【基礎 日本史(通史)】Module 8:戦国時代の動乱

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは応仁・文明の乱が室町幕府の権威を完全に失墜させ京都を焦土へと変える様を見ました。この大乱は一つの時代の終わりを告げると同時に日本の歴史上最も混沌とし最もダイナミックな「戦国時代」の幕開けを意味しました。将軍や天皇といった中央の権威が失墜した力こそが全てを決定する弱肉強食の世界で新たな支配者たちが次々と誕生します。彼らは「戦国大名」と呼ばれ旧来の秩序を破壊し自らの領国を富ませるために革新的な政策を次々と打ち出しました。本モジュールではこの戦国時代の動乱の本質を探ります。それは単なる戦乱の時代ではなく社会のあらゆる階層で古い秩序が崩壊し新しい秩序が生まれる「下剋上」の時代でした。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まずこの時代を象徴する「下剋上」の風潮とそれに乗じて登場した「戦国大名」の出自と性格を分析します。次に彼らが自らの領国をいかにして統治したのかその具体的な経営手法と独自の法典「分国法」の実態に迫ります。そしてこの時代に起こった社会経済の大きな変化、すなわち城下町の建設と楽市・楽座、農民の自治組織である惣村の形成、そして堺に代表される都市の発展と町衆の自治について見ていきます。さらに日本の歴史を大きく変えることになる二つの外的要因、すなわち鉄砲伝来がもたらした戦術の革命とキリスト教の伝来が社会に与えた衝撃を考察します。最後にこれらの動乱の中からなぜそしてどのようにして天下統一を目指す動きが生まれてきたのかその気運を探ります。

  1. 下剋上の風潮と戦国大名の登場: 力が全ての時代の幕開けと新たな支配者「戦国大名」の誕生を見る。
  2. 戦国大名の領国経営と分国法: 戦国大名が自らの領国を統治するために用いた革新的な手法と独自の法律を分析する。
  3. 城下町の建設と楽市・楽座: 戦国時代の経済発展を象徴する城下町の機能と商業活性化政策の実態を探る。
  4. 惣村の形成と農民の自治: 戦乱の時代に農民たちがいかにして団結し自らの村を自らで治めるようになったかを見る。
  5. 都市の発展と町衆の自治: 堺などの自由都市がいかにして大名さえも無視できない力を持つに至ったかを解明する。
  6. 鉄砲伝来と戦術の革命: 一丁の鉄砲が日本の戦争のあり方をいかに根底から変えてしまったのかその衝撃を考察する。
  7. キリスト教の伝来: 新たな宗教が政治や貿易といかに結びつき戦国社会に影響を与えたかを探る。
  8. 大航海時代と日本の遭遇: 戦国日本の出来事を世界史的な文脈の中に位置づけその意味を理解する。
  9. 守護大名から戦国大名へ: 旧来の支配者から新興の支配者へといかにして権力が移行していったのかそのダイナミズムを分析する。
  10. 統一政権出現の気運: 約100年にわたる戦乱の中からなぜ天下統一の動きが生まれ始めたのかその歴史的必然を探る。

このモジュールを学び終える時皆さんは戦国時代が単なる破壊の時代ではなく古い社会が解体され近世という新しい社会の礎が築かれた極めて創造的な時代であったことを深く理解するでしょう。それは織田信長豊臣秀吉そして徳川家康という三人の英雄が登場する舞台がどのようにして整えられていったのかを知る旅でもあります。


目次

1. 下剋上の風潮と戦国大名の登場

応仁の乱によって室町幕府の権威が地に落ちると日本は公的な権力が存在しない力こそが正義となる時代に突入しました。この時代を象徴する言葉が「下剋上(げこくじょう)」です。これは身分の低い者が実力で身分の高い者を打ち破りその地位を奪い取るという風潮を意味します。この下剋上の嵐が吹き荒れる中で旧来の支配者であった守護大名は没落し代わりに全く新しいタイプの領主「戦国大名(せんごくだいみょう)」が歴史の表舞台に登場します。本章ではこの戦国時代という時代の精神と新たな主役である戦国大名の出自と性格を探ります。

1.1. 下剋上:実力本位の時代の到来

「下剋上」はもともと公家の一条兼良が応仁の乱の世相を嘆いて用いた言葉です。それは社会のあらゆる階層で既存の権威と秩序が崩壊していく様を的確に表現していました。

  • 守護代・国人による守護の打倒:守護大名が京都での政争に明け暮れ領国を留守にしている間にその家臣である守護代(守護の代理人)や領国内の有力な在地領主である国人たちが実力をつけ主君である守護を追放したり殺害したりして領国を乗っ取る事件が頻発しました。越後の長尾氏(後の上杉氏)や尾張の織田氏備前の浦上氏などはその典型例です。
  • 農民による領主への抵抗:惣村として団結した農民たちが徳政を求めて蜂起する土一揆はもはや珍しいことではありませんでした。加賀国(石川県)では一向宗(浄土真宗)の信者たちが守護大名を倒しその後約100年間にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる自治的な支配を行いました(加賀一向一揆)。
  • 家臣による主君の追放:戦国大名の家臣団内部でも下剋上は日常茶飯事でした。家臣が主君を裏切りその座を奪うこともあれば実力のある嫡男が父を隠居に追い込んで家督を奪うこともありました。

このように戦国時代とは天皇や将軍の権威はもとより親子や主従といった社会の基本的な関係性さえもが力の前では絶対ではないという極めて流動的で厳しい実力本位の社会でした。

1.2. 戦国大名の登場

この下剋上の風潮の中から登場したのが戦国大名です。彼らは室町時代の守護大名とはその出自と権力の性格において決定的に異なっていました。守護大名の権威があくまで室町幕府の守護職という公的な役職に由来していたのに対し戦国大名の権威の源泉はただ一つ、自らの軍事力と統治能力という「実力」のみでした。

戦国大名の出自は多様であり主に三つの類型に分けることができます。

  1. 守護大名から戦国大名へ移行した者:甲斐の武田氏や駿河の今川氏越後の上杉氏薩摩の島津氏のように室町時代からの守護大名がそのまま戦国時代の厳しい競争を生き抜き自らの領国を実力で支配する戦国大名へと変貌を遂げたタイプです。
  2. 守護代や国人から成り上がった者(下剋上型):これが最も戦国時代らしいタイプです。主君である守護大名を打倒したりその権力を形骸化させたりして領国を奪い取った者たちです。越後の長尾為景(上杉謙信の父)や尾張の織田信秀(信長の父)安芸の毛利元就土佐の長宗我部国親などがその代表例です。
  3. 出自の不明な新興勢力:一介の浪人や商人といった全くの無名の身分から実力一つで成り上がり一国一城の主となった者たちです。美濃国を乗っ取った斎藤道三(油商人とされる)や関東に巨大な勢力を築いた後北条氏の祖である北条早雲(伊勢宗瑞)などがその典型とされています。(ただし早雲の出自については近年研究が進み名門の出身であったとする説も有力です)。

