【基礎 物理(原子)】Module 5:ボーアの原子模型

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本モジュールの目的と構成

Module 4では、ラザフォードの有核原子模型という、物理学における偉大な金字塔が、同時にいかに深刻な矛盾を抱えていたかを探求しました。原子の中心に核が存在するという構造的な真実を突き止めながらも、古典物理学の法則を適用すると、その原子は瞬時に崩壊し、そのスペクトルは現実と全く合わないという、絶望的なジレンマ。この「輝かしい失敗」は、物理学が次へ進むために解かなければならない、明確な問いを突きつけました。「なぜ原子は安定に存在するのか?」そして「なぜ原子のスペクトルは、とびとびの線状になるのか?」

この二つの大問題に、正面から挑んだのが、デンマークの若き天才物理学者、ニールス・ボーアでした。彼は、ラザフォードの下で学んだ原子の太陽系モデルを深く信奉しながらも、それが古典物理学の枠組みでは救いようがないことを痛感していました。そこでボーアがとったアプローチは、まさに革命的でした。彼は、古典物理学がなぜミクロの世界で破綻するのか、その根本原因を問うのではなく、まずは「原子は安定である」「線スペクトルは存在する」という動かしがたい実験事実の方を絶対的な正義とし、その事実と矛盾しないように、原子の世界を支配する**新しいルール(仮説)**を大胆に導入してしまおう、と考えたのです。

本モジュールで学ぶ「ボーアの原子模型」は、このように、古典物理学の残骸の上に、量子という新しい概念の柱を立てて構築された、最初の本格的な量子的原子モデルです。それは、古典論と量子論が混在する、過渡的で不完全なモデルでありながら、水素原子が示す線スペクトルの謎を驚異的な精度で解き明かし、物理学を本格的な量子力学の時代へと導く、決定的な橋渡しの役割を果たしました。

本モジュールは、以下の学習項目で構成されています。まず、ボーアが理論構築の最大のヒントとした、原子スペクトルの驚くべき規則性から始め、彼が導入した革命的な二つの仮説、そしてその仮説が導き出す見事な結論と、その後の実験的証明、さらにはモデル自身の限界までを、順を追って探求していきます。

  1. 原子スペクトル系列の規則性(バルマー系列など): ボーアが解き明かすべき「暗号文」であった、水素原子の線スペクトルが示す、美しい数学的な規則性について学びます。
  2. ボーアの原子模型の2つの仮説: 古典物理学との決別を宣言し、原子の世界を支配する新しいルールとしてボーアが提唱した、二つの大胆な仮説(定常状態仮説と振動数条件)を理解します。
  3. 量子条件(角運動量の量子化): なぜ電子は特定の軌道しか許されないのか。その謎を解く鍵である「角運動量の量子化」という、ボーアの第一の仮説の核心に迫ります。
  4. 振動数条件(光の放出・吸収): なぜ原子は特定の色の光しか放出しないのか。原子内の電子の「量子跳躍(クォンタム・ジャンプ)」と光子のエネルギーを結びつけた、ボーアの第二の仮説を学びます。
  5. 水素原子における電子の軌道半径: ボーアの仮説と古典力学を組み合わせることで、水素原子内で電子が存在できる軌道の半径が、とびとびの値しかとれないことを理論的に導出します。
  6. 水素原子のエネルギー準位の導出: 同様に、電子が持つことができるエネルギーもまた、不連続な特定の値(エネルギー準位)に限定されることを導き、その物理的意味を探ります。
  7. エネルギー準位図: 導出されたエネルギー準位を視覚的に表現した「エネルギー準位図」を用いて、原子内の電子の状態を理解します。
  8. 線スペクトルの見事な説明: ボーアの理論が、水素原子の線スペクトルの規則性を記述する実験式(バルマーの公式など)を、基本定数から完璧に再現する、その理論的勝利の瞬間を追体験します。
  9. ボーア模型の成功と限界(水素原子以外への適用): このモデルがもたらした偉大な成功と、同時に、なぜそれが究極の理論ではなく、過渡的なモデルに過ぎなかったのか、その限界点を明確にします。
  10. フランク・ヘルツの実験:エネルギー準位の実証: ボーアが仮定した「エネルギー準位」という概念が、単なる理論上の空論ではなく、物理的な実体であることを直接的に証明した、フランクとヘルツの歴史的な実験を学びます。

