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【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 23:歴史認識と史学史
本モジュールの目的と構成
歴史とは何でしょうか。過去に起こった出来事そのものでしょうか。それともそれらの出来事について人々が語り書き記してきた「物語」でしょうか。本モジュールはこの根源的な問いを探求する、いわば「歴史についての歴史」の物語です。私たちは日本の古代から現代に至るまで、それぞれの時代の人々が過去をどのように捉え、解釈し、そして自らの目的のために「歴史」を構築してきたか、その知的な格闘の軌跡を辿ります。
この学びの目的は単に『古事記』や『大日本史』といった個別の歴史書の名前を覚えることではありません。その真の目的は、「歴史」というものが決して天から降ってきた単一で客観的な事実の集合体などではなく、常に特定の時代、特定の立場に立つ人間によって特定の意図をもって「編纂」され「解釈」されてきた一つの構築物であることを理解することにあります。
なぜ古代の国家は神々の物語から始まる壮大な歴史書を必要としたのか。なぜ中世の貴族や僧侶は王朝の栄枯盛衰を「物語」や「道理」として語ろうとしたのか。なぜ近世の儒学者は250年の歳月をかけてあるべき君臣の関係を歴史に求めようとしたのか。そして近代以降、なぜ「科学的」な歴史学が勃興しそれがやがて国家のイデオロギーに飲み込まれ、戦後には全く異なる史観によって覆されていったのか。これらの問いを一つひとつ解き明かしていく中で、私たちは歴史が常に現代を生きる私たち自身を映し出す鏡であることを痛感するでしょう。
このモジュールを通じて皆さんは歴史的事実を多角的・批判的に読み解くための高度な知的リテラシーを獲得します。それは現代社会に溢れる様々な歴史認識を巡る問題(教科書問題、外交問題など)の本質を、その歴史的文脈から深く理解するための不可欠な視座となるはずです。
本モジュールは以下の10のステップを通じて、日本の歴史認識と史学史の壮大な変遷を体系的に解き明かしていきます。
- 『古事記』『日本書紀』の編纂: 「歴史」が神話として語られた時代。誕生したばかりの律令国家がなぜ、そしてどのようにして自らの支配の正統性を神代にまで遡る壮大な物語として創造したのか、その国家的プロジェクトの意図に迫ります。
- 六国史: 国家が自らの「正史」を書き続けた時代。『日本書紀』に倣い約200年間にわたって編纂された公式史書の伝統と、それが律令国家の衰退と共になぜ途絶えてしまったのかを分析します。
- 中世の歴史物語(『大鏡』): 歴史の語り手が天皇から貴族へと移った時代の象徴。藤原氏の栄華を会話形式で生き生きと描く「鏡物」の登場が、歴史叙述にどのような新しい視点をもたらしたかを探ります。
- 『愚管抄』: 日本初の「歴史哲学書」。動乱の時代を生きた僧侶・慈円が歴史の背後に流れる普遍的な法則「道理」を見出そうとした試みを分析し、歴史を単なる出来事の記録から解釈の対象へと昇華させた知的飛躍を考察します。
- 近世の儒教的史観(『大日本史』): 徳川光KUNIが始めた水戸藩のライフワーク。儒教的な価値観(大義名分論)に基づき天皇中心の歴史観を打ち立てたこの巨大な編纂事業が、後の時代にいかなる影響を与えたかを検証します。
- 国学の歴史研究: 儒教や仏教といった外来思想の影響を排し、古代日本固有の精神(古道)を歴史に見出そうとした知的運動。本居宣長らの文献学的な研究がどのようにして新しい歴史像を構築していったかを探ります。
- 近代の実証主義的歴史学: 「科学としての歴史」の誕生。西洋から導入された史料批判に基づく客観的な歴史研究(実証主義)が、いかにして日本の大学アカデミズムの主流となり歴史学を神話から切り離したかを詳述します。
- 皇国史観: 科学がイデオロギーに屈した時代。学問的な歴史研究が抑圧され神話と歴史が再び一体化し、天皇の万世一系を絶対視する国家主義的な歴史観がいかにして国民の精神を支配していったか、その形成と確立の過程を追います。
- 戦後のマルクス主義歴史学: 皇国史観の崩壊後、歴史学界を席巻した新しいパラダイム。歴史を階級闘争の過程として捉える唯物史観が戦後の歴史研究にどのような貢献をし、またどのような限界を抱えていたかを分析します。
- 現代の歴史認識問題: 「唯一の正しい歴史」が失われた時代。多様な歴史観が衝突し歴史が再び政治の道具となる現代の状況を、教科書問題や近隣諸国との外交問題などを事例にその根源から考察します。
この知の探検は歴史が過去のものではなく、常に「今」を生きる私たちによって語り直され意味を与えられ続けるダイナミックな営みであることを明らかにするでしょう。
1. 『古事記』『日本書紀』の編纂
日本の歴史叙述の源流を遡る時、私たちは必ず二つの巨大な著作に行き当たります。712年に成立した**『古事記』と720年に完成した『日本書紀』**です。これらは現存する日本最古の歴史書であり、その後の日本の文化や精神性に計り知れない影響を与え続けてきました。しかしこれらの書物を現代の私たちが考えるような客観的な事実をありのままに記録した「歴史書」として読むことは、その本質を見誤ることになります。これらは7世紀後半から8世紀初頭にかけてまさに誕生しようとしていた律令国家が、その総力を挙げて推進した極めて高度な政治的意図を持つ国家的プロジェクトの産物でした。その編纂の背景と目的を理解することは日本における「歴史」がその出発点からして、国家の物語を構築するという使命を帯びていたことを知る上で不可欠です。
1.1. なぜ「歴史」が必要だったのか:律令国家の正統性
天武天皇が『古事記』と『日本書紀』(以下、記紀と総称)の編纂を命じた7世紀後半、日本は国家形成の重大な岐路に立っていました。壬申の乱(672年)という大規模な内乱を制して即位した天武天皇にとって、自らの権力を盤石にし中央集権的な律令国家を建設することが最大の課題でした。この課題を達成するためには武力や法律だけでなく人々の心を納得させる「物語」、すなわち、なぜ天皇がこの国を統治するのかその正統性を証明する「歴史」がどうしても必要だったのです。
1.1.1. 国内的要因:皇位継承の正当化
壬申の乱は天智天皇の子である大友皇子と天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間の、皇位継承を巡る争いでした。叔父が甥を倒して皇位を奪うというこの異例の事態は、天武天皇の支配の正統性に常に疑問符を投げかけるものでした。
記紀の編纂はこの天武朝の正統性を歴史的に、そして神話的に裏付けるという明確な目的を持っていました。記紀が描く皇位継承の物語の中には天武天皇の即位を正当化するための巧妙な伏線が、いくつも張り巡らされています。歴史を編纂する行為そのものが現実の政治闘争における強力な武器だったのです。
またそれまで各地の豪族たちはそれぞれが独自の祖先神話や由来を語る伝承(氏姓伝承)を持っていました。記紀はこれらのバラバラだった伝承を天皇家の神話を中心とする一つの巨大な物語体系の中に再編成し、位置づける役割も担っていました。これにより豪族たちは天皇を中心とする統一的な国家秩序の中に組み込まれていくことになります。
1.1.2. 国際的要因:対外的な国家意識の確立
7世紀の東アジアは唐という巨大な中華帝国が、その圧倒的な文明力と軍事力で君臨していました。663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗を喫した日本にとって、唐は畏怖すべき脅威であると同時に模倣すべき先進文明でした。
