【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 12:西ヨーロッパ(2) 近代市民社会

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本モジュールの目的と構成

封建社会という、神と土地に固く結びつけられた中世の世界は、決して静的で永続的なものではありませんでした。その内側からは、やがてその構造そのものを解体し、全く新しい社会を誕生させる、巨大な変革のエネルギーが沸き起こってきます。本モジュールは、西ヨーロッパが中世から近代へと移行する、この「大転換」の時代を扱います。それは、一つの革命ではなく、文化、宗教、科学、政治、そして経済という、あらゆる領域で連鎖的に発生した「諸革命の時代」として特徴づけられます。

この探求の核心は、これまで社会のあらゆる側面を規定してきた超越的な権威、すなわち「神」と「教会」の絶対性から人間を解放し、その代わりに「理性」と「個人」を世界の中心に据えようとする、壮大な知的・社会的運動の軌跡をたどることにあります。私たちは、ルネサンスにおける人間性の再発見から始め、宗教改革による信仰の個人化、科学革命による宇宙観の転換、そして啓蒙思想による理性の称揚を経て、その理念がイギリス、アメリカ、フランスにおける市民革命という政治的実践へと結実していく過程を解き明かします。さらに、産業革命がもたらした経済構造の根底からの変革と、それら全ての革命の最終的な受け皿として、ナショナリズムに支えられた「国民国家」が誕生するまでを射程に収めます。

学習の旅は、以下の論理的なステップで構成されています。

  1. ルネサンスとヒューマニズム: まず、中世的な神中心の世界観に最初の亀裂を入れ、人間そのものの価値と可能性を再発見した、文化と精神の再生運動を探ります。
  2. 宗教改革: 次に、キリスト教世界の統一を打ち破り、信仰の問題を教会という組織から個人の内面へと引き戻した、宗教領域における革命的変革を分析します。
  3. 大航海時代と世界商業: ヨーロッパ世界の物理的な地平を爆発的に拡大させ、後の世界的な覇権の経済的基盤を築いた、大航海時代のインパクトを検証します。
  4. 科学革命: 天動説から地動説へという宇宙観のコペルニクス的転回を軸に、自然界を神の神秘ではなく、理性的・数学的な法則によって理解しようとする、新しい知のパラダイムの成立を解明します。
  5. 啓蒙思想: 科学革命によって確立された「理性」の力を、人間社会そのものへと適用し、個人の権利、自由、平等に基づく、新しい社会・政治のあり方を構想した、18世紀の知的運動を考察します。
  6. イギリス革命: 啓蒙思想に先立ち、議会と王権の闘争を通じて、絶対王政を克服し、立憲君主制という近代的な政治体制の基礎を築いた、イギリスの漸進的な革命の過程を追跡します。
  7. アメリカ独立革命: 啓蒙思想の理念を最も純粋な形で実践し、君主制そのものを否定して、成文憲法に基づく共和国を人類史上初めて打ち立てた、新大陸の革命の歴史的意義を探ります。
  8. フランス革命: 旧体制(アンシャン=レジーム)の矛盾を最もラディカルな形で爆破し、「自由・平等・友愛」の理念をヨーロッパ全土に広めた、近代市民革命の典型とその帰結を深く掘り下げます。
  9. 産業革命: 人類の生産様式を、数千年にわたる農業基盤から工業基盤へと根底から覆し、新たな社会階級と近代的な都市生活を生み出した、経済領域における最大の革命を分析します。
  10. ナショナリズムと国民国家: 最後に、これら一連の政治・経済革命のエネルギーが収斂し、人々を「国民」という新しい共同体の意識で統合する、近代国家の最終形態がいかにして成立したのかを検証します。

このモジュールを通じて、読者は、私たちが今日自明のものとしている「民主主義」「資本主義」「科学」「人権」「国民」といった近代社会の基本概念が、いかに激しい断絶と創造の苦闘の中から生まれ出てきたのかを理解することができるでしょう。それは、現代世界の成り立ちそのものを、歴史の深層から読み解くための知的視座を獲得する旅となるはずです。

目次

1. ルネサンスとヒューマニズム

1.1. ルネサンスとは何か

14世紀から16世紀にかけて、イタリアを中心に西ヨーロッパで、文化・芸術・思想のあらゆる分野にわたる、大きな変革の波が起こりました。これが「ルネサンス」です。

ルネサンス(Renaissance)とは、フランス語で「再生」を意味する言葉です。では、何が「再生」したのでしょうか。それは、中世キリスト教世界が成立する以前の、古代ギリシア・ローマの古典文化です。当時の人々は、自分たちの生きる中世を、ローマ帝国の崩壊とゲルマン民族の侵入によって、文化が一度死んでしまった「暗黒時代」と捉え、その輝かしい手本を、キリスト教以前の古代世界に求めました。

彼らは、古代の文学、哲学、美術、建築を研究し、模倣し、そしてそれを超える新しい文化を創造しようとしました。この運動の根底には、中世的な、神を中心とする厳格で禁欲的な世界観から脱却し、人間そのものの価値、理性、感性、そして現世における生の喜びを、肯定的に捉え直そうとする、新しい精神がありました。

1.2. なぜイタリアから始まったのか

ルネサンスが、ヨーロッパの他の地域に先駆けて、イタリアで花開いたのには、いくつかの理由があります。

  1. 古代ローマの遺産の宝庫: イタリア半島は、かつてのローマ帝国の中心地であり、いたるところに古代の建築物、彫刻、碑文といった、古典文化の遺跡が残っていました。人々は、日常的に古代の偉大さを目にすることができたのです。
  2. 都市国家(コムーネ)の繁栄: 11世紀以降、ヴェネツィア、ジェノヴァ、フィレンツェ、ミラノといった北・中部イタリアの都市は、地中海貿易(特に東方貿易)によって経済的に大いに繁栄しました。これらの都市は、神聖ローマ皇帝やローマ教皇の支配から自立した、事実上の独立国家(都市国家、コムーネ)を形成していました。
  3. 有力市民(パトロン)の出現: 商業や金融業によって莫大な富を築いた、メディチ家(フィレンツェ)のような大商人や銀行家、あるいは傭兵隊長から君主となった人々は、自らの権威と名声を高めるため、芸術家や学者を積極的に保護・支援しました。彼らは「パトロン」と呼ばれ、その支援が、ルネサンスの文化を育む土壌となりました。
  4. ビザンツ帝国からの影響: 1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落すると、多くのビザンツ帝国の学者が、古代ギリシアの貴重な文献を持って、イタリアへ亡命してきました。彼らがもたらした知識は、古典研究を一層活発化させました。

1.3. ヒューマニズム(人文主義)の精神

ルネサンスの根底に流れる思想的・精神的な運動を「ヒューマニズム(人文主義)」と呼びます。

中世の学問の中心は、神学でした。すべての学問は、神の教えを理解し、キリスト教の教義を体系化するための「神学の婢(はしため)」と位置づけられていました。

これに対し、ヒューマニスト(人文主義者)たちは、神学から独立した、人間性の涵養(かんよう)のための学問、すなわち、古代ギリシア・ローマの古典(文学、歴史、哲学、修辞学など)を研究することこそが、人間をより人間らしく、自由にすると考えました。彼らは、中世のスコラ学のような、形式的で難解な議論を批判し、古代の作家が用いた、優雅で美しいラテン語を模範としました。

ヒューマニズムは、必ずしもキリスト教そのものを否定したわけではありません。しかし、彼らは、関心の中心を、来世の救済や神の国から、この現世における人間の生き方、個人の才能や名誉、そして人間の持つ可能性へと、大きくシフトさせたのです。この人間中心的な世界観への転換こそが、ルネサンスが近代の扉を開いたと評価される、最大の理由です。

  • ペトラルカ: 「最初のヒューマニスト」と呼ばれる詩人。古代ローマのキケロを崇拝し、古典ラテン語の研究に没頭した。また、イタリア語による叙情詩『カンツォニエーレ』で、個人の内面的な愛の感情をうたい、近代抒情詩の基礎を築いた。
  • ボッカチオ: ペトラルカの友人で、ペストが蔓延するフィレンツェを舞台に、人間の欲望や機知を生き生きと描いた物語集『デカメロン』を著した。

1.4. ルネサンスの美術

ルネサンスの精神は、美術の分野で、最も輝かしい成果として結実しました。ルネサンスの芸術家たちは、中世の、平面的で象徴的な宗教画から脱却し、古代ギリシア・ローマ美術の、写実的で調和の取れた様式を手本としました。

彼らは、人体の解剖学的な研究や、遠近法、陰影法といった新しい技法を駆使して、人間や自然を、ありのままの、三次元的な存在として、カンヴァスや石材の上に再現しようとしました。主題は、キリスト教の物語だけでなく、ギリシア・ローマ神話や、パトロンの肖像画など、より世俗的なものへと広がっていきました。

  • フィレンツェ(初期ルネサンス):
    • ブルネレスキ: フィレンツェ大聖堂の巨大な円蓋(クーポラ)を設計。
    • ドナテルロ: 古代以来となる、生命感あふれる裸体のダヴィデ像を制作。
    • ボッティチェリ: 『春(プリマヴェーラ)』や『ヴィーナスの誕生』など、神話的な主題を、優美な曲線で描いた。
  • ローマ・ヴェネツィア(盛期ルネサンス): 16世紀初頭、ルネサンスの中心は、教皇が最大のパトロンとなったローマへ移ります。
    • レオナルド=ダ=ヴィンチ: 画家、彫刻家、建築家、科学者、技術者など、あらゆる分野で天才的な才能を発揮した「万能人(ウオモ・ウニヴェルサーレ)」の典型。『モナ=リザ』や『最後の晩餐』で、人間の内面的な心理を巧みに描き出した。
    • ミケランジェロ: 彫刻『ダヴィデ像』、システィーナ礼拝堂の天井画『天地創造』と壁画『最後の審判』など、人間の肉体の力強さと、壮大な精神性を表現した、情熱的な作品を残した。
    • ラファエロ: 『アテナイの学堂』など、調和と優美さに満ちた、古典的な様式を完成させた。

1.5. 北方ルネサンス

15世紀後半になると、ルネサンスの波は、アルプスを越えて、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ)、ドイツ、フランス、イギリスといった、北ヨーロッパの国々にも広がっていきました。これを「北方ルネサンス」と呼びます。

北方ルネサンスは、イタリア・ルネサンスの影響を受けつつも、独自の性格を持っていました。イタリアが、古代の異教的な文化そのものに強い関心を示したのに対し、北方では、ヒューマニズムの古典研究を、キリスト教の原点に立ち返り、教会の腐敗を批判し、改革するための手段として用いようとする傾向が強く見られました。これを「キリスト教人文主義」と呼びます。

