【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 13:東ヨーロッパ・ロシア
本モジュールの目的と構成
ユーラシア大陸の北方に広大な領域を占めるロシア、そしてその西に連なる東ヨーロッパ。この地域は、地理的にヨーロッパとアジアの結節点に位置し、歴史的にも双方から絶え間ない影響を受けながら、極めて独自性の強い独自の文明圏を形成してきました。その歴史は、西ヨーロッパの華やかなルネサンスや市民革命の物語とは一線を画し、またアジアの帝国史とも異なる、独特のダイナミズムと複雑さを内包しています。本モジュールでは、この広大な辺境世界が、いかにしてそのアイデンティティを形成し、近代世界において特異な存在感を放つに至ったのか、その壮大な歴史の軌跡を解き明かすことを目的とします。
この学びを通じて、私たちは単にロシア史や東欧史の知識を断片的に得るのではなく、地政学的な宿命、宗教と文化の深い結びつき、そして近代化への渇望と抵抗という、この地域を貫く普遍的なテーマを構造的に理解することを目指します。それは、現代世界を読み解く上で不可欠な、重層的な歴史認識を養うための知的な探求となるでしょう。
本モジュールは、以下の学習項目によって構成されています。
- まず、東ヨーロッパ世界の基層を形成したスラヴ人の移動から物語を始め、この地域の民族的・言語的な原型を探ります。
- 次に、最初の国家であるキエフ公国がビザンツ文化をいかに受容し、それが後のロシアの精神的支柱となる正教世界の礎を築いた過程を詳述します。
- 続いて、モンゴル支配という未曾有の経験である**「タタールのくびき」**が、ロシアの政治・社会に与えた決定的かつ長期的な影響を多角的に分析します。
- モンゴルの支配下から、モスクワ大公国がいかにして台頭し、ロシアの新たな中心として国家統一を成し遂げていったのか、その戦略と力学を解明します。
- 専制君主制(ツァーリズム)の原型を確立した**イヴァン4世(雷帝)**の治世を通じて、ロシアにおける権力構造の特質を考察します。
- 視点を西へ転じ、ロシアとは異なる発展を遂げたポーランド・リトアニア連合王国の歴史を概観し、東ヨーロッパ世界の多様性を理解します。
- ロシア史の大きな転換点である、ピョートル1世による強烈な西欧化政策の実態と、それがもたらした光と影を深く掘り下げます。
- 啓蒙思想に影響を受けながらも専制を強化したエカチェリーナ2世の時代を検証し、ロシア帝国の拡大と内部矛盾の深化を追います。
- 不凍港を求めるロシアの南下政策という、数世紀にわたる地政学的な欲望の歴史的展開とその国際関係への影響を辿ります。
- 最後に、19世紀ロシアの社会が抱えた深刻な矛盾と、そこから生まれた西欧派とスラヴ派の対立、そして革命へと向かう思想と運動の潮流を克明に描き出します。
このモジュール全体を通じて、読者の皆様が獲得するのは、東ヨーロッパ・ロシアという巨大な歴史的空間を貫く「方法論」です。それは、辺境と中心、模倣と独創、専制と解放といった対立軸の中で、一つの文明がいかにして自己を形成していくのかを読み解くための、知的視座に他なりません。それでは、壮大なるユーラシアの歴史の扉を開きましょう。
1. スラヴ人の移動
東ヨーロッパ・ロシアの歴史を語る上で、その最も基層を成す主役がスラヴ人です。彼らが歴史の舞台に登場し、広大な地域へと拡散していったプロセスは、この地域の民族的、文化的、そして言語的な地図を形成する上で決定的な意味を持ちました。スラヴ人の移動は、単なる民族の拡散に留まらず、東ヨーロッパ世界の揺りかごそのものを創り出した、壮大な序章であったと言えるでしょう。
1.1. スラヴ人の原郷と初期の姿
スラヴ人の起源、すなわち彼らが歴史に登場する以前に居住していた「原郷」については、考古学や言語学の研究に基づき、いくつかの説が存在します。現在、最も有力とされているのは、今日のポーランド南部からウクライナ北部にかけて広がる、プリピャチ川流域の湿地帯とする説です。この地域は、農耕には必ずしも最適とは言えないものの、森林と河川に恵まれ、外部からの侵入を防ぎやすい地理的条件を備えていました。
ローマ帝国の歴史家タキトゥスが1世紀末に著した『ゲルマニア』には、「ウェネディー族」という民族についての記述が見られます。彼らがスラヴ人の直接の祖先であると断定することはできないものの、その居住地域や風習に関する描写から、初期のスラヴ人と何らかの関連があった可能性が指摘されています。6世紀の東ローマ(ビザンツ)帝国の歴史家プロコピオスやヨルダネスの記録になると、より明確に「スクラウェニ族」や「アンテス族」といったスラヴ系部族の名称が登場します。これらの記録によれば、彼らは統一的な王を持たず、多数の氏族長によって指導される、民主的な社会構造を特徴としていたとされます。また、彼らの宗教は、自然の力や祖先の霊を崇拝する多神教であり、雷神ペルーンなどが信仰の対象となっていました。
彼らの社会は、氏族を単位とした血縁共同体を基礎とし、土地は共有されていました。このような原始的な共同体社会の記憶は、後のロシアにおける農村共同体「ミール」の理念にも、その痕跡を留めていると考える研究者もいます。彼らは優れた農耕民であると同時に、河川を利用した交易や、必要に応じては周辺地域への略奪も行う、たくましい生活力を持った人々でした。
1.2. 民族大移動の波とスラヴ人の拡散
4世紀後半から始まるゲルマン民族の大移動は、ヨーロッパ全体の民族配置を大きく変動させる激動の時代でした。この混乱は、スラヴ人にとっても大きな転機となります。東方から侵入したフン族の圧迫を受け、多くのゲルマン系部族が西方や南方へ移動を開始すると、その後に生じた権力の空白地帯へ、スラヴ人が雪崩を打つように進出していったのです。
この拡散は、大きく三つの方向に分かれて進行しました。
- 東スラヴ人: 彼らは、ドニエプル川中流域を中心に、東へはヴォルガ川上流域、北へはイリメニ湖周辺まで広がり、後のロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人の祖先となりました。広大な東ヨーロッパ平原の森林地帯や河川網に適応し、先住民であったフィン=ウゴール系の諸民族を同化、あるいは北方に押しやりながら定住地を拡大しました。彼らの生活は、農耕、狩猟、そして毛皮などの林産物を集める採集経済に支えられていました。
- 西スラヴ人: エルベ川、オーデル川、ヴィスワ川流域へと西進し、今日のポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人の祖先となったグループです。彼らは、ゲルマン人が去った後の土地に進出し、フランク王国やその後の神聖ローマ帝国といった西方の政治・文化圏と直接的に隣接することになりました。この地理的条件が、彼らが後にローマ=カトリックを受容し、ラテン文字文化圏に属するという、東スラヴ人とは異なる歴史的運命を決定づけることになります。
- 南スラヴ人: ドナウ川を越えてバルカン半島へ南下し、東ローマ帝国の領内に侵入したグループです。今日のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、ブルガリア人(ブルガール人と融合)、マケドニア人などの祖先となりました。彼らの南下は、東ローマ帝国との間に激しい抗争と文化的な接触をもたらしました。バルカン半島という、古代ギリシア・ローマ文化の遺産が色濃く残り、かつ東ローマ帝国の直接的な影響下にある地域へ進出したことが、彼らの複雑な歴史を形成する要因となります。特に、西方のフランク王国・ローマ教皇の影響を受けるクロアチア人やスロヴェニア人と、東方のビザンツ文化・ギリシア正教の影響を受けるセルビア人やブルガリア人との間で、文化的な断層線が形成されることになりました。
1.3. スラヴ人移動の歴史的意義
スラヴ人の大移動は、単にヨーロッパの民族地図を塗り替えただけではありませんでした。それは、古代末期から中世初期にかけてのヨーロッパに、新たな文化圏の萌芽をもたらしたという点で、極めて重要な意味を持ちます。
第一に、東ヨーロッパという広大な空間に、後の国家形成の母体となる民族的・言語的な基盤が確立された点です。彼らが定住した地域は、それぞれの地理的環境と、隣接する文明圏からの影響に応じて、独自の発展を遂げていくことになります。
第二に、この移動が、後のヨーロッパを大きく規定する文化的な「境界線」を生み出す一因となったことです。特に、西スラヴ人・南スラヴの一部がカトリック文化圏に、東スラヴ人・南スラヴの多くがギリシア正教文化圏に入ったことは、宗教、典礼言語、アルファベット(ラテン文字とキリル文字)、そして政治思想に至るまで、長期にわたる差異を生み出しました。この文化的な断層は、中世から現代に至るまで、東ヨーロッパ地域の複雑な国際関係を理解する上で欠かせない視点です。