このモジュールは、物理学が、実験事実を説明するために、いかに古い常識を捨て、新しいパラダイムを構築していくかを示す、スリリングな知的冒険です。それでは、古典と量子の間に架けられた、不完全だが美しい橋、「ボーアの原子模型」の世界へ進んでいきましょう。

目次

1. 原子スペクトル系列の規則性(バルマー系列など)

ニールス・ボーアが原子の謎に挑むにあたり、彼が最も重要視した手がかりは、実験室の暗闇の中にありました。それは、19世紀以来、多くの分光学の専門家たちが、気の遠くなるような精度で測定し、記録してきた、原子の「輝線スペクトル」のデータです。一見すると、不規則に並んでいるかのように見えるこれらの輝線のパターンの中に、実は驚くほどシンプルで美しい数学的な規則性が隠されていることを、何人かの先駆者たちが見出していました。この規則性こそ、原子の内部構造の秘密を解き明かすための「ロゼッタ・ストーン」だったのです。

1.1. バルマーによる水素スペクトルの発見

この分野における最初の、そして最も重要なブレークスルーは、1885年、スイスの一人の数学教師であったヨハン・ヤコブ・バルマーによってもたらされました。彼は当時、最も単純な原子である水素のスペクトルに注目しました。水素原子のスペクトルには、可視光領域に、赤、緑、青、紫の4本の非常に目立つ輝線があることが知られていました。これらの輝線は、それぞれ \(H_\alpha, H_\beta, H_\gamma, H_\delta\) 線と呼ばれています。

バルマーは、これらの輝線の波長(\(\lambda\))の測定値を眺めているうちに、その逆数(波数)が、ある驚くほど簡単な経験式で表現できることを発見したのです。

\[ \frac{1}{\lambda} = R_H \left( \frac{1}{2^2} – \frac{1}{n^2} \right) \quad (\text{ただし } n = 3, 4, 5, 6) \]

この式が「バルマーの公式」です。ここで、

  • \(\lambda\) は、観測される輝線の波長です。
  • \(R_H\) は、実験データに合うように決められた定数で、後に「リュードベリ定数」と呼ばれます。その値は、約 \(1.097 \times 10^7 \text{ m}^{-1}\) です。
  • \(n\) は、3以上の整数です。

この式に、\(n=3\) を代入すると赤い \(H_\alpha\) 線の波長が、\(n=4\) を代入すると緑の \(H_\beta\) 線の波長が、というように、4本の輝線の波長が、驚くべき精度で計算できることを、バルマーは示しました。彼が予測した、当時はまだ観測されていなかった \(n=7\) に対応する輝線も、後に発見されました。

この一連の輝線のグループは、「バルマー系列(Balmer series)」と呼ばれています。

1.2. リュードベリによる公式の一般化

バルマーの発見の重要性は、単にデータを見事に整理したことにとどまりません。この式が持つ数学的な構造、すなわち「定数 × (整数の2乗の逆数の差)」という形は、原子の内部で何らかの根源的なメカニズムが働いていることを強く示唆していました。

スウェーデンの物理学者ヨハネス・リュードベリは、バルマーの発見をさらに一歩推し進め、この公式をより一般的な形に拡張しました。彼は、水素原子のスペクトルには、バルマー系列(可視光)だけでなく、紫外線領域や赤外線領域にも、同様の規則性を持つ系列が存在することを発見し、それらすべてを統一的に記述できる、次のような一般式を提唱しました。

\[ \frac{1}{\lambda} = R_H \left( \frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2} \right) \quad (\text{ただし } n_i > n_f) \]

これが「リュードベリの公式」です。ここで、\(n_f\) と \(n_i\) は、ともに整数です。

この式は、水素原子のスペクトルが、\(n_f\) の値によって、いくつかの系列に分類できることを示しています。

  • ライマン系列 (Lyman series):
    • \(n_f = 1\) で、\(n_i = 2, 3, 4, \dots\) の系列。紫外線領域に現れる。
  • バルマー系列 (Balmer series):
    • \(n_f = 2\) で、\(n_i = 3, 4, 5, \dots\) の系列。可視光領域に現れる。
  • パッシェン系列 (Paschen series):
    • \(n_f = 3\) で、\(n_i = 4, 5, 6, \dots\) の系列。赤外線領域に現れる。
  • (その他、ブラケット系列(\(n_f=4\))、プント系列(\(n_f=5\))など)

1.3. ボーアへの挑戦状

これらの公式は、あくまで実験データを整理した「経験式」であり、なぜこのような形になるのか、その物理的な理由は全くの謎でした。

  • なぜ、スペクトルは整数の組み合わせだけで決まるのか?
  • なぜ、波数は二つの項の「」の形で与えられるのか?

