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【基礎 日本史(通史)】Module 15:明治維新と近代国家の建設
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは大政奉還によって江戸幕府が形式的に終わりを告げるも徳川家の実権を完全に排除しようとする薩長を中心とする討幕派との対立が避けられない状況になるまでを見ました。この対立は戊辰戦争という最後の内戦を経て徳川の世の完全な終焉と天皇を元首とする新しい時代の幕開けをもたらします。この明治維新と呼ばれる一連の変革は単なる政権交代ではありませんでした。それは西洋列強の圧力という未曾有の国難の中で日本の独立を守るため封建的な社会を根底から破壊しわずか数十年の間に近代的な国民国家を創り上げるという世界史的にも稀な壮大な国家改造事業でした。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず王政復古の大号令とそれに続く戊辰戦争によって新政府がいかにして旧幕府勢力を一掃し武力的な統一を達成したかを見ます。次に新政府がその基本方針として示した五箇条の御誓文の理念を探ります。そして明治維新の最大の改革であった版籍奉還から廃藩置県へと至るプロセスを追い日本の封建制度がどのように解体されたかを分析します。さらに四民平等という社会改革地租改正という経済改革そして徴兵令と学制という国民国家の基礎を築く改革の内容を解明します。最後に新政府が国策として掲げた「富国強兵」と「殖産興業」の具体的な政策そして日本の近代化の方向性を決定づけた岩倉使節団の派遣が持つ歴史的意義を考察します。
- 王政復古の大号令: 薩長が主導したクーデターがいかにして徳川の政治的影響力を完全に排除しようとしたかを見る。
- 戊辰戦争: 新政府軍と旧幕府軍が激突した最後の内戦の経過とそれが明治維新に与えた影響を探る。
- 五箇条の御誓文: 新しい国家が目指すべき基本理念として示された五箇条の御誓文の内容とその歴史的意義を分析する。
- 版籍奉還から廃藩置県へ: 700年続いた封建的な藩制度がどのようにして解体され中央集権的な国家が誕生したかを解明する。
- 四民平等と身分制度の解体: 江戸時代の厳格な身分制度が撤廃され「国民」が創出されていく過程を追う。
- 地租改正: 近代国家の財政基盤を築いた画期的な税制改革の内容とその問題点を探る。
- 徴兵令と国民皆兵: 武士の特権であった軍事が国民全体の義務となる「国民皆兵」の創設とその社会的衝撃を考察する。
- 学制の公布: 国民国家の担い手を育てるための近代的な学校制度がいかにして導入されたかを見る。
- 富国強兵と殖産興業: 「豊かな国と強い軍隊」を目指した明治政府の産業育成政策の具体的な内容を分析する。
- 岩倉使節団の派遣: 新政府の指導者たちが世界を目の当たりにし日本の近代化の方向性をいかにして定めたかその画期的な旅の意義を探る。
このモジュールを学び終える時皆さんは今日の日本の社会システムの原型がこの明治維新という急進的な「上からの革命」の中でいかにして築き上げられていったのかその光と影に満ちた壮大なドラマを深く理解することができるでしょう。
1. 王政復古の大号令
1867年10月14日15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行いました。これにより江戸幕府は形式上滅亡します。慶喜の狙いは自ら政権を差し出すことで武力討伐の口実を奪い新しい諸侯会議の中でも徳川家が最大の勢力として実権を握り続けることにありました。しかし薩摩・長州を中心とする討幕派は慶喜のこの巧妙な戦略を見抜き徳川家を政治の舞台から完全に排除するためのクーデターを決行します。それが1867年12月9日の「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」でした。
1.1. 討幕派のクーデター
大政奉還後も徳川慶喜は依然として内大臣として朝廷の最高位にあり全国の幕領を保持していました。この状況を打破するため薩摩・長州両藩は朝廷内部の公家・岩倉具視(いわくらともみ)らと連携し武力による政権奪取を計画します。
12月9日早朝薩摩藩の軍勢が御所の九つの門を固め公家たちの入廷を制限。その中で幼い明治天皇臨席のもとで会議が開かれ一方的に「王政復古の大号令」が発せられました。これは紛れもないクーデターでした。
1.2. 大号令の内容
この大号令は日本の政治体制を根底から覆すラディカルな内容でした。
- 幕府・摂政・関白の廃止:江戸幕府はもちろんのこと平安時代以来続いてきた摂政・関白といった朝廷の伝統的な役職も全て廃止することを宣言しました。
- 三職の設置:これらに代わる新しい政府として**総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)**の三職を置くことを定めました。総裁には皇族である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が就任。そして議定や参与には薩摩・長州・土佐・尾張・越前といった藩の藩主や有力な藩士そして岩倉具視らの公家が任命されました。
- 神武創業への回帰:政治の理想を初代天皇である神武天皇の時代に戻すことを掲げました。これは天皇が直接政治を行う「天皇親政」の復活を意味し武家や特定の貴族が政治を壟断してきた歴史を全面的に否定するものでした。
1.3. 小御所会議と慶喜への処分
その日の夜新政府の三職による最初の会議が御所の小御所(こごしょ)で開かれました(小御所会議)。この会議の最大の議題は前将軍・徳川慶喜の処遇でした。
会議では土佐藩の後藤象二郎や越前藩の松平慶永らが「慶喜を新政府の議長として迎えるべきだ」と主張。これに対し薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通そして公家の岩倉具視は断固として反対しました。
岩倉は「慶喜が大政奉還をしたのは真の忠誠心からではなく権力を維持するための策略である。もしここで慶喜の参加を許せば王政復古は有名無実となる」と主張。西郷もまた武力を背景に強硬な態度を崩しませんでした。
