【基礎 世界史(通史)】Module 20:冷戦の時代

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本モジュールの目的と構成

第二次世界大戦の焦土の中から立ち上がった世界は、かつてない平和への希求と共に、新たな対立の時代へと足を踏み入れました。本モジュール「冷戦の時代」では、戦後の世界秩序が、アメリカ合衆国を盟主とする西側陣営と、ソビエト連邦を盟主とする東側陣営という、二つの巨大なイデオロギー・ブロックによって規定された約半世紀を扱います。この時代は、核兵器という究極の破壊力がもたらす「恐怖の均衡」のもとで、大国間の直接的な世界大戦こそ回避されたものの、その水面下では熾烈なイデオロギー闘争、代理戦争、軍拡競争、諜報活動が全世界を舞台に繰り広げられました。我々は、この「冷たい戦争」が、いかにして国家の運命を左右し、人々の生活を規定し、そして現代に至る国際関係の力学を形成したのかを、多角的に解き明かすことを目指します。

本モジュールは、以下の10の学習項目を通じて、冷戦の発生からその構造、そして変容の過程を体系的に理解できるように構成されています。

  1. 理想と現実の船出:国際連合の設立二度の世界大戦の反省から生まれた普遍的な平和機構が、その理想にもかかわらず、なぜ大国間の拒否権によってその機能を制約される運命にあったのか、その構造的特徴を分析します。
  2. 「鉄のカーテン」の降臨:東西冷戦の始まり戦時中の協力関係が、いかにして相互不信へと転化し、トルーマン・ドクトリンやマーシャル・プランといった封じ込め政策によって、ヨーロッパの分割が決定づけられていったかを検証します。
  3. ヨーロッパ分断の象徴:ドイツの東西分裂とベルリン封鎖冷戦の最前線となったドイツを舞台に、ベルリン封鎖とそれに対する西側の空輸作戦が、いかにして二つのドイツ国家とNATO・ワルシャワ条約機構という軍事ブロックの誕生に繋がったかを解明します。
  4. アジアにおける熱戦:中華人民共和国の成立と朝鮮戦争冷戦がヨーロッパからアジアへと拡大する決定的転換点となった、中国の共産化と朝鮮半島で勃発した代理戦争の衝撃と、それが世界の軍事バランスに与えた影響を考察します。
  5. 第三の道の模索:アジア・アフリカ会議と非同盟運動脱植民地化の波の中で誕生した新興独立国が、米ソの二極構造に飲み込まれることを拒否し、独自の連帯を模索したバンドン会議と非同盟運動の歴史的意義を探ります。
  6. 核戦争の瀬戸際:キューバ危機人類が核による全面戦争の淵に最も近づいた「13日間」の危機を詳述し、この恐怖の体験がその後の米ソ関係と核管理体制にいかなる変化をもたらしたかを論じます。
  7. 対立の中の対話:緊張緩和(デタント)キューバ危機の教訓と経済的負担から、米ソが対立を続けながらも対話と軍備管理を模索した「デタント」の時代を、その成果と限界の両面から分析します。
  8. 泥沼の代理戦争:ヴェトナム戦争脱植民地化とイデオロギー対立が絡み合ったヴェトナム戦争の全過程を追い、超大国アメリカが直面した初めての敗北が、世界とアメリカ自身に与えた深い傷跡を考察します。
  9. 西側の結束と繁栄:ヨーロッパの統合(EC)冷戦という外部の脅威と、二度の大戦の反省が、いかにして宿敵であったフランスと西ドイツを和解させ、EC(ヨーロッパ共同体)という新たな共同体の創設へと導いたかを検証します。
  10. 資源ナショナリズムの衝撃:中東戦争と石油危機中東が冷戦の代理戦争の舞台となる中で、アラブ産油国が石油を「武器」として用いた第一次石油危機が、いかにして戦後の世界経済の高度成長を終焉させたかを分析します。

このモジュールを通じて、我々は冷戦という複雑な現象を、単なる米ソの対立史としてではなく、現代世界を形成した政治・経済・社会の巨大な変動として立体的に捉えるための「思考の座標軸」を獲得します。


目次

1. 国際連合の設立

1.1. 国際連盟の失敗という教訓

第二次世界大戦という未曾有の惨禍は、その元凶の一つが、第一次世界大戦後に設立された国際連盟の機能不全にあったという痛烈な反省を、連合国の指導者たちに促しました。二度とこのような悲劇を繰り返さないためには、連盟の欠点を克服した、より強力で実効性のある国際平和維持機構を創設することが不可欠であると考えられたのです。

国際連盟が抱えていた致命的な欠陥は、主に三点に集約されます。第一に、大国の不参加です。提唱国であったアメリカ合衆国が、国内の孤立主義的世論に阻まれて議会の批准を得られず、当初から加盟しませんでした。また、ドイツやソビエト連邦は、一時期加盟したもののやがて脱退し、日本も満州事変を機に脱退するなど、世界の主要大国が常にその枠内に揃うことはありませんでした。これにより、連盟は普遍性を欠き、その決定は十分な権威を持つことができませんでした。

第二に、制裁措置の実効性の欠如です。連盟規約は、侵略行為を行った国に対して経済制裁を課すことを定めていましたが、軍事的な制裁措置に関する規定は曖昧でした。経済制裁も、加盟国全体の協力がなければ効果が薄く、イタリアのエチオピア侵攻の際にも、石油などの重要物資が禁輸リストから外されるなど、その実効性は極めて限定的でした。

第三に、全会一致制の原則です。連盟総会や理事会における重要事項の議決は、原則として全会一致を必要としました。これは、一国でも反対すれば決定ができないことを意味し、利害が対立する国家間の迅速な意思決定を著しく困難にしました。この制度的欠陥が、満州事変やエチオピア侵攻といった危機に際して、連盟が迅速かつ断固たる対応を取ることを妨げたのです。

これらの教訓から、新たな国際機関は、①世界の主要大国すべてが参加する普遍性を持ち、②経済制裁のみならず軍事的強制力も備え、③現実的な意思決定メカニズムを持つ必要がある、という共通認識が形成されていきました。この反省こそが、国際連合創設に向けた議論の出発点となったのです。

1.2. 設立への道程:大西洋憲章からサンフランシスコ会議へ

国際連合の構想は、まだ戦争の勝敗が決しないうちから、主にアメリカのフランクリン・ローズヴェルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相によって主導されました。

その思想的淵源は、1941年8月に両首脳が大西洋上で会談し発表した大西洋憲章に見ることができます。この憲章は、領土不拡大、民族自決、通商の自由、そして「恐怖と欠乏からの解放」を謳い、恒久平和のための国際機構の設立を提唱しました。これは、来るべき戦後世界の理想像を示す、連合国の戦争目的の宣言でもありました。翌1942年1月には、米英ソ中を含む26カ国がこの憲章を支持する「連合国共同宣言」に署名し、これが「国際連合(United Nations)」という名称が初めて公式に使用された瞬間でした。

具体的な組織の枠組みは、一連の連合国首脳会談を通じて練り上げられていきました。1944年8月から10月にかけて、アメリカのワシントンD.C.近郊のダンバートン・オークスで開催された会議では、米英ソ中の実務者が集まり、国連憲章の草案が作成されました。ここで、総会、安全保障理事会、国際司法裁判所、事務局といった主要機関の設置が合意されました。

最大の難関であった安全保障理事会の権限と投票方式については、1945年2月のヤルタ会談で三大国首脳(ローズヴェルト、チャーチル、スターリン)間の政治的妥協によって決着がつけられました。ここで、米英ソ中仏の五大国を常任理事国とし、彼女たちに拒否権を与えることが合意されます。これは、国際連盟の全会一致制の失敗を繰り返さず、かつ大国の責任と協調を促すための、現実主義的な選択でした。大国の合意なしには、いかなる重大な決定も下されないというこの仕組みは、大国を国連の枠内に留め置くための不可欠な「接着剤」と考えられたのです。

