【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 14:南北アメリカ大陸

当ページのリンクには広告が含まれています。

本モジュールの目的と構成

ヨーロッパ人にとっての「新世界」、南北アメリカ大陸。しかし、その呼称はあくまで一方的な視点に過ぎません。コロンブスが到達する遥か以前、この大陸にはメソアメリカやアンデスをはじめとする、天文学や建築技術において驚くべき水準を誇る、独自の高度な文明が数千年にわたって栄えていました。1492年の「遭遇」は、この孤立していた二つの世界を引き合わせ、人類史を根底から覆す激動の時代を開始させます。それは、一方にとっては征服と破壊の始まりであり、もう一方にとっては富と繁栄の源泉でした。

本モジュールは、この南北アメリカ大陸が、先住民の世界から、ヨーロッパによる植民地化、そして独立と近代国家の形成を経て、今日の姿へと至る壮大な歴史の変遷を、構造的に理解することを目的とします。私たちは、アステカやインカといった古代文明の叡智から、世界を変えた「コロンブス交換」のダイナミズム、そしてエンコミエンダ制やプランテーションといった植民地支配の冷徹なシステムを学びます。さらに、ラテンアメリカ諸国の独立の理想と現実、アメリカ合衆国の西部開拓が象徴する「明白な天命」の光と影、そして近代国家の根幹を揺るがした南北戦争の深層を掘り下げます。

この学びを通じて、読者は南北アメリカ大陸の歴史を、単なる出来事の羅列としてではなく、現代に至る人種問題、経済格差、そして国際関係の力学を規定してきた、根源的な歴史の「型」として捉える視座を獲得するでしょう。

本モジュールは、以下の学習項目によって構成されています。

  1. まず、ヨーロッパ人到達以前にこの大陸で花開いた、メソアメリカ文明とアンデス文明の驚くべき到達点を探り、物語の原点を理解します。
  2. 次に、二つの世界の遭遇がもたらした、動植物、病原体、そして文化の劇的な相互作用である**「コロンブス交換」**が、地球全体の生態系と人類史をいかに変えたかを分析します。
  3. 続いて、スペイン・ポルトガルによる植民地支配の具体的な構造と、それが先住民社会に与えた壊滅的な影響を詳述します。
  4. 植民地経営の初期における中核的な労働力搾取制度であったエンコミエンダ制の実態とその矛盾を解明します。
  5. 大規模土地所有制度であるアシエンダ制とプランテーションが、いかにして植民地経済の根幹となり、その後の社会構造を決定づけたかを考察します。
  6. 植民地の労働力需要が生み出した、人類史上最大規模の強制移住である大西洋奴隷貿易の悲劇的な歴史とその経済的・社会的インパクトを追います。
  7. ナポレオン戦争を契機に、ラテンアメリカ諸国が独立を達成していく過程と、その独立が抱えた限界を検証します。
  8. 視点を北米に移し、アメリカ合衆国の西部開拓が、国家の発展と国民性の形成に果たした役割と、先住民に強いた犠牲を多角的に論じます。
  9. アメリカが「一つの国家」として存続できるかを問うた最大の試練、南北戦争の原因と帰結を深く分析し、その歴史的意義を探ります。
  10. 最後に、20世紀のラテンアメリカを舞台に、新たに地域大国となったアメリカ合衆国が、いかにして政治的・経済的な介入を繰り返していったのか、その実態を描き出します。

このモジュールは、南北アメリカ大陸という巨大な実験場で繰り広げられた、文明の衝突、社会の再編、そして新たな国家の創造という、ダイナミックな歴史の物語です。それでは、人類史の大きな転換点となった、この大陸の探求へと旅立ちましょう。


目次

1. メソアメリカ文明とアンデス文明

1492年、クリストファー・コロンブスがカリブ海の島に到達したとき、彼は自分が全くの「新世界」に足を踏み入れたとは考えていませんでした。しかし、彼が遭遇したのは、アジアの一部ではなく、旧大陸とは完全に独立して、数千年にわたり独自の発展を遂げてきた、豊かで複雑な文明世界でした。特に、現在のメキシコから中央アメリカにかけての「メソアメリカ」と、南米のアンデス山脈地帯には、旧大陸の諸文明にも劣らない、高度な社会システムと文化を誇る文明が栄えていました。これらの文明は、ヨーロッパ人の到来によって悲劇的な終焉を迎えますが、その遺産は今なおラテンアメリカの文化の基層に深く息づいています。

1.1. メソアメリカ文明:トウモロコシと神々の世界

メソアメリカ文明の基盤を築いたのは、紀元前5000年頃に始まったトウモロコシの栽培化でした。トウモロコシは、小麦や米に比べて単位面積あたりの収穫量が多く、この安定した食料基盤が、余剰生産物を生み出し、複雑な社会階層と巨大な都市の建設を可能にしました。

  • オルメカ文明(紀元前1200年頃 – 紀元前400年頃): メキシコ湾岸に栄えた、メソアメリカで最も初期の文明であり、「母なる文明」と称されます。彼らは、巨大な石像人頭像で知られ、後のメソアメリカ文明に共通する、神殿ピラミッドの建設、天体観測に基づく暦の使用、球技の儀式、そしてジャガーを神聖視する信仰などの文化的特徴の原型を創り出しました。
  • テオティワカン文明(紀元前後 – 6世紀頃): メキシコ中央高原に、最盛期には人口10万から20万を擁した巨大な計画都市を築きました。「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」を中心とする壮大な祭祀センターは、その高度な測量技術と建築技術を物語っています。その影響力はメソアメリカ全域に及びましたが、7世紀頃に謎の衰退を遂げました。
  • マヤ文明(紀元前4世紀頃 – 16世紀): ユカタン半島からグアテマラにかけての熱帯雨林地帯で栄えました。マヤ文明は、テオティワカンのような単一の巨大帝国を形成せず、ティカルやパレンケといった多くの都市国家が興亡を繰り返しました。彼らは、天体観測に極めて優れ、驚くほど正確な太陽暦(1年を365.2420日と計算)と、260日周期の祭祀暦を組み合わせて使用していました。また、ゼロの概念を含む二十進法を発達させ、複雑な計算を可能にしました。彼らが用いたマヤ文字(絵文字と表音文字の組み合わせ)は、メソアメリカで最も洗練された文字体系であり、石碑や絵文書に王の年代記や神話を記録しました。
  • アステカ王国(14世紀 – 1521年): メソアメリカ文明の最後の継承者が、メキシコ中央高原に帝国を築いたアステカ族です。彼らは、1325年頃にテスココ湖の島に首都テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を建設しました。この都市は、湖を埋め立てて造成された水上都市で、最盛期には人口20万を超える、当時世界最大級の都市でした。アステカは、周辺の多数の部族を武力で征服し、彼らからトウモロコシ、カカオ、金、宝石、そして生贄の人間といった形で重い貢納を課すことで繁栄しました。彼らの宗教では、太陽神ウィツィロポチトリが、世界の終末を防ぐために人間の心臓と血を必要とすると信じられており、大規模な人身供犠(生贄の儀式)が国家の重要な儀礼として、神殿ピラミッドの頂上で日常的に行われていました。この恐怖による支配が、後にスペインの征服者エルナン・コルテスが到来した際に、被支配部族がスペインに協力する原因の一つとなりました。

1.2. アンデス文明:ジャガイモとインカ帝国

南米のアンデス山脈地帯は、海岸部の砂漠、急峻な山岳地帯、そして東のアマゾン熱帯雨林という、多様で厳しい自然環境を特徴とします。この地で生まれたアンデス文明は、メソアメリカとは異なり、文字や車輪、大型の家畜を持たないという特徴がありましたが、それを補って余りある、独自の高度な社会システムを発展させました。

  • 食料基盤と初期の文明: アンデス文明の食料基盤は、高地で栽培されるジャガイモやキヌア、そしてリャマやアルパカといった家畜でした。これらの家畜は、荷物の運搬や毛、肉を提供し、アンデス社会に不可欠な存在でした。紀元前1000年頃のチャビン文化に始まり、ナスカ、モチェといった地域的な文化が海岸部や山間部で興亡を繰り返しました。特に、巨大な地上絵で知られるナスカ文化は、その目的について今なお多くの謎に包まれています。
  • インカ帝国(15世紀 – 1533年): アンデス文明の集大成となったのが、15世紀にクスコを都として急速に拡大したインカ帝国です。最盛期には、現在のコロンビアからチリにまで至る、南北4000キロに及ぶ広大な領域と、数百万の人口を支配しました。インカ帝国は、太陽の化身とされる皇帝(サパ・インカ)を頂点とする、極めて中央集権的な国家でした。その統治システムは驚くほど精緻でした。帝国は、全長4万キロにも及ぶインカ道を整備し、主要都市を網の目のように結びました。この街道網には、チャスキと呼ばれる飛脚が常駐する駅伝制(タンボ)が設けられ、リレー方式で首都と地方の間の情報を迅速に伝達しました。文字を持たなかったインカ帝国では、「キープ(結縄)」と呼ばれる、色の異なる紐に結び目を作って情報を記録・伝達する独特の方法が用いられました。これは主に、人口、税、倉庫の備蓄品などの数量データを記録するためのもので、帝国の効率的な官僚支配を支えました。帝国の経済は、ミタ制と呼ばれる、人民に課せられた賦役労働によって成り立っていました。各村落共同体(アイユ)の人民は、一定期間、道路建設、鉱山労働、軍役といった公共事業に無償で従事する義務がありました。これにより、マチュピチュのような山頂都市や、精巧な石組みの神殿、段々畑(アンデネス)といった、巨大な建造物や灌漑施設の建設が可能となったのです。

