【基礎 日本史(通史)】Module 19:恐慌と軍部の台頭

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは大正デモクラシーの時代に日本の政党政治が「憲政の常道」として一応の成熟期を迎えた様を見ました。しかしその華やかな文化と自由な雰囲気の裏側で政党は財閥と癒着し軍部の独走を抑えきれないという構造的な弱さを抱えていました。そして1920年代末から1930年代にかけて日本そして世界を襲った未曾有の経済恐慌はこの脆弱な民主主義体制を根底から揺るがします。社会が混乱し人々が困窮する中で国民の不満は政党政治家への不信へと変わりやがて国家を改造し危機を乗り越えてくれる存在として「軍部」に過大な期待を寄せるようになります。本モジュールではこの大正デモクラシーが崩壊し日本が軍国主義へと突き進んでいく暗い時代の始まりを探ります。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず関東大震災とその後の金融恐慌が日本経済にいかなる打撃を与えたかを見ます。次に世界恐慌の波が日本を襲った「昭和恐慌」の深刻な実態を分析します。そしてこの経済的混乱を背景に軍部(関東軍)が独断で引き起こした「満州事変」とその結果生まれた満州国の建国を追います。この日本の行動に対する国際社会の批判と日本の国際連盟脱退という孤立への道を探ります。さらに血盟団事件や五・一五事件といったテロによって政党政治がいかにして息の根を止められたかを解き明かします。そして軍部内部の皇道派と統制派の対立が頂点に達した二・二六事件とそれが軍部の政治的台頭を決定づけた様を見ます。最後に日本が泥沼の日中戦争へと突入し国家総動員法や大政翼賛会の設立によって戦争遂行のための全体主義的な国家体制をいかにして築き上げていったのかを考察します。

  1. 関東大震災: 未曾有の自然災害がもたらした経済的・社会的混乱とその後の政治への影響を探る。
  2. 金融恐慌と昭和恐慌: 世界的な経済危機が日本の社会をいかに疲弊させ国民の不満を増大させたかを分析する。
  3. 満州事変の勃発と満州国の建国: 日本の関東軍がなぜそしていかにして独断で満州を占領し傀儡国家を樹立したかを見る。
  4. リットン調査団と国際連盟脱退: 満州事変をめぐる国際社会との対立がなぜ日本を国際的な孤立へと導いたのかを解明する。
  5. 五・一五事件、血盟団事件: テロという暴力が日本の政党政治にいかにして終止符を打ったのかその衝撃的な事件を追う。
  6. 政党政治の終焉: 「憲政の常道」がなぜ断ち切られ軍人や官僚が主導する挙国一致内閣の時代が始まったのかを探る。
  7. 二・二六事件: 陸軍内部の皇道派青年将校が起こした史上最大のクーデター未遂事件がなぜ逆に軍部の政治的発言力を強めたのかその逆説を分析する。
  8. 日中戦争の全面化: 盧溝橋での小さな衝突がなぜ8年にもわたる全面的な戦争へと拡大していったのかその過程を追う。
  9. 国家総動員法: 長期化する戦争の中で政府がいかにして議会を無力化し国民生活の全てを統制する力を手に入れたかを見る。
  10. 日独伊三国同盟と大政翼賛会: 日本がファシズム国家群と軍事同盟を結び国内の全政党を解散させて一国一党の全体主義体制をいかにして完成させたかを考察する。

このモジュールを学び終える時皆さんは日本の近代史における最も暗い時代への扉が経済的な絶望と政治的な暴力そして軍部の野心によっていかにして開かれていったのかその悲劇的な転換のプロセスを深く理解することになるでしょう。


目次

1. 関東大震災

大正デモクラシーが謳歌されていた1923年(大正12年)9月1日。日本は近代国家となって以来最大級の自然災害に見舞われます。マグニチュード7.9と推定される巨大地震「関東大震災」です。この震災は首都・東京と日本最大の貿易港であった横浜に壊滅的な被害をもたらし10万人以上の死者・行方不明者を出しました。この未曾有の災害は単に物理的な破壊だけでなくその後の日本経済と社会に長く暗い影を落とすことになります。

1.1. 震災の被害

1923年9月1日午前11時58分相模湾を震源とする巨大地震が発生。東京や横浜では多くの家屋が倒壊しました。さらに悪いことに昼食の準備時間であったため倒壊した家屋のかまどから火の手が上がり東京市内各所で大規模な火災旋風が発生しました。

  • 死者・行方不明者:約10万5千人。その多くは火災による焼死でした。特に現在の墨田区にあった陸軍被服廠跡の空き地では避難してきた約4万人の人々が火災旋風に巻き込まれて亡くなるという最大の悲劇が起こりました。
  • 経済的被害:首都機能は完全に麻痺。横浜港も壊滅的な打撃を受けました。被害総額は当時の国家予算の数倍にあたる約55億円に達したと言われています。

1.2. 経済への影響:震災恐慌

この震災は第一次世界大戦後の戦後不況にあえいでいた日本経済に追い打ちをかけました。

  • 支払猶予令(モラトリアム):震災による混乱で多くの企業が手形の決済ができなくなりました。経済の全面的な崩壊を防ぐため政府は緊急勅令として支払猶予令を出し支払いを1ヶ月間猶予しました。
  • 震災手形:さらに日本銀行が震災で決済不能となった手形(震災手形)を特別に割引いて銀行に資金を供給する救済措置をとりました。

これらの措置は一時的な経済のパニックを防ぎました。しかしその一方で本来であれば倒産すべき不良企業を救済してしまうという問題も生み出しました。この震災手形の問題の処理が後の金融恐慌の直接的な引き金となっていくのです。