そして1945年4月25日、ドイツ降伏を目前にして、50カ国の代表がアメリカのサンフランシスコに集まり、国際連合設立会議(サンフランシスコ会議)が開催されました。2ヶ月にわたる審議の末、6月26日に全会一致で国連憲章が採択され、同年10月24日、常任理事国5カ国を含む過半数の国が批准を完了したことで、国際連合は正式に発足しました。人類は、国際連盟の灰燼の中から、平和への新たな希望を託した壮大な実験を開始したのです。

1.3. 国連の構造と理念:その権限と限界

国際連合は、その憲章前文で「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い」と高らかに謳い、国際の平和と安全の維持をその第一の目的として掲げています。

その組織構造は、国際連盟の教訓を色濃く反映しています。中心となるのは、全加盟国が1票の投票権を持つ総会と、平和と安全の維持に主要な責任を負う**安全保障理事会(安保理)**です。総会は、世界の世論を反映する「世界の議会」とも言える役割を持ちますが、その決議に法的な拘束力はありません。一方、安保理は、常任理事国5カ国(P5)と、総会で選ばれる非常任理事国10カ国(当初は6カ国)で構成され、その決定は全加盟国を法的に拘束します。安保理は、経済制裁だけでなく、加盟国の兵力で構成される国連軍の派遣といった、軍事的な強制措置を発動する強力な権限を与えられました。これは、連盟にはなかった、国連の最大の特徴です。

しかし、この強力な権限には、ヤルタで合意された大きな制約が課せられています。すなわち、実質的な事項に関する安保理の決定には、5つの常任理事国すべてが賛成票を投じること(拒否権を行使しないこと)が必要とされるのです。この拒否権制度は、大国の協調が機能している間は有効な意思決定を可能にしますが、ひとたび大国間の利害が対立すれば、安保理の機能を完全に麻痺させてしまうという、諸刃の剣でした。

そして、国連が発足したまさにその時から、世界はアメリカとソ連という二つの超大国が対立する「冷戦」の時代へと突入していきました。その結果、拒否権は本来の協調の促進という目的とは裏腹に、米ソが互いの陣営の行動を妨害し、自らの国益を守るための道具として頻繁に行使されることになります。理想主義的な国際協調の理念を掲げて船出した国際連合は、その誕生の瞬間から、大国間のパワーポリティクスという冷厳な現実の奔流に晒される運命にあったのです。


2. 東西冷戦の始まり

2.1. 戦時協力から相互不信へ:対立の根源

第二次世界大戦中、資本主義・民主主義国家であるアメリカ・イギリスと、共産主義・一党独裁国家であるソビエト連邦は、ナチス・ドイツという共通の敵を打倒するために「大同盟(Grand Alliance)」を結成しました。しかし、この協力関係は、あくまでも利害の一致に基づく便宜的なものであり、その根底には、互いの社会システムに対する深いイデオロギー的対立と相互不信が横たわっていました。

戦後の世界秩序をめぐる両者の構想は、根本的に異なっていました。アメリカのローズヴェルト大統領は、大西洋憲章の理念に基づき、民族自決、自由貿易、そして国際連合を中心とする集団安全保障体制による、開かれた国際秩序を構想していました。これに対し、ソ連のスターリンは、二度の世界大戦でドイツの侵略を受けたという painful な経験から、自国の安全保障を最優先に考えていました。彼にとっての戦後処理の核心は、ソ連の西側国境に、親ソ的な共産主義政権を樹立し、将来の脅威に対する緩衝地帯(Buffer Zone)を構築することでした。

この根本的な構想の違いは、戦争の終結と同時に表面化します。ヤルタ会談で「自由な選挙」を約束したにもかかわらず、スターリンは、ソ連軍が占領したポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国で、共産党が権力を掌握するよう巧みに工作を進めました。非共産党系の政治家は追放され、選挙は不正に行われ、次々とソ連の衛星国が誕生していきました。このプロセスは、ハンガリーの共産党指導者が用いた言葉から「サラミ・タクティクス」(サラミを薄切りにするように、少しずつ反対勢力を切り崩していく手法)と呼ばれました。

西側諸国、特にチャーチルと、ローズヴェルトの死後に大統領に就任したトルーマンは、このソ連の行動をヤルタ協定の裏切りであり、自由主義世界に対する脅威と見なしました。1946年3月、イギリスの元首相チャーチルは、アメリカのミズーリ州フルトンで行った演説で、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る**鉄のカーテン(Iron Curtain)**が降ろされた」と述べ、ソ連の膨張主義に警鐘を鳴らしました。この演説は、戦後の東西対立を象徴する言葉として広く知られるようになり、冷戦の始まりを告げる号砲の一つと見なされています。

2.2. 「封じ込め」政策の始動:トルーマン・ドクトリンとマーシャル・プラン

チャーチルの演説後も、ソ連はギリシャやトルコで共産主義勢力の活動を支援し、影響力を拡大しようと試みました。特に、内戦状態にあったギリシャでは、共産ゲリラが政府を脅かし、トルコに対しては、ソ連がダーダネルス・ボスフォラス海峡の共同管理を要求するなど、圧力を強めていました。これまでこの地域で影響力を保持してきたイギリスは、戦後の経済的疲弊から、もはや両国を支援する余力がないことをアメリカに通告しました。

この危機に直面し、アメリカのトルーマン政権は、戦前の孤立主義(モンロー主義)と決別し、ソ連の膨張に積極的に対抗する政策へと大きく舵を切ります。その理論的支柱となったのが、モスクワ駐在の外交官ジョージ・ケナンが本国に送った「長文電報(Long Telegram)」でした。ケナンは、ソ連の行動が伝統的なロシアの膨張主義と共産主義イデオロギーに根差すものであり、話し合いによる妥協は不可能だと分析しました。そして、ソ連の脅威に対しては、その膨張の圧力が現れるあらゆる地点で、「粘り強く、長期的で、油断のない封じ込め(Containment)」政策によって対抗すべきだと提言しました。

この「封じ込め」政策が、具体的な国家戦略として初めて公式に表明されたのが、1947年3月のトルーマン・ドクトリンです。トルーマンは議会演説で、「武装した少数派、あるいは外部からの圧力による征服に抵抗している自由な諸国民を支援すること」をアメリカの国策とすると宣言し、ギリシャとトルコへの4億ドルの緊急経済・軍事援助を要請しました。これは、アメリカが、ソ連の脅威に晒されている国々を守る「世界の警察官」としての役割を担うことを、世界に向けて宣言したものでした。

さらにアメリカは、共産主義が広がる最大の温床は、戦争で荒廃したヨーロッパの経済的混乱と貧困であると考えました。そこで、同年6月、マーシャル国務長官は、ヨーロッパ経済復興のための大規模な援助計画、すなわち**マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)**を発表しました。この計画は、単なる資金援助ではなく、援助受け入れ国が共同で復興計画を作成することを条件とし、西ヨーロッパ諸国の経済的連携を促すものでした。表向きにはソ連や東欧諸国も対象とされていましたが、スターリンはこれをアメリカによる東欧支配の企みと見なし、受け入れを拒否。さらに、チェコスロヴァキアやポーランドなど、受け入れに関心を示した東欧諸国にも圧力をかけて辞退させました。

これに対抗して、ソ連は1947年に各国の共産党の情報交換と連携を目的とする**コミンフォルム(共産党情報局)を結成し、東側陣営の結束を強化。1949年には、マーシャル・プランに対抗する経済協力機構としてCOMECON(経済相互援助会議)**を発足させました。トルーマン・ドクトリンが政治的・軍事的な、マーシャル・プランが経済的な「封じ込め」を担った結果、ヨーロッパは西の資本主義陣営と東の共産主義陣営に明確に二分され、冷戦の構造は決定的なものとなったのです。