これらの戦国大名に共通していたのは出自や家柄ではなく自らの領国と人民をいかにして守り富ませるかという極めて現実的な統治能力でした。彼らは戦乱の時代を生き抜くため革新的な領国経営に乗り出していくことになります。


2. 戦国大名の領国経営と分国法

応仁の乱後の混乱の中で登場した戦国大名たち。彼らの権力の正統性は室町将軍からの任命ではなくただ自らの実力によってのみ支えられていました。そのため彼らは常に周囲の敵からの侵略や家臣の裏切り家臣団内部の紛争といった危険に晒されていました。この厳しい生存競争を勝ち抜くため戦国大名たちは自らの領国(分国)を一つの独立した国家と捉えそれを効率的に統治するための独自のシステムを創り上げていきました。本章では戦国大名が行った革新的な領国経営の手法と彼らが定めた独自の法律「分国法」について解説します。

2.1. 領国経営の三本柱

戦国大名の領国経営は主に三つの柱から成り立っていました。それは領国内の資源を正確に把握しそれを確実に徴収しそしてその力を背景に領国の富国強兵を図るという合理的なシステムでした。

2.1.1. 検地(けんだま)の実施

大名が領国を安定的に支配するためにはその土地の生産力(石高、こくだか)と年貢を納めるべき農民を正確に把握することが不可欠でした。そのために行われたのが「検地」と呼ばれる土地調査です。

  • 指出検地(さしだしけんち):初期の検地は農民や国人に土地の面積や耕作者などを自己申告させる「指出」という形式が中心でした。しかしこの方法では不正な申告が多く正確な実態を把握するのは困難でした。
  • 貫高制(かんだかせい):多くの戦国大名は土地の面積(反・町)ではなくその土地から上がるべき年貢の量(貫・文)を基準として領国を把握しました。これを「貫高制」と呼びます。大名は家臣に対してその貫高に応じた軍役(兵士や武器を何人分用意するか)を課しました。

この検地によって大名は領国内の生産力を一元的に把握しそれに基づいた合理的で公平な税制と軍事動員体制を築くことが可能になりました。

2.1.2. 家臣団の統制

戦国大名にとって最も重要な課題の一つが家臣団をいかにして統制するかということでした。彼らは国人と呼ばれる独立性の高い在地領主たちを自らの家臣団に組み込み強力な軍事組織を構築する必要がありました。

  • 寄親・寄子制(よりおや・よりこせい):有力な家臣を「寄親」としその周辺の中小の武士たちを「寄子」としてその指揮下に組織させるという軍事編成が多く見られました。これにより大名はピラッド型の指揮系統を通じて領国内の全ての武士を動員することが可能になりました。
  • 城下町への集住:大名は家臣たちをその領地から切り離し自らの居城の城下町に強制的に住まわせることがありました。これにより家臣が領地で独自の勢力を持つことを防ぎ彼らを大名直属の官僚・軍人へと変えていきました。

2.1.3. 富国強兵策

戦国大名は単に税を取り立てるだけでなく領国の経済を活性化させるための様々な政策(富国強兵策)を積極的に行いました。

  • 治水・灌漑事業:農業生産力を向上させるため河川の堤防を築いたり(治水)新たな用水路を開削したり(灌漑)する大規模な土木事業を行いました。甲斐の武田信玄が釜無川に築いた「信玄堤」はその代表例です。
  • 鉱山開発:金銀銅などの鉱山を積極的に開発しそれを軍資金としました。甲斐の金山や石見の銀山は戦国時代の勢力図を左右するほどの重要な財源でした。
  • 商業・交通の整備:城下町に商工業者を集め楽市・楽座などの政策で商業を振興しました。また領国内の関所を撤廃して物資の流通を円滑にするなど交通網の整備にも努めました。

2.2. 分国法(ぶんこくほう):大名による独自の為政

戦国大名たちは自らの領国を統治するための独自の法律を制定しました。これを「分国法」または「家法(かほう)」と呼びます。これは室町幕府の法や朝廷の律令とは全く別のその大名の領国内でのみ通用する法律でした。

  • 目的:分国法の最大の目的は家臣団内部の争いを防ぎ大名への忠誠を徹底させることでした。家臣同士の私的な争い(喧嘩両成敗)を厳しく禁じ全ての紛争は大名の裁判によって解決することが定められました。
  • 内容:分国法には家臣が守るべきことから民衆の生活の細部に至るまで極めて具体的な規定が含まれていました。
    • 家臣の婚姻の許可制
    • 所領の相続に関するルール
    • 売買や金銭貸借のルール
    • 犯罪に対する刑罰
  • 代表的な分国法:
    • 今川仮名目録(いまがわかなもくろく): 駿河・遠江の今川氏が制定。
    • 甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい): 甲斐の武田氏が制定。
    • 塵芥集(じんかいしゅう): 陸奥の伊達氏が制定。
    • 長宗我部元親百箇条(ちょうそかべもとちかひゃっかじょう): 土佐の長宗我部氏が制定。

これらの分国法は武士の実情に合った実践的な内容であり大名が自らの領国において唯一の立法者・裁判者であることを示すものでした。

戦国大名たちはこのように検地・家臣団統制・富国強兵策そして分国法の制定を通じて自らの領国を強力な中央集権的な国家へと変えていきました。彼らはまさに戦乱の時代が生んだ優れた「経営者」であり「立法者」であったのです。そしてこの領国経営の巧拙こそが数多いる戦国大名の中から誰が天下統一の覇者となるのかを決定づける重要な要因となっていくのです。


3. 城下町の建設と楽市・楽座

戦国時代は絶え間ない戦乱の時代でしたがその一方で日本の経済と社会が大きく変貌を遂げた時代でもありました。その変化を象徴するのが「城下町(じょうかまち)」の発展とそこで行われた「楽市・楽座(らくいち・らくざ)」という商業政策です。戦国大名たちは自らの居城の周辺に家臣や商工業者を集めて計画的な都市を建設しました。そしてこれらの城下町を繁栄させるため旧来の商業的な制約を取り払う革新的な政策を打ち出したのです。本章では戦国時代の城下町の機能とそこで行われた楽市・楽座の実態を探ります。

