【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 8:宗教と思想の潮流(2) 近世・近代
本モジュールの目的と構成
社会の大きな変革は、常に新しい「思想」を揺り籠として生まれます。人々が自らの社会を、そして世界をどのように認識し解釈するのか。その「知のインフラ」は時代の精神を形作り、時には体制を根底から覆す革命のエネルギーともなります。本モジュールでは、日本の歴史が中世から近代へと最もダイナミックに、そして激しく揺れ動いた近世・近代という時代に焦点を当て、そこにいかなる思想の潮流が生まれ、ぶつかり合い、そして混ざり合っていったのかを探求します。
これは、単なる哲学者の名前や思想の名称を暗記する学習ではありません。徳川幕府の長期安定政権をイデオロギーの側面から支えた儒学の論理とは何だったのか。その公式の秩序に対し、人間の内面や日本の古典に真実を求めようとした思想家たちの挑戦とは何だったのか。そして西洋という巨大な「他者」との遭遇が、いかにして日本の知のあり方を根底から揺さぶり、幕末の激しい政治思想を生み出したのか。その知の格闘の軌跡を辿ります。
このモジュールを学び終える時、あなたは、幕末の志士たちがなぜ命を懸けて行動したのか、そして明治国家がなぜあのような形で建設されたのかを、その思想的な源流から理解することができるでしょう。近世から近代へ。それは刀と大砲だけがぶつかり合った時代ではありません。ペンと書物、そして情熱が激しく火花を散らした、壮大な思想の戦いの時代でもあったのです。
本モジュールは、以下の10のステップで構成されています。
- キリスト教の伝来と禁教: 戦国時代に日本社会へ大きな衝撃を与えた最初の西洋思想。その受容と、やがて徹底的な弾圧へと転換した背景を探ります。
- 儒学の官学化(朱子学): 江戸幕府の支配体制を理論的に支えた公式イデオロギー。その階層秩序を絶対化する論理構造を解明します。
- 陽明学: 朱子学の形式主義を批判し、人間の内面的な良知と実践(知行合一)を重んじたもう一つの儒学。なぜそれが反体制的な思想と見なされたのかを分析します。
- 古学: 朱子学や陽明学の解釈を排し、「論語」など古代の原典に直接立ち返ることを目指した儒学の革新運動を検証します。
- 国学の発展と本居宣長: 漢意(からごころ)を排し、『古事記』や『万葉集』の中に日本古来の純粋な精神(真心)を見出そうとした国学の思想と、その大成者・本居宣長の知的世界に迫ります。
- 復古神道: 国学をさらに宗教的・政治的に先鋭化させ、天皇中心の神権国家への復帰を主張した思想。それが幕末の尊王攘夷運動に与えた影響を考察します。
- 蘭学の発展: 鎖国下の唯一の窓、オランダを通じて流入した西洋の実践的な科学技術。それが日本の知識人の世界観をいかに変えたのかを分析します。
- 心学と庶民教育: 儒仏神の教えを融合し、商人の日常倫理を平易な言葉で説いた心学。江戸時代の豊かな庶民教育の一翼を担った思想の内容を解明します。
- 幕末の尊王攘夷思想: 「天皇を敬い、外国を打ち払え」。幕末の政治状況を席巻したこのスローガンが、いかなる思想的背景から生まれ、倒幕の巨大なエネルギーへと転化したのかを検証します。
- 明治の神仏分離と国家神道: 新政府が断行した急進的な宗教政策。千年続いた神仏習合を破壊し、天皇を現人神とする国家神道を創出するに至った思想的背景と、その帰結を考察します。
この壮大な知の冒険を通じて、近代日本を生み出した思想のDNAを解読していきましょう。
1. キリスト教の伝来と禁教
16世紀半ば、日本の戦国時代の動乱の只中に、鉄砲と共にもたらされた一つの新しい思想が、日本社会にこれまでにない大きな衝撃と波紋を広げました。それがキリスト教(カトリック)です。唯一絶対神への信仰、偶像崇拝の否定、そして全ての人間は神の前に平等であるというその教えは、八百万の神々を信じ、厳格な身分秩序の中に生きていた日本人にとって、まさに異次元の世界観でした。当初は貿易の利益などを目当てに一部の大名に歓迎されたこの新しい宗教は、やがて天下統一を進める中央権力によって国家の統一と秩序を脅かす危険な思想と見なされ、世界史上でも類を見ないほど厳しく徹底的な禁教政策の対象となるのです。キリスト教の伝来とその受容、そして最終的な受難の歴史は、日本が初めて西洋の精神文化と本格的に対峙した、最初の、そして最も劇的な出来事でした。
1.1. 鉄砲伝来とザビエルの来日
日本のキリスト教史は、1543年のポルトガル商人が種子島に漂着し鉄砲を伝えたことに始まります。この新しい武器が戦国の戦術を一変させたことは有名ですが、彼らがもたらしたものはそれだけではありませんでした。
1549年、イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸し、日本での本格的なキリスト教の布教活動が開始されます。彼はマラッカで出会った日本人ヤジロウの手引きで来日し、山口で大内義隆の保護を受けるなど各地で布教を試みました。
1.2. 戦国大名とキリスト教の受容
ザビエル以降も、ルイス・フロイスやガスパル・ヴィレラといった優れた宣教師たちが次々と来日し、布教活動を進めました。彼らの教えが特に九州地方の大名たちの間で受け入れられた背景には、宗教的な理由だけでなく、極めて現実的な政治・経済的な動機がありました。
- 貿易の利益(南蛮貿易): 当時のポルトガルやスペインの商船は、宣教師と一体となって行動していました。キリスト教を保護することは、彼らとの南蛮貿易を有利に進め、鉄砲や生糸といった貴重な輸入品を手に入れるための有効な手段でした。
- 仏教勢力への対抗: 領内で強大な力を持っていた仏教寺院(特に一向一揆など)に手を焼いていた大名にとって、仏教とは全く異なる論理を持つキリスト教は、その対抗勢力として利用価値がありました。
このような理由から、大村純忠(おおむらすみただ)(日本初のキリシタン大名)、大友宗麟(おおともそうりん)、有馬晴信(ありまはるのぶ)といったキリシタン大名が次々と誕生しました。彼らは領内に教会(南蛮寺)や神学校(セミナリオ)、コレジオを建設し、布教を積極的に支援しました。天正遣欧少年使節の派遣も、彼らの支援の下で行われました。
1.3. 統一権力とキリスト教への態度の変化
当初、織田信長はキリスト教に対して極めて好意的でした。彼は仏教勢力を敵視していたため宣教師を保護し、安土に教会を建てることを許可するなど、その布教活動を容認しました。
しかし信長の後を継ぎ、天下統一を目前にした豊臣秀吉の態度は一変します。
1.3.1. バテレン追放令(1587年)
秀吉は九州平定の過程で、キリシタン大名が長崎の地をイエズス会に寄進していたことや、日本人が奴隷として海外に売られている現実を目の当たりにし、キリスト教の背後にあるポルトガル・スペインの政治的・軍事的な野心に強い警戒感を抱きました。
1587年、秀吉は突如「バテレン追放令」を発布し、宣教師の国外退去を命じました。この時点ではまだ貿易は奨励しており、信者への弾圧も本格的なものではありませんでした。
1.3.2. サン=フェリペ号事件と26聖人殉教
秀吉の態度を決定的に硬化させたのが、1596年のサン=フェリペ号事件です。土佐に漂着したスペイン船の乗組員が、「スペインは宣教師をまず送り込み、その後軍隊で征服する」と発言したという報告が秀吉の耳に入りました。
