【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 11:西ヨーロッパ(1) 封建社会

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本モジュールの目的と構成

西ローマ帝国の崩壊は、地中海世界を覆っていた普遍的な秩序の終焉を意味しました。しかし、しばしば「暗黒時代」というレッテルで語られるこの時代は、単なる衰退と混乱の時代ではありません。それは、古代世界の壮大な遺産の上に、全く新しい文明の礎が築かれた、創造的でダイナミックな形成期でした。本モジュールは、この中世初期ヨーロッパという混沌の中から、いかにして独自の社会・政治秩序が生まれ、後のヨーロッパ世界の原型が形作られていったのか、その核心的なプロセスを解き明かすことを目的とします。

この探求の鍵となるのは、「融合」という視点です。私たちは、三つの異なる源流から流れ込んだ要素が、いかにして混じり合い、新たなヨーロッパ文明という大河を形成していったのかを追跡します。第一に、滅びてもなお絶大な影響力を持ち続けたローマ帝国の行政システム、法、そして「帝国」という理念の記憶。第二に、分裂した世界を精神的に結びつけ、普遍的な価値観を提供したキリスト教とその教会組織。そして第三に、旧帝国の版図に新たな活気と、異なる社会慣習をもたらしたゲルマン民族の戦士的文化です。この三者の複雑な相互作用の中から、「封建制度」という独特の社会構造が生まれてくる過程を理解することが、本モジュールの中心的な課題となります。

学習の旅は、以下の論理的なステップで構成されています。

  1. ゲルマン民族の大移動: まず、古代世界の秩序を最終的に解体し、新たな時代の幕開けを告げる画期となった、大規模な民族移動の動態とその影響を概観します。
  2. フランク王国の発展とカール大帝: ゲルマン諸国家の中から頭角を現し、ローマ、キリスト教、ゲルマンの三要素を初めて統合する試みを成し遂げたフランク王国、特にカール大帝の帝国の歴史的意義を探ります。
  3. 封建制度の成立と荘園制: カール大帝の帝国が分裂し、新たな混乱が訪れる中で、人々の安全を保障するために生まれた、中世ヨーロッパの根幹をなす政治・軍事システム(封建制度)と経済基盤(荘園制)の構造を分析します。
  4. ノルマン人の活動: 封建社会が形成されつつあるヨーロッパに、第二の衝撃の波をもたらしたノルマン人の活動を追跡し、彼らが破壊者としてだけでなく、新たな国家の建設者として果たした役割を評価します。
  5. ローマ=カトリック教会の階層制: 世俗権力が分散する中で、ヨーロッパ世界の唯一の普遍的権威として君臨したローマ教会の組織構造と、その社会的・文化的影響力の源泉を解明します。
  6. 叙任権闘争: 聖(教会)と俗(国家)という、中世ヨーロッパを特徴づける二つの権力が、その主導権をめぐって激しく衝突した画期的な事件を深く掘り下げ、両者の関係性の本質に迫ります。
  7. クリュニー修道院と教会改革: 教会の世俗化という内部の腐敗に対し、その理想を取り戻そうとした修道院改革運動が、いかにして叙任権闘争へと至る理論的・精神的土壌を準備したのかを考察します。
  8. ビザンツ帝国とギリシア正教会: 西ヨーロッパとは対照的に、ローマ帝国の伝統を維持し、皇帝が教会を支配する独自の文明圏を形成した東方のビザンツ帝国を取り上げ、両世界の比較を通じて西ヨーロッパ社会の特質を浮き彫りにします。
  9. 都市の成長: 封建社会の安定を背景に、11世紀頃から再び活気を取り戻し始めた商業と都市の発展が、閉鎖的な荘園経済にどのような変化をもたらしたかを検証します。
  10. 中世ヨーロッパの三身分社会: 最後に、当時の人々が自らの社会をどのように捉えていたのかを示す「祈る人、戦う人、働く人」という社会観を学び、中世ヨーロッパの社会構造とイデオロギーを総括します。

この一連の学習を通じて、読者は、中世西ヨーロッパ社会が、古代の普遍的帝国の崩壊という危機の中から、いかにして地方分権的でありながらも、キリスト教という共通の屋根の下で一つの文明圏としてまとまる、という独自の生存様式を編み出していったのかを理解することができるでしょう。

目次

1. ゲルマン民族の大移動

1.1. 「移動」の時代背景

4世紀後半から6世紀にかけて、ヨーロッパの歴史は、大規模かつ長期にわたる民族の移動によって、その様相を一変させました。一般に「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれるこの現象は、単に一つの民族が移動したのではなく、ゲルマン人、フン人、スラブ人など、多様な集団が連鎖的に、時には平和的に、時には暴力的に、ローマ帝国の国境内外を移動し、定住していった複雑なプロセスでした。

この大移動が始まった直接的なきっかけは、375年、中央アジアから西進してきた騎馬遊牧民フン人が、黒海北岸にいたゲルマン人の一派、東ゴート族を服属させ、続いて西ゴート族を圧迫したことにあるとされています。フン人の恐るべき軍事力に追われた西ゴート族は、集団でドナウ川を渡り、ローマ帝国領内への避難を求めました。

しかし、この現象の背景には、より長期的で複合的な要因が存在しました。

  • 気候変動: ユーラシア大陸全体の寒冷化や乾燥化が、遊牧民の生存環境を悪化させ、彼らをより温暖で豊かな土地へと駆り立てた可能性があります。
  • 人口増加: ゲルマン人の社会で人口が増加し、既存の居住地が手狭になったことも、移動の要因として考えられます。
  • ローマ帝国の弱体化: 3世紀の軍人皇帝時代を経て、ローマ帝国は政治的・経済的に深刻な衰退期に入っていました。広大な国境線を防衛する兵力は不足し、帝国内の経済は停滞していました。この帝国の弱体化が、外部の諸民族にとって、侵入や移住の好機を与えたのです。

1.2. ゲルマン民族とは

「ゲルマン人」とは、単一の民族を指す言葉ではなく、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン語派の言語を話す、多くの部族の総称です。彼らは、もともとバルト海沿岸やスカンディナヴィア半島南部を原住地とし、紀元前1世紀頃には、ローマの歴史家カエサルやタキトゥスによって、その社会や慣習が記録されています。

タキトゥスの『ゲルマニア』によれば、彼らは定住農耕を営んでいましたが、その社会は、自由民の成人男性で構成される民会(シング)が最高の意思決定機関であり、王や首長の権力は、民会の決定や、戦士としてのカリスマに依存する、比較的民主的な性格を持っていました。彼らは、戦闘における勇気を最高の美徳とし、有力者に忠誠を誓い、その代わりに保護と生活の糧を得る「従士制(コムニタートゥス)」と呼ばれる主従関係を重んじていました。この従士制の慣習は、後に中世ヨーロッパの封建制度の起源の一つになったと考えられています。

<h3>1.3. 大移動の展開</h3>

フン人の西進をきっかけに、ゲルマン諸族の移動は、ドミノ倒しのようにヨーロッパ全土へと広がっていきました。

  • 西ゴート族: 375年にローマ領内に移住した後、ローマ当局の不当な扱いに反発して反乱を起こし、378年のアドリアノープルの戦いでローマ皇帝を戦死させました。その後、アラリックに率いられてイタリアに侵入し、410年には首都ローマを略奪、世界に衝撃を与えました。最終的に、彼らは南ガリア(フランス南部)を経てイベリア半島に入り、西ゴート王国を建国しました。
  • ヴァンダル族: ガリア、イベリア半島を経て、ジブラルタル海峡を渡り、ローマ帝国の穀倉地帯であった北アフリカにヴァンダル王国を建国しました(429年)。彼らは、強力な海軍を組織し、地中海を荒らしまわり、455年には海からローマを再び略奪しました。
  • フン人: アッティラ大王のもとで、ヨーロッパ中部に広大な帝国を築き、周辺のゲルマン諸族を支配下に置きました。451年、彼らはガリアに侵入しましたが、カタラウヌムの戦いで、ローマと西ゴートの連合軍に敗れ、その西進は阻止されました。アッティラの死後、フン帝国は急速に崩壊しました。
  • アングロ=サクソン族: 5世紀半ば、ブリタニア(イギリス)にローマ軍が撤退した後の空白地帯に、北ドイツの沿岸部からアングル人、サクソン人、ジュート人が移住し、先住民のケルト人を征服して、七つの小王国(ヘプターキー)を建てました。
  • フランク族: ガリア北部のライン川下流域に定住していたフランク族は、他のゲルマン諸族とは異なり、故地を維持したまま、徐々に南へと勢力を拡大しました。
  • 東ゴート族: フン人の支配から解放された後、テオドリック大王に率いられてイタリア半島に入り、最後の西ローマ皇帝を追放したゲルマン人傭兵隊長オドアケルを倒し、東ゴート王国を建国しました(493年)。
  • ブルグント族: ガリア南東部にブルグント王国を建国しました。
  • ランゴバルド族: 6世紀後半、東ゴート王国が東ローマ帝国によって滅ぼされた後のイタリア北部に侵入し、ランゴバルド王国を建てました。

1.4. 西ローマ帝国の滅亡

相次ぐゲルマン人の侵入と、それに伴う領土の喪失によって、西ローマ帝国の支配領域は、イタリア半島とその周辺にまで縮小していました。皇帝の権威は名ばかりとなり、実権は、ゲルマン人出身の傭兵隊長たちが握っていました。

そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルが、西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥルスを退位させました。オドアケルは、新たな皇帝を立てることなく、西帝国の帝冠と紫衣を、コンスタンティノープルの東ローマ皇帝ゼノンに送り届けました。これは、西方の皇帝はもはや不要であるという意思表示であり、この年をもって、一般的に西ローマ帝国は滅亡したと見なされています。

ただし、これは劇的な断絶というよりも、長期にわたる衰退プロセスの最終的な帰結でした。ローマの文化や社会システムが、この年に突然消滅したわけではありません。しかし、西ヨーロッパ全域を統治する中央権力の消滅は、この地域の政治的状況を決定的に変え、ゲルマン諸族が独自の王国を建設する時代が本格的に到来したことを意味しました。

1.5. ゲルマン諸国家の成立とその特徴

ローマ帝国の旧領土の上に建国されたゲルマン諸国家は、多くの共通した特徴と課題を抱えていました。

  • 少数支配: 支配者であるゲルマン人は、人口においては、被支配者であるローマ系住民の圧倒的少数派でした。
  • 法の二元性: 多くの王国では、ゲルマン人には部族ごとのゲルマン法(慣習法)が、ローマ系住民には従来のローマ法が、それぞれ適用される「属人法主義」がとられました。
  • 宗教問題: ゲルマン人の多くは、キリスト教の一派であるアリウス派を信仰していました。これは、イエス・キリストの神性を完全には認めない教義で、正統派のアタナシウス派(カトリック)からは異端と見なされていました。大多数のローマ系住民がアタナシウス派を信仰していたため、この宗教的な対立は、支配者と被支配者の間の深刻な溝となり、多くの王国の不安定要因となりました。
  • 文化の融合: ゲルマン人は、ローマの進んだ行政システムや文化を、統治のために利用しようとしました。ラテン語は、行政や教会の公用語として使われ続けました。この過程で、ゲルマン文化とローマ文化の融合が、ゆっくりと進んでいきました。

これらのゲルマン諸国家の多くは、内紛や、東ローマ帝国の再征服活動、あるいは後発のフランク王国の拡大などによって、比較的短命に終わりました。その中で、最終的に西ヨーロッパの新たな核として発展していくのが、他の諸国家とは異なる道を歩んだフランク王国でした。彼らは、アリウス派を経ずに、直接カトリックに改宗することで、ローマ系住民やローマ教会との協力関係を築くことに成功したのです。

2. フランク王国の発展とカール大帝

2.1. メロヴィング朝の成立とクローヴィスの改宗

西ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパに林立したゲルマン諸国家の中で、最も長続きし、後世に決定的な影響を与えたのがフランク王国です。その成功の基礎を築いたのが、メロヴィング朝の創始者クローヴィス(在位:481年 – 511年)でした。

フランク族は、もともとライン川下流域に定住していましたが、クローヴィスは、その卓越した軍事的指導力でフランク族の諸部族を統一し、ガリア(現在のフランス)北部に勢力を拡大しました。彼は、ガリアに残存していたローマ系の支配者を破り、さらに南方の西ゴート王国や東方の他のゲルマン部族との戦いにも勝利し、フランク王国の版図を大きく広げました。

クローヴィスの治世における最も重要な決断は、496年頃、キリスト教のアタナシウス派(カトリック)に改宗したことです。当時、他の多くのゲルマン部族の王は、カトリックから異端と見なされていたアリウス派を信仰していました。クローヴィスが、アリウス派を経ずに直接カトリックに改宗したことには、極めて大きな政治的意味がありました。

  • ローマ系住民との融和: 多数派であるガリアのローマ系住民と同じ信仰を持つことで、彼らの支持と協力を得ることが容易になりました。これにより、フランク王国の統治は、他のゲルマン諸国家に比べて、はるかに安定したものとなりました。
  • ローマ教会との提携: ローマ教皇を中心とするカトリック教会は、クローヴィスの改宗を歓迎し、彼を強力に支援しました。このフランク王国とローマ教会の提携関係は、これ以後の中世ヨーロッパ史の基本的な構図となり、両者の運命を深く結びつけることになります。

しかし、メロヴィング朝では、王国を王の私有財産と見なすゲルマンの慣習(分割相続制)が根強く残っていました。王が死ぬたびに、その息子たちの間で王国が分割され、それが絶え間ない内紛の原因となりました。7世紀頃になると、王の権力は次第に形骸化し、実権は「宮宰(マヨル=ドムス)」と呼ばれる、王家の家政を取り仕切る役職の手に移っていきました。

2.2. カロリング朝の台頭とピピンの即位

宮宰の地位は、やがて特定の家系によって世襲されるようになります。それが、カロリング家です。カロリング家のカール=マルテルは、宮宰としてフランク王国の実権を握り、732年のトゥール・ポワティエ間の戦いで、イベリア半島から侵入してきたイスラーム軍を撃退し、西ヨーロッパ世界をイスラームの脅威から守った英雄として、その名声を不動のものにしました。

カール=マルテルの子、ピピン(小ピピン)は、もはや名ばかりとなったメロヴィング朝の王に代わって、自らが正式な王になることを決意します。しかし、単なる武力による王位簒奪では、その正統性は得られません。そこで彼は、当時イタリアでランゴバルド族の圧迫に苦しんでいたローマ教皇に、支持を求めました。

教皇ザカリアスは、「力無き王よりも、力有る宮宰が王になるべきである」との判断を下し、ピピンの王位獲得を承認しました。751年、ピピンはフランクの諸侯に推戴されて王位に就き、カロリング朝を開きました。この出来事は、単なる王朝交代ではなく、ローマ教皇が、世俗の王の廃立に関与し、その正統性を承認するという、極めて重要な前例を作りました。

ピピンは、この見返りとして、ランゴバルド族を討伐し、奪い取った北イタリアのラヴェンナ地方を教皇に寄進しました(「ピピンの寄進」、756年)。これにより、教皇は単なる宗教的指導者としてだけでなく、イタリア中部に広大な領土を持つ世俗の君主(教皇領の始まり)となり、その権力基盤は大きく強化されました。

2.3. カール大帝(シャルルマーニュ)の登場と帝国の拡大

カロリング朝の最盛期を築き、中世初期ヨーロッパにおける最大の英雄と称されるのが、ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ、在位:768年 – 814年)です。

カールは、その生涯のほとんどを、精力的な軍事遠征に費やしました。

  • 東方では、ザクセン族を激しい戦いの末に征服し、キリスト教に改宗させました。
  • 南東では、バイエルンを併合し、さらに東方から侵入してきたアジア系遊牧民アヴァール人を撃退しました。
  • 南方では、イタリアのランゴバルド王国を完全に滅ぼし、教皇領の保護者としての地位を確立しました。
  • 西方では、イベリア半島のイスラーム勢力(後ウマイヤ朝)と戦い、ピレネー山脈の南麓にスペイン辺境伯領を設置しました。

これらの征服活動の結果、フランク王国の版図は、現在のフランス、ドイツ、イタリアの大部分を含む、西ヨーロッパのほぼ全域を覆う広大な帝国となりました。

カールは、この広大な帝国を統治するため、帝国を多くの州(伯領)に分け、それぞれに地方長官である伯(グラーフ)を任命しました。そして、伯の行政を監督するため、巡察使(ミッシ=ドミニキ)と呼ばれる勅使を、定期的に各地へ派遣しました。

2.4. カールの戴冠とその歴史的意義

800年のクリスマス、カール大帝の治世における、そして中世ヨーロッパ史における最も象徴的な出来事が起こります。ローマのサン=ピエトロ大聖堂でミサに参列していたカールの頭に、教皇レオ3世が、予告なしに帝冠を授け、「ローマ人の皇帝」として祝福したのです。

この「カールの戴冠」は、極めて重層的な歴史的意義を持っていました。

  1. 「西ローマ帝国」の復活: 476年の滅亡以来、西ヨーロッパに存在しなかった「ローマ皇帝」の称号が、ゲルマン人の王であるカールによって、300年以上ぶりに復活しました。これは、ローマ帝国の普遍的秩序への憧憬と、その理念を西ヨーロッパの地で再興しようとする試みでした。
  2. ローマ、キリスト教、ゲルマンの融合の象徴: この戴冠は、①古典古代の理念である「ローマ帝国」、②ヨーロッパ世界の精神的支柱である「キリスト教(ローマ教会)」、そして③現実の政治・軍事力である「ゲルマン(フランク王国)」という、中世ヨーロッパ文明を形成する三つの要素が、カールという一人の人格のうちに、そして彼の帝国という政治体において、公式に統合されたことを象徴する出来事でした。
  3. ビザンツ帝国からの独立: ローマ皇帝の称号は、本来コンスタンティノープルの東ローマ(ビザンツ)皇帝が、唯一の正統な継承者であると自負していました。西ヨーロッパに独自の皇帝が誕生したことは、西ヨーロッパ世界が、ビザンツ帝国の権威から政治的にも理念的にも完全に独立し、独自の文明圏として自立したことを内外に宣言するものでした。
  4. 聖俗権力の関係: 戴冠が、教皇の手によって行われたという事実は、皇帝の権威が神から授けられたものであること、そしてその権威を授与する仲介者として、教皇が極めて重要な役割を担うことを示しました。これは、後の聖俗権力闘争(叙任権闘争など)の伏線となり、皇帝権に対する教皇権の優位を主張する根拠として、後々まで利用されることになります。