スラヴ人の移動は、静かに、しかし着実にヨーロッパの東半分を覆い尽くしていく巨大な潮流でした。彼らが定住した土地で、やがて外部からの刺激と内部の発展が交錯する中で、最初の国家が形成されていくことになります。その中でも、東スラヴ人の地に誕生したキエフ公国は、後のロシア世界の壮大な物語の、まさに原点となるのです。
2. キエフ公国とビザンツ文化
スラヴ人の定住が進んだ9世紀の東ヨーロッパ平原。そこは、無数の氏族社会が点在する、政治的には未分化な空間でした。この地に最初の統一国家を築き上げ、後のロシア、ウクライナ、ベラルーシの文化的原郷となったのがキエフ公国です。その成立と発展において決定的な役割を果たしたのが、北方のヴァイキング(ノルマン人)と、南方のビザンツ帝国という二つの外部要素でした。特にビザンツ文化の受容は、キエフ公国の性格を決定づけ、東スラヴ世界の精神的支柱を築き上げる画期的な出来事でした。
2.1. 「ヴァリャーグからギリシアへの道」と国家の形成
8世紀から9世紀にかけて、スカンディナヴィア半島を原住地とするノルマン人、通称「ヴァイキング」は、西ヨーロッパ各地で破壊と略奪を繰り返す恐るべき存在として知られていました。しかし、彼らの活動はそれだけではありません。彼らは卓越した航海技術を持つ商人でもあり、その活動範囲は東ヨーロッパにも及んでいました。
彼らの一部は、バルト海からネヴァ川、ラドガ湖、ヴォルホフ川を遡り、陸路を経てドニエプル川を下って黒海、そしてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルへと至る、長大な交易ルートを開拓しました。このルートは、ロシアの原初年代記『過ぎし年月の物語』において「ヴァリャーグ(ヴァイキングのスラヴ名)からギリシアへの道」と呼ばれています。彼らはこのルートを通じて、北方で得た毛皮、蜜蝋、琥珀、そしてスラヴ人奴隷などをビザンツ帝国へ運び、絹織物、銀製品、香辛料、ワインといった奢侈品と交換しました。
この交易路の沿線には、ノヴゴロドやキエフといった交易都市が発展しました。スラヴ人やフィン系の先住民が暮らすこの地にやってきたヴァリャーグの武装商人団は、次第に交易の拠点防衛や貢税徴収のために先住民を軍事的に支配するようになります。『過ぎし年月の物語』には、スラヴの諸部族が自らの混乱を収拾するため、ヴァリャーグの首長リューリクとその一族をノヴゴロドに招き、君主として迎えたという「リューリク招致伝説」が記されています。この伝説の史実性には議論がありますが、ヴァリャーグの軍事力が国家形成の核となったことを象徴的に示しています。
882年、リューリクの一族とされるオレーグが、ドニエプル川中流域のキエフを占領し、ここを新たな本拠地と定めました。「ここをルーシの母なる都市とせよ」と宣言したこの出来事をもって、一般的にキエフ公国(キエフ・ルーシ)の成立と見なされます。キエフは、「ヴァリャーグからギリシアへの道」の要衝に位置し、広大な支配領域から貢税(ポリューヂエ)を徴収する上で極めて有利な拠点でした。公(クニャージ)に率いられたヴァリャーグの親衛隊(ドルジーナ)は、徐々に現地のスラヴ貴族と融合し、支配者層を形成していきました。
2.2. ウラジーミル1世の改宗:ビザンツ文明の選択
初期のキエフ公国は、多様な部族と信仰が混在する、緩やかな連合体でした。歴代の公たちは、国家の統合をより強固なものにするためには、共通の精神的な支柱、すなわち高度な一神教が必要であると認識するようになります。
この歴史的決断を下したのが、10世紀末に在位したウラジーミル1世(聖ウラジーミル)です。年代記によれば、彼はイスラーム教(ブルガール)、ユダヤ教(ハザール)、ローマ=カトリック(神聖ローマ帝国)、そしてギリシア正教(ビザンツ帝国)の代表者をキエフに呼び寄せ、それぞれの教えを比較検討させたと伝えられています。イスラームは飲酒の禁止が、カトリックは煩雑な儀式が、ユダヤ教は祖国を失った民の宗教であることが、それぞれ彼の気に入らなかったとされます。
最終的に彼が選んだのは、ビザンツ帝国のギリシア正教でした。年代記は、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂の壮麗な典礼に派遣した使節が感動し、「我々は天上にいるのか地上にいるのか分からなかった」と報告したことが決め手になったとドラマティックに描いています。しかし、この選択には、より現実的な政治的・文化的計算がありました。
- 政治的威光: ビザンツ帝国は、当時ヨーロッパで最も洗練され、強大な国家であり、その皇帝は神の代理人として絶大な権威を誇っていました。その宗教を受け入れることは、キエフ公の権威を飛躍的に高めることを意味しました。
- 文化的魅力: ビザンツ文化は、古代ローマの遺産を受け継ぐ、華麗で高度なものでした。壮大な建築、美しいイコン(聖像画)、荘厳な聖歌といったビザンツの文化は、若い国家にとって大きな魅力でした。
- 地政学的関係: キエフ公国にとって、ビザンツ帝国は最大の交易相手であり、同時に軍事的なライバルでもありました。婚姻関係を結び、同じ宗教を共有することは、両国関係を安定させ、より深い結びつきを築く上で有利でした。
988年、ウラジーミル1世はビザンツ皇帝の妹アンナを妃に迎える条件として、自らギリシア正教の洗礼を受け、キエフの民衆にもドニエプル川での集団洗礼を強制しました。この「ルーシの洗礼」と呼ばれる出来事は、キエフ公国の、そして後のロシアの運命を決定づけたのです。
2.3. ギリシア正教受容がもたらした遺産
ウラジーミル1世の改宗は、単に国教を定めたという以上の、広範で深遠な影響を東スラヴ世界に与えました。
第一に、文字と文化の導入です。ギリシア正教の伝道に先立ち、9世紀にビザンツの宣教師キュリロスとメトディオスが、スラヴ語を表記するためにグラゴル文字(後に簡略化されキリル文字となる)を考案していました。ギリシア正教の受容は、このキリル文字と、典礼用に整備された古代教会スラヴ語の導入を意味しました。これにより、聖書や宗教文献がスラヴ語に翻訳され、独自の文学世界が花開く土壌が生まれました。ラテン語を公用語とした西ヨーロッパとは異なり、自民族の言語に近い形で高度な宗教文化に触れることができたのは、東スラヴ世界にとって大きな特徴となりました。
第二に、ビザンツ様式の芸術と建築の移植です。ウラジーミル1世の子、ヤロスラフ賢公の時代には、キエフにコンスタンティノープルの大聖堂を模した壮麗な聖ソフィア大聖堂が建立されました。玉ねぎ型のクーポラ(ドーム)や、内部を飾る金地のモザイク画、フレスコ画といったビザンツ様式は、ロシア建築と美術の原型となります。イコン制作も盛んになり、ビザンツの様式に学びながらも、次第に独自の精神性を宿したロシア・イコンの世界が形成されていきました。
第三に、政治思想への影響です。ビザンツ帝国では、皇帝が教会の保護者として君臨する「皇帝教皇主義」的な政治体制がとられていました。この思想は、世俗の君主(公)が教会に対しても強い権威を持つという考え方としてキエフ公国に輸入され、後のモスクワ大公国、そしてロシア帝国における専制君主制(ツァーリズム)のイデオロギー的基盤の一つとなりました。君主は神から権力を授かった存在であるという観念が、徐々に根付いていったのです。
キエフ公国は、ヤロスラフ賢公の死後、公位をめぐる内紛や、ステップ地帯の遊牧民ポロヴェツの侵攻によって次第に衰退し、13世紀のモンゴル襲来によって決定的打撃を受けます。しかし、キエフ時代に蒔かれたビザンツ文化の種子、とりわけギリシア正教の信仰とそれに付随する文化遺産は、東スラヴ人のアイデンティティの核として、その後のモンゴル支配という過酷な時代を耐え抜き、やがてモスクワの地で再び芽吹くことになるのです。
3. 「タタールのくびき」
13世紀初頭、ユーラシア大陸の東方から突如として現れたモンゴル帝国は、瞬く間に世界史の様相を一変させました。その破壊的な西進は、分裂と内紛に明け暮れていたキエフ・ルーシの諸公国にも及び、東スラヴ世界は未曾有の征服と支配を経験することになります。約250年間にわたったこのモンゴルによる支配は、ロシア史において「タタールのくびき」として記憶されています。「くびき」とは、牛馬を繋ぐ軛(くびき)を意味し、屈辱的な隷属と停滞の時代を象徴する言葉です。この時代は、ロシアの社会、政治、そして国民性に、消し去ることのできない深い刻印を残しました。
3.1. バトゥの西征とルーシの壊滅
チンギス=ハンの孫であるバトゥを総司令官とするモンゴル帝国の大遠征軍が、ルーシの地に姿を現したのは1236年のことでした。彼らはまず、ヴォルガ川中流域のヴォルガ=ブルガール王国を滅ぼし、翌1237年末にはリャザン公国を皮切りに、ルーシ諸公国への全面的な侵攻を開始しました。