激怒した秀吉は、京都にいた宣教師と信者合わせて26名を捕らえ、見せしめとして長崎で十字架刑に処しました(日本二十六聖人殉教)。これは日本における最初の、大規模な殉教事件でした。
1.4. 江戸幕府の禁教と鎖国体制
江戸幕府を開いた徳川家康は、当初貿易の利益を重視しキリスト教を黙認していましたが、次第にその統制を強化していきます。
そして1612-13年に全国へ禁教令を発布し、キリスト教を全面的に禁止する方針を明確にしました。幕府がキリスト教を恐れた理由は、その唯一神への絶対的な忠誠を求める教えが、将軍への忠誠を第一とする幕藩体制の身分秩序と相容れない危険な思想であると判断したためです。
1.4.1. 島原の乱と鎖国の完成
この禁教政策を決定的なものにしたのが、1637-38年に起こった「島原・天草一揆」(島原の乱)でした。これは過酷な年貢の取り立てとキリスト教への弾圧に苦しんだ農民たちが、キリシタンの少年天草四郎を総大将として蜂起した大規模な一揆でした。
幕府は12万を超える大軍を投入してようやくこれを鎮圧しましたが、一揆の参加者の多くがキリシタンであったという事実は、幕府にキリスト教への恐怖を植え付けました。
この事件を契機に、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、オランダとの貿易も長崎の出島に限定するなど、いわゆる「鎖国」体制を完成させます。
1.4.2. 徹底した信者の摘発
鎖国下の日本では、キリスト教は徹底的に根絶やしにされようとしました。
- 宗門改(しゅうもんあらため): 全ての民衆をいずれかの仏教寺院の檀家として登録させる(寺請制度)。
- 絵踏(えふみ): キリストや聖母マリアの像(踏絵)を踏ませることで、キリシタンでないことを証明させる。
このような厳しい監視と弾圧の下で多くの信者が棄教するか、あるいは殉教していきました。しかし一部の信者たちは、表向きは仏教徒を装いながら密かに信仰を守り続ける「隠れキリシタン」として、その信仰を幕末の開国期まで奇跡的に伝え続けたのです。
2. 儒学の官学化(朱子学)
江戸幕府が260年以上にわたる長期の安定政権を維持できた最大の要因は、参勤交代や武家諸法度といった精緻な統治制度にありました。しかし、いかなる権力も物理的な強制力だけで人々を永続的に支配することはできません。その支配を正当化し人々が自発的にその秩序に従うように導く、強力な「イデオロギー」が不可欠です。江戸幕府がその公式な統治イデオロギーとして採用したのが、中国の宋の時代に大成された新しい儒教の一派、「朱子学(しゅしがく)」でした。朱子学が説く、宇宙の秩序と社会の秩序を結びつける厳格な階層思想は、武士を頂点とする幕藩体制の身分秩序を理論的に裏付ける上で、極めて都合の良い教えでした。幕府は朱子学を「官学(かんがく)」と位置づけ、武士たちにその学習を奨励することで、彼らを単なる戦闘者から秩序を重んじる有徳の為政者へと転換させようとしたのです。
2.1. 朱子学とは何か
儒学(儒教)は古代中国の孔子を祖とする思想ですが、漢の時代以降その解釈は硬直化していました。これに対し宋の時代に朱熹(しゅき)(朱子)が、宇宙論的な壮大な哲学体系として再編成したものが新儒教、すなわち朱子学です。
2.1.1. 理気二元論と上下定分の理
朱子学の哲学の根幹をなすのが、「理気二元論(りきにげんろん)」です。
- 理(り): 宇宙の万物を貫く普遍的な法則、秩序、あるいは道徳的な規範。
- 気(き): 万物を形作る物質的な要素。
朱子学によれば、世界はこの「理」と「気」によって構成されています。そして人間社会における身分的な階層秩序もまた、この宇宙を貫く普遍的な「理」の現れであると考えます。
君主と臣下、父と子、夫と妻といった身分や関係性には、それぞれ生まれながらにして定まった区別(分)があり、その上下関係は絶対的な宇宙の秩序(理)に基づいている。この「上下定分の理(じょうげていぶんのり)」こそが、朱子学の核心的な社会思想でした。
2.1.2. 大義名分論と修養
この思想から導き出されるのが、「大義名分論(たいぎめいぶんろん)」です。これはそれぞれの人間が自らの身分(名)にふさわしい役割(分)をわきまえ、それを忠実に果たすことこそが社会の秩序を維持するための絶対的な道徳(大義)であるという考え方です。
そして人間は、私的な欲望(人欲)を抑え、学問と修養(居敬窮理(きょけいきゅうり))を通じて、自らの内にある天から与えられた道徳性(天理)を明らかにしなければならないとされました。
2.2. 幕府による朱子学の受容
この朱子学の教えは、江戸幕府が目指す社会のあり方と見事に合致していました。
将軍を頂点とし、大名、武士、そして農工商と続く厳格な身分秩序は、単なる力による支配ではなく、宇宙の根本原理に基づいた正しく変更不可能な秩序である。そして武士は、自らの欲望を抑え学問に励み、為政者としての徳を磨き、下の階層の模範とならなければならない。
この思想は戦国の下剋上の気風を完全に否定し、固定的な封建秩序を永続させるための最高のイデオロギー的装置でした。
2.2.1. 林羅山と官学の基礎
この朱子学を幕府の公式な教学として確立する上で、決定的な役割を果たしたのが儒学者の**藤原惺窩(ふじわらせいか)と、その弟子である林羅山(はやしらざん)**でした。
特に林羅山は、初代将軍・家康から四代・家綱まで四代の将軍に仕え、朱子学の立場から様々な法制度の制定や外交文書の作成に関わりました。彼は上野に私塾(後の昌平坂学問所)を開き、多くの幕臣や藩士を教育しました。林家の学問は代々幕府に受け継がれ、朱子学は不動の官学としての地位を築き上げていったのです。
2.2.2. 新井白石と正徳の治
朱子学の素養を身につけた優れた政治家も現れました。六代・家宣、七代・家継の時代に将軍の側近として幕政を主導した**新井白石(あらいはくせき)**は、その代表です。彼は朱子学の合理的な精神に基づき、貨幣改鋳によるインフレを収拾して財政を再建するなど、「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれる文治政治を行いました。
2.3. 寛政異学の禁(1790年)
しかし江戸時代も中期になると、朱子学の硬直した教えを批判する新しい思想(陽明学や古学)が力をつけてきます。
この思想の多様化に危機感を抱いたのが、老中・松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。彼は寛政の改革の一環として、1790年、幕府の教学機関である昌平坂学問所において朱子学以外の学問(異学)を教授することを禁じました(寛政異学の禁)。
これは思想統制によって緩み始めた幕藩体制の秩序を引き締めようとする試みでした。この政策は各藩の藩校にも影響を与え、朱子学の官学としての地位をさらに絶対的なものにしました。
2.4. 朱子学の歴史的意義
朱子学は、その厳格で権威主義的な側面からしばしば封建的な思想として否定的に捉えられます。しかしその歴史的な功績もまた、正当に評価される必要があります。
朱子学は、戦国時代の武士たちを「人を斬る」専門家から、「国を治める」為政者へと意識改革させる上で決定的な役割を果たしました。学問を重んじ、自己を律し、公的な秩序に奉仕するという武士の新しい倫理観は、朱子学の教育によって育まれたのです。
この朱子学的な官僚倫理と知的好奇心の素地があったからこそ、幕末に西洋の衝撃に直面した際に多くの武士たちがその新しい知識を迅速に吸収し、近代国家への変革を担う人材となり得たという側面も見逃すことはできません。