1.3. 社会への影響:関東大虐殺

震災による社会の混乱と人々の不安は恐ろしいデマを生み出しました。

  • デマの流布:「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が放火して回っている」といった根も葉もない噂が広まりました。
  • 朝鮮人虐殺:このデマを信じた人々は自警団を組織。多くの在日朝鮮人・中国人が軍隊や警察の一部も加担する形で見つけ出しては虐殺するという悲劇が起こりました。犠牲者の数は数千人にのぼると言われています。
  • 社会主義者の虐殺:さらにこの混乱に乗じて軍の一部(憲兵隊)が社会主義者の**大杉栄(おおすぎさかえ)**とその妻・伊藤野枝、そして甥の橘宗一を連行し殺害するという事件(甘粕事件、あまかすじけん)も発生しました。

この関東大震災は自然災害であると同時にそれが日本社会の内に潜む排外主義や国家権力の暴走といった闇を白日の下に晒した事件でもありました。この経験は社会の 불안を増大させその後の日本の政治がより権威主義的で排外的な方向へと傾いていく一つの遠因ともなったのです。


2. 金融恐慌と昭和恐慌

関東大震災は日本経済に深い傷跡を残しました。震災手形という先送りされた問題は金融システムの不安定さを増大させついに1927年には「金融恐慌」として爆発します。さらにその直後1929年にアメリカのウォール街で始まった世界恐慌の波が日本にも押し寄せ「昭和恐慌」と呼ばれる日本の資本主義史上最も深刻な経済危機を引き起こしました。この二つの恐慌は多くの企業や銀行を倒産させ失業者を増大させ農村を疲弊させました。そしてこの経済的な絶望感が人々の政党政治への不信を決定的なものとし軍部が台頭する社会的な土壌を育んでいくことになります。

2.1. 金融恐慌(1927年)

関東大震災の際に発行された震災手形。その中には本来救済の対象ではない不健全な企業の不良債権が多数含まれていました。政府はこの震災手形の処理を先送りしてきましたが1927年ついに問題が表面化します。

  • 失言から始まった取り付け騒ぎ:第一次若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣の片岡直温(かたおかなおはる)蔵相が国会で「本日東京渡辺銀行がとうとう破綻しました」と事実と異なる失言をしてしまいます。この発言が新聞で報じられると預金者たちが銀行に殺到し預金を引き出そうとする取り付け騒ぎが全国に広がりました。
  • 銀行の連鎖倒産:このパニックの中で実際に経営が不安定であった東京渡辺銀行や台湾銀行などが休業に追い込まれます。特に台湾銀行と密接な関係にあった鈴木商店という巨大商社が倒産したことは日本経済に大きな衝撃を与えました。
  • 若槻内閣の退陣と田中義一内閣の対応:若槻内閣は事態を収拾できず総辞職。代わって立憲政友会の田中義一(たなかぎいち)内閣が成立します。田中内閣は3週間の支払猶予令(モラトリアム)を出すと共に日本銀行に大量の紙幣を印刷させて救済融資を行いました。

この金融恐慌は一時的なパニックで収束しました。しかしその結果多くの地方銀行が倒産し預金は三井・三菱・住友といった巨大な財閥系の銀行に集中しました。これにより財閥の経済支配はますます強固なものとなりました。

2.2. 昭和恐慌(1929年~)

金融恐慌の傷跡が癒えないまま日本をそして世界をより深刻な危機が襲います。

  • 世界恐慌の勃発:1929年10月ニューヨークのウォール街で株価が大暴落(暗黒の木曜日)。これをきっかけにアメリカ経済は崩壊しその影響は瞬く間に世界中に広がり世界恐慌が始まりました。
  • 金解禁と井上準之助:この時日本の立憲民政党・浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣は蔵相・**井上準之助(いのうえじゅんのすけ)のもとで金解禁(きんかいきん)**という経済政策を断行しようとしていました。これは第一次世界大戦以来停止していた金本位制(通貨の価値を金で保証する制度)に復帰することで円の価値を安定させ国際経済への復帰を目指すものでした。そのために井上は厳しい緊縮財政(デフレ政策)を進めていました。そして世界恐慌が始まった直後の1930年1月井上は予定通り金解禁を強行してしまいます。

2.3. 恐慌の深刻な影響

この世界恐慌と井上のデフレ政策という二重のパンチは日本経済に壊滅的な打撃を与えました。これが「昭和恐慌」です。

  • 輸出の激減:世界的な不況で日本の最大の輸出品であった生糸のアメリカへの輸出が激減。生糸の価格は3分の1以下に暴落しました。
  • 農村の疲弊:生糸価格の暴落は養蚕を営む多くの農家を直撃しました。また豊作が重なったことで米の価格も暴落(豊作飢饉)。農村は現金収入の道を断たれ深刻な不況に見舞われました。娘を身売りに出したり(娘の身売り)欠食児童が急増するなど悲惨な状況が生まれました。
  • 企業の倒産と失業者の増大:都市部でも多くの企業が倒産し街には失業者が溢れました。

2.4. 恐慌がもたらした政治的帰結

この昭和恐慌がもたらした経済的な絶望は人々の意識を大きく変えました。

  • 政党政治への不信:国民は恐慌を克服できない無策な政党内閣に深い失望と怒りを抱きました。「既得権益を持つ財閥と結びついた政党政治家が国をダメにした」という批判が強まります。
  • 軍部への期待と国家社会主義の台頭:一方で軍部は「この国難を乗り切るためには国内の政治家を排し天皇を中心とする強力な国家を建設し満州などの海外に活路を見出すべきだ」と主張し始めます。このような思想(国家社会主義)は経済的に困窮し社会に絶望した人々の心を捉えていきました。

