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【基礎 日本史(通史)】Module 14:開国と幕末の動乱
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは江戸幕府が度重なる改革の失敗によってその統治能力の限界を露呈し社会の内部から崩壊の兆しを見せ始めた様を追いました。この幕府の権威が揺らぎ社会が疲弊していたまさにその時日本は200年以上続いた「鎖国」という静かな眠りを破る巨大な外的圧力に直面します。アメリカのペリー率いる黒船の来航です。この「外圧」は幕府の支配体制を根底から揺るがし日本全土を「開国か攘夷か」「佐幕か討幕か」という激しい政治的対立の渦へと巻き込んでいきました。本モジュールではこの幕末と呼ばれる激動の時代を駆け抜けた様々な人々の思想と行動を追い徳川幕府が滅亡し近代日本が誕生するまでの過程を探ります。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まずアヘン戦争の情報が日本にもたらした衝撃と幕府の対外政策の変化を見ます。次にペリー来航と不平等条約の締結がなぜ幕府の権威を失墜させ「尊王攘夷」運動を激化させたのかを分析します。この運動が頂点に達した安政の大獄と桜田門外の変というテロの時代を探ります。そして幕府が権威回復のために試みた「公武合体」政策とそれがなぜ失敗したのかを追います。薩摩と長州が外国との戦争を経て「攘夷」から「開国討幕」へと方針を転換し「薩長同盟」を結ぶ過程を解き明かします。最後に15代将軍・徳川慶喜による「大政奉還」という政治的決断がいかにして江戸幕府の終焉を告げたのかその歴史的瞬間を見届けます。
- アヘン戦争の情報と国内への衝撃: 隣国・清の敗北というニュースが日本の支配層にいかなる危機感をもたらしたかを探る。
- ペリー来航と日米和親条約: 蒸気船「黒船」の到来が日本社会に与えた衝撃と最初の開国条約の内容を分析する。
- 日米修好通商条約と不平等条約: 幕府が朝廷の許可なく通商条約を結んだことがなぜ国内に深刻な政治対立を生んだのかを解明する。
- 開国による経済の混乱: 急速な貿易の開始が日本の経済にいかなる混乱と打撃を与えたかを見る。
- 尊王攘夷運動の高まり: 「天皇を敬い外国を打ち払え」というスローガンがなぜ反幕府運動の旗印となったのかその思想的背景を探る。
- 安政の大獄と桜田門外の変: 幕府による思想弾圧とそれに対するテロによる報復という血で血を洗う対立の実態を追う。
- 公武合体政策: 幕府が朝廷との融和によって権威を回復しようとした最後の試みとその挫折を分析する。
- 薩英戦争と下関戦争: 薩摩と長州が外国との直接戦闘を経験したことでなぜ攘夷の不可能を悟ったのかその転換点を見る。
- 薩長同盟の成立: 犬猿の仲であった薩摩と長州がなぜ手を結び討幕への道を歩み始めたのかその背景を探る。
- 徳川慶喜と大政奉還: 最後の将軍が260年以上続いた幕府の歴史を自らの手で終わらせるという決断に至った経緯を解き明かす。
このモジュールを学び終える時皆さんは近代日本の夜明け前である「幕末」という時代が多様な思想と利害が複雑に絡み合いながらも一つの大きな目標「新しい日本の建設」へと向かっていくダイナミックな時代であったことを深く理解するでしょう。
1. アヘン戦争の情報と国内への衝撃
19世紀前半徳川幕府は依然として「鎖国」の夢の中にいました。しかしその夢を揺り動かす衝撃的なニュースが海の向こうから伝わってきます。それは隣の大国・清(中国)がイギリスとの戦争に惨敗したという情報でした。東アジアの盟主であり文化の源泉でもあった清の敗北は日本の支配層にこれまで経験したことのない深刻な危機感を抱かせました。それはやがて来たるべき西洋列強の圧力に日本がどう向き合うべきかという国家的な課題を突きつける最初の警鐘となったのです。
1.1. アヘン戦争の衝撃
1840年から1842年にかけてイギリスと清の間でアヘン戦争が勃発しました。
- 戦争の原因:イギリスは中国からの茶や絹の輸入によって生じた貿易赤字を解消するため植民地のインドで生産した麻薬アヘンを中国に密輸出しました。これにより中国では多くの人々がアヘン中毒となり銀が大量に国外に流出しました。清の政府がアヘンの密輸を厳しく取り締まったことに対しイギリスはそれを口実に戦争を仕掛けたのです。
- 清の惨敗:最新の蒸気船と大砲を装備したイギリス軍の前に清の水軍はなすすべもなく敗北。1842年に不平等条約である南京条約を結ばされ香港の割譲や多額の賠償金の支払いそして上海など5港の開港を強制されました。
1.2. オランダ風説書ともたらされた情報
このアヘン戦争の詳しい情報は鎖国下の日本の唯一の窓口であった長崎の出島を通じて幕府にもたらされました。オランダ商館長が毎年江戸に参府する際に提出を義務付けられていた海外情報報告書「オランダ風説書(ふうせつがき)」によってです。
この情報が日本の支配層に与えた衝撃は計り知れないものでした。
- 中華思想の崩壊:それまで日本の多くの知識人にとって中国は世界の中心であり文化的に最も進んだ強大な国家でした。その中国が遠い西洋の小国いとも簡単に敗れ去ったという事実は伝統的な国際秩序観を根底から覆すものでした。
- 対岸の火事ではない危機感:アヘン戦争の顛末は西洋列強の圧倒的な軍事力と植民地獲得への強い野心を日本の支配層にまざまざと見せつけました。清の次は日本が標的になるのではないかという「対岸の火事ではない」という深刻な危機感が儒学者や一部の大名たちの間に急速に広がっていきました。高島秋帆(たかしましゅうはん)のように西洋式の砲術の導入を幕府に訴える者も現れました。
1.3. 幕府の対外政策の転換:薪水給与令
このアヘン戦争の衝撃は幕府の硬直した対外政策にも変化を促しました。
- 異国船打払令(1825年):それまでの幕府は日本沿岸に接近する外国船に対しては所属を問わず砲撃を加えて追い払うという極めて強硬な「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」を国是としていました。