3. 陽明学
江戸幕府がその支配体制を正当化するための公式イデオロギー(官学)として朱子学を採用した一方で、その朱子学のあり方を内側から批判するもう一つの儒学の潮流が存在しました。それが「陽明学(ようめいがく)」です。中国・明の時代に王陽明が創始したこの思想は、朱子学が外部の客観的な秩序(理)を重んじたのに対し、人間の内面にある良心(良知)と、そこから生まれる主体的な実践を何よりも重視しました。その直感的で行動的な思想は、時に既存の権威や秩序を乗り越えるラディカルなエネルギーを生み出す可能性を秘めていました。そのため江戸幕府からは常に危険な思想として警戒されながらも、その純粋で情熱的な教えは一部の思索的な武士や思想家の心を強く捉え、幕末の変革期には幾人かの革命家を生み出す精神的な源泉ともなったのです。
3.1. 陽明学の思想:朱子学との対比
陽明学の思想を理解するためには、それが何を批判しようとしたのか、すなわち朱子学との違いを明確にすることが重要です。
3.1.1. 朱子学の形式主義への批判
朱子学は、宇宙の根本原理である「理」を、書物や物事を観察することを通じて探求する(居敬窮理)ことを重視しました。しかしこの教えは、江戸時代も中期になると単に古典の文言を暗記するだけの形式的な学問に陥りがちでした。
王陽明は、このような知識と実践が乖離した学問のあり方を厳しく批判しました。真の知は書物の中にあるのではなく、我々の心の中にこそあると彼は考えたのです。
3.1.2. 心即理(しんそくり)
陽明学の根本思想が、「心即理」です。これは「人間の心(良知)こそが宇宙の真理(理)そのものである」という宣言です。
朱子学が「理」を我々の外にある客観的なものと考えたのに対し、陽明学は全ての判断の基準を、自らの内面にある生まれながらにして備わった道徳的な判断力(良知)に求めなければならないとしました。この徹底した主観主義が、陽明学の最大の特徴です。
3.1.3. 知行合一(ちこうごういつ)
この「心即理」から導き出されるのが、「知行合一」という実践論です。
これは「真に知ることは、すでにして行うことである」という思想です。例えば、「親孝行が善であることを本当に知っている」のであれば、その瞬間にすでに親孝行を実践しているはずである。もし実践が伴っていないのであれば、それは頭で理解しているだけで本当に「知っている」ことにはならないとします。
この思想は、知識のための知識を否定し、道徳的な認識と具体的な行動の完全な一致を求めます。この行動を重んじる姿勢が、陽明学に反体制的な危険なイメージを与える大きな要因となりました。なぜなら、もしある人が自らの良知に従って「幕府の政策は間違っている」と確信したならば、「知行合一」の論理は彼にその政策を批判し、変革するための行動を直接的に促すからです。
3.2. 日本における陽明学の展開
このような特徴を持つ陽明学は、日本では官学である朱子学の影に隠れ、あくまで少数派の学問であり続けましたが、幾人かの傑出した思想家を生み出しました。
3.2.1. 中江藤樹(なかえとうじゅ):近江聖人
日本における陽明学の祖とされるのが、「近江聖人(おうみせいじん)」と称えられた中江藤樹です。彼は武士の身分を捨て、郷里の近江国(滋賀県)で私塾を開き、身分を問わず多くの人々に教えを説きました。彼の思想の中心は「孝」であり、日常生活の中での道徳的な実践を何よりも重んじました。
3.2.2. 熊沢蕃山(くまざわばんざん):経世家としての苦悩
中江藤樹の高弟で、陽明学者として最も名高いのが熊沢蕃山です。彼は備前岡山藩の藩主・池田光政に仕え、その卓越した知識で藩政改革に大きな功績を上げました。彼は治山治水や庶民教育の重要性を説くなど、優れた経世家(政治経済学者)でした。
しかし彼の幕政に対する大胆な批判は、幕府の警戒を招き、最終的には官職を追われ不遇の晩年を送りました。彼の生涯は、理想の政治を追求する陽明学的な情熱と、封建的な現実との間の葛藤を象徴しています。
3.3. 大塩平八郎の乱(1837年):陽明学の爆発
陽明学が持つ反体制的なエネルギーが、最も劇的な形で爆発したのが1837年(天保8年)に大坂で起こった「大塩平八郎の乱」でした。
大塩平八郎は、元大坂町奉行所の与力(警察官僚)であり、優れた陽明学者でもありました。当時、天保の大ききんによって多くの人々が餓死しているにもかかわらず、大坂町奉行や豪商たちが米を買い占め庶民の救済に動こうとしない現実に、彼は激しい義憤を感じました。
自らの蔵書を売り払い窮民に施しをしましたが、それにも限界がありました。ついに彼は自らの良知に従って**「救民」**の旗を掲げ、門弟や周辺の農民たちと共に武装蜂起し、豪商の家などを打ちこわしました。
乱そのものはわずか半日で鎮圧され、大塩も自決しました。しかし元幕府の役人が幕政を公然と批判し反乱を起こしたというこの事件は、全国の武士や民衆に計り知れない衝撃を与えました。それはもはや朱子学的な秩序が盤石ではないこと、そして幕府の支配がその内側から崩壊し始めていることを天下に知らしめる狼煙(のろし)となったのです。幕末の吉田松陰など多くの志士たちが陽明学に惹きつけられたのも、この大塩の行動的な精神に深く共鳴したからでした。
4. 古学
江戸時代中期、官学として形式化しつつあった朱子学と、その対抗思想として主観的な内面性を重視した陽明学。この二つの主要な儒学の潮流に対し、「そもそもどちらの解釈も後世の付け足しに過ぎないのではないか」という根本的な批判から生まれたのが、「古学(こがく)」と呼ばれる新しい学問の動きでした。古学派の思想家たちは、朱子学や陽明学が依拠する宋や明の時代の儒学(宋明理学)を、仏教や老荘思想の影響を受けた不純なものと見なしました。そして儒学の本来の真の姿を知るためには、孔子や孟子といった古代の聖人たちが生きた時代の**原典(古典)**に直接立ち返るべきであると主張したのです。この文献学的な厳密なアプローチは儒学の解釈に大きな革新をもたらし、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠といった個性豊かな思想家たちがそれぞれ独自の思想体系を築き上げていきました。
4.1. 古学の基本的なアプローチ
古学派に共通するのは、朱子学や陽明学が前提としていた壮大な宇宙論(理気論など)を排し、孔子や孟子の**「言葉」そのもの**を研究の出発点としたことです。彼らはさながら考古学者が遺跡を発掘するように、古代のテキストを精密に読み解くことで聖人たちの真意を明らかにしようとしました。この姿勢から、彼らの学問は「古義学(こぎがく)」や「古文辞学(こぶんじがく)」とも呼ばれます。
4.2. 山鹿素行(やまがそこう):武士道の理論家
古学の先駆者とされるのが、山鹿素行です。
- 思想: 彼は朱子学を「虚偽の学問」であると厳しく批判し、孔子の教えの本質は日々の実践的な道徳にあると考えました。
- 武士道との関連: 素行の最大の功績は、この実践的な儒学の精神を武士という身分の役割と結びつけたことです。彼は武士とは単に戦うだけの存在ではなく、農工商の三民の道徳的な模範となるべき存在(士道)であると位置づけました。武士は常に己を律し、主君への「忠」を尽くすことでその存在意義を示さなければならない。この素行の思想は、後の「武士道」の理論的な形成に大きな影響を与えました。
- 不遇: しかし彼の朱子学批判は幕府の忌諱に触れ、赤穂藩へと流罪にされました。赤穂事件で有名な大石内蔵助も、彼の影響を受けた一人と言われています。