  • エラスムス(ネーデルラント): 「人文主義者の王」と称される、北方ルネサンス最大の学者。『痴愚神礼賛』を著し、聖職者の偽善や、教会の形式化した儀式を、痛烈に風刺した。また、ギリシア語の原典から、新しいラテン語訳聖書を刊行し、聖書研究の基礎を築いた。
  • トマス=モア(イギリス): エラスムスの友人で、大法官を務めた政治家。架空の理想郷を描いた『ユートピア』で、当時のイギリス社会の不正や貧困を批判した。後に、国王ヘンリ8世の離婚問題に反対し、処刑された。
  • ブリューゲル(ネーデルラント): 『農民の踊り』など、イタリア的な理想化された美ではなく、農民の日常生活や、自然の風景を、写実的に、時には風刺を込めて描いた。
  • グーテンベルク(ドイツ): 15世紀半ば、活版印刷術を発明。これにより、聖書や古典の書物が、安価に大量に生産できるようになり、ルネサンスや、後に続く宗教改革の思想が、ヨーロッパ全土に急速に広まる上で、計り知れない役割を果たした。

ルネサンスは、ヨーロッパの人々の世界観を、神中心から人間中心へと転換させ、個人の解放と、理性の自覚を促しました。それは、中世という古い時代の終わりを告げ、近代という新しい時代の扉を開く、決定的な一歩だったのです。

2. 宗教改革

2.1. 改革の背景:ローマ教会の腐敗と動揺

16世紀初頭、ローマ=カトリック教会は、西ヨーロッパ全域を覆う、巨大な権威であり続けていました。しかし、その内側では、深刻な腐敗と、人々の信頼の揺らぎが進行していました。

  • 教会の世俗化: ルネサンス期の教皇たちは、信仰の指導者としてよりも、イタリアの世俗君主として振る舞うことが多く、権力闘争や贅沢な芸術活動に明け暮れていました。特に、レオ10世(メディチ家出身)は、ローマのサン=ピエトロ大聖堂の改築費用を捻出するため、大規模な資金集めを計画します。
  • 聖職者の堕落: 高位聖職者の多くは、貴族出身者が占め、信仰よりも政治や富に関心を持っていました。聖職売買(シモニア)や、聖職者の妻帯は、依然として後を絶ちませんでした。
  • 教皇権の衰退: 14世紀のアヴィニョン捕囚(教皇がフランス王の支配下で、ローマから南フランスのアヴィニョンに移された事件)や、教会大分裂(シスマ、ローマとアヴィニョンに複数の教皇が並び立つ異常事態)は、教皇の普遍的な権威を大きく傷つけました。
  • 王権の伸張と国家意識の芽生え: イギリスやフランスでは、国王を中心とする中央集権化が進み、自国の教会を、ローマ教皇の支配から独立させようとする動き(国民教会主義)が強まっていました。人々は、ローマ教皇庁による国内の富の収奪(教会税など)に、強い不満を抱いていました。

このような状況の中、教会の現状を批判し、聖書の教えに立ち返ることを求める改革の機運が、各地で高まっていました。イギリスのウィクリフや、ベーメン(チェコ)のフスといった、14-15世紀の改革の先駆者たちは、教皇の権威を否定し、聖書こそが信仰の唯一の拠り所であると説きましたが、彼らの運動は異端として弾圧されました。

2.2. ルターとドイツの宗教改革

宗教改革の直接的な引き金となったのは、教皇レオ10世がドイツで販売を許可した「贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)」でした。

贖宥状とは、それを購入すれば、罪の償いが軽減され、天国へ行くための煉獄(れんごく)での滞在期間が短縮される、とされた証明書です。これは、「善行」によって救いが得られるという、カトリックの伝統的な教義に基づいていましたが、実際には、教会の財政難を補うための、露骨な金儲けの手段となっていました。

ドイツのヴィッテンベルク大学で神学教授を務めていた修道士、マルティン=ルターは、この贖宥状の販売に対して、強い神学的な疑問と、倫理的な憤りを抱きました。彼は、人間の救いは、贖宥状の購入のような、外面的な「善行」によって得られるものではなく、ただひたすらに神を信じる「信仰」によってのみ、神から一方的に与えられるものである、と確信していました。

  1. 九十五カ条の論題: 1517年、ルターは、贖宥状の販売に抗議し、その神学的な問題点を問うための「九十五カ条の論題」を、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示しました。活版印刷術によって、この文書は瞬く間にドイツ全土に広まり、教会の腐敗に不満を抱いていた人々の、熱狂的な支持を得ました。
  2. 信仰義認説: ルターの思想の中心は、「人は信仰によってのみ義とされる(義とは、神の前に正しいと認められること)」という「信仰義認説」です。救いは、教会の権威や儀式(秘跡)を介さず、個人が聖書を通じて、神と直接向き合うことで得られるとしました。
  3. 聖書中心主義: 彼は、信仰の唯一の拠り所は「聖書のみ」であると主張し、教皇や教会の伝統の権威を否定しました。彼は、誰もが聖書を母国語で読めるように、新約聖書をドイツ語に翻訳しました。これは、ドイツ語の統一に大きく貢献しました。
  4. 万人祭司主義: すべての信者は、神の前では平等であり、聖職者と一般信徒の間に、身分的な差はないと説きました。

教皇レオ10世は、ルターに自説の撤回を求めましたが、ルターはこれを拒否したため、1521年に彼を破門しました。神聖ローマ皇帝カール5世も、ヴォルムス帝国議会にルターを召喚し、自説の撤回を迫りましたが、ルターは「我、ここに立つ。他になしあたわず」と述べ、再びこれを拒否しました。

皇帝は、ルターを帝国の法の保護外に置くことを宣言しましたが、ルターは、彼を支持するザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれ、改革運動を続けました。

ルターの改革は、宗教的な領域にとどまらず、ドイツの社会と政治を大きく揺るがしました。騎士たちは、教会領を奪おうとして騎士戦争を起こし、農民たちは、ルターの「福音の自由」の教えを、農奴制からの解放と解釈し、ドイツ農民戦争という、大規模な社会反乱を起こしました。ルターは、当初は農民に同情的でしたが、反乱が過激化すると、秩序の回復を重視し、諸侯による徹底的な鎮圧を支持しました。

その後、ルターの教えは、多くのドイツ諸侯や都市に受け入れられ、彼らはカトリック教会から離脱しました。彼らは、皇帝の弾圧に対して「抗議(プロテスト)」したことから、「プロテスタント」と呼ばれるようになります。

皇帝カール5世は、カトリック信仰のもとに帝国を統一しようとしましたが、フランスとの戦争や、オスマン帝国の脅威に直面し、プロテスタント諸侯を力で抑えつけることはできませんでした。長い宗教内乱(シュマルカルデン戦争)の末、1555年のアウクスブルクの和議で、ついに妥協が成立しました。この和議では、「領主の宗教が、その地の宗教となる(cuius regio, eius religio)」という原則が認められ、諸侯は、カトリックとルター派のいずれかを選択する権利を得ました。ただし、個人の信仰の自由は認められず、また、カルヴァン派の信仰は除外されました。

2.3. カルヴァンとスイスの宗教改革

ルター派と並んで、プロテスタントのもう一つの大きな潮流を形成したのが、カルヴァン派です。

フランス出身の神学者ジャン=カルヴァンは、ルターの思想に影響を受け、プロテスタントに改宗しましたが、フランス国王の弾圧を逃れて、スイスのジュネーヴに移りました。

  • 予定説: カルヴァンの思想の核心は、厳格な「予定説」です。これは、誰が救われるか、誰が滅びるかは、その人間が生まれる前に、神によってあらかじめ定められており、人間の意志や行いによっては、それを変更することはできない、という教えです。
  • 神の栄光と職業召命観: 予定説は、人々に深刻な不安をもたらしましたが、カルヴァンは、神から与えられた自らの職業(天職)に禁欲的に励み、その結果として成功を収めることこそが、自分が神に選ばれた者であることの証(確信)となると説きました。この教えは、商工業者(ブルジョワジー)たちの、利潤の追求を倫理的に正当化し、彼らの勤勉な労働意欲を刺激しました。ドイツの社会学者マックス=ヴェーバーは、その著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、このカルヴァンの教えが、近代資本主義の発展に、重要な精神的基盤を提供したと論じました。
  • 神権政治: カルヴァンは、ジュネーヴで、長老や牧師が市政を指導する、厳格な神権政治を実践しました。

カルヴァン派の教えは、その理論的な明快さと、合理的な教会運営のシステムによって、ヨーロッパ各地の商工業が盛んな地域に、急速に広まっていきました。フランスでは「ユグノー」、ネーデルラントでは「ゴイセン」、スコットランドでは「プレズビテリアン」、イングランドでは「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれ、各地でカトリックや絶対王政と激しく対立することになります。

2.4. イギリスの宗教改革

イギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンのような、神学的な動機からではなく、国王の離婚問題という、極めて政治的な理由から始まりました。

国王ヘンリ8世は、王妃キャサリンとの間に、男子の世継ぎが生まれなかったため、離婚して、侍女のアン=ブーリンとの再婚を望みました。しかし、ローマ教皇は、キャサリンの甥である神聖ローマ皇帝カール5世の圧力を恐れ、この離婚を認めませんでした。

これに激怒したヘンリ8世は、議会の協力を得て、ローマ教会からの分離を断行します。1534年、彼は「国王至上法(首長法)」を発布し、ローマ教皇に代わって、イングランド国教会(アングリカン=チャーチ)の唯一最高の首長であると宣言しました。彼は、カトリックの教義や儀式はほとんど変更しませんでしたが、教皇の権威を否定し、国内の修道院を解散させて、その莫大な土地と財産を没収しました。この土地は、ジェントリと呼ばれる、地方の地主階級に払い下げられ、彼らはテューダー朝の絶対王政を支える、新たな支持基盤となりました。

ヘンリ8世の子、エドワード6世の時代に、教義面でのプロテスタント化が進みましたが、次のメアリ1世は、熱心なカトリック教徒であり、プロテスタントを弾圧して、一時的にカトリックに復帰させました。

最終的に、イングランド国教会の体制を確立したのは、エリザベス1世です。彼女は、1559年に「統一法」を制定し、国教会の首長として、カトリック的な要素とプロテスタント的な要素を折衷した、中道的な教義と礼拝の形式を定め、国内の宗教的対立の収拾を図りました。

2.5. カトリック改革(対抗宗教改革)

プロテスタントの急速な拡大に直面したカトリック教会も、内部からの自己改革運動(カトリック改革、または対抗宗教改革)を開始しました。

1545年から開催されたトリエント公会議では、プロテスタントの教義(信仰義認説や聖書中心主義)を明確に異端として退ける一方で、教皇の至上権を再確認し、聖職者の規律を粛正するなど、教会内部の腐敗を一掃するための改革が決定されました。

この改革運動の推進力となったのが、スペイン人のイグナティウス=デ=ロヨラが設立した、イエズス会(1540年認可)です。イエズス会は、教皇への絶対的な服従を誓い、厳格な軍隊的な規律を持つ、新しい修道会でした。彼らは、質の高い教育活動を通じて、ヨーロッパでプロテスタントに奪われた地域を、カトリックに引き戻す上で、大きな役割を果たしました。

さらに、イエズス会の宣教師たちは、大航海時代によって開かれた、新たな世界へと、積極的に布教活動を展開しました。フランシスコ=ザビエルは、インドや日本にまでキリスト教を伝え、また、南米のラテンアメリカでは、彼らの活動によって、広範なカトリック化が進められました。