最終的に会議は岩倉や西郷の意見に押し切られ慶喜に対して**内大臣の官職の辞退と幕府領の全てを朝廷に返上すること(辞官納地、じかんのうち)**を命じるという極めて厳しい決定を下しました。
1.4. 内乱への道
この決定は徳川慶喜とその家臣たちにとって到底受け入れられるものではありませんでした。それは徳川家を他の大名以下の存在に貶めるものであり事実上の死刑宣告に等しかったからです。
慶喜自身は恭順の姿勢を示そうとしましたが会津藩や桑名藩をはじめとする旧幕府勢力の諸藩や幕臣たちの怒りは頂点に達しました。「薩摩・長州の陰謀によって徳川家は不当に貶められた。君側の奸である薩長を討つべし」という主戦論が旧幕府内で急速に高まっていきます。
王政復古の大号令と小御所会議の決定は徳川慶喜の政治的延命策を完全に打ち砕きました。そして新政府と旧幕府勢力との間の武力衝突を避けられないものとしたのです。日本の新しい時代は最後の内戦「戊辰戦争」の戦火の中から生まれることになります。
2. 戊辰戦争
王政復古の大号令によって政治の舞台から排除された旧幕府勢力。彼らの不満と怒りはついに爆発します。1868年(慶応4年/明治元年)1月京都近郊の鳥羽・伏見で旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が激突。ここに約1年半にわたる最後の内戦「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の火蓋が切られました。この戦争は単なる政権交代の総仕上げではなく新しい国民国家の建設を目指す新政府が封建的な旧体制を完全に解体していくプロセスでもありました。
2.1. 鳥羽・伏見の戦い
徳川慶喜は辞官納地の命令に対し大坂城にあって恭順の姿勢を見せつつもその処分の不当性を諸外国に訴えるなど対抗の動きを見せていました。これに対し新政府側の西郷隆盛らは江戸で浪人たちを使い挑発行為を繰り返し旧幕府側を意図的に怒らせ開戦の口実を作ろうとしました。
この挑発に乗った旧幕府軍(会津藩・桑名藩など)は「君側の奸である薩摩藩を討つ」という名目で大坂から京都へと進軍を開始。1868年1月27日京都南部の鳥羽街道と伏見街道で待ち構えていた新政府軍と衝突しました。
- 錦の御旗の登場:兵力では旧幕府軍が約1万5千と新政府軍の約5千を圧倒していました。しかし戦いの趨勢を決定づけたのは兵力差ではありませんでした。新政府軍は朝廷から「錦の御旗(にしきのみはた)」を授けられていました。これは天皇の軍(官軍)であることを示す旗です。この旗が翻ると旧幕府軍は天皇に弓を引く「朝敵(ちょうてき)」となってしまいました。これに動揺した旧幕府軍の士気は一気に低下。また新政府軍が持つ最新のライフル銃などの火力の前に旧式の装備の旧幕府軍は敗走します。
- 慶喜の江戸逃亡:戦いの最中総大将であった徳川慶喜は味方の兵を見捨てて大坂城を脱出。軍艦で江戸へと逃げ帰ってしまいました。指導者を失った旧幕府軍は完全に崩壊しました。
2.2. 江戸城無血開城
鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府軍は東征大総督・有栖川宮熾仁親王を総大将として江戸へと進軍します。新政府内では江戸城を総攻撃し徳川氏を完全に滅ぼすべきだという強硬論が主流でした。
しかし旧幕府陸軍総裁の勝海舟(かつかいしゅう)は江戸が火の海になることを避けるため新政府軍の参謀であった西郷隆盛との交渉に臨みます。
両者は会談し徳川慶喜が水戸で謹慎すること江戸城を明け渡すことなどを条件として江戸城の無血開城を取り決めました。これにより江戸の市街地は戦火を免れ多くの人々の命が救われたのです。
2.3. 奥羽越列藩同盟と東北戦争
しかし全ての旧幕府勢力が降伏したわけではありませんでした。特に徳川家への忠誠心が厚い東北地方の諸藩は新政府の強硬な姿勢に強く反発します。
会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)や庄内藩は新政府への謝罪を申し出ますが新政府はこれを認めませんでした。追い詰められた東北・越後の諸藩は1868年5月**奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)**を結成。輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやこうげんほっしんのう)を盟主として担ぎ新政府に対して公然と戦いを挑みました。
しかし近代的な装備と高い士気を持つ新政府軍の前に同盟軍は各地で敗北。特に激しい抵抗を見せた会津藩の若松城も約1ヶ月にわたる籠城戦の末に降伏しました(会津戦争)。この戦いでは少年兵部隊である**白虎隊(びゃっこたい)**の悲劇などが生まれました。
2.4. 箱館戦争と戊辰戦争の終結
東北戦争が終結した後も旧幕府海軍副総裁の**榎本武揚(えのもとたけあき)**は降伏を拒否。彼は幕府が所有していた軍艦8隻を率いて旧幕府の家臣たちと共に蝦夷地(北海道)へと渡りました。
榎本らは函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)を占領。そして「蝦夷共和国」ともいうべき事実上の独立政権を樹立しました。旧新選組副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)らもこの戦いに加わります。
しかし1869年4月新政府軍は蝦夷地に上陸し総攻撃を開始。5月には五稜郭が降伏し榎本武揚らも捕らえられました。この**箱館戦争(はこだてせんそう)**の終結をもって戊辰戦争は完全に終わりを告げました。
戊辰戦争は新政府が武力によって反対勢力を完全に排除し日本における唯一の正統な政府としての地位を確立するための戦いでした。この戦争の勝利によって明治新政府は次なる近代国家建設のための国内改革を本格的に推し進めることが可能になったのです。
3. 五箇条の御誓文
戊辰戦争の戦火がまだ日本各地で燻っていた1868年(明治元年)3月14日京都の紫宸殿(ししんでん)で明治天皇は神々に誓うという形で新しい国家が目指すべき基本方針を公表しました。これが「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」です。このわずか五カ条からなる短い文章は旧態依然とした幕藩体制との決別を宣言し開かれた議論に基づく近代的な国家を建設するという新政府の決意を内外に示した画期的なマニフェストでした。本章ではこの御誓文がどのような経緯で作成されその各条文にどのような意味が込められていたのかそしてそれが明治国家のその後の進路にいかなる影響を与えたのかを探ります。