4.3. 伊藤仁斎(いとうじんさい):仁愛の古義学
京都で私塾・古義堂(こぎどう)を開き、多くの門弟を育てたのが伊藤仁斎です。
- 思想: 仁斎は研究の対象を、特に**『論語』と『孟子』に絞り込みました。彼は朱子学が宇宙の根本原理とした「理」という抽象的な概念を批判し、孔子の教えの中心は具体的な人間関係の中に現れる「仁」(慈愛、思いやり)と「誠」(まごころ)**にあると主張しました。
- 「活物(かつぶつ)」としての人格: 彼は人間を常に活動し成長し続ける「活物」として捉え、その道徳的な実践を何よりも重視しました。その温厚でヒューマニスティックな学風は、多くの人々に慕われました。
4.4. 荻生徂徠(おぎゅうそらい):政治制度としての儒学
古学を思想的に最もラディカルな形で大成させ、江戸時代の思想界に絶大な影響を与えたのが荻生徂徠です。
- 古文辞学(こぶんじがく): 徂徠は孔子の真意を理解するためには、我々が普段使っている日本語の感覚で古典を読むのではなく、孔子たちが生きた古代中国の**言語(古文辞)**を完全にマスターし、彼らの思考の枠組みそのもので考えなければならないと主張しました。この徹底した文献学的な方法論が、彼の学問の特徴です。
- 「道」とは制度である: この研究の結果、徂徠は驚くべき結論に達します。彼によれば孔子が説いた「道(みち)」とは、朱子学が言うような天から与えられた自然な道徳律でもなければ、仁斎が言うような内面的な愛情でもない。それは古代中国の伝説的な聖人王(先王(せんのう))が、社会の安寧と秩序を実現するために人為的に制作した具体的な政治・社会制度(礼楽刑政)そのものであると断言したのです。
- 政治と道徳の分離: この結論は、政治(公)と個人の道徳(私)を明確に分離することを意味します。為政者の仕事は個人の道徳性を高めることではなく、あくまで優れた制度を作り運用することで社会の秩序を維持し、民衆の生活を安定させること(経世済民(けいせいさいみん))にある。この極めてマキャベリ的とも言える現実主義的な政治思想は、当時の思想界に大きな衝撃を与えました。
- 影響: 徂徠のこの政治・制度を重視する思想は、八代将軍・徳川吉宗が行った享保の改革にも影響を与えたとされ、またその文献実証的な学問の方法は、その後の国学など様々な学問分野の発展を促しました。
4.5. 古学の歴史的意義
古学派の思想家たちは、朱子学という権威に異を唱え、自らの知的な探求心に基づいて古典の再解釈に挑みました。その厳密な文献研究の精神は、日本の学問水準を大きく引き上げました。
そして彼らが行った儒学の多様な解釈は、結果として朱子学の絶対的な権威を相対化し、人々の思考を解き放つ役割を果たしました。特に徂徠が示した政治と道徳の分離という視点は、社会を伝統や道徳から切り離し、人為的に改革可能なシステムとして捉える近代的な思考の萌芽を含んでいました。この知的な自由の空気が、次に登場する国学という全く新しい思想が生まれるための豊かな土壌となっていきます。
5. 国学の発展と本居宣長
江戸時代中期、幕府の官学である朱子学が中国の古典を絶対的な真理の源泉としたのに対し、その中国中心の価値観を根底から問い直し、日本の古典の中にこそ我々日本人が立ち返るべき本来の純粋な精神が存在すると主張する、全く新しい学問の潮流が生まれました。それが「国学(こくがく)」です。国学は当初、和歌や物語といった古典文学の文献学的な研究として始まりましたが、やがてその探求は古代日本人の精神性そのものを解明する壮大な思想運動へと発展していきます。そしてこの国学の知的探求を前人未到の高みへと引き上げ、その思想を大成させたのが、近世日本が生んだ最高の知性の一人、**本居宣長(もとおりのりなが)**でした。彼の生涯をかけた『古事記』の解読は、日本人の自己認識のあり方に革命的な転換をもたらしたのです。
5.1. 国学の発生:契沖から賀茂真淵へ
国学の源流は、江戸時代前期、元禄文化の中で現れた何人かの先駆的な学者に見出すことができます。
- 契沖(けいちゅう): 僧侶であった契沖は、それまでの中世的な解釈に囚われず、厳密な文献考証に基づいて『万葉集』の注釈書(『万葉代匠記』)を著しました。彼の客観的で実証的な研究態度は、国学の学問的な方法論の基礎を築きました。
- 荷田春満(かだのあずままろ): 京都・伏見稲荷の神官の家系に生まれた荷田春満は、神道や日本の古典が衰微していることを憂い、国学の学校を設立するよう幕府に建白しました。彼の問題意識が、国学を一つの学問分野として確立させるきっかけとなりました。
そして荷田春満の弟子であり、国学を本格的な思想へと高めたのが**賀茂真淵(かものまぶち)**でした。
- 賀茂真淵と『万葉集』: 真淵は特に『万葉集』を最高の古典と考え、その中に古代日本人の飾り気のない素朴で力強い精神(ますらをぶり:男性的で雄大な気風)が表現されていると主張しました。
- 漢意(からごころ)への批判: 彼はこの本来の日本の精神が、儒教や仏教といった外来の中国思想(漢意)によって歪められてしまったと考えました。そして日本のあるべき姿を取り戻すためには、この「漢意」を排除し古代の純粋な精神(古道)に立ち返らなければならないと説いたのです。この中国思想への批判的な姿勢が、国学の基本的な方向性を決定づけました。
5.2. 本居宣長:国学の大成
賀茂真淵の思想を受け継ぎ、それを比類のない学問的な深みと体系性で大成させたのが、伊勢松阪の商人出身の医師、本居宣長でした。
5.2.1. 『古事記』との出会い
宣長は若い頃、賀茂真淵に弟子入りし、その学問の薫陶を受けました。その中で彼は『万葉集』よりもさらに古い時代の日本人の精神が記されている**『古事記』**こそが、研究すべき中心的なテキストであると確信します。
しかし『古事記』は難解な漢字の用法で書かれており、その正確な意味は長い間忘れ去られていました。宣長は、この古代の神々の物語を一言一句解読することに、その生涯を捧げることを決意します。
5.2.2. 『古事記伝』の完成
約35年という気の遠くなるような歳月をかけて宣長が完成させたのが、全44巻からなる**『古事記伝(こじきでん)』**です。これは単なる注釈書ではありません。それは古代日本人の思考様式、価値観、そして世界観そのものを、文献学的に再構築しようとする壮大な試みでした。
5.2.3. 宣長の思想:「真心」と「もののあはれ」
この徹底した古典研究を通じて、宣長は古代日本人の精神の本質についていくつかの重要な思想を打ち立てました。
- 真心(まごころ): 宣長は、賀茂真淵の「漢意」批判をさらに推し進めました。彼によれば「漢意」とは、物事を善悪や理屈で判断しようとする儒教的な作為的な心のことです。これに対し古代の日本人が持っていたのは、物事に接した時に自然に湧き上がってくるありのままの感情、すなわち「真心」であるとしました。
- 物の哀れ(もののあはれ): そしてこの「真心」が最も純粋な形で現れているのが、平安時代の文学、特に『源氏物語』であると宣長は考えました。彼は『源氏物語』の本質を儒教的な勧善懲悪の物語として読むのではなく、人生の様々な場面で人々が感じるしみじみとした喜びや悲しみ、感動といった情趣を描き出したものと捉え、それを「物の哀れ」という言葉で表現しました。この概念は、その後の日本の美意識や文学観に決定的な影響を与えました。
5.3. 国学の思想史的な意義
本居宣長の国学は、それまでの日本の思想界の常識を根底から覆すものでした。
