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【基礎 世界史(通史)】Module 22:現代世界の動向
本モジュールの目的と構成
冷戦の終結は、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と表現したように、自由民主主義と市場経済の最終的な勝利を高らかに告げたかのように見えました。しかし、イデオロギーの対立という分かりやすい二元論の時代が終焉した後に現れたのは、決して平穏な世界ではありませんでした。それは、グローバル化という新たな奔流がもたらす光と影、超大国の不在によって噴出する地域紛争の激化、そしてこれまで予期されなかった新たな脅威の台頭が交錯する、極めて複雑で多極的な世界の始まりでした。本モジュールでは、このポスト冷戦から現代に至る世界の動向を、その根底に流れる巨大な構造変化を軸に解き明かします。我々は、経済のグローバル化がアジアの「奇跡」と世界的な金融危機という両極端な現象をいかにしてもたらしたのか、そして、その波に取り残された人々の不満が、いかにしてポピュリズムや新たな対立の温床となったのかを探ります。さらに、9.11という衝撃が国際政治のパラダイムをいかに転換させ、米中対立という新たな大国間競争の時代をいかにして招いたのかを検証し、現代世界が直面する諸課題の根源を深く洞察することを目指します。
本モジュールは、以下の10の学習項目で構成されています。これらは、冷戦後の世界を形作った主要なトレンドと事件を、相互の関連性を意識しながら体系的に理解できるように配列されています。
- 雁行形態の飛翔:アジアNIESの経済発展冷戦下の地政学的条件を追い風に、韓国、台湾、香港、シンガポールが、いかにして輸出主導型工業化を成し遂げ、世界経済の新たな成長センターとして浮上したかの軌跡をたどります。
- 世界の均質化と格差の拡大:グローバル化の進展とその課題IT革命と冷戦終結を背景に、人・モノ・カネ・情報が国境を越えて瞬時に移動する時代の光と影を、経済的効率化の恩恵と、それがもたらす格差や文化摩擦といった問題の両面から分析します。
- パンドラの箱が開かれる:地域紛争の頻発冷戦という「重し」が外れたことで、ユーゴスラヴィアやアフリカ各地で、これまで抑圧されてきた民族・宗教対立がいかにして凄惨な紛争へと発展したかを、その構造的要因と共に解明します。
- 非対称戦争の時代の幕開け:9.11同時多発テロと「テロとの戦い」アルカイダによる未曾有のテロ事件が、いかにしてアメリカの外交・安保政策を「対テロ戦争」へと根本的に転換させ、アフガニスタンとイラクでの長期にわたる戦争へと導いたかを検証します。
- 多極化する世界経済:BRICSなど新興国の台頭21世紀に入り、中国、インド、ブラジル、ロシアといった広大な国土と人口を持つ新興国群が、いかにして世界経済の新たな牽引役として台頭し、西側先進国中心の国際秩序に変化を迫ったかを考察します。
- グローバル資本主義の暴走:リーマン・ショックと世界金融危機アメリカの住宅バブル崩壊をきっかけに、金融工学の暴走と規制緩和の弊害が、いかにして全世界を巻き込む金融危機を引き起こし、世界経済に深刻なダメージを与えたかを分析します。
- SNSが拓いた希望と絶望:アラブの春チュニジアの一人の青年の焼身自殺から始まった民主化要求運動が、いかにしてSNSを通じてアラブ世界全域に広がり、長期独裁政権を次々と打倒しながらも、なぜ多くの場合、内戦や混乱という「冬」の時代を招いたのかを論じます。
- 新たな二極対立の時代へ:アメリカと中国の対立「世界の工場」から「世界の強国」へと変貌を遂げた中国と、唯一の超大国として君臨してきたアメリカとの関係が、いかにして協調から、貿易・技術・地政学をめぐる全面的な戦略的競争へと移行したかを分析します。
- 内向きになる世界:ポピュリズムの拡大グローバル化やエリート層への不満を背景に、イギリスのEU離脱(ブレグジット)やアメリカのトランプ大統領の誕生に象徴される、自国第一主義や排外主義的なポピュリズムが、なぜ世界的に拡大しているのか、その根源を探ります。
- 相互依存と分断のジレンマ:現代の世界が抱える諸問題気候変動、パンデミック、難民問題、情報化社会の歪みなど、一国では解決不可能な地球規模の課題に対し、なぜ国際協調が困難になっているのか、現代世界が直面する複合的な危機の本質を総括します。
このモジュールを通じて、我々は、ニュースで日々報じられる複雑な現代世界の出来事を、その歴史的な文脈の中に位置づけ、その深層にある構造を読み解くための知的ツールを身につけていきます。
1. アジアNIESの経済発展
1.1. 冷戦が生んだ「開発独裁」
1960年代から1980年代にかけて、東アジアの4つの国と地域、すなわち韓国、台湾、香港、シンガポールは、世界が目を見張るほどの急速な経済成長を遂げました。これらの国・地域は、アジアNIES(新興工業経済地域, Newly Industrializing Economies)、あるいはその目覚ましい成長ぶりから「アジアの四小龍(Four Asian Tigers)」と称されました。彼女たちの成功は、発展途上国が貧困から脱出するための新たなモデルを提示するものとして、大きな注目を集めました。
この「奇跡」とも呼ばれる発展の背景には、冷戦という特殊な国際環境が大きく作用していました。韓国と台湾は、共産主義陣営と直接対峙する反共の最前線であり、アメリカにとって、その経済的安定と発展は、共産主義の拡大を防ぐための死活的に重要な課題でした。そのため、アメリカは両国に対して多額の経済・軍事援助を行うと同時に、アメリカの巨大な市場を彼女たちの製品に開放するという、極めて優遇された条件を提供しました。香港とシンガポールも、イギリスの植民地あるいは旧植民地として、西側の自由貿易圏の中に位置づっていました。
これらの国・地域は、政治的には、香港を除いて、強力な権威主義的体制、いわゆる「開発独裁」体制を敷いていました。韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)や台湾の蒋経国といった指導者たちは、共産主義の脅威を名目に、民主主義的な自由や労働組合の活動を厳しく抑制する一方で、その強力なリーダーシップのもと、国家の資源を経済発展に集中的に投入しました。彼らは、国民の政治的自由を犠牲にする代わりに、経済成長による生活水準の向上という「果実」を分配することで、国民の支持を取り付け、体制の正統性を維持しようとしたのです。
1.2. 輸出主導型の工業化戦略
アジアNIESが共通して採用した経済発展戦略が、「輸出主導型工業化」でした。国内市場が小さい彼女たちにとって、経済成長のエンジンは、海外、特にアメリカや日本といった先進国の市場に製品を輸出すること以外にありませんでした。
この戦略は、日本の戦後復興モデルを参考にしたもので、「雁行形態論」として説明されることがあります。これは、日本の産業発展を先頭の雁(がん)とし、その後を追って、NIES、そしてASEAN諸国、中国といった国々が、隊列を組んで飛ぶように、段階的に発展していくというモデルです。