2.5. カロリング=ルネサンス

カール大帝は、偉大な軍人・政治家であると同時に、学問と文化の復興にも情熱を注ぎました。彼は、ブリタニアから高名な学者アルクィンを招聘し、アーヘン(帝国の首都)の宮廷に、ヨーロッパ各地から優れた聖職者や学者を集めました。

この文化復興運動は「カロリング=ルネサンス」と呼ばれます。その主な目的は、聖職者のラテン語能力の向上と、聖書の正しいテキストの校訂にありました。これにより、キリスト教の教義の統一を図り、帝国の精神的な統合を促進しようとしたのです。

各地の修道院には、付属学校が設立され、古典文芸の研究や写本の作成が奨励されました。この過程で、現在のアルファベットの小文字の原型となった、美しく読みやすい書体(カロリング小文字体)が考案されました。カロリング=ルネサンスは、古代ローマの学問や文化が、中世の混乱の中で完全に失われるのを防ぎ、後の時代へと継承する上で、計り知れないほど重要な役割を果たしたのです。

3. 封建制度の成立と荘園制

3.1. フランク王国の分裂と新たな危機

カール大帝が築いた広大な帝国は、彼の強力な個性によってかろうじて一つにまとめられていましたが、その死後、ゲルマン的な分割相続の慣習が再び表面化し、急速に分裂へと向かいました。

カールの息子たちの間で内乱が続いた後、843年のヴェルダン条約によって、帝国は最終的に3つに分割されました。

  • 東フランク王国: 後のドイツ王国の母体。
  • 西フランク王国: 後のフランス王国の母体。
  • 中部フランク王国: イタリア北部からロタリンギア(ロレーヌ)地方を含む、南北に細長い領域。この領域は、後に東西フランクに吸収されたり、神聖ローマ帝国のイタリア政策の舞台となったりするなど、長く不安定な状態が続いた。

さらに、870年のメルセン条約で、中部フランクの北半分の領土が、東西フランクによって再分割され、現在のドイツ、フランス、イタリアの国境線の原型が、この時代に形成されました。

帝国の分裂によって、西ヨーロッパの政治的統一は失われ、それぞれの王国で王の権威は著しく低下しました。地方の伯(地方長官)たちは、王からの独立性を強め、自らの地位と領地を世襲化していきました。

この政治的混乱に追い打ちをかけたのが、9世紀後半から10世紀にかけて、外部からの異民族の侵入です。

  • 北方からは、ノルマン人(ヴァイキング)が、船で河川を遡り、沿岸部や内陸の都市を繰り返し襲撃、略奪しました。
  • 南方からは、イスラーム教徒(サラセン人)が、北アフリカから地中海を渡って、イタリアや南フランスの沿岸部を脅かしました。
  • 東方からは、アジア系の遊牧民マジャール人(ハンガリー人の祖先)が、東フランク王国に侵入し、騎馬による襲撃を繰り返しました。

王権が弱体化し、帝国規模での防衛システムが機能しなくなった状況で、人々は、もはや遠くにいる王に頼ることはできませんでした。彼らは、自らの生命と財産を守ってくれる、より身近で強力な地域の有力者を頼るようになります。このような安全保障の危機的状況の中から、中世ヨーロッパの社会と政治の根幹をなす「封建制度」が成立していきました。

3.2. 封建制度(フューダリズム)の仕組み

封建制度とは、主として騎士階級(国王、諸侯、騎士)の間の、政治的・軍事的な主従関係のシステムを指します。その基本構造は、二つの要素から成り立っていました。

  1. 人的な主従関係(御恩と奉公):
    • **臣下(ヴァサル、家臣)**は、主君(ロード)に対して、忠誠を誓い(臣従の礼)、主君のために戦う軍事的奉仕の義務を負いました。また、主君の求めに応じて、助言を行ったり、裁判に出席したりする義務もありました。
    • 主君は、その見返りとして、臣下の生命と財産を保護し、その生活を保障する恩恵を与える義務を負いました。
  2. 土地を媒介とする関係(封土):
    • 主君が臣下に与える恩恵の中で、最も重要なものが**「封土(フューダム、フィー)」**と呼ばれる土地(あるいはそれに付随する支配権)でした。臣下は、この封土からの収入によって、自らの生活を維持し、馬や武具を揃えて軍役の義務を果たしました。

この主君と臣下の間の契約は、あくまで個人的なものであり、双務的な(双方に義務がある)性格を持っていました。もし主君が臣下を不当に扱えば、臣下は忠誠の誓いを破棄することも理論上は可能でした。

この主従関係は、国王を頂点として、大諸侯(公、伯)、小諸侯(男爵など)、そして一介の騎士へと至る、ピラミッド状の階層構造を形成しました。国王は、直接には自らの直臣である大諸侯しか支配できず、「臣下の臣下は、我が臣下にあらず」という原則が示すように、その権力は極めて分散的・地方分権的なものでした。それぞれの諸侯は、自らの領地内では、裁判権や徴税権など、国王から独立した権力を行使する、半ば独立した君主のような存在でした。

3.3. 荘園制(マナーリズム)の仕組み

封建制度が、騎士階級の間の政治・軍事システムであったのに対し、その経済的な基盤を支えていたのが「荘園制」です。荘園(マナー)とは、国王、諸侯、教会などが所有する、自給自足を基本とする農業経営の単位でした。

典型的な荘園は、以下のような構造を持っていました。

  • 領主直営地: 荘園の所有者である領主が、直接経営する土地。
  • 農民保有地: 農民たちが、家族を養うために保有を認められた土地。
  • 共同利用地: 森林、牧草地、沼沢地など、領主と農民が共同で利用する土地。

荘園の中心には、領主の館(城)、教会、水車小屋、パン焼き窯などがありました。

3.4. 農奴(サーフ)の生活

荘園で働く農民の多くは、「農奴(サーフ)」と呼ばれる身分でした。彼らは、古代の奴隷とは異なり、人格は認められ、家族を持つことや、わずかながら財産を所有することもできましたが、自由民ではありませんでした。

農奴は、土地に縛り付けられており、領主の許可なく荘園から移住することはできませんでした(移転の不自由)。また、結婚に際しても領主の承認が必要であり、結婚税を支払わなければなりませんでした。領主が亡くなり、荘園が相続される際には、土地と共に農奴も一緒に相続の対象となりました。

農奴は、領主に対して、重い義務と負担を負っていました。

  • 賦役(労働地代): 週のうち数日間、領主直営地を無償で耕作する義務。
  • 貢納(生産物地代): 自らの保有地で得た収穫物の一部(穀物、家禽、卵など)を、現物で領主に納める義務。
  • 施設利用料: 領主が独占する水車小屋、パン焼き窯、ブドウ搾り機などを使用する際に、利用料を支払う義務。
  • その他の負担: 死亡税(農奴が死んだ際に、遺産の中から最も良い家畜などを領主に献上する)など、様々な臨時的な税。

これらの義務と引き換えに、農奴は領主から土地を借り、外敵の襲撃などから保護される権利を得ていました。

農業技術としては、重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)の普及や、土地の地力を回復させるために、耕作地を三つの部分に分け、春耕地、秋耕地、休耕地として、毎年ローテーションで利用する「三圃制(さんぽせい)」農業が、次第に広まっていきました。

このように、中世ヨーロッパの社会は、封建制度という分権的な政治・軍事システムと、荘園制という閉鎖的で自給自足的な経済システムが、相互に補完し合う形で成り立っていました。この二重の構造が、外部からの侵入という危機に対応し、新たな安定した社会秩序を、地方レベルから再構築していくための、歴史的な必然の産物であったと言えるのです。

4. ノルマン人の活動

4.1. ノルマン人とは:海の破壊者たち

9世紀から11世紀にかけて、封建社会が形成されつつあった西ヨーロッパを、新たな恐怖の渦に巻き込んだのが、北方からやってきたノルマン人です。

「ノルマン人」とは、「北の人々」を意味し、スカンディナヴィア半島やユトランド半島(現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデン)を原住地とする、ゲルマン人の一派を指します。彼らは、故郷ではヴァイキング(「入り江の人」の意)と呼ばれていました。

彼らの故郷は、土地が痩せ、気候も厳しく、人口増加によって、すべての住民を養うことが困難になっていました。また、部族間の抗争に敗れた者や、より大きな富と名声を求める野心的な若者たちが、一攫千金を夢見て、海へと乗り出していきました。

彼らの最大の武器は、「ロングシップ」と呼ばれる、喫水が浅く、頑丈で、高速な船でした。この船は、外洋の荒波に耐える航海能力と、河川を遡って内陸深くまで侵入できる機動性を兼ね備えていました。彼らは、このロングシップを駆使して、予告なしにヨーロッパ各地の沿岸部や河川流域の都市、修道院を襲撃し、金銀財宝や食料、奴隷を略奪しては、素早く姿を消しました。特に、富が集中していた修道院は、格好の標的となりました。当時のキリスト教徒たちは、彼らを神の怒りが遣わした異教の破壊者として、心底から恐れました。

4.2. 多様な活動:商人、傭兵、そして建国者

しかし、ノルマン人の活動は、単なる破壊と略奪に終始したわけではありません。彼らは、優れた航海術を持つ、極めて活動的な人々であり、その活動範囲は驚くほど広大でした。