メソアメリカとアンデスの文明は、1492年以降、ヨーロッパからもたらされた征服者と、彼らが持ち込んだ未知の病原菌によって、あまりにもあっけなく崩壊しました。しかし、彼らが築き上げた農業技術、建築、織物、そして世界観は、その後のラテンアメリカの文化の中に深く刻み込まれ、現代に至るまでそのアイデンティティの重要な一部を形成し続けています。


2. コロンブス交換

1492年のコロンブスの航海は、単にヨーロッパ人がアメリカ大陸の存在を「発見」したという出来事に留まりません。それは、数万年もの間、大西洋によって隔てられていた二つの大陸、すなわち旧大陸(ユーラシア・アフリカ)と新大陸(南北アメリカ)の生態系が、劇的に衝突し、混ざり合い始めた瞬間でした。この、大陸間で起こった動植物、病原体、そして文化の広範かつ相互的な交換のプロセスは、歴史家アルフレッド・クロスビーによって「コロンブス交換(The Columbian Exchange)」と名付けられました。この交換は、地球上の生命の分布を根底から変え、その後の世界史の展開に計り知れない影響を与えた、人類史上最も重要な生態学的事件の一つです。

2.1. 旧大陸から新大陸へ:馬、鉄、そして病原体

ヨーロッパ人がアメリカ大陸に持ち込んだものは、彼らの意図したか否かにかかわらず、新大陸の環境と社会に革命的な変化をもたらしました。

  • 動植物: ヨーロッパ人は、馬、牛、豚、羊、ヤギといった、新大陸には存在しなかった家畜を持ち込みました。特には、先住民の狩猟(平原インディアンによるバッファロー狩りなど)や移動、そして戦争のあり方を一変させました。牛や豚は、新たな食料源として急速に繁殖しました。また、小麦、大麦、サトウキビ、コーヒー、ブドウといった旧大陸の作物は、新大陸の農業景観を大きく塗り替え、後のプランテーション経済の基礎を築きました。
  • 技術: ヨーロッパ人は、製の武器(剣、鎧、銃)や道具(斧、鋤)を持ち込みました。石器や青銅器しか持たなかった先住民の軍隊に対して、鉄の武器は圧倒的な軍事的優位性をもたらしました。また、車輪の技術や、アルファベットという文字体系も、旧大陸からの一方的な伝播でした。
  • 病原体: しかし、旧大陸から持ち込まれたものの中で、最も破壊的な影響を与えたのが、目に見えない侵略者である病原体でした。ヨーロッパやアフリカの人々は、長年にわたる家畜との共存や、都市での人口集中を通じて、天然痘麻疹(はしか)、インフルエンザ、腺ペストといった感染症に対する免疫を世代から世代へと受け継いでいました。一方、新大陸の先住民は、これらの病原体に一度も曝露されたことがなく、全く免疫を持っていませんでした。その結果、ヨーロッパ人の到来と共にこれらの病原菌が新大陸に上陸すると、先住民の間で爆発的な勢いで流行しました。特に致死率の高い天然痘は、猛威を振るい、村々を全滅させました。アステカ帝国やインカ帝国が、少数のスペイン人征服者によってたやすく征服された背景には、鉄の武器だけでなく、彼らが無意識のうちに持ち込んだ病原体が、事前に先住民の社会と軍隊を壊滅状態に陥れていたという、生物学的な要因が大きく作用していました。この「見えない殺戮者」によって、コロンブス到達後の一世紀の間に、新大陸の先住民の人口は、地域によっては90%以上も減少し、数千万人から一億人に達したと推定される人口が、数百万人にまで激減したと考えられています。この人口の壊滅的な減少(デモグラフィック・カタストロフィ)は、新大陸の労働力不足を深刻化させ、後のアフリカからの奴隷輸入の大きな原因となります。

2.2. 新大陸から旧大陸へ:ジャガイモ、トウモロコシ、銀

コロンブス交換は、一方通行ではありませんでした。新大陸からも、旧大陸の社会と経済を大きく変えることになる、多くの重要な産物がもたらされました。

  • 食料作物: 新大陸原産の作物は、旧大陸の人々の食生活を根底から変え、人口増加を支える原動力となりました。特に重要なのがジャガイモトウモロコシです。
    • ジャガイモ: アンデス高地原産のジャガイモは、冷涼な気候や痩せた土地でも栽培が可能で、小麦に比べて単位面積あたりのカロリー生産量が非常に高いという特徴を持っていました。当初はヨーロッパで「悪魔の作物」として敬遠されましたが、食糧難を背景に次第に普及し、特にアイルランドや北ドイツ、東ヨーロッパでは主食となり、18世紀から19世紀にかけてのヨーロッパの爆発的な人口増加(人口革命)を支えました。
    • トウモロコシ: メソアメリカ原産のトウモロコシもまた、乾燥に強く、栽培が容易であることから、地中海沿岸やアフリカ、そして中国の山間部といった、従来の作物が育ちにくい地域に急速に広まりました。これもまた、世界的な人口増加に大きく貢献しました。
    • その他にも、トマト唐辛子カカオサツマイモカボチャインゲンマメ落花生タバコなど、今日の私たちの食卓に欠かせない多くの作物が新大陸からもたらされました。トマトがイタリア料理に、唐辛子がアジアの料理に革命をもたらしたように、新大陸の作物は世界中の食文化を豊かにしました。
  • 貴金属: 新大陸、特に現在のボリビアのポトシやメキシコのサカテカスで発見されたは、ヨーロッパ経済に巨大なインパクトを与えました。膨大な量の銀がアメリカ大陸からスペインへ、そしてヨーロッパ全土へと流入した結果、ヨーロッパでは激しいインフレーション(価格革命)が引き起こされました。この銀は、ヨーロッパの君主たちの戦費を賄い、アジアの香辛料や絹、陶磁器を購入するための主要な決済手段となり、ヨーロッパを基軸とする世界的な商業ネットワークの形成を促進しました。
  • その他: 新大陸からは、マラリアの特効薬となるキニーネ(キナの木の樹皮から採れる)ももたらされ、ヨーロッパ人の熱帯地方への進出を助けました。一方で、性病である梅毒は、新大陸からヨーロッパへ伝わったのではないかとする説が有力です。

コロンブス交換は、地球規模での生物学的・文化的な均質化の始まりでした。それは、一方の地域には人口増加と経済的繁栄をもたらし、もう一方の地域には人口の激減と生態系の破壊をもたらすという、極めて非対称的な結果を生み出しました。この交換によって、世界は初めて一つの統合された生態系・経済圏へと歩み始め、現代のグローバル化へと至る道筋がつけられたのです。


3. スペイン・ポルトガルによる植民地支配

コロンブスの「発見」以降、スペインとポルトガルは、教皇の子午線を根拠に、アメリカ大陸の広大な領域を分割し、植民地化を進めました。スペインは、コルテスによるアステカ王国の征服(1521年)と、ピサロによるインカ帝国の征服(1533年)を皮切りに、メキシコ、中央アメリカ、そしてアンデス地域を中心とする広大な帝国を築き上げました。一方、ポルトガルは、トルデシリャス条約に基づき、ブラジル沿岸部をその領土としました。両国による植民地支配は、本国の利益を最大化することを目的とし、先住民(インディオ)の搾取とカトリックの布教を二本の柱とする、極めて中央集権的で徹底したものでした。

3.1. コンキスタドールと先住民文明の破壊

アメリカ大陸の征服は、「コンキスタドール(征服者)」と呼ばれる、一攫千金を夢見る冒険家たちによって担われました。エルナン・コルテスやフランシスコ・ピサロに代表される彼らは、数百人程度の少数の兵力で、数百万の人口を擁する巨大な先住民帝国をいかにして征服し得たのでしょうか。その背景には、いくつかの複合的な要因がありました。

  • 軍事技術の格差: スペイン人が持ち込んだ鉄製の剣や鎧、火縄銃、大砲、そして馬は、石器や青銅器しか持たない先住民の軍隊に対して、圧倒的な破壊力と心理的な衝撃を与えました。
  • 病原体の影響: 前述の通り、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘などの病原菌が、征服に先立って先住民社会に壊滅的な打撃を与え、その抵抗力を著しく削いでいました。インカ帝国では、皇帝ワイナ・カパックがスペイン人の本格的な侵攻前に天然痘で病死し、その後継者を巡る内乱が帝国の弱体化を招きました。
  • 内部対立の利用: コンキスタドールは、先住民帝国が抱える内部の対立を巧みに利用しました。コルテスは、アステカの圧政に苦しむ周辺の部族と同盟を結び、彼らの協力を得て首都テノチティトランを包囲しました。ピサロもまた、インカ帝国の後継者争いに介入し、内乱に乗じる形で皇帝アタワルパを捕らえることに成功しました。
  • 世界観の相違: 先住民、特にアステカ族には、白い肌の神ケツァルコアトルが東の海から再来するという伝説があり、当初、スペイン人を神の使いではないかと誤認したことが、初期対応の遅れに繋がったとも言われています。