3. ドイツの東西分裂とベルリン封鎖

3.1. 分割占領下のドイツ:冷戦の震源地

第二次世界大戦後、ポツダム協定に基づき、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国によって分割占領されました。首都ベルリンも、ソ連占領地区の奥深くにありながら、同様に4カ国によって分割管理されることになりました。当初の目的は、ドイツの非ナチ化・非軍事化を共同で進め、将来的に統一された民主的なドイツを再建することでした。しかし、ドイツは戦後のヨーロッパの地政学的な中心に位置しており、米ソの対立が深まるにつれて、その処遇をめぐる4カ国の思惑は大きく食い違っていきました。

西側三国(米英仏)は、マーシャル・プランの理念に基づき、ドイツ経済の復興を西ヨーロッパ全体の安定に不可欠な要素と考えていました。彼らは、自らの占領地区の経済的な自立を促し、将来的に西ヨーロッパ経済圏に組み込むことを目指しました。

一方、ソ連は、ドイツからの莫大な戦争賠償の取り立てを最優先課題としました。ソ連は、自国の占領地区の工場設備を解体して本国に運び去るなど、徹底した賠償徴収を行いました。また、ソ連は、将来のドイツが再びソ連への脅威となることを恐れ、その中央集権化や経済復興に極めて慎重な姿勢を取りました。

このように、ドイツの将来像をめぐる西側とソ連の溝は深まるばかりでした。西側三国は、ソ連の反対を押し切って、自らの占領地区の経済的統合を進めます。1948年6月20日、西側三国は、占領地区内のハイパーインフレーションを収束させ、経済を安定させるため、旧ライヒスマルクを廃止し、新たにドイツマルクを導入するという通貨改革を断行しました。この措置は、西側地区の経済復興に大きく貢献しましたが、ソ連はこれを、西側が独自の国家を樹立しようとする決定的な動きであると見なしました。ドイツの運命は、今や破局へと向かいつつありました。

3.2. ベルリン封鎖:最初の直接対決

西側の通貨改革に対し、スターリンは強硬な対抗措置で応えました。1948年6月24日、ソ連は、西ベルリン(米英仏の占領地区)に通じる全ての鉄道、道路、運河を封鎖し、西側からの物資の供給を完全に遮断しました。これがベルリン封鎖です。ソ連の狙いは、約200万人の市民が暮らす「陸の孤島」西ベルリンを兵糧攻めにし、西側を物資供給の断念、ひいては西ベルリンの放棄に追い込み、西ドイツ国家の樹立を阻止することにありました。

これは、米ソが直接対峙する、冷戦における最初の深刻な危機でした。西側、特にアメリカのトルーマン政権は、重大な選択を迫られます。もし武力で封鎖を突破しようとすれば、それは第三次世界大戦の引き金になりかねません。しかし、西ベルリンを見捨てれば、アメリカがソ連の圧力に屈したことになり、「封じ込め」政策は破綻し、西ヨーロッパ諸国の信頼を失うことになります。

トルーマン政権は、戦争のリスクを冒さず、かつ断固たる姿勢を示す第三の道を選びました。それは、空路によって西ベルリンに必要な物資を全て供給するという、前代未聞の大規模な空輸作戦でした。これが「ベルリン大空輸」です。西側の輸送機が、食料、石炭、医薬品など、市民の生命維持に必要なあらゆる物資を積んで、西ドイツの基地から西ベルリンの空港へと、数分おきに昼夜を分かたずピストン輸送を行いました。

作戦は困難を極めましたが、西側諸国の技術力と組織力、そして何よりも自由を守るという固い決意の前に、ソ連は手出しができませんでした。もしソ連が輸送機を撃墜すれば、それは明白な侵略行為となり、戦争の責任を負うことになるからです。空輸作戦は、西ベルリン市民の士気を維持し、世界に対して西側の結束と覚悟を見せつける、絶大なプロパガンダ効果ももたらしました。結局、封鎖によって目的を達成できないことを悟ったスターリンは、約11ヶ月後の1949年5月12日、封鎖を解除しました。

3.3. 二つのドイツと二つの軍事同盟

ベルリン封鎖は、ドイツの分割を阻止するどころか、それを決定的かつ不可逆的なものにしてしまいました。この危機を通じて、西側諸国はソ連の脅威をこれまで以上に深刻に受け止め、軍事的な結束の必要性を痛感します。

その直接的な結果として、1949年4月、アメリカ、カナダ、そしてイギリス、フランス、ベネルクス三国など西ヨーロッパ10カ国が、集団的自衛権を定めた北大西洋条約に調印しました。これにより、「加盟国の一国に対する武力攻撃を全加盟国に対する攻撃と見なす」という原則に基づき、アメリカの「核の傘」のもとで西側陣営の安全保障を確保する、**北大西洋条約機構(NATO)**が発足しました。これは、アメリカが建国以来の伝統であった「欧州への非介入」政策を完全に放棄し、ヨーロッパの防衛に恒久的に関与することを意味する、歴史的な転換でした。

ベルリン封鎖の解除直後の1949年5月、西側管理地区を領域として、ボンを首都とする**ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が樹立されました。これに対抗して、ソ連も自らの占領地区で国家の設立を急ぎ、同年10月、東ベルリンを首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)**が誕生しました。こうして、ドイツは二つの敵対する国家に完全に分断され、ヨーロッパにおける冷戦の最前線となったのです。

その後、1955年に西ドイツが主権を回復し、NATOに加盟すると、ソ連はこれに対抗するため、ソ連と東欧の衛星国との間でワルシャワ条約を結び、ワルシャワ条約機構を発足させました。これにより、ヨーロッパは、NATOとワルシャワ条約機構という二つの巨大な軍事同盟が、分断されたドイツを挟んで睨み合う、極度の緊張状態へと突入することになりました。ベルリン封鎖という一つの危機が、ドイツの分断とヨーロッパの軍事的ブロック化という、冷戦の永続的な構造を生み出してしまったのです。


4. 中華人民共和国の成立と朝鮮戦争

4.1. 冷戦のアジアへの拡大:「中国の喪失」

第二次世界大戦後、アジアでも国共内戦が再燃していました。アメリカは、毛沢東率いる中国共産党の勢力拡大を警戒し、蒋介石の国民党政府に多大な軍事・経済援助を行っていました。しかし、国民党政権は、内部の腐敗、経済政策の失敗、そして人心の離反によって支持を失い、規律と農民の支持を得た共産党軍の前に敗走を重ねました。

1949年10月1日、毛沢東は北京の天安門広場で中華人民共和国の成立を宣言。蒋介石と国民党政府は、台湾へと逃れました。世界で最も人口の多い国が共産主義の手に落ちたという事実は、アメリカ社会に巨大な衝撃を与え、「中国の喪失(Loss of China)」として、トルーマン政権への激しい非難を巻き起こしました。これは、共産主義の脅威がヨーロッパだけでなく、アジアにも及ぶ現実をアメリカに突きつけ、アジアにおける「封じ込め」政策の強化を促す直接的な契機となりました。

中華人民共和国の成立は、世界のパワーバランスを大きく変動させました。1950年2月には、毛沢東がモスクワを訪問し、中ソ友好同盟相互援助条約を締結。これにより、ユーラシア大陸の心臓部に、共産主義の巨大なブロックが誕生し、西側陣営は深刻な脅威に直面することになりました。アメリカは、中華人民共和国を承認せず、台湾の国民党政府を中国の正統な政府として支持し続け、国連の常任理事国の議席も国民党政府が維持しました。この「二つの中国」問題は、その後のアジアの国際政治に長く影を落とすことになります。

4.2. 朝鮮戦争:最初の「熱戦」

中国の共産化に続くアジアでの危機は、朝鮮半島で発生しました。第二次世界大戦後、日本の植民地支配から解放された朝鮮は、北緯38度線を境に、北をソ連、南をアメリカに分割占領されていました。やがて、冷戦の激化とともに、この暫定的な分割線は固定化され、1948年には、南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)という、二つの敵対する国家が樹立されました。

