【基礎 世界史(通史)】Module 8:モンゴル帝国とユーラシア
本モジュールの目的と構成
前モジュールで探求した宋代の中国が、洗練された文治主義と驚異的な経済発展を謳歌していた頃、その北方に広がるモンゴル高原では、ユーラシア大陸の歴史を永遠に変えることになる、地殻変動のような巨大なエネルギーが蓄積されていました。本モジュールで扱う13世紀から15世紀にかけての時代は、まさしく「モンゴルの世紀」です。遊牧民であったモンゴル人が、チンギス=ハンという一人の天才的指導者の下で統一され、瞬く間にユーラシア大陸の大部分を席巻する空前絶後の世界帝国を築き上げました。
我々の目的は、単にモンゴルの征服の歴史を追うことではありません。それは、この人類史上最大の版図を誇った帝国が、中国、イスラーム世界、ロシアといった、それまで比較的独立して発展してきた巨大文明圏の境界線をいかにして破壊し、それらを一つの政治・経済システムの中に強制的に統合したのか、そのダイナミックな過程を解き明かすことにあります。モンゴル帝国は、既存の文明にとって恐るべき「破壊者」であったと同時に、ユーラシア大陸全域にわたる人、モノ、技術、文化の交流を前例のない規模で促進する「結合者」でもありました。この破壊と結合の二面性こそが、モンゴル時代を理解する上で最も重要な鍵となります。
本モジュールは、この壮大なユーラシア規模の歴史変動を、以下の論理的なステップに沿って多角的に分析します。
- 草原の統一: まず、分裂していたモンゴルの遊牧諸部族が、いかにしてチンギス=ハンの下に統一され、恐るべき軍事国家へと変貌を遂げたのか、その形成過程を探ります。
- 世界帝国の拡大: 次に、チンギス=ハンの後継者たちによって、東は朝鮮半島から西は東ヨーロッパに至る広大な領域が、どのようにして征服されていったのか、その驚異的な拡大の軌跡を追います。
- 定住文明の支配者: モンゴル帝国が中国を完全に征服し、フビライ=ハンが遊牧国家から中国的な王朝「元」へと、その統治のあり方をどのように変容させたのかを分析します。
- モンゴルによる平和(パクス=モンゴリカ): 征服という破壊の時代の後に訪れた、ユーラシア大陸全域の安定と、それによってもたらされた空前の東西交流の実態に光を当てます。
- 拡大の限界: モンゴル帝国が、日本や東南アジアへの遠征で直面した困難と、その侵攻が各地に与えた影響を考察し、帝国の軍事力の限界を探ります。
- 元の衰退: 中国を支配した元が、なぜ100年足らずで衰退し、漢民族の農民反乱によって草原へと追いやられてしまったのか、その内的な要因を解明します。
- 西方の後継者たち: 西アジアに建国されたイル=ハン国が、現地のイスラーム文化と融合していく過程と、その行く手に立ちはだかったマムルーク朝との宿命的な対決を描きます。
- 最後の遊牧帝国: モンゴル帝国の再興を夢見たティムールが、いかにして中央アジアに最後の大帝国を築き上げ、そしてその帝国がなぜ彼の死とともに急速に崩壊したのかを見ます。
- モンゴル後の世界: 最後に、モンゴルの支配がもたらした長期的な帰結として、西アジアにおけるオスマン帝国の台頭と、ロシアが「タタールのくびき」から解放され、統一国家への道を歩み始める過程を追跡します。
このモジュールを学び終える時、皆さんは歴史を中国史、ヨーロッパ史といった個別の枠組みで捉えるのではなく、ユーラシア大陸全体が一つの連動したシステムとして動いていたことを深く理解できるようになるでしょう。それは、現代につながるグローバルな世界の原型が、モンゴルという巨大な触媒によって、いかにして形成されたのかを洞察するための、広大な歴史的視野の獲得を意味します。
1. モンゴル帝国の形成とチンギス=ハン
12世紀末のモンゴル高原は、統一された権力のない、弱肉強食の世界でした。モンゴル、ケレイト、ナイマン、メルキト、タタルといった遊牧部族が、水と牧草地を求めて互いに絶え間ない抗争を繰り返していました。厳しい自然環境と部族間の裏切りや襲撃が日常茶飯事であるこの過酷な世界に、後にチンギス=ハンとして知られることになる一人の男、テムジンが生まれました。彼の生涯は、モンゴル高原の部族社会を根底から作り変え、世界史を動かす巨大な軍事国家を創造する、壮大な物語の始まりでした。
1.1. テムジンの苦難と台頭
テムジンは、1162年頃、モンゴル部族の有力な氏族の長の子として生まれました。しかし、彼がまだ幼い頃、父エスイェイはライバルであったタタル部族に毒殺されてしまいます。指導者を失った氏族の民は離散し、テムジンの一家は部族から見捨てられ、食べるものにも事欠く極貧の生活へと突き落とされました。彼は敵対する部族に捕らえられ、奴隷として首枷(くびかせ)をはめられるという屈辱も味わいます。
この少年時代の苦難の経験は、テムジンの強靭な精神力と、他人を見抜く鋭い洞察力、そして裏切りを決して許さない冷徹な性格を育みました。彼は、血縁や部族といった旧来のしがらみよりも、個人の能力と忠誠心を何よりも重視するようになりました。
青年となったテムジンは、父のかつての盟友であったケレイト部族のオン=ハンや、生涯の盟友(アンダ)となるジャムカらの助けを借りながら、徐々に失われた勢力を回復していきます。彼は、巧みな戦略と卓越したリーダーシップで、離散した父の民を再結集させ、敵対する部族を次々と打ち破っていきました。彼の下には、そのカリスマ性に惹かれて、部族の垣根を越えて多くの有能な武将たちが集まりました。
1.2. 1206年のクリルタイとモンゴル統一
テムジンは、かつての盟友であったオン=ハンやジャムカとの熾烈な覇権争いにも勝利し、ついにモンゴル高原の遊牧諸部族を統一することに成功します。1206年、オノン川の源流にモンゴルの全部族長を集めて大会議(クリルタイ)を開き、全モンゴルの支配者として推戴され、「チンギス=ハン(チンギスは「偉大な」「海の」などの意味を持つとされる)」という称号を授けられました。ここにモンゴル帝国(イェケ=モンゴル=ウルス、大モンゴル国)が誕生しました。
この出来事は、単に最も強力な部族長が他の部族を力で従えたというだけではありませんでした。チンギス=ハンは、モンゴル社会のあり方を根本から作り変える、革命的な改革を断行しました。彼の目的は、部族間の絶え間ない内紛の原因となってきた旧来の部族社会を解体し、すべての人々をチンギス=ハン一門に直属する、強固な軍事国家へと再編成することでした。
1.3. 帝国を支える制度改革
チンギス=ハンが創設した制度は、その後のモンゴル帝国の驚異的な発展の礎となりました。
- 千戸制(ミンガン): チンギス=ハンは、征服した全部族を解体し、その構成員を千戸(ミンガン)、百戸(ジャウン)、**十戸(アルバン)**という十進法に基づく軍事・行政単位に再編成しました。各戸の長は、部族の出身に関わらず、チンギス=ハンが任命した功臣たちが就きました。これにより、旧来の部族意識は解体され、すべての遊牧民は、部族ではなく千戸制という新しい組織を通じて、ハンに直接忠誠を誓うことになりました。遊牧民全体が一つの巨大な軍団と化したのです。
- 親衛隊(ケシク): 帝国の精鋭部隊として、チンギス=ハンに絶対の忠誠を誓う**親衛隊(ケシク)**を創設しました。ケシクの隊員は、功臣の子弟から選抜され、昼夜交代でハンの身辺を警護し、平時にはハンの家政を取り仕切る側近としての役割も果たしました。ケシクは、将来の帝国を担う幹部養成機関としての機能も持ち、帝国の中枢を支えるエリート集団となりました。
- 成文法(ヤサ): モンゴルには文字がありませんでしたが、チンギス=ハンはウイグル人からウイグル文字を借用してモンゴル文字を制定させました。そして、帝国の基本法となる**ヤサ(ジャサク)**と呼ばれる成文法を定めました。ヤサの具体的な内容は完全には伝わっていませんが、反逆や窃盗に対する厳しい罰則、軍隊における厳格な規律、使節の安全保障など、帝国を維持するための規範が定められていたと考えられています。