具体的には、まず、安価で豊富な労働力を活用して、繊維や雑貨といった労働集約型の軽工業製品の輸出から工業化を開始しました。政府は、輸出企業に対して、税制上の優遇措置や低利の融資を提供し、強力に後押ししました。この段階で得た外貨を元手に、次に、製鉄、造船、化学といった、より多くの資本と技術を必要とする資本集約型の重化学工業へと産業構造を高度化させていきました。韓国のポスコ(浦項総合製鉄)や現代重工業は、この国家主導の重化学工業化の成功例です。そして最終的には、サムスンやLGに代表されるように、エレクトロニクスや半導体といった、技術集約型のハイテク産業へと移行していきました。
この成功を支えた国内的要因としては、①政府が特定の産業を戦略的に育成・指導する強力な産業政策、②国民の高い教育水準と、儒教的価値観にも根ざすと言われる勤勉な労働倫C倫理、③将来への投資に回される高い貯蓄率などが挙げられます。これらの要因が、冷戦下の好都合な国際環境と結びつくことで、「漢江(ハンガン)の奇跡」(韓国)や「台湾の奇跡」と呼ばれる高度経済成長が実現したのです。
1.3. 民主化とアジア通貨危機
1980年代後半になると、アジアNIESは大きな転換期を迎えます。経済成長によって中間層が分厚く成長し、教育水準も向上すると、国民の間から、開発独裁体制に対する不満と、政治的な自由や民主主義を求める声が急速に高まっていきました。
韓国では、1987年の「6月民主抗争」と呼ばれる大規模な民主化要求デモの結果、軍事政権は、大統領直接選挙制の導入を含む民主化宣言(6.29宣言)を受け入れざるを得なくなりました。台湾でも、1987年に長年続いた戒厳令が解除され、複数政党制が認められるなど、穏健な形で民主化が進展しました。経済的な成功が、政治的な民主化を促すという、発展モデルの新たな段階へと移行したのです。
しかし、その繁栄の道のりは、決して平坦ではありませんでした。1997年7月、タイの通貨バーツの急落をきっかけに、アジア各国の通貨や株式が連鎖的に暴落する「アジア通貨危機」が発生しました。NIES、特に韓国は、それまでの急成長の過程で、外国から短期の資金を大量に借り入れ、過剰な設備投資を行っていましたが、これが裏目に出ました。外国の投資家が一斉に資金を引き揚げたことで、韓国の通貨ウォンは暴落し、多くの企業や銀行が倒産の危機に瀕しました。韓国は、国家破産の寸前で、IMF(国際通貨基金)に緊急支援を要請し、その引き換えに、厳しい財政緊縮や市場開放、そして財閥解体を含む、大規模な経済構造改革を断行させられるという屈辱を味わいました。
この通貨危機は、アジアNIESの経済モデルが、グローバルな資本移動の激しい波に対して、いかに脆弱であったかを露呈させました。しかし、この危機を乗り越えたNIES経済は、その後、より健全な財務体質と、IT産業などの新たな成長分野への転換を遂げ、21世紀においても、世界経済の重要なプレイヤーとして、その存在感を示し続けています。
2. グローバル化の進展とその課題
2.1. グローバル化を加速させた三つのエンジン
冷戦が終結した1990年代以降、世界は「グローバル化(Globalization)」と呼ばれる、相互依存が急速に深化する時代に突入しました。これは、ヒト、モノ、カネ、そして情報が、国境の障壁を越えて、地球規模でかつてないほどの速度と規模で移動し、結びつきを強めていくプロセスです。この歴史的な変化を加速させた原動力は、主に三つありました。
第一のエンジンは、「IT革命(情報技術革命)」です。パーソナルコンピュータ(PC)の普及と、1990年代に商用化されたインターネットの爆発的な拡大は、世界中の情報を瞬時に、かつ低コストで結びつけることを可能にしました。電子メール、ウェブサイト、そして後にはソーシャルメディアといったツールは、コミュニケーションのあり方を根本的に変え、地理的な距離の意味を縮小させました。これにより、多国籍企業は、世界中に散らばる生産拠点や販売網をリアルタイムで管理できるようになり、金融資本は、24時間、国境を越えて瞬時に移動することが可能になりました。
第二のエンジンは、「冷戦の終結」です。鉄のカーテンの崩壊は、それまで西側経済から切り離されていた旧ソ連・東欧諸国や中国といった、広大な地域と数十億の人口を、グローバルな市場経済の枠組みの中に組み込みました。これらの国々は、新たな市場として、また安価な労働力の供給源として、グローバル化の巨大なフロンティアとなったのです。
第三のエンジンは、「新自由主義(ネオリベラリズム)」的な経済政策の世界的拡大です。1980年代のイギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領に始まり、冷戦後は「ワシントン・コンセンサス」として、IMFや世界銀行を通じて世界中に広まったこの思想は、政府の規制を緩和し、国営企業を民営化し、自由な貿易と投資を促進することを最善としました。この流れの中で、1995年には、GATT(関税及び貿易に関する一般協定)を発展させた、より強力な自由貿易推進機関である**世界貿易機関(WTO)**が発足し、貿易や投資の自由化を、法的拘束力をもって世界的に推進する役割を担いました。
2.2. グローバル化がもたらした光:効率化と成長
グローバル化は、世界経済に大きな恩恵をもたらしました。その最大のメリットは、「効率化」による経済成長です。
多国籍企業は、世界中を視野に入れ、製品の設計、部品の調達、組み立て、販売といった各工程を、最もコストが安く、効率的な場所で行う「グローバル・サプライチェーン」を構築しました。例えば、アメリカの企業がデザインしたスマートフォンが、日本の部品を使い、中国で組み立てられ、世界中で販売される、といった国際的な分業体制が当たり前になりました。これにより、企業は生産コストを劇的に削減でき、消費者は、より安価で、多様な製品を手に入れることができるようになりました。
先進国は、研究開発や金融といった高付加価値な分野に特化し、途上国は、安価な労働力を活かした製造業の担い手となることで、双方に利益がもたらされると考えられました。特に中国は、2001年のWTO加盟を機に「世界の工場」としての地位を確立し、驚異的な経済成長を遂げました。BRICSをはじめとする新興国の台頭も、このグローバル化の恩恵を大きく受けた結果でした。
また、金融のグローバル化は、国境を越えた投資を活発化させ、成長に必要な資金が、より効率的に配分されるようになりました。文化面でも、ハリウッド映画やポップミュージック、ファストフードといったアメリカ文化が世界中に広まる一方で、日本の寿司やアニメ、インドのボリウッド映画のように、多様な文化が世界的に交流し、新たな価値を生み出す機会も増えました。
2.3. グローバル化がもたらした影:格差、不安定化、反発
しかし、グローバル化の光が強まるにつれて、その影もまた色濃くなっていきました。