北朝鮮の指導者である金日成は、武力による半島統一の野望を抱き、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の承認と支援を取り付けました。そして1950年6月25日、北朝鮮軍は、突如38度線を越えて韓国に侵攻を開始。朝鮮戦争が勃発しました。

この露骨な侵略行為に対し、アメリカは国連安全保障理事会に緊急招集をかけました。当時、ソ連は、中国の代表権問題に抗議して安保理を欠席しており、拒否権を行使することができませんでした。この好機を捉え、アメリカは、北朝鮮を侵略者と断定し、国連加盟国が韓国を支援するための軍事行動を認める決議を成立させました。これに基づき、アメリカ軍を主体とする「国連軍」が組織され、ダグラス・マッカーサー元帥を総司令官として朝鮮半島に派遣されました。冷戦は、ついにアジアの地で、銃火を交える「熱戦(Hot War)」へと発展したのです。

4.3. 泥沼化と休戦:分断の固定化

戦争の初期、ソ連製の戦車で武装した北朝鮮軍は、装備の劣る韓国軍を圧倒し、わずか3日で首都ソウルを陥落させ、朝鮮半島の南端、釜山周辺まで韓国軍とアメリカ軍を追い詰めました。

しかし、1950年9月、マッカーサーは、敵の背後を突く大胆な仁川(インチョン)上陸作戦を敢行し、戦局を劇的に転換させます。補給路を断たれた北朝鮮軍は総崩れとなり、国連軍はソウルを奪還し、38度線を越えて北進。中朝国境の鴨緑江に迫りました。

この事態に、隣国にアメリカの同盟国が誕生することを恐れた中国が、介入を決断します。1950年10月、「中国人民義勇軍」と称する数十万の大軍が、人海戦術で鴨緑江を渡り、国連軍に襲いかかりました。不意を突かれた国連軍は後退を余儀なくされ、戦線は再び38度線付近で膠着状態に陥りました。

この泥沼の戦況を打開するため、マッカーサーは、中国本土への爆撃や原子爆弾の使用さえもトルーマン大統領に進言しましたが、ソ連との全面戦争を恐れたトルーマンはこれを却下し、マッカーサーを解任しました。その後、約2年間にわたり、38度線を挟んで一進一退の陣地戦が続きました。

長い交渉の末、スターリンの死も一つの契機となり、1953年7月27日、板門店で休戦協定が調印されました。しかし、これはあくまで「休戦」であり、平和条約ではないため、法的には朝鮮戦争は現在も終結していません。3年間にわたる戦争は、数百万人の死者と膨大な破壊をもたらし、朝鮮半島に癒やしがたい傷跡を残しました。

朝鮮戦争は、冷戦の性格を決定的に変えました。第一に、冷戦の主戦場がアジアにも拡大し、そのグローバルな性格が明確になりました。第二に、アメリカは、共産主義の脅威に対抗するため、軍事費を大幅に増額し(NSC-68文書の実行)、世界中に軍事基地網を張り巡らせる、恒久的な戦時体制へと移行しました。第三に、西側陣営は、日本の再軍備(警察予備隊の創設)を促し、サンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結して、日本を西側陣営の重要な一員として組み込みました。朝鮮戦争で生まれた特需は、日本の戦後復興を加速させる皮肉な結果ももたらしました。朝鮮半島の分断は固定化され、冷戦の最も危険な火薬庫の一つとして、今日までその緊張が続いているのです。


5. アジア・アフリカ会議と非同盟運動

5.1. 脱植民地化の波と「第三世界」の誕生

第二次世界大戦は、西ヨーロッパの伝統的な植民地帝国に致命的な打撃を与えました。戦勝国であったイギリスやフランスでさえ、その国力を著しく消耗し、アジアやアフリカに広がる広大な植民地を維持する力も意思も急速に失っていきました。また、戦争中に日本軍が一時的にせよ欧米の植民地軍を駆逐した事実は、白人支配の「不敗神話」を打ち砕き、各地の民族独立運動を大きく勇気づけました。

大戦後、アジア・アフリカでは、堰を切ったように独立の動きが広がります。インドは、ガンディーらの長年の闘争の末、1947年にイギリスから独立。インドネシアは1949年にオランダから、ヴェトナムなどのインドシナ三国は1954年にフランスからの独立を勝ち取りました。アフリカでも、1950年代後半から独立の動きが本格化し、1960年には17カ国が一挙に独立を達成し、「アフリカの年」と呼ばれました。

こうして次々と誕生した新興独立国は、欧米列強による植民地支配の苦い経験から、強いナショナリズムと、大国からの政治的・経済的自立への強い願望を共有していました。しかし、彼女たちが独立を達成した国際環境は、アメリカ中心の西側(第一世界)と、ソ連中心の東側(第二世界)が鋭く対立する冷戦の真っ只中でした。これらの新興国は、米ソどちらの陣営にも属さず、独自の道を歩むことを模索し始めます。彼女たちは、自らを「第三世界(Third World)」と称し、新たな国際政治のアクターとして、その存在感を高めていきました。

5.2. バンドン会議:平和十原則の採択

第三世界の国々が、初めて一堂に会し、その連帯と共通の立場を世界に示した画期的な出来事が、1955年4月にインドネシアのバンドンで開催された**アジア・アフリカ会議(バンドン会議)**でした。

この会議は、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセル、ビルマ(当時)のウー・ヌ、パキスタンのアリーの5カ国首相の提唱によって実現しました。アジア・アフリカ地域から29カ国が参加しましたが、その政治体制は、親西側、親東側、そして中立と様々でした。中華人民共和国の周恩来も参加し、巧みな外交手腕を発揮して、反共的な国々の警戒を解き、会議の成功に貢献しました。

会議では、植民地主義への反対、人種差別の撤廃、そして経済的自立といった共通の課題が話し合われました。最大の焦点は、冷戦下の国際情勢にどう向き合うかでした。激しい議論の末、会議は最終的に、領土と主権の尊重、内政不干渉、相互不可侵、平和共存といった10項目からなる「平和十原則」を採択しました。これは、1954年にインドのネルーと中国の周恩来の間で合意された「平和五原則」を発展させたもので、第三世界の国々が、米ソの陣営対立から距離を置き、平和と協調を基盤とする独自の国際関係を築こうとする強い意志の表明でした。

バンドン会議は、具体的な機構や条約を生み出すには至りませんでしたが、その歴史的意義は計り知れません。それは、これまで国際政治の「客体」でしかなかったアジア・アフリカの諸民族が、初めて歴史の「主体」として国際舞台に登場し、自らの声を上げた瞬間でした。この「バンドン精神」は、その後の非同盟運動へと継承されていきます。

5.3. 非同盟運動の形成と展開

バンドン会議で示された第三世界の連帯は、より明確な政治運動へと発展していきます。その中心的な役割を担ったのが、インドのネルー、エジプトのナセル、そして共産主義国でありながらソ連と距離を置いて独自の社会主義路線を歩んでいたユーゴスラヴィアのチトー大統領でした。

彼らの主導のもと、1961年にユーゴスラヴィアの首都ベオグラードで第1回の首脳会議が開かれ、「非同盟運動(Non-Aligned Movement, NAM)」が正式に発足しました。参加国は、アジア・アフリカ諸国に加え、ラテンアメリカのキューバなども含み、その地理的範囲を広げました。非同盟運動は、その名の通り、NATOやワルシャワ条約機構のような軍事同盟に加盟せず、米ソいずれの超大国にも与しない「非同盟・中立」をその基本方針としました。