昭和恐慌は単なる経済危機ではありませんでした。それは日本の議会制民主主義の土台を破壊し軍部がその支持を背景に政治の主導権を握る道を開いた日本の歴史における重大な転換点だったのです。


3. 満州事変の勃発と満州国の建国

昭和恐慌によって日本国内が深刻な経済危機と社会不安に喘ぐ中一部の軍人たちはその解決策を大陸に求めました。彼らは資源が豊富で日本の生命線であるとされた中国東北部「満州」を日本の支配下に置くことで国難を乗り越えようと考えたのです。そして1931年日本の関東軍は政府の方針を無視して独断で軍事行動を開始。満州事変を引き起こし翌年には傀儡国家「満州国」を建国します。この一連の出来事は政党内閣の無力さを露呈させ軍部が政治を主導する時代の始まりを告げるものでした。

3.1. なぜ満州だったのか

日本の軍部特に満州に駐留する**関東軍(かんとうぐん)**が満州に強く固執したのにはいくつかの理由がありました。

  • 経済的権益:満州には日露戦争で獲得した**南満州鉄道(満鉄)**の利権がありました。満鉄は鉄道経営だけでなく炭鉱や製鉄所などを経営する巨大な複合企業であり日本の満州経営の生命線でした。
  • 資源:満州には鉄鉱石や石炭といった日本に乏しい豊富な地下資源がありました。
  • 国防上の重要性:満州はソビエト連邦に対する国防の最前線と見なされていました。
  • 中国のナショナリズムの高まり:当時中国では蒋介石(しょうかいせき)率いる国民政府がナショナリズムを高め日本の持つ満州の権益を回収しようとする動き(国権回復運動)を見せていました。関東軍はこれに強い危機感を抱いていました。

関東軍の若手将校であった**石原莞爾(いしわらかんじ)**らは「世界はやがて日本を中心とする東亜連盟とアメリカを中心とする勢力との間で最終戦争を迎える。その日に備え満州を日本の支配下に置き総力戦体制を築くべきだ」という壮大な構想を抱いていました。

3.2. 満州事変の勃発(1931年)

1931年9月18日夜奉天(ほうてん、現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で関東軍は自ら南満州鉄道の線路を爆破しました。そしてこれを中国軍の仕業であると偽装。これを口実に一斉に軍事行動を開始しました。これが「柳条湖事件」です。

この事件は関東軍の石原莞爾や**板垣征四郎(いたがきせいしろう)**らが計画し実行した完全な自作自演の謀略でした。

関東軍は瞬く間に奉天を占領。その後も政府の命令を無視して戦線を拡大しわずか数ヶ月で満州の主要部を完全に占領してしまいました。

3.3. 政府の対応の失敗

この関東軍の暴走に対し東京の若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣(民政党)は「不拡大方針」を閣議決定し事態の収拾を図ろうとしました。しかし政府にはもはや軍を統制する力がありませんでした。

  • 統帥権の独立:軍の指揮命令権(統帥権)は天皇に直属し政府はこれに関与できないという憲法の解釈が軍部によって濫用され政府は軍の行動を止めることができませんでした。
  • 世論の支持:昭和恐慌に苦しむ国民は関東軍の鮮やかな勝利のニュースに熱狂しました。「満州は日本の生命線だ」「軟弱な政府に任せてはおけない」という世論が軍の行動を後押ししました。

結局若槻内閣は事態を収拾できず総辞職。軍部の独走を政党内閣が止められないという無力さを露呈してしまいました。

3.4. 満州国の建国(1932年)

満州を完全に占領した関東軍はこの地を国際的な非難をかわすため独立国家という形式で支配することを画策します。

1932年3月関東軍は清朝最後の皇帝であった**溥儀(ふぎ)**を執政(後に皇帝)として担ぎ出し「満州国」の建国を宣言しました。

  • 傀儡国家として:満州国は五族協和(満州人・漢人・蒙古人・朝鮮人・日本人)をスローガンに掲げた独立国家であると標榜しました。しかしその実態は日本の関東軍が政治・経済・軍事の全てを裏で操る**傀儡国家(かいらいこっか)**でした。
  • 日満議定書:日本は満州国を正式に承認し日満議定書を結びました。これにより日本は満州国の国防を担う権利を得て関東軍は合法的に満州に駐留し続けることが可能になりました。

この満州事変と満州国の建国は日本の歴史を大きく変えました。それは日本がそれまで協調してきたワシントン体制という国際秩序を武力で破壊し国際的な孤立の道へと踏み出す危険な第一歩だったのです。


4. リットン調査団と国際連盟脱退

関東軍の独断によって引き起こされた満州事変と傀儡国家・満州国の建国。この日本の露骨な軍事行動に対し中国は国際社会にその不当性を訴えました。当時世界の平和維持を担っていた国際連盟はこの問題の調査に乗り出します。そしてその調査結果は日本の行動を侵略行為と断定するものでした。この国際社会からの厳しい批判に対し日本は自らの正当性を主張し最終的に国際連盟を脱退するという国際的な孤立の道を選びます。本章ではこのリットン調査団の派遣から日本の国際連盟脱退に至るまでの経緯を探ります。

4.1. 国際連盟への提訴

満州事変が起こると中国の国民政府はこれを日本の侵略行為であるとして国際連盟に提訴しました。国際連盟は日中両国に対して即時停戦を勧告しますが戦線を拡大し続ける関東軍はこれを無視します。

1932年1月には上海で日中両軍が衝突する上海事変も発生。国際社会の対日批判はますます高まっていきました。

4.2. リットン調査団の派遣

この事態を重く見た国際連盟は現地に調査団を派遣し事実関係を調査することを決定します。イギリスのリットンを団長とするこの調査団はアメリカフランスドイツイタリアの代表から構成されていました。