  • 商業活動: 彼らは、略奪者であると同時に、有能な商人でもありました。北海の琥珀、スカンディナヴィアの毛皮、そして襲撃で得た奴隷や銀などを商品として、西ヨーロッパ、ビザンツ帝国、さらにはイスラーム世界とまで交易を行いました。彼らの活動は、停滞していたヨーロッパの商業を再活性化させる、意図せざる結果ももたらしました。
  • 探検と植民: 彼らの一部は、さらに遠くの海へと乗り出しました。アイスランド、グリーンランドに植民し、11世紀初頭には、レイフ=エリクソンに率いられた一団が、コロンブスより500年も早く、北アメリカ大陸(彼らが「ヴィンランド」と呼んだ地)に到達していたことが、考古学的に証明されています。

そして、彼らの歴史における最も重要な側面は、単なる一時的な来訪者ではなく、ヨーロッパ各地に定住し、現地の文化と融合しながら、新たな国家を建設していった「建国者」としての一面です。

4.3. フランス:ノルマンディー公国の成立

西フランク王国のセーヌ川下流域は、ノルマン人の襲撃に最も激しく悩まされていた地域の一つでした。西フランク王シャルル3世(単純王)は、度重なる侵攻に耐えかね、911年、彼らの首長ロロに対して、セーヌ川下流域の土地を与える代わりに、キリスト教に改宗し、フランク王に臣従し、他のノルマン人の侵入を防ぐことを約束させました。

この土地は、「ノルマン人の土地」を意味する「ノルマンディー」と呼ばれるようになり、ここにノルマンディー公国が成立しました。ロロとその部下たちは、現地のフランス人と通婚し、フランス語とキリスト教を受け入れ、巧みな統治能力を発揮して、ノルマンディー公国を、フランスで最もよく組織された、強力な封建国家へと発展させました。彼らは、ヴァイキングとしての獰猛さを、フランスの騎士文化と融合させていったのです。

4.4. イギリス:ノルマン=コンクェスト

1066年、ノルマンディー公ウィリアム(征服王)は、イングランドの王位継承権を主張し、大軍を率いてイギリス海峡を渡り、イングランドに侵攻しました。ヘースティングズの戦いで、アングロ=サクソン人のイングランド王ハロルド2世を破り、イングランド全土を征服しました(ノルマン=コンクェスト)。

ウィリアム1世としてイングランド王に即位した彼は、大陸の先進的な封建制度をイングランドに導入しました。彼は、イングランドの全土地を王の所有とし、それを臣下のノルマン人貴族に封土として分け与えることで、強力な中央集権的な封建王政を確立しました。また、全国的な検地(土地台帳「ドゥームズデイ=ブック」の作成)を実施し、効率的な徴税システムを築きました。

この征服により、イングランドの支配層は、アングロ=サクソン人からノルマン=フランス系の貴族へと総入れ替えになりました。その結果、宮廷や行政ではフランス語が話され、古英語は民衆の言葉となりましたが、やがて両者が融合して、現在の英語(English)が形成されていくことになります。ノルマン=コンクェストは、その後のイングランドの政治、社会、文化、言語のあり方を決定づけた、画期的な出来事でした。

4.5. ロシア:キエフ公国の建国

東方に進出したノルマン人(スウェーデン系のヴァリャーグ、またはルーシと呼ばれた)は、バルト海からドニエプル川などを南下し、黒海を経てビザンツ帝国やイスラーム世界と交易を行いました。

彼らは、この交易ルート上の東スラブ人の居住地域に、ノヴゴロドやキエフといった商業都市を建設しました。伝説によれば、9世紀後半、ルーシの首長リューリクが、スラブ人の招きに応じてノヴゴロドを支配し、これがロシア国家の起源(ノヴゴロド国)になったとされています。その後、その一族がキエフに拠点を移し、周辺のスラブ人部族を支配下に置いて、キエフ公国を建国しました。

こうして、ロシアの初期国家は、ノルマン系の支配者(ルーシ)と、多数派の被支配者であるスラブ人という、二重の構造を持って成立しました。支配層のノルマン人は、次第にスラブ人と同化していきましたが、「ロシア」という国名は、彼ら「ルーシ」の名に由来すると言われています。

4.6. 南イタリア・シチリア:両シチリア王国の成立

11世紀、ノルマンディー公国出身の騎士の一団が、傭兵として南イタリアに渡りました。当時の南イタリアは、ビザンツ帝国、ランゴバルド系の諸侯、そしてイスラーム教徒が支配するシチリア島が、互いに争う、複雑な政治状況にありました。

ノルマン騎士たちは、この混乱に乗じて、自らの勢力を築き始めました。特に、オートヴィル家のロベール=ギスカールは、南イタリアを統一し、その弟ルッジェーロ1世は、イスラーム教徒からシチリア島を奪還しました。

そして12世紀、ルッジェーロ2世が、南イタリアとシチリア島を合わせた、両シチリア王国(ノルマン朝)を建国しました。この王国は、中世ヨーロッパで最もユニークで国際的な文化を生み出しました。ノルマン人の王のもとで、ラテン(カトリック)、ギリシア(ビザンツ)、イスラームという三つの異なる文化が共存し、融合しました。王宮では、ラテン語、ギリシア語、アラビア語が公用語として使われ、それぞれの文化様式を取り入れた、壮麗な建築(パレルモのパラティーナ礼拝堂など)が建てられました。

ノルマン人は、当初はヨーロッパを恐怖に陥れた破壊者でしたが、その比類なき活力と適応能力によって、各地で現地の文化と融合し、それぞれに特徴的な、新しい国家と文化を創造する、恐るべき建設者へと変貌を遂げたのです。彼らの活動は、中世ヨーロッパの政治地図を大きく塗り替え、その多様性を一層豊かなものにしました。

5. ローマ=カトリック教会の階層制

5.1. 中世ヨーロッパにおける教会の役割

西ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパが政治的に無数の封建領主に分裂する中で、人々を一つの「ヨーロッパ世界(キリスト教世界)」として結びつけていた、唯一の普遍的な組織が、ローマ=カトリック教会でした。

教会は、単なる宗教的な組織にとどまりませんでした。それは、中世ヨーロッパの社会、文化、政治、経済のあらゆる側面に深く浸透し、人々の生から死までを包括的に支え、導く、巨大な権威でした。

  • 精神的支柱: 教会は、人々に共通の世界観と価値観を提供しました。この世は、神が創造した秩序の一部であり、人生の目的は、教会の教えに従って信仰を守り、来世で天国に救われることにあると教えました。ミサ、洗礼、結婚、告解、終油といった「秘跡(サクラメント)」を通じて、人々は人生の節目ごとに教会と関わり、神の恩寵にあずかると信じられていました。
  • 文化の担い手: 識字能力が、聖職者などごく一部の人々に限られていた時代、教会と修道院は、学問と教育の中心でした。聖書の写本や、古代ギリシア・ローマの古典の保存・研究は、主として修道士たちの手によって行われました。大学の起源も、パリのノートルダム大聖堂の付属学校などに遡ります。
  • 社会福祉の機能: 貧民の救済、病人の看護、孤児の養育、旅人のための宿の提供といった社会福祉活動は、その多くが教会や修道院によって担われていました。
  • 政治的権力: 教会は、広大な土地(教会領・修道院領)を所有する、ヨーロッパ最大の封建領主でもありました。また、教皇は、皇帝や国王の戴冠を行うことで、その支配の正統性を承認する権威を持ち、時には世俗の君主を破門(教会から追放する罰)に処すことで、その政治生命を脅かすことさえできました。

5.2. 教皇(ローマ教皇)

この巨大な教会組織の頂点に立つのが、ローマ教皇です。教皇は、ローマの司教(ビショップ)であり、同時に全世界のカトリック教会の首長と見なされていました。

教皇が、他の多くの司教たちを超える、特別な権威を持つとされた根拠は、「ペテロ首位権」の理論にあります。これは、イエス・キリストが、12人の使徒の筆頭であったペテロに、天国の鍵を授け、地上における代理人としての権威を与えたという聖書の記述に基づいています。そして、ペテロはローマで殉教し、最初のローマ司教になったとされるため、その後のローマ司教は、ペテロの権威を継承する、聖職者の中の最高指導者であると主張したのです。

5世紀の教皇レオ1世は、フン族のアッティラと交渉してローマを略奪から救い、教皇の威信を大いに高めました。6世紀末の教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人への布教を積極的に進め、教会の組織を整備し、教皇権の基礎を固めました。

8世紀にフランク王国との提携関係を確立し、「ピピンの寄進」によってイタリア中部に広大な教皇領を獲得すると、教皇は世俗の君主としての性格も強めていきました。

5.3. 教会の階層制(ヒエラルキー)

教皇の下には、厳格な階層制(ヒエラルキー)に基づいた、ピラミッド状の聖職者の組織が広がっていました。

  1. 大司教(アーチビショップ): 教皇の権威を代行し、いくつかの司教区をまとめた「大司教区」を管轄する、高位の聖職者。
  2. 司教(ビショップ): 各地の主要都市に置かれた「司教区」の責任者。司教区内の聖職者の任免権や、信徒に対する裁判権を持ち、多くは大貴族と同様に、広大な荘園を支配する封建領主でもあった。司教が執務する教会を「大聖堂(カテドラル)」と呼ぶ。
  3. 司祭(プリースト): 各地の荘園や村に置かれた、最も身近な教会の責任者。信徒に対して、ミサの執行や秘跡の授与、説教など、日々の司牧活動を行った。

