【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 18:ジェンダーの歴史
本モジュールの目的と構成
歴史とは、権力者や戦争、あるいは政治制度の変遷を追うだけの物語ではありません。それは、社会を構成する半数である女性、そして男性との関係性、さらには社会によって構築された「男らしさ」「女らしさ」という規範が、いかにして生まれ、変容し、人々の生を規定してきたのかを解き明かす壮大な探求でもあります。本モジュール「ジェンダーの歴史」は、この新しい視座から世界史を再構成することを目的とします。歴史をジェンダーというレンズを通して見るとき、これまで自明とされてきた社会構造や文化の背後にある、非対称な権力関係や、時代ごとに課せられてきた役割分担の論理が鮮やかに浮かび上がってきます。それは単に「女性史」を学ぶことにとどまらず、人間社会そのものの力学をより深く、多角的に理解するための知的な方法論を獲得するプロセスです。
本モジュールは、人類の黎明期から現代に至るまで、ジェンダーをめぐる秩序がどのように形成され、挑戦を受けてきたかを、以下の10のテーマを通じて時代横断的に探ります。
- 先史時代における男女の役割: 「男は狩り、女は採集」という単純な図式を超え、考古学的証拠から人類初期の社会における多様な性別役割の可能性を探ります。
- 古代ギリシア・ローマの家父長制: ポリスや帝国の礎となった「家」の構造に焦点を当て、男性が絶対的な権力を持つ家父長制が、いかに政治・社会・思想のあらゆる領域を規定したかを見ていきます。
- キリスト教・イスラームにおける女性観: 世界宗教が提示した女性の理想像(聖母マリアや模範的信徒)と、それが社会に与えた二律背反的な影響、すなわち救済の対象であると同時に、時に抑圧の根拠ともなったメカニズムを解明します。
- 中国の纏足と儒教倫理: 身体に直接刻印された儒教的女性観の極致である纏足を取り上げ、それが美意識や身分、そして社会倫理とどのように結びついていたのかを分析します。
- 宮廷文化における女性の役割: 公的な権力から排除されながらも、宮廷という特殊な空間で女性たちが文化の担い手や政治的な影響力を行使した事例(日本の平安朝やフランスのサロン)を考察します。
- 近代市民革命と女性の人権: 「自由・平等」を掲げた市民革命が、なぜ女性を「市民」の範疇から除外したのか。その論理的矛盾と、そこから生まれた最初期の女性の権利要求の声を追います。
- 産業革命と女性労働者: 新たな労働市場は女性に何をもたらしたのか。劣悪な労働環境と、家庭という「あるべき場所」との間で引き裂かれた、近代における女性の二重の役割を浮き彫りにします。
- 女性参政権運動: 女性たちが自らの声を政治に反映させるため、いかに組織的に、そして時には過激に戦ったのか。第一波フェミニズムの到達点である参政権獲得までの軌跡をたどります。
- 社会主義と女性解放: 資本主義と家父長制を一体のものとして捉え、階級闘争による女性解放を目指した社会主義の理論と、ソ連などで試みられた壮大な社会実験の成果と限界を検証します。
- フェミニズムの展開: 第二波、第三波、そして現代へ。私的な領域の政治性、多様な女性たちの差異、そしてグローバルな連帯へと、フェミニズムが自己変革を遂げてきた知的探求の歴史を概観します。
このモジュールを通じて、読者はジェンダー秩序が決して普遍不変のものではなく、歴史的に構築されたものであることを理解するでしょう。それは、現代社会が直面する様々な課題を歴史的な文脈の中に位置づけ、未来のより公正な社会を構想するための、不可欠な知的基盤となるはずです。
1. 先史時代における男女の役割
世界史の教科書の冒頭を飾る先史時代。文字による記録が存在しないこの時代の人々の生活を復元する上で、「男女の役割」は最も興味深く、そして最も論争の的となるテーマの一つです。私たちは長らく、「男は狩猟、女は採集と育児」という、いわば「狩猟採集モデル」を自明の前提として受け入れてきました。この見方は、屈強な男性が危険な狩りに出て家族を養い、女性は安全な場所で木の実を拾い、子供を育てるという、後世のジェンダー観を投影したものであり、その単純明快さゆえに広く浸透してきました。しかし、近年の考古学や人類学の研究は、この固定的なイメージに根本的な見直しを迫っています。
1.1. 「男は狩猟、女は採集」モデルの形成と限界
この古典的な性別役割分業モデルが説得力を持った背景には、19世紀以降の西洋社会におけるジェンダー観が大きく影響しています。ヴィクトリア朝時代に理想とされた、公的な領域で活動する男性と、私的な家庭領域を守る女性という「性別役割分業」のイデオロギーが、無意識のうちに先史時代社会の解釈に投影されたのです。生物学的な男女差、特に筋力や妊娠・出産といった差異を根拠に、この分業体制は人類の歴史を通じて普遍的なものであったと結論づけられました。
しかし、このモデルには数多くの問題点が指摘されています。第一に、狩猟の成功率は決して高くなく、不安定な食料源であったと考えられています。それに対して、植物性の食料を採集する活動は、より安定的でカロリーベースでの貢献度も高かった可能性が指摘されています。つまり、社会の存続基盤として、従来軽視されがちだった採集活動の重要性が再評価されているのです。
第二に、狩猟活動を男性のみに限定する考古学的な証拠は乏しいという点です。旧石器時代の遺跡から発見される狩猟具の近くに埋葬された人骨が、必ずしも男性であるとは限りません。例えば、近年のDNA分析技術の進歩により、大型動物の狩猟に使われたとみられる石器と共に埋葬されていたペルーの約9000年前の人骨が、若い女性のものであったことが判明し、大きな議論を呼びました。これは孤立した事例かもしれませんが、「女性狩人」の存在可能性を具体的に示し、従来の定説に一石を投じるものでした。
第三に、現代に残る狩猟採集社会を観察した人類学の研究も、画一的なモデルの適用に警鐘を鳴らしています。確かに多くの社会で性別による分業の傾向は見られるものの、そのあり方は極めて多様です。女性が積極的に狩猟に参加する社会もあれば、男性が育児に深く関わる社会も存在します。これらの知見は、先史時代の人々の社会もまた、地域や時代、環境によって多様な形態をとっていたであろうことを示唆しています。
1.2. 考古学的遺物から読み解く多様な生活
文字史料がない以上、先史時代の人々の行動を知る手がかりは、彼らが残した「モノ」、すなわち考古学的遺物に求められます。
- 石器・骨角器: 狩猟に使われた尖頭器、解体に使われた石刃、調理や植物の加工に使われた磨石など、道具の種類と用途から人々の活動を推測します。しかし、ある道具を特定の性別と結びつけることは困難です。例えば、従来は女性の仕事とされてきた「皮なめし」に使われる掻器(そうき)が、男性の墓から出土することもあります。道具は、性別ではなく、個人の技術や役割に応じて使われていた可能性も考えなければなりません。
- 埋葬: 遺体の埋葬のされ方は、その人物が生前どのような社会的地位にあったかを示す重要な手がかりです。副葬品の種類や量、質は、故人の役割や富、権威を反映していると考えられます。もし、特定の豪華な副葬品(例えば、精巧な武器や装飾品)が一貫して男性の墓にのみ見られるのであれば、その社会に性別に基づいた階層化が存在したと推測できます。しかし、実際には女性の墓からも権威の象徴とみられる遺物が出土する例は少なくなく、単純な結論を導き出すことはできません。
- 洞窟壁画と土偶: フランスのラスコーやスペインのアルタミラに代表される洞窟壁画には、バイソンや馬などの動物が生き生きと描かれていますが、狩猟場面に登場する人物像は少なく、その性別を特定するのは困難です。一方で、旧石器時代後期にヨーロッパからシベリアにかけて広く見られる「ヴィーナス土偶」は、豊かな乳房や臀部、腹部が強調された女性像であり、豊穣や多産への祈りが込められていたと解釈されています。これは、生命を生み出す女性の役割が、宗教的・象徴的な意味で重要視されていたことを示唆しているかもしれません。しかし、これが直接的に女性の社会的地位の高さを示すものか、あるいは男性中心の社会が女性の生殖能力を神聖化した結果なのか、解釈は分かれています。
1.3. 農耕牧畜の開始とジェンダー秩序の変容
約1万年前に始まった農耕牧畜の開始、いわゆる「新石器革命」は、人類の生活様式を根底から変え、ジェンダー関係にも大きな影響を与えたと考えられています。
定住生活が本格化し、土地が主要な生産手段となると、「土地を所有する」という概念が生まれます。そして、その土地を次世代に継承する必要から、出自や相続のルールが重要になります。多くの社会では、土地の所有権と相続権が男性に集中する「家父長制」的な社会構造が形成されていったと考えられています。なぜなら、農耕における労働(特に犁(すき)を用いるような重労働)や、定住地を防衛する役割が男性に割り当てられることが多く、それが男性の社会的地位を高める一因となったという説があります。
また、定住化と食料生産の安定は人口増加をもたらし、女性はより多くの子供を産み、育てる役割を担うようになります。これにより、女性の活動範囲が家とその周辺に限定され、男性が担う対外的な活動(交易、戦争、政治)との間で、公的領域と私的領域の分離が進んだ可能性があります。この分離が、後の時代にまで続く性別役割分業の原型となったという見方です。
