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【基礎 日本史(通史)】Module 13:幕政改革の時代
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは三代将軍・家光の時代までに江戸幕府の支配体制が完成し「天下泰平」と呼ばれる長期安定期が訪れたことを見ました。しかしこの盤石に見えた徳川の平和も18世紀に入るとその内部から徐々に綻びを見せ始めます。武士階級の経済的困窮幕府の財政難そして商品経済の発展に伴う社会の歪み。これらの構造的な問題に対し幕府は歴代の将軍や老中たちの主導のもとで幾度となく「幕政改革」と呼ばれる大規模な立て直しを試みます。本モジュールでは江戸時代中期から後期にかけて行われた三大改革(享保・寛政・天保)と田沼意次の政治を中心に幕府がいかにして自らの統治システムの延命を図ろうとしたのかその苦闘の歴史を探ります。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず五代将軍・綱吉の治世と彼の特異な政策がもたらした財政の混乱を見ます。次に綱吉の政治を修正しようとした新井白石の「正徳の治」を分析します。そして八代将軍・吉宗が断行した幕政改革のモデル「享保の改革」の内容に迫ります。その後商業資本を積極的に利用しようとした田沼意次の革新的な政治とそれが天明の飢饉によって挫折する様を追います。田沼政治への反動として行われた松平定信による緊縮的な「寛政の改革」を解き明かし同時にロシアの南下という新たな外的脅威の到来を見ます。さらに社会の矛盾が爆発した大塩平八郎の乱と幕府最後の本格的な改革であった水野忠邦の「天保の改革」の失敗を探り百姓一揆や打ちこわしの激化という社会不安の増大を考察します。
- 徳川綱吉の治世と生類憐みの令: 文治政治の理想と極端な動物愛護政策がもたらした社会の混乱と財政悪化を探る。
- 新井白石の正徳の治: 綱吉の治世の弊害を修正しようとした学者官僚による緊縮財政と権威回復の試みを分析する。
- 享保の改革(徳川吉宗): 「幕府中興の祖」吉宗が断行した原点回帰の改革「享保の改革」の具体的な内容とその成果を見る。
- 田沼意次の政治: 商業の力を利用して幕府財政を再建しようとした田沼意次の革新的な経済政策とその功罪を評価する。
- 天明の飢饉: 田沼時代を襲った大飢饉が社会にいかなる惨状をもたらし政治の転換をいかに引き起こしたかを探る。
- 寛政の改革(松平定信): 田沼政治への反動として行われた松平定信による厳格な緊縮財政と思想統制の実態を解明する。
- ロシアの南下と蝦夷地の調査: 長い平和の眠りを揺るがす外国船の接近と日本の北方への関心の高まりを見る。
- 大塩平八郎の乱: 元幕府役人が起こした衝撃的な反乱が幕府の支配体制の脆弱性をいかに白日の下に晒したかを分析する。
- 天保の改革(水野忠邦): 幕府が最後に行った大規模な改革がなぜ失敗に終わりその権威をさらに失墜させたのかを探る。
- 百姓一揆と打ちこわしの激化: 江戸時代後期に頻発・激化した民衆の反乱が社会の変革を求める大きなうねりとなっていった様を考察する。
このモジュールを学び終える時皆さんは平和な時代であった江戸時代もその内部に常に深刻な問題を抱え幕府がその解決のために苦闘し続けた改革の時代であったことそしてその改革の多くが旧来のシステムを守るためのものであり時代の大きな変化に対応しきれなくなっていく歴史の必然を深く理解することになるでしょう。
1. 徳川綱吉の治世と生類憐みの令
四代将軍・家綱の時代に始まった文治政治の流れは五代将軍・徳川綱吉(つなよし)の時代にその頂点を迎えると同時にその特異な性格から大きな歪みを生み出しました。綱吉は学問を深く愛し儒教的な理想政治を目指す一方で極端な動物愛護政策である「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」を発布し庶民の生活を著しく圧迫しました。また悪化した幕府財政を補うため貨幣の質を落とす政策をとり経済に大きな混乱を招きました。本章ではこの綱吉の治世の光と影を探ります。
1.1. 文治政治の推進
館林藩主であった綱吉は兄である家綱に跡継ぎがいなかったため将軍となりました。彼は幼い頃から学問に優れ特に儒学に深い関心を持っていました。将軍に就任すると彼はその儒教的な理想に基づいて文治政治を強力に推進します。
- 湯島聖堂の建立:彼は江戸の上野にあった林家の私塾を湯島に移し孔子を祀る聖堂として「湯島聖堂」を建立しました。そして林家を大学頭に任命しここを幕府の公式な学問の中心地(後の昌平坂学問所)としました。
- 武家諸法度の改訂:彼は武家諸法度を改訂し武士が守るべき最も重要な徳目として「忠孝」を第一条に掲げました。これは武士に求められるものが武勇から儒教的な道徳へと完全に移行したことを示しています。
綱吉の治世の前半は「天和の治(てんなのち)」と呼ばれ政治は比較的安定し次の元禄文化が花開く土壌が育まれました。
1.2. 生類憐みの令:極端な動物愛護
しかし綱吉の政治はその後半から大きくその性格を変えます。その象徴が1685年から約20年間にわたって断続的に発布された「生類憐みの令」でした。
- 発布の動機:綱吉がこの異様な法令を発布した動機は一つではありません。彼が跡継ぎに恵まれなかったため寵愛していた僧侶・隆光から「前世での殺生の罪が原因である。生き物を憐れめば子が授かるだろう」と説かれたことが直接的なきっかけであったと言われています。しかしその根底には儒教の「仁」の思想や仏教の殺生を禁じる思想がありました。
- 法令の内容:この法令は当初捨て子や病人、行き倒れの旅人などを保護する内容も含まれていました。しかし次第にその中心は動物の愛護へと移っていきます。特に綱吉が戌年生まれであったことから犬を保護する法令が数多く出されました。江戸市中には犬を保護するための巨大な犬小屋が作られ野良犬に餌をやるための費用は町人の負担とされました。犬を傷つけたり殺したりした者は死罪などの厳しい罰を受けました。犬だけでなく鳥や魚、虫に至るまであらゆる生き物の殺生が禁じられました。
1.3. 庶民生活への影響
この法令は庶民の生活に深刻な影響を与えました。