最も深刻な課題が、「経済格差の拡大」です。先進国では、グローバルな競争にさらされた製造業が衰退し、多くの労働者が職を失いました。一方で、国際的な金融やITの分野で活躍する一部のエリート層は、莫大な富を手にするようになり、国内の所得格差は著しく拡大しました。途上国でも、グローバル経済にうまく適応できた層と、そうでない農村部などとの格差が広がるという問題が生じました。
第二に、「金融の不安定化」です。瞬時に大量の資金が国境を移動するグローバル金融は、ひとたびある地域で危機が発生すると、それが瞬く間に全世界に波及する「コンテイジョン(伝染)」のリスクを増大させました。1997年のアジア通貨危機や、2008年のリーマン・ショックに端を発する世界金融危機は、グローバル化された金融システムが内包する、巨大な脆弱性を白日の下に晒しました。
第三に、「国家主権の侵食」と「民主主義の空洞化」です。グローバルに活動する多国籍企業や金融資本の力は、時に一国の政府のそれを凌駕し、各国の政府は、法人税の引き下げ競争や、労働・環境基準の「底辺への競争」を強いられるようになりました。これにより、国民の意思で自国の政策を決定するという、民主主義の根幹が揺らぎかねないという懸念が生まれました。
これらのグローバル化の負の側面に対する不満や反発は、1999年のシアトルでのWTO閣僚会議に対する大規模な抗議行動に象徴される「反グローバル化運動」を生み出しました。そして、この運動は、21世紀に入ってからの、先進国におけるポピュリズムの台頭や、自国第一主義的な保護主義への回帰の、思想的な伏線となっていくのです。
3. 地域紛争の頻発
3.1. 冷戦の「蓋」が外れた世界
冷戦時代、世界は、米ソという二つの超大国の対立によって、ある種の「安定」が保たれていました。両陣営は、世界各地で自らの同盟国や代理勢力を支援し、相手陣営の影響力拡大を阻止しようと競い合いました。この過程で、多くの独裁政権が、超大国の支援を背景に、国内に存在する民族的・宗教的な対立を力で抑えつけていました。
しかし、冷戦が終結し、ソ連が崩壊すると、この超大国による「蓋(ふた)」が外れ、これまで抑圧されてきた対立や憎悪が、世界各地で一気に噴出することになりました。超大国からの支援という「重し」がなくなったことで、多くの国で国家の統制力が弱まり、内戦や紛争が頻発するようになったのです。冷戦の終焉は、大国間の戦争のリスクを低下させた一方で、内戦や地域紛争のリスクを著しく増大させるという、皮肉な結果をもたらしました。
3.2. ユーゴスラヴィアの悲劇と「民族浄化」
冷戦後の地域紛争の最も悲劇的な象徴が、ユーゴスラヴィアの解体をめぐる一連の紛争でした。ユーゴスラヴィアは、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、ボスニアのムスリム人など、多様な民族と言語、宗教が共存する、多民族国家でした。冷戦期には、非同盟運動の指導者であったチトー大統領の強力なカリスマのもとで、奇跡的な統一と安定を保っていました。
しかし、1980年にチトーが死去し、さらに冷戦が終結すると、各共和国でナショナリズムが急速に台頭します。経済的に豊かだったスロヴェニアとクロアチアが、1991年に連邦からの独立を宣言すると、連邦の主導権を握るセルビアが、これを阻止しようと軍事介入し、凄惨な内戦が始まりました。
特に悲劇の舞台となったのが、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人がモザイク状に混住していたボスニア・ヘルツェゴビナでした。ボスニアが独立を宣言すると、セルビア人勢力は、自らの支配地域から他の民族を暴力的に追放する「民族浄化(Ethnic Cleansing)」と呼ばれる、組織的な残虐行為を開始しました。村々は焼き払われ、集団レイプや強制収容所での虐待が横行し、第二次世界大戦後のヨーロッパでは考えられなかったような蛮行が繰り広げられました。1995年には、国連の保護地域であったスレブレニツァで、セルビア人勢力が8000人以上のムスリム人男性を組織的に虐殺するという、ジェノサイド(集団殺害)事件が発生し、国際社会に大きな衝撃を与えました。
この泥沼の紛争は、NATOによるセルビア人勢力への空爆を経て、1995年にアメリカの仲介によるデイトン合意で、一応の終結を見ました。しかし、その後も、1998年からは、セルビア共和国内のコソヴォ自治州で、アルバニア系住民の独立運動をセルビアが弾圧したことからコソヴォ紛争が勃発。再びNATOの空爆を招くなど、旧ユーゴスラヴィア地域は、1990年代を通じて「ヨーロッパの火薬庫」であり続けました。
3.3. アフリカの絶望:ソマリアとルワンダ
冷戦の終焉は、アフリカ大陸にも深刻な影響を及ぼしました。超大国からの支援を失った多くの独裁政権は弱体化し、国家そのものが崩壊する「破綻国家(Failed State)」が、各地で出現しました。
その典型がソマリアです。冷戦期には米ソ双方から支援を受けていたバーレ独裁政権が、1991年に崩壊すると、国は、氏族(クラン)を基盤とする複数の武装勢力が相争う、完全な無政府状態に陥りました。内戦と深刻な干ばつが重なり、大規模な飢饉が発生。国際社会は、国連PKO(平和維持活動)部隊を派遣して人道支援を行おうとしましたが、武装勢力の抵抗に遭い、1993年には、アメリカ軍のヘリコプターが撃墜され、市街戦で多数の米兵が死傷するという事件が発生(「ブラックホーク・ダウン」)。これに衝撃を受けたアメリカは、ソマリアから撤退し、国連の活動も失敗に終わりました。
アフリカにおける冷戦後の最大の悲劇は、1994年に中央アフリカの小国ルワンダで発生したジェノサイドでした。植民地時代にベルギーが、少数派のツチ族を優遇し、多数派のフツ族を支配させるという分断統治を行ったことが、両民族間に深い憎悪の種を蒔いていました。独立後、政権を握ったフツ族の過激派は、ツチ族に対する差別と迫害を強めていました。
1994年4月、フツ族出身の大統領が乗った飛行機が撃墜された事件をきっかけに、フツ族の過激派は、ラジオ放送などを通じて「ゴキブリであるツチ族を絶滅させろ」と国民を扇動し、組織的なツチ族の虐殺を開始しました。軍や警察だけでなく、隣人や友人までもがナタや棍棒を手に、ツチ族の住民を襲いました。わずか100日間で、約80万人とも言われるツチ族と、穏健派のフツ族が虐殺されたのです。
この未曾有の悲劇に対し、国際社会、とりわけ国連は、有効な手を打つことができませんでした。ソマリアでの失敗の記憶から、大国は軍事介入に消極的で、虐殺が進行するのを、事実上、傍観する形となってしまいました。ユーゴスラヴィアとルワンダの悲劇は、冷戦後の世界が、民族や宗教の対立という、より根源的で、かつ残忍な紛争の時代に突入したことを、痛烈に示していました。
4. 9.11同時多発テロと「テロとの戦い」
4.1. 2001年9月11日の衝撃
2001年9月11日、アメリカ東部時間の朝、アメリカは、建国以来、本土が経験したことのない規模の攻撃を受けました。イスラム過激派のテロリスト19人が、アメリカ国内線の旅客機4機をハイジャック。そのうち2機がニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに、1機がワシントD.C.郊外の国防総省(ペンタゴン)に激突しました。残る1機は、乗客の抵抗によって、ペンシルベニア州の野原に墜落しました。