宗教改革は、中世以来のローマ=カトリック教会による、西ヨーロッパの精神的な統一を、永久に終わらせました。それは、信仰を、国家や個人の選択の問題へと変え、その後のヨーロッパにおける、激しい宗教戦争の時代(ユグノー戦争、オランダ独立戦争、三十年戦争)の幕開けを告げるものでした。しかし同時に、それは、人々を教会の権威から解放し、近代的な個人の意識や、主権国家の形成を促す、大きな歴史の原動力ともなったのです。

3. 大航海時代と世界商業

3.1. なぜヨーロッパ人が海へ乗り出したのか

15世紀後半から17世紀半ばにかけて、ヨーロッパ人は、羅針盤や天測儀などの航海技術の改良と、外洋航海に適した大型帆船(キャラック船など)の開発を背景に、それまで知られていなかった、新たな世界へと、次々と乗り出していきました。この時代を「大航海時代」と呼びます。

彼らを未知の海へと駆り立てた、その動機は、複合的なものでした。

  1. 経済的動機(香辛料と金):
    • 当時、ヨーロッパの貴族社会では、胡椒(ペッパー)をはじめとする、アジア産の香辛料が、肉料理の保存や風味付け、医薬品として、極めて高価に取引されていました。
    • これらの香辛料は、インド洋から、イスラーム商人、そしてヴェネツィアやジェノヴァといったイタリア商人を経て、ヨーロッパにもたらされていたため、その価格は非常に高騰していました。
    • ヨーロッパの商人たちは、このイスラーム商人やイタリア商人を介さずに、直接アジアの産地と結びつき、莫大な利益を独占しようと考えました。
    • また、マルコ=ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』が伝えた、黄金の国ジパング(日本)の伝説も、人々の冒険心をかき立てました。当時、ヨーロッパでは、アジアとの貿易での銀の流出により、貴金属が不足しており、新たな金銀の供給源が、切実に求められていました。
  2. 宗教的情熱:
    • イベリア半島(スペイン、ポルトガル)では、長年にわたる国土回復運動(レコンキスタ)が、1492年のグラナダ陥落によって、ついに完了しました。このイスラーム勢力との戦いの過程で培われた、キリスト教の布教への強い情熱が、海外へと向けられました。
    • 彼らは、アジアやアフリカの未知の土地に住む人々を、キリスト教に改宗させることを、神聖な使命と考えていました。また、伝説上のキリスト教国(プレスター=ジョンの国)と連携して、イスラーム勢力を挟み撃ちにしようという、壮大な構想も抱いていました。
  3. 科学的探求心:
    • ルネサンスを通じて、地球は球体であるという、古代ギリシアの知識が、再び広く知られるようになりました。トスカネリのような天文学者は、地球球体説に基づき、西回りでアジアに到達できる可能性があると主張しました。

3.2. 先駆者ポルトガルとアフリカ航路の開拓

大航海時代の口火を切ったのは、イベリア半島の西端に位置するポルトガルでした。ポルトガルは、レコンキスタを早期に完了し、そのエネルギーを、いち早く海外進出へと振り向けました。

その強力な推進者となったのが、「航海王子」と呼ばれるエンリケ王子です。彼は、自ら航海に出ることはありませんでしたが、アフリカ西岸に探検隊を次々と派遣し、航海術の研究や、海図の作成を奨励しました。

ポルトガルのアフリカ探検は、当初は、サハラ砂漠の南にある、金の産地(ガーナ)との直接交易を目指すものでしたが、次第に、アフリカ大陸を南下して、インドへ至る航路の開拓へと、その目標を拡大させていきました。

  • バルトロメウ=ディアス: 1488年、アフリカ大陸の南端に到達し、その岬を「喜望峰」と名付け、インド航路開拓の可能性を証明しました。
  • ヴァスコ=ダ=ガマ: 1498年、喜望峰を回って、イスラーム教徒の水先案内人の助けを得て、インド西海岸のカリカットに到達。ついに、インドへの直接航路を開拓しました。彼は、香辛料を満載してリスボンに帰還し、その利益は、航海の経費の60倍にも達したと言われています。

その後、ポルトガルは、圧倒的な海軍力(大砲を装備した軍艦)を背景に、インド洋の制海権を、イスラーム商人から奪い取りました。ゴア(インド)、マラッカ(マレー半島)、ホルムズ(ペルシア湾)、マカオ(中国)といった、アジア各地の重要拠点に要塞を築き、広大な「海上交易帝国」を建設しました。

3.3. スペインと新大陸の「発見」

ポルトガルが、東回りの航路を開拓していた頃、そのライバルであるスペインは、西回りの航路に賭けました。

ジェノヴァ出身の船乗りクリストファー=コロンブスは、地球球体説を信じ、大西洋を西に進めば、アジアに到達できると確信していました。彼は、ポルトガル王に計画を拒否された後、レコンキスタを完了して、国威発揚に燃えるスペイン女王イサベルの援助を得ることに成功します。

1492年、コロンブスは、3隻の船でパロス港を出航し、大西洋を横断。同年10月、彼は、現在の西インド諸島のサンサルバドル島に到達しました。彼は、その地をインドの一部(インディアス)であると生涯信じ続けましたが、これが、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の「発見」となりました。

コロンブスの航海の後、ヨーロッパから多くの探検家が、この「新大陸」へと渡りました。

  • アメリゴ=ヴェスプッチ: この大陸が、アジアとは異なる「新世界」であることを報告し、彼の名にちなんで、この大陸は「アメリカ」と名付けられました。
  • バルボア: パナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて太平洋に到達しました。
  • マゼラン(マガリャンイス): スペイン王の命を受け、西回りでアジアを目指しました。彼は、南米大陸の南端(マゼラン海峡)を通過して太平洋を横断し、フィリピンに到達しましたが、そこで原住民との戦いで命を落としました。しかし、彼が率いた艦隊の一部は、喜望峰を回って、1522年にスペインに帰還し、史上初の世界周航を成し遂げました。

3.4. 世界の一体化と商業革命

大航海時代は、人類の歴史を根底から変える、巨大なインパクトをもたらしました。

  • 世界の一体化: それまで、ユーラシア、アフリカ、アメリカ、オセアニアという、互いに孤立していた諸文明圏が、初めて直接結びつけられ、「世界史」が文字通り成立しました。
  • コロンブス交換: アメリカ大陸からは、ジャガイモ、トウモロコシ、トマト、サツマイモ、カカオ、唐辛子、タバコといった、新しい作物が旧大陸(ヨーロッパ、アジア、アフリカ)にもたらされ、世界の食糧事情と食文化を大きく変えました。逆に、旧大陸からは、小麦、ブドウ、オリーブ、サトウキビといった作物や、馬、牛、羊、豚といった家畜が、新大陸にもたらされました。しかし、同時に、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘や麻疹といった伝染病は、免疫を持たないアメリカ大陸の先住民(インディオ)の人口を激減させる、壊滅的な結果を招きました。
  • 商業革命:
    • 商業の中心の移動: 貿易の中心が、従来の地中海から、大西洋岸のリスボン(ポルトガル)、セビリア(スペイン)、アントワープ(ネーデルラント)、アムステルダム、ロンドンへと移動しました。
    • 世界商業網の成立: 大西洋を舞台に、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ、三角貿易が展開されました。ヨーロッパからは、武器や雑貨がアフリカへ、アフリカからは、黒人奴隷が「商品」として、アメリカ大陸のプランテーション(サトウキビ、タバコ、綿花などの大規模農園)へ、そしてアメリカ大陸からは、砂糖やタバコなどの生産物が、ヨーロッパへと運ばれました。
  • 価格革命: アメリカ大陸のポトシ銀山などから、膨大な量の銀がヨーロッパに流入した結果、ヨーロッパの物価は、2~3倍に高騰しました。この激しいインフレーションは「価格革命」と呼ばれ、固定的な地代収入に依存する封建領主層に打撃を与え、その没落を加速させた一方で、商工業者(ブルジョワジー)の台頭を促しました。

3.5. 植民地支配の始まり

スペインは、新大陸に広大な植民地帝国を築きました。コルテスはアステカ王国を、ピサロはインカ帝国を、それぞれ少数の軍隊で征服しました。彼らコンキスタドール(征服者)は、鉄砲や馬、そして伝染病を武器に、高度な文明を築いていた先住民の帝国を、容赦なく破壊しました。

植民地では、エンコミエンダ制のもと、インディオが金銀の採掘や、プランテーションでの過酷な労働を強いられ、その人口は激減しました。ラス=カサスのような、一部の聖職者が、インディオの悲惨な状況を告発しましたが、労働力不足を補うため、アフリカから黒人奴隷が大量に導入されることになりました。

大航海時代は、ヨーロッパに空前の繁栄をもたらし、その後の世界の覇権を確立する出発点となりました。しかし、その繁栄は、アメリカ大陸の文明の破壊と、アフリカの人々の犠牲の上に築かれたものであり、人類史における、光と影の劇的な交錯を示す時代であったと言えるのです。

4. 科学革命

4.1. 中世までの宇宙観:天動説

ルネサンスと宗教改革が、人間観と宗教観に革命的な変化をもたらしたとすれば、「科学革命」は、自然観と宇宙観を根底から覆した、知のパラダイムの大転換でした。

16世紀まで、ヨーロッパの人々が信じていた宇宙の姿は、古代ギリシアの天文学者プトレマイオスによって体系化され、キリスト教神学によって権威づけられた、「天動説(地球中心説)」でした。

この宇宙観によれば、

  • 宇宙の中心には、静止した地球が存在する。
  • 地球の周りを、月、太陽、そして5つの惑星(水星、金星、火星、木星、土星)が、透明な天球に張り付いて、円運動で公転している。
  • 一番外側の恒星天には、すべての星々が固定されている。
  • そして、そのさらに外側には、神と天使たちが住む、至高天が存在する。

この宇宙観は、日常的な観察(太陽や星が、地球の周りを動いているように見える)と合致しており、また、神が創造した宇宙の中心に、最も重要な被造物である人間が住む地球を置くという、キリスト教の教義とも、見事に調和していました。それは、物理的な宇宙のモデルであると同時に、神聖な秩序と階層構造を持つ、完璧で有限な世界像だったのです。

4.2. コペルニクスの地動説

この1000年以上にわたって、誰もが疑わなかった宇宙観に、最初の根本的な疑問を投げかけたのが、ポーランドの天文学者コペルニクスでした。

彼は、惑星の複雑な動き(逆行など)を、天動説の枠内で説明しようとすると、計算が非常に複雑になり、不自然であることに気づきました。そして、もし宇宙の中心にいるのが地球ではなく、太陽であると考えれば、惑星の動きが、はるかに単純で、調和の取れた形で説明できることを発見しました。

1543年、彼は、その死の直前に、主著『天球の回転について』を出版し、宇宙の中心に太陽を置き、地球は、他の惑星と同じように、太陽の周りを公転する一つの惑星である、という「地動説(太陽中心説)」を提唱しました。