しかし、このプロセスも一様ではありません。初期の農耕(園耕)では、女性が中心的な役割を果たしていた社会も多く存在したと推測されています。女神崇拝の伝統が長く続いた地域もあり、農耕の開始が直ちに男性優位社会に繋がったと考えるのは早計です。むしろ、地域ごとの環境、作物の種類、社会の複雑化の度合いなど、様々な要因が絡み合いながら、数千年という長い時間をかけて、多様なジェンダー秩序が形成されていったと理解すべきでしょう。
先史時代における男女の役割は、未だ謎に包まれた部分が多いですが、確かなことは、かつて信じられていたような固定的で普遍的なモデルでは捉えきれない、多様性と複雑さに満ちていたということです。この時代の探求は、私たちが「当たり前」と思っている性別役割分担が、決して生得的なものではなく、歴史の中で形成されてきたものであることを教えてくれるのです。
2. 古代ギリシア・ローマの家父長制
古代ギリシアとローマの文明は、哲学、法、政治、建築など、現代西洋文明の礎を築いたとされています。しかし、その輝かしい遺産の影には、社会の根幹を規定する厳格な「家父長制(パトリアーキー)」が存在していました。家父長制とは、単に男性が女性より優位にあるというだけでなく、年長の男性家長がその家族(妻、子供、奴隷を含む)に対して絶対的な権力を持つ社会システムを指します。この制度を理解することなしに、古代地中海世界の社会構造や思想の本質を捉えることはできません。
2.1. ギリシアのポリスとオイコス:公私の分離
古代ギリシア、特に前5世紀のアテナイにおいて、社会は「ポリス(都市国家)」という公的領域と、「オイコス(家)」という私的領域に明確に二分されていました。この二元論こそが、アテナイの家父長制を理解する鍵となります。
- ポリスの市民(ポリーテース): ポリスの運営、すなわち政治、司法、軍事に関わる権利を持つのは、成人男性市民だけでした。民会での発言権、役人への就任、裁判への参加、そしてポリスを防衛する重装歩兵として戦う義務、これら全てが市民の証であり、男らしさ(アンドレイア)の体現とされました。女性、在留外国人(メトイコイ)、奴隷は、ポリスの構成員ではあっても、政治的な権利を全く持たない被支配的な存在でした。
- オイコスの主人(キュリオス): 一方、私的領域であるオイコスの絶対的な支配者が「キュリオス(主人)」と呼ばれる男性家長です。彼は、妻、子供、そして家内奴隷に対して法的な権威を持ち、彼らの生殺与奪の権さえ(理論的には)握っていました。女性市民は、生涯を通じて男性の庇護下に置かれる存在でした。未婚の女性は父の、既婚女性は夫の、夫が死んだ場合は最も近い男性親族の支配下にありました。彼女たちはキュリオスの許可なくして法的な契約を結ぶことも、一定額以上の財産を所有・処分することもできませんでした。
- 女性の役割と空間: 市民女性の役割は、オイコスを維持・管理し、正統な市民となるべき嫡子を産み育てることに限定されていました。アテナイの理想的な住宅には、「アンドロン(男性の部屋)」と「ギュナイコン(女性の部屋)」があり、女性は家の奥にあるギュナイコンで、糸紡ぎや織物といった家内労働に従事し、みだりに人前に姿を現さないことが美徳とされました。哲学者クセノポンは、その著作『家政論』の中で、理想的な夫婦の役割分担を「神々は、野外の仕事は男に、屋内の仕事は女に適するように創られた」と述べ、このような厳格な公私の分離を自然の摂理として正当化しています。
ただし、このような理想は主に富裕な市民階級のものであり、貧しい市民の女性や農民の女性は、市場での販売や農作業など、家の外で働く必要がありました。また、アテナイには、市民女性とは全く異なる生き方をした女性たちもいました。高度な教養と芸で男性たちの饗宴(シュンポシオン)に華を添えた「ヘタイラ(高級娼婦)」や、神殿に仕えた巫女などがその例です.
2.2. アテナイとスパルタ:対照的な女性像
同じギリシア世界にありながら、アテナイとは対照的な社会構造を持っていたのがスパルタです。スパルタの男性市民は、幼少期から共同生活を送り、生涯を兵士として過ごすことが義務づけられていました。この極端な軍国主義体制が、結果としてスパルタ女性に独特の地位を与えることになります。
男性が常に軍事訓練や戦争に従事しているため、オイコスの管理や財産(特に土地)の経営は、実質的に女性の手に委ねられていました。スパルタの女性はアテナイの女性のように屋内に閉じ込められることはなく、男子と同様に体育訓練を受け、健康な身体を持つことが奨励されました。それは、強健な兵士を産むことが彼女たちの最大の使命とされたからです。
アリストテレスによれば、当時のスパルタの土地の5分の2は女性が所有していたとされ、その経済的な自立度は他のポリスの女性とは比較になりませんでした。彼女たちはアテナイの女性よりも自由に発言し、社会的な影響力も大きかったため、他のギリシア人からは「スパルタの女はかかあ天下だ」と揶揄されることもありました。しかし、これはスパルタが女性の権利を尊重していたからというよりは、あくまで国家の軍事力を維持するという目的のために、女性の役割が規定された結果であった点に注意が必要です。彼女たちにもまた、政治的な権利はありませんでした。
2.3. ローマの家父長制:パテル・ファミリアスの権力
ローマの社会構造の根幹をなしたのは、「ファミリア(家)」であり、その頂点に立つのが「パテル・ファミリアス(家父長)」でした。ローマの家父長制は、ギリシアのそれよりもさらに強力かつ法的に整備されたものでした。
- 家父長権(パトリア・ポテスタス): パテル・ファミリアスは、彼の下にいる全ての家族員(妻、子供、孫、奴隷)に対して、絶対的な「家父長権」を持っていました。この権力は、家族員の生命に対する生殺与奪の権から、財産の所有、結婚や離婚の決定権まで、あらゆる側面に及びました。子供は、たとえ成人し、結婚して自らも家庭を持ったとしても、父である家父長が生きている限り、法的には父の権力下にありました。財産を個人として所有することもできず、全ての資産は家父長に帰属しました。
- 婚姻と女性の地位: ローマの女性は、結婚によって父の家父長権から離れ、夫の家父長権の下に入る「マヌス婚」が古くからの慣習でした。この場合、妻は法的に「娘」と同じ地位に置かれました。しかし、共和政後期から帝政期にかけて、「非マヌス婚」が一般的になります。これは、妻が結婚後も実家の父の家父長権の下に留まる形態で、結果として妻は夫の権力からある程度自由になり、実家から相続した財産を自分で管理・運用することが可能になりました。これにより、特に富裕層の女性は経済的な自立性を高め、社会的な活動の幅を広げることになります。
- ローマ女性の社会的位置: ギリシアのアテナイ女性と比較すると、ローマの女性はより社会的な存在でした。彼女たちは屋内に閉じ込められることなく、饗宴に夫と同席し、公共の場に外出することも一般的でした。理想的なローマの女性は、「マトロナ」と呼ばれ、貞淑さ、慎み深さ、そして家庭を切り盛りする能力が美徳とされました。共和政末期の内乱期や帝政初期には、リウィア(初代皇帝アウグストゥスの妻)や小アグリッピナ(皇帝ネロの母)のように、政治の舞台裏で絶大な影響力を行使する女性も現れました。しかし、彼女たちがいかに強力な権力を持とうとも、それはあくまで男性(夫や息子)を介した非公式なものであり、元老院議員や政務官といった公的な政治権力から、女性は変わらず完全に排除されていました。
古代ギリシア・ローマの家父長制は、公的領域を男性が独占し、女性を私的領域に封じ込めるという構造を基本としていました。アリストテレスが『政治学』で述べたように、「支配するもの(男性)と支配されるもの(女性)」という関係は、自然な秩序であると信じられていました。この思想は、後のキリスト教世界にも受け継がれ、西洋社会のジェンダー観に長きにわたる影響を与え続けることになるのです。
3. キリスト教・イスラームにおける女性観
普遍宗教であるキリスト教とイスラームは、その誕生以来、世界の広範な地域で人々の価値観や社会規範を形成してきました。これらの宗教が提示する女性観は、決して一枚岩ではありません。一方では、すべての人間は神の前に平等であると説き、女性に新たな役割や尊厳を与える側面を持ちながら、もう一方では、既存の家父長制的な社会構造を内面化し、時にそれを強化するような教えも含んでいます。この両義性、あるいは内部の緊張関係を理解することが、両宗教における女性観の本質を捉える上で不可欠です。
3.1. キリスト教:エヴァとマリアの二元論
キリスト教における女性観は、旧約聖書と新約聖書に登場する二人の象徴的な女性、エヴァとマリアを両極として理解することができます。この二元論は、後の中世ヨーロッパ社会における女性の地位や役割に決定的な影響を与えました。
- 誘惑者としてのエヴァ: 旧約聖書の『創世記』に描かれるエヴァは、蛇にそそのかされて禁断の果実を食べ、アダムにもそれを食べるよう勧めた結果、人類が楽園から追放される原因を作った存在とされています。この物語は、女性を「理性的でない」「誘惑に弱い」「罪の源泉」と見なす、否定的な女性観の根拠となりました。初期の教父たち、例えばテルトゥリアヌスは、エヴァの罪を全ての女性に帰し、「汝らは悪魔の門である」と断じています。この見方は、女性を男性の支配下に置き、その行動を厳しく律するべきだという思想を正当化しました。
- 聖母としてのマリア: 一方、新約聖書に登場するイエスの母マリアは、神の言葉に「お言葉通りになりますように」と従順に応え、処女のまま救い主を懐妊した、理想的な女性像として崇敬の対象となりました。マリア信仰は中世を通じて高まり、彼女は「慈悲の母」「天の女王」として、人々の罪をイエスに取りなす存在と信じられました。マリアは、純潔、従順、謙虚、母性といった、キリスト教社会が女性に求める美徳のすべてを体現する存在でした。
