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【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 20:メディアとジャーナリズムの歴史
本モジュールの目的と構成
情報は、いつの時代も社会を動かす根源的な力を持ってきました。ある情報を誰が、どのように生み出し、いかなる手段で、誰に届けるのか。その構造は、その時代の権力関係、技術水準、そして人々の世界認識そのものを映し出す鏡と言えるでしょう。本モジュールは、古代の素朴な情報伝達から現代のデジタルネットワーク社会に至るまで、日本におけるメディアとジャーナリズムの壮大な変遷を時代横断的に探求します。
この学びは、単に「瓦版」「新聞」「ラジオ」といった個別のメディアの歴史を暗記することに留まりません。その真の目的は、情報技術の革新が社会構造をいかに変え、為政者がいかに情報を統制し、民衆がいかに情報を受容し、そして時には言論の力がいかに時代を動かしてきたか、そのダイナミックな相互作用を解き明かすための「知のレンズ」を獲得することにあります。この歴史的視座を手にすることで、私たちは現代社会に溢れる情報の洪水の中で、その本質を見抜くための羅針盤、すなわち歴史に裏打ちされたメディア・リテラシーを鍛え上げることができるのです。情報の発信者と受信者が絶えず入れ替わり、真実と虚偽が瞬時に拡散される現代において、この能力は、健全な市民社会の一員として思考し、行動するための不可欠な知的武装となるでしょう。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、日本のメディア史を体系的に、そして深く解き明かしていきます。
- 古代・中世の情報伝達: 文字と権力が結びつき、情報がごく一部の特権階級に独占されていた時代の構造を解明します。口承文化の社会における役割と、情報伝達の物理的限界が、当時の分権的な社会をいかに規定したかを探ります。
- 近世の瓦版: 木版印刷技術が、都市の民衆に初めて「ニュース」という概念を届けた時代の幕開けを分析します。庶民の情報への渇望と、それに対する幕府の統制のせめぎ合いの中に、近代ジャーナリズムの萌芽を見出します。
- 明治の新聞・雑誌: 活版印刷という名の黒船がもたらしたジャーナリズムの誕生を詳述します。文明開化の旗手として、あるいは政府を批判する先鋒として、近代国家の形成期に新聞が果たした二重の役割を考察します。
- 自由民権運動と政論新聞: 言論が国民を覚醒させ、政府と対峙するための「武器」となった時代の熱気を追体験します。政府の苛烈な弾圧と戦いながら、国民の政治参加を訴え続けたジャーナリストたちの闘争の軌跡を描き出します。
- 日清・日露戦争とナショナリズム: 戦争報道が、いかにして国民を一つの「国家」へと束ね、ナショナリズムという強力なイデオロギーを植え付けたのか。ジャーナリズムとナショナリズムが結びついた、その輝かしい高揚と危険な共犯関係を検証します。
- 大正期の総合雑誌: 大正デモクラシーの自由な空気の中で花開いた、教養と大衆文化の交差点を概観します。知識人による「論壇」を形成し、時代の思潮をリードした総合雑誌の黄金時代とその文化的意義を探ります。
- ラジオ放送の開始: 「声」が全国津々浦々に同時に届くという革命的メディアの登場を描きます。ラジオがもたらした情報の同時性と画一性が、国民文化の形成、そして来るべき時代の社会統制に与えた光と影を明らかにします。
- 戦時下の報道: ペンが銃に屈し、すべてのメディアが国家のプロパガンダ機関と化した暗黒時代を検証します。情報がどのように国民を戦争へと動員する凶器となり得たのか、その情報統制のシステムとメカニズムに深く迫ります。
- 戦後の言論の自由: 敗戦と占領を経て、日本国憲法の下で「表現の自由」を回復したジャーナリズムの再出発を分析します。GHQによる検閲から、安保闘争における役割まで、その理想と現実に横たわる数々の葛藤を浮き彫りにします。
- テレビとインターネット: 映像が社会を席巻した「一億総中流」の時代から、誰もが情報の受信者かつ発信者となった現代へ。マスメディアの黄昏と、デジタルネットワークがもたらした新たな可能性、そして深刻な課題を総合的に展望します。
この壮大な歴史の旅を通じて、皆さんはメディアというフィルターを通して日本史を再構築する新たな視点を獲得するでしょう。それは、現代社会を生きる私たち一人ひとりが、情報といかに向き合うべきかを問い直すための、知的で実践的な方法論となるはずです。
1. 古代・中世の情報伝達
現代社会が情報の即時性と遍在性によって特徴づけられるとすれば、日本の古代・中世は、情報の希少性と物理的制約によって規定された社会であったと言えます。情報伝達の手段、速度、範囲が社会構造そのものを形作り、権力の源泉となっていました。この時代のコミュニケーションのあり方を深く理解することは、後の時代に登場するメディアがいかに革命的な存在であったかを認識するための、不可欠な礎石となります。
1.1. 文字の導入と情報独占体制の確立
日本列島における情報伝達の歴史において、最初のそして最大の技術革新は「文字」の導入でした。しかし、この革新は万人に開かれたものではなく、むしろ新たな支配の道具として、情報の独占体制を確立する方向へと機能しました。
1.1.1. 漢字の受容と国家統治の神経網
漢字の本格的な受容が始まる5世紀から6世紀にかけて、それは外交や交易といった国家間のコミュニケーションに限定された特殊技能でした。文字を操る渡来系の氏族や書記官(史部)は、いわば国家の最重要機密を扱う専門家集団であり、その知識は厳重に管理されていました。
この状況が一変するのが、7世紀後半から8世紀にかけての律令国家建設期です。天武・持統朝以降、中央集権的な官僚国家を築き上げる過程で、文字は国家を運営するための不可欠なOS(オペレーティング・システム)となります。全国の人民を戸籍によって把握し、律令という法典によって統治し、租庸調という税を徴収する。この巨大な統治システムは、すべて文字による記録と命令伝達なしには成り立ちません。中央から地方の国府へ送られる「官符」、地方から中央へ提出される「解」といった膨大な行政文書が、国家の神経網として列島を駆け巡りました。
この時代の情報の流れは、徹頭徹尾、中央から地方への一方通行であり、情報の独占こそが権力の源泉でした。その象徴が、国家事業として編纂された『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)です。これらは単なる歴史書ではありません。天皇家の祖先が神々につながり、万世一系で国を治めるという支配の正統性を、文字の力で物語として構築し、確定させるための壮大なプロパガンダでした。情報を編纂し、公式の「正史」として独占する行為そのものが、他の有力豪族に対する天皇家の優位性を決定づける、極めて高度な政治的戦略だったのです。
また、平城京跡から出土する膨大な木簡は、この文字による支配システムの実態を雄弁に物語ります。諸国から貢納される物品の荷札、役人の勤務評価、さらには物品の貸借記録まで、あらゆる行政の末端が文字によって管理されていました。この緻密な情報管理ネットワークは、文字を解する官人層と、文字を持たず、ただ支配される大多数の農民との間に、越えがたい知識の格差、すなわち権力勾配を生み出しました。
1.1.2. 仏教寺院という「知の集積地」
律令国家における情報独占のもう一方の担い手は、仏教寺院でした。仏教の伝来は、単なる新しい宗教の到来ではなく、経典という形で高度に体系化された膨大な文字情報と、それを読解・複製する知的システムの移入を意味しました。
聖武天皇が発した国分寺・国分尼寺建立の詔は、鎮護国家思想の現れであると同時に、全国的な情報ネットワークの構築事業でもありました。各地の国分寺に設置された写経所は、中央から送られる経典を正確に筆写し、保存・研究する拠点となりました。この過程で、僧侶という、官僚とは別系統の知的エリート層が全国規模で養成されていきます。
寺院は、仏教の教義のみならず、天文学や暦学、医学、建築技術といった大陸由来の最先端の知識と技術が集積される、古代の「シンクタンク」であり「大学」でした。遣唐使が命がけで持ち帰った最新情報は、まず宮中の書庫と大寺院の経蔵に収められ、そこで専門家によって分析・解釈された後、国家統治に資する形で限定的に利用されました。このように、古代国家の情報は、朝廷(俗)と寺院(聖)という二つの極に集約され、支配層の内部で厳格に管理されていたのです。この情報の非対称性こそが、律令国家の安定を支える基盤の一つでした。
1.2. 口承文化の重層性と物理的限界
文字情報が支配層に独占されていた一方で、人口の圧倒的多数を占める庶民の世界では、情報は「口」から「耳」へと伝えられる口承文化が支配的でした。しかし、それは単に文字を知らないことによる代替手段ではなく、独自の機能と社会的役割を持つ、重層的な世界でした。
1.2.1. 語り部の記憶と芸能者の伝播力
文字が普及する以前の社会では、共同体の記憶は個人の脳内に保存され、語りという行為を通じて世代間で継承されていきました。共同体の成り立ちを語る神話、祖先の系譜、村の掟や慣習法、農作業の知恵や天候の予測といった、生活に不可欠な情報は、記憶の専門家である「語り部」によって、儀礼や祭りの場で繰り返し語られました。『古事記』の編纂において、稗田阿礼が記憶していた内容を太安万侶が書き記したという序文の記述は、国家が口承文化の膨大な蓄積を、文字の力で吸い上げ、自らの支配の物語へと再編していく象徴的な過程を示しています。
中世に入ると、情報を伝播させる新たな担い手が登場します。それが、琵琶法師に代表される芸能者たちです。彼らは、各地を遍歴しながら、『平家物語』のような軍記物語を抑揚豊かに語り聞かせました。これは、単なる娯楽の提供に留まりません。遠い都で起きた源平の争乱という大事件の顛末、権力者の栄枯盛衰、そして仏教的な無常観といった高度な情報を、文字の読めない地方の武士や民衆にまで届ける、中世における一種の「放送メディア」でした。彼らの語りによって、人々は地域を超えた共通の物語世界を共有し、自らの生きる時代を相対化する視点を獲得したのです。
1.2.2. 情報伝達の速度と社会の分節化
口承にせよ文字にせよ、この時代の情報伝達は、現代人が想像を絶するほどの物理的・時間的制約の中にありました。律令国家が整備した官道と駅制は、公的な使者や文書を運ぶためのインフラでしたが、その速度は決して速くはありませんでした。中央の太政官で決定された重要事項が、九州の大宰府に届くまでには、最速でも半月以上を要したとされています。
鎌倉幕府は、京都の朝廷の動向を監視し、鎌倉へ迅速に報告するための飛脚制度を整備しましたが、それでも承久の乱(1221年)の際、京都での変報が鎌倉に届くまでに4日、幕府軍の勝利が京都に伝えられるまでに7日を要しました。このタイムラグは、情報が持つ決定的な戦略的価値を物語っています。