リットン調査団は1932年春から約半年間にわたり日本中国そして満州を訪れ各国の関係者から事情を聴取し現地調査を行いました。

4.3. リットン報告書の内容

1932年10月リットン調査団はその調査結果をまとめたリットン報告書を国際連盟に提出しました。

その内容は日本の主張をある程度認めるなど公平な立場から書かれていましたがその結論は日本にとって極めて厳しいものでした。

  • 日本の主張を一部認める点:報告書は満州に日本の特殊権益が存在することや中国の反日運動が事態を悪化させた一因であることなどを認めました。
  • 日本の行動を批判する点:しかし報告書の核心部分は日本の行動を明確に批判するものでした。
    1. 満州事変は自衛行為ではない: 柳条湖事件に始まる一連の軍事行動は関東軍が計画的に実行したものであり自衛のための行動とは認められない。
    2. 満州国は独立国家ではない: 満州国は満州の住民の自発的な意思によって建国されたものではなく日本の関東軍によって作られた傀儡国家である。
  • 勧告:そして報告書は結論として満州の主権を中国に返還した上で日本の権益も保障される国際管理下に置くことを勧告しました。

4.4. 国際連盟総会と日本の脱退

このリットン報告書の内容に日本の政府と国民は激しく反発しました。「満州は日本の生命線でありその権益は日露戦争で多くの血を流して得た正当なものである。連盟は日本の立場を全く理解していない」という世論が沸騰しました。

1933年2月国際連盟は総会を開きこの報告書に基づく対日勧告案の採択について審議しました。

この総会で日本の首席全権であった**松岡洋右(まつおかようすけ)**は「十字架上のイエス・キリストも後世になって初めて理解された。日本もまた必ずや世界の国々に理解される時が来る」と述べ日本の行動の正当性を情熱的に訴えました。

しかし採決の結果は**42対1(日本のみが反対)**という圧倒的多数で勧告案は可決されてしまいました。

この結果を受け松岡洋右はその場で議場から退席。そして翌3月日本政府は国際連盟からの脱退を正式に通告しました。

4.5. 国際的孤立への道

日本の国際連盟脱退は国際社会に大きな衝撃を与えました。

  • 国際協調の放棄:この脱退は日本が第一次世界大戦後に築かれた国際協調体制(ベルサイユ・ワシントン体制)から完全に離脱し自らの信じる道を武力によって突き進むことを世界に宣言するものでした。
  • 外交的孤立:イギリスやアメリカといった民主主義国家との関係は決定的に悪化。日本は国際社会で孤立を深めていきます。
  • 軍部の台頭の加速:国内では連盟を脱退した松岡洋右は国民的な英雄として迎えられました。「もはや外国に頼ることはできない。国を守るのは軍の力だけだ」という考えがますます強まり軍部の政治的発言力は絶対的なものとなっていきました。

国際連盟の脱退は日本が自ら国際社会の主要なメンバーであることを放棄し破滅的な戦争へと向かう道を決定づけた重大な転換点だったのです。


5. 五・一五事件、血盟団事件

満州事変をきっかけに軍部が政治の主導権を握り日本が国際的な孤立の道を歩み始めた1932年(昭和7年)。日本国内では政党政治と資本主義に対するテロリズムが吹き荒れていました。昭和恐慌に苦しむ農村の窮状を背景に国家の現状を憂う青年将校や右翼活動家たちが「昭和維新」を掲げ政財界の要人を次々と暗殺する事件を起こしたのです。特に血盟団事件と五・一五事件は日本の政党政治に終止符を打つ決定的な出来事となりました。

5.1. テロの背景:国家改造運動

昭和恐慌による社会の混乱と満州事変による軍部の台頭を背景に1930年代初頭の日本では国家を根本から作り変えるべきだという「国家改造運動」が様々なグループによって唱えられていました。

彼らに共通していたのは

  • 政党政治への不信: 財閥と癒着し汚職にまみれた政党政治家は国家の危機を救えない。
  • 資本主義への敵意: 私利私欲を追求する資本家(特に財閥)が農村を疲弊させている。
  • 天皇中心国家の理想: これらの腐敗した指導者を排除し天皇を中心とする直接的な統治(天皇親政)を実現すべきである。

という思想でした。そして彼らの一部は言論による改革はもはや不可能であると考え暴力的な手段(テロ)に訴えるようになったのです。

5.2. 血盟団事件(1932年)

1932年2月から3月にかけて井上日召(いのうえにっしょう)という僧侶が率いる右翼団体「血盟団」による連続テロ事件が発生しました。

  • 標的:彼らは「一人一殺(いちにんいっさつ)」を掲げ財界と政界の要人20名を暗殺する計画を立てました。
  • 暗殺の実行:2月には選挙演説中の井上準之助(いのうえじゅんのすけ)(前蔵相、金解禁の断行者)が3月には三井合名会社の理事長であった**団琢磨(だんたくま)**がそれぞれ射殺されました。

この事件は社会に大きな衝撃を与え政財界の指導者たちを恐怖に陥れました。

5.3. 五・一五事件(1932年)

血盟団事件の衝撃が冷めやらぬ1932年5月15日今度は海軍の青年将校たちが中心となってクーデター未遂事件を起こします。これが「五・一五事件(ごいちごじけん)」です。