- 駅伝制(ジャムチ): 広大な領土を効率的に統治し、迅速な情報伝達を行うため、主要な交通路に約30〜40kmごとに宿駅を設ける**駅伝制(ジャムチ、後のジャム)**を整備しました。これにより、ハンの命令は驚異的な速さで帝国の隅々にまで伝えられ、後の帝国の発展を支える神経網となりました。
これらの改革によって、チンギス=ハンはモンゴルの遊牧民を、個人的な忠誠心と厳格な規律で結ばれた、恐るべき効率性と機動力を持つ軍事国家へと鍛え上げました。統一されたモンゴル高原の巨大な軍事力は、もはや高原内部に留まることはなく、そのエネルギーは、周辺の定住文明世界へと向けられることになります。それは、ユーラシア大陸全土を巻き込む、大征服時代の幕開けでした。
2. モンゴル帝国の拡大
チンギス=ハンによって統一され、強固な軍事国家として再編成されたモンゴルは、その比類なき軍事力を外部へと向け、人類史上例を見ない速度と規模で領土を拡大していきました。チンギス=ハンの死後も、その後継者である大ハーンたちによって征服事業は継続され、わずか数十年間のうちに、東は朝鮮半島から西はロシア・東ヨーロッパ、南は中国・ペルシアに至る、ユーラシア大陸の大部分を覆う空前絶後の大帝国が築き上げられました。このモンゴル帝国の拡大は、多くの文明を破壊し、人々に恐怖をもたらしましたが、同時に、それまで隔絶されていた諸地域を一つの世界システムの中に結びつけるという、世界史的な大変動を引き起こしました。
2.1. チンギス=ハンによる征服戦争
モンゴル高原を統一したチンギス=ハンが、最初の大規模な対外遠征の標的としたのは、シルクロードの交易利権を握る西夏でした。数度にわたる遠征の末、西夏を服属させ、その富を奪いました。
次に、長年の宿敵であった金を攻撃し、その首都・中都(現在の北京)を占領、華北の広大な地域を支配下に置きました。
そして、チンギス=ハンの名を世界史に刻印したのが、中央アジアから西アジアにかけて行われた西方大遠征です。当時、中央アジアを支配していたイスラーム国家ホラズム=シャー朝が、モンゴルから派遣された通商使節団を殺害したことをきっかけに、チンギス=ハンは大規模な報復遠征を開始しました。
1219年から始まったこの遠征で、モンゴル軍はブハラやサマルカンドといった、当時世界で最も繁栄していたオアシス都市を次々と攻略し、徹底的に破壊しました。抵抗した都市の住民は虐殺され、精緻な灌漑施設も破壊され、中央アジアの文化と経済は壊滅的な打撃を受けました。この遠征の別動隊は、さらに西進してカフカス山脈を越え、南ロシアの諸侯軍にも勝利を収めました。チンギス=ハンは、この遠征の帰途、西夏の背信を討つために再び遠征し、1227年、その陣中で病死しました。
2.2. 後継者たちによる三方面への拡大
チンギス=ハンの死後、帝国の後継者(大ハーン)の位は、彼の息子たちによるクリルタイで選出されました。第2代大ハーンとなった三男のオゴデイは、父の遺志を継ぎ、帝国のさらなる拡大を計画しました。彼は、帝国の首都をモンゴル高原のカラコルムに定め、征服事業を三つの方面で同時に推進しました。
- 中国方面(対南宋戦): 1234年、宿敵であった金を滅ぼし、華北を完全に制圧しました。その後、南方の南宋への侵攻を開始しましたが、南宋の頑強な抵抗に遭い、征服は長期戦となりました。
- 西方方面(バトゥのヨーロッパ遠征): チンギス=ハンの長男ジョチの子であるバトゥを総司令官とする大軍団が、西へと派遣されました。1236年に始まったこの遠征で、モンゴル軍はヴォルガ川を越えてロシアに侵入し、キエフをはじめとするロシアの諸都市を次々と破壊しました。さらに西進したモンゴル軍は、ポーランド・ドイツ連合軍をワールシュタット(リーグニッツ)の戦いで、ハンガリー軍をモヒの戦いで、それぞれ壊滅させ、ヨーロッパ世界を震撼させました。ヨーロッパ全土がモンゴルの脅威に晒されましたが、1242年、総司令官バトゥの下に大ハーン・オゴデイの訃報が届くと、バトゥは後継者決定のクリルタイに参加するため、全軍を東方に引き返させました。これにより、西ヨーロッパはモンゴルの蹂躙をかろうじて免れることになりました。遠征から帰還したバトゥは、南ロシアに**ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国)**を建国しました。
- イラン・西アジア方面(フラグの遠征): 第4代大ハーン・モンケの時代、その弟であるフラグが西アジア遠征軍の総司令官に任命されました。1256年に始まったこの遠征で、フラグの軍はまずイランにあった暗殺教団(アサシン派)の拠点を滅ぼしました。そして1258年、イスラーム世界の精神的中心であったアッバース朝の首都バグダードを攻略しました。カリフは殺害され、壮麗な都市は徹底的に破壊され、ここに約500年続いたアッバース朝は滅亡しました。これはイスラーム世界にとって、歴史的な大事件でした。フラグはさらにシリアへと進軍しましたが、1260年、パレスチナのアイン・ジャールートの戦いで、エジプトのマムルーク朝の軍隊に敗北しました。これは、モンゴル軍が喫した最初の本格的な敗北であり、その西進を食い止める重要な転換点となりました。フラグはイランの地に留まり、イル=ハン国を建国しました。
2.3. モンゴル軍の強さの秘密
なぜモンゴル軍は、これほどまでに圧倒的な強さを誇ったのでしょうか。その要因は複合的です。
- 卓越した騎馬戦術: 全員が騎兵であるモンゴル軍は、驚異的な機動力を誇りました。軽装騎兵が敵を攪乱し、重装騎兵が決定的な打撃を与えるという、組織的な集団戦法を得意としました。
- 強力な弓: 幼い頃から狩猟で鍛えられたモンゴル兵は、卓越した弓の射手でした。彼らが用いた複合弓(コンポジット・ボウ)は、小型でありながら高い貫通力を持ち、馬上から自在に矢を放つことができました。
- 厳格な規律と組織: チンギス=ハンが創設した千戸制による十進法の軍団組織は、指揮系統が明確で、一糸乱れぬ行動を可能にしました。命令に背く者には死罪が科されるなど、規律は極めて厳格でした。
- 徹底した情報収集と心理戦: モンゴルは、事前に偵察部隊や商人を通じて敵の情報を徹底的に収集しました。また、降伏勧告に応じず抵抗した都市の住民は、見せしめとして皆殺しにするという「恐怖」を巧みに利用し、敵の戦意をくじく心理戦を得意としました。
- 高度な適応能力: 当初は野戦を得意としたモンゴル軍でしたが、征服した地域の技術者を積極的に登用し、中国やペルシアの高度な攻城兵器の技術を素早く吸収しました。これにより、堅固な城壁に囲まれた都市をも攻略することが可能になりました。
これらの要因が組み合わさることで、モンゴル軍はユーラシア大陸において無敵の軍事力となり、短期間での大帝国建設を可能にしたのです。
3. 元の成立とフビライ=ハン
13世紀半ば、モンゴル帝国は第4代大ハーン・モンケの死をきっかけに、大きな転換点を迎えます。後継者の地位をめぐる内紛の結果、帝国の統一は失われ、ユーラシア大陸の各地にチンギス=ハンの子孫が治める複数のハン国(ウルス)が事実上自立する時代へと移行しました。その中で、中国とモンゴル高原を支配し、名目上の大ハーンの地位を継承したのが、モンケの弟であるフビライ=ハンです。彼は、モンゴルの伝統的な遊牧国家のあり方と、中国の先進的な定住文明の統治システムを融合させようと試み、国号を中国風の「元」と改めました。フビライの時代は、モンゴル帝国が征服の時代から統治の時代へと移行する、極めて重要な時期でした。
3.1. 帝国の分裂とフビライの即位
1259年、南宋攻略の遠征中に大ハーン・モンケが急死すると、モンゴル帝国は深刻な後継者争いに突入します。モンケの弟であるフビライとアリクブケが、それぞれ別の場所でクリルタイを開いて大ハーンへの即位を宣言し、両者の間で4年間にわたる内戦が勃発しました。
中国の農耕地帯を拠点とし、その豊かな経済力を背景に持つフビライが、モンゴル高原の遊牧民の支持を背景に持つアリクブケを最終的に破り、第5代大ハーンの地位を確立しました。しかし、この内戦は帝国の統一に決定的な亀裂を生じさせました。中央アジアのチャガタイ=ハン国や、南ロシアのジョチ=ウルスは、フビライの即位を公然とは認めず、事実上独立した国家として行動するようになりました。
