【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 1:土地制度と経済基盤の変遷
本モジュールの目的と構成
歴史を貫く巨大な奔流、その源泉には常に「土地」をめぐる支配の構造が存在しました。国家はいかにして土地と民衆を把握し、財政基盤を築こうとしたのか。人々は土地とどう向き合い、その所有形態はどのように変化してきたのか。本モジュールでは、日本史における最も根源的なテーマである「土地制度」の変遷を、古代から現代まで一気通貫で探求します。これは単なる制度史の学習ではありません。土地というキャンバスの上に、権力の興亡、経済のダイナミズム、そして人々の生活の実像が、どのように描かれてきたかを読み解くための知的「方法論」を獲得する旅です。
表層的な事件や人物の羅列を越え、歴史を動かす深層構造を理解することは、難関大学が求める歴史的思考力の核心に他なりません。このモジュールを学び終えたとき、あなたは点在していた知識が「土地」という一本の強靭な線で結ばれ、日本史の全体像が立体的かつ構造的に見えてくる知的興奮を体験するでしょう。
本モジュールは、以下の10のステップで構成されています。
- 公地公民制と班田収授法: 全ての土地と人民は公(おおやけ)に属するという、律令国家が掲げた壮大な理想とその統治システムの構造を解明します。
- 墾田永年私財法と初期荘園: 国家の理想が現実の前に変容を迫られる中、土地私有の道を開いた画期的な法と思想、そして荘園の萌芽を分析します。
- 荘園公領制の展開: 免税・自治の特権を得た荘園が全国に広がり、国家の支配領域(公領)と併存する、中世の二元的土地支配体制の確立過程を追います。
- 地頭による荘園侵食: 新たな支配階級である武士が、いかにして現地の土地支配権を掌握し、旧来の荘園体制を内側から突き崩していったのかを探ります。
- 惣村の土地所有: 支配者の交代劇の裏で、主体性を獲得した民衆が築き上げた自治的共同体「惣村」における、土地の共同管理の実態に迫ります。
- 太閤検地と石高制: 戦国の動乱を経て、豊臣秀吉がいかにして中世以来の複雑な土地所有関係を清算し、近世社会の礎となる石高制を確立したのかを検証します。
- 近世の村落構造: 石高制の下で確立された、本百姓を中心とする村の仕組みと、幕藩体制におけるその役割を明らかにします。
- 地租改正と近代的土地所有権: 明治維新がもたらした最大の変革の一つ、近代的土地所有権の確立と、それが日本社会に与えた光と影を考察します。
- 寄生地主制の展開: 近代化の過程で深刻化した、土地所有の偏在と農村の階層分化、「寄生地主制」という構造的問題を深掘りします。
- 農地改革と自作農創設: 戦後の大変革が、いかにして日本の農村構造を根底から覆し、現代に至る社会経済の基盤を築いたのか、その歴史的意義を問います。
この壮大な変遷の物語を通じて、歴史の連続性と非連続性、そして制度とその担い手たちが織りなすダイナミズムを掴み取りましょう。
1. 公地公民制と班田収授法
日本古代国家の根幹をなす統治理念、それが「公地公民制」です。この制度は、単なる土地制度や税制にとどまらず、7世紀後半から8世紀にかけて成立した律令国家の理想そのものを体現していました。全ての土地(公地)と人民(公民)は、公、すなわち天皇が直接支配するという壮大な構想は、なぜ生まれ、どのように機能し、そしていかなる課題に直面したのでしょうか。その核心にある班田収授法と、それを支えた税制の構造を深く理解することは、古代日本の国家像を解明する第一歩です。
1.1. 公地公民制成立の歴史的背景
公地公民制という理念が突如として生まれたわけではありません。そこには、6世紀から7世紀にかけての東アジア情勢と、国内の政治的課題が深く関わっています。
1.1.1. 豪族連合政権の限界と私地私民
律令国家以前のヤマト政権は、大王(おおきみ)を中心としながらも、その実態は各地の有力豪族による連合政権の性格が強いものでした。葛城氏、蘇我氏、物部氏といった中央の有力豪族は、政権内で大きな力を持ち、地方においても国造(くにのみやつこ)などに任命された豪族が、それぞれの地域を支配していました。
彼らの権力の基盤は、独自に所有する土地(田荘(たどころ))と、支配下にある人民(部曲(かきべ))でした。これらは「私地私民」と呼ばれ、豪族が世襲的に継承する私有財産でした。大王自身も直轄地である屯倉(みやけ)や、直属の民である名代・子代(なしろ・こしろ)を所有していましたが、それは数ある豪族の一つとしての側面が強く、全国の土地と人民を網羅的に支配する存在ではありませんでした。
このような分権的な支配体制は、国内の統一を阻害し、豪族間の権力闘争を絶えず生み出す要因となります。特に6世紀後半以降、蘇我氏が権勢を強め、聖徳太子(厩戸皇子)と協調しながら政治を進める中でも、この基本的な構造は変わりませんでした。しかし、この状況を根底から覆す必要性が、内外の情勢から高まっていきます。
1.1.2. 東アジア情勢と中央集権化の要請
7世紀の東アジアは、隋、そしてその後継である唐という強大な統一帝国が出現し、激動の時代を迎えていました。特に唐は、高度に整備された法典である「律令」を制定し、皇帝を頂点とする中央集権的な官僚国家体制を築き上げていました。その国力は周辺諸国を圧倒し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が唐との関係を軸に激しい興亡を繰り広げていました。
660年、倭(日本)と友好関係にあった百済が、唐・新羅連合軍によって滅亡します。倭は百済復興を支援するため、663年に大規模な軍を派遣しますが、白村江の戦いで大敗を喫しました。この敗北は、日本の支配層に強烈な衝撃と危機感をもたらします。強大な唐の軍事力が、いつ日本列島に向けられてもおかしくないという現実を突きつけられたのです。
この国家的危機に対処するためには、豪族がてんでばらばらに力を有する連合政権では不十分であり、国家の全ての資源(土地・人民・富)を動員できる、強力な中央集権国家を早急に建設する必要がある。この認識が、支配層の間で共有されるようになります。そして、そのモデルとされたのが、他ならぬ強敵・唐の律令国家体制でした。唐の制度を導入し、天皇を中心とした国家を構築することこそが、対外的な独立を維持するための唯一の道だと考えられたのです。
1.1.3. 大化の改新と改新の詔
この流れの中で、645年に乙巳の変が起こります。中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、権勢を振るっていた蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼし、新たな政権を樹立しました。この政変を起点とする一連の政治改革が「大化の改新」です。
翌646年、新政権は改革の基本方針を示す「改新の詔」を発布しました。この詔は後世の潤色が加えられているとの説もありますが、当時の政権が目指した方向性を理解する上で極めて重要です。その核心部分には、以下のような内容が含まれていました。
- 豪族の私地私民(田荘・部曲)の廃止: これまで豪族が私的に所有してきた土地と人民を、国家が召し上げること。
- 中央・地方の行政組織の整備: 京師(都)、畿内、国・郡・里といった行政区画を定め、官僚を派遣して統治すること。
- 戸籍の作成と班田収授法の施行: 全ての人民を戸籍に登録し、その戸籍に基づいて口分田を班給(分け与える)すること。
- 統一的な税制の導入: 田に対する税(租)や、人頭税(庸・調)を公民から徴収すること。
これらは、まさに豪族の経済的・軍事的基盤を解体し、天皇の下に土地と人民を一元的に掌握する「公地公民制」の理念を明示したものでした。白村江の戦いを経て、この改革はさらに加速します。天智天皇は、日本初の本格的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成させ、天武天皇・持統天皇の時代には、飛鳥浄御原令の制定、そして全国的な班田の実施へと進み、701年の大宝律令の完成によって、公地公民を原則とする律令国家体制が法的に確立されるのです。
1.2. 班田収授法の仕組み
公地公民制という理念を、具体的な人民支配の制度として実現したのが班田収授法です。これは、国家が人民を戸籍に登録し、その一人ひとりに生命を維持するための田地(口分田)を貸し与え、その代償として税を負担させるというシステムでした。
1.2.1. 戸籍と計帳:人民把握の基礎
班田収授法の前提となるのが、人民の正確な把握です。そのために、律令政府は二つの重要な台帳を作成しました。
- 戸籍(こせき): 班田収授の基本台帳。6年に一度作成され、その戸(家族集団)の構成員全員の氏名、性別、年齢などが記載されました。戸籍は、個人の身分(良民か賤民かなど)を証明する役割も果たし、永久保存が原則でした。庚午年籍以降、全国で作成が進められました。
- 計帳(けいちょう): 毎年末の人民の状態を記録し、翌年度の課税台帳として用いられました。庸・調などの人頭税を徴収するための基礎資料であり、毎年作成されました。
これらの台帳によって、国家は全国の課税対象となる人口を極めて詳細に把握していました。現在でいう国勢調査と住民基本台帳、そして課税台帳を兼ねた、精緻な人民管理システムだったのです。
1.2.2. 口分田の班給と収公
律令の規定では、人民は6歳になると、国家から**口分田(くぶんでん)**を班給されることになっていました。班給される面積は性別や身分によって異なりました。
- 良民男子: 2段(約2300平方メートル)
- 良民女子: 男子の3分の2(1段120歩)
- 官戸・公奴婢(公の賤民): 良民男女に同じ
- 家人・私奴婢(私の賤民)– 良民男女の3分の1
この口分田は、あくまで国家から貸与された土地であり、売買や譲渡は固く禁じられていました。そして、班給された人が死亡すると、その口分田は国家に収公(しゅうこう)、すなわち返還されるのが原則でした。そして、新たに6歳に達した者に班給されるというサイクルが、6年ごとの戸籍作成(造籍)と連動して繰り返されることになっていました。これを「六年一班」の原則と呼びます。
このシステムは、全ての人民に最低限の生産手段(土地)を保障する一方で、土地の私有を認めず、全ての土地を国家(天皇)の所有下に置くという公地公民の原則を徹底するものでした。人民は土地を耕作する権利を与えられた「公民」として位置づけられ、国家の直接的な支配対象となったのです。
1.2.3. 口分田以外の田地
律令国家の土地制度は、口分田だけで成り立っていたわけではありません。口分田が不足した場合に備えた乗田(じょうでん)や、位階に応じて与えられる位田(いでん)、官職に応じて与えられる職田(しきでん)、功績のあった者に与えられる**功田(こうでん)**などがありました。これらは世襲が認められる場合もあり、公地公民制の中でも、特定の身分や功績を持つ者への特権的な土地配分が存在していました。
また、天皇家の生活費を賄うための**勅旨田(ちょくしでん)や、官庁の経費に充てるための官田(かんでん)**なども設定され、国家財政を支える重要な役割を果たしました。これらの多様な田地の存在は、律令制の土地支配が画一的ではなく、様々な目的と階層に応じて設計されていたことを示しています。
1.3. 律令国家の税制(租・庸・調・雑徭)
班田収授法によって口分田を班給された公民は、国家に対して税を納める義務を負いました。律令制の税制は複雑ですが、主なものとして**租・庸・調・雑徭(ぞうよう)**の四つが挙げられます。
1.3.1. 租(そ):土地への課税
租は、口分田の収穫物に対して課される税であり、土地税(地税)の性格を持ちます。税率は、収穫量の約3%にあたる、1段あたり2束2把(たばわ)の稲と定められていました。これは比較的低い税率に見えますが、公民の負担はこれだけではありませんでした。
徴収された租は、地方の行政機関である**国衙(こくが)の倉庫(正倉)に備蓄され、国司や郡司といった地方官の給与や、国衙の運営経費、飢饉に備える義倉(ぎそう)**の稲などに充てられました。租は、地方財政の主要な財源だったのです。
1.3.2. 庸(よう)・調(ちょう):人への課税
