政というあまりに急進的な理想主義を掲げるのではなく武士たちの現実的な要求に応えかつ京都の公家社会とも協調できる安定した政権を目指しました。

1336年11月尊氏は政権の基本方針を示す「建武式目(けんむしきもく)」17カ条を制定します。これは御成敗式目のような本格的な法典ではありません。むしろ新政権が目指す政治のあり方を内外に示したマニフェスト(施政方針演説)といった性格のものでした。

その内容は源頼朝による鎌倉幕府の善政を理想としながらも建武の新政の失敗を教訓とする現実的なものでした。

  • 倹約を基本とし無駄な出費を抑えること。
  • 有能な人材を家柄にとらわれず登用すること。
  • 訴訟を公平かつ迅速に処理し社会の秩序を回復すること。
  • 京都の復興に努めること。

またこの式目の中で新政権の本拠地をどこに置くべきかという重要な議論がなされています。鎌倉に幕府を再興すべきだという意見も有力でした。しかし最終的には京都に本拠地を置くことが決定されました。これは全国を支配するためには天皇の権威が残る京都を直接掌握する必要があるという判断と西国に勢力を持つ南朝勢力に対抗する必要があったためです。この決定がその後の室町幕府の性格を大きく規定することになります。

1.3. 征夷大将軍就任と幕府機構の整備

1338年北朝の光明天皇は足利尊氏を征夷大将軍に任命しました。この任命によって尊氏が率いる武家政権は朝廷から公認された正統な政府「室町幕府」として正式に成立したのです。(「室町」の名は三代将軍・義満が京都の室町に「花の御所」と呼ばれる邸宅を構えそこを政治の中心としたことに由来します。)

室町幕府の統治機構は基本的には鎌倉幕府のそれを踏襲していました。

  • 執事(しつじ)・管領(かんれい):将軍を補佐し政務を統括する最高職です。当初は将軍家の家宰である執事がその役割を担いましたが後に有力な守護大名である細川・斯波・畠山の三氏が交代で任命される管領の職へと発展します。
  • 侍所(さむらいどころ):御家人(幕府に仕える武士)の統制と京都の警備を担当しました。長官である所司(しょし)には有力守護大名が任命されました。
  • 政所(まんどころ):幕府の一般政務と財政を担当しました。
  • 問注所(もんちゅうじょ):訴訟の受付と記録の保管などを担当しましたが裁判機能の多くは将軍の直轄となりました。
  • 鎌倉府(かまくらふ):東国(関東地方)の統治は依然として重要であったため鎌倉には幕府の出先機関として鎌倉府が置かれました。その長官である**鎌倉公方(かまくらくぼう)**には尊氏の子が任命され管領(関東管領)がこれを補佐しました。

1.4. 室町幕府の構造的脆弱性

こうして成立した室町幕府ですがその権力基盤は鎌倉幕府に比べていくつかの点で構造的に脆弱なものでした。

  • 将軍権力の弱さ:頼朝が絶対的なカリスマとして御家人を支配したのに対し尊氏は有力な守護大名たちの連合の上に立つ盟主に近い存在でした。将軍の権力は常に有力守護大名たちの動向に左右される不安定なものでした。
  • 南北朝の並立:正統な皇位継承者であると主張する南朝が存続し続けていることは北朝を擁立する幕府の正統性を常に脅かす要因となりました。幕府は常に南朝との戦いに兵力と財力を割き続けなければなりませんでした。
  • 直轄地の少なさ:鎌倉幕府が広大な直轄地(関東御領)を持っていたのに対し室町幕府の直轄地は極めて少なくその財政基盤は脆弱でした。幕府の財政は守護大名からの臨時的な税や商業活動からの税収に大きく依存していました。

このように室町幕府はその成立の当初から多くの困難と矛盾を抱えていました。その不安定な権力構造がやがて幕府内部の深刻な分裂と抗争を引き起こしていくことになるのです。


2. 南北朝の動乱

足利尊氏が京都に北朝を立て室町幕府を開いた1336年から三代将軍・足利義満が両朝の合一を成し遂げる1392年までの約60年間日本は二人の天皇と二つの朝廷が互いに正統性を主張し全国の武士を巻き込んで争うという未曾有の内乱の時代に突入しました。この「南北朝の動乱」は単なる皇位継承をめぐる争いにとどまらず日本の社会構造を根底から変革する大きな画期となりました。この時代を通じて古い荘園公領制は崩壊し武士による地方支配が決定的なものとなりそして文化の担い手も貴族から武士へと移っていきます。本章ではこの長期にわたる動乱の展開とその歴史的意義を探ります。

2.1. 動乱の初期段階:南朝の奮戦

動乱の初期においては吉野に拠点を置く南朝方が軍事的に優勢な時期もありました。後醍醐天皇のもとには北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕家(あきいえ)親子や新田義貞楠木正成の遺児・正行(まさつら)といった有能で忠誠心の厚い武将たちが集っていました。

特に北畠顕家は陸奥(むつ)を拠点に目覚ましい活躍を見せました。彼は1338年に大軍を率いて鎌倉を一時的に陥落させそのまま西上して京都の幕府軍を脅かしました。しかし奮戦もむなしく和泉国(いずみのくに)で戦死してしまいます。新田義貞も越前国(えちぜんのくに)で戦いの中で命を落としました。

相次いで有能な武将を失った南朝は軍事的には次第に劣勢に追い込まれていきます。1339年には後醍醐天皇が吉野で崩御。その壮絶な討幕の夢は道半ばで潰えました。

2.2. 南朝のイデオロギー:『神皇正統記』

軍事的に劣勢に立たされた南朝。しかし彼らには北朝にはない強力な武器がありました。それは「正統性」というイデオロギーです。

後醍醐天皇の死後南朝の中心的な指導者となったのが公家でありながら優れた戦略家でもあった北畠親房でした。彼は常陸国(ひたちのくに)で南朝勢力の立て直しを図る中で一冊の歴史書を執筆します。それが『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』です。

この書物で親房は日本の歴史を神代から説き起こし皇位の継承がいかにして行われてきたかを論じました。そして彼が強調したのは以下の点でした。

  • 皇位の正統性は血統だけでなく「徳」によっても決まる。
  • そして最も重要な正統性の証は三種の神器を保持していることである。

三種の神器は後醍醐天皇が吉野に持ち去っていました。したがって親房は「神器を保持する南朝こそが唯一正統な皇統であり北朝はそれをないがしろにする臣・足利尊氏に擁立された偽の朝廷である」と断じたのです。