- 薪水給与令(1842年):しかしアヘン戦争の情報に衝撃を受けた老中・水野忠邦は方針を転換。1842年に**薪水給与令(しんすいきゅうよれい)**を発布しました。これは漂着した外国船に対して薪(まき)や水食料を提供し穏便に退去させるというものでした。これは異国船打払令を事実上撤回するものであり西洋列強との無用な衝突を避けたいという幕府の現実的な判断の表れでした。
しかしこの政策転換はあくまでその場しのぎのものでした。幕府は依然として開国に対しては否定的な姿勢を崩さず抜本的な海防強化策を打ち出すこともできませんでした。
アヘン戦争の情報は日本の鎖国という名の平和な孤島に西洋近代という巨大な波が迫っていることを告げる最初の狼煙でした。しかし幕府はこの警告の重大さを十分に理解せず有効な手を打てないまま運命の日を迎えることになります。
2. ペリー来航と日米和親条約
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)江戸湾の入り口である浦賀(神奈川県横須賀市)の沖合にそれまで日本人が見たこともない巨大な黒い蒸気船4隻が煙を噴き上げながら突如として姿を現しました。アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いるこの艦隊、通称「黒船」の到来は200年以上続いた日本の泰平の眠りを乱暴に覚ます出来事でした。このペリー来航は幕府の権威を根底から揺るがし日本を開国へと導く直接的な引き金となったのです。
2.1. アメリカの開国要求
なぜアメリカが日本に開国を求めてきたのでしょうか。その背景には19世紀半ばのアメリカの国内事情がありました。
- 太平洋への進出:アメリカは西部開拓を進めカリフォルニアでゴールドラッシュに沸き太平洋国家としての性格を強めていました。
- 捕鯨船の寄港地:当時アメリカの捕鯨船が日本の近海で盛んに活動しており食料や水の補給燃料である石炭の補給ができる寄港地を必要としていました。
- 中国貿易の拠点:蒸気船による中国との貿易を本格化させるための中継地としても日本は魅力的な位置にありました。
アメリカ政府はこれらの目的を達成するため大統領フィルモアの国書を携えたペリーを日本に派遣することを決定しました。
2.2. 黒船の衝撃と幕府の混乱
ペリーが率いる艦隊のうち2隻は帆だけでなく巨大な外輪を回して進む蒸気船でした。煙突から黒い煙を吐き風がなくても海上を自在に進むその姿は当時の日本人を恐怖のどん底に陥れました。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も眠れず」という狂歌は蒸気船とお茶の銘柄をかけたものであり当時の社会の衝撃をよく表しています。
ペリーは幕府の役人が「国法であるから長崎へ回航せよ」と要求したのを完全に無視。江戸湾の奥深くへと測量と称して侵入し沿岸を大砲で威嚇しました。そして「大統領の国書を日本の最高権力者に直接渡すまでは断じて退去しない」と強硬な姿勢を示しました。
この前代未聞の事態に老中首座であった**阿部正弘(あべまさひろ)**を中心とする幕閣は激しく動揺します。ペリーの要求を拒否すれば戦争になるかもしれない。しかし受け入れれば鎖国という国是を破ることになる。
2.3. 幕府権威の失墜
ここで老中・阿部正弘は日本の歴史上極めて異例のそして結果的に幕府の権威を失墜させる致命的な決断を下します。
彼はこの国難を幕府だけで解決することを諦めアメリカ大統領の国書を全国の諸大名そして朝廷にまで開示し広く意見を求めたのです。
これは幕府が200年以上にわたって独占してきた外交決定権を自ら放棄したことを意味しました。大名たちはこれを機に国政への発言権を強め朝廷はそれまで政治から切り離されていたにもかかわらず国家の最高権威として再び政治の表舞台に登場することになります。幕府が自らの無力さを天下に露呈してしまった瞬間でした。
2.4. 日米和親条約(1854年)
ペリーは一旦日本を離れましたが「来春再び来航する」と言い残しました。そして約束通り翌1854年今度は7隻の艦隊を率いて再び江戸湾に姿を現します。
もはや抵抗する力も時間もないことを悟った幕府はやむなく開国を決定。1854年3月31日神奈川で**日米和親条約(神奈川条約)**を締結しました。
その主な内容は以下の通りです。
- 二港の開港:アメリカ船の薪水・食料の補給のため**下田(静岡県)と箱館(はこだて、北海道)**の二港を開く。
- 漂流民の救助:アメリカの漂流民を救助し保護すること。
- 領事の駐在:下田にアメリカの領事(外交官)を置くことを認める。
- 片務的最恵国待遇:日本が将来アメリカ以外の国にアメリカに与えていない有利な条件を与えることがあればアメリカにも自動的にその条件が適用される。
この条約はまだ本格的な「貿易」を認めるものではありませんでした。しかし200年以上続いた鎖国の体制に最初の風穴を開けたという点で画期的な意味を持つものでした。
この後幕府はイギリスロシアオランダとも同様の和親条約を締結。日本は否応なく世界の国際関係の網の中に組み込まれていくことになります。ペリーの来航は日本の長い平和な時代が終わりを告げ激動の時代が始まったことを告げる号砲だったのです。
3. 日米修好通商条約と不平等条約
日米和親条約によって鎖国の扉をこじ開けたアメリカ。しかし彼らの真の目的は漂流民の保護や薪水の補給だけではありませんでした。日本との本格的な「貿易」を開始することです。1856年和親条約に基づいて初代アメリカ総領事として下田に着任したタウンゼント・ハリスは幕府に対して粘り強く通商条約の締結を要求します。このハリスの圧力とアヘン戦争の二の舞を恐れる幕府の弱腰が重なり合い1858年日本は欧米列強と一連の不平等な通商条約を結ぶことになります。この条約の調印は天皇の許可を得ないまま強行されたため幕府の権威を決定的に失墜させ国内に深刻な政治対立を引き起こす直接的な原因となりました。