コペルニクスの地動説は、すぐには広く受け入れられませんでした。それは、日常的な感覚に反するだけでなく、聖書の記述や、アリストテレス以来の伝統的な物理学とも矛盾する、あまりにも革命的な思想だったからです。しかし、それは、旧来の宇宙観の堅固な壁に、最初の亀裂を入れる、歴史的な一歩でした。

4.3. 天文分野での革命の進展

コペルニクスの後、多くの天文学者たちが、彼の理論を、天体観測と数学的な計算によって、検証し、発展させていきました。

  • ティコ=ブラーエ(デンマーク): 生涯をかけて、極めて精密で膨大な天体観測データを蓄積しました。
  • ケプラー(ドイツ): ティコ=ブラーエの観測データをもとに、惑星の運動に関する、三つの法則(ケプラーの法則)を発見しました。
    1. 惑星は、太陽を一つの焦点とする、楕円軌道上を動く。
    2. 惑星と太陽を結ぶ線分が、一定時間に描く面積は、常に一定である(面積速度一定の法則)。
    3. 惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。ケプラーの法則は、惑星が神聖な「円運動」をするという、古代ギリシア以来のドグマを打ち破り、宇宙が、数学的な法則によって支配されていることを、明確に示しました。
  • ガリレオ=ガリレイ(イタリア):
    • 自ら改良した望遠鏡を、初めて本格的に天体観測に用いました。
    • 彼は、木星に4つの衛星があること、月の表面が、クレーターのある凸凹な地形であること、金星が満ち欠けすること、太陽に黒点があることなどを発見しました。
    • これらの発見は、天体が、神の作った完璧な球体ではなく、地球と同じような、物質的な存在であることを示し、地動説を支持する、強力な観測的証拠となりました。
    • ガリレオは、その著書『天文対話』で、地動説を擁護したため、ローマ教皇庁の宗教裁判にかけられ、自説の撤回を強要されました。彼の「それでも地球は動く」という言葉は、科学的真理の探求と、宗教的権威との間の葛藤を象徴しています。
    • また、彼は、物体の落下運動に関する実験を通じて、「慣性の法則」の基礎を築くなど、近代物理学の父とも呼ばれています。

4.4. 科学的方法論の確立

科学革命は、単に新しい発見が相次いだだけでなく、「科学とは何か」「どのようにして真理を探求すべきか」という、科学の方法論そのものを確立した時代でもありました。

  • フランシス=ベーコン(イギリス): 伝統や権威、先入観(イドラ)にとらわれず、まず個別の事実を、注意深く観察し、実験することから出発し、そこから一般的な法則を導き出すべきである、と説きました。このような、個別事例から一般法則を導くアプローチを「帰納法」と呼びます。彼は、「知は力なり」という言葉で、科学が自然を支配し、人間の生活を向上させるための、実践的な力となることを強調しました。
  • ルネ=デカルト(フランス): 「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という命題から出発し、疑い得ない明晰な原理(公理)から、論理的な演繹によって、個別の結論を導き出すべきである、と説きました。このような、一般的原理から個別命題を導くアプローチを「演繹法」と呼びます。彼は、自然界を、精神とは独立した、数学的な法則で記述できる、機械論的な自然観を提唱しました。

このイギリス経験論(ベーコン)と、大陸合理論(デカルト)という二つの潮流が、近代科学と近代哲学の大きな源流となりました。

4.5. ニュートンによる近代科学の統合

17世紀後半、科学革命のすべての成果を統合し、近代科学の壮大な体系を完成させたのが、イギリスのアイザック=ニュートンです。

1687年に出版された、彼の主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』は、近代科学の金字塔とされています。

  • 万有引力の法則: ニュートンは、地上でリンゴが木から落ちる力と、月が地球の周りを回り続ける力、あるいは惑星が太陽の周りを回り続ける力が、本質的に同じ、一つの力(引力)であることを発見しました。この「万有引力の法則」は、天上の世界と地上の世界を支配する法則が、同一であることを証明し、二つの世界を隔てていた、アリストテレス的な世界観を、完全に覆しました。
  • 運動の三法則: 彼は、物体の運動を、慣性の法則、運動方程式(力の大きさが、質量と加速度の積に等しい)、作用・反作用の法則という、三つの普遍的な法則で説明しました。

ニュートンが提示した、時計のように正確で、数学的な法則によって支配される、機械論的な宇宙像(ニュートン力学)は、その後の西欧の知識人に、決定的な影響を与えました。宇宙は、もはや神が絶えず介入する、神秘的な世界ではなく、理性の力によって、完全に理解し、予測することが可能な、秩序だったシステムである、と考えられるようになったのです。

この科学革命によって確立された、理性への絶対的な信頼は、次の18世紀に、その光を、自然界だけでなく、人間社会そのものへと向ける、「啓蒙思想」の時代を準備することになります。

5. 啓蒙思想

5.1. 啓蒙とは何か:「理性の光」

17世紀の科学革命が、自然界を支配する普遍的な法則を明らかにしたことに、深い感銘を受けた18世紀の思想家たちは、同じような「理性」の力を、人間社会、政治、宗教、道徳といった、あらゆる分野に適用しようと試みました。この知的運動を「啓蒙思想」と呼びます。

「啓蒙(Enlightenment)」とは、「光で照らすこと」を意味します。彼らは、中世以来の、無知、迷信、非合理的な伝統、そして教会や絶対王政の権威といった「闇」を、理性の光で照らし出し、人間をそれらの束縛から解放し、社会を絶え間なく進歩させていくことを、自らの使命と考えました。

啓蒙思想家たちは、人間が、生まれながらにして、理性を用いる能力を持っていると信じ、その理性を自由に行使することによって、幸福で、公正で、合理的な社会を築くことができると楽観しました。

5.2. 思想の源流と主要な概念

啓蒙思想は、17世紀の科学革命と、イギリスの思想家たちの業績に、その直接的な源流を持っています。

  • ジョン=ロック(イギリス):
    • 彼は、人間の心は、生まれた時には、何も書かれていない白紙(タブラ・ラサ)のようなものであり、すべての知識は、その後の経験を通じて得られる、と説きました(経験論)。
    • その政治思想において、彼は、人間が、政府が成立する以前の「自然状態」において、生命、自由、財産といった、誰からも奪うことのできない「自然権」を持っていると主張しました。
    • 政府は、この自然権を守るために、人々の同意(契約)に基づいて設立されたものであり(社会契約説)、もし政府が、この契約に違反して、人々の権利を侵害するならば、人々は、その政府に抵抗し、新しい政府を樹立する権利(抵抗権、革命権)を持つ、と論じました。
    • ロックの思想は、後のアメリカ独立革命やフランス革命に、絶大な理論的影響を与え、「近代自由主義の父」と呼ばれています。

5.3. フランスの啓蒙思想家(フィロゾフ)

18世紀、啓蒙思想の中心地となったのは、フランスでした。フランスの啓蒙思想家たちは「フィロゾフ」と呼ばれ、サロン(貴婦人が主催した社交的な集い)や、コーヒーハウスを舞台に、活発な議論を交わしました。

  • モンテスキュー:
    • 主著『法の精神』の中で、イギリスの政治制度を研究し、国家の権力(立法、行政、司法)が、一つの機関に集中すると、必ず濫用され、個人の自由が脅かされる、と警告しました。
    • 彼は、権力の濫用を防ぐために、これらの三つの権力を、それぞれ異なる機関に分担させ、互いに抑制し、均衡を保たせるべきである、という「三権分立」の理論を提唱しました。この思想は、アメリカ合衆国憲法をはじめ、近代の多くの憲法における、権力分立の原則の基礎となりました。
  • ヴォルテール:
    • 啓蒙思想の精神を、最も体現した人物であり、その辛辣なウィットと、鋭い筆致で、カトリック教会の不寛容や、旧体制の不正を、徹底的に批判しました。
    • 彼は、「私は君の意見には反対だが、君がそれを言う権利は、命をかけて守る」という言葉に象徴されるように、思想・信条の自由と、宗教的な寛容を、強く擁護しました。
    • また、プロイセンのフリードリヒ2世や、ロシアのエカチェリーナ2世といった「啓蒙専制君主」と交流し、上からの改革を通じて、社会を合理化しようとしました。
  • ジャン=ジャック=ルソー:
    • 他の多くの啓蒙思想家が、文明の進歩を楽観していたのに対し、ルソーは、『人間不平等起源論』で、文明こそが、人間を堕落させ、不平等を生み出した元凶である、と批判しました。
    • 主著『社会契約論』の冒頭で、「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで、鉄鎖につながれている」と述べ、既存の社会制度の不当性を告発しました。
    • 彼は、ロックと同様に、社会契約説を唱えましたが、その内容は、よりラディカルなものでした。彼によれば、社会の主権は、君主ではなく、人民(人民主権)にあり、政府は、人民全体の共通の利益を目指す「一般意志」を実行するための、単なる代理人に過ぎないとしました。
    • ルソーの人民主権論は、フランス革命の急進派(ジャコバン派)に、大きな思想的影響を与え、近代民主主義思想の重要な源流となりました。

5.4. 『百科全書』と知識の普及

フランス啓蒙思想の、記念碑的な成果が、『百科全書』の編纂です。これは、ディドロとダランベールを中心に、ヴォルテールやルソーを含む、多くの啓蒙思想家が執筆に参加した、巨大な知識の集大成でした。

『百科全書』は、単に知識を羅列したものではありません。それは、すべての知識を、理性に基づいて、アルファベット順に分類・整理し、教会や国家の権威による、恣意的な知識の独占を打ち破ろうとする、壮大な知的プロジェクトでした。特に、科学技術や手工業に関する項目が、図版と共に詳細に解説されており、実用的な知識を重視する、近代的な精神を反映しています。

この事業は、カトリック教会や政府から、何度も弾圧や発禁処分を受けましたが、30年近くの歳月をかけて、ついに完成しました。それは、啓蒙思想の理念を、ヨーロッパ中の知識人階級に広める上で、決定的な役割を果たしました。

5.5. 経済思想とその他の地域の啓蒙思想

  • 重商主義批判と経済学の誕生:
    • 啓蒙思想の合理主義は、経済の分野にも及びました。それまでの絶対王政の経済政策であった重商主義(国家が貿易に介入し、金銀を蓄積しようとする政策)は、非効率で不自然であると批判されました。
    • フランスのケネーは、重農主義を唱え、富の唯一の源泉は農業であり、政府は、経済活動に介入せず、自然の秩序に任せるべきである(レッセ=フェール、為すに任せよ)と主張しました。
    • イギリスのアダム=スミスは、主著『国富論(諸国民の富)』で、個人の自由な利己心の追求が、「見えざる手」によって導かれ、結果的に社会全体の富を増大させると説き、自由放任主義に基づく、古典派経済学を創始しました。
  • ドイツとスコットランド:
    • ドイツでは、カントが、「啓蒙とは何か」という問いに対し、「人間が、自らの未成年状態から抜け出すことである」と定義し、他人の指導に頼らず、「自らの理性を用いる勇気を持て」と訴えました。
    • スコットランドでは、ヒュームやアダム=スミスを中心に、「スコットランド啓蒙」と呼ばれる、独自の知的運動が花開きました。