超高層ビルが炎上し、崩れ落ちる衝撃的な映像は、全世界にリアルタイムで中継され、人々に大きな衝撃と恐怖を与えました。この9.11同時多発テロによる死者は、乗客・乗員、ビルの中にいた人々、そして救助にあたった消防士らを含め、約3000人にのぼりました。これは、一日の出来事としては、真珠湾攻撃を上回る、アメリカ史上最悪の犠牲者数でした。
この攻撃の首謀者は、サウジアラビア出身の富豪、オサマ・ビンラディンが率いる、国際的なテロ組織「アルカイダ」であると、すぐに断定されました。アルカイダは、アフガニスタンを拠点とし、ソ連との戦争で戦ったムジャヒディーンのネットワークを母体としていました。彼らは、イスラム教の教えを極端に解釈した「サラフィー・ジハード主義」を掲げ、①イスラム教の聖地があるサウジアラビアへの米軍の駐留、②アメリカのイスラエル支援、③イラクへの経済制裁などを理由に、アメリカをイスラム世界の最大の敵と見なし、「聖戦(ジハード)」を宣言していました。彼らの狙いは、超高層ビルというアメリカの経済力と繁栄の象徴を破壊することで、アメリカの威信を失墜させ、イスラム世界に反米闘争の狼煙を上げることでした。
4.2. 「対テロ戦争」とアフガニスタン戦争
9.11の攻撃は、アメリカの外交・安全保障政策を根底から覆しました。当時のジョージ・W・ブッシュ大統領は、この事件を単なる犯罪ではなく、「アメリカに対する戦争行為」であると断じ、全世界を巻き込む「対テロ戦争(War on Terror)」の開始を宣言しました。彼は、「我々の側に付くのか、それともテロリストの側に付くのか」と世界各国に踏み絵を迫り、テロリストを匿う国家もまた、テロリスト自身と同様に敵と見なす、という強硬な姿勢を示しました。
この新たな戦争の最初の標的となったのが、アルカイダを庇護していた、アフガニスタンのイスラム原理主義政権タリバンでした。ブッシュ政権は、タリバンに対して、ビンラディンらの身柄引き渡しを要求しましたが、タリバンがこれを拒否。2001年10月7日、アメリカは、イギリスなどと共に、アフガニスタンへの空爆を開始し、アフガニスタン戦争が始まりました。
アメリカは、最新の兵器と、タリバンと敵対していた北部同盟への支援を組み合わせ、わずか2ヶ月で首都カブールを陥落させ、タリバン政権を崩壊させました。しかし、ビンラディンをはじめとするアルカイダの指導者たちは、パキスタンとの国境地帯の山岳部に逃げ込み、掃討作戦は困難を極めました。その後、アメリカ主導のもとで、アフガニスタンにはカルザイを首班とする新政権が樹立され、NATOを中心とする国際治安支援部隊(ISAF)が、国の再建と治安維持にあたりました。しかし、タリバンは地方で勢力を盛り返し、テロやゲリラ攻撃を繰り返しました。戦争は、泥沼の長期戦となり、アメリカ史上最長の戦争として、2021年の米軍撤退まで、20年近くも続くことになったのです。
4.3. イラク戦争と「ブッシュ・ドクトリン」
「対テロ戦争」は、アフガニスタンに留まりませんでした。ブッシュ政権は、イラクのサッダーム・フセイン政権を、北朝鮮、イランと共に「悪の枢軸」と名指しで非難し、次の標的と定めました。政権内のネオコン(新保守主義者)と呼ばれる強硬派は、フセイン政権が**大量破壊兵器(WMD)**を保有し、アルカイダと繋がり、アメリカの安全保障にとって差し迫った脅威であると主張しました。
そして、ブッシュ政権は、「ブッシュ・ドクトリン」と呼ばれる、新たな外交安全保障戦略を打ち出します。その核心は、脅威が現実のものとなる前に行動を起こす「先制攻撃(Preemptive Strike)」の権利と、国連の合意が得られなくとも、アメリカの国益のために同盟国と共に行動する「単独行動主義(Unilateralism)」を、公然と正当化するものでした。
2003年3月、アメリカは、大量破壊兵器の存在を証明できないまま、国連安保理の明確な承認も得ずに、イギリスなど一部の同盟国と共に、イラクへの攻撃を開始しました。これがイラク戦争です。
アメリカ軍は、圧倒的な軍事力で、わずか3週間で首都バグダッドを陥落させ、フセイン政権を崩壊させました。しかし、戦争の真の困難は、ここから始まりました。戦後のイラクでは、アメリカが主張した大量破壊兵器は、最後まで発見されませんでした。アメリカによる占領統治は混乱を極め、旧フセイン政権下で抑圧されていた、スンニ派とシーア派の間の宗派対立が爆発。イラクは、凄惨な内戦状態に陥りました。アルカイダ系のテロ組織もイラクに流入し、反米武装闘争を激化させました。
イラク戦争は、フセイン独裁政権を排除したものの、その結果として、地域全体を不安定化させ、数十万人のイラク市民の命を奪い、後の過激派組織「イスラム国(IS)」が台頭する温床を生み出してしまいました。大義なき戦争として、アメリカの国際的な威信とソフトパワーを著しく傷つけ、「対テロ戦争」がもたらした、負の遺産の象徴となったのです。
5. BRICSなど新興国の台頭
5.1. 21世紀の新たな成長エンジン
21世紀の最初の10年間、世界経済の構造は、静かだが、しかし決定的な変化を経験しました。これまで世界経済を牽引してきたG7(先進7カ国)の成長が鈍化する一方で、いくつかの大規模な発展途上国が、目覚ましい経済成長を遂げ、新たな成長エンジンとして世界経済における存在感を急速に高めていきました。
この現象を象徴する言葉として、2001年にアメリカの投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミスト、ジム・オニールが提唱したのが、「BRICs」という造語です。これは、**ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)**という、広大な国土、豊富な天然資源、そして巨大な人口(労働力と市場)を共有する4つの新興大国の頭文字を組み合わせたものです。彼は、これらの国々が、21世紀半ばまでに世界経済の主要なプレイヤーになると予測しました。
彼の予測通り、2000年代、BRICs諸国は、年平均5%を超える高い経済成長率を記録し、世界経済の成長の半分以上を占めるに至りました。この急成長の背景には、いくつかの共通の要因がありました。
- グローバル化の恩恵:グローバルな貿易と投資の拡大は、これらの国々に、先進国への輸出市場と、成長に必要な資本をもたらしました。
- 資源価格の高騰:特に中国の急成長が、石油、鉄鉱石、食料といった一次産品の需要を世界的に押し上げ、資源輸出国であるブラジルとロシアの経済を大きく潤しました。
- 内需の拡大:経済成長によって中間層が拡大し、巨大な国内市場が、新たな成長の源泉となりました。
- 政治の安定と改革:各国は、程度の差こそあれ、市場経済化を進め、外国からの投資を呼び込むための国内改革を進めました。