当時の東アジアの国際社会では国家として認められるためには、中国の王朝がそうであるように自国の起源から現在に至るまでを体系的に記述した「正史(せいし)」を持つことが一つのステータスでした。記紀の編纂、特に『日本書紀』のそれは日本が唐とは異なる独自の歴史と文化を持つ独立した国家であることを、対外的に宣言するという重要な外交的意味合いを持っていたのです。日本という国家の輪郭を「歴史」という形で国際社会に向けて提示する必要に迫られていたのです。
1.2. 二つの歴史書:それぞれの個性と役割
このように同じ天武天皇の命令から始まった記紀の編纂ですが、その成果物である『古事記』と『日本書紀』は内容、文体、そして想定される読者において全く異なる際立った個性を持っています。これは両者がそれぞれ異なる役割を担っていたことを示唆しています。
1.2.1. 『古事記』:国内向けの「神話的」物語
『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶(誦習)していた天皇家の神話や伝承を太安万侶(おおのやすまろ)が書き記して編纂したとされています。
- 内容と構成: 天地の始まり(天地開闢)から神々の誕生、国譲り神話、そして初代・神武天皇から推古天皇に至るまでの系譜と物語が中心となっています。特に神代(かみよ)の巻が全体の約3分の1を占め、出雲神話など日本独自の神話的要素が豊かに描かれています。
- 文体: 日本語の語りや歌謡をその響きを保ったまま、漢字の音と訓を巧みに使い分けて表記する特殊な「変体漢文」で書かれています。これにより物語は躍動感と詩的な響きを持っています。
- 目的: 全体として物語性に富み、天皇家の神聖な起源をドラマチックに語ることに重点が置かれています。その内容や文体から『古事記』は主に国内向け、特に皇族や貴族たちが自らのルーツと天皇支配の神話的正統性を学ぶための教科書的な役割を担っていたと考えられています。
1.2.2. 『日本書紀』:国際社会を意識した「公的」な正史
『古事記』の完成からわずか8年後に舎人親王(とねりしんのう)らが中心となって完成させたのが『日本書紀』です。
- 内容と構成: 神代から持統天皇の時代までをカバーし、その記述はより詳細で網羅的です。『古事記』には見られない多くの外交記録や政治的な出来事が含まれています。また一つの出来事に対して「一書に曰く(あるふみにいわく)」として複数の異伝を併記する、客観性を装う記述方法も特徴的です。
- 文体: 純粋な漢文体で書かれており、中国の公式な歴史書(正史)のスタイルを強く意識しています。年月日を正確に記す**編年体(へんねんたい)**という形式が採用されています。
- 目的: その体裁から『日本書紀』は日本初の公式な国家の歴史書、すなわち「正史」として位置づけられます。その漢文体の格調高い文章は明らかに当時の国際共通語であった漢文を解する唐や新羅といった海外の使節や知識人たちを読者として意識しています。日本が中国に比肩する由緒ある歴史を持つ独立した文明国であることを国際社会にアピールするための、国家の公式声明書としての役割が色濃く表れています。
『古事記』が天皇家の神聖な「ものがたり」を国内に語りかける内向きの書であるとすれば、『日本書紀』は日本という国家の「歴史」を国際社会に向けて堂々と主張する外向きの書であったと言えるでしょう。この二つの異なる性格を持つ歴史書を相補的に編纂したこと自体が、古代日本の為政者たちの高度な戦略的思考を示しています。
記紀の編纂は日本の歴史叙述の原点であると同時に、その後の歴史と権力の密接な関係を決定づけた出発点でもありました。歴史とはまず国家が自らを語るためのものであった。この事実はその後の日本の史学史を貫く一つの中核的な通奏低音となっていくのです。
2. 六国史
720年に完成した『日本書紀』は日本初の公式な国家の歴史書(正史)として、その後の歴史叙述の巨大な規範となりました。そしてその編纂事業は一代限りのものでは終わりませんでした。『日本書紀』の精神と形式を受け継ぎ国家が自らの手で自らの時代の公式記録を編纂し続けるという壮大なプロジェクトが、奈良時代から平安時代初期にかけて約200年間にわたって継続されたのです。この一連の国家による公式史書のことを総称して**「六国史(りっこくし)」**と呼びます。六国史の編纂は律令国家がその権威と統治能力を維持していた時代の象徴であり、その終焉はすなわち律令国家そのものの衰退と時代の大きな転換を告げるものでした。
2.1. 正史編纂という国家事業の継続
六国史とは以下の六つの勅撰(ちょくせん、天皇の命令によって編纂された)歴史書を指します。
- 『日本書紀(にほんしょき)』 (720年完成、30巻)
- 『続日本紀(しょくにほんぎ)』 (797年完成、40巻)
- 『日本後紀(にほんこうき)』 (840年完成、40巻)
- 『続日本後紀(しょくにほんこうき)』 (869年完成、20巻)
- 『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』 (879年完成、10巻)
- 『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 (901年完成、50巻)
これらの歴史書はすべていくつかの共通した特徴を持っています。
- 勅撰: すべて天皇の詔(みことのり)によって編纂が開始された国家事業でした。編纂には当代一流の貴族や学者が任命され、宮中の施設(撰国史所など)で作業が行われました。
- 編年体: 『日本書紀』の形式を忠実に踏襲し、年月日を追って出来事を記述する厳格な**編年体(へんねんたい)**で書かれています。
- 漢文体: 公的な記録として格調高い純粋な漢文で記述されています。
- 内容: 政治、儀式、人事、法律、祥瑞(しょうずい、吉兆)、災異(凶兆)といった国家の公的な出来事がその記述の中心を占めています。特に天皇や皇族、高位の貴族の薨去(こうきょ、死去)に際してはその人物の略伝(薨卒伝)が挿入されており、これは後の紀伝体の歴史物語に影響を与えたとも言われています。
六国史の編纂事業は中国の各王朝が前の王朝の歴史を正史として編纂するという伝統に倣ったものであり、日本の律令国家が自らを中華文明に比肩する永続的な国家であると自己認識していたことの力強い証左です。国家が存続する限りその公式の記録もまた永遠に書き継がれていくべきであるという思想が、その根底にはありました。
2.2. 各史書の特徴と時代の変遷
六国史は同じ形式を踏襲しながらも、それぞれの史書が編纂された時代の政治状況や社会の変化を色濃く反映しており、その記述のスタイルにも微妙な変化が見られます。
2.2.1. 『続日本紀』:奈良時代のダイナミズム
『続日本紀』は『日本書紀』の続きとして文武天皇の即位(697年)から桓武天皇の長岡京遷都(791年)までの約100年間、すなわち奈良時代全体をカバーする重要な史書です。
この時代は律令国家がその最盛期を迎え、平城京の建設、大仏造立といった国家的な大事業が行われた一方で、藤原氏の台頭、長屋王の変、橘奈良麻呂の乱といった激しい政治抗争が繰り広げられた動乱の時代でもありました。
『続日本紀』はこうした奈良時代の政治的・社会的なダイナミズムを比較的ありのままに記録しており、詔勅や上奏文などが豊富に引用されているため、この時代の一次史料として極めて高い価値を持っています。編纂には菅野真道(すがののまみち)や藤原継縄(ふじわらのつぐただ)といった桓武天皇の側近たちがあたり、桓武朝の正統性を強調する意図も見られます。
2.2.2. 「実録」への変化:記述対象の縮小