この『神皇正तोう記』は南朝方の武士たちに精神的な支柱を与えました。彼らはたとえ軍事的に不利であっても正義は我にありという強い信念をもって戦い続けることができたのです。このイデオロギーの力が南朝をその後も半世紀にわたって存続させる大きな原動力となりました。

2.3. 動乱の全国化と社会の変化

南北朝の動乱は京都やその周辺だけでなく全国のあらゆる地域を戦場へと変えました。北朝(幕府)方につく武士と南朝方につく武士がそれぞれの所領で互いに争い合いました。

この長期にわたる戦乱は日本の社会構造にいくつかの決定的な変化をもたらしました。

  • 荘園公領制の崩壊:戦乱の中で武士たちは軍事行動の必要性から自らの支配地域にある荘園や公領の年貢を勝手に徴収するようになります(半済、はんぜい)。また荘園の境界も曖見になり武力による土地の奪い合いが常態化しました。これにより京都の貴族や寺社が荘園を支配するという古い荘園公領制は事実上崩壊しました。土地の支配権は名目上の所有者(本家・領家)から現地の武士(国人、こくじん)の手に完全に移っていったのです。
  • 国人層の成長:この動乱期を通じてそれぞれの地域に根を下ろした在地領主である国人たちが新たな社会階層として大きく成長しました。彼らは時には守護と結びつきまた時には守護と対立しながら自らの領地を自らの力で守り支配するようになります。
  • 商業・金融業の発達:戦乱は皮肉にも経済のあり方を変えました。軍資金や兵糧の調達のために貨幣の需要が高まり酒屋・土倉といった高利貸しや物資を輸送する**問丸(といまる)**などの活動が活発化しました。

2.4. 観応の擾乱:動乱の深化

南北朝の対立だけでも複雑であったのに事態をさらに混乱させたのが幕府内部で起こった深刻な内紛「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」でした。これは将軍・足利尊氏とその弟で政務を司っていた足利直義との対立が原因で起こった幕府を二分する内戦です。

この対立は単なる兄弟喧嘩ではありません。それは幕府の統治のあり方をめぐる根本的な路線対立でした。尊氏が武士たちの所領支配権を広く認める伝統的な武家の棟梁であろうとしたのに対し直義は将軍の権力を強化し中央集権的な統治を目指していました。

この対立は尊氏の側近である高師直(こうのもろなお)と直義との対立という形で表面化しやがて両者は武力衝突に至ります。驚くべきことに劣勢に立たされた直義は自らが擁立した北朝を捨て敵であるはずの南朝に降伏し南朝の武将として兄・尊氏と戦うという挙に出ます。

この観応の擾乱は尊氏・直義兄弟の個人的な争いにとどまらず全国の武士たちを「尊氏派」と「直義派(南朝方)」に分裂させました。兄弟が敵味方に分かれたり昨日までの味方が今日の敵になったりという裏切りが常態化し社会の秩序はますます失われていきました。

南北朝の動乱は単なる朝廷の争いではありません。それは日本の社会全体が古い秩序を破壊し新しい秩序を模索する長い産みの苦しみの時代でした。この混沌の中から守護大名や国人といった新たな支配者が生まれ次なる室町時代の社会が形作られていくことになるのです。


3. 観応の擾乱と幕府の内紛

室町幕府はその成立当初から南北朝の対立という深刻な問題を抱えていました。しかし幕府を揺るがした危機は外部の敵(南朝)だけではありませんでした。むしろより深刻だったのは幕府の内部、それも足利将軍家そのものの内部で発生した権力闘争でした。1350年から1352年にかけて起こった「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は将軍・足利尊氏と政治の実権を握るその弟・足利直義との対立が武力衝突へと発展した幕府を二分する大内乱です。この争いは単なる兄弟喧嘩ではなくその後の室町幕府の権力構造を決定づける極めて重要な事件でした。本章ではこの観応の擾乱がなぜ起こりどのように展開しそして幕府にいかなる影響を与えたのかを解き明かします。

3.1. 対立の構図:尊氏派 vs 直義派

観応の擾乱の根本的な原因は室町幕府の統治をめぐる足利尊氏と足利直義の二頭政治とその路線対立にありました。

  • 足利尊氏(将軍):尊氏は典型的な武家の棟梁でした。彼は御家人たちの「御恩と奉公」の関係を重んじ彼らの所領支配権(恩賞)を広く認めることでその支持を得ようとしました。政治の細かい実務にはあまり関心を示さずその多くを弟の直義や側近に任せていました。彼の周りには執事(将軍家の家宰)であった**高師直(こうのもろなお)**をはじめとする革新的な武士たちが集っていました。
  • 足利直義(政務担当):直義は兄とは対照的に極めて実務能力に優れた政治家でした。彼は鎌倉幕府のような中央集権的な統治を目指し将軍の権威のもとに訴訟を公平に裁き秩序を維持しようとしました。彼の周りには旧来の幕府の官僚や法曹系のテクノクラートたちが集っていました。

3.2. 対立の火種:高師直の台頭

この尊氏派と直義派の対立を決定的なものにしたのが尊氏の側近である高師直の存在でした。

師直は卓越した軍事能力を持ち尊氏の最も信頼する腹心として幕府内で絶大な権勢を誇っていました。しかし彼は伝統的な権威を軽んじ自らの力を背景に強引な振る舞いが目立ちました。例えば彼は直義が保護していた荘園を武力で侵犯するなど直義の権威に公然と挑戦しました。

直義にとって師直の存在は自らが目指す法と秩序に基づいた統治を破壊する許しがたいものでした。一方師直にとって直義は自らの権力拡大を阻む最大の障害でした。

この両者の対立はそれぞれの背後にいる尊氏と直義の代理戦争の様相を呈していきます。幕府の武士たちは「尊氏・師直派」と「直義派」の二つの派閥に分かれていきました。

3.3. 擾乱の勃発と展開

1349年直義はクーデターを画策し高師直を執事の職から退任させることに成功します。しかし翌1350年尊氏が遠征で京都を留守にした隙に師直は反撃。逆に直義を政務から引退に追い込みました。