啓蒙思想は、ヨーロッパとアメリカの知識人階級に、共通の言語と、改革への情熱を与えました。それは、来るべき革命の時代のための、思想的な準備を整えるものでした。旧来の身分制社会や、王権神授説に基づく絶対王政は、もはや「理性的」で「自然的」なものではなく、改革、あるいは打倒されるべき、不合理な旧弊であると見なされるようになったのです。

6. イギリス革命

6.1. 革命前夜:ステュアート朝の成立と王権神授説

1603年、エリザベス1世が、世継ぎのないまま亡くなると、テューダー朝は断絶し、スコットランド王ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイングランド王位を継承し、ステュアート朝が始まりました。

ジェームズ1世は、王権は神から授けられた神聖なものであり、王は神に対してのみ責任を負い、議会や法には拘束されない、という「王権神授説」を強く信奉していました。これは、議会の権利を尊重し、協力関係を築くことで、巧みに国を治めたテューダー朝の伝統とは、全く相容れないものでした。

当時のイングランド議会は、貴族と高位聖職者からなる上院と、ジェントリ(郷紳、地方の地主階級)や、都市の市民階級の代表からなる下院の、二院制をとっていました。特に、下院は、国王の課税には、議会の承認が必要であるという、古くからの権利を主張し、国王の専制的な統治に、強く反発しました。

宗教面でも、対立は深刻でした。ジェームズ1世は、国教会(アングリカン)の制度を強化しようとし、国内のカルヴァン派であるピューリタン(清教徒)を弾圧しました。ピューリタンの多くは、ジェントリや市民階級に属しており、彼らは、議会を拠点として、国王の宗教政策に抵抗しました。

6.2. ピューリタン革命(清教徒革命)

対立は、次のチャールズ1世の時代に、決定的なものとなります。彼は、父ジェームズ1世以上に、専制政治を推し進め、議会を無視して、課税を行いました。

1628年、議会は、国王の不法な課税や逮捕に抗議し、「権利の請願」を提出して、国王に承認させました。しかし、チャールズ1世は、翌年、議会を解散し、以後11年間にわたって、議会を開かない、専制政治を行いました。

しかし、1639年、彼が、スコットランドに国教会の礼拝を強制しようとしたことが、スコットランドの反乱を招きました。この反乱の戦費を調達するため、チャールズ1世は、やむなく議会を召集しましたが、議会は、課税を承認する前に、まず国王の悪政を批判しました。

こうして、国王と議会の対立は、ついに武力衝突へと発展します。1642年、ピューリタン革命(またはイングランド内戦)が勃発しました。

  • 王党派: 国王を支持する、貴族や特権商人、国教会の聖職者たち。
  • 議会派: 議会を支持する、ジェントリ、市民、ヨーマン(独立自営農民)、そしてピューリタンたち。

当初は、王党派が優勢でしたが、議会派に、オリヴァー=クロムウェルという、傑出した指導者が現れると、戦況は一変します。クロムウェルは、熱心なピューリタンであり、敬虔な信仰を持つジェントリやヨーマンを中心に、「鉄騎隊」と呼ばれる、規律の取れた強力な騎兵隊を組織しました。彼は、これを中核として、能力本位の「新型軍(ニュー=モデル=アーミー)」を編成し、ネーズビーの戦い(1645年)で、王党派に決定的な勝利を収めました。

6.3. 共和政(コモンウェルス)とクロムウェルの独裁

勝利した議会派の内部では、今後の政治体制をめぐって、対立が生じました。国王との妥協を目指す穏健な長老派に対し、クロムウェルが率いる軍隊内の独立派は、国王の責任を厳しく追及し、より急進的な、水平派(普通選挙権などを主張)は、財産権に基づく制限選挙を批判しました。

クロムウェルは、武力で議会から長老派を追放し、残った議員で構成される議会で、チャールズ1世の裁判を行いました。そして、1649年、国王チャールズ1世は、「専制と国民への裏切りの罪」で、公開処刑されました。

国王の処刑は、ヨーロッパ中の王室に衝撃を与えました。その後、イギリスは、歴史上唯一の共和政(コモンウェルス)の時代を迎えます。

しかし、実権を握ったクロムウェルは、アイルランドやスコットランドの反乱を厳しく鎮圧し、また、オランダの中継貿易に打撃を与えるための航海法(1651年)を制定して、英蘭戦争を引き起こすなど、独裁的な傾向を強めていきました。1653年、彼は、議会を解散させ、自らは「護国卿(ロード=プロテクター)」に就任し、事実上の軍事独裁を行いました。

彼の厳格なピューリタン的倫理に基づく統治(劇場の閉鎖など)は、国民の支持を失い、1658年に彼が亡くなると、共和政は崩壊しました。

6.4. 王政復古と名誉革命

国民は、独裁と混乱に疲れ果て、安定を求めて、再び王政に戻ることを望みました。1660年、フランスに亡命していたチャールズ1世の息子が、チャールズ2世として王位に就き、王政復古が実現しました。

チャールズ2世は、革命の経験から、議会との協調を心がけましたが、その治世の後半には、カトリックへの寛容な政策をめぐって、議会との対立が再燃しました。この時期、議会内には、国王の権利を尊重する「トーリ党」と、議会の権利を擁護する「ホイッグ党」という、後の保守党と自由党の原型となる、二つの政党が形成されました。

議会は、カトリック教徒が公職に就くことを禁じる「審査法」(1673年)や、不当な逮捕・投獄を禁じる「人身保護法」(1679年)を制定し、国王の専制に対抗しました。

対立が決定的なものとなったのは、次のジェームズ2世の時代です。彼は、自らが熱心なカトリック教徒であり、審査法を無視して、カトリック教徒を要職に任命し、再び絶対王政を復活させようとしました。さらに、カトリック教徒の王子が誕生したことで、カトリック王朝が永続する恐れが生じました。

この事態に危機感を抱いた、トーリ、ホイッグ両党の議会指導者たちは、一致団結して、ジェームズ2世を排除することを決意します。彼らは、オランダに嫁いでいた、ジェームズ2世のプロテスタントの長女メアリと、その夫であるオランダ総督ウィレム(後のウィリアム3世)に、軍隊を率いて、イギリスに来援するよう、密かに要請しました。

1688年、ウィリアムとメアリが、軍を率いてイギリスに上陸すると、ジェームズ2世は、国民の支持を得られず、戦うことなく、フランスへ亡命しました。

この革命は、一滴の血も流されることなく、議会の主導で、国王の交代が達成されたため、「名誉革命」と呼ばれています。

6.5. 革命の成果:立憲君主制の確立

翌1689年、議会は、ウィリアムとメアリを、共同統治者として王位に迎えることを承認するにあたり、一つの重要な文書を提示し、これを承認させました。それが、「権利の宣言」を法文化した、「権利の章典」です。

「権利の章典」は、

  • 国王による、議会の承認なき、法の停止や、課税、常備軍の維持を、違法とする。
  • 議会における、議員の言論の自由を保障する。
  • 国民の、請願権を保障する。
  • 議会選挙の、自由を保障する。

といった、議会の権利と、国民の自由を、明確に規定するものでした。これにより、国王の権力は、法と議会によって制限されるという、「王は君臨すれども統治せず」の原則に基づく、「立憲君主制」の基礎が、イギリスで確立されました。

その後、アン女王の時代に、スコットランドを併合して、グレートブリテン王国が成立し(1707年)、次のハノーヴァー朝(ジョージ1世)の時代には、国王が英語を話せなかったことから、議会の多数派政党の党首が、国王に代わって、実質的に政治を指導する、「責任内閣制」が、慣習として発達していきました。

ピューリタン革命という、激しい流血の市民戦争と、名誉革命という、無血のクーデター。この二つの革命を通じて、イギリスは、ヨーロッパの他の国々に先駆けて、絶対王政を克服し、議会主権と、法の支配に基づく、近代的な政治体制を、世界で初めて確立したのです。

7. アメリカ独立革命

7.1. 植民地社会の形成と「よき放任」

17世紀初頭以来、イギリスは、北米大陸の大西洋岸に、次々と植民地を建設していきました。最初の恒久的な植民地は、1607年に建設されたヴァージニアです。続いて、信仰の自由を求めて、ピルグリム=ファーザーズ(ピューリタンの一派)が、メイフラワー号で渡来し、プリマス植民地を築きました。

18世紀半ばまでには、北はニューイングランド地方から、南はジョージアに至るまで、13の植民地が成立していました。これらの植民地は、それぞれ異なる経緯で設立され、多様な社会を形成していました。

  • 北部(ニューイングランド): ピューリタンが中心。自営農民が多く、商工業や造船業が発達。
  • 中部: 多様な宗教・民族が共存。商業的な農業(小麦など)と商業が中心。
  • 南部: 国教徒(アングリカン)が多い。黒人奴隷を使用した、タバコや米、藍などのプランテーション(大規模農園)が経済の基盤。

これらの植民地社会には、いくつかの共通した特徴がありました。

  1. 活発な自治: 各植民地には、住民の代表からなる植民地議会が設けられており、本国から派遣された総督と対立しながらも、課税権を含む、広範な自治を行っていました。
  2. 社会の流動性: ヨーロッパのような、世襲的な貴族階級が存在せず、比較的平等で、自由な社会でした。
  3. フロンティア精神: 広大な西部の未開拓地(フロンティア)の存在は、人々に、独立心と、自らの力で運命を切り拓くという、フロンティア精神を育みました。

イギリス本国は、18世紀半ばまで、植民地に対して、航海法などで商業を規制しつつも、その内政には、あまり厳しく干渉しない、「有益なる怠慢(よき放任)」と呼ばれる政策をとっていました。この自由な環境の中で、植民地の人々は、自らを、本国のイギリス人とは異なる、「アメリカ人」としての、独自のアイデンティティを、次第に形成していきました。

7.2. 本国との対立激化:「代表なくして課税なし」

この比較的良好だった、本国と植民地の関係を、決定的に悪化させたのが、フレンチ=インディアン戦争(ヨーロッパでの七年戦争と連動)でした。

この戦争で、イギリスは、フランスに勝利し、カナダやミシシッピ川以東のルイジアナを獲得しましたが、その代償として、莫大な戦費による、深刻な財政難に陥りました。

イギリス本国政府は、この財政赤字を埋めるため、そして、広大になった植民地の防衛費を、植民地自身に負担させるため、植民地に対する、新たな課税を、次々と導入しました。

  • 砂糖法 (1764年): 砂糖などへの課税を強化。
  • 印紙法 (1765年): 書類や出版物など、あらゆる印刷物に、印紙を貼ることを義務付けた。これは、植民地の世論を形成する、新聞発行者や、弁護士といった、知識人層を、直接的に打撃したため、特に激しい反対運動を引き起こしました。
  • タウンゼンド諸法 (1767年): 茶、ガラス、紙など、様々な輸入品に関税をかけた。