モンゴル軍の強さは、その圧倒的な騎馬軍団の機動力、巧みな集団戦術、そして攻城兵器を駆使した包囲戦の技術にありました。諸公国はそれぞれが分裂しており、統一した抵抗戦線を組むことができませんでした。都市は次々と陥落し、徹底的な破壊と殺戮に見舞われました。1240年12月、かつて「ルーシの母なる都市」と謳われたキエフも、激しい攻防の末に陥落し、壮麗な教会建築の多くが破壊され、住民のほとんどが殺害されるという壊滅的な打撃を受けました。繁栄を誇った南ルーシの地は、この侵攻によって荒廃し、その政治的・文化的中心としての地位を完全に失うことになります。
バトゥの遠征軍は、ルーシを蹂躙した後、さらに西方のポーランド、ハンガリーへと侵攻し、ヨーロッパ世界を震撼させました(ワールシュタットの戦い)。しかし、1242年、モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイの訃報に接したバトゥは、ハン位継承争い(クリルタイ)に参加するため、遠征を中止して東方へ引き返します。そして、彼はヴォルガ川下流域のサライを都として、ジョチ王家(チンギス=ハンの長男ジョチの子孫)が支配する独立性の高い国家、ジョチ・ウルス(キプチャク=ハン国)を建国しました。これにより、ルーシの諸公国は、このキプチャク=ハン国の宗主権の下に置かれることになったのです。
3.2. 間接統治のシステムとその影響
キプチャク=ハン国によるルーシ支配は、モンゴル帝国が他の征服地でしばしば採用した間接統治の形式をとり、いくつかの特徴を持っていました。
- 貢税(ダーニ)の徴収: ハン国は、ルーシの地にモンゴルの総督(バスカク)を常駐させる直接的な支配は限定的にしか行わず、その代わりに、ルーシの諸公を通じて、住民から重い貢税を徴収しました。当初はモンゴルの役人が直接徴税を行っていましたが、各地で反発や反乱が起きたため、14世紀初頭からは、最も有力なルーシの公に徴税権を一括して委ねる方式へと移行しました。この「貢税徴収請負人」の地位は、ルーシ諸公の間で絶大な権力をもたらす源泉となり、彼らはハンの権威を借りて他の公を圧倒しようと、互いに激しく争いました。
- 公の叙任権: ルーシの諸公は、その地位を保つために、首都サライへ出向き、ハンから公位を承認する勅許状(ヤルリク)を受け取らなければなりませんでした。特に、ウラジーミル大公の称号は、ルーシ諸公の首位と見なされ、これを授かることは最高の栄誉であると同時に、最大の権力を意味しました。そのため、諸公は莫大な貢物を持参してサライを訪れ、ハンの歓心を買うために卑屈なまでの臣従の礼をとりました。時には、対立する公を讒言し、失脚させるための陰謀も繰り広げられました。
- 宗教的寛容: モンゴル帝国は、帝国内の多様な民族と宗教を統治するため、基本的に宗教に対しては寛容な政策をとりました。キプチャク=ハン国もこの方針を踏襲し、ロシア正教会を弾圧することなく、その財産を保護し、聖職者の免税特権さえ認めました。これは、教会の権威を通じて民衆を精神的に支配し、貢税徴収を円滑に進めるための現実的な政策でした。この結果、ロシア正教会はモンゴル支配下でその組織力と経済的基盤を強化し、ルーシの人々の精神的な拠り所として、また民族的アイデンティティの守護者として、その重要性を一層高めることになりました。
「タタールのくびき」がロシアに与えた影響は、破壊と搾取という負の側面だけではありませんでした。この間接統治システムは、結果的にロシアの政治構造に決定的な変化をもたらします。諸公がハンへの忠誠を競い合う中で、権力は次第に特定の有力な公へと集中していきました。かつてのキエフ時代のような、血族集団による緩やかな連合体としての国家観は影を潜め、君主への絶対的な服従と、権謀術数を駆使してでも権力を掌握しようとする、冷徹な政治風土が醸成されていったのです。これは、後のモスクワ大公国、そしてロシア帝国の専制的な権力構造の萌芽であったと言えるでしょう。
3.3. 「くびき」の歴史的評価
「タタールのくびき」がロシア史に与えた長期的な影響については、歴史家の間でも評価が分かれています。
伝統的なロシアの歴史観では、この時代は、西ヨーロッパがルネサンスや都市の自由といった発展を遂げていた時期に、ロシアをアジア的な停滞と専制主義の泥沼に引きずり込んだ「暗黒時代」として否定的に捉えられてきました。モンゴル支配がロシアの経済的・文化的発展を著しく阻害し、西欧からの孤立を深めたという見方です。
一方で、ユーラシア史の観点からは、異なる側面も指摘されています。モンゴル帝国が築いた広大な交易ネットワーク(パクス・モンゴリカ)は、ロシアに東方の文物や制度をもたらしました。駅伝制(ヤム)、徴税システム、軍事組織といったモンゴルの統治技術の一部は、後のモスクワ国家の制度に取り入れられたと考えられています。また、キプチャク=ハン国という共通の宗主国の下にあったことが、分裂していたルーシ諸公国に、政治的な一体性への意識を逆説的に促したという見方も可能です。
いずれにせよ、「タタールのくびき」は、ロシアが西ヨーロッパとは異なる独自の歴史的軌道を歩む上で、決定的な役割を果たした時代であったことは間違いありません。それは、屈辱と苦難の記憶であると同時に、後の強大な専制国家が形成されるための、いわば「揺りかご」でもありました。この過酷な時代の中から、やがて一人の英雄的な公が登場し、ロシアをモンゴルの支配から解放へと導くことになるのです。その舞台となったのが、北東の森の中にあった、一地方都市モスクワでした。
4. モスクワ大公国の台頭
「タタールのくびき」という長い雌伏の時代、かつての中心地キエフが廃墟と化し、南ルーシがリトアニア大公国の影響下に入る一方で、北東ルーシの森林地帯では、新たな政治的中心を巡る諸公国の熾烈な競争が繰り広げられていました。ウラジーミル、トヴェリ、そしてモスクワ。当初は弱小公国の一つに過ぎなかったモスクワが、いかにしてライバルを蹴落とし、キプチャク=ハン国への貢税徴収権を独占し、やがては「全ルーシの支配者」として名乗りを上げるに至ったのか。その過程は、巧みな外交戦略と、ロシア正教会の権威、そしてモンゴル支配のシステムを逆手に取った、見事な権力闘争の物語です。
4.1. 地理的優位と巧みな外交
13世紀初頭のモスクワは、モスクワ川のほとりにある、クレムリン(城塞)を中心とした小さな町に過ぎませんでした。しかし、この一見して目立たない都市は、いくつかの重要な地理的・戦略的利点を秘めていました。
- 河川交通の要衝: モスクワは、ヴォルガ川とその支流オカ川を結ぶ中継点に位置し、バルト海、黒海、カスピ海へと通じる河川交通のネットワークの中心にありました。これは、商業の発展にとって極めて有利な条件でした。
- 防衛上の利点: 広大な森林地帯の奥深くに位置していたため、南方のステップ地帯から侵攻してくるタタール(モンゴル)の騎馬軍団の直接的な脅威を受けにくいという利点がありました。これにより、比較的安定した発展が可能となり、荒廃した南ルーシからの移住者も多く受け入れることができました。
モスクワ公国の初期の君主たちは、この地理的利点を活かしつつ、キプチャク=ハン国に対しては、極めて現実的で忍耐強い外交政策を展開しました。彼らは、ライバルであるトヴェリ公のように、無謀な反乱を起こしてハン国の怒りを買うことを避け、むしろハンへの忠実な臣下として振る舞うことを選びました。彼らはサライへ足繁く通い、豊富な貢物を献上し、時にはハンの王女を娶るなどして、その歓心を得ることに努めたのです。
この戦略が大きな成果を上げたのが、イヴァン1世(在位:1325年 – 1340年)の時代です。彼は、その富裕さから「カリター(金袋)」というあだ名で呼ばれました。1327年、トヴェリで反モンゴルの民衆蜂起が起こると、イヴァン1世は好機と捉え、自らハン国の軍勢を率いてトヴェリを鎮圧しました。この功績により、彼はハンから絶大な信頼を得て、1328年、ついに全ルーシからの貢税徴収権とウラジーミル大公の位を授けられます。これはモスクワの台頭における決定的な転換点でした。貢税徴収権を独占したことで、モスクワ公は他の諸公に対して圧倒的な経済的・政治的優位に立つことになったのです。
4.2. ロシア正教会との連携
モスクワの台頭を支えたもう一つの重要な柱が、ロシア正教会との強固な連携でした。モンゴル支配下で、正教会はルーシの人々の民族的アイデンティティを維持する精神的な砦としての役割を担っていました。そのため、教会の最高指導者である府主教(ミトロポリート)の支持を得ることは、ルーシにおける正統な指導者としての権威を確立する上で不可欠でした。
イヴァン1世は、巧みな働きかけにより、当時ウラジーミルに座していた府主教ピョートルをモスクワに常駐させることに成功します。そして1326年、ピョートルの後継者フェオグノストの代に、府主教座は正式にモスクワへ移転されました。これは、モスクワが単なる政治的・経済的な中心地であるだけでなく、キエフ、ウラジーミルに次ぐ、ルーシの新たな宗教的中心地となったことを意味します。以後、モスクワ公は「神の恩寵による君主」として、その権威を宗教的に正当化することが可能となり、他の諸公に対する優位性を不動のものとしました。クレムリン内には壮麗なウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)が建立され、モスクワの権威を内外に示しました。