  • 事件の概要:海軍の青年将校と陸軍の士官候補生そして農本主義者(農村こそが国家の基本であると考える思想家)たちがいくつかのグループに分かれ東京の首相官邸や警視庁、日本銀行などを襲撃しました。
  • 犬養毅首相の暗殺:首相官邸に乱入した将校たちは当時の総理大臣であった**犬養毅(いぬかいつよし)**を射殺しました。犬養は自由民権運動以来のベテラン政治家であり立憲政友会の総裁でした。彼が将校たちに「話せば分かる」と対話を促したのに対し将校たちは「問答無用(もんどうむよう)」と叫んで引き金を引いたという逸話は言論による政治が暴力によって終焉を迎えたことを象徴する出来事として有名です。

5.4. 事件の裁判と世論

事件を起こした将校たちは自ら憲兵隊に自首しました。しかしその後の裁判は異様な展開をたどります。

  • 減刑を求める嘆願運動:将校たちの「国を憂う純粋な気持ち」に同情する声が国民の間から数多く寄せられました。全国から数十万通もの減刑を求める嘆願書が裁判所に届けられその中には指を切り落として血書でしたためたものまでありました。
  • 軽い判決:この国民の同情を背景に軍法会議は彼らに対して極めて軽い判決しか下しませんでした。

この結果は社会に深刻な影響を与えました。「テロを起こせば世論の支持を得て軽い罪で済む」という危険な前例を作ってしまったのです。政治家たちは軍や右翼のテロを恐れ彼らに迎合するようになっていきます。

5.5. 政党政治の終焉

五・一五事件は日本の政党政治にとって致命的な一撃となりました。犬養毅首相の死後元老の西園寺公望は後継の首相に政党の党首を指名することを断念します。「もはや政党政治家では軍部を統制することはできない」と判断したためです。

そして海軍大将の斎藤実(さいとうまこと)を首班とする官僚と軍人を中心とした「挙国一致内”閣」が成立しました。ここに大正時代から続いてきた「憲政の常道」は終わりを告げ日本の政党内閣の時代は完全に終焉を迎えたのです。

五・一五事件は単なる首相暗殺事件ではありません。それは日本の議会制民主主義が暴力の前に屈服し軍部が政治の主導権を握る時代の扉を開いた歴史的な転換点だったのです。


6. 政党政治の終焉

1932年の五・一五事件で現職の総理大臣・犬養毅が海軍の青年将校たちに暗殺された。この衝撃的な事件は日本の政党政治に事実上の終止符を打つものでした。大正デモクラシーの時代に花開き「憲政の常道」として一時は定着したかに見えた議会中心の政治は経済恐慌と軍部の台頭そしてテロという暴力の前に脆くも崩れ去りました。犬養内閣の崩壊後日本の政治は政党の党首ではなく軍人や官僚が主導する「挙国一致内閣」の時代へと移行していきます。本章では日本の政党政治がなぜそしていかにしてその命脈を絶たれたのかを探ります。

6.1. 「憲政の常道」の崩壊

大正時代後期から昭和初期にかけて日本では衆議院の多数を占める政党の党首が総理大臣に就任するというイギリス流の議会政治の慣例「憲政の常道」が続いていました。

しかしこの政党政治はいくつかの深刻な問題を抱えていました。

  • 国民の信頼の喪失:政党は財閥と癒着し汚職事件を繰り返していました。また昭和恐慌という国難に対し有効な対策を打ち出せず国民の生活を守ることができませんでした。これにより多くの国民が政党政治に深い失望と不信感を抱くようになっていました。
  • 軍部の統制不能:政党内閣は軍部の独走を抑えることができませんでした。張作霖爆殺事件や満州事変といった軍部の暴走を追認するばかりかロンドン海軍軍縮条約では軍部から「統帥権干犯」であると攻撃されその権威を失墜させていました。

6.2. 五・一五事件の衝撃

この状況で起こった五・一五事件は政党政治の息の根を止める決定的な一撃でした。

犬養毅首相の暗殺は「もはや話し合い(言論)は通用しない。これからは暴力の時代だ」ということを天下に示しました。政治家たちは軍や右翼によるテロを恐れその主張に公然と反対することができなくなりました。

6.3. 挙国一致内閣の時代へ

犬養毅の死後次の首相を誰にするかという問題が持ち上がります。慣例に従えば野党第一党であった立憲民政党の党首が後継となるはずでした。

しかし最後の元老であった西園寺公望は重大な決断を下します。彼は「もはや政党の党首ではこの国難と軍部の台頭を乗り切ることはできない」と判断。政党からの首相候補の推薦を退けました。

そして海軍穏健派の重鎮であった**斎藤実(さいとうまこと)**海軍大将を首相に指名しました。

  • 斎藤実内閣(1932-34年):この内閣は政友会と民政党の両方から閣僚を入れつつも陸海軍の大臣や官僚がその中核を占める「挙国一致内閣(きょこくいっちないかく)」でした。その名の通り国家の危機を乗り切るため全ての勢力が一致協力するという建前でした。しかしその実態は政党の影響力を大幅に後退させ軍部と官僚が政治の主導権を握るためのものでした。この斎藤内閣の時代に日本は満州国を承認し国際連盟を脱退するなど軍部主導の対外強硬路線を突き進んでいきます。
  • 岡田啓介内閣(1934-36年):斎藤内閣の後を継いだのも同じく海軍大将の**岡田啓介(おかだけいすけ)**でした。この内閣も挙国一致内閣の性格を引き継ぎました。

6.4. 政党の衰退

政権担当能力を失った政党はその存在意義を失い急速に衰退していきます。

  • 世論の離反:国民の多くはもはや政党に期待せず軍部こそが国家の危機を救ってくれると信じるようになっていました。
  • 内部からの崩壊:政党内部からも軍部に迎合し政党政治を否定する声が上がるようになります。彼らは軍部と結びつき国家社会主義的な政策を主張しました。