この「エヴァかマリアか」という二者択一の枠組みは、現実の女性たちに大きな圧力を与えました。女性は、原罪を背負った危険な存在であると同時に、マリアのような聖性を目指すべき存在とされたのです。この矛盾した眼差しは、女性に対する畏敬と蔑視が同居する、中世ヨーロッパ特有の文化を生み出しました。
3.2. 教会の制度と女性の役割
キリスト教がローマ帝国で公認され、組織化されていく過程で、家父長制的な構造はさらに強化されました。
- 聖職者の男性独占: イエス自身は、マリア・マグダラをはじめとする多くの女性たちを弟子としていましたが、教会の制度が確立されると、司教や司祭といった聖職者の地位は男性に限定されました。これにより、宗教的な権威と儀式の執行は男性が独占することになり、女性は「教えられる側」「導かれる側」の地位に固定化されました。パウロ書簡の中には、「婦人は教会では黙していなさい」といった、女性の役割を制限する言葉も見られ、後世の教会法に大きな影響を与えました。
- 結婚と家庭: 教会は、結婚を神聖な秘跡(サクラメント)と位置づけ、その中での貞節を重んじました。妻は夫に従うべきとされ、家庭内で夫が家長として振る舞うことを神の定めた秩序として肯定しました。これにより、ローマ以来の家父長制的な家族観は、キリスト教の教えによってさらに神聖化され、盤石なものとなりました。
- 修道院という選択肢: しかし、キリスト教は同時に、女性に家庭以外の生き方の道も提供しました。それは修道女として、神に生涯を捧げるという道です。中世において、修道院は女性が結婚や出産から解放され、知的な活動や霊的な探求に専念できる数少ない場所でした。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのように、神学者、作曲家、薬草学者として卓越した才能を発揮した女子修道院長も存在します。修道院は、俗世の家父長制の支配から逃れるための「避難所」としての役割を果たすこともありましたが、それ自体もまた教会の権威の下にある、厳格な階層組織であったことも忘れてはなりません。
3.3. イスラーム:改革者としてのムハンマドとシャリーア
イスラームにおける女性観を理解するためには、イスラーム以前のアラビア半島、すなわち「ジャーヒリーヤ(無明時代)」の社会状況から出発する必要があります。当時のアラブ社会は部族間の抗争が絶えず、女性の地位は非常に低いものでした。女児の嬰児殺し(間引き)も行われ、女性に財産権や相続権はほとんど認められていませんでした。
預言者ムハンマドがもたらしたイスラームの教えは、こうした状況に対するラディカルな社会改革という側面を持っていました。
- クルアーンにおける女性の地位向上: イスラームの聖典クルアーン(コーラン)は、女性の地位を大幅に向上させる多くの規定を含んでいます。
- 女児殺しの禁止: クルアーンは女児の嬰児殺しを明確に禁じ、生命の尊厳を説きました。
- 財産権と相続権: 女性に明確な財産相続権を認めました。娘は息子の半分の相続分が保証され、妻や母にも相続権が与えられました。これは、当時の世界では画期的なことでした。
- 結婚: 結婚を、女性の同意に基づく契約と位置づけ、夫から妻へ婚資(マフル)を支払うことを義務付けました。この婚資は、離婚した場合でも女性自身の財産となりました。
- 一夫多妻制の制限: 男性一人につき妻は四人までと制限し、さらに「全ての妻を公平に扱う」という極めて困難な条件を付けました。これは、無制限であったジャーヒリーヤ時代の一夫多妻を制限する意図があったと解釈されています。
- 神の前の平等: イスラームの根本には、全ての信者はアッラーの前に平等であるという思想があります。クルアーンは、「男であれ女であれ、信仰を持つ者は、アッラーは決してその行いを無駄にはされない」と述べ、性別に関係なく、個人の信仰と行いが救済の基準であることを明確にしています。
3.4. ヒジャーブ、分離、そして解釈の多様性
一方で、イスラーム社会における女性のあり方は、西洋社会からしばしば誤解やステレオタイプの対象とされてきました。特に「ヒジャーブ(ヴェール)」や「男女の分離」といった慣習は、女性抑圧の象徴として語られがちです。
- ヒジャーブ: クルアーンには、女性信徒に対して「胸元を覆い、魅力をみだりに見せてはならない」という趣旨の記述があります。これは元々、信徒の女性を性的嫌がらせから守るための規定であったと解釈されています。しかし、「ヒジャーブ」が具体的に何を指すのか、どの程度の範囲を覆うべきなのかについては、時代や地域、法学派によって多様な解釈が存在します。ブルカのように全身を覆うものから、スカーフで髪を覆うだけのものまで様々です。現代において、ヒジャーブの着用は、一部の国では法律で強制されていますが、他の多くの国では女性自身の信仰やアイデンティティの表明として、自発的になされています。
- シャリーア(イスラーム法)と女性: イスラーム法(シャリーア)の体系が整備されていく中で、クルアーンの精神が、各地の家父長制的な慣習と融合する側面もありました。例えば、法廷での女性の証言価値は男性の半分とされる規定や、夫が妻に服従を求める権利などは、家父長制を反映したものと見なせます。
- 解釈の重要性: 重要なのは、イスラームにおける女性の地位が、聖典の記述そのものよりも、むしろ「誰が、どのように聖典を解釈し、法制化するか」という問題に大きく左右されてきたという点です。歴史的には、男性の法学者が家父長制的な視点から解釈を行うことが支配的でしたが、近代以降、女性のイスラーム学者やフェミニストたちが、聖典をジェンダー平等の観点から再解釈しようとする動き(イスラーム・フェミニズム)も活発になっています。
結論として、キリスト教もイスラームも、その内部に女性の地位を高める教えと、家父長制を容認・強化する教えの両方を含んでいます。どちらの側面が強調されるかは、歴史的な文脈や社会状況、そして解釈者の立場によって大きく変動してきました。これらの宗教における女性観を、単純な「抑圧」か「解放」かの二元論で語ることは、その歴史的な複雑さと豊かさを見誤ることになるでしょう。
4. 中国の纏足と儒教倫理
中国史におけるジェンダーを考える上で、避けて通ることのできない特異な習俗が「纏足(てんそく)」です。これは、幼い少女の足に布を固く巻きつけ、足の成長を阻害し、意図的に変形させるというもので、約千年もの長きにわたって中国社会に根付きました。纏足は単なる身体変工や美容術ではなく、当時の美意識、儒教的な倫理観、社会階層、そしてジェンダー秩序が凝縮された、極めて象徴的な文化現象でした。その歴史を紐解くことは、伝統中国社会が女性の身体と徳性をいかに結びつけ、統制しようとしたかを理解する上で不可欠です。
4.1. 纏足の起源と流行
纏足の正確な起源については諸説ありますが、一般的には五代十国時代の南唐の宮廷で始まったとされています。皇帝の前で、ある宮女が布で足を縛って「新月」のような形にし、金の蓮の花の上で舞ったという伝説が有名です。当初は宮廷や上流階級の芸妓たちの間で行われる特殊な慣習でしたが、宋代になると、士大夫階級(官僚・知識人層)の女性たちの間に広まり始めました。
纏足が社会全体、特に漢民族の間で広く普及したのは、明代から清代にかけてです。この時代には、上流階級だけでなく、都市の富裕な商人から地方の農民に至るまで、様々な階層で実践されるようになりました。小さな足は「三寸金蓮(さんずんきんれん)」(一寸は約3cmなので、約9cmの金の蓮)と称賛され、女性の美しさの最も重要な基準と見なされるようになりました。良い家への嫁入りのためには、美しい纏足が不可欠な条件とさえ考えられるようになったのです。
この習俗は、満州族の支配する清朝の時代に最盛期を迎えます。満州族の女性は纏足をしませんでしたが、彼女たちは漢民族の男性から魅力的でないと見なされることもありました。清朝政府は何度か纏足禁止令を出しましたが、漢民族の根強い慣習を変えることはできず、むしろ漢民族の民族的アイデンティティの象徴という意味合いを帯びることさえありました。
4.2. 儒教倫理と女性の徳性:「内」の秩序
纏足がなぜこれほどまでに広く、長く受け入れられたのか。その背景には、中国社会の根幹をなす儒教、特に宋代以降に体系化された朱子学の倫理観が深く関わっています。
- 「男女有別」と「内」の役割: 儒教の根本的な社会観の一つに、「男女有別(男女の別有り)」という考え方があります。これは、男性と女性では役割や活動領域が本質的に異なるとするもので、「男は外を治め、女は内を治める(男主外、女主内)」という厳格な性別役割分業を理想とします。男性の活動領域は、官僚としての仕事や社会的な付き合いといった「外(公的領域)」であり、女性の活動領域は、家事、育児、舅姑への奉仕といった「内(私的領域)」に限定されるべきだと考えられました。
- 纏足による身体的束縛: 纏足は、この「内」の秩序を女性の身体に直接刻み込む、極めて効果的な手段でした。変形した足では、速く歩いたり、長距離を移動したりすることは非常に困難になります。女性の行動範囲は物理的に家の中に限定され、文字通り「家の内に」閉じ込める役割を果たしたのです。纏足をした女性は、外出する際にも人の助けが必要となり、男性への依存を余儀なくされました。このように、纏足は女性の活動を制限し、儒教の理想とする女性像を物理的に作り出す装置として機能しました。