『日本後紀』以降の四つの史書は、その名称が「〜紀」から「〜実録」へと変化していることが注目されます。『日本後紀』や『続日本後紀』は複数の天皇の治世を扱っていますが、『文徳実録』と『三代実録』(清和・陽成・光孝天皇)はその名の通り天皇一代、あるいは三代の治世のみを対象としています。
これは歴史叙述の対象となる時間的なスパンが次第に短くなり、より同時代史的な性格を強めていったことを示しています。またその記述内容も政治的な大事件よりは、宮中での儀式や行事に関する記述の割合が増えていく傾向にあります。
この変化は律令国家のダイナミックな国づくりが一段落し、藤原氏の摂関政治が確立していく中で国家の関心が外的な発展から内的な秩序の維持や儀礼の遂行へと移っていった、時代の空気を反映しているのかもしれません。
2.3. 正史編纂の断絶とその歴史的意義
六国史の最後の史書である『日本三代実録』は901年(延喜元年)に完成しました。その編纂には菅原道真も関わっていました。
その後も醍醐天皇の治世を記録する次の正史『新国史(しんこくし)』の編纂が試みられましたがこれは未完成に終わり、以後朝廷による公式な正史の編纂事業は完全に途絶えてしまいます。
なぜ200年間も続いた国家事業が途絶えてしまったのでしょうか。その理由は複合的ですが、最大の要因は律令国家体制そのものが大きく変質してしまったことにあります。
- 摂関政治の確立: 藤原氏が摂政・関白として政治の実権を完全に掌握すると、天皇の政治的な実権は形骸化します。国家の意思決定が天皇の公的な朝議の場から藤原氏の私的な政庁(政所)へと移っていく中で、国家が統一的な意思をもって壮大な歴史編纂事業を遂行する動機と能力が失われていきました。
- 国風文化の隆盛: 遣唐使の廃止(894年)を象徴として中国文化の模倣から日本の風土に根差した独自の文化(国風文化)が隆盛します。この中で公式な記録である漢文よりも仮名文字を用いた物語や日記といった、より私的で情緒的な表現形式が好まれるようになり、厳格な漢文編年体の歴史叙述への関心が薄れていったことも一因と考えられます。
六国史の断絶は日本の古代国家の時代の終わりを告げる象徴的な出来事でした。それは国家が歴史を語る独占的な語り手であった時代の終焉を意味します。そしてこの公式な「正史」がもたらした空白の中に、次の時代、貴族や僧侶といった新たな語り手たちによる全く新しい形式の歴史叙述、すなわち「歴史物語」が生まれてくることになるのです。
3. 中世の歴史物語(『大鏡』)
901年に『日本三代実録』が完成して以降、朝廷による公式な正史(六国史)の編纂事業は途絶えてしまいます。この「正史の不在」という歴史叙述における空白の時代に、全く新しい形式と視点を持った歴史の語りが登場します。それが平安時代中期から鎌倉時代にかけて貴族社会で愛読された**「歴史物語」です。その嚆矢(こうし)であり最高傑作とされるのが、11世紀末から12世紀初頭にかけて成立した『大鏡(おおかがみ)』**です。六国史が国家の視点から漢文で出来事を年代順に記録した硬質な年代記であったのに対し、『大鏡』は貴族の視点から和文(日本語)で人物を中心に歴史を語る文学的な色彩の濃い物語でした。これは歴史の語り手が国家から個人(貴族)へと移ったことを示す、画期的な転換でした。
3.1. 「鏡物」の誕生:新しい歴史叙述の形式
『大鏡』はそのユニークな構成と語りの手法によって、後世の歴史物語に大きな影響を与えました。
3.1.1. 紀伝体と和文脈
『大鏡』は中国の司馬遷の『史記』に倣った**紀伝体(きでんたい)**に近い構成をとっています。すなわち文徳天皇から後一条天皇までの約170年間を、天皇ごとの「帝紀(ていき)」と藤原氏の主要な大臣たちの「列伝(れつでん)」を中心に構成されています。
この形式の最大の特徴は歴史を年月の流れとして客観的に記述するのではなく、個々の人物の生涯やエピソードを通じて立体的に描き出す点にあります。これにより読者は歴史をより人間味あふれるドラマとして楽しむことができました。
また文章は六国史のような格調高い漢文ではなく、当時の貴族たちが日常的に用いていた和文(和漢混淆文)で書かれています。これにより歴史は一部の漢学者だけのものではなく、女性を含むより広い貴族層が享受できる身近な読み物となったのです。
3.1.2. 語り手(ナレーター)の設定
『大鏡』の最も独創的な点は、物語全体が二人の非常に長生きな老人、**大宅世継(おおやけのよつぎ、190歳)と夏山繁樹(なつやまのしげき、180歳)**が、雲林院(うりんいん)の菩提講で若い侍に昔語りをするという会話形式で進行する点です。
この架空の語り手を設定するという文学的な手法は、いくつかの効果をもたらしました。
- 臨場感と信憑性: 語り手たちがまるで自らが直接見聞きしたかのように歴史上の出来事や人物の裏話を語ることで、物語に生き生きとした臨場感と信憑性を与えています。
- 多角的な視点: 語り手の個人的な感想や批評、時にはユーモラスなツッコミが随所に挟まれることで、歴史に対する多角的で人間的な視点が提示されます。これは国家の公式見解のみを記述する六国史には全く見られない特徴です。
- 歴史への批評精神: 老人たちはただ過去を語るだけでなく、その出来事の意味を問い人物の善悪を論じます。この歴史に対する批評的な精神こそが『大鏡』を単なる物語から優れた歴史叙述へと高めている重要な要素です。
3.2. 藤原氏の栄華を映す鏡
『大鏡』というタイトルの「鏡」は歴史を映し出して後世への教訓とするという意味が込められています。では『大鏡』は一体何を映し出そうとしたのでしょうか。その焦点が当てられているのは疑いようもなく藤原北家(ふじわらほっke)、特にその全盛期を築いた**藤原道長(ふじわらのみちなが)**の栄華でした。
3.2.1. 摂関政治の肯定
物語は藤原氏がいかにして他の氏族との政争に勝利し、天皇との外戚関係を巧みに利用して摂政・関白の地位を独占し、政治の実権を掌握していったかを克明に、そしてしばしば賞賛のトーンで描き出します。
特に藤原道長の時代は物語のクライマックスとして詳細に語られます。三人の娘を次々と天皇の后とし、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」と詠んだ道長の栄華の絶頂が生き生きと描き出されています。
このことから『大鏡』は藤原氏の一族あるいはその周辺にいる人物によって、摂関政治の正統性と輝かしい歴史を後世に伝えるために書かれた可能性が高いと考えられています。
3.2.2. 没落への予感
しかし『大鏡』は単なる藤原氏の礼賛の書ではありません。物語の端々には栄華を極めた道長の一族がやがて衰退していくことへの、かすかな予感や無常観も漂っています。
例えば道長のライバルであった藤原伊周(これちか)の悲劇的な失脚や、栄華を極めた道長自身の臨終の様子なども詳しく描かれており、いかなる権力者もやがては死を迎えその権勢も永遠ではないという仏教的な無常の思想が底流に流れています。
この栄華とその裏にある影を同時に描き出す複眼的な視点が、『大鏡』に深い文学的な奥行きを与えています。
3.3. 歴史物語の展開
『大鏡』の成功はその形式を模倣した多くの歴史物語を生み出しました。これらは『大鏡』と合わせて**「四鏡(しきょう)」**と呼ばれます。
- 『今鏡(いまかがみ)』: 『大鏡』の後の時代を扱う。
- 『水鏡(みずかがみ)』: 『大鏡』の前の時代(神武天皇から文徳天皇まで)を扱う。
- 『増鏡(ますかがみ)』: 鎌倉時代を中心に扱う最後の鏡物。
これらの歴史物語の登場は日本の歴史叙述における大きな転換を示しています。歴史はもはや国家が独占的に語る公的な記録ではなく、貴族たちが自らの一族のアイデンティティを確認し過去を教訓として学ぶための、私的な教養の一部へとその性格を変えていきました。そしてこの歴史を個人の視点から解釈し、その背後にある意味を読み解こうとする批評的な精神は次の時代に登場する日本初の歴史哲学書、『愚管抄』へと受け継がれていくことになるのです。