- 生活の圧迫:農民は田畑を荒らす鳥獣を追い払うこともできず漁師は漁を制限されました。江戸の町では増えすぎた野良犬が人の往来を妨げ衛生状態も悪化しました。
- 極端な運用:武士が自分の子供を斬り殺した罪よりも燕の巣を落とした罪の方が重い判決を受けるなどその運用は常軌を逸していました。人々は密告を恐れ些細なことで罰せられることに怯えながら生活しなければなりませんでした。「犬公方(いぬくぼう)」という綱吉への揶揄は庶民の深い怨嗟の現れでした。
1.4. 貨幣改鋳と元禄文化
綱吉の治世下で幕府は深刻な財政難に陥りました。生類憐みの令関連の出費に加え金銀山の産出量が減少していたためです。
この財政難を乗り切るため勘定奉行の**荻原重秀(おぎわらしげひで)は貨幣に含まれる金銀の含有量を減らして新しい貨幣(元禄金銀)を鋳造しその差益(出目、でめ)を幕府の収入とする貨幣改鋳(かへいかいちゅう)**を提案し実行しました。
この政策は一時的に幕府の財政を潤しました。しかし市場に流通する貨幣の質が低下したことで**激しいインフレーション(物価の高騰)**を引き起こし庶民の生活をさらに苦しめる結果となりました。
一方でこの貨幣改鋳によって市中に多くの貨幣が出回ったことは商業活動を活発化させました。そしてその経済的繁栄を背景に京都や大坂の裕福な町人(商人)たちを担い手とする「元禄文化」が花開きました。井原西鶴の浮世草子や近松門左聞の浄瑠璃、松尾芭蕉の俳諧などがこの時代を代表する文化です。
綱吉の政治は文治政治を推進し元禄文化の土壌を育んだという功績がある一方で生類憐みの令や貨幣改鋳によって社会を大きく混乱させました。彼の死後幕政は彼の政治がもたらした負の遺産の後始末から始めなければなりませんでした。
2. 新井白石の正徳の治
五代将軍・徳川綱吉の特異な政治がもたらした社会の混乱と財政の悪化。その深刻な負の遺産を引き継いだのが六代将軍・家宣(いえのぶ)と七代将軍・家継(いえつぐ)の時代でした。この二代の短い治世において将軍の側近(侍講、じこう)として幕政を主導し綱吉時代の弊政を是正しようとしたのが当代随一の儒学者であった新井白石(あらいはくせき)です。彼の行った一連の改革は当時の元号にちなんで「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれその後の享保の改革へと繋がる重要な役割を果たしました。本章ではこの学者官僚・新井白石の政治理念とその改革の内容を探ります。
2.1. 学者官僚・新井白石の登場
新井白石は浪人の子として生まれ独学で儒学を修めた努力の人でした。その卓越した学識が認められ甲府藩主であった徳川綱豊(後の六代将軍・家宣)に仕えることになります。そして綱豊が将軍に就任すると白石もまた幕臣となり将軍の政治顧問として幕政の中枢に参与する異例の出世を遂げました。
白石の政治思想は厳格な朱子学に基づいていました。彼は綱吉時代の政治を道徳的に退廃し幕府の権威を失墜させたと厳しく批判しました。彼の改革の目的は儒教的な正義と合理主義に基づいて幕府の財政を再建し将軍の権威を回復することでした。
2.2. 綱吉政治からの転換
将軍・家宣が就任すると白石は直ちに綱吉時代の悪政の廃止に着手します。
- 生類憐みの令の廃止:庶民を最も苦しめていた生類憐みの令を即座に廃止しました。これにより社会の混乱は収まり人々は安堵しました。
- 綱吉側近の罷免:綱吉の側近として権勢を振るった柳沢吉保(やなぎさわよしやす)や貨幣改鋳を主導した荻原重秀といった人々を政権の中枢から排除しました。
2.3. 財政再建への取り組み
白石の改革の中心は財政の再建でした。彼は荻原重秀が行った貨幣改鋳がインフレを引き起こし経済を混乱させたと批判。その逆の政策を断行します。
- 正徳金銀の発行:白石は金銀の含有量を元禄金銀以前の高い品位に戻した新しい貨幣「正徳金銀(しょうとくきんぎん)」を鋳造しました。彼の狙いは貨幣の質を上げることでその価値への信頼を回復し物価を安定させることにありました。しかしこの政策は市場に流通する貨幣の量を減少させたため逆に深刻な**デフレーション(物価の下落)**を引き起こし経済を停滞させるという副作用も生み出しました。
- 長崎貿易の制限(海舶互市新例):白石は長崎貿易において金銀銅といった貴重な金属が大量に海外へ流出していることが日本の国力を損なっていると考えました。そこで1715年彼は**海舶互市新例(かいはくごししんれい)**という新しい貿易制限令を発布します。これは年間の貿易額と来航できる船の数に厳しい上限を設けるものでした(オランダ船は2隻、清国船は30隻まで)。これにより日本の金銀の海外流出は抑制されましたが貿易は縮小に向かいました。
2.4. 将軍権威の回復
白石は財政再建と同時に失墜した将軍の権威を回復させることにも心血を注ぎました。
- 儀礼の改革:彼は朝廷の儀式などを研究し幕府の儀礼をより格式高いものへと改めました。
- 「日本国王」の称号:朝鮮通信使が持参する国書の中で朝鮮側が日本の将軍を「日本国大君」と呼んでいることに対し白石はこれを「王」ではない対等な表現であるとして問題視しました。彼は将軍が日本の事実上の君主であることを明確にするため対外的な称号として「日本国王」を用いるべきであると主張し朝鮮側にこれを認めさせました。これは足利義満以来のことであり将軍の国際的な地位を高めようとする白石の強い意志の表れでした。
2.5. 正徳の治の評価
新井白石の政治はわずか7年ほどで終わりを告げます。七代将軍・家継が夭折し紀州藩から徳川吉宗が八代将軍として迎えられると白石は政界を引退しました。
彼の改革は綱吉時代の混乱を収拾し幕政を立て直す上で一定の成果を上げました。その政治は常に儒教的な理念と合理的なデータ分析に基づいており清廉潔白なものでした。
しかしその一方で彼の政策はあまりにも理想主義的で頭でっかちな側面もありました。正徳金銀の発行が引き起こしたデフレのように現実の経済の動きを必ずしも理解していたとは言えませんでした。また彼の厳格な態度は多くの幕臣の反発を招きました。
正徳の治は綱吉の時代と次の吉宗の享保の改革とをつなぐ過渡期の改革でした。しかし一介の学者が日本の政治を動かしたという点で江戸時代の歴史の中でも異彩を放つ時代であったと言えるでしょう。
3. 享保の改革(徳川吉宗)