こうしてかつては藩閥政府と対峙し普通選挙を実現させた自由民権運動以来の日本の政党政治の歴史は事実上終わりを告げました。議会は存続しましたがもはや政府をコントロールする力はなく軍部が決定した政策をただ追認するだけの「翼賛議会」へと姿を変えていくのです。

政党政治の終焉は日本が議会制民主主義の道を放棄し軍国主義そして全体主義へと大きく舵を切ったことを意味する歴史的な転換点でした。


7. 二・二六事件

政党内閣が崩壊し軍部の政治的発言力が飛躍的に増大した1930年代。その陸軍の内部では国家の将来像をめぐる深刻な派閥対立が進行していました。そして1936年(昭和11年)2月26日その対立はついに首都・東京の中心部で若手将校たちが部隊を率いて政府要人を襲撃するという日本の憲政史上最大規模のクーデター未遂事件として爆発します。この「二・二六事件(ににろくじけん)」は数日間のうちに鎮圧されました。しかしその衝撃は日本の政治を根底から揺るがし結果として軍部の政治支配を決定的なものにするという皮肉な結末をもたらしました。

7.1. 陸軍内の派閥対立

当時の陸軍は主に二つの派閥に分かれて激しく対立していました。

  • 皇道派(こうどうは):荒木貞夫(あらきさだお)陸軍大臣や真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監らを中心に北一輝(きたいっき)の国家社会主義思想に影響を受けた青年将校たちがその中核でした。彼らは財閥や重臣、政党政治家といった「君側の奸」を武力で排除し天皇を中心とする直接的な政治(昭和維新)を断行すべきであると主張しました。ソ連との戦争を重視していました。
  • 統制派(とうせいは):陸軍省や参謀本部のエリート将校たちが中心。永田鉄山(ながたてつざん)軍務局長がその中心人物でした。彼らも国家の革新は必要であると考えていましたが皇道派のような直接的なクーデターではなく軍部が政府と議会を合法的にコントロールし国家総力戦体制を築くことを目指しました。中国との戦争を重視していました。

当初は皇道派が陸軍内で主流でしたが次第に統制派が巻き返し荒木・真崎を失脚させるなど皇道派は追い詰められていきました。

7.2. 事件の勃発(1936年2月26日)

この派閥抗争が激化する中1935年に統制派の中心人物であった永田鉄山が皇道派の将校に斬殺されるという事件(相沢事件)が発生。陸軍内の対立はもはや一触即発の状態でした。

そして1936年2月26日早朝。第一師団に所属する皇道派の青年将校(安藤輝三、野中四郎ら)が約1500名の下士官・兵を率いて決起します。

  • 襲撃と占拠:彼らは「尊皇討奸(そんのうとうかん)」を掲げいくつかの部隊に分かれて首相官邸や警視庁陸軍省などを襲撃。東京の政治の中枢である永田町・霞が関一帯を占拠しました。
  • 政府要人の殺害:この襲撃によって
    • **斎藤実(さいとうまこと)**内大臣(元首相)
    • **高橋是清(たかはしこれきよ)**大蔵大臣
    • **渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう)**陸軍教育総監が殺害されました。**岡田啓介(おかだけいすけ)**首相も襲撃されましたが義弟が身代わりとなり奇跡的に難を逃れました。また元老・西園寺公望や牧野伸顕前内大臣の襲撃は失敗に終わりました。

7.3. 昭和天皇の激怒と反乱の鎮圧

反乱を起こした青年将校たちは自らの行動が天皇の御心に沿うものであると信じていました。彼らは陸軍首脳を通じて「昭和維新」を断行するための内閣を組織するよう天皇に働きかけようとします(宮城占拠計画)。

しかし昭和天皇は自らの側近である重臣たちが殺害されたことに激怒。「朕が最も信頼せる老臣を殺傷す、此の如き凶暴の将校ら、その精神においても何の恕(ゆる)すべきものありや」と述べ断固として反乱の鎮圧を命じました。

天皇のこの強い意思を受け陸軍の首脳部もついに反乱の鎮圧を決意。海軍も東京湾に艦隊を集結させ反乱軍に圧力をかけます。

ラジオ放送や飛行機からのビラ撒きで「兵に告ぐ。勅命(天皇の命令)が発せられた。今からでも遅くないから原隊に帰れ」という投降の呼びかけが行われました。

天皇が自らを「反乱軍」と見なしていることを知った下士官・兵の多くは戦意を喪失。2月29日反乱軍は抵抗することなく降伏し事件は4日間で終結しました。

7.4. 事件の結末とその影響

事件の首謀者であった青年将校や彼らに思想的影響を与えた北一輝らは逮捕され軍法会議で死刑などの厳しい処罰を受けました。

この事件によって陸軍内の皇道派は完全に一掃されました。しかしその結果は日本の政治にとって皮肉なものでした。

  1. 軍部の政治支配の確立:事件後陸軍は「軍の綱紀粛正」を名目に政治への発言権を飛躍的に増大させました。岡田内閣は総辞職し後任の広田弘毅(ひろたこうき)内閣では軍部の反対によって閣僚が次々と交代させられました。
  2. 軍部大臣現役武官制の復活:そして陸軍の強い要求により一度は廃止されていた軍部大臣現役武官制が復活します。これにより陸軍が現役の大将・中将の中から大臣を出さなければ内閣は成立も維持もできなくなりました。これは軍部が内閣の生殺与奪の権を合法的に握ったことを意味し軍部の政治的独走を止める者はもはやいなくなってしまったのです。

二・二六事件はクーデターとしては失敗に終わりました。しかしその衝撃を利用した統制派の軍官僚たちは結果として日本の政治を完全にその支配下に置くことに成功したのです。