4.3. ドミトリー・ドンスコイとクリコヴォの戦い
14世紀後半になると、キプチャク=ハン国自体が内紛によって弱体化の兆しを見せ始めます。この好機を捉え、モンゴル支配からの脱却に向けた最初の大きな一歩を踏み出したのが、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイ(在位:1359年 – 1389年)です。
彼は、ハン国の有力者ママイが派遣した軍隊に対し、ルーシ諸公の連合軍を率いて決戦を挑みました。1380年、ドン川上流のクリコヴォの野において、両軍は激突します。この「クリコヴォの戦い」は、ルーシ側が初めてモンゴル軍に対して大規模な野戦で勝利を収めた画期的な出来事でした。この勝利は、モンゴル支配を直ちに終わらせるものではありませんでした。実際、2年後には新たなハンであるトクタミシュによってモスクワは報復攻撃を受け、焼き払われてしまいます。
しかし、この戦いの象徴的な意味は計り知れませんでした。「タタールのくびき」は打ち破ることが可能であるという自信をルーシの人々に与え、モンゴルからの解放者としてのモスクワ大公の指導的地位を決定づけたのです。ドミトリーは、この勝利により「ドンスコイ(ドン川の)」という栄誉ある称号を得て、ロシア史における英雄として記憶されることになります。
4.4. イヴァン3世と「タタールのくびき」からの解放
モスクワによるルーシ統一事業と、モンゴルからの完全な独立を成し遂げたのが、15世紀後半に登場したイヴァン3世(大帝、在位:1462年 – 1505年)です。彼は、長期にわたる治世の間に、巧みな外交と軍事力を用いて、かつてのライバルであったトヴェリ公国や、広大な領土を持つノヴゴロド共和国などを次々と併合し、モスクワを中心とする統一国家の基礎を固めました。
そして1480年、イヴァン3世は、キプチャク=ハン国(この頃には大オルダと呼ばれていた)への貢税の支払いを公式に停止しました。これに対し、アフマド・ハン率いるモンゴル軍がモスクワへ侵攻しますが、両軍はウグラ川を挟んで対峙したまま、決定的な戦闘には至らず、モンゴル軍は撤退しました(「ウグラ河畔の対峙」)。この事件をもって、約250年間続いた「タタールのくびき」は、実質的に終わりを告げたとされています。
さらに、イヴァン3世の治世には、もう一つ重要な出来事がありました。1453年に東ローマ帝国がオスマン帝国によって滅ぼされると、モスクワは自らを、滅亡したビザンツに代わる、世界で唯一の独立した正教国家の保護者と見なすようになります。イヴァン3世は、最後のビザンツ皇帝の姪ソフィア・パレオロギナと結婚し、ビザンツ帝国の国章であった「双頭の鷲」をモスクワ大公国の紋章として採用しました。これは、モスクワがビザンツ帝国の後継者(「第三のローマ」)であるという、後のロシア帝国の国家理念の萌芽を示すものでした。彼はまた、「全ルーシの君主」を名乗り、専制君主を意味する「ツァーリ」(カエサルに由来)の称号を非公式ながら使用し始め、強大な専制国家への道を確固たるものにしたのです。
5. イヴァン4世(雷帝)
モスクワ大公国が「タタールのくびき」から脱し、統一国家への道を歩み始めた16世紀、ロシア史に強烈な光と影を投げかけた一人の君主が登場します。それが、イヴァン4世(在位:1533年 – 1584年)です。彼は、ロシアで初めて公式に「ツァーリ」の称号を名乗り、国家の近代化と領土拡大に大きな功績を上げましたが、その治世の後半は、猜疑心と残忍さに満ちた恐怖政治によって彩られました。その極端な二面性から、彼は「雷帝(グローズヌイ)」と呼ばれ、ロシアにおける専制君主制(ツァーリズム)の矛盾と本質を体現する存在として、後世に複雑な評価を残すことになります。
5.1. 若きツァーリと近代化改革
イヴァン4世は、わずか3歳で父ヴァシーリー3世を亡くし、モスクワ大公位に即きました。彼の幼少期は、母后エレナ・グリンスカヤの摂政政治と、その後ろ盾を失った後の有力貴族(ボヤーレ)たちによる、醜い権力闘争に明け暮れました。幼いイヴァンは、宮廷内に渦巻く裏切りと陰謀の中で育ち、これが彼の人間不信と貴族への根深い憎悪を形成したと言われています。
1547年、16歳になったイヴァンは、ウスペンスキー大聖堂で挙行された荘厳な儀式において、府主教マカーリーから「全ルーシのツァーリ」として戴冠されました。これは、単に君主の称号が変わった以上の意味を持ちます。それは、モスクワの君主が、かつてのルーシ諸公の第一人者という地位から脱却し、神から直接権威を授かった絶対的な支配者、すなわちビザンツ皇帝やモンゴルのハンのような超越的な存在へと昇華したことを内外に宣言するものでした。
治世の前半、若きツァーリは、聖職者や出自の低い新興貴族からなる「選抜会議」と呼ばれる側近グループの助言を得て、一連の近代化改革を精力的に推進しました。
- 中央集権化: 従来の貴族会議(ドゥーマ)の権限を抑制し、特定の行政機能を分掌する中央官庁(プリカース)を整備して、ツァーリの直轄統治を強化しました。
- 法典の編纂: 1550年、新たな法典(スジェブニク)を公布し、国内の法制度と裁判手続きの統一を図りました。
- 地方行政改革: 地方の代官(ナメストニク)による恣意的な支配を廃止し、地方の身分制議会(ゼムスキー・ソボール)の要素を取り入れた、より公正な地方統治を目指しました。
- 軍制改革: 貴族に軍役を義務付けるだけでなく、銃で武装した常備歩兵軍団「ストレリツィ」を創設し、軍事力の近代化を図りました。
これらの改革は、世襲的な特権を持つ大貴族の力を削ぎ、ツァーリを頂点とする中央集権的な官僚国家を建設することを目的としており、ロシアの国家機構の基礎を築く上で重要な役割を果たしました。
5.2. 領土拡大:カザン、アストラハン、シベリア
イヴァン4世は、内政改革と並行して、積極的な対外膨張政策も推し進めました。彼の主たる目標は、かつての宗主国であったジョチ・ウルスの後継国家群を制圧し、ヴォルガ川流域の支配権を確立することでした。
1552年、イヴァン4世は自ら大軍を率いて、ヴォルガ川中流域のカザン=ハン国を攻撃しました。入念な準備と工兵技術を駆使した末の首都カザンの陥落は、ロシアにとって歴史的な勝利でした。それは、「タタールのくびき」以来、初めてタタールの本拠地を征服したことを意味し、長年の復讐を成し遂げた象徴的な出来事でした。続いて1556年には、カスピ海へ注ぐヴォルガ川下流域のアストラハン=ハン国も征服します。これにより、ロシアはヴォルガ川の全流域を掌握し、カスピ海、そして中央アジアやペルシアへと至る広大な交易路を確保しました。
さらに、イヴァン4世の治世には、東方への拡大も始まりました。富裕な商人ストロガノフ家が組織したコサックの首長イェルマークが、ウラル山脈を越えてシビル=ハン国へ侵攻し、その首都を占領しました。これが、ロシアによる広大なシベリアの征服事業の第一歩となります。
一方で、西方のバルト海への出口を求めるリヴォニア戦争(1558年 – 1583年)は、ポーランド・リトアニアやスウェーデンといった強国との長期にわたる消耗戦となり、最終的にはロシアの敗北に終わりました。この戦争の失敗がもたらした財政的・軍事的負担は、イヴァン4世の治世後半における恐怖政治へと彼を駆り立てる一因となります。
5.3. オプリーチニナ:恐怖政治の時代
1560年代に入ると、イヴァン4世の治世は暗転します。最愛の妻アナスタシアの死や、リヴォニア戦争における敗北、そして側近であったクルプスキー公の裏切りなどが重なり、彼の猜疑心は病的なレベルにまで達しました。彼は、自らの専制権力確立を妨げる者は、すべて大貴族の陰謀であると信じ込むようになります。
1565年、イヴァン4世は突如として国家を二つの部分に分割するという、前代未聞の政策を発表します。一つは、従来の貴族会議が統治する通常の領土「ゼームシチナ」。もう一つは、ツァーリの私的な直轄領「オプリーチニナ」です。彼は、オプリーチニナを統治するため、黒い修道士のような衣服をまとい、馬の鞍に犬の首と箒を吊るした、オプリーチニキと呼ばれる直属の親衛隊を創設しました。「犬の首」は裏切り者を嗅ぎ出し、「箒」は国家から反逆者を一掃することを象徴していました。
これ以降、ロシアは7年間にわたる恐怖政治の時代に突入します。オプリーチニキは、ツァーリの命令の下、貴族、聖職者、市民を問わず、反逆の疑いがある者を次々と捕らえ、拷問し、処刑しました。彼らの領地は没収され、オプリーチニナに編入されました。特に、かつてモスクワと覇を競ったノヴゴロドは、リトアニアへの内通を疑われ、数週間にわたる徹底的な虐殺と破壊に見舞われました(ノヴゴロド虐殺)。