- 貞節と貞淑の象徴: 小さな足は、その持ち主が貞淑であり、慎み深い徳性を備えていることの証と見なされました。纏足の痛み(骨が折れ、肉が腐ることもあったと言われる)に耐えることは、女性の忍耐強さの証明であり、その苦痛を経て得られた小さな足は、彼女が男性の欲望をかき立てるような奔放な存在ではなく、貞節を守る良妻賢母であることを示す象徴となったのです。また、纏足は一種の性的フェティシズムの対象でもありましたが、それは同時に、女性のセクシュアリティを男性の管理下に置くという側面も持っていました。
4.3. 美意識と社会的地位
纏足は、儒教的な倫理観だけでなく、当時の人々の美意識や社会的な価値観とも密接に結びついていました。
- 美の基準: 纏足によって生まれる、不安定で弱々しい歩き方(「蓮歩」と呼ばれた)は、可憐で庇護欲をそそるものとして、男性の目には非常に魅力的に映りました。大きな自然の足は、労働に従事する下層階級の女性や、非漢民族の「野蛮」な女性の象徴とされ、蔑みの対象となりました。小さな足こそが、文明化された洗練された女性の証だったのです。
- 社会的ステータスの誇示: 纏足は、その女性が肉体労働に従事する必要のない、裕福な家庭の出身であることを示すステータスシンボルでもありました。娘に纏足を施すことは、その家族の経済的な余裕と社会的地位を誇示する行為でした。逆に、貧しい家庭でも、娘をより良い条件で嫁がせるために、無理をして纏足を行うことがありました。このように、纏足は婚姻市場における女性の価値を決定づける重要な要素となっていたのです。
4.4. 纏足の廃止運動へ
19世紀後半になると、この千年の習俗にも終わりの時が近づきます。アヘン戦争以降、欧米列強の圧力を受ける中で、中国の知識人たちの間で、自国の伝統文化を批判的に見直す動きが生まれます。
纏足は、中国の「野蛮さ」「後進性」の象徴と見なされるようになり、国家の近代化を阻害する悪習として、厳しい批判の対象となりました。宣教師や西洋の思想家からの批判も、この動きを後押ししました。彼らは、纏足を非人道的な身体への虐待であり、女性の人権を侵害するものだと非難しました。
梁啓超といった改革派の思想家たちは、「国を強くするためには、国民の身体を健康にしなければならない。そのためには、国民を産む母である女性が健康でなければならない」と説き、纏足の廃止を強力に訴えました。1911年の辛亥革命によって中華民国が成立すると、新政府は公式に纏足を禁止しました。その後も慣習はすぐにはなくなりませんでしたが、教育の普及や社会の変化とともに、この特異な習俗は20世紀半ばにはほぼ完全に姿を消すことになります。
纏足の歴史は、ある社会の倫理観や美意識が、いかに深く個人の身体にまで浸透し、ジェンダー秩序を形成していくかを示す痛烈な事例です。それは、女性たちが耐え忍んだ苦痛の歴史であると同時に、その身体を通じて社会的な価値やアイデンティティが構築されていく過程を、極めて具体的な形で物語っているのです。
5. 宮廷文化における女性の役割
歴史を通じて、女性は公的な政治権力から組織的に排除されてきました。しかし、権力の中枢である「宮廷」という特殊な空間においては、公式の地位を持たない女性たちが、文化の創造や政治的な意思決定に、しばしば決定的な影響を及ぼすことがありました。宮廷は、厳格な身分制度と儀礼に縛られた閉鎖的な世界であると同時に、血縁や個人的な寵愛といった非公式な関係が大きな意味を持つ場所でもありました。このような環境の中で、女性たちは独自の地位を築き、歴史の展開に深く関与していったのです。ここでは、日本の平安朝、フランスのヴェルサイユ、そしてオスマン帝国のハレムを例に、宮廷文化における女性の多様な役割を見ていきます。
5.1. 平安朝:文化の担い手としての女房
日本の平安時代中期、10世紀末から11世紀にかけての宮廷は、世界史上でも稀有な、女性による文学が花開いた時代でした。この文化の主役となったのが、天皇や皇后に仕える「女房」と呼ばれる上流貴族出身の女性たちです。
- 後宮という空間: 天皇の后妃たちが住まう後宮は、政治的な権力闘争の舞台でした。有力な貴族であった藤原氏は、娘を天皇の后とし、その間に生まれた皇子を次の天皇に立てることで、摂政・関白として政治の実権を握りました(摂関政治)。このため、后妃のサロンは、父や一族の期待を背負った、華やかで知的な文化空間となりました。
- 仮名文学の隆盛: 当時、公的な文章や学問の世界では、男性貴族によって漢字(真名)が用いられていました。一方で、日本語の音を表記するために崩した漢字から作られた「仮名」は、私的な文字、あるいは女性が用いる文字と見なされていました。この仮名文字の普及が、女性たちが自らの感情や観察を自由に表現するための強力な道具となります。
- 紫式部と清少納言: この時代を代表する女房文学の書き手が、一条天皇の中宮彰子に仕えた紫式部と、皇后定子に仕えた清少納言です。紫式部が著した『源氏物語』は、登場人物の心理を深く掘り下げた長編物語で、日本の文学史上最高傑作とされるだけでなく、世界的に見ても最初期の長編小説の一つと評価されています。一方、清少納言の『枕草子』は、宮廷生活の日常を鋭い観察眼とみずみずしい感性で綴った随筆で、後の日本人の美意識にも大きな影響を与えました。彼女たちの作品は、男性中心の漢文世界とは異なる、繊細で内面的な世界を描き出し、国風文化の頂点を築きました。
- 文化サロンの主宰者として: 女房たちは、単なる文学の書き手であっただけではありません。彼女たちは和歌や書、音楽にも通じた当代一流の文化人であり、その周囲には知的なサロンが形成されました。后妃たちは、優秀な女房を多く集めることで自らのサロンの評判を高め、それがひいては一族の政治的な威信にも繋がりました。このように、平安朝の後宮では、女性たちが文化的な競争を通じて、間接的に政治の世界にも影響を及ぼしていたのです。
5.2. ヴェルサイユ:サロンと寵姫の政治力
17世紀から18世紀にかけてのフランス絶対王政の象徴であるヴェルサイユ宮殿もまた、女性が独自の役割を果たした重要な舞台でした。
- 宮廷儀礼と女性: 「太陽王」ルイ14世が確立した厳格な宮廷儀礼は、貴族たちを政治的な実権から切り離し、王の権威の前に序列化するための装置でした。この儀礼的な生活の中で、王妃や王族の女性たちは、ファッションやマナーの流行をリードし、宮廷文化の中心的な存在となりました。
- サロン文化の隆盛: 17世紀後半から18世紀にかけて、パリやヴェルサイユでは、貴族の女性たちが主宰する「サロン」が知的な交流の拠点として発展しました。サロンの女主人(サロニエール)は、文人、哲学者、芸術家、そして貴族たちを自邸に招き、自由な雰囲気の中で会話を交わす場を提供しました。ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家たちも、こうしたサロンを通じて自らの思想を広め、パトロンを見つけました。女性たちは、議論の司会役を務め、才能ある人物を見出す審美眼を持つことで、啓蒙思想の普及や文化の発展に大きく貢献したのです。
- 寵姫(メートル・アン・ティートル)の影響力: フランス宮廷で特に大きな力を持ったのが、国王の公式な愛人である「寵姫(メートル・アン・ティートル)」です。彼女たちは単なる王の慰み者ではなく、年金や称号を与えられ、宮廷内で公的な地位を認められていました。特にルイ15世の寵姫であったポンパドゥール夫人は、その美貌と知性で20年近くにわたって王の寵愛を維持し、政治・文化の両面で絶大な影響力を振るいました。彼女は、大臣の任免に介入し、オーストリアとの外交革命(七年戦争に繋がる)を主導するなど、事実上の「陰の宰相」として君臨しました。また、ロココ芸術の最大のパトロンでもあり、多くの芸術家を庇護し、セーヴル磁器製作所を設立するなど、18世紀フランス文化の形成に決定的な役割を果たしました。ポンパドゥール夫人の存在は、公式の権力構造の外側で、個人の資質と王との親密さによって、女性が国政を動かし得たことを示す典型例です。
5.3. オスマン帝国:ハレムと母后の権威
西洋世界からしばしば官能と陰謀の場所として誤解されてきたオスマン帝国の「ハレム」もまた、女性が独自の権力を行使した複雑な政治空間でした。
- ハレムの構造: ハレムは、スルタン(皇帝)の私的な居住空間であり、スルタンの母(ヴァーリデ・スルタン)、后妃、そして未来の后妃候補である多数の女奴隷、そして彼女たちに仕える宦官たちによって構成されていました。西洋のオリエンタリストたちが描いたような、単なる性的快楽の場ではなく、帝国の次世代の支配者を生み、育てるための極めて重要な機関でした。
- ヴァーリデ・スルタン(母后)の権力: ハレムの頂点に君臨し、絶対的な権威を持っていたのが、現スルタンの母であるヴァーリデ・スルタンでした。彼女は息子であるスルタンに対して直接的な影響力を持ち、しばしば国政の重要な決定に関与しました。彼女は広大な領地(ヴァクフ)からの収入を持ち、モスクや救貧院を建設するなどの慈善事業を通じて、民衆からの尊敬も集めました。
- 「女人の天下(カドゥンラル・スルタナトゥ)」: 16世紀から17世紀にかけての約130年間は、特にハレムの女性たちが強大な政治力を持ったことから、「女人の天下」と呼ばれています。スレイマン1世の寵妃ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)は、女奴隷出身ながらスルタンの正妃となり、ライバルを次々と排除して自分の息子を後継者に据えるなど、国政に深く介入しました。彼女以降、ヴァーリデ・スルタンや有力な后妃が、幼い、あるいは無能なスルタンに代わって事実上の摂政として帝国を統治する時代が続きました。