庸と調は、成人男性(正丁:せいてい、21歳~60歳)を主な対象として課された人頭税です。
- 庸: 年間10日間の都での労役(歳役:さいえき)の代わりに、布や米などを納める税。その目的は、中央政府の財源を確保することにありました。庸として納められた布などは、主に下級役人の給与や政府の雑費などに充てられました。
- 調: 地域の特産物を納める税。絹、布、糸、塩、海産物など、それぞれの国で定められた品目を納入しました。これも中央政府の財源となり、役人の給与や、国家的な儀式の費用、外国使節の接待費用などに使われました。
庸・調は、公民が自ら都まで運搬する**運脚(うんきゃく)**という義務も伴いました。食料は自弁であり、往復にかかる日数は庸や雑徭から免除される規定はありましたが、運搬の負担は極めて重いものでした。途中で飢えたり病に倒れたりする者も少なくありませんでした。
1.3.3. 雑徭(ぞうよう):地方での労役
雑徭は、国司が管内の公民を年間60日を上限として、様々な労役に動員する制度です。国衙の建設や修理、道路や堤防の整備、国司の私的な雑用など、その内容は多岐にわたりました。庸が都での労役であるのに対し、雑徭は地方(国衙)のための労役でした。食料は公民の自己負担であり、これも非常に重い負担でした。
これらに加え、兵役の義務である軍団(ぐんだん)への参加や、九州北部の防衛にあたる防人(さきもり)、宮殿の警備にあたる**衛士(えじ)**といった軍事的負担もありました。
1.4. 公地公民制の理想と現実
律令国家が築き上げた公地公民制と班田収授法は、全ての人民を国家が直接把握し、公平に土地を与え、税を徴収するという、極めて精緻で理想主義的なシステムでした。唐の制度をモデルとしながらも、日本の実情に合わせて修正が加えられ、7世紀末から8世紀にかけて、このシステムは一定の有効性をもって機能しました。平城京のような壮大な都城の建設や、国家的な仏教事業が可能であったのも、この制度が国家に安定した財源と労働力をもたらしたからです。
しかし、この壮大な理想は、その内側に構造的な矛盾を抱えていました。
- 人口増加と口分田の不足: 安定した社会は人口増加をもたらしますが、班給すべき口分田は有限です。時代が下るにつれて、新たに班給すべき土地が不足するという問題が深刻化していきます。
- 重い税負担と公民の逃亡: 租・庸・調・雑徭・兵役といった多岐にわたる負担は、公民の生活を著しく圧迫しました。負担から逃れるため、戸籍に登録された本籍地を離れて逃亡する「浮浪(ふろう)」や、他人の戸籍に偽って登録する「偽籍(ぎせき)」が後を絶ちませんでした。
- 制度の維持コスト: 6年ごとの全国的な戸籍作成と班田、そして税の徴収と運搬には、膨大な行政コストと労力がかかりました。地方行政の実務を担う国司や郡司の負担も大きく、制度を厳密に維持することは次第に困難になっていきました。
公地公民制という壮大な理想は、それを維持するための現実的な基盤が、まさにその制度によって疲弊していくというジレンマを抱えていたのです。この矛盾が顕在化するとき、律令国家は大きな政策転換を迫られることになります。次章で見る墾田永年私財法は、この公地公民制の原則を国家自らが修正する、歴史的な一歩となるのです。
2. 墾田永年私財法と初期荘園
8世紀初頭、律令国家はその最盛期を迎えていました。平城京が造営され、全国に国分寺・国分尼寺が建立されるなど、国家体制は安定し、文化が花開きました。しかしその一方で、律令国家の根幹をなす公地公民制と班田収授法は、その内包する矛盾によって静かに蝕まれつつありました。人口増加による口分田の不足、重税による公民の逃亡・浮浪は、国家の財政基盤を揺るがす深刻な問題となっていきます。この事態に対応するため、政府はついに土地政策の根本的な転換に踏み切ります。それが、743年に発布された墾田永年私財法です。この法は、土地の私有を永続的に認めるという、公地公民の原則を根底から覆す画期的なものであり、その後の日本社会に「荘園」という新たな土地所有形態を生み出す直接的な原因となりました。
2.1. 班田収授法の動揺
墾田永年私財法が発布されるに至った直接的な原因は、班田収授法が行き詰まりを見せていたことにあります。その背景には、いくつかの複合的な要因が存在しました。
2.1.1. 人口増加と口分田不足
7世紀後半から8世紀前半にかけての日本は、大きな戦乱もなく、農業技術も徐々に向上していたため、人口は増加傾向にありました。当時の推定人口は約500万人から600万人とされています。人口が増加すれば、当然、6歳に達して新たに口分田を班給されるべき人々の数も増えていきます。
しかし、班給すべき田地、特に都の周辺や畿内などの先進地域では、開墾可能な土地は限られていました。律令政府は、六年一班の原則に従って班田を実施しようとしますが、物理的に土地が足りないという事態に直面します。死者の口分田は収公される原則でしたが、それが円滑に行われなかったり、そもそも新規班給対象者の増加に追いつかなかったりしました。
口分田を確保できないことは、国家にとって二重の打撃でした。一つは、公民の生活基盤を保障できなくなることであり、もう一つは、課税対象となる田地(課田)が減少し、国家の根幹である「租」の収入が先細りになることです。政府にとって、耕地面積の拡大、すなわち**墾田(こんでん)**の奨励は、喫緊の課題となったのです。
2.1.2. 浮浪・逃亡の増加と財政悪化
公地公民制の下での公民の負担は、前述の通り極めて重いものでした。特に、庸・調・雑徭といった人頭税や労役は、人々の生活を直接的に圧迫しました。この過酷な負担から逃れるため、多くの人々が本籍地を捨てて逃亡する「浮浪」や、他の戸籍に潜り込む「偽籍」といった行為に走りました。
浮浪・逃亡者の増加は、律令国家の支配システムにとって致命的な問題でした。戸籍・計帳に基づく人民把握が不正確になり、庸・調を徴収すべき対象者がいなくなってしまうからです。これにより、中央政府の財源は深刻な打撃を受けました。また、労働力である雑徭の担い手も減少し、地方のインフラ整備や国衙の運営にも支障をきたすようになります。
政府は、逃亡者を捜索して本籍地に戻す政策(浪人送還)を繰り返し行いますが、根本的な解決には至りませんでした。負担が重い限り、人々は逃亡し続けるのです。この状況を打開するためには、人々に土地に定着するインセンティブを与える必要がありました。
2.2. 墾田奨励政策への転換
耕地を増やし、財政を再建するという課題に直面した政府は、これまでの公地公民の原則を一部修正し、墾田を奨励する方向へと舵を切ります。その過程で、二つの重要な法令が発布されました。
2.2.1. 百万町歩開墾計画(722年)
722年、長屋王が政権を主導していた時代に、政府は壮大な「百万町歩開墾計画」を打ち出します。これは、文字通り全国で百万町歩(約12000平方キロメートル、現在の耕地面積の約3分の1に相当)の新たな水田を開墾するという野心的な計画でした。
この計画を推進するため、政府は地方の国司に開墾を強く奨励し、用水路などの灌漑施設の整備も進めようとしました。しかし、この計画は大きな成果を上げることなく、事実上の失敗に終わります。その最大の理由は、開墾に対するインセンティブが乏しかったことです。たとえ農民が苦労して土地を開墾しても、その土地は結局「公地」として扱われ、口分田として他人に班給されてしまう可能性がありました。自らの利益に直結しない事業に、人々が積極的に取り組むはずがなかったのです。
この失敗は、政府に重要な教訓を与えました。人々に開墾の労力を投じさせるためには、相応の「見返り」、すなわち土地に対する何らかの所有権を認める必要がある、という認識です。
2.2.2. 三世一身法(さんぜいっしんのほう)(723年)
百万町歩開墾計画の失敗を受けて、翌723年に発布されたのが三世一身法です。これは、日本の土地制度史における最初の大きな転換点となりました。
この法律の要点は以下の通りです。
- 新たに灌漑施設(溝や池など)を造って土地を開墾した場合、その土地の三代(子・孫・曾孫)にわたる私有を認める。
- 既存の灌漑施設を利用して開墾した場合は、本人一代限りの私有を認める。
これは、公地公民の原則に初めて公式な例外を設けるものでした。「一代」や「三代」という期限付きではあるものの、国家が個人の土地私有を公的に認めたという点で、画期的な意味を持ちました。政府は、このインセンティブによって墾田が促進されることを期待したのです。
この法律の発布後、貴族や寺社、地方豪族などが中心となって、一定の開墾が進められました。しかし、この法律にも限界がありました。どれだけ苦労して開墾しても、いずれは(三代目または本人の死後)国家に収公されてしまうため、長期的な投資意欲を完全に引き出すには至らなかったのです。特に、収公の時期が近づくと、土地の維持管理が疎かになるという問題も発生しました。政府は、より強力なインセンセンティブの必要性を痛感することになります。
2.3. 墾田永年私財法(743年)の発布
三世一身法の限界を克服し、墾田を抜本的に促進するために、聖武天皇の時代、政権を主導していた橘諸兄(たちばなのもろえ)の下で、743年に墾田永年私財法が発布されました。この法律こそが、古代から中世へと続く荘園制社会の扉を開くことになります。
2.3.1. 法令の内容とその画期性
墾田永年私財法の核心は、その名の通り「永年」、すなわち永久にわたる土地の私有を認めた点にあります。
法令の骨子は以下の通りです。
- 国司に申請し、許可を得て開墾した土地(墾田)は、永久に私有地(私財)とすることを認める。
- ただし、開墾できる面積には、身分に応じた上限(占定(せんでい))が設けられた。
- 一位: 500町
- 親王・諸王(二位~四位): 300町
- 五位以上: 100町
- 六位~初位: 50町
- 庶人(一般人): 10町
- 申請から3年以内に開墾を完了しない場合は、他人が開墾することを認める(三年不起の条)。
この法律の画期性は、もはや説明を要さないでしょう。国家が土地を独占的に所有するという公地公民の大原則が、国家自身の法令によって放棄されたのです。土地はもはや「公」のものではなく、「私」のものとなりうる存在へと、その性格を根本的に変えました。これは、律令国家が自らの統治理念を修正し、現実的な財政再建策へと大きく舵を切ったことを意味します。人々は、投資した労力と資本が永久に自らの資産となる保証を得て、本格的な開墾事業へと乗り出すことになります。
2.3.2. 開墾の担い手と初期荘園の形成
墾田永年私財法のもと、大規模な開墾事業を主導したのは、豊富な財力と労働力を動員できる特権階級でした。
- 中央の有力貴族(皇族・藤原氏など): 彼らは自らの財産を投じ、また政治的な影響力を行使して、大規模な開墾を行いました。
- 大寺社(東大寺、興福寺など): 鎮護国家思想の下で手厚い保護を受けていた大寺社は、莫大な財産(寺領)を持ち、多くの人々を使役して広大な土地を開墾しました。
- 地方の有力豪族(郡司層): 地方に根を張り、地域の労働力を動員しやすい立場にあった郡司層も、積極的に開墾を進め、自らの経済基盤を強化していきました。
彼らが大規模な開墾を行うためには、多くの労働力が必要でした。その労働力となったのが、重税から逃れてきた浮浪人や、周辺の公民たちです。有力者たちは、これらの人々を賃労働者として雇ったり、食料や農具を提供したりして、開墾事業に従事させました。
こうして開墾され、私有地となった土地の集合体が「荘園(しょうえん)」の始まりです。この段階の荘園は、まだ律令国家の支配が及ぶ範囲内にあり、原則として租を納める義務がありました。そのため、「輸租田(ゆそでん)」とも呼ばれます。この時期の荘園を、後の時代の荘園と区別して「初期荘園」と呼びます。
初期荘園は、まだ全国に散在する点のような存在でした。しかし、それは公地公民制という律令国家の支配体系に打ち込まれた、最初の楔(くさび)でした。この小さな亀裂が、やがて国家の支配を及ぼさせない独立した領域へと拡大していくことになるのです。
2.4. 公地公民制の形骸化へ
墾田永年私財法は、短期的には耕地面積の増加と財政の安定に貢献しました。しかし、長期的には律令国家の根幹である公地公民制を内部から崩壊させる決定的な要因となりました。
