【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 10:イスラーム世界

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本モジュールの目的と構成

地中海世界の古代文明が終焉を迎え、ヨーロッパが「暗黒時代」とも呼ばれる混乱期にあった7世紀、アラビア半島という世界の周縁から、歴史を根底から揺り動かす新たな力が生まれました。それがイスラームです。しかし、イスラーム世界の歴史を単なる一宗教の拡大史として捉えることは、その本質を見誤らせます。本モジュールが目指すのは、イスラームという啓示宗教が、いかにして古代オリエント、ギリシア・ローマ、ペルシア、インドといった先行する諸文明の遺産を継承・融合し、ユーラシア大陸の広大な地域を結びつける、全く新しい世界文明を創造したのか、その壮大なプロセスを解き明かすことにあります。

この探求は、砂漠の多神教世界から始まり、一人の預言者によってもたらされた啓示が共同体を形成し、やがて大帝国へと発展していく政治的・軍事的なダイナミズムを追跡します。同時に、その帝国の内部で繰り広げられる民族間の葛藤、宗派の対立、そして「知恵の館」に象徴される驚異的な知的探求と文化の爛熟にも光を当てます。アラブ人、イラン人、トルコ人、そしてイベリア半島や北アフリカの住民たちが織りなす多元的で複合的な歴史を学ぶことを通じて、私たちは「イスラーム」という一つの言葉が、いかに多様な貌を持つ巨大な文明圏を指し示すものであるかを理解するでしょう。

学習の旅は、以下の論理的なステップで構成されています。

  1. アラビア半島のジャーヒリーヤ時代: まず、イスラームが誕生する以前の「無明時代」のアラビア半島が、どのような政治的・経済的・宗教的状況にあったのかを理解し、新たな思想が生まれる土壌を探ります。
  2. ムハンマドの生涯: 次に、イスラームの創始者である預言者ムハンマドが、いかにして啓示を受け、共同体を形成し、アラビア半島を統一していったのか、その生涯と思想の核心を追跡します。
  3. 正統カリフ時代と大征服: 預言者の死後、後継者たちがアラビア半島を飛び出し、驚異的な速さで大帝国を築き上げた時代を検証し、その成功の要因と、共同体内部に生じた最初の亀裂を分析します。
  4. ウマイヤ朝とアラブ人の特権: カリフ位が世襲王朝へと姿を変え、帝国が「アラブ人の帝国」としての性格を強めた時代を取り上げ、その統治構造と、それが内包した矛盾に迫ります。
  5. アッバース朝革命とイラン人の活躍: アラブ至上主義への不満が爆発し、帝国がよりコスモポリタンな性格へと変貌を遂げた「革命」の過程を詳述し、イラン系の人々が果たした役割を明らかにします。
  6. イスラーム科学と「知恵の館」: アッバース朝のもとで花開いた、古代ギリシアやインドの知を継承・発展させたイスラーム世界の学問と科学の輝かしい成果を探求します。
  7. 後ウマイヤ朝とイベリア半島の文化: 帝国の中心から遠く離れたイベリア半島で独自の発展を遂げたイスラーム文化の爛熟を、その多元性と寛容性に着目して考察します。
  8. シーア派の台頭: イスラーム世界内部の最大の対立軸であるシーア派が、いかにして独自の教義を形成し、ファーティマ朝などの有力な王朝を打ち立てるに至ったかを解明します。
  9. トルコ人のイスラーム化: 中央アジアから登場したトルコ系遊牧民が、当初は傭兵として、やがては支配者としてイスラーム世界の新たな主役となっていく歴史の大きな転換点を捉えます。
  10. スーフィズム(イスラーム神秘主義): 最後に、イスラームの教義や法制度といった外面的な側面だけでなく、神との内面的な合一を目指す神秘主義思想が、いかにして民衆の心をとらえ、イスラームの拡大に貢献したかを検証します。

この一連の学習を通じて、読者は、イスラーム世界が単一で静的な存在ではなく、多様な民族と文化が交錯し、時には激しく対立しながらも、全体として一つの巨大な文明圏を形成してきたダイナミックな歴史の担い手であったことを理解するでしょう。それは、現代世界の複雑な構造を読み解くための、深く、そして不可欠な「方法論」そのものを我々に提供してくれるはずです。

目次

1. アラビア半島のジャーヒリーヤ時代

1.1. 「ジャーヒリーヤ」とは何か

イスラームが誕生する以前のアラビア半島の時代は、イスラームの観点から「ジャーヒリーヤ」と呼ばれます。この言葉は、一般的に「無明時代」あるいは「無知の時代」と訳されます。これは、唯一神アッラーからの正しい啓示(イスラーム)がまだ知られておらず、人々が多神教の偶像崇拝という「無知」の状態にあったことを指す、後世のイスラーム教徒による価値判断を含んだ歴史区分です。

しかし、この時代は単なる未開で野蛮な時代だったわけではありません。そこには、イスラームという新しい宗教が生まれるための、複雑な社会的、経済的、そして文化的な土壌が形成されていました。ジャーヒリーヤ時代を理解することは、イスラームがいかなる状況の中から、そして何に対する変革として登場したのかを理解するための不可欠な前提となります。

1.2. 地理的・政治的環境

アラビア半島は、その大部分が乾燥した砂漠や半砂漠に覆われています。このような厳しい自然環境は、人々の生活様式を大きく規定しました。住民の多くは、ラクダや羊の遊牧を営むベドウィン(遊牧アラブ人)であり、水と牧草を求めて常に移動する生活を送っていました。

彼らの社会の基本的な単位は、血縁に基づく「部族(カビーラ)」でした。部族は、個人のアイデンティティと安全を保障する最も重要な共同体であり、部族への忠誠は何よりも優先されました。部族の掟は絶対であり、部族の名誉を傷つけられた場合には、部族全体で復讐を行う「血の復讐」の慣行が広く行われていました。このため、部族間の抗争が絶えず、半島全体を統一するような強力な政治権力は存在しませんでした。

一方で、アラビア半島は、古代から二つの大国の間に挟まれた地政学的に重要な位置にありました。北西には東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、北東にはササン朝ペルシアという、当時世界を二分する二大帝国が対峙していました。両帝国は、アラビア半島の部族を自らの勢力圏に組み込もうとし、北部の部族国家(ガッサーン朝やラフム朝など)を、それぞれの同盟国として支援していました。このような外部からの影響は、アラビア半島に貨幣経済や、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教といった一神教の思想をもたらし、伝統的な部族社会に変化の兆しを与えていました。

1.3. 経済:隊商貿易とメッカの繁栄

厳しい自然環境のアラビア半島でしたが、経済的な活路も存在しました。それが、ラクダを用いた隊商(キャラバン)貿易です。

紅海とペルシア湾に挟まれた半島西部のヒジャーズ地方は、地中海世界とインド洋世界を結ぶ重要な交易ルート上にありました。特に、東ローマ帝国とササン朝ペルシアの対立が激化し、従来のメソポタミア経由のルートが不安定になると、紅海沿岸を通るこのルートの重要性は一層高まりました。

南アラビア(イエメン地方)で産出する乳香などの香料や、インド、東アフリカからの物産が、このルートを通ってシリアやパレスチナの市場へと運ばれ、莫大な利益を生み出しました。この隊商貿易の担い手として、アラブ商人たちが活躍しました。

そして、この交易路の最大の中心地として繁栄したのが、メッカの町です。メッカは、水が湧くオアシス都市であり、隊商にとって理想的な中継地でした。この町の有力部族であったクライシュ族は、隊商貿易を組織化し、周辺の部族との間に協定を結んで交易路の安全を確保することで、商業活動を支配し、富を蓄積していきました。

1.4. 宗教:多神教とカーバ神殿

ジャーヒリーヤ時代の宗教は、部族ごとに異なる守護神を崇拝する多神教が中心でした。人々は、自然物や天体に宿るとされる様々な精霊(ジン)の存在を信じ、聖なる石や木を神聖視していました。

これらの多様な信仰が一堂に会する、全アラブ的な宗教センターとしての役割を果たしていたのが、メッカにあるカーバ神殿です。立方体の形をしたこの神殿には、当時、最高神フバルをはじめとする360もの神々の偶像が祀られていたと伝えられています。また、神殿の壁には、天から降ってきたとされる聖なる黒石がはめ込まれていました。

アラブ世界では、特定の月を「聖なる月」とし、その期間中は部族間の戦闘を休止する「聖休月」の習慣がありました。多くの部族が、この聖休月にメッカのカーバ神殿へ巡礼に訪れました。この巡礼は、メッカに宗教的な権威をもたらすと同時に、巡礼者たちがもたらす交易や布施によって、クライシュ族に莫大な経済的利益をもたらしました。カーバ神殿の管理権を握ることは、クライシュ族の富と権力の源泉だったのです。

1.5. 社会の変容と矛盾

6世紀後半になると、隊商貿易の発展は、メッカの社会に大きな変化と、深刻な矛盾をもたらしました。

商業活動の活発化は、富める者と貧しい者の経済的格差を急激に拡大させました。クライシュ族の有力者たちは、貿易によって得た富を独占し、奢侈な生活を送る一方で、多くの人々は貧困にあえいでいました。

このような経済的変化は、伝統的な部族社会の価値観を揺るがしました。かつては、部族内の相互扶助や弱者の保護といった共同体の連帯感が重んじられていましたが、貨幣経済の浸透と個人主義的な利潤追求の風潮は、これらの伝統的な美徳を侵食していきました。富の追求が最優先され、孤児や寡婦、貧者といった社会的弱者が顧みられなくなる風潮が広がったのです。

また、ビザンツ帝国やササン朝との接触を通じて、キリスト教やユダヤ教といった、厳格な倫理観を持つ一神教の思想が、アラビア半島にも断片的に伝わっていました。一部の思索家(ハニーフと呼ばれた)たちは、伝統的な偶像崇拝に疑問を抱き、唯一絶対の神の存在を模索し始めていました。

このように、イスラームが誕生する直前のメッカは、経済的な繁栄の影で、深刻な社会的・倫理的な退廃と、精神的な渇望が渦巻く、大きな変革のエネルギーをはらんだ社会だったのです。ムハンマドの登場とイスラームの教えは、まさにこのような時代の矛盾と問いかけに対する、一つのラディカルな応答として現れたのでした。