新井白石による正徳の治も幕府の財政を根本的に立て直すには至りませんでした。七代将軍・家継がわずか8歳で亡くなると徳川将軍家の直系は断絶。将軍の座は御三家の一つである紀州藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね)が継ぐことになります。八代将軍となった吉宗は幕府の創設者である家康の時代を理想とし質実剛健な政治への原点回帰を目指す大規模な改革を断行しました。これが江戸時代の三大改革の第一弾である「享保の改革(きょうほうのかいかく)」です。本章では「米将軍」とも呼ばれた吉宗がどのような理念でこの改革を進めたのかその具体的な政策と成果を探ります。
3.1. 改革の理念:原点回帰と実学の重視
徳川吉宗は紀州藩主として藩政改革に成功した実績を持つ優れた為政者でした。彼が将軍に就任した時幕府は財政難と役人の綱紀の緩みという深刻な問題を抱えていました。
吉宗の改革の根本理念は徳川家康の時代の精神に立ち返ることでした。彼は華美な元禄文化や綱吉時代の風潮を道徳的な退廃とみなし武士が本来持つべき質実剛健の気風を取り戻し幕府の財政を再建することを最大の目標としました。
また彼は新井白石のような観念的な儒学よりも現実に役立つ**実学(じつがく)**を重視しました。
3.2. 財政再建策
享保の改革の中心は財政の再建でした。吉宗は収入を増やし支出を減らすための様々な政策を打ち出します。
- 質素倹約の奨励:吉宗は自ら木綿の衣服をまとい食事も一汁一菜とするなど徹底した倹約に努めました。そして大奥の人員を削減するなど幕府の経費を大幅に切り詰め大名や庶民にも質素倹約を強く奨励しました。
- 上米の制(あげまいのせい):幕府の米収入を増やすため吉宗は大名に対して石高1万石につき100石の米を上納させるという臨時的な税を課しました。これが「上米の制」です。その見返りとして幕府は大名の参勤交代における江戸在府期間を従来の1年から半年に短縮しました。これは大名の負担を軽減するアメと税負担というムチを組み合わせた巧みな政策でした。
- 新田開発の奨励:年貢収入の根本的な増大を図るため全国で新田開発を強力に推進しました。町人たちに資金を出させて大規模な開発を行わせる「町人請負新田」もこの頃から盛んになります。
- 年貢増徴(検見法から定免法へ):年貢の徴収方法を改めました。それまでは毎年役人が作柄を調査して年貢率を決める「検見法(けみほう)」が主流でした。しかしこれでは役人の手間がかかり年貢収入も不安定でした。そこで吉宗は過去数年間の平均収穫量を基準として**一定期間年貢率を固定する「定免法(じょうめんほう)」**を導入しました。これにより幕府は安定した年貢収入を確保できるようになりました。しかしこれは豊作の年には農民に有利でしたが凶作の年には極めて重い負担となり一揆の原因ともなりました。
3.3. 法制度の整備と民意の聴取
吉宗は法制度の整備にも力を注ぎました。
- 公事方御定書(くじかたおさだめがき):それまでの判例や法令を整理・集成し1742年に幕府の基本的な法典である「公事方御定書」を制定しました。これは裁判の基準を明確にし公平性を確保するためのものでした。ただしこの法典は一般には公開されず裁判官である奉行たちのみが閲覧を許される秘伝の書でした。
- 目安箱(めやすばこ)の設置:庶民の意見を直接政治に反映させるため江戸城の評定所の前に「目安箱」と呼ばれる投書箱を設置しました。誰でも自由に政策への意見や役人の不正などを投書することができ吉宗は全ての投書に自ら目を通したと言われています。貧しい人々のための無料の医療施設である**小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)**の設立はこの目安箱への投書がきっかけで実現した政策として有名です。
3.4. その他の政策
- 漢訳洋書の輸入緩和:実学を重視した吉宗はキリスト教に関係しない実用的な西洋の学問(天文学、医学、暦学など)の導入には積極的でした。彼は1720年に漢訳された西洋の専門書の輸入を緩和しました。これにより西洋の科学技術知識が日本に流入し後の蘭学(らんがく)が発展する基礎が築かれました。
- 足高の制(たしだかのせい):有能な人材を旗本の中から登用するため役職の基準石高に満たない者でもその役職に就いている間だけ不足分の石高を幕府が支給するという制度を設けました。これにより家柄にとらわれない人材登用が可能になりました。
3.5. 享保の改革の評価
吉宗の享保の改革は幕府の財政を一時的に好転させ政治の綱紀を引き締めるなど大きな成果を上げました。彼の政治は「幕府中興の祖」として高く評価されています。
しかしその一方で彼の改革はいくつかの限界も抱えていました。
- 農民への負担増:年貢増徴(定免法)は農民の負担を増大させ享保年間には多くの百姓一揆が発生しました。
- 米価の不安定化:年貢米の増収や新田開発によって米の生産量が増えた結果逆に米の価格が下落(米価安の諸色高)するという事態を招きました。米を収入の基本とする武士階級はかえって経済的に困窮するという皮肉な結果も生み出しました。
享保の改革はあくまで農業(米)を経済の基本とする古い体制を強化しようとするものであり貨幣経済の発展という新しい時代の変化に根本的に対応するものではありませんでした。この課題は次の時代の為政者へと引き継がれていくことになります。
4. 田沼意次の政治
八代将軍・徳川吉宗による享保の改革は幕府の財政を一時的に好転させました。しかしその緊縮財政と重農主義的な政策は米価の下落を招き武士や商人の経済活動を停滞させるという副作用も生み出しました。吉宗の死後九代・家重十代・家治という二代の将軍のもとで政治の実権を握ったのが老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)です。彼の政治は享保の改革とは対照的に発展しつつあった商品経済や貨幣経済を積極的に利用し幕府の財政を再建しようとする革新的なものでした。しかしその一方で賄賂が横行するなど政治の腐敗を招いたとして後世厳しい批判に晒されることになります。本章ではこの田沼意次の政治の功罪を探ります。
4.1. 田沼意次の登場