これらの事例が示すように、宮廷という空間は、女性を公的権力から排除する一方で、血縁、寵愛、文化資本といった非公式なリソースを通じて、彼女たちが権力の中枢にアクセスする道を常に残していました。平安朝の女房、ヴェルサイユのサロニエールや寵姫、オスマン帝国の母后たちは、それぞれの時代の制約の中で、利用可能な手段を最大限に活用し、文化の創造者、政治の黒子として、歴史にその名を刻んだのです。
6. 近代市民革命と女性の人権
18世紀後半、アメリカ独立革命とフランス革命に代表される近代市民革命(ブルジョワ革命)の波が、大西洋世界を席巻しました。これらの革命は、「全ての人間は生まれながらにして自由かつ平等な権利を持つ」という啓蒙思想の理念を掲げ、身分制や絶対王政といった旧来の支配体制(アンシャン・レジーム)を打ち破り、「国民主権」に基づく新たな近代国家の礎を築きました。しかし、この革命が掲げた「人間(Man)」や「市民(Citizen)」という普遍的な言葉は、その響きとは裏腹に、決して全ての人々を包摂するものではありませんでした。特に、人口の半分を占める女性は、この「普遍的な権利」の主体から意図的に排除されたのです。この革命の内に潜む巨大な矛盾と、それに対する女性たちの異議申し立てこそが、近代フェミニズムの原点となりました。
6.1. 啓蒙思想の光と影
市民革命の理論的な支柱となったのは、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで花開いた啓蒙思想です。ジョン・ロックは、政府の権力は人民の同意に基づくべきだと説き、ジャン=ジャック・ルソーは、『社会契約論』で人民主権の概念を提示しました。これらの思想は、個人の理性と自律性を尊重し、普遍的な人権という概念を生み出しました。
しかし、多くの啓蒙思想家たちは、ことジェンダーに関しては、驚くほど保守的な見解を持っていました。特にルソーは、その影響力の大きさゆえに、近代のジェンダー観に深刻な影を落とすことになります。彼は、主著の一つである『エミール、または教育について』の中で、理想的な女性「ソフィー」の教育について論じ、女性の本性は男性に「従属し、喜ばせること」にあると断じました。彼によれば、男性は理性的で公的な領域に属する存在である一方、女性は感情的で私的な家庭領域に属する存在であり、両者の役割は自然によって明確に定められているとしました。
このような「性別役割分業」と「相互補完性」の理論は、一見すると女性を尊重しているように見えながら、実際には女性を家庭内に閉じ込め、政治的な市民権から排除する論理的な根拠を提供しました。つまり、女性は「良き妻、賢き母」として、有能な男性市民を育てるという間接的な形で国家に貢献すべきであり、直接政治に参加する必要はない、というわけです。
一方で、コンドルセ侯爵のように、女性にも男性と完全に平等の教育と市民権を与えるべきだと主張した、例外的な思想家も存在しました。しかし、革命の主流となったのは、残念ながらルソー的な公私の分離と性別役割分業の思想でした。
6.2. フランス革命とオランプ・ド・グージュ
フランス革命は、近代市民革命の中でも最もラディカルなものであり、女性たちの政治参加もかつてないほどの高まりを見せました。食糧危機に苦しむパリの女性たちは、1789年10月のヴェルサイユ行進で国王一家をパリに連行するなど、革命の重要な局面で決定的な役割を果たしました。彼女たちは、政治クラブを結成し、演説を行い、請願書を提出するなど、積極的に自らの政治的権利を主張しました。
しかし、革命の指導者たちが1789年に採択した「人および市民の権利宣言(人間宣言)」は、その普遍的な謳い文句にもかかわらず、その権利の主体が暗黙のうちに男性に限定されていることをすぐに露呈しました。この欺瞞に対して、敢然と異議を唱えたのが、劇作家であり政治活動家でもあったオランプ・ド・グージュです。
彼女は1791年、「人間宣言」を徹底的に批判し、その対案として「女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)」を起草し、発表しました。その第一条は、「女性は自由なものとして生まれ、かつ、権利において男性と平等なものとして存在する」と高らかに宣言します。そして、財産権、安全の権利、そして何よりも圧政への抵抗権といった、男性市民に認められた全ての権利が女性にも適用されるべきであると主張しました。さらに、「女性が断頭台にのぼる権利をもつからには、演壇にのぼる権利をもたなければならない」という有名な一節は、女性が義務と刑罰の対象となる以上、政治参加の権利も持つべきだという、反論の余地のない論理を示しています。
しかし、彼女の先駆的な主張が革命の指導者たちに受け入れられることはありませんでした。革命が急進化する中で、ジャコバン派は1793年に女性の政治クラブをすべて閉鎖し、女性が公の場で政治活動を行うことを禁止しました。オランプ・ド・グージュ自身も、ジャコバン派の独裁を批判したかどで、同年のうちに断頭台の露と消えました。
6.3. 革命の遺産:ナポレオン法典と「近代家族」
フランス革命の動乱がナポレオン・ボナパルトの登場によって収束すると、彼の指導の下で編纂された「ナポレオン法典(フランス民法典)」(1804年)が、革命の成果を法的な形で定着させました。この法典は、封建的な特権の廃止、法の下の平等、私有財産の絶対性などを保障し、近代市民社会の法的基盤として、ヨーロッパ各地に絶大な影響を与えました。
しかし、家族法の領域において、ナポレオン法典は革命前の家父長制を復活・強化するものでした。法典は、「夫は妻を保護する義務を負い、妻は夫に服従する義務を負う」と明確に規定しました。妻は夫の許可なくして、訴訟を起こすことも、財産を譲渡・取得することもできない「無能力者」とされ、法的には未成年者や禁治産者と同等に扱われました。離婚の条件も、夫に有利なように定められていました。
この法典によって法制化されたのは、夫を家長とする「近代家族」のモデルです。このモデルでは、夫は公的な領域(仕事、政治)で家族を代表し、妻は私的な領域(家事、育児)に専念するという、ルソー的な性別役割分業が国家の法によって制度化されました。市民革命は、封建的な身分制を打ち破りましたが、その代わりに、性別に基づく新たな公私の分離と支配=従属関係を、近代社会の根幹に据え付けたのです。
結論として、近代市民革命は、女性にとって両義的な遺産を残しました。「普遍的人権」という理念は、それ自体が強力な武器となり、後の女性の権利運動(特に参政権運動)の思想的な拠り所となりました。オランプ・ド・グージュの問いかけは、決して忘れ去られたわけではなかったのです。しかし同時に、革命は女性を「市民」の枠組みから排除し、彼女たちを近代的な家父長制の下に置く制度的・法的な基盤を確立しました。この革命が生み出した「約束」と「裏切り」の間の巨大な亀裂を埋めるための戦いが、その後2世紀にわたるフェミニズムの歴史そのものであったと言えるでしょう。
7. 産業革命と女性労働者
18世紀後半にイギリスで始まった産業革命は、人類の生産様式と社会構造を根底から覆した、歴史上の一大転換点です。蒸気機関の発明、工場制機械工業の導入、そして都市への人口集中は、人々の生活を様変わりさせました。この巨大な社会変動の渦中で、女性たちは新たな「労働者」として、経済システムの不可欠な構成要素となりました。しかし、彼女たちが足を踏み入れた近代的な労働の世界は、決して解放の場ではありませんでした。それは、低賃金、劣悪な労働環境、そして家庭での役割との二重の負担という、新たな形態の搾取と困難に満ちたものだったのです。産業革命期における女性労働者の経験は、階級とジェンダーが交差する中で、近代社会の矛盾がどのように現れたかを鮮やかに示しています。
7.1. 家内工業から工場労働へ
産業革命以前、主要な産業の一つであった繊維産業は、主に「家内工業(プロト工業化)」の形態をとっていました。商人兼企業家(問屋)が農村の女性たちに原料(羊毛や綿花)を供給し、彼女たちが自宅で糸を紡ぎ(紡績)、布を織る(織布)という形です。この段階では、女性の労働は家事や育児、農作業と一体化したものであり、家庭という生活空間の中で行われていました。
しかし、飛び杼(とびひ)、ジェニー紡績機、水力紡績機、そしてミュール紡績機といった一連の技術革新が、この状況を一変させます。これらの新しい機械は、個人の家には設置できないほど大型で高価であり、水力や蒸気力といった新たな動力を必要としました。その結果、生産の場は、労働者と機械を一つの場所に集約する「工場」へと移行します。
この変化は、女性の働き方を根本から変えました。彼女たちは、自らの労働時間を管理できた家内工業とは異なり、工場の始業ベルから終業ベルまで、厳格な規律の下で長時間働くことを強いられるようになります。労働は、もはや家庭生活と一体化したものではなく、家から切り離された「職場」で行われる、賃金を得るための活動となったのです。
7.2. 女性・子供の労働と劣悪な環境
産業革命初期の主要産業であった綿工業(木綿工業)や、石炭を採掘する炭鉱業では、女性と子供が極めて重要な労働力とされました。工場主(資本家)にとって、彼女たちはいくつかの点で理想的な労働者でした。