このオプリーチニナの真の目的については諸説ありますが、伝統的な大貴族の勢力を物理的に根絶し、その経済的基盤を破壊して、ツァーリへの絶対的な服従を強制する、徹底した権力集中策であったと考えられます。しかし、その代償はあまりにも大きく、国内は荒廃し、経済は混乱し、多くの人々が南方の辺境地帯へ逃亡しました。1572年、イヴァン4世はオプリーチニナを突然廃止しますが、その傷跡は深く、ロシア社会に深刻な打撃を与えました。治世の最晩年には、後継者と目していた皇子イヴァンを、激高のあまり誤って殴り殺すという悲劇まで引き起こしています。
イヴァン4世の死後、ロシアは後継者問題と、彼が残した社会的・経済的混乱によって、「動乱時代(スムータ)」と呼ばれる大混乱期に突入します。雷帝イヴァン4世は、強大な国家の礎を築いた偉大な君主であると同時に、その国家の発展のためには、国民の犠牲をいとわない、恐るべき専制君主でもありました。この光と影の遺産は、その後のロシアの歴史に、永続的な影響を及ぼし続けることになるのです。
6. ポーランド・リトアニア連合王国
ロシアがモンゴルの支配下でアジア的な専制国家への道を歩んでいた頃、その西隣に位置するポーランドとリトアニアは、全く異なる歴史的発展を遂げていました。西スラヴ系のポーランド人と、バルト系のリトアニア人が、共通の脅威に対抗するために手を結び、やがてはヨーロッパ有数の大国となるポーランド・リトアニア連合王国を形成したのです。この国家は、宗教的寛容、貴族(シュラフタ)による選挙王政、そして強力な身分制議会(セイム)といった、同時代のロシアとは対照的な特徴を持っていました。その歴史は、東ヨーロッパ世界の多様性と、近代初期における「共和国」的理念の一つの実験を示しています。
6.1. ドイツ騎士団への対抗と連合の始まり
10世紀にカトリックを受容したポーランドは、ピャスト朝の下で王国を形成しましたが、12世紀以降は分裂状態にありました。一方、リトアニアは、ヨーロッパで最後まで土着の多神教信仰を維持していた民族で、13世紀にドイツ騎士団の東方植民の圧力を受ける中で、統一国家を形成し始めました。
両国が接近する直接的なきっかけとなったのは、共通の敵であるドイツ騎士団の存在でした。ドイツ騎士団は、バルト海沿岸の異教徒(プロイセン人やリトアニア人)をキリスト教化するという名目で、武力による征服と植民活動を進めており、ポーランド、リトアニア双方にとって深刻な脅威となっていました。
この脅威に対抗するため、1385年、両国の間で歴史的な合意が成立します(クレヴォの合同)。リトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚し、カトリックに改宗することを条件に、ポーランド王を兼ねることになったのです。これにより、ヤギェウォ朝が成立し、ポーランドとリトアニアは同君連合(人的連合)の関係に入りました。この連合は直ちに効果を発揮し、1410年のタンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)で、ポーランド・リトアニア連合軍はドイツ騎士団に決定的な勝利を収め、その脅威を大きく後退させました。
6.2. ルブリン合同と「共和国」の成立
ヤギェウォ朝の下で、両国の結びつきは次第に強化されていきました。リトアニアの貴族層は、ポーランドの貴族が享受していた様々な特権に魅力を感じ、カトリックを受容し、ポーランド化が進んでいきました。そして、ヤギェウォ朝の断絶が目前に迫った1569年、両国はルブリン合同を結び、単なる同君連合から、共通の国王と議会(セイム)を持つ、より一体性の高い連邦国家へと移行しました。これが、一般にポーランド・リトアニア共和国(ジェチポスポリタ)と呼ばれる国家体制です。
この国家は、いくつかの点で、同時代の中央集権化と絶対王政化を進めていた西欧やロシアの国家とは著しく異なっていました。
- 選挙王政: 国王は世襲ではなく、全国の貴族(シュラフタ)が集まる選挙議会で選出されました。国王候補者は、しばしば外国の王家からも立てられ、選挙の際には、貴族の特権を認めることを誓約させられました。これにより、国王の権力は著しく制限されました。
- シュラフタ民主主義: 国家の主権は、国王ではなく、人口の約10%を占めた貴族(シュラフタ)全体にあると見なされました。「黄金の自由」と称されるシュラフタの権利は極めて強力で、彼らは身分制議会(セイム)を通じて立法、課税、外交、宣戦布告といった国政の重要事項を決定しました。
- 宗教的寛容: 16世紀、ヨーロッパ全土が宗教改革の嵐に見舞われる中、ポーランド・リトアニアは「避難所のない人々のための避難所」と呼ばれるほど、宗教的に寛容な政策を維持しました。カトリック、プロテスタント、東方正教、さらにはユダヤ教徒までが、比較的平和に共存していました。これは、多民族・多宗教から成る国家を統合するための、現実的な知恵でもありました。
16世紀から17世紀前半にかけて、共和国は、広大なウクライナの穀倉地帯を背景とした穀物輸出によって経済的に繁栄し、文化的には「サルマティズム」(ポーランド貴族は古代の勇猛なサルマタイ人の末裔であるとする思想)に代表される独自の貴族文化を開花させ、その国力は絶頂期を迎えました。その領土はバルト海から黒海にまで及び、東ヨーロッパにおける一大勢力として君臨しました。
6.3. 「黄金の自由」の代償と国家の衰退
しかし、ポーランド・リトアニアの独自な政治システムは、同時に深刻な構造的弱点を内包していました。シュラフタの「黄金の自由」を保障するための制度が、皮肉にも国家の機能を麻痺させ、衰退を招く原因となったのです。
その象徴が、「リベルム・ヴェト(自由拒否権)」と呼ばれる制度です。これは、セイムの議員一人でも法案に反対すれば、その法案だけでなく、その会期中に可決された全ての法案を無効にできるという、全会一致を原則とする極端な制度でした。当初は、貴族の自由を守る最後の砦と考えられていましたが、17世紀半ば以降、この権利は乱用されるようになります。国内の有力貴族(マグナート)が私益のために、あるいはロシアやプロイセンといった周辺国の君主が、ポーランドの弱体化を狙って買収した議員に、意図的に議会を解散させるという事態が頻発したのです。
これにより、国政は停滞し、財政改革や軍制改革といった、国家の存立に不可欠な改革を全く行うことができなくなりました。国王の権力は無力化され、中央政府は機能不全に陥りました。
17世紀半ば以降、共和国は内外の危機に見舞われます。ウクライナで発生したコサックの大規模な反乱(フメリニツキーの乱)は、ロシアの介入を招き、広大な東部領土を失うきっかけとなりました。さらに、スウェーデンによる侵攻(「大洪水時代」)は、国土を徹底的に荒廃させました。
絶対王政を確立し、強力な常備軍と官僚制を整備した周辺のロシア、プロイセン、オーストリアが台頭する中で、時代遅れの貴族共和制に固執し、有効な国家改革を遂行できなかったポーランド・リトアニアは、次第にその格好の餌食となっていきます。そして18世紀後半、この「ヨーロッパの病人」は、これら三つの隣国によって、三度にわたる分割(ポーランド分割)を受け、地図の上からその姿を消すという悲劇的な運命を辿ることになるのです。ポーランド・リトアニアの歴史は、自由と主権の理念が、それを支える強力な国家機構を欠いた時、いかに脆弱なものであるかを物語る、痛烈な教訓と言えるでしょう。
7. ピョートル1世の西欧化政策
17世紀末のロシア(モスクワ国家)は、イヴァン4世が築いた専制国家の枠組みを維持しつつも、内政の混乱(動乱時代)や、ポーランド・リトアニアとの長い戦争を経て、西ヨーロッパの先進諸国からは技術的にも文化的にも大きく立ち遅れた、アジア的な辺境国家と見なされていました。この状況を根底から覆し、ロシアをヨーロッパの列強の一角へと強引に引き上げたのが、ピョートル1世(大帝、在位:1682年 – 1725年)です。彼の推進した、上からの急進的かつ徹底的な西欧化政策は、ロシア社会に巨大な衝撃と変革をもたらし、その後のロシアの歴史の方向性を決定づける、一大分水嶺となりました。
7.1. 「大使節団」と西欧への衝撃
ピョートルの西欧への関心は、幼少期にモスクワ市内の外国人居留地(ドイツ人街)で、西欧の技術者や商人たちと交流したことに始まります。彼はそこで、航海術、造船術、砲術といった西欧の進んだ技術に魅了され、ロシアの近代化の必要性を痛感しました。
彼の治世の転機となったのが、1697年から1698年にかけて、自ら身分を隠して一職人「ピョートル・ミハイロフ」として参加した、西ヨーロッパへの大規模な視察旅行、いわゆる「大使節団」です。プロイセン、オランダ、イギリスなどを歴訪したピョートルは、オランダの造船所で自ら働いて造船技術を学び、イギリスでは議会を視察し、工場や兵器廠を見て回りました。この旅で、彼は西欧の技術力、軍事力、そして社会の活力に圧倒的な衝撃を受け、ロシアをこれらの国々と対等な国家にするためには、あらゆる分野で西欧のモデルを導入するしかないと固く決意します。