3.1. ハリスの圧力とアロー戦争
下田の玉泉寺に領事館を構えたハリスは老中・堀田正睦(ほったまさよし)ら幕閣に対して執拗に通商条約の締結を迫りました。
彼の最大の交渉カードは当時中国で起こっていた**アロー戦争(第二次アヘン戦争)**の情報でした。イギリスとフランスが再び清を攻撃し北京を占領する勢いである。もし日本がアメリカとの間で平和的に通商条約を結ばなければ次はイギリスの強大な艦隊がやってきて日本にはるかに厳しい条件を突きつけるだろう。ハリスはそう言って幕府を脅したのです。
この「アヘン戦争の悪夢」は幕閣に大きな影響を与えました。堀田正睦らはもはや通商条約の締結は避けられないと判断します。
3.2. 孝明天皇の勅許拒否
しかし幕府には一つの大きな壁がありました。それは朝廷の存在です。ペリー来航時に諸大名に意見を求めたことで朝廷の政治的権威は急速に高まっていました。幕府は国内の反対を抑えるためこの重大な国策転換について天皇からの許可(勅許、ちょっきょ)を得ようと考えました。
1858年老中・堀田正睦は自ら京都に赴き孝明天皇(こうめいてんのう)に条約の勅許を求めます。しかし孝明天皇は極めて頑固な攘夷論者でした。彼は「神国である日本が異国と交わることは皇室の伝統に反する」として条約への勅許を断固として拒否しました。
これは幕府にとって前代未聞の事態でした。これまで朝廷は幕府の決定を形式的に承認するだけの存在でした。その朝廷が国策に対して公然と「ノー」を突きつけたのです。
3.3. 井伊直弼の独断と条約調印
朝廷の説得に失敗し幕政が立ち往生する中1858年4月譜代大名の名門である彦根藩主・**井伊直弼(いいなおすけ)**が大老の職に就任し幕政の全権を握ります。
彼は国内の反対を押し切ってでも条約を締結し開国を進めるべきであるという強い意志を持っていました。彼は朝廷の勅許を得られないまま1858年6月19日(安政5年)日米修好通商条約の調印を独断で強行します。
3.4. 不平等条約の内容
この日米修好通商条約は日本のその後の歴史に長く暗い影を落とすことになる二つの大きな不平等な内容を含んでいました。
- 領事裁判権(治外法権):日本で罪を犯したアメリカ人は日本の法律や裁判所ではなく日本の領事館に置かれたアメリカの領事がアメリカの法律で裁くという権利です。これは日本の司法権の独立を侵害するものであり国家主権の重大な侵害でした。
- 関税自主権の欠如:日本が輸入品にかける関税(税金)の税率を日本自身が自由に決めることができず条約を結んだ相手国との協定によって決められるというものです(協定関税制)。これにより日本は自国の産業を守るための保護関税をかけることができず安い外国製品が大量に流入してくる道を開いてしまいました。
この二つの不平等な条項は明治時代を通じて日本の国家的な課題となりその改正(条約改正)は明治政府の最大の外交目標となっていくのです。
この日米修好通商条約に続き幕府はオランダロシアイギリスフランスとも同様の条約を締結しました。これらを総称して「安政の五か国条約」と呼びます。
3.5. 政治対立の激化
井伊直弼による勅許なき条約調印は国内に激しい政治的対立を引き起こしました。
- 幕府への批判:「幕府は天皇の意思に背き国を売った」という批判が全国で噴出しました。
- 尊王攘夷運動の高まり:天皇の権威を尊び外国を打ち払うべきであるという「尊王攘夷」の思想がこの事件をきっかけに燃え上がります。天皇は反幕府勢力の精神的な支柱となり幕府の権威は地に落ちました。
井伊直弼は国内の混乱を収拾するため強権を発動し反対派を弾圧する「安政の大獄」へと突き進みます。しかしそれはさらなる反発と悲劇を招く結果となるのでした。不平等条約の締結は日本の近代化の扉を開くと同時に幕末の動乱を決定づける引き金となったのです。
4. 開国による経済の混乱
1858年の安政の五か国条約によって日本の港が本格的に世界に開かれるとそれまで200年以上にわたって国内で完結していた日本の経済は荒波のまっただ中にある世界経済の海へと否応なく漕ぎ出すことになりました。この急激な開国と貿易の開始は日本の経済に深刻な混乱と打撃を与えました。物価の異常な高騰と国内産業の崩壊は武士から農民に至るまであらゆる階層の人々の生活を苦しめその不満は幕府への激しい怒りとなって向けられました。本章では開国がもたらした経済的な混乱の実態を探ります。
4.1. 貿易の構造
開国直後の貿易は横浜長崎箱館の三港で行われました。
- 主な輸出品:日本からの最大の輸出品は生糸でした。当時ヨーロッパでは蚕の病気が流行し日本の質の高い生糸は極めて高い価格で取引されました。その他にも茶や蚕卵紙(さんらんし)、海産物などが主要な輸出品でした。
- 主な輸入品:日本への輸入品で最も多かったのが毛織物と綿織物でした。イギリスの産業革命によって大量生産された安価で質の良い布製品が大量に日本市場に流入しました。その他にも鉄砲や艦船といった武器も輸入されました。
4.2. 輸出超過による物価の高騰
貿易が始まると日本の商人たちは国内で売るよりもはるかに高い価格で売れる生糸や茶を競って外国商人に売り渡しました。これにより日本国内で深刻な品不足が発生。生糸や茶の国内価格はわずか数年で数倍にまで跳ね上がりました。
この物価の高騰は人々の生活を直撃しました。
- 国内産業への打撃:生糸を原料とする京都の西陣織などの絹織物業者は原料不足と価格高騰によって生産ができなくなり大きな打撃を受けました。
- 生活必需品の価格上昇:生糸や茶の生産に儲けを見出した農民たちが米作りをやめて桑や茶の栽培に切り替えたため米の生産が減少し米価も上昇。さらに蝋(ろうそくの原料)や油といった生活必需品も輸出されたためこれらの価格も高騰しました。この現象は「輸出インフレーション」と呼ばれます。
4.3. 金貨の大量流出
開国がもたらしたもう一つの深刻な問題が日本の金貨の大量流出でした。
- 内外の金銀比価の違い:当時の日本では金と銀の交換比率が金1に対して銀5程度でした。しかし国際市場での比率は金1に対して銀15程度でした。つまり日本では金が銀に対して異常に安かったのです。