これにより、チンギス=ハン以来の統一されたモンゴル帝国は終わりを告げ、フビライが直接統治する大元ウルス(後の元)と、中央アジアのチャガタイ=ハン国、イランのイル=ハン国、南ロシアの**ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国)**という、四つの主要なハン国が並び立つ時代が始まりました。これらのハン国は、互いに緩やかな血縁関係と経済的つながりを保ちながらも、それぞれが独自の道を歩んでいくことになります。
3.2. 南宋の征服と中国支配の完成
大ハーンの地位を確立したフビライは、祖父チンギス=ハン以来の懸案であった南宋の完全征服に全力を注ぎました。彼は、モンゴル軍だけでなく、金から降伏した漢人の軍隊や、新たに編成した大規模な水軍を動員しました。南宋は、長江の天険と堅固な城塞都市を頼りに頑強に抵抗しましたが、1276年、ついに首都・臨安(杭州)が陥落しました。その後も、一部の皇族や臣下たちが抵抗を続けましたが、1279年の崖山(がいさん)の戦いで最後の抵抗勢力が滅亡し、ここに南宋は完全に滅びました。
この南宋の滅亡によって、フビライは中国全土を支配下に置く、最初の異民族出身の皇帝となりました。彼は、すでに1271年には、国号を中国の古典である『易経』の一節から採って「大元」と定めていました。また、首都をモンゴル高原のカラコルムから、旧金の首都であった中都の地に新たに建設した大都(だいと)(現在の北京)へと移しました。これらの措置は、フビライが単なるモンゴルの遊牧民のハンとしてではなく、中国の伝統を受け継ぐ中華皇帝として、広大な中国の農耕社会を統治していくという明確な意志表示でした。
3.3. 元の統治政策とモンゴル人第一主義
しかし、フビライの統治は、中国の伝統を全面的に受け入れるものではありませんでした。彼の統治の根幹にあったのは、征服者であるモンゴル人が、被征服者である漢民族を恒久的に支配するための、巧みで厳しい差別政策でした。
- モンゴル人第一主義: フビライは、帝国内の人民を、出身民族によって四つの階層に厳格に区分しました。
- モンゴル人: 帝国の支配階級として、政治・軍事の最高位を独占し、様々な特権を与えられました。
- 色目人(しきもくじん): 中央アジアや西アジア出身のテュルク系、イラン系、アラブ人、そしてヨーロッパ人などを指します(「様々な種類の人々」という意味)。彼らは、モンゴル人の支配を補佐する、財務や科学技術に優れた専門家集団として重用されました。イタリア出身のマルコ=ポーロも、この色目人に含まれます。
- 漢人(かんじん): 旧金の支配下にあった、華北の漢民族や女真人、契丹人などを指します。
- 南人(なんじん): 最下層に置かれた、旧南宋の支配下にあった漢民族を指します。彼らは、最も人口が多かったにもかかわらず、政治的に最も厳しく差別され、重税を課せられました。
この身分制度は、少数のモンゴル人が、圧倒的多数の漢民族を効率的に支配するための分断統治政策でした。特に、モンゴル人は漢人との間の文化的な壁を意識的に維持しようとし、漢人との通婚を禁じ、漢人の武器所有を厳しく制限しました。
- 官僚制度と科挙: フビライは、統治の実際的な面では、中国の伝統的な官僚制度である三省六部制を参考にしましたが、その運用はモンゴル人と色目人が主導しました。漢人官僚も登用されましたが、その昇進は厳しく制限されました。また、漢人知識人の政治参加の道である科挙は、フビライの治世中はほとんど停止されました。これは、儒教的教養を身につけた漢人官僚が、政治の中枢で力を持つことを警戒したためです。
フビライの統治は、モンゴルの遊牧国家としての伝統と、中国の定住王朝としての現実との間で、常に緊張をはらんだものでした。彼は、モンゴルの覇者として君臨し続けることと、中国の皇帝として文明を統治することの二つの役割を両立させようとしましたが、この二つのアイデンティティの間の矛盾は、彼の死後、元王朝が抱える深刻な問題の根源となっていくのです。
4. 「パクス=モンゴリカ」と東西交流
モンゴルによる征服は、ユーラシア大陸の多くの地域に未曾有の破壊と殺戮をもたらしました。しかし、その征服活動が一段落し、13世紀半ばから14世紀半ばにかけて、ユーラシア大陸に広大なモンゴル帝国とその分派である四つのハン国が並び立つ時代が訪れると、皮肉にも、それまでになかった規模の平和と安定が大陸を覆うことになります。この、モンゴルの覇権下で実現した約100年間の比較的平和な時代を、西洋史の「パクス=ロマーナ(ローマによる平和)」になぞらえて、「パクス=モンゴリカ(モンゴルによる平和)」と呼びます。この時代、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交通路はモンゴルの単一権力によって安全が保障され、人、モノ、技術、文化、思想の交流が空前の規模で活発化しました。
4.1. 交流を支えたインフラ:駅伝制(ジャム)
パクス=モンゴリカを物理的に支えた最大のインフラが、チンギス=ハンの時代に創設され、帝国全域に張り巡らされた**駅伝制(ジャム)**でした。
- システムの概要: ジャムは、モンゴル帝国の主要な街道に沿って、約30〜40kmごとに設置された宿駅のネットワークです。各宿駅には、使者が乗り換えるための馬や食料、宿泊施設が常備されていました。
- 驚異的な情報伝達速度: 帝国の公的な使者は、「パイザ」と呼ばれる通行許可証を携行し、ジャムの施設を無料で利用することができました。彼らは昼夜を問わず馬を乗り継ぎ、ハンの命令や公式な報告を驚異的な速さで伝えました。マルコ=ポーロの記録によれば、その速度は1日に400km以上に達することもあったとされ、これは当時の世界で最速の情報通信網でした。
- 交易の促進: ジャムは、公的な使者だけでなく、許可を得た商人や旅行者も利用することができました。これにより、それまで危険に満ちていた長距離の陸路交易が、かつてなく安全かつ効率的に行えるようになりました。盗賊は厳しく罰せられ、街道の治安は保たれました。「乙女が黄金の皿を頭に載せて、帝国の一方の端からもう一方の端まで、安全に旅をすることができた」という当時の言葉は、パクス=モンゴリカの安定性を象徴しています。
4.2. ユーラシアを旅した人々
ジャムによって結ばれた安全な交通路を通って、様々な目的を持つ人々がユーラシア大陸を往来しました。
- 商人:
- マルコ=ポーロ: パクス=モンゴリカの時代を象徴する最も有名な人物が、ヴェネツィアの商人マルコ=ポーロです。彼は父や叔父とともに陸路で元を訪れ、約17年間にわたってフビライ=ハンに仕えました。帰国後、ジェノヴァとの戦争で捕虜となり、その獄中で自らの体験談を口述しました。この記録が『世界の記述(東方見聞録)』です。この本は、黄金の国ジパング(日本)や、元の繁栄、アジア各地の風俗をヨーロッパに紹介し、ヨーロッパ人のアジアへの好奇心を大いにかき立て、後の大航海時代に大きな影響を与えました。
- ムスリム商人: 陸路・海路ともに、この時代の国際交易の主役は、ウイグル人やペルシア人、アラブ人といったムスリム(イスラーム教徒)商人でした。彼らは、元の宮廷で財務官僚として重用され、中国の産品を西方へ、西方の産品を東方へと運び、巨大な富を築きました。モロッコ出身の大旅行家イブン=バットゥータも、元の泉州を訪れています。
- 宣教師・外交官:
- プラノ=カルピニとルブルック: 13世紀半ば、ヨーロッパを震撼させたモンゴルの脅威の正体を探るため、ローマ教皇はフランチェスコ会の修道士プラノ=カルピニやルブルックを、モンゴルの首都カラコルムに派遣しました。彼らの旅行記は、当時のモンゴル帝国の実情をヨーロッパに伝える貴重な情報源となりました。
- モンテ=コルヴィノ: 13世紀末、同じくフランチェスコ会の宣教師モンテ=コルヴィノは、元の首都・大都に赴き、カトリックの布教を行いました。彼は大都の初代大司教に任命され、教会を建設するなど、一定の成功を収めました。