征服の過程で、先住民の都市や神殿は徹底的に破壊され、その上にスペイン風の教会や都市が建設されました。メキシコシティはテノチティトランの廃墟の上に、クスコはインカの石組みを土台にして、植民地都市として生まれ変わりました。先住民の宗教は「悪魔の崇拝」として禁じられ、彼らの歴史や文化を記した貴重な絵文書の多くが、狂信的な聖職者によって焼き払われました。

3.2. 植民地の統治機構

スペインは、広大なアメリカ植民地(インディアス)を統治するため、本国にインディアス枢機会議を設置し、植民地の立法・司法・行政の最高機関としました。植民地は、当初ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)とペルーの二つの副王領に分けられ、本国から派遣された副王が、国王の代理人として絶大な権力を行使しました。副王の下には、アウディエンシアと呼ばれる高等司法機関が置かれ、行政と司法を管轄しました。

この統治システムは、極めて中央集権的であり、植民地生まれの白人(クリオーリョ)は、たとえ裕福な大土地所有者であっても、副王などの高位の官職から排除され、統治の重要な意思決定に参加することはできませんでした。全ての要職は、本国から派遣されてくるスペイン人(ペニンスラール)によって独占されました。この差別的な扱いは、後にクリオーリョたちの間に本国への不満を募らせ、19世紀の独立運動の大きな要因となります。

ポルトガル領ブラジルでは、当初は15の世襲カピタニア(キャプテンシー)に分割され、封建的な統治が行われましたが、後に中央集権化が進み、サルヴァドール(後にリオデジャネイロ)に総督府が置かれました。

3.3. 経済システムと重商主義

スペイン・ポルトガルの植民地経営は、本国の利益を最優先する重商主義の原則に貫かれていました。

  • 鉱山開発: スペイン植民地経済の根幹を成したのは、メキシコのサカテカスやボリビアのポトシで発見された銀山の開発でした。先住民は、ミタ制のような強制労働制度の下で、過酷な鉱山労働に従事させられ、多くの命が失われました。ここで採掘された膨大な量の銀は、スペイン本国に莫大な富をもたらし、「価格革命」を引き起こすと共に、スペインがヨーロッパの覇権を握るための財政基盤となりました。
  • モノカルチャー経済: ポルトガル領ブラジルや、スペイン領のカリブ海諸島では、サトウキビを中心とするプランテーション農業が発展しました。サトウキビは、ヨーロッパで需要が急増していた砂糖の原料であり、植民地に莫大な利益をもたらしました。しかし、こうした特定の輸出用商品作物(タバコ、カカオ、コーヒーなども含む)の生産に特化したモノカルチャー経済は、植民地の経済を本国の市場と資本に完全に依存させるものであり、その後のラテンアメリカ経済の脆弱性の原因となりました。
  • 貿易の独占: 本国は、植民地との貿易を厳しく管理しました。スペインは、セビリア(後にカディス)の商人だけに植民地貿易を独占させ、年に一度、護送船団(ガレオン船団)を派遣して、植民地の産物を本国へ運び、本国の製品を植民地へ送るという、閉鎖的な貿易体制を敷きました。これにより、植民地は本国からの高価な製品を買わされ、外国と自由に貿易することは禁じられました。

3.4. キリスト教(カトリック)の布教

植民地支配は、経済的搾取と同時に、先住民のキリスト教化という宗教的な使命によっても正当化されました。フランシスコ会やドミニコ会、イエズス会といった修道会の宣教師たちが、コンキスタドールと共にアメリカ大陸へ渡り、精力的な布教活動を展開しました。

彼らは、先住民の言語を学び、聖書を翻訳するなど、熱心な布教を行った一方で、先住民の固有の信仰や儀式を徹底的に破壊しました。しかし、民衆のレベルでは、キリスト教の聖人崇拝と、古来の神々への信仰が融合する、シンクレティズム(宗教混淆)という現象が広く見られました。例えば、聖母マリアが、アステカの大地母神トナンツィンと同一視されるといった形で、先住民の伝統的な世界観は、カトリックの衣をまとうことで、たくましく生き残ったのです。

ラス・カサスのような、先住民の悲惨な状況を告発し、その権利を擁護しようとした聖職者もいましたが、植民地支配の大勢は、先住民を二級の人間と見なし、彼らの文化と社会を根本から破壊するものでした。この支配の構造は、現代に至るラテンアメリカ社会の複雑な人種階層構造と、根深い社会的不平等の起源となったのです。


4. エンコミエンダ制

スペインによるアメリカ大陸の植民地支配が確立していく過程で、征服者への報酬の分配と、先住民(インディオ)の労働力をいかにして確保するかという、二つの大きな課題が生じました。この課題に対するスペイン国王の答えが、「エンコミエンダ制」でした。この制度は、表向きには先住民を保護し、キリスト教化するという高邁な理念を掲げていましたが、その実態は、先住民を事実上の奴隷として酷使する、残忍な搾取システムでした。エンコミエンダ制は、植民地社会の初期における経済的基盤となると同時に、先住民人口の激減を招いた最大の原因の一つであり、植民地支配の矛盾を象徴する制度でした。

4.1. 制度の成立と理念

「エンコミエンダ」とは、スペイン語の動詞 “encomendar”(委託する)に由来する言葉です。この制度は、スペイン国王が、コンキスタドール(征服者)や植民地の有力者(エンコメンデロと呼ばれる)に対して、一定数の先住民を「委託」するものでした。

エンコミエンダ制の公式な目的、すなわち理念は、以下の二点にありました。

  1. 先住民の保護: エンコメンデロは、委託された先住民の生命と財産を保護し、彼らを不正な搾取から守る責任を負う。
  2. キリスト教化: エンコメンデロは、宣教師を助け、先住民にキリスト教の教義を教え、彼らを文明化する義務を負う。

これらの「保護」と「キリスト教化」の見返りとして、エンコメンデロは、委託された先住民から**貢納(トリブート)労働力(賦役)**を徴収する権利を与えられました。

この制度の背景には、法的な建前の問題がありました。スペイン女王イサベル1世は、先住民を「国王の自由な臣民」と宣言しており、公式には彼らを奴隷とすることは禁じられていました。エンコミエンダ制は、この「自由な臣民」であるはずの先住民から、合法的に労働力を搾取するための、巧妙な法的擬制(フィクション)だったのです。エンコメンデロに与えられたのは、土地の所有権ではなく、あくまでその土地に住む先住民に対する支配権、すなわち貢納と労働力を徴収する権利でした。

4.2. 実態としての過酷な搾取

しかし、理念とは裏腹に、エンコミエンダ制の実態は、エンコメンデロによる野放図な搾取に他なりませんでした。本国の国王の監視が遠く及ばない植民地において、「保護」や「キリスト教化」の義務はほとんど無視され、権利の部分だけが無限に拡大解釈されました。

  • 過酷な労働: 先住民は、エンコメンデロの所有する農園や鉱山で、極めて過酷な労働を強いられました。特に、ポトシ銀山のような鉱山での労働は、危険で非衛生的な環境の下、わずかな食料しか与えられずに行われ、多くの先住民が落盤事故や水銀中毒、過労によって命を落としました。
  • 重い貢納: 労働力の提供に加えて、先住民はトウモロコシや織物といった現物での重い貢納を課せられました。エンコメンデロは、しばしば生産不可能なほどの量を要求し、支払えない者を厳しく罰しました。
  • 暴力と虐待: エンコメンデロは、委託された先住民に対して絶対的な権力者として君臨し、些細なことで鞭打ちや拷問といった残虐な体罰を加えました。彼らの扱いは、所有物である奴隷以下であったとも言われています。

この制度の下で、先住民の共同体は破壊され、伝統的な生活は根こそぎにされました。過酷な労働、栄養失調、そしてヨーロッパから持ち込まれた病原体の流行が相まって、先住民の人口は壊滅的な速さで減少していきました。

4.3. ラス・カサスによる告発と新法の制定

エンコミエンダ制の非人道的な実態に対して、良心を痛め、その告発に生涯を捧げた人物がいました。ドミニコ会修道士、バルトロメ・デ・ラス・カサスです。彼自身も、かつてはキューバでエンコメンデロとして先住民を使役していましたが、その惨状を目の当たりにして回心し、先住民の権利の擁護者へと転身しました。

ラス・カサスは、スペイン本国に帰国し、国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の前で、エンコミエンダ制下で行われている残虐行為を詳述した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』を報告しました。彼は、先住民が理性を持ち、平和的にキリスト教を受け入れる能力のある人間であることを力説し、エンコミエンダ制の即時廃止を訴えました。

彼の告発は大きな反響を呼び、スペイン宮廷内で激しい論争(バリャドリッド論争など)を引き起こしました。ラス・カサスの訴えに動かされたカルロス1世は、1542年に**「インディアス新法」**を公布しました。この法律は、以下のような画期的な内容を含んでいました。