これらの課税に対して、植民地の人々は、「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて、激しく抵抗しました。彼らの主張は、自分たちの代表が、イギリス本国の議会に、一人も送られていない以上、本国議会が、植民地に課税する権利はない、というものでした。これは、イギリス革命で確立された、イギリス人としての、古くからの権利を、根拠とする主張でした。

抵抗運動は、イギリス製品の不買運動や、本国の役人への抗議行動という形で、全植民地に広がりました。特に、マサチューセッツのボストンは、急進派のパトリック=ヘンリーや、サミュエル=アダムズらを中心に、抵抗運動の拠点となりました。

7.3. 独立への道

本国政府は、植民地の激しい抵抗に遭い、印紙法やタウンゼンド諸法を撤廃しましたが、本国議会が植民地に対して、課税する権利を持つという原則は、放棄しませんでした。

1770年、ボストンで、イギリス兵が、抗議する市民に発砲し、死傷者を出す事件(ボストン虐殺事件)が起こり、両者の感情的な対立は、一層深まりました。

決定的な対立の引き金となったのが、1773年の「茶法」です。これは、経営難に陥ったイギリス東インド会社を救済するため、同社に、植民地での茶の独占販売権を与えるものでした。これは、植民地の茶商人に、大きな打撃を与えるものでした。

これに抗議したボストンの急進派は、インディアンに変装して、港に停泊中の東インド会社の船を襲撃し、積荷の茶箱を、すべて海に投げ捨てました。これが「ボストン茶会事件」です。

激怒した本国政府は、ボストン港の閉鎖など、一連の懲罰的な強圧的諸法を制定しました。これに対し、13植民地の代表は、1774年、フィラデルフィアで、第1回大陸会議を開き、団結して本国に抗議することを決議しました。

そして、1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、植民地の民兵(ミニットマン)と、イギリス軍との間で、武力衝突が発生。ついに、アメリカ独立戦争の火蓋が切られました。

7.4. 独立宣言と戦争の勝利

戦争が始まると、植民地の指導者たちは、第2回大陸会議を組織し、ヴァージニアのプランテーション経営者であったジョージ=ワシントンを、大陸軍(植民地軍)の総司令官に任命しました。

当初、植民地の人々の多くは、本国との和解を望んでいましたが、イギリスの思想家トマス=ペインが、パンフレット『コモン=センス』を発表し、イギリス国王による支配の不当性を、平易な言葉で説き、独立こそが、アメリカ人の「常識」であると訴えると、独立の気運は、一気に高まりました。

そして、1776年7月4日、大陸会議は、トマス=ジェファーソンが起草した「アメリカ独立宣言」を、全会一致で採択しました。

独立宣言は、ロックの自然権思想と、啓蒙思想の理念を、高らかに謳い上げています。

「すべての人間は、平等に造られ、創造主によって、生命、自由、そして幸福の追求を含む、奪うことのできない、特定の権利を与えられている。これらの権利を確保するために、人々は政府を組織する。…いかなる政府といえども、これらの目的を破壊するものとなるときには、それを改変し、または廃止して、新しい政府を設立することは、人民の権利である。」

この宣言は、アメリカの独立を正当化するだけでなく、普遍的な人権と、革命権を宣言した、近代民主主義の歴史における、画期的な文書となりました。

戦争は、装備や訓練で劣る大陸軍にとって、困難な戦いの連続でした。しかし、ワシントンの巧みな指導と、兵士たちの粘り強い戦い、そして、フランス、スペイン、オランダといった、イギリスのライバル国の、軍事的・経済的な援助(特に、フランスの参戦が決定的な役割を果たした)によって、戦況は次第に、アメリカ側に有利に転じました。

1781年のヨークタウンの戦いで、大陸軍とフランス軍の連合軍が、イギリス軍を降伏させ、戦争は、事実上、アメリカの勝利に終わりました。そして、1783年のパリ条約で、イギリスは、アメリカ合衆国の独立を、正式に承認し、ミシシッピ川以東の広大な領土を、アメリカに割譲しました。

7.5. アメリカ合衆国憲法の制定

独立を達成したアメリカでしたが、当初は、各州の独立性が非常に強い、緩やかな国家連合(アメリカ連合規約)に過ぎず、強力な中央政府が存在しませんでした。そのため、経済的な混乱や、社会不安が生じました。

この危機を乗り越えるため、各州の代表は、1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議を開きました。ジェームズ=マディソン、アレクサンダー=ハミルトンらの連邦派(フェデラリスト)が主導した、この会議で、全く新しい国家の設計図である、「アメリカ合衆国憲法」が制定されました。

この憲法は、啓蒙思想の理念を、現実の政治制度として、具体化したものです。

  • 人民主権: 国家の主権が、国民にあることを明記。
  • 連邦主義: 中央政府(連邦政府)に、外交や軍事といった、国家全体に関わる権限を委ねる一方で、各州にも、広範な自治権を認める、二重の主権構造。
  • 三権分立: モンテスキューの思想に基づき、連邦政府の権力を、立法府(二院制の連邦議会)、行政府(大統領)、司法府(連邦最高裁判所)の三権に、厳格に分離し、相互に抑制し、均衡を保つ(チェック・アンド・バランス)システムを構築。

この憲法は、世界で初めての、本格的な成文憲法であり、近代的な共和国の、優れたモデルとなりました。1789年、この憲法のもとで、最初の大統領選挙が行われ、ジョージ=ワシントンが、初代大統領に選出されました。

アメリカ独立革命は、ヨーロッパの啓蒙思想家たちが夢見た、理性と自然権に基づく、君主のいない共和国を、人類史上初めて、現実のものとしました。その成功は、大西洋を越えて、旧大陸のヨーロッパ、特に、深刻な矛盾を抱えていたフランスに、大きな衝撃と、革命への希望を与えることになったのです。

8. フランス革命

8.1. 革命前夜の旧体制(アンシャン=レジーム)

18世紀後半のフランスは、ヨーロッパ大陸における、政治・文化の中心であり、その宮廷文化は、各国の模範とされていました。しかし、その華やかな facade の下では、社会の矛盾が、爆発寸前のレベルにまで、深刻化していました。この革命前のフランスの社会・政治体制を、「旧体制(アンシャン=レジーム)」と呼びます。

旧体制は、生まれに基づく、三つの身分から構成される、極めて不平等な社会でした。

  • 第一身分(聖職者): 人口の約0.5%。国土の約10%を占める、広大な教会領を所有し、十分の一税を徴収しながら、ほとんどの税金を免除されていた(免税特権)。
  • 第二身分(貴族): 人口の約1.5%。国土の約20%を所有し、領主として農民から地代を徴収し、政府や軍隊の要職を独占しながら、同じく免税特権を享受していた。
  • 第三身分(平民): 人口の98%を占める、残りのすべての人々。その内訳は、多様であった。
    • ブルジョワジー: 銀行家、大商人、法律家など、経済力と教養を持つ、裕福な市民階級。彼らは、経済的には力を持っていたが、政治的には無権利であり、貴族の特権に、強い不満を抱いていた。
    • サン=キュロット: 都市の職人、小商人、労働者といった、都市民衆。パンの価格の高騰など、生活苦に喘いでいた。
    • 農民: 第三身分の大部分(約80%)を占める。多くは、封建的な地代や、教会への十分の一税、国家への重税(タイユ税など)の、三重の負担に苦しんでいた。

この身分制社会の頂点に君臨していたのが、ブルボン朝の絶対君主です。「太陽王」ルイ14世が確立した絶対王政は、ルイ15世、ルイ16世の時代まで続きましたが、その権力基盤は、大きく揺らいでいました。

特に、国家財政は、破綻の危機に瀕していました。アメリカ独立戦争への、多額の軍事援助や、宮廷の奢侈な浪費によって、国家の借金は、雪だるま式に膨れ上がっていたのです。

8.2. 革命の勃発:三部会からバスティーユ襲撃へ

財政改革のため、国王ルイ16世は、テュルゴーやネッケルといった改革派の財務長官を登用しましたが、彼らが提案した、第一・第二身分(特権身分)への課税という、根本的な改革案は、貴族たちの猛烈な反対に遭い、挫折しました。

いよいよ追い詰められたルイ16世は、1789年5月、実に175年ぶりに、三つの身分からなる身分制議会、「三部会」を、ヴェルサイユに召集し、新たな税の承認を得ようとしました。

しかし、議決方法をめぐって、議会は、冒頭から紛糾しました。特権身分は、各身分が1票を持つ、伝統的な「身分別議決方式」を主張しました。これでは、2対1で、常に特権身分が有利になります。

これに対し、議員数で、他の二つの身分を合わせた数と、ほぼ同数であった第三身分は、全議員が1票を持つ、「個人別議決方式」を要求しました。彼らは、自らを、フランス国民の唯一の正統な代表であると宣言し、三部会から分離して、独自の「国民議会」を結成し、憲法が制定されるまでは、解散しないことを誓いました(球戯場(テニスコート)の誓い)。

国王と貴族は、武力で国民議会を弾圧しようとしましたが、この動きは、パリの民衆を激怒させました。1789年7月14日、武器を求めたパリの民衆が、専制政治の象徴であった、バスティーユ牢獄を襲撃、占領しました。

この事件は、革命が、もはや後戻りできない段階に入ったことを、全国に示しました。農村では、農民が、貴族の館を襲い、封建的な権利を記した証文を焼き捨てるという、パニック(大恐怖)が広がりました。

8.3. 革命の進展:人権宣言から立憲君主制へ

革命の主導権を握った国民議会は、次々と、旧体制を解体する改革を断行しました。

  • 封建的特権の廃止: 貴族の、領主裁判権や、狩猟権といった、人格的な支配に関わる特権は、無償で廃止されました。ただし、地代などの、土地所有に関わる権利は、有償での廃止とされたため、農民の不満は残りました。
  • 人権宣言(人間と市民の権利の宣言): 1789年8月26日、ラ=ファイエットらが起草した「人権宣言」を採択しました。これは、ロックやルソーの啓蒙思想を、色濃く反映したものであり、
    • 人間の、自由と平等の権利
    • 国民主権
    • 言論の自由、所有権の神聖
    • 権力分立など、近代市民社会の基本原則を、高らかに宣言した、革命のバイブルとなりました。

しかし、国王ルイ16世は、これらの改革を承認しようとせず、事態は膠着しました。同年10月、食糧難に苦しむパリの女性たちが、「パンをよこせ」と叫びながら、ヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王一家を、パリのテュイルリー宮殿へ、強制的に連行しました(ヴェルサイユ行進)。これにより、国王と議会は、革命の急進的な中心地である、パリの民衆の、直接的な監視下に置かれることになります。

その後、国民議会は、教会の財産を没収し、ギルドを廃止するなど、改革を進め、1791年、フランスで最初の憲法(1791年憲法)を制定しました。この憲法は、立憲君主制と、財産資格に基づく制限選挙を定めた、ブルジョワジーの利害を反映したものでした。

8.4. 革命の急進化:共和政の樹立と国王処刑

しかし、革命は、穏健な立憲君主制の段階では、収まりませんでした。

1791年6月、国王ルイ16世と、王妃マリー=アントワネットの一家が、オーストリアへ逃亡しようとして、国境近くのヴァレンヌで捕らえられる事件(ヴァレンヌ逃亡事件)が起こります。この事件は、国民の、国王に対する信頼を、完全に失墜させました。