2. ムハンマドの生涯

2.1. 少年期から青年期

イスラームの創始者である預言者ムハンマドは、570年頃、メッカのクライシュ族に属するハーシム家の一員として生まれました。ハーシム家は、クライシュ族の中では名門でしたが、ムハンマドが生まれた頃にはその勢いは衰え、決して裕福ではありませんでした。

彼は、生まれる前に父アブドゥッラーを、そして6歳の時には母アーミナを亡くし、孤児となりました。その後、祖父アブドゥルムッタリブ、そして叔父のアブー=ターリブに引き取られて育てられました。この幼少期の体験は、後に彼が説く教えの中で、孤児や寡婦といった社会的弱者の保護を繰り返し強調する背景になったと考えられています。

青年時代のムハンマドは、叔父の隊商貿易を手伝い、誠実で正直な人柄から、周囲の人々から「アル=アミーン(信頼できる人)」と呼ばれていました。その評判を聞きつけた、ハディージャという名の裕福な未亡人が、彼に自分の隊商の責任者を任せます。ムハンマドは、その仕事を見事にこなし、ハディージャの信頼を得ました。やがて二人は結婚し、当時25歳だったムハンマドは、15歳年上のハディージャを妻に迎え、経済的に安定した生活を送るようになります。

2.2. 最初の啓示

経済的な安定を得たムハンマドでしたが、当時のメッカ社会に広がる貧富の差の拡大、伝統的な部族社会の美徳の喪失、そして偶像崇拝といった精神的な退廃に、深い苦悩を抱いていました。彼は、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟に籠り、瞑想にふけるようになります。

610年頃、40歳になっていたムハンマドが、いつものようにヒラー山の洞窟で瞑想していた時、彼の人生を決定づける出来事が起こります。突如、大天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、彼に神の言葉を告げたのです。これが、イスラームにおける「最初の啓示」です。ジブリールは、畏れおののくムハンマドに「誦(よ)め!」と迫り、彼にアッラー(唯一神)の言葉を授けました。

この体験に衝撃を受けたムハンマドは、自分が狂気にとらわれたのではないかと苦悩しますが、妻ハディージャの励ましによって、自らが神によって選ばれた預言者(ナビー)としての自覚を固めていきます。これ以後、約23年間にわたって彼が受けた啓示をまとめたものが、イスラームの聖典『クルアーン(コーラン)』です。

2.3. メッカでの布教と迫害

預言者としての自覚を得たムハンマドは、メッカの人々に対して、神の教えを説き始めました。その教えの核心は、極めてシンプルかつラディカルなものでした。

  • 唯一神アッラーへの絶対的な帰依: 宇宙を創造し、支配する唯一絶対の神アッラーのみを崇拝し、他のいかなる神々も拝んではならない(厳格な一神教)。
  • 偶像崇拝の否定: カーバ神殿に祀られているような偶像は、人間が作り出したものであり、崇拝の対象としてはならない。
  • 最後の審判と来世: この世の終わりには「最後の審判」が訪れ、すべての人間は復活し、生前の行いに応じて、天国での永遠の報奨か、地獄での永遠の懲罰を受ける。
  • 社会的正義: 富める者は、貧しい者や孤児、寡婦といった社会的弱者を助け、富を分かち合わなければならない。喜捨(ザカート)は信者の義務である。

最初の頃、彼の教えに耳を傾けたのは、妻ハディージャ、従弟のアリー、親友のアブー=バクルなど、ごく少数の人々でした。しかし、ムハンマドが公然と布教を始め、特にカーバ神殿の神々を偶像として否定するようになると、メッカの支配層であったクライシュ族の有力者たちから、激しい敵意と迫害を受けるようになります。

クライシュ族にとって、ムハンマドの教えは、彼らの経済的・宗教的権威の根幹を揺るがす、極めて危険な思想でした。カーバ神殿への巡礼が途絶えれば、メッカの商業都市としての繁栄は失われてしまいます。彼らは、ムハンマドの信者(ムスリム)たちに対して、嘲笑や嫌がらせから、暴力的な迫害まで、あらゆる手段で布教活動を妨害しました。

この困難な時期に、ムハンマドを精神的にも、また部族社会の掟の上でも守り続けたのが、妻ハディージャと、叔父でありハーシム家の長であったアブー=ターリブでした。しかし、619年、この二人が相次いで亡くなると(「悲しみの年」)、ムハンマドはメッカでの最大の庇護者を失い、その立場は一層危険なものとなりました。

2.4. ヒジュラ(聖遷)とウンマの形成

メッカでの布教活動に行き詰まりを感じていたムハンマドに、新たな転機が訪れます。メッカの北約350キロに位置するオアシス都市ヤスリブ(後のメディナ)から、使者が訪れたのです。

当時のヤスリブは、アラブ系の二大部族(アウス族とハズラジ族)と、いくつかのユダヤ教徒の部族が共存していましたが、長年にわたる部族間の抗争に疲弊していました。彼らは、メッカで信頼の厚い調停者として知られていたムハンマドを、自分たちの指導者として迎え入れ、町の対立を収めてもらおうと考えたのです。

ムハンマドはこの申し出を受け入れ、622年9月24日、クライシュ族の暗殺計画を逃れて、少数の信者と共にメッカを脱出し、ヤスリブへと移住しました。この出来事を「ヒジュラ(聖遷)」と呼びます。ヒジュラは、イスラームの歴史における最大の転換点であり、後にイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年と定められました。

ヤスリブに移ったムハンマドは、町の名前を「マディーナ・アン=ナビー(預言者の町)」、すなわちメディナと改めました。そして彼は、単なる宗教的指導者としてだけでなく、政治的・軍事的な指導者としても、新しい共同体の建設に着手します。

彼は、メッカからの移住者(ムハージルーン)と、メディナの入信者(アンサール)、そしてメディナに住むユダヤ教徒との間に協定(メディナ憲章)を結びました。この協定は、信仰の違いを超えて、アッラーを最高権威とする一つの政治的共同体「ウンマ」を形成することを宣言するものでした。これにより、イスラームは、従来の血縁に基づく部族社会の論理を乗り越え、信仰の絆に基づく新しい共同体として、明確な社会的・政治的実体を持つに至ったのです。

2.5. メッカとの戦いとアラビア半島の統一

メディナでウンマを確立したムハンマドでしたが、故郷メッカのクライシュ族との対立は続きました。メッカからの移住者たちは財産を奪われており、彼らの生活を支えるため、ムハンマドはメッカの隊商を襲撃することを許可します。

これにより、両者の間で数度にわたる戦闘が繰り広げられました。624年のバドルの戦いでは、ムスリム軍は数で劣りながらも奇跡的な勝利を収め、ウンマの結束を強めました。翌年のウフドの戦いでは敗北を喫しますが、627年のハンダク(塹壕)の戦いでは、メッカの大軍によるメディナ包囲を巧みな防衛戦で凌ぎきり、メッカの軍事的な優位を覆しました。

この間、ムハンマドは、メッカと内通したメディナのユダヤ教徒部族を追放・処罰し、ウンマの内部を固めました。当初、ユダヤ教徒との協調を目指していたムハンマドは、彼らが自らを預言者として認めなかったことから、次第にイスラームの独自性を明確にしていきます。礼拝の方向(キブラ)をエルサレムからメッカのカーバ神殿へと変更したのもこの時期です。

軍事的な成功と、周辺のベドウィン部族との同盟を通じて、ムスリムの勢力は急速に拡大しました。そして630年、ムハンマドは一万の大軍を率いてメッカに進軍します。ほとんど抵抗を受けることなく、彼は故郷への無血入城を果たしました。

メッカを征服したムハンマドは、カーバ神殿にあった360の偶像をすべて破壊し、カーバを唯一神アッラーを祀るための神殿として聖別しました。しかし、彼はメッカの住民に対して寛大な措置をとり、多くの者がイスラームに改宗しました。

メッカの征服は、ムハンマドの権威を決定的なものにしました。アラビア半島各地の部族が、次々と彼の元に使者を送り、同盟を結んでイスラームを受け入れました。こうして、彼の死の直前には、長らく分裂と抗争を続けてきたアラビア半島は、イスラームという新しい信仰のもとに、史上初めて統一されるに至ったのです。

632年、最後の巡礼(ハッジ)を終えたムハンマドは、メディナで病に倒れ、63歳の生涯を閉じました。彼は、後継者を明確に指名することなくこの世を去り、その死はウンマに大きな動揺と、後々まで続く深刻な問題を残すことになりました。

3. 正統カリフ時代と大征服

3.1. 預言者の死と後継者問題

632年のムハンマドの死は、生まれたばかりのイスラーム共同体(ウンマ)を最大の危機に陥れました。彼は神の言葉を伝える「預言者」でしたが、同時にウンマを率いる政治的・軍事的な指導者でもありました。しかし、彼自身が「最後の預言者」であるとされていたため、彼と同じ資格を持つ後継者はあり得ませんでした。さらに、彼は後継者を明確に指名していなかったため、誰がウンマを指導するのかという問題が、喫緊の課題として浮上したのです。

ウンマの有力者たちが協議を重ねた結果、ムハンマドの古くからの親友であり、最初期の信者の一人であったアブー=バクルが、ウンマの指導者として選出されました。彼は、「預言者の代理人(後継者)」を意味する「カリフ」という称号を名乗りました。これが、イスラームの歴史におけるカリフ制度の始まりです。

アブー=バクル以後、ウマル、ウスマーン、アリーと続く4代のカリフは、いずれもムハンマドの側近(サハーバ)の中から、有力者たちの合議によって選出されました。このため、この時代(632年 – 661年)は、後世のスンナ派(スンニ派)イスラーム教徒から、イスラームの理想的な統治が行われた時代と見なされ、「正統カリフ時代(ラーシドゥーン)」と呼ばれています。

3.2. アブー=バクルの治世とリッダ戦争

初代カリフとなったアブー=バクルの最初の課題は、預言者の死をきっかけに動揺するウンマの再統一でした。アラビア半島各地の部族の中には、ムハンマド個人に忠誠を誓っていただけであり、彼の死によってウンマへの忠誠義務は消滅したと考える者が多く現れました。彼らは、イスラームの義務である喜捨(ザカート)の支払いを拒否し、ウンマから離反しました。また、自らを新たな預言者と称する者も各地に現れました。