3.1. 城の変化:山城から平山城・平城へ

戦国時代の初期城は主に防衛を目的とした「山城(やまじろ)」でした。敵が攻めてきた時に領主や兵士が立てこもるための軍事要塞であり普段は山の麓にある館で生活していました。

しかし戦国時代が進むにつれて城の役割は変化します。城は単なる軍事拠点であるだけでなく大名が領国を統治するための政治の中心地でありまた領国の経済を支える商業の中心地としての機能をも持つようになりました。

そのため城の立地も険しい山の上から交通の便が良い平野部の小高い丘(平山城、ひらやまじろ)や完全な平地(平城、ひらじろ)へと移っていきました。そしてその城郭の周囲に計画的な都市「城下町」が建設されるようになったのです。

3.2. 城下町の機能と構造

戦国大名が築いた城下町はいくつかの明確な機能を持つ計画都市でした。

  • 軍事都市として:城下町の最も重要な機能は城を守るための防御機能でした。町の周囲には堀や土塁が巡らされ町全体が巨大な要塞となっていました。
  • 政治都市として:大名は領国内の有力な家臣(国人)たちにそれまで彼らが住んでいた自らの領地を離れ城下町に屋敷を構えて住むことを強制しました(城下集住)。これは家臣たちが自らの領地で独立した勢力となることを防ぎ彼らを大名直属の官僚・軍人へと変えるための極めて有効な手段でした。家臣たちは人質として妻子を城下町に置き領国経営や合戦の際には大名の命令一下で出動する体制が整えられたのです。
  • 経済都市として:大名は領国内の商工業者(職人・商人)を城下町に強制的に移住させました。そして彼らを職業ごとに特定の区画(職人町・商人町)に住まわせました。これにより大名は武具の生産や兵糧の調達領国の特産物の販売などを効率的に行うことができました。城下町はまさに大名の領国経済のコントロールタワーだったのです。

3.3. 楽市・楽座:城下町繁栄のための経済政策

城下町に商工業者を集めた大名たちは彼らが活発に経済活動を行えるようにするための保護・奨励策を打ち出しました。その代表的なものが「楽市・楽座」です。

  • 座(ざ)とは何か:中世の日本では商工業者たちは「座」と呼ばれる同業者組合を組織していました。これらの座は朝廷や寺社といった権威ある領主(本所)に営業税(座役)を納める見返りにその領内での営業の独占権を保証されていました。これは既存の商人にとっては安定した利益を保証するものでしたが新規参入を妨げ自由な競争を阻害するという弊害もありました。
  • 楽市令(らくいちれい):大名が自らの城下町に発した楽市令は「市の自由(楽市)」を宣言するものでした。
    • 市場税の免除: 城下の市場で商売をする際に徴収される市場税(市銭)を免除する。
    • 自由な営業の許可: 誰でも自由に城下町で商売をすることを認める。
  • 楽座令(らくざれい):これは「座の特権の否定(楽座)」を意味します。
    • 座の独占権の廃止: 城下町においては既存の座が持つ独占販売権を否定し誰でも自由にその商品を販売できることを認める。

この楽市・楽座の政策は既存の座の特権を否定し自由な商業活動を保証することで全国から多くの商人や職人を城下町に呼び寄せ経済を活性化させることを目的としていました。

3.4. 楽市・楽座の歴史的意義

楽市・楽座の政策は長らく織田信長が始めた革新的な政策として知られていました。しかし近年の研究では信長よりも早く16世紀半ばに近江国(滋賀県)の戦国大名であった**六角定頼(ろっかくさだより)**が自らの城下町・石寺で楽市令を出していたことが分かっています。

この政策が持つ歴史的な意義は大きいものでした。

  1. 経済的意義:楽市・楽座は中世的な商業の独占体制(座)を打ち破り自由な競争を促進するものでした。これは近世の資本主義的な経済へと繋がる大きな一歩でした。
  2. 政治的意義:座の背後には朝廷や寺社といった古い権威が存在しました。大名が楽座令を出すことはこれらの旧権威の経済的支配を否定し自らがその領国内の唯一の経済支配者であることを宣言する行為でもありました。

戦国大名たちはこのように軍事・政治・経済の全てを自らの居城を中心とする城下町に集中させることで強力な中央集権的な領国支配体制を築き上げていきました。城下町の繁栄はそのまま大名の力の象徴であり戦国時代のダイナミックな社会経済の発展を物語るものでした。


4. 惣村の形成と農民の自治

戦国時代が下剋上の時代であったことは大名や武士の世界に限った話ではありませんでした。社会の最も基層をなす農村においても人々は戦乱の時代を生き抜くためかつてないほど強固に団結し自らの村を自らの手で守り運営する自治的な共同体「惣村(そうそん)」を形成していきました。彼らはもはや支配者に従順なだけの存在ではなく時には武器を手に取り領主に対して年貢の減免や徳政を要求する「土一揆」を起こすなど歴史を動かす主体的な力として登場します。本章ではこの惣村がどのように形成されどのように運営されたのかそして彼らが日本の歴史に与えた影響を探ります。

4.1. 惣村の形成

惣村の形成は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて始まりますがその結合が最も強固になったのが戦国時代でした。

  • 背景:
    • 農業生産力の向上: 鎌倉時代以来牛馬耕の普及や二毛作の広がり肥料(刈敷、草木灰)の使用などによって農業生産力が向上しました。これにより農民は経済的な余力を持ち自立性を高めていきました。
    • 戦乱の常態化: 応仁の乱以降領主間の争いが絶えなくなり農民たちは自らの村を戦火や盗賊の略奪から守るため団結して自衛する必要に迫られました。領主の支配力が弱まったことで逆に村の自治的な運営が可能となったのです。

「惣(そう)」とは「全て」「全体」を意味する言葉です。惣村とは村の構成員である**百姓(ひゃくしょう)**たちが全員で村の運営に参加し責任を分かち合う村落共同体を指します。