このような情報の伝達速度の遅さは、社会のあり方を根本的に規定しました。中央の権力は、距離が遠くなるにつれて必然的に減衰し、それぞれの地域は高い自立性を持たざるを得ません。荘園という閉鎖的な経済単位が各地に存在し、そこに住む人々は、領主への年貢さえ納めていれば、中央で何が起きていようとほとんど関心を持たずに生活していました。人々のアイデンティティは「日本人」という漠然としたものではなく、自分が所属する荘園や郷、あるいは「家」といった、より具体的で身近な共同体に強く根差していました。社会は、情報網の未発達によって、モザイク状に分節化されていたのです。
1.2.3. 高札という限定的な公共メディア
では、支配層は民衆にどのようにして情報を公示していたのでしょうか。そのための数少ないメディアが「高札(こうさつ)」でした。市場や寺社の門前、関所といった人々が多く集まる場所に立てられた木の掲示板に、法令や禁制、年貢の取り立て、犯罪人の手配といった情報が墨書されました。これは、不特定多数に向けた最初の公共メディアの試みと言えます。
しかし、高札の効果もまた限定的でした。識字率が極めて低い社会では、そこに何が書かれているかを理解するためには、読み聞かせてくれる仲介者(僧侶や村役人など)の存在が不可欠でした。情報は、支配者から民衆へ直接届くのではなく、常に地域の有力者を介して間接的に、そしてしばしば意図的に解釈を加えられて伝達されたのです。
古代から中世にかけての約1000年間、情報は希少であり、遅く、そして歪みやすいものでした。この情報のあり方が、分権的で、重層的で、そして変化の遅い社会を規定していました。この堅固な構造に最初の風穴を開けることになるのが、近世における印刷技術の商業的な普及、すなわち瓦版の登場でした。
2. 近世の瓦版
中世までの情報が一部の特権階級によって厳格に管理され、庶民にとっては縁遠いものであった状況は、近世、特に江戸時代に入ると劇的に変化します。その原動力となったのは、都市の爆発的な発展、商業資本の成熟、そして木版印刷技術の普及でした。この三つの要素が結びついた時、日本史上初めて、不特定多数の民衆をターゲットとした商業ニュースメディア「瓦版」が誕生します。それは、信憑性に乏しく、扇情的で、政治的には無力な存在でしたが、庶民が初めて手にした「社会の出来事」であり、近代ジャーナリズムへとつながる長い道のりの、確かな第一歩でした。
2.1. 瓦版を生んだ社会的土壌
瓦版の登場は、単なる技術的な発明の結果ではありません。それを受け入れ、消費する、成熟した都市社会が存在したことが不可欠な前提でした。
2.1.1. 商業出版の隆盛と技術的基盤
木版印刷技術そのものは古くから存在しましたが、それが一部の宗教的な出版物や学術書の制作から、巨大な商業的産業へと飛躍を遂げたのが江戸時代でした。17世紀後半、井原西鶴の浮世草子や近松門左衛門の浄瑠璃正本、菱川師宣の浮世絵といった、町人自身の生活や欲望を主題とする大衆的な出版物が大ブームとなります。
この商業出版の隆盛は、瓦版が成立するための重要なインフラを整備しました。
- 技術者の育成: 優れた文章を書く戯作者、目を引く絵を描く絵師、文字や絵を版木に彫る彫師、そしてそれを紙に刷る刷師といった、高度な専門技術を持つ職人集団が形成されました。
- 流通網の確立: 版元(出版社)と、本を販売する書物問屋、そして全国に本を届ける流通ネットワークが確立されました。
- 読者層の形成: 本を買い、読むという文化が、武士階級だけでなく、豊かな町人層にまで広く浸透しました。
瓦版は、この成熟した出版産業のシステムを応用し、より速報性と大衆性に特化したニッチなメディアとして誕生したのです。事件が起これば、既存の出版ネットワークに属する戯作者や絵師が即座に動員され、短時間で制作・販売することが可能でした。
2.1.2. 都市の発展と庶民の識字率
江戸、大坂、京都の三都をはじめとする城下町の発展は、膨大な人口を集中させ、人々の生活と思考様式を大きく変えました。農村の共同体的な社会とは異なり、都市は匿名性の高い、流動的な社会です。人々は、自分たちの身の回りで起こる様々な出来事、すなわち「ニュース」に対して強い好奇心を抱くようになります。
この情報需要を支えたのが、世界的に見ても驚異的に高かったとされる江戸時代の識字率です。武士にとっては読み書きは必須の素養でしたが、商業活動が経済の根幹をなす町人にとっても、帳簿の記録や契約書の作成、手紙のやり取りのために、読み書きそろばんの能力は不可欠でした。全国に数万存在したと言われる寺子屋は、身分を問わず庶民の子弟に実用的な教育を施し、瓦版のような安価な印刷メディアを享受できる、巨大な読者市場を創出したのです。瓦版にしばしば振られた「ふりがな」は、初学者でも内容が理解できるようにという、版元の商業的な配慮の現れでした。
2.2. 「ニュース」の誕生:瓦版の内容と特性
「瓦版」という名称は、粘土瓦に彫って印刷したという説など諸説ありますが、一般的には木版一枚刷りの時事報道印刷物を指します。その内容は、極めて特徴的でした。
2.2.1. 災害、事件、奇談という三大コンテンツ
瓦版が取り上げたテーマは、政治的な論評や経済の動向といった硬派なものではなく、もっぱら庶民の感情に直接訴えかける、センセーショナルな出来事に集中していました。
- 災害・天変地異: 「火事と喧嘩は江戸の華」と川柳に詠まれたように、木造家屋が密集する江戸では火事が頻発しました。特に、江戸市中の大半を焼き尽くした明暦の大火(1657年)は、その被害の甚大さから繰り返し瓦版で報じられ、人々の記憶に深く刻まれました。その他、地震、津波、噴火、あるいは彗星の出現といった天変地異は、人々の根源的な不安を刺激し、高い関心を集める定番のテーマでした。
- 事件・スキャンダル: 庶民の最大の関心事は、やはり人間の愛憎が絡む事件でした。身分違いの恋の果ての心中事件(近松門左衛門の『曽根崎心中』のモデルとなった事件など)や、武家の御家騒動、大奥を舞台とした情痴事件(絵島生島事件など)は、瓦版によってスキャンダラスに報じられ、町中の噂を独占しました。これらの事件は、しばしば歌舞伎や浄瑠璃の題材となり、瓦版と芸能が相互に作用しあって、一大メディア・イベントを形成しました。
- 奇談・珍聞: 黒船来航の際には、巨大な蒸気船の絵図や、異様な風貌のペリー提督の似顔絵が、誇張と想像を交えて描かれました。これは、未知なるものへの恐怖と好奇心が入り混じった、当時の人々の心情をよく表しています。その他にも、異形の赤ん坊が生まれた話、人魚が打ち上げられた話、異国から珍しい動物(象など)がやってきた話など、人々の好奇心をくすぐるトピックは、格好の商材となりました。
これらのコンテンツに共通するのは、非日常性、感情への訴求力、そして視覚的なインパクトです。瓦版は、事実を客観的に伝えることよりも、読者の驚きや同情、恐怖といった感情を引き出すことを第一の目的とする、極めてエンターテイメント性の高いメディアだったのです。
2.2.2. 速報性とメディアとしての未熟さ
瓦版の最大の武器は、その速報性でした。大事件が発生すると、版元は迅速に取材(多くは噂話の収集)を行い、絵師と戯作者が絵と文を制作し、彫師と刷師が昼夜兼行で印刷にあたりました。完成した瓦版は、「読売(よみうり)」と呼ばれる専門の販売人が、内容を節面白く読み上げながら、威勢のいい声で町中を売り歩きました。この一連のシステムにより、事件発生からわずか1日か2日で情報を届けることも可能だったと言われます。これは、口コミ以外に速報メディアが存在しなかった時代において、画期的なことでした。
しかし、瓦版は近代的なジャーナリズムの観点から見れば、多くの未熟さを抱えていました。第一に、不定期性です。大きな事件がなければ発行されず、継続的に社会を観察する視点はありませんでした。第二に、匿名性です。発行元や制作者の名が記されることは稀で、記事内容に対する責任の所在が曖昧でした。これが、誇張や虚報が横行する温床ともなりました。そして第三に、最も決定的な限界が、政治的制約です。
2.3. 権力との共存:幕府の情報統制
瓦版が、時の政治や幕府の政策を直接批判することは、決してありませんでした。それは、幕府による厳しい出版統制が存在したからです。
幕府は、享保の改革期(1722年)などに繰り返し出版物に対する禁令を出し、風紀を乱す好色本や、幕政を批判したり、社会の不安を煽ったりする出版物を厳しく取り締まりました。瓦版もその例外ではなく、幕府の失政を暗示するような内容や、武家のスキャンダルを過度に面白おかしく報じたものは、版木没収や関係者の処罰といった厳しい処分を受けました。
瓦版が扱うテーマが、天災や心中、奇談といった、比較的政治的色彩の薄いものに集中していたのは、この幕府の統制を自覚し、その網の目をかいくぐるための、版元たちの自己防衛的な知恵でもありました。彼らは、権力と正面から対決するのではなく、許された範囲の中で最大限の商業的利益を追求するという、巧みな生き残り戦略をとったのです。
しかし、幕末の動乱期になると、この関係性にも変化が生じます。桜田門外の変(1860年)で大老・井伊直弼が暗殺された際、幕府は厳重な報道管制を敷きましたが、事件の詳細を描いた瓦版が非合法に大量に出回り、幕府の権威失墜を白日の下に晒しました。統制の網が緩み、社会が動揺する中で、瓦版は期せずして、体制の変動を告げる役割を担ったのです。
総じて、近世の瓦版は、ジャーナリズムの前史として重要な位置を占めます。それは、日本史上初めて、情報が「商品」として不特定多数の民衆に販売され、一つの産業として成立したことを示しています。瓦版によって喚起された庶民の情報への渇望と、それを消費する文化的習慣は、明治時代に活版印刷技術と出会うことで、近代的な新聞・雑誌へと発展するための、豊穣な土壌となったのです。
3. 明治の新聞・雑誌
1868年の明治維新は、日本を封建社会から近代国民国家へと作り変える、壮大な社会実験の始まりでした。この「近代化」という至上命題を遂行する上で、旧来の価値観を刷新し、西洋の進んだ知識や制度を国民に伝え、新たな国民意識を形成するための強力な道具が必要とされました。その役割を担ったのが、西洋から導入された活版印刷技術によって生み出された、新聞と雑誌という全く新しいメディアでした。これらは、瓦版の延長線上にあるものではなく、国家の形成と並行して、社会の公論を形成し、国民を啓蒙し、そして時には政府と対峙する、近代社会に不可欠な新しい社会的装置として誕生したのです。
3.1. 活版印刷という革命とジャーナリズムの誕生
明治初期のジャーナリズムの勃興は、技術革新と、新しい国づくりに燃える知識人たちの情熱という二つの車輪によって駆動されました。
3.1.1. 技術の革新:木版から活版へ
瓦版に用いられた木版印刷は、一枚の板に絵と文字を彫り込むため、制作に時間がかかり、大量印刷にも向きませんでした。これに対し、西洋から導入された活版印刷は、鉛でできた活字を一つひとつ組み合わせて版を作るため、文字の修正や組み替えが容易で、印刷速度も格段に速いという革命的な技術でした。
この技術の国産化に尽力したのが、長崎で印刷所を営んでいた本木昌造です。彼の門下生たちは、東京や大阪、横浜といった主要都市で印刷会社を設立し、日本の近代ジャーナリズムの技術的なインフラを築き上げました。