8. 日中戦争の全面化

二・二六事件を経て軍部が日本の政治を完全に掌握する中日本の大陸における膨張政策はさらに露骨なものとなっていきました。満州事変以降日本の関東軍は満州国を拠点として中国北部の分離独立工作(華北分離工作)を進めていました。これに対し蒋介石率いる中国国民政府は「抗日民族統一戦線」の結成を背景に日本への抵抗姿勢を強めていました。両国の緊張が極限まで高まっていた1937年7月北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で起こった日中両軍の偶発的な小競り合いは瞬く間に本格的な戦闘へと拡大。やがて8年にもわたる長く泥沼の全面戦争「日中戦争」へと突入していくことになります。

8.1. 盧溝橋事件(1937年)

1937年7月7日夜北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中であった日本軍に対して何者かによる数発の銃撃がありました。これをきっかけに日本軍と現地の中国国民党軍との間で戦闘が始まります。これが「盧溝橋事件」です。

当初現地の両軍の間では停戦協定が結ばれました。しかし当時の日本の第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は軍部の強硬論に押され「事件の不拡大」という方針を掲げながらも中国北部への増派を決定。これにより戦闘はさらに拡大していきました。

8.2. 戦線の拡大と第二次上海事変

戦火は中国の経済の中心地であった上海にも飛び火します。1937年8月上海で日本人将校が殺害された事件をきっかけに日中両軍は本格的な戦闘状態に入りました(第二次上海事変)。

日本軍は当初上海を短期間で制圧できると楽観視していました。しかし蒋介石率いる国民政府軍の精鋭部隊の頑強な抵抗にあい3ヶ月にもおよぶ激戦の末に多大な犠牲を払ってようやく上海を占領しました。

8.3. 南京事件

上海を占領した日本軍は勢いに乗って中国の首都であった**南京(なんきん)**へと進撃。1937年12月に南京を陥落させました。

そしてこの南京占領の前後日本軍は捕虜や敗残兵だけでなく多くの一般市民(女性や子供を含む)を殺害し略奪や暴行を行いました。この「南京事件(南京大虐殺)」における犠牲者の数については今なお歴史家の間で大きな論争がありますが非戦闘員に対する大規模な残虐行為があったこと自体は否定できません。

8.4. 戦争の泥沼化

日本軍は首都・南京を占領すれば中国国民政府は降伏するだろうと考えていました。しかし蒋介石は首都を奥地の**重慶(じゅうけい)**に移しアメリカやイギリスの支援(援蔣ルート)を受けながら徹底抗戦の構えを見せます。

  • 近衛声明:日本政府(近衛内閣)は「国民政府を対手とせず」という声明を発表。蒋介石との和平交渉の道を自ら閉ざしてしまいます。そして親日的な**汪兆銘(おうちょうめい)**を首班とする新たな政権を南京に樹立させますがこの傀儡政権は中国の民衆から全く支持を得られませんでした。
  • 広大な国土とゲリラ戦:日本軍は徐州や武漢といった主要都市を次々と占領していきます。しかし中国の広大な国土と中国共産党軍などが展開するゲリラ戦の前に決定的勝利を収めることができず戦線はいたずらに拡大し戦争は完全に泥沼化していきました。

日本は「短期決戦」の目論見が外れ終わりの見えない長期戦へと引きずり込まれていったのです。そしてこの泥沼から抜け出すための次なる一手(援蔣ルートの遮断を目的とした南部仏印進駐)がやがて日本をアメリカとの太平洋戦争へと導いていくことになります。


9. 国家総動員法

泥沼化した日中戦争。それは日本の国力を急速に消耗させていきました。戦争を遂行するためには兵士だけでなく武器弾薬軍艦飛行機そして食料といった膨大な物資が必要です。政府はこれらの物資を円滑に確保し国民生活の全てを戦争に動員するため1938年(昭和13年)「国家総動員法(こっかそうどういんほう)」を制定します。この法律は政府に対して議会の承認なしに国民の経済活動や言論の自由を無制限に統制する絶大な権限を与えるものであり日本の議会制民主主義に事実上の終止符を打つものでした。

9.1. 制定の背景:総力戦体制の必要性

第一次世界大戦以降近代的な戦争は軍隊だけで行われるものではなく国家の全ての人的・物的資源を動員する「総力戦」であるという認識が世界の常識となっていました。

日中戦争が長期化するにつれ日本の指導者たちもまたこの戦争に勝利するためには経済や国民生活の全てを戦争目的のために統制する総力戦体制を築く必要があると考えるようになります。

9.2. 国家総動員法の制定(1938年)

第一次近衛文麿内閣は1938年4月国家総動員法を議会に提出し成立させました。

  • 法律の骨子:この法律の核心は「戦時(または戦時に準ずる事変の場合)においては政府が必要と認める時には議会の議決を経ずに勅令(天皇の命令)によって国民や物資を徴用し経済活動を統制できる」という点にありました。
  • 議会の抵抗と無力化:この法律が政府に行政権だけでなく立法権までも与えるものであり議会制民主主義を否定する憲法違反の法律であるとして一部の政党からは激しい反対の声が上がりました。しかし軍部や世論の強い圧力の前に議会は結局この法案を可決せざるを得ませんでした。

9.3. 国民生活への影響

この法律に基づいて政府は次々と勅令を発し国民生活のあらゆる側面を統制下に置いていきました。

  • 国民徴用令(1939年):戦争に必要な労働力を確保するため国民を強制的に軍需工場や炭鉱などに動員しました。
  • 価格等統制令(1939年):物価や賃金、家賃などを政府が公定価格に固定しました(公定価格)。
  • 配給制度:戦争の長期化で物資が不足すると米や砂糖マッチといった生活必需品が切符制による配給制度となりました。
  • 供出制度:農家は政府が定めた量の米を強制的に安い価格で売り渡すことを義務付けられました(供出)。