- ラッバン=ソウマ: 逆に、東から西へ旅した人物もいました。元のネストリウス派(景教)の修道士ラッバン=ソウマは、イル=ハン国の使節として、ヨーロッパの諸王やローマ教皇のもとを訪れ、イスラーム勢力であるマムルーク朝に対する共同戦線を提案しました。
4.3. 交流したモノと技術、そして負の遺産
パクス=モンゴリカの時代には、人々の往来とともに、様々なモノや技術、思想がユーラシア大陸を双方向に移動しました。
- 東から西へ伝わったもの:
- 三大発明: 中国の宋代に実用化された羅針盤、火薬、活版印刷術といった画期的な技術が、モンゴル時代にイスラーム世界を経由してヨーロッパに伝わりました。これらの技術は、ヨーロッパでさらなる改良が加えられ、羅針盤は大航海時代を、火薬は騎士階級の没落と戦争のあり方の変革を、活版印刷術はルネサンスや宗教改革を、それぞれ促進する重要な要因となりました。
- 西から東へ伝わったもの:
- イスラームの科学技術: イル=ハン国で発展した、ペルシアの高度な天文学や数学、医学、暦法などが、元の宮廷に伝えられました。フビライの宮廷では、イスラーム系の天文学者・ザマルッディーンが、郭守敬(かくしゅけい)とともに新しい暦である**授時暦(じゅじれき)**を作成する上で大きな役割を果たしました。
- 文化・芸術: イランの細密画(ミニアチュール)の技法が中国の絵画に影響を与え、中国の陶磁器に見られる竜や鳳凰の文様が、イランの陶器のデザインに取り入れられるなど、芸術面でも活発な相互影響が見られました。
しかし、この空前の交流は、負の側面ももたらしました。14世紀に中央アジアで発生したとされる**ペスト(黒死病)**は、モンゴル帝国が築いたこの安全な交易路を伝って、驚異的な速さで東西に広がりました。ペストは、まず中国の元で猛威をふるい、その後、クリミア半島からジェノヴァ商人の船によってヨーロッパにもたらされ、当時のヨーロッパの人口の3分の1から半分が死亡するという、歴史上最悪のパンデミックを引き起こしました。皮肉なことに、ユーラシア大陸を一つに結びつけたパクス=モンゴリカのシステムそのものが、この大災害を世界規模に拡大させる媒体となってしまったのです。
5. 元寇と日本・東南アジアへの影響
フビライ=ハンが率いる元は、中国全土を統一した後、その巨大な軍事力を東アジア・東南アジアの周辺諸国へと向けました。その目的は、モンゴル帝国の宗主権を認めさせ、朝貢関係を結ぶことで、モンゴルを中心とする世界秩序を完成させることにありました。しかし、中国大陸や内陸アジアの乾燥地帯で無敵を誇ったモンゴル軍も、海を渡った先の日本や、高温多湿のジャングルが広がる東南アジアでは、予期せぬ困難に直面します。これらの地域への遠征は、モンゴル帝国の拡大の限界を露呈させるとともに、侵攻を受けた国々の歴史に大きな影響を残しました。
5.1. 日本への二度の侵攻(元寇)
フビライは、日本の鎌倉幕府に対して、元の宗主権を認めて朝貢するよう、再三にわたって国書を送りました。しかし、武士の政権である幕府は、この要求を拒絶しました。これに対し、フビライは武力によって日本を服属させることを決意し、二度にわたる大規模な遠征軍を派遣しました。これが日本では「元寇(げんこう)」と呼ばれる出来事です。
- 文永の役(1274年): 元は、服属させた高麗(こうらい)に軍船を建造させ、モンゴル人、漢人、高麗人からなる約3万の兵を日本に送りました。元軍は対馬、壱岐を侵略した後、九州北部の博多湾に上陸しました。日本の武士(御家人)たちは、個人の武功を重んじる「一騎討ち」を主とした戦い方であったのに対し、元軍は鉄砲(てつはう)と呼ばれる火薬兵器や毒矢を用い、銅鑼(どら)や太鼓の音に合わせて統制のとれた集団戦法を展開しました。この戦術の違いに日本の武士たちは苦戦を強いられましたが、元軍も大きな損害を出し、その日のうちに船団に引き上げました。そしてその夜、暴風雨に見舞われた元軍の艦隊は大きな被害を受け、撤退を余儀なくされました。
- 弘安の役(1281年): フビライは、南宋を滅ぼした後、さらに大規模な遠征軍を編成しました。高麗からの東路軍約4万と、中国南部からの江南軍約10万、合計14万という、当時としては世界史上最大規模の艦隊でした。一方、日本側は、前回の経験を教訓に、博多湾沿岸に約20kmにわたる**防塁(石塁)**を築き、元軍の上陸を阻止する準備を整えていました。元軍は、この防塁に阻まれて容易に上陸できず、海上での戦いが長期化しました。そして、約2ヶ月にわたる対峙の末、再び巨大な台風が元軍の艦隊を襲いました。軍船の多くは沈没・大破し、元軍は壊滅的な打撃を受けて敗退しました。この台風は、日本を神の力で守った「神風(かみかぜ)」であるという信仰を生み出しました。
5.2. 元寇が日本社会に与えた影響
元寇は、日本の歴史に多大な影響を及ぼしました。
- 鎌倉幕府の衰退: 幕府は、この未曾有の国難を防衛することには成功しましたが、その代償は大きなものでした。元寇は防衛戦争であったため、武士たちは敵から新たな領地を獲得することができませんでした。そのため、幕府は、命がけで戦った御家人たちに対して、十分な恩賞(褒美)を与えることができませんでした。これにより、御家人たちの幕府への不満が高まり、幕府の求心力は著しく低下しました。この財政的困窮と御家人の不満が、後の鎌倉幕府の滅亡につながる最大の原因となりました。
- 武士社会の変化: 元軍の集団戦法を目の当たりにしたことで、日本の戦術にも変化が生じ、集団での戦闘の重要性が認識されるようになりました。
- 神国思想の昂揚: 二度にわたる「神風」によって国が救われたという経験は、日本は神によって守られている特別な国であるという「神国思想(しんこくしそう)」を人々の間に広く浸透させました。この思想は、後の時代の日本のナショナリズムにも影響を与えることになります。
5.3. 東南アジアへの遠征とその失敗
フビライは、日本と並行して、東南アジアの諸国にも朝貢を要求し、従わない国には遠征軍を送りました。
- ヴェトナム(陳朝大越国): 当時のヴェトナムを支配していた陳(チャン)朝は、元の要求を拒否し、フビライは三度にわたって大軍を派遣しました。しかし、陳朝の将軍・陳興道(チャン=フン=ダオ)の巧みな指揮の下、ヴェトナム軍はゲリラ戦術と、高温多湿の気候、そして風土病を利用してモンゴル軍を苦しめ、最終的にこれを撃退することに成功しました。
- ビルマ(パガン朝): 元軍は雲南からビルマに侵攻し、首都を陥落させてパガン朝を滅亡に追い込みました。しかし、ビルマ全土を安定して支配することはできず、ビルマはその後、長期の分裂時代に入ります。
- ジャワ(シンガサリ朝): フビライが派遣した使節を顔に刺青をされて追い返されたことに激怒し、大艦隊をジャワに派遣しました。しかし、元軍が到着した時には、シンガサリ朝はすでに内紛で滅んでおり、元軍は現地のマジャパヒト王国の策略に利用された末、大きな損害を出して撤退しました。
- チャンパー(占城): ヴェトナム南部にあったチャンパーも、元の侵攻を撃退しました。
これらの東南アジアへの遠征が、日本のケースと同様に、ほとんど成功しなかった原因は複数あります。第一に、モンゴル軍の主力である騎馬軍団が、山岳やジャングル、河川の多い東南アジアの地形でその威力を十分に発揮できなかったこと。第二に、高温多湿の気候と風土病が、モンゴル高原出身の兵士たちを苦しめたこと。第三に、海上輸送による兵站(へいたん)の維持が極めて困難であったこと。これらの遠征の失敗は、モンゴル帝国の軍事力が、その地理的・環境的な条件によって制約されることを明確に示しました。
フビライの治世は、元の版図を最大に広げた時代でしたが、その度重なる対外遠征は、国家の財政を著しく圧迫し、多くの人命を失わせました。これらの軍事的失敗は、王朝の威信を損ない、彼の死後、元が急速に衰退していく遠因となったのです。
6. 元の衰退と紅巾の乱