これらの聖職者は、信徒から徴収する「十分の一税」(収穫物の10分の1を教会に納める税)や、広大な教会領からの収入によって支えられていました。

5.4. 修道院の役割

教会の階層組織とは別に、中世ヨーロッパの精神生活において、極めて重要な役割を果たしたのが、修道院です。

修道院は、世俗の社会から離れ、神への祈りと奉仕に生涯を捧げることを誓った、修道士や修道女たちの共同生活の場でした。西ヨーロッパの修道院制度の基礎を築いたのは、6世紀にイタリアのモンテ=カッシーノに修道院を設立した、ベネディクトゥスです。

彼が定めた「ベネディクトゥス戒律」は、「祈り、働け(Ora et Labora)」をモットーとし、修道士たちに、厳格な規律のもとで、祈り、労働、そして聖書の読書に専念する生活を求めました。この戒律は、その中庸を得た実践可能性から、西ヨーロッパの多くの修道院で採用されました。

修道院は、以下のような多様な役割を担いました。

  • 信仰の中心: 敬虔な信仰生活の実践を通じて、教会全体の精神的な模範となりました。
  • 学問と文化の拠点: 古代の写本を筆写し、保存することで、古典文化の継承に貢献しました。修道院付属の学校では、聖職者の養成が行われました。
  • 農業技術の改良: 修道士たちは、開墾や干拓、ワインやチーズの醸造など、先進的な農業技術の開発と普及にも貢献しました。
  • 布教の拠点: 特に、アイルランドやブリタニアの修道士たちは、ヨーロッパ大陸のゲルマン人への布教活動に、大きな役割を果たしました。

5.5. 教会の課題:聖職売買と聖職者の妻帯

しかし、教会が世俗の権力と深く結びつき、巨大な富と権力を持つようになると、その内部には深刻な腐敗と堕落が生じ始めました。

封建社会が確立する中で、国王や諸侯は、自らの領地内にある司教や大修道院長を、単なる聖職者としてではなく、重要な封臣と見なすようになりました。彼らは、教会が持つ広大な土地と、そこに住む人々に対する支配権を、自らの権力基盤の一部として利用しようとしたのです。

その結果、聖職者の任命権(叙任権)が、教皇や教会ではなく、国王や諸侯といった世俗の権力者の手に握られる「俗人叙任権」が、広く行われるようになりました。世俗君主は、教会への忠誠心や信仰の深さではなく、自分に忠実な人物や、多額の献金をした人物を、司教や大修道院長に任命しました。

これにより、聖職者の地位が、金銭で売買される「聖職売買(シモニア)」が横行しました。また、聖職者の独身制の規則も緩み、妻を持ち、財産を子供に世襲させようとする「聖職者の妻帯」も、広く見られるようになりました。

このような教会の世俗化と腐敗は、敬虔な信者たちの目には、キリストの教えからの深刻な逸脱と映りました。この危機的な状況の中から、教会を本来の清浄な姿に戻そうとする、内部からの改革運動が生まれてくることになるのです。

6. 叙任権闘争

6.1. 聖と俗の二元的世界

中世西ヨーロッパの世界は、二つの異なる、しかし分かちがたく結びついた権力によって支配されていました。一つは、皇帝や国王に代表される「俗権(世俗権力)」であり、もう一つは、ローマ教皇に代表される「教権(教会権力)」です。

理論上は、俗権は人々の身体と地上の事柄を、教権は人々の魂と天上の事柄を、それぞれ分担して統治すると考えられていました。しかし、現実には、両者の権力領域は、明確に線引きできるものではありませんでした。特に、広大な土地と富を持つ司教や修道院長は、信仰の世界の指導者であると同時に、国王や皇帝の重要な封臣でもありました。この聖職者の二重の性格が、聖と俗の二つの権力の間に、深刻な対立を生み出す温床となったのです。

その対立が、最も先鋭的な形で爆発したのが、11世紀後半から12世紀初頭にかけて、ヨーロッパ全土を巻き込んだ「叙任権闘争」でした。闘争の核心は、「司教や大修道院長を任命する権利(叙任権)は、皇帝(俗権)と教皇(教権)のどちらに属するのか」という問題でした。

6.2. 闘争の背景:神聖ローマ帝国と帝国教会政策

この問題が、特に深刻な形で現れたのが、神聖ローマ帝国(主に現在のドイツと北イタリア)でした。

10世紀初頭、東フランク王国ではカロリング朝が断絶し、有力な部族大公(ザクセン、バイエルンなど)の力が強大化していました。962年、ザクセン大公であったオットー1世は、マジャール人の侵入を撃退して名声を高め、さらにイタリアに遠征して教皇を保護した功績により、ローマ教皇ヨハネス12世から、ローマ皇帝の帝冠を授けられました。これが、神聖ローマ帝国の始まりです(「神聖ローマ帝国」という名称が公式に使われるのは、後の時代)。

オットー1世とその後の皇帝たちは、国内の強力な部族大公の力を抑制し、帝国を安定的に統治するため、独自の政策を推し進めました。それが、「帝国教会政策」です。

皇帝は、帝国内の主要な司教や大修道院長を、自らの手で任命しました。聖職者は、独身であるため、その地位と領地を子孫に世襲させることがありません。そのため、皇帝は、自分に忠実な人物を聖職者に任命することで、世襲化する大公たちに対抗しうる、信頼できる統治の担い手を得ようとしたのです。帝国の高位聖職者たちは、皇帝から土地を与えられ、皇帝の官僚として、また軍隊の指揮官として、帝国統治の重要な柱となりました。

皇帝にとって、この俗人叙任権は、帝国を統治する上で絶対に手放すことのできない、死活的に重要な権利でした。

6.3. 教会改革運動とグレゴリウス7世

一方で、11世紀の教会内部では、クリュニー修道院を発祥とする教会改革運動が、大きな影響力を持つようになっていました。改革派の聖職者たちは、俗人叙任権こそが、聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯といった、教会の腐敗の根源であると考えました。

彼らは、「教会の自由」、すなわち、教会が世俗権力の一切の介入から解放され、教皇の首位権のもとに、独立した聖なる組織として自己を律するべきであると主張しました。そして、その究極の目標として、「教皇権は、皇帝権に優越する」という、革命的な理念を掲げるに至ります。

この教会改革運動の理念を、最も徹底した形で実行に移したのが、教皇グレゴリウス7世(在位:1073年 – 1085年)です。彼は、修道士時代から改革運動の中心人物であり、教皇に選出されると、直ちに教会改革を断行しました。

1075年、彼は、俗人叙任権の全面的な禁止を宣言し、これを行った俗人はもちろん、それを受け入れた聖職者も破門に処す、と布告しました。これは、神聖ローマ帝国の統治の根幹である帝国教会政策に対する、正面からの挑戦状でした。

6.4. カノッサの屈辱

この教皇の挑戦に対して、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、真っ向から反発しました。彼は、ドイツの司教たちを召集し、グレゴリウス7世の教皇廃位を決議させました。

これに対し、グレゴリウス7世は、伝家の宝刀を抜きます。彼は、ハインリヒ4世を破門し、皇帝への忠誠の誓いから臣下を解放すると宣言したのです。

破門は、皇帝にとって致命的な打撃となりました。これを好機と見たドイツの反皇帝派の諸侯たちは、ハインリヒ4世に反旗を翻し、新たな皇帝を選出する動きを見せ始めました。窮地に陥ったハインリヒ4世は、教皇に赦しを請う以外に、道は残されていませんでした。

1077年1月、厳冬の中、ハインリヒ4世は、アルプスを越えて、教皇が滞在していた北イタリアのカノッサ城へと向かいました。そして、雪の中、粗末な修道士の衣服をまとい、裸足のまま、三日三晩にわたって城門の前に立ち続け、教皇の赦しを乞いました。一人の司祭として、罪を悔い改める者を赦さないわけにはいかず、グレゴリウス7世は、ついにハインリヒ4世の破門を解きました。

この「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件は、教皇権が皇帝権に対して、その優位を劇的な形で示した、象徴的な出来事でした。

6.5. 闘争の継続とヴォルムス協約

しかし、カノッサの屈辱で、叙任権闘争が終わったわけではありませんでした。ドイツに戻って体勢を立て直したハインリヒ4世は、再び教皇と対立し、軍隊を率いてローマを占領し、グレゴリウス7世を追放しました。闘争は、その後も、皇帝と教皇、それぞれの後継者の間で、半世紀近くにわたって続きました。

長い闘争の末、両者はついに妥協点を見出します。1122年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と、教皇カリクストゥス2世の間で、ヴォルムス協約が結ばれました。

この協約で、叙任権は、聖職者としての宗教的な権威(指輪と杖によって象徴される)と、封建領主としての世俗的な権力(笏(しゃく)によって象徴される)の二つの側面に分けられました。

  • 聖職叙任権: 司教や修道院長に、指輪と杖を授けて、その宗教的な権威を授与する権利は、教皇および教会が持つ。
  • 世俗叙任権: 彼らに、封土とそれに伴う世俗的な権利を授ける権利は、皇帝が持つ。

ドイツにおいては、まず皇帝が世俗的な権利を与えた後に、教会が宗教的な権威を授与するという手順が定められ、皇帝の意向がある程度反映される余地が残されました。

ヴォルムス協約は、一応の妥協ではありましたが、俗人が聖職者の任命に介入することを原則として禁じ、教会の独立性を確立した点で、教会側の実質的な勝利と評価されています。この闘争を経て、ローマ教皇の権威は、かつてないほど高まり、13世紀のインノケンティウス3世の時代に、「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」と称される、その絶頂期を迎えることになるのです。