この一連の離反運動を「リッダ(背教)」と呼びます。アブー=バクルは、これをウンマに対する重大な反逆とみなし、断固たる態度で臨みました。彼は、各地に討伐軍を派遣し、約1年間にわたる厳しい戦い(リッダ戦争)の末に、すべての反乱を鎮圧し、アラビア半島をイスラームのもとに再統一することに成功しました。この勝利は、ウンマの結束を固め、その後の大征服事業へと向かうための重要な基盤を築きました。

3.3. 大征服の始まりとその要因

リッダ戦争で再編・強化されたムスリム軍のエネルギーは、次にアラビア半島の外へと向けられました。第2代カリフ、ウマルの時代(634年 – 644年)に、イスラーム史上名高い「大征服」が本格的に開始されます。

アラブのムスリム軍は、驚異的な速さで、当時世界を二分していた二大帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とササン朝ペルシアに戦いを挑み、連戦連勝を重ねました。

  • 対東ローマ帝国: 636年のヤルムークの戦いで東ローマ軍に決定的な勝利を収め、シリアとパレスチナを征服。642年にはエジプトを征服した。
  • 対ササン朝ペルシア: 637年のカーディシーヤの戦い、642年のニハーヴァンドの戦いでペルシア軍を壊滅させ、首都クテシフォンを陥落させた。ササン朝は事実上崩壊し、その広大な領土はイスラームの支配下に入った。

わずか10年ほどの間に、アラビア半島の遊牧民に過ぎなかったアラブ人が、二つの大帝国を打ち破り、シリアからエジプト、イラク、イランに至る広大な領域を征服したことは、世界史上の奇跡とも言えます。その成功の要因は、複合的なものでした。

  1. 二大帝国の疲弊: 東ローマ帝国とササン朝ペルシアは、長年にわたる抗争で互いに国力を消耗しきっており、アラブの侵攻に対して有効な防衛体制をとることができなかった。
  2. 被征服民の協力: 東ローマ帝国領内のシリアやエジプトでは、キリスト教の単性論派などの異端とされた宗派の信者が、コンスタンティノープルの中央政府から重税と宗教的迫害を受けていた。彼らは、宗教に寛容なイスラームの支配を、解放として歓迎する傾向があった。
  3. ムスリム軍の士気の高さ: イスラームの教え(ジハード、聖戦)に鼓舞された兵士たちは、殉教すれば天国に行けるという強い信仰心を持ち、極めて士気が高かった。
  4. 巧みな軍事戦術: 砂漠での機動性に優れたラクダや馬を駆使した戦術は、重装歩兵を中心とする帝国軍を翻弄した。
  5. 寛容な統治政策: ムスリムは、被征服民に対して、イスラームへの強制的な改宗を求めなかった。キリスト教徒やユダヤ教徒などの「啓典の民(ズィンミー)」は、人頭税(ジズヤ)と土地税(ハラージュ)を支払うことで、従来の信仰と生命、財産を保障された。この寛容な政策は、無用な反乱を防ぎ、安定した統治を可能にした。

3.4. ウマルの統治と制度整備

第2代カリフのウマルは、優れた軍事指導者であると同時に、急拡大した帝国を統治するための制度設計者でもありました。

  • 軍営都市(ミスル)の建設: 征服地に、バスラ、クーファ(イラク)、フスタート(エジプト)といった軍営都市を建設した。これらは、アラブ人兵士の駐屯地であると同時に、征服地統治の拠点となった。アラブ人を被征服民から隔離することで、彼らの戦闘能力を維持し、現地の社会秩序を急激に乱さないようにする狙いがあった。
  • ディーワーン制の確立: 兵士や功労者に対して、戦利品からの現金支給(アター)を行うための名簿台帳(ディーワーン)を整備した。これにより、国家の収入と支出を管理する財政制度の基礎が築かれた。
  • ヒジュラ暦の制定: ムハンマドのヒジュラ(622年)を紀元とする、イスラーム独自の暦を定めた。

3.5. ウスマーンの治世とクルアーンの編纂

第3代カリフ、ウスマーンの時代(644年 – 656年)にも征服活動は続けられましたが、彼の治世にはウンマ内部の不満が高まり始めました。ウスマーンは、メッカのクライシュ族の中でも、かつてムハンマドを迫害したウマイヤ家の出身でした。彼は、カリフになると、自らの一族であるウマイヤ家の人々を、エジプト総督などの要職に任命しました。この縁故主義的な人事は、イスラームへの貢献度(イスラームへの入信の早さ)を重視する古参の信者たちから、強い反感を招きました。

また、征服によって得られた富の分配をめぐる不公平感も、不満を増大させました。特に、イラクの軍営都市に駐留する兵士たちの間では、カリフとシリアに駐留するウマイヤ家系の総督が富を独占しているという不満が渦巻いていました。

一方で、ウスマーンの治世における最大の功績は、聖典『クルアーン』の正典を編纂したことです。当時、ムハンマドの啓示は、人々の記憶や、石や骨、椰子の葉などに断片的に記録されているだけで、地方によって異なる異本が流布していました。ウスマーンは、教えの統一性を保つため、信頼できる弟子たちに命じて、唯一の公式なテキストを編纂させ、それ以外の写本はすべて焼却させました。これが、現在まで伝わるクルアーンの原型です。

3.6. 第一次内乱(フィトナ)とアリーの死

ウスマーンへの不満は、ついに爆発します。656年、エジプトからの不満分子がメディナのウスマーンの邸宅を襲撃し、彼はクルアーンを読んでいる最中に暗殺されてしまいました。カリフの暗殺という前代未聞の事態は、ウンマを深刻な分裂へと導きます。

ウスマーンの死後、第4代カリフに選出されたのが、ムハンマドの従弟であり、娘ファーティマの夫でもあったアリーです。しかし、ウマイヤ家出身のシリア総督ムアーウィヤは、アリーがウスマーン暗殺の責任者を処罰しないことを理由に、彼への忠誠を拒否しました。

こうして、カリフの地位をめぐって、アリーとムアーウィヤの間で、ムスリム同士が戦う最初の本格的な内乱(フィトナ)が勃発しました。657年のシッフーンの戦いで両軍は対峙しますが、決着がつかず、調停に持ち込まれました。しかし、この調停という妥協的な手段に反発したアリーの支持者の一部が、「審判は神のみに属す」と主張して彼のもとを去り、「ハワーリジュ派」と呼ばれる過激な一派を形成しました。

アリーは、このハワーリジュ派との戦いに追われることになり、661年、最終的にハワーリジュ派の刺客によって暗殺されてしまいました。

アリーの死後、シリア総督ムアーウィヤがカリフとなり、ウマイヤ朝を開きます。これにより、合議によってカリフが選出された正統カリフ時代は終わりを告げ、カリフ位が世襲される王朝の時代へと移行しました。

この第一次内乱は、イスラーム世界のその後の歴史を決定づける、極めて重大な分裂を残しました。アリーとその子孫こそが、ムハンマドの正統な後継者(イマーム)であると信じる人々が、「シーア・アリー(アリーの党派)」、すなわち「シーア派」を形成しました。一方で、アブー=バクルから始まる4代の正統カリフの正当性を認め、共同体の合意と慣行(スンナ)を重んじる多数派が、「スンナ派」と呼ばれるようになります。このスンナ派とシーア派の対立は、現代に至るまでイスラーム世界を二分する、根深い対立軸として存続していくことになるのです。

4. ウマイヤ朝とアラブ人の特権

4.1. ムアーウィヤと世襲王朝の始まり

661年、第4代正統カリフであったアリーが暗殺された後、彼の最大の対抗者であったシリア総督ムアーウィヤが、唯一の権力者としてカリフの地位に就きました。彼が創始したのがウマイヤ朝(661年 – 750年)です。

ムアーウィヤの即位は、イスラームの政治体制における画期的な転換点でした。それまでの正統カリフは、有力者たちの合議によって選出されていましたが、ムアーウィヤは生前に自らの息子ヤズィードを後継者に指名し、有力者たちに忠誠を誓わせました。これにより、カリフ位は事実上の世襲となり、イスラームのウンマは、選挙制の共同体から、特定の家系(ウマイヤ家)が支配する世襲君主制国家、すなわち「王朝」へと変貌を遂げたのです。

ムアーウィヤは、優れた政治的手腕を持つ人物でした。彼は、武力だけに頼るのではなく、アラブの部族長たちとの話し合いや、贈物(わいろ)などを通じて利害を調整する「ヒルム(寛容・自制)」と呼ばれる統治術を駆使して、内乱で疲弊した帝国に安定をもたらしました。

また、彼は帝国の重心を、アラビア半島の宗教都市メディナから、自らの権力基盤であり、東ローマ帝国への前線基地でもあるシリアのダマスクスへと移しました。ダマスクスへの遷都は、ウマイヤ朝が、先行する東ローマ帝国の行政組織や統治のノウハウを吸収し、より体系的な帝国統治を目指したことを象徴しています。

4.2. 第二次内乱とイブン=アッズバイルの反乱

ムアーウィヤの死後、息子ヤズィードがカリフ位を継承すると、ウンマは再び内乱(第二次内乱)の時代に突入します。ヤズィードの継承に反対する勢力は二つありました。

一つは、アリーの次男フサインを担ぐシーア派です。680年、フサインはクーファの支持者を頼って挙兵しますが、ウマイヤ朝の軍隊によってカルバラーの地で包囲され、一族郎党と共に惨殺されてしまいました(カルバラーの悲劇)。この事件は、シーア派の信徒に深い悲劇性と殉教の記憶を刻み込み、スンナ派(ウマイヤ朝)への憎悪を決定的なものにしました。

もう一つは、メッカを拠点とした古参の有力者アブドゥッラー=イブン=アッズバイルです。彼は、ウマイヤ家の世襲に反対し、自らをカリフと宣言して、ヒジャーズ(メッカ、メディナ)、イラク、エジプトなど広範な地域の支持を集め、ウマイヤ朝を脅かしました。

この危機を乗り越え、ウマイヤ朝の支配を再確立したのが、第5代カリフのアブドゥルマリク(在位:685年 – 705年)です。彼は、イラクの反乱を鎮圧し、最終的にメッカを攻撃してイブン=アッズバイルを殺害し、10年以上に及んだ内乱を終結させました。