田沼意次は紀州藩の足軽という低い身分の出身でしたがその才能を吉宗に見出され将軍の側近(小姓)としてキャリアをスタートさせました。その後九代将軍・家重の時代に側用人(そばようにん)として将軍の信任を得て権力を掌握。十代将軍・家治の時代には老中へと昇進し約20年間にわたって幕政を主導しました。
彼の政治思想は吉宗の重農主義(農業を基本とする考え)とは大きく異なりました。彼は商業こそが富の源泉であると考え幕府が商業活動に積極的に関与しそこから利益を上げることで財政再建を図るべきだと主張しました。これは当時としては極めて斬新な発想でした。
4.2. 積極的な経済政策
田沼意次は幕府の収入を増やすため次々と新しい経済政策を打ち出しました。
- 株仲間(かぶなかま)の公認:江戸や大坂の商人たちが結成していた同業者組合である株仲間を幕府が公式に認可(公認)しました。その見返りとして幕府は彼らから**運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)**と呼ばれる営業税を徴収しました。これにより幕府は新たな財源を確保し商工業者をその統制下に置くことができました。
- 専売制度の実施:銅、鉄、真鍮、朝鮮人参といった特定の商品の生産と販売を幕府の専売としました。これにより幕府は大きな利益を上げました。
- 貨幣の鋳造:彼は南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)という新しい銀貨を鋳造しました。これはそれまでの重さで価値が決まる秤量貨幣とは異なり額面が記された計数貨幣であり金貨との交換比率も定められていました。これにより貨幣の流通がより円滑になりました。
- 新田開発と蝦夷地開発:印旛沼(いんばぬま)や手賀沼(てがぬま)といった千葉県の湖沼の干拓による大規模な新田開発計画を立てました。またロシアとの交易の可能性に着目し蝦夷地(北海道)の開発調査も計画しました。
これらの政策は幕府の財政収入を大幅に増大させ商業活動を活発化させるなど大きな成果を上げました。
4.3. 政治の腐敗と批判
しかし田沼意次の政治は多くの問題点も抱えていました。
- 賄賂の横行:田沼は株仲間の公認や様々な許認可を与える際に商人たちから多額の賄賂を受け取っていたとされています。彼の周りには利益を求める商人や役人たちが集まり「田沼の政治は賄賂次第」と噂されるほど政治の腐敗が進みました。
- 農村の疲弊:田沼の政治は商業を重視する一方で農業や農村を軽視する傾向がありました。重い税負担や物価の上昇は農民の生活を圧迫し百姓一揆が頻発しました。
4.4. 田沼時代の文化と社会
田沼意次が権勢を振るった時代は社会が比較的自由で活気にあふれ町人文化が新たな発展を見せた時代でもありました。
- 学問の多様化:国学や蘭学といった新しい学問が発展しました。杉田玄白(すぎたげんぱく)らがオランダの医学書を翻訳した『解体新書(かいたいしんしょ)』が出版されたのもこの時代です。
- 化政文化の萌芽:江戸を中心に庶民的な文化が栄え平賀源内(ひらがげんない)のような多才な文化人が活躍しました。
4.5. 田沼の失脚
田沼意次の権勢は1784年に彼の後ろ盾であった将軍・家治の子が急死しさらに老中であった息子の意知(おきとも)が江戸城内で暗殺されたことで揺らぎ始めます。
そして彼の運命を決定づけたのが次章で見る「天明の大飢饉」でした。この未曾有の災害に対して田沼政権が有効な対策を打てなかったことから民衆や他の幕臣たちの不満が爆発。1786年将軍・家治が亡くなると田沼意次は老中を罷免され失脚しました。
田沼意次の政治は商業資本の力を積極的に利用しようとした革新的なものでした。しかしその金権政治的な側面と農政の失敗そして天明の大飢饉という不運が重なり彼は「賄賂政治家」という不名誉な評価を後世に残すことになりました。彼の失脚後幕政は再び緊縮財政と農本主義へと大きく揺り戻されることになります。
5. 天明の飢饉
田沼意次が商業を重視する政策を進める一方で日本の農村は深刻な危機に瀕していました。1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて日本は近世史上最悪ともいわれる大規模な飢饉「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」に見舞われます。冷害や火山の噴火洪水といった自然災害が連鎖的に発生し全国的に凶作が続きました。この飢饉は多くの餓死者を生み出し社会に深刻な動揺をもたらしました。そして食糧不足と米価の高騰は百姓一揆や打ちこわしを激化させ田沼政権を崩壊に追い込む直接的な引き金となったのです。
5.1. 飢饉の原因
天明の大飢饉は単一の原因で起こったわけではありません。いくつかの自然災害が複合的に作用した結果でした。
- 異常気象(冷害):アイスランドの火山の噴火などの影響で地球規模での寒冷化が進み特に東北地方では夏でも冷たい偏東風(やませ)が吹きつけ稲が全く実らないという壊滅的な冷害が何年も続きました。
- 浅間山の大噴火(1783年):1783年には信濃国と上野国の境にある浅間山が歴史的な大噴火を起こしました。火山灰は関東一円に降り注ぎ田畑を埋め尽くして農作物は全滅。さらに火砕流が利根川を堰き止めたことで下流で大規模な洪水が発生し多くの村が飲み込まれました。
- 洪水と干ばつ:関東での大洪水の一方で西日本では干ばつが発生するなど全国的に異常気象が続きました。
5.2. 飢饉の惨状
この連続する災害は日本社会に筆舌に尽くしがたい惨状をもたらしました。
- 多数の餓死者:最も被害が深刻だったのが東北地方でした。特に津軽藩や南部藩では領内の人口の3分の1近くが餓死したとも言われています。飢えに苦しんだ人々は草の根や木の皮を食べ果てには人肉を食らうといった地獄絵図が繰り広げられました。全国での死者は数十万人に達したと推定されています。
- 疫病の流行:飢餓によって人々の抵抗力が弱まったところに疫病が流行しさらに多くの命が奪われました。
5.3. 幕府・諸藩の対応の限界
この未曾有の危機に対し幕府や諸藩の対応は後手に回り十分な効果を上げることができませんでした。
- 情報の不足:当時は全国の被害状況を迅速かつ正確に把握するシステムがありませんでした。
- 備蓄の不足:長期の平和の中で多くの藩が食料の備蓄を怠っていました。