これらの問いは、まるで原子自身が、その内部構造の秘密を数学的な暗号で記し、物理学者たちに挑戦状を突きつけているかのようでした。ラザフォードの有核原子模型は、原子の「どこに」何があるか(構造)は示しましたが、原子が「なぜ」このように振る舞うのか(機能)については、何も語ってくれませんでした。

ニールス・ボーアの歴史的な功績は、このリュードベリの公式を、単なる経験則から、物理的なモデルに基づいた理論式へと昇華させたことにあります。彼は、この暗号を解読するために、古典物理学の常識を捨て、量子という新しい鍵を用いることを決意したのです。

2. ボーアの原子模型の2つの仮説

ラザフォード模型が抱える致命的な矛盾(原子の不安定性と線スペクトルの謎)と、その一方で、水素原子のスペクトルが示す見事な数学的規則性。ニールス・ボーアは、この二つの相反する事実を目の前にして、一つの結論に至りました。それは、「原子の内部では、私たちの身の回りのマクロな世界を支配する物理法則(古典物理学)とは、根本的に異なる、新しい法則が働いているに違いない」というものです。

彼は、その新しい法則が何であるかを、第一原理から導き出すというアプローチをとりませんでした。その代わりに、彼はラザフォードの有核原子模型を正しい骨格として受け入れ、それが実験事実と矛盾しないように、いわば「つじつまを合わせる」ための、いくつかの**大胆な仮説(Postulates)**を導入するという、プラグマティック(実用的)な方法を選択しました。

1913年に発表されたボーアの理論の根幹をなすのが、以下の二つの仮説です。これらは、古典物理学の常識を意図的に破る、革命的な宣言でした。

仮説1:定常状態仮説(原子の安定性に関する仮説)

原子内の電子は、古典力学で許されるような任意の軌道を運動するのではなく、とびとびの(不連続な)特定のエネルギーを持つ、いくつかの安定な円軌道しかとることができない。電子がこれらの特定の軌道上にあるとき、その状態を「定常状態(Stationary State)」と呼び、電子は加速運動しているにもかかわらず、電磁波を放出することなく、そのエネルギーを保ち続ける。

この第一の仮説は、二つの重要な部分から構成されています。

  1. 軌道(とエネルギー)の量子化:電子が存在できるのは、何か特別な条件を満たした、特定の「許された軌道」だけである、と宣言しています。これは、惑星が原理的にはどんな半径の軌道でもとれるのとは、根本的に異なります。原子の世界では、軌道は「量子化」されているのです。
  2. 古典電磁気学の法則の凍結:そして、最も大胆な部分が、「定常状態にある限り、電子は電磁波を放出しない」という断言です。「加速度運動する荷電粒子は電磁波を放出する」という、マクスウェル以来の古典電磁気学の大原則を、原子の内部という特殊な環境に限って、無効にすると宣言したのです。なぜ放射しないのか、その理由は問いません。原子が安定に存在するという事実を説明するために、そうであるに違いない、と仮定したのです。

仮説2:振動数条件(線スペクトルに関する仮説)

電子が、エネルギーがより高い定常状態(エネルギー \(E_i\))から、より低い定常状態(エネルギー \(E_f\))へと遷移(Transition)するとき、そのエネルギー差に等しいエネルギーを持つ、一個の光子(光量子)が放出される。放出される光子の振動数 \(\nu\) は、以下の関係式で与えられる。

\[ h\nu = E_i – E_f \]