追い詰められた直義は驚くべき行動に出ます。彼は京都を脱出し敵であるはずの南朝に降伏してしまったのです。そして南朝から兄・尊氏と高師直を討伐する命令(綸旨)を得て南朝の武将として挙兵しました。

これにより事態は極度に複雑化します。

  • 幕府の内紛が南北朝の動乱と直結した。
  • 全国の武士たちは北朝の将軍である尊氏につくか南朝の綸旨を奉じる直義につくかという究極の選択を迫られた。

この戦いは当初直義方が優勢でした。1351年直義軍は尊氏軍を打ち破り高師直とその一族を滅ぼします。尊氏は一時的に直義に降伏し隠居を余儀なくされました。

しかし尊氏はこれで終わりませんでした。彼は直義との和睦を破棄し今度は自らが南朝と和睦を結びます(正平一統、しょうへいいっとう)。そして南朝の権威を借りて直義を討伐するという挙に出たのです。

この後も両派の戦いは一進一退を繰り返しました。尊氏の子で九州にいた足利直冬(ただふゆ、直義の養子)も直義方として父に反旗を翻すなど足利家そのものが骨肉の争いを繰り広げました。

3.4. 擾乱の結末とその影響

最終的にこの擾乱は1352年に尊氏が鎌倉で直義を捕らえ毒殺したことで一応の終結を見ます。しかしこの2年間にわたる内乱が室町幕府に与えたダメージは計り知れないほど大きいものでした。

  1. 将軍権威の失墜:将軍自身が敵である南朝と手を結んだり兄弟・親子が殺し合ったりしたことで足利将軍家の権威は地に落ちました。御家人たちの将軍への忠誠心は著しく低下し彼らはもはや将軍の命令よりも自らの利益を優先して行動するようになります。
  2. 守護大名のさらなる自立:擾乱の過程で尊氏・直義双方は全国の武士を味方につけるため守護に対してその権限を大幅に認める約束を乱発しました。特に軍事費を捻出するために荘園の年貢の半分を徴収する権利(半済)を守護に与えたことは守護が自らの領国内で経済的・軍事的に自立する大きなきっかけとなりました。守護はもはや幕府の地方官ではなく半独立的な領主「守護大名」へと変貌を遂げていったのです。
  3. 動乱の長期化:擾乱によって幕府が弱体化したことで南朝勢力は息を吹き返し南北朝の動乱はさらに長期化・泥沼化することになりました。

観応の擾乱は室町幕府が鎌倉幕府のような強力な中央集権体制を築くことに失敗したことを象徴する事件でした。この内乱を経て室町幕府は将軍が直接全国を支配する政権ではなく有力な守護大名たちの連合の上に立つ極めて脆弱な政権としてその後の歴史を歩んでいくことになるのです。


4. 守護大名の権限強化と守護領国制

南北朝の動乱という長期にわたる戦乱の時代は日本の地方支配のあり方を根底から変えました。鎌倉時代の守護はあくまで国単位の軍事・警察権を担う幕府の地方官に過ぎませんでした。しかし室町時代の守護は動乱の中でその権限を飛躍的に拡大させます。彼らは単なる行政官ではなく自らが任じられた国(分国)の土地と人々を私的に支配する半独立的な領主へと変貌を遂げていきました。このような守護を特に「守護大名(しゅごだいみょう)」と呼び彼らが築き上げた地方支配の体制を「守護領国制(しゅごりょうごくせい)」と言います。本章では守護がいかにしてその権限を強化し守護大名へと成長していったのかその具体的なメカニズムを解き明かします。

4.1. 守護権限の拡大

室町時代の守護は鎌倉時代以来の権限である大犯三箇条(謀反人・殺害人の逮捕、大番催促)に加え南北朝の動乱の中で幕府から次々と新しい権限を与えられていきました。

  • 刈田狼藉(かりたろうぜき)の検断権:土地の所有をめぐる争いの際に相手方の田の稲を実力で刈り取ってしまう「刈田狼藉」を取り締まる権限。これは土地紛争に対する警察権の拡大を意味しました。
  • 使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん):幕府が下した裁判の判決を現地で強制的に執行する権限。守護はこの権限を背景に国内の土地問題に深く介入することが可能になりました。
  • 半済令(はんぜいれい)の施行権:これが守護の経済的基盤を最も強化した権限です。幕府は南北朝の動乱期に軍事費を調達するという名目で守護に対してその国内の荘園や公領から上がる年貢の半分を徴収し兵粮米として軍事費に充てることを認める「半済令」を発布しました。当初は戦乱の激しい地域に限られた一時的な措置でしたがやがて全国に恒常化していきます。これにより守護は合法的に国内の荘園の経済的支配権を奪い取ることが可能になりました。
  • 守護請(しゅごうけ):守護が荘園領主(公家・寺社)との間で契約を結びその荘園の年貢の徴収を請け負う制度です。守護は領主に一定額の年貢を納入することを保証する代わりにその荘園の現地での支配権(管理権)を完全に手中に収めました。

これらの権限の拡大によって守護は国内の軍事・警察権だけでなく土地と経済に対する支配権をも掌握していったのです。

4.2. 国人たちの被官化

守護が自らの領国支配を確立していく上で不可欠だったのがその国内に存在する在地領主である「国人(こくじん)」たちをいかにして自らの支配下に組み込むかという問題でした。

国人たちは南北朝の動乱を通じて成長した独立性の高い武士たちです。守護は彼らを単純に力でねじ伏せるのではなく自らの家臣団(被官、ひかん)として組織化していくという巧みな方法をとりました。

守護は国人たちにその所領の支配権を保証してやる(本領安堵)見返りに彼らを自らの家臣としました。そして彼らを国内の重要な役職に任命したりあるいは幕府の公的な軍役(番役など)を割り振ったりすることで守護を中心とする主従関係の秩序の中に組み込んでいったのです。