周辺のオーストリアやプロイセンは、革命の波及を恐れ、フランスに圧力をかけました。これに対し、ジロンド派が主導する立法議会は、1792年4月、オーストリアに宣戦布告し、革命戦争が始まりました。

戦争の危機と、食糧難は、パリの民衆(サン=キュロット)を、さらに急進化させました。1792年8月10日、彼らは、義勇兵と共に、テュイルリー宮殿を襲撃し、王権を停止させました(8月10日事件)。

この事件の後、男性普通選挙によって、新たな議会である「国民公会」が召集されました。国民公会は、1792年9月、王政の廃止と、共和政の樹立(第一共和政)を宣言しました。

そして、革命の急進派である、ロベスピエールを中心とするジャコバン派(山岳派)の主導で、国王ルイ16世の裁判が行われ、1793年1月、彼は、国民への裏切り者として、ギロチンで処刑されました。

8.5. 恐怖政治からナポレオンの台頭へ

国王の処刑は、イギリスのピット首相を中心に、ヨーロッパ諸国による、第1回対仏大同盟を結成させ、フランスは、国内外で、最大の危機に直面しました。

この内外の危機に対応するため、国民公会の実権を握ったジャコバン派は、1793年6月、公安委員会を中心とする、独裁的な政治を開始しました。これが「恐怖政治」です。

  • ロベスピエールの独裁: 彼は、封建地代の無償廃止、最高価格令、徴兵制の実施、理性の崇拝といった、急進的な改革を次々と断行しました。
  • 反対派の粛清: 彼は、「革命の敵」と見なした、王党派、ジロンド派、さらにはジャコバン派内部の反対派(ダントンなど)を、次々とギロチンで処刑しました。

この恐怖政治は、フランスを内外の危機から救いましたが、その行き過ぎた独裁と粛清は、国民の支持を失いました。1794年7月、テルミドール9日のクーデターによって、ロベスピエールは逮捕・処刑され、恐怖政治は終わりを告げました。

その後、穏健な共和派による総裁政府が成立しましたが、政治は不安定で、国民は、強力な指導者の登場を待ち望んでいました。

この混乱の中から、頭角を現したのが、革命戦争で、天才的な軍事的才能を発揮した、コルシカ島出身の軍人、ナポレオン=ボナパルトです。彼は、1799年、ブリュメール18日のクーデターで、総裁政府を倒し、統領政府を樹立して、第一統領として、独裁的な権力を掌握しました。

ナポレオンの登場によって、フランス革命の動乱は、一応の終結を見ます。彼は、革命の成果(私有財産の保障など)を定着させつつ、強力な中央集権国家を築き、やがて、皇帝として、ヨーロッパ全土を巻き込む、巨大な戦争の時代へと、突入していくことになるのです。

フランス革命は、多くの血を流し、独裁と戦争という、矛盾した結果を生みましたが、それは、アンシャン=レジームという、旧来の身分制社会を、徹底的に破壊し、「国民主権」や「人権」といった、近代社会の原理を、不可逆的なものとして、ヨーロッパの歴史に刻みつけた、世界史における、最大の転換点の一つでした。

9. 産業革命

9.1. 産業革命とは何か

18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスで始まった、一連の技術革新は、人類の生産様式を、根底から覆す、巨大な経済的・社会的変革をもたらしました。これが「産業革命」です。

それは、単に新しい機械が発明された、というだけの変化ではありません。産業革命は、

  • 生産の動力が、人力、畜力、水力、風力といった、自然の力から、石炭を燃料とする「蒸気力」という、人工的な動力へと転換した、「エネルギー革命」でした。
  • 生産の場が、家内工業や、手工業的な作業場(マニュファクチュア)から、多くの労働者が、機械と共に働く「工場(ファクトリー)」へと移行した、「工場制機械工業」の確立でした。
  • そして、その結果として、数千年にわたって人類社会の基盤であった「農業社会」から、工業生産が経済の中心となる「産業社会」へと、社会の構造そのものが、不可逆的に変貌した、大転換でした。

この変化のスピードと、影響の大きさにおいて、それは、人類が農耕と牧畜を開始した「新石器革命(農耕革命)」に匹敵する、歴史的な大事件であったと言えます。

9.2. なぜイギリスから始まったのか

産業革命が、世界の他のどの国よりも先に、イギリスで始まったのには、いくつもの好条件が、複合的に重なっていました。

  1. 資本の蓄積: 大航海時代以降の世界商業の覇権(特に、奴隷貿易や、植民地との三角貿易)を通じて、イギリスの商人たちは、産業に投資するための、莫大な資本を蓄積していました。
  2. 豊富な資源と動力: 国内に、工業の燃料となる石炭と、機械の材料となる鉄鉱石が、豊富に産出しました。また、湿潤な気候は、綿糸が切れにくい、綿工業に適していました。
  3. 労働力の確保: 第二次囲い込み(エンクロージャー)運動によって、土地を失った多くの農民が、都市に流入し、工場で働く、安価な労働力となりました。
  4. 広大な市場: 広大な海外植民地は、工業製品の、巨大な販売市場となると同時に、工業原料(特に、アメリカ南部のプランテーションで生産される綿花)の、安定した供給地となりました。
  5. 政治的安定と経済的自由: 名誉革命によって、いち早く、議会制に基づく政治的安定が確立されており、個人の財産権が保障され、ギルドのような中世的な規制も、比較的緩やかであったため、自由な経済活動が、奨励されました。
  6. 科学技術の発達: 科学革命以来の、経験論的な科学の伝統が、技術革新を支える、社会的な土壌となっていました。

これらの条件が、パズルのピースのように組み合わさったことで、イギリスは、世界で最初の工業国家となることができたのです。

9.3. 技術革新の連鎖:綿工業から蒸気機関へ

産業革命の口火を切ったのは、「綿工業」の分野でした。当時、インドから輸入される、軽くて実用的な綿織物(キャラコ)が、大人気を博しており、国内の毛織物業者は、その対抗上、綿織物の国産化を、強く求めていました。

綿織物の生産は、糸を紡ぐ「紡績」と、糸を織って布にする「織布」の、二つの工程からなりますが、一方の工程で技術革新が起こると、それが、もう一方の工程の、さらなる技術革新を促すという、連鎖的な発展が見られました。

  • 織布工程の革新: 1733年、ジョン=ケイが「飛び杼(とびひ)」を発明し、布を織るスピードが、従来の2倍になりました。
  • 紡績工程の革新: これにより、糸の生産が、全く追いつかなくなりました(糸不足)。この需要に応えるため、
    • ハーグリーヴズが「ジェニー紡績機」(一度に多くの糸を紡げる)を発明。
    • アークライトが「水力紡績機」(より丈夫な糸を生産できる)を発明。
    • クロンプトンが、両者の長所を合わせた「ミュール紡績機」を発明。これらの紡績機の発明によって、今度は、糸が大量に生産されるようになり、織布工程の、さらなる能率化が求められました。
  • 織布工程の再革新: 1785年、カートライトが「力織機(りきしょっき)」を発明。これにより、織布工程も、機械化・動力化されました。

これらの新しい機械の動力源は、当初は水力でしたが、天候や立地(川の近く)に左右されるという、大きな制約がありました。この制約を打ち破り、産業革命を、真の「革命」たらしめたのが、「蒸気機関」の発明です。

ニューコメンが、鉱山の排水ポンプ用に、蒸気機関を実用化していましたが、1769年、ジェームズ=ワットが、その効率を、飛躍的に高める改良に成功しました。ワットの蒸気機関は、石炭さえあれば、場所を選ばず、強力で安定した動力を供給することができました。それは、綿工業の工場だけでなく、あらゆる産業の動力源として、急速に普及していきました。

9.4. 産業革命の拡大:鉄工業と交通革命

蒸気機関や、新しい機械の普及は、それらを製造するための、鉄の需要を、爆発的に増大させました。製鉄業の分野でも、技術革新が進み、ダービー親子が、石炭を蒸し焼きにしたコークスを用いる、コークス製鉄法を開発し、良質な鉄の大量生産を可能にしました。

さらに、蒸気機関は、輸送手段にも、革命をもたらしました。

  • 蒸気船: 1807年、アメリカ人のフルトンが、蒸気船の実用化に成功。
  • 蒸気機関車: 1814年、イギリスのスティーヴンソンが、蒸気機関車の実用化に成功。1825年には、ストックトンとダーリントン間で、世界初の、公共用の蒸気機関車が走り、1830年には、主要な工業都市である、マンチェスターと、港湾都市リヴァプールを結ぶ、本格的な旅客鉄道が開通しました。

鉄道網の建設は、石炭や鉄といった、重い資材を、安価に、大量に、そして迅速に輸送することを可能にし、国内市場を統一し、産業の発展を、さらに加速させました。また、郵便や電信(1837年、モールスが発明)といった、通信手段の発達も、情報の伝達速度を飛躍的に向上させ、社会全体の変革を後押ししました。

9.5. 産業革命がもたらした社会の変化

産業革命は、人々の生活と、社会の構造を、根底から変えました。

  • 都市化の進展: 工業の中心地となった、マンチェスターや、リヴァプール、バーミンガムといった、北・中部の都市に、仕事を求めて、多くの人々が、農村から流入しました。その結果、急激な都市化が進み、都市の人口が、農村の人口を上回るようになりました。
  • 新たな階級の形成: 社会の階層構造は、地主と農民という、旧来の農業社会の構造から、二つの新しい主要な階級へと、大きく再編されました。
    • 産業資本家(ブルジョワジー): 工場や機械といった、生産手段を所有し、労働者を雇って、利潤を追求する、新しい支配階級。
    • 産業労働者(プロレタリアート): 生産手段を持たず、自らの労働力を、資本家に売ることで、賃金を得て生活する、新しい被支配階級。
  • 労働問題と社会問題:
    • 工場の労働者は、低賃金、長時間労働(1日12~16時間)、そして、不衛生で危険な、劣悪な労働環境に置かれました。
    • 特に、賃金の安い、女性や、幼い子供(児童労働)が、酷使されました。
    • 都市には、労働者が密集する、スラム街が形成され、不衛生な環境、住宅不足、犯罪といった、深刻な社会問題が発生しました。

当初、労働者たちは、自分たちの苦境の原因を、機械にあると考え、機械を破壊する運動(ラダイト運動)を起こしました。しかし、やがて彼らは、団結して、自らの権利を主張する必要性に目覚め、労働条件の改善を求める「労働組合」を結成するようになります。

また、このような資本主義社会の矛盾の中から、その体制そのものを批判し、より平等な社会を目指す、「社会主義」の思想が生まれてきました。ロバート=オーエンのような、初期の空想的社会主義者を経て、ドイツのマルクスとエンゲルスは、資本家階級と、労働者階級の間の、階級闘争こそが、歴史を発展させる原動力であると説き、労働者の国際的な団結と、革命による、社会主義社会の実現を呼びかけました(科学的社会主義、マルクス主義)。