4. 『愚管抄』
中世の日本において歴史の語りが国家の年代記(六国史)から貴族の物語(歴史物語)へとその姿を変えた後、さらに、もう一段階深い知的深化を遂げます。歴史を単に出来事の記録や人物の逸話として語るのではなく、その激しい変化の背後に流れる何らかの普遍的な法則性や原理を見出そうとする試みです。この日本における最初の本格的な歴史哲学書あるいは史論書と位置づけられるのが、鎌倉時代初期の天台宗の高僧**慈円(じえん)によって著された『愚管抄(ぐかんしょう)』**です。動乱の時代の真っ只中に生きた慈円が、歴史の大きなうねりをどのように理解しようとしたのか。その独自の歴史観は日本の思想史上、画期的なものでした。
4.1. 動乱の時代と著者の意図
『愚管抄』という書物を理解するためには、それが書かれた時代背景と著者である慈円という人物について知ることが不可欠です。
4.1.1. 武士の台頭と公家社会の動揺
慈円が生きた12世紀末から13世紀初頭は、日本の社会構造が根底から覆されようとしていた激動の時代でした。治承・寿永の乱(源平の争乱)を経て貴族(公家)に代わり武士が政治の実権を握り、鎌倉幕府が樹立されます。しかしその後も朝廷(院)と幕府の間の緊張関係は続き、いつ再び大規模な戦乱が起きてもおかしくない不安定な状況が続いていました。
慈円は当時の最高権力者であった摂政・関白、藤原(九条)兼実(かねざね)の実の弟であり、自らも天台座主(てんだいざす、比叡山延暦寺の最高の位)を四度も務めた公家社会のまさに中心にいた人物です。彼の目にはかつて栄華を極めた公家社会がなぜこのように衰退し、粗野な武士たちが世を支配するようになったのかという痛切な問いが常にありました。『愚管抄』はこの歴史の巨大な変動を目の当たりにした当代の最高知識人が、その原因と意味を解き明かしようとした知的格闘の記録なのです。
4.1.2. 執筆の目的
『愚管抄』は承久の乱(1221年)の直前に完成したとされています。この朝廷と幕府の全面衝突が目前に迫る中で、慈円はこの書を時の権力者たち(後鳥羽上皇や鎌倉幕府の要人)に読ませることで歴史の大きな流れを理解させ、破滅的な衝突を回避させようとしたという極めて実践的な政治的意図を持っていたと考えられています。
4.2. 「道理」という歴史観
慈円が歴史を解釈するために用いた中心的な概念が、**「道理(どうり)」**という独自の歴史観でした。
4.2.1. 歴史を貫く法則性
慈円にとって歴史上の出来事は決して偶然や個人の気まぐれによって起こるものではありませんでした。その背後には時代を貫いて流れる一種の必然的な法則性、すなわち「道理」が存在すると考えました。そして歴史を学ぶことの目的とはこの「道理」を正しく認識し、その「道理」に従って行動することにあると説いたのです。
この歴史の背後に法則性を見出そうとする態度は、単なる出来事の羅列に過ぎなかったそれまでの歴史叙述とは一線を画すまさに哲学的なアプローチでした。
4.2.2. 末法思想との結合
慈円が考えた「道理」は仏教の**末法思想(まっぽうしそう)**と深く結びついていました。末法思想とは釈迦の入滅後、時代が下るにつれて仏の教えが次第に衰え世の中が乱れていくという歴史観です。
慈円はこの末法思想を日本の歴史に適用し、神武天皇の即位から始まる日本の歴史を仏法が栄えた正法の時代から次第に衰退していく末法の時代へと時代区分しました。そして公家社会の衰退と武士の台頭という現代の混乱は、まさにこの「末法の道理」の現れであると捉えたのです。
つまり武士の登場は嘆かわしい出来事ではあるが、それは末法の世の道理として起こるべくして起こった必然的な歴史の流れであり、もはやその流れに抗うことはできないというある種の歴史的諦観がその根底にはありました。
4.3. 『愚管抄』の構成と歴史的意義
『愚管抄』は全7巻からなり、神武天皇から順徳天皇の時代までを扱っています。
- 構成: 第1巻と第2巻では神武天皇から始まる天皇の年代記が記されます。第3巻から第6巻では慈円の中心的な関心事である摂関家の歴史と承久の乱に至る公武関係の推移が詳細に論じられます。そして最後の第7巻で自らの歴史観である「道理」について総括的に述べています。
- 史料的価値: 慈円は公家社会の最高指導者の一人として当時の政治の裏情報にも通じていました。そのため『愚管抄』には他の記録には見られない貴重な史実が数多く含まれており、鎌倉時代初期の政治史を研究する上での第一級の史料とされています。
『愚管抄』の歴史的意義は計り知れません。それは日本で初めて歴史を単なる過去の物語から、法則性を持った分析と解釈の対象へと引き上げた画期的な著作でした。慈円の史観は仏教的な宿命論に強く彩られてはいますが、激動する社会の現実と正面から向き合い、その中に何らかの意味と秩序を見出そうとしたその真摯な知的態度は日本の思想史に大きな足跡を残したのです。この歴史を通じて現代を理解し未来を展望しようとする精神は、形を変えながらその後の日本の歴史叙述にも受け継がれていくことになります。
5. 近世の儒教的史観(『大日本史』)
鎌倉時代に慈円が『愚管抄』で歴史の背後に流れる「道理」を問うて以降、日本の歴史叙述は再び大きな変貌を遂げます。江戸時代、徳川幕府の下で250年以上にわたる安定した泰平の世が訪れると、学問の中心的な担い手は武士階級、特に儒学を修めた学者たちとなりました。彼らが歴史を著述する際にその最も重要な羅針盤としたのが儒教、特に宋の時代に朱熹(しゅき)が大成した**朱子学(しゅしがく)の思想でした。この儒教的な歴史観に基づいて編纂された歴史書の最高峰であり、そしてその後の日本の歴史認識に最も profound な影響を与えたのが、水戸藩が藩の事業として編纂した『大日本史(だいにほんし)』**です。
5.1. 水戸学の始まり:徳川光圀の理想
『大日本史』の編纂事業は一人の傑出した大名の壮大な文化的野心から始まりました。その人物こそ徳川御三家の一つ、水戸藩の第二代藩主徳川光圀(とくがわみつくに)、すなわち「水戸黄門」として広く知られる人物です。
光圀は若き頃、司馬遷の『史記』を読み深く感銘を受け、日本にもこれに匹敵する本格的な紀伝体の正史が必要であると痛感します。彼の目的は単に過去の事実を記録することに留まりませんでした。彼は朱子学の理念に基づき歴史を通じて日本における正しい君臣の関係、国家のあるべき姿を明らかにし、それを後世の人々のための道徳的な規範として示そうとしたのです。
この壮大な構想を実現するため光圀は1657年、江戸の藩邸に史局(後の彰考館)を設置し、全国から林羅山の子である林鵞峰(はやしがほう)や朱舜水(しゅしゅんすい)といった当代一流の学者たちを数多く招聘しました。こうして日本の古代から南北朝時代までをカバーする巨大な歴史編纂プロジェクトが開始されたのです。この水戸藩で育まれた独自の学問と思想は後に**「水戸学(みとがく)」**と呼ばれ、日本の近世思想史に大きな足跡を残すことになります。
5.2. 『大日本史』を貫く歴史観:「大義名分論」
『大日本史』の編纂方針を貫く中心的なイデオロギーが、朱子学の**「大義名分論(たいぎめいぶんろん)」**でした。
- 大義名分論とは: これは「大義」、すなわち人としてまた臣として守るべき最も重要な道義を明らかにし、「名分」、すなわちそれぞれの身分や立場にふさわしい役割と責任を明確にすべきであるという思想です。これを歴史に適用すると歴史上の人物や出来事をこの君臣の道徳的な規範に照らして厳しく評価し、その善悪、正閏(せいじゅん、正統か否か)を判定することになります。歴史とは道徳的な価値判断の法廷でなければならないという考え方です。