この新技術を用いて、1871年(明治4年)に創刊された**『横浜毎日新聞』が、日本初の日刊新聞とされています。開港地・横浜という土地柄を反映し、当初は貿易の相場や海外のニュースといった実用的な情報が中心でした。その後、東京では政府に近い立場をとる『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、大阪では『大阪新聞』**(後の大阪毎日新聞)などが相次いで創刊され、新聞は近代都市に不可欠な情報インフラとして急速に普及していきます。
3.1.2. 大新聞と小新聞:ジャーナリズムの二極分化
明治初期の新聞は、その内容や読者層によって、大きく二つのタイプに分かれていました。
- 大新聞(おおしんぶん): 政治や経済、外交問題を真正面から論じる、硬派な政論新聞でした。読者層は、政府の官僚や知識人、実業家といったエリート層に限られ、文体も漢文の素養を前提とした格調高いものでした。福地源一郎が率いた『東京日日新聞』などがその代表です。大新聞は、世論を形成し、政府の政策に影響を与えることを自らの使命と考えていました。
- 小新聞(こしんぶん): 瓦版の伝統を受け継ぎ、市井の事件や犯罪、ゴシップ、人情話などを、平易な文章とふりがな付きで報じる大衆向けの新聞でした。挿絵を多用し、読者が興味を引くような扇情的な見出しを掲げるなど、エンターテイメント性を重視していました。仮名垣魯文が主筆を務めた**『かなよみ新聞』や、創刊当初の『読売新聞』、『朝日新聞』**などがこれにあたります。小新聞は、大新聞が相手にしなかった庶民層に、文字を読む習慣を広げ、社会への関心を持たせるという点で、重要な役割を果たしました。
この大新聞と小新聞という二極分化は、ジャーナリズムが「論壇の形成」と「大衆の啓蒙・娯楽」という二つの異なる機能を担いながら発展していったことを示しています。
3.2. 文明開化の旗手としての役割
明治政府のスローガンであった「文明開化」とは、西洋の文物や制度を導入し、封建的な精神構造から脱却することを目指す、国民的な文化革命でした。この運動において、新聞や雑誌は、新しい知識と価値観を国民に伝える、最も重要な伝道師の役割を担いました。
3.2.1. 明六社と『明六雑誌』
その象徴が、1873年(明治6年)に森有礼、福沢諭吉、西周、中村正直といった当代一流の啓蒙思想家たちによって結成された明六社と、その機関誌である**『明六雑誌』**です。
この雑誌の誌面では、西洋の政治哲学、経済学、法制度、教育思想などが、極めて高いレベルで紹介・議論されました。彼らは、身分制度や男尊女卑といった封建的な道徳を厳しく批判し、天賦人権思想や個人の独立、学問の重要性を説きました。例えば、中村正直はジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を翻訳・紹介し、個人の自由が社会の発展にとっていかに重要であるかを論じました。
『明六雑誌』は、発行部数こそ3000部程度でしたが、その読者層は地方の役人や教員、意欲ある青年層であり、彼らを通じて雑誌で論じられた新しい思想は、全国に大きな影響を及ぼしました。それは、近代日本の知的基盤を築く上で、計り知れない貢献を果たしたと言えます。
3.2.2. 福沢諭吉とジャーナリズムの理想
明六社のメンバーの中でも、特にジャーナリズムの社会的使命を深く理解し、実践したのが福沢諭吉でした。彼は、ベストセラーとなった『学問のすゝめ』や『西洋事情』で平易な言葉で近代思想を説くだけでなく、1882年(明治15年)には自ら新聞**『時事新報』**を創刊します。
福沢が掲げた理念は**「不偏不党」**、すなわち政府や特定の政党から金銭的な支援を受けず、独立した立場から是々非々の論陣を張るというものでした。これは、新聞が権力から独立した「第四の権力」として、社会の公器となるべきだという、近代ジャーナリズムの理想を日本で初めて明確に打ち出したものでした。彼は、事実に基づかない党派的な煽動を厳しく戒め、国民が冷静な判断を下すための材料を提供することこそ、新聞の責務であると考えたのです。
3.3. 政府による統制との相克
しかし、ジャーナリズムが社会的な影響力を持つにつれて、明治政府はそれを自らの統制下に置こうとします。言論の自由な発展は、常に政府との厳しい緊張関係の中にありました。
1875年(明治8年)、政府は讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例という、二つの強力な言論弾圧法を制定します。讒謗律は、真実であるか否かを問わず、政府高官を批判・誹謗中傷した者を厳罰に処すというものでした。新聞紙条例は、新聞の発行を許可制とし、内務卿(警察を管轄する大臣)に、政府に不都合な記事の掲載禁止や、新聞の発行停止を命じる絶大な権限を与えました。
これらの法律によって、多くの反政府的な論調の新聞記者や編集者が逮捕・投獄され、新聞社が発行停止に追い込まれました。政府は、新聞を文明開化を推進する道具としては利用しつつも、自らの施政に対する批判者となることは決して許さないという、硬軟両様の姿勢を示したのです。
この政府による弾圧は、ジャーナリズムに大きな萎縮効果をもたらしましたが、同時に、一部のジャーナリストたちの反骨精神に火をつけました。政府の圧力に屈せず、言論の自由のために戦うべきだという気運が高まっていきます。この政府とジャーナリズムの対立が、次の時代、自由民権運動の激化とともに、日本のメディア史における最初のクライマックスを迎えることになるのです。
4. 自由民権運動と政論新聞
明治政府が主導する「上からの近代化」に対し、国民の側から政治参加の権利を求め、国会の開設と憲法の制定を要求する一大政治運動、それが自由民権運動です。1870年代から80年代にかけて全国を席巻したこの運動において、新聞は、単に出来事を報じる媒体にとどまらず、運動の理念を国民に訴え、同志を組織し、政府の弾圧と対峙するための最も強力な「武器」として機能しました。この時代の「政論新聞」と呼ばれるメディアの闘いは、日本のジャーナリズムが初めて政治の表舞台に立ち、言論の力で社会を変えようとした、情熱と理想に満ちた時代として記憶されています。
4.1. 言論の力:運動の拡大と政論新聞
自由民権運動の狼煙は、一本の記事から上がりました。1874年(明治7年)、征韓論を巡る政争に敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平らが政府に提出した**「民撰議院設立建白書」**です。この建白書が、イギリス人が発行する新聞『日新真事誌』に掲載されると、その衝撃的な内容は瞬く間に全国の知識人層に伝播し、「国会を開設すべきだ」という世論に火をつけました。この出来事は、新聞という新しいメディアが、政治的なアジェンダを設定し、世論を喚起する絶大な力を持つことを、世に知らしめた瞬間でした。
4.1.1. 政治結社の機関紙としての役割
建白書の提出を契機に、全国各地で民権思想を掲げる政治結社(政社)が雨後の筍のように結成されます。高知の立志社、岡山の嚶鳴社などがその代表です。そして、これらの政社の多くが、自らの主張を広め、組織を拡大するための機関紙として、独自の新聞を創刊・支援しました。
これらの新聞は、特定の事件を報じることよりも、国会開設の必要性、憲法のあり方、地租軽減の要求、不平等条約改正の断行といった政治的なテーマについて、激しい論陣を張ることを主目的としていたため、**「政論新聞」**と呼ばれます。
- 『朝野新聞』: 社長の成島柳北は、漢文調の格調高い文章の中に、巧みな風刺を織り交ぜて政府の藩閥政治を批判し、知識人層から絶大な人気を博しました。
- 『郵便報知新聞』(後の報知新聞): 当初は駅逓頭(郵便行政のトップ)であった前島密が創刊に関わり、後に三菱財閥の支援を受け、大隈重信率いる立憲改進党の立場に近い論調を展開しました。
- 『自由新聞』: 1881年に結成された日本初の本格的政党である自由党の機関紙として、板垣退助を支持し、フランス流の急進的な民権思想を主張しました。
これらの政論新聞は、演説会と並んで、自由民権運動の理念を全国に浸透させるための二大エンジンでした。特に、地方の豪農層や元士族といった、運動の中核を担う人々の多くがこれらの新聞を購読し、そこで得た知識や論理を元に、地域での運動を展開していきました。新聞を読むという行為を通じて、人々は、自分たちが単に上からの命令に従う「百姓」ではなく、国家のあり方について発言する権利を持つ「国民」なのだという、新しい自己認識を形成していったのです。
4.2. 政府の弾圧との熾烈な闘争
言論の力が無視できない政治勢力となることを恐れた明治政府は、讒謗律・新聞紙条例を最大限に活用し、民権派の新聞に対して徹底的な弾圧を加えます。この時代、ジャーナリストであることは、常に投獄の危険と隣り合わせの、文字通り命がけの職業でした。
4.2.1. 筆禍事件と不屈のジャーナリスト精神
政府を批判する記事を書いた記者が逮捕・投獄される**「筆禍(ひっか)」**事件が頻発しました。『朝野新聞』の成島柳北をはじめ、多くの著名なジャーナリストが監獄につながれ、新聞社は発行停止や罰金といった処分を受け、経営的に追い詰められていきました。
しかし、民権派のジャーナリストたちは、この弾圧に屈しませんでした。彼らは、政府の言論統制法を「悪法」と断じ、投獄されることすらも、自由のために戦う戦士の勲章であると考えました。監獄の中から社説を書き送る者、釈放されると再び同じ論調で筆を執る者など、その抵抗は極めて頑強でした。社長や主筆が投獄された場合に備え、代わりの編集者を何人も用意しておく新聞社も少なくありませんでした。これを彼らは「監獄部屋のスペア」と呼んだと言われます。
また、政府の検閲を巧妙にかわすための様々なレトリックも編み出されました。直接的な政府批判を避け、歴史上の暴君の話や、外国の革命の話に託して、間接的に藩閥政府の専制を風刺する手法はその典型です。この政府との「いたちごっこ」の中で、日本のジャーナリズムは、権力と対峙するための言論の技法を磨き上げていきました。
4.2.2. 明治十四年の政変と調査報道の黎明
政府と民権派の対立が頂点に達したのが、1881年(明治14年)の明治十四年の政変です。この政変の発端は、 mộtつの新聞スクープでした。
政府内で急進的なイギリス流議会政治の導入を主張していた参議・大隈重信に対し、伊藤博文ら薩長藩閥の主流派は、プロイセン(ドイツ)流の君主権の強い憲法制定を目指し、対立を深めていました。そのさなか、開拓使長官であった黒田清隆(薩摩藩出身)が、北海道の開拓事業に関わる政府の資産(官有物)を、同郷の政商・五代友厚らに、不当とも言える破格の安値で払い下げようとしているという疑惑が浮上します。
この開拓使官有物払下げ事件を、『東京横浜毎日新聞』などがスクープとして報じると、藩閥政府と政商の癒着に対する国民の怒りが爆発します。民権派の新聞は一斉に政府攻撃のキャンペーンを展開し、世論は激しく沸騰しました。
この予想外の世論の反発に追い詰められた政府は、払下げの中止を決定せざるを得なくなります。そして、この混乱の責任を大隈重信に押し付け、彼を政府から追放すると同時に、高まる国会開設要求の圧力をかわすため、「10年後の1890年に国会を開設する」という国会開設の勅諭を出しました。