こうして守護は国人たちを自らの軍事力の中核として組織化し領国内に強力な支配のネットワークを築き上げました。

4.3. 守護領国制の確立

これらの権限強化と国人の被官化を通じて守護は自らが任じられた国をあたかも一つの独立した領国のように支配する体制「守護領国制」を確立しました。

  • 領国の経済的支配:守護は半済や守護請によって荘園・公領を侵食し自らの直轄地(守護領)を拡大しました。また領国内に関所を設けたり独自の税(段銭、たんせん)を課したりして経済力を強化しました。
  • 領国の政治的支配:守護は国衙(国府)の機能を吸収し自らの館である「守護所」を領国の政治的中心としました。そして被官化した国人たちを動員して領国内の統治を行いました。
  • 守護大名の世襲化:守護の職はもともと一代限りの任命職でしたが有力な守護は幕府に対して影響力を行使し自らの一族がその職を世襲することを常態化させていきました。こうして守護の地位は特定の家に固定化され彼らはその国の領主「守護大名」として定着していったのです。

代表的な守護大名には管領の職を世襲した細川・斯波・畠山の三管領家や侍所の長官を世襲した山名・赤松・一色・京極の四職家などがいます。彼らはそれぞれが複数の国の守護を兼任し幕府の政治を動かすほどの強大な力を持つようになりました。

室町幕府の政治は将軍の独裁ではなくこれらの有力守護大名たちの連合によって運営されるという極めて分権的な性格を持っていました。この将軍権力の弱さと守護大名たちの自立性の高さこそが室町幕府の最大の特徴でありその後の戦国時代へと繋がっていく構造的な要因となったのです。


5. 足利義満の権力確立

観応の擾乱以降弱体化した将軍権力と守護大名の台頭によって不安定な状態が続いていた室町幕府。しかし14世紀後半に登場した三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の時代に幕府はその権威と権力を劇的に回復させまさにその絶頂期を迎えます。義満は巧みな政治手腕と文化政策を駆使して朝廷を完全にその支配下に置き有力守護大名を抑え込みそして中国・明との外交関係を樹立するなど内外にその絶大な権力を見せつけました。本章では足利義満がいかにして将軍の権威を再確立し室町幕府の黄金時代を築き上げたのかその過程を探ります。

5.1. 若き将軍の登場

足利義満は二代将軍・義詮(よしあきら)の子として生まれました。父の死によりわずか11歳で三代将軍に就任します。当初は管領であった細川頼之(ほそかわよりゆき)がその後見人として幕政を主導しました。

しかし義満は成長するにつれて非凡な政治的才能を発揮し始めます。1379年彼は有力守護大名である斯波氏や土岐氏と結びつきクーデター(康暦の政変、こうりゃくのせいへん)を起こして細川頼之を失脚させ自らが直接政治を行う親政を開始しました。

この事件は義満がもはや管領の傀儡ではなく自らの意志で幕府を動かす強力な指導者であることを内外に示しました。

5.2. 有力守護大名の抑制

義満の治世を通じて彼が最も心血を注いだのが自らの権威を脅かしかねない有力守護大名の力を削ぎ幕府の統制下に置くことでした。彼は巧みな挑発や策略を用いて有力守護大名に反乱を起こさせそれを幕府軍の力で討伐するという手法を繰り返しました。

  • 土岐康行の乱(1390年):美濃・尾張・伊勢の3カ国の守護を兼ねる有力守護大名・土岐康行を挑発し反乱に追い込みこれを討伐。土岐氏の勢力を大幅に削ぐことに成功しました。
  • 明徳の乱(1391年):11カ国もの守護を兼ね「六分の一殿」と呼ばれた最大の勢力を誇る山名氏清・満幸を挑発。彼らが京都に攻め上ってきたところを幕府の大軍で迎え撃ちこれを滅ぼしました。
  • 応永の乱(1399年):有力守護大名であり朝鮮との独自の貿易で富を築いていた大内義弘を挑発。堺で反乱を起こした義弘を義満自らが総大将となって討伐しました。

これらの戦いに勝利することで義満は将軍の軍事力が個々の守護大名を凌駕していることを証明し幕府の権威を絶対的なものとしました。

5.3. 室町の「花の御所」と幕府機構の整備

義満は将軍の権威を視覚的に示すことにも長けていました。1378年彼は京都の北小路室町に壮麗な邸宅を造営します。その美しさから「花の御所(はなのごしょ)」と呼ばれたこの邸宅は単なる将軍の住まいではありません。それは天皇の内裏にも匹敵するほどの規模と豪華さを誇り幕府の政庁が置かれた政治の中心地でした。

義満はこの花の御所で儀式を執り行い有力守護大名や公家たちを謁見しました。これにより室町殿(将軍)こそが日本の事実上の最高権力者であることを天下に知らしめたのです。

また義満は幕府の統治機構も整備しました。将軍の権力を補佐する管領の職は細川・斯波・畠山の三氏(三管領)が交代で務めることが慣例化しました。また侍所の長官(所司)は山名・赤松・一色・京極の四氏(四職)が務めるなど有力守護大名を幕府の要職に任命することで彼らを幕府の統治システムの中に巧みに組み込んでいきました。

5.4. 朝廷の支配と太政大臣就任

義満は武家社会だけでなく公家社会の頂点に立つことも目指しました。彼は朝廷の儀式に積極的に参加し多額の献金を行うことでその影響力を強めていきます。

そして1392年に長年の懸案であった南北朝の合一を成し遂げるとその功績を背景に朝廷における地位をさらに高めていきました。1394年にはついに臣下としては最高位である**太政大臣(だじょうだいじん)**に就任します。これはかつて平清盛が武士として初めて就任した官職であり義満が公武両社会の頂点に立ったことを象徴するものでした。

義満は太政大臣を辞した後も出家して法皇に準じる存在として君臨し続けました。彼の妻は天皇の母に準じる「准母(じゅんぼ)」の称号を与えられその子・義嗣(よしつぐ)は親王に準じる待遇を受けるなど足利将軍家を天皇家と比肩する存在にまで高めようとしたのです。

足利義満の時代室町幕府はその権力の絶頂期を迎えました。彼の強力なリーダーシップは分裂と動乱の時代に終止符を打ち日本の政治と文化に一つの黄金時代をもたらしたのです。


6. 南北朝の合一

三代将軍・足利義満が成し遂げた数々の偉業の中で日本の歴史全体にとって最も大きな意味を持つのが約60年間にわたって国家を二分してきた南北朝の動乱に終止符を打ったことです。1392年(元中9年/明徳3年)義満は巧みな交渉と政治的圧力を駆使して南朝と北朝の合一(合体)を実現させました。これは単に二つの朝廷が一つになったというだけでなく室町幕府が名実ともに日本全土を支配する唯一の正統な政権であることを天下に認めさせた画期的な出来事でした。本章では義満がいかにしてこの困難な課題を成し遂げたのかその過程と歴史的意義を探ります。