3.1. 作成の経緯
五箇条の御誓文の作成を主導したのは土佐藩出身の由利公正(ゆりきみまさ)と福岡孝弟(ふくおかたかちか)そして長州藩出身の木戸孝允(きどたかよし、桂小五郎)らでした。
- 目的:当時新政府はまだ旧幕府勢力との戦争の真っ最中でありその基盤は極めて脆弱でした。この御誓文にはいくつかの重要な目的がありました。
- 諸藩の支持獲得: 新政府が閉鎖的な薩長の藩閥政府ではなく全国の諸藩の意見を取り入れる開かれた政府であることを示し戊辰戦争においてまだ日和見を決め込んでいる藩々を味方につけること。
- 国民の結束: これから始まる国家的な大改革に対して国民の心を一つにまとめその協力を得ること。
- 対外的なアピール: 日本が封建的な野蛮な国ではなく欧米列強と同じような近代的な文明国家を目指していることを海外に示し不平等条約改正への足がかりとすること。
当初はより急進的な内容も含まれていましたが木戸孝允による修正が加えられより穏健で誰もが受け入れやすい表現となりました。
3.2. 五カ条の条文とその解釈
御誓文は明治天皇が天地神明に誓うという形式で発表されました。
一 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
(広く会議を開き国の重要なことは全て公正な議論によって決定すべきである。)
これは幕府の独裁政治を否定し議会制のような合議による政治を目指すことを宣言したものです。「公論」という言葉は後の自由民権運動の重要なスローガンとなりました。
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
(身分の上下を問わず心を一つにして積極的に国家の統治を行うべきである。)
これは支配者である武士だけでなく全ての国民が国家の運営に参加すべきであるという国民国家の理念を示しています。
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(公家や武家はもちろんのこと一般の民衆に至るまで各自がその志を遂げられるようにし人々の希望が失われないようにすることが肝要である。)
これは江戸時代の厳格な身分制度を否定し個人の自由な活動を保障することを示唆しています。職業選択の自由や経済活動の自由の原則がここに見て取れます。
一 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
(これまでの悪い習慣を打ち破り国際的に通用する道理に基づいて行動すべきである。)
「陋習」とは具体的には攘夷思想などを指していると解釈されています。これは開国和親の方針を明確にし日本が国際社会の一員として歩んでいく決意を示したものです。
一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
(知識を世界中に求め大いに天皇の治世の基礎を奮い立たせるべきである。)
これは鎖国政策を完全に否定し欧米の進んだ知識や技術を積極的に導入して国家の近代化を進めるという強い意志を表明したものです。
3.3. 五榜の掲示
御誓文が新政府の基本方針を抽象的に示したものであったのに対しその翌日には「五榜の掲示(ごぼうのけいじ)」という5枚の高札が全国に掲示されました。
これは庶民が守るべき具体的な道徳や禁止事項を示したものでした。その内容は儒教的な道徳(五倫の道)を守ること徒党を組んだり強訴したりすることの禁止そしてキリスト教の禁止など江戸時代の政策をそのまま引き継いだものも多く含まれていました。
御誓文が革新的な理念を掲げたのに対し五榜の掲示は旧来の民衆統制を当面は維持するという新政府の現実的な側面を示しています。
3.4. 歴史的意義
五箇条の御誓文は明治新政府のその後の進路を決定づける羅針盤となりました。
- 近代化の宣言:この御誓文によって日本は封建国家から脱却し立憲的な政治体制を持つ近代的な国民国家を目指すことを内外に宣言しました。
- 自由民権運動への影響:第一条の「万機公論ニ決スヘシ」という言葉は後の自由民権運動において国会開設を要求する際の最も重要な理論的根拠となりました。
- 精神的な支柱:明治維新という急激な社会変革の中でこの御誓文は国民が共有すべき国家の理想像として精神的な支柱の役割を果たしました。
五箇条の御誓文は新しい日本の「建国の理念」でした。その内容は非常に抽象的でしたがだからこそその後の時代時代の人々がそれぞれの立場から自らにとって都合の良い解釈をすることが可能でした。この理念の柔軟性こそが明治国家が多くの困難を乗り越えて発展していくことを可能にした大きな要因の一つであったと言えるでしょう。
4. 版籍奉還から廃藩置県へ
五箇条の御誓文で近代的な統一国家の建設を宣言した明治新政府。しかしその足元には依然として江戸時代から続く封建的な分裂状態が残されていました。全国は約270の「藩」に分かれそれぞれの藩主(大名)がその土地(版図)と人民(戸籍)を私的に支配するという幕藩体制の構造は手つかずのままだったのです。このままでは強力な中央集権国家を築くことはできません。本章では新政府がいかにしてこの700年近く続いた封建制度を解体し日本を一つの国家へと統合していったのかその劇的で段階的なプロセス「版籍奉還」と「廃藩置県」を探ります。
4.1. 新政府の課題:分裂した国家
戊辰戦争に勝利したとはいえ明治新政府が直接支配する領地は旧幕府領(天領)や一部の藩からの没収地に限られていました。全国の土地と人民の大部分は依然として各藩の藩主(大名)の支配下にありました。
- 財政基盤の脆弱さ:新政府の税収は限られており富国強兵を進めるための財源が圧倒的に不足していました。
- 軍事力の限界:新政府の軍隊は薩摩・長州・土佐などの藩兵に依存しており国家の統一的な軍隊ではありませんでした。
- 法と制度の不統一:それぞれの藩が独自の法律や制度を持っており全国一律の統治を行うことができませんでした。