  • 先住民を奴隷にすることを厳禁する。
  • エンコミエンダの新たな設定を禁止する。
  • 既存のエンコミエンダは、現在の所有者(エンコメンデロ)の死後、相続を認めず、国王の直轄地として回収する。

この新法は、エンコミエンダ制を将来的に消滅させることを意図したものであり、人道的には大きな前進でした。

4.4. 制度の衰退と遺産

しかし、インディアス新法は、植民地のエンコメンデロたちの猛烈な反発に遭いました。彼らは、エンコミエンダがなければ植民地経済は成り立たないと主張し、ペルーでは新法を強制しようとした副王が殺害されるという、大規模な反乱まで発生しました。この強い抵抗の前に、スペイン国王も譲歩せざるを得ず、エンコミエンダの世襲を部分的に認めるなど、新法の骨子は次々と骨抜きにされていきました。

それでも、エンコミエンダ制は、16世紀後半から次第に衰退の道を辿ります。その最大の理由は、皮肉にも、搾取の対象であった先住民人口そのものが、激減してしまったことでした。労働力としての価値が低下したことに加え、国王が中央集権化を進める中で、エンコメンデロのような封建的な中間権力者の存在を疎ましく思うようになったことも、制度の衰退を後押ししました。

エンコミエンダ制は、アシエンダ制やレパルティミエント制(先住民への強制労働割り当て制度)といった、新たな搾取の形態へと姿を変えながら、植民地時代を通じてラテンアメリカの社会経済構造の根幹にあり続けました。それは、少数の白人支配者層が、広大な土地と多数の先住民・混血民を支配するという、極端に不平等な社会構造の原型を築き、その遺産は、現代のラテンアメリカが抱える土地所有問題や人種間の経済格差といった、根深い社会問題の中に今なお生き続けているのです。


5. アシエンダ制とプランテーション

エンコミエンダ制が、先住民の人口減少によって次第に機能不全に陥っていく17世紀以降、ラテンアメリカの植民地社会では、新たな土地所有と労働力支配の形態が主流となっていきます。それが、大規模な土地所有そのものを特徴とする「アシエンダ制」と、輸出向けの単一作物を大規模に生産する「プランテーション」です。この二つの制度は、植民地経済の根幹をなし、ラテンアメリカの社会を、少数の大地主と大多数の貧しい農民・労働者という、固定的な階層社会へと決定づけました。その構造は、独立後も長く温存され、現代に至るラテンアメリカの経済的従属と社会的不平等の元凶となりました。

5.1. アシエンダ制:自給自足的な大農園

「アシエンダ」とは、スペイン語で大土地所有、あるいはその地所(大農園)そのものを指す言葉です。エンコミエンダ制が先住民の「労働力」を支配する権利であったのに対し、アシエンダ制は広大な「土地」を私有し、その土地に付属する労働力を支配する制度でした。

  • 成立の背景: アシエンダの起源は、スペイン国王がコンキスタドールや有力入植者に与えた土地の恩貸地にあります。エンコミエンダ制の下で富を蓄積したエンコメンデロたちは、先住民の人口が激減すると、彼らが放棄したり死亡したりして所有者がいなくなった土地を、様々な手段(合法・非合法を含む)で買収・併合し、自らの私有地を拡大していきました。こうして、17世紀から18世紀にかけて、植民地生まれの白人(クリオーリョ)を中心とする大地主層が形成され、彼らの所有するアシエンダが、植民地の農村地帯を支配するようになりました。
  • 経済的特徴: アシエンダの経済は、主にその内部や近隣の都市市場、鉱山町での消費を目的とした、多角的な農業・牧畜経営を特徴としました。小麦、トウモロコシ、豆類といった食料品や、牛、羊といった家畜が生産され、その経済は比較的自給自足的な性格が強いものでした。アシエンダの所有者(アシエンダード)は、利益の最大化を追求する資本家というよりは、土地を所有すること自体から得られる社会的威信や権力を重視する、封建的な領主のような存在でした。
  • 労働力の支配(債務奴隷制): アシエンダにおける労働力は、主に先住民やメスティーソ(白人と先住民の混血)の小作人(ペオン)によって担われました。彼らは、アシエンダの土地の一部を借りて耕作する見返りに、地代を支払うか、アシエンダードの直営地で労働奉仕を行いました。アシエンダードは、ペオンを土地に縛り付けるため、「債務奴隷制(デット・ピオネージ)」と呼ばれる巧妙なシステムを用いました。アシエンダ内部には、生活必需品を法外な価格で販売する自家商店(ティエンダ・デ・ラヤ)があり、ペオンはそこで必需品をツケで買うことを強制されました。この借金は、彼らのわずかな賃金では到底返済できず、利子によって雪だるま式に膨れ上がりました。法律によって、借金を返済するまで土地を離れることは禁じられていたため、ペオンは事実上、生涯にわたってアシエンダに縛り付けられ、その債務は子供へと世襲されました。こうして、法的には自由民でありながら、実質的には農奴と変わらない状態に置かれたのです。

アシエンダは、単なる経済単位ではなく、アシエンダードが教会、牢獄、警察権までをも私的に支配する、一個の独立した小社会、小宇宙でした。この家父長的な支配関係は、ラテンアメリカの農村社会における権威主義的な人間関係の原型を形成しました。

5.2. プランテーション:輸出志向の単一栽培

アシエンダが内需向けの自給自足的な性格を持っていたのに対し、「プランテーション」は、完全にヨーロッパ市場向けの輸出商品を生産するために特化した、大規模な農場経営システムでした。

  • 立地と生産物: プランテーションは、主に熱帯・亜熱帯の気候を持つ、ポルトガル領ブラジルの北東部や、カリブ海の島々、そしてアメリカ合衆国南部に集中しました。そこで生産されたのは、サトウキビタバコ綿花コーヒーといった、ヨーロッパで高い需要があった商品作物でした。
  • 経済的特徴: プランテーションは、土地と労働力を集約し、単一の商品作物を大規模に栽培(モノカルチャー)する、極めて資本主義的な性格の強い経営形態でした。その目的は、国際市場での利益を最大化することにあり、生産から加工、輸出に至るまで、ヨーロッパの資本と市場に完全に組み込まれていました。このため、国際市場の価格変動に経営が左右されやすく、経済的には非常に脆弱な構造を持っていました。また、食料の自給をほとんど行わず、外部からの輸入に頼っていた点も、アシエンダとは対照的でした。
  • 労働力(アフリカ人奴隷): プランテーションにおける過酷な労働は、当初は先住民や年季契約の白人によって担われましたが、彼らが病気や逃亡でいなくなると、その代替として、アフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷が大規模に導入されるようになりました。特に、サトウキビの栽培と、それを精製して砂糖を生産する作業は、灼熱の気候の下で行われる、極めて過酷な重労働でした。プランテーションの所有者(プランター)は、奴隷を人間ではなく、単なる「動く財産」と見なし、労働力を最大限に搾り取るために、暴力的な支配と非人間的な扱いを日常的に行いました。奴隷の高い死亡率は、絶え間ない新たな奴隷の輸入によって補われ、これが大西洋奴隷貿易をさらに拡大させる要因となりました。

アシエンダ制とプランテーションは、ラテンアメリカおよびアメリカ南部の社会経済構造を決定づけました。少数の白人エリートが土地と富を独占し、大多数の非白人層が貧困と隷属のうちに置かれるという、極端な格差社会は、この二つの制度によって確立されたのです。19世紀にラテンアメリカ諸国が政治的な独立を達成した後も、クリオーリョの大地主層が権力を握ったため、この土地所有構造はほとんど変わることなく温存されました。20世紀に至るまで、土地改革はラテンアメリカ各国の最も重要な政治課題であり続け、多くの革命や内乱の原因となったのです。


6. 大西洋奴隷貿易

16世紀から19世紀にかけて、南北アメリカ大陸の植民地、とりわけブラジル、カリブ海、そして北米南部で展開されたプランテーション経済は、安価で大量の労働力を絶えず必要としました。当初、この労働力は先住民によって供給されていましたが、彼らがヨーロッパから持ち込まれた病気や過酷な労働によって激減すると、植民者たちは新たな労働力の供給源を求めました。その結果、人類史上、最も大規模かつ組織的に行われた強制移住、すなわち「大西洋奴隷貿易」が本格化します。この貿易は、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカの三つの大陸を結ぶ「三角貿易」の中核をなし、ヨーロッパに莫大な富をもたらす一方で、アフリカ社会に深刻な破壊をもたらし、アメリカ大陸に複雑な人種社会を形成する、極めて重大な歴史的帰結を生みました。

6.1. 三角貿易の構造

大西洋奴隷貿易は、単にアフリカからアメリカへ奴隷を運ぶという二点間の移動ではなく、ヨーロッパを中心とする、より大きな経済システムの一部として機能していました。これを一般に「三角貿易」と呼びます。