産業革命は、人類に、かつてないほどの、物質的な豊かさをもたらす、可能性を開きました。しかし、同時に、それは、貧富の格差、劣悪な労働環境、環境破壊といった、現代に至るまで続く、多くの深刻な問題を生み出す、出発点でもあったのです。

10. ナショナリズムと国民国家

10.1. ナショナリズムと国民国家とは

19世紀のヨーロッパ史を動かした、最も強力なイデオロギーの一つが、「ナショナリズム」です。

ナショナリズムとは、

  • 言語、文化、歴史、宗教、あるいは「血統」といった、共通の属性を持つ人々の集団を、一つの「国民(ネーション)」として定義し、
  • この「国民」が、一つの政治的な単位(国家)を形成し、自らの手で、自らの運命を決定すべきである(国民主権)、

という思想、あるいは政治運動を指します。そして、この「国民」という共同体と、「国家」という統治機構が、地理的にも、理念的にも、一致する国家の形態を、「国民国家(ネーション=ステート)」と呼びます。

中世や、絶対王政の時代において、人々の第一の帰属意識(アイデンティティ)は、自らが住む、村や地方、あるいは、自分が臣従する、国王や領主、さらには、普遍的なキリスト教世界に向けられていました。フランス人、ドイツ人といった、「国民」としての一体感は、まだ希薄でした。

しかし、フランス革命と、それに続くナポレオン戦争が、この状況を、一変させます。

10.2. ナショナリズムの覚醒:フランス革命とナポレオン戦争

フランス革命は、「国民」という概念を、近代的な意味で、創造しました。

  • 国民主権の原理: 革命は、「主権は、国王にあるのではなく、国民にある」と宣言しました。これにより、それまで国王の「臣民(サブジェクト)」であった人々は、国家の主権者である「国民/市民(シトワイヤン)」へと、その地位を変えました。
  • 国民の一体感の創出: 革命政府は、共通の法律(ナポレオン法典)、共通の言語(フランス語の標準化)、共通の度量衡(メートル法)、そして共通の敵(対仏大同盟)と戦うための、国民軍の創設などを通じて、フランス全土の人々を、一つの「フランス国民」として、統合していきました。国旗(三色旗)、国歌(ラ=マルセイエーズ)も、この国民的統合の、強力なシンボルとなりました。

このフランスで生まれたナショナリズムは、ナポレオンの軍隊と共に、ヨーロッパ全土へと輸出されました。しかし、皮肉なことに、ナポレオンによる、ヨーロッパ支配は、被支配地域の、諸民族のナショナリズムを、強烈に刺激する結果となりました。

  • スペイン: ナポレオンの支配に対し、民衆がゲリラ戦で激しく抵抗しました(ゴヤの絵画『1808年5月3日』に描かれている)。
  • プロイセン(ドイツ): ナポレオンに大敗を喫した後、フィヒテが、ベルリンで行った「ドイツ国民に告ぐ」という連続講演で、ドイツ民族の文化的な優位性を訴え、国民意識を鼓舞しました。シュタインやハルデンベルクによる、農奴解放や、行政改革といった、「上からの近代化」も、国民国家形成への、重要な一歩でした。
  • ロシア: ナポレオンのモスクワ遠征(1812年)は、ロシアの民衆の、愛国的な抵抗(祖国戦争)によって、壊滅的な失敗に終わりました。

10.3. ウィーン体制と諸国民の春

ナポレオンの没落後、ヨーロッパの秩序を再建するため、1814年からウィーン会議が開かれました。オーストリアの宰相メッテルニヒが主導した、この会議で確立された、国際的な保守反動体制を、「ウィーン体制」と呼びます。

ウィーン体制の基本原則は、「正統主義」(フランス革命前の、正統な君主と、領土の主権を、復活させる)と、「勢力均衡」でした。この体制は、フランス革命と、ナポレオン戦争によって、ヨーロッパに広まった、自由主義(個人の自由や、憲法に基づく政治を求める)と、ナショナリズム(国民の自決や、統一を求める)の動きを、抑圧することを、その主な目的としました。

しかし、一度目覚めたナショナリズムの動きを、抑え込むことは、もはや不可能でした。

  • ギリシアが、オスマン帝国からの独立を達成し(1829年)、ラテンアメリカの諸国が、スペインやポルトガルから、次々と独立を果たしました。
  • フランスでは、1830年に七月革命が起こり、ブルボン朝が倒れ、より自由主義的な七月王政が成立しました。この影響で、ベルギーが、オランダから独立し、ポーランドやイタリア、ドイツでも、反乱が起こりましたが、これらは鎮圧されました。

そして、1848年、フランスで二月革命が起こり、七月王政が倒れ、第二共和政が樹立されると、その影響は、燎原の火のごとく、ヨーロッパ全土に広がりました。オーストリアのウィーンや、プロイセンのベルリンでも、革命が勃発し(三月革命)、メッテルニヒは失脚、ウィーン体制は、ついに崩壊しました。

この年、イタリア、ドイツ、ハンガリー、ベーメンなど、ヨーロッパ各地で、自由と、国民的な統一・独立を求める運動が、一斉に高揚しました。このため、1848年は、「諸国民の春」と呼ばれています。しかし、これらの革命運動の多くは、各国の君主制政府によって、最終的には弾圧され、完全な成功には至りませんでした。

10.4. イタリアとドイツの統一

1848年の革命は、一度は挫折しましたが、それは、イタリアとドイツの統一が、もはや、歴史の必然であることを、誰の目にも明らかにしました。しかし、その後の統一事業は、革命的な下からの運動ではなく、特定の王国による、現実主義的な、上からの政治・軍事行動によって、達成されることになります。

  • イタリアの統一(リソルジメント):
    • 統一運動の中心となったのは、北イタリアのサルデーニャ王国でした。
    • 宰相カヴールは、巧みな外交政策を展開し、フランスのナポレオン3世の支援を得て、オーストリアと戦い、ロンバルディアを獲得しました。
    • 一方、南部では、革命家のガリバルディが、千人隊(赤シャツ隊)を率いて、両シチリア王国を征服しました。彼は、自らが征服した土地を、サルデーニャ王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世に献上し、国民的な英雄となりました。
    • 1861年、ヴェネツィアと教皇領を除く、イタリアの大部分を統一した、イタリア王国が成立しました。その後、プロイセン=オーストリア(普墺)戦争、プロイセン=フランス(普仏)戦争の際に、残りの地域も併合し、1870年、ついにローマを首都とする、イタリアの統一が完成しました。
  • ドイツの統一:
    • 統一の中心となったのは、プロイセン王国でした。
    • 1862年、首相に就任した、ユンカー(土地貴族)出身のビスマルクは、議会の反対を押し切って、軍備を拡張し、「ドイツ問題は、演説や多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決される」と演説しました(鉄血政策)。
    • 彼は、巧みな外交戦略と、強力な軍事力を背景に、次々と戦争に勝利しました。
      1. デンマーク戦争(1864年): オーストリアと組んで、デンマークから、シュレスヴィヒとホルシュタインを奪う。
      2. 普墺戦争(1866年): オーストリアを、わずか7週間で破り、ドイツ連邦を解体。プロイセンを盟主とする、北ドイツ連邦を結成。
      3. 普仏戦争(1870-71年): フランスのナポレオン3世を破り、アルザス・ロレーヌを獲得。
    • 普仏戦争の勝利に沸き立つ、ナショナリズムの高揚の中、1871年1月、ビスマルクは、南ドイツの諸君主を説得し、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で、プロイセン王ヴィルヘルム1世を、初代皇帝とする、ドイツ帝国の成立を宣言しました。

10.5. ナショナリズムの二面性

イタリアとドイツの統一は、19世紀ナショナリズムの、最大の達成でした。国民国家の形成は、国内市場の統一や、法制度の整備を通じて、産業の発展を促進し、人々に、共通の教育や、社会保障を提供する、基盤となりました。

しかし、19世紀後半になると、ナショナリズムは、その性格を、次第に変容させていきます。当初の、抑圧された民族の、解放を目指す、自由主義的なナショナリズムから、自国民の利益と栄光を、他の民族のそれよりも、優先させる、排他的で、攻撃的なナショナリズムへと、変質していくのです。

このナショナリズムの高揚は、ヨーロッパ列強による、アジア・アフリカへの、植民地獲得競争(帝国主義)を、正当化するイデオロギーとなり、また、ヨーロッパ内部では、少数民族の抑圧(ロシアのポーランド人や、ユダヤ人への迫害など)や、バルカン半島における、様々な民族間の対立(バルカン問題)を、激化させました。

そして、この熱狂的なナショナリズムが、同盟関係や、軍拡競争と結びついた時、ヨーロッパは、そして世界は、第一次世界大戦という、未曾有の大破局へと、突き進んでいくことになるのです。

Module 12:西ヨーロッパ(2) 近代市民社会の総括:「神」から「人間」へ—理性の光と革命の嵐

本モジュールで探求した、西ヨーロッパの近代化への道程は、中世以来の世界観を根底から覆し、現代世界の基本構造を築き上げた、一連の連鎖的な「革命」の物語でした。その通奏低音として鳴り響いていたのは、「神」や「教会」といった超越的な権威から、人間そのものへと、世界の中心軸を移行させようとする、壮大な知的・社会的エネルギーです。

その序曲は、ルネサンスにおける「人間」の再発見と、宗教改革における「個人の信仰」の確立でした。大航海時代が世界の物理的空間を拡大し、科学革命が、ニュートンの体系に象徴される、理性的で秩序だった宇宙像を提示すると、その「理性」という光は、18世紀の啓蒙思想によって、人間社会そのものへと向けられました。ロック、モンテスキュー、ルソーらが構想した、自然権、権力分立、人民主権といった理念は、もはや単なる思弁ではなく、実現されるべき、具体的な政治的目標となったのです。

この思想的準備を経て、ヨーロッパと新大陸は、政治革命の嵐の時代へと突入します。イギリス革命が、議会主権に基づく立憲君主制の道を切り開き、アメリカ独立革命が、成文憲法を持つ、史上初の近代共和国を誕生させました。そしてフランス革命は、旧体制の身分制社会を最もラディカルな形で破壊し、「国民」という新しい主権者を、歴史の舞台の主役として、不可逆的に登場させました。

さらに、産業革命という、もう一つの静かな、しかしより根源的な革命が、人々の生活様式を、農業社会から工業社会へと一変させ、資本家と労働者という、新しい社会階級を生み出しました。これら政治と経済の二重革命のエネルギーが収斂する中で、人々を「国民」として統合し、その忠誠心を一身に集める「国民国家」が、19世紀のヨーロッパにおける、最終的で最も強力な政治形態として確立されました。

この一連の革命を通じて、近代市民社会の基本原理が打ち立てられました。しかし、その過程で生み出されたナショナリズムという強大な力は、やがて排他的で攻撃的な側面を露わにし、世界を新たな対立の時代へと導いていくことになります。近代とは、まさに、人間が自らを解放した輝かしい光と、その自由が生み出した深刻な影が、交錯する時代の始まりだったのです。

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