土地の私有が公然と認められたことで、人々の意識は「公」への奉仕から「私」の利益追求へと大きくシフトします。有力者たちは、開墾だけでなく、既存の口分田を買い集めたり、公民を自らの荘園の労働力として囲い込んだりすることで、勢力を拡大していきました。
その結果、国家が直接把握できる公民と公地は減少し続け、班田収授法は実施が困難となり、実質的に機能しなくなっていきます。9世紀初頭の800年頃には、畿内やその周辺地域を除いて、班田はほとんど行われなくなりました。公地公民の原則は、もはや名目上のものとなり、現実は有力者による土地私有の拡大という、新たな時代へと向かっていました。
墾田永年私財法は、律令国家が自らの延命のために打った起死回生の一手でしたが、皮肉にもそれは自らの首を絞め、荘園という新たな支配体制が生まれる土壌を育む結果となったのです。この初期荘園が、いかにして国家の課税権を拒否する独立領域へと変貌していくのか。それが次章のテーマとなります。
3. 荘園公領制の展開
墾田永年私財法によって生まれた「初期荘園」は、公地公民制という律令国家の支配システムに風穴を開けました。しかし、この段階の荘園はまだ国家の課税権(輸租)の下にあり、独立した支配領域ではありませんでした。それが10世紀から12世紀にかけて、国家の支配を完全に拒否する特権を獲得し、全国に広がる巨大な私的領域へと発展していきます。一方で、国家もただ手をこまねいていたわけではありません。荘園の拡大に対抗し、公地を「公領(国衙領)」として再編成することで、支配の維持を図りました。こうして、荘園と公領という二つの異なる支配体系が、モザイク状に併存する「荘園公領制」と呼ばれる中世特有の土地支配体制が確立されるのです。この複雑な体制の成立過程を理解することは、古代から中世への移行期における権力構造の変容を捉える上で不可欠です。
3.1. 荘園の成長と特権の獲得
初期荘園の所有者である有力貴族や寺社(彼らを**領家(りょうけ)**と呼びます)は、自らの荘園の収益を最大化するため、国家による干渉、特に租税の徴収や役人の立ち入りを免れようと画策しました。彼らは中央政府における政治的権力を利用して、自らの荘園に様々な特権を獲得していきます。その代表的なものが「不輸」と「不入」の権です。
3.1.1. 不輸の権(ふゆのけん):免税の特権
不輸の権とは、荘園が国家に対して**官物(かんもつ)や臨時雑役(りんじぞうやく)**といった租税の納入を免除される特権です。
律令制の崩壊過程で、租・庸・調といった税体系は実情に合わなくなり、10世紀頃には新たな税体系へと移行していました。土地に対しては、従来の「租」に代わって、国ごとに定められた様々な産物(米、絹、塩など)を納める「官物」が課されるようになりました。また、人に対しては、様々な名目で不定期に課される労役や物品の提供である「臨時雑役」が課されました。これらは、国司が国内を統治するための主要な財源でした。
領家たちは、太政官や民部省といった中央の官庁に働きかけ、自らの荘園をこれらの課税対象から除外する許可を取り付けました。この許可を得た荘園を「官省符荘(かんしょうふしょう)」と呼びます。太政官符や民部省符という正式な公文書によって不輸の特権が認められた荘園です。また、国司が独自にその国内の荘園の不輸を認める「国免荘(こくめんのしょう)」もありました。
この不輸の権の獲得により、荘園からの収穫は、国家に納入されることなく、全て領家の収入となりました。これは荘園の経済的価値を飛躍的に高めるものであり、有力者たちが荘園の獲得・拡大にますます熱中する大きな動機となったのです。
3.1.2. 不入の権(ふにゅうのけん):行政的独立の特権
不入の権とは、国司の派遣する役人(**検田使(けんでんし)**など)が荘園内に立ち入って調査を行うことや、犯罪者を追捕することを拒否できる権利です。これは、単なる免税にとどまらず、国衙(地方政府)の行政権・警察権が荘園に及ばなくなることを意味し、荘園が国家の支配から独立した閉鎖的な領域となる上で決定的な役割を果たしました。
当初、不入の権は、犯罪者の隠匿を防ぐという名目で、寺社領などに限定的に認められていました。しかし、次第にその範囲は拡大し、荘園の所有者である領家が、荘園内の土地調査、徴税、裁判などを自ら行うようになります。荘園は、いわば「治外法権」の領域となったのです。
不輸・不入の特権を獲得した荘園は、もはや単なる私有地ではありません。それは、領家を頂点とする独自の支配秩序を持つ、独立した小国家のような存在へと変貌を遂げたのです。
3.2. 寄進地系荘園の隆盛
11世紀頃になると、荘園の形態として「寄進地系荘園」が主流となります。これは、土地の所有権が重層的に絡み合った、非常に複雑な荘園のあり方でした。
3.2.1. 開発領主の登場と土地の寄進
地方において、郡司などの地方豪族や富裕な農民の中には、自ら荒野を開墾し、私有地を拡大していく者たちが現れます。彼らを「開発領主(かいはつりょうしゅ)」と呼びます。彼らは、その土地の事実上の支配者でしたが、その地位は不安定でした。新任の国司が彼らの土地所有を認めず、公領として没収しようとしたり、近隣の豪族から武力で侵略されたりする危険が常にありました。
そこで開発領主たちは、自らの土地の支配権を安定させるため、その土地を中央の有力貴族や大寺社に「寄進」するという手段をとりました。寄進とは、土地の名目上の所有権を譲渡し、その見返りに保護を求める行為です。
3.2.2. 本家と領家の重層的支配構造
寄進を受けた中央の有力者(領家)は、その政治力を駆使して、寄進された土地に不輸・不入の特権を獲得します。これにより、国司の干渉を排除し、土地の支配を確実なものにしました。
さらに、領家はより権威のある皇族や摂関家などに、荘園から得られる収益の一部を納める見返りに、名義上の所有者になってもらうことがありました。この最上位の荘園領主を「本家(ほんけ)」と呼びます。例えば、地方の開発領主が中級貴族である領家に寄進し、その領家がさらに摂政・関白である藤原氏(本家)に寄進するといった具合です。
こうして、一つの荘園の上に、
- 本家(最上位の名義人、摂関家など)
- 領家(実質的な荘園領主、中央の貴族・寺社)
- 開発領主(現地管理者、荘官として任命される)
という重層的な権利関係が成立しました。開発領主は、土地を寄進する代わりに、領家から荘官(しょうかん)(預所、下司、公文など)に任命され、現地の管理・支配を任されました。彼らは、荘園内の農民(荘民(しょうみん))から年貢、公事(くじ)、夫役(ぶやく)といった税を徴収し、その一部を領家や本家に納め、残りを自らの収入としました。
この寄進地系荘園のシステムは、関係者それぞれに利益がありました。
- 開発領主: 国司の圧迫や他からの侵略を免れ、現地の支配者(荘官)としての地位を保てる。
- 領家: 何もせずとも全国各地の荘園から収益が得られる。
- 本家: 最も権威ある庇護者として、さらに大きな収益を確保できる。
この巧みなシステムによって、荘園は11世紀から12世紀にかけて爆発的に増加しました。特に藤原摂関家は、全国に広大な荘園を集積し、その莫大な経済力が政治的権勢の基盤となりました。「(藤原)頼通の時には、関白家の荘園、天下の半ばを過ぎたり」とまで言われるほどでした。
3.3. 国家の対応:公領(国衙領)の成立
荘園の急速な拡大は、国家財政の根幹を揺るがす事態でした。荘園が不輸の特権を獲得すればするほど、国司が徴税できる土地(公地)は減少し、国衙の収入は先細りになります。このままでは国家の統治機能が麻痺してしまいます。
そこで国司たち(彼らは「受領(ずりょう)」とも呼ばれ、私腹を肥やす者も多かったが、一方で国家の徴税システムを維持する責任も負っていた)は、荘園に対抗して、残された公地からの税収を確保・増徴するための方策を講じます。
3.3.1. 名田(みょうでん)体制の確立
国司は、管内の公地を「名(みょう)」と呼ばれる徴税単位に再編成しました。そして、その名の耕作と納税を、**田堵(たと)**と呼ばれる有力な農民に請け負わせました。田堵は、その名の納税責任者として国司から公的に認められ、その土地に対する安定した耕作権を得ました。彼らの名前が付けられた田地を「名田」と呼びます。
このシステムによって、国司は、逃亡などで把握が困難になった個々の公民からではなく、田堵という責任者から確実に税(官物・臨時雑役)を徴収できるようになりました。田堵は、自ら耕作するだけでなく、零細な農民を**作人(さくにん)**として使役し、彼らから地代を徴収して、国衙への納税分と自らの利益を確保しました。
3.3.2. 公領(国衙領)としての再編
こうして国司によって再編成され、名田体制の下で直接支配されるようになった公地は、もはや律令制下の公地とは性格を異にするものでした。それは、荘園という私領に対抗する、国家(国衙)の支配領域として明確に意識されるようになります。この領域を「公領(こうりょう)」または「国衙領(こくがりょう)」と呼びます。
これにより、11世紀後半から12世紀にかけての日本には、
- 有力貴族・寺社が支配する私的領域としての「荘園」
- 国司(朝廷)が支配する公的領域としての「公領」
という二つの異なる支配体系が並び立つことになりました。これが「荘園公領制」です。荘園と公領は、互いに領域を拡大しようと競合しあう関係にありましたが、その内部構造(名田を単位とし、有力農民が耕作を請け負う)においては、類似した点も多く見られました。
3.4. 荘園公領制の歴史的意義
荘園公領制の確立は、日本史における画期的な出来事でした。
第一に、それは土地支配における公私二元体制の確立を意味しました。天皇を頂点とする一元的な支配を目指した律令国家は完全に解体され、国家権力(公)と、それに匹敵する私的権力(私)が並び立つ、複雑で分権的な社会が到来したのです。
第二に、武士の台頭を促す土壌となりました。荘園や公領の境界をめぐる争いや、年貢の徴収をめぐるトラブルは絶えませんでした。荘園領主や国司は、これらの紛争を解決し、自らの支配を実力で維持するために、武芸に秀でた者たち、すなわち武士を雇うようになります。武士は、初めは荘官や国衙の役人として土地管理に携わっていましたが、やがてその武力を背景に、土地の支配権そのものを掌握していくことになります。
荘園公領制という、極めて不安定で流動的な土地支配の構造こそが、源平の争乱を経て、武士が新たな支配者として登場する鎌倉幕府の成立を準備したのです。次章では、その鎌倉幕府が設置した「地頭」が、この荘園公領制のあり方をいかに変質させていくかを見ていきます。
4. 地頭による荘園侵食
12世紀末、源頼朝による鎌倉幕府の樹立は、日本の権力構造に地殻変動をもたらしました。朝廷や貴族、寺社といった旧来の権威に加え、武士という新たな階級が、国家の支配者として確固たる地位を築いたのです。幕府の権力の基盤は、主従関係で結ばれた御家人たちの軍事力にありましたが、その力を全国の荘園・公領に及ぼす上で決定的な役割を果たしたのが「地頭(じとう)」の設置でした。もともとは荘園・公領の管理を円滑に進めるための役職でしたが、地頭に任命された御家人たちは、その地位を足がかりに、現地の土地と人民に対する支配権を徐々に、しかし確実に拡大していきます。この「地頭による荘園侵食」は、荘園公領制という中世の基本的な土地制度を内側から変質させ、武士の支配を盤石なものにしていくダイナミックな過程でした。
4.1. 地頭の設置とその権限
地頭の起源は、平氏政権期に遡るとも言われますが、全国的な制度として確立されたのは鎌倉幕府の成立によります。
4.1.1. 設置の経緯:頼朝の要求と朝廷の許可
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源頼朝は、戦後処理と国内の治安維持、そして自らの支配体制を確立するため、朝廷に対して重要な要求を行いました。それは、腹心である北条時政を通じて、後白河法皇に認めさせた「文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)」として知られています。
この勅許の核心は、頼朝が推薦する御家人を、全国の荘園・公領に地頭として設置する権利を朝廷が公的に認めたことにあります。(同時に、国ごとに守護を設置する権利も認められました)。