- 金の流出メカニズム:これに気づいた外国商人たちは自国から銀貨を持ち込みそれを日本の銀貨に両替。その日本の銀貨を使って日本の金貨(小判)を大量に買い集めました。そしてその金貨を中国などで国際相場の銀に換えれば莫大な利益(利ざや)を稼ぐことができたのです。
- 幕府の対応:この事態に慌てた幕府は金の含有量を大幅に減らした新しい小判(万延小判、まんえんこばん)を発行しました。これにより金の流出は止まりましたが貨幣の価値が急落したため物価のさらなる高騰を招き経済は一層混乱しました。
4.4. 経済混乱と攘夷運動
この急激な経済混乱は人々の生活を破壊し社会に大きな不安をもたらしました。
- 下級武士の窮乏:収入が米で固定されている武士階級特に下級武士は物価の高騰によって生活が極度に困窮しました。
- 農民・職人の困窮:それまで国内向けの生産で生計を立てていた多くの農民や職人たちは輸出インフレや安い輸入品との競争によって仕事を失いました。
人々の不満と怒りはこの事態を引き起こした原因である外国人とそして無策な幕府に向けられました。「開国したせいで我々の生活はめちゃくちゃになった。外国人を打ち払い元の世の中に戻すべきだ」という攘夷の思想は経済的な困窮という現実的な問題と結びつくことで急速に支持を広げていったのです。
開国は日本に新しい時代の可能性をもたらしましたがそれは同時に多くの人々の生活を犠牲にする痛みを伴うものでした。この経済的な混乱が幕末の政治的な動乱をさらに激化させる大きな燃料となったのです。
5. 尊王攘夷運動の高まり
井伊直弼による勅許なき条約調印と開国による経済の混乱。これらの出来事はそれまで水面下で燻っていた反幕府の感情に火をつけ「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という一つの強力な政治思想として結晶化させました。この思想は幕府の権威を否定し天皇を国家の中心に据え外国勢力を武力で打ち払うことを目指すものであり幕末の政治を動かす最も大きな原動力となりました。本章ではこの尊王攘夷運動がなぜこれほどの力を持ったのかその思想的背景と運動の担い手そしてその過激な活動の実態を探ります。
5.1. 尊王攘夷思想とは
「尊王攘夷」は二つの思想が結合したものです。
- 尊王論(そんのうろん):これは天皇を日本の唯一最高の権威として尊ぶ思想です。その源流は江戸時代中期に発展した国学や水戸学にありました。
- 国学: 本居宣長(もとおりのりなが)らが日本の古典を研究し仏教や儒教が伝わる以前の日本古来の精神(古道)を明らかにしようとしました。その中で天皇を神の子孫とする神話の重要性が再認識されました。
- 水戸学: 水戸藩で編纂された『大日本史』の研究から発展した学問です。君臣関係(大義名分論)を重んじ将軍は天皇から政治を委任された存在に過ぎず最終的な権威は天皇にあると主張しました。これらの思想は幕府の支配が揺らぐ中で天皇こそが国家の正統な中心であるという考え方を人々に広めました。
- 攘夷論(じょういろん):これは外国勢力を実力で打ち払うべきだという排外的な思想です。アヘン戦争の情報や黒船来航の衝撃によって西洋列強への恐怖と反感が広まる中で攘夷論は多くの人々の心を捉えました。
そしてこの二つの思想が幕末の政治状況の中で劇的に結びつきます。幕府が朝廷(孝明天皇)の反対を押し切って開国条約を結んだことで**「天皇の意思=攘夷」であり「幕府の政策=開国」である**という分かりやすい対立の構図が生まれました。「天皇の意思に従わない幕府は許せない。天皇を尊びその御心である攘夷を実行せよ」という主張が「尊王攘夷」のスローガンとなったのです。
5.2. 運動の担い手:志士たち
尊王攘夷運動の中心となったのは身分の高い大名や公家だけではありませんでした。むしろその最も過激な担い手となったのは下級武士や郷士(ごうし)、そして浪人といった階層の人々でした。彼らは「志士(しし)」と呼ばれました。
- 志士たちの背景:彼らの多くは藩の政治の中枢から疎外されており現状の身分制社会に強い不満を抱いていました。経済的にも困窮している者が多くいました。彼らにとって尊王攘夷運動は自らの鬱屈したエネルギーを解放し身分に関係なく国のために行動することで自らの存在価値を証明する絶好の機会でした。
- 吉田松陰(よしだしょういん)と松下村塾(しょうかそんじゅく):尊王攘夷の志士たちに最も大きな思想的影響を与えた人物の一人が長州藩の吉田松陰です。彼は萩に松下村塾という私塾を開き身分に関係なく多くの若者たちを受け入れました。松陰は「一君万民(いっくんばんみん)」思想を説き天皇の下では全ての人民が平等であると主張しました。そして幕府が国を売り渡すならばもはや藩という垣根を越えて草莽(そうもう、在野の人々)が立ち上がり行動すべきであると教えました。彼の教えは高杉晋作(たかすぎしんさく)や久坂玄瑞(くさかげんずい)、そして後の総理大臣となる伊藤博文や山県有朋といった多くの才能を育て彼らが幕末の動乱の主役となっていきます。
5.3. 天誅(てんちゅう)の横行
尊王攘夷運動は単なる思想運動にとどまりませんでした。それはやがて過激なテロリズムへと発展していきます。志士たちは幕府の役人や開国派の思想家そして外国人を「国賊」であると断じ「天に代わって誅罰を加える」として次々と暗殺しました。これを「天誅」と呼びます。
- 外国人襲撃事件:初代アメリカ総領事ハリスの通訳であったヒュースケンが殺害されるなど外国人を狙った襲撃事件が頻発し幕府と列強との関係を極度に緊張させました。
- 幕府要人や開国派の暗殺:幕府の役人や開こくをとなえる学者たちが次々と天誅の犠牲となりました。
京都や江戸の街は浪人たちが闊歩し血なまぐさい暗殺事件が日常的に起こる無法地帯と化しました。
5.4. 運動の中心地:長州藩と水戸藩
尊王攘夷運動は全国に広がりましたがその中心地となったのが長州藩(山口県)と水戸藩(茨城県)でした。
- 長州藩:吉田松陰の思想的影響が強く藩全体が急進的な尊王攘夷論に染まっていきました。長州藩は京都の朝廷を動かし幕府に攘夷の実行を迫るなど過激な政治活動を展開します。