4.2. 惣村の自治的運営

惣村の運営は極めて民主的かつ自治的なものでした。

  • 寄合(よりあい):村の運営に関する重要事項は「寄合」と呼ばれる村の会議で決定されました。寄合には村の有力者である**乙名(おとな)や沙汰人(さたにん)**だけでなく一般の百姓たちも参加し合議によって村の意思が決定されました。
  • 惣掟(そうおきて):寄合で決定された村のルールは「惣掟」または「村掟」と呼ばれる成文の規約として定められました。惣掟には用水路の管理や山林の共同利用(入会)、あるいは村内の犯罪に対する罰則など村の秩序を維持するための細かなルールが記されていました。違反した者には罰金や村八分といった厳しい制裁が科されました。
  • 自検断(じけんだん):惣村は村内で発生した犯罪を領主の介入を待たずに自らの手で裁き処罰する警察権・裁判権(自検断権)を持っていました。これは惣村が高度な自治権を確立していたことを示す重要な特徴です。
  • 年貢の惣請(そううけ):惣村は領主に対して納める年貢を村全体で一括して請け負いました。これを「惣請」と呼びます。領主は個々の農民からではなく惣村という共同体からまとめて年貢を受け取りました。これにより惣村は領主に対して団体交渉を行う力を持ち年貢の減免などを要求することが可能になりました。

4.3. 農民の抵抗:土一揆(どいっき)

惣村として強固に団結した農民たちはもはや領主の不当な支配に対して泣き寝入りするだけの存在ではありませんでした。彼らは自らの要求が受け入れられない場合武器を手にして蜂起する「土一揆」という最終手段に訴えました。

土一揆の主な要求は借金の帳消しを求める「徳政(とくせい)」でした。彼らは徳政を要求する際には神社の祭礼などを装って団結し「徳政」と書かれた旗を掲げて進軍しました。そして酒屋・土倉・寺社といった高利貸しを襲撃し借金の証文を破り捨てました。

  • 山城国一揆(やましろのくにいっき、1485年):土一揆の中でも特に有名なのが山城国一揆です。この一揆では山城国の国人たちと農民たちが一体となって蜂起し当時の守護大名であった畠山氏の軍勢を国外に追放してしまいました。そしてその後8年間にわたって彼らは「国人の寄合」によって国を自治的に運営しました。これは農民と国人が領主を追い出し一国を支配したという点で「下剋上」を象徴する画期的な出来事でした。
  • 一向一揆(いっこういっき):戦国時代の一揆の中で最も強力で大規模だったのが浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた「一向一揆」です。彼らは「南無阿弥陀仏」の旗を掲げ死を恐れずに戦いました。特に加賀の一向一揆は守護大名・富樫政親を滅ぼしその後約100年間にわたって加賀国を支配しました。これは「百姓の持ちたる国」と呼ばれ日本の歴史上例のない農民による長期的な自治支配を実現しました。

惣村の形成と土一揆の頻発は戦国時代が単なる大名間の戦争の時代ではなく社会の基層である民衆が主体的な力として歴史を動かし始めた時代であったことを示しています。戦国大名たちはもはやこの農民たちの力を無視して領国を統治することはできず彼らとの緊張関係の中で統治を行わなければなりませんでした。


5. 都市の発展と町衆の自治

戦国時代は地方の農村だけでなく都市においても大きな変化が生まれた時代でした。応仁の乱で京都が荒廃した一方地方の港町や商業都市がその重要性を増し経済の中心地として大きく発展しました。そしてこれらの都市では大名や守護の支配を離れ「町衆(まちしゅう)」と呼ばれる裕福な商人たちが主役となって自治的な運営を行う「自由都市」「自治都市」が誕生します。その中でも特に大きな力を持ったのが現在の大阪府堺市にあたる「堺(さかい)」でした。本章では戦国時代の都市の発展とそこで生まれた町衆による自治の実態を探ります。

5.1. 戦国時代の主要都市

戦国時代に発展した都市はいくつかのタイプに分類できます。

  • 城下町:戦国大名の居城の周辺に形成された政治・経済の中心地。大名の強力な支配下にありました。(例:小田原、駿府、一乗谷)
  • 港町(津・泊):水運の拠点として発展した港町です。年貢米の輸送や国内外の交易によって繁栄しました。
  • 寺内町(じないちょう):浄土真宗(一向宗)の寺院を中心にその周囲に信者である商工業者が集まって形成された都市です。寺院の権威を背景に自治的な性格を持っていました。(例:石山本願寺、富田林)
  • 門前町(もんぜんまち):有力な寺社の門前に形成された都市です。参拝客を相手にした商業が発展しました。(例:伊勢の宇治・山田、長野の善光寺)

これらの都市の中で特に大きな自治権を獲得し自由都市として繁栄したのが堺や博多といった港町でした。

5.2. 会合衆による自治都市・堺

堺は瀬戸内海の玄関口に位置し古くから交通の要衝でした。室町時代には勘合貿易の拠点の一つとなり応仁の乱以降は京都に代わる経済の中心地として飛躍的な発展を遂げます。

堺の発展を支えたのは「町衆」と呼ばれる裕福な商人たちでした。彼らは日明貿易や琉球貿易国内の海運業によって莫大な富を蓄積しました。そしてその経済力を背景に大名や守護の支配を徐々に排除し都市の自治的な運営を行うようになります。

堺の自治を担ったのが**会合衆(えごうしゅう)**と呼ばれる36人の有力な商人たちによる合議機関でした。

  • 会合衆の権力:会合衆は堺の政治・経済・司法の全てを掌握していました。
    • 都市の運営: 町の法律(町法)を定め税を徴収しインフラを整備しました。
    • 司法権: 町の内部で起こった紛争を自らの手で裁きました。
    • 軍事力: 都市の周囲に深い堀を巡らせ自衛のための軍事力(傭兵)を雇い外部からの侵略に備えました。
  • 「東洋のベニス」:当時の堺を訪れたキリスト教の宣教師ガスパル・ヴィレラは「この町はベニス市のように執政官によって治められている」と記録しています。会合衆による自治的な運営は同時代のヨーロッパの自由都市(イタリアのヴェネツィアなど)にも比肩するものでした。堺はまさに大名の支配を受けない独立した共和国のような存在だったのです。

5.3. 堺の繁栄を支えたもの

堺の繁栄と自治を支えた要因はいくつかあります。

  • 経済力:日明貿易や南蛮貿易(後述)の中心地として莫大な富が集積しました。鉄砲の生産拠点としても重要でその経済力は一国の大名をも凌駕するほどでした。
  • 文化的中心地:多くの文化人が戦乱の京都を逃れて堺に移り住みました。茶の湯の分野では千利休を生み出すなど文化の最先端を行く都市でもありました。
  • 地政学的位置:堺は京都・奈良に近く細川氏畠山氏三好氏といった畿内の有力な戦国大名たちの勢力が複雑に入り組む場所に位置していました。そのためどの一人の大名も堺を単独で支配することが困難でした。堺の町衆はこの政治的なバランスを巧みに利用し各勢力に資金援助などを行うことでその独立を維持したのです。