旅の途中で、ロシア国内で伝統的な近衛軍ストレリツィの反乱の報に接した彼は、急遽帰国します。そして、この反乱を徹底的に弾圧し、数百人の兵士を自ら処刑するという冷酷さを見せつけました。これは、彼の改革に反対する古いロシアの伝統や守旧派勢力に対する、容赦ない挑戦の始まりを告げるものでした。帰国後、彼は貴族たちに、ロシアの伝統であった長い髭を剃ることを強制し、服装も西欧風に改めさせました。これは単なる風俗の変革ではなく、ロシアの古い慣習と精神性を断ち切り、国家を力ずくで西欧化するという、彼の強固な意志の象E徴でした。
7.2. 富国強兵:軍事・行政・社会の全面改革
ピョートルの西欧化政策の根幹にあったのは、「富国強兵」という極めて実践的な目標でした。彼の改革は、西欧の文化や思想そのものを深く理解するというよりは、ロシアを強大な軍事国家にするために、西欧の優れた技術と制度を「道具」として輸入するという性格が強いものでした。その最大の目的は、宿敵スウェーデンとの北方戦争(1700年 – 1721年)に勝利し、バルト海への出口(不凍港)を確保することにありました。
彼の改革は、社会のあらゆる側面に及びました。
- 軍事改革: ロシアで最初の本格的な常備軍を創設し、徴兵制を導入しました。貴族の子弟には軍役を生涯義務とし、西欧式の訓練と装備を施しました。また、最新の軍艦を建造するための造船所を建設し、強力な海軍を創設しました。これは、内陸国であったロシアの歴史において画期的なことでした。
- 行政改革: 伝統的な貴族会議(ドゥーマ)を廃止し、ツァーリに直属する最高統治機関として統治元老院(セナート)を設置しました。また、中央官庁として、スウェーデンの制度を模倣したコレギア(参議会)を設け、行政の専門化と効率化を図りました。地方行政も、全国を県(グベールニヤ)に分け、中央集権的な統治を強化しました。
- 財政・産業改革: 戦争遂行のための莫大な費用を賄うため、人頭税を導入し、塩やタバコの専売制を敷くなど、国民から徹底的に税を徴収しました。また、軍需産業を育成するため、ウラル地方に製鉄所や兵器工場を建設し、鉱山開発を奨励しました。これらの工場では、土地に縛り付けられた農奴が強制的に労働させられました。
- 社会・文化改革: 貴族の身分を、家柄ではなく国家への勤務年数や功績によって決定する「官等表」を制定しました。これにより、平民出身者でも能力があれば貴族になる道が開かれ、ツァーリに忠実な新たな官僚層・将校層が形成されました。また、西欧の暦(ユリウス暦)の採用、アラビア数字の導入、最初の新聞の発行、科学アカデミーの設立など、文化・教育面での西欧化も強力に推進されました。
7.3. 「西欧への窓」サンクトペテルブルクと改革の遺産
ピョートル1世の改革の集大成であり、その意志の最大の象徴が、新首都サンクトペテルブルクの建設です。北方戦争のさなか、スウェーデンから奪ったバルト海沿岸のネヴァ川河口の湿地に、彼はゼロから西欧風の計画都市を建設することを命じました。アムステルダムやヴェネツィアをモデルとしたこの都市は、運河が張り巡らされ、バロック様式の壮麗な宮殿や官庁が立ち並ぶ、ロシアの伝統とは全く異質な空間でした。
この建設事業は、数万人の農奴や捕虜の強制労働という、おびただしい犠牲の上に成り立ちました。サンクトペテルブルクは、「骸骨の上に築かれた都市」とも呼ばれましたが、ピョートルにとって、この都市はロシアがヨーロッパへ開いた「窓」であり、古いモスクワと決別し、新生ロシアの中心となるべき場所でした。
1721年、北方戦争はロシアの勝利に終わり、ニスタットの和約によってバルト海東岸の覇権を確立しました。この勝利を祝して、元老院はピョートルに「大帝(インペラートル)」の称号を贈り、ロシアは正式に「ロシア帝国」を名乗るようになります。
ピョートル大帝の改革は、ロシアを後進的なモスクワ国家から、ヨーロッパの国際政治に無視できない影響力を持つ強大な帝国へと変貌させました。しかし、その改革はあまりにも急進的で強権的であったため、深刻な代償も伴いました。農奴制はむしろ強化され、国民は重税と強制労働に苦しみました。そして何よりも、西欧化された貴族・知識人層と、伝統的なロシアの生活様式と思想に留まる大多数の民衆との間に、埋めがたい文化的な断絶を生み出してしまいました。この「二つのロシア」という問題は、その後のロシア帝国の歴史を貫く、根深い亀裂として残っていくことになるのです。
8. エカチェリーナ2世
ピョートル大帝の死後、ロシア帝国は後継者を巡る宮廷クーデターが頻発する、不安定な時代を迎えました。しかし、18世紀後半、この混乱を収拾し、ピョートルの事業を継承・発展させ、ロシア帝国をさらなる黄金期へと導いた一人の女帝が登場します。それが、エカチェリーナ2世(在位:1762年 – 1796年)です。ドイツの小貴族の娘からロシアの女帝へと上り詰めた彼女は、フランスの啓蒙思想に傾倒する「啓蒙専制君主」としての一面と、貴族の特権を保障し農奴制を強化することで支配体制を固めた現実的な権力者としての一面を併せ持っていました。その治世は、領土の飛躍的な拡大と、国内の矛盾の深化という、光と影に彩られています。
8.1. 啓蒙思想と現実政治の狭間で
エカチェリーナ2世は、もとはプロイセンの小領邦君主の娘ゾフィーとして生まれました。15歳の時、ロシア皇太子ピョートル(後のピョートル3世)と結婚するためにロシアへやってきた彼女は、ロシア語を猛勉強し、ロシア正教に改宗してエカチェリーナと名乗りました。夫との関係は冷え切っていましたが、彼女は宮廷内で着実に支持者を広げ、ヴォルテールやディドロといったフランスの啓蒙思想家の著作を耽読し、知性を磨きました。
1762年、夫ピョートル3世が皇帝に即位すると、彼のプロイセンびいきの政策が近衛連隊の不満を買います。エカチェリーナはこの機を逃さず、愛人である将校オルロフ兄弟らの協力を得てクーデターを決行し、夫を退位・幽閉(後に暗殺)させて、自らが女帝として即位しました。
治世の初期、エカチェリーナは「法による統治」を理想に掲げ、啓蒙思想家としての側面を強く打ち出しました。彼女は自ら執筆した『訓令(ナカース)』で、モンテスキューの『法の精神』などを引用しつつ、拷問の廃止や法の下の平等といった理念を説きました。そして、この『訓令』を討議し、新たな法典を編纂するために、貴族、商人、自由農民など、様々な身分の代表者からなる「新法典編纂委員会」を招集しました。これは、一見すると非常に進歩的な試みでしたが、各身分の利害は激しく対立し、特に貴族は農奴解放に断固として反対したため、委員会は具体的な成果を上げることなく解散させられました。この経験は、エカチェリーナに、ロシア社会の現実の前では啓蒙思想の理想は容易に実現できないことを痛感させました。
8.2. プガチョフの反乱と貴族への傾斜
エカチェリーナの「啓蒙」が、あくまで支配者層に限られたものであり、大多数の農奴には及ばないことを象徴する出来事が、1773年から1775年にかけてロシアを揺るがした、史上最大規模の農民反乱「プガチョフの反乱」です。
ドン・コサック出身のエメリヤン・プガチョフは、暗殺されたはずのピョートル3世を自称し、「貴族と地主を皆殺しにして、農奴を解放する」と宣言しました。この呼びかけに、重税と搾取に苦しむ農奴、ウラル地方の鉱山労働者、そしてロシアの支配に不満を持つバシキール人やカルムイク人といった非ロシア系民族が呼応し、反乱はヴォルガ川流域一帯に燃え広がりました。反乱軍は多くの都市を占領し、地主や役人を虐殺しましたが、正規軍による大規模な反撃の前に、最終的には鎮圧され、プガチョフは捕らえられてモスクワで処刑されました。
この反乱は、エカチェリーナとロシアの支配階級に深刻な衝撃を与えました。彼女は、帝国の安定は、貴族階級の支持なくしては成り立たないことを改めて認識し、これ以降、その政策は明確に貴族の利益を擁護する方向へと傾斜していきます。1785年に発布された「貴族特権状」は、その集大成でした。これにより、貴族は、人頭税や兵役の免除、土地と農奴の世襲所有権、地方行政への参加権など、あらゆる特権を法的に保障されました。一方で、農奴の状況はますます悪化し、地主は農奴をシベリアへ流刑に処す権利まで与えられ、農奴制はまさにその絶頂期を迎えます。エカチェリーナの治世は、貴族文化が華やかに開花した時代であると同時に、農奴にとっては最も過酷な時代でもあったのです。
8.3. 領土拡大:南方と西方へ
内政において啓蒙と専制の二つの顔を見せたエカチェリーナでしたが、対外政策においては、ピョートル大帝の膨張政策を継承し、ロシア帝国の領土を大きく拡大させることに成功しました。
彼女の最大の目標は、南方の黒海沿岸を支配するオスマン帝国を破り、黒海への出口を確保することでした。二度にわたるロシア=トルコ戦争(1768年-1774年、1787年-1792年)に勝利したロシアは、キュチュク=カイナルジ条約などにより、黒海北岸の広大な地域を獲得しました。さらに1783年には、長年の係争地であったクリミア=ハン国を併合し、黒海艦隊の拠点となるセヴァストーポリ軍港を建設しました。これにより、ロシアは黒海における制海権を確立し、地中海への進出の足がかりを築いたのです。