この第二の仮説は、「振動数条件(Frequency Condition)」と呼ばれ、原子が光を放出・吸収する際の、新しいルールを定めたものです。

  1. 量子跳躍(クォンタム・ジャンプ):電子は、ある定常状態から別の定常状態へ、あたかも瞬間移動のように「跳躍(ジャンプ)」することができる、としています。電子が、二つの定常状態の中間の状態をとることはありません。
  2. 光子の放出・吸収:この跳躍に伴って、光が放出されたり、吸収されたりします。
    • 放出: 高いエネルギー状態 → 低いエネルギー状態への遷移(\(E_i > E_f\))では、そのエネルギー差 \(E_i – E_f\) が、一個の光子として放出されます。
    • 吸収: 逆に、原子がちょうどエネルギー差 \(E_i – E_f\) に等しいエネルギーを持つ光子を吸収すると、電子は低いエネルギー状態 → 高いエネルギー状態へと遷移することができます。

この仮説は、アインシュタインの光量子仮説(\(E=h\nu\))を、原子の構造と見事に結びつけたものです。原子が放出する光のスペクトルが、なぜとびとびの線状になるのか。それは、原子内の電子がとれるエネルギー状態(定常状態)が、そもそもとびとびの値しかとれないからであり、スペクトルの輝線は、それらのエネルギー状態間の「差」として現れるのだ、と説明したのです。これにより、リュードベリの公式がなぜ二つの項の「差」の形をしていたのか、その物理的な意味が初めて与えられました。

ボーアのこれらの仮説は、なぜそうなるのかという根本的な説明を欠いた、アド・ホック(その場しのぎ)なルールのように見えるかもしれません。しかし、重要なのは、これらの仮説を導入することで、ラザフォード模型が抱えていた二つの致命的な矛盾が、見事に解消されるという点です。次章では、ボーアが「許された軌道」を選ぶために導入した、さらに具体的なルール、「量子条件」について詳しく見ていきます。

3. 量子条件(角運動量の量子化)

ボーアは、第一の仮説(定常状態仮説)で、電子は「特定の安定な軌道」にしか存在できないと宣言しました。しかし、これだけではまだ不十分です。その「特定の軌道」を、どのようにして無限の可能性の中から選び出せばよいのでしょうか。その選択ルール、すなわち、どの軌道が「許された軌道」で、どの軌道が「禁じられた軌道」なのかを決定するための、具体的な数学的な条件が必要です。

ボーアは、この選択ルールとして、電子の「角運動量(Angular Momentum)」という物理量に着目し、それに対してある種の整数条件を課しました。これが、彼の理論の核心をなす「量子条件(Quantum Condition)」です。

3.1. 角運動量とは

まず、角運動量という物理量について、簡単に復習しておきましょう。

角運動量は、回転運動における「勢い」を表す量であり、直線運動における運動量(質量 × 速度)に相当するものです。

質量 \(m\) の物体が、ある回転中心から距離 \(r\) の位置で、速さ \(v\) で円運動している場合、その角運動量の大きさ \(L\) は、

\[ L = mvr \]

と定義されます。

古典力学では、角運動量もまた、連続的な任意の値を取りうる量です。

3.2. ボーアの量子条件

ボーアは、原子内の電子が安定な定常状態として存在できる円軌道は、その角運動量 \(L\) が、\(\frac{h}{2\pi}\) という量の整数倍になるものだけである、と仮定しました。

ここで、\(h\) はプランク定数です。

電子の質量を \(m_e\)、電子が運動しているn番目の定常状態の軌道半径を \(r_n\)、そのときの速さを \(v_n\) とすると、この量子条件は、数式で以下のように表されます。

\[ L_n = m_e v_n r_n = n \frac{h}{2\pi} \quad (\text{ただし } n = 1, 2, 3, \dots) \]

この式が、ボーアの量子条件です。

  • \(n\) は「主量子数(Principal Quantum Number)」と呼ばれる、1, 2, 3, … という正の整数です。この整数 \(n\) が、それぞれの定常状態(許された軌道)を指定するラベルの役割を果たします。\(n=1\) が最も内側の軌道、\(n=2\) がその外側、というように、とびとびの軌道が存在することになります。
  • \(\frac{h}{2\pi}\) は、量子力学において非常によく現れる組み合わせであるため、しばしば \(\hbar\) (エイチ・バーと読む)という記号で表されます。これを用いると、量子条件は \(L_n = n\hbar\) と、よりシンプルに書くことができます。