それは、価値の判断基準を中国から日本へと転換させたことです。絶対的な真理とされてきた儒教の教えを相対化し、日本の古典の中に独自の価値を見出すという宣長の知的作業は、近代的なナショナリズムの形成につながる文化的な自己主張の第一歩でした。
また彼の人間のありのままの感情を肯定する思想は、厳格な禁欲を説く朱子学的な人間観からの解放を意味しました。
しかし宣長の思想は、あくまで文献学的な探求に留まるものでした。彼の没後、その弟子である平田篤胤は、宣長の思想をより宗教的かつ政治的な方向へと先鋭化させていきます。そして国学は、幕末の尊王攘夷運動の強力なイデオロギー的武器へと変貌を遂げていくことになるのです。
6. 復古神道
本居宣長によって大成された国学は、その主眼が、あくまで古代の精神世界を文献学的に解明することにありました。宣長自身は直接的な政治批判や宗教活動には慎重な態度をとっていました。しかし彼が切り開いた、「漢意(仏教・儒教)に汚される以前の日本固有の純粋な道(古道)が存在する」という思想は、極めてラディカルな可能性を秘めていました。その可能性を最大限に引き出し、宣長の国学をより実践的で排他的な宗教運動へと転換させたのが、宣長の没後の弟子を自称した**平田篤胤(ひらたあつたね)**でした。篤胤が体系化した神道は、単に古代に復(かえ)ることを目指すだけでなく、幕藩体制のイデオロギーである仏教や儒教を徹底的に攻撃し、天皇を絶対的な中心とする太古の神政政治への復帰を主張したため、「復古神道(ふっこしんとう)」と呼ばれます。この情熱的で時に過激な思想は、幕末の政治状況と結びつき、尊王攘夷を掲げる志士たちの魂を捉え、明治維新へと至る思想的な原動力の一つとなったのです。
6.1. 平田篤胤と国学の先鋭化
平田篤胤は、秋田藩の武士の出身で、江戸で医学を学びながら独学で本居宣長の著作を読み、深く感銘を受けました。彼は宣長が亡くなる直前に一度だけ面会した経験を基に、自らを宣長の後継者と位置づけ、国学の普及と発展に生涯を捧げました。
しかし篤胤の学問のスタイルは、宣長のそれとは大きく異なっていました。
- 折衷的な学風: 篤胤は日本の古典だけでなく、儒教、道教、仏教、さらには漢訳されたキリスト教の文献(漢訳洋書)まであらゆる書物を渉猟し、その中から自らの神道体系を補強するために有効と思われる要素を大胆に取り入れました。
- 宗教的・実践的な志向: 篤胤の関心は、単なる文献解釈に留まりませんでした。彼は死後の魂の行方(幽冥(ゆうめい)の世界)や現世での具体的な救済といった宗教的な問いに対して、明確な答えを与えようとしました。
6.2. 復古神道の教義
この篤胤の学問を通じて形成された復古神道の教義は、いくつかの際立った特徴を持っています。
6.2.1. 宇宙の創造神と国粋主義
篤胤は『古事記』に登場する天地開闢(てんちかいびゃく)の神々、特に**天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)**を、宇宙を創造した絶対的な主宰神として位置づけました。
そして日本は、この至高の神々によって特別に創造された万国に冠たる国であり、その子孫である天皇が世界を統治する正当性を持つと主張しました。この極めて国粋主義的な世界観は、彼の思想の根幹をなしています。
6.2.2. 幽冥界の思想
宣長があまり関心を示さなかった死後の世界について、篤胤は明確なビジョンを提示しました。
彼によれば人の死後、その魂は大国主命(おおくにぬしのみこと)が支配する幽冥界に行き、そこで生前の行いを裁かれるとしました。この死後の審判という思想は、仏教の地獄極楽の観念やキリスト教の最後の審判の影響を受けていると考えられています。この分かりやすい来世観は、多くの民衆の心を引きつけました。
6.2.3. 徹底した排仏・排儒思想
篤胤の思想のもう一つの大きな特徴は、仏教と儒教に対する徹底的な敵意です。
彼は仏教を「人の死を説く陰気な教え」であると断じ、葬式を仏式で行うことを厳しく批判しました。また儒教の道徳も、小賢しい人間の知恵に過ぎないとし、日本古来の素朴な真心に劣るものとしました。
この過激なまでの排他性が、復古神道を国学の一派から戦闘的なイデオロギー集団へと変質させる要因となりました。
6.3. 幕末の政治思想への影響
篤胤の復古神道は、その過激さゆえに幕府から危険視され、彼は故郷への蟄居(ちっきょ)を命じられます。しかし彼の思想は、その没後、門人たちによって全国に広められ、特に幕末の政治的に不安定な状況の中で大きな影響力を持つようになります。
6.3.1. 尊王攘夷運動との結合
復古神道が説く、
- 天皇の絶対的な神聖性
- 日本の神国としての優越性
- 仏教・儒教といった外来思想の排除
という教えは、幕末の尊王攘夷(そんのうじょうい)運動のスローガンと見事に合致しました。
「将軍は天皇から政治を簒奪(さんだつ)した逆臣である。そしてその幕府が、神国日本を西洋の夷狄(いてき)に売り渡そうとしている。我々は幕府を倒し、政治を神である天皇の御手にお返しし(大政復古)、夷狄を打ち払わなければならない」。
この倒幕の論理は、復古神道の思想によって強力に理論武装されたのです。多くの神官や豪農、そして下級武士たちがこの思想に感化され、倒幕運動に身を投じていきました。
6.4. 明治維新後の展開
そして明治維新が成就すると、復古神道はついに国家の公式イデオロギーとしての地位を手に入れます。次章で詳しく見る神仏分離令や国家神道の形成は、まさに平田篤胤が夢見た神道中心の国家建設を実現しようとする試みでした。
本居宣長が純粋な学問的探求として始めた国学は、平田篤胤という情熱的な宗教家によって強力な政治イデオロギーへと転化され、最終的には日本の近代史を大きく左右するほどの巨大な力を持つに至ったのです。この知と思想が現実の政治を動かしていくダイナミズムこそ、幕末という時代の面白さであり、また恐ろしさでもあるのです。
7. 蘭学の発展
江戸幕府が厳格な鎖国政策を敷いていた17世紀半ばから19世紀半ばにかけて、日本のほとんどの人々にとって西洋世界は遠い未知の存在でした。しかしその固く閉ざされた扉の向こう側を覗き見るための、小さな、しかし極めて重要な「窓」が一つだけ開かれていました。それが長崎の出島に置かれたオランダ商館です。この窓を通じて日本にもたらされたヨーロッパの学問や技術を、オランダ語を介して研究する学問の潮流、それが「蘭学(らんがく)」です。当初は医学や天文学といった純粋な実用科学への好奇心から始まったこの学問は、やがて日本の知識人たちの世界観を根底から揺るがし、幕末には西洋列強の脅威をいち早く察知して国策に警鐘を鳴らす、先進的な思想へと発展していきます。蘭学は、朱子学や国学といった伝統的な思想とは全く異なる次元で、日本の近代化の知的土壌を静かに、しかし着実に耕していったのです。
7.1. 蘭学の黎明期
鎖国が始まった当初、幕府はキリスト教に繋がる西洋の書物の輸入を厳しく禁じていました。しかし八代将軍・徳川吉宗の時代になると、その方針に変化が訪れます。
7.1.1. 徳川吉宗と実学の奨励
享保の改革を推し進めた吉宗は、極めて合理的な精神の持ち主であり、幕府の統治に役立つ実践的な学問(実学)を奨励しました。
彼は暦の改訂などの必要性から、1720年、キリスト教に直接関係のない漢訳された西洋の科学技術書の輸入を解禁しました(漢訳洋書輸入の緩和)。この吉宗の現実主義的な政策が、蘭学が本格的に発展するための扉を開いたのです。この時期、**青木昆陽(あおきこんよう)や野呂元丈(のろげんじょう)**が将軍の命でオランダ語の学習を始め、蘭学の先駆者となりました。