  1. 第一辺(ヨーロッパ → アフリカ): イギリスのリヴァプールやフランスのナントといったヨーロッパの港から出発した奴隷船は、銃、火薬、金属製品、ラム酒、織物、ガラス玉といった工業製品を積んで、西アフリカの沿岸(いわゆる「奴隷海岸」)へと向かいました。
  2. 第二辺(アフリカ → アメリカ): アフリカの港で、ヨーロッパの船乗りたちは、積んできた工業製品を、現地の黒人王国やアラブ商人たちが捕らえてきたアフリカ人奴隷と交換しました。奴隷として売られたのは、主に部族間戦争の捕虜や、借金の形、あるいは誘拐された人々でした。奴隷を満載した船は、大西洋を横断してアメリカ大陸へと向かいました。この忌まわしい航海は**「中間航路(ミドル・パッセージ)」**と呼ばれ、奴隷貿易の中で最も悲惨な区間でした。
  3. 第三辺(アメリカ → ヨーロッパ): アメリカの港(ブラジルのサルヴァドール、ジャマイカのキングストン、アメリカのチャールストンなど)に到着すると、奴隷たちはプランテーションの所有者たちに売却されました。その売却益で、船は植民地で生産された砂糖タバコ綿花コーヒーといった原料や、銀などを安く買い付け、それをヨーロッパへと持ち帰りました。ヨーロッパでこれらの商品を高く売りさばくことで、奴隷商人とその投資家たちは、一回の航海で莫大な利益を上げることができました。

このサイクルを繰り返すことで、ヨーロッパの資本家は富を蓄積し、その資本が産業革命を促進する一因となったと考えられています。つまり、アフリカ人奴隷の犠牲の上に、ヨーロッパの近代的な経済発展があったという、密接な関係が存在したのです。

6.2. 「中間航路」の悲劇

奴隷船での「中間航路」は、数週間から数ヶ月に及び、その実態はまさに生き地獄でした。利益を最大化するため、船主たちはできるだけ多くの奴隷を船倉に詰め込みました。

  • 非人道的な環境: 奴隷たちは、身長ほどの高さもない薄暗い船倉に、男女が分けられ、鎖で繋がれたまま、身動きも取れないほどぎゅうぎゅう詰めに押し込められました。衛生状態は劣悪で、汚物にまみれ、空気は淀み、食料や水も最小限しか与えられませんでした。
  • 高い死亡率: このような過酷な環境下で、赤痢、壊血病、天然痘といった伝染病が蔓延し、多くの奴隷が航海の途中で命を落としました。抵抗する者、反乱を試みる者は、容赦なく処刑され、海に投げ捨てられました。絶望から自ら食事を拒否したり、海に身を投げたりする者も後を絶ちませんでした。平均して、航海中の死亡率は15%から20%に達したと推定されており、まさに「浮かぶ棺桶」でした。

約400年間にわたる奴隷貿易で、アフリカからアメリカ大陸へ強制的に連れてこられた人々の総数は、およそ1000万人から1200万人にのぼると考えられています。これは、航海中に死亡した人々を含まない、あくまでアメリカ大陸に「到着」した人数です。

6.3. アフリカとアメリカへの影響

大西洋奴隷貿易は、関わった三つの大陸すべてに、永続的な影響を及ぼしました。

  • アフリカへの影響: 奴隷貿易は、アフリカ社会、特に西アフリカから中部アフリカにかけての地域に、壊滅的な打撃を与えました。最も働き盛りの若者や壮健な男女が、数世紀にわたって継続的に奪われたため、深刻な人口の減少と、男女比の不均衡が生じました。また、ヨーロッパから流入した銃が、部族間の対立を激化させ、奴隷狩りを目的とした戦争を恒常化させました。これにより、コンゴ王国のような、かつて繁栄した国家も衰退し、社会の安定と正常な経済発展が著しく阻害されました。
  • アメリカへの影響: アメリカ大陸では、アフリカから強制的に連れてこられた人々が、プランテーション経済を支える主要な労働力となりました。彼らは、出身地も言語も異なる多様な民族集団でしたが、奴隷という共通の身分の下で、キリスト教を強制されながらも、故郷の音楽、舞踊、宗教、物語といった文化的伝統を融合させ、独自の**アフリカ系アメリカ文化(アフロ・アメリカン文化)**を創造しました。ジャズ、ブルース、ゴスペルといった音楽や、カリブ海のヴードゥー教などは、その代表的な例です。一方で、奴隷制は、白人支配者と黒人被支配者という、人種に基づく厳格な社会階層を作り出しました。肌の色によって人間の価値が決められるという、根深い人種差別イデオロギーが社会の隅々にまで浸透しました。この奴隷制の遺産は、19世紀の奴隷解放後も、ジム・クロウ法のような人種隔離政策や、公民権運動、そして現代に至るBlack Lives Matter運動など、アメリカ社会が今なお向き合い続けている、最も深刻な社会問題の根源となっています。

18世紀末から、人道主義的な観点や、自由な賃金労働の方が効率的であるという経済的な理由から、ヨーロッパで奴隷貿易反対運動が高まります。1807年にイギリスが、1808年にアメリカが、それぞれ奴隷貿易を禁止し、19世紀を通じてラテンアメリカ諸国もこれに続きました。しかし、奴隷制そのものはその後も存続し、最後の国であるブラジルで廃止されたのは1888年のことでした。この長きにわたる非人道的なシステムの歴史は、近代世界の光と影を理解する上で、決して避けては通れない負の遺産なのです。


7. ラテンアメリカ諸国の独立

19世紀初頭、フランス革命とナポレオン戦争というヨーロッパでの激動は、大西洋を越えてラテンアメリカの植民地にも大きな影響を及ぼしました。300年近くにわたって続いたスペイン・ポルトガルの支配体制が揺らぐ中、植民地生まれの白人(クリオーリョ)たちは、本国からの独立を目指して立ち上がりました。シモン・ボリバルやホセ・デ・サン=マルティンといった英雄的な指導者に率いられた独立運動は、次々と成功を収め、1820年代半ばまでに、キューバやプエルトリコなどを除く、ほとんどのラテンアメリカ地域が新たな共和国として独立を達成しました。しかし、この政治的な独立は、必ずしも社会的な解放を意味するものではなく、独立後のラテンアメリカは、政治的混乱、経済的従属、そして深刻な社会的不平等という、多くの困難な課題に直面することになります。

7.1. 独立運動の背景

ラテンアメリカで独立の機運が高まった背景には、いくつかの複合的な要因が存在します。

  • クリオーリョの不満: 独立運動の主な担い手となったのは、植民地で生まれ育った、ヨーロッパ系の白人であるクリオーリョでした。彼らは、大地主や商人として経済的には裕福でしたが、本国から派遣されてくるスペイン人(ペニンスラール)によって、副王などの植民地の最高位の官職から排除され、政治的に差別されていました。また、本国の重商主義政策によって自由な貿易を制限されていることにも、強い不満を抱いていました。
  • 啓蒙思想と革命の影響: 18世紀後半、ヨーロッパの啓蒙思想(ロックの社会契約説やルソーの人民主権論など)が、ラテンアメリカのクリオーリョ知識人層にもたらされ、彼らの間に自由や平等の理念を広めました。さらに、アメリカ独立革命(1776年)とフランス革命(1789年)の成功は、植民地支配を打倒し、共和制国家を樹立することが可能であるという、具体的なモデルを彼らに示しました。
  • ナポレオンのヨーロッパ支配: 独立の直接的な引き金となったのは、ナポレオン・ボナパルトのヨーロッパでの戦争でした。1808年、ナポレオンがスペインに侵攻し、国王フェルナンド7世を退位させて、兄のジョゼフをスペイン王に即位させると、スペイン本国の支配は完全に麻痺状態に陥りました。ラテンアメリカの植民地では、「正統な国王はフェルナンド7世である」として、各地のクリオーリョたちが自治を求める評議会(フンタ)を結成し、これが事実上の独立への第一歩となりました。同様に、ポルトガルでも、ナポレオン軍の侵攻を逃れて、王室が植民地であるブラジルのリオデジャネイロへ避難するという異常事態が発生し、本国の支配力が著しく弱まりました。
  • ハイチ革命の影響: フランス領サン=ドマングで、トゥサン=ルヴェルチュールに率いられた黒人奴隷たちが、フランスからの独立と奴隷制の廃止を勝ち取ったハイチ革命(1791年-1804年)は、ラテンアメリカ全土に衝撃を与えました。これはクリオーリョたちにとっては、自分たちも独立できるという希望の光であったと同時に、先住民や黒人奴隷による社会革命への恐怖を抱かせるものでもあり、彼らが独立後も既存の社会階層を維持しようとする動機にもなりました。