- 藩の囲い込み:多くの藩は自藩の領民を救うことを最優先し他の藩への米の移出を禁止(穀留、こくどめ)しました。これにより米が不足している地域に食料が行き渡らないという事態が悪化しました。
- 田沼政権への批判:田沼意次政権は商人との癒着を噂されており米を買い占めて私腹を肥やす悪徳商人を十分に取り締まることができませんでした。このことが民衆の怒りを買い「田沼政治が飢饉を悪化させた」という批判が噴出しました。
5.4. 百姓一揆と打ちこわしの激化
食料不足と米価の異常な高騰は人々の怒りを爆発させました。
- 百姓一揆:農村部では年貢の減免や食料の放出(御救米、おすくいまい)を求める百姓一揆が全国で頻発しました。
- 打ちこわし:江戸や大坂といった大都市では米を買い占めていると見なされた米問屋や豪商の店を民衆が襲撃し家財を破壊し米俵を奪い取る「打ちこわし」が大規模に発生しました(天明の打ちこわし)。
これらの民衆の蜂起は社会秩序を大きく揺るがしました。そしてその怒りの矛先は無策な幕府特に田沼意次に向けられました。この天明の大飢饉が田沼意次を失脚させる直接的な原因となったのです。
天明の大飢饉は江戸時代の社会が自然の猛威の前ではいかに脆弱であったかを示しています。そしてこの悲劇的な経験は次の時代の為政者である松平定信に大きな教訓を残し彼の寛政の改革の方向性を決定づけることになります。
6. 寛政の改革(松平定信)
天明の大飢饉とそれに伴う社会の混乱によって田沼意次の政権は崩壊しました。この国難ともいえる状況を収拾し幕政を立て直すために白羽の矢が立ったのが白河藩主であり徳川吉宗の孫にあたる松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。1787年に老中首座に就任した定信は田沼時代の自由放任で金権的な政治を全面的に否定。祖父・吉宗の享保の改革を理想とし厳格な緊縮財政と儒教的な道徳に基づいた社会の引き締めを目指す「寛政の改革(かんせいのかいかく)」を断行します。本章ではこの松平定信の改革の理念とその具体的な内容そしてそれがなぜ人々から厳しすぎると批判されたのかを探ります。
6.1. 改革の理念:祖父・吉宗への回帰
松平定信は清廉潔白で知られ強い道徳観とエリート意識を持った人物でした。彼は田沼意次の政治を賄賂が横行し武士の精神を堕落させた「悪」であると断じました。
彼の改革の根本理念は祖父である徳川吉宗の享保の改革の精神に立ち返ることでした。それはすなわち
- 緊縮財政の徹底
- 重農主義(農本主義)の復活
- 武士道精神と朱子学の道徳の復興
を目指すものでした。田沼時代に緩んだ社会のタガを締め直し質実剛健で道徳的な社会を再建しようとしたのです。
6.2. 寛政の改革の主な政策
定信は矢継ぎ早に様々な改革を打ち出しました。
- 財政再建策:
- 囲米(かこいまい): 天明の飢饉の教訓から各地に社倉・義倉といった倉を設け米を貯蔵させ凶作に備える制度を奨励しました。
- 棄捐令(きえんれい): 幕府の財政を圧迫していた旗本・御家人の借金を救済するため札差(ふださし、旗本専門の金融業者)に対して彼らへの債権を破棄させる徳政令を発布しました。
- 農村復興策:
- 旧里帰農令(きゅうりきのうれい): 飢饉などで田畑を捨てて江戸に流入していた農民たちに対して故郷の村に帰るための費用を与え農村へ帰ることを奨励しました。これは都市の人口を抑制し農業の担い手を確保するための農本主義的な政策でした。
- 七分積金(しちぶつみきん): 江戸の町々に対して町費を節約させその7割を積み立てさせました。この資金は困窮者の救済や災害時の復興費用に充てられました。
- 思想・風俗統制:定信の改革で最も特徴的だったのが厳格な思想・風俗統制でした。
- 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん): 1790年幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の学問(陽明学など)を教えることを禁止しました。これは学問の世界に幕府の公式見解(正学)を押し付け思想の多様性を否定するものでした。
- 出版統制令: 風俗を乱す洒落本(しゃれぼん)や黄表紙(きびょうし)といった庶民向けの娯ASOB本(娯楽本)の出版を厳しく取り締まりました。作者であった山東京伝(さんとうきょうでん)や版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)らが処罰されました。また幕政を批判するような言論も厳しく弾圧しました(林子平、はやししへい、の処罰など)。
6.3. 改革への批判と定信の失脚
松平定信の改革は幕府の財政を好転させ江戸の治安を回復させるなど一定の成果を上げました。
しかしそのあまりにも厳格で理想主義的な政策は多くの人々の反発を招きました。
- 武士・庶民からの反発:極端な倹約令や出版統制は武士や庶民の生活から潤いを奪いました。人々は定信の清廉潔白な政治を皮肉って「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌を詠みました。(白河は定信の藩名)
- 大奥や将軍との対立:定信は大奥の経費削減にも厳しく切り込んだため大奥の女性たちからも恨まれました。また将軍・徳川家斉(いえなり)が父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)に「大御所」の尊号を贈ろうとした際に定信がこれに猛反対したこと(尊号一件)で将軍との関係も悪化しました。
こうした反発が強まる中1793年松平定信は老中を辞任に追い込まれ失脚。彼の改革はわずか6年で終わりを告げました。
寛政の改革は疲弊した社会を立て直そうとする真摯な試みでした。しかしそれは田沼時代に成長した町人の経済力や新しい文化の活力を否定し社会を無理やり古い型にはめ込もうとする時代錯誤な側面も持っていました。この改革の失敗は幕府がもはや社会の大きな変化に対応する能力を失いつつあることを示すものでした。
7. ロシアの南下と蝦夷地の調査