頼朝の表向きの名目は、謀反人である源義経・行家の追討でした。しかし、その真の狙いは、平家没官領(平家から没収した所領)だけでなく、全国の荘園・公領に幕府の人間を送り込み、その支配下に置くことにありました。これは、荘園領主(本家・領家)や国司の権益を侵害する可能性のある、極めて重大な要求でした。朝廷側もその意図を理解していましたが、平氏滅亡後の混乱を収拾し、頼朝の軍事力を頼らざるを得ない状況下で、これを認めざるを得なかったのです。
こうして、鎌倉殿(頼朝)の権威を背景とした地頭が、全国の土地に派遣されることになりました。これは、武家政権の支配力が、初めて公式に荘園・公領の内部に及んだことを意味する、画期的な出来事でした。
4.1.2. 地頭の職務と給与(得分)
地頭に任命されたのは、主に頼朝に忠誠を誓った御家人たちでした。彼らの公式な職務は、荘園・公領における以下の事項でした。
- 土地の管理: 田畑の状況を把握し、耕作を奨励する。
- 年貢の徴収と納入: 荘民から年貢・公事・夫役などを徴収し、定められた分を荘園領主や国司に納入する。
- 治安の維持: 荘園・公領内の犯罪を取り締まり、紛争を解決する。
これらの職務を遂行する見返りとして、地頭には給与(地頭得分(じとうしょとくぶん))を得る権利が認められていました。その内容は、1186年の定めによれば、以下の通りです。
- 兵粮米(ひょうろうまい): 田畑1段あたり5升の米を、軍事食料の名目で徴収する権利。
- 加徴米(かちょうまい): 田畑1反(=1段)あたり5升の米を徴収する権利。
- その他: 山野河海の産物の一部や、罪人の財産を没収する権利など。
当初、地頭の権限は、あくまで荘園領主や国司の下で現地の管理を代行し、決められた得分を得るという、限定的なものでした。彼らは、領主への年貢納入を保証する存在として位置づけられていたのです。しかし、現地の武力と幕府の権威を背景に持つ地頭が、この枠内に留まり続けることはありませんでした。
4.2. 地頭による荘園侵食の展開
地頭たちは、与えられた権限を最大限に活用し、時にはそれを逸脱して、荘園・公領に対する自らの支配権と収入を拡大しようとしました。この動きが「荘園侵食」です。
4.2.1. 承久の乱後の地頭設置拡大
地頭の侵食が全国規模で本格化する大きな契機となったのが、1221年の承久の乱です。後鳥羽上皇が、幕府執権・北条義時追討の兵を挙げましたが、幕府軍に完敗しました。
この乱の結果、幕府は後鳥羽上皇方の貴族や武士が所有していた約3000箇所もの所領を没収し、戦功のあった御家人たちを新たに地頭として任命しました(新補地頭(しんぽじとう))。これに対し、承久の乱以前から任命されていた地頭を**本補地頭(ほんぽじとう)**と呼びます。
新補地頭の得分は、幕府が新たに定めた基準(新補率法)に基づき、本補地頭よりも大幅に多くの権利が認められていました。
- 年貢: 田畑11町あたり1町の土地(免田(めんでん))の収穫物を地頭の収入とする。
- 加徴米: 田畑1段あたり5升の米。
- 山川収益の折半: 山や川からの収益を、領主と地頭で半分ずつ分ける。
- 地頭の管理地の年貢半分: 地頭が管理する土地の年貢の半分を地頭の収入とする。
この新補地頭が、特に朝廷や貴族の権力が強かった西日本に数多く設置されたことで、幕府の支配力は全国に浸透し、同時に荘園領主と地頭との間の紛争が激化する素地が作られました。
4.2.2. 侵食の具体的な手口
地頭は、様々な口実を設けて、荘園領主の取り分である年貢を横領したり、荘園の土地そのものを奪い取ったりしました。
- 年貢の未進・横領: 凶作などを理由に、領主へ納めるべき年貢をわざと滞納したり(年貢未進(ねんぐみしん))、徴収した年貢をそのまま自分のものにしたりする。
- 荘官職の乗っ取り: 荘園の管理実務を担っていた下司・公文といった荘官の地位を、武力を背景に奪い取る。
- 不正な検注: 土地の面積や等級を調査する検注(検田)を不正に行い、荘園の収穫量を少なく見積もって領主に報告し、差額を着服する。
- 荘民の支配: 荘園内の荘民を、領主の支配下から切り離し、あたかも自らの家臣であるかのように支配下に置く。
これらの行為は、当然ながら荘園領主との間で深刻な紛争(所領紛争)を引き起こしました。領主は、朝廷や幕府に訴えを起こしますが、現地の武力を掌握している地頭が有利な場合が多く、領主の権益は次第に失われていきました。
4.3. 荘園領主と地頭の妥協:所領の分割
絶え間ない紛争は、地頭にとっても、荘園領主にとっても望ましいことではありませんでした。そこで、両者の間で現実的な妥協策として行われるようになったのが、荘園の土地そのものを分割することでした。
4.3.1. 下地中分(したじちゅうぶん)
下地中分とは、荘園の土地(下地)を、領主と地頭の間で物理的に分割し、それぞれが独立した支配地として互いに干渉しないことを取り決める和与(和解)です。
荘園絵図などに境界線を引いて分割し、一方を領主分、もう一方を地頭分としました。地頭は、地頭分の土地から上がる収益の全てを自らのものとすることができ、領主への年貢納入義務もなくなりました。その代わり、領主分の土地には一切手出しをしないことを約束しました。
この下地中分は、領主にとっては荘園の半分を失うことを意味しますが、残りの半分の支配を確実にできるという利点がありました。地頭にとっても、紛争を続けるコストを考えれば、土地の完全な支配権を得られることは魅力的でした。鎌倉時代中期から後期にかけて、この方法は広く行われ、多くの荘園が分割されていきました。
4.3.2. 地頭請(じとううけ)
もう一つの妥協策が地頭請です。これは、荘園の土地を分割するのではなく、荘園全体の支配と年貢徴収を地頭に完全に委任する契約です。
地頭は、領主に対して、毎年一定額の年貢を納めることを約束(請け負う)します。これを請負年貢といいます。その約束さえ守れば、荘園の経営は全て地頭に任され、請負年貢を上回る収益は全て地頭のものとなりました。
領主にとっては、現地の経営に煩わされることなく、毎年安定した収入を確保できるというメリットがありました。一方、地頭にとっては、経営手腕次第で大きな利益を上げることが可能であり、荘園に対する事実上の支配権を確立することができました。しかし、一度地頭請が成立すると、領主の支配は名目的なものとなり、荘園の経営実態から切り離されてしまうため、長期的には地頭による支配の既成事実化を一層進める結果となりました。
4.4. 地頭支配の定着とその影響
下地中分や地頭請といった手段を通じて、地頭は荘園・公領における単なる管理者から、土地と人民を直接支配する**一円領主(いちえんりょうしゅ)**へと成長していきました。本家・領家・荘官といった重層的な権利関係は解体され、地頭による一元的な支配(一円支配)へと収斂していったのです。
この地頭による荘園侵食と一円支配の確立は、日本社会に大きな影響を与えました。
- 荘園公領制の変質・解体: 荘園領主(貴族・寺社)の権益は大幅に縮小し、荘園公領制は実質的に崩壊へと向かいました。権力と富の源泉は、名目的な権威から、土地の「実効支配」へと完全に移行したのです。
- 武士階級の経済基盤の確立: 全国の土地が、地頭となった御家人たちの経済的基盤となりました。これにより、武士階級は、単なる軍事専門家集団から、名実ともに日本の支配階級へと成長しました。
- 地方分権的な社会構造の深化: 地頭たちは、それぞれの所領において独立した領主として振る舞うようになり、日本の社会構造は、中央の権力が弱まり、地方の領主が割拠する、より分権的な性格を強めていきました。この流れは、やがて室町時代の守護大名、そして戦国大名の登場へと繋がっていきます。
鎌倉幕府が設置した地頭という制度は、結果的に、荘園公領制という中世前期の支配体制を突き崩し、武士が土地を直接支配する新たな社会を到来させる、強力なエンジンとなったのです。そしてこの動乱の中で、土地と深く結びついた農民たちもまた、新たな共同体を形成し、歴史の舞台に主体的に登場することになります。
5. 惣村の土地所有
鎌倉時代を通じて続いた地頭による荘園侵食は、本家・領家といった旧来の荘園領主の権威を失墜させ、土地支配のあり方を大きく変えました。さらに、14世紀の南北朝の動乱は、社会の流動化を一層加速させ、幕府や守護大名といった上位権力の支配が、村落レベルまで及ばない状況を生み出しました。このような権力の空白期に、歴史の表舞台に登場したのが、強固な自治的・地縁的結合を遂げた農民たちの共同体、「惣村(そうそん)」です。彼らは、自らの手で村の運営を行い、用水の管理や自警活動、さらには領主への年貢納入までを共同で担いました。特に、村の共有地や耕作地の管理に見られる惣村の土地所有のあり方は、それまでの支配者からの一方的な支配とは一線を画すものであり、中世後期の日本社会の底流をなす重要な変化でした。
5.1. 惣村の成立と背景
惣村は、鎌倉時代後期から南北朝時代(14世紀)にかけて、主に畿内とその周辺地域で形成され、室町時代に全国へと広がっていきました。その成立には、いくつかの社会経済的な要因が深く関わっています。
5.1.1. 農業生産力の向上
鎌倉時代には、農業技術に著しい進歩が見られました。
- 鉄製農具の普及: 鎌倉時代後期になると、鉄製の鍬(くわ)や鋤(すき)が広く農民の間に普及し、耕作の効率が飛躍的に向上しました。
- 牛馬耕の一般化: 牛や馬に犂(すき)を引かせて田を耕す牛馬耕が、畿内を中心に一般化しました。これにより、より深く土地を耕すことが可能になり、地力が向上しました。
- 肥料の使用: 草木を刈って腐らせた刈敷(かりしき)や、人糞尿を下肥(しもごえ)として利用するなど、土地の生産力を維持・向上させるための肥料の使用が始まりました。
- 二毛作の普及: 畿内などの温暖な地域では、米を収穫した後の田で麦を栽培する二毛作が普及し、土地の利用効率が高まりました。
これらの技術革新によって農業生産力が高まり、農民たちは自らの生活を維持するだけでなく、余剰生産物を生み出すことができるようになりました。この経済的な自立が、彼らの発言力を高め、自治的な結合を促す基盤となったのです。
5.1.2. 村落内の階層分化と地縁的結合の深化
経済的な発展は、同時に村落内部の階層分化をもたらしました。村落の中には、比較的広い名田を保有し、村の運営を主導する名主(みょうしゅ)や乙名(おとな)・沙汰人(さたにん)といった有力農民(彼らを村落上層部と総称します)が登場しました。その一方で、土地を持たず、名主から土地を借りて耕作する小作人や、日雇い労働に従事する農民も存在しました。
しかし、彼らは階層の違いを超えて、同じ村に住む者として、共同で利用する水路や山林(入会地(いりあいち))の管理、祭祀の執行、外敵からの防衛(自検断(じけんだん))など、様々な場面で協力する必要がありました。特に、農業に不可欠な用水の管理と配分は、村全体の利害に関わる最重要事であり、村人全体の合意形成が不可欠でした。
こうした共同作業を通じて、血縁(一族)中心の結びつきから、同じ地域に住むという地縁に基づいた強固な共同体意識が育まれていきました。この地縁的な村落共同体が、惣村の母体となります。
5.1.3. 守護・地頭の支配への対抗
南北朝の動乱期には、守護や地頭といった領主層も、絶え間ない戦争に明け暮れていました。彼らは、自らの軍事費を賄うため、荘園や公領に対して厳しい年貢の取り立てを行いました。また、守護が領国内の荘園の年貢を兵粮米として半分徴収する**半済(はんぜい)**なども横行しました。
このような領主による過酷な収奪に対し、農民たちは個々人で対抗するのではなく、村として団結して交渉し、時には実力で抵抗する必要に迫られました。村全体でまとまって年貢を納入する「村請(むらうけ)」の制度は、こうした領主との交渉の中から一般化していきました。団結することで、農民たちは領主に対して一定の交渉力を持つに至ったのです。
5.2. 惣村の運営と自治
惣村は、領主の支配を受けながらも、その内部では高度な自治を行っていました。
5.2.1. 寄合(よりあい)と惣掟(そうおきて)