- 低賃金: 女性や子供の賃金は、成人男性の賃金の半分から3分の1程度に抑えられていました。これは、彼女たちの労働が家計を補助する「副次的な」ものと見なされていたためです。この安価な労働力が、イギリス産業革命の急成長を支える大きな要因となりました。
- 従順さ: 女性や子供は、男性労働者に比べて、工場の厳しい規律や単純作業に従順であると考えられていました。機械の操作に、必ずしも男性のような筋力は必要とされなかったことも、彼女たちが多く雇用された理由の一つです。特に、紡績工場では、指が細く器用であるという理由で、多くの年少の子供たちが働かされていました。
- 労働環境: 工場の労働環境は、筆舌に尽くしがたいほど劣悪でした。綿ぼこりが舞う換気の悪い工場で、1日に12時間から16時間もの長時間労働を強いられ、少しでも気を抜けば高速で動く機械に巻き込まれて手足を失う危険と隣り合わせでした。炭鉱では、女性や子供が、狭く暗い坑内で石炭を運ぶ重労働に従事していました。こうした過酷な労働は、多くの労働者の健康を蝕み、その寿命を縮めました。
こうした悲惨な状況は、次第に社会問題として認識されるようになります。人道的な観点からの批判や、労働者自身の抵抗運動の高まりを受け、イギリス議会は1833年の工場法を皮切りに、一連の工場法を制定します。これらの法律は、年少者の労働時間を制限し、女性の深夜業や坑内労働を禁止するなど、労働者の保護を目的としていました。しかし、これらの「保護」規定は、結果として女性を特定の職種から排除し、彼女たちの労働機会を制限するという、両義的な効果をもたらすことにもなりました。
7.3. 中産階級のイデオロギー:「家庭の天使」と「ファミリー・ウェイジ」
産業革命は、工場労働者という新たな階級を生み出すと同時に、工場主、銀行家、弁護士といった「中産階級(ブルジョワジー)」を台頭させました。この新しい支配階級は、自らの生活様式を正当化するための独自の文化とイデオロギーを形成します。その核心にあったのが、フランス革命の項で見たルソー的な「性別役割分業」の思想でした。
- 「家庭の天使(The Angel in the House)」: ヴィクトリア朝時代の中産階級にとって、理想の女性像は、家庭という「聖域」を守る「家庭の天使」でした。彼女の役割は、競争と利潤追求に満ちた過酷な公的領域(市場)から帰ってきた夫を癒し、子供たちに道徳的な教育を施し、家庭を安らぎと秩序の場として維持することでした。働くことは、女性らしさを損なう「はしたない」行為と見なされ、妻が働かなくてよいことは、夫の経済的な成功と社会的地位の証となりました。このイデオロギーは、女性を経済的な生産活動から切り離し、夫に完全に依存する存在として家庭内に閉じ込める効果を持ちました。
- 「ファミリー・ウェイジ(家族賃金)」: この中産階級のイデオロギーは、労働者階級にも影響を及ぼしました。男性の労働組合は、「ファミリー・ウェイジ」という理念を掲げて賃上げ闘争を展開しました。これは、男性の世帯主一人の賃金で、妻と子供を含めた家族全員が生活できるべきだという主張です。この主張の背景には、女性や子供を劣悪な労働から解放したいという人道的な動機もありましたが、同時に、安価な女性労働者が男性の賃金を脅かすことへの対抗策という側面もありました。結果として、「ファミリー・ウェイジ」の理念は、女性は本来家庭にいるべき存在であり、労働市場から退出することが望ましいという考えを、労働者階級の間にも広めることになりました。
7.4. 新たな女性の職種
産業革命が進行し、社会が複雑化するにつれて、工場労働以外にも、女性が担う新たな職種が生まれてきました。しかし、これらの職種もまた、多くは女性の「本性」に適していると見なされる、補助的で低賃金な仕事でした。
- 家事使用人(メイド): 都市の中産階級家庭の増加に伴い、家事使用人の需要が爆発的に増大しました。19世紀後半のイギリスでは、家事使用人は女性にとって最大の雇用分野でした。彼女たちは、住み込みで長時間働き、主人の厳格な管理下に置かれ、プライバシーはほとんどありませんでした。
- 教師、看護婦、タイピスト: 19世紀後半になると、初等教育の普及、医療の近代化、そして企業の事務作業の増大に伴い、女性教師、看護婦、タイピストといった新しい専門職が登場します。これらの仕事は、女性の「育児能力」や「忍耐強さ」「器用さ」といった、伝統的な女性観に基づいた特性に適しているとされ、「女性的な」職業と見なされました。ある程度の教育が必要とされ、工場労働よりは社会的な地位も高いとされましたが、依然として賃金は低く、管理職への道は閉ざされていました。
産業革命は、女性を伝統的な共同体から引き離し、賃金労働者として経済システムに組み込みましたが、それはジェンダーによる階層構造を解体するものではありませんでした。むしろ、労働者階級の女性は工場や炭鉱で搾取され、中産階級の女性は「家庭の天使」として私的領域に閉じ込められるという形で、階級とジェンダーに基づいた新たな社会的分断と抑圧の構造を生み出したのです。この矛盾に満ちた状況の中から、女性自身の権利を求める、より組織的な運動が生まれることになります。
8. 女性参政権運動
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、欧米の近代市民社会が成熟期を迎える中で、女性たちは自らの権利を求める新たな段階の闘いを開始します。その中心的な目標となったのが、国家の意思決定プロセスに参加する最も基本的な権利、すなわち「参政権」の獲得でした。市民革命が女性を「市民」の範疇から除外したという歴史的な矛盾を乗り越え、法の下の完全な平等を達成しようとするこの運動は、「第一波フェミニズム」の中核をなすものでした。女性参政権運動(サフラージュ・ムーブメント)は、平和的な請願から過激な実力行使まで、多様な戦術を駆使して展開され、数十年にもわたる粘り強い闘いの末に、近代民主主義の概念そのものを変革させることに成功したのです。
8.1. 運動の思想的背景と出発点
女性参政権運動の思想的な源流は、市民革命期にまで遡ります。オランプ・ド・グージュの「女権宣言」や、イギリスのメアリ・ウルストンクラフトが著した『女性の権利の擁護』(1792年)は、啓蒙思想の掲げる理性の普遍性を根拠に、女性にも男性と平等の教育と市民権が与えられるべきだと主張しました。これらの先駆的な思想は、すぐには実現しませんでしたが、後の世代の活動家たちに大きな影響を与えました。
19世紀に入ると、自由主義や社会改革運動が活発化する中で、女性の権利を求める声も次第に組織化されていきます。特にアメリカでは、奴隷制廃止運動が、女性参政権運動の直接的な出発点となりました。
- セネカ・フォールズ大会: 1848年、ニューヨーク州のセネカ・フォールズで、アメリカ初の女性の権利を求める大会が開催されました。エリザベス・キャディ・スタントンやルクレティア・モットらが主導したこの大会では、アメリカ独立宣言をモデルにした「感情宣言(Declaration of Sentiments)」が採択されました。この宣言は、「全ての男性と女性は平等に創られている」と述べ、女性に対する選挙権の否定、既婚女性の法的無能力、教育や職業へのアクセスの制限など、数々の不正を列挙し、その是正を求めました。この大会は、アメリカにおける組織的な女性参政権運動の幕開けを告げる画期的な出来事とされています。
8.2. イギリスにおける闘い:サフラジストとサフラジェット
イギリスにおける参政権運動は、その戦術の多様性と、時に見せた過激さにおいて、他国の運動とは一線を画すものでした。運動は、大きく二つの潮流に分けることができます。
- サフラジスト(Suffragists)の穏健な運動: 19世紀半ばから活動していたのが、ミレセント・フォーセットが率いる「全国女性参政権協会連合(NUWSS)」に代表される「サフラジスト」たちです。彼女たちは、法を遵守する平和的な手段、すなわち議会への請願、パンフレットの配布、ロビー活動、公開討論会などを通じて、理性に訴えかけることで参政権を獲得しようとしました。彼女たちの粘り強い活動は、世論を喚起し、運動の裾野を広げる上で重要な役割を果たしました。
- サフラジェット(Suffragettes)の過激な闘争: しかし、数十年にわたる穏健な活動が目に見える成果を上げないことに業を煮やした一部の活動家は、より戦闘的な戦術へと転換します。1903年、エメリン・パンクハーストとその娘たちが結成した「女性社会政治同盟(WSPU)」は、その急進的な活動スタイルから「サフラジェット」と呼ばれました。彼女たちのスローガンは、「言葉ではなく行動を(Deeds not words)」でした。
- 戦闘的戦術: 当初は議会へのデモや野次といったものでしたが、政府の強硬な姿勢に直面する中で、その行動は次第にエスカレートしていきます。ショーウィンドウの破壊、郵便ポストへの放火、ゴルフ場の芝焼き、さらには爆弾の設置といった、直接的なサボタージュ活動や破壊行為に及びました。
- 逮捕とハンガー・ストライキ: 多くのサフラジェットが逮捕され、投獄されました。彼女たちは獄中で、自らを政治犯として扱うよう求め、「ハンガー・ストライキ(断食闘争)」を行いました。これに対し、政府は囚人の口に無理やり管を差し込んで栄養を流し込む「強制摂食」という、非人道的で拷問に近い措置で応じました。この弾圧は、かえって世論の同情をサフラジェット側に集める結果となりました。
- 「猫と鼠法」: 強制摂食による殉教者が出ることを恐れた政府は、1913年に「仮出獄法」、通称「猫と鼠法」を制定します。これは、ハンストで衰弱した囚人を一時的に釈放し、体力が回復した頃に再び収監するというもので、運動を無力化することを狙ったものでした。