西方では、プロイセン、オーストリアと共に、弱体化したポーランド・リトアニアの分割に乗り出しました。1772年、1793年、1795年の三度にわたるポーランド分割の結果、ポーランド・リトアニアは国家として消滅し、ロシアはベラルーシ、ウクライナの右岸地域、リトアニア、クールラントといった広大な領土を獲得しました。これにより、帝国内の非ロシア系(特にポーランド人とユダヤ人)の人口が急増し、後の民族問題の火種を抱え込むことにもなりました。
エカチェリーナ2世の治世の終わりには、ロシア帝国は名実ともにヨーロッパの最強国の一角を占めるに至っていました。彼女の時代に獲得した領土は、今日のウクライナ、ベラルーシ、クリミアの国境線の原型をなしています。しかし、その栄光の影で、フランス革命の勃発に恐怖を感じた彼女は、晩年には国内の言論統制を強化し、啓蒙思想家としての仮面を完全に脱ぎ捨てました。彼女が残した、輝かしい帝国の威光と、深刻化する農奴制という内部矛盾の遺産は、19世紀のロシアが直面する大きな課題となっていくのです。
9. ロシアの南下政策
ロシア帝国の歴史を貫く、最も執拗で継続的な対外政策のベクトル、それが「南下政策」です。内陸国として出発したモスクワ国家の時代から、強大な帝国へと成長した19世紀に至るまで、歴代のツァーリたちは、温暖な海、すなわち不凍港を求めて、南へ、南へと領土を拡大しようと試み続けました。この南下政策は、単なる領土的野心に留まらず、経済的・軍事的な安全保障の確保、そしてビザンツ帝国の後継者としてバルカン半島のキリスト教徒を保護するという宗教的・民族的な使命感(汎スラヴ主義)とも結びつき、19世紀の国際政治、特にオスマン帝国の衰退に伴う「東方問題」の主要な要因となりました。
9.1. 黒海への出口:オスマン帝国との角逐
ロシアの南下政策の最初の、そして最も重要な目標は、黒海への出口を確保し、地中海への航行権を得ることでした。この海域は、長らくオスマン帝国の「内海」と見なされており、黒海北岸にはオスマン帝国の属国であるクリミア=ハン国が存在していました。
この状況を打開したのは、ピョートル1世でした。彼は、アゾフ海への出口を求めてオスマン帝国と戦い、一時的にアゾフ要塞を獲得しましたが、これは限定的な成功に留まりました。黒海北岸の広大な地域をロシアの版図に加え、黒海艦隊の創設を可能にしたのは、エカチェリーナ2世の時代です。二度のロシア=トルコ戦争の勝利により、ロシアは黒海北岸の覇権を確立し、クリミア半島を併合しました。さらに、キュチュク=カイナルジ条約では、ロシア商船のボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権と、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護権(の口実)を獲得しました。
これにより、ロシアは黒海を拠点として、地中海東部へとその影響力を及ぼすことが可能になりました。ウクライナの肥沃な黒土地帯で生産された小麦が、オデッサなどの港から輸出されるようになり、ロシア経済にとっても黒海の重要性は増大しました。しかし、両海峡の支配権は依然としてオスマン帝国の手にあり、有事の際にはロシア艦隊の地中海への出口が封鎖される可能性が残されていました。そのため、海峡の完全な支配、さらにはかつてのビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブル)の奪回が、ロシアの究極的な目標として意識されるようになります。
9.2. バルカン半島への進出と汎スラヴ主義
19世紀に入ると、ロシアの南下政策は、新たなイデオロギー的装いを帯びるようになります。それが「汎スラヴ主義」です。これは、ロシアを長兄とする全てのスラヴ系民族の連帯と解放を目指す思想であり、特にオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島のセルビア人、ブルガリア人などの南スラヴ系民族の独立運動を支援するための、格好の口実となりました。
ロシアは、自らをバルカンのスラヴ民族とギリシア正教徒の「保護者」と任じ、彼らの独立運動に積極的に介入しました。1828年からのロシア=トルコ戦争の結果、ギリシアは独立を達成し、セルビア、ワラキア、モルダヴィアはオスマン帝国内の自治国として承認されました。
しかし、ロシアのこうした野心的な南下政策は、地中海東部における自国の権益を脅かされることを恐れたイギリスや、革命の波及を警戒するオーストリアとの深刻な対立を引き起こしました。この対立が頂点に達したのが、クリミア戦争(1853年 – 1856年)です。オスマン帝国内の聖地管理権問題を口実に、ロシアがオスマン帝国に侵攻すると、イギリスとフランスがオスマン帝国側について参戦し、ロシアは国際的な孤立の中で手痛い敗北を喫しました。パリ条約によって、ロシアは黒海における艦隊の保有を禁止され、南下政策は一時的に大きな挫折を余儀なくされました。
それでもロシアは南下を諦めませんでした。1877年、バルカンで起きたスラヴ系住民の反乱を機に、再びロシア=トルコ戦争が勃発します。この戦争に勝利したロシアは、サン=ステファノ条約で、ブルガリアを保護国とする広大な自治公国として独立させ、バルカン半島における影響力を一気に拡大しようとしました。しかし、これはロシアの勢力拡大を恐れるイギリスとオーストリアの猛烈な反対に遭い、ドイツのビスマルクの仲介によるベルリン会議で、条約内容は大幅に修正されました。ブルガリアの領土は縮小され、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権を得るなど、ロシアの野心は再び国際的な圧力によって抑え込まれたのです。
9.3. 中央アジアと極東への拡大
南下政策は、黒海・バルカン方面だけでなく、他の二つの方向、すなわち中央アジアと極東においても展開されました。
- 中央アジア: 19世紀、ロシアはイギリスのアフガニスタン、インド方面への進出(グレート・ゲーム)に対抗しつつ、綿花地帯の確保と市場の拡大を求めて、中央アジアへの征服を進めました。ヒヴァ=ハン国、ブハラ=ハン国、コーカンド=ハン国といった、かつてのイスラーム王朝は次々とロシアの保護国となり、あるいは直接併合されました。これにより、ロシアは広大なトルキスタン地方を支配下に置き、今日のカザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンなどを含む領域を確保しました。
- 極東: 極東においても、不凍港を求めるロシアの南下は続きました。19世紀半ば、清(中国)がアロー戦争で弱体化している隙を突き、ロシアはアイグン条約と北京条約によって、アムール川(黒竜江)以北とウスリー川以東の沿海州を獲得しました。そして、この地に軍港ウラジヴォストーク(「東方を支配せよ」の意)を建設しました。さらに、満州(中国東北部)への利権拡大を図り、シベリア鉄道を建設して南下を続けますが、これは同じく朝鮮半島と満州への進出を狙う日本との衝突を招き、日露戦争(1904年 – 1905年)の勃発へと繋がりました。
このように、ロシアの南下政策は、数世紀にわたり、複数の方面で執拗に追求された帝国主義的な膨張政策でした。それは、ロシアに広大な領土と多様な民族をもたらしましたが、同時に、オスマン帝国、イギリス、オーストリア、日本といった列強との絶え間ない国際的緊張と紛争の原因となり、最終的には第一次世界大戦へと繋がる複雑な国際関係の一翼を担うことになったのです。
10. 19世紀ロシアの社会と革命運動
19世紀のロシア帝国は、ナポレオン戦争の勝利によって「ヨーロッパの憲兵」として国際的な威信を確立し、その領土を最大に広げた輝かしい時代でした。しかし、その栄光の影では、時代遅れの専制政治(ツァーリズム)と、人口の大多数を縛り付ける農奴制という、二つの大きな矛盾が社会の根幹を蝕んでいました。西ヨーロッパで自由主義やナショナリズムの波が高まる中、ロシアの知識人(インテリゲンツィア)たちは、自国の後進性と社会の不正義に深く悩み、ロシアが進むべき道を巡って激しい思想的対立を繰り広げました。この苦悩と探求の中から、やがて専制打倒を目指す革命運動が生まれ、20世紀初頭の激動の時代を準備していくことになります。
10.1. デカブリストの反乱とニコライ1世の反動政治
ロシアの知識人たちが、自国の体制の矛盾を初めて痛感するきっかけとなったのが、ナポレオン戦争でした。ナポレオンを追って西ヨーロッパへ遠征した青年貴族将校たちは、そこで自由な社会制度や個人の尊厳といった、フランス革命が生んだ新しい思想に直接触れました。彼らは、祖国ロシアの専制と農奴制がいかに時代遅れであるかを目の当たりにし、帰国後、立憲政治の導入と農奴制の廃止を目指す秘密結社を結成しました。