- 天皇中心の史観: 『大日本史』がこの大義名分論に基づいて打ち立てた歴史観の最大の特徴は、その徹底した天皇中心主義にあります。日本の歴史における唯一絶対の正統な支配者は天皇であり、いかなる時代の摂政・関白あるいは征夷大将軍もその臣下としての名分をわきまえるべきであるという立場を鮮明にしました。
- 南朝正統論: この歴史観が最も先鋭的に現れたのが南北朝時代の扱いです。当時の幕府の公式見解では京都にあり足利将軍家が擁立した北朝が正統とされていました。しかし『大日本史』の編纂者たちは天皇の正統性の証である三種の神器を保持していたのは吉野の南朝であるとして、南朝こそが正統な皇統であるという画期的な結論を下しました。これは時の権力者(足利氏、ひいては徳川氏)の都合よりも天皇の血統という絶対的な価値を優先する、水戸学の思想を象徴するものでした。
5.3. 編纂事業の継続とその歴史的インパクト
『大日本史』の編纂は光圀一代では到底終わるはずもない巨大な事業でした。彼の死後もその遺志は水戸藩の歴代藩主に受け継がれ、藩の一大事業として継続されていきます。本紀(天皇の記録)と列伝(臣下の記録)が一応の完成を見るのは編纂開始から約150年後の18世紀末のことです。そして最終的に全397巻(目録5巻を含む)が完成し明治天皇に献上されたのは、実に編纂開始から250年後の1906年(明治39年)のことでした。
この気の遠くなるような編纂事業がその後の日本の歴史に与えた影響は計り知れません。
特に幕末期において『大日本史』が示した**尊王論(そんのうろん)**的な歴史観は、水戸学の思想家、会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論』などを通じて全国の武士や知識人に大きな思想的影響を与えました。
「日本の正統な支配者は天皇である。しかるに現在の幕府はその臣下としての名分を忘れ、外国の圧力の前に屈している。天皇の尊厳を守り外国を打ち払うべきである(尊王攘夷)」。
この尊王攘夷運動の思想的なバックボーンを提供したのが他ならぬ水戸学であり、『大日本史』だったのです。皮肉なことに徳川御三家の一角である水戸藩が始めた歴史編纂事業が、その徳川幕府を打倒するイデオロギーを生み出す源泉の一つとなったのでした。
『大日本史』は歴史叙述が単なる過去の記録ではなく現代の価値観を反映し、そして未来の政治行動を方向づける強力な力となりうることを示す最も劇的な実例です。この歴史とイデオロギーの密接な結びつきは、次の時代、国学の登場によってさらにその純度を高めていくことになります。
6. 国学の歴史研究
江戸時代中期に徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂が儒教的な価値観から日本の歴史を再構築しようとする試みであったとすれば、それとほぼ時を同じくして全く異なるアプローチから日本の古代とその精神を探求しようとする新しい学問の潮流が生まれます。それが**「国学(こくがく)」です。国学は儒教や仏教といった大陸から渡来した外来思想(「漢意(からごころ)」)の影響を受ける以前の古代日本に存在したはずの、純粋で素朴な精神(「古道(こどう)」や「真心(まごころ)」)を明らかにすることを目指しました。その研究手法は朱子学のような哲学的な思弁ではなく『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった日本の古典文献を厳密に読み解く文献学(ぶんけんがく)**的なアプローチを特徴とします。この国学の歴史研究は日本の歴史認識に新たな視点をもたらし、幕末の尊王思想に大きな影響を与えることになります。
6.1. 国学の成立:契沖から荷田春満へ
国学の源流は江戸時代前期の僧侶**契沖(けいちゅう)**による『万葉集』の実証的な研究に求められます。彼はそれまでの歌学者たちの観念的な解釈を排し、徹底した文献考証によって万葉仮名の一字一句を解読し古代人の言葉と心をありのままに理解しようとしました。
この契沖の実証的な文献学の精神を受け継ぎ、国学を一つの学問体系として確立する道を開いたのが**荷田春満(かだのあずままろ)**です。彼は古代の法制や儀式を研究する中で儒教的な解釈の限界を感じ、日本固有の思想を探求する必要性を痛感しました。
6.2. 賀茂真淵と「ますらをぶり」の発見
荷田春満の弟子である**賀茂真淵(かものまぶち)は国学の研究対象を『万葉集』に集中させます。彼は『万葉集』の中に大陸の儒教的な道徳思想に汚染されていない古代日本人のまっすぐで力強い精神性、すなわち「ますらをぶり(男性的で雄大な気風)」**を見出しました。
真淵はこの古代の素朴な精神が後世、儒教のような小賢しい知恵によって失われてしまったと嘆きました。彼の研究は歴史を価値の源泉が過去の理想的な時代にあり、時代が下るにつれてその理想が失われていくという「退化史観」の側面を持っていました。
6.3. 本居宣長による国学の大成
賀茂真淵の弟子であり国学をその学問的な頂点にまで高めたのが、伊勢・松阪の医師であった**本居宣長(もとおりのりなが)です。宣長はその生涯の大半を費やして『古事記』の精密な文献学的研究に取り組み、その成果を『古事記伝(こじきでん)』**としてまとめ上げました。
6.3.1. 「漢意」の排除と「真心」の探求
宣長の研究方法の根幹をなすのが、儒教や仏教といった外来思想の色眼鏡(漢意)を徹底的に排除して古代の文献を虚心に読むという姿勢でした。彼は古代の神々の物語を後世の道徳観で合理的に解釈しようとすることを厳しく批判します。
例えば天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸に隠れてしまうという神話に対して、儒学者は「君主が民を見捨てるなど不徳である」と批判します。しかし宣長はそうした後付けの道徳的な解釈を退け、神々の行動は人間の善悪の基準を超えたものでありただその物語をありのままに受け入れるべきだと主張しました。
彼は『源氏物語』の研究を通じて文学の本質は道徳的な教訓にあるのではなく、物事に触れて自然に湧き上がるしみじみとした感情すなわち**「もののあはれ」にあると論じました。そしてこの「もののあはれ」を知る純粋な人間の心「真心(まごころ)」**こそが、儒教に汚染される以前の日本人が持っていた本来の精神であると考えたのです。
6.3.2. 古道思想と天皇中心史観
宣長は『古事記』の研究を通じて古代日本固有の宗教・政治思想、すなわち**「古道(こどう)」**を明らかにしようとしました。
彼によれば古道とは天照大神の神勅(しんちょく)によってその子孫である天皇がこの国を永遠に治めるという、素朴な信仰の道です。そこには儒教のような複雑な理論は必要ありません。天皇が国を治め民はそれにただ従う。それが神代から続く日本の自然なあり方なのだと説きました。
この宣長の思想は結果として水戸学とは全く異なるアプローチから、天皇の絶対的な権威を歴史的に基礎づける強力なイデオロギーを提供することになりました。
6.4. 平田篤胤と国学の宗教化・政治化
本居宣長の死後、その弟子を自称した**平田篤胤(ひらたあつたね)**によって国学はさらにその性格を変貌させます。
篤胤は宣長の文献学的な実証精神よりも、その思想の宗教的な側面を純化・先鋭化させました。彼は幽冥界(死後の世界)の存在を論じ、国学を一種の**復古神道(ふっこしんとう)**とでも言うべき宗教運動へと発展させます。
また彼の思想は日本の神国としての優位性を強く主張する国粋主義的な色彩を帯びていました。この平田国学は幕末期、尊王攘夷を掲げる多くの志士たちに熱狂的に受け入れられ、彼らの討幕運動の精神的な支柱の一つとなったのです。