この一連の出来事は、新聞の調査報道が政府の不正を暴き、世論を喚起し、最終的に政府の政策決定に重大な影響を与えた、日本のジャーナリズム史における画期的な事件でした。権力者の不正を暴くという、現代につながる調査報道の原型が、この時に生まれたのです。
4.3. 運動の衰退とジャーナリズムの変質
しかし、激しく燃え上がった自由民権運動も、政府によるさらなる弾圧の強化(集会条例の制定など)や、松方正義のデフレ政策による農村の疲弊、そして運動内部の路線対立(福島事件や加波山事件といった武装蜂起事件による急進化と孤立)によって、1880年代半ばには急速にその勢いを失っていきます。
運動の退潮は、それを支えてきた政論新聞のあり方にも大きな変化をもたらしました。多くの政論新聞は、特定の政党や政治家からの資金援助に頼っており、運動が下火になると深刻な経営難に陥りました。生き残りのため、多くの新聞は、声高な政治的主張を後退させ、より多くの読者を獲得できる事件報道や読み物、家庭記事などを増やす、商業主義的な路線へと転換を余儀なくされます。
かつて小新聞と見なされていた『朝日新聞』などが、不偏不党を掲げ、政治から社会風俗までを網羅する総合的な紙面作りで部数を伸ばし、全国的なマスメディアへと成長していくのは、この時期からです。
自由民権運動の時代は、ジャーナリズムが理想に燃え、国家権力と正面から対峙した、日本のメディア史上、稀有な時代でした。その闘いは、最終的には政府の強大な力の前に挫折に終わります。しかし、この時代の経験は、日本のジャーナリズムの中に「権力の監視」という重要な精神的伝統を深く刻み込みました。そして、この運動を通じて政治的に覚醒した「国民」のエネルギーは、次の時代、国家が対外戦争へと突き進む中で、ジャーナリズムによって全く新しい形で動員されていくことになるのです。
5. 日清・日露戦争とナショナリズム
自由民権運動の時代に、ジャーナリズムが政府と対峙する「武器」であったとすれば、1890年代から1900年代にかけての二度の対外戦争(日清戦争・日露戦争)の時代は、ジャーナリズムが国家と一体化し、国民を戦争へと動員する「楽器」となった時代でした。帝国議会の開設によって政党政治が制度化され、政治闘争の舞台が議会へと移る中で、新聞はかつての党派的な政論から距離を置き、より多くの読者を獲得するための商業化の道を歩み始めます。この流れを決定的に加速させたのが、戦争という国民的イベントでした。戦争報道は、新聞を巨大なマス・ビジネスへと成長させた一方で、その論調を愛国的・主戦論的なものへと染め上げ、近代日本のナショナリズム形成に決定的な役割を果たしました。
5.1. 戦争が創り出したマスメディア
日清戦争(1894-95年)は、日本の新聞界にとって、経営、技術、編集のあらゆる面で、まさに革命的な変化をもたらした一大転換点でした。
5.1.1. 速報競争と部数の爆発的増加
開戦の報と共に、国民の関心は一斉に大陸の戦況へと注がれました。人々は、自国の軍隊の勝利を伝えるニュースに熱狂し、新聞の需要は爆発的に増加しました。この「戦争特需」を捉えるため、各新聞社は社運を賭して、他社に先んじて情報を報じようとする熾烈な速報競争に突入します。
- 従軍記者の派遣: 新聞各社は、こぞって記者や画家を戦地へと派遣しました。彼らは「従軍記者」として軍と行動を共にし、戦闘の様子や兵士たちの奮闘ぶりを、臨場感あふれる筆致で本社の電信室へと送りました。彼らの記事は、国民に戦争を「我がこと」として体験させ、新聞の売り上げに直結しました。
- 通信・印刷技術の革新: 戦況を迅速に伝えるため、電信網が最大限に活用されました。また、増大する需要に応えるため、より高速で大量に印刷できる輪転機の導入が進むなど、新聞製作の技術も飛躍的に向上しました。
- 号外の発行: 戦勝の報など、一刻を争うニュースは「号外」として印刷され、街頭で配布されました。号外を配る自転車のベルの音は、戦争期の国民的な興奮を象徴するサウンドスケープとなりました。
この結果、『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』といった、もともと関西を拠点としていた新聞が、東京中心の新聞を凌ぐ勢いで部数を伸ばし、数十万部を発行する全国的なマスメİディアへと成長を遂げました。戦争は、近代的なマスメディア産業を日本に誕生させた、最大の触媒だったのです。
5.1.2. 視覚的プロパガンダ:戦争錦絵と写真
戦争報道のインパクトを絶大なものにしたのが、視覚メディアの活用でした。日清戦争の時点では、新聞に写真を掲載する技術はまだ一般的ではなかったため、**錦絵(浮世絵)**がその役割を担いました。
楊洲周延や小林清親といった人気絵師たちが描いた「戦争錦絵」は、戦闘場面を色鮮やかに、そして英雄的に描き出しました。これらの絵では、日本軍の将兵は常に勇敢で威風堂々とした姿で描かれる一方、敵である清国軍は、辮髪を振り乱して逃げ惑う、滑稽で卑小な存在として描写されるのが常でした。これらは、事実の記録というよりも、国民の戦意を高揚させ、敵国への蔑視を植え付けるための、極めて効果的な視覚的プロパガンダでした。
10年後の日露戦争(1904-05年)の時代になると、写真が報道の主役となります。戦場で撮影された写真が、新聞紙上や『日露戦争写真画報』のような専門誌に掲載され、そのリアリティは人々に大きな衝撃を与えました。しかし、これらの写真もまた、軍の厳格な検閲を経て公開されるものでした。日本軍の苦戦や、戦争の悲惨な実態を伝えるような写真は厳しく排除され、兵士たちの勇ましい姿や、整然とした行軍の様子、そして占領地での歓迎風景といった、戦争の「輝かしい」側面を切り取ったものが大半でした。結果として、写真は、錦絵と同様に、戦争の肯定的なイメージを国民に植え付ける役割を果たしたのです。
5.2. ジャーナリズムの国家との一体化
戦争という国家の非常事態において、ジャーナリズムが担うべき「権力監視」という機能は、ほぼ完全に停止しました。それに代わって、新聞は国家の目的と一体化し、戦争遂行に全面的に協力する「国威発揚」の担い手へとその姿を変貌させました。
5.2.1. 自発的な戦争協力と愛国的論調
当時の新聞を開くと、その論調は、今日の視点からは信じがたいほど、愛国的かつ主戦論的なもので一色でした。日本軍の勝利を「天佑」として賛美し、壮烈な戦死を遂げた兵士を「軍神」として祭り上げ、国民には「銃後の守り」として、貯蓄や慰問、そして耐乏生活を奨励しました。
驚くべきは、このような論調が、必ずしも政府や軍部からの直接的な命令や強制によるものではなく、むしろ新聞社側が自発的に、そして積極的に展開した側面が強いことです。その背景には、複合的な要因がありました。第一に、商業的判断です。国民の愛国心に訴えかける勇ましい報道こそが、最も新聞の部数を伸ばす確実な方法でした。第二に、国民感情との同化です。記者や編集者自身もまた、帝国臣民の一人として、国家の勝利を信じ、戦争を熱烈に支持していました。第三に、軍による情報統制です。そもそも従軍取材の許可や、戦況に関する情報の提供は、すべて軍の裁量下にありました。軍の方針に逆らうような報道をすれば、即座に取材の機会を奪われるため、新聞社は軍の意向に沿った報道を選択せざるを得なかったのです。
こうして、新聞は、戦争の正当性を国民に説き、厭戦気分を封じ込め、挙国一致体制を築き上げるための、事実上の国家プロパガンダ機関として機能しました。
5.2.2. ナショナリズムの醸成装置として
二度の対外戦争とその報道は、日本人の間に、近代的な「国民」としての一体感、すなわちナショナリズムを醸成する上で、決定的な役割を果たしました。新聞を通じて、人々は遠い大陸で戦う兵士たちの動向を日々追い、その勝利に一喜一憂しました。兵士の故郷の村では、新聞記事が回覧され、その活躍が村全体の誇りとされました。こうした感情の共有体験が、身分や地域を超えた「日本国民」という均質な共同体意識を創り上げていったのです。
その頂点となったのが、日清戦争後の三国干渉でした。多大な犠牲の末に獲得した遼東半島を、ロシア、ドイツ、フランスの圧力によって清に返還せざるを得なくなったこの事件は、国民的な屈辱として受け止められました。この時、新聞は一斉に**「臥薪嘗胆」**をスローガンとして掲げ、国民の対ロシア復讐心を激しく煽りました。このメディアによって増幅された国民感情が、10年後の日露戦争へと向かう、社会全体のコンセンサスを形成する上で、極めて大きな力となったことは疑いようがありません。
5.3. 世論の暴走:日比谷焼打事件という帰結
しかし、メディアによって過剰に煽られたナショナリズムは、時に政府のコントロールすら超えて暴走する、諸刃の剣でした。そのことを劇的に示したのが、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約締結直後に発生した、日比谷焼打事件(1905年)です。
国民の多くは、日本の完全勝利と、ロシアからの莫大な賠償金の獲得を信じていました。しかし、実際には日本の国力も限界に達しており、講和条約では賠償金を得ることができず、樺太(サハリン)の南半分を割譲されるに留まりました。
この「屈辱的」な講和内容が伝わると、それまで戦争を煽り続けてきた新聞の論調は一斉に反転し、政府を「軟弱外交」と激しく非難しました。この報道に激しく刺激された民衆は、講和反対を叫ぶ国民大会をきっかけに暴徒化し、内務大臣官邸や、講和を推進したとされる政府系の『国民新聞』社屋、警察署、交番などを次々と襲撃し、焼き討ちするという、首都騒乱事件に発展しました。政府は、戒厳令を布告してようやく事態を鎮圧しました。
この事件は、マスメディアが作り出し、増幅させた世論が、為政者の意図すら離れて自己増殖し、破壊的なエネルギーとなって暴走しうることを示した、日本近代史上最初の、そして最も衝撃的な出来事でした。それは、大衆社会とマスメディアの時代の到来がもたらした、新たな光と影を象徴するものでした。
日清・日露戦争期を通じて、日本のジャーナリズムは商業的な成功を収め、国民的な影響力を持つ巨大メディアへと成長しました。しかし、その過程で、権力への批判精神をかなぐり捨て、国家の戦争遂行に加担することで、国民のナショナリズムを極限まで増幅させる装置となりました。この時代の成功体験と、挙国一致の記憶は、ジャーナリズムの自己認識に深く刻み込まれ、後の満州事変から太平洋戦争へと至る、より暗い時代への道を準備することになるのです。
6. 大正期の総合雑誌
日露戦争後の日本は、第一次世界大戦の好景気(大戦景気)を背景に、重化学工業を中心とした産業化が飛躍的に進展し、近代的な大衆社会が成熟期を迎えました。都市には、教育を受けた新たな中間層(サラリーマン層)や、自己主張に目覚めた労働者層が形成され、社会の主役として登場します。政治の世界では、藩閥政治への批判が一段と高まり、政党内閣の実現と普通選挙の実施を求める大正デモクラシーの気運が最高潮に達します。このような、政治的・社会的に自由で活気に満ちた時代の空気の中で、メディアの世界も新たな黄金時代を迎えます。新聞が大衆化・商業化の道をひた走る一方で、より深く、知的な思索と多様な言論の場として台頭したのが**「総合雑誌」**でした。これらは、時代の思潮をリードする論壇を形成し、新しい文学の揺籃となり、さらには大衆文化の裾野を広げるなど、大正という時代の文化的な豊かさと複雑さを象徴するメディアとなりました。