2011年には、南アフリカ共和国(South Africa)がこの枠組みに加わり、「BRICS」と複数形で呼ばれるようになりました。BRICSの台頭は、20世紀に確立された、豊かな「北」の先進国と、貧しい「南」の途上国という、単純な二分法を過去のものとし、世界経済の重心が、大西洋からアジア太平洋へとシフトしていることを、明確に示していました。
5.2. 中国の躍進と多極化する世界
BRICSの中でも、その成長は際立っていました。2001年の世界貿易機関(WTO)加盟を機に、中国は「世界の工場」としての地位を不動のものとし、その後10年以上にわたり、年率10%前後の驚異的な経済成長を続けました。2010年には、日本のGDPを抜き、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国へと躍り出ました。
この経済力を背景に、中国は、国際社会における政治的・外交的な影響力も急速に拡大させました。豊富な外貨準備を元に、アフリカやラテンアメリカの資源国に多額の投資や援助を行い、関係を強化。また、上海協力機構(SCO)のような、アメリカ主導ではない地域的な枠組みを主導し、その存在感を高めました。
BRICS諸国も、単なる経済的なカテゴリーに留まらず、政治的な連携を深めていきます。2009年以降、毎年、首脳会議を開催し、国際的な金融・経済問題について、共同で声明を発表するようになりました。彼女たちの共通の主張は、G7に代表される先進国が主導してきた、既存の国際金融秩序(ブレトン・ウッズ体制)は、もはや現実の世界経済を反映しておらず、新興国の発言力をより大きく反映する形に改革されるべきだ、というものでした。
その具体的な行動として、2014年には、BRICS諸国は、世界銀行やIMFに対抗する独自の国際金融機関として、「新開発銀行(BRICS銀行)」と「緊急時外貨準備基金」の設立に合意しました。これは、アメリカドルを基軸とする既存の国際通貨システムへの挑戦であり、戦後アメリカが築き上げてきた国際秩序が、もはや自明のものではなくなったことを象言徴する出来事でした。
BRICSの台頭は、冷戦終結後に一時的に現出した、アメリカ一極集中の「ユニポール」の時代が終わり、世界が、アメリカ、ヨーロッパ、中国、ロシア、インドといった複数の極が影響力を競い合う、「多極化(Multipolarization)」の時代へと移行しつつあることを、誰の目にも明らかにしたのです。
6. リーマン・ショックと世界金融危機
6.1. サブプライムローンと金融工学の暴走
2008年9月15日、アメリカの名門投資銀行であるリーマン・ブラザーズが、総額6000億ドル以上という史上最大の負債を抱えて経営破綻を申請しました。この「リーマン・ショック」は、世界中を駆け巡り、1929年の世界恐慌以来と言われる、未曾有の世界金融危機の引き金を引きました。
この危機の根源は、2000年代初頭からアメリカで膨らみ続けていた住宅バブルにありました。ITバブルの崩壊と9.11テロ後の景気後退に対応するため、アメリカの中央銀行にあたるFRB(連邦準備制度理事会)は、政策金利を異例の低水準にまで引き下げました。この低金利を背景に、多くの人々が、値上がりを期待して住宅ローンを組んで住宅を購入し、住宅価格は異常な高騰を続けました。
この住宅ブームの中で、金融機関は、本来であればローンを組むことが困難な、信用力の低い(所得が不安定な)人々に対しても、高金利で住宅ローンを貸し付けるようになりました。これが「サブプライムローン」です。当初は、住宅価格が上がり続けていたため、返済に行き詰まっても、住宅を売却すればローンを返済できると考えられていました。
問題は、ウォール街の投資銀行が、このリスクの高いサブプライムローンを、他の比較的安全な債権と混ぜ合わせ、最先端の「金融工学」を駆使して、一見すると安全で高利回りに見える、複雑な金融商品(証券化商品、CDOなど)に作り変え、世界中の投資家(銀行、保険会社、年金基金など)に販売したことでした。格付け会社も、これらの危険な商品に、最高ランクの「AAA」といった、お墨付きを与えていました。金融のグローバル化によって、アメリカの住宅ローンのリスクは、見えない形で、全世界の金融システムの中に、クモの巣のように張り巡らされてしまったのです。
6.2. 金融危機の発生と世界的連鎖
2006年頃から、FRBがインフレを抑制するために利上げに転じると、事態は暗転します。住宅ローンの金利が上昇し、返済に行き詰まる人々が急増。住宅価格も、2007年から下落に転じました。これにより、サブプライムローンは大量の焦げ付き(デフォルト)を発生させ、それを組み込んでいた証券化商品の価値は、紙くず同然に暴落しました。
これらの有毒な金融商品を大量に保有していた金融機関は、巨額の損失を被り、次々と経営危機に陥りました。2008年9月、リーマン・ブラザーズが破綻すると、パニックは金融市場全体に広がりました。金融機関は、どの金融機関がどれだけの損失を抱えているのか分からなくなり、相互不信から、企業間の短期的な資金の貸し借りが、完全に停止してしまいました(信用収縮)。資金繰りができなくなった企業は、活動を停止せざるを得ず、金融システムは、心臓発作を起こしたかのように、機能不全に陥ったのです。
この金融危機は、瞬く間にアメリカからヨーロッパ、日本、そして新興国へと波及しました。グローバル化で深く結びついた世界経済は、一蓮托生でした。アメリカの景気後退は、世界の需要を冷え込ませ、輸出に依存していた国々の経済に大打撃を与えました。株価は世界中で暴落し、多くの企業が倒産し、失業者が街に溢れました。世界経済は、世界恐慌以来、最悪の同時不況に突入したのです。
6.3. 危機への対応と残された課題
この未曾有の危機に対し、各国政府と中央銀行は、協調して、かつてない規模の対応を迫られました。アメリカ政府は、公的資金を注入して、経営危機に陥った巨大金融機関や自動車メーカーを救済(ベイルアウト)し、FRBは、金利をほぼゼロにまで引き下げる「ゼロ金利政策」や、市場に大量の資金を供給する「量的緩和(QE)」といった、非伝統的な金融政策に踏み切りました。G20(主要20カ国・地域)首脳会合が、世界経済の危機管理の主要な舞台として機能し、各国が協調して財政出動を行うことで、世界経済の完全な崩壊は、かろうじて食い止められました。
しかし、この危機が残した爪痕は、極めて深く、広範囲に及びました。第一に、それは、規制緩和と市場原理主義を信奉してきた「新自由主義(ネオリベラリズム)」の思想的破綻を白日の下に晒しました。「強欲」な金融資本主義に対する人々の怒りは、ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)運動のような、反格差運動へと繋がりました。
第二に、金融危機は、ヨーロッパにおいて、ギリシャなどに端を発する**欧州ソブリン危機(国家債務危機)**を誘発し、単一通貨ユーロの構造的欠陥を露呈させました。