1825年12月、皇帝アレクサンドル1世が急死し、後継者を巡って宮廷が混乱した隙を突き、彼らはペテルブルクの元老院広場で蜂起しました(デカブリストの乱)。しかし、計画は杜撰で、兵士たちの支持も十分に得られず、反乱は新皇帝ニコライ1世によって即座に鎮圧されました。首謀者たちは処刑され、多くがシベリアへ流刑となりました。
この反乱は失敗に終わりましたが、ロシア史上初めて、具体的な政治綱領を持って専制に異議を唱えた革命運動として、後世に大きな影響を与えました。一方で、この反乱に衝撃を受けたニコライ1世(在位:1825年 – 1855年)は、あらゆる自由主義的な思想を弾圧する、徹底した反動政治を開始します。彼は、秘密警察である「皇帝官房第三課」を創設して国内の監視を強化し、厳格な検閲制度によって言論を統制しました。彼の時代のロシアは、まさに「凍てついたロシア」と呼ばれ、社会は息詰まるような停滞に覆われました。
10.2. 西欧派とスラヴ派:ロシアの道を巡る論争
ニコライ1世による厳しい弾圧の下、公然とした政治活動が不可能になる中で、インテリゲンツィアたちは、文学や哲学のサークルで、ロシアの歴史的使命と進むべき未来について、熱心な議論を交わしました。この中で、大きく二つの思想的潮流が生まれました。
- 西欧派(ザパドニキ): 彼らは、ロシアの後進性の原因は、モンゴル支配によってアジア的な専制と停滞に陥り、西ヨーロッパの普遍的な文明発展の道から外れてしまったことにあると考えました。したがって、ロシアが発展するためには、ピョートル大帝の改革をさらに徹底し、西欧の合理主義、個人主義、立憲政治を積極的に導入すべきだと主張しました。ベリンスキーやゲルツェン(後に亡命し、ロンドンから反体制的な雑誌『鐘』を発行)が代表的な論客です。
- スラヴ派(スラヴャノフィル): 彼らは、西欧派の主張に反対し、西欧文明は合理主義と個人主義によって堕落しており、ロシアは西欧の模倣をすべきではないと説きました。彼らは、ロシアの独自性の源泉を、ギリシア正教の信仰と、農村共同体(ミール)に見られる協同体精神に求めました。ピョートル大帝の西欧化政策は、ロシアの伝統的な精神を破壊した過ちであり、ロシアは西欧とは異なる、独自の精神的な道を歩むべきだと主張しました。ホミャコーフやキレーエフスキー兄弟が中心人物です。
この「西欧派」と「スラヴ派」の対立は、単なる思想論争に留まらず、「ロシアとは何か」という、ロシア人のアイデンティティを巡る根源的な問いを投げかけるものであり、その後のロシア思想に永続的な影響を与えました。
10.3. 「上からの改革」とその限界:アレクサンドル2世と農奴解放
ニコライ1世の体制が抱える脆弱性は、クリミア戦争の敗北によって誰の目にも明らかになりました。西欧の近代的な軍隊の前に、農奴制に依存するロシア軍は無力さを露呈したのです。この敗北による衝撃は、ロシア社会に改革の必要性を痛感させました。
父の死を受けて即位したアレクサンドル2世(在位:1855年 – 1881年)は、「下から突き上げられて解放するよりは、上から解放する方がましである」との認識から、ロシアの近代化に向けた一連の「大改革」に着手します。その中心が、1861年の農奴解放令でした。これにより、2000万人以上にも及ぶ農奴は、法的に人格的な自由を認められ、土地を分与されることになりました。その他にも、地方自治機関ゼムストヴォの設立、司法制度の改革、徴兵制の改革などが次々と行われました。
しかし、この「上からの改革」は多くの限界を抱えていました。農奴解放は、貴族地主の利益を損なわないように行われたため、農民が分与された土地は、解放以前に耕作していた土地よりも狭く、しかも高額な償還金を長年にわたって国家に支払わなければなりませんでした。多くの農民は貧困から抜け出せず、土地は依然として農村共同体(ミール)の厳しい管理下に置かれ、農民の移動の自由も制限されていました。改革の不徹底は、農民の間に深い失望と不満を生み、かえって社会の不安定化を招きました。
10.4. ナロードニキからマルクス主義へ:革命運動の激化
改革への失望から、1870年代のインテリゲンツィアの間では、より急進的な革命思想が広まっていきます。彼らは「ナロードニキ」(人民主義者)と呼ばれ、農村共同体(ミール)を基盤とすれば、ロシアは西欧のような資本主義の段階を経ることなく、直接社会主義へ移行できると信じていました。
彼らは、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合言葉に、学生や知識人が農民の姿に変装して農村に入り込み、社会主義思想を宣伝して農民を蜂起させようと試みました。しかし、彼らの理想主義的な呼びかけは、皇帝を崇拝し、保守的な農民たちには全く理解されず、むしろ不審者として警察に突き出される始末でした。
この運動の失敗の後、ナロードニキの一部は絶望からテロリズムへと傾斜していきます。「人民の意志」派と名乗る過激派組織は、「専制の首魁を殺害すれば、革命の突破口が開ける」と考え、皇帝アレクサンドル2世の暗殺を繰り返し試みました。そして1881年3月、彼らの投げた爆弾によって、アレクサンドル2世は暗殺されました。「解放皇帝」の悲劇的な死は、しかし革命を誘発するどころか、社会に衝撃と反動をもたらしただけでした。
アレクサンドル2世を継いだアレクサンドル3世は、父の改革を全面的に否定し、再びニコライ1世のような専制と弾圧の時代へと逆行しました。しかし、この反動の時代にも、社会の変化は進行していました。政府主導の工業化政策が進められ、都市には工場が建設され、新たな階級である都市労働者(プロレタリアート)が生まれつつありました。ナロードニキ運動の行き詰まりと、新たな労働者階級の出現という状況の中で、プレハーノフやレーニンといった次世代の革命家たちは、農民ではなく、この都市労働者こそが革命の主体であるとする、新たな思想、すなわちマルクス主義にロシア革命の未来を見出していくことになるのです。19世紀末のロシアは、表面的な静けさの裏で、来るべき20世紀の大爆発に向けた、巨大なエネルギーを蓄積している時代でした。
Module 13:東ヨーロッパ・ロシアの総括:西欧への憧憬と相克が生んだ巨大な辺境国家の論理
本モジュールを通じて、私たちは東ヨーロッパ、とりわけロシアが、スラヴ人の黎明期から19世紀の革命運動の胎動に至るまで、いかにして特異な歴史的道を歩んできたかを多角的に探求してきました。その軌跡は、西ヨーロッパという先進的なモデルへの強い憧れと、それに反発する自らのアイデンティティへの固執という、二つの力の間の絶え間ない緊張関係によって貫かれています。
キエフ公国が、西方のローマ=カトリックではなく、南方のビザンツ文化を選択した瞬間から、この地域の運命は西ヨーロッパとは異なる軌道を描き始めました。ビザンツから受け継いだ専制君主の理念と正教信仰は、その後のロシアの精神文化の根幹を形成します。しかし、続く「タタールのくびき」は、その発展をアジア的な停滞の中へと押し込め、西欧との断絶を決定的なものにしました。この屈辱的な経験は、一方で、後のモスクワ大公国に見られるような、権力への執着と冷徹な現実主義という、ロシア独自の政治的DNAを育む土壌ともなりました。
ピョートル大帝による強烈な西欧化は、この断絶を力ずくで乗り越えようとする試みでした。しかしそれは、西欧の「魂」を輸入するのではなく、国家を強大にするための「技術」を移植する作業であり、結果として、西欧化されたエリート層と伝統に生きる民衆との間に、深刻な文化的亀裂を生み出しました。エカチェリーナ2世の治世は、啓蒙思想の華やかな衣をまといながら、その実、農奴制というアジア的な社会構造を極点にまで強化するという、この矛盾を象徴しています。
そして19世紀、ロシアの知識人たちは、「西欧派」と「スラヴ派」の論争を通じて、この引き裂かれた自己のアイデンティティと格闘しました。「大改革」は、この矛盾を上から解決しようとする試みでしたが、その不徹底さは、むしろ革命へのエネルギーを蓄積させる結果に終わりました。
不凍港を求める執拗な南下政策もまた、西欧列強と肩を並べたいという欲望と、スラヴ民族の保護者としての独自の使命感とが絡み合った、ロシアの複雑な自己認識の現れと言えるでしょう。ポーランド・リトアニアが貴族の「黄金の自由」の中で衰退していった歴史は、ロシアが選択した専制による中央集権化という道の、もう一つの可能性を対照的に示しています。
このように、東ヨーロッパ・ロシアの歴史を理解する鍵は、常に「西欧」という鏡に自らを映し出し、時に模倣し、時に反発しながら、巨大な辺境国家としての自己を形成していった、その苦闘のプロセスを読み解くことにあります。この視座は、20世紀の社会主義革命、そして現代の国際社会におけるロシアの動向を理解する上でも、不可欠な知的基盤となるはずです。