6.1. 大正デモクラシーの知的エンジン:論壇の形成
大正デモクラシーは、単に普通選挙を求める政治運動に留まらず、個人の尊厳や自由な自己表現、社会の公正を求める、より広範な文化・思想運動でした。この運動の知的バックボーンを提供し、方向性を示したのが、総合雑誌でした。
6.1.1. 『中央公論』と『改造』:二大巨頭の競演
大正期の論壇を牽引したのは、双璧と称された二つの総合雑誌、**『中央公論』と『改造』**でした。これらの雑誌は、毎号200〜300ページに及ぶボリュームの中に、政治、経済、社会問題に関する骨太の評論から、第一線の作家による小説、海外の最新思想の紹介、学術論文、芸術批評に至るまで、ありとあらゆる知的なコンテンツを詰め込み、全国の知識人や学生層に絶大な影響力を誇りました。
- 公論形成のプラットフォーム: これらの雑誌の最大の功績は、多様な意見が発表され、相互に論争を繰り広げる、開かれた「公論の場(プラットフォーム)」を提供したことです。その象徴が、東京帝国大学教授であった政治学者・吉野作造が『中央公論』誌上で展開した**「民本主義」**の思想です。彼は、主権が天皇にあるという大日本帝国憲法の建前(国体)は維持しつつも、その主権の運用は、国民の利福を目的とし、国民の意向(世論)を尊重して行われるべきだと主張しました。これは、当時の憲法学の権威であった美濃部達吉の「天皇機関説」と並び、政党内閣や普通選挙の実現を理論的に基礎づける、大正デモクラシーの最も重要なイデオロギーとなりました。
- 新人作家の登竜門: 総合雑誌は、文学の世界においても、その中心的な舞台でした。芥川龍之介の『羅生門』、谷崎潤一郎の『痴人の愛』、志賀直哉の『暗夜行路』といった、近代日本文学を代表する傑作の多くが、これらの雑誌に連載される形で世に出ました。総合雑誌に作品が掲載されることは、作家にとって最高のステータスであり、新人作家が文壇にデビューするための最も権威ある登竜門でした。彼らの作品は、雑誌を通じて全国の文学青年に読まれ、白樺派、新感覚派といった新しい文学の潮流を形成していきました。
- 海外思潮の紹介: 第一次世界大戦は、ヨーロッパ中心の世界秩序を揺るがし、ロシア革命は社会主義という新たなイデオロギーを世界に広めました。総合雑誌は、ウィルソン(アメリカ大統領)の国際主義、アインシュタインの相対性理論、フロイトの精神分析学、マルクス主義といった、激動する世界が生み出した新しい思想や科学を、いちはやく翻訳・紹介し、日本の知識人に強烈な知的刺激を与えました。
『中央公論』や『改造』を読むことは、当時のインテリ層にとって、自らが時代の知の最前線にいることを確認するための、いわば知的な儀式でした。これらの雑誌が創出した、多様な言論が共存し、健全な緊張関係の中で競い合う知的空間こそが、大正文化の豊かさの源泉だったのです。
6.2. 大衆社会の成熟と出版文化の爆発的拡大
総合雑誌が知識人層の文化を担った一方で、大正後期から昭和初期にかけては、都市に暮らすサラリーマンや女学生、工場労働者といった、新たな「大衆」を読者とする、全く新しいタイプのメディアが爆発的な成功を収めます。
6.2.1. 『キング』の衝撃と大衆娯楽雑誌の時代
1925年(大正14年)、講談社から創刊された月刊誌**『キング』**は、日本の出版史における画期的な事件でした。創業者の野間清治が掲げた編集方針は、「面白くて、ためになる」。彼は、それまでの雑誌のように読者層を特定せず、老若男女、知識人から庶民まで、日本国民の誰もが楽しめる雑誌を目指しました。
その誌面は、まさに「幕の内弁当」でした。吉川英治や江戸川乱歩といった人気作家の娯楽小説、ためになる教訓話、感動的な実話、最新の科学知識、ユーモラスな漫画、そして豪華な付録。あらゆる要素を詰め込んだ『キング』は、国民の娯楽への渇望に完全に応え、創刊後またたく間に発行部数を伸ばし、最盛期には150万部を超えるという、空前絶後の記録を打ち立てました。
『キング』の成功は、出版がもはや一部のエリート層のものではなく、国民全体を対象とする巨大なマス・ビジネスへと変貌したことを象徴していました。この成功に続けと、各社から『婦人公論』『主婦の友』といった婦人雑誌、『少年倶楽部』のような児童雑誌、さらにはサラリーマン向けの週刊誌『週刊朝日』『サンデー毎日』などが次々と創刊され、読者層の性別、年齢、階層に応じたメディアの細分化、多様化が一気に進みました。
6.2.2. 円本ブームと教養の大衆化
1926年(大正15年)、出版界にさらなる地殻変動が起こります。総合雑誌『改造』を発行する改造社が、予約出版という形で『現代日本文学全集』を、一冊わずか一円という破格の値段で刊行したのです。これが**「円本(えんぽん)」**ブームの始まりでした。
それまで、文学全集といえば、一部の富裕層しか手が出せない高価なものでした。しかし、一冊一円であれば、都市のサラリーマンでも少し無理をすれば購入できます。「書斎に文学全集をずらりと並べる」という、かつては知識人の象徴であったスタイルが、大衆の憧れとなり、爆発的な予約が殺到しました。この成功を見て、他の出版社もこぞって様々なジャンルの円本全集を刊行し、日本中が空前の出版ブームに沸きました。
円本ブームは、単なる出版不況対策のヒット企画に留まりません。それは、これまで知識人層が独占していた「教養」や「文学」が、大衆の手に届くものになった、文化史的な事件でした。それは、国民全体の教育水準の向上と、より良い生活、より豊かな精神性を求める大衆のエネルギーの現れだったのです。
6.3. 自由の時代の光と影
大正期は、日本のメディア史において、最も多様で自由な言論が花開いた、輝かしい時代であったことは間違いありません。しかし、その華やかな文化の底流では、次の暗い時代へとつながる、いくつかの深刻な問題もまた進行していました。
第一に、思想対立の先鋭化です。自由な言論空間は、裏を返せば、相容れない思想が激しく衝突する場でもありました。特に、ロシア革命の影響を受けて国内で勢力を拡大した社会主義・共産主義思想に対し、政府は国家体制を揺るがす危険思想として、強い警戒感を抱きます。その帰結が、1925年(大正14年)に、普通選挙法と抱き合わせの形で制定された治安維持法でした。この法律は、当初は共産主義者の取り締まりを目的としていましたが、その曖昧な条文は次第に拡大解釈され、政府に批判的な言論や思想そのものを弾圧するための、最も強力な武器へと変貌していきます。
第二に、商業主義の深化です。『キング』の成功は、出版文化の裾野を広げた一方で、ジャーナリズムの商業主義化を決定的にしました。発行部数を伸ばすためには、読者の感情を刺激するセンセーショナルな見出しや、扇情的な内容が優先される傾向が強まりました。知的な思索よりも、瞬間的な娯楽が求められる風潮は、ジャーナリズム全体の質の低下につながる危険性をはらんでいました。
大正期の雑誌メディアは、知的な「論壇」と大衆的な「娯楽」という二つの極で、それぞれに文化の爛熟を促しました。それは、近代日本が経験した、束の間の自由とデモクラシーの精神を鮮やかに体現するものでした。しかし、その自由な言論空間は、世界恐慌の波及、軍部の台頭、そして治安維持法による思想統制の強化という、時代の大きなうねりの中で、次第にその輝きを失っていく運命にあったのです。
7. ラジオ放送の開始
大正時代に活字メディアがその多様性と大衆性の頂点を極めた一方で、科学技術の世界では、コミュニケーションのあり方を根底から覆す、新たな革命が静かに進行していました。それは、情報を「文字」という記号から解放し、「音」そのものを電波に乗せて、瞬時に、そして広範囲に伝達するメディア、すなわちラジオの登場です。1925年(大正14年)に産声を上げた日本のラジオ放送は、それまでのメディアとは全く異なる次元の力を持っていました。情報の「同時性」、家庭の奥深くにまで届く「浸透性」、そして国民全体を均質化する「画一性」。これらの強力な特性を備えたラジオは、人々の生活様式、文化の享受の仕方、そして国家と国民の関係性を、良くも悪くも、決定的に変容させていくことになるのです。
7.1. 新時代の到来を告げる第一声
ラジオ放送の実現は、社会的な必要性と、国家的な意図、そして技術の進歩が交差した地点で生まれました。
7.1.1. 関東大震災というトラウマ
1923年(大正12年)9月1日、関東地方を襲った関東大震災は、首都圏に未曾有の壊滅的被害をもたらしましたが、それは同時に、近代的な情報インフラがいかに脆弱であるかを白日の下に晒した事件でもありました。電話線や電信網は寸断され、多くの新聞社は社屋が倒壊・焼失し、情報伝達機能は完全に麻痺しました。
この情報が真空状態となった都市で、恐るべき事態が発生します。正確な情報が途絶した中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「社会主義者が暴動を起こして放火している」といった、何の根拠もない流言飛語が人々の口から口へと伝わり、燎原の火のように広がったのです。このデマを信じた人々が自警団を組織し、多くの朝鮮人や中国人、そして日本の社会主義者たちが虐殺されるという、近代日本史上稀に見る悲劇が引き起こされました。
この惨禍は、政府や知識人たちに、災害時にも途絶することなく、迅速かつ正確に情報を全国民に伝達できる、新しいメディアの必要性を痛感させました。有線に頼らない無線通信技術であるラジオは、その最も有力な解決策として、実用化への機運が一気に高まったのです。
7.1.2. 国家主導の「公共放送」の誕生
このような背景のもと、政府(逓信省)の強力な指導下で、ラジオ放送事業の準備が進められます。アメリカでは、多数の民間企業が自由に放送局を設立し、広告収入で運営する商業放送モデルが主流でした。しかし日本政府は、ラジオが国民に与える影響力の大きさを深く認識し、これを民間の自由に委ねることは、社会の混乱を招きかねない危険な賭けであると考えました。
政府がモデルとしたのは、イギリスのBBC(英国放送協会)のような、国家の監督下に置かれた単一の公共放送事業体でした。営利を目的とせず、国民から徴収する聴取料によって運営され、国民の教養の向上や、公共の福祉に貢献することを目的とする。これは、ラジオを国家が国民を統合し、教育するための重要な公的インフラとして位置づける思想の現れでした。
この方針に基づき、まず東京、大阪、名古屋に個別の放送局が設立された後、1926年(大正15年)に、これら三局が統合される形で、全国唯一の放送事業者である**社団法人日本放送協会(NHK)**が発足します。この決定は、その後の日本の放送制度の根幹をなし、ラジオが、そして後に登場するテレビが、国家の意向を国民に伝達するための、極めて強力なパイプとして機能する運命を決定づけたのです。