7. クリュニー修道院と教会改革

7.1. 改革の温床:封建社会の中の教会

9世紀から10世紀にかけて、西ヨーロッパの封建社会化が進む中で、ローマ=カトリック教会もまた、その渦の中に深く巻き込まれていきました。国王や諸侯といった世俗の権力者は、自らの領地内にある教会や修道院を、一種の私有財産(私有教会制)と見なすようになっていました。

彼らは、司教や修道院長の任命権(叙任権)を自らの手に握り、その地位を、自分に忠実な親族や、多額の献金をした者に与えました。その結果、聖職者の地位は金銭で売買される「聖職売買(シモニア)」が横行し、聖職者の独身制という古くからの規則も軽んじられ、妻帯し、その財産を子供に相続させようとする者も後を絶ちませんでした。

このように、教会の聖職者たちが、世俗の領主と変わらない生活を送り、信仰よりも領地の経営や政治的な駆け引きに明け暮れるという「教会の世俗化」は、深刻な腐敗と堕落をもたらしました。敬虔な信者たちの目には、教会が、その本来あるべき、清らかで神聖な姿から、大きく逸脱しているように映りました。

この危機的な状況の中から、教会を本来の姿に戻し、その精神的な権威を回復しようとする、内部からの改革運動が生まれます。その震源地となったのが、フランス東部に設立された、一つの修道院でした。

7.2. クリュニー修道院の設立とその特異性

910年、アキテーヌ公ギヨーム1世によって、ブルゴーニュ地方のクリュニーに、ベネディクト会系の修道院が設立されました。その設立趣旨には、当時としては画期的な、二つの重要な特権が盛り込まれていました。

  1. 世俗権力からの独立: 創設者であるアキテーヌ公は、この修道院とその財産に対する、一切の世俗的な支配権を放棄しました。これにより、クリュニー修道院は、地元の領主や司教といった、いかなる世俗権力からの介入も受けない、完全な独立性を保障されました。
  2. 教皇への直属: クリュニー修道院は、地元の司教の管轄下には入らず、直接ローマ教皇のみに服属するものと定められました。これにより、修道院は、教会の地方レベルの権力構造からも自由となり、普遍的な教会組織の一員としての地位を確立しました。

これらの特権によって、クリュニー修道院は、俗人叙任権やシモニアといった、当時の教会が抱える腐敗から、自らを守ることができたのです。

7.3. クリュニーの改革運動

クリュニー修道院は、その独立性を背景に、厳格な規律の回復と、霊性の刷新を目指す改革運動の中心となりました。

  • ベネディクトゥス戒律の厳格な実践: 修道士たちは、「祈り、働け」というベネディクトゥス戒律の原点に立ち返りました。特に、神を賛美するための、荘厳で華麗な典礼(ミサや聖務日課)が、修道生活の中心に据えられました。
  • 修道院長のリーダーシップ: 初代のベルノン院長をはじめ、オド、マイオルス、オディロ、フーゴーといった、傑出した人格と指導力を持つ修道院長が、次々と選出され、2世紀以上にわたって、改革の理念を力強く推進しました。
  • クリュニー修道会連合の形成: クリュニー修道院の評判が高まると、ヨーロッパ各地の多くの修道院が、その改革に共鳴し、クリュニーの傘下に入ることを望みました。クリュニーは、これらの修道院を、単なる模範として導くだけでなく、クリュニーの修道院長が、すべての傘下修道院の院長を任命するという、中央集権的な組織を形成しました。これにより、最盛期には、1000以上の修道院を擁する、巨大な「クリュニー修道会連合」が、ヨーロッパ全土に広がるネットワークを築き上げました。

この組織力と、高潔な信仰生活の実践により、クリュニー修道院は、教皇庁をはじめ、ヨーロッパ中の敬虔な信徒や、改革を志す聖職者たちから、絶大な尊敬と支持を集めるようになりました。

7.4. 改革理念の普及とシモニア・聖職者妻帯の批判

クリュニーの改革運動は、当初は修道院内部の改革を目指すものでしたが、その影響力が増大するにつれて、教会全体の改革を求める、より大きな運動へと発展していきました。

クリュニーの改革派たちは、教会の腐敗の根源が、世俗権力による教会への介入、すなわち「俗人叙任権」にあると喝破しました。彼らは、聖なるものであるべき聖職者の地位が、世俗の権力者によって、まるで封土のように扱われ、売買の対象となっている現状を、神に対する冒涜であると激しく批判しました。

彼らが特に糾弾したのは、以下の二つの慣行です。

  • シモニア(聖職売買): 聖職を金銭で獲得することは、聖霊を売買しようとした魔術師シモンに由来する、最も重い罪の一つであるとされました。
  • ニコライズム(聖職者妻帯): 聖職者が妻帯し、子供を持つことは、教会の財産を私物化し、世襲させることに繋がり、聖職者の神聖さを損なうものであるとして、厳しく禁じられました。

これらの改革理念は、クリュニー修道会連合のネットワークを通じて、ヨーロッパ全土に広まり、教会改革を求める世論を形成していきました。

7.5. 教皇庁の改革と叙任権闘争へ

11世紀半ばになると、クリュニーの改革精神は、ついにローマの教皇庁そのものにまで及びます。神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世は、敬虔な人物であり、ローマで対立していた複数の教皇を罷免し、自ら改革派のドイツ人聖職者を教皇に任命しました。

皮肉なことに、皇帝自身によって始められた教皇庁の改革は、やがて皇帝の権威そのものに牙を剥くことになります。改革派の教皇レオ9世は、ローマにクリュニーの改革精神を持つ聖職者たち(後の教皇グレゴリウス7世となるヒルデブラントもその一人)を集め、教皇庁を改革運動の司令塔へと変貌させました。

1059年、教皇ニコラウス2世は、教皇選挙法を制定し、教皇の選挙権を、ローマの枢機卿(カーディナル)のみに限定しました。これは、神聖ローマ皇帝をはじめとする世俗の権力者が、教皇の選出に介入する道を、公式に閉ざすものでした。

こうして、クリュニー修道院で灯された小さな改革の火は、やがて教皇庁を動かし、教会全体の自立と、世俗権力からの解放を目指す、巨大なうねりへと発展していきました。そして、その運動が、その論理的な帰結として、「教会の首長である教皇は、皇帝を含む、すべての世俗君主の上に立つ」という、教皇権至上主義の理念に行き着いた時、皇帝との全面的な衝突、すなわち「叙任権闘争」は、もはや避けられないものとなったのです。

8. ビザンツ帝国とギリシア正教会

8.1. 「もう一つのローマ」:ビザンツ帝国の存続

ゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅亡した後も、帝国の東半分は、「ビザンツ帝国(東ローマ帝国)」として、その後約1000年間にわたり存続しました。

ビザンツ帝国は、自らをローマ帝国の唯一の正統な継承者と見なしていました。その首都コンスタンティノープルは、「新しいローマ」と呼ばれ、難攻不落の城壁と、黒海と地中海を結ぶ絶好の地理的条件に恵まれ、中世を通じてヨーロッパ最大かつ最も繁栄した都市であり続けました。

西ヨーロッパが、地方分権的な封建社会へと移行したのとは対照的に、ビザンツ帝国は、古代ローマから受け継いだ、多くの特徴を維持し続けました。

  • 中央集権的な官僚制度: 皇帝を頂点とする、高度に発達した文官と武官の官僚組織が、広大な帝国を効率的に統治しました。
  • 強力な常備軍と艦隊: 帝国の軍隊は、国家によって維持され、巧みな外交戦略と組み合わせて、長年にわたり国境を防衛しました。
  • 貨幣経済の維持: ソリドゥス金貨に代表される、安定した通貨が帝国全土で流通し、活発な商工業と、地中海・黒海における遠隔地貿易を支えました。

8.2. ユスティニアヌス大帝の治世とローマ帝国の再興

6世紀、ビザンツ帝国の最も輝かしい時代を現出したのが、ユスティニアヌス大帝(在位:527年 – 565年)です。彼は、「眠らぬ皇帝」と呼ばれるほどの精力的な人物で、かつてのローマ帝国の栄光を回復することを目指しました。

  • 失地回復: 彼は、有能な将軍ベリサリウスらを派遣し、ゲルマン諸族が支配していた旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出しました。北アフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島南部にまで領土を広げ、一時的に地中海世界の大部分を再統一することに成功しました。
  • 『ローマ法大全』の編纂: 彼の最大の功績は、法学者トリボニアヌスらに命じて、古代からの膨大なローマ法を、体系的に集大成させたことです。この『ローマ法大全』は、ビザンツ帝国の法体系の基礎となっただけでなく、後に西ヨーロッパで再発見され、近代ヨーロッパの法思想に計り知れない影響を与えました。
  • ハギア=ソフィア大聖堂の建立: 首都コンスタンティノープルに、巨大なドームを持つ、壮麗なハギア=ソフィア大聖堂を建立しました。これは、ビザンツ建築の最高傑作であり、皇帝の権威とキリスト教信仰の偉大さを象徴するモニュメントでした。

しかし、ユスティニアヌスの西方遠征は、帝国の財政を著しく圧迫し、彼の死後、帝国は再び領土の縮小を余儀なくされました。

8.3. 皇帝教皇主義(ツェーザロパピズム)

ビザンツ帝国の政治と宗教の関係は、西ヨーロッパとは大きく異なっていました。西ヨーロッパでは、教皇(教権)と皇帝(俗権)が、互いに対立し、牽制し合う二元的な権力構造が特徴でした。