松平定信が寛政の改革で国内の引き締めに躍起になっていた頃日本の北の海では静かにしかし確実に新たな脅威が迫っていました。それはシベリアを東進し太平洋へと到達したロシア帝国の存在です。18世紀末ロシアの船が蝦夷地(北海道)や千島列島に姿を現し日本に通商を求めるというそれまで経験したことのない事態が発生します。この「北からの黒船」の到来は200年近く続いた鎖国の静かな眠りを揺り動かし幕府に初めて本格的な対外防衛(海防)と北方領土の問題を意識させるきっかけとなりました。
7.1. ロシアの東方進出
17世紀以来ロシア帝国は毛皮などを求めてシベリアを東へとその領土を拡大していました。18世紀にはカムチャツカ半島や千島列島にまで進出しアリューシャン列島を経由してアラスカにも拠点を築きます。
この過程でロシアは日本の存在を知り日本との交易に強い関心を持つようになります。
7.2. ラクスマンの来航(1792年)
1792年(寛政4年)ロシア皇帝エカチェリーナ2世の使節としてアダム・ラクスマンが蝦夷地の根室(ねむろ)に来航しました。
- 来航の目的:ラクスマンの目的は伊勢の船頭・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)ら日本人漂流民を日本に送還すること。そしてその返礼として日本との通商を開始することでした。
- 幕府の対応:老中であった松平定信はラクスマン一行を厳重な警戒下に置き丁重にしかし毅然とした態度で対応しました。定信は「外国との交渉は長崎でのみ行うのが日本の国法である」と述べ根室での通商交渉を拒否しました。しかし漂流民を受け取る代わりに長崎への入港を許可する**信牌(しんぱい)**をラクスマンに与えました。
これは鎖国体制の原則を崩さない範囲でロシアの要求をかわそうとする幕府の苦心の策でした。(結局ラクスマンはこの信牌を使わずロシアに帰国します。)
7.3. 北方探検と蝦夷地の直轄化
ラクスマンの来航は幕府に大きな衝撃を与えました。幕府は蝦夷地がロシアの南下の脅威に直接晒されていることを痛感し北方の防衛と調査を本格的に開始します。
- 近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)と最上徳内(もがみとくない):幕府は近藤重蔵や最上徳内といった探検家を蝦夷地や千島列島へと派遣しました。彼らは現地の地理やアイヌの人々の生活を詳細に調査し地図を作成しました。近藤重蔵は1798年に択捉島(えとろふとう)に「大日本恵登呂府(だいにっぽんえとろふ)」と記した標柱を立て日本の領土であることを宣言しました。
- 蝦夷地の直轄化:幕府はそれまで蝦夷地の統治を任せていた松前藩の支配能力に不安を感じ1799年に東蝦夷地を1807年には西蝦夷地をも松前藩から取り上げ幕府の**直轄地(天領)としました。そして松前奉行(箱館奉行)**を置いて直接統治と防衛にあたらせました。
7.4. レザノフの来航と緊張の激化
1804年今度は皇帝アレクサンドル1世の国使としてニコライ・レザノフがラクスマンが受け取った信牌を携えて長崎に来航し再び通商を要求しました。
しかしこの時の幕府はすでに対外的に強硬な姿勢に転じていました。幕府は通商を完全に拒否しレザノフを半年近く長崎に留め置いた末に追い返してしまいます。
これに怒ったレザノフの部下たちが1806年から翌年にかけて樺太(からふと)や択捉島の日本の拠点を襲撃するという事件が発生します(文化露寇、ぶんかろこう)。これにより日露関係は極度に緊張しました。
幕府はこれに対抗して1807年に松前奉行の兵力を増強し1825年には**異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)**を発布するなど強硬な対外政策をとるようになります。
ロシアの南下はそれまで比較的安定していた日本の国際環境が大きく変動し始めていることを示す最初の兆候でした。この北からの圧力に加え19世紀に入ると今度は南からイギリスやアメリカの船が姿を現し始めます。鎖国という名の静かな眠りはもはや許されない時代がすぐそこまで迫っていたのです。
8. 大塩平八郎の乱
19世紀前半の日本は再び深刻な社会不安の時代に突入していました。天候不順が全国的な飢饉(天保の大飢饉)を引き起こし多くの人々が餓死し米価は異常な高騰を見せました。この地獄のような状況の中で為政者たちの無策と豪商たちの私利私欲に憤り立ち上がった一人の元幕臣がいました。その名は大塩平八郎(おおしおへいはちろう)。陽明学者として民衆から深く尊敬されていた彼が1837年に大坂で起こした反乱はわずか半日で鎮圧されました。しかし元幕府の役人が「救民」を掲げて幕府に反旗を翻したという事実は幕府の権威を根底から揺るがしその支配体制の道徳的・政治的な崩壊が始まっていることを天下に示す衝撃的な事件でした。
8.1. 大塩平八郎という人物
大塩平八郎は代々大坂町奉行所の与力を務める下級武士の家に生まれました。彼は役人として優れた実務能力を発揮する一方で陽明学者としても著名でした。
- 陽明学(ようめいがく):朱子学が上下の身分秩序を重んじる静的な学問であったのに対し陽明学は「知行合一(ちこうごういつ)」を重んじました。これは「真の知は必ず実践を伴わなければならない」という思想です。不正や間違いを知りながら行動しないのは真の知ではないと考えます。この行動を重んじる思想が平八郎の蜂起の背後にありました。
- 民衆からの信望:平八郎は役人時代に汚職事件を摘発するなど清廉潔白な人物として知られていました。彼は私塾「洗心洞(せんしんどう)」を開き身分に関係なく多くの人々に学問を教え民衆から深い信望を集めていました。
8.2. 天保の大飢饉と大坂の状況
1833年から始まった天保の大飢饉は日本中に深刻な食糧危機をもたらしました。経済の中心地であった大坂でも例外ではありませんでした。
- 米価の高騰と餓死者の続出:大坂には全国から米が集まるはずでした。しかし不作と諸藩による米の囲い込みによって米の流入は途絶え米価は異常なまでに高騰しました。多くの貧しい人々が餓死し町には死体が転がるという悲惨な状況でした。
- 為政者の無策:しかし当時の大坂町奉行・跡部良弼(あとべよしすけ)は江戸への廻米を優先し飢えに苦しむ大坂の民衆を救うための有効な対策を全く打ちませんでした。
- 豪商による米の買い占め:一方で鴻池屋などの大坂の豪商たちはこの機に乗じて米を買い占め江戸に送って莫大な利益を上げていました。
8.3. 「救民」のための蜂起