フビライ=ハンの死後、彼が築き上げた大元ウルスは、急速にその勢いを失い、14世紀半ばには大規模な農民反乱によって、建国から100年足らずで中国の支配を失うことになります。元の短期的な崩壊は、モンゴル人による支配体制が内包していた構造的な矛盾、度重なる帝位継承争いによる政治の不安定化、そして経済政策の失敗といった、複数の要因が絡み合った結果でした。そして、その崩壊の引き金を引いたのが、「紅巾(こうきん)の乱」と呼ばれる、宗教的色彩を帯びた大農民反乱でした。
6.1. フビライ死後の政治的混乱
1294年にフビライが死去すると、元は深刻な後継者争いに見舞われました。モンゴルには、中国のような長子相続の厳格な伝統がなく、ハンの地位は有力者によるクリルタイでの選挙によって決まるという慣習が根強く残っていました。このため、皇帝が死ぬたびに、チンギス=ハンの血を引く皇族たちの間で激しい権力闘争が繰り返されました。
フビライの後の約40年間で、9人もの皇帝がめまぐるしく交代するという異常な事態となり、宮廷内は陰謀と内紛に明け暮れました。政治は安定せず、一貫した政策を打ち出すこともできなくなり、中央政府の統治能力は著しく低下しました。この政治的混乱は、モンゴル支配層の結束を弱め、被支配者である漢民族の不満を増大させていきました。
6.2. 経済政策の破綻と社会不安
元の経済は、当初は東西交易の活発化などによって繁栄しましたが、14世紀に入ると深刻な行き詰まりを見せ始めます。
- 紙幣(交鈔)の乱発とインフレーション: 元は、主要な通貨として**交鈔(こうしょう)**と呼ばれる紙幣を使用していました。当初は経済の発展に貢献したこのシステムも、政府が財政難を補うために、裏付けとなる銀の準備なしに紙幣を無計画に乱発するようになると、その価値は暴落しました。激しいインフレーションが発生し、物価は高騰し、民衆の生活は極度に苦しくなりました。
- 重税と格差の拡大: 財政が悪化すると、政府は民衆、特に最も低い身分に置かれていた南人(旧南宋の漢人)に対して重税を課しました。モンゴル人や色目人の官僚、そして彼らと結びついた商人たちは税を逃れる一方で、漢人の農民だけがその負担を押し付けられ、社会の不公平感は極限にまで高まっていました。
- 自然災害の頻発: 14世紀半ばには、黄河の大規模な氾濫や、干ばつ、飢饉といった自然災害が頻発しました。多くの農民が土地を失って流民となり、社会不安は頂点に達しました。古代からの中国の伝統的な思想では、このような天変地異は、皇帝が天命(てんめい)を失った証と見なされました。
6.3. 紅巾の乱と元の北走
このような政治・経済・社会のあらゆる面での行き詰まりを背景に、ついに大規模な民衆反乱の火の手が上がります。1351年、黄河の治水工事に強制的に動員されていた農民たちが蜂起したことをきっかけに、反乱は全国に広がりました。
この反乱の中心となったのが、**白蓮教(びゃくれんきょう)**という宗教結社でした。白蓮教は、阿弥陀仏への信仰を中核としながら、やがて救世主である弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に下って、苦しむ民衆を救済するという終末論的な思想(弥勒下生思想)を説き、絶望的な状況にあった民衆の間に深く浸透していました。反乱軍は、目印として紅い頭巾(ずきん)を着用したことから、「紅巾の乱」と呼ばれました。
紅巾軍は、単なる農民の暴動ではなく、「モンゴルを駆逐し、漢人の王朝を再興する」という明確な民族的なスローガンを掲げていました。反乱は瞬く間に華中・華南一帯を席巻し、元朝の統治は長江以南では完全に麻痺状態に陥りました。
元の正規軍は、長年の平和によって弱体化しており、この大規模な反乱を鎮圧する能力を失っていました。各地の紅巾軍の中から、多くの指導者が現れて自立しましたが、その中で最も巧みに勢力を拡大したのが、貧しい農民の出身であった**朱元璋(しゅげんしょう)**でした。彼は、優秀な知識人を参謀に迎え、規律の取れた軍隊を組織し、他のライバルたちを次々と打ち破っていきました。
1368年、朱元璋は南京(当時の金陵)で皇帝に即位し、新しい王朝「明(みん)」を建国しました。そして、大軍を北上させて元の首都・大都を攻略しました。元の最後の皇帝・順帝(トゴン=テムル)は、戦わずしてモンゴル高原へと逃亡しました。これを「元の北走(ほくそう)」と呼びます。
これにより、元は中国の支配を完全に失い、モンゴル高原に拠点を移して北元(ほくげん)として存続することになりました。約100年にわたったモンゴルによる中国支配は、こうして終わりを告げ、中国は再び漢民族の王朝の時代を迎えることになったのです。紅巾の乱は、元朝を崩壊させただけでなく、その中から次の明王朝を誕生させた、中国史における重要な転換点となりました。
7. イル=ハン国とマムルーク朝
モンゴル帝国が分裂し、フビライが東方で元を建国した頃、西アジアのイラン高原を中心とする地域では、チンギス=ハンの孫であるフラグがイル=ハン国を建国しました。この国は、モンゴルの遊牧民が、高度に発展したペルシア=イスラーム文明を支配するという、二重性を持つ国家でした。その歴史は、モンゴルの伝統と現地の文化との間の緊張と融合、そして西方の強敵であるエジプトのマムルーク朝との宿命的な対決によって特徴づけられます。この両者の攻防は、13世紀後半から14世紀にかけての西アジア世界の動向を決定づける、最も重要な軸でした。
7.1. イル=ハン国の成立とペルシア統治
1258年にアッバース朝を滅ぼしたフラグは、イランの地に留まり、自らをイル=ハン(「従属するハン」の意、名目上は大ハーンに従うことを示す)と称しました。これがイル=ハン国の始まりです。
イル=ハン国の統治は、大きな課題に直面しました。支配者である少数のモンゴル人は、伝統的なシャーマニズムやネストリウス派キリスト教を信仰しており、被支配者の大多数はイスラーム教徒でした。当初、モンゴル支配層は、イスラーム教徒に対して抑圧的な政策をとり、両者の間には深い溝が存在しました。
しかし、広大で複雑なペルシアの農耕社会を統治するためには、現地の行政ノウハウに精通したイラン人官僚の協力が不可欠でした。イル=ハン国は、次第にイランの伝統的な行政システムを取り入れ、イラン人官僚を登用するようになります。この過程で、モンゴル支配層自身も、徐々にペルシア=イスラーム文化の影響を強く受けていきました。
7.2. イスラーム化と文化の融合
イル=ハン国の歴史における最大の転換点は、第7代ハンのガザン=ハン(在位1295年〜1304年)の治世に訪れます。彼は、国内のイスラーム教徒の支持を得て国を安定させるため、自らイスラーム教に改宗し、それを国教としました。
ガザン=ハンの改宗は、イル=ハン国が単なるモンゴルの征服王朝から、イランの地に根ざしたイスラーム王朝へと変貌を遂げたことを象徴する出来事でした。彼は、有能なイラン人宰相ラシード=アッディーンを重用し、税制の改革や貨幣制度の統一、駅伝制(ジャム)の再整備など、様々な国政改革を断行し、国の安定と繁栄をもたらしました。
文化面でも、この時代にはモンゴルの伝統とペルシア文化が融合した、独自の文化が花開きました。
- 歴史学: ガザン=ハンの命により、宰相ラシードは、世界初の本格的な「世界史」である『集史(しゅうし)』を編纂しました。この書物は、モンゴル帝国の支配下で可能となった広範な情報網を駆使し、モンゴル史だけでなく、中国、インド、ヨーロッパの歴史までをも記述した、画期的な歴史書でした。
- 芸術: 中国絵画の技法が伝わり、伝統的なペルシアの細密画(ミニアチュール)に大きな影響を与えました。自然の描写や空間表現がより豊かになり、イル=ハン国独自の様式が確立されました。
- 科学: マラーゲやタブリーズには天文台が建設され、元の郭守敬とも交流のあった、当時世界最高水準の天文学研究が行われました。
しかし、ガザン=ハンの死後、イル=ハン国は再び内紛に陥り、1335年に最後のハンの死とともに、有力な地方政権へと分裂し、事実上滅亡しました。
7.3. 西方の宿敵:マムルーク朝