国学の歴史研究は契沖の実証的な文献学から始まりましたが、宣長を経て篤胤に至る過程で次第に日本の文化的な優位性と天皇中心の国体の正統性を主張する強力なイデオロギーへとその性格を変えていきました。儒教的な大義名分論を掲げる水戸学と日本固有の古道を主張する国学。この二つの尊王論的な歴史観が合流した地点で、幕末の討幕運動はその思想的なエネルギーを獲得したのです。
7. 近代の実証主義的歴史学
明治維新によって日本が近代国家への道を歩み始めると、学問の世界にも西洋から新しい思想と方法論が怒涛のように流れ込んできます。歴史学の分野においてこの西洋からの知的インパクトはまさに革命的でした。それまで日本の歴史叙述を支配してきた儒教的な価値判断(水戸学)や国学的な神話的信仰とは全く異なる、新しい歴史学のあり方が提示されたのです。それが19世紀のドイツで確立された**実証主義的歴史学(じっしょうしゅぎてきれきしがく)**でした。この新しい学問は「歴史」を道徳や神話から切り離し、厳密な史料の批判的検討に基づいて客観的な事実を探求する「科学」であると宣言しました。この近代歴史学の導入は日本の大学アカデミズムにおける歴史研究の基礎を築きましたが、それは同時に日本の伝統的な歴史観との深刻な対立と葛藤の始まりでもありました。
7.1. ランケと「科学としての歴史」
近代の実証主義的歴史学の祖とされるのが、ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケです。彼の歴史学における貢献は絶大でした。
ランケが主張した歴史学の目標はあまりにも有名です。それは**「ただそれが本来いかにあったか(wie es eigentlich gewesen)」**を示すこと。すなわち歴史家は自らの主観的な価値判断や道徳的な教訓を歴史に持ち込むべきではなく、過去の出来事をありのままに客観的に叙述することに徹するべきであると説いたのです。
この客観的な事実を確定するための唯一の方法が**史料批判(しりょうひはん)**でした。歴史家は後世に書かれた二次的な文献(歴史物語など)ではなく、その出来事が起こった当時に作成された一次史料(古文書、日記、公的記録など)を徹底的に収集し、その史料が本物であるかその記述は信頼できるかを厳密に吟味しなければならない。この科学的で厳密な手続きを経て初めて歴史的な事実が確定されるのだと、ランケは考えました。
このランケ流の実証主義歴史学は19世紀のヨーロッパの歴史学界を席巻し、歴史学を文学や哲学から独立した一つの近代的な専門科学へとその地位を高めたのです。
7.2. 日本への導入とアカデミズムの形成
この新しい歴史学を日本に本格的に導入したのは、明治政府が招聘したお雇い外国人の一人、ドイツ人歴史家ルートヴィヒ・リースでした。彼は1887年から新設された帝国大学(後の東京大学)の史学科で、ランケ流の実証主義歴史学を日本の若きエリートたちに教えました。
リースの教えは日本の学生たちに大きな衝撃を与えました。彼らは歴史を科学的に研究するための具体的な方法論、すなわち史料の収集、整理、読解、そして批判的検討という一連の技術を初めて体系的に学びました。
リースの下で学んだ坪井九馬三(つぼいくめぞう)や中田薫(なかだかおる)といった第一世代の日本人歴史学者たちは、やがて東京帝国大学の教授となり日本の近代歴史学アカデミズムの基礎を築き上げていきます。彼らは史学会を設立し学術雑誌『史学雑誌』を創刊するなど、日本におけるプロの歴史家集団を形成していきました。
この東大史学科を中心とするアカデミズム歴史学は**「実証史学」あるいは「官学アカデミズム」**と呼ばれ、その後の日本の歴史研究の主流を形成することになります。
7.3. 伝統的歴史観との衝突:久米邦武事件
しかしこの科学的で客観的な歴史研究は、すぐに日本の伝統的な価値観や国家が推進しようとしていたイデオロギーと深刻な衝突を引き起こします。その象徴的な事件が1892年(明治25年)に起こった**久米邦武筆禍事件(くめくにたけひっかじけん)**です。
久米邦武は帝国大学の同僚教授であり日本の古代史を専門とする、実証史学の代表的な学者でした。彼は学術雑誌に「神道は祭天の古俗」と題する論文を発表します。
その中で久米は実証史学の立場から、神道は高度な宗教や道徳体系ではなく自然を崇拝する古代の素朴な信仰(古俗)に過ぎないと論じました。そして記紀神話に登場する三種の神器も後世に考え出されたものであり、歴史的実在性は疑わしいと示唆したのです。
この純粋に学問的な論文に対して神道家や国粋主義者たちが激しく反発します。彼らは「神道を侮辱し皇室の尊厳を傷つける不敬な議論である」として久米を激しく攻撃しました。この政治的な圧力の前に文部省は屈し、久米は帝国大学教授の職を辞任せざるを得なくなりました。
この久米邦武事件は明治時代の日本において「学問の自由」がいかに脆弱なものであったかを示す、象徴的な出来事でした。それは神聖視された皇室や神道の起源に関する領域では科学的な実証主義よりも国家のイデオロギーが優先されるという、危険な前例を作ったのです。
近代の実証主義的歴史学は日本に歴史を科学として研究するための強固な方法論をもたらしました。しかしその科学的な探究心は常に国家が求める「国民の物語」との間で緊張関係に置かれることになります。そしてこの後、時代がナショナリズムと軍国主義へと傾斜していく中で学問の自律性は次第に失われ、歴史学は国家のイデオロギーに奉仕する道具へとその姿を変貌させていくことになるのです。
8. 皇国史観
近代的な実証主義歴史学が日本の大学アカデミズムに根付き始めた一方で、明治中期以降の日本社会は日清・日露戦争の勝利を経て急速に国家主義的な色彩を強めていきます。教育勅語の発布(1890年)を契機として学校教育を通じて国民に忠君愛国の道徳を植え付ける動きが本格化する中で、歴史教育もまたその重要な一翼を担うことになります。この過程で学問的な客観性よりも国家への忠誠心を涵養することを第一の目的とする特定の歴史観が形成され、社会全体に広まっていきました。それが**「皇国史観(こうこくしかん)」**です。この歴史観は大正デモクラシーの時期に一時的に後退しますが昭和に入り軍部が台頭すると再びその影響力を増大させ、1930年代から敗戦に至るまで日本の公式な歴史観として絶対的な地位を占めることになります。
8.1. 皇国史観の形成とその論理
皇国史観とは特定の学説や人物の思想を指すというよりも、近代日本の天皇制国家がその正統性を自己主張するために構築した一種の公定的な歴史解釈の体系です。その根底にあるのは水戸学や国学の思想を近代的な国家主義と結びつけた、以下のような論理でした。
- 万世一系の天皇: 日本の歴史の中心には常に神代の天照大神の直系の子孫である天皇が存在してきた。この皇統は一度も途切れることなく永遠に続く(万世一系)、世界に類を見ない神聖なものである。
- 国体の精華: この天皇を中心とする日本の国家体制(国体)は西洋の国々とは根本的に異なる優れたものである。日本の歴史とはこの比類なき国体を守り発展させてきた輝かしい物語である。
- 神話と歴史の一体化: 『古事記』や『日本書紀』に記された神々の物語は単なる神話ではなく歴史的な事実である。したがって初代・神武天皇の即位(紀元前660年とされる)を日本の歴史の起点とすべきである(紀元節)。
- 忠君愛国の強調: 日本国民の最高の道徳はこの神聖な天皇に対して絶対的な忠誠を誓い、国のために自らを犠牲にすること(滅私奉公)である。歴史教育の目的はこの忠君愛国の精神を国民に植え付けることにある。
8.2. 歴史教育における皇国史観の浸透