4.3. アブドゥルマリクの改革:アラブ化政策

内乱を収拾したアブドゥルマリクは、ウマイヤ朝の支配を盤石にするため、一連の中央集権化改革を断行しました。その核心は、帝国全土にアラブ的なアイデンティティを確立しようとする「アラブ化政策」です。

  • 行政用語のアラビア語化: それまで、シリアではギリシア語、イラクやイランではペルシア語が行政用語として使われていましたが、アブドゥルマリクはこれらをすべてアラビア語に統一しました。これにより、行政の効率化を図ると同時に、アラビア語を帝国の唯一の公用語としての地位に高めました。
  • イスラーム風新貨幣の鋳造: それまで流通していた東ローマ様式やササン朝様式の貨幣に代わり、アッラーの唯一性やムハンマドの預言者性を示す文言(信仰告白)がアラビア語で刻まれた、独自のイスラーム風金貨(ディーナール)と銀貨(ディルハム)を鋳造しました。これは、帝国の経済的独立と、イスラームのイデオロギーを内外に示す強力な手段となりました。
  • 駅伝制(バリード)の整備: 首都ダマスクスと各州を結ぶ情報伝達網を整備し、中央政府が地方の情報を迅速に把握できるようにしました。

これらの改革を通じて、ウマイヤ朝は単なるアラブ部族の連合体から、アラビア語とイスラームのイデオロギーによって統合された、本格的な「アラブ帝国」としての性格を明確にしていったのです。

4.4. 征服活動の拡大

アブドゥルマリクとその子ワリード1世の治世に、ウマイヤ朝は安定期を迎え、征服活動も再び活発化しました。その版図は、東西に大きく拡大します。

  • 西方: 北アフリカ(マグリブ)全域を征服し、先住民のベルベル人をイスラーム化しました。さらに711年、ベルベル人部隊を率いたターリク=イブン=ズィヤードが、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に上陸し、西ゴート王国を滅ぼしました。イスラーム軍は、ピレネー山脈を越えてフランク王国にまで侵入しましたが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国のカール=マルテルに敗れ、その西進は阻止されました。
  • 東方: 中央アジア方面では、アム川を越えてブハラやサマルカンドを征服し、唐と国境を接するようになりました。また、インダス川下流域のシンド地方にも進出し、イスラームの勢力はインド亜大陸にまで及んだのです。

これにより、ウマイヤ朝の領土は、東は中央アジア・インドから、西はイベリア半島に至る、歴史上稀に見る広大な帝国となりました。

4.5. アラブ人の特権とマワーリーの不満

ウマイヤ朝の社会は、「アラブ人」が支配階級として君臨する、極めて階層的な構造を持っていました。

帝国の支配層は、シリアを拠点とするアラブ人(特にウマイヤ家とその同盟部族)によって固められていました。彼らは、征服地の土地を所有し、ディーワーン(俸給台帳)に登録されてアター(現金支給)を受け、税金を免除されるなど、様々な特権を享受していました。

一方で、征服された土地の非アラブ人で、イスラームに改宗した人々は「マワーリー」と呼ばれました。彼らは、イスラームの教えによれば、アラブ人の同胞と平等であるはずでした。しかし、ウマイヤ朝の統治下では、マワーリーは二級市民として扱われました。彼らは、アターの支給額でアラブ人よりも低く抑えられ、改宗後も人頭税(ジズヤ)の支払いを義務付けられるなど、深刻な差別を受けました。

特に、高い文化的水準を持ち、帝国の行政実務を担っていたイラン(ペルシア)系のマワーリーたちは、このアラブ至上主義的な政策に強い不満を抱きました。彼らは、イスラームの平等の教えを掲げ、ウマイヤ朝の支配の正当性に疑問を投げかけるようになります。

また、非ムスリム(ズィンミー)の改宗が進むにつれて、帝国の財政は深刻な問題に直面しました。改宗者が増えれば、人頭税(ジズヤ)の収入が減ってしまうためです。ウマイヤ朝は、この財政問題を解決するため、改宗したマワーリーにもジズヤを課し続けましたが、これは彼らの不満をさらに煽る結果となりました。

第8代カリフのウマル2世は、この問題の解決を図り、マワーリーを差別せず、すべてのムスリムの税制を平等にしようとする改革を試みましたが、彼の急死により改革は頓挫しました。

こうして、ウマイヤ朝の末期には、イスラームの平等の理念と、アラブ至上主義という現実との間の矛盾が、帝国を内側から蝕んでいきました。シーア派やハワーリジュ派といった宗教的反対派に加え、差別されたマワーリーたちの不満が結びついた時、ウマイヤ朝の支配を根底から覆す、巨大な革命のエネルギーが生まれることになるのです。

5. アッバース朝革命とイラン人の活躍

5.1. ウマイヤ朝への不満の噴出

8世紀半ば、ウマイヤ朝の支配は、その内側に多くの矛盾と不満を蓄積していました。その不満の主な源は、以下の三つの勢力でした。

  1. マワーリー(非アラブ人改宗者): 特にイラン(ペルシア)系のマワーリーは、高度な文明の担い手であるという自負を持ちながらも、アラブ至上主義のもとで二級市民として扱われ、税制面でも差別されていました。彼らは、クルアーンが説くムスリムの平等を求め、ウマイヤ朝の支配を不当なものと考えていました。
  2. シーア派: アリーとその子孫こそがウンマの正統な指導者(イマーム)であると信じるシーア派は、カリフ位を簒奪したウマイヤ家を、不敬虔で世俗的な暴君とみなし、その打倒を悲願としていました。
  3. アッバース家: 預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫であるアッバース家は、同じハーシム家の一員として、ウマイヤ家よりもカリフの地位にふさわしいという血統的な正当性を主張していました。

これらの反ウマイヤ朝勢力は、それぞれ異なる動機を持ちながらも、「ウマイヤ家を打倒し、預言者の一族(アフル・アル=バイト)から正統な指導者を立てる」という共通の目標のもとに結集する可能性を秘めていました。

5.2. 革命運動の開始とアブー=ムスリム

革命の烽火は、帝国の中心であるシリアから遠く離れた、東方のホラーサーン地方(現在のイラン北東部から中央アジアにかけての地域)で上がりました。この地域は、アラブ人入植者と、人口の多数を占めるイラン系住民が混在しており、マワーリーの不満が特に強い場所でした。

アッバース家は、このホラーサーンに秘密裏に宣伝員を派遣し、巧みなプロパガンダ活動を展開しました。彼らは、自らの野心を隠し、「預言者の一族の中から、皆が満足する指導者を選ぶ」という曖昧なスローガンを掲げることで、シーア派やマワーリーの支持を取り付けることに成功しました。

この革命運動を現場で組織し、指導したのが、アブー=ムスリムという謎の多い人物です。彼は、アッバース家の名代としてホラーサーンに派遣され、その卓越した組織力と指導力で、不満を持つアラブ人やイラン系マワーリーをまとめ上げ、強力な革命軍を組織しました。

747年、アブー=ムスリムは、黒い旗(アッバース家のシンボルカラー)を掲げて、ホラーサーンのメルヴで公然と反乱を開始しました。革命軍は、ウマイヤ朝の支配に不満を持つ人々の支持を得て、燎原の火のごとくイラン高原を西進し、イラクへと迫りました。

5.3. アッバース朝の成立とウマイヤ朝の滅亡

749年、アブー=ムスリムの革命軍は、イラクのクーファに入城しました。ここで、アッバース家の一員であるアブー・アル=アッバースが、初代カリフとしてバイア(忠誠の誓い)を受け、アッバース朝(750年 – 1258年)の成立を宣言しました。彼は、その就任演説で、自らを「サッファーフ(惜しみなく血を流す者)」と称し、ウマイヤ家への徹底的な復讐を誓いました。

750年、アッバース朝軍は、チグリス川の支流であるザーブ川のほとりで、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世率いる軍隊と決戦を行いました(ザーブ川の戦い)。この戦いでウマイヤ軍は壊滅的な敗北を喫し、マルワーン2世はエジプトへ逃れる途中で殺害されました。

アッバース朝は、ウマイヤ家の一族を執拗に追跡し、そのほとんどを虐殺しました。この粛清を逃れたアブド・アッラフマーン1世という一人の王子だけが、遠くイベリア半島まで逃れ、後に後ウマイヤ朝を建てることになります。こうして、約90年間にわたってイスラーム世界を支配したウマイヤ朝は、暴力的な革命によってその幕を閉じました。

5.4. 新首都バグダードの建設

アッバース朝革命は、単なる王朝の交代以上の、イスラーム帝国の構造的な大転換を意味していました。その象徴が、首都の移転です。

第2代カリフのマンスールは、ウマイヤ朝の拠点であったシリアのダマスクスを捨て、チグリス川の中流域、かつてササン朝ペルシアの首都クテシフォンが栄えた地の近くに、全く新しい首都を建設しました。これが、バグダードです。

762年に建設が始まったバグダードは、「マディーナ・アッサラーム(平安の都)」と名付けられ、円形の城壁に囲まれた壮大な計画都市でした。その立地は、シリア、イラン、アラビアを結ぶ交通の要衝であり、帝国の重心が、地中海寄りのシリアから、より東方のメソポタミア・イラン世界へと移動したことを明確に示しています。バグダードは、瞬く間に政治・経済・文化の中心として発展し、世界最大級の国際都市として繁栄を極めました。

5.5. イラン人(ペルシア人)の活躍と帝国の変貌

アッバース朝の国家体制は、ウマイヤ朝のそれとは大きく異なっていました。アラブ至上主義は放棄され、イスラームの教えに基づくムスリムの平等が、少なくとも建前上は実現されました。これにより、アラブ人と非アラブ人(マワーリー)の区別は解消され、帝国は、アラブ人だけでなく、イラン人、トルコ人など、様々な民族が参加する、よりコスモポリタン(世界主義的)な「イスラーム帝国」へと変貌を遂げたのです。

この新しい帝国において、特に重要な役割を果たしたのが、革命の原動力となったイラン人たちです。彼らは、古代から続くペルシアの高度な国家統治の伝統を、アッバース朝の官僚制度にもたらしました。