イル=ハン国がその存続期間を通じて、常に西方の最大の脅威として対峙し続けたのが、エジプトとシリアを支配したマムルーク朝でした。
- マムルークとは: マムルークとは、もともとテュルク系の騎馬遊牧民の少年奴隷を買い集め、厳しい訓練を施して編成された、カリフやスルタン直属の奴隷軍人のことでした。彼らは、高い軍事能力と主君への忠誠心から、イスラーム世界で重要な軍事力となっていました。
- 王朝の成立: 13世紀半ば、エジプトのアイユーブ朝の政権が弱体化すると、軍事力の実権を握っていたマムルークたちがクーデターを起こし、自らスルタンとなって王朝を樹立しました。これがマムルーク朝(1250年〜1517年)です。マムルーク朝は、スルタンの地位が世襲ではなく、マムルーク軍団の有力者による実力闘争によって決まるという、特異な政治体制を持っていました。
7.4. アイン・ジャールートの戦いとモンゴルの西進阻止
マムルーク朝が歴史の表舞台で決定的な役割を果たしたのが、モンゴル軍との対決です。1260年、バグダードを陥れたフラグのモンゴル軍がシリアに侵攻してくると、マムルーク朝の第4代スルタン、バイバルス(当時はまだ将軍)率いる軍隊がこれを迎え撃ちました。
パレスチナのアイン・ジャールートの戦いで、マムルーク軍はモンゴル軍に決定的な勝利を収めました。この勝利の歴史的意義は計り知れません。
- モンゴル不敗神話の打破: それまでユーラシア大陸で無敵を誇ってきたモンゴル軍が、正面からの野戦で初めて本格的な敗北を喫したことで、その不敗神話は打ち破られました。
- モンゴルの西進阻止: この勝利により、モンゴル軍のアフリカ大陸への侵攻は阻止され、イスラーム世界の心臓部であるエジプトはモンゴルの支配を免れました。
- イスラーム文明の保護: アッバース朝の滅亡後、マムルーク朝はバグダードから逃れてきたアッバース朝の生き残りをカイロに迎え入れ、カリフとして保護しました。これにより、カイロはバグダードに代わるイスラーム世界の政治的・文化的中心地となり、イスラーム文明の遺産が守られることになりました。また、イスラーム教の二大聖地であるメッカとメディナも、マムルーク朝の保護下に置かれました。
その後も、イル=ハン国は何度もシリアへの侵攻を試みますが、その都度マムルーク朝によって撃退されました。イル=ハン国とマムルーク朝の対立は、十字軍国家の残存勢力や、ヨーロッパ諸国、そしてジョチ=ウルスなども巻き込む、複雑な国際関係を生み出しました。この両者のパワーバランスが、モンゴル時代の西アジア世界の基本的な構図を形作ったのです。
8. ティムール朝の興亡
14世紀半ば、ユーラシア大陸を覆ったモンゴルの巨大な四つのハン国は、いずれも内紛や後継者争いによって弱体化し、分裂と崩壊の道を歩んでいました。イル=ハン国は崩壊し、イランや中央アジアは再び多くの小勢力が乱立する混乱の時代に陥っていました。この権力の真空地帯から、モンゴル帝国の栄光の再興を掲げる、一人の恐るべき征服者が登場します。それがティムールです。彼は、チンギス=ハンの再来とも称される圧倒的な軍事的才能で、一代にして西アジアから中央アジア、北インドに至る広大な領域を征服し、最後の遊牧民による世界帝国、ティムール朝を築き上げました。
8.1. ティムールの登場と帝国の建国
ティムールは、1336年、中央アジアのサマルカンド近郊で、モンゴル化したテュルク系の小貴族の家に生まれました。彼は、チンギス=ハンの直接の子孫(アルタン=ウルク、黄金氏族)ではありませんでした。そのため、彼は生涯「ハン」の称号を名乗ることはなく、チンギス家の血を引くハーンを名目上の君主として立て、自らはチンギス家の王女を娶ることで「アミール(司令官)」および「駙馬(キュレゲン)(婿)」という称号を用いました。
青年時代のティムールは、混乱する中央アジアで、盗賊まがいの活動から身を起こし、その過程で右足に矢を受けて生涯足を引きずるようになったことから、「跛者(びっこ)のティムール」(ティムール=レンク)と呼ばれ、これがヨーロッパでは「タメルラン」という名の由来となりました。
彼は、その卓越した軍事指導力とカリスマ性で、次第に多くの部下を惹きつけ、ライバルたちを打ち破っていきました。1370年、彼は西チャガタイ=ハン国の実権を完全に掌握し、中央アジアのオアシス都市サマルカンドを首都と定めて、自らの帝国を建国しました。
8.2. 破壊と殺戮の征服活動
ティムールの生涯は、ほとんど休むことのない遠征と征服の連続でした。彼の目的は、分裂したモンゴル帝国を再統一し、チンギス=ハンの栄光を再現することにありました。その軍事行動は、徹底した破壊と容赦のない殺戮を伴うものであり、彼の名はその時代のユーラシア世界に恐怖の代名詞として響き渡りました。
- 周辺地域の制圧: まず、東チャガタイ=ハン国やホラズム地方を制圧し、中央アジアにおける支配を固めました。
- ジョチ=ウルスとの戦い: 北方では、ジョチ=ウルスの有力者トクタミシュと激しく争い、その首都サライを破壊して、ジョチ=ウルスの衰退を決定的にしました。
- イラン・西アジア遠征: イル=ハン国の崩壊後に乱立していたイランの諸勢力を制圧し、西アジア全域を支配下に置きました。抵抗した都市イスファハーンでは、住民の首を切り落として、その頭蓋骨で巨大な塔を築いたという逸話が伝えられています。
- インド遠征: 1398年、北インドに侵攻し、デリー=スルタン朝の軍隊を打ち破って、首都デリーを徹底的に略奪・破壊しました。
- オスマン帝国との激突: 西方では、当時急速に勢力を拡大していたオスマン帝国のスルタン、バヤジット1世と対立しました。1402年、アンカラの戦いでティムール軍はオスマン軍に圧勝し、バヤジット1世を捕虜にしました。この敗北はオスマン帝国の拡大を一時的に頓挫させ、その歴史に大きな衝撃を与えました。また、この遠征の際には、エジプトのマムルーク朝もティムールに服属を誓いました。
これらの遠征の結果、ティムールは西はアナトリアから東はデリー、北は南ロシアから南はペルシア湾に至る、広大な帝国を一代で築き上げました。
8.3. ティムール朝の文化:「ティムール=ルネサンス」
ティムールは、冷酷な破壊者であったと同時に、文化の偉大な保護者という、二つの顔を持っていました。彼は、征服した各地から、一流の建築家、工芸家、学者、芸術家たちを首都サマルカンドに強制的に連行しました。
その結果、サマルカンドは、イスラーム世界の粋を集めた、壮麗で国際色豊かな文化の中心地として空前の繁栄を遂げました。青いタイルで彩られた巨大なモスクやマドラサ(神学校)、壮大な霊廟が次々と建設され、その壮麗さは「青の都」と称えられました。このティムールとその子孫の時代に花開いた、イラン=イスラーム文化とテュルク=モンゴル文化が融合した独自の華麗な文化は、「ティムール=ルネサンス」とも呼ばれています。
8.4. 帝国の崩壊とその後
1404年、ティムールは生涯の最後の目標として、かつてモンゴルが支配した中国を回復すべく、明への大遠征を開始しました。しかし、その遠征の途中、1405年にティムールは病に倒れ、その波乱に満ちた生涯を終えました。
ティムールの帝国は、彼個人の圧倒的なカリスマ性と軍事的才能によってのみ支えられていた、一代限りの征服国家でした。彼には、広大な帝国を統治するための安定した行政システムを構築する意志も時間もありませんでした。そのため、彼の死後、帝国は後継者である息子や孫たちの間で激しい内紛に陥り、急速に分裂・衰退していきました。
帝国の東半分の領土は、北方のウズベク族の侵入によって失われましたが、ティムールの血を引く一族は、イラン東部のヘラートなどで文化的な活動を続けました。そして16世紀初頭、ティムールの子孫の一人であるバーブルが、中央アジアを追われてアフガニスタンからインドに侵入し、北インドを征服してムガル帝国を建国します。ティムールが築いた帝国の直接的な命脈は短かったものの、その血と文化は、南アジアの地に新たな大帝国として受け継がれていくことになったのです。ティムールの登場は、中央アジアから発する最後の、そして最も破壊的な遊牧民による大征服の波でした。