6.1. 合一への気運

義満が将軍に就任した当初南北朝の対立は依然として激しく各地で戦闘が続いていました。しかし14世紀後半になるといくつかの要因から和平への気運が高まっていきます。

  • 南朝の衰退:楠木正行や北畠顕家といった有能な武将を相次いで失った南朝は軍事的に著しく弱体化していました。また長引く戦乱で経済的にも疲弊しその勢力は吉野周辺の限られた地域に追い詰められていました。
  • 幕府内の和平派の台頭:幕府内部でも管領であった細川頼之などを中心にこれ以上の無益な戦いをやめ和平交渉によって動乱を終結させるべきだという意見が強まっていました。
  • 義満の権力確立:義満が明徳の乱などで有力守護大名を次々と討伐し将軍としての絶対的な権力を確立したことで幕府は腰を据えて和平交渉に取り組むことができるようになりました。

6.2. 義満の和平交渉

義満は武力で南朝を完全に殲滅するという強硬策ではなく話し合いによる平和的な解決を目指しました。彼は有力守護大名であった大内義弘を仲介役として粘り強く南朝との交渉を続けます。

義満が南朝に対して提示した和平の条件(和約)は南朝側の面子を立てる配慮に満ちたものでした。

  1. 南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が京都に戻り北朝の後小松(ごこまつ)天皇に三種の神器を譲渡すること。
  2. 今後の皇位は持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)から交互に天皇を出す「両統迭立」の原則を復活させること。
  3. 南朝方の公家や武士たちの所領はそのまま保証すること。

この条件は南朝にとって決して悪い話ではありませんでした。特に②の「両統迭立の復活」は将来的に南朝の血筋が再び皇位に就く可能性を残すものであり後亀山天皇が和平を受け入れる大きな決め手となりました。

6.3. 1392年、合一の実現

南朝の後亀山天皇は義満が提示したこの条件を受け入れることを決断します。1392年10月後亀山天皇は吉野を出て京都の大覚寺に入りました。そしてそこで北朝の後小松天皇に三種の神器を正式に譲渡しました。

この瞬間二つの朝廷は一つとなり約60年間にわたった南北朝の動乱はついに終わりを告げたのです。この歴史的な出来事を南北朝の合一または明徳の和約と呼びます。

6.4. 合一後の展開と歴史的意義

南北朝の合一は足利義満の政治家としての才覚を天下に示す最大の功績となりました。

  • 室町幕府の正統性の確立:この合一によって室町幕府はもはや北朝だけを支持する一地方政権ではなく日本で唯一の正統な朝廷を擁護する全国的な政権としての地位を確立しました。
  • 国内の平和の回復:長期にわたる内乱が終結したことで社会は安定を取り戻しその後の室町時代の文化的な繁栄の基礎が築かれました。

しかしこの和平には裏がありました。義満と北朝は和平の最大の条件であった「両統迭立の復活」という約束を合一が成立した直後に反故にしたのです。

後小松天皇の次の皇位には南朝の皇子ではなく北朝の皇子が立てられました。これにより皇統は北朝である持明院統に一本化されることが決定し南朝(大覚寺統)の血筋が再び皇位に就くことはありませんでした。

約束を破られた旧南朝勢力の一部はその後も「後南朝」として散発的な抵抗を続けます。しかし彼らが再び歴史の表舞台に立つことはありませんでした。

結果として義満は南朝を巧みに欺き平和的な手段でその正統性を吸収し消滅させることに成功したのです。その手法は冷徹な現実主義に貫かれたものでしたがそれによって国家の分裂という最大の危機を乗り越えたこともまた事実でした。この南北朝の合一によって室町幕府はその支配体制を盤石なものとし義満の権力はまさにその絶頂期へと向かっていくのです。


7. 勘合貿易(日明貿易)

南北朝の合一を成し遂げ国内の支配を盤石なものとした足利義満。彼の視野はもはや国内にとどまりませんでした。彼は次なる目標として当時アジアで強大な力を持っていた中国大陸の新王朝「明(みん)」との国交正常化と公式な貿易の開始を目指します。しかしそのためには日本が明の皇帝を中心とする国際秩序(冊封体制)に組み込まれることを受け入れなければなりませんでした。義満は国内の反対を押し切ってこの現実的な道を選びます。こうして始まったのが「勘合(かんごう)」と呼ばれる証票を用いた「勘合貿易(日明貿易)」でした。この貿易は幕府に莫大な富をもたらしその後の日本の経済や文化に大きな影響を与えました。

7.1. 貿易開始の背景

義満が明との国交を望んだ背景にはいくつかの理由がありました。

  • 経済的利益:当時の明は世界で最も進んだ経済力と文化を誇っていました。明との公式な貿易路を開くことは先進的な文物や銅銭を輸入し莫大な利益を上げる絶好の機会でした。脆弱な財政基盤しか持たない室町幕府にとってこれは極めて魅力的なものでした。
  • 倭寇(わこう)問題:14世紀当時朝鮮半島や中国大陸の沿岸では「倭寇」と呼ばれる日本の海賊集団が略奪行為を繰り返し大きな国際問題となっていました。明は日本に対してこの倭寇の取り締まりを強く要求していました。公式な国交を開き貿易の利益を得るためにはこの倭寇問題を解決する必要がありました。
  • 将軍権威の強化:「明の皇帝から公認された日本の支配者」という国際的な権威を得ることは国内の守護大名や朝廷に対して将軍の権威をさらに高めるための有効な手段でした。

7.2. 冊封体制と「日本国王」の称号

しかし明との国交には大きな障害がありました。明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋)が築いた外交の基本方針は「海禁(かいきん)」政策と「冊封(さくほう)体制」でした。

  • 海禁政策:民間人による自由な海外渡航や貿易を原則として禁止する政策。
  • 冊封体制:明の皇帝が周辺国の君主を「王」として任命(冊封)しその王が皇帝に貢物(朝貢)を捧げるという形式でのみ国交と貿易を認めるという中華思想に基づいた国際秩序。