惣村の最高意思決定機関は、寄合と呼ばれる村民の会議でした。寄合では、村の有力者である乙名や沙汰人を中心に、村の運営に関するあらゆる事柄が話し合われました。用水の配分、入会地の利用ルール、年貢の割り当て、村の費用の徴収、村内での紛争の解決方法など、その議題は多岐にわたりました。
そして、寄合で決定された事項は、「惣掟」や「村掟」と呼ばれる成文の規則として定められました。掟を破った者には、罰金や村八分、追放といった厳しい制裁が科されることもあり、惣村の秩序を維持するための規範として機能しました。惣掟は、農民たちが自ら作り上げた「憲法」ともいえるものであり、彼らの自治意識の高さを示しています。
5.2.2. 宮座(みやざ)と祭祀
惣村の精神的な支柱となったのが、村の鎮守(ちんじゅ)の祭祀を共同で執り行う組織である「宮座(みやざ)」です。宮座は、村の有力農民によって構成されることが多く、祭りの運営を通じて村の団結を強める役割を果たしました。祭りは、単なる宗教行事であるだけでなく、村人全体の連帯感を確認し、惣村という共同体を再生産する重要な社会的イベントだったのです。
5.3. 惣村における土地所有の形態
惣村の自治の根幹には、土地との関わり方がありました。惣村における土地所有は、単一の所有者が絶対的な権利を持つ近代的な所有権とは異なり、共同体的で重層的な性格を持っていました。
5.3.1. 惣有(そうゆう):村の共有財産
惣村は、村のメンバーが共同で利用・管理する財産を持っていました。これを惣有財産と呼びます。
- 入会地(いりあいち): 肥料にする草(刈敷)や、燃料にする薪(たきぎ)を採取するための山林原野。入会地の利用は、村の掟によって厳しく管理されており、村人全体の生活を支える上で不可欠な存在でした。
- 惣有田(そうゆうでん): 惣村が村の共有財産として所有する田地。この田地からの収穫は、村の運営経費(祭りの費用、水路の修理費など)に充てられました。
これらの惣有財産は、村という共同体(「惣」)が所有するものであり、その管理・運営は寄合によって決定されました。これは、個人所有とは異なる、共同体による土地所有のあり方を示すものです。
5.3.2. 村請(むらうけ):年貢納入の共同責任
惣村の成立と密接に関わるのが、**村請制(むらうけせい)**の一般化です。これは、荘園領主や守護といった支配者に対して、村が一体となって年貢納入を請け負う制度です。
それ以前は、領主が名主などの個人に対して年貢を課していましたが、村請制では、領主は村全体に対して年貢の総額を課します。村は、寄合を開いて、村内の個々の農民の耕作面積や田地の等級に応じて、納入すべき年貢額を割り当てました。そして、村として責任を持って年貢を取りまとめ、一括して領主に納入したのです。
この制度は、領主側にとっては、個々の農民から取り立てる手間が省け、安定して年貢を確保できるという利点がありました。一方、農民側にとっては、領主の役人が村内に立ち入って個別に徴税する「個別徴収」を排除し、村の自治を守る防波堤となりました。年貢の割り当てという村の最重要事を、農民たちが自らの手で決定できるようになったことは、惣村の自治権の核心部分をなしていました。
村請制の確立により、領主の支配は、村という単位を介した間接的なものへと変化しました。土地に対する領主の支配権は後退し、村の共同管理権が前面に出てくることになったのです。
5.4. 惣村の抵抗と歴史的意義
惣村は、領主の過酷な支配に対して、団結して抵抗することもありました。年貢の減免を求めて領主と交渉し、要求が受け入れられない場合には、集団で耕作を放棄して逃亡する「逃散(ちょうさん)」や、武力で蜂起する「土一揆(つちいっき・どいっき)」といった実力行使に訴えることもありました。
特に、1428年に近江で起こった正長の土一揆や、1485年に南山城で国人(こくじん)と農民が守護大名畠山氏の軍勢を追い払い、8年間にわたって自治を行った山城国一揆などは、惣村を基盤とした民衆のエネルギーが、支配者の権力を揺るがすほどの力を持っていたことを示しています。
惣村の成立と展開は、中世後期の日本史における極めて重要な画期です。それは、単に支配の対象であった農民が、歴史を動かす主体として登場したことを意味します。彼らが築き上げた自治と共同体的な土地所有のあり方は、それまでの荘園公領制を根底から変質させました。
この惣村の力が、戦国大名による一円的な領国支配の中で、どのように位置づけられ、変容していくのか。そして、豊臣秀吉による太閤検地が、この惣村のあり方にどのような決定的な変化をもたらすのかが、次なる時代の大きなテーマとなります。
6. 太閤検地と石高制
15世紀後半から16世紀末にかけての戦国時代は、守護大名やその家臣、国人領主たちが、互いに領土を奪い合う、まさに下剋上の時代でした。この動乱の中で、荘園公領制は完全に崩壊し、各地の戦国大名は、自らの領国を直接的かつ一元的に支配する「一円支配」を確立しようと試みました。しかし、土地の所有関係は依然として複雑であり、惣村のような農民の自治的な結合も根強く残っていました。この中世以来の複雑な土地支配のあり方を根本から清算し、近世という新たな時代の支配体制の礎を築いたのが、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が実施した「太閤検地(たいこうけんち)」です。太閤検地は、全国の土地を統一された基準で測量し、その生産力を米の量(石高)で表示することで、土地と農民を直接的に把握する画期的な政策でした。これにより確立された「石高制(こくだかせい)」は、その後の江戸幕府にも受け継がれ、約300年にわたる幕藩体制の経済的基盤となるのです。
6.1. 戦国大名の領国支配と検地
太閤検地は、豊臣秀吉による独創的な政策というわけではありません。その萌芽は、戦国大名たちが自らの領国で行った検地に見出すことができます。
6.1.1. 一円支配の必要性
戦国大名は、富国強兵を推し進め、戦争を勝ち抜くために、領国内の人的・物的資源を最大限に動員する必要がありました。そのためには、領内の土地の広さ、質、そして耕作者を正確に把握し、それに基づいて年貢や軍役を確実に徴収する体制を築かなければなりませんでした。
しかし、戦国大名の領国は、旧来の荘園や公領、国人領主の所領などが複雑に入り組んだままでした。一つの村の中に、複数の領主の土地が混在していることも珍しくありませんでした。このような重層的で複雑な権利関係を放置したままでは、効率的な資源の動員は不可能です。そこで戦国大名たちは、領国内の土地所有関係を整理し、自らの支配下に一元化することを目指しました。
6.1.2. 指出検地(さしだしけんち)
戦国大名が行った検地の多くは、「指出検地」と呼ばれる方法でした。これは、大名が家臣や農民(村)に対して、自己申告で土地の面積、収穫量、耕作者などを記した検地帳を提出させる方式です。
大名が直接役人を派遣して測量するのに比べ、手間やコストがかからないという利点がありましたが、申告内容が不正確であったり、意図的に過少申告されたりする危険性がありました。それでも、指出検地は、大名が領内の土地状況を大まかに把握し、家臣への知行(ちぎょう)の割り当てや、年貢・軍役の基準を定める上で、重要な役割を果たしました。今川氏の『今川仮名目録』や武田氏の検地などがその例として知られています。
しかし、指出検地はあくまで自己申告に依存する方法であり、中世的な複雑な権利関係を完全に解体するには至りませんでした。土地支配のあり方を根底から変革するためには、より強力で、全国統一の基準に基づいた検地が必要とされたのです。
6.2. 太閤検地の実施とその画期性
1582年、織田信長が本能寺の変で倒れた後、その後継者として台頭した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、急速に天下統一事業を進めます。その過程で、1582年から全国で本格的に実施されたのが太閤検地です。この検地は、それまでの戦国大名の検地とは一線を画す、いくつかの画期的な特徴を持っていました。
6.2.1. 全国統一の基準の導入
太閤検地の最大の特徴は、全国で統一された基準を用いて実施された点です。
- 統一された測量単位: それまで地域によってまちまちだった土地の面積の単位を統一しました。1反(段)を300歩(ぶ)、1町を10反と定め、測量に使う**検地竿(けんちざお)**の長さも統一されました。
- 京枡(きょうます)の使用: 年貢米などを計量する枡(ます)の大きさを、当時の標準であった京枡に統一しました。これにより、全国どこでも同じ基準で収穫量を計ることができるようになりました。
- 統一された石盛(こくもり): 田畑の等級(上・中・下・下々)を調査し、その等級に応じて1反あたりの標準収穫高(石盛)を定めました。例えば、上田は1.5石、中田は1.3石といった具合です。
これにより、日本全国のあらゆる土地の生産価値が、「石高」という米の量を基準とした客観的な数値で表現されることになったのです。
6.2.2. 検地役人による直接測量
太閤検地は、自己申告に頼る指出検地とは異なり、秀吉が任命した検地奉行(石田三成、増田長盛、長束正家など)が直接現地に赴き、竿を使って田畑一枚一枚を測量する「竿入(さおいれ)」「縄打(なわうち)」という方法で行われました。これにより、隠し田などをなくし、より正確な土地の状況を把握することが可能となりました。
6.2.3. 検地帳への登録と一地一作人の原則
検地奉行は、測量結果を「検地帳」という台帳にまとめました。この検地帳には、一筆ごとの土地の面積、等級、石盛、そしてその土地を直接耕作している農民の名前が登録されました。
この検地帳に耕作者として登録された農民を「作人(さくにん)」と呼びます。太閤検地では、一つの土地に対して、直接耕作する作人のみを、その土地の占有者(事実上の所有者)として公的に認める「一地一作人(いっちいっさくにん)」の原則が徹底されました。
これにより、荘園制の時代から続いてきた、本家・領家・開発領主・作人といった、一つの土地に幾重にも重なっていた複雑な権利関係(「職(しき)の体系」)は、法的に完全に否定されました。土地の権利者は、直接の耕作者ただ一人となったのです。そして、検地帳に登録された作人(農民)は、その土地を耕作する権利を保障される一方で、その土地の石高に応じて算出される年貢を、領主(秀吉やその配下の大名)に直接納める義務を負うことになりました。
6.3. 石高制の確立とその影響
太閤検地によって、全国の土地の生産力が石高という統一された基準で把握され、その土地と直接の耕作者(農民)が結びつけられました。この石高を基準とする社会経済システムが「石高制」です。石高制の確立は、日本社会に根底からの変革をもたらしました。
6.3.1. 荘園制の完全な解体
一地一作人の原則の確立は、中世を通じて日本の土地支配の根幹であった荘園制に、とどめを刺すものでした。貴族や寺社が荘園領主として持っていた中間的な権利は全て否定され、彼らは土地との直接的な結びつきを失いました。これにより、土地支配は、領主(大名)が農民を直接支配するという、一元的な構造へと完全に移行したのです。
6.3.2. 兵農分離の完成
秀吉は、検地と並行して「刀狩」(1588年)を実施しました。これは、農民が武器を所有することを禁じ、一揆を防ぐことを目的としていました。太閤検地によって農民は土地に縛り付けられ、刀狩によって武装解除されたことで、武士と農民の身分が明確に分離される「兵農分離」が完成しました。
- 武士: 土地の直接支配から切り離され、主君である大名から、その石高(禄高)に応じた俸禄(ほうろく)米を受け取ることで生活する、城下町に集住する支配階級。
- 農民: 土地を耕作し、石高に応じた年貢を納める被支配階級。
この明確な身分制度は、近世社会の安定の基礎となりました。
6.3.3. 石高制に基づく国家体制(幕藩体制)
太閤検地で確定された全国の総石高(約1850万石と推定される)は、豊臣政権、そして後の江戸幕府の支配体制の根幹となりました。
- 大名の統制: 大名の領地の大きさは、全て石高で表示されました(例:「加賀百万石」)。幕府は、この石高に応じて、大名に軍役(参勤交代や手伝普請など)を課し、その力を統制しました。
- 家臣団の編成: 大名は、自らの家臣である武士に、その身分や功績に応じて石高で示される知行地(地方知行)や、蔵米(蔵米取)を与えました。