そして第三に、巨額の税金が、危機を引き起こした張本人である銀行の救済に使われたことへの国民の不満と、その後の長期にわたる景気停滞は、エリート層や既存の政治体制に対する根深い不信感を生み出しました。この不信感こそが、その後、世界各国で、保護主義や排外主義を掲げるポピュリズムが台頭する、肥沃な土壌となったのです。
7. アラブの春
7.1. チュニジアから始まった民主化の連鎖
2010年12月17日、北アフリカの国チュニジアの地方都市で、一人の青年が、自らの未来に絶望し、そして国家の不正に抗議して、自らの体に火を放ちました。大学を卒業しながらも定職に就けず、果物の無許可販売で生計を立てていた26歳のモハメド・ブアジジが、警察官に商品を没収され、侮辱を受けた末の、焼身自殺でした。
この一人の青年の悲劇的な死は、長年にわたって、ベン・アリー大統領による独裁政権下で、高い失業率、物価の高騰、そして蔓延する腐敗に苦しんできたチュニジア国民の、抑圧された怒りの導火線に火をつけました。彼の死を悼む抗議デモは、瞬く間に全国へと広がり、やがて「独裁打倒」を叫ぶ、大規模な反政府運動へと発展しました。
この革命を後押ししたのが、フェイスブックやツイッターといった、新しいソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)でした。若者たちは、SNSを通じて、デモの情報を拡散し、政府による情報統制をかいくぐり、連帯を組織しました。政府の弾圧の様子を撮影した携帯電話の動画は、瞬時に世界中に共有され、国際世論を喚起しました。
国民の怒りの前に、軍も最終的には民衆の側につき、独裁者ベン・アリーは、国外へ逃亡。約1ヶ月という驚くべき速さで、23年間続いた独裁政権は崩壊しました。このチュニジアでの成功は、「ジャスミン革命」と呼ばれ、そのニュースは、同じような問題を抱える他のアラブ諸国の若者たちを、強く勇気づけました。
7.2. エジプト、リビア、シリアへの波及
チュニジアの革命の成功は、ドミノ倒しのように、アラブ世界全体に民主化要求運動を広げていきました。この一連の動きは、「アラブの春」と名付けられました。
- エジプト:アラブ世界で最も人口の多い大国エジプトでは、2011年1月25日から、首都カイロの中心、タハリール広場で、30年間権力の座にあったムバラク大統領の退陣を求める、数十万人規模のデモが始まりました。18日間にわたる粘り強い抗議の末、軍がムバラクを見限り、彼もまた退陣に追い込まれました。タハリール広場を埋め尽くした民衆の歓喜は、アラブの春のハイライトとなりました。
- リビア:42年間にわたり、「カダフィ大佐」として独裁を続けてきたリビアでは、反政府運動は、早期に内戦へと発展しました。カダフィ側が、反体制派の拠点である東部の都市ベンガジに迫ると、フランスやイギリスの主導のもと、国連安保理は、市民を保護するための飛行禁止区域を設定する決議を採択。これに基づき、NATO軍が、反体制派を支援する形で、カダフィ軍への空爆を開始しました。最終的に、2011年10月、カダフィは反体制派によって捕らえられ、殺害されました。
- イエメンやバーレーンなどでも、大規模な反政府デモが発生しましたが、その結末は様々でした。
- シリア:最も悲劇的な結末を迎えたのがシリアでした。アサド大統領の独裁政権は、民主化を求めるデモを、武力で徹底的に弾圧。これにより、国は、政府軍、反体制派、そしてアルカイダ系のイスラム過激派などが入り乱れて戦う、泥沼のシリア内戦へと突入しました。この内戦は、イランやロシアがアサド政権を支援し、アメリカやサウジアラビアなどが反体制派を支援するという、地域大国や超大国を巻き込んだ代理戦争の様相を呈し、数十万人の死者と、人口の半分以上が国内外への避難を余儀なくされるという、21世紀最悪の人道危機を引き起こしました。
7.3. 「アラブの冬」と残された課題
「アラブの春」がもたらした当初の希望と熱狂は、残念ながら、長続きはしませんでした。多くの国で、その後の道のりは、困難と混乱に満ちたものであり、「アラブの冬」と呼ばれる、厳しい現実が訪れました。
エジプトでは、ムバラク後の初の自由選挙で、イスラム主義組織「ムスリム同胞団」出身のモルシが大統領に就任しましたが、そのイスラム主義的な政策が、世俗派や軍の反発を招き、2013年、軍のクーデターによって政権は転覆。再び、軍出身のシーシ大統領による、より強権的な独裁体制へと逆戻りしてしまいました。
リビアやイエメンは、独裁者の排除後、国家が分裂し、武装勢力が割拠する、事実上の破綻国家と化しました。
そして、シリア内戦と、その後のイラクの混乱の中から、アルカイダを凌ぐ、より残忍で、かつ国家樹立を標榜する、新たな脅威、過激派組織「イスラム国(ISILまたはISIS)」が台頭しました。彼らは、シリアとイラクにまたがる広大な地域を支配し、インターネットを駆使して世界中から戦闘員を勧誘し、残虐なテロを世界各地で実行しました。
「アラブの春」は、なぜ多くの場合、失敗に終わったのでしょうか。その要因としては、①長年の独裁下で、民主主義を担うべき市民社会や、政権交代の受け皿となる穏健な政治勢力が十分に育っていなかったこと、②宗派対立や部族対立といった、社会の根深い亀裂が、独裁という「蓋」が外れたことで一気に噴出したこと、③軍が、依然として政治における強力なアクターとして影響力を行使し続けたこと、などが挙げられます。
「アラブの春」は、SNSが、独裁政権を揺るがす強力なツールとなり得ることを証明しましたが、同時に、独裁者を倒した後の、安定した民主的な国家をいかにして建設するかという、より困難な課題を、中東地域と国際社会に突きつける結果となったのです。
8. アメリカと中国の対立
8.1. 「関与」から「戦略的競争」へ
冷戦終結後、ニクソン大統領の訪中以来、歴代のアメリカ政権が中国に対して取ってきた基本政策は、「関与(Engagement)」政策でした。これは、中国を国際的な経済・政治の枠組みに取り込み、貿易と投資を拡大させることで、中国の経済発展を促せば、やがて中間層が成長し、政治的にも自由化・民主化が進むだろう、という期待に基づいたものでした。2001年の中国のWTO加盟は、この「関与」政策の集大成とも言えるものでした。
この政策は、ある面では成功しました。中国は、グローバル経済の主要なプレイヤーとなり、数億人が貧困から脱出しました。米中間の経済的な結びつきは、かつてないほど深まり、「チャイメリカ」という造語が生まれるほどでした。
しかし、2010年代に入り、アメリカの対中認識は、根本的な転換を迫られます。2012年に習近平が中国の最高指導者となると、中国は、鄧小平時代からの「韜光養晦(とうこうようかい)」(能ある鷹は爪を隠す)という控えめな外交姿勢を転換し、経済力と軍事力を背景に、国際社会で自らの影響力を積極的に拡大しようとする、より強硬で、自己主張の強い姿勢を見せるようになりました。国内では、言論統制や人権抑圧が、むしろ強化されました。
アメリカは、中国が、期待したような「責任あるステークホルダー」になるどころか、アメリカが主導して築き上げてきた自由主義的な国際秩序(リベラル国際秩序)そのものに挑戦する、「戦略的競争相手」であると、認識を改めるに至ったのです。この認識の転換は、2017年に発足したドナルド・トランプ政権下で、決定的となりました。