- 水戸藩:水戸学の本拠地であり尊王攘夷思想の発祥の地でした。しかし藩内は尊王攘夷を掲げる激派(天狗党)と幕府との協調を重んじる鎮派に分裂し激しい内部抗争を繰り広げました。
尊王攘夷運動は幕府の権威を失墜させその支配を根底から揺るがしました。しかしその排外的で過激な思想は外国との戦争を招き結果として攘夷の不可能性を自ら証明することになります。そしてその挫折の中から運動は新たな段階へと進化していくことになるのです。
6. 安政の大獄と桜田門外の変
尊王攘夷運動の激化と朝廷の権威の高まり。これに対し幕府の大老・井伊直弼は徳川の世の秩序を守るため強権を発動します。彼は自らの政策に反対する勢力を「国を乱す逆賊」と断じ容赦ない弾圧を開始しました。これが「安政の大獄(あんせいのたいごく)」です。しかしこの強権的な弾圧は反幕府勢力の恨みをさらに増幅させついに井伊直弼自身が暗殺されるという前代未聞のテロ事件「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」を引き起こします。この二つの事件は幕末の政治がもはや話し合いでは解決できない血で血を洗う対立へと突入したことを象徴する出来事でした。
6.1. 二つの火種:条約問題と将軍継嗣問題
井伊直弼が強権を発動する直接的な引き金となったのは二つの大きな政治問題でした。
- 条約勅許問題:井伊直弼は1858年に朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を独断で調印しました。これは「尊王」を掲げる勢力にとって許しがたい暴挙でした。
- 将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい):当時13代将軍・徳川家定は病弱で跡継ぎがいませんでした。その後継者を誰にするかをめぐって幕府は二つの派閥に分裂していました。
- 一橋派(ひとつばしは): 徳川斉昭(なりあき、前水戸藩主)や松平慶永(よしなが、越前藩主)、島津斉彬(なりあきら、薩摩藩主)といった有力な大名たちが支持。聡明で知られた**一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の15代将軍・慶喜)**を次期将軍に推しました。彼らは朝廷との協調を重んじる開国派でした。
- 南紀派(なんきは): 井伊直弼ら譜代大名の多くが支持。血筋が家定に近い紀州藩主・**徳川慶福(よしとみ、後の14代将軍・家茂、いえもち)**を推しました。彼らは幕府の権威を絶対視する保守派でした。
6.2. 安政の大獄(1858-1859年)
大老に就任した井伊直弼はこれらの問題を全て自らの権力で一気に解決しようとします。
- 将軍継嗣の決定:彼は反対派の意見を完全に無視し徳川慶福を14代将軍・家茂として強引に決定しました。
- 反対派への弾圧:そして条約調印と将軍継嗣の決定に反対した者たちに対して大規模な弾圧を開始します。これが「安政の大獄」です。
- 処罰の対象:弾圧の対象は尊王攘夷の志士たちだけではありませんでした。一橋派の有力大名であった徳川斉昭や松平慶永らは隠居や謹慎を命じられました。朝廷の公家たちも処罰の対象となりました。
- 吉田松陰の処刑:そして弾圧の矛先は過激な尊王攘夷論者へと向けられます。長州藩の吉田松陰は老中暗殺計画を自供したため江戸に送られ処刑されました。その他にも多くの志士たちが捕らえられ死罪や遠島などの厳しい罰を受けました。
この安政の大獄によって幕府に反対する声は一時的に沈黙させられました。しかし井伊直弼のこの強引で非情な手法は特に水戸藩の武士たちに彼に対する消えることのない憎悪を植え付けたのです。
6.3. 桜田門外の変(1860年)
安政の大獄で藩主であった徳川斉昭を罰せられた水戸藩の浪士たちは井伊直弼への復讐を誓います。彼らは薩摩藩の志士とも連携し井伊直弼の暗殺計画を密かに練りました。
1860年(安政7年)3月3日。季節外れの大雪が降る朝井伊直弼は江戸城へ登城する途中でした。彼の行列が江戸城の桜田門の外に差し掛かった時18名の水戸・薩摩の浪士たちが白昼堂々その行列に襲いかかりました。
護衛の武士たちは突然の襲撃に混乱。浪士たちは駕籠(かご)の中にいた井伊直弼を引きずり出しその首を討ち取りました。これが「桜田門外の変」です。
6.4. 事件がもたらした衝撃
幕府の最高権力者である大老が江戸城の目と鼻の先で暗殺されたという事実は日本中に衝撃を与えました。
- 幕府権威の決定的な失墜:この事件は幕府がもはや自らの最高指導者の安全さえ守ることができない無力な存在であることを天下に示しました。幕府の権威と威信は地に落ちました。
- テロの時代の本格化:井伊直弼の暗殺成功は尊王攘夷の志士たちを勢いづかせました。これ以降「天誅」と称する要人暗殺のテロがさらに頻発するようになります。
- 幕府の政策転換:指導者を失った幕府は井伊直弼の強硬路線を維持することができなくなりました。幕政の主導権を握った老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)らは尊王攘夷派の不満を和らげるため朝廷との融和を図る「公武合体」政策へと大きく方針を転換せざるを得なくなります。
安政の大獄と桜田門外の変。この弾圧と報復の連鎖は幕末の政治がもはや対話ではなく暴力によって動かされていく時代の始まりを告げるものでした。そして失墜した権威を取り戻そうとする幕府の苦しい試みが始まるのです。
7. 公武合体政策
桜田門外の変で大老・井伊直弼を失いその権威が地に落ちた江戸幕府。もはや尊王攘夷派の激しい突き上げを力だけで抑え込むことは不可能でした。そこで井伊直弼の死後に幕政を主導した老中・安藤信正(あんどうのぶまさ)らはこれまでの方針を180度転換します。彼らは幕府の失われた権威を回復するため朝廷の伝統的な権威と結びつくことでこの難局を乗り切ろうとしました。この朝廷(公)と幕府(武)が一体となって国難にあたるべきだという政策を「公武合体(こうぶがったい)」と呼びます。しかしこの政策は尊王攘夷派の反発をさらに強め結果として幕府の寿命を縮めることになります。