この問題を解決し真の中央集権国家を創り出すためには藩を解体し全ての土地と人民を天皇(新政府)の直接支配下に置く必要がありました。しかし藩主からその世襲的な領地を奪うことは彼らの特権を根本から否定するものであり大きな抵抗が予想されました。
4.2. 第一段階:版籍奉還(1869年)
そこで新政府は正面からの衝突を避け段階的に改革を進めるという巧みな戦略をとりました。その第一歩が1869年(明治2年)に行われた「版籍奉還(はんせきほうかん)」です。
- 薩長土肥の率先:まず新政府の中心となっていた薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の藩主が「そもそも土地と人民は天皇のものであり我々が私有すべきものではない」として自ら進んでその土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還したいと願い出ました。これはもちろん彼らの自発的な意思ではなく新政府の中心人物であった木戸孝允や大久保利通らが背後で画策した政治的なパフォーマンスでした。
- 諸藩の追随:この四藩の動きを見て他の藩主たちもこれに逆らうことはできず次々と版籍の奉還を申し出ました。
- 旧藩主を知藩事に任命:版籍を奉還させた後新政府は旧藩主たちを新たに**知藩事(ちはんじ)**に任命しました。そして彼らにこれまで通り旧領地の統治を行わせました。
版籍奉還は一見すると大きな変化をもたらさなかったようにも見えます。藩主は名前を知藩事と変えただけで依然としてその土地を治め続けました。
しかしその政治的な意味は極めて重大でした。この改革によって「全国の土地と人民は天皇のものである」という公地公民の原則が名目上は確立されました。藩主はもはや封建領主ではなく天皇から任命された一地方官という位置づけになったのです。これは次の最終的な改革への重要な布石でした。
4.3. 第二段階:廃藩置県(1871年)
版籍奉還から2年後新政府はついに最後のそして最もラディカルな改革を断行します。1871年(明治4年)7月14日「廃藩置県(はいはんちけん)」です。
新政府は薩摩・長州・土佐から約1万の兵を東京に集結させ軍事的な圧力を背景に断固たる措置に踏み切りました。
- 廃藩の詔:明治天皇の名で「藩を廃し県を置く」という詔が発せられました。
- 知藩事の罷免と東京移住:全国の知藩事(旧藩主)は全員その職を罷免され東京に移り住むことを命じられました。これにより彼らは完全にその領地と領民から切り離されました。
- 県の設置と県令の派遣:藩に代わって全国は3府302県(後に統廃合が進む)に再編されました。そしてそれぞれの県には中央政府から任命された**県令(けんれい、後の県知事)**が役人として派遣されその統治にあたりました。
4.4. 改革が成功した理由
700年近く続いた封建制度をこれほどあっさりと無血で解体できたのはなぜでしょうか。
- 軍事的な背景:新政府が薩長土の強力な軍事力を背景に持っていたこと。
- 旧藩主への経済的保障:新政府は旧藩主たちに対してその家禄(給与)を保証し華族(かぞく)という新しい貴族の身分を与えました。また藩が抱えていた莫大な借金も新政府が引き継ぎました。これにより多くの藩主は抵抗するよりも新政府に従う方が得策であると判断しました。
- 時代の空気:多くの人々が封建的な分裂状態がもはや時代の要請に合わないことを理解し中央集権的な統一国家の必要性を感じていたことも大きな要因でした。
廃藩置県は日本の歴史における真の革命でした。この改革によって日本は封建的な領邦国家の集合体から脱却し天皇の下に統一された中央集権的な近代国民国家としての第一歩を力強く踏み出したのです。
5. 四民平等と身分制度の解体
廃藩置県によって政治的な中央集権化を成し遂げた明治新政府。その次なる目標は江戸時代を通じて人々を縛り付けてきた厳格な身分制度を解体し全ての国民が平等な権利と義務を持つ「国民」を創出することでした。この「四民平等(しみんびょうどう)」と呼ばれる一連の社会改革は人々に職業選択や移動の自由を与え日本の近代化の原動力となりました。しかしその一方で武士(士族)という特権階級の解体は彼らに大きな苦痛をもたらし後の社会不安の大きな原因ともなっていきます。本章ではこの身分制度の解体がどのように進められたのかその光と影を探ります。
5.1. 旧身分制度の再編
新政府はまず江戸時代の「士農工商」という複雑な身分制度をよりシンプルな形に再編しました。
1869年(明治2年)全国の人民は三つの新しい身分に区分されます。
- 華族(かぞく):旧来の**公家(くげ)と大名(藩主)**がこの新しい貴族階級に位置づけられました。
- 士族(しぞく):旧来の**武士(藩士)**階級が士族とされました。
- 平民(へいみん):農・工・商の三つの身分とそれまで「えた・ひにん」と呼ばれ差別されてきた人々が平民として一つにまとめられました。
5.2. 平民の解放と自由の保障
新政府は平民に対してこれまで禁じられていた様々な自由を保障しました。
- 解放令(1871年):「えた・ひにん」などの賤民の身分を廃止し彼らを平民としました。これにより法的な上での差別は撤廃されました。(しかしその後も人々の中に根強い差別意識は残り部落問題として現代に至るまで続くことになります。)
- 職業選択の自由:それまで身分によって制限されていた職業を自由に選べるようになりました。「株仲間」などの同業者組合も解散させられました。
- 移動の自由:百姓が土地を離れることを禁じた「田畑永代売買の禁」が解かれ人々は自由に居住地を移転できるようになりました。
- 苗字の使用と通婚の自由:1870年に平民も苗字を名乗ることが許され1875年には全ての国民に苗字の使用が義務付けられました。また華族・士族・平民間の結婚も自由にできるようになりました。
これらの改革によって「国民」という新しい枠組みが創出され人々は封建的な束縛から解放されました。
5.3. 士族の解体:特権の剥奪
四民平等への道は一方で武士階級であった士族からその特権を一つ一つ奪っていく苦難の過程でもありました。
士族は人口のわずか数パーセントに過ぎませんでしたが彼らに支払われる家禄(給与)は国家財政の大きな負担となっていました。また国民皆兵の近代的な軍隊を作る上でも武士という戦闘の専門家集団はもはや不要でした。
新政府は士族の特権を段階的に解体していきます。