非同盟運動は、国連総会を主な活動の舞台としました。1960年代を通じて加盟国が急増すると、彼女たちは国連総会で多数派を形成し、その「数の力」を背景に、植民地主義の撤廃、アパルトヘイト(南アフリカの人種隔離政策)への反対、そして南北間の経済格差の是正などを強く訴えました。特に1970年代には、資源ナショナリズムの考えを背景に、発展途上国の恒久的な資源主権の確立などを求める「新国際経済秩序(NIEO)」の樹立を提唱し、先進国との対決姿勢を強めました。

しかし、非同盟運動は、その内部に多くの課題も抱えていました。加盟国は、政治体制も経済発展の度合いも様々であり、一枚岩の組織ではありませんでした。キューバのように、非同盟を掲げながらも実質的にはソ連寄りの国もあれば、親米的な国もあり、しばしば内部対立が表面化しました。また、加盟国間の国境紛争(イラン・イラク戦争など)も頻発し、その理念である平和共存の原則を自ら揺るがすこともありました。

冷戦が終結すると、米ソの二極対立を前提としていた非同盟運動は、その存在意義を問われることになります。しかし、大国主導の国際秩序に対する異議申し立てや、発展途上国の連帯といった「バンドン精神」は、形を変えながらも、今日のグローバル・サウスの国々の主張の中に、その遺産として生き続けていると言えるでしょう。


6. キューバ危機

6.1. カリブ海の革命とアメリカの裏庭

1959年1月、キューバでフィデル・カストロ率いる革命軍が、アメリカの支援するバティスタ独裁政権を打倒し、権力を掌握しました。当初、カストロは必ずしも共産主義者ではありませんでしたが、彼の政権が、アメリカ企業が所有していた広大な農地や資産を次々と国有化する社会主義的な改革を断行したため、アメリカとの関係は急速に悪化しました。

アメリカにとって、フロリダ半島の目と鼻の先に位置するキューバは、長らく自国の「裏庭」と見なしてきた戦略的に重要な地域でした。アメリカは、カストロ政権を西半球における共産主義の橋頭堡と見なし、その転覆を画策します。1961年4月、ケネディ政権は、CIA(中央情報局)の支援を受けた亡命キューバ人部隊をキューバに上陸させ、反革命蜂起を狙いましたが、このピッグス湾侵攻事件はキューバ軍の前に惨めな失敗に終わりました。

この侵攻の失敗は、カストロ政権の反米姿勢を決定的なものにし、ソ連への接近を加速させました。ソ連のフルシチョフ第一書記は、西半球に同盟国を得たことを喜び、キューバへの経済・軍事援助を強化しました。一方、アメリカのケネディ大統領は、ピッグス湾での失態の雪辱を誓い、カストロ政権に対する秘密作戦を強化。キューバは、米ソの対立が直接ぶつかり合う、世界で最も危険な場所の一つと化していきました。

6.2. 核ミサイル配備と「13日間」の攻防

ピッグス湾事件以降、アメリカによる再度の侵攻を極度に恐れていたカストロ政権は、ソ連に軍事的な保護を求めました。これに応じたフルシチョフは、1962年の夏、世界を震撼させる極秘の決断を下します。それは、核弾頭を搭載可能な中距離弾道ミサイル(MRBM)と準中距離弾道ミサイル(IRBM)を、キューバに秘密裏に配備することでした。

フルシチョフの狙いは複数ありました。第一に、同盟国キューバを防衛すること。第二に、当時、ソ連本土を射程に収めるアメリカの核ミサイルがトルコやイタリアに配備されており、それに対抗する形で、アメリカ本土を直接狙えるミサイルをキューバに置くことで、米ソ間の核戦力の「バランス」を回復すること。そして第三に、このミサイルを外交カードとして使い、懸案であった西ベルリン問題などで西側から譲歩を引き出すことでした。

1962年10月14日、アメリカのU-2偵察機が、キューバで建設中のミサイル基地の決定的な証拠写真を撮影しました。翌15日にこの報告を受けたケネディ大統領は、直ちに国家安全保障会議の執行委員会(エクスコム)を招集し、極秘裏に対応の協議を開始します。ここから、世界が核戦争の瀬戸際に立たされた、運命の「13日間」が始まりました。

エクスコムの内部では、意見が激しく対立しました。軍部の強硬派(タカ派)は、ミサイル基地への即時空爆と、それに続くキューバへの全面侵攻を主張しました。しかし、もし空爆でソ連兵に死者が出れば、ソ連は西ベルリンを攻撃するなど、ヨーロッパでの報復行動に出る可能性が高く、それは全面核戦争へとエスカレートしかねませんでした。一方、国務省の穏健派(ハト派)は、外交交渉による解決を主張しましたが、それではミサイル基地の完成を許してしまう恐れがありました。

熟慮の末、ケネディ大統領は、空爆という軍事行動と、何もしないという弱腰の選択肢の中間を選びました。それは、キューバ周辺の公海上に海軍の艦船を展開し、ミサイルなどの攻撃的兵器をキューバに運び込もうとするソ連の船舶を海上封鎖するというものでした。ただし、「封鎖(blockade)」は国際法上の戦争行為と見なされるため、ケネディはこれを「海上隔離(quarantine)」という言葉に言い換えました。

10月22日夜、ケネディはテレビ演説で、キューバにソ連の核ミサイルが配備されている事実を国民と世界に公表し、海上隔離の実施を宣言しました。米軍は、世界的な規模で最高レベルの警戒態勢(デフコン2)に入り、B-52戦略爆撃機が核爆弾を搭載して24時間態勢で空中待機しました。世界は息をのみ、核を積んだソ連の貨物船が、アメリカの隔離線に刻一刻と近づくのを見守りました。

6.3. 破局の回避と冷戦史における意義

海上隔離が実施される中、ケネディとフルシチョフの間で、公式・非公式のルートを通じて、必死の書簡のやり取りが行われました。一時、キューバ上空でアメリカのU-2偵察機が撃墜されるなど、事態は一触即発の状況に陥りました。

最終的に、フルシチョフは、アメリカがキューバに侵攻しないことを公に約束するならば、ミサイルを撤去する用意があることを示唆しました。さらに、非公式のルートを通じて、ソ連がミサイルを撤去する見返りに、アメリカがトルコに配備している時代遅れのジュピターミサイルを撤去するという、裏取引の案が浮上しました。

ケネディは、この二つの提案のうち、公の提案(キューバ不可侵の約束)のみを受け入れ、裏の提案(トルコのミサイル撤去)は秘密裏に実行するという、巧みな外交的決断を下します。10月28日、フルシチョフは、この条件を受け入れ、ミサイルの解体・撤去を命令。ソ連の船舶は隔離線を越えることなくUターンし、危機は回避されました。

キューバ危機は、米ソ両国の指導者と世界に、核戦争が単なる理論上の可能性ではなく、指導者の判断一つで現実に起こりうるという、身の凍るような恐怖を実感させました。この危機の教訓は、その後の米ソ関係に大きな影響を与えました。

第一に、両首脳は、このような危機が再び起こった際に、直接対話する手段の必要性を痛感し、翌1963年、ホワイトハウスとクレムリンを直接結ぶ緊急通信回線「ホットライン」が設置されました。

第二に、核軍拡競争の危険性が改めて認識され、核兵器を管理するための軍備管理交渉が本格化しました。1963年には、大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止する**部分的核実験停止条約(PTBT)**が調印されました。

第三に、フルシチョフは、ミサイル撤去によって威信を失い、2年後の失脚の一因となりました。一方、ケネディの評価は高まりましたが、彼もまた翌年に暗殺されるという悲劇に見舞われます。

キューバ危機は、冷戦における最も危険な瞬間であったと同時に、核時代における新たな「共存」のルールを米ソが模索し始める、緊張緩和(デタント)への第一歩を印す、逆説的な転換点ともなったのです。


7. 緊張緩和(デタント)