7.1. 公武合体政策の狙い
幕府が公武合体政策を推進した狙いは主に二つありました。
- 幕府権威の再建:井伊直弼の独断による条約調印以来幕府は「天皇の意思に背く逆賊」という批判に晒されていました。そこで朝廷と積極的に連携し婚姻関係を結ぶことで「幕府は朝廷と一体である」ということを内外に示し尊王論者たちの批判をかわそうとしました。
- 尊王攘夷運動の分断:尊王攘夷運動の旗印は「天皇」でした。その天皇が幕府と協力する姿勢を見せれば尊王攘夷派は「天皇を尊ぶ」ことと「幕府を倒す」ことを両立できなくなりその運動の勢いを削ぐことができると考えたのです。
7.2. 和宮降嫁(かずのみやこうか)
この公武合体政策の象徴としてそして最大の切り札として幕府が計画したのが14代将軍・**徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)**との結婚でした。
皇女が将軍に嫁ぐ(降嫁)ことは前代未聞の出来事でした。幕府はこの皇室との縁組を実現させることで幕府と朝廷の親密な関係を天下にアピールしようとしたのです。
しかしこの縁談は困難を極めました。和宮には既に婚約者がおりまた攘夷論者であった孝明天皇も当初はこの政略結婚に強く反対しました。
老中・安藤信正は朝廷に対して粘り強く交渉を続けます。そして最終的に幕府が将来的に攘夷を実行すること(破約攘夷)を約束するという条件で孝明天皇はこの結婚を認めました。
1.2. 坂下門外の変と公武合体の挫折
1862年和宮の行列は盛大な警備のもと江戸城へと入りました。しかしこの政略結婚は尊王攘夷派の志士たちの怒りに火をつけました。彼らは「神聖なる皇女を関東の夷(えびす、野蛮人)である武士に売り渡すとは何事か」と激しく反発。公武合体政策の中心人物であった老中・安藤信正は江戸城の坂下門外で水戸藩の浪士たちに襲撃され負傷し失脚してしまいます(坂下門外の変)。
安藤信正の失脚後幕府内にはもはや強力なリーダーシップを発揮できる人物はいなくなりました。幕府は朝廷に対して約束した「攘夷の実行」を迫られますが実行できるはずもありません。公武合体政策は幕府の権威を回復させるどころか朝廷に実行不可能な約束をさせられその政治的発言力をさらに高めさせてしまうという皮肉な結果に終わりました。
7.3. 薩摩藩の台頭と島津久光
この幕府の権威が失墜し政治が混迷を深める中で新たな政治勢力として急速に台頭してきたのが**薩摩藩(鹿児島県)**でした。
薩摩藩はもともと幕府とは距離を置いていましたが藩主の父である**島津久光(しまづひさみつ)**は公武合体こそが国を救う道であると考えます。彼は数千の兵を率いて京都に上り朝廷と幕府の間の調停役を自ら買って出ました。
久光は朝廷の権威を背景に幕府に対して**幕政改革(文久の改革)**を要求します。この改革により松平慶永が政事総裁職に徳川慶喜が将軍後見職にそれぞれ就任するなどかつて井伊直弼によって処罰された一橋派の有力大名たちが政権に復帰しました。
この薩摩藩の動きはこれまで幕府が独占してきた国政に有力な雄藩が公然と介入し始めたことを示すものでした。幕府の支配はもはや江戸の中枢だけでは完結せず薩摩藩のような有力藩の意向を無視できなくなったのです。公武合体政策は結果として幕府の権威をさらに相対化させ幕末の政治をより一層複雑で多極的なものへと変えていきました。
8. 薩英戦争と下関戦争
公武合体政策が進められる一方で尊王攘夷運動はますますその熱を帯びていました。特に運動の急先鋒であった薩摩藩と長州藩は「攘夷」を単なるスローガンではなく現実の行動に移します。しかしその結果は西洋列強の圧倒的な軍事力の前に惨敗するという厳しい現実でした。1863年の薩英戦争と1864年の下関戦争。この二つの戦争での敗北は薩摩と長州に「攘夷は不可能である」という冷徹な事実を教えました。そしてこの痛みを伴う教訓こそが彼らを単なる排外主義から開国そして討幕へと大きく方針転換させる決定的な契機となったのです。
8.1. 薩英戦争(1863年):薩摩藩の攘夷と挫折
1862年公武合体運動を主導していた薩摩藩の島津久光の行列が江戸からの帰途武蔵国生麦村(なまむぎむら、横浜市)で乗馬したまま行列を横切ったイギリス人4名を薩摩藩士が斬りつけ殺傷するという事件が発生しました(生麦事件)。
イギリスはこれに激しく抗議し幕府と薩摩藩に犯人の処罰と多額の賠償金を要求します。幕府は賠償金を支払いましたが薩摩藩はこれを拒否。
1863年8月報復のためイギリスの軍艦7隻が薩摩藩の本拠地である鹿児島湾に侵入し鹿児島城下を砲撃しました。これが「薩英戦争(さつえいせんそう)」です。
薩摩藩もまた洋式の砲台で応戦しイギリス艦隊にも損害を与えましたが城下は火の海となり甚大な被害を受けました。この戦いを通じて薩摩藩は西洋の軍事技術の恐るべき威力を身をもって知ることになります。
戦いの後薩摩藩はイギリスと和議を結びました。そして驚くべきことにこの戦争をきっかけに両者は敵対関係から一転して急速に接近します。薩摩藩は攘夷の無謀さを悟りイギリスと手を結びその進んだ技術を導入して富国強兵を図るという現実的な開国路線へと大きく舵を切ったのです。
8.2. 下関戦争(1864年):長州藩の攘夷と挫折
一方長州藩は京都の朝廷における尊王攘夷派の中心として過激な行動を続けていました。1863年朝廷から攘夷の実行を迫られた幕府が「5月10日をもって攘夷を決行する」と諸藩に通達すると長州藩はこれを真に受けてしまいます。
同年5月10日長州藩は本州と九州を隔てる関門海峡を航行するアメリカ・フランス・オランダの外国船に対して沿岸の砲台から次々と砲撃を加えました。
これに対し翌1864年8月報復のためイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国連合艦隊が長州藩の下関の砲台を攻撃します。これが「下関戦争」です。