  • ワズィール(宰相)制度: カリフを補佐し、行政全般を統括する最高責任者として、ワズィールの職が設けられました。初期のアッバース朝では、ホラーサーン出身のイラン系豪族であるバルマク家が、代々ワズィール職を世襲し、絶大な権力を振るいました。
  • 官僚制の整備: ササン朝の制度に倣って、中央の行政機構(ディーワーン)が整備され、文書主義に基づく効率的な官僚統治システムが確立されました。

カリフの権力も、ウマイヤ朝時代の「アラブ部族の長」的な性格から、ササン朝の王(シャーハンシャー)のような、神格化された専制君主へとその性格を大きく変えました。カリフは、民衆から隔絶された壮麗な宮殿の奥深くに住み、複雑な宮廷儀礼を通じて、その絶対的な権威を演出しました。

このように、アッバース朝革命は、政治の中心をシリアからイラクへ、支配の担い手をアラブ人から多民族へ、そして国家の性格をアラブ帝国から、ペルシア的な伝統を色濃く反映したイスラーム帝国へと、劇的に転換させる一大事件でした。この変革は、イスラーム文明が、その黄金時代を迎えるための強固な土台を築いたのです。しかし、皮肉なことに、革命を成功に導いたアブー=ムスリムは、その功績と影響力を恐れたマンスールによって、後に粛清されてしまいました。

6. イスラーム科学と「知恵の館」

6.1. イスラーム文明における知の探求

アッバース朝時代のバグダードは、単に政治と経済の中心であっただけでなく、イスラーム文明が生み出した知の巨大な集積地であり、発信地でもありました。イスラーム世界が、8世紀から13世紀頃にかけて、当時の世界の他のどの文明圏よりも、科学、医学、数学、哲学の分野で輝かしい成果を上げたことは、世界史における特筆すべき事実です。

この知的活動の背景には、イスラームの教えそのものが持つ、知の探求を奨励する精神がありました。預言者ムハンマドの言葉(ハディース)として、「知を求めよ、中国にまでも」というものが伝えられており、知識の追求は宗教的な美徳と見なされていました。

また、アッバース朝が支配した領域は、かつてギリシア・ヘレニズム、ペルシア、インドといった古代文明が栄えた地であり、それらの豊かな知的遺産を直接受け継ぐことが可能な、絶好の環境にありました。広大な帝国の安定と、交易による経済的繁栄は、学問や文化活動を支える強力な基盤となったのです。

6.2. 大翻訳運動

イスラーム科学の驚異的な発展の出発点となったのが、8世紀半ばから10世紀頃にかけて、バグダードを中心に行われた大規模な「翻訳運動」です。アッバース朝のカリフやワズィール(宰相)、富裕な市民たちは、学問を熱心に保護し、ギリシア語、シリア語、ペルシア語、サンスクリット語などで書かれた、古代の学術書を、競ってアラビア語に翻訳させました。

この運動の担い手となったのは、キリスト教徒(特にネストリウス派)、ユダヤ教徒、サービア教徒など、ギリシア語やシリア語に堪能な、多様な宗教的背景を持つ学者たちでした。彼らは、イスラームの支配のもとで、信仰の自由を保障されながら、この国家的なプロジェクトに参加しました。

翻訳された文献は、あらゆる分野に及びました。

  • ギリシア哲学: プラトン、アリストテレス、プロティノスなど。
  • ギリシア科学:
    • 数学・天文学: エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』、プトレマイオスの『アルマゲスト』。
    • 医学: ヒポクラテス、ガレノスの医学書。
    • 物理学: アルキメデスの著作。
  • ペルシア: 文学、歴史、統治術に関する書物。
  • インド: 天文学、数学(ゼロの概念と十進法を含む)、医学に関する書物。

この大翻訳運動を通じて、人類の古代の知の遺産の多くが、一度アラビア語という共通の言語に集約されました。もしこの運動がなければ、これらの貴重な知識の多くは、ヨーロッパの中世の混乱の中で散逸し、失われていたかもしれません。

6.3. 「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」

この知的活動の最大の拠点となったのが、9世紀初頭、第7代カリフのマアムーンによってバグダードに設立された、国家的な学術研究機関「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」です。

知恵の館は、単なる図書館ではなく、翻訳センター、天文台、そしてあらゆる分野の学者たちが集う総合的なアカデミーとしての機能を備えていました。カリフは、莫大な資金を投じて、ビザンツ帝国などから貴重な写本を収集させ、様々な宗教的背景を持つ最高の学者たちを、高給でここに招聘しました。

知恵の館では、翻訳作業が組織的に進められると同時に、翻訳された知識を基盤として、独自の創造的な研究が始まりました。学者たちは、古代のテキストを単に受け入れるだけでなく、それを批判的に検討し、観察や実験を通じて検証し、新たな知見を付け加えていったのです。

6.4. イスラーム科学の主な成果

イスラーム世界の学者たちは、翻訳によって得た知識を消化・発展させ、多くの分野で独創的な貢献を果たしました。

  • 数学: インドから伝わった数字(アラビア数字)とゼロの概念を完成させ、ヨーロッパに伝えました。バグダードの数学者フワーリズミーは、方程式の解法を体系化した著作『ジャブルとムカーバラの書』を著し、これが「代数学(アルジェブラ)」の語源となりました。彼の名前は「アルゴリズム」の語源にもなっています。
  • 天文学: プトレマイオスの天動説を継承しつつ、より精密な天体観測に基づいて、その理論の修正を試みました。アストロラーベなどの精巧な観測機器が発明され、各地に天文台が建設されました。多くの星の名前(アルデバラン、ベテルギウスなど)は、アラビア語に由来します。
  • 化学: 錬金術(アルケミー)の研究から、実験に基づく近代化学の基礎が築かれました。ジャービル・イブン=ハイヤーンやラーゼス(アッ=ラーズィー)は、蒸留、結晶化、昇華といった様々な実験手法を開発し、多くの化学物質を発見・分類しました。アルコール、アルカリといった言葉はアラビア語起源です。
  • 医学: ギリシア医学を基礎としながら、臨床経験を重視する実践的な医学が発展しました。ラーゼスは、天然痘と麻疹を初めて臨床的に鑑別したことで知られます。特に、イブン=シーナー(ラテン名:アヴィケンナ)が著した『医学典範(カノン)』は、当時の医学知識を集大成した百科事典であり、イスラーム世界だけでなく、ヨーロッパでも数世紀にわたって医学の最高の教科書として利用されました。各地に病院(ビマリスタン)が設立され、貧富の差なく治療が施されました。
  • 光学: イブン・アル=ハイサム(ラテン名:アルハゼン)は、物が目から放たれる光線によって見えるというギリシア以来の説を否定し、対象物から反射した光が目に入ることによって視覚が生じるという、正しい理論を実験によって証明しました。彼の研究は、後のヨーロッパの光学研究に絶大な影響を与えました。

6.5. 哲学と歴史学、地理学

  • 哲学: イスラーム世界の哲学者は、ギリシア哲学、特にアリストテレスの思想を、イスラームの神学とどのように調和させるかという課題に取り組みました。東方では、イブン=シーナーが、西方(イベリア半島)では、イブン=ルシュド(ラテン名:アヴェロエス)が、アリストテレス哲学の精緻な注釈を行い、その思索は、後にヨーロッパのスコラ学に大きな影響を与え、トマス=アクィナスらによって参照されました。
  • 歴史学: タバリーは、天地創造から説き起こし、預言者たちの歴史を経て、彼自身の時代に至るまでの年代記的な大著『預言者たちと諸王の歴史』を著し、イスラーム歴史学の基礎を築きました。イブン=ハルドゥーン(14世紀、北アフリカ)は、その著書『歴史序説』の中で、都市と遊牧民のダイナミズムに着目し、王朝の興亡に法則性を見出そうとする、極めて近代的な社会学的・歴史哲学的な考察を展開しました。
  • 地理学: 広大な帝国を統治する必要性と、メッカへの巡礼(ハッジ)や商業活動の活発化は、地理学の発展を促しました。イドリースィーは、シチリア島のノルマン王の宮廷で、当時最も正確な世界地図を作成しました。また、イブン=バットゥータ(14世紀、モロッコ)は、アフリカ、中東、インド、中国、東南アジアに至る広大な地域を旅し、その詳細な旅行記『三大陸周遊記(リフラ)』を残しました。

これらの輝かしい知的成果は、後に十字軍や、シチリア、スペイン(レコンキスタ)を通じてヨーロッパ世界に再移入され、12世紀ルネサンスと呼ばれる知的覚醒を引き起こし、さらにはその後のルネサンスや科学革命の重要な知的基盤となったのです。イスラーム文明は、古代の知の継承者であると同時に、それを創造的に発展させ、次の時代へと受け渡す、人類の知的リレーにおける不可欠な走者であったと言えます。

7. 後ウマイヤ朝とイベリア半島の文化

7.1. アブド・アッラフマーン1世の逃避行と建国

750年、アッバース朝革命によってウマイヤ朝が滅亡した際、アッバース朝はウマイヤ家の一族を執拗に追跡し、そのほとんどを虐殺しました。しかし、ただ一人、ウマイヤ家の王子であったアブド・アッラフマーン1世は、この粛清の網を奇跡的にかいくぐり、シリアからエジプト、そして北アフリカ(マグリブ)へと、数年間にわたる苦難の逃避行を続けました。

彼の母はベルベル人であったため、彼は北アフリカのベルベル人のもとに身を寄せ、再起の機会をうかがいました。当時、イスラーム世界の最西端に位置するイベリア半島(アラブ人からは「アンダルス」と呼ばれた)は、アッバース朝の支配が十分に及んでおらず、アラブ系やベルベル系の諸勢力が互いに争う、政治的に不安定な状況にありました。

アブド・アッラフマーン1世は、この好機を捉え、755年にイベリア半島に上陸しました。彼は、ウマイヤ家を支持するシリア系のアラブ人や、現地の支配者に不満を持つ勢力を巧みにまとめ上げ、翌756年、半島の中心都市コルドバを占領し、自らをアミール(総督・太守)と宣言しました。これが、後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)の始まりです。