博多(福岡県)や平野(大阪市)など他のいくつかの都市でも同様に町衆による自治的な運営が見られました。

5.4. 都市の自治の終焉

しかしこれらの自由都市の繁栄は天下統一を目指す強力な権力者の登場によって終わりを告げます。

織田信長は畿内を制圧すると堺に対して矢銭(やせん、軍資金)の提供を要求しその軍門に下らせました。豊臣秀吉はさらに支配を徹底し堺の周囲の堀を埋めさせその自治権を完全に奪い自らの直轄都市としました。

信長や秀吉といった天下人にとって大名さえも無視できない力を持つ自治都市の存在は自らの統一事業の障害となるものでありその独立を許すことはできなかったのです。

戦国時代の自由都市の存在は日本の歴史が必ずしも武士による封建的な支配一辺倒ではなかったことを示しています。それは商業と経済の力が政治をも動かしうるダイナミックな社会であったことの証左です。彼らが築いた富と文化は後の安土桃山時代そして江戸時代の経済的・文化的な繁栄の重要な礎となりました。


6. 鉄砲伝来と戦術の革命

戦国時代の日本の歴史を決定的に変えた一つの出来事。それは1543年の鉄砲伝来でした。九州南端の小さな島・種子島に漂着した一隻の異国の船がもたらしたこの新しい武器はまたたく間に日本全土に広まりそれまでの戦争のあり方を根底から覆す戦術の革命を引き起こしました。個人の武勇を誇った騎馬武者が主役だった時代は終わりを告げ訓練された足軽による集団戦法が勝敗を決する新しい時代が始まったのです。本章ではこの鉄砲伝来の経緯とその後の普及そしてそれが戦国時代の戦術にいかなる革命をもたらしたのかを探ります。

6.1. 1543年、種子島への漂着

1543年(天文12年)明の船に乗ったポルトガル商人が嵐のため日本の種子島(たねがしま、鹿児島県)に漂着しました。この時彼らが所持していたのが火縄銃(ひなわじゅう)、すなわち鉄砲でした。

島主であった**種子島時堯(たねがしまときたか)**は鉄砲が持つ轟音と驚異的な威力に衝撃を受けました。彼はポルトガル人から2挺の鉄砲を破格の高値(2000両ともいわれる)で購入します。そして家臣にその操作方法と火薬の調合方法を学ばせると同時に地元の刀鍛冶にその構造を研究させ複製を命じました。

当時の日本の刀鍛冶たちは世界的に見ても極めて高い鉄の加工技術を持っていました。彼らは銃身の製造には成功しましたが銃の心臓部であるネジの製作に苦労したと伝えられています。しかしやがてその問題も克服し鉄砲の国産化に成功します。

6.2. 鉄砲の驚異的な普及

種子島で始まった鉄砲の生産は驚くべき速さで日本全土へと広がっていきました。

  • 生産拠点:鉄砲の生産はすぐに堺や近江国の国友(くにとも、滋賀県長浜市)根来(ねごろ、和歌山県)といった高い技術力を持つ職人集団がいる地域へと伝わりました。特に自由都市・堺は一大生産拠点となり最盛期には世界の鉄砲生産の半分以上を占めたとも言われています。
  • 普及の背景:なぜ日本ではヨーロッパの他の地域と比べてもこれほど急速に鉄砲が普及したのでしょうか。
    1. 内戦状態: 日本が絶え間ない内戦状態(戦国時代)にあり新しい強力な武器に対する需要が極めて高かったこと。
    2. 高い技術力: 刀の生産で培われた高度な鍛冶技術や分業システムが存在したこと。
    3. 大名の財力: 戦国大名たちが金銀山の開発などによって鉄砲を大量に購入するだけの財力を持っていたこと。

この結果鉄砲伝来からわずか30年後の1570年代には日本は世界最大の鉄砲保有国となっていたと考えられています。

6.3. 戦術の革命:個の戦いから集団の戦いへ

鉄砲の普及はそれまでの日本の戦争の常識を全て塗り替えました。

  • 騎馬武者の没落:それまでの合戦の主役は馬上で弓を射ることを得意とした位の高い騎馬武者でした。彼らは「一騎討ち」に象徴されるように個人の武勇と名誉を重んじていました。しかし鉄砲から放たれる鉛の弾は彼らが身につけた高価で重い鎧(大鎧)をいとも簡単に貫通してしまいます。個人の熟練した弓の技術も鉄砲の威力の前には無力でした。これにより騎馬武者は合戦の主役の座を降りることになります。
  • 足軽(あしがる)の重要性の増大:鉄砲の操作は弓に比べて習熟がはるかに容易でした。数日間の訓練さえ積めば誰でも扱うことができました。そのため大名たちはそれまで補助的な兵力としか見なされていなかった身分の低い歩兵「足軽」に鉄砲を持たせ軍隊の主力として組織化するようになります。
  • 集団戦法(長篠の戦い):鉄砲には弾込めに時間がかかるという弱点がありました。この弱点を克服し鉄砲の威力を最大限に引き出すための新しい戦術を編み出したのが織田信長でした。1575年の長篠の戦いで信長は当時最強と謳われた武田勝頼の騎馬軍団に対し3000挺もの鉄砲を用意しました。そして鉄砲隊を三段に分け一列目が撃ち終わったら二列目が撃つという「三段撃ち」の戦法(近年の研究ではその実在性について議論があります)で途切れることなく一斉射撃を浴びせかけ武田の騎馬軍団を壊滅させました。この戦いは個人の武勇に頼った古い戦術が訓練された足軽による組織的な集団戦法の前に完全に敗北したことを象C徴するものであり戦国時代の戦いのあり方を決定づけた画期的な戦いでした。

6.4. 城の構造の変化

鉄砲の普及は城の造り方にも大きな影響を与えました。

  • 石垣と天守閣:それまでの土塁と木の柵を中心とした城では鉄砲や大砲の攻撃に耐えることができません。そのため城の防御は高い石垣を多用するようになります。また城の中心には司令塔としてそして大名の権威の象徴として高くそびえる「天守閣(てんしゅかく)」が築かれるようになりました。
  • 複雑な設計:城の設計も鉄砲戦を想定したものへと変化しました。城壁に鉄砲を撃つための狭間(さま)を設けたり敵兵の直進を防ぐために通路を複雑に折り曲げたり(枡形虎口、ますがたこぐち)するなどより実践的で複雑な構造へと進化していきました。