- 断髪・廃刀令:1871年に髪型を自由にする**断髪令(だんぱつれい)が出され1876年には廃刀令(はいとうれい)**によって士族の特権であった帯刀が警察官などを除き禁止されました。髷(まげ)と刀は武士の魂の象徴でありこれを失ったことは彼らに大きな精神的打撃を与えました。
- 徴兵令(1873年):国民皆兵を定める徴兵令の施行は軍事が武士の独占的な特権であった時代が完全に終わりを告げたことを意味しました。
- 秩禄処分(ちつろくしょぶん):これが士族にとって最も大きな打撃でした。新政府は財政負担を軽減するため士族に支払ってきた家禄の支給を停止することを決定します。
- 秩禄奉還の法(1873年): 政府は家禄の返上を任意で募りましたが応じる者は少数でした。
- 金禄公債証書の発行(1876年): ついに政府は全ての士族・華族に対して家禄の支給を完全に打ち切ります。その代わりに家禄の数年分に相当する額面の金禄公債証書という国債を強制的に交付しました。
5.4. 士族の困窮と反乱
突然収入の道を断たれた士族の多くは深刻な経済的困窮に陥りました。慣れない商売に手を出して失敗する者(「士族の商法」)やわずかな公債を元手に日々の生活に窮する者が続出しました。
特権を奪われ経済的に困窮しそして武士としてのプライドを傷つけられた士族たちの不満はやがて新政府に対する武力反乱へと向かっていきます。佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱といった「士族の反乱」が頻発しその最大にして最後のものが1877年の西南戦争でした。
四民平等は日本の近代化に不可欠な改革でした。しかしそれは士族という一つの階級の犠牲の上に成り立ったものでもありました。この改革がもたらした光と影は明治という時代の複雑さを象徴しているのです。
6. 地租改正
廃藩置県によって中央集権体制を確立した明治新政府。その次なる課題は富国強兵を進めるための安定した財政基盤を確立することでした。江戸時代の年貢制度は米で納める現物納であり税率も藩によってバラバラで豊作・凶作によって税収が大きく変動するという不安定なものでした。そこで政府は1873年(明治6年)全国の土地制度と税制を根本から作り変える画期的な改革「地租改正(ちそかいせい)」を断行します。この改革は近代的な私有地制度を確立し政府に安定した現金収入をもたらしましたが一方で農民に重い負担を強いることにもなりました。
6.1. 改革の目的
政府が地租改正を行った目的は主に二つありました。
- 安定した財源の確保:年貢のように豊凶によって変動する不安定な税制から脱却し毎年決まった額の税収を現金で確保すること。これにより政府は国家予算を計画的に立てることができ殖産興業や軍備拡張といった近代化政策を安定して進めることが可能になりました。
- 近代的な土地所有権の確立:江戸時代の複雑な土地の権利関係を整理し土地の私的所有権を法的に確立すること。これにより土地の自由な売買が可能となり経済の活性化が期待されました。
6.2. 地租改正のプロセス
地租改正は全国一斉にではなく数年をかけて段階的に進められました。
- 土地の所有者の確定と地券の発行:まず政府は全ての土地についてその所有者を確定させる調査を行いました。そして所有者と認められた者に対してその土地の所在地面積そして政府が定めた**地価(ちか、土地の価格)を記した地券(ちけん)**という証明書を発行しました。これにより日本で初めて近代的な土地所有権が法的に確立されました。
- 地価の算定:地価はその土地の収穫量(収益)に基づいて算定されました。
- 税率の決定と金納:税額は収穫量ではなくこの**地価に対して3%と定められました。そしてこの地租を現金(金納)**で土地の所有者(地券の所持者)が納めることが義務付けられました。
6.3. 地租改正の内容まとめ
地租改正による税制の変更点は以下の通りです。
江戸時代(年貢) | 明治時代(地租) | |
納税者 | 耕作者(百姓) | 土地所有者(地券所持者) |
基準 | 収穫高(石高) | 地価 |
税率 | 変動(検見法など) | 地価の3%(固定) |
納税方法 | 現物納(米) | 金納(現金) |
6.4. 地租改正がもたらした影響
この地租改正は日本の社会と経済に大きな影響を与えました。
- 政府への影響:政府は毎年安定した現金収入を得ることができるようになり財政基盤は飛躍的に安定しました。これにより政府は富国強兵策を強力に推進することが可能になりました。
- 農民への影響:地租改正は農民に極めて重い負担を強いることになりました。
- 重い税負担: 「旧来の税負担を増減させない」というのが政府の方針でしたが実際には多くの地域で地租は旧来の年貢よりも重い負担となりました。地価の3%という税率は収穫高の30%以上に相当することもありました。
- 米価変動のリスク: 農民は米を市場で売って現金を作りそれで納税しなければなりませんでした。そのため米の価格が下落すると収入が減り納税が困難になるという新しいリスクを負うことになりました。
- 農民の階層分化: 地租を納められない農民は土地を手放さざるを得なくなり小作人に転落していきました。一方で裕福な農民や商人は土地を買い集め**寄生地主(きせいじぬし)**として成長していきました。
6.5. 地租改正反対一揆
この重い負担に対し全国の農民たちは激しい反対運動を展開しました。「地租改正反対一揆」です。一揆は1876年(明治9年)に特に大規模となり茨城県や三重県伊勢地方などで数万人が参加する暴動に発展しました。
この激しい農民の抵抗に驚いた政府は翌1877年地租を3%から2.5%に引き下げることを決定。これにより一揆はようやく沈静化しました。
地租改正は明治政府の財政基盤を確立し日本の近代化を支えたという点で大きな成功でした。しかしそれは農民の犠牲の上に成り立ったものであり新たな社会問題(寄生地主制)を生み出す原因ともなったのです。
7. 徴兵令と国民皆兵
「富国強兵」をスローガンに掲げる明治新政府にとって西洋列強と対等に渡り合える近代的な軍隊を創設することは国家の独立を守るための最重要課題でした。江戸時代の軍事は武士という特定の身分が独占していました。しかし新政府はこれを根本から改め国民全体が国防の義務を負う「国民皆兵(こくみんかいへい)」の原則に基づいた新しい軍隊を創設しようとします。そのための画期的な法令が1873年(明治6年)に発布された「徴兵令(ちょうへいれい)」でした。この法令は士族の特権を奪い農民に「血税」という新たな負担を強いるものであり日本の社会に大きな衝撃を与えました。