9. オスマン帝国の成立
モンゴルの侵攻は、西アジアの政治地図を大きく塗り替えました。11世紀以来アナトリア(小アジア)を支配していたルーム=セルジューク朝は、モンゴルの侵攻を受けて衰退し、その支配地は多くのテュルク系小君主国(ベイリク)に分裂しました。この混乱の中から、やがてイスラーム世界の新たな盟主となり、地中海世界を震撼させる巨大な世界帝国を築き上げることになる勢力が誕生します。それがオスマン帝国です。オスマン帝国は、アナトリアの片隅の小さな君主国から、いかにして大帝国へと成長していったのでしょうか。その成立の過程は、モンゴル後の西アジアにおける、新たな秩序形成の物語です。
9.1. アナトリアの片隅からの勃興
オスマン家の起源は、中央アジアから移住してきたテュルク系遊牧民の一部族であったとされています。彼らは、ルーム=セルジューク朝の君主に仕え、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との国境地帯であるアナトリア北西部に領地を与えられました。
この部族の指導者であったオスマン1世(在位1299年頃〜1326年)が、13世紀末にルーム=セルジューク朝から自立し、自らの名を冠した君主国を建国したのが、オスマン帝国の始まりです。
オスマン君主国が、数ある他のベイリクの中から頭角を現し、大帝国へと発展することができた要因はいくつかあります。
- 地理的条件: 彼らの本拠地は、キリスト教世界であるビザンツ帝国の領土と直接境を接していました。これは、イスラームの戦士(ガーズィ)にとって、異教徒に対する「聖戦(ジハード)」を行う絶好の機会を提供しました。オスマン君主は、ガーズィの指導者として、領土拡大とイスラーム世界の防衛という二重の大義名分を掲げることができ、周辺から多くの戦士たちを惹きつけました。
- 寛容な統治政策: オスマン君主は、征服した地域のキリスト教徒に対して、人頭税(ジズヤ)を支払えば、その信仰と生命、財産を保障するという、比較的寛容な政策をとりました。これにより、被征服民の抵抗を和らげ、安定した統治を実現しました。
- 有能な君主の出現: 初期のオスマン家には、オスマン1世、オルハン、ムラト1世、バヤジット1世といった、有能で野心的な君主が相次いで登場しました。
9.2. バルカン半島への進出とイェニチェリ軍団
第2代君主オルハンの時代、オスマン君主国はビザンツ帝国の内紛に乗じて、ダーダネルス海峡を渡ってヨーロッパ大陸(バルカン半島)に初めて足がかりを築きました。
続く第3代スルタン(オスマン君主が用いるようになった称号)、ムラト1世は、バルカン半島への進出を本格化させ、ビザンツ帝国の旧都であったアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領し、ここを新たな首都としました。さらに、セルビアやブルガリアといったバルカン半島のキリスト教諸国を次々と破り、支配下に収めていきました。これにより、オスマン帝国は、アナトリアとバルカン半島にまたがる広大な領土を持つ国家へと成長しました。
この急速な拡大を支えたのが、ムラト1世が創設したとされる、オスマン帝国独自の精鋭歩兵軍団、イェニチェリです。
- デヴシルメ制: イェニチェリの兵士は、デヴシルメと呼ばれる特殊な徴兵制度によって集められました。これは、征服したバルカン半島のキリスト教徒の少年たちを、定期的に強制的に徴集し、イスラーム教に改宗させた上で、スルタン直属の軍人・官僚として育成する制度です。
- スルタン直属の常備軍: イェニチェリは、スルタンに絶対の忠誠を誓う常備軍であり、火器(鉄砲)で武装した、当時のヨーロッパで最強の歩兵軍団でした。彼らは、部族的な背景を持たないため、スルタンの権力を強化し、中央集権化を進める上で絶大な力を発揮しました。イェニチェリの存在は、テュルク系遊牧民の部族的な軍事力に依存していた他の君主国に対する、オスマン帝国の大きな優位性となりました。
9.3. ティムールによる敗北と帝国の再興
第4代スルタン、バヤジット1世は、「雷帝(ユルドゥルム)」の異名を持つほどの積極的な征服活動を行い、バルカン半島とアナトリアの大部分を制圧し、オスマン帝国の版図を最大に広げました。しかし、その彼の前に、東方から現れたティムールという巨大な壁が立ちはだかります。
1402年、アナトリアに侵攻してきたティムール軍と、バヤジット1世率いるオスマン軍は、アンカラの戦いで激突しました。この戦いでオスマン軍は壊滅的な敗北を喫し、バヤジット1世自身も捕虜となるという、国家存亡の危機に陥りました。ティムールは、オスマン帝国が征服したアナトリアのベイリクを復活させ、帝国は分裂の危機に瀕しました。
しかし、オスマン帝国は、この壊滅的な敗北から奇跡的に立ち直ります。バヤジット1世の死後、彼の息子たちの間で約10年間にわたる内紛(空位時代)が続きましたが、最終的に勝利したメフメト1世が帝国を再統一しました。アンカラの戦いで、アナトリアのテュルク系諸侯の多くがティムールに寝返ったのに対し、イェニチェリを中心とするバルカン半島側の勢力はオスマン家への忠誠を保ち続けました。デヴシルメ制とイェニチェリという、オスマン帝国独自のシステムが、国家の崩壊を防ぐ上で決定的な役割を果たしたのです。
9.4. コンスタンティノープル征服と帝国の完成
帝国を再興したオスマン朝は、再び拡大の道を歩み始めます。そして、第7代スルタン、メフメト2世(征服王、ファーティフ)の時代、オスマン帝国はその歴史における最大の偉業を成し遂げます。
1453年、メフメト2世は、大軍を率いてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲しました。ウルバン砲と呼ばれる巨大な大砲などの新兵器を駆使し、約50日にわたる激しい攻防の末、難攻不落を誇った千年の都を陥落させました。最後の皇帝コンスタンティノス11世は、城壁の上で戦死し、ここに古代ローマ帝国以来の歴史を持つビザンツ帝国は完全に滅亡しました。
このコンスタンティノープル征服は、世界史における画期的な出来事でした。
- オスマン帝国の世界帝国化: オスマン帝国は、ヨーロッパとアジアを結ぶ戦略的・経済的な要衝を完全に手中に収め、名実ともに世界帝国としての地位を確立しました。メフメト2世は、この都市を「イスタンブル」と改称し、帝国の新たな首都としました。
- キリスト教世界への衝撃: 東方キリスト教世界の最後の砦であったコンスタンティノープルの陥落は、西ヨーロッパのキリスト教世界に大きな衝撃を与えました。
- 大航海時代の遠因: ヴェネツィアなどのイタリア商人が独占していた、東地中海経由の東方貿易路がオスマン帝国の支配下に入ったことは、西ヨーロッパ諸国が、オスマン帝国を介さないインドへの新しい航路を開拓しようとする、大航海時代の動機の一つとなりました。
モンゴル侵攻後の混乱の中から生まれ、一度はティムールによって壊滅的な打撃を受けながらも、独自の国家システムを武器に再興を遂げたオスマン帝国は、コンスタンティノープル征服という偉業によって、西アジア・地中海世界の新たな覇者として、その後の数百年にわたる歴史の主役へと躍り出たのです。
10. ロシアにおける、「タタールのくびき」からの解放
モンゴル帝国の拡大は、東ヨーロッパのスラブ人世界、特に後のロシアとなる地域に、他のどの地域とも異なる、長期的かつ深刻な影響を及ぼしました。13世紀半ばから約240年間にわたって続いた、ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国)によるロシア支配は、ロシアの歴史家によって「タタールのくびき」と呼ばれています。この時代は、ロシアが西ヨーロッパの歴史の主流から切り離され、経済的・文化的に停滞した暗黒時代とされる一方で、皮肉にも、モンゴルの支配下で後のロシア統一国家の中核となるモスクワ大公国が台頭する、重要な準備期間でもありました。
10.1. バトゥの遠征とキプチャク=ハン国の支配