- 村の単位化(村高): 検地帳は村ごとに作成され、村内の田畑の石高を合計したものが、その村の総石高(村高(むらだか))となりました。領主は、この村高を基準に、村全体に年貢を課しました(村請制)。
このように、石高は、単なる生産量の指標にとどまらず、軍事力、身分、支配関係の全てを規定する、近世社会の「共通言語」となったのです。
6.4. 太閤検地の歴史的意義
太閤検地とそれによって確立された石高制は、中世と近世を分かつ、日本史上最大級の社会変革でした。
それは、中世以来の複雑で流動的だった土地所有関係を「リセット」し、領主(武士)が農民を直接支配するという、近世的な支配構造を創出しました。農民は、土地の耕作権を保障される代わりに、土地に縛り付けられ、年貢を納める存在として固定化されました。一方で、惣村が持っていた自治権の一部は、村請制という形で温存されつつも、その土地所有のあり方は大きく変容し、領主の厳格な管理下に置かれることになりました。
この太閤検地によって築かれた石高制という強固な土台の上に、徳川家康は江戸幕府を開き、260年以上にわたる泰平の世、すなわち幕藩体制を現出させることになります。次章では、この石高制の下で、近世の村がどのような構造を持ち、人々がどのように暮らしていたのかを具体的に見ていきます。
7. 近世の村落構造
太閤検地と石高制の確立は、日本の村のあり方を根底から変えました。中世の惣村が持っていた自治的な性格は、領主による強力な支配体制の下で変容し、近世的な「村(むら)」へと再編成されたのです。この近世の村は、単に農民が住む場所というだけでなく、幕藩体制という巨大な支配システムを末端で支える、極めて重要な行政単位であり、年貢徴収の基本単位でもありました。村高を基準とする村請制、本百姓を中心とした階層構造、そして五人組といった相互監視制度。これらの特徴を持つ近世の村落構造を理解することは、江戸時代の社会と経済、そして人々の生活の実態を解き明かす鍵となります。
7.1. 幕藩体制下の村の位置づけ
江戸幕府と各藩からなる幕藩体制は、武士が農民を支配する社会です。その支配を、全国津々浦々にまで及ぼすため、村は極めて重要な役割を担っていました。
7.1.1. 村請制と年貢徴収の単位
江戸時代の村は、領主(幕府または藩)に対する年貢納入の共同責任を負う単位でした。この制度は、中世の惣村から引き継がれた「村請制(むらうけせい)」ですが、その性格は大きく変化していました。
領主は、太閤検地で定められた村全体の石高(村高)を基準に、年貢の総額を決定し、村に対して一括で課税しました。村は、村役人を中心に、村内の個々の農民(本百姓)が持つ土地の石高に応じて年貢を割り振り、それを取りまとめて領主に納入する責任を負いました。もし村内の誰かが年貢を納められない場合、他の村人が連帯してその分を負担しなければなりませんでした。
この村請制は、領主側にとっては、個々の農民から直接徴税する手間を省き、村に責任を負わせることで、安定的に年貢を確保できる効率的なシステムでした。一方で、村にとっては、領主の役人の直接的な介入をある程度排除し、村内部の運営に関する自治(村方自治)を維持する基盤ともなりました。しかし、その自治は、あくまで年貢を確実に納めるという義務を果たすための、限定的なものでした。
7.1.2. 村方三役(むらかたさんやく):村の運営者
村の運営と年貢の徴収は、村方三役と呼ばれる村役人によって担われました。
- 名主(なぬし)/庄屋(しょうや): 村の最高責任者。領主からの命令を村内に伝達し、年貢の割り当てと徴収、戸籍の管理(宗門人別改帳の作成)、村内の紛争の調停など、村の行政全般を取り仕切りました。多くは村で最も有力な本百姓が世襲で務めました。関東では名主、関西では庄屋と呼ばれることが多かったです。
- 組頭(くみがしら): 名主・庄屋を補佐する役職。村をいくつかの組に分け、その組の責任者として、年貢の徴収や命令の伝達にあたりました。
- 百姓代(ひゃくしょうだい): 村役人の業務を監視し、一般の百姓の意見を代表する役職。村役人の不正を防ぎ、村政の公平性を保つ役割が期待されました。
これらの村役人は、領主の支配の末端を担う存在であると同時に、村の利益を代表するリーダーでもありました。彼らのリーダーシップの下で、村という共同体は運営されていたのです。
7.2. 村の階層構造
近世の村は、決して平等な社会ではありませんでした。検地帳に土地の所持者として登録されているかどうかを基準に、明確な階層構造が存在しました。
7.2.1. 本百姓(ほんびゃくしょう):村の中核
村の正式な構成員とされたのが「本百姓」です。彼らは、検地帳に登録された田畑(高請地(たかうけち))を持ち、領主に対して年貢を納める義務(高役(たかやく))を負っていました。
その見返りとして、本百姓は土地を耕作する権利(事実上の所有権)を保障され、村の運営(寄合)に参加する権利を持っていました。また、用水や入会地といった村の共有資源を利用する権利も認められていました。村方三役に選ばれるのも、基本的には有力な本百姓でした。彼らは、重い年貢負担に苦しみながらも、近世の村落社会を支える中核的な存在だったのです。
しかし、本百姓の土地所有権は、近代的な所有権とは異なり、大きな制約がありました。幕府は、農民が土地を失って没落し、年貢の徴収が滞ることを防ぐため、1643年に「田畑永代売買の禁令(でんぱたえいたいばいばいのきんれい)」を発布しました。これにより、本百姓は自らの田畑を自由に売買することが原則として禁止されました。また、土地を分割相続することで経営が細分化し、不安定になることを防ぐ「分地制限令」も出されました。これらの政策は、本百姓体制を維持し、安定した税収を確保しようとする幕府の意図を反映しています。
7.2.2. 水呑百姓(みずのみびゃくしょう)とその他の階層
一方、検地帳に土地を持たない農民も数多く存在しました。彼らは「水呑(みずのみ)百姓」や「無高(むだか)」と呼ばれました。彼らは、本百姓から土地を借りて耕作する小作人となったり、農業以外の雑業や日雇い労働で生計を立てたりしていました。
水呑百姓は、土地を持っていないため、原則として村の運営に参加する権利がなく、入会地などの利用も制限されるなど、村内では低い身分に置かれていました。しかし、彼らも村の一員として、国役や村役といった雑多な負担(諸役)は課されました。
時代が下るにつれて、商品経済が農村に浸透すると、本百姓の中にも土地を手放して水呑百姓に転落する者が出る一方、富を蓄積して土地を集め、小作人を使って大規模な農業経営を行う豪農も出現し、村の階層分化はさらに進んでいきました。
7.3. 村の統制と共同体機能
幕藩体制は、村が領主への義務を確実に果たすよう、様々な制度を設けて村を統制しました。
7.3.1. 五人組(ごにんぐみ)制度
五人組は、隣接する五戸程度の家を一つの組とし、相互に監視させ、犯罪の防止や年貢の完納に連帯責任を負わせる制度です。組内の一戸が年貢を滞納したり、犯罪を犯したり、あるいは禁教であったキリシタンであることが発覚したりした場合、他の四戸も連帯して処罰されました。
この制度は、農民の間に相互監視の目を光らせることで、反乱や逃亡を防ぎ、社会秩序を維持するための強力な装置として機能しました。人々は常に隣人の目を気にしながら生活することを強いられ、幕府の支配は村の隅々にまで浸透していったのです。
7.3.2. 村法(そんぽう)と共同作業
一方で、村は内部の秩序を維持するための独自のルールを持っていました。これは「村法」や「村掟」と呼ばれ、寄合での合意に基づいて定められました。用水路の維持管理、入会地の利用、祭りの運営など、村の共同生活に関わる様々な事柄が規定されていました。
また、水路の掃除(江ざらえ)や、道の普請など、村人総出で行う共同作業も数多くあり、こうした活動を通じて、村の共同体意識は育まれていきました。五人組のような上からの統制だけでなく、こうした内発的な共同体の機能もまた、近世の村を支える重要な要素だったのです。
7.4. 近世村落の変容
260年以上にわたる江戸時代を通じて、村の姿も静かに変化していきました。特に江戸時代中期以降、商品作物(綿、菜種、藍、茶など)の栽培が盛んになると、農村にも貨幣経済が深く浸透します。
これにより、豪農のように富を蓄える者が現れる一方で、価格の変動などによって経営に失敗し、土地を手放して小作人に転落する本百姓も増加しました。田畑永代売買の禁令はありましたが、実際には質入れ(質地)という形で、土地の所有権が事実上移動することが横行しました。こうして、村の階層分化はますます進行し、地主と小作人という関係が広まっていきます。
また、村内で解決できない紛争や、領主の不当な支配に対して、村が団結して領主に訴え出る「村方騒動(むらかたそうどう)」や、複数の村が連合して大規模な一揆を起こす「百姓一揆」も、時代が下るにつれて頻発するようになります。
このように、近世の村は、幕藩体制を支える安定した基盤でありながら、その内側では常に社会経済的な変動の波に洗われ、変容し続けていました。この村落構造と、そこで進行していた地主-小作関係の拡大が、明治維新後の近代的な土地制度改革へと引き継がれていくことになります。
8. 地租改正と近代的土地所有権
1868年の明治維新は、日本の歴史における最大の転換点の一つです。徳川幕府を頂点とする封建的な幕藩体制は解体され、日本は欧米列強に伍する近代的な国民国家の建設へと向かいました。この壮大な国家改造事業を財政的に支え、資本主義経済の基礎を築く上で、避けては通れない課題が土地制度の抜本的な改革でした。江戸時代までの石高制に基づく複雑な土地所有と税制を解体し、近代的で安定した国家財源を確保すること。そのための大改革が、1873年(明治6年)に断行された「地租改正(ちそかいせい)」です。この改革は、日本で初めて土地の私的所有権を法的に確立し、金納による定率の地税制度を導入するという、画期的なものでした。しかし、それは同時に、多くの農民に新たな苦難を強いる結果ともなり、その後の日本社会に長く影響を及ぼす光と影の両面を持っていました。
8.1. 明治新政府の課題と改革の必要性
発足当初の明治新政府は、極めて脆弱な財政基盤の上に成り立っていました。旧幕府や各藩の財政は破綻状態にあり、統一された税制も存在しませんでした。近代国家として不可欠な、強力な軍隊の創設(富国強兵)や、産業の育成(殖産興業)を推し進めるためには、何よりもまず、安定的かつ巨大な国家歳入を確保する必要がありました。
8.1.1. 幕藩体制下の税制の限界
江戸時代の税制は、石高制を基本とする現物納(米納)でした。しかし、この制度には近代国家の財源としては致命的な欠陥がありました。
- 不安定な歳入: 年貢率は領主によって異なり、また米の収穫量に左右されるため、毎年の税収が不安定でした。豊作・凶作によって歳入が大きく変動するため、長期的な国家予算を組むことが困難でした。
- 物納の不便さ: 全国から集められた年貢米を換金し、政府の経費に充てるには、多大な手間とコストがかかりました。
- 不公平な負担: 土地の価値と年貢負担が必ずしも一致しておらず、不公平感が存在しました。
新政府は、これらの問題を解決し、貨幣経済を基本とする資本主義国家にふさわしい、近代的で合理的な税制を確立する必要に迫られていたのです。その答えが、土地の価値(地価)を基準に、貨幣で、定率の税を徴収する地租改正でした。
8.1.2. 改革への準備段階
地租改正という大事業は、いくつかの準備段階を経て進められました。
- 版籍奉還(はんせきほうかん)(1869年): 全国の藩主に、その領地(版)と人民(籍)を形式的に天皇へ返還させました。これにより、土地と人民は名目上、国家(天皇)のものであるという公地公民の理念が復活し、全国的な土地制度改革を行うための建前が整いました。
- 廃藩置県(はいはんちけん)(1871年): 全国の藩を廃止し、代わりに政府が任命する府知事・県令が治める府・県を設置しました。これにより、旧藩の独立性が完全に失われ、明治政府による中央集権的な統治体制が確立し、全国一律の改革を断行する基盤ができました。