つまり日本が明と国交を結ぶためには日本の支配者(将軍)が明の皇帝の臣下である「日本国王」の称号を受け入れ朝貢するという形式をとらなければなりませんでした。

この条件は日本の国内特に朝廷の公家たちから強い反発を招きました。「神国である日本の支配者が外国の皇帝の臣下になるなど国家の恥である」という考え方が根強かったためです。

しかし足利義満は極めて現実的な政治家でした。彼は名目上のプライドよりも国交によって得られる実利を優先します。1501年義満は明に使者を派遣しこの冊封体制を受け入れることを表明。明の永楽帝はこれに応え義満を「日本国王源道義(にほんこくおうげんどうぎ)」として正式に冊封しました。(道義は義満の法名)

7.3. 勘合貿易の仕組み

こうして始まった日明貿易は倭寇の船と区別するため「勘合」と呼ばれる証票を用いる極めて厳格な管理貿易でした。

  • 勘合符の発行:明の皇帝が「日字壱号」から「百号」までの通し番号が入った勘合符という証票を作成します。
  • 割り符:この勘合符を中央から二つに割り右半分の「底簿(ていぼ)」を明が保管し左半分の「本字(ほんじ)」を日本側に与えます。
  • 照合:日本からの船(遣明船)は明から与えられた勘合符(本字)を必ず携行しなければなりません。そして明の港(寧波、にんぽう)に到着した際日本の使者が持参した本字と明側が保管している底簿とを照合し両者がぴったりと合致して初めて公式な朝貢使節団として認められました。

このシステムによって倭寇の密貿易船は完全に排除され安全で安定した公式貿易が可能になったのです。この貿易を勘合貿易と呼びます。

7.4. 貿易の内容と幕府への影響

勘合貿易は数年に一度の頻度で行われました。日本からの遣明船には幕府だけでなく守護大名や大寺社そして博多や堺の商人たちも相乗りする形で参加しました。

  • 輸出品:日本からは銅、硫黄、金、刀剣、扇、漆器などが輸出されました。特に日本の刀剣はその品質の高さから明で非常に珍重されました。
  • 輸入品:明からは明銭(永楽通宝など)、生糸、絹織物、陶磁器、書籍、書画などが輸入されました。特に大量に輸入された明銭は室町時代の日本の貨幣経済を支える基軸通貨となりました。

この勘合貿易は室町幕府に莫大な利益をもたらしその財政を大きく潤しました。また輸入された先進的な文物はその後の室町時代の文化(特に東山文化)の発展に大きな影響を与えました。

足利義満は「日本国王」という称号をめぐる国内の批判をものともせず実利を優先するという大胆な決断によって勘合貿易という安定した国際関係と富の源泉を幕府にもたらしたのです。彼の現実主義的な外交政策は室町幕府の黄金時代を築くための重要な礎となりました。


8. 正長の土一揆

足利義満の死後室町幕府の権威は徐々に揺らぎ始めます。将軍の権力は弱体化し有力守護大名たちの権力争いが激化しました。そして社会の底辺では長引く戦乱と経済の混乱の中で人々の不満が静かにしかし確実に蓄積されていました。そして1428年(正長元年)その不満はついに日本史上初となる大規模な農民蜂起「正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)」として爆発します。この一揆は支配者であった幕府や荘園領主の意向を無視し民衆が自らの力で社会変革(徳政)を要求した画期的な出来事でした。本章ではこの正長の土一揆がなぜ起こりどのように展開しそして日本の社会にどのような衝撃を与えたのかを探ります。

8.1. 一揆勃発の背景

15世紀前半の日本社会は深刻な問題を抱えていました。

  • 相次ぐ飢饉:天候不順により全国的に凶作が続き多くの人々が飢餓に苦しんでいました。
  • 貨幣経済の浸透と格差の拡大:貨幣経済が農村にまで浸透した結果多くの農民が米や土地を担保に借金を重ねるようになります。その一方で富を蓄積する者も現れ貧富の格差は著しく拡大していました。
  • 高利貸しの横行:特に農民を苦しめたのが**酒屋(さかや)や土倉(どそう)**と呼ばれる高利貸したちの存在でした。彼らは米や土地を担保に金を貸し付け高い利息を取り立てていました。借金を返せなくなった農民は土地を奪われ没落していきました。
  • 政治の不安定:1428年4代将軍・足利義持が跡継ぎを定めないまま急死。その後継者をめぐって幕府内部で政治的な空白と混乱が生じていました。

飢餓と借金そして政治の混乱。これらの要因が重なり合い民衆の不満はもはや爆発寸前の状態に達していたのです。

8.2. 一揆の勃発と「徳政」の要求

1428年8月近江国(滋賀県)の坂本の馬借(ばしゃく、物資輸送を担う運送業者)たちが蜂起したのが一揆の始まりでした。彼らは「代替わり徳政」を要求します。これは新しい将軍が誕生する代替わりの際には社会の秩序をリセットするため借金を帳消しにする「徳政令」が出されるべきだという素朴な社会通念に基づいた要求でした。

彼らは京都に押し寄せると酒屋や土倉、そして高利貸しを営んでいた延暦寺の僧坊などを次々と襲撃し借金の証文(借書)を焼き捨て質草を奪い返しました。

この動きは燎原の火のように近畿地方一帯の農民(土民、どみん)たちへと広がっていきます。数万人に膨れ上がった一揆勢は京都だけでなく奈良やその周辺地域でも蜂起し「徳政」を掲げて高利貸したちを襲撃しました。彼らは自らを「天下の徳政」と称し自分たちの行動が社会の不正を正す正義の行いであることを主張したのです。

8.3. 幕府の対応の混乱

この日本史上初の大規模な民衆蜂起に対し室町幕府の対応は混乱を極めました。

当初幕府は侍所の長官に命じて一揆の鎮圧を試みます。しかし一揆の勢いはあまりにも大きく武力で完全に鎮圧することはできませんでした。

また幕府内部でも対応が分かれました。管領であった畠山満家は徳政令を発布して事態を収拾しようと考えました。しかし幕府の重要な財源は酒屋・土倉からの税収であり彼らの利益を損なう徳政令を出すことは幕府自身の首を絞めることになりかねませんでした。

結局幕府は公的な徳政令を発布することはありませんでした。しかしその一方で農民たちが実力で借金を帳消しにしている現実を事実上黙認せざるを得ませんでした。この幕府の煮え切らない態度はその統治能力の低さと権威の失墜を天下に晒す結果となりました。