7.2. 『解体新書』の衝撃
蘭学が一部の好事家の学問から、日本の知的世界に衝撃を与える本格的な学問へと飛躍するきっかけとなった画期的な出来事が、1774年(安永3年)に起こります。
7.2.1. 前野良沢と杉田玄白
蘭方医(オランダ流の医学を学ぶ医師)であった**前野良沢(まえのりょうたく)と杉田玄白(すぎたげんぱく)**らは、オランダ語で書かれたドイツの医学者クルムスの解剖学の書物『ターヘル・アナトミア』を入手しました。
そして江戸の小塚原(こづかっぱら)の刑場で、罪人の腑分け(ふわけ)(解剖)を実際に見学する機会を得ます。その際彼らは、『ターヘル・アナトミア』に描かれた人体内部の図が驚くほど正確であるのに対し、それまで信じられてきた漢方医学の人体観が全くの空想に基づいていたことを目の当たりにし、衝撃を受けました。
7.2.2. 『解体新書』の刊行
この経験に突き動かされ、玄白や良沢らは辞書もない困難な状況の中で苦闘の末、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を成し遂げます。こうして刊行されたのが、日本初の本格的な西洋の科学書の翻訳である『解体新書(かいたいしんしょ)』です。その翻訳の苦心談は、玄白が晩年に著した『蘭学事始(らんがくことはじめ)』に生き生きと描かれています。
『解体新書』の刊行は、単に医学の進歩に貢献しただけではありません。それは伝統的な権威や観念論ではなく、実際に自らの目で見て確かめる「実証」こそが真理を探求するための唯一の道であるという、近代的な科学精神の正しさを日本の知識人たちに証明した決定的な出来事でした。
7.3. 蘭学の多様な発展
『解体新書』の成功以降、蘭学は医学の分野を超えて様々な分野へとその関心を広げていきます。
- 天文学・地理学: **志筑忠雄(しづきただお)**はニュートンの万有引力の法則を紹介し、**高橋至時(たかはしよしとき)は西洋の天文学に基づいてより正確な寛政暦(かんせいれき)を作成しました。その弟子である伊能忠敬(いのうただたか)**は、西洋の測量術を駆使し驚異的な精度を誇る日本全図(大日本沿海輿地全図)を完成させました。
- 物理学・化学: 平賀源内(ひらがげんない)は、摩擦で静電気を起こすエレキテルを復元し人々を驚かせました。**宇田川榕菴(うだがわようあん)**は、西洋の化学を紹介する書物を著しました。
- 世界情勢の研究: 19世紀に入ると、ロシアの南下政策など欧米列強がアジアに接近してくる情報がオランダを通じて、もたらされるようになります。蘭学者の関心は、次第に日本の国防や外交といった政治的な問題へと向かっていきました。
7.4. 蘭学者への弾圧:蛮社の獄
しかし蘭学の発展は、幕府の対外政策を批判する危険な思想を生み出す土壌ともなりました。
1837年、アメリカの商船モリソン号が漂流民の送還を目的に来航した際、幕府が異国船打払令に基づいてこれを砲撃するという事件が起こりました(モリソン号事件)。
これに対し蘭学者の**高野長英(たかのちょうえい)や渡辺崋山(わたなべかざん)**らは、幕府のこのような対外強硬策を世界の情勢を知らない無謀な行為であると批判しました。
この幕政批判に激怒した幕府は、1839年、彼らのグループ(尚歯会(しょうしかい))を弾圧し、長英や崋山らを処罰しました。これが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。
この事件は、蘭学がもはや単なる書斎の学問ではなく、国家の進路を左右する力強い政治思想へと成長していたことを示しています。開国前夜、日本の知識人たちは蘭学を通じて西洋の衝撃に備える知的準備を始めていたのです。そして彼らが蓄積した知識と世界観こそが、明治維新後の急速な近代化を可能にする重要な知的遺産となっていきます。
8. 心学と庶民教育
江戸時代の思想と言えば、武士階級の統治イデオロギーであった儒学や、その対抗思想として生まれた国学が中心的に語られがちです。しかしその高尚な学問の影で、武士だけでなく人口の大多数を占める町人や農民といった庶民の心に深く浸透し、彼らの日常の生き方を支えたもう一つの重要な思想の潮流がありました。それが「石門心学(せきもんしんがく)」、略して「心学(しんがく)」です。心学は特定の難しい教義を説くのではなく、儒教、仏教、神道といった既存の教えを巧みに融合させ、正直、勤勉、倹約といった庶民が日々の生活の中で実践すべき道徳を、極めて平易な言葉で語りかけました。全国に広まった心学の道話(どうわ)会は、江戸時代の豊かな庶民教育の一翼を担い、近代日本の勤勉な国民性を形成する重要な精神的土壌となったのです。
8.1. 石田梅岩(いしだばいがん)と心学の誕生
心学を創始したのは、江戸時代中期、京都の商人石田梅岩です。
彼は丹波国の農家に生まれ、京都の商家に丁稚奉公に入りました。その商人としての実生活の中で、彼は一つの大きな問いに突き当たります。当時の封建的な価値観(士農工商)では、商人の仕事、すなわち利益(利)を追求する行為は卑しいものとされていました。しかし商業がなければ、社会は成り立たない。この矛盾をどう考えればよいのか。
梅岩は学問を志し、思索を重ねた末、独自の思想体系を築き上げました。そして1729年、京都に私塾を開き、町人たちにその教えを説き始めたのです。
8.2. 心学の思想:商業の肯定と実践倫理
梅岩の思想の核心は、商業活動の正当性を理論的に確立した点にあります。
8.2.1. 「商人の売利は、士の禄に同じ」
梅岩は、商人が商品を売って利益を得ることは、武士が主君から俸禄(ほうろく)を受け取るのと本質的に何ら変わらない、正当な行為であると主張しました。
武士が天下の秩序を守るという役割を果たしているように、商人もまた世の中の商品を円滑に流通させるという、社会にとって不可欠な役割(天下の相場)を担っている。その役割に対する正当な報酬が、利益なのだと彼は説いたのです。
この思想は、それまで社会的に低い身分とされ罪悪感を抱きがちであった商人たちに、自らの仕事への誇りと職業倫理を与える画期的なものでした。
8.2.2. 「性(せい)」の自覚と実践道徳
梅岩は難しい哲学用語を避け、人々の心に響く平易な言葉で道徳を説きました。
彼によれば、全ての人間はその心の中に天から与えられた本来の美しい本性(性)を持っている。しかし日々の生活の中で、私的な欲望(私欲)に心が曇らされてしまう。
幸せに生きるための道は、学問や修行を通じてこの自らの心の中にある本来の「性」を自覚し、それに従って正直、勤勉、倹約といった徳を日常生活の中で実践することにあるとしました。
8.3. 心学の普及:道話と庶民教育
梅岩の教えは、その分かりやすさから多くの町人たちの共感を呼びました。彼の死後、**手島堵庵(てじまとあん)や中沢道二(なかざわどうに)**といった優れた弟子たちがその教えを受け継ぎ、心学を全国的な運動へと発展させました。
8.3.1. 心学道話(しんがくどうわ)
心学のユニークな布教方法は、「道話」と呼ばれる一種の講演会でした。
心学者は全国各地に設けられた**心学講舎(しんがくこうしゃ)**で、身近な逸話やたとえ話を交えながら、ユーモアたっぷりに分かりやすく道徳を説き聞かせました。この道話会には、町人や農民だけでなく武士や女性、子供まで、あらゆる身分の人々が集まり、庶民の一大エンターテイメントともなっていました。