7.1. デタントの背景:対立から対話へ

1960年代末から1970年代にかけて、米ソ関係は、それまでの厳しい対立一辺倒から、対話と交渉を通じて緊張を緩和しようとする「デタント(Détente)」の時代へと移行しました。この変化の背景には、いくつかの複合的な要因がありました。

第一に、キューバ危機の教訓です。核戦争の瀬戸際を経験した米ソ両国は、全面戦争がもたらす破局的な結末(相互確証破壊, MAD)を共有し、偶発的な戦争を避けるための危機管理と、無限の軍拡競争を抑制する必要性を痛感しました。

第二に、経済的な負担の増大です。ヴェトナム戦争の泥沼化はアメリカの財政を著しく圧迫し、国内に深刻な社会的分断をもたらしました。一方のソ連も、西側との軍拡競争と、計画経済の非効率性からくる国内経済の停滞に苦しんでいました。両国ともに、軍事費の抑制と、経済の立て直しが喫緊の課題となっていました。

第三に、国際情勢の多極化です。特に、1960年代を通じて、同じ共産主義国でありながら、イデオロギー路線や国境問題をめぐってソ連と中国の対立(中ソ対立)が深刻化し、1969年には武力衝突に至るまでに関係が悪化しました。この状況は、アメリカのリチャード・ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官に、ソ連を牽制するために中国と手を結ぶという「三角外交(Triangular Diplomacy)」の好機を与えました。

さらに、西ヨーロッパでは、西ドイツのヴィリー・ブラント首相が、東ドイツやポーランドとの関係正常化を目指す「東方政策(オストポリティーク)」を推進し、ヨーロッパレベルでの緊張緩和に大きく貢献しました。これらの要因が絡み合い、米ソ両国を対話のテーブルへと向かわせたのです。

7.2. デタントの具体的な進展

デタントは、主に三つの分野で具体的な進展を見せました。

第一の分野は、米中関係の正常化です。ニクソン政権は、中国との関係改善をデタントの鍵と位置づけ、水面下で交渉を進めました。1971年、アメリカの卓球チームが中国を訪問する「ピンポン外交」を皮切りに、両国の緊張は劇的に緩和。同年、キッシンジャーが極秘に北京を訪問し、翌1972年2月、ニクソン大統領が自ら中国を訪問するという歴史的な出来事が実現しました。この「ニクソンショック」は世界を驚かせ、アメリカはそれまで敵視してきた中華人民共和国を事実上承認し、国連における中国代表権も、台湾の中華民国から中華人民共和国へと移りました。

第二の分野は、米ソ間の軍備管理交渉です。米ソ両国は、戦略兵器制限交渉(SALT)を開始し、1972年、ニクソンのモスクワ訪問の際に、SALT I と ABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約が調印されました。SALT Iは、大陸間弾道ミサイル(ICBM)などの戦略核兵器の数量に初めて上限を設けるものであり、ABM制限条約は、お互いに相手の核攻撃に対する防御網(ABM)の構築を制限することで、「相互確証破壊」のバランスを維持し、軍拡競争を抑制しようとするものでした。

第三の分野は、ヨーロッパにおける緊張緩和です。ブラントの東方政策の成功を受け、1975年には、フィンランドのヘルシンキで、アメリカ、ソ連を含む欧米35カ国が参加する全欧安全保障協力会議(CSCE)が開催されました。この会議で採択されたヘルシンキ宣言は、第二次世界大戦後のヨーロッパの国境の現状を承認する(不可侵を謳う)一方で、人権の尊重と基本的自由の保障をも謳っていました。西側は国境の現状承認という形でソ連に譲歩し、ソ連は人権条項を受け入れるという、デタントの集大成ともいえる合意でした。

7.3. デタントの限界と終焉

デタントは、米ソ間の対立を緩和し、核戦争のリスクを低減させる上で一定の成果を収めましたが、それは冷戦の終結を意味するものではありませんでした。両国のイデオロギー対立と、第三世界における影響力拡大競争は、水面下で続いていました。

デタントの限界は、いくつかの出来事によって露呈していきます。アメリカ国内では、ソ連に対して融和的すぎるとの批判が保守派から高まり、特にヘルシンキ宣言の人権条項をソ連が遵守していないことへの不満が強まりました。また、アンゴラやエチオピアなど、アフリカの紛争にソ連とキューバが軍事介入を続けたことも、アメリカの不信感を増大させました。

そして、デタントに決定的な終止符を打ったのが、1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻でした。ソ連は、アフガニスタンの親ソ政権を支援するため、軍隊を派遣しましたが、これは西側諸国から、主権国家に対するあからさまな侵略行為と見なされました。アメリカのカーター大統領は、これを「第二次世界大戦後、最も深刻な平和への脅威」と非難し、SALT II条約の批准を上院から取り下げ、1980年のモスクワオリンピックをボイコットするなど、強硬な対抗措置を取りました。

ソ連のアフガン侵攻と、それに続くアメリカのレーガン政権の誕生(「強いアメリカ」を掲げ、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ)により、米ソ関係は再び厳しい対立の時代へと逆戻りします。この時代は「新冷戦(第二次冷戦)」と呼ばれ、デタントの試みは、一時的な雪解けに過ぎなかったことを示す結果となりました。しかし、デタント期に築かれた対話のチャンネルや軍備管理の枠組みは、その後の冷戦終結への伏線となる、重要な遺産を残したとも言えるのです。


8. ヴェトナム戦争

8.1. 植民地支配から南北分断へ

ヴェトナム戦争の根源は、フランスによる長期の植民地支配と、それに対するヴェトナム人民の粘り強い独立闘争にあります。第二次世界大戦中、日本が一時的にフランス領インドシナを占領しましたが、日本の敗戦後、独立を宣言したホー・チ・ミン率いるヴェトナム独立同盟会(ヴェトミン)と、植民地の再支配を狙うフランスとの間で、第一次インドシナ戦争が勃発しました。

ヴェトミンは、巧みなゲリラ戦術でフランス軍を苦しめ、1954年、北西部の要衝ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に決定的な勝利を収めました。この敗北により、フランスはヴェトナムからの撤退を余儀なくされ、同年、関係国によるジュネーヴ会議が開かれました。

ジュネーヴ休戦協定では、北緯17度線を暫定的な軍事境界線として、ヴェトナムを南北に分け、2年以内に統一選挙を実施して国の将来を決定することが定められました。北はホー・チ・ミンが率いる社会主義のヴェトナム民主共和国、南には旧宗主国フランスの影響下に、親米的なゴ・ディン・ジェム政権が成立しました。

しかし、この統一選挙は、冷戦の論理によって反故にされます。アメリカは、選挙を実施すれば、国民的人気の高いホー・チ・ミンが圧勝し、ヴェトナム全土が共産化することを恐れました。もしヴェトナムが共産化すれば、隣国のラオス、カンボジア、タイへと次々に共産主義が広がるだろうという「ドミノ理論」を信奉していたアメリカは、ジュネーヴ協定の調印を拒否し、南のゴ・ディン・ジェム政権を全面的に支援して、統一選挙の実施を妨害しました。これにより、ヴェトナムの南北分断は固定化され、新たな、そしてより大規模な戦争への道が敷かれてしまったのです。

8.2. アメリカの介入と戦争の泥沼化

平和的統一の道が閉ざされたことで、南ヴェトナムでは、ゴ・ディン・ジェム政権の独裁と腐敗に反発する人々が、北ヴェトナムの支援を受けて、1960年に**南ヴェトナム解放民族戦線(通称ヴェトコン)**を結成し、ゲリラ闘争を開始しました。これが第二次インドシナ戦争、すなわちヴェトナム戦争の始まりです。

アメリカは当初、南ヴェトナム政府軍への軍事顧問団の派遣や経済援助といった、間接的な介入に留まっていました。しかし、ヴェトコンの勢力拡大を食い止めることができず、南ヴェトナム政権の崩壊を恐れたアメリカは、徐々に介入を深めていきます。