3.3. 量子条件の意味

この量子条件が意味することは、極めて根源的です。それは、原子の世界では、角運動量という物理量もまた、不連続な、とびとびの値しかとることができない、ということです。角運動量は「量子化」されているのです。電子は、角運動量が \(\hbar, 2\hbar, 3\hbar, \dots\) となるような軌道しか選ぶことができず、例えば \(1.5\hbar\) のような中途半端な角運動量を持つ軌道に存在することは、固く禁じられています。

なぜ角運動量が量子化されなければならないのか、ボーアはその理由を完全には説明できませんでした。彼は、様々な物理的な考察(対応原理など)から、この条件が最も妥当であろうと推論したのです。彼にとって、この量子条件は、実験事実(特に線スペクトルの規則性)を説明するための、公理的な出発点でした。

(後の1924年、ルイ・ド・ブロイが「物質波」の概念を提唱したことによって、このボーアの量子条件は、「電子の物質波が、円軌道を一周したときに、ちょうど定常波になる条件」として、より自然に解釈されることになります(Module 6参照)。しかし、ボーアの時点では、これはあくまで天才的な直感に基づく仮説でした。)

この量子条件という新しいルールと、古典的な力学の法則(クーロン力が向心力となる条件)とを組み合わせることで、ボーアは水素原子の電子がとれる軌道半径と、そのときのエネルギーを、具体的に計算することが可能になりました。次章では、その具体的な導出過程を見ていきます。

4. 振動数条件(光の放出・吸収)

ボーアが提唱した第一の仮説(定常状態仮説)と量子条件は、原子がなぜ崩壊せずに安定に存在できるのか、という「安定性」の問題に答えるものでした。しかし、これだけでは、もう一つの大きな謎、すなわち「なぜ原子は特定の色(振動数)の光だけを放出・吸収するのか」という線スペクトルの問題は解決されません。

この謎を解くために、ボーアは第二の仮説を導入しました。これが「振動数条件(Frequency Condition)」です。この仮説は、原子内の電子の状態変化(遷移)と、放出・吸収される光子(光)とを、アインシュタインの光量子仮説を用いて結びつける、画期的なものでした。

4.1. 振動数条件のステートメント

ボーアの第二の仮説(振動数条件)は、以下のように述べられます。

原子が、エネルギーが \(E_i\) である初期の定常状態から、エネルギーが \(E_f\) である終状態の定常状態へと遷移するとき、もしエネルギーが放出される場合(\(E_i > E_f\))、そのエネルギー差に等しいエネルギーを持つ、一個の光子が放出される。その光子の振動数 \(\nu\) は、プランク定数 \(h\) を用いて、以下の関係式で与えられる。

\[ h\nu = E_i – E_f \]

この式は、原子による光の吸収プロセスにも同様に適用されます。原子は、ちょうど二つの定常状態のエネルギー差(\(E_f – E_i\))に等しいエネルギー(\(h\nu\))を持つ光子を吸収することによってのみ、よりエネルギーの高い定常状態へと遷移することができます。

4.2. 古典論との決別:「量子跳躍」

この振動数条件が、いかに古典的な描像と異なるか、その革命的な点を理解することが重要です。

  • 古典的な描像:古典電磁気学では、光の振動数は、それを放出する電荷の「運動の振動数」によって決まると考えられていました。ラザフォード模型では、電子の軌道運動の振動数が、放出される光の振動数と等しくなるはずでした。しかし、この描像は連続スペクトルしか予測できませんでした。
  • ボーアの描像:ボーアは、この古典的な考えを完全に捨て去りました。彼のモデルでは、放出される光の振動数 \(\nu\) は、電子の軌道運動の振動数とは全く関係ありません。そうではなく、光の振動数は、遷移が起こる「前」と「後」の、二つの異なる定常状態の「エネルギーの差」によってのみ決まる、としたのです。

この遷移のプロセスは、**量子跳躍(クォンタム・ジャンプ)**と呼ばれ、私たちの日常的な感覚とは相容れない、いくつかの奇妙な特徴を持っています。

  • 瞬時性: 電子は、ある定常状態から別の定常状態へ、中間状態を経ることなく、瞬時に移動すると考えられます。
  • 非決定性: いつ、どの電子が遷移を起こすのかを、正確に予測することはできません。それは、確率的にのみ記述される現象です。