1925年3月22日、東京放送局(JOAK)の仮スタジオから、京田武男アナウンサーによる歴史的な第一声が発せられました。「アー、アー、聞こえますか。……JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」。この少しぎこちない呼びかけは、日本のメディア史が新たな時代、すなわち「電波の時代」に突入したことを告げるファンファーレでした。
7.2. ラジオが作り変えた国民生活と文化
放送開始当初、鉱石ラジオや真空管ラジオといった受信機は非常に高価で、聴取は一部の富裕層や新しいもの好きの趣味人に限られていました。しかし、受信機の国産化による低価格化と、月々の聴取料が比較的安価であったことから、ラジオは昭和初期を通じて驚異的なスピードで一般家庭に普及していきます。
7.2.1. 「お茶の間」文化と情報の同時革命
ラジオがもたらした最大の革命は、情報の**「同時性」**でした。新聞や雑誌は、印刷され、輸送され、配達されるという物理的なプロセスを経るため、情報が読者の手元に届くまでには必ずタイムラグが生じます。しかし、ラジオは、放送されたその瞬間に、電波が届く範囲のすべての聴取者が、全く同じ情報を、同時に受け取ることができます。
この特性は、国民の生活と意識を根底から変えました。
- 生活リズムの近代化: 正確な時刻を知らせる時報、日々の天気予報、市場の相場情報といった実用的な情報は、人々の生活に近代的な時間感覚と、合理的な計画性をもたらしました。
- 家庭への情報の浸透: それまで、ニュースや社会の出来事は、新聞を購読する世帯主の男性や、職場や街頭といった公的な空間で得られるのが主でした。しかしラジオは、これらの情報を「家庭」という最も私的な空間の中心、すなわち「お茶の間」にまで届けました。夜、家族全員がラジオの前に集い、ニュースや浪曲、ラジオドラマに耳を傾けるという光景は、昭和の家庭を象徴するイメージとなります。
- 国民的イベントの共有: 特に、夏の全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)や、大相撲の実況中継は、国民的な人気を博しました。遠隔地で行われている試合の熱狂や興奮を、あたかもその場にいるかのように、全国の人々が同時に共有するという体験は、それまでのメディアでは不可能でした。この「同時体験」は、国民としての一体感を醸成する上で、絶大な効果を発揮しました。
7.2.2. 国民文化の均質化と「標準語」の浸透
ラジオは、新しい国民的な文化を創造し、それを全国に津々浦々にまで広める、強力な文化装置でもありました。
その最も象徴的な事例が、1928年(昭和3年)に、昭和天皇の即位を記念して始まったラジオ体操です。逓信省簡易保険局が国民の健康増進を目的として企画したこの番組は、毎朝同じ時刻に、同じピアノの音楽と、同じ号令に合わせて、全国の数百万、数千万の人々が、一斉に同じ身体運動を行うという、人類史上でも類を見ない、壮大な国民的習慣を生み出しました。これは、ラジオが持つ同時性と求心力によって、国民の身体を規律化し、統一的な生活習慣を植え付けるという、高度な社会的エンジニアリングの一形態でした。
また、ラジオは、それまで地域ごとに多様であった日本の言語を、均質化する上でも決定的な役割を果たしました。NHKのアナウンサーが話す、明瞭でアクセントの整った東京の山の手言葉が、事実上の**「標準語」**として、毎日全国に流されました。これにより、地方の方言は、古風で、教育程度の低い言葉というネガティブなイメージを帯びるようになり、全国的に言葉の均質化、画一化が急速に進みました。
音楽や演芸、ドラマといった娯楽番組も同様でした。東京や大阪で制作された最新の流行歌や、人気の漫才師のしゃべりが、そのまま全国の家庭に届けられました。これは、地方の文化的な格差を縮小させた一方で、文化の中央集権化を強力に推し進め、地域固有の多様な文化が衰退する一因ともなりました。
7.3. 国家による統制の究極のツールへ
公共放送として、そして全国唯一の放送事業者としてスタートしたNHKのラジオは、その設立の経緯からして、政府の強い影響下にありました。そして、時代が満州事変以降の戦時体制へと雪崩を打って突き進む中で、ラジオは、国家が国民の思想を統制し、戦争へと動員するための、最も効果的で、最も恐るべきツールへとその姿を変貌させていきます。
家庭の奥深くにまで直接、そして同時に語りかけることができる「声」のメディア。その親密さと強制力は、活字メディアとは比較にならないほどの力で、人々の心に浸透していきました。このラジオが持つ絶大な影響力は、次の時代、戦争という極限状況の中で、その真価を、そしてその恐ろしさを、最大限に発揮することになるのです。
8. 戦時下の報道
1931年(昭和6年)の満州事変勃発から、1945年(昭和20年)の敗戦に至るまでの、いわゆる「十五年戦争」の時代は、日本のジャーナリズムにとって、その存在意義そのものが問われた、最も暗く、そして最も深刻な反省を迫られる時代でした。大正デモクラシー期に、あれほどまでに多様な花を咲かせた言論の自由は、軍部の台頭と国家総力戦体制の構築の中で、一片の痕跡もなく消え去りました。新聞、雑誌、ラジオといった、かつては国民を啓蒙し、楽しませたメディアのすべてが、国家の戦争目的を達成するためのプロパガンダ機関へと再編成されていったのです。この時代、ペンは銃の前に屈し、ジャーナリズムは「権力監視」という本来の使命を完全に放棄して、国民を誤った戦争へと駆り立てる巨大な装置の、忠実な歯車となりました。この悲劇的な転換は、なぜ、そしてどのようにして起こったのか。そのメカニズムを冷徹に分析することは、メディアと国家、そして戦争の関係を考える上で、避けては通れない重い課題です。
8.1. 情報統制システムの段階的完成
言論の自由が、ある日突然失われたわけではありません。それは、満州事変以降、軍部と政府が、世論を巧みに誘導し、法的な規制を強化し、メディア組織そのものを支配下においていくという、段階的かつ周到なプロセスを経て進行しました。
8.1.1. 軍部の台頭とメディアへの圧力
満州事変を引き起こした関東軍は、政府の方針を無視して戦線を拡大しましたが、国内の新聞の多くは、その「快進撃」を称賛し、政府の不拡大方針を「軟弱」と批判しました。これは、新聞社が国民の愛国的熱狂に迎合した結果でしたが、結果として軍部の独走を追認し、その政治的発言力を飛躍的に増大させることに加担しました。
五・一五事件(1932年)で犬養毅首相が暗殺され、政党内閣の時代が終焉すると、軍部の政治介入は決定的となります。軍部は、国防や作戦に関する情報をすべて「軍事機密」とし、その報道を厳しく制限しました。軍の方針に少しでも批判的な記事を掲載した新聞社は、記者が憲兵に脅されたり、取材の機会を奪われたりするなど、直接的・間接的な圧力を受け、次第に自己検閲を強めていきました。
1937年(昭和12年)に日中戦争が全面化すると、近衛文麿内閣は**「国民精神総動員運動」**を開始し、メディアに対して、挙国一致体制の確立と、戦意高揚への協力を強力に要請しました。この段階で、ジャーナリズムの独立性は、事実上失われていました。
8.1.2. 内閣情報局:プロパガンダの司令塔
情報統制のシステムが完成形に至ったのは、第二次近衛内閣下の1940年(昭和15年)、内閣情報部が改組・強化されて内閣情報局が設置された時です。情報局は、首相直属の機関として、新聞、出版、放送、映画、演劇、音楽に至るまで、あらゆる情報・文化活動を、その統制下に置く、絶大な権限を持つプロパガンダの司令塔でした。
- 情報の一元化と操作: 国内外のすべてのニュースは、この情報局と、戦時における最高統帥機関である大本営の陸軍部・海軍部報道部によって、一元的に管理・発表されました。各メディアは、この「公式発表」を、一字一句違えることなく掲載・放送することのみを許可されました。これにより、政府・軍部に不都合な情報、例えば、ミッドウェー海戦での惨敗のような決定的な敗北や、甚大な人的・物的損害といった事実は、国民の目から完全に隠蔽されました。逆に、小さな戦果は「大戦果」として誇大に報じられ、国民には、日本軍が連戦連勝を続けているという誤ったイメージが植え付けられました。
- メディア企業の強制統合: 情報局は、メディア企業の「整理統合」を国家総動員法に基づいて強制的に進めました。全国に1000以上存在した日刊新聞社は、情報伝達の効率化と統制の容易化を目的として、原則として**「一県一紙」**に統合されました。これにより、多様な論調や地域性は失われ、どの新聞を読んでも同じ内容が書かれているという、画一的な報道体制が確立しました。数千点あった雑誌も、内容によって分類・統合され、「時局に不必要」と見なされた文芸誌や総合雑誌は、次々と廃刊に追い込まれました。
- 日本放送協会(NHK)の役割: 全国のラジオ放送を独占するNHKは、情報局の最も強力な実行部隊となりました。ニュースはもちろんのこと、ラジオドラマは兵士の武勇伝や銃後の美談を描き、音楽番組は勇ましい軍歌を流し続けるなど、すべての番組が「聖戦」の完遂と、「撃ちてし止まむ」の精神を国民に注入するという目的に奉仕するよう、再編成されました。
この鉄壁の情報統制システムによって、日本のジャーナリズムは、自ら思考する能力を完全に奪われ、国家の意思を国民に伝達するためだけの、巨大な拡声器と化したのです。
8.2. 国民を動員したプロパガンダの奔流
統制下のメディアは、国民の感情を巧みに操作し、戦争への総力を結集させるためのプロパガンダを、日々、洪水のように流し続けました。
8.2.1. 「聖戦」のレトリックと敵愾心の煽動
新聞や雑誌の紙面は、「大東亜共栄圏の建設」「八紘一宇の精神」「鬼畜米英」といった、勇ましく、しかし実態の曖昧なスローガンで埋め尽くされました。この戦争は、日本の侵略戦争などではなく、欧米の植民地支配からアジアの諸民族を解放するための「正義の戦い(聖戦)」であると、繰り返し喧伝されました。
戦地での日本兵の英雄的な活躍が、写真や挿絵入りで華々しく報じられ、彼らの自己犠牲的な死は、国民が倣うべき最高の美徳として称賛されました。一方で、敵国であるアメリカやイギリスは、物質文明に溺れた悪魔のような存在として描かれ、国民の憎悪(敵愾心)が執拗に煽られました。こうしたプロパガンダに日常的に接することで、国民は、この苦しい戦争が、絶対に勝利しなければならない崇高な戦いであると、固く信じ込まされていきました。
8.2.2. 「玉砕」の美化と「一億総特攻」への道
1943年(昭和18年)以降、太平洋戦争の戦局が日本にとって絶望的に悪化し、各地で日本軍が敗退を重ねるようになっても、その事実は国民には一切知らされませんでした。アッツ島守備隊の全滅は、敗北ではなく**「玉砕」**という言葉で報じられました。それは、全滅に至るまで、一人残らずが勇敢に戦い、潔く散っていったことを意味し、国民が最後の最後まで戦い抜くべき精神的模範として、賛美の対象とされたのです。
メディアは、国民に「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガンで耐乏生活を強い、学徒出陣や女子挺身隊、金属類供出といった、人的・物的資源の総動員を呼びかけ続けました。そして戦争末期には、「一億玉砕」「一億総特攻」を合言葉に、本土決戦に向けて、国民に竹槍訓練まで行わせるよう、その総力を挙げて煽り立てたのです。