8.3.2. 江戸時代の庶民教育
この心学の普及は、江戸時代の庶民の教育レベルの高さと深く結びついています。
江戸時代には心学講舎の他にも、読み・書き・そろばんを教える寺子屋(てらこや)や、各藩が藩士の教育のために設けた藩校(はんこう)、そして様々な学者が開いた私塾などが全国に存在しました。
これらの多様な教育機関を通じて、江戸時代の日本の識字率は同時代の世界の国々と比べても極めて高い水準にあったと言われています。心学は特にその中で、人々に道徳観や職業倫理を教える社会教育として非常に大きな役割を果たしたのです。
8.4. 心学の歴史的意義
石門心学は、特定の政治体制を批判したり、新しい国家像を提示したりするような思想ではありませんでした。それはあくまで既存の幕藩体制の秩序を肯定し、その中で人々がいかに心豊かに、そして道徳的に生きるべきかを説く教えでした。
しかし、その思想が日本の近代化に与えた影響は決して小さくありません。
心学が庶民の間に広めた勤勉、正直、倹約といった倫理観は、明治維新以降、日本の資本主義が発展していく上で、その担い手となる労働者や企業家の精神的な基盤(労働倫理)となりました。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、ヨーロッパの資本主義の発展の根底にキリスト教(プロテスタント)の禁欲的な倫理があったと論じたように、日本の近代化の成功の背景にも、この心学に代表される江戸時代の豊かな庶民の道徳思想が存在したという視点は極めて重要です。
9. 幕末の尊王攘夷思想
19世紀半ば、ペリーの黒船来航は200年以上続いた日本の泰平の眠りを暴力的に覚ましました。西洋列強の圧倒的な軍事力を前にして江戸幕府が屈辱的な不平等条約を締結すると、国内の武士や民衆の間に深刻な危機感と幕府への激しい怒りが渦巻きます。この内憂外患の時代に人々の心を一つのスローガンへと収斂させ、最終的には幕府を打倒する巨大な政治的エネルギーへと転化したのが、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という思想でした。「天皇を尊び、夷狄(いてき)(西洋人)を打ち払え」。この一見シンプルで過激なスローガンは、しかしその背後に、江戸時代を通じて醸成されてきた多様な思想的潮流の複雑な合流を秘めていました。朱子学、国学、復古神道、そして水戸学。これらの異なる源流から発した思想が、幕末という坩堝(るつぼ)の中で融合し、一つの強力な革命のイデオロギーを生み出すプロセスを解き明かすことは、明治維新という奇跡的な大変革の謎を解く鍵となります。
9.1. 尊王攘夷思想の二つの源流
尊王攘夷は、「尊王論」と「攘夷論」という二つの異なる思想が結合して生まれたものです。
9.1.1. 攘夷論:異国への恐怖と排斥
「攘夷」とは、外国人を実力で打ち払い排斥しようとする考え方です。
- 背景: アヘン戦争で大国・清がイギリスに惨敗したという情報が伝わると、日本の知識人の間に西洋列強への強烈な危機感が広がりました。このままでは日本も清のように植民地にされてしまうという恐怖が、排外的な攘夷論の温床となりました。
- 初期の攘夷論: 当初、幕府も「異国船打払令」を出すなど強硬な攘夷政策をとっていました。しかしペリー来航後、その圧倒的な武力の差を前にして開国へと方針を転換します。
- 過激化: この幕府の「弱腰」な態度が、かえって民衆の攘夷感情を煽ることになりました。「神国」日本が穢れた夷狄に屈するとは何事か。この純粋なナショナリズムが、攘夷運動の感情的なエネルギー源でした。
9.1.2. 尊王論:天皇への回帰
「尊王」とは、政治の実権を握る将軍ではなく、日本の真の支配者であるべき天皇を尊ぶべきであるという考え方です。
- 朱子学の影響: 意外なことに、尊王論の源流の一つは幕府の官学であった朱子学にあります。朱子学の「大義名分論」は、臣下が君主をないがしろにすることを厳しく戒めます。この論理を日本の歴史に適用すると、「天皇(君主)から征夷大将軍に任命された臣下であるはずの徳川家が、天皇をさしおいて政治の実権を握っているのは名分に反するおかしい状態ではないか」という、幕府批判の論理が生まれ得ました(崎門(きもん)学派など)。
- 国学・復古神道の影響: この尊王論をさらに絶対的なものへと高めたのが国学、特に平田篤胤の復古神道でした。彼らは天皇を単なる君主ではなく、神の子孫、すなわち「現人神(あらひとがみ)」として神聖化しました。この思想によれば、将軍が天皇に代わって政治を行うこと自体が神への冒涜であり、日本のるべき古代の姿(神政政治)から逸脱した異常事態でした。
9.2. 水戸学:尊王と攘夷の理論的結合
この二つの思想を早くから理論的に結びつけ、幕末の尊王攘夷運動に絶大な思想的影響を与えたのが、水戸藩で研究されてきた「水戸学(みとがく)」でした。
水戸藩では、二代藩主・徳川光圀の時代から**『大日本史』**という壮大な歴史書の編纂事業が進められていました。この歴史研究を通じて、水戸藩の学者たちは天皇を中心とする日本の国体(国家のあり方)を重視する独自の思想を育んでいました。
幕末期に藩主・徳川斉昭(なりあき)の下で活躍した**会沢正志斎(あいざわせいしさい)は、その著書『新論(しんろん)』の中で、西洋列強の脅威に対抗するためには天皇を中心として国民の精神を統一し(尊王)、国力を結集して外国を打ち払う(攘夷)**ことが不可欠であると説きました。
ここに「尊王」と「攘夷」は、単なる個別の思想から国家の危機を乗り越えるための、一体不可分の政治的プログラムとして理論的に結合されたのです。
9.3. 尊王攘夷運動の激化と変質
安政の大獄で井伊直弼が多くの尊王攘夷派の志士を弾圧すると、運動はさらに過激化します。
- テロリズムの横行: 井伊直弼が暗殺された桜田門外の変(1860年)を皮切りに、幕府の要人や開国派の思想家を暗殺(天誅(てんちゅう))したり、外国人を襲撃したり(生麦事件、英国公使館焼き討ち事件)といったテロが頻発しました。
- 長州藩の暴発: 尊王攘夷の急進派の拠点となった長州藩は、下関で外国船を砲撃しましたが、欧米の四カ国連合艦隊から壊滅的な報復攻撃を受け、攘夷が不可能であることを痛感します(下関戦争)。薩摩藩も生麦事件の報復でイギリス艦隊に攻撃され、同様の結論に達しました(薩英戦争)。
9.4. 「尊王開国」そして「尊王討幕」へ
この外国との直接的な軍事衝突の経験は、尊王攘夷運動のスローガンに決定的な変化をもたらしました。
もはや「攘夷」を実行するためには、まず外国から進んだ技術を学び国力を充実させる(富国強兵)必要がある。そのためには、一時的に開国もやむを得ない。
こうして運動の中心は、「尊王攘夷」から「尊王開国(そんのうかいこく)」へと、その現実的な路線を変更します。
そして最終的には、**「この富国強兵を成し遂げ、真の意味で日本を守るためには、もはや無力な幕府に任せておくことはできない。幕府を打倒し(討幕)、天皇の下に新しい強力な統一国家を建設しなければならない」**という「尊王討幕(そんのうとうばく)」の思想へと発展していきました。
尊王攘夷というスローガンは、その内実をダイナミックに変化させながら、最終的に260年続いた徳川幕府を打倒する革命のイデオロギーとして結実したのです。
10. 明治の神仏分離と国家神道