7.1. 近代的な軍隊の必要性
明治新政府が近代的な常備軍の創設を急いだ背景にはいくつかの理由がありました。
- 対外的な脅威:アヘン戦争の衝撃以来西洋列強の軍事力は日本の独立にとって最大の脅威でした。不平等条約を改正し彼らと対等な国家として渡り合うためには強力な軍事力が不可欠でした。
- 国内の治安維持:当時はまだ士族の反乱や百姓一揆が頻発しており国内の治安を維持し新政府の支配を確立するための強力な軍隊が必要でした。
- 藩兵の限界:戊辰戦争で活躍した薩摩・長州・土佐の藩兵(御親兵、ごしんぺい)は強力でしたが彼らはあくまで各藩に忠誠を誓う兵士であり天皇(国家)に直接忠誠を誓う統一的な国軍ではありませんでした。
7.2. 徴兵令の制定
このような課題を解決するため長州藩出身で陸軍の創設者である**山県有朋(やまがたありとも)**らが中心となり徴兵令の制定が進められました。
1873年1月「徴兵令」が全国に公布されます。
- 国民皆兵の原則:その詔書(徴兵の詔)では「古えの兵農分離はよろしくない。西洋に倣い国民全体が兵役の義務を負うべきである」と宣言されました。
- 徴兵の内容:満20歳に達した男子は身分に関係なく徴兵検査を受ける義務がありその中から選抜された者が常備軍として3年間兵役に服すことが定められました。
7.3. 徴兵令がもたらした社会的衝撃
この徴兵令は日本の社会に二つの大きな衝撃を与えました。
7.3.1. 士族の特権の喪失
江戸時代を通じて軍事は武士(士族)の独占的な特権であり彼らのアイデンティティそのものでした。しかし徴兵令は農民や町人であっても兵士になることを義務付けました。これは士族が軍事を担うという特権を完全に失ったことを意味します。
廃刀令や秩禄処分と並んでこの徴兵令は士族のプライドを深く傷つけました。「百姓兵に何ができるか」という不満が士族の間に渦巻き後の士族反乱の大きな原因となりました。
7.3.2. 農民の抵抗(血税一揆)
一方農民たちも徴兵令に激しく反発しました。
- 「血税」への誤解:徴兵の詔の中にあった「血税(けつぜい)」という言葉を人々は文字通り「生き血を税として搾り取られる」と誤解し恐怖しました。
- 労働力の喪失:働き手である若者が3年間も兵役にとられることは農家にとって死活問題でした。
- 経済的負担:徴兵令には多くの免役規定がありました。
- 家の跡継ぎであること。
- 戸主であること。
- 官吏や学生であること。
- そして代人料として270円という大金を納めること。
この代人料は当時の農民にとって到底支払える額ではありませんでした。そのため「金持ちは兵役を免れ貧乏人だけが兵隊にとられる」という不公平感が高まりました。
この不満は各地で「血税一揆(けつぜいいっき)」と呼ばれる激しい反対一揆を引き起こしました。人々は徴兵令を伝える役場や学校を焼き討ちにするなどして抵抗しました。
7.4. 国民軍の創設
多くの抵抗と混乱を乗り越えながらも徴兵令は着実に実行されていきました。こうして創設された新しい軍隊(陸軍・海軍)は
- 天皇の軍隊:将軍や大名ではなく天皇に直接忠誠を誓う「皇軍」として位置づけられました。1882年には「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」が出され軍人に忠節や礼儀といった精神的な徳目を求めました。
- 国民の軍隊:身分に関係なく国民で構成される軍隊であり国家としての一体感を醸成する役割も担いました。
徴兵令は士族と農民の双方に大きな犠牲と負担を強いるものでした。しかしこの改革によって日本は西洋列強に対抗しうる近代的な国民軍を創設し富国強兵への道を大きく前進させたのです。
8. 学制の公布
明治新政府は富国強兵を実現するためには国民全体の知識レベルを向上させることが不可欠であると考えていました。江戸時代の教育は寺子屋や藩校といった身分や地域によって分断されたものであり全国統一的なシステムではありませんでした。そこで政府は1872年(明治5年)国民皆学を目指す画期的な教育制度「学制(がくせい)」を公布します。これは日本の近代化の礎を築く上で徴兵令や地租改正と並ぶ極めて重要な改革でした。
8.1. 近代教育の必要性
新政府が全国統一的な学校制度の創設を急いだ理由は明確でした。
- 富国強兵のため:殖産興業を進めるためには西洋の科学技術を理解できる技術者や労働者が必要です。また近代的な軍隊を運営するためには読み書き計算ができる兵士が不可欠でした。
- 国民国家の形成:国民としての一体感を醸成し国家の理念を人々に浸透させるためには全ての子供たちが同じ内容の教育を受けることが効果的であると考えられました。学校は「国民」を創り出すための工場でもあったのです。
8.2. 学制の公布(1872年)
1872年太政官布告として「学制」が公布されました。
- 理念:その序文(学事奨励に関する被仰出書)には「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん(全ての村に学校に通わない家はなく全ての家に学校に通わない人はいないようにする)」という有名な一節が掲げられました。これは身分や性別に関係なく全ての国民が教育を受ける権利と義務を持つという国民皆学の理想を高らかに宣言するものでした。また教育はもはや個人の立身出世のためだけのものではなく「国家のため」でもあるという考え方が示されました。
- 制度:学制はフランスの学区制をモデルとしていました。
- 全国を8つの大学区に分ける。
- 1大学区を32の中学区に分ける。
- 1中学区を210の小学区に分ける。そしてそれぞれの学区に大学・中学校・小学校を1校ずつ設置するという壮大な計画でした。特に小学校については満6歳以上の男女に8年間の就学を義務付けるという極めて先進的な内容でした。
8.3. 学制への反発と混乱
しかしこの理想主義的な学制は現実の社会とは大きな隔たりがあり多くの混乱と反発を招きました。
- 民衆の重い負担:学校の建設費や運営費の多くは地元住民の負担とされました。貧しい農民たちにとって子供を学校に通わせることは授業料だけでなく貴重な労働力を失うことも意味しました。