長州藩の砲台は連合艦隊の圧倒的な火力の前にわずか数日で完全に破壊され陸上部隊も上陸した敵軍に敗北。長州藩は惨敗を喫しました。
8.3. 攘夷の挫折がもたらしたもの
この薩摩・長州両藩の外国との直接対決と敗北は幕末の政治の流れを大きく変えるいくつかの重要な結果をもたらしました。
- 攘夷の不可能性の認識:この二つの戦争は日本の伝統的な武力では西洋列強の近代的な軍事力に全く歯が立たないという事実を誰の目にも明らかにしました。これにより「攘夷」はもはや現実的な政策ではなくなりました。
- 開国富国強兵への転換:薩摩・長州両藩は攘夷の挫折から教訓を学びました。彼らは「今は外国と戦う時ではない。むしろ積極的に開国し西洋の進んだ技術(特に軍事技術)を導入し国力を高めなければ将来日本の独立は危うい」と考えるようになります。攘夷は「外国を打ち払う」ことから「外国と対等な力を持つための国内改革」へとその意味を変えたのです。
- 討幕思想への傾斜:そして彼らは考えました。「今の旧態依然とした江戸幕府にこの国難を乗り切るための大胆な改革は不可能である。日本を強くするためにはまず幕府を打倒し天皇のもとに統一された新しい強力な国家を建設しなければならない」と。
こうして尊王攘夷運動の中心であった薩摩と長州は「攘夷」という共通の看板を下ろし「尊王討幕」という共通の目標に向かって進み始めることになります。この二つの敗戦こそが彼らを日本で最も現実的で最も強力な反幕府勢力へと変貌させるための痛みを伴う洗礼だったのです。
9. 薩長同盟の成立
薩英戦争と下関戦争を経て「攘夷」の不可能を悟り「開国討幕」へと舵を切った薩摩藩と長州藩。彼らは幕末の日本において最も進んだ軍事力と政治力を持つ二大雄藩でした。しかしこの両藩は京都の政局をめぐって激しく対立しており特に長州藩は薩摩藩が会津藩と協力して自分たちを京都から追放した「八月十八日の政変」や「禁門の変」以来薩摩藩に対して深い恨みを抱いていました。この犬猿の仲であった両藩が日本の未来のために手を結ぶ。この奇跡的な同盟「薩長同盟(さっちょうどうめい)」を実現させたのが土佐藩出身の志士・坂本龍馬でした。
9.1. 対立する二大雄藩
1860年代半ば薩摩藩と長州藩は幕末の政局を動かす二つの極でした。
- 薩摩藩:島津久光・西郷隆盛・大久保利通らが主導。当初は公武合体路線をとり朝廷と幕府の調停役を務めました。しかし幕府の改革が進まないことに失望し次第に討幕へと傾いていきました。
- 長州藩:高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らが主導。過激な尊王攘夷論を掲げ京都で政治工作を行いましたが八月十八日の政変で追放され禁門の変で朝敵となります。その後幕府による長州征伐を受けるなど窮地に立たされていました。
長州藩の武士たちは自分たちが京都で苦戦している時に薩摩藩が何もしなかった(むしろ敵対した)ことを深く恨んでおり両者の間の溝は決定的でした。
9.2. 坂本龍馬の仲介
この絶望的な関係を修復し両者を結びつけるという離れ業を成し遂げたのが土佐藩を脱藩した浪人**坂本龍馬(さかもとりょうま)**でした。彼は勝海舟の弟子として早くから海軍の重要性と開国の必要性を認識していました。彼は個別の藩の利益ではなく「日本」という国家全体の未来を考えるスケールの大きな視野を持った人物でした。
龍馬は考えました。「今の幕府に日本を任せてはおけない。日本を強くするためには薩摩と長州という二大勢力が手を結び新しい政府を作るしかない」と。
彼はまず長州藩の桂小五郎を説得。そして薩摩藩の西郷隆盛のもとを訪れ同盟の必要性を粘り強く説きました。
龍馬が提示した同盟のメリットは両藩にとって極めて魅力的でした。
- 長州にとってのメリット:当時長州藩は幕府から経済制裁を受け武器の輸入が困難でした。龍馬は薩摩藩の名義で長州藩がイギリスから最新の武器(軍艦やライフル銃)を輸入するという策を提案しました。
- 薩摩にとってのメリット:薩摩藩は兵力は強いものの米の生産量が少なく長期戦になると兵糧米の確保に不安がありました。長州藩は米の産地であり兵糧米の供給が期待できました。
この武器と米の交換という経済的な協力関係をテコにして龍馬は両藩の政治的な同盟へと話を進めていったのです。
9.3. 1866年、同盟の成立
坂本龍馬と彼の盟友である中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の懸命な仲介の結果ついに両藩の指導者である西郷隆盛と桂小五郎が京都で会見することに合意します。
1866年1月21日京都の薩摩藩邸で坂本龍馬の立ち会いのもと両者は会談。そして歴史的な**薩長同盟(薩長盟約)**が秘密裏に結ばれました。
その主な内容は以下の6カ条でした。
- 幕府が再び長州征伐を行なった場合薩摩藩は長州藩を支援する。
- 長州藩の無実が晴れた際には両藩が協力して朝廷の政治を主導する。
- もし幕府が朝廷をないがしろにするようなことがあれば両藩が協力して断固たる処置をとる(討幕)。
9.4. 同盟の成果と歴史的意義
この薩長同盟の成立は幕末の政治の流れを決定づけるものでした。
- 第二次長州征伐の失敗:同盟が結ばれた直後の1866年夏幕府は第二次長州征伐を開始します。しかし薩摩藩はこの出兵を拒否。幕府軍の士気は上がらず高杉晋作が率いる長州藩の近代的な軍隊の前に各地で敗北を重ねます。そして遠征中に14代将軍・家茂が病死したことで幕府は征伐を中止せざるを得ませんでした。この失敗は幕府の軍事的な権威が完全に失墜したことを天下に示しました。
- 討幕運動の加速:薩長同盟の成立によりそれまで個別に活動していた反幕府勢力は強力な軍事的・政治的な中核を持つことになりました。これにより「討幕」はもはや夢物語ではなく現実的な政治目標となったのです。
犬猿の仲であった二つの力が日本の未来という一つの目標のために手を結んだ薩長同盟。それは坂本龍馬という一人の触媒が存在したからこそ可能となった奇跡でした。そしてこの強力な同盟が次の時代「明治維新」を成し遂げるための原動力となっていくのです。