- エミリー・デイヴィソンの殉教: 1913年、サフラジェットの一員であるエミリー・デイヴィソンは、ダービー競馬場のレース中に国王の持ち馬の前に飛び出し、その際の負傷がもとで死亡しました。彼女の死は、運動の殉教者として大きく報じられ、その闘いの深刻さを世界に知らしめました。
8.3. 第一次世界大戦と参政権の獲得
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの政治状況は一変します。イギリスのサフラジェットたちは、国家の危機に協力するため、戦闘的な活動を一時停止し、戦争遂行に全面的に協力する姿勢に転じました。女性たちは、男性が兵士として戦場に赴いた後の銃後の担い手として、軍需工場での労働、農業、輸送、看護など、これまで男性の仕事とされてきたあらゆる分野で活躍しました。
この戦争への多大な貢献は、女性の社会的・経済的な役割の重要性を誰の目にも明らかにし、「女性に参政権を与えることは国益に反する」といった旧来の反対論の根拠を突き崩しました。
- イギリス: 1918年、戦争が終結する直前に、「国民代表法」が改正され、30歳以上の女性(一定の財産要件あり)に初めて選挙権が与えられました。これは、戦争協力への「報酬」という側面がありましたが、紛れもなく戦前のサフラージュ運動の成果でした。完全な男女平等(21歳以上)の普通選挙権が実現するのは、1928年のことです。
- アメリカ: アメリカでも、女性たちの戦争協力は参政権獲得への追い風となりました。ウィルソン大統領も、それまでの反対姿勢を転換し、女性参政権を支持するようになります。粘り強いロビー活動の末、1920年に合衆国憲法修正第19条が批准され、性別を理由に選挙権を否定することが禁じられました。
- 世界的な広がり: 世界で初めて女性参政権を国政レベルで認めたのは、ニュージーランド(1893年)でした。その後、オーストラリア(1902年)、フィンランド(1906年)、ノルウェー(1913年)などが続きます。第一次世界大戦後には、ドイツ(ワイマール憲法、1919年)やソヴィエト連邦(1917年)など、多くの国で女性参政権が実現しました。しかし、フランスやイタリア、そして日本で女性参政権が認められるのは、第二次世界大戦後のことになります。
女性参政権の獲得は、女性が法的に完全な「市民」として認められたことを意味する、画期的な勝利でした。それは、女性たちが自らの手で、民主主義の概念を拡張し、より普遍的なものへと深化させた歴史的な達成であったと言えるでしょう。しかし、参政権という法的な平等の達成は、社会や文化の領域に根深く残る性差別の終わりを意味するものではありませんでした。この新たな課題への挑戦が、次の世代のフェミニストたちに引き継がれていくことになります。
9. 社会主義と女性解放
19世紀のヨーロッパで産業資本主義が急速に発展する中、その矛盾を鋭く批判し、全く新しい社会のヴィジョンを提示したのが社会主義思想でした。カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスに代表される社会主義者たちは、女性が置かれている抑圧的な状況、すなわち「婦人問題」にも強い関心を寄せました。しかし、彼らのアプローチは、女性参政権運動に代表される当時の「ブルジョワ・フェミニズム」とは根本的に異なっていました。社会主義者にとって、女性の抑圧は、私有財産制度と階級社会という、資本主義システムの根幹に起因するものでした。したがって、真の女性解放は、参政権の獲得といった部分的な改革によってではなく、プロレタリアートによる社会主義革命を通じてのみ達成可能であると考えられたのです。この理論は、20世紀のロシア革命において、世界で初めて国家レベルでの壮大な社会実験へと移されることになります。
9.1. マルクス主義の女性解放論
マルクス主義における女性抑圧の分析は、フリードリヒ・エンゲルスが著した『家族・私有財産・国家の起源』(1884年)に最も体系的に示されています。
- 私有財産と家父長制の起源: エンゲルスは、アメリカの文化人類学者ルイス・モーガンの研究に基づき、人類の原始共同体社会では、財産は共有され、母系の血縁が重視される「母権制」が支配的であったと主張しました。しかし、農耕や牧畜の発展によって生産力が増大し、私有財産(特に家畜や土地)が生まれると、状況は一変します。男性は、自らの財産を自分の実の子に相続させることを望むようになり、そのために確実な父系出自を保証する必要が生じました。その結果、女性の貞節を強制し、彼女たちを男性の支配下に置く「一夫一婦制」と「家父長制(父権制)」が確立されたと論じました。エンゲルスは、この変化を「女性の世界史的な敗北」と呼びました。
- ブルジョワ家族の批判: マルクス主義の観点から見れば、近代のブルジョワ的な家族は、愛情に基づいた自然な共同体などではなく、経済的な土台、すなわち私有財産の維持と相続を目的とした制度に他なりません。この制度の中で、夫はブルジョア階級(資本家)を、妻はプロレタリアート(労働者)を体現する存在と見なされました。妻は夫の私有物であり、無償の家事労働を提供し、嫡出子を産むための道具とされました。つまり、ブルジョワ家族における女性の抑圧は、資本家による労働者の搾取と構造的に同じものであると捉えられたのです。
- 解放への道筋: したがって、女性を解放するためには、その抑圧の根源である私有財産制度そのものをなくす必要があります。社会主義革命によって生産手段が社会化(共有化)されれば、財産相続のための家父長制的な家族は、その存在理由を失い、解体されると考えられました。そして、家事や育児は、個々の女性の私的な負担ではなく、保育所や公共食堂、共同洗濯所といった社会的な事業として担われるべきだとされました。これにより、女性は家庭内の無償労働から解放され、男性と平等に社会的な生産活動に参加することが可能となり、真の解放が達成される、というのがマルクス主義の描いた未来図でした。
9.2. 社会主義運動とフェミニズムの関係
このような理論的背景から、19世紀末から20世紀初頭にかけての社会主義者たちは、参政権獲得などを目指す当時のフェミニスト運動に対して、しばしば批判的な態度をとりました。クララ・ツェトキンのようなドイツ社会民主党の女性指導者は、ブルジョワ・フェミニズムを、単にブルジョワ階級の女性が男性と平等の特権を得ようとする運動に過ぎないと見なし、プロレタリアートの女性の解放には繋がらないと批判しました。彼女たちにとって、プロレタリアートの女性の闘いは、ブルジョワ女性との連帯ではなく、プロレタリアートの男性との階級的な連帯のうちにこそあるべきでした。婦人問題は、階級問題の一部として捉えられ、その解決は社会主義革命という最終目標に従属するものと位置づけられたのです。
9.3. ロシア革命とソヴィエトの実験
1917年、世界で初めての社会主義国家であるソヴィエト連邦が誕生すると、マルクス主義の女性解放論は、国家の公式イデオロギーとして、具体的な政策へと移されました。ウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキ政府は、当時としては世界で最も急進的な、女性の権利に関する法制改革を次々と断行しました。
- 法制上の平等: 革命直後、ソヴィエト政府は、女性に男性と完全平等の選挙権および被選挙権を認めました。結婚や離婚の手続きは大幅に簡素化され、宗教的な儀式から切り離された民事的な登録制となりました。離婚は、夫婦の一方の申し出だけで可能になりました。また、世界で初めて、人工妊娠中絶が合法化され、女性の自己決定権が(少なくとも法的には)保障されました。
- 家事・育児の社会化: 理論に基づき、女性を「家庭の奴隷」から解放するための政策も進められました。国営の食堂、託児所、洗濯所などが各地に設置され、家事や育児を社会が分担することが目指されました。アレクサンドラ・コロンタイのような女性革命家は、伝統的な家族制度を完全に解体し、恋愛も国家の管理から自由であるべきだとする、よりラディカルな「自由な愛」を提唱しました。
9.4. スターリン体制下の後退と実験の限界
しかし、この壮大な社会実験は、深刻な困難に直面します。長年の内戦と経済的な混乱の中で、家事や育児を社会化するためのインフラを十分に整備することはできませんでした。離婚の自由化は、多くの男性が無責任に家族を捨てる結果を招き、多くの女性と子供が困窮する事態も引き起こしました。
そして、1920年代後半からヨシフ・スターリンが権力を掌握すると、状況は大きく後退します。工業化と軍事力強化を最優先課題としたスターリン政権は、社会の安定と人口増加を重視し、伝統的な家族の価値を復活させる方向へと舵を切りました。
- 「偉大なる母」の称揚: 1936年には、人工妊娠中絶は再び非合法化され、離婚は困難になりました。多くの子供を産んだ女性は「母性英雄」として表彰されるなど、国家のために子供を産み育てるという、伝統的な母性イデオロギーが強力に推進されました。コロンタイのようなラディカルな思想は批判され、公式の場から姿を消しました。
ソヴィエトの実験は、最終的に多くの矛盾を抱えることになります。一方で、ソ連の女性は、教育への完全なアクセスを保障され、医師や技術者など、多くの専門職分野で高い就業率を達成しました。これは、当時の西側資本主義国と比較しても、特筆すべき成果でした。しかし、その一方で、彼女たちは「偉大なる母」として家庭での役割を期待され、さらに政治的な意思決定の中枢(党の政治局など)からは、依然としてほとんど排除されていました。家事や育児の負担は、結局のところ女性の肩に重くのしかかり続け、「働く母」としての二重の負担が常態化したのです。