- 教育内容への不満:当初の教科書は福沢諭吉の『学問のすゝめ』などが使われ実学的な内容が中心でした。しかし農民たちにとっては日常生活に直接役立たない教育は不要であるという意識も根強くありました。
これらの不満は「学校一揆」と呼ばれる校舎の焼き討ち事件などを引き起こしました。その結果当初の就学率は男子で40%女子で15%程度にとどまりました。
8.4. 教育制度の修正
この民衆の反発と財政的な困難に直面し政府は学制を修正せざるを得なくなります。
- 教育令(1879年):学制の画一的で中央集権的な制度を改めアメリカの自由主義的な教育制度を参考に地域の自主性を重んじる方針へと転換しました。小学校の就学義務も最低16ヶ月に短縮されました。しかしこの自由放任な方針は逆就学率の低下を招いてしまいます。
- 改正教育令(1880年):教育令の自由主義的な方針を修正し再び政府の統制を強める方向へと戻りました。
- 学校令(1886年):初代文部大臣となった森有礼(もりありのり)のもとで日本の近代的な教育制度の基本が確立されます。小学校・中学校・師範学校・帝国大学といった学校種別ごとの制度が定められました。特に小学校については最初の4年間を義務教育としその間の授業料を無償化する方針が示されました。(授業料の完全無償化は1900年)
8.5. 近代教育の確立とその意義
多くの試行錯誤と混乱を経て日本の近代的な教育制度は徐々に確立されていきました。19世紀末には日本の就学率は世界的に見ても極めて高い水準に達します。
学制の公布とその後の教育改革が日本の近代化に与えた影響は計り知れません。
- 人材の育成:全国に教育が普及したことで日本の急速な工業化と軍事力の強化を支える有能な人材が数多く育成されました。
- 国民意識の形成:全国の子供たちが同じ教科書で学び同じ歌を歌うことで国民としての一体感が醸成されていきました。学校は国家への忠誠心を育む場としても機能しました。
学制は当初そのあまりの理想主義から多くの反発を招きました。しかし「全ての国民に教育を」というその高い理想こそがその後の日本の発展の最も重要な礎となったのです。
9. 富国強兵と殖産興業
明治新政府が国家の最大目標として掲げたスローガンが「富国強兵(ふこくきょうへい)」でした。これは「国を豊かにし軍隊を強くする」という意味です。西洋列強の植民地化の脅威から日本の独立を守るためには彼らと対等に渡り合えるだけの強力な軍事力とそれを支える豊かな経済力(国富)を早急に築き上げる必要がある。この強い危機感が明治の指導者たちを突き動かしていました。そしてこの「富国」を実現するための具体的な経済政策が「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」でした。本章では新政府が主導したこの官製産業革命の実態を探ります。
9.1. 殖産興業政策の始まり
殖産興業は政府が積極的に産業の育成に関与し西洋の進んだ技術を導入して日本の資本主義的な工業化を推進する政策でした。
その中心的な役割を担ったのが1870年に設置された**工部省(こうぶしょう)**でした。工部省は鉄道や電信といったインフラの整備や鉱山の経営そして官営模範工場の設立などを担当しました。また内務省も初代内務卿である大久保利通(おおくぼとしみち)の強力なリーダーシップのもとで殖産興業を推進しました。
政府は西洋から多くの技術者や専門家を高い給料で雇い入れました(お雇い外国人)。彼らは日本の近代化に必要な知識と技術を日本人に教える重要な役割を果たしました。
9.2. 交通・通信の近代化
政府は全国的な市場を形成し工業化を進めるための基礎となるインフラの整備を最優先で進めました。
- 鉄道の建設:1872年(明治5年)に新橋(東京)と横浜の間に日本で最初の鉄道が開通しました。蒸気機関車が煙を上げて走る姿は人々に文明開化の時代の到来を強く印象づけました。その後神戸-大阪間京都-大阪間にも鉄道が敷設され日本の大動脈となっていきます。
- 電信網の整備:1869年に東京と横浜の間で最初の電信が開通しました。電信網は急速に全国へと広がり遠隔地との迅速な情報伝達を可能にしました。
- 郵便制度の創設:前島密(まえじまひそか)の尽力により1871年に全国統一的な郵便制度が創設されました。切手の発行や全国均一料金制の導入など今日の郵便制度の基礎がこの時に築かれました。
9.3. 官営模範工場の設立
政府は日本の産業を近代化するためにはまず政府自らが手本となる工場(官営模範工場、かんえいもはんこうじょう)を設立しそこで西洋の最新技術を導入・実証する必要があると考えました。
- 富岡製糸場(とみおかせいしじょう):殖産興業政策の象徴ともいえるのが1872年に群馬県に設立された官営の製糸工場です。当時日本の最大の輸出品であった生糸の品質を向上させ生産量を増やすためフランスから最新の繰糸機(そうしき)と技術者を導入しました。全国から工女(こうじょ)を集めここで学んだ技術を各地に持ち帰らせることで日本の製糸業全体の近代化に大きく貢献しました。2014年には世界文化遺産に登録されています。
- その他の官営工場:その他にも長崎造船所や兵庫造船所といった旧幕府の施設を引き継いだ軍事工場や札幌官営ビール工場セメントやガラスを生産する工場などが設立されました。また佐渡金山や三池炭鉱といった鉱山の経営も官営で行われました。
9.4. 金融・通貨制度の整備
資本主義経済を発展させるためには安定した通貨制度と金融システムが不可欠でした。
- 新貨条例(1871年):政府は「円(えん)・銭(せん)・厘(りん)」を単位とする十進法の新しい通貨制度を定めました。そして金本位制(きんほんいせい)を基本とする近代的な貨幣制度を確立しようとしました。(ただし金の不足により当初は事実上の銀本位制でした)
- 国立銀行条例(1872年):アメリカのナショナル・バンクの制度を参考に国立銀行の設立を進めました。これは民間の銀行でありながら紙幣(国立銀行紙幣)の発行権を持つものでした。
9.5. 殖産興業の担い手
政府が主導した殖産興業ですがその発展には民間からのエネルギーも不可欠でした。
- 政商(せいしょう):三井、三菱、住友、安田といった江戸時代からの豪商や幕末の動乱期に成長した商人たちは政府と密接に結びつき官営事業の払い下げを受けたり政府の金融政策を担ったりする中で巨大な財閥へと成長していきました。