彼は、アッバース朝のカリフの権威を認めず、政治的に独立した政権を樹立しましたが、宗教的な権威の象徴である「カリフ」の称号を名乗ることは、当初は控えました。

7.2. カリフ宣言と最盛期

後ウマイヤ朝は、建国後も、北部のキリスト教勢力との戦いや、内部の反乱に悩まされ続けましたが、次第にイベリア半島の大部分における支配を確立し、国力を充実させていきました。

その最盛期を築いたのが、アブド・アッラフマーン3世(在位:912年 – 961年)です。彼は、国内の反乱を完全に鎮圧し、北方のキリスト教諸国を圧倒しました。そして、チュニジアにシーア派のファーティマ朝が成立し、カリフを称してアッバース朝の権威を脅かすようになると、929年、彼もまた自らを「カリフ」と宣言し、同時に「神の信仰の擁護者(アン=ナースィル・リ・ディーニッラー)」と名乗りました。

これにより、イスラーム世界には、バグダードのアッバース朝、カイロのファーティマ朝、そしてコルドバの後ウマイヤ朝という、三人のカリフが同時に並び立つという、前代未聞の事態(三カリフ鼎立時代)が現出しました。アブド・アッラフマーン3世のカリフ宣言は、後ウマイヤ朝が、政治的・軍事的にだけでなく、宗教的・文化的な意味においても、東方のイスラーム世界と対等な、独立した文明圏の中心であるという強い自負を示すものでした。

彼の治世の下、首都コルドバは、バグダードやコンスタンティノープルと並び称される、ヨーロッパ最大かつ最も繁栄した国際都市へと発展しました。人口は数十万人に達し、街路は舗装され、夜には街灯が灯り、上下水道が整備され、数多くのモスク、図書館、病院、公衆浴場(ハンマーム)が立ち並んでいたと伝えられています。

7.3. アンダルスの経済と社会

後ウマイヤ朝の繁栄を支えたのは、先進的な農業技術と、活発な商工業でした。イスラーム世界から伝わった新しい灌漑技術によって、米、サトウキビ、綿花、柑橘類などの新しい作物が栽培され、農業生産は飛躍的に増大しました。

コルドバは、絹織物、皮革製品、象牙細工、金属加工品などの手工業の中心地として栄え、その製品はヨーロッパや北アフリカ、東方のイスラーム世界にまで輸出されました。

後ウマイヤ朝の社会の最大の特徴は、その驚くべき多元性と、比較的寛容な宗教政策にあります。アンダルスの社会は、支配層であるアラブ人、軍事力の中心であったベルベル人、イスラームに改宗した現地住民(ムワッラド)、そしてイスラーム支配下で独自の信仰を維持したキリスト教徒(モサラベ)やユダヤ教徒といった、多様な民族・宗教集団から構成されていました。

イスラーム法のもと、キリスト教徒やユダヤ教徒は、人頭税(ジズヤ)を支払うことで、信仰の自由と一定の自治を認められていました。彼らは、アラビア語を学び、アラブの文化や習慣を身につけながら、それぞれの共同体を維持しました。特にユダヤ教徒は、商業、金融、医学、そして行政の分野で重要な役割を果たし、その文化は黄金時代を迎えました。このような異なる文化の共存と交流が、アンダルスに独創的で豊かな文化を生み出す土壌となったのです。

7.4. イスラーム文化の精華

後ウマイヤ朝の宮廷は、学問と芸術の偉大なパトロンでした。コルドバには巨大な図書館が設立され、その蔵書は40万冊に及んだとも言われ、東方のバグダードからも多くの学者が集まりました。

  • 学問: 医学、数学、天文学、植物学などの自然科学が、東方イスラーム世界と並行して、あるいはそれ以上に発展しました。特に、コルドバ出身の医学者ザフラーウィー(ラテン名:アルブカシス)は、優れた外科医であり、彼が著した医学書は、多くの外科手術用具の図と共に、後世のヨーロッパ医学に大きな影響を与えました。
  • 哲学: コルドバは、イスラーム哲学の最大の中心地の一つでした。12世紀には、偉大な哲学者イブン=ルシュド(ラテン名:アヴェロエス)が登場し、アリストテレス哲学の精緻な注釈を通じて、理性と信仰の調和を追求しました。彼の著作は、ラテン語に翻訳され、パリ大学などで研究され、ヨーロッパのスコラ学に計り知れない影響を与えました。
  • 文学: アラビア語による詩作が盛んに行われ、特に恋愛や自然をうたった叙情詩は、後に南フランスのトルバドゥール(吟遊詩人)の詩にも影響を与えたと言われています。
  • 建築・美術: 後ウマイヤ朝の建築の最高傑作が、コルドバのメスキータ(大モスク)です。特に、円柱が林立する内部空間と、赤と白の楔石(せっし)を組み合わせた馬蹄形アーチの連続は、幻想的で荘厳な美しさを創り出しています。また、アブド・アッラフマーン3世がコルドバ郊外に建設した壮麗な宮殿都市マディーナ・アッザフラーも、その栄華を物語っています。後に、ナスル朝の時代にグラナダに建てられたアルハンブラ宮殿は、精緻なアラベスク模様のタイルや、繊細な透かし彫りのスタッコ(化粧漆喰)装飾で知られ、イスラーム美術の到達点の一つとされています。

7.5. 王朝の衰退とレコンキスタ

11世紀初頭、後ウマイヤ朝は、カリフの後継者争いや、宰相による実権の掌握、ベルベル人傭兵の台頭などによって内部から崩壊し、1031年に滅亡しました。

その後、アンダルスは、タイファと呼ばれる中小のイスラーム国家が乱立する、分裂の時代に入ります。このイスラーム側の分裂は、北方のキリスト教諸国に、反撃の絶好の機会を与えました。彼らは、イベリア半島からイスラーム勢力を駆逐しようとする、国土回復運動(レコンキスタ)を本格化させます。

イスラーム側は、北アフリカから来援したベルベル系のイスラーム王朝、ムラービト朝やムワッヒド朝の力によって、一時的にキリスト教勢力の南下を押しとどめましたが、13世紀には、コルドバ、セビリアといった主要都市が次々とキリスト教徒の手に落ちました。

最終的に、イベリア半島における最後のイスラーム王朝となったのは、グラナダを首都とするナスル朝(1232年 – 1492年)だけでした。そして1492年、スペイン王国(カスティリャとアラゴンが統合)の軍隊によってグラナダは陥落し、約800年にわたったイベリア半島のイスラーム支配は、完全にその歴史の幕を閉じたのです。

グラナダの陥落と同じ年、スペイン女王イサベルの援助を受けたコロンブスが、大西洋に向けて出航します。レコンキスタの完了によって生まれたエネルギーが、ヨーロッパを大航海時代、そして世界の覇権を握る時代へと導いていく、大きな歴史の転換点でした。アンダルスで花開いた高度なイスラーム文化は、レコンキスタの過程で、トレドなどに設けられた翻訳拠点を中心に、ヨーロッパ世界へと吸収され、その知的覚醒に大きく貢献しました。

8. シーア派の台頭

8.1. シーア派の起源:後継者問題とカルバラーの悲劇

イスラーム世界を大きく二分する宗派、スンナ派とシーア派。その分裂の起源は、預言者ムハンマドの死直後の後継者(カリフ)問題にまで遡ります。

「シーア」とは、「シーア・アリー(アリーの党派)」を短縮した言葉です。彼らは、ムハンマドの従弟であり娘婿でもあるアリーこそが、その血縁と、ムハンマドからの特別な指名(シーア派の主張)により、ウンマの最初の、そして唯一正統な指導者(イマーム)であったと信じます。したがって、アリーに先立ってカリフとなったアブー=バクル、ウマル、ウスマーンの三人を、正統な後継者とは認めず、簒奪者と見なします。

アリーは、第一次内乱の末に第4代カリフとなりましたが、661年に暗殺され、カリフ位はウマイヤ家のムアーウィヤに奪われました。その後、680年、アリーの次男フサインが、ウマイヤ朝の支配に反旗を翻して挙兵しますが、イラクのカルバラーの地で、一族もろとも虐殺されてしまいます(カルバラーの悲劇)。

この事件は、シーア派の歴史観と信仰において、決定的な意味を持ちました。正義の指導者であるフサインが、不当な権力者(ウマイヤ朝)によって悲劇的な殉教を遂げたという記憶は、シーア派の信仰に、受難と悲劇、そして殉教を尊ぶという強い情念を刻み込みました。毎年、フサインが殉教した日(アーシューラー)には、世界中のシーア派の信徒が、彼の死を悼むための盛大な儀式を行います。

8.2. イマーム論:シーア派の核心的教義

シーア派の教義の核心をなすのが、「イマーム論」です。スンナ派が、カリフをウンマの政治的・軍事的な指導者と考えるのに対し、シーア派は、イマームを単なる政治的指導者以上の、特別な存在と見なします。

シーア派によれば、イマームは、預言者ムハンマドの血筋を受け継ぐアリーの子孫の中から、神によって選ばれ、前任のイマームによって指名される、無謬(絶対に誤りを犯さない)の存在です。彼らは、クルアーンの真の意味を解釈する、神的な知識と霊感を与えられた、宗教的な最高権威者であるとされます。預言はムハンマドで終わったが、神の導きは、イマームを通じて存続すると考えたのです。

このイマームへの絶対的な忠誠と服従が、シーア派の信仰の根幹をなします。しかし、イマームの継承をめぐって、シーア派の内部でも、さらなる分派が生じました。

8.3. シーア派の分派:十二イマーム派とイスマーイール派

  • 十二イマーム派: シーア派の最大多数を占める主流派です。彼らは、初代アリーから数えて、12代目のイマームまでを正統と認めます。しかし、その第12代イマーム、ムハンマド・アル=マフディーは、874年に人々の前から姿を消し、「お隠れ(ガイバ)」の状態に入ったと信じられています。彼は死んだのではなく、今も生きており、この世の終末に救世主(マフディー)として再臨し、地上に正義と公正をもたらすと信じられています。この「隠れイマーム」が再臨するまでの間、イマームに代わって共同体を指導するのが、高位の法学者(ウラマー)たちであるとされます。現在のイラン・イスラーム共和国の国教は、この十二イマーム派です。
  • イスマーイール派: 第6代イマームの死後、その長男イスマーイールを第7代イマームと認める一派です。彼らは、クルアーンには、文字通りの外面的な意味(ザーヒル)と、イマームのみが解き明かすことのできる内面的な真の意味(バーティン)があるとする、秘教的な教義を発展させました。イスマーイール派は、巧みな宣伝員(ダーイー)を各地に派遣する、高度に組織化された秘密結社的なネットワークを築き、アッバース朝の支配を脅かす、最も戦闘的なシーア派勢力となりました。
  • ザイド派: 第4代イマームの子ザイドをイマームと認める一派で、イマームの無謬性を認めないなど、比較的穏健でスンナ派に近い教義を持ちます。主にイエメンで有力です。