- 田畑永代売買の解禁(1872年): 江戸時代に原則として禁止されていた土地の自由な売買を公的に認めました。これは、土地を個人の「私有財産」として位置づけ、市場で自由に取引される「商品」とすることを意味し、地価を算定する上での前提となる重要な措置でした。
これらの布石により、地租改正を実施するための政治的・社会的な条件が整えられていきました。
8.2. 地租改正の断行とその内容
1873年(明治6年)7月、政府は「地租改正条例」を布告し、地租改正事業を本格的に開始しました。そのスローガンは「旧来の歳入を減ぜず」というもので、政府は改革によって税収が以前より減ることはない、という方針を明確にしていました。
地租改正の核心は、以下の三つの大きな変更点に集約されます。
8.2.1. 課税基準の変更:収穫高(石高)から地価へ
最大の変更点は、課税基準が米の収穫高である石高から、土地の価格である地価へと変更されたことです。
政府は、全国の土地一筆ごとに、その土地の収益力(収穫量から種籾代などの経費を引いたもの)を調査し、それを基に公的な価格である地価を算定しました。この地価が、地租を計算するための新たな基準となったのです。これにより、商業地や宅地など、米を生産しない土地にも、その価値に応じた課税が可能となりました。
8.2.2. 納税方法の変更:物納から金納へ
第二に、納税方法が、米で納める物納から、貨幣で納める金納へと全面的に切り替えられました。これにより、農民は収穫した米を一度市場で売って現金化し、その現金で税を納める必要が生じました。政府にとっては、米価の変動リスクを農民に負わせ、安定した現金収入を確保できるという大きな利点がありました。
8.2.3. 税率の変更:変動率から定率へ
第三に、税率が、豊凶によって変動する検見法(けみほう)から、毎年一定の率を課す定率税へと変更されました。地租改正条例では、税率は「地価の3%」と定められました。
これにより、政府は豊作・凶作にかかわらず、毎年一定額の税収を見込めるようになり、国家財政は劇的に安定しました。しかし、農民にとっては、凶作で収穫がなくても、定められた額の税金を現金で納めなければならないという、極めて過酷な負担を意味しました。
8.3. 近代的土地所有権の確立と地券の発行
地租改正は、税制改革であると同時に、日本の土地所有制度における革命でもありました。
政府は、地価を算定した土地の所有者を確定し、その所有者に対して「地券(ちけん)」と呼ばれる証明書を発行しました。この地券には、土地の場所、面積、地価、そして所有者の氏名が記載されており、これが日本で初めて法的に認められた近代的な土地所有権の証書となりました。
地券を持つ者は、その土地を自由に売買、譲渡、担保設定することができました。これにより、土地は完全に個人の私有財産となり、資本主義的な経済活動の対象となったのです。江戸時代の「作人(農民)は土地を耕作する権利を持つが、所有権は領主にある」という封建的な土地所有観は、ここに完全に解体されました。納税の義務者も、従来の耕作者から、地券に記された土地所有者へと変更されました。
8.4. 地租改正がもたらした影響と矛盾
地租改正は、1881年(明治14年)頃までに全国でほぼ完了し、明治政府に安定的で巨大な財源をもたらしました。当初、国家歳入の8割以上を地租が占め、富国強兵・殖産興業政策を力強く支えました。近代国家の礎が、この改革によって築かれたことは間違いありません。
しかし、その一方で、地租改正は農村社会に深刻な問題を引き起こしました。
8.4.1. 農民の重税負担と地租改正反対一揆
政府が掲げた「旧来の歳入を減ぜず」という方針の下で定められた「地価の3%」という税率は、多くの農民にとって、江戸時代の年貢負担と変わらないか、むしろそれ以上の重税でした。特に、物価の変動や凶作のリスクを全て農民が負うことになったため、その負担感は非常に大きいものでした。
この重税に苦しむ農民たちの不満は、やがて全国的な「地租改正反対一揆」として爆発します。1876年(明治9年)には、三重県の伊勢地方で大規模な暴動(伊勢暴動)が発生し、その動きは愛知、岐阜、堺(現在の奈良県)へと波及しました。
これらの激しい抵抗運動に直面した政府は、ついに譲歩を迫られます。翌1877年(明治10年)、政府は地租率を3%から2.5%に引き下げることを決定しました。これにより、一揆は沈静化しましたが、農民の生活が根本的に改善されたわけではありませんでした。
8.4.2. 寄生地主制への道
地租改正後の農村では、新たな階層分化が急速に進行しました。現金での納税に対応できない農民や、凶作、あるいは1881年から始まった松方デフレ(松方正義による緊縮財政政策)による米価の暴落によって生活に困窮した農民たちは、自らの土地(地券)を担保に借金をし、返済できずに土地を手放さざるを得ない状況に追い込まれました。
その一方で、もともと裕福であった豪農や商人たちは、没落した農民から土地を安く買い集め、その土地を小作人に貸し出して高額な小作料を取り立てることで、さらに富を蓄積していきました。こうして、土地を所有せず小作料を支払う小作人と、自らは耕作せず小作料収入に依存して生活する地主という関係が、全国的に拡大していくことになります。
この「寄生地主制(きせいじぬしせい)」の展開は、地租改正がもたらした最も深刻な負の遺産でした。それは、農村に深刻な貧富の差をもたらし、社会不安の温床となり、20世紀の日本が抱える大きな社会問題へと繋がっていくのです。次章では、この寄生地主制がどのように展開し、日本社会に何をもたらしたのかを詳しく見ていきます。
9. 寄生地主制の展開
地租改正によって近代的な土地所有権が確立され、土地が自由に売買される商品となったことは、日本の資本主義化の出発点でした。しかし、それは同時に、農村社会のあり方を大きく変容させ、新たな社会問題を生み出す引き金ともなりました。重い地租負担や経済の激動の中で土地を手放した農民は、自らの土地を持たない小作人へと転落し、その受け皿となったのが、土地を買い集めて巨大な富を築く地主階級でした。この、少数の地主が多数の小作人を支配し、高額な小作料収入に依存する土地所有のあり方を「寄生地主制(きせいじぬしせい)」と呼びます。明治中期から昭和初期にかけて、日本の農村を覆い尽くしたこの制度は、単なる経済問題にとどまらず、社会構造や政治、さらには文化にまで深い影響を及ぼしました。寄生地主制の展開過程を理解することは、近代日本の光と影、特に農村が抱えた矛盾を解き明かす上で不可欠です。
9.1. 寄生地主制成立のメカニズム
寄生地主制は、地租改正直後から急速に進展しました。その背景には、いくつかの複合的な要因が絡み合っています。
9.1.1. 松方デフレと農民の没落
寄生地主制の展開を決定的に加速させたのが、1881年(明治14年)から大蔵卿・松方正義が進めた松方財政でした。西南戦争などで増発された不換紙幣を整理し、銀本位制を確立するためのこの緊縮財政政策は、深刻なデフレーション(松方デフレ)を引き起こしました。
米や繭(まゆ)などの農産物の価格は暴落しましたが、地租は地価を基準とする定額金納であったため、その負担は変わりませんでした。農民にとって、実質的な租税負担は数倍にも跳ね上がったのです。例えば、米価が半分になれば、地租を納めるために、以前の倍の量の米を売らなければなりません。
この過酷な状況下で、多くの中小農民は地租の納入に行き詰まり、生活のために借金を重ね、最終的には先祖伝来の土地を二束三文で手放さざるを得ませんでした。1883年から1890年の間に、土地を失って小作人になった農民は約37万人にのぼったと言われています。
9.1.2. 地主による土地集積
農民が手放した土地を買い集めたのが、村の有力者であった豪農、商人、高利貸しなどでした。彼らは、デフレ下で貨幣価値が上昇した恩恵を受け、有り余る資金を土地への投資に向けました。没落した農民から安価で土地を買い叩き、それを元の持ち主や他の土地を持たない農民に小作地として貸し付けたのです。
彼ら地主にとって、土地は極めて有利な投資対象でした。小作料は、依然として江戸時代からの慣行を受け継ぐ現物納(米で納める)が多く、その率は収穫の50%を超えることも珍しくないという高額なものでした(高率現物小作料)。地主は、集めた小作米を市場で有利な時に売却することで、莫大な利益を上げることができました。また、土地自体の価値(地価)も、日本の経済成長と共に上昇していくことが期待できました。
こうして、松方デフレ期を境に、日本の農地は急速に地主の手に集積されていきました。1887年(明治20年)には、全国の耕地の約40%が小作地となり、明治時代の終わりには、その割合は約45%に達しました。
9.2. 寄生地主の存在形態
「地主」と一言で言っても、その規模や性格は様々でした。
9.2.1. 階層:零細地主から巨大地主まで
地主階級の内部にも、大きな階層差がありました。数町歩の土地を貸し付ける程度の零細地主から、数十町歩を所有する中地主、数百町歩から数千町歩に及ぶ広大な土地を持つ**巨大地主(豪農地主)**まで、その規模は多岐にわたりました。
特に、新潟県の市島家・伊藤家、山形県の本間家といった巨大地主は、数千人の小作人を抱え、その地域の経済を支配するほどの絶大な力を持っていました。
9.2.2. 不在地主(ふざいじぬし)の増加
寄生地主制が成熟するにつれて、地主の性格も変化していきます。初期の地主は、自らも農業経営を行いながら、村に住み、地域のリーダー(名望家)として振る舞う在村地主が多くを占めていました。彼らは、学校や道路の建設に私財を投じるなど、地域の発展に貢献する側面も持っていました。
しかし、明治後期から大正時代にかけて、土地への投資だけで生活する「寄生的」性格を強め、自らは都市に住み、小作地の管理は支配人などに任せて、もっぱら小作料の送金だけを受ける不在地主が増加しました。彼らは、農業経営や農村の発展には関心を持たず、純粋な投資家として土地を所有していました。この不在地主の増加は、地主と小作人の人間的な関係を希薄化させ、両者の対立をより先鋭化させる一因となりました。
9.3. 寄生地主制下の農村社会
寄生地主制は、日本の農村社会の構造を決定づけ、様々な問題を生み出しました。
9.3.1. 小作人の悲惨な生活
小作人の生活は、極めて不安定で困窮していました。
- 高率小作料: 収穫の半分以上を現物で奪われるため、手元に残る米はわずかで、自分たちが食べる分にも事欠くことが多くありました。小作料を納めるために、他の雑穀を食べたり、借金をしたりする生活を強いられました。
- 不安定な地位: 小作契約は口約束による一年ごとの更新がほとんどで、地主の意向一つで、いつでも土地を取り上げられる危険性がありました。このため、小作人は地主に対して絶対的に従属的な立場に置かれました。
- 農業改良への意欲の欠如: 苦労して土地を改良し、収穫を増やしても、その多くが小作料として地主に吸い上げられてしまうため、小作人には生産性を向上させるインセンティブが働きにくく、日本の農業の近代化を遅らせる一因ともなりました。
9.3.2. 地主の政治的・社会的影響力
地主階級は、その強大な経済力を背景に、政治・社会の面でも大きな影響力を行使しました。彼らは、衆議院議員や貴族院議員となって国政に進出したり、地方議会や村政を牛耳ったりしました。初期の帝国議会は、地主階級の利益を代弁する「地主議会」の性格が強く、彼らに有利な政策がとられることが多かったのです。
彼らは、自らの小作料収入の基盤である米価を高値で維持するため、政府に対して外国産の安い米の輸入に制限をかけるよう強く働きかけました。この政策は、都市の労働者の生活を圧迫する一因ともなり、農村と都市の対立を生み出しました。
9.4. 小作争議の激化と寄生地主制の動揺
第一次世界大戦(1914-1918)を契機に、日本の社会は大きく変動します。大戦景気による工業化の進展は、都市に労働者を集中させ、デモクラシーの思想(大正デモクラシー)が広まりました。この新しい時代の空気は、農村にも及び、長年抑圧されてきた小作人たちの権利意識を覚醒させました。
ロシア革命(1917年)の成功も、彼らに大きな影響を与えました。小作人たちは、労働組合に倣って小作組合を結成し、地主に対して小作料の引き下げや、耕作権の安定を求めて団結して闘うようになります。これが「小作争議(こさくそうぎ)」です。