これに対し、ビザンツ帝国では、皇帝が、国家の最高支配者であると同時に、教会の最高指導者でもあると見なされていました。皇帝は、コンスタンティノープル総主教をはじめとする、高位聖職者の任命権を握り、教義問題に関する宗教会議を召集するなど、教会の人事と運営に深く介入しました。

このように、世俗の皇帝が、教会の首長を兼ねる体制を、「皇帝教皇主義(ツェーザロパピズム)」と呼びます。皇帝は、「神の地上における代理人」と位置づけられ、その権力は、西方の王たちよりも、はるかに神聖で専制的な性格を帯びていました。

8.4. 聖像崇拝論争

この皇帝教皇主義が、最も顕著に現れたのが、8世紀から9世紀にかけて、ビザンツ帝国を二分した「聖像崇拝論争」です。

当時、教会では、イエスや聖母マリア、聖人などを描いた聖像(イコン)が、広く崇拝の対象となっていました。しかし、726年、皇帝レオン3世が、突如として聖像崇拝を禁止する勅令を発布しました。

その理由としては、旧約聖書における偶像崇拝の禁止という神学的な理由に加え、イスラーム教徒から偶像崇拝者として批判されていたことへの対抗、そして、聖像を製作し、民衆の信仰を集めていた修道院の勢力を削ぎ、その所領を没収して、国家財政を強化しようとする、政治的・経済的な狙いがあったとされています。

この聖像禁止令は、帝国全土に激しい対立を引き起こしました。特に、ローマ教皇は、ゲルマン人への布教に聖像が有効であると考えていたため、この決定に真っ向から反対しました。この対立は、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の間の溝を、さらに深める結果となりました。

論争は、約1世紀にわたって続きましたが、最終的には、聖像崇拝を擁護する側が勝利し、聖像の使用は、ビザンツ教会における重要な伝統として確立されました。

8.5. 東西教会の分裂(大シスマ)

ローマ教会とコンスタンティノープル教会との間の対立は、聖像崇拝論争以外にも、様々な要因が積み重なって、修復不可能なレベルにまで達していました。

  • 典礼・慣習の違い: 西方教会が、聖職者の独身制を厳格化したのに対し、東方教会では、司祭の妻帯が認められていました。また、ミサで用いるパンの種類など、典礼上の違いも存在しました。
  • 言語の違い: 西方教会がラテン語を用いたのに対し、東方教会ではギリシア語が用いられ、コミュニケーションが困難になっていました。
  • 教義上の対立: 最も深刻だったのが、「フィリオクェ問題」と呼ばれる神学論争です。聖霊が、「父(なる神)から」のみ発出するのか(東方教会の主張)、それとも「父と子(イエス)から」発出するのか(西方教会が追加した主張)をめぐる対立でした。
  • 首位権争い: ローマ教皇が、ペテロの後継者として、全教会に対する首位権を主張したのに対し、コンスタンティノープル総主教は、ローマ司教と対等な地位にあると主張し、これを認めませんでした。

これらの長年にわたる対立は、1054年、ついに決定的な破局を迎えます。ローマ教皇の使節と、コンスタンティノープル総主教が、互いを破門し合ったのです。この出来事を「東西教会の分裂(大シスマ)」と呼びます。

これにより、キリスト教世界は、ローマ教皇を首長とする「ローマ=カトリック教会」と、コンスタンティノープル総主教を最高位とする「ギリシア正教会(オーソドックス教会)」とに、恒久的に分裂することになりました。

この分裂は、西ヨーロッパと東ヨーロッパ・ロシア世界の、その後の文化的な断絶を決定づけるものとなりました。ギリシア正教は、ビザンツ帝国の勢力圏であったバルカン半島の東スラブ人(ブルガリア人、セルビア人など)や、ロシア(キエフ公国)へと伝播し、独自の文化圏(ビザンツ文化圏)を形成していったのです。

9. 都市の成長

9.1. ローマ帝国後の都市の衰退

古代ローマ帝国は、地中海世界を覆う、高度な都市のネットワークによって支えられていました。都市は、行政、商業、文化の中心であり、ローマ文明の象徴でした。

しかし、ゲルマン民族の大移動と西ローマ帝国の崩壊は、この都市文明に壊滅的な打撃を与えました。政治的な混乱と絶え間ない戦争は、交易路を寸断し、商工業を衰退させました。人々は、危険で食料の確保も困難な都市を離れ、食料を自給できる農村へと移住していきました。その結果、かつて繁栄を誇ったローマ都市の多くは、人口が激減し、廃墟と化しました。

中世初期の西ヨーロッパは、荘園を基盤とする、閉鎖的で自給自足的な農業社会となり、都市の活動はほとんど停滞してしまいました。わずかに、司教が駐在する司教座都市などが、行政と宗教の中心として存続するに過ぎませんでした。

9.2. 「商業の復活(商業ルネサンス)」

しかし、11世紀頃から、西ヨーロッパの社会は、大きな転換期を迎えます。封建社会の成立によって、社会がある程度の安定を取り戻し、また、三圃制農業や重量有輪犂の普及といった農業技術の革新によって、食料生産が増大し始めました。

農業生産の向上は、人口の増加を促しました。荘園は、増えた人口をすべて養うことができなくなり、余剰人口が、新たな土地の開墾(大開墾時代)や、手工業、商業といった、農業以外の分野へと向かうようになりました。

農業生産に余剰が生まれると、人々は、それを塩や鉄製品など、荘園では生産できない物資と交換する必要が生じます。こうして、荘園の境界を越えた、地域的な商業活動が、再び活発化し始めたのです。

さらに、十字軍運動は、この商業の復活を決定的な流れにしました。十字軍によって、地中海のイスラーム勢力の力が後退し、イタリアの商人たちが、レヴァント地方(地中海東岸)との間で、香辛料や絹織物といった東方の奢侈品を輸入する、遠隔地貿易(東方貿易、レヴァント貿易)を再開させたのです。

この11世紀から13世紀にかけての、商業活動の劇的な再活性化を、「商業の復活(商業ルネサンス)」と呼びます。

9.3. 中世都市の成立と特徴

商業の復活は、新たな都市の誕生と、既存の都市の再生を促しました。交通の要衝、諸侯の城の門前、司教座聖堂の周辺などに、商人や手工業者が集住し、定期市が開かれるようになりました。これらの集住地は、やがて防壁で囲まれ、恒常的な都市へと発展していきました。

中世の都市は、荘園を基盤とする周囲の封建社会とは、全く異なる性格を持っていました。

  • 自治権の獲得: 都市の住民(商人や手工業者)は、領主(国王、諸侯、司教)の支配から解放され、都市を自分たちで運営する権利(自治権)を求めるようになりました。彼らは、団結して領主と交渉し、時には武力で戦い、多額の金銭を支払うことで、領主から「特許状(チャーター)」を獲得しました。これにより、都市は、領主への賦役や貢納を免除され、独自の法律と裁判所を持つ、自治共同体となったのです。ドイツでは、皇帝直属の自由都市は「帝国都市」と呼ばれました。
  • 「都市の空気は自由にする」: 農奴が、領主のもとから逃げ出し、都市の中に「一年と一日」の間、とどまることができれば、自由な身分を獲得できるという慣習法が、多くの都市で認められました。この言葉は、都市が、身分制に縛られた封建社会の中の、「自由の島」であったことを象見徴しています。
  • ギルドの結成: 都市の商人や手工業者は、自分たちの利益を守り、相互扶助を行うため、「ギルド(同業組合)」と呼ばれる団体を結成しました。
    • 商人ギルド: 都市の商業を独占し、外部の商人の活動を制限しました。
    • 同職ギルド(ツンフト): 同じ種類の手工業者(パン屋、靴屋、織物屋など)が、職業別に結成した組合。ギルドは、製品の品質や価格、生産量を厳しく統制し、自由競争を抑制しました。また、親方(マイスター)、職人、徒弟という、厳格な身分階層を設け、新規参入を制限することで、自分たちの既得権益を守りました。

9.4. 二つの商業圏

中世ヨーロッパの遠隔地貿易は、主に二つの大きな商業圏を中心に展開しました。

  1. 地中海商業圏:
    • 中心となったのは、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサといった、北イタリアの都市国家です。
    • 彼らは、十字軍への協力や、ビザンツ帝国との交易を通じて、地中海の制海権を握りました。
    • エジプトやシリアの港で、イスラーム商人から香辛料、絹、宝石といった東方の奢侈品を買い付け、それをフランドル地方や南ドイツへと転売することで、莫大な利益を上げました。
  2. 北ヨーロッパ商業圏:
    • 中心となったのは、リューベック、ハンブルク、ブレーメンといった、北ドイツの都市です。
    • 彼らは、バルト海と北海沿岸の都市と結び、13世紀には「ハンザ同盟」という、強力な都市同盟を結成しました。
    • 北ヨーロッパの主要な商品である、木材、海産物(ニシン)、穀物、毛織物などを、フランドル地方、イングランド、ロシア(ノヴゴロド)との間で取引し、この地域の商業を支配しました。

これら二つの商業圏は、フランスのシャンパーニュ地方で定期的に開かれる大市(シャンパーニュの大市)や、南ドイツのアウクスブルクなどを結節点として繋がり、ヨーロッパ全体を覆う、広域的な商業ネットワークが形成されていきました。