8.4. シーア派王朝の成立:ファーティマ朝

アッバース朝の支配下で、シーア派は長らく弾圧される少数派(タキーヤ(信仰隠し)を余儀なくされた)でしたが、9世紀後半からアッバース朝の権威が衰え始めると、各地でその勢力を拡大し、独自の王朝を樹立するに至ります。

その最も輝かしい成功例が、イスマーイール派が建てたファーティマ朝(909年 – 1171年)です。ファーティマ朝の建国者ウバイドゥッラーは、自らを預言者の娘ファーティマとアリーの子孫であり、救世主マフディーであると宣言しました。彼は、北アフリカ(チュニジア)でベルベル人の支持を得て挙兵し、アッバース朝から自立しました。

969年、ファーティマ朝はエジプトを征服し、ナイル川のほとりに新都カイロ(「勝利の都」の意)を建設しました。そして、アッバース朝のカリフに対抗して、自らもカリフを称しました。これにより、イスラーム世界は、バグダード、コルドバ、カイロに三人のカリフが鼎立する時代を迎えます。

ファーティマ朝は、エジプトの豊かな農業生産と、インド洋と地中海を結ぶ東西交易を支配することで、経済的に大いに繁栄しました。首都カイロは、バグダードをしのぐほどの国際都市として発展し、世界最古の大学の一つであるアズハル学院(元々はイスマーイール派の教義を研究・教育するための機関)が創設されました。その支配は、シリア、パレスチナ、ヒジャーズ(メッカ、メディナ)にまで及び、スンナ派のアッバース朝の権威を根底から揺るがしました。

8.5. ブワイフ朝とイラン人のシーア派

一方、アッバース朝のお膝元であるイラクとイランでは、十二イマーム派を奉じるイラン系の軍事政権、ブワイフ朝(932年 – 1055年)が台頭しました。

ブワイフ朝は、イラン北部のカスピ海南岸の山岳地帯から興り、946年にはアッバース朝の首都バグダードを占領しました。しかし、彼らはアッバース朝のカリフを廃位させることはしませんでした。彼らは、スンナ派の宗教的権威の象徴であるカリフを、名目上の君主として保護下に置き、自らは「大アミール」の称号を名乗って、帝国の政治的・軍事的な実権を掌握しました。

これは、シーア派の王朝が、スンナ派のカリフを庇護するという、奇妙な共存関係でした。この背景には、イスラーム世界全体のスンナ派の反発を恐れた、ブワイフ朝の現実的な政治判断がありました。ブワイフ朝の支配のもと、バグダードではシーア派の儀式が公然と行われるようになり、シーア派の神学や法学が体系化されました。イラン人の間では、アラブによる支配への反発と、シーア派の思想が結びつき、イランの民族的アイデンティティの一部としてシーア派が深く根を下ろしていく、重要な契機となりました。

これらのシーア派王朝の台頭は、イスラーム世界が、もはやスンナ派のアラブ人(あるいはその後継者)によって一枚岩で支配される単一の世界ではなく、宗派的、民族的に多元的な世界へと大きく変貌を遂げたことを示しています。シーア派は、政治的な権力を握ることで、その教義を洗練させ、社会的基盤を固め、イスラーム文明の多様性と豊かさを形成する、不可欠な一要素としての地位を確立したのです。

9. トルコ人のイスラーム化

9.1. イスラーム世界とトルコ人の最初の接触

イスラーム世界の歴史における大きな転換点の一つが、中央アジアの草原地帯を原住地とする、テュルク(トルコ)系遊牧民のイスラーム化と、彼らの西方への移動です。彼らの登場は、イスラーム世界の政治・社会構造を根底から変え、新たな時代をもたらしました。

トルコ人とイスラーム世界の最初の本格的な接触は、8世紀半ば、中央アジアの覇権をめぐって、アッバース朝と唐が激突したタラス河畔の戦い(751年)に遡ります。この戦いで、トルコ系のカルルク族がアッバース朝に味方したことで、イスラーム軍は勝利を収め、中央アジアにおけるイスラームの優位が確立されました。これ以降、交易や布教活動を通じて、中央アジアのトルコ人の間に、徐々にイスラームが浸透していきました。

9.2. マムルーク:奴隷軍人から権力者へ

9世紀、アッバース朝のカリフたちは、帝国の軍事力を強化するため、中央アジアから身体強健なトルコ人青少年を奴隷(マムルーク)として大量に購入し、彼らをイスラームに改宗させた上で、カリフ直属の親衛隊として組織しました。

マムルークたちは、部族的なしがらみがなく、カリフ個人に絶対的な忠誠を誓う、理想的な兵士と考えられました。彼らは、アラブ人やイラン人に代わって、アッバース朝の軍事力の中心を担うようになります。

しかし、首都バグダード近郊のサーマッラーに駐屯したトルコ人マムルーク軍団は、次第に自らの軍事力を背景に、政治的な発言力を強めていきました。彼らは、徒党を組んでカリフの廃立を自由に行うようになり、9世紀後半には、アッバース朝の政治は、マムルークの将軍たちによって完全に牛耳られる状態に陥りました。カリフの権威は失墜し、帝国の実権は、奴隷身分から成り上がった軍人たちの手に移ったのです。この現象は、後にエジプトでマムルーク朝が成立するなど、イスラーム世界の各地で見られるようになります。

9.3. 最初のトルコ系イスラーム王朝:カラハン朝とガズナ朝

10世紀後半になると、中央アジアにおいて、トルコ人自身が主体となる、本格的なイスラーム王朝が誕生します。

  • カラハン朝 (999年頃 – 1211年): 中央アジアの東西トルキスタンを支配した、史上初のトルコ系イスラーム王朝です。彼らは、集団としてイスラームを受け入れ、トルコ人のイスラーム化を決定的な流れにしました。彼らのもとで、トルコ語とイスラーム文化が融合した、独自の「トルコ=イスラーム文化」が形成され始めました。
  • ガズナ朝 (962年 – 1186年): サーマーン朝(イラン系イスラーム王朝)に仕えていたトルコ人マムルーク出身のアルプテギーンが、アフガニスタンのガズナを拠点に自立して建てた王朝です。第3代君主のマフムードは、北インドに十数回も遠征を行い(インド侵攻)、ヒンドゥー教寺院の富を略奪し、パンジャーブ地方を支配下に置きました。彼の遠征は、インドにおけるイスラーム勢力の足がかりを築き、後のデリー=スルタン朝の成立へと繋がっていきます。

9.4. セルジューク朝の登場とスンナ派の擁護者

11世紀、イスラーム世界の政治地図を塗り替える、巨大なトルコ人の波が到来します。それが、オグズ族の一派であるセルジューク家とその指導者トゥグリル=ベクに率いられた、セルジューク朝(1038年 – 1194年)です。

セルジューク族は、中央アジアからイラン高原へと移動し、1055年、トゥグリル=ベクは、大軍を率いてアッバース朝の首都バグダードに入城しました。当時、バグダードは、シーア派のブワイフ朝の支配下にあり、アッバース朝のスンナ派のカリフは、名目上の存在に過ぎませんでした。

トゥグリル=ベクは、ブワイフ朝の勢力を一掃し、カリフをシーア派の圧迫から「解放」しました。これに感謝したカリフは、彼に「スルタン(権威、支配者)」という、世俗の君主を意味する称号を正式に授与しました。

この出来事は、極めて重要な意味を持ちます。これにより、「カリフ」がイスラーム世界の宗教的な最高権威者であり、「スルタン」がそのカリフから統治を委任された、世俗の政治・軍事の最高権力者である、という役割分担(政教分離)が、理論的に確立されたのです。

セルジューク朝は、スンナ派の忠実な擁護者として、シーア派(特にファーティマ朝)の勢力に対抗しました。宰相ニザーム・アル=ムルクは、バグダードをはじめ、帝国の主要都市に、スンナ派の神学や法学を教えるためのマドラサ(学院)、ニザーミーヤ学院を設立しました。これは、シーア派のファーティマ朝がカイロにアズハル学院を設立したことへの対抗策であり、スンナ派の教義を体系化し、優秀な官僚や学者を育成することを目的としていました。

9.5. 東西への拡大と十字軍

セルジューク朝は、その後も領土を拡大し、シリア、パレスチナをファーティマ朝から奪い、さらに小アジア(アナトリア)へと進出しました。1071年のマンジケルトの戦いで、スルタンのアルプ=アルスラーンは、東ローマ帝国軍に壊滅的な打撃を与え、皇帝を捕虜にしました。この戦いの結果、小アジアへのトルコ人の移住とイスラーム化が本格的に始まり、この地が、後のオスマン帝国の発祥地となる、歴史的な土台が築かれました。

しかし、セルジューク朝のシリア・パレスチナ進出と、聖地エルサレムの占領は、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えました。東ローマ皇帝からの救援要請をきっかけとして、1096年、第1回十字軍が派遣されることになります。

セルジューク朝は、スルタンの死後に発生した内紛によって分裂しており、十字軍に対して有効な抵抗ができませんでした。その結果、十字軍はエルサレムの占領に成功し、レヴァント地方(地中海東岸)にエルサレム王国などの十字軍国家を建国しました。