小作争議の件数は、1920年代に急増し、その闘争形態も、単なる嘆願から、地主への小作米の不納、デモ行進、さらには暴力的な衝突へとエスカレートしていきました。1922年には、全国的な組織である日本農民組合が結成され、争議はさらに組織化・大規模化しました。
政府は、当初は警察力で争議を弾圧していましたが、社会不安の拡大を恐れ、やがて調停へと方針を転換します。1924年には小作調停法を制定し、裁判所が地主と小作人の間に入って紛争を解決する道を開きました。しかし、これは対症療法に過ぎず、寄生地主制という構造そのものに手をつけるものではありませんでした。
昭和時代に入り、世界恐慌(1929年)の波が日本にも押し寄せると、農村は深刻な昭和農業恐慌に見舞われます。農産物価格は暴落し、小作人だけでなく、多くの中小地主も経営の危機に陥りました。農村の疲弊は極限に達し、これが青年将校による五・一五事件(1932年)など、軍部の台頭を招く社会的な土壌ともなりました。
このように、明治中期から日本の農村を支配してきた寄生地主制は、内部からの小作争議と、外部からの経済恐慌によって、その矛盾を露呈し、大きく揺らぎ始めました。この根深い構造問題の最終的な解体は、第二次世界大戦の敗戦という、国家体制そのものの崩壊を待たなければなりませんでした。それが、次章で見る「農地改革」です。
10. 農地改革と自作農創設
明治以来、半世紀以上にわたって日本の農村社会を規定してきた寄生地主制は、数多くの社会問題の根源となっていました。高率の小作料に苦しむ小作人の貧困、深刻な農村の階層対立、そしてそれが生み出す社会不安。これらの問題は、度重なる小作争議や昭和農業恐慌によって顕在化しましたが、地主階級の強い政治力を前に、抜本的な解決策が講じられることはありませんでした。この根深い構造問題に、最終的かつ劇的な形で終止符を打ったのが、第二次世界大戦の敗戦を契機として、連合国軍総司令部(GHQ)の強力な指令の下で断行された「農地改革(のうちかいかく)」です。この改革は、国家権力によって地主の土地を強制的に買収し、それを小作人に安価で売り渡すという、極めて強権的なものでした。その結果、寄生地主制は完全に解体され、日本の農村は、自らの土地を耕す「自作農(じさくのう)」が圧倒的多数を占める社会へと、歴史上例を見ないほどの短期間で変貌を遂げたのです。
10.1. 敗戦と改革の必要性
1945年8月、日本のポツダム宣言受諾による敗戦は、国内の政治・社会体制の全てを白紙に戻すほどのインパクトを持ちました。日本の占領統治にあたったGHQは、日本の非軍事化と民主化を最重要課題としました。
10.1.1. GHQの認識:寄生地主制と軍国主義
GHQは、日本の軍国主義が台頭した根源の一つが、疲弊しきった農村にあると分析しました。彼らの目に、寄生地主制は以下のように映りました。
- 封建的な搾取システム: 少数の地主が多数の小作人を支配し、高額な小作料を徴収する構造は、民主主義とは相容れない前近代的な封建制度である。
- 社会不安の温床: 農村の貧困と格差は、国民の不満を増大させ、それを国内問題から逸らすための対外侵略、すなわち軍国主義の拡大を許す社会的土壌となった。
- 食糧生産の阻害: 土地改良への意欲を失った小作農の存在が、日本の食糧生産性を低迷させ、戦争遂行能力にも影響を与えた。
この認識に基づき、GHQは、日本の民主化を推し進め、二度と軍国主義の脅威とならないようにするためには、その社会的基盤である寄生地主制を徹底的に解体する必要がある、と結論付けました。農地改革は、財閥解体、労働改革と並ぶ「三大経済改革」の柱として、占領政策の最優先課題に位置づけられたのです。
10.1.2. 第一次農地改革の試みとその挫折
日本政府も、敗戦直後から食糧増産と社会の安定化のために農地制度の改革が必要であることは認識していました。1945年(昭和20年)末、幣原喜重郎内閣は、戦前に立案されていた自作農創設案を基に、第一次農地改革案を策定し、改正農地調整法を成立させました。
しかし、その内容は、地主が所有できる小作地の上限を5町歩(北海道では20町歩)とするなど、多くの例外を認める不徹底なものでした。地主の抵抗も強く、改革は遅々として進みませんでした。この生ぬるい改革に対し、GHQは強い不満を表明します。1945年12月、GHQは日本政府に対して「農地改革に関する覚書(いわゆるマッカーサー書簡)」を手渡し、より抜本的かつ強制的な改革の断行を厳しく指令しました。
この指令により、日本政府は、もはや地主階級の利害に配慮する余地なく、GHQの意向に沿った徹底的な改革案を作成せざるを得なくなりました。
10.2. 第二次農地改革の断行
GHQの強力な後押しを受けた吉田茂内閣は、1946年(昭和21年)10月、第二次農地改革の根幹となる二つの法律、「自作農創設特別措置法」と、改正「農地調整法」を成立させました。これに基づき、1947年から1950年にかけて、前代未聞の大規模な土地所有権の移転が、国家の主導で実行されました。
10.2.1. 改革の仕組み:強制的な買収と売り渡し
第二次農地改革の仕組みは、極めてシンプルかつ強権的でした。
- 対象となる農地の画定:
- 不在地主の全小作地: 村に居住していない不在地主が所有する小作地は、面積にかかわらず全て買収の対象とされた。
- 在村地主の小作地: 村に住んでいる在村地主については、所有できる小作地の上限を1町歩(北海道では4町歩)に制限し、それを超える部分は全て買収の対象とされた。
- 自作地の上限: 地主が自ら耕作する土地(自作地)についても、上限を3町歩(北海道では12町歩)とし、それを超える部分は買収対象となった。
- 政府による強制買収:
- 上記の基準に基づき、政府が地主から農地を強制的に買収した。
- 買収価格は、1945年時点の公定価格を基準に算定された。しかし、戦後の激しいインフレーションにより、この価格は実勢価格とはかけ離れた、極めて安いものであった。地主にとっては、事実上の財産没収に近いものでした。
- 小作人への売り渡し:
- 政府が買収した農地は、それを実際に耕作していた小作人に対して、優先的に売り渡された。
- 売り渡し価格は、買収価格とほぼ同じ、非常に安い価格に設定された。また、支払いは30年間の年賦払いが認められ、小作人の負担は極めて軽いものでした。
この買収と売り渡しの実務は、市町村ごとに設置された農地委員会が担いました。農地委員会は、地主、自作農、小作人の各代表から構成されていましたが、選挙で選ばれる委員の構成は小作人に有利になっており、改革が円滑に進むよう配慮されていました。
10.2.2. 改革の成果と自作農体制の確立
農地改革は、絶大な権力を持つGHQを背景に、極めて迅速かつ大規模に実行されました。1950年までの約3年間で、全小作地の約8割にあたる約193万町歩の農地が地主から解放され、約475万戸の小作人が、自らの土地を持つ自作農へと生まれ変わりました。
その結果、日本の農村の姿は一変しました。改革前には全耕地の46%を占めていた小作地の割合は、改革後にはわずか10%程度にまで激減しました。かつて農村を支配した地主階級は、その経済的基盤を完全に失い、事実上解体されました。日本の農村は、圧倒的多数の小規模な自作農によって構成される「自作農体制」へと移行したのです。
10.3. 農地改革の歴史的評価
農地改革は、戦後日本のあり方を決定づけた、最も重要な改革の一つとして評価されています。その影響は、経済、社会、政治のあらゆる側面に及びました。
10.3.1. 肯定的な評価(光の側面)
- 農村の民主化と安定: 封建的な地主・小作関係をなくし、農民を土地に縛り付ける搾取から解放したことで、農村の民主化が大きく進展しました。農民の生活水準は向上し、社会の安定化に大きく貢献しました。
- 農業生産性の向上: 自らの土地を持つようになった農民は、土地改良や新しい農業技術の導入に意欲的に取り組むようになり、農業生産性は著しく向上しました。これは、戦後の食糧難を克服し、高度経済成長を支える上で重要な役割を果たしました。
- 内需の拡大: 農家の所得が向上したことで、彼らの購買力が高まり、耐久消費財などが農村にも普及しました。これは、国内市場(内需)を拡大させ、日本の経済成長を内側から支える力となりました。
- 保守勢力の安定基盤形成: 皮肉なことに、農地改革は共産主義勢力の拡大を防ぎ、戦後の保守政権(自由民主党)の安定した支持基盤を農村に作り出す結果ともなりました。土地を得て「一国一城の主」となった農民は、現状維持を望む保守的な層へと変化していったのです。
10.3.2. 否定的な評価(影の側面)
一方で、農地改革がもたらした問題点も指摘されています。
- 零細経営構造の固定化: 農地改革は、多くの自作農を生み出しましたが、そのほとんどが1町歩にも満たない零細経営でした。このため、大規模化による経営効率の向上が妨げられ、国際競争力のある強い農業を育成する上での課題を残しました。
- 兼業化の進行: 零細な農業経営だけでは生計を立てることが難しく、多くの農家は農業以外の仕事を持つ兼業農家となっていきました。これは、農業の担い手不足や後継者問題につながり、現代日本の農業が抱える構造的な問題の原因となっています。
- 地主への財産権侵害: 改革のプロセスが極めて強権的であり、インフレを考慮しない不当に安い価格で土地を強制買収したことは、地主の財産権を著しく侵害するものであったという批判もあります。
10.4. 結論:土地制度史の大きな区切り
古代の公地公民制と班田収授法から始まった日本の土地制度の歴史は、墾田永年私財法による私有の開始、荘園公領制という複雑な中世的支配、太閤検地による近世的支配への転換、そして地租改正と寄生地主制という近代的矛盾を経て、この農地改革によって一つの大きな終着点を迎えました。
農地改革は、日本の農村から「地主」という階級を消滅させ、耕作者が土地を所有するという、極めて egalitarian(平等主義的)な社会を創出しました。それは、戦後日本の安定と発展の礎となった一方で、現代の農業が直面する構造的な課題の出発点ともなりました。この改革の功罪を多角的に理解することは、現代日本社会の成り立ちそのものを考える上で、極めて重要な視点を与えてくれるのです。
Module 1:土地制度と経済基盤の変遷の総括:土地(くに)を制する者が時代を制す――支配と抵抗の千年史
本モジュールでは、古代律令国家による「公地公民」という壮大な理想から、戦後日本の根幹を形作った「農地改革」に至るまで、一千年以上にわたる土地制度の壮大な変遷を辿ってきました。その旅路は、単なる制度の移り変わりを追うものではなく、それぞれの時代において、権力がいかにして富の源泉である土地を掌握し、人民を支配しようとしたのか、そして、それに対して人々が時に従い、時に抵抗し、自らの生活と権利を確保しようとしてきたのか、という普遍的な闘争の歴史そのものでした。
公地公民の原則を打ち立てた律令国家は、やがて自ら発布した墾田永年私財法によって、荘園という私的領域の拡大を許します。荘園と公領がモザイク状に広がる中世の分権的社会は、武士という新たな階級の台頭を促し、地頭による「実効支配」が名目的な権威を凌駕していくダイナミズムを生み出しました。その混沌を「リセット」したのが、太閤検地と石高制という近世的な一元支配システムでした。それは、幕藩体制という長期安定政権の礎を築きましたが、同時に農民を土地に縛り付ける構造も内包していました。
明治維新は、地租改正によって土地を「商品」へと変え、近代的な所有権を確立しましたが、それは皮肉にも寄生地主制という新たな格差社会の温床となります。この深刻な矛盾に最終的な解決をもたらしたのが、敗戦という外部からの衝撃を契機とする農地改革でした。
この一連の流れから我々が学ぶべき最も重要なことは、土地制度とは、単なる経済基盤であるだけでなく、その時代の権力構造、社会階層、そして人々の価値観そのものを映し出す鏡であるという事実です。ある制度がなぜ生まれ、どのように機能し、そしてなぜ次の制度へと移行していったのか。その変遷の背後にある論理と力学を読み解く視点こそ、歴史を構造的に理解するための鍵となります。このモジュールで得た知見は、日本史の他のテーマ、例えば政治史や社会史、文化史を学ぶ上でも、全ての土台となる強固な知的基盤となるでしょう。