8.2. 貿易戦争とハイテク覇権争い
米中対立が、最も激しい形で現れたのが、経済分野、特に貿易とハイテク技術をめぐる争いでした。
トランプ大統領は、長年にわたるアメリカの巨額の対中貿易赤字や、中国による知的財産権の侵害、そしてアメリカ企業への技術移転の強要などを、不公正な貿易慣行であると激しく非難。2018年から、中国からの輸入品に対して、次々と高い関税を課す制裁措置を発動しました。中国も、これに対して報復関税で応酬し、米中間で「貿易戦争」が勃発しました。
しかし、この対立の核心は、単なる貿易不均衡の問題に留まりませんでした。その本質は、21世紀の産業と安全保障の根幹をなす、次世代のハイテク技術の覇権を、どちらが握るかという、より深刻な競争でした。アメリカは、中国が、政府の補助金などを通じて、半導体、人工知能(AI)、そして次世代通信規格「5G」といった分野で、アメリカの技術的優位を脅かしていることに、強い危機感を抱きました。
その象徴が、中国の通信機器最大手、**ファーウェイ(華為技術)**に対する、アメリカ政府による厳しい制裁措置でした。アメリカは、ファーウェイの製品が、中国政府によるスパイ活動に利用される安全保障上のリスクがあると主張し、同盟国に対しても、自国の5G通信網からファーウェイ製品を排除するよう、強く求めました。
このハイテク覇権争いは、米中経済の「デカップリング(切り離し)」の動きを加速させました。これまで一体化してきたグローバル・サプライチェーンを、安全保障の観点から、アメリカ中心の陣営と中国中心の陣営に、二分させようとする動きが、両国で進められています。
8.3. 地政学的対立とイデオロギーの相克
米中の対立は、経済分野に留まらず、地政学的、そしてイデオロギー的な領域にも及んでいます。
地政学的には、中国が軍事力を近代化させ、南シナ海に軍事拠点を建設し、その領有権を一方的に主張する動きに対し、アメリカは「航行の自由」作戦を実施して、これを牽制しています。また、中国が、自国の不可分の領土と見なす台湾をめぐる問題は、米中間の軍事衝突のリスクをはらむ、最も危険な火種であり続けています。さらに、香港における「一国二制度」の形骸化や、新疆ウイグル自治区における深刻な人権問題も、アメリカが中国を批判する、主要な論点となっています。
習近平主席が提唱する、広域経済圏構想「一帯一路(Belt and Road Initiative)」も、アメリカからは、参加国を「債務の罠」に陥らせ、中国の地政学的な影響力を拡大させるためのツールであると、警戒されています。
この対立の根底には、根本的なイデオロギーと価値観の対立があります。アメリカが、自由、民主主義、人権といった普遍的価値を掲げるのに対し、中国は、共産党の一党支配という権威主義的な政治体制と、国家主導の資本主義を組み合わせた「中国モデル」の優位性を、公然と主張するようになりました。
この米中対立は、かつての米ソ冷戦としばしば比較されますが、両国の経済が深く相互依存している点で、その様相は大きく異なります。しかし、世界の二大国が、経済、技術、地政学、そして価値観の全てにおいて、長期的な競争関係に入ったことは間違いなく、その行方は、21世紀の国際秩序の姿を決定づける、最大の要因となるでしょう。
9. ポピュリズムの拡大
9.1. ポピュリズムとは何か
2010年代後半、世界の政治を揺るがす、大きな潮流として「ポピュリズム(Populism)」が、大きな注目を集めました。ポピュリズムとは、特定のイデオロギーを指す言葉ではなく、一種の政治スタイルや運動のあり方を指す言葉です。
その共通の特徴は、社会を、**「清廉で勤勉な、一般大衆(the people)」と、「腐敗し、自己の利益しか考えない、既成のエリート層(the elite)」**という、二つの敵対する集団に単純に二分する世界観にあります。そして、ポピュリストの指導者は、自らを「一般大衆」の唯一の代弁者であると位置づけ、「エリート層」が独占してきた権力を、大衆の手に取り戻す、と訴えます。
ここで言う「エリート層」には、伝統的な政党の政治家、官僚、大企業の経営者、そして大手メディアや学者といった、既存の権威や制度が含まれます。ポピュリストは、これらのエリートが、グローバル化などを通じて、一般大衆の利益を裏切ってきたと主張し、彼らに対する人々の不満や怒りを、巧みに動員します。
ポピュリズムは、右派にも左派にも見られますが、近年、特に欧米で拡大したのは、右派ポピュリズムです。これは、反エリート主義に加えて、反移民・反イスラムといった排外主義的な主張や、国際協調よりも自国の利益を最優先する**ナショナリズム(自国第一主義)**を、その大きな特徴としています。
9.2. ポピュリズム台頭の背景
なぜ、21世紀に入ってから、特に欧米の先進民主主義国家で、ポピュリズムがこれほどまでに拡大したのでしょうか。その背景には、経済的、文化的、そして政治的な、複合的な要因があります。
- 経済的要因:グローバル化と産業構造の変化の過程で、かつて製造業で安定した職と生活を得ていた、多くの白人労働者階級が、取り残されました。彼らは、低賃金労働を求めて流入してくる移民や、仕事を奪う外国との不公正な貿易に、その不満の矛先を向けました。2008年の世界金融危機とその後の長期にわたる経済停滞、そして緊縮財政は、こうした人々の経済的な不安と、エリート層への怒りを、さらに増幅させました。
- 文化的要因:移民の増加による社会の多文化化や、ジェンダー平等の進展といった、急速な社会・文化的変化に対して、自らの伝統的な価値観やアイデンティティが脅かされていると感じる、保守的な層の不安(文化的バックラッシュ)も、大きな要因となりました。彼らは、ポピュリストが掲げる、ノスタルジックな「偉大な国家」の再生というメッセージに、強く惹きつけられました。特にヨーロッパでは、中東などからの難民・移民の大量流入(2015年の欧州難民危機)が、排外主義的なポピュリズム政党の支持を、大きく押し上げるきっかけとなりました。
- 政治的・技術的要因:既存の主要な政党(中道右派と中道左派)が、グローバル化を推進する点で政策的な違いが見えにくくなり、多くの有権者が、自分たちの声が政治に届いていない、という不満を抱くようになりました。また、フェイスブックやツイッターといったSNSの普及は、ポピュリストの指導者が、既存のメディアを介さずに、有権者に直接、扇動的なメッセージを届けることを、容易にしました。
9.3. ブレグジットとトランプ現象
このポピュリズムの世界的拡大を象徴する、二つの衝撃的な出来事が、2016年に相次いで起こりました。
一つは、同年6月の**イギリスのEU離脱(ブレグジット, Brexit)**をめぐる国民投票です。離脱派は、「主権を取り戻せ」をスローガンに、EUからの移民が、イギリス人の雇用を奪い、社会保障制度に負担をかけていると主張し、人々の反エリート感情と、イングランドのナショナリズムに訴えかけました。多くの専門家や経済団体の予測を覆し、国民投票は、僅差で離脱派の勝利に終わりました。