鉄砲の伝来は単に新しい武器が一つ増えたという以上の意味を持っていました。それは戦争の主役を貴族的な騎馬武者から無名の足軽へと交代させ戦争の形態を個人の武勇の競い合いから組織力と経済力が勝敗を決する近代的な集団戦へと変質させるものでした。そしてこの変化に最も早く適応し鉄砲を最も効果的に利用した者こそが天下統一の覇者となる資格を得ることになるのです。


7. キリスト教の伝来

鉄砲伝来からわずか6年後の1549年日本社会に鉄砲と同じくヨーロッパからもう一つの大きな衝撃がもたらされます。それがイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の伝来です。この新しい宗教は仏教や神道とは全く異なる唯一絶対の神を信仰する一神教でありその教えは日本の人々の世界観を大きく揺さぶりました。そしてキリスト教の布教は単なる宗教活動にとどまらず当時のヨーロッパ人が進めていた大航海時代の貿易(南蛮貿易)と密接に結びついており戦国大名たちの政治や経済にも大きな影響を与えていくことになります。

7.1. フランシスコ・ザビエルの来日

1549年8月イエズス会の創設メンバーの一人であるスペイン人の宣教師フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸しました。彼の目的はキリスト教の教えを日本に広めることでした。

ザビエルはまず薩摩国の守護大名・島津貴久(しまづたかひさ)に謁見し布教の許可を得ます。その後彼は平戸や山口を巡り各地で領主や民衆にキリスト教の教えを説きました。そして最終的には「日本の国王」に会って布教の許可を得るため京都を目指します。

しかし当時の京都は戦乱で荒廃しており天皇や将軍に会うことは叶いませんでした。ザビエルは日本の統治が中央集権的ではなく各地の大名によって分割されている現実を理解します。そして彼は布教の戦略として民衆に直接教えを広めるよりもまず地方の有力な大名を改宗させその権威を利用して領民に布教を進めるという「トップダウン」方式が有効であると考えるようになりました。

ザビエル自身は日本に約2年間滞在した後日本を去りますが彼の蒔いた種はその後来日する宣教師たちによって受け継がれ大きく成長していくことになります。

7.2. 布教の拡大とキリシタン大名

ザビエルの後を継いだガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスといった宣教師たちは主に九州や畿内地方を中心に精力的な布教活動を展開しました。

彼らの布教が成功した背景にはいくつかの要因がありました。

  • 宣教師たちの熱意と人格:彼らは医療や福祉といった社会事業を積極的に行いその献身的な姿勢は多くの日本人の心を打ちました。
  • 仏教勢力への対抗:一部の大名は自らの領内で強大な力を持つ仏教寺院の勢力を抑えるため対抗馬としてキリスト教を保護することがありました。
  • 南蛮貿易との結びつき:これが最も大きな要因です。キリスト教の布教活動はポルトガルやスペインとの南蛮貿易と常に一体でした。宣教師が来航する場所には鉄砲や生糸火薬といった貴重な品々を積んだ南蛮船がやってきます。そのため多くの戦国大名にとってキリスト教を受け入れることは南蛮貿易の利益を得るための有効な手段でした。

このような理由から自ら洗礼を受けキリスト教徒となる大名が次々と現れました。彼らを「キリシタン大名」と呼びます。

  • 大村純忠(おおむらすみただ):日本で最初のキリシタン大名。彼は1580年に自らの領地であった長崎の港をイエズス会に寄進しました。これにより長崎は南蛮貿易とキリスト教布教の中心地として急速に発展します。
  • 大友宗麟(おおともそうりん):九州北部に広大な勢力を誇った有力大名。彼は南蛮貿易の利益を求めてキリスト教を保護し自らも洗礼を受けました。
  • 有馬晴信(ありまはるのぶ):肥前国の大名。

これらのキリシタン大名の領内ではキリスト教は急速に広まり教会(南蛮寺)や神学校(セミナリヨ)コレジオといった施設が次々と建てられました。また天正遣欧少年使節の派遣も行われ日本の文化がヨーロッパに紹介されるきっかけともなりました。

7.3. 既存宗教や社会との摩擦

しかしキリスト教の教えは日本の伝統的な宗教や社会と相容れない部分も多く様々な摩擦や対立を引き起こしました。

  • 一神教と多神教の対立:キリスト教は唯一絶対の神(デウス)のみを信仰し他の神々の存在を認めません。そのため信者たちは日本の伝統的な神(神道)や仏(仏教)を偶像崇拝であるとして破壊する(神社仏閣の焼き討ちなど)過激な行動に出ることがありました。これは既存の仏教勢力や地域の住民との深刻な宗教対立を引き起こしました。
  • 日本人奴隷貿易の問題:一部のポルトガル商人が日本人を奴隷として買い取り海外に売り飛ばすという非人道的な行為を行っていました。キリシタン大名の中にはこれを黙認あるいは手助けしていた者もいたとされ後の豊臣秀吉によるキリスト教弾圧の一因になったとも言われています。

7.4. 統一権力との関係

戦国時代の分裂期においてはキリスト教は南蛮貿易の利益と結びつき大名たちによって保護され拡大しました。しかし織田信長豊臣秀吉といった強力な統一権力が登場するとその関係は大きく変化します。

信長は当初仏教勢力に対抗するためキリスト教を保護しました。しかし秀吉はキリスト教が日本の伝統的な社会秩序を破壊し信者が大名よりも神に忠誠を誓うことそして九州の土地が外国の宗教団体(イエズス会)に寄進されている事態を危険視します。彼はやがてキリスト教を厳しく弾圧する政策へと転換していくことになるのです。

キリスト教の伝来は日本の戦国時代に国際的な視野と新たな価値観をもたらしました。しかしそれは同時に日本の社会と政治に新たな対立の火種を生み出す諸刃の剣でもあったのです。


8. 大航海時代と日本の遭遇

16世紀の日本で起こっていた戦国時代の動乱や鉄砲・キリスト教の伝来。これらの出来事は日本列島の中だけで完結するものではありませんでした。それは当時ヨーロッパで始まっていた「大航海時代」という世界史的な大きなうねりと直接的に結びついていました。日本の戦国時代はまさに日本が初めて本格的に「世界」と遭遇した時代だったのです。本章では戦国日本の出来事をより広いグローバルな文脈の中に位置づけその歴史的な意味を考察します。