戦争が本格的にエスカレートする直接的なきっかけとなったのが、1964年8月のトンキン湾事件です。アメリカ政府は、トンキン湾でアメリカの駆逐艦が北ヴェトナムの哨戒艇から「理由なき攻撃」を受けたと発表し、これを口実に、議会から大統領に戦争遂行の広範な権限を与える決議(トンキン湾決議)を得ました。後に、この事件はアメリカ側のでっち上げや誇張であったことが明らかになりますが、当時は、北ヴェトナムへの報復爆撃(北爆)と、アメリカ地上軍の本格的な派遣への道を開きました。

1965年から、アメリカのジョンソン政権は、北爆を恒常化させるとともに、数十万人の地上部隊を次々と南ヴェトナムに送り込みました。アメリカは、圧倒的な軍事力とハイテク兵器をもってすれば、容易に勝利できると楽観視していました。しかし、ジャングルに潜むヴェトコンの神出鬼没のゲリラ戦法と、北ヴェトナムからの執拗な兵員・物資の補給(ホーチミン・ルート)、そして何よりもヴェトナム人民の不屈の民族解放への意志の前に、アメリカ軍は苦戦を強いられます。戦争は、出口の見えない「泥沼」と化していきました。

8.3. テト攻勢、反戦運動、そして終結

1968年1月、ヴェトナムの旧正月にあたる「テト」の時期に、解放勢力は、南ヴェトナムのほぼ全ての主要都市で一斉蜂起を行いました。これがテト攻勢です。軍事的には、解放勢力は多大な損害を被り、蜂起は失敗に終わりました。しかし、この攻勢は、アメリカ国民に、戦争が勝利に近づいているという政府の説明が嘘であったことを知らしめ、心理的に絶大な衝撃を与えました。サイゴンのアメリカ大使館が一時占拠される映像は、アメリカ国内の反戦運動を一気に燃え上がらせました。

学生や市民による大規模な反戦デモが全米で繰り広げられ、ヴェトナムからの即時撤退を求める声が高まります。戦争の長期化と国内世論の分裂に苦しんだジョンソン大統領は、次期大統領選への不出馬を表明。後任のニクソン大統領は、「名誉ある撤退」を掲げ、南ヴェトナム軍に戦争を肩代わりさせる「ヴェトナム化」政策を進めながら、北ヴェトナムとの和平交渉を本格化させました。

長い交渉の末、1973年1月、パリで和平協定が調印され、アメリカ軍はヴェトナムからの全面撤退を開始しました。しかし、これは見せかけの和平に過ぎませんでした。アメリカという後ろ盾を失った南ヴェトナム政府軍は、規律も士気も低く、北ヴェトナムの攻勢の前に瞬く間に崩壊します。そして1975年4月30日、北ヴェトナム軍の戦車がサイゴンの大統領官邸に突入し、南ヴェトナム政府は無条件降伏。長く続いた戦争は、北ヴェトナムの勝利によって、ついに終結しました。

ヴェトナム戦争は、超大国アメリカが、歴史上初めて経験した明確な敗北でした。この戦争は、数百万人のヴェトナム人と5万8千人のアメリカ兵の命を奪い、枯葉剤などの影響で今なお多くの人々を苦しめています。アメリカ社会には、政府への不信感と、戦争のトラウマによる深い分裂(ヴェトナム・シンドローム)を残しました。そして、アメリカの威信の低下は、世界のパワーバランスにも微妙な変化をもたらし、デタントの進展を促す一因ともなったのです。


9. ヨーロッパの統合(EC)

9.1. 戦後の和解と統合への動機

二度の世界大戦の主戦場となり、壊滅的な被害を受けたヨーロッパでは、戦後、これまでの歴史を繰り返さないための新たな秩序の模索が始まりました。その根底には、いくつかの強い動機がありました。

第一に、恒久平和の確立です。特に、何世紀にもわたってヨーロッパの紛争の中心であり続けたフランスとドイツの間の敵対関係を、決定的に終わらせる必要がありました。両国を、経済的・政治的に深く結びつけ、戦争が考えられないような関係を構築することが、ヨーロッパの平和にとって不可欠であるという認識が、一部の政治家や思想家の間で共有されていました。

第二に、経済復興の必要性です。戦争で破壊された経済を再建するためには、各国の市場を隔てていた関税や貿易障壁を取り払い、一つの大きな市場を形成することで、規模の経済を追求し、効率的な復興を遂げる必要があると考えられました。アメリカからのマーシャル・プランも、援助の受け入れにあたってヨーロッパ諸国の共同計画を求めたため、この動きを後押ししました。

第三に、冷戦という外部の脅威です。ソビエト連邦の強大な軍事的脅威と共産主義のイデオロギー的挑戦に直面する中で、西ヨーロッパ諸国は、個別にではなく、団結してこれに対抗する必要性を痛感していました。経済的・政治的に統合されたヨーロッパは、アメリカの同盟相手として、より強力な存在となることが期待されたのです。

これらの動機が絡み合い、ヨーロッパの統合という、歴史上かつてない壮大な実験が開始されることになります。

9.2. 石炭鉄鋼共同体からECへ

ヨーロッパ統合の具体的な第一歩は、フランスの政治家ジャン・モネのアイデアに基づき、1950年5月9日にフランス外相ロベール・シューマンが発表した「シューマン・プラン」でした。このプランは、戦争の基本的な資源であった石炭と鉄鋼の生産を、フランスと西ドイツ、そして他の希望するヨーロッパ諸国で共同管理下に置くことを提案する、画期的なものでした。特定の産業分野の主権を、各国の政府から独立した「超国家的機関」に委譲するというこのアイデアは、統合の核心となる考え方でした。

この提案は、西ドイツのアデナウアー首相の即座の賛同を得て、1951年、フランス、西ドイツ、イタリア、そしてベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国によって、**ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)**が設立されました。ECSCの成功は、統合を他の経済分野にも拡大する機運を高めました。

1957年、この原加盟6カ国は、ローマ条約に調印し、二つの新たな共同体を設立しました。一つは、加盟国間の関税を段階的に撤廃し、人、モノ、資本、サービスの自由な移動を保障する「共同市場」を創設することを目的とした**ヨーロッパ経済共同体(EEC)です。もう一つは、原子力の平和利用を共同で進めるヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)**でした。

これら三つの共同体(ECSC, EEC, EURATOM)は、1967年にその主要機関が統合され、総称して**ヨーロッパ共同体(EC)**と呼ばれるようになりました。ECは、目覚ましい経済的成功を収め、加盟国間の貿易は飛躍的に増大し、「奇跡」とも呼ばれる戦後の高度経済成長を支えました。

9.3. 拡大と深化:イギリスの加盟と課題

ECの成功は、他のヨーロッパ諸国にとっても魅力的なものとなりました。しかし、ECの拡大は、一人の強力な指導者の反対によって、長らく停滞を余儀なくされます。それは、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領でした。彼は、ECがアメリカの強い影響下に入ることを警戒し、アメリカと「特別な関係」にあるイギリスの加盟に、1963年と1967年の二度にわたって拒否権を発動しました。

ド・ゴールが政界を去った後、ようやくイギリスの加盟への道が開かれ、1973年、イギリスは、デンマーク、アイルランドと共にECへの加盟を果たしました。その後、1980年代には、ギリシャ、スペイン、ポルトガルといった、独裁政権から民主化した南欧諸国が加盟し、ECは地理的にも拡大していきます。

ECの歩みは、経済的な「深化」も伴いました。1979年には、加盟国の市民が直接選挙で議員を選ぶヨーロッパ議会が発足し、超国家的な民主主義の試みが始まりました。また、1986年の単一ヨーロッパ議定書では、1992年末までに域内の障壁を完全に取り払う「単一市場」の完成が目標として掲げられ、統合はさらに加速していきました。