9.4. 精神的な動員

国民の動員は物質的なものだけではありませんでした。

  • 国民精神総動員運動:「贅沢は敵だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」といったスローガンを掲げ国民に耐乏生活と戦争への協力を強いる精神的なキャンペーンが展開されました。
  • 言論・報道の統制:新聞やラジオといったメディアは政府の厳しい統制下に置かれ戦争の真実を伝えることは許されずただ国民の戦意を高揚させるための「大本営発表」を垂れ流すだけの存在となりました。

国家総動員法は明治憲法が保障していたはずの国民の権利や自由を事実上停止させ日本の政治・経済・社会の全てを戦争という一つの目的のために動員する全体主義的な体制を完成させました。この法律の下で日本は破滅的な太平洋戦争へと突き進んでいくことになるのです。


10. 日独伊三国同盟と大政翼賛会

日中戦争が泥沼化し米英との関係が悪化する中日本は国際的な孤立を深めていました。この状況を打開するため日本の指導者たちは新たな同盟国を求めます。そして1940年ヨーロッパで快進撃を続けていたナチス・ドイツとファシスト・イタリアとの間で軍事同盟「日独伊三国同盟」を締結。日本は枢軸国の一員として世界を二分する対立の構図に身を投じることになります。そして国内ではこの新たな国際情勢に対応するため近衛文麿首相の主導のもと全ての政党を解散させ「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」という一国一党の国民組織を結成。日本の議会制民主主義は完全にその息の根を止められ全体主義的な戦争体制が完成しました。

10.1. 日独伊三国同盟(1940年)

日中戦争の長期化により日本の最大の課題はアメリカやイギリスが中国(蒋介石政権)を支援するルート(援蔣ルート)をいかにして断ち切るかということでした。

  • 同盟締結の思惑:当時の日本の指導者たち(特に陸軍と松岡洋右外相)は以下のような思惑を持っていました。
    1. ドイツの力の利用: ヨーロッパでイギリスやフランスを圧倒していたドイツの軍事力を背景にすれば米英を牽制し援蔣ルートを遮断できるだろう。
    2. 南方資源の確保: 米英との対立が深まる中で石油やゴムといった南方(東南アジア)の資源を確保するためにはドイツとの連携が不可欠である。
  • 同盟の内容:1940年9月ベルリンで日独伊三国同盟が調印されました。その内容は三国いずれかの一国が現在戦争に関与していない国(暗黙のうちにアメリカを指す)から攻撃を受けた場合互いに助け合うというものでした。

しかしこの同盟は日本の思惑とは逆にアメリカの対日感情を決定的に悪化させ経済制裁(石油の禁輸など)を招き日本をさらなる窮地へと追い込む結果となります。

10.2. 大政翼賛会の設立(1940年)

三国同盟を締結し世界的な戦争への備えを進める中で近衛文麿首相は国内の政治体制を強力な戦争指導体制へと再編する必要があると考えました。これが「新体制運動」です。

  • 政党の自主的解散:この新体制運動の機運の中で立憲政友会や立憲民政党といった既存の政党は「挙国一致の体制を築くためには党利党略は捨てるべきだ」として次々と自ら解散してしまいます(バスに乗り遅れるなが合言葉でした)。
  • 大政翼賛会の発足:1940年10月これらの解散した政党などを吸収する形で近衛文麿を総裁とする大政翼賛会が発足しました。これは政府の政策を国民に徹底させ国民を戦争に協力させるための全国的な国民組織でした。その下部組織として集落ごとに**隣組(となりぐみ)**が作られ相互監視や配給の実施など国民生活の末端までを統制する役割を担いました。

10.3. 議会制民主主義の終焉

大政翼賛会の発足によって日本の議会制民主主義は完全に消滅しました。

  • 一国一党体制:大政翼賛会はナチスのナチ党やイタリアのファシスト党をモデルとしたものであり日本は事実上の一国一党の全体主義国家となりました。
  • 翼賛議会:選挙は翼賛政治体制協議会の推薦を受けた候補者のみが立候補できる「翼賛選挙」となり議会は政府の決定をただ承認するだけの「翼賛議会」と化しました。

日独伊三国同盟という対外的な選択と大政翼賛会という国内的な体制の確立。この二つによって日本はもはや後戻りのできない破滅的な戦争への道を突き進んでいくことになります。大正デモクラシーの時代に育まれた自由な精神は完全に窒息させられ国家全体が巨大な戦争マシーンへと組み込まれていったのです。


## Module 19:恐慌と軍部の台頭の総括:民主主義の崩壊と戦争への道

本モジュールでは大正デモクラシーの輝きが失われ日本が暗い軍国主義の時代へと転落していく過程を追った。関東大震災とそれに続く金融恐慌昭和恐慌という経済的カタストロフは国民生活を破壊し政党政治への信頼を根底から覆した。この経済的絶望を土壌として軍部は満州事変という独断の暴走を開始し傀儡国家・満州国を建国。国際連盟からの脱退は日本を国際的孤立へと導いた。国内では五・一五事件の凶弾が政党政治の息の根を止め二・二六事件は軍部の政治支配を決定的なものにした。そして泥沼の日中戦争を遂行するため国家総動員法と大政翼賛会が創設され個人の自由は「国体」の名の下に圧殺された。最後に日独伊三国同盟によって日本はファシズム国家群と運命を共にすることを決意する。この時代は経済危機が民主主義の脆弱性を突き軍部の野心と国民の絶望が共鳴し合う時いかにして一つの国家が破滅的な戦争への道を突き進んでいくかを示す痛切な教訓の物語である。

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