8.1. 大航海時代の始まり

15世紀後半から16世紀にかけてヨーロッパの国々特にポルトガルとスペインは新しい航路を開拓しアジアやアメリカ大陸へと進出する大航海時代を迎えていました。

  • 動機:
    • 経済的動機: アジアの特産物である香辛料(コショウなど)や絹織物をイスラム商人やイタリア商人を介さず直接輸入し莫大な利益を上げること。
    • 宗教的動機: イスラム勢力に対抗するためキリスト教を世界に広めること。
  • 技術的背景:羅針盤の改良や頑丈な大型帆船(キャラベル船)の開発など遠洋航海を可能にする技術が発達しました。

ポルトガルはアフリカ大陸の南端を回る東回り航路を開拓しアジア貿易の主導権を握りました。一方スペインは西回り航路でアメリカ大陸に到達し広大な植民地を築きました。

8.2. 日本への到達

ポルトガル人が種子島に漂着しザビエルが鹿児島に上陸したのはこのポルトガルのアジア進出の大きな流れの中での出来事でした。彼らはインドのゴアやマレー半島のマラッカ中国のマカオなどに貿易と布教の拠点を築きながらさらに東へと進出しその最終目的地の一つが伝説の黄金の国「ジパング」すなわち日本だったのです。

彼らヨーロッパ人(日本では「南蛮人(なんばんじん)」と呼ばれた)が日本にもたらしたものは鉄砲やキリスト教だけではありませんでした。

  • 新しい文物:タバコ、カボチャ、ジャガイモ、ガラス製品、時計、眼鏡など様々な新しい文物がもたらされ日本の生活文化に影響を与えました。
  • 新しい知識:天文学、地理学、医学、印刷術といったヨーロッパの科学技術や学問が伝えられました。世界地図を目にした日本の知識人たちは自国が世界の中心ではなく広大な世界の中の一国に過ぎないことを初めて知りました。

この南蛮人との交易を南蛮貿易と呼びます。

8.3. 世界史の中の戦国時代

この大航海時代というグローバルな文脈で日本の戦国時代を捉え直すといくつかの興味深い点が見えてきます。

  • 日本の高いポテンシャル:当時ヨーロッパ人がアジアで接触した多くの国々は彼らの軍事力や経済力の前に容易に植民地化されていきました。しかし日本はそうなりませんでした。その理由として戦国時代を通じて培われた日本の高い軍事力(鉄砲の大量生産など)と政治的な統一への気運が挙げられます。分裂状態にありながらも日本はヨーロッパ列強の侵略を許さないだけの国力を持っていたのです。
  • 銀の世界的な環流:16世紀には石見銀山などで日本の銀の生産量が飛躍的に増大しました。この日本の銀は南蛮貿易を通じて大量に中国へと輸出されました。当時明では税の支払いを銀で行う一条鞭法(いちじょうべんぽう)が始まっており銀の需要が極めて高かったためです。一方でアメリカ大陸のポトシ銀山などで採掘された銀もスペインを通じてヨーロッパそしてアジアへと流入していました。日本の銀はまさにこの世界的な銀の環流(グローバル・エコノミー)の重要な一翼を担っていたのです。

8.4. その後の影響

大航海時代における日本とヨーロッパの遭遇はその後の日本の歴史を大きく左右しました。

豊臣秀吉や徳川家康といった天下人たちは南蛮貿易がもたらす富の重要性を認識しつつもキリスト教の布教がスペインやポルトガルによる植民地化の第一歩になるのではないかという強い警戒心を抱いていました。

この警戒心がやがて秀吉によるバテレン追放令や江戸幕府による「鎖国」政策へと繋がっていきます。それは世界史の大きな流れから日本が一時的に距離を置くという選択でしたがその背景には戦国時代にヨーロッパと直接接触した経験があったのです。

戦国時代は日本が内乱に明け暮れていた閉鎖的な時代ではありません。それは大航海時代という世界史の激動の海に日本という船が漕ぎ出した最初の航海の時代でもあったのです。この世界との遭遇が良くも悪くもその後の日本の進路を大きく規定していくことになりました。


9. 守護大名から戦国大名へ

応仁の乱によって室町幕府の権威が失墜したことで日本の地方支配のあり方は決定的に変化しました。それまで幕府から守護職に任命されることでその権威を保証されていた「守護大名」の多くは没落します。そしてその代わりに実力によって領国を支配する「戦国大名」が台頭してきました。この「守護大名から戦国大名へ」という変化は単なる支配者の交代劇ではありません。それは日本の支配者のあり方が「権威」から「実力」へそして「分権」から「中央集権」へと移行していく日本の歴史における大きな構造転換でした。本章ではこの二つの「大名」がどのように異なりいかにして権力の移行が起こったのかを分析します。

9.1. 守護大名の権力とその限界

室町時代の守護大名は幕府から任命された守護職としてその国の軍事・警察権を担っていました。彼らは半済や守護請といった手段で荘園や公領を侵食し領国内の国人を被官化することで領国支配(守護領国制)を確立しました。

しかしその権力にはいくつかの構造的な限界がありました。

  • 権威の源泉が幕府にある:守護大名の支配の正統性はあくまで室町幕府の将軍から「守護」に任命されているという事実にありました。そのため幕府の権威が揺らげば自らの支配の正統性も揺らぐという弱点を抱えていました。
  • 領国支配の不徹底:守護大名の領国支配は多くの場合国人たちの独立性をある程度認める連合政権的な性格を持っていました。守護大名は国人たちの盟主ではあっても絶対的な君主ではありませんでした。
  • 在京義務:有力な守護大名の多くは幕府の要職に就いていたため京都に在住する期間が長く領国の統治はしばしば家臣である「守護代」に任せきりになっていました。

9.2. 戦国大名の権力とその特徴

応仁の乱の混乱の中でこれらの守護大名の限界が露呈します。そして彼らに代わって登場したのが戦国大名です。

戦国大名の権力は守護大名とは全く異なる原理に基づいていました。

  • 権威の源泉が実力にある:戦国大名の支配の正統性は幕府からの任命ではなく自らの軍事力経済力そして統治能力という実力のみにありました。彼らは力で領国を奪い取り力でそれを維持しました。
  • 一元的な領国支配:戦国大名は領国内の国人たちの独立性を認めませんでした。彼らは検地によって国人たちの経済基盤を直接把握し城下町への集住を強制することで彼らを完全に自らの家臣団に組み込みました。大名は領国内の唯一絶対の君主として君臨しました。
  • 在国統治:戦国大名は京都の幕府政治にはほとんど関心を示さず常に自らの領国にいてその経営に専念しました。彼らにとって重要なのは幕府での地位ではなく自らの領国をいかに富ませ強くするかということでした。