10. 徳川慶喜と大政奉還
薩長同盟の成立と第二次長州征伐の失敗。これらの出来事によって江戸幕府の権威は地に落ちその支配体制はもはや崩壊寸前の状態にありました。この幕府最後の危機に15代将軍として就任したのが一橋家出身の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)でした。彼は幼い頃から英明で知られ幕府の最後の希望とされていました。しかし彼が将軍となった時にはもはや幕府の力だけで薩長を中心とする討幕派の勢いを止めることは不可能でした。追い詰められた慶喜は土佐藩の坂本龍馬らが提案した起死回生の策を受け入れます。それが1867年に行われた「大政奉還(たいせいほうかん)」でした。本章では最後の将軍・徳川慶喜がいかにして265年続いた江戸幕府の歴史に自らの手で幕を下ろしたのかその決断の背景と歴史的意義を探ります。
10.1. 最後の将軍・徳川慶喜
徳川慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の子として生まれ一橋家の当主となっていました。彼は将軍継嗣問題では一橋派の中心人物であり井伊直弼によって一度は政治の中枢から排除されました。しかしその後復権し1866年に14代将軍・家茂が亡くなるとその後を継いで15代将軍に就任しました。
慶喜はフランスの支援を受けて幕政改革(慶応の改革)を進め陸軍の近代化などを図りました。彼は極めて聡明な人物であり徳川幕府が時代遅れの存在になりつつあることを誰よりも深く理解していました。
10.2. 討幕の密勅と土佐藩の建白
薩長両藩は武力によって幕府を倒し天皇を中心とする新しい政府を作ることを目指し着々と準備を進めていました。1867年10月薩摩・長州両藩は朝廷内部の岩倉具視(いわくらともみ)らと連携し**幕府討伐の密勅(討幕の密勅)**を入手することに成功します。これにより彼らは天皇の命令として幕府を攻撃する大義名分を手にしました。
一方で土佐藩の坂本龍馬や後藤象二郎らは武力を用いることなく平和的に政権を移行させる道を探っていました。彼らは土佐藩主・山内容堂(やまのうちようどう)を通じて将軍・慶喜に対してある提案を行います。
その提案とは「将軍がその統治権(大政)を自ら朝廷に返還し徳川家は一大名として新しい政治体制に参加する」というものでした。これを大政奉還の建白と呼びます。
10.3. 慶喜の決断:大政奉還(1867年)
この土佐藩の提案は徳川慶喜にとって極めて魅力的なものでした。
- 討幕の口実を奪う:もし将軍が自ら政権を朝廷に返上してしまえば薩長はもはや幕府を「朝敵」として攻撃する大義名分を失います。
- 徳川家の実権維持:政権を返上した後新しい政府が諸大名の合議によって運営されることになれば全国最大の大名である徳川家がその議長として引き続き政治の実権を握り続けることができるだろうと慶喜は考えました。
1867年10月14日徳川慶喜は京都の二条城に諸藩の重臣を集め大政奉還を表明。翌日朝廷に対して正式に政権返上を申し出ました。
「…今日の形勢を察するに、終に政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽し、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候わば、必ず海外万国と並び立つべく…」
(今日の情勢を考えると政権を朝廷にお返しし広く天下の意見を求め天皇の御判断を仰ぎ皆で心を一つにして協力し国を守っていけば必ず外国と対等な国になれるだろう)
朝廷はこれを受け入れ265年続いた江戸幕府はここに形式上終わりを告げました。
10.4. 王政復古の大号令と幕府の終焉
しかし薩摩・長州の討幕派は慶喜のこの動きを徳川家が実権を維持するための時間稼ぎであると見抜いていました。彼らが目指していたのは単なる政権の返上ではなく徳川家の政治的影響力を完全に排除することでした。
大政奉還と同じ日に討幕の密勅を受け取っていた彼らは先手を打ちます。1867年12月9日薩長両藩は兵を率いて御所を固め岩倉具視らと連携して**天皇が直接政治を行う(王政復古)**ことを宣言するクーデターを決行します。これが「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」です。
この大号令では
- 摂政・関白・そして幕府の廃止
- 総裁・議定・参与の三職による新政府の樹立
- 徳川慶喜に対して将軍職の辞任と領地の返上(辞官納地)を命じる
ことが決定されました。
これは慶喜の思惑を完全に打ち砕くものでした。徳川家を新しい政府から完全に排除するという討幕派の強い意志が示されたのです。
この決定に不満を抱いた旧幕府勢力と薩長を中心とする新政府軍との間の武力衝突はもはや避けられないものとなりました。大政奉還によって平和的に終わるかに見えた時代の転換は結局は戊辰戦争という最後の内戦を経て達成されることになるのです。
## Module 14:開国と幕末の動乱の総括:外圧と内乱によるシステムの崩壊
本モジュールでは200年以上続いた徳川の泰平が黒船の来航という外的圧力によっていかにして崩壊していったのかその激動の幕末期を追った。我々はアヘン戦争の情報がもたらした衝撃がペリー来航によって現実の脅威となり幕府が結んだ不平等条約がその権威を失墜させた様を見た。条約調印をめぐる対立は「尊王攘夷」という強力なイデオロギーを生み出し安政の大獄と桜田門外の変というテロの連鎖を引き起こした。幕府は公武合体で権威の回復を図るも薩摩・長州は外国との戦争を経て攘夷の不可能を悟り「開国討幕」へと転換薩長同盟を結んで討幕の主役となった。最後の将軍・慶喜は大政奉還によって平和的な政権移譲を試みたが討幕派のクーデター「王政復古の大号令」の前にその試みは砕け散った。幕末の動乱は鎖国という名の安定したシステムがグローバル化という新しい時代の波に対応できず内部の矛盾を噴出させながら崩壊していく過程であり日本の近代が産声を上げるための避けられない産みの苦しみであった。