8.4. 正長の土一揆の歴史的意義

正長の土一揆は最終的に武力で鎮圧されました。しかしこの事件が日本の歴史に与えた影響は極めて大きいものでした。

  1. 民衆の力の覚醒:それまで支配されるだけの存在であった農民や馬借といった民衆が自らの力で団結し支配層に対して社会変革を要求できるということを初めて証明しました。これは後の時代に頻発する土一揆や国一揆の先駆けとなる画期的な出来事でした。
  2. 幕府権威の失墜:幕府が民衆の蜂起をコントロールできず有効な手を打てなかったことはその統治能力の限界を白日の下に晒しました。将軍や守護大名の権威は大きく揺らぎました。
  3. 徳政の要求の常態化:この一揆をきっかけに社会が不安定になるたびに民衆が「徳政」を求めて蜂起するという風潮が生まれます。幕府はその後何度も徳政令を発布せざるを得なくなり社会経済はさらに混乱していくことになります。

醍醐寺に残る記録『醍醐寺雑事記』はこの一揆について「日本開白以来、土民蜂起是初也(日本が始まって以来農民が蜂起したのはこれが初めてである)」と記しています。正長の土一揆は支配者たちがもはや無視することのできない新しい力、すなわち「民衆」が歴史の表舞台に登場したことを告げる大きな号砲だったのです。


9. 嘉吉の変と将軍暗殺

正長の土一揆によってその権威の揺らぎが明らかになった室町幕府。その失墜を決定づける衝撃的な事件が1441年(嘉吉元年)に起こります。時の将軍・足利義教(あしかがよしのり)が有力守護大名である赤松満祐(あかまつみつすけ)によって自邸に招かれ宴の席で暗殺されるという前代未聞の事態が発生したのです。この「嘉吉の変(かきつのへん)」は一人の将軍の死にとどまらず室町幕府の権力構造そのものを根底から揺るがしその後の政治をさらなる混乱へと導く大きな転換点となりました。

9.1. 「万人恐怖」の将軍・足利義教

事件の被害者となった六代将軍・足利義教は籤引きによって将軍に選ばれたという異例の経歴を持つ人物でした。彼はもともと僧侶としての日々を送っていましたが兄である五代将軍・義量が早世しその後継者がいなかったため還俗して将軍となりました。

義教は兄たちとは対照的に極めて独裁的で厳格な政治を行いました。彼の目標は義満の時代のような強力な将軍権力を復活させることでした。

  • 守護大名への強硬策:義教は有力守護大名たちの力を削ぐため彼らの家督相続に積極的に介入しました。自らの意に沿わない守護大名を次々と討伐したりその領地を没収したりしました。比叡山延暦寺を武力で焼き討ちにするなど仏教勢力に対しても容赦ない態度で臨みました。
  • 籤引き政治:重要事項をしばしば籤引きで決定するなどその政治は気まぐれで予測不可能な側面も持っていました。

その恐怖政治は「万人恐怖」と評され多くの守護大名や公家たちから強い恨みと恐怖の念を抱かれていました。しかしその一方で彼の強力なリーダーシップは一時的に将軍の権威を回復させ幕政の安定をもたらしたという側面もありました。

9.2. 事件の首謀者・赤松満祐

将軍暗殺という大逆事件を起こした赤松満祐は播磨・備前・美作の3カ国の守護を兼ね侍所の長官(所司)も務める幕府の宿老でした。彼は義教の独裁政治を支える有力者の一人でした。

しかし義教の猜疑心は満祐にも向けられます。義教が満祐の嫡男の所領を没収して自らの寵愛する者に与えようとしたり満祐自身もいつか粛清されるのではないかという噂が流れたりする中で満祐は追い詰められていきます。

彼は「このまま座して滅ぼされるよりは」と一世一代の賭けに出ることを決意します。それが将軍の暗殺でした。

9.3. 暗殺の実行

1441年6月24日赤松満祐は自らの戦勝祝いと称して将軍・足利義教を京都の自邸に招きました。宴がたけなわとなった頃満祐は猿楽(さるがく)の公演が始まると見せかけて邸内を騒がせます。その混乱の中で赤松氏の家臣たちが将軍のいる座敷に乱入。義教はなすすべもなくその場で斬り殺されてしまいました。

この知らせに京都は大混乱に陥ります。多くの守護大名たちはあまりの衝撃にすぐには動けませんでした。その隙に満祐は自らの領国である播磨へと逃れ幕府に対して反旗を翻しました。

9.4. 嘉吉の変がもたらした影響

現職の将軍がその家臣によって殺害されるという前代未聞の事件は室町幕府の権威を根底から揺るがしました。

  1. 将軍権威の決定的な失墜:将軍が家臣に殺害されたという事実はもはや将軍が武家の棟梁として絶対的な存在ではないことを天下に示しました。これ以降将軍の権威は地に落ち有力守護大名たちの連合によってかろうじて支えられるだけの存在となっていきます。
  2. 守護大名による幕政の主導:満祐の討伐は有力守護大名である山名宗全(やまなそうぜん)や細川勝元(ほそかわかつもと)らによって行われました。これにより幕府の政治は彼ら有力守護大名たちの合議によって動かされることが決定的となりました。
  3. 嘉吉の徳政一揆:将軍の死という政治的混乱に乗じて正長の土一揆以来の大規模な農民蜂起「嘉吉の徳政一揆(かきつのとくせいいっき)」が勃発しました。一揆勢は京都を占拠し幕府に徳政令の発布を要求。幕府はこれに屈しついに公的な徳政令を発布せざるを得ませんでした。これは幕府がもはや民衆の力をコントロールできないことを示す象_徴的な出来事でした。

嘉吉の変は室町幕府の歴史における大きな分水嶺でした。この事件を境に将軍の権威は失墜し守護大名たちの力が相対的に増大します。そして幕府がコントロールを失った社会の底辺では民衆の力が着実に成長していました。この権力のバランスの変化が次なる日本史上最大の内乱「応仁の乱」へと繋がっていくのです。