4.3. 線スペクトルの謎の解明へ

振動数条件は、線スペクトルの基本的な謎に対して、見事な定性的説明を与えます。

  • なぜスペクトルは「線」になるのか?(不連続性)
    • それは、原子内の電子がとれる定常状態のエネルギー(エネルギー準位)が、そもそも不連続な、とびとびの値しかとれないからです。エネルギー準位がとびとびであるため、その「差」として現れる光子のエネルギー(\(h\nu\))もまた、とびとびの値しかとることができず、結果としてスペクトルは線状になります。
  • なぜスペクトルは元素固有の「指紋」になるのか?
    • 原子内のエネルギー準位の構造は、原子核の電荷(陽子の数)や電子の数によって決まります。異なる元素は、異なるエネルギー準位の構造を持つため、放出・吸収できる光子のエネルギー(振動数)のセットも、その元素に固有のものとなります。
  • なぜリュードベリの公式は「差」の形をしているのか?
    • リュードベリの公式 \(\frac{1}{\lambda} \propto (\frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2})\) は、まさに、二つの状態(整数 \(n_f\) と \(n_i\) で指定される)の何らかの量(エネルギーに比例する量)の「差」が、光の波数(\(1/\lambda\))を決めていることを示唆していました。ボーアの振動数条件は、この経験則の背後にある、深遠な物理的実体(エネルギー準位の差)を初めて明らかにしたのです。

ボーアの二つの仮説、「定常状態仮説(と量子条件)」および「振動数条件」は、原子の世界を支配する新しい憲法の条文のようなものです。次章では、この新しい憲法を用いて、最も単純な国家である「水素原子」の具体的な構造と振る舞いを、数学的に導出していきます。

5. 水素原子における電子の軌道半径

ボーアが提唱した二つの大胆な仮説を武器に、いよいよ原子の具体的な構造を数学的に解明する段階に入ります。その最初のターゲットとして、最もシンプルで理想的な系である水素原子が選ばれました。水素原子は、一個の陽子(電荷 +e)からなる原子核と、その周りを回る一個の電子(電荷 -e, 質量 \(m_e\))だけで構成されています。

この系に、ボーアの量子条件と、古典的な力学法則とを組み合わせることで、電子が存在を許される、とびとびの軌道半径を理論的に導出することができます。

5.1. 運動を支配する二つの基本方程式

水素原子内の電子の定常状態(安定な円軌道)を記述するために、私たちは二つの独立した方程式を立てることができます。

方程式①:力の釣り合い(古典力学)

電子が半径 \(r_n\)、速さ \(v_n\) で安定な円運動を続けている、ということは、原子核から受ける静電気的な引力(クーロン力)が、円運動を維持するための向心力として、ちょうど作用していることを意味します。

  • クーロン力: \( F_C = k \frac{e^2}{r_n^2} \) (ここで \(k = \frac{1}{4\pi\epsilon_0}\) はクーロンの法則の比例定数)
  • 向心力: \( F_{\text{cent}} = m_e \frac{v_n^2}{r_n} \)

力の釣り合いの条件は \(F_C = F_{\text{cent}}\) なので、

\[ k \frac{e^2}{r_n^2} = m_e \frac{v_n^2}{r_n} \quad \cdots (A) \]

となります。これは、ラザフォードのモデルでも用いられた、純粋に古典的な力学の法則です。

方程式②:角運動量の量子化(ボーアの量子条件)

ボーアが新たに導入したルール、すなわち、電子の角運動量が \(\hbar = h/2\pi\) の整数倍でなければならない、という条件です。

\[ m_e v_n r_n = n \frac{h}{2\pi} \quad (\text{ただし } n=1, 2, 3, \dots) \quad \cdots (B) \]

私たちは、これら二つの連立方程式 (A) と (B) を解くことで、未知数である軌道半径 \(r_n\) と速さ \(v_n\) を、量子数 \(n\) と基本物理定数(\(k, e, m_e, h\))だけで表すことを目指します。

5.2. 軌道半径 \(r_n\) の導出

連立方程式を解くために、まず式(B)を速さ \(v_n\) について解きます。

\[ v_n = \frac{nh}{2\pi m_e r_n} \quad \cdots (C) \]

次に、この式(C)を、式(A)に代入して、\(v_n\) を消去します。

\[ k \frac{e^2}{r_n^2} = m_e \frac{1}{r_n} \left( \frac{nh}{2\pi m_e r_n} \right)^2 \]

\[ k \frac{e^2}{r_n^2} = \frac{m_e}{r_n} \frac{n^2 h^2}{4\pi^2 m_e^2 r_n^2} \]