1868年、尊王討幕運動の末に成立した明治新政府は、その政治的な正統性を「王政復復古」、すなわち政治を神の子孫である天皇の手に取り戻すという理念に置きました。この理念を国家の隅々にまで徹底させるため、新政府はまず国民の精神世界を作り変える急進的な宗教政策に着手します。その第一歩が、千年以上続いた日本の伝統的な信仰のあり方である神仏習合を、国家の権力によって強制的に引き裂く「神仏分離(しんぶつぶんり)」でした。そしてその跡地に政府が建設しようとしたのが、天皇を現人神(あらひとがみ)として崇拝することを国民の義務とする、新しい宗教的・政治的システム「国家神道(こっかしんとう)」です。この明治初期の宗教をめぐる大改革は、日本の文化と社会に深い傷跡を残すとともに、その後の近代日本のナショナリズムと軍国主義の精神的な土壌を準備する、極めて重要な画期でした。
10.1. 神仏分離令:千年の伝統の破壊
明治新政府は、発足直後の1868年(慶応4年/明治元年)、「神仏分離令」(正式名称は神仏判然令)と呼ばれる一連の布告を出しました。
10.1.1. 布告の内容と政府の意図
その主な内容は、
- 神社から仏教的な要素(仏像、仏具、梵鐘など)を取り除くこと。
- 神社の祭神に「権現」や「菩薩」といった仏教的な称号を用いることを禁じること。
- 神職と僧侶の区別を明確にし、神社の祭祀に僧侶が関わることを禁じること。
などでした。政府の意図は明確でした。それは幕末の復古神道の思想に基づき、日本の固有の信仰である神道を仏教という外来宗教の影響から「純化」し、それを天皇を中心とする新しい国家祭祀の体系として再編成することにありました。神道を仏教の下位から解放し、国家の宗教として最高の地位に据えようとしたのです。
10.2. 廃仏毀釈(はいぶつきしゃく):文化財の大破壊
しかし、この政府の上からの急進的な改革は、意図せざる悲劇的な副作用を生み出しました。
「神仏分離」という命令が地方の役人や民衆に伝わる過程で、「仏教はもはや不要な邪教である」という誤った解釈が広まり、全国各地で過激な反仏教運動が吹き荒れたのです。これが「仏を廃し、釈迦を毀(こわ)す」という意味の「廃仏毀釈」です。
- 寺院の破壊と僧侶の還俗: 全国の多くの寺院が打ちこわされ、あるいは廃寺に追い込まれました。僧侶は、強制的に還俗(げんぞく)(俗人に戻ること)させられました。
- 文化財の破壊: 寺院に安置されていた貴重な仏像や仏画、経典などが次々と破壊され、あるいは薪として燃やされました。この運動によって失われた日本の文化財の数は計り知れません。
- 担い手: この運動を主導したのは、主に復古神道の影響を受けた一部の国学者や神官たちでした。彼らは長年にわたる仏教優位の状況への恨みを晴らすかのように、破壊活動を行いました。また寺院の持つ広大な土地や財産を没収しようとする経済的な動機もありました。
この文化的な大破壊はあまりの激しさに、政府自身も驚き、やがて行き過ぎを戒める布告を出すようになりますが、一度解き放たれた暴力のエネルギーは、日本の宗教界と文化に深い爪痕を残しました。
10.3. 国家神道の形成
神仏分離と廃仏毀釈の嵐の後、政府は神道を国家の精神的支柱とするための制度建設を本格化させます。
10.3.1. 神社の序列化と官僚化
政府は全国の神社をその社格によって**官社(かんしゃ)と諸社(しょしゃ)**に分け、国家の管理下に置きました。伊勢神宮を全ての神社の頂点とし、その下に官幣社(皇室が幣帛を奉納する神社)や国幣社(国が幣帛を奉納する神社)といった序列を設けました。
そして神社の神官(神職)は、国家から給与を受け取る**官吏(役人)**と位置づけられ、国家が定めた祭祀を執り行う義務を負いました。
10.3.2. 「神社非宗教論」
明治政府は、大日本帝国憲法で信教の自由を保障する一方で、全ての国民に神社への参拝を事実上強制しました。この矛盾を解決するための論理が、「神社は宗教にあらず」という巧妙なレトリックでした。
政府は、神社神道を特定の教義を持つ「宗教」ではなく、国民として天皇と国家に忠誠を誓うための国家的な「祭祀」であると定義したのです。これによりキリスト教徒や仏教徒も、「宗教」ではなく「国民儀礼」として神社参拝や宮城遥拝(皇居への遥拝)に参加することが強制されました。
10.4. 国家神道の役割と帰結
こうして創り出された国家神道は、その後の近代日本のあり方を大きく規定しました。
それは天皇を現人神とする神話を、教育(教育勅語)や軍隊を通じて国民に徹底的に注入し、天皇への絶対的な忠誠心を育むための巨大なイデオロギー装置として機能しました。
そしてこの国家神道が生み出した国粋主義的な精神性は、やがて日本のアジアへの侵略戦争を正当化し、国民を総動員するための強力な精神的支柱となっていきます。
第二次世界大戦の敗戦後、GHQはこの国家神道を軍国主義の温床と見なし、神道指令によって国家と神道を完全に分離させました。これにより神社は、再び一宗教法人としての道を歩むことになります。
明治の神仏分離と国家神道の形成は、日本の精神史における大きな断絶であり悲劇でした。それは、宗教が国家権力と一体化する時、いかに危険な道をたどりうるかを我々に教える、重い歴史的教訓なのです。
Module 8:宗教と思想の潮流(2) 近世・近代の総括:秩序の探求と、「日本」の発見
本モジュールでは、近世から近代にかけての日本の激動の思想史を旅してきました。それは一つの安定した秩序が完成し、やがてその内側から自己を問い直し、最終的には西洋という巨大な他者からの衝撃によって解体され、全く新しい秩序へと再編成されていく壮大な知のドラマでした。
近世の始まりは、キリスト教という全く異質な世界観との遭遇でした。しかし徳川幕府は、それを自らの秩序を脅かすものとして排除し、代わりに朱子学という儒教的な階層思想を国家の公式なイデオロギー(官学)として据えました。この朱子学的な静的な秩序観は、260年以上の泰平の世の精神的な背骨となりました。
しかし、その安定した秩序の内側で、思想家たちは絶えず新しい知の可能性を模索していました。朱子学の形式性を批判し人間の内面的な実践を重んじた陽明学。後世の解釈を排し古典の原点に帰ろうとした古学。これらの儒学内部の自己革新運動は、思想の多様性と活力を生み出しました。
そして最もラディカルな知的挑戦が国学でした。本居宣長らは価値の基準を中国から日本へと転換させ、「漢意」に汚されていない日本固有の精神(古道)を発見しようとしました。この内向的な探求は、平田篤胤の復古神道によって排他的な宗教運動へと先鋭化し、来るべき革命の思想的武器を準備します。
一方で蘭学という小さな窓からは、実証的な西洋科学の光が差し込み、知識人たちの世界観を静かに、しかし確実に変容させていきました。
そして幕末。これらの多様な思想の流れは尊王攘夷という一つの巨大な奔流へと合流します。朱子学の大義名分論、国学の尊王思想、そして西洋への危機感。それぞれが化学反応を起こし、徳川の秩序を打ち破る革命のイデオログラが鍛え上げられたのです。
明治維新は、この思想的格闘の一つの帰結でした。新政府は神仏分離を断行し、復古神道の夢であった天皇を現人神とする国家神道を創出しました。
このように、近世から近代への思想史とは、安定した「秩序」を求める普遍的な欲求と、「日本」とは何か、日本人とは何かという自己のアイデンティティを求める特殊な探求が複雑に絡み合い、そして西洋という鏡に自らを映し出すことで最終的に「近代日本」という新しい自己を創造していくプロセスでした。この知的格闘の激しさと豊かさを理解することなくして、近代日本の光と影を真に理解することはできないでしょう。