9.6. トルコ人がもたらした変化

セルジューク朝の支配も、12世紀末には内紛や地方政権の自立によって衰退しますが、トルコ人のイスラーム世界への登場は、不可逆的な変化をもたらしました。

  • 軍事・政治の変化: イスラーム世界の支配層が、アラブ人、イラン人から、トルコ人へと大きく転換しました。これ以後、オスマン帝国に至るまで、イスラーム世界の主要地域の多くで、トルコ系の軍人王朝が支配者となります。彼らの支配のもとで、イクター制(軍人や官僚に、給与の代わりに一定地域の徴税権を与える制度)が広く普及し、封建的な社会構造が発展しました。
  • スンナ派の復興: シーア派のブワイフ朝やファーティマ朝の台頭によって一時後退していたスンナ派が、セルジューク朝という強力な軍事的庇護者を得て、その優位を回復・確立しました。
  • 文化の変容: トルコ人の支配は、アラビア語、ペルシア語の文化に加え、トルコ語の要素をイスラーム文化にもたらし、その多元性をさらに豊かにしました。

中央アジアの遊牧民であったトルコ人は、イスラームを受け入れ、その文明の担い手、そして守護者へと変貌を遂げました。彼らのダイナミズムは、停滞しつつあったイスラーム世界に新たな活力を注入し、その歴史を次のステージへと推し進める、巨大な原動力となったのです。

10. スーフィズム(イスラーム神秘主義)

10.1. スーフィズムとは何か

イスラームというと、クルアーンの教えを厳格に守り、シャリーア(イスラーム法)に定められた五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)を実践するという、規範的で法学的な側面が強調されがちです。しかし、イスラームにはもう一つ、非常に重要で、豊かな内面的な側面が存在します。それが、スーフィズム(タサッウフ)と呼ばれる、イスラーム神秘主義の潮流です。

スーフィズムの究極の目標は、法学的な義務の実践を超えて、個人の内的な精神修行を通じて、神(アッラー)との直接的な合一体験(ファナー)に到達することにあります。スーフィー(神秘主義者)たちは、世俗的な欲望から離れ、清貧と禁欲の生活を送り、ズィクル(神の御名を繰り返し唱えること)や瞑想といった修行を通じて、自己を滅却し、神との合一という至高の境地を目指しました。

「スーフィー」という言葉の語源は、彼らが質素な羊毛(スーフ)の衣をまとっていたことに由来すると言われています。

10.2. スーフィズムの起源と発展

スーフィズムの起源は、イスラームの初期にまで遡ることができます。預言者ムハンマドの敬虔な仲間たちの中にも、禁欲的な生活を送る人々は存在しました。

しかし、スーフィズムが明確な潮流として現れるのは、ウマイヤ朝の時代です。ウマイヤ朝のカリフたちが、世俗的な富と権力を追求し、奢侈な宮廷生活を送るようになると、これに反発した敬虔な信者たちの中から、現世の快楽を避け、内面的な信仰を深めることを重視する、禁欲主義的な運動が生まれました。イラクのバスラを中心に活動した、ハサン・アル=バスリーなどが、その初期の代表的人物です。

アッバース朝時代になると、スーフィズムは、より体系的な思想へと発展します。バグダードのジュナイドは、スーフィズムの思想と、スンナ派の正統的な教義とを調和させようと試みました。一方で、ハッラージュのように、「我は真理(神)なり」と叫び、神との合一体験を公言したために、既存の法学者(ウラマー)から異端と見なされ、処刑されるスーフィーも現れました。

10.3. ガザーリーによる理論的完成

スーフィズムが、スンナ派イスラームの正統的な学問体系の中に、確固たる地位を築く上で、決定的な役割を果たしたのが、11世紀から12世紀にかけて活躍した、偉大なイスラーム学者ガザーリーです。

ガザーリーは、セルジューク朝の宰相ニザーム・アル=ムルクに招聘され、バグダードのニザーミーヤ学院で最高の教授として名声を博した、当代随一の法学者・神学者でした。しかし、彼は、法学や神学といった理性的な学問だけでは、信仰の確信を得られないという深刻な懐疑に陥り、すべての公職を捨てて、スーフィーとして長い巡礼と修行の旅に出ます。

約10年にわたる修行の末、彼は、神秘主義的な直観的体験の中にこそ、信仰の真理が存在することを見出しました。そして、その主著『諸学の再生』の中で、シャリーア(イスラーム法)を遵守する外面的な実践と、スーフィズムの内面的な精神修行は、決して矛盾するものではなく、むしろ車の両輪のように、イスラームという信仰を完成させるために不可欠な両側面であると論じました。

ガザーリーのこの理論的統合によって、それまでしばしば異端視されることもあったスーフィズムは、スンナ派の正統信仰の一部として、公式に認知されることになったのです。

10.4. スーフィー教団(タリーカ)の形成

12世紀以降、スーフィズムは、一人の偉大なスーフィー(聖者、ワリー)とその弟子たちの集団という形で、組織化されていきます。この組織を「タリーカ(道)」と呼び、一般的には「スーフィー教団」と訳されます。

それぞれのタリーカは、独自の創始者を持ち、その創始者から受け継がれた、特有の修行方法(ズィクルの形式など)や教えを持っていました。弟子たちは、師(シャイフ、ピール)に絶対的に帰依し、その指導のもとで精神的な階梯を上っていくことを目指しました。

有名なタリーカとしては、以下のようなものがあります。

  • カーディリー教団: バグダードの聖者アブド・アル=カーディル・アル=ジーラーニーによって創始され、世界で最も広範に広まった教団の一つ。
  • メヴレヴィー教団: 小アジア(トルコ)で、詩人ジャラール・アッディーン・ルーミーによって創始された。スカートをはいた修行僧が、音楽に合わせて回転舞踊(セマー)を行うことで知られる。
  • ナクシュバンディー教団: 中央アジアに起源を持ち、静かな瞑想(無言のズィクル)を重視する。オスマン帝国やムガル帝国でも大きな影響力を持った。
  • チシュティー教団: インドを中心に広まった教団で、音楽(カッワーリー)を修行に用いることで知られる。

これらのタリーカは、ザウウィヤやハーンカーと呼ばれる修行所を拠点として、イスラーム世界の隅々にまでそのネットワークを広げていきました。

10.5. スーフィズムが果たした歴史的役割

スーフィズムは、イスラームの歴史において、極めて重要な役割を果たしました。

  1. イスラームの民衆化: 難解な法学や神学とは異なり、スーフィズムは、聖者への崇敬や、音楽、舞踊といった、より感情的で分かりやすい形で、民衆の心をとらえました。スーフィーの聖者たちは、しばしば奇跡を起こす超能力者として、あるいは民衆の悩みを聞き、祝福を与える存在として、庶民から深く敬愛されました。聖者の墓廟への参詣は、メッカへの巡礼と並ぶ、重要な民衆信仰の対象となりました。
  2. イスラームの平和的拡大: スーフィズムは、イスラーム世界の辺境地域への布教において、決定的な役割を担いました。特に、インド、東南アジア、サハラ以南のアフリカ、中央アジアのトルコ人・モンゴル人の間では、軍事的な征服によってではなく、各地を旅したスーフィーの商人や宣教師の活動によって、イスラームが平和的に広がっていきました。
  3. 文化の融合と寛容性: スーフィーたちは、しばしば現地の土着の信仰や慣習に対して、比較的寛容な姿勢をとりました。彼らは、イスラームの教えを、ヒンドゥー教のヨーガや、現地の聖者崇拝などと結びつけ、融合させることで、異文化を持つ人々がイスラームを受け入れやすくしました。インドにおけるバクティ運動との交流や、東南アジアのイスラーム化の過程で、スーフィズムは重要な触媒の役割を果たしたのです。
  4. 社会的な役割: スーフィー教団の修行所は、単なる宗教施設ではなく、旅人のための宿泊所、貧者のための炊き出し場、地域の紛争の調停の場といった、様々な社会的な機能を果たし、地域の共同体の核となりました。

スーフィズムは、イスラームの硬直化を防ぎ、その教えに精神的な深みと、文化的な柔軟性を与えました。それは、イスラームが、多様な民族と文化を内包する世界宗教へと発展していく上で、法学的な側面と並び立つ、もう一つの巨大な原動力であったと言えるのです。

Module 10:イスラーム世界の総括:唯一神のもとの多様性—継承と創造の文明圏

本モジュールで展開されたイスラーム世界の歴史は、アラビア半島の砂漠から生まれた一つの宗教的ヴィジョンが、いかにして世界史を動かす巨大な文明圏を形成したかという、壮大な叙事詩でした。その核心には、常に「唯一神のもとの多様性」という、一見矛盾したダイナミズムが存在します。

ジャーヒリーヤ時代の部族的混沌の中から、ムハンマドはアッラーという絶対的な一神教の教えを掲げ、信仰の絆に基づく普遍的な共同体「ウンマ」を創出しました。この強固な理念は、正統カリフ時代における驚異的な大征服の原動力となり、短期間で広大な帝国を築き上げます。しかし、その拡大の過程で、後継者問題をめぐる内的な亀裂が生じ、スンナ派とシーア派という、後世まで続く大きな宗派的分裂が運命づけられました。

ウマイヤ朝は、この帝国を「アラブの帝国」としてまとめようとしましたが、そのアラブ至上主義は、イスラームの平等の理念を信じる非アラブ人(マワーリー)の強い反発を招きました。その結果として起こったアッバース朝革命は、帝国をイラン的・コスモポリタン的な「イスラーム帝国」へと変貌させ、古代ギリシアやインドの知を継承・発展させる「知恵の館」に象徴される、輝かしい文化の黄金時代を現出させました。

帝国の政治的統一が揺らぐ中でも、その文明の活力は衰えませんでした。遠くイベリア半島では、後ウマイヤ朝が独自の華やかな文化を育み、シーア派はファーティマ朝やブワイフ朝を打ち立て、イスラーム世界の多元性を証明しました。やがて中央アジアから到来したトルコ人は、当初は傭兵として、後にはスルタンとして、スンナ派世界の新たな軍事的・政治的庇護者となり、イスラーム世界の支配層を大きく転換させます。そして、その広大な文明圏の隅々にまで血を通わせ、多様な民衆の心に信仰を根付かせたのが、スーフィズムという内面的で神秘的な精神性の潮流でした。

このように、イスラーム世界の歴史は、統一と分裂、継承と創造、アラブと非アラブ、スンナ派とシーア派、そして法学と神秘主義といった、数多くの二項対立的な要素が、常に対話し、時には激しく衝突しながら、全体として一つの豊かで重層的な文明を織り上げてきた過程そのものなのです。それは、現代世界を形成する主要な源流の一つを理解するための、不可欠な知的探求の旅と言えるでしょう。

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