もう一つが、同年11月のアメリカ大統領選挙における、共和党候補ドナルド・トランプの勝利です。「アメリカを再び偉大にする(Make America Great Again)」を掲げたトランプは、グローバル化によって寂れたラストベルト(錆びついた工業地帯)の労働者や、変化に取り残されたと感じる白人保守層の支持を集め、エリート層の代表と見なされた民主党のヒラリー・クリントンを破りました。彼の選挙戦は、メキシコからの移民を厳しく批判し、イスラム教徒の入国禁止を訴えるなど、あからさまな排外主義と、既存の政治やメディアに対する激しい攻撃を特徴としていました。
ブレグジットとトランプの勝利は、フランスの国民連合(旧国民戦線)や、ドイツの「ドイツのための選択肢(AfD)」といった、ヨーロッパ各国の極右ポピュリズム政党を勢いづかせました。ポピュリズムの台頭は、これまで戦後の国際秩序を支えてきた、自由民主主義の価値、多国間協調、そして寛容の精神そのものに対する、深刻な挑戦を突きつけているのです。
10. 現代の世界が抱える諸問題
10.1. 地球規模の課題:環境、健康、人口
現代世界は、冷戦期のようなイデオロギーの対立に代わって、国境を越え、一国では到底解決できない、地球規模の、あるいは人類共通の課題に、数多く直面しています。
- 地球環境問題:最も深刻で、かつ緊急性の高い課題が、地球温暖化に代表される気候変動です。産業革命以来の化石燃料の大量消費によって、大気中の温室効果ガス濃度は上昇を続け、異常気象(熱波、豪雨、干ばつ)、海面の上昇、生態系の破壊といった、深刻な影響が、世界各地で顕在化しています。2015年のパリ協定では、世界の平均気温の上昇を、産業革命以前に比べて2℃より十分低く保ち、1.5℃に抑える努力を追求することが合意されましたが、その目標達成への道のりは、依然として険しいものです。先進国と途上国の間の、責任と負担をめぐる対立も、解決を困難にしています。
- 世界的な健康危機(グローバルヘルス):2019年末に始まった新型コロナウイルス(COVID-19)のパンデミックは、グローバル化がいかにして、感染症を瞬く間に全世界へと拡大させるかを、まざまざと見せつけました。それは、各国の医療体制の脆弱性を露呈させるとともに、ワクチン開発や分配をめぐる国家間のエゴイズム(ワクチン・ナショナリズム)や、先進国と途上国の間の深刻な格差を浮き彫りにしました。エイズ(AIDS)や、薬剤耐性菌の問題など、健康に関する脅威は、常に国境を越えて人類全体を脅かしています。
- 人口問題:世界の人口は、増加の一途をたどり、80億人を突破しましたが、その内実は、地域によって大きく異なります。日本やヨーロッパの多くの先進国では、深刻な少子高齢化が進行し、社会保障制度の維持や、経済活力の低下が、大きな課題となっています。一方で、アフリカなどの発展途上国では、急激な人口増加(人口爆発)が、食糧不足、貧困、そして失業の問題を深刻化させ、政治的な不安定の要因ともなっています。
10.2. 社会・経済・政治の構造的課題
現代世界はまた、社会、経済、政治の各領域で、根深い構造的な課題を抱えています。
- 格差と貧困:グローバル化は、全体として富を増大させた一方で、その富の分配の偏りを、著しく拡大させました。一部の超富裕層が、世界の富の大部分を独占する一方で、依然として多くの人々が、絶対的な貧困に苦しんでいます。この格差の拡大は、社会の分断を深め、ポピュリズムや社会不安の温床となっています。
- 難民・移民問題:紛争、貧困、そして気候変動などを背景に、故郷を追われ、国境を越えて移動する、難民や移民の数は、第二次世界大戦後、最悪のレベルに達しています。2015年の欧州難民危機や、アメリカとメキシコの国境に押し寄せる移民のキャラバンは、受け入れ国の社会に、深刻な政治的・文化的な緊張をもたらし、排外主義的な感情を煽る一因となっています。
- 民主主義の質の低下と権威主義の拡大:先進国では、ポピュリズムの台頭や、政治への不信感から、民主主義の質そのものが低下していると指摘されています(民主主義の後退)。一方で、中国やロシアのように、経済的な成功を背景に、権威主義的な統治モデルの有効性を主張する国々が、国際的な影響力を増しています。自由民主主義が、もはや唯一の普遍的なモデルではないという、価値観の競争が、再び始まっています。
- 情報化社会の歪み:インターネットとSNSは、人々に力を与える一方で、新たな課題も生み出しています。特定の意図を持った偽情報(フェイクニュース)や陰謀論の拡散は、社会の分断を煽り、民主的なプロセスを蝕んでいます。個人データが、巨大IT企業に独占され、商業利用や監視に用いられることへの懸念も、高まっています。
これらの課題は、互いに複雑に絡み合っています。例えば、気候変動は、食糧危機を通じて、紛争や難民問題を引き起こし、それが先進国での排外主義的なポピュリズムを助長する、といった負の連鎖を生み出しかねません。現代世界は、かつてないほど相互に依存しながら、同時に、深刻な分断と対立の危機に瀕している、という大きなジレンマの中にいるのです。
Module 22:現代世界の動向の総括:相互依存と分断のパラドックス
冷戦という巨大な対立の構図が消え去った世界は、一直線に平和と繁栄へと向かうわけではありませんでした。本モジュールで探求した現代世界の動向は、むしろ、グローバル化という不可逆的な奔流が生み出す、「相互依存」の深化と「分断」の深刻化という、巨大なパラドックス(逆説)によって特徴づけられます。
一方では、IT革命と市場経済の拡大が、国境の壁を溶かし、アジアNIESやBRICSといった新たな成長センターを生み出し、人類史上、最も多くの人々を貧困から救い出しました。世界は、経済的にも文化的にも、かつてなく緊密に結びつき、パンデミックや気候変動といった地球規模の課題は、我々が「地球村」の運命共同体であることを、否応なく突きつけます。
しかし、その一方で、同じグローバル化の力が、国家間の、そして国内の経済格差を無慈悲に拡大させ、その波に取り残された人々の不満と不安を増幅させました。その鬱積したエネルギーは、エリートへの反発と、移民や異質な他者への敵意を煽るポピュリズムの台頭を招き、内側から社会を引き裂いています。冷戦の「蓋」が外れた地域では、民族や宗教のアイデンティティが先鋭化し、凄惨な地域紛争の火種となり続けています。
9.11という衝撃は、国家ではないアクターが、世界の中心で大破壊を引き起こしうるという「非対称の脅威」を白日の下に晒し、「対テロ戦争」という新たなグローバルな分断線を生み出しました。そして今、米中対立という形で、かつてのイデオロギー対立とは異なる、経済と技術の覇権をめぐる、新たな大国間競争の時代が始まろうとしています。
我々が生きる現代とは、すべてが繋がり、相互に影響を及ぼし合うがゆえに、一つの場所で起きた亀裂が、瞬く間に全世界へと広がりかねない、極めて脆く、予測不可能な時代であると言えるでしょう。このモジュールで学んだ個々の事象は、すべてがこの「相互依存と分断」という、現代を貫く大きなパラドックスの、多様な現れなのです。