10. 応仁・文明の乱

嘉吉の変で将軍が暗殺されその権威が地に落ちた後室町幕府の政治は細川勝元や山名宗全といった有力守護大名たちの間の危ういパワーバランスの上に成り立っていました。しかしこの均衡は将軍家と有力守護大名家それぞれの内部で起こった後継者争いという火種によって破られます。そして1467年(応仁元年)ついに京都を主戦場として全国の守護大名を二分する大乱「応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)」が勃発しました。この戦いは明確な勝者を生まないまま11年にもわたって続き壮麗な都であった京都を焼け野原へと変え室町幕府の権威を事実上崩壊させました。本章ではこの応仁の乱がなぜ起こりどのように展開しそして日本の歴史を「戦国時代」という新たなステージへと導いたのかその原因と帰結を探ります。

10.1. 乱の三大原因

応仁の乱の原因は単一ではありません。いくつかの異なるレベルの対立が複雑に絡み合って発生しました。

  1. 将軍家の後継者争い:八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)には長らく男子が生まれませんでした。そのため彼は弟の義視(よしみ)を養子とし次の将軍とすることを約束します。その際義視の後見人として有力守護大名の細川勝元が付きました。しかしその直後皮肉にも義政の妻である日野富子(ひのとみこ)が男子(後の義尚、よしひさ)を出産します。富子は我が子を将軍にしたいと強く願い義視と対立していたもう一人の有力守護大名・山名宗全を後見人として頼りました。こうして将軍家の後継者争いは「義視・細川派」と「義尚・山名派」という守護大名を巻き込んだ対立へと発展しました。
  2. 有力守護大名家の家督争い:当時管領の職を世襲する名門であった畠山(はたけやま)氏と斯波(しば)氏の内部でも深刻な家督争いが起こっていました。そしてそれぞれの対立候補が細川勝元と山名宗全を頼ったためこの家督争いもまた細川派と山名派の対立に組み込まれていきました。
  3. 細川勝元と山名宗全の対立:これが乱の最も根本的な原因です。東の管領・細川勝元と西の侍所頭人・山名宗全はそれぞれが多くの守護大名と国人を配下に持つ幕府最大の二大勢力でした。両者は当初は協調していましたが次第に幕府の主導権をめぐって激しく対立するようになります。将軍家や他の守護大名家の後継者争いは彼らにとって自らの勢力を拡大するための口実に過ぎませんでした。

10.2. 乱の勃発と西軍・東軍の対立

1467年1月畠山氏の家督争いが発端となり京都で武力衝突が発生。これをきっかけに全国の守護大名が細川方と山名方に分かれ続々と京都に軍勢を集結させます。

  • 東軍: 総大将は細川勝元。将軍・足利義政と弟・義視を支持。兵力は約16万。
  • 西軍: 総大将は山名宗全。日野富子と子・義尚を支持。兵力は約11万。

両軍は京都の市街地を主戦場として陣を構え一進一退の攻防を繰り広げました。東軍の本陣が室町幕府の東側に西軍の本陣が西側にあったことからそれぞれ「東軍」「西軍」と呼ばれました。

戦いは京都の市街戦にとどまりませんでした。それぞれの守護大名の領国でも西軍方と東軍方に分かれた国人たちが争いを始め戦乱は全国へと波及していきました。

10.3. 戦乱の長期化と京都の荒廃

当初誰もが短期決戦で終わると考えていたこの戦いは泥沼化し11年もの長きにわたって続くことになります。

その理由は両軍の戦力が拮抗していたことそして戦いの大義名分が曖昧であったためです。当初は将軍家の後継者争いが口実でしたが1473年に両軍の総大将であった山名宗全と細川勝元が相次いで病死するともはや何のために戦っているのかさえ分からないまま惰性で戦闘が続けられるという状況に陥りました。

この戦いの最大の犠牲者は京都の町とそこに住む人々でした。貴族の邸宅や壮大な寺社は次々と戦火で焼かれ京都は灰燼に帰しました。多くの公家や文化人が戦乱を逃れて地方へと下り逆に地方の文化が発展するきっかけともなりました。

10.4. 応仁の乱の終結とその歴史的意義

1477年大内氏の撤退をきっかけに西軍は事実上崩壊。乱は明確な勝者を生まないまま自然消滅のような形で終結しました。

しかしこの11年間の戦乱が日本の歴史に与えた影響は計り知れないほど大きいものでした。

  1. 室町幕府の権威の完全な失墜:将軍や管領は乱を全く収拾することができずその権威は地に落ちました。幕府はその後も名目上は存続しますがもはや全国を統治する力はなく京都周辺を支配する一地方政権へと転落しました。
  2. 荘園公領制の完全な消滅:戦乱の中で荘園からの年貢は完全に途絶え荘園公領制という土地支配のシステムは完全に消滅しました。土地の支配権は完全に現地の武士の手に移りました。
  3. 下剋上の時代の始まり:乱の中で守護大名が領国を留守にしている間に現地の家臣(守護代)や国人たちが実力で領国を乗っ取る「下剋上(げこくじょう)」の風潮が全国に広がりました。守護大名の中には没落する者も多く現れ代わって**戦国大名(せんごくだいみょう)**と呼ばれる新たな支配者が台頭してきます。

応仁の乱は一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを告げるものでした。室町幕府が築き上げた守護大名による連合政権という古い秩序は完全に崩壊し力こそが全てを決定する「戦国時代」という実力本位の社会がここから始まったのです。


Module 7:南北朝の動乱と室町幕府の総括:分裂と統合そして新たな混沌

本モジュールでは建武の新政の崩壊がもたらした南北朝の動乱という未曾有の国家分裂期の中から室町幕府がいかにして生まれその支配を確立していったのかその栄光と苦悩の軌跡を追った。我々は足利尊氏が創始した幕府が観応の擾乱という内部抗争を乗り越え動乱の中で守護大名という新たな支配階級が台頭する様を見た。三代将軍・義満の時代に幕府はその権力の絶頂を極め南北朝の合一と勘合貿易の開始によって内外にその威光を示した。しかしその栄華の裏では正長の土一揆に象徴される民衆の力の覚醒と嘉吉の変における将軍暗殺という権威の失墜が静かに進行していた。そして将軍家と守護大名家の後継者争いが引き起こした応仁の乱は京都を焦土と化し幕府の権威を完全に崩壊させ日本を「戦国」という新たな混沌の時代へと突き落とした。室町幕府の歴史は分裂した国家をかろうじて統合しながらもその権力構造自体が常に内部崩壊の危険性をはらんでいた脆弱な武家政権の物語でありその終焉は次なる下剋上の時代の必然的な序章であった。

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