この皇国史観は特に学校で使われる国定教科書を通じて、全国の子供たちに徹底的に教え込まれました。
明治政府は当初検定教科書制度を採用していましたが日露戦争後の国家主義的な高揚の中で1903年、小学校の教科書をすべて文部省が著作・発行する国定教科書制度へと移行します。
この国定の歴史教科書(「尋常小学日本歴史」など)はまさに皇国史観の体現でした。その冒頭は常に神々の物語から始まり、歴代天皇の事績がその中心に据えられました。楠木正成は南朝の後醍醐天皇に最後まで忠義を尽くした「忠臣の鑑」として最大限に称賛され、逆に幕府を開いた足利尊氏は天皇に弓を引いた「逆賊」として断罪されました。
子供たちはこうした善悪二元論的な道徳的な物語として歴史を学ぶことで、天皇への絶対的な崇敬の念と国家への自己犠牲の精神を知らず知らずのうちに内面化していったのです。
8.3. 学問への弾圧とイデオロギーの暴走
1930年代に満州事変以降、軍部が政治の実権を握り日本が戦時体制へと突き進む中で皇国史観はもはや単なる歴史解釈の一つではなく、それに異を唱えることを許さない絶対的な国家イデオロギーと化します。学問の自由は完全に踏みにじられ、皇国史観に合わない学説は容赦なく弾圧されました。
- 天皇機関説事件(1935年): 東京帝国大学教授の美濃部達吉が唱えた「天皇は国家の最高の機関である」とする憲法学説(天皇機関説)が、「天皇の神聖を冒涜するものである」として軍部や右翼によって激しく攻撃され、美濃部は貴族院議員の辞職を余儀なくされその著書は発禁処分となりました。これは学問的な見解が政治的な圧力によって抹殺された象徴的な事件でした。
- 津田左右吉事件(1940年): 早稲田大学教授の津田左右吉は実証的な古代史研究の第一人者でした。彼はその著書の中で記紀の神代の物語を後世に作られた神話であると論じました。この純粋に学問的な研究に対して「皇室の尊厳を冒涜した」として津田は起訴され、その著書は発禁となりました。
これらの事件はもはや日本の学問の世界に、皇国史観というイデオロギーに抗する力が残されていなかったことを示しています。
国体の本義と臣民の道
1937年、文部省は**『国体の本義(こくたいのほんぎ)』**という小冊子を発行し全国の学校や官公庁に配布しました。これは皇国史観のいわばバイブルとも言うべきもので、日本の国体がいかに世界に冠たる優れたものであるかを説き、国民に対して「忠孝一本」「滅私奉公」の精神を徹底させようとするものでした。
皇国史観は科学的な歴史学をイデオロギーの侍女へと転落させ、国民の批判的な思考能力を奪い彼らを無謀な戦争へと精神的に動員する上で極めて大きな役割を果たしました。歴史が特定の政治的な目的のために利用され歪められた時、それがいかに恐ろしい結果を招くか。皇国史観の興亡はその最も痛ましい歴史的教訓を私たちに示しています。そしてこの極端なイデオロギーの崩壊の中から、戦後の歴史学は全く新しい出発を余儀なくされることになるのです。
9. 戦後のマルクス主義歴史学
1945年8月の敗戦とそれに続くGHQによる占領は、日本の社会と価値観にまさにコペルニクス的な転換をもたらしました。戦前・戦中の日本を精神的に支配した皇国史観はその絶対的な権威を完全に失墜し、歴史学の世界には巨大な思想的空白が生じました。この空白を埋める形で戦後の歴史学界の新たな主流派として圧倒的な影響力を持ったのがマルクス主義歴史学、すなわち**唯物史観(ゆいぶつしかん)**でした。戦前には治安維持法の下で厳しく弾圧されていたこの歴史観が戦後の「民主化」の気運の中で、いわば皇国史観のアンチテーゼとしてアカデミズムの中心に躍り出たのです。
9.1. 唯物史観とは何か:新しい歴史の捉え方
マルクス主義歴史学はそれまでの歴史学とは全く異なる視点から歴史を捉えようとします。
- 歴史の原動力は「経済」: 唯物史観の根本にあるのは歴史を動かす最も基本的な原動力は思想や政治ではなく経済、すなわち生産力の発展とそれに伴う**生産関係(社会の階級構造)**の変化であるという考え方です。
- 階級闘争の歴史: 歴史とは生産手段を持つ支配階級(領主、資本家など)と持たざる被支配階級(農奴、労働者など)との間の絶えざる階級闘争の過程であると捉えます。
- 歴史の発展段階説: すべての社会は原始共産制 → 古代奴隷制 → 中世封建制 → 近代資本主義 → そして未来の社会主義・共産主義へという普遍的な発展段階を経て進化していくという法則性を見出そうとします。
この唯物史観のレンズを通して日本の歴史を見ると、それまでとは全く異なる風景が見えてきます。
歴史の主役はもはや天皇や将軍、英雄といった支配者たちではありません。歴史の真の主役は名もなき農民や労働者といった人民であり、彼らが支配者の搾取や圧制に対していかに抵抗し闘ってきたか(一揆、打ちこわし、労働争議など)こそが歴史の発展を推し進めた原動力であると考えられました。
9.2. 戦後歴史学における貢献と影響
このマルクス主義歴史学は戦後の日本の歴史研究に、いくつかの重要な貢献をしました。
9.2.1. 皇国史観の克服
唯物史観は天皇を中心とする超国家主義的な皇国史観をその根底から批判するための、最も強力な理論的武器となりました。それは歴史を支配者の物語から人民の物語へと転換させ、戦前の歴史観がいかに非科学的でイデオロギー的に歪められたものであったかを白日の下に晒しました。
9.2.2. 社会経済史研究の深化
唯物史観は研究者の目をそれまであまり注目されてこなかった社会の経済的な側面に向けさせました。荘園制の構造、村落共同体のあり方、産業資本の成立過程といった社会経済史の分野の研究が飛躍的に進展しました。これにより日本の歴史像はより重層的で立体的なものとなりました。
9.2.3. 歴史学と社会運動の連携
戦後のマルクス主義歴史学は単に大学の研究室に留まる学問ではありませんでした。多くの歴史家たちは自らの研究がより良い民主的な社会を築くための実践的な力となると信じ、平和運動や労働運動、そして歴史教育の民主化を求める運動(家永教科書裁判など)に積極的に関わりました。**歴史学研究会(歴研)**などはその中心的な役割を果たしました。
9.3. マルクス主義歴史学の限界と変容
1950年代から60年代にかけてその黄金時代を迎えたマルクス主義歴史学ですが、1970年代以降次第にその影響力は相対的に低下しその理論的な枠組みも様々な批判に晒されるようになります。
- 理論の教条化: 一部の研究において日本の複雑な歴史の現実を唯物史観の普遍的な発展段階説の枠組みに無理やり当てはめようとする、教条主義的な傾向が見られました。例えば日本の古代史に「奴隷制」が存在したか否かを巡る論争(奴隷制論争)はその典型です。
- 経済への過度な還元主義: すべての文化的なあるいは政治的な現象を経済的な下部構造に還元して説明しようとする傾向は、人間の精神活動や文化の持つ独自の役割を軽視するものであるという批判がなされました。
- ソ連・東欧社会主義の崩壊: 1980年代末から90年代初頭にかけてのソ連・東欧の社会主義国家の崩壊は、その理論的な到達点とされた社会主義・共産主義への信頼を根底から揺るがし、マルクス主義歴史学の求心力を大きく低下させる決定的な一撃となりました。
これらの内外の要因によってマルクス主義歴史学は、もはや日本の歴史学界を支配する唯一のパラダイムではなくなりました。
しかしそれはマルクス主義歴史学が無価値になったことを意味するものではありません。それが切り拓いた社会経済史的な視点や権力に対する批判的な精神は、その後の歴史研究にも深く受け継がれています。
1980年代以降日本の歴史学は一つの巨大な物語(グランド・ナラティブ)が支配する時代から、個人の生活や心性、ジェンダー、あるいは環境といったよりミクロで多様なテーマを扱う社会史や文化史の時代へと移行していきます。マルクス主義歴史学の相対化は日本の歴史学がより豊かで多様な学問へと成熟していく、過程の一部であったと言うことができるでしょう。