- 士族の役割:秩禄を失い経済的に困窮した士族の一部は新たな活路を求めて事業を興しました。彼らが持つ知識やリーダーシップは日本の初期の資本主義の発展に貢献しました。
明治政府による殖産興業政策は多くの試行錯誤と財政的な困難を伴いました。しかしこの「上からの産業革命」ともいえる強力な国家主導の近代化政策こそが日本が非西洋国家として唯一欧米列強の仲間入りを果たすことを可能にした最大の原動力だったのです。
10. 岩倉使節団の派遣
明治維新によって新しい国家の建設を始めたばかりの日本。その指導者たちは自分たちがこれから創り上げようとしている近代国家のモデルを西洋に求めました。そして1871年(明治4年)新政府は国家の命運を賭けた一大プロジェクトを実行します。政府の首脳陣のほぼ半分が参加するという空前の規模の使節団をアメリカとヨーロッパに派遣したのです。右大臣・岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とするこの「岩倉使節団」の旅は約1年10ヶ月にも及びました。この旅は使節団のメンバーに西洋文明の圧倒的な力をまざまざと見せつけその後の日本の近代化の方向性を決定づける極めて重要な経験となりました。
10.1. 派遣の目的
岩倉使節団には二つの公式な目的がありました。
- 条約改正の予備交渉:最大の目的は幕末に結ばされた不平等条約(特に領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復)を改正するための予備交渉を行うことでした。
- 欧米文明の調査・研究:アメリカとヨーロッパの進んだ政治制度、法律、産業、軍事、教育、文化などを直接その目で視察し日本の近代化政策の参考とすること。
10.2. 使節団のメンバー
この使節団のメンバーはまさに明治政府のオールスターと呼ぶべき陣容でした。
- 全権大使: 岩倉具視(右大臣)
- 副使:
- 木戸孝允(参議、長州藩出身)
- 大久保利通(大蔵卿、薩摩藩出身)
- 伊藤博文(工部大輔、長州藩出身)
- 山口尚芳(外務少輔、肥前藩出身)
この他に各分野の専門家である理事官や書記官そして留学生など総勢100名以上が参加しました。政府首脳がこれほど長期間にわたって国を留守にすることは極めて異例であり彼らの強い決意が窺えます。
また女子教育の将来を担う人材を育成するため津田梅子(つだうめこ)(当時6歳)をはじめとする5人の少女たちが日本初の女子留学生として同行したことも特筆されます。
10.3. 使節団の旅程と見聞
使節団は1871年12月に横浜を出港。まずアメリカに渡りワシントンで大統領と会見します。その後イギリスフランスベルギードイツロシアイタリアなどヨーロッパの主要12カ国を歴訪しました。
彼らは各地で議会や裁判所工場や鉄道港湾軍事施設学校や博物館といった近代国家を構成するあらゆる施設を精力的に視察しました。
- アメリカで見たもの:広大な国土と自由で民主的な社会に感銘を受けました。
- イギリスで見たもの:ロンドンやマンチェスターの巨大な工場群や鉄道網を見て産業革命の圧倒的な力に衝撃を受けました。「国を富ませるにはまず工業を盛んにしなければならない」と大久保利通は痛感します。
- ドイツ(プロイセン)で見たもの:皇帝(ビスマルク)を中心とする強力な中央集権国家と強力な軍隊に強い感銘を受けました。木戸孝允や大久保利通は日本の近代化のモデルとしてイギリスやフランスの自由主義的な体制よりもドイツのような国家主導の権威主義的な体制がふさわしいと考えるようになります。
10.4. 条約改正交渉の失敗
使節団のもう一つの目的であった条約改正交渉は完全な失敗に終わりました。アメリカやヨーロッパの国々は「日本の国内法がまだ未整備である」ことなどを理由に領事裁判権の撤廃などに全く応じませんでした。
この交渉の失敗は使節団のメンバーにまずは国内の近代化(内治の整備)を優先し国力を高めなければ欧米列強は日本を対等な相手として認めないという厳しい現実を教えました。
10.5. 使節団がもたらした影響
1873年9月に帰国した使節団のメンバーはその経験を通じて日本の進むべき道を明確に確信していました。
- 内治優先の方針の確立:条約改正よりもまずは国内の産業を育成し憲法を制定し法制度を整えることが先決であるという方針が政府内で確立されました。帰国した大久保利通らが西郷隆盛らが主張する征韓論(朝鮮出兵)に猛反対した(明治六年の政変)のもこの方針転換の表れでした。
- 富国強兵・殖産興業の本格化:大久保利通は内務省を拠点としてイギリスをモデルとした官主導の殖産興業政策をさらに強力に推進していきます。
- ドイツ流の国家建設への傾斜:日本の憲法制定や官僚制度の構築においてドイツ(プロイセン)の権威主義的な立憲君主制が大きなモデルとされていくことになります。
岩倉使節団の旅は不平等条約の改正という直接的な目標は達成できませんでした。しかしそれは日本の指導者たちに世界における日本の立ち位置を客観的に認識させその後の近代化政策の具体的な青写真を描かせるという計り知れないほど大きな成果をもたらしたのです。彼らが持ち帰った知識と経験こそがその後の日本の急速な発展の最も重要な原動力となりました。
Module 15:明治維新と近代国家の建設の総括:危機が生んだ上からの革命
本モジュールでは幕末の動乱の中から誕生した明治新政府がいかにして封建的な旧体制を解体し近代的な国民国家を建設していったのかその急進的な改革の時代を追った。王政復古の大号令と戊辰戦争は徳川の世に終止符を打ち武力によって新政府の正統性を確立した。五箇条の御誓文は新しい国家が目指すべき開かれた理念を高らかに掲げた。そして版籍奉還から廃藩置県へという巧みなプロセスを通じて700年続いた藩制度は解体され日本は初めて真の中央集権国家となった。四民平等地租改正徴兵令学制といった一連の改革は「国民」を創出し富国強兵の礎を築いた。岩倉使節団の経験は日本の近代化が西洋文明の模倣と同時にそれと対峙するための国家的な事業であることを指導者たちに教えた。明治維新は西洋列強の圧力という外的な危機感を原動力として旧支配階級であった士族自身の手によって断行された「上からの革命」でありその後の日本の光と影に満ちた近代史の出発点となったのである。