この民衆の苦しみと為政者・豪商の不正を目の当たりにした大塩平八郎の義憤は頂点に達します。彼は「知行合一」の教えに従い自ら行動することを決意しました。
彼はまず自らが所有する膨大な蔵書を全て売り払いその金で米を買い窮民に分け与えました。そして大坂町奉行に対して何度も窮民救済を訴えますが全く聞き入れられませんでした。
ついに平八郎は武力蜂起という最終手段に訴えることを決意します。彼は門下生や周辺の農民たちに呼びかけ「救民(きゅうみん)」の旗を掲げて蜂起する計画を立てました。そして全国の大名や豪農に対して幕府の失政を糾弾し自らの決起への参加を呼びかける檄文を送りました。
1837年2月計画が事前に幕府側に漏れたことを知った平八郎は予定を早めて決起。わずか300人ほどの手勢で自らの家に火を放ち蜂起を開始しました。彼らは「大塩門弟」と書かれた旗を掲げ大砲を撃ちながら市中を駆け巡り豪商の屋敷を次々と襲撃し米や金品を奪って貧しい人々に分け与えました。
8.4. 乱の鎮圧とその衝撃
大塩平八郎の乱は幕府の迅速な対応によりわずか半日で鎮圧されました。平八郎は市中に潜伏しましたが約40日後に隠れ家を突き止められ自害して果てました。
しかしこの乱が社会に与えた衝撃は計り知れないほど大きいものでした。
- 幕府の権威の失墜:何よりも衝撃的だったのは元幕府の役人(与力)が反乱を指導したという事実でした。これは幕府の支配体制の内部から崩壊が始まっていることを示していました。また日本の経済の中心地であり幕府の直轄地である大坂で反乱が起こりその初期鎮圧に失敗したことも幕府の統治能力の低下を露呈させました。
- 全国への影響(大塩与党の乱):平八郎が事前に送った檄文は全国に大きな影響を与えました。彼の決起に共感し「大塩門弟」を名乗る者たちによる反乱が各地で相次いで発生しました(大塩与党の乱)。特に越後国(新潟県)の国学者・生田万(いくたよろず)が起こした反乱は有名です。
- 幕政改革への引き金:この事件は幕府の為政者たちに深刻な危機感を抱かせました。社会の矛盾をこのまま放置すれば第二第三の大塩平八郎が現れかねない。この危機感が次の天保の改革へと幕府を突き動かす大きな要因となったのです。
大塩平八郎の乱は失敗に終わった小さな反乱でした。しかしそれは江戸幕府という巨大な建造物の土台に大きな亀裂が入り始めていることを天下に示した象徴的な事件だったのです。
9. 天保の改革(水野忠邦)
大塩平八郎の乱という衝撃的な事件と深刻な天保の大飢饉。これらの内外の危機に直面し江戸幕府の支配体制はまさに崖っぷちに立たされていました。この国難を乗り切るため老中首座として幕政の全権を握り最後の本格的な幕政改革を断行したのが水野忠邦(みずのただくに)でした。1841年から始まった彼の「天保の改革(てんぽうのかいかく)」は享保・寛政の改革をモデルとし厳格な緊縮財政と風俗の引き締めによって幕府の権威を再建しようとするものでした。しかしそのあまりにも急進的で現実を無視した政策は社会の猛烈な反発を招きわずか2年余りで失敗に終わります。本章では幕府最後の改革であった天保の改革の内容とその挫折を探ります。
9.1. 改革の背景と理念
水野忠邦が改革を開始した1841年当時の日本は深刻な状況にありました。
- 国内: 天保の大飢饉によって農村は荒廃し百姓一揆や打ちこわしが頻発。社会秩序は大きく乱れていました。
- 国外: 1840年に隣国・清(中国)がアヘン戦争でイギリスに大敗したという情報がもたらされ幕府は西洋列強の軍事力に対する脅威を現実のものとして認識し始めました(内憂外患)。
この危機的状況に対し水野忠邦が示した改革の理念は松平定信の寛政の改革と同様幕府創設の原点に立ち返るという復古的なものでした。彼は商業の発展や町人文化の爛熟を社会の風紀を乱す元凶とみなし質素倹約と農本主義を徹底することで幕府の財政を再建し武士の規律を取り戻そうとしたのです。
9.2. 天保の改革の主な政策
水野忠邦は「三大改革」の中でも最も広範で強権的な改革を矢継ぎ早に実行しました。
- 綱紀粛正と倹約令:まず手始めに将軍・家斉の側近や大奥の女性たちを大量に罷免し綱紀の粛正を図りました。そして大名から庶民に至るまであらゆる階層に対して極めて厳格な倹約令を発布。歌舞伎などの娯楽や華美な服装贅沢な食事などを厳しく取り締まりました。風俗を乱すとして人気作家の為永春水(ためながしゅんすい)らが処罰されました。
- 株仲間の解散:田沼意次以来の政策であった株仲間を全面的に解散させました。水野は株仲間による商品の独占が物価を高騰させている元凶であると考えました。彼の狙いは自由な競争を促すことで物価を引き下げることにありました。しかしこれは逆効果でした。株仲間が担っていた商品流通のシステムが破壊されたことで逆に経済は深刻な混乱に陥り物価は思うように下がりませんでした。
- 人返し令(ひとがえしれい):寛政の改革の旧里帰農令と同様に飢饉などで江戸に流入した農民たちを強制的に故郷の農村に帰らせる政策です。これも農本主義の理念に基づくものでしたが十分な効果は上がりませんでした。
- 上知令(あげちれい):これが天保の改革が失敗に終わる直接的な原因となった最も急進的な政策でした。水野は国防の強化と幕府の財政基盤の強化を目的として江戸と大坂の周辺にある大名・旗本の領地を全て没収し幕府の直轄地(天領)にしようとしました。これを「上知令」と呼びます。この政策は領地を奪われる大名・旗本からの猛烈な反対に遭いました。彼らは幕府の支配を支える譜代の家臣たちでありその彼らの既得権益を奪おうとしたことで水野は幕府内部で完全に孤立してしまいます。
9.3. 改革の失敗と忠邦の失脚
水野忠邦の改革はそのあまりにも厳しく現実を無視した内容からあらゆる階層の人々の反発を招きました。
- 庶民: 過度な倹約令や娯楽の禁止は生活の楽しみを奪いました。
- 商人: 株仲間の解散は経済を混乱させました。
- 大名・旗本: 上知令は彼らの既得権益を根本から脅かすものでした。
特に上知令に対する猛反発を受け1843年将軍・家慶は水野忠邦に上知令の撤回を命じます。これをきっかけに忠邦は老中を罷免され失脚。彼の改革はわずか2年余りで完全に失敗に終わりました。
9.4. 天保の改革の歴史的意義
天保の改革の失敗が示したものは明らかでした。