この式を、軌道半径 \(r_n\) について整理していきます。

まず、右辺を簡単にします。

\[ k \frac{e^2}{r_n^2} = \frac{n^2 h^2}{4\pi^2 m_e r_n^3} \]

両辺に \(r_n^3\) を掛けて、分母を払います。

\[ k e^2 r_n = \frac{n^2 h^2}{4\pi^2 m_e} \]

最後に、両辺を \(ke^2\) で割ると、\(r_n\) が求まります。

\[ r_n = \frac{h^2}{4\pi^2 m_e k e^2} n^2 \quad (\text{ただし } n=1, 2, 3, \dots) \]

5.3. 導出された結果の物理的意味

この導出された式は、水素原子の構造に関する、いくつかの極めて重要な結論を私たちに教えてくれます。

  1. 軌道半径の量子化:電子が存在できる軌道の半径 \(r_n\) は、任意の値をとることができず、量子数 \(n\) の2乗に比例する、とびとびの値しかとれないことがわかります。\[ r_n \propto n^2 \]つまり、\(n=1, 2, 3, 4, \dots\) に対して、軌道半径は \(r_1, 4r_1, 9r_1, 16r_1, \dots\) というように、不連続に大きくなっていきます。
  2. ボーア半径:量子数 \(n=1\) の状態は、電子が原子核に最も近づける、最も安定な軌道です。このときの半径 \(r_1\) は、「ボーア半径(Bohr radius)」と呼ばれ、記号 \(a_0\) で表されます。ボーア半径は、水素原子の大きさの理論的な指標となります。\[ a_0 = r_1 = \frac{h^2}{4\pi^2 m_e k e^2} \quad (n=1 \text{ の場合}) \]この式に、プランク定数 \(h\) や電子の質量 \(m_e\) などの基本定数の値を代入して計算すると、\[ a_0 \approx 5.29 \times 10^{-11} \text{ m} = 0.0529 \text{ nm} \]となり、実験的に知られていた原子の大きさと、よく一致する値が得られます。

ボーアの理論は、なぜ原子が特定の大きさを持つのか、という問いに対して、基本物理定数と量子数 \(n\) に基づいた、初めての理論的な説明を与えたのです。電子は、量子条件という新しいルールによって、原子核に無限に近づくことを禁じられ、最も内側の \(n=1\) の軌道より内側には入れない。これが、ボーアのモデルが原子の安定性を保証するメカニズムの、第一歩でした。

6. 水素原子のエネルギー準位の導出

電子が存在できる軌道の半径が、とびとびの値 \(r_n\) しかとれないことがわかりました。次に、それぞれの許された軌道(定常状態)にいる電子が持つエネルギーが、どのような値になるのかを計算します。このエネルギーの値もまた、とびとびの値になることが予想されます。この不連続なエネルギーの値のことを「エネルギー準位(Energy Level)」と呼びます。

6.1. 電子の全エネルギーの定義

原子内で軌道運動している電子の全エネルギー \(E\) は、その「運動エネルギー (Kinetic Energy) \(K\)」と、「静電気力による位置エネルギー (Potential Energy) \(U\)」の和として定義されます。

\[ E = K + U \]

  • 運動エネルギー \(K\):\(K = \frac{1}{2}m_e v_n^2\)
  • 位置エネルギー \(U\):電荷 \(+e\) の原子核と、電荷 \(-e\) の電子が、距離 \(r_n\) だけ離れているときの、静電気力による位置エネルギーは、\[ U = -k \frac{e^2}{r_n} \]と定義されます。ここで、無限遠を位置エネルギーの基準(\(U=0\))としています。負の符号がついているのは、電子が原子核に束縛されている状態(引力が働いている状態)であることを意味します。

したがって、n番目の定常状態における電子の全エネルギー \(E_n\) は、

\[ E_n = \frac{1}{2}m_e v_n^2 – k \frac{e^2}{r_n} \quad \cdots (D) \]

となります。

6.2. エネルギー準位 \(E_n\) の導出

この式(D)から、速さ \(v_n\) と半径 \(r_n\) を消去し、エネルギー \(E_n\) を量子数 \(n\) と基本定数だけで表すことを目指します。