情報が完全に国家によって管理・操作された状況下で、人々はメディアが伝える「公式の真実」以外に、判断の材料を持ちませんでした。その結果、多くの国民が、敗戦が目前に迫っているという客観的な事実を知ることなく、ただひたすらに戦争に協力し、多大な犠牲を払うことになったのです。
8.3. 玉音放送という断絶
1945年(昭和20年)8月15日正午、NHKラジオから流れた昭和天皇自らの声による**玉音放送(終戦の詔書)**は、多くの国民にとって、まさに青天の霹靂でした。それまで、「神州不滅」「国体護持」を信じ、聖戦の勝利を疑わなかった国民は、この放送によって、初めて日本の「敗戦」という、信じがたい事実を突きつけられたのです。
この瞬間は、日本の戦時下ジャーナリズムが、いかに国民を欺き、真実から隔絶させてきたかを、最も劇的な形で露呈させた出来事でした。国民に真実を伝えるという、ジャーナリズムの根源的な使命を放棄し、国家のプロパガンダ機関に成り下がったメディアは、この日、国民からの信頼を根底から失い、その存在理由を自ら破壊したのです。
この戦争の時代の痛烈な経験は、日本のジャーナリズムに、決して消えることのない深い傷跡と、重い教訓を残しました。それは、権力による情報統制が、いかに容易に言論の自由を窒息させ、国民全体を破滅的な道へと導くかという、恐るべき実例です。そしてまた、メディア自身が、時流への迎合や商業主義、あるいは愛国心の発露から、自発的に権力にすり寄り、戦争を煽る側に回ってしまうという、構造的な危険性を内包していることを、白日の下に晒しました。この痛恨の記憶と反省こそが、次の時代、焦土の中から立ち上がる、戦後ジャーナリズムの唯一の出発点となるのです。
9. 戦後の言論の自由
1945年8月15日の敗戦は、日本の近代史における最大の断絶点でした。大日本帝国の崩壊とともに、戦時中に国民の精神を縛り付けた国家神道や軍国主義といったイデオロギーの枷も、そして言論を窒息させた情報統制の鉄鎖も、一夜にして断ち切られました。しかし、それは直ちに、無条件の「言論の自由」が訪れたことを意味するわけではありませんでした。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による占領下という、新たな権力構造のもとでの再出発。そして、日本国憲法という新しい理念の下での、真のジャーナリズムの模索。戦後のメディアが歩んだ道は、戦争協力という拭い去れない過去への痛烈な反省と、未来への理想、そして厳しい現実との間の、絶えざる葛藤の道のりでした。
9.1. 占領下のジャーナリズム:解放と新たな検閲
敗戦後の日本に乗り込んできたGHQは、日本の「非軍事化」と「民主化」を占領政策の二大原則に掲げました。その目的を達成するため、GHQはメディアの世界に、大鉈を振るいます。
9.1.1. 軍国主義からの解放と公職追放
GHQは、日本の民主化を阻害する最大の要因は、戦時中の言論統制にあると考えました。そのため、到着後ただちに、プロパガンダの司令塔であった内閣情報局を解体し、新聞事業令をはじめとする、言論の自由を縛ってきた全ての法律や命令を撤廃させました。これにより、日本のメディアは、日本の国家権力による直接的な統制からは、完全に解放されたのです。
さらにGHQは、メディアの人的な刷新を断行します。戦時中に、新聞社や通信社の幹部として、積極的に戦争遂行に協力したと見なされた人物たちを、公職追放の対象としました。これにより、大手新聞社の社長や主筆といったトップ層がごっそりと入れ替えられ、戦時中には傍流に追いやられていた、よりリベラルな思想を持つ記者たちが、戦後の編集の中核を担うことになりました。この世代交代は、戦後の新聞界が、戦争への深い反省と平和主義を、その基本的な論調として確立する上で、極めて大きな影響を与えました。
9.1.2. GHQのプレスコードという新たな検閲
しかし、GHQがもたらしたのは、解放だけではありませんでした。彼らは、日本のメディアが再び軍国主義や国家主義的な論調に回帰したり、あるいは占領政策そのものを批判したりすることを、極度に警戒しました。そのため、日本の国家権力による検閲に代わって、GHQ自身による、厳格な検閲システムを導入します。これが**「プレスコード」**です。
プレスコードは、表向きには報道の指針を示すものでしたが、その実態は、GHQにとって不都合なテーマの報道を厳しく禁じる、事前検閲でした。具体的には、以下のような内容の報道が禁止・制限されました。
- GHQや連合国に対する批判
- 極東国際軍事裁判(東京裁判)に対する批判
- 原子爆弾の被害の残虐さや、その投下の是非を問うような報道
- 占領軍兵士の犯罪に関する報道
- 食糧不足など、社会不安を煽るような報道
新聞社や出版社、放送局は、発行・放送前に、すべての原稿をGHQの担当部署である民間検閲支隊(CCD)に提出し、その許可を得なければなりませんでした。検閲官によって削除・修正を命じられた箇所は、墨で塗りつぶされたり、空白のまま発行されたりすることもありました。
このGHQによる検閲は、戦後ジャーナリズムが直面した最初の、そして最大のジレンマでした。日本の軍国主義という圧制からは解放されたものの、今度は占領軍という新たな、そして絶対的な権力による検閲下に置かれたのです。この経験は、戦後のジャーナリストたちに、「自由」とは、常に何らかの権力との緊張関係の中にあり、不断の努力によってしか守り得ないものであるという、厳しい現実を深く認識させることになりました。
9.2. 日本国憲法という理念的支柱
占領下の矛盾を抱えながらも、戦後日本のジャーナリズムにとって、その後の活動の揺るぎない理念的支柱となるものが誕生します。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法です。
特に、その第21条に定められた条文は、戦時中の情報統制への痛烈な反省に立ち、日本のメディアが二度と過ちを繰り返さないための、法的な防波堤として、決定的な意味を持ちました。
第二十一条
- 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
- 検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。
「検閲の禁止」を、憲法そのものに明確に書き込んだことは、国家がメディアの内容に事前に介入し、統制することを、絶対に許さないという、国民の強い決意の表れでした。この憲法の保障があるからこそ、メディアは、国家権力を監視し、国民の「知る権利」に奉仕するという、近代ジャーナリズムの本来あるべき使命を追求することができるのです。日本国憲法第21条は、戦後日本のジャーナリズムにとって、その存在理由そのものを支える、いわば「魂」とも言うべき条項となりました。
9.3. 主権回復後の新たなメディア環境
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ平和条約調印、そして翌年の発効によって、日本は主権を回復し、7年間にわたる占領期は終わりを告げます。GHQの検閲のくびきからも解放され、日本のメディアは、名実ともに自由な競争の時代へと突入しました。
9.3.1. 商業放送の開始とメディアの多様化
戦後のメディア環境における最も大きな変化は、放送の世界で起こりました。1950年、いわゆる「電波三法」(放送法、電波法、電波監理委員会設置法)が制定され、NHKによる放送独占体制が崩れ、民間企業が広告収入によって運営する商業放送への道が開かれました。
1951年、日本初の民間商業ラジオ局として、名古屋の中部日本放送と、大阪の新日本放送が放送を開始します。そして、1953年(昭和28年)には、NHKと、日本初の民間商業テレビ局である日本テレビが、相次いでテレビの本放送を開始し、日本は本格的な**「テレビ時代」**の幕開けを迎えます。
これにより、新聞、雑誌、そして公共放送であるNHKと、新たに登場した民放ラジオ・テレビが、互いに競争し、影響を与え合う、現代につながる重層的なメディア環境の原型が、この時期に形成されました。
9.3.2. 55年体制下の政治的対立とジャーナリズム
主権回復後の日本政治は、保守政党である自由民主党が長期にわたって政権を担い、革新政党である日本社会党が野党第一党として対峙する、いわゆる**「55年体制」**が続きました。この保守と革新の鋭い政治的対立の中で、ジャーナリズムもまた、その立ち位置を常に問われることになります。
その最大の試金石となったのが、1960年(昭和35年)の日米安全保障条約改定を巡る、激しい国民的対立、いわゆる**「安保闘争」**でした。岸信介内閣が、国会で警察官を動員して採決を強行するなど、強権的な手法で条約改定を進めたのに対し、多くの大手新聞は、その「議会制民主主義の危機」を厳しく批判し、条約改定に反対する大規模なデモやストライキといった国民運動を、肯定的、共感的に報じました。
この安保報道は、メディアが再び政治の舞台で、世論を喚起し、政府と対峙する大きな力を持つことを示しました。しかしその一方で、一部のメディアの論調が、中立性を欠いて革新勢力の側に偏りすぎているのではないかという批判や、報道が過熱し、社会の対立を不必要に煽っているのではないかという自己反省も、ジャーナリズムの内部から生まれました。
戦後のジャーナリズムは、戦争協力という消すことのできない「原罪」を背負い、二度と国家権力の道具にはならないという強い決意のもと、再出発しました。日本国憲法という強力な理念的支柱を得て、言論の自由を回復し、権力監視の役割を果たそうと努めました。しかし、GHQの検閲、商業主義の奔流、そして激しいイデオロギー対立といった、戦後社会特有の新たな課題に直面する中で、その理想と現実の間で、常に揺れ動き続けることになります。この葛藤と模索の中から、次の時代を決定づける最強のメディア、テレビが、日本の社会と文化の主役として、その圧倒的な影響力を発揮し始めるのです。
10. テレビとインターネット
1950年代に、まだ実験的なメディアとして産声を上げたテレビは、その後の日本の高度経済成長という、歴史上稀に見る急激な社会変動の波に乗り、瞬く間に日本中の家庭に普及しました。映像と音声が一体となって、家庭の「お茶の間」に直接届けられるこの新しいメディアは、新聞やラジオを凌駕する圧倒的な情報伝達力と感情への訴求力で、人々のライフスタイル、価値観、消費行動、そして社会そのものを、根底から変容させていきました。そして20世紀も末に近づいた頃、今度はインターネットという、これまでのマスメディアの概念を根底から覆す、さらに革命的な情報技術が登場します。テレビが君臨した「一億総中流」の時代から、誰もが情報の受信者であると同時に発信者となる「個の時代」へ。この劇的なメディア環境の変化は、現代社会に、かつてないほどの可能性と、同時に深刻な課題を突きつけています。
10.1. 高度経済成長が生んだ「テレビの王国」