7.2. 「解放者」たちと独立戦争

ナポレオン戦争後のヨーロッパの混乱を好機として、ラテンアメリカ各地で本格的な独立戦争が開始されました。

  • 南米北部: ベネズエラ出身のクリオーリョ、シモン・ボリバルは、「解放者(エル・リベルタドール)」と呼ばれ、南米北部の独立運動を指導しました。彼は、苦難の末にベネズエラ、コロンビア、エクアドルを解放し、これらの地域を統合した「大コロンビア共和国」を建国しました。さらに南下してペルーを解放し、1825年には、彼にちなんで名付けられたボリビア共和国の独立を達成しました。
  • 南米南部: アルゼンチン出身のクリオーリョ、ホセ・デ・サン=マルティンは、南米南部の独立運動を率いました。彼は、まずアルゼンチンの独立を確固たるものにした後、アンデス山脈を越えるという困難な作戦を敢行し、チリを解放しました。さらに海上からペルーへ進軍し、首都リマを解放しましたが、独立の最終的な達成をボリバルに託して、自らはヨーロッパへ引退しました。
  • メキシコ: メキシコの独立運動は、当初、イダルゴやモレーロスといった司祭に率いられた、農民や先住民を中心とする社会改革的な性格の強い運動として始まりました。しかし、これはクリオーリョ地主層の反発を招いて失敗に終わります。最終的には、クリオーリョの将軍イトゥルビデが、保守的な独立を達成し、一時的に皇帝として即位しましたが、すぐに失脚して共和制へと移行しました。
  • ブラジル: ブラジルの独立は、他のスペイン領アメリカとは異なり、比較的平和裏に(無血で)達成されました。ナポレオン戦争後にポルトガル本国へ帰還した国王ジョアン6世の王子ペドロが、ブラジルに残り、ブラジル国民の支持を得て、1822年にポルトガルからの独立を宣言し、皇帝ペドロ1世として即位しました。これにより、ブラジルは南米で唯一の帝政国家として独立しました。

7.3. 独立後の課題:混乱と従属

輝かしい独立戦争の勝利にもかかわらず、独立後のラテンアメリカ諸国は、多くの深刻な課題に直面し、「解放」がもたらした現実は厳しいものでした。

  • 政治的混乱とカウディーリョの台頭: ボリバルが夢見たような、アメリカ合衆国のような安定した連邦国家の樹立は、夢に終わりました。独立後の各国では、クリオーリョのエリート層が権力を巡って争い、政治は極度に不安定化しました。広大な国土と未発達な交通網、そして国民としての一体感の欠如といった状況の中で、中央政府の権力は弱く、地方ではカウディーリョと呼ばれる、軍事力を背景とした地方のボス(有力者)が実権を握りました。彼らは、個人のカリスマと暴力によって支配を行い、ラテンアメリカの政治に、個人主義的で権威主義的な伝統を根付かせました。
  • 社会構造の温存: 独立は、ペニンスラールからクリオーリョへと支配者が交代しただけであり、植民地時代からの、少数の白人大土地所有者が、大多数のメスティーソ、先住民、黒人を支配するという不平等な社会構造は、基本的に何の変化もありませんでした。奴隷制も多くの国で存続し、農民はアシエンダの債務奴隷制の下で依然として貧困に喘いでいました。
  • 経済的従属: 政治的な独立は達成したものの、経済的には、新たな宗主国への従属が始まりました。産業革命を達成し、世界の工場としての地位を確立しつつあったイギリスが、スペインやポルトガルに代わって、ラテンアメリカの経済を支配するようになります。ラテンアメリカ諸国は、イギリスの工業製品の市場となり、その見返りに、鉱物資源や農産物といった一次産品を安価で供給する、という従属的な経済構造(モノカルチャー経済)に組み込まれていきました。この「新植民地主義」とも呼ばれる状況は、ラテンアメリカの工業化を妨げ、長期的な経済的停滞の原因となりました。

この状況に対して、アメリカ合衆国は、1823年にモンロー教書を発表し、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉を排除する姿勢を示しました。これは、一見するとラテンアメリカ諸国の独立を擁護するものでしたが、その真の意図は、将来的にラテンアメリカを自国の勢力圏と見なすという、アメリカの野心を示すものであり、20世紀の「裏庭」への介入政策の伏線となるものでした。


8. アメリカ合衆国の西部開拓

1783年にイギリスからの独立を達成した当初、アメリカ合衆国の領土は、東海岸のアパラチア山脈以東の13州に限られていました。しかし、19世紀を通じて、アメリカは「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」という理念に後押しされ、猛烈な勢いで西へ、西へとその領土を拡大していきました。この西部開拓のプロセスは、フロンティア(辺境)の消滅と共に、アメリカの広大な国土を確定させ、独自の国民性を形成する上で決定的な役割を果たしました。しかしその一方で、この輝かしい拡大の物語は、先住民(ネイティブ・アメリカン)からの土地の収奪と、メキシコとの戦争という、暴力と征服の歴史でもありました。

8.1. 領土拡大のプロセス

アメリカの西部への領土拡大は、購入、併合、そして戦争という、様々な手段を通じて段階的に進められました。

  • ルイジアナ購入(1803年): 独立後の最初の、そして最大の領土拡大が、フランスからのルイジアナの購入でした。ジェファソン大統領は、ナポレオンがハイチ革命の失敗と対英戦争の戦費調達に苦慮している機に乗じ、ミシシッピ川以西の広大な土地(現在の国土の約3分の1に相当)を、わずか1500万ドルという破格の値段で購入しました。これにより、アメリカの領土は一気に2倍になり、本格的な西部開拓への道が開かれました。
  • フロリダ獲得(1819年): 長年の係争地であったフロリダは、スペインから武力的な圧力を背景に割譲させました。
  • テキサス併合(1845年): 当時メキシコ領であったテキサスには、アメリカ南部から奴隷を所有する多くの入植者が移住していました。彼らはメキシコ政府の奴隷制禁止令に反発し、1836年にテキサス共和国として独立を宣言しました。アメリカ合衆国は、当初併合に慎重でしたが、世論の高まりを受け、1845年にテキサスを併合しました。
  • アメリカ=メキシコ戦争(1846年-1848年): テキサス併合は、国境線を巡る対立から、メキシコとの戦争を引き起こしました。軍事力で圧倒的に優位に立つアメリカは、メキシコの首都メキシコシティを占領し、勝利を収めました。戦後のグアダルーペ・イダルゴ条約により、メキシコは、カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、アリゾナ、ニューメキシコを含む、広大な領土をアメリカに割譲させられました。これにより、アメリカはついに太平洋岸に到達し、大陸国家としての骨格を完成させました。
  • オレゴン地方の確保(1846年): 太平洋岸北西部のオレゴン地方は、イギリスとの共同領有地となっていましたが、交渉の末、北緯49度線を国境とすることで合意し、平和的に領土を分割しました。

8.2. 「明白な天命」とフロンティア精神

この急速な領土拡大を正当化し、国民を鼓舞したイデオロギーが、「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」です。これは、アメリカ合衆国が、その自由で民主的な制度を、大西洋から太平洋に至る北米大陸全土に広めることは、神から与えられた明白な使命である、という考え方です。この思想は、領土的野心に、道徳的・宗教的な使命感というお墨付きを与え、先住民やメキシコからの土地の収奪を、文明の拡大という名の下に正当化しました。

西部開拓の最前線は「フロンティア」と呼ばれ、アメリカの歴史と国民性の形成に大きな影響を与えたとされています。歴史家フレデリック・ジャクソン・ターナーは、「フロンティア仮説」の中で、ヨーロッパの伝統から切り離された辺境の地で、厳しい自然環境と格闘し、自らの手で社会を築き上げていく経験が、アメリカ人特有の個人主義、実用主義、そして民主主義的な精神を育んだと論じました。東部の既成社会から逃れて西へ向かった開拓者たちは、身分や家柄に関係なく、自らの努力と能力によって成功を掴むことができるという、「アメリカン・ドリーム」の原型を体現する存在と見なされました。

1848年にカリフォルニアで金が発見されると、一攫千金を夢見る人々が殺到する「ゴールドラッシュ」が起こり、西部への移住はさらに加速しました。1862年のホームステッド法(自営農地法)は、西部の土地に5年間定住し、開墾した者に、160エーカーの土地を無償で与えるというもので、ヨーロッパからの移民を含む多くの人々の西部移住を促進しました。大陸横断鉄道の建設も、東西の結びつきを強め、西部の開発を加速させました。

8.3. 先住民(ネイティブ・アメリカン)の悲劇

しかし、この輝かしい西部開拓の物語の裏側には、この土地の元々の所有者であった先住民の悲劇的な歴史が存在します。アメリカ政府にとって、先住民は、文明的な白人の拡大を妨げる「野蛮な」障害物としか見なされませんでした。

  • 強制移住: 政府は、先住民との間に数多くの条約を結び、彼らの土地の権利を認めると約束しましたが、白人入植者の圧力が高まると、それらの約束は一方的に破られました。1830年のインディアン強制移住法は、ミシシッピ川以東に住んでいたチェロキー族などの先住民を、武力によってオクラホマのインディアン準州へと強制的に移住させるものでした。この過酷な移住の道のりは、多くの死者を出したことから「涙の道(Trail of Tears)」と呼ばれています。
  • インディアン戦争: 西部への開拓が進むにつれて、平原の先住民との武力衝突(インディアン戦争)が頻発しました。バッファローの大量虐殺によって、彼らの生活基盤は破壊され、シッティング・ブルやクレイジー・ホースといった英雄的な指導者に率いられた抵抗も、圧倒的な軍事力の前に次々と鎮圧されていきました。
  • 保留地(リザベーション)への隔離: 抵抗力を失った先住民は、政府が指定した「保留地(リザベーション)」と呼ばれる、痩せた不毛の土地に強制的に隔離されました。彼らは伝統的な生活様式を奪われ、政府からのわずかな援助に頼って生活することを余儀なくされました。
  • 同化政策: 19世紀末になると、政府は武力による制圧から、先住民の文化そのものを消滅させる「同化政策」へと方針を転換しました。子供たちは親から引き離され、キリスト教系の寄宿学校で英語の使用を強制され、部族の伝統や言語を教え込まれることは禁じられました。