10. 現代の歴史認識問題
戦後の歴史学界を席巻したマルクス主義歴史学という大きなパラダイムが相対化された1980年代以降、日本の歴史研究は多様化の時代を迎えます。もはや「唯一の正しい歴史像」を提示する単一の権威は存在しなくなり、様々なアプローチから過去を問い直す試みが活発になりました。しかしこの歴史観の多様化と価値観の相対化は、同時に社会全体で共有できる歴史の共通基盤が揺らぐという事態も引き起こしました。特に近現代史、とりわけ日本のアジア・太平洋戦争を巡る解釈について、専門的な歴史研究の成果と一部の政治家やメディアが主張する歴史観との間に大きな乖離が生じ、それが国内の政治問題さらには近隣諸国との深刻な外交問題へと発展するケースが頻発しています。これが現代日本が直面する**「歴史認識問題」**です。
10.1. 教科書問題:歴史教育を巡る対立
歴史認識問題が最も先鋭的に現れる舞台の一つが、学校で使われる歴史教科書を巡る問題です。
10.1.1. 家永教科書裁判
戦後の歴史教科書問題の原点となったのが高名な歴史学者であった**家永三郎(いえながさぶろう)**が国(文部省)を相手取って起こした一連の裁判(家永教科書裁判)です。
家永は自らが執筆した高校日本史の教科書の中で南京大虐殺や731部隊の残虐行為など日本軍の加害行為について記述しましたが、文部省の教科書検定はこれらの記述を「客観的でない」「生徒に誤解を与える」などとして修正を求めました。これに対し家永は「検定は学問の自由と教育の自由を侵害する憲法違反の制度である」として、1965年から30年以上にわたり国を訴え続けました。
この裁判は日本の戦争責任をどのように歴史教育で扱うべきかという根本的な問題を社会に問いかけ、大きな論争を巻き起こしました。
10.1.2. 「新しい歴史教科書をつくる会」の登場
1990年代後半になるとこれまでの歴史教科書が日本の歴史を暗いものとして描きすぎる「自虐史観」に陥っていると批判し、「子供たちが自国の歴史に誇りを持てるような新しい歴史教科書」の作成を目指す**「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」**が登場します。
彼らが作成した教科書は日本の侵略戦争の側面を薄め大東亜戦争の肯定的な側面を強調するなどの特徴を持ち、その採択を巡って各地で大きな政治的な対立を生み出しました。またこの教科書は中国や韓国といった近隣諸国から「日本の侵略の歴史を美化するものだ」として厳しい批判を浴び、深刻な外交問題へと発展しました。
10.2. 近隣諸国との歴史認識の摩擦
日本の近現代史、特に植民地支配と侵略戦争に関する歴史認識は、中国、韓国、北朝鮮といった東アジアの近隣諸国との間で今なお最も敏感で困難な外交上の懸案事項となっています。
- 靖国神社問題: A級戦犯が合祀されている靖国神社に日本の首相や閣僚が参拝することは、中国や韓国から「過去の侵略戦争を正当化する行為である」として常に厳しい抗議を受けています。これは戦争の犠牲者をどのように追悼すべきかという国内の宗教的・文化的な問題と、侵略の歴史に対する国際的な責任の問題が複雑に絡み合った極めて難しい問題です。
- 「従軍慰安婦」問題: 戦時中に日本軍が設置した慰安所に強制的に連れてこられ性的奉仕を強いられた女性たちの人権問題を巡っては、その強制性の有無や国家の責任のあり方について日韓両国間で見解の対立が続いています。
- 南京大虐殺問題: 1937年に旧日本軍が南京を占領した際に多数の中国人捕虜や民間人を殺害したとされる事件を巡っても、その犠牲者数や虐殺の実態について日中双方の歴史認識の間に大きな隔たりが存在します。
これらの問題の根底にあるのは加害者側である日本と被害者側である近隣諸国との間の、戦争体験の記憶の非対称性です。多くの場合これらの歴史問題は純粋な歴史学的な論争というよりも、それぞれの国のナショナルなアイデンティティや国内政治と密接に結びついており、それが問題の解決を一層困難にしています。
10.3. 「歴史」といかに向き合うか
戦前には国家が押し付ける単一の「正しい歴史」(皇国史観)が存在しました。戦後にはそれに代わってマルクス主義歴史学という強力な対抗的な物語が大きな影響力を持ちました。しかし現代はそのような誰もが共有できる「大きな物語」が失われた時代です。
インターネットの普及はこの状況をさらに加速させています。人々は自らが心地よいと感じる歴史観だけに触れ異なる見解を排除する傾向(エコーチェンバー現象)が強まっています。歴史は客観的な真実の探求の対象から、自らのアイデンティティを確認するための道具へとその性格を変えつつあるのかもしれません。
このような時代において私たちに求められるのは何でしょうか。それは自らが信じる歴史観を絶対視するのではなく、なぜ他者は自分とは異なる歴史の記憶を持っているのか、その背景にある歴史的経験や社会的な文脈に想像力を及ぼせる態度ではないでしょうか。
歴史とは確定した過去の事実の集積ではありません。それは常に現代の私たちとの「対話」を通じてその意味を問い直され続ける開かれたプロセスです。このモジュールで学んだ歴史叙述の変遷の物語は、その「対話」に参加するための知的でそして誠実な態度を養うための一つの道標となるはずです。
Module 23:歴史認識と史学史の総括:歴史という名の、終わらない対話
本モジュールを通じて私たちは神話が歴史として語られた古代から、多様な歴史観が激しく衝突する現代に至るまで、日本人が自らの過去といかに格闘してきたか、その長く複雑な知的冒険の旅を終えました。それは歴史というものが決して博物館のガラスケースの中に静かに陳列された剥製などではなく、常に時代の要請を受け権力者の意図を反映し人々の願いや不安を映し出しながら、その姿を変え続ける生きたダイナミックな営みであることを明らかにする旅でした。
古代の為政者たちは国家の礎を築くために神々の物語を歴史として編纂しました。中世の知識人たちは貴族の栄華や武士の台頭という時代の激動を、物語や道理というレンズを通して解釈しようと試みました。近世の学者たちは儒教や国学という知の羅針盤を手に、あるべき国家の姿を過去の中に求めその探求は期せずして来るべき時代の変革のイデオロギーを準備しました。
そして近代。西洋からもたらされた「科学としての歴史」は歴史を神話から解放しましたが、その科学の衣はやがて国家主義という強力な磁場によって歪められ、歴史は国民を戦争へと動員する道具と化しました。戦後の歴史学はその痛烈な反省から出発しましたが、一つの「大きな物語」が崩壊した現代において私たちは再び歴史が政治的な言説やナショナルな感情と分かちがたく結びつく困難な時代に生きています。
この歴史の歴史を学ぶことは私たちに一つの重要な教訓を与えてくれます。それはいかなる歴史叙述もそれが書かれた時代の制約や価値観から、完全に自由ではありえないという謙虚な事実認識です。
私たちが歴史と向き合う時、問われているのは単に過去の事実をどれだけ多く知っているかということではありません。むしろなぜある歴史がそのように語られるのか、その語りの背後にある文脈や意図を読み解く批判的な知性こそが問われているのです。そして自らとは異なる歴史の記憶を持つ他者の声に耳を傾け、その痛みに想像力を及ぼせる倫理的な態度が求められています。
歴史とは過去との、そして他者との終わりのない対話です。この対話を続ける知的な誠実さこそが、私たちがこの複雑で対立に満ちた現代世界をより賢く、そしてより思慮深く生きていくための唯一の鍵なのかもしれません。