社会主義は、女性抑圧の原因を私有財産制と階級社会に求め、その構造的な分析において鋭い洞察を示しました。しかし、ロシア革命の経験が示すように、生産手段の社会化や法制上の平等を達成するだけでは、文化や人々の意識の奥深くに根ざした家父長制的な価値観を克服することはできませんでした。女性解放を、常に国家の経済的・政治的目標に従属させてしまうという根本的な限界も露呈したのです。
10. フェミニズムの展開
女性参政権の獲得という「第一波」の目標が多くの国で達成された後、フェミニズムの運動は新たな段階へと移行します。法的な平等を勝ち取ったにもかかわらず、女性が社会のあらゆる場面で直面する、目に見えない障壁や文化的な差別は依然として根強く残っていました。1960年代以降、公民権運動や学生運動といった社会変革の気運が高まる中で、フェミニズムは再び力強い盛り上がりを見せます。この「第二波」以降のフェミニズムは、法律や政治といった公的な領域だけでなく、家庭、職場、セクシュアリティといった私的な領域にまで分析の射程を広げ、ジェンダーという概念そのものを問い直していく、より深く、より多様な知的・実践的探求へと展開していきました。
10.1. 第二波フェミニズム:「個人的なことは政治的なこと」
1960年代から1980年代にかけての「第二波フェミニズム」は、現代のフェミニズムの基礎を築いたと言える、極めて重要なムーヴメントです。
- 思想的背景: 第二波の理論的な礎を築いたのが、フランスの思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールが著した『第二の性』(1949年)です。その冒頭に記された「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な一節は、女性を規定している「女らしさ」が、生物学的な宿命ではなく、社会や文化によって後天的に構築されたものであることを喝破しました。この「社会的・文化的に作られた性別」こそが、後に「ジェンダー」と呼ばれる概念の核心となります。
- アメリカでの発火点: アメリカでは、ベティ・フリーダンが『新しい女性の創造(原題:The Feminine Mystique)』(1963年)で、郊外の住宅で何不自由ない暮らしを送りながらも、名状しがたい虚しさを感じる中産階級の専業主婦たちの問題、すなわち「名前のない問題」を告発しました。この本はベストセラーとなり、多くの女性たちの共感を呼び、彼女たちを運動へと駆り立てるきっかけとなりました。フリーダンらは、全米女性機構(NOW)を結成し、雇用における性差別撤廃や、男女雇用機会均等法の制定などを求めて活動しました。
- 「ウーマン・リブ」のラディカリズム: NOWのような比較的穏健なリベラル・フェミニズムの運動と並行して、より急進的な「ウーマン・リブ(Women’s Liberation)」と呼ばれる運動も広がりました。公民権運動や反戦運動に参加した若い世代の女性たちが中心となり、彼女たちは、既存の社会システム内での平等を求めるだけでは不十分だと考えました。彼女たちが掲げたスローガンが、「個人的なことは政治的なこと(The Personal is Political)」です。これは、家庭内の力関係、恋愛、セクシュアリティ、家事分担、あるいは美容といった、従来は「個人的」な問題とされてきた領域こそが、女性を抑圧する家父長制(パトリアーキー)の権力関係が最も端的に現れる「政治的」な場である、という認識を示しています。
- 主要なテーマ: 第二波フェミニズムは、極めて広範なテーマに取り組みました。
- リプロダクティブ・ライツ: 経口避妊薬(ピル)の普及を背景に、女性が自らの身体、特に妊娠や出産を自分で決定する権利(リプロダクティブ・ライツ)を強く主張しました。人工妊娠中絶の合法化は、その中心的な争点となりました(アメリカでは1973年のロー対ウェイド判決で合法化)。
- ドメスティック・バイオレンスと性暴力: 家庭内暴力やレイプといった問題が、個人の不幸ではなく、女性に対する支配を維持するための社会構造的な暴力であることが告発され、被害者のためのシェルター設置や法改正の運動が進められました。
- ジェンダー役割の批判: 教育やメディアを通じて再生産される、固定的な「男らしさ」「女らしさ」のステレオタイプを鋭く批判しました。
10.2. 第三波フェミニズム:多様性とインターセクショナリティ
1990年代に入ると、第二波フェミニズムに対する内省と批判から、「第三波フェミニズム」と呼ばれる新たな潮流が登場します。
- 第二波への批判: 第三波のフェミニストたちは、第二波の運動が、暗黙のうちに「女性」という主語を、白人・中産階級・異性愛者の女性に限定して語ってきたのではないかと批判しました。黒人女性やレズビアンの女性、あるいは労働者階級の女性が直面する固有の経験が、普遍的な「女性」の経験の中に埋もれてしまっていたというのです。
- インターセクショナリティ(交差性): この批判から生まれたのが、「インターセクショナリティ」という極めて重要な概念です。これは、キンバリー・クレンショーら黒人フェミニストの法学者が提唱したもので、ジェンダー(性別)による差別が、人種、階級、セクシュアリティ、国籍、障害の有無といった、他の様々な社会的属性による差別と分かちがたく結びつき、互いに交差しながら、複合的な抑圧の形を生み出しているという考え方です。例えば、黒人女性が経験する差別は、単に「女性差別」と「人種差別」の足し算ではなく、その両方が交わることによって生まれる、特有の経験であると捉えます。この視点は、フェミニズムが、単一の「女性」ではなく、多様な背景を持つ「女性たち」の差異に目を向け、より包括的な運動へと自己変革を遂げる上で決定的な役割を果たしました。
- 文化的なテーマ: 第三波フェミニズムは、ポルノグラフィやポップカルチャーといったテーマにも積極的に関わりました。第二波の一部がポルノを女性搾取の象徴として厳しく批判したのに対し、第三波の中には、女性が自らのセクシュアリティを主体的に表現する手段として、これらの文化を読み解き、再利用しようとする動きも見られました。また、固定的なジェンダー観を攪乱するような、多様な自己表現が肯定的に評価されました。
10.3. 現代のフェミニズム:第四波とグローバルな課題
2010年代以降、インターネットとソーシャルメディアの爆発的な普及を背景に、「第四波フェミニズム」と呼ぶべき新たな局面が訪れています。
- デジタル・フェミニズム: FacebookやTwitterといったプラットフォームは、これまで声を上げにくかった個人が、自らの経験を語り、瞬時に国境を超えて連帯することを可能にしました。2017年に世界的に広がった「#MeToo」運動は、その象徴的な例です。この運動は、ハリウッドの著名なプロデューサーによる長年の性加害疑惑をきっかけに、多くの女性たちが自らのセクハラや性的暴行の経験を「#MeToo(私も)」というハッシュタグと共に告白したもので、職場や社会に蔓延する性暴力の現実を白日の下に晒しました。
- グローバルな連帯: 現代のフェミニズムは、ますますグローバルな性格を強めています。発展途上国における女子教育の推進、紛争下での性暴力の問題、あるいはグローバル経済における女性労働者の搾取など、地域ごとの固有の課題に取り組むと同時に、それらの課題が国境を超えた構造的な問題と結びついているという認識も深まっています。イスラーム圏における「イスラミック・フェミニズム」のように、それぞれの文化や宗教の伝統の中から、ジェンダー平等の根拠を見出そうとする動きも活発です。
参政権を求めた第一波から、私的な領域の政治性を問うた第二波、多様性の尊重を掲げた第三波、そしてデジタル技術で連帯する第四波へ。フェミニズムの歴史は、社会の変化に対応しながら、その問いを絶えず深化させてきた、自己変革の軌跡です。それは、単に「女性の権利」を求める運動にとどまらず、人種や階級を含むあらゆる差別や権力構造を批判的に検証し、全ての人間が自らの可能性を自由に追求できる、より公正な社会の実現を目指す、普遍的な思想的探求であり続けているのです。
「Module 18:ジェンダーの歴史」の総括:権力と規範を映し出す、もう一つの世界史
本モジュールで展開してきたジェンダーの歴史は、私たちがこれまで学んできた世界史の物語に、不可欠な深みと複雑さを与えるものです。それは、歴史の主役として語られてこなかった人々の視点から、社会構造、文化、そして権力の本質を問い直す知的営みです。先史時代の役割分担の可能性から、古代の厳格な家父長制、世界宗教がもたらした両義的な影響、身体にまで刻まれた儒教倫理、そして近代以降の「権利」をめぐる絶え間ない闘争に至るまで、ジェンダー秩序がいかに構築され、維持され、そして挑戦を受けてきたかを見てきました。この探求は、性別による役割や規範が、決して自然で普遍的なものではなく、それぞれの時代と社会が作り上げてきた歴史的産物であることを明らかにします。この視座を獲得することは、現代社会が抱える不平等を歴史的な文脈で理解し、未来を構想するための批判的な思考力を養う上で、決定的な意味を持つでしょう。歴史とは、ジェンダーというレンズを通して見ることで、初めてその全体像を現すのです。