9.5. 新たな階級の登場と社会の変化

都市の成長と商業の発展は、中世ヨーロッパの社会に、大きな変化をもたらしました。

  • ブルジョワジーの台頭: 都市に住む商人や、ギルドの親方といった、裕福な市民階級(ブルジョワジー)が、新たな社会階級として台頭しました。彼らは、土地ではなく、貨幣を富の源泉とし、封建領主とは異なる、新しい価値観を持っていました。
  • 貨幣経済の浸透: 都市で流通する貨幣が、次第に農村の荘園にも浸透していきました。領主たちは、奢侈品を購入するため、農奴からの貢納を、現物(生産物地代)や労働(賦役)から、貨幣で納めること(貨幣地代)を要求するようになりました。
  • 農奴解放の進展: 貨幣が必要になった農奴は、自らの生産物を市場で売り、貨幣を得るようになります。中には、領主に解放金を支払って、自由な身分となる者も現れました。貨幣経済の浸透は、領主と農奴の身分的な関係を、土地の貸し手と借り手という、より経済的な契約関係へと、ゆっくりと変質させていったのです。

このように、封建社会の内部から生まれた都市は、その自由な空気と貨幣経済の力によって、自給自足的な荘園制を揺るがし、硬直した身分制社会に風穴を開け、中世社会を次の時代へと変革していく、最もダイナミックな原動力となったのです。

10. 中世ヨーロッパの三身分社会

10.1. 社会秩序の理念モデル

中世ヨーロッパの人々は、自らが生きる社会を、どのように理解していたのでしょうか。11世紀頃から、当時の知識人であった聖職者たちによって、社会は、神によって定められた、三つの異なる役割を持つ身分(オルド、Order)から構成される、一つの有機的な統一体である、という理念的なモデルが、盛んに説かれるようになりました。

この「三身分」の理論を、典型的な形で表現したのが、フランスのラン司教アダベロンの言葉です。

「神の家は、三つに分かれていると信じられている。ある者は祈り、ある者は戦い、そして、ある者は働く。これら三者は、互いに助け合い、一体として存在しているのであり、一つのものが欠けても、他の二つの仕事は成り立たない。」

このモデルによれば、社会は、以下のような、明確な役割分担を持つ三つの身分から構成されていました。

  1. 祈る人 (Oratores): 聖職者。人々の魂の救済のために神に祈り、キリスト教の教えを説く役割を担う。社会の精神的な指導者であり、第一身分として、最も高い敬意を払われる。
  2. 戦う人 (Bellatores): 国王、諸侯、騎士。キリスト教世界を外敵から守り、国内の平和と正義を維持するために、武力を行使する役割を担う。社会の支配者であり、第二身分を構成する。
  3. 働く人 (Laboratores): 農民、手工業者。前の二つの身分を、その労働によって養う役割を担う。社会の大多数を占める、第三身分である。

10.2. イデオロギーとしての三身分論

この三身分論は、現実の社会をありのままに記述したものではなく、むしろ、社会が「どうあるべきか」という、規範的な秩序を示したイデオロギーでした。

  • 神定秩序の正当化: この理論は、社会の階層構造(支配する者と、支配される者がいるという不平等な現実)が、人間の都合によって作られたものではなく、神が定めた、不変で調和の取れた秩序の一部であると説明しました。これにより、既存の社会秩序は、神聖なものとして正当化されました。
  • 相互依存関係の強調: 三つの身分は、上下関係にあると同時に、それぞれが社会全体にとって不可欠な役割を担っており、互いに依存し合っている、という点が強調されました。働く人がいなければ、祈る人も戦う人も生きていけず、戦う人がいなければ、他の二つの身分は平和に暮らせない。そして、祈る人がいなければ、すべての人の魂は救われない、とされたのです。
  • 社会の安定: この理論は、人々に、自らが生まれついた身分と、それに課せられた役割を受け入れ、不満を抱かずに、その務めを果たすことを教えました。それは、社会の安定を維持するための、強力なイデオロギー的装置として機能したのです。

10.3. 現実の社会構造

もちろん、現実の社会は、この理念的なモデルよりも、はるかに複雑で、流動的でした。

  • 第一身分(聖職者): 聖職者といっても、その内部は、一枚岩ではありませんでした。大司教や司教、大修道院長といった高位聖職者の多くは、大貴族の次男や三男がなることが多く、彼らは広大な荘園を支配する、封建領主でもありました。一方で、農村の司祭の多くは、農民出身であり、その生活水準も農民と大差ないものでした。
  • 第二身分(貴族・騎士): 貴族・騎士階級もまた、国王を頂点に、大諸侯から、わずかな土地しか持たない一介の騎士まで、様々な階層に分かれていました。彼らを結びつけていたのは、封建的な主従関係と、馬に乗り、剣と槍で戦うという、共通の戦士としての生活様式、そして「騎士道」と呼ばれる、独自の倫理規範(勇気、忠誠、名誉、弱者の保護など)でした。
  • 第三身分(庶民): 「働く人」と一括りにされた第三身分は、最も多様な人々を含んでいました。その大多数は、荘園に縛られた農奴でしたが、中には、比較的自由な身分の独立自営農民もいました。そして、11世紀以降、都市が成長するにつれて、この第三身分の中に、全く新しい社会集団が登場します。

10.4. 三身分モデルの揺らぎ:都市住民の登場

三身分という静的な社会モデルでは、もはや捉えきれない、最もダイナミックな存在が、都市に住む商人や手工業者たちでした。

彼らは、剣や鋤(すき)ではなく、商品や貨幣を扱い、その活動を通じて富を蓄積しました。彼らは、「働く人」の一部ではありましたが、荘園の農奴とは、その生活様式も、価値観も、そして社会的地位も、全く異なっていました。

裕福な都市の市民(ブルジョワジー)は、時には貴族をもしのぐほどの経済力を持ち、国王に財政的な援助を行うことで、政治的な発言力を高めていきました。彼らは、祈るのでも、戦うのでもなく、そして土地を耕すのでもなく、「商う」人々であり、既存の三身分の枠組みには、うまく収まりきらない存在でした。

この新しい社会階級の台頭は、土地の所有を基盤とする封建社会の秩序を、内側から変質させていきました。国王は、強力な諸侯の力を抑えるため、都市の市民階級と同盟を結ぶようになります。14世紀初頭、フランスのフィリップ4世が、聖職者、貴族、そして都市の代表者からなる「三部会」を招集したのは、この新しい社会の変化を象徴する出来事でした。

10.5. 中世から近世へ

三身分という社会観は、中世を通じて、人々の意識の中に深く根を下ろし続けました。フランス革命直前のアンシャン=レジーム(旧体制)においても、社会が聖職者、貴族、平民という三つの身分から構成されるという考え方は、法的な現実として存続していました。

しかし、その中身は、中世盛期とは大きく異なっていました。商業の発展と貨幣経済の浸透は、第三身分の内部に、経済力と知性を備えた市民階級を成長させました。彼らは、もはや単に「働く」だけの存在ではなく、社会の富の大部分を生み出す、最も活力のある階級となっていました。

絶対王政の時代を経て、彼らが、生まれに基づく身分的な特権(特に貴族の免税特権など)の不合理さに気づき、自らの権利を主張し始めた時、この三身分という古い社会の枠組みは、その歴史的役割を終え、暴力的な革命によって解体される運命にあったのです。中世ヨーロッパを規定した三身分社会の理念は、その内部から生まれた新たな社会階級の力によって、最終的に乗り越えられていくことになります。

Module 11:西ヨーロッパ(1) 封建社会の総括:混沌からの秩序形成—ローマ、キリスト教、ゲルマンの融合

本モジュールで探求した中世初期の西ヨーロッパ史は、一個の普遍的な帝国の崩壊という巨大な混沌の中から、全く新しい文明がいかにしてその秩序を自己形成していったかという、壮大な物語でした。それは、西ローマ帝国の瓦解によってもたらされた政治的空白と、ノルマン人やマジャール人といった第二波の侵入が引き起こした深刻な安全保障の危機に対し、ヨーロッパ社会が編み出した、独創的な生存戦略の記録です。

その核心には、常に「ローマの記憶」「キリスト教の信仰」「ゲルマンの慣習」という三つの要素の、複雑で創造的な融合がありました。ゲルマン民族の大移動は古代の秩序を破壊しましたが、フランク王国、特にカール大帝の帝国は、これら三要素を統合し、新たな「ヨーロッパ」の理念を初めて体現する試みでした。しかし、その帝国もまた分裂し、続く混乱の中から、より現実に即した、地方分権的な秩序として、封建制度と荘園制という二重の社会構造が生まれます。それは、国王の力が遠く及ばない状況で、身近な主君と臣下の間の個人的な忠誠契約と、土地を媒介とした保護と奉仕の関係によって、社会の安全を再構築しようとするものでした。

この分権的な世俗世界の上には、ローマ教皇を頂点とする、普遍的で階層的な教会組織が、唯一の精神的・文化的権威として君臨しました。聖と俗、二つの権力がせめぎ合う中で、教会はクリュニー改革などを通じて自らの純化を図り、叙任権闘争において皇帝権に対する優位を主張するに至ります。それは、皇帝が教会を支配する東方のビザンツ帝国とは対照的な、西ヨーロッパ独自の二元的な権力構造を決定づけました。

そして、この封建社会が安定期を迎えると、その内部から商業と都市が復活し、「祈る人、戦う人、働く人」という三身分社会の静的な秩序に、新たなダイナミズムを吹き込み始めます。中世封建社会は、決して「暗黒」の停滞期ではなく、後のヨーロッパを形作る、政治的、社会的、そして精神的なすべての基礎が、混沌の中から力強く生み出された、創造的な時代であったのです。

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