- 幕府の権威の決定的な失墜:幕府が自ら打ち出した改革を幕府内部の反対によって撤回せざるを得なかったという事実は将軍や老中の権威がもはや絶対的なものではないことを示しました。
- 改革の限界:享保・寛政・天保という三大改革はいずれも過去の理想に立ち返ろうとする復古的な改革でした。しかし社会は既に取り返しのつかないほど変化していました。幕府の伝統的な手法ではもはや貨幣経済の発展や社会の複雑化に対応できないことが証明されたのです。
- 雄藩の台頭:幕府が改革に失敗しその権威を失墜させていく一方で薩摩藩や長州藩といった西南の雄藩は独自の藩政改革に成功し財政を再建し軍事力を強化していました。幕府の衰退と雄藩の台頭というこのコントラストが後の幕末の動乱の大きな伏線となっていきます。
天保の改革は江戸幕府が自らの力で社会の矛盾を解決しようとした最後の本格的な試みでした。そしてその失敗は徳川の平和を支えてきた幕藩体制というシステムそのものがもはや寿命を迎えつつあることを誰の目にも明らかにしたのです。
10. 百姓一揆と打ちこわしの激化
江戸時代後期幕府の支配体制が揺らぎ社会の矛盾が深まる中でそれまで支配されるだけの存在であった民衆の不満はかつてないほどの規模と頻度で爆発するようになります。農村部では領主の過酷な年貢の取り立てに対して農民たちが団結して抵抗する「百姓一揆(ひゃくしょういっき)」が頻発。都市部では米価の高騰に苦しむ人々が米問屋や豪商を襲撃する「打ちこわし(うちこわし)」が激化しました。これらの民衆の反乱は個別の事件にとどまらず江戸幕府という支配システムそのものを内側から揺るがす大きなうねりとなっていきました。
10.1. 百姓一揆の変質
百姓一揆は江戸時代を通じて発生していましたがその性格は時代と共に変化していきました。
- 前期(17世紀):一揆の主な形態は追放された旧領主の復帰を願うなど領主への個人的な忠誠心に基づくものが多くありました。また指導者が見せしめに処罰されることを覚悟の上で領民全体の救済を訴える「代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)」が中心でした。佐倉惣五郎(さくらそうごろう)の伝説などがその典型です。
- 中期(18世紀):享保の改革以降年貢の増徴が進むと一揆の要求はより経済的なものへと変化します。数千人から数万人の農民が村全体で団結し年貢の減免などを求めて城下に押し寄せる「惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)」が主流となりました。
- 後期(18世紀末~19世紀):天明・天保の飢饉を経て社会が混乱すると一揆の性格はさらに変化します。
- 広域化: 一揆は一つの藩の内部にとどまらず複数の藩や国にまたがる広域的なものへと発展しました。
- 政治的要求: 年貢の減免だけでなく幕府や藩の政治そのものを批判し社会の不正を正す「世直し(よなおし)」を要求するようになります。
10.2. 打ちこわしの激化
都市部では米価の変動が人々の生活を直撃しました。飢饉などで米の供給が不足し米価が高騰すると都市の貧しい人々はたちまち食うに困る状況に陥りました。
彼らの怒りの矛先は米を買い占めて不当な利益を上げていると見なされた米問屋や豪商に向けられました。民衆がこれらの商人の家や蔵を襲撃し家財を破壊し米俵を奪い取る実力行使が「打ちこわし」です。
- 天明の打ちこわし(1787年):天明の大飢饉の際に江戸や大坂をはじめ全国約50の都市で発生した大規模な打ちこわし。
- 天保の打ちこわし(1833-37年):天保の大飢饉の際にも全国各地で打ちこわしが頻発しました。大塩平八郎の乱もその文脈の中で発生した事件でした。
打ちこわしは単なる暴動ではなく飢えた民衆が生きるために行った「義挙」であるという側面も持っていました。彼らは破壊した家の材木を炊き出しに使ったり奪った米を貧しい人々に分け与えたりすることもあったのです。
10.3. 世直し一揆とええじゃないか
幕末になると民衆のエネルギーはさらに大きな社会変動へと繋がっていきます。
- 世直し一揆:幕末の政治的混乱の中で百姓一揆は「世直し」というスローガンを明確に掲げるようになります。彼らは単に年貢の減免を求めるだけでなく身分制社会の矛盾そのものを批判し「平等で公正な新しい世の中」の到来を要求しました。
- ええじゃないか:1867年(慶応3年)江戸幕府がまさに崩壊しようとする直前に東海地方から畿内にかけて「ええじゃないか」という奇妙な民衆の熱狂が発生しました。伊勢神宮などのお札が天から降ってきたという噂をきっかけに人々が「ええじゃないかええじゃないか」と歌い踊りながら町々を練り歩きました。これは社会の変動に対する人々の不安と新しい時代への期待が入り混じった集団的な乱舞でした。この騒動は既存の社会秩序を麻痺させ結果として幕府の崩壊を加速させる一因になったとも言われています。
百姓一揆と打ちこわしの激化は徳川幕府の支配がもはや民衆の支持を失いその統治能力が限界に達していることを示すものでした。社会の底辺から突き上げるこの巨大なエネルギーがやがては幕末の志士たちの討幕運動とも結びつき江戸幕府という巨大なシステムを崩壊させる大きな力となっていくのです。
Module 13:幕政改革の時代の総括:システムの延命と構造的疲労
本モジュールでは江戸時代中期から後期にかけて幕府が直面した深刻な統治の危機とそれに対する「幕政改革」という苦闘の歴史を追った。綱吉の治世は元禄文化の華やかさの裏で財政の悪化と社会の混乱を招き新井白石の知的な試みも抜本的な解決には至らなかった。八代将軍・吉宗の享保の改革は幕政再建のモデルとなるがその重農主義的な手法は商品経済の発展という時代の趨勢との間に矛盾を抱えていた。田沼意次の商業重視政策は革新的であったが天明の飢饉という天災の前にもろくも崩れ去り松平定信の寛政の改革は厳格すぎる理想主義ゆえに人心の離反を招いた。ロシアの南下は新たな外的脅威を告げ大塩平八郎の乱は体制の道徳的腐敗を露呈させた。そして水野忠邦による最後の天保の改革の無惨な失敗は幕藩体制という統治システムそのものがもはや構造的な疲労を起こし自力での再生能力を失っていることを決定的に示した。一揆や打ちこわしの激化は社会の底辺からの変革の胎動であり幕府の権威が失墜した先に新たな時代が迫っていることを予感させるものであった。