1236年から始まったバトゥ率いるモンゴル軍のヨーロッパ遠征は、当時のロシア(キエフ=ルーシ)の諸公国に壊滅的な打撃を与えました。古都キエフをはじめ、多くの都市が破壊・略奪され、無数の人々が殺害されるか、奴隷として連れ去られました。
遠征から帰還したバトゥは、南ロシアのヴォルガ川下流域にジョチ=ウルス(金のオルダ、キプチャク=ハン国とも呼ばれる)を建国し、ここを拠点としてロシアの諸公国を支配しました。
キプチャク=ハン国によるロシア支配は、モンゴルが中国やイランで行ったような直接統治とは異なる、間接統治の形をとりましした。
- 間接統治のシステム: モンゴル人は、ロシアの地に直接住み着いて行政を行うことはしませんでした。彼らは、ロシアの諸公(クニャージ)に、それぞれの領地の統治を従来通り認める代わりに、ハンへの絶対的な服従を要求しました。諸公は、ハンの首都であるサライまで出向いて臣従の礼をとり、ハンからその地位を公認する証書(ヤルリク)を受け取らなければなりませんでした。
- 重い貢税(ダーニ): ロシアの諸公は、キプチャク=ハン国に対して、毎年重い貢税(ダーニ)を納める義務を負わされました。モンゴルは、この貢税を確実に徴収するため、定期的に人口調査(国勢調査)を行いました。
- 軍役の義務: ロシアの諸公は、ハンが戦争を行う際には、兵士を率いて従軍する義務がありました。
このモンゴルによる支配は、ロシアの人々にとって、経済的な搾取と政治的な屈辱を意味する、重い「くびき」でした。ハンに逆らう公は容赦なく討伐され、その領地は破壊されました。
10.2. 「タタールのくびき」がロシアに与えた影響
約二世紀半にわたるモンゴル支配は、ロシアの社会と文化に多岐にわたる影響を及ぼしました。
- 否定的影響:
- 経済的・文化的停滞: 重い貢税はロシアの経済を疲弊させ、その発展を著しく阻害しました。また、モンゴル支配によって、ロシアはビザンツ帝国や西ヨーロッパとの伝統的な交流を絶たれ、ルネサンスや宗教改革といった、西ヨーロッパにおける大きな歴史的変動から取り残されることになりました。
- 専制主義の強化: ロシアの諸公は、モンゴルのハンの専制的な権力を模倣し、自らの領民に対してより強圧的な統治を行うようになりました。これは、後のロシアにおけるツァーリ(皇帝)の専制政治(ツァーリズム)の土壌になったとも言われています。
- 肯定的影響(逆説的な結果):
- モスクワ大公国の台頭: モンゴル支配は、皮肉にもロシアの政治的統一を促すという、意図せざる結果をもたらしました。当初は、数ある小公国の一つに過ぎなかったモスクワ公国の君主たちは、巧みな外交手腕を発揮し、モンゴルのハンに忠実に仕えることで、その信頼を得ました。彼らは、他のロシア諸公国から貢税を徴収する「徴税代行者」としての地位をハンから認められました。この特権を利用して、モスクワ大公は莫大な富を蓄え、その権力を他の諸公のそれを圧倒するほどに強化していきました。彼らは、貢税の徴収権を武器に、他の公国の領土を併合・買収し、徐々にロシア北東部の中心勢力へと成長していきました。
- ロシア正教会の役割: モンゴルは、宗教には比較的寛容であり、ロシア正教会の財産や特権を認めました。教会は、異教徒であるモンゴルの支配下で、ロシア人の民族的アイデンティティと統一性を維持する上で、極めて重要な精神的支柱となりました。モスクワ大公は、ロシア正教会の府主教座をモスクワに誘致することで、自らの都市をロシアの宗教的中心地としても位置づけ、その権威をさらに高めました。
10.3. イヴァン3世と「くびき」からの解放
14世紀後半になると、ティムールとの戦いや内紛によって、キプチャク=ハン国は弱体化し、いくつかの小さなハン国に分裂していきました。その一方で、モスクワ大公国は着実にその力を増大させていきました。
決定的な転換点となったのが、イヴァン3世(大帝、在位1462年〜1505年)の治世です。彼は、ノヴゴロドをはじめとする、残存していた他のロシアの主要な公国を次々と併合し、ロシアの統一をほぼ完成させました。
そして1480年、イヴァン3世は、キプチャク=ハン国のアフマド=ハンに対する貢税の支払いを最終的に拒否しました。アフマド=ハンは、懲罰のために大軍を率いてモスクワに侵攻しましたが、両軍はモスクワ南方のウグラ河で対峙したまま、決定的な戦闘には至らず、最終的にモンゴル軍が撤退しました。この「ウグラ河の対峙」と呼ばれる出来事によって、ロシアはモンゴルの支配から完全に解放され、独立を達成したとされています。
イヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪ソフィアと結婚し、ビザンツの「双頭の鷲」の紋章をロシアの国章として採用しました。彼は、コンスタンティノープルを征服したオスマン帝国に対抗し、自らを東方正教会の保護者であり、ビザンツ皇帝(ローマ皇帝)の後継者である「ツァーリ」(カエサルに由来する称号)と位置づけました。これにより、モスクワはビザンツに代わる「第三のローマ」であるという思想が生まれ、後のロシア帝国の国家理念の基礎となりました。
「タタールのくびき」は、ロシアに長期的な停滞と苦難をもたらしましたが、その重圧の下で、モスクワを中心とする強力な統一国家が形成されるという逆説的な歴史を生み出したのです。
Module 8:モンゴル帝国とユーラシアの総括:破壊と結合のダイナミズム
本モジュールで我々が旅してきた「モンゴルの世紀」は、人類の歴史における巨大な転換点でした。それは、チンギス=ハンという一人の男から始まった、遊牧民の軍事エネルギーの爆発が、ユーラシア大陸の文明地図を根底から塗り替えていく、破壊と創造の壮大なドラマでした。この時代を貫く最も本質的な力学は、文明の境界線を暴力的に「破壊」し、その瓦礫の中から全く新しい「結合」を生み出すという、強烈なダイナミズムにあります。
我々はまず、モンゴルがもたらした圧倒的な**「破壊」**の側面を見ました。高度な文明を誇ったホラズムやアッバース朝の都市は廃墟と化し、ロシアの諸公国は蹂躙され、中国の宋王朝は滅亡しました。これらの征服は、数千万とも言われる人々の命を奪い、長年かけて築き上げられた文化や社会を容赦なく破壊しました。モンゴル軍の蹄(ひづめ)の音は、当時のユーラシアの定住民にとって、世界の終わりを告げる響きに他なりませんでした。
しかし、その破壊の嵐が過ぎ去った後、我々はより重要で、そしてより逆説的な歴史の側面、すなわちモンゴルがもたらした**「結合」**を目撃しました。史上初めて、中国、イスラーム世界、ロシア、そしてヨーロッパの一部までが、一つの帝国の傘の下に、あるいはその影響圏の中で、直接的に結びつけられました。ジャム(駅伝制)という驚異的なインフラは、ユーラシア大陸を一つの交通網として機能させ、その上を商人、使節、宣教師、技術者たちが自由に行き交いました。
この「パクス=モンゴリカ」がもたらした結合は、世界のあり方を恒久的に変えました。中国の三大発明(羅針盤・火薬・印刷術)が西へと伝わり、ヨーロッパの近代化を加速させる一方、イスラーム世界の先進的な科学技術が東へと伝わり、中国の天文学や暦法を発展させました。マルコ=ポーロが東方の富を伝えれば、ラッバン=ソウマが西方世界の姿を伝えました。それは、文化や技術が互いに影響を与え合い、混ざり合う、最初の「グローバリゼーション」の時代でした。
そして、この巨大な帝国の崩壊後も、その遺産は各地で新たな歴史の胎動を促しました。モンゴル支配の経験は、ロシアに統一国家への道を歩ませ、アナトリアの混乱の中からオスマン帝国を誕生させ、ティムールの子孫はインドにムガル帝国を築きました。モンゴルが破壊した古い秩序の中から、近世世界を形作ることになる新しい強国が次々と勃興してきたのです。
モンゴル帝国は、暴力と寛容、破壊と創造という、相容れない要素を内包した巨大な矛盾体でした。しかし、その矛盾に満ちたダイナミズムこそが、隔絶されていた諸文明を無理やり一つのテーブルに着かせ、互いの存在を認識させ、そして否応なく相互作用させることで、世界史を新たな段階へと押し上げた原動力だったのです。