9.3. 権力移行のパターン

守護大名から戦国大名への権力の移行はいくつかのパターンを経て行われました。

  1. 守護大名がそのまま戦国大名化するパターン:甲斐の武田氏や駿河の今川氏薩摩の島津氏のように守護大名自身が時代の変化に適応し国人たちを抑えて強力な中央集権的な支配を確立し戦国大名として生き残ったケースです。
  2. 守護代が主君を凌駕するパターン(下剋上):守護大名が京都にいる間に領国で実権を握った守護代が主君である守護大名を追放したり傀儡化したりして自らがその領国の支配者となるケースです。越後の長尾氏(上杉氏)や尾張の織田氏がこの典型例です。
  3. 国人が守護・守護代を打倒するパターン(下剋上):領国内の国人たちが団結し守護や守護代を打倒してその中から新たな支配者が生まれるケースです。安芸の毛利元就や土佐の長宗我部元親などがこれにあたります。

9.4. 歴史的意義:近世封建制への道

この守護大名から戦国大名への移行は日本の社会が中世的な分権体制から近世的な中央集権体制(幕藩体制)へと向かう重要な過渡期であったことを意味します。

戦国大名が自らの領国で行った検地や家臣団統制といった中央集権的な支配のあり方は後に豊臣秀吉や徳川家康が天下を統一し全国的な支配システムを構築する際のモデルとなりました。

守護大名が室町幕府という古い秩序の最後の担い手であったとすれば戦国大名は力によって新たな秩序を創造しようとした革命家でした。彼らの激しい生存競争の中からやがて日本を再び一つにまとめる強力な統一権力が生まれようとしていたのです。


10. 統一政権出現の気運

応仁の乱から約100年。日本列島は数多の戦国大名が互いに領土を奪い合う群雄割拠の状態が続いていました。絶え間ない戦乱は多くの人々に苦しみをもたらしましたがその一方でこの時代は社会のあり方を根底から変える大きなエネルギーを生み出しました。農業生産力は向上し商業や都市が発展しそして社会の流動性は高まりました。そして16世紀半ばになるとこの無秩序な状況の中から再び日本を一つの安定した秩序のもとにまとめ上げようとする「天下統一」への気運が高まっていきます。本章では戦国時代の動乱の中からなぜ統一政権の出現が望まれるようになったのかその歴史的な背景と必然性を探ります。

10.1. 戦乱の時代の終焉への希求

約一世紀にわたる戦乱は人々に深い疲弊と平和への渇望をもたらしました。

  • 民衆の願い:農民や商人といった一般民衆にとって絶え間ない戦争は自らの生命や財産を脅かす最大の脅威でした。彼らは安定した社会秩序のもとで安心して生産活動や商業活動に専念できる平和な時代の到来を強く望んでいました。
  • 宗教界の疲弊:多くの仏教寺院もまた戦国大名たちの争いに巻き込まれその所領を奪われたり兵火によって焼かれたりしました。彼らもまた強力な権力者による秩序の回復を望むようになりました。

10.2. 経済的発展と統一市場の要請

戦国時代は戦乱の時代であると同時に日本の経済が大きく発展した時代でもありました。

  • 農業生産の増大:戦国大名たちによる治水・灌漑事業や新しい農具の普及によって農業生産力は大きく向上しました。
  • 商工業の発展:城下町の発展や楽市・楽座などの政策によって商業活動は活発化しました。また各地に特産物が生まれそれらを結ぶ全国的な流通網が形成されつつありました。

しかし戦国大名たちがそれぞれ領国ごとに関所を設けたり異なる通貨を使用したりするなど分裂状態が続いていることは全国的な規模での経済発展の大きな妨げとなっていました。商工業者たちは関所の撤廃や通貨の統一交通網の整備などを実現してくれる強力な統一政権の出現を経済的に要請していたのです。

10.3. 地域的統一の達成

16世紀半ばになると一部の有力な戦国大名が周辺の敵を打ち破り一国あるいは数カ国にまたがる広域的な領国支配を確立するようになります。

  • 地域的統一政権:関東の後北条氏、東海の今川氏・武田氏、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏といった大名たちはそれぞれが自らの領国内に安定した秩序を築き上げることに成功していました。

これらの地域的な統一政権の出現は「やがてはこの中から最も強力な者が現れ日本全体を統一するのではないか」という気運を社会全体にもたらしました。天下統一はもはや夢物語ではなく現実的な政治目標として人々の意識に上るようになったのです。

10.4. 天下布武への道

この天下統一の事業に最も近い位置にいたのが駿河・遠江・三河の三国を支配し「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元でした。彼は大軍を率いて京都へと上洛し足利将軍家に代わって天下を支配しようという野望を抱いていました。

そして1560年その上洛の途上で今川義元は尾張国のある一人の戦国大名によって討ち取られます。その男こそ「うつけ者」と呼ばれていた織田信長でした。

この桶狭間の戦いでの劇的な勝利をきっかけに織田信長は歴史の表舞台へと躍り出します。そして彼は「天下布武(てんかふぶ)」という印を掲げ武力によって天下を統一し新しい時代を築くという明確な意志を持って行動を開始します。

約100年にわたる戦国時代の動乱は社会の古いしがらみを破壊し日本をリセットしました。そしてその焦土の中から織田信長豊臣秀吉徳川家康という三人の英雄が次々と登場し日本を再び一つの秩序のもとにまとめ上げていく近世という新しい時代の扉が開かれることになるのです。


Module 8:戦国時代の動乱の総括:破壊と創造の時代

本モジュールでは応仁の乱によって室町幕府の権威が崩壊した後の約1世紀にわたる戦国時代の動乱を概観した。我々は「下剋上」という実力本位の風潮の中から守護大名に代わって「戦国大名」という新たな支配者が登場し彼らが分国法や城下町の建設といった革新的な手法で自らの領国を経営する様を見た。それは単なる武力抗争の時代ではなく社会の基層では惣村に代表される農民の自治が生まれ堺のような自由都市が繁栄するなど大きな社会経済的変革が進行した時代でもあった。そして鉄砲とキリスト教というヨーロッパからの二つの衝撃はこの動乱をさらに加速させ日本の戦争のあり方と世界観を根底から変えた。この長期にわたる破壊と混沌の中から古い秩序は完全に解体されより強力で中央集権的な統一政権の出現を待望する気運が醸成されていった。戦国時代は中世の終わりであり近世の始まりを準備した破壊と創造の時代だったのである。

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