1890年、サウスダコタ州のウンデット・ニーで、ゴースト・ダンスという宗教儀式を行っていたスー族の民衆が、アメリカ軍によって無差別に虐殺される事件が起こりました。このウンデット・ニーの虐殺は、組織的なインディアン戦争の終結を象徴する出来事とされています。同じ年、国勢調査局は、アメリカ国内におけるフロンティアライン(未開拓地との境界線)の消滅を宣言しました。アメリカは大陸国家としての形成を完了しましたが、それは、先住民の土地と文化を犠牲にした上での、痛ましい達成であったのです。


9. 南北戦争

19世紀半ば、西部への領土拡大を続け、国力を伸長させていたアメリカ合衆国は、その国家の存立そのものを揺るがす、深刻な内部対立を抱えていました。それは、北部と南部の間で、その社会のあり方、経済構造、そして価値観を巡る、根本的な対立でした。この対立の核心にあったのが「奴隷制」の問題です。数十年にわたって様々な妥協が試みられましたが、両者の溝は埋めがたく、ついに1861年、国家を二分する、アメリカ史上最も血腥い内戦である南北戦争が勃発しました。この戦争は、単なる内戦に留まらず、アメリカが「一つの国民(one nation)」として、どのような理念の上に立つ国家となるのかを決定づける、第二の建国革命とも言うべき、決定的な転換点でした。

9.1. 「一つの国家、二つの社会」:戦争の原因

南北戦争の原因は、複雑に絡み合っていますが、大きく分けて三つの側面から理解することができます。

  • 経済構造の対立:
    • 北部: 19世紀前半、北部は産業革命を経験し、商工業を中心とする経済を急速に発展させていました。工場での大量生産には、ヨーロッパからの移民を中心とする自由な賃金労働力が必要であり、国内市場を保護するための保護関税を主張しました。
    • 南部: 南部は、イギリスをはじめとするヨーロッパ市場向けの綿花を生産する、プランテーション農業を基盤とするモノカルチャー経済でした。その労働力は、完全にアフリカ系の奴隷に依存していました。南部は、イギリスからの安価な工業製品を輸入し、綿花を自由に輸出するために、自由貿易を主張し、北部の保護関税政策に強く反対しました。
  • 政治理念の対立(州権主義):
    • アメリカ合衆国は、建国以来、「連邦」の権限と「州」の権限のバランスを巡る問題を抱えていました。
    • 南部は、各州が合衆国憲法に加盟したのは自発的な契約によるものであり、州の利益が連邦政府によって侵害される場合には、その契約を破棄して連邦から**脱退する権利(州権主義)**があると主張しました。これは、奴隷制という南部の特殊な社会制度(”peculiar institution”)を、連邦政府の干渉から守るための理論的支柱でした。
    • 一方、北部は、合衆国は各州の集合体ではなく、国民全体によって作られた不可分の統一体であり、いかなる州も一方的に連邦から脱退することは許されない、という連邦主義の立場をとりました。
  • 奴隷制を巡る倫理的・社会的な対立:
    • 上記の経済的・政治的な対立の根底には、奴隷制そのものを巡る、根本的な価値観の対立がありました。
    • 北部では、19世紀半ばから、奴隷制をキリスト教の教えに反する非人道的な罪悪と見なし、その即時廃止を求める**奴隷制廃止運動(アボリショニズム)**が高まりを見せていました。
    • 南部では、奴隷制は綿花生産に不可欠な経済基盤であるだけでなく、白人優位の社会秩序を維持するための、必要不可欠な制度であると見なされていました。彼らは、奴隷制を「必要悪」から、さらには聖書にも記された「積極的な善」であるとまで主張して、その存在を正当化しました。

西部への領土拡大は、この対立をさらに先鋭化させました。新たに合衆国に加わる州を、奴隷制を認める奴隷州とするか、認めない自由州とするかを巡って、南北は激しく対立しました。ミズーリ協定(1820年)や1850年の妥協など、一時的な妥協策が図られましたが、1854年のカンザス・ネブラスカ法が、新設州の奴隷制の可否を住民投票に委ねると定めたことで、両派の入植者がカンザスで流血の抗争を繰り広げる(「血を流すカンザス」)など、対立はもはや制御不能な状態に陥っていました。

9.2. リンカーンの当選と南部の脱退

この緊張が頂点に達したのが、1860年の大統領選挙です。この選挙で、奴隷制の拡大に反対する新興の共和党から立候補したエイブラハム・リンカーンが当選しました。リンカーン自身は、奴隷制の即時全面廃止を掲げていたわけではありませんでしたが、南部の奴隷所有者たちは、彼の当選を、自分たちの財産と生活様式に対する直接的な脅威と受け取りました。

リンカーンの当選を受けて、1860年12月、サウスカロライナ州が最初に連邦からの脱退を宣言しました。これに他の南部諸州も続き、1861年2月、アメリカ南部連合(The Confederate States of America)を結成し、ジェファソン・デイヴィスを大統領に選びました。リンカーンは、大統領就任演説で、連邦からの脱退は認められないと断固たる姿勢を示しました。そして1861年4月、南部連合軍がサウスカロライナ州のサムター要塞(連邦軍の砦)を砲撃したことをきっかけに、南北戦争の火蓋が切られました。

9.3. 戦争の経過と帰結

当初、戦争は南部に有利に進みました。南部には、リー将軍をはじめとする優秀な指揮官が多く、兵士たちの士気も高かったためです。しかし、戦争が長期化するにつれて、北部の持つ国力の差が決定的な要因となっていきました。

  • 北部の優位: 北部は、人口(約2200万人対南部の約900万人、うち奴隷が350万人)、工業生産力、鉄道網、そして海軍力といった、あらゆる面で南部を圧倒していました。北軍は、海上封鎖によって南部の綿花輸出と物資輸入を断ち、その経済に打撃を与えました。
  • 奴隷解放宣言(1863年): 戦争の転換点となったのが、1863年1月1日にリンカーンが発した奴隷解放宣言です。これは、当初は反乱状態にある南部連合支配地域の奴隷のみを解放するという、限定的なものでした。しかし、この宣言は、戦争の目的を、単なる連邦の維持から、奴隷制の廃止という、より高次の道徳的な大義へと昇華させました。これにより、イギリスやフランスといった、奴隷制に反対するヨーロッパ諸国が南部に味方することを防ぎ、また、解放された黒人たちが北軍兵士として加わる道を開きました。
  • ゲティスバーグの戦いと北軍の勝利: 1863年7月のゲティスバーグの戦いで、北軍は決定的な勝利を収め、これ以降、戦況は北部に有利に展開します。リンカーンは、この地の戦没者墓地の演説で、「人民の、人民による、人民のための政治」という、民主主義の不滅の理念を掲げました。1865年4月、グラント将軍率いる北軍が南部連合の首都リッチモンドを陥落させ、リー将軍が降伏し、4年間にわたる戦争は北部の勝利で終結しました。

南北戦争は、60万人以上の死者を出すという、アメリカ史上最大の犠牲を払った戦争でした。しかし、その帰結は、アメリカの歴史を大きく変えるものでした。第一に、連邦の維持が確定し、「州」の集合体から「一つの国民国家」としてのアメリカが確立されました。第二に、奴隷制の廃止が実現し、「すべての人間は平等に造られている」という建国の理念が、少なくとも法的には、アフリカ系アメリカ人にも適用される第一歩となりました。しかし、戦争後の「再建の時代」は多くの困難を伴い、解放された黒人たちが真の市民的権利を獲得するまでには、さらに100年にわたる長い闘いを必要とすることになるのです。


10. 20世紀のラテンアメリカとアメリカの介入

19世紀に政治的独立を達成したラテンアメリカ諸国でしたが、その内実は、カウディーリョによる独裁政治、大地主層による土地独占、そしてイギリス資本への経済的従属という、多くの問題を抱えたままでした。20世紀に入ると、世界のパワーバランスは大きく変化します。ヨーロッパ列強の力が相対的に低下する一方で、工業大国として急速に台頭したアメリカ合衆国が、カリブ海と中央アメリカを自国の「裏庭」と見なし、経済的・軍事的な覇権を確立しようと、あからさまな介入を繰り返すようになります。このアメリカによる「新植民地主義」的な政策は、ラテンアメリカ諸国のナショナリズムを刺激し、両者の間には、今日に至るまで続く、複雑で緊張をはらんだ関係が形成されていきました。

10.1. 「棍棒外交」と「ドル外交」:アメリカの覇権確立

19世紀末、アメリカは、フロンティアの消滅と共に、国内市場の飽和と、海外市場への進出の必要性に直面していました。この帝国主義的な膨張欲求が、ラテンアメリカへと向けられることになります。