ECの発展は、冷戦下の西ヨーロッパに、前例のない平和と繁栄の時代をもたらしました。かつて憎しみ合い、殺し合った国々が、共通のルールのもとで協力し、国境を越えて人やモノが自由に行き交う共同体を築き上げたことは、20世紀の歴史における最も明るい成果の一つと言えるでしょう。このECの成功体験が、やがて冷戦終結後の、より野心的な通貨統合や政治統合(ヨーロッパ連合、EU)への道を開いていくことになるのです。


10. 中東戦争と石油危機

10.1. イスラエル建国と冷戦の代理戦争

中東地域は、その豊富な石油資源と戦略的な重要性から、冷戦期を通じて米ソの激しい影響力争奪の舞台となりました。その対立の核心にあったのが、第二次世界大戦後に深刻化したパレスチナ問題をめぐるアラブとイスラエルの対立です。

1947年、国連は、イギリスの委任統治領であったパレスチナを、アラブ国家とユダヤ国家に分割する決議を採択しました。ユダヤ人はこれを受け入れ、1948年5月14日、イスラエルの建国を宣言しました。しかし、アラブ諸国はこの分割案を拒否し、イスラエル建国と同時に、エジプト、シリア、ヨルダンなどがイスラエルに侵攻。**第一次中東戦争(パレスチナ戦争)**が勃発しました。この戦争で、新生イスラエルはアラブ連合軍を撃退し、国連分割案よりも広い領土を確保しました。多くのアラブ系パレスチナ人が難民となり、故郷を追われました。

このアラブ・イスラエル紛争は、冷戦の文脈に組み込まれていきます。アメリカは、国内のユダヤ系市民の影響力もあり、イスラエルを中東における民主主義の同盟国と位置づけ、強力に支援しました。一方、ソ連は、アラブ諸国における反米・反帝国主義のナショナリズムを利用し、エジプトやシリアなどに兵器を供与し、軍事顧問団を派遣して、影響力を拡大しようとしました。こうして、中東戦争は、米ソがそれぞれ支援する国同士が戦う、冷戦の典型的な代理戦争の様相を呈していきました。

10.2. 四度の中東戦争

第一次中東戦争後も、アラブとイスラエルの間では、緊張と紛争が繰り返されました。

第二次中東戦争(スエズ危機、1956年):エジプトのナセル大統領が、アスワン・ハイ・ダム建設資金の欧米からの援助停止への報復として、イギリスとフランスが管理するスエズ運河の国有化を宣言。これに反発したイギリス、フランスがイスラエルと共謀してエジプトに侵攻しました。しかし、この行動は、アメリカとソ連という二大超大国の双方から強い非難を浴び、米ソの圧力の前に英仏イスラエルは撤退を余儀なくされました。この事件は、かつての大英帝国とフランスの威信を失墜させ、中東における米ソの影響力を決定づける転換点となりました。

第三次中東戦争(六日間戦争、1967年):エジプトによるチラン海峡の封鎖などをきっかけに、イスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンに電撃的な奇襲攻撃を仕掛けました。わずか6日間で、イスラエルは圧倒的な勝利を収め、エジプトからシナイ半島とガザ地区、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレム、シリアからゴラン高原を占領しました。この戦争の結果、イスラエルの占領地は一挙に4倍に拡大し、新たに100万人以上のパレスチナ人がイスラエルの支配下に入ることになり、パレスチナ問題はより一層複雑化しました。

第四次中東戦争(ヨムキップル戦争、1973年):失地回復を目指すエジプトのサダト大統領とシリアが、ユダヤ教の最も神聖な祝日である「ヨム・キップル(贖罪の日)」に、イスラエルに奇襲攻撃を仕掛けました。戦争序盤、アラブ側は優勢に戦いを進めましたが、アメリカからの緊急軍事援助を受けたイスラエルが反撃に転じ、最終的には戦線を押し戻しました。

10.3. 石油危機(オイルショック)と世界経済の転換

第四次中東戦争は、戦場だけでなく、世界経済に巨大な衝撃をもたらしました。戦争中、アメリカがイスラエルに大規模な軍事支援を行ったことへの報復として、サウジアラビアを中心とするアラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、アメリカなどの親イスラエル国家に対する石油禁輸措置を発動しました。さらに、**石油輸出国機構(OPEC)**全体も、原油価格の大幅な引き上げを決定しました。

これが、1973年の**第一次石油危機(オイルショック)**です。原油価格はわずか数ヶ月で約4倍に高騰し、石油にエネルギーの大部分を依存していた西側先進工業国と日本の経済を直撃しました。石油価格の高騰は、あらゆる製品のコストを押し上げ、激しいインフレーションを引き起こしました。同時に、景気は急速に後退し、失業者が増大しました。この、不況とインフレが同時に進行する「スタグフレーション」と呼ばれる現象に、各国政府は有効な対策を打てず、苦しむことになります。

石油危機は、いくつかの点で世界史の大きな転換点となりました。第一に、第二次世界大戦後、約四半世紀にわたって続いてきた世界経済の高度経済成長の時代が終焉したことです。先進国は、省エネルギー技術の開発や、原子力など代替エネルギー源への転換を迫られました。第二に、OPEC諸国に代表される発展途上国が、資源を「武器」として用いることで、先進国に対して強力な交渉力を持つことができることを証明しました。これは、資源ナショナリズムの高まりと、南北問題の深刻化を象徴する出来事でした。第三に、世界経済の不安定化は、デタントの基盤を揺るがし、各国の内政にも大きな影響を与え、1970年代後半の政治的・社会的な混乱の一因ともなったのです。

Module 20:冷戦の時代の総括:恐怖の均衡とイデオロギーの黄昏

第二次世界大戦の終結は、ファシズムという共通の敵を打倒した人類に、一時の安堵と恒久平和への期待を抱かせました。しかし、その期待は、戦後の灰燼の中から立ち昇った、資本主義と共産主義という二つの相容れないイデオロギーの対立によって、瞬く間に裏切られることになります。本モジュールで概観した「冷戦の時代」とは、このイデオロギー対立が、核兵器という究極の恐怖によって担保された「長い平和」と、世界各地で繰り広げられた無数の「熱い戦争」という、矛盾した二つの顔を持つ、極めて特異な時代でした。

その構造は、ヨーロッパの分断を決定づけたベルリン封鎖に始まり、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争といったアジアでの代理戦争を経て、全世界を覆うグローバルなシステムへと拡大しました。米ソ両超大国は、軍事同盟、経済援助、諜報活動、そして宇宙開発に至るまで、あらゆる領域で熾烈な覇権争いを繰り広げ、世界は二つの陣営に色分けされていきました。その対立が、人類を絶滅の淵に立たせたキューバ危機という頂点を迎えたとき、皮肉にも、両国は破局を回避するための最低限のルール、すなわち「デタント」という名の共存の作法を学び始めます。

一方で、この二極構造の硬直した世界に、第三の道を示そうとする動きも現れました。バンドン会議に集ったアジア・アフリカの新興独立国は、非同盟という旗を掲げ、大国の論理に埋没することを拒否しました。また、西ヨーロッパでは、戦争の記憶を乗り越え、ECという経済共同体を築き上げることで、超国家的な統合という新たな歴史の可能性を切り開きました。そして、中東の紛争が引き起こした石油危機は、資源が世界のパワーバランスを揺るがしうることを示し、戦後の経済秩序そのものに大きな構造転換を迫りました。

冷戦とは、単なる国家間の対立史ではありません。それは、異なる社会システムの優劣をかけた壮大なイデオロギーの実験であり、その実験が、数千万の人々の運命を翻弄し、現代世界の政治的・経済的な骨格を形成したプロセスそのものでした。この時代の探求は、我々が生きる現代が、この「恐怖の均衡」と「イデオロギーの対立」という巨大な遺産の上に、いかにして成り立っているのかを理解するための、不可欠な知的営為なのです。

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