テレビ放送の開始と普及のプロセスは、日本の高度経済成長期(1950年代半ば〜1970年代初頭)と、完全に軌を一にしています。テレビは、この時代の申し子であり、そしてこの時代そのものを象徴するメディアでした。
10.1.1. 「三種の神器」から一家に一台へ
1950年代後半、所得倍増計画が打ち出される中で、テレビは、白黒洗濯機、冷蔵庫とともに、庶民の憧れである**「三種の神器」**の一つに数えられました。当初は、街頭テレビや、裕福な家庭、あるいは銭湯や蕎麦屋に置かれたテレビの前に、人々が黒山の人だかりを作って観戦した、プロレスラー・力道山の試合中継が、その爆発的な人気を牽引しました。
テレビ普及の決定的な起爆剤となったのが、二つの国民的イベントです。一つは、1959年(昭和34年)の、当時の皇太子(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)のご成婚パレードの中継です。この「世紀のご成婚」を一目見ようと、多くの家庭がテレビの購入に踏み切り、テレビの普及率は一気に上昇しました。もう一つが、1964年(昭和39年)の東京オリンピックです。戦後復興の象徴であったこの国家的な祭典を、カラー映像で楽しみたいという需要が、今度はカラーテレビの普及を強力に後押ししました。
こうして、1960年代を通じてテレビは「一家に一台」が当たり前となり、日本は世界有数の「テレビ大国」へと変貌を遂げたのです。
10.1.2. 「お茶の間文化」と均質な大衆社会の形成
テレビの登場は、日本の家庭の風景を一変させました。夕食後、家族全員がテレビの前に集い、同じ番組を観て笑い、手に汗を握り、感動を共有するという**「お茶の間文化」**が、国民的なライフスタイルとして定着しました。プロ野球の巨人戦、大相撲、アントニオ猪木やジャイアント馬場のプロレス中継といったスポーツ番組や、『紅白歌合戦』、クイズ番組『アップダウンクイズ』、『8時だョ!全員集合』といった娯楽番組は、翌日の学校や職場で誰もが口にする共通の話題を提供し、国民的な一体感を醸成しました。
テレビはまた、東京で制作された最新の文化や流行、そして「標準語」を、タイムラグなく全国津々浦々にまで届けました。これにより、都市と地方の文化的な格差は急速に縮小し、日本全体に、極めて均質的な大衆文化が形成されていきました。テレビCMは、次々と登場する新しい家電製品や自動車、インスタント食品の魅力を、夢のある映像と共に伝え、大量生産・大量消費社会を支える最も強力なエンジンとなりました。テレビドラマが映し出す、明るく、清潔で、核家族が暮らす郊外のマイホームといったイメージは、多くの国民に「自分たちの生活も、いずれはこうなるべきだ」という、中流階級への帰属意識、すなわち**「一億総中流」意識**を植え付ける上で、計り知れない役割を果たしたと言われています。
10.2. 映像ジャーナリズムの光と影
テレビは、ジャーナリズムの世界にも、大きな地殻変動を引き起こしました。
10.2.1. 政治を動かす「映像の力」
テレビは、政治と有権者の関係を、より直接的で、情緒的なものへと変えました。1960年の安保闘争や、その後の大学紛争、ベトナム戦争の映像は、社会の動乱や戦争の現実を生々しく伝え、人々に強烈なインパクトを与えました。
特に、政治家の運命をテレビが左右した象徴的な出来事が、ロッキード事件(1976年発覚)です。田中角栄元首相をはじめとする政府高官の汚職疑惑が追及された国会証人喚問は、連日、全国に生中継されました。疑惑の当事者たちが、国民の目の前で、記憶にないと繰り返す姿は、政治への不信感を決定的にし、田中金権政治の終焉をもたらしました。この事件は、テレビというメディアが、新聞をも凌ぐ「権力監視」の力を持つことを、国民に強く印象づけました。
10.2.2. 映像の魔力とジャーナリズムの課題
しかし、映像は、その圧倒的なリアリティゆえに、危険な側面も持っています。映像は、常に編集というプロセスを経ており、文脈を巧みに切り取り、音楽やナレーションを付加することで、視聴者の印象を特定の方向に誘導することが、比較的容易にできてしまいます。
また、テレビニュースは、限られた放送時間の中で、複雑な社会問題を、分かりやすく、劇的に伝えなければならないという制約を抱えています。そのため、問題の本質的な構造よりも、対立の激しさや、個人の不幸といった、視聴者の感情に訴えかける側面が強調されがちです。これが、人々の社会に対する理解を、断片的で、情緒的なものにしてしまうのではないかという批判は、テレビジャーナリズムが常に抱え続けてきた課題です。
10.3. インターネット革命とメディアの地殻変動
1990年代半ばから、まずパソコン通信として、そしてワールド・ワイド・ウェブとして一般に普及し始めたインターネットは、21世紀に入ってからのスマートフォンと**SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)**の爆発的な普及によって、テレビが半世紀にわたって築き上げてきたマスメディアの王国を、根底から揺るがす、歴史的な地殻変動を引き起こしています。
10.3.1. マスメディアからソーシャルメディアへ:「誰もが発信者」の時代
インターネット革命の本質は、情報の発信コストを限りなくゼロに近づけたことにあります。これにより、新聞社やテレビ局といった、莫大な資本と設備を持つ巨大な組織が、一方的に情報を発信する**「マスメディア」の時代から、無数の個人が、ブログやTwitter(現X)、Facebook、YouTube、Instagramといったツールを使って、誰もが自由に、瞬時に、世界中に向けて情報を発信できる「ソーシャルメディア」の時代**へと、パラダイムシフトが起きました。
2011年の東日本大震災の際には、この新しいメディアの力が遺憾なく発揮されました。マスメディアの報道が届かない被災地の詳細な状況や、個人の安否情報、支援物資の要請などが、Twitterを通じてリアルタイムで共有され、多くの人々の助けとなりました。
10.3.2. 新たな時代の深刻な課題
しかし、このメディア環境の激変は、多くの光と共に、深刻な影も落としています。
- フェイクニュースと陰謀論の氾濫: 誰もが発信者になれるということは、悪意を持って作られた偽情報(フェイクニュース)や、科学的根拠のない陰謀論が、マスメディアのチェック機能を経ずに、瞬く間に拡散される危険性を常に孕んでいます。情報が洪水のように溢れる中で、何が信頼できる情報で、何が偽りかを見分けることが、個人にとって極めて困難な課題となっています。
- フィルターバブルと社会の分断: Googleの検索やSNSのアルゴリズムは、ユーザーの過去の閲覧履歴や興味関心に合わせて、その人が心地よいと感じる情報を優先的に表示する傾向があります。その結果、人々は、自分と異なる意見や、自分にとって不都合な情報から隔離され、自分と同じ意見ばかりが反響しあう閉鎖的な空間(エコーチェンバー)に閉じ込められてしまう**「フィルターバブル」**という現象が指摘されています。これは、異なる意見を持つ人々との対話と思考の機会を奪い、社会の分断や、政治的な対立を、より深刻で、修復不可能なものにする一因とされています。
- 既存マスメディアの危機: インターネットの普及により、新聞やテレビといった既存のマスメディアの影響力は、相対的に、そして絶対的に低下し続けています。若者を中心に「新聞離れ」「テレビ離れ」が加速し、広告収入もインターネット広告に奪われ、そのビジネスモデルは崩壊の危機に瀕しています。多大なコストをかけて、地道な取材に基づいた信頼性の高い情報を提供し、社会全体の健全な公論を形成するという、マスメディアが本来担ってきた重要な役割を、この新しい時代に、誰が、どのように担っていくのか。それは、現代の民主主義社会が直面する、最も困難な問いの一つです。
古代の口承伝承から始まった日本のメディア史の長い旅は、文字、印刷、電波、そしてデジタルネットワークという、息もつかせぬ技術革新の連続でした。それぞれの時代のメディアは、その時代の権力構造、社会、そして人々の心を映し出す鏡でした。現代に生きる私たちは、かつてないほど多様で、自由で、強力で、そして同時に、極めて危険なメディア環境の中に立っています。この複雑怪奇な情報の海を、自らの思考で賢く航海していくために、メディアの特性を深く理解し、あらゆる情報を批判的に吟味する能力、すなわち**「メディア・リテラシー」**が、もはや一部の専門家のためのものではなく、この社会を生きるすべての人にとって、不可欠な生存のためのスキルとなっているのです。
Module 20:メディアとジャーナリズムの歴史の総括:情報を制する者は社会を映す:権力、民衆、そして自己の鏡としてのメディア史
本モジュールを通じて、私たちは古代から現代に至る日本のメディアとジャーナリズムの壮大な歴史の物語を旅してきました。それは、単なる情報伝達技術の発展史をなぞる、平坦な道のりではありませんでした。むしろ、情報という目に見えない力が、いかに社会の権力構造を形成し、民衆の意識を動かし、そして時代そのものの精神を規定してきたかという、ダイナミックで、時には血を伴う闘争と変革のドラマでした。
権力者が文字を独占することで、その支配を神聖にして盤石なものとした古代。木版印刷というささやかな技術が、都市の喧騒の中に初めて「ニュース」という概念を解き放った近世。そして活版印刷が、身分を超えた「国民」という共同幻想を創り出し、言論を政治の舞台へと引き上げる「武器」へと変えた近代。それぞれの歴史的転換点は、メディアという技術が、社会のOSそのものを根底から書き換える、革命の瞬間に他なりませんでした。ラジオの「声」が、お茶の間にいながらにして全国民を同時に束ね、テレビの「映像」が、一億総中流という、甘美で均質な夢を共有させ、そしてインターネットが、私たち一人ひとりを、情報の単なる受信者から、無限の可能性を秘めた「発信者」へと変えた現代に至るまで、メディアの変遷は常に、人々の世界認識のあり方を、不可逆的に変え続けてきたのです。
この長く、複雑な歴史から私たちが学ぶべき最も重要な教訓は、メディアが決して中立で透明な「鏡」などではないという、厳しい事実です。それは常に、誰かの意図を反映し、ある現実を鮮やかに増幅させ、別の現実を巧みに覆い隠す、強力で、歪みを伴ったレンズとして機能します。あの戦争の時代に、国民の知性たるべきペンが、自ら進んで銃後の剣となり、国民を破滅へと導いた痛恨の過ちを、私たちは決して風化させてはなりません。
だからこそ、真実と虚偽が瞬時に拡散され、共感と憎悪がアルゴリズムによって増幅される現代の情報の洪水の中で、その情報が「誰によって、何の目的で、どのような意図を持って」作られているのかを、常に冷静に問い続ける批判的な視座が求められます。歴史に裏打ちされたメディア・リテラシーとは、単なる知識やスキルではなく、この複雑な世界を、他人の言葉を鵜呑みにすることなく、自らの頭で考え、判断し、生き抜くための、知的で、そして倫理的な態度そのものなのです。このモジュールでの学びが、皆さんにとって、社会を、そしてあなた自身を映し出すメディアという強力な鏡と、賢く、そして誠実に向き合っていくための一助となることを願ってやみません。