  • 米西戦争(1898年)とカリブ海の支配: アメリカの介入政策が本格化するきっかけとなったのが、スペイン領キューバの独立運動でした。アメリカは、自国のサトウキビ農園の利益保護と、世論の同情を背景に、キューバ独立を支援するという名目でスペインに宣戦布告しました。この米西戦争に圧勝したアメリカは、キューバを保護国として事実上支配下に置き(プラット条項)、さらにプエルトリコとグアムを領有しました。これにより、スペインはアメリカ大陸から最後の拠点を失い、代わってアメリカがカリブ海の覇権を握ることになりました。
  • セオドア・ルーズベルトの「棍棒外交」: 「棍棒を片手に、穏やかに話せ」というセオドア・ルーズベルト大統領の姿勢は、「棍棒外交(Big Stick Diplomacy)」として知られています。彼は、1823年のモンロー教書を拡大解釈した**「ローズヴェルトの系論(Roosevelt Corollary)」**を発表し、ラテンアメリカ諸国がヨーロッパに対して債務不履行に陥ったり、慢性的な内乱状態に陥ったりした場合には、アメリカが「国際警察力」として、予防的に介入する権利があると主張しました。これは、ヨーロッパの干渉を排除するだけでなく、アメリカがラテンアメリカの「秩序維持者」として、積極的に介入することを正当化するものでした。
  • パナマ運河の建設: この「棍棒外交」の最も象徴的な例が、パナマ運河の建設です。大西洋と太平洋を結ぶ運河の建設は、アメリカの海軍戦略と商業にとって死活的に重要でした。当時パナマを領有していたコロンビアが、運河建設の条件でアメリカと対立すると、ルーズベルトはパナマの独立運動を裏で支援し、軍艦を派遣してコロンビアの鎮圧を妨害しました。1903年に「独立」したパナマ共和国は、直ちにアメリカと条約を結び、運河地帯の永久租借権をアメリカに認めました。パナマ運河は1914年に開通し、アメリカの海上覇権を象徴する存在となりました。
  • タフトの「ドル外交」: ルーズベルトの後を継いだタフト大統領は、軍事的な介入だけでなく、アメリカの資本(ドル)を投下し、借款を与えることを通じて、ラテンアメリカ諸国を経済的に支配しようとしました。この**「ドル外交(Dollar Diplomacy)」**の下で、アメリカの銀行や企業(ユナイテッド・フルーツ社など)は、ニカラグアやホンジュラスといった中央アメリカ諸国(いわゆる「バナナ共和国」)の経済を支配し、自社の利益を守るためには、しばしば海兵隊の派遣を政府に要請しました。

10.2. メキシコ革命:ナショナリズムの覚醒

アメリカの支配に対する、ラテンアメリカ側の最初の大きな抵抗運動が、1910年に始まったメキシコ革命です。これは、ディアス長期独裁政権の打倒を目指す政治革命として始まりましたが、やがて、農地改革を求めるサパタやビリャといった農民指導者が主導する、深刻な社会革命へと発展しました。

革命は、10年以上にわたる内戦を経て、1917年に制定された新憲法にその成果を結実させました。このメキシコ1917年憲法は、当時としては世界で最も進歩的な内容を持つものでした。

  • 土地改革: 教会や大土地所有者が独占していた土地を解体し、農民共同体(エヒード)へ分配することを定めた。
  • 資源の国有化: 土地の地下に埋蔵されている石油などの天然資源は、すべて国家の所有物であると宣言した。
  • 労働者の権利: 8時間労働制やストライキ権といった、労働者の基本的な権利を保障した。

この憲法、特に資源の国有化政策は、メキシコ国内の石油利権を独占していたアメリカやイギリスの石油資本と真っ向から対立するものでした。アメリカは、革命の過程で何度も軍事介入を行いましたが、最終的には、カルデナス大統領が1938年に石油産業の国有化を断行し、メキシコは経済的自立への大きな一歩を踏み出しました。メキシコ革命は、ラテンアメリカにおける反米・反帝国主義ナショナリズムの先駆けとなりました。

10.3. 善隣外交から冷戦下の反共政策へ

1929年の世界恐慌後、アメリカの外交政策は一時的に変化を見せます。フランクリン・ローズヴェルト大統領は、高圧的な介入政策が、かえってラテンアメリカの反米感情を煽り、アメリカの利益を損なっていると判断し、**「善隣外交(Good Neighbor Policy)」**を提唱しました。これは、軍事介入を控え、各国との対等な関係を築き、経済的な協力を通じて影響力を維持しようとするものでした。プラット条項の廃止や、ハイチからの海兵隊の撤退など、この政策は一定の成果を上げ、第二次世界大戦中には、多くのラテンアメリカ諸国が連合国側としてアメリカに協力しました。

しかし、第二次世界大戦後、世界が米ソ冷戦の時代に突入すると、アメリカのラテンアメリカ政策は、再び大きく変貌します。アメリカは、ラテンアメリカを、ソ連の共産主義が浸透するのを防ぐための、反共の砦と見なすようになりました。

この反共政策の下で、アメリカは、自国の経済的利益を脅かしたり、少しでも社会主義的な傾向を見せたりする、民主的に選ばれた改革派政権であっても、容赦なく転覆させるようになります。中央情報局(CIA)が裏で画策したクーデターの例として、以下が挙げられます。

  • 1954年グアテマラ: ユナイテッド・フルーツ社の土地を接収しようとした、改革派のアルベンス政権を転覆させた。
  • 1973年チリ: 社会主義者のアジェンデ大統領を標的とし、ピノチェト将軍による軍事クーデターを支援した。

アメリカは、これらの国々で、人権を弾圧する独裁的な親米軍事政権を支援・擁護しました。その一方で、1959年にキューバ革命を成功させたカストロ政権に対しては、経済封鎖やピッグス湾侵攻事件、そして世界を核戦争の瀬戸際に立たせたキューバ危機(1962年)など、敵対政策を続けました。

20世紀を通じて、アメリカのラテンアメリカに対する政策は、自国の戦略的・経済的利益を最優先するものであり続けました。それは、覇権主義的な介入と、協調的な外交の間を揺れ動きながら、ラテンアメリカ諸国の政治と経済に、深く、そしてしばしば悲劇的な影響を及ぼし続けたのです。


Module 14:南北アメリカ大陸の総括:「遭遇」と「創造」が織りなす新世界の光と影

本モジュールは、南北アメリカ大陸が、ヨーロッパ人による「遭遇」によって、その運命を根底から覆され、全く新しい社会と文明が「創造」されていく、光と影に満ちた壮大な歴史の物語を追ってきました。それは、失われた古代文明への哀悼であり、世界を変えた生態学的革命の記録であり、そして現代世界の構造を規定した、冷徹な支配と絶え間ない抵抗のドラマでもあります。

コロンブス以前のアメリカ大陸は、孤立した「新世界」ではなく、メソアメリカとアンデスに代表される、独自の宇宙観と社会システムを持つ、成熟した「古の世界」でした。しかし、この世界は、鉄と馬、そして何よりも目に見えない病原体という武器の前に、あまりにもろく崩れ去りました。この文明の断層の上に、スペインとポルトガルは、エンコミエンダ制、アシエンダ制、そしてプランテーションという、徹底した搾取のシステムを築き上げ、本国の富の源泉としました。

「コロンブス交換」は、このプロセスが地球規模でいかにダイナミックであったかを物語っています。ジャガイモがヨーロッパの飢饉を救い、銀が世界経済を動かす一方で、アフリカ大陸は、プランテーションの労働力需要を満たすために、数世紀にわたりその最も活力ある人々を奪われ続けました。こうして、先住民、ヨーロッパ人、アフリカ人という三つの異なる出自を持つ人々が、極めて不平等な関係性の下で混ざり合い、今日のラテンアメリカに見られる、複雑で豊かな、しかし同時に深い社会的亀裂を抱えたクレオール(混血)文化が創造されたのです。

19世紀の独立は、この大陸に新たな幕開けを告げました。しかし、ラテンアメリカの独立が、支配者の交代に留まり、植民地時代の社会構造を温存したのに対し、アメリカ合衆国は、「明白な天命」の旗印の下、先住民を犠牲にしながら西へ突き進み、自らの国家のあり方を賭けた南北戦争という血の洗礼を経て、巨大な大陸国家として統合を成し遂げました。

そして20世紀、この力関係の逆転は、アメリカによるラテンアメリカへの覇権主義的な介入という、新たな支配の構図を生み出します。自由と民主主義の擁護者を自任するアメリカが、その「裏庭」では、自国の利益のために独裁政権を支援するという矛盾は、両者の関係に、今なお消えない不信と緊張の影を落としています。

南北アメリカ大陸の歴史を学ぶことは、近代世界が、いかにして暴力的な征服と経済的搾取、そして人種的偏見を土台として形成されてきたかを直視することに他なりません。同時にそれは、その過酷な歴史の中から、新しい文化が生まれ、独立と解放を求める人々の闘いが、繰り返し歴史の扉をこじ開けてきたことを知る、希望の探求でもあるのです。

目次