まず、運動エネルギーの項を、半径 \(r_n\) を用いて書き換えます。

前章で用いた、力の釣り合いの式(A) を思い出しましょう。

\[ k \frac{e^2}{r_n^2} = m_e \frac{v_n^2}{r_n} \]

この式の両辺に \(\frac{r_n}{2}\) を掛けると、

\[ \frac{1}{2} k \frac{e^2}{r_n} = \frac{1}{2} m_e v_n^2 \]

となり、運動エネルギー \(K\) は、\(K = \frac{1}{2} k \frac{e^2}{r_n}\) と表せることがわかります。

これを、全エネルギーの式(D)に代入します。

\[ E_n = \left(\frac{1}{2} k \frac{e^2}{r_n}\right) – \left(k \frac{e^2}{r_n}\right) \]

\[ E_n = -\frac{1}{2} k \frac{e^2}{r_n} \]

これで、全エネルギーを半径 \(r_n\) だけで表すことができました。(ここで、全エネルギーが、運動エネルギーの絶対値にマイナスをつけたもの、あるいは位置エネルギーの半分になっている、という関係(ビリアル定理)は重要です。)

最後に、この式の \(r_n\) に、前章で導出した軌道半径の公式

\[ r_n = \frac{h^2}{4\pi^2 m_e k e^2} n^2 \]

を代入します。

\[ E_n = -\frac{1}{2} k e^2 \left( \frac{1}{\frac{h^2}{4\pi^2 m_e k e^2} n^2} \right) \]

分数の逆数をとって整理すると、

\[ E_n = -\frac{1}{2} k e^2 \left( \frac{4\pi^2 m_e k e^2}{h^2 n^2} \right) \]

最終的に、水素原子のエネルギー準位を表す公式が得られます。

\[ E_n = – \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \frac{1}{n^2} \quad (\text{ただし } n=1, 2, 3, \dots) \]

6.3. 導出された結果の物理的意味

このエネルギー準位の式は、ボーアの原子模型がもたらした、最も重要な結論の一つです。

  1. エネルギーの量子化:電子が原子内でとることのできるエネルギー \(E_n\) は、任意の値をとることができず、量子数 \(n\) の2乗の逆数に比例する、とびとびの不連続な値しかとれないことが、理論的に示されました。\[ E_n \propto -\frac{1}{n^2} \]この、エネルギーが量子化されているという描像が、線スペクトルの謎を解く鍵となります。
  2. 基底状態と励起状態:
    • 負のエネルギー: エネルギー \(E_n\) が常に負の値であることは、電子が原子核に束縛されていることを意味します。電子を原子の束縛から完全に引き離して自由な電子(エネルギーがゼロ)にするためには、外部からエネルギーを与える必要があります。
    • 基底状態 (Ground State): 量子数 \(n=1\) の状態は、\(E_1 = – \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2}\) となり、最もエネルギーが低い、最も安定な状態です。これを基底状態と呼びます。ボーア模型では、電子はこれ以上エネルギーを失うことができないため、原子核に墜落することなく、この状態で安定に存在できます。
    • 励起状態 (Excited States): 量子数 \(n=2, 3, 4, \dots\) の状態は、基底状態よりもエネルギーが高い状態であり、励起状態と呼ばれます。原子は、外部からエネルギー(光や熱など)を吸収することで、これらの励起状態になりますが、励起状態は不安定であり、通常はすぐに光を放出して、より低いエネルギー準位へと遷移します。
  3. イオン化エネルギー:量子数 \(n \to \infty\) の極限を考えると、\(E_\infty = 0\) となります。これは、電子が原子核の束縛から完全に解放され、自由になった状態(イオン化)に対応します。したがって、基底状態(\(n=1\))にある電子をイオン化するために必要な最小エネルギー(イオン化エネルギー)は、\(E_\infty – E_1 = 0 – E_1 = -E_1\) となります。この値も、理論計算から求められ、実験値と非常によく一致しました。

ボーアの理論は、電子の軌道半径だけでなく、そのエネルギーもまた量子化されていることを示し、原子の安定性と、そのエネルギー構造に関する、定量的で具体的な描像を初めて与えることに成功したのです。

7. エネルギー準位図

前章で導出した、水素原子のエネルギー準位の公式 \(E_n = – \frac{C}{n^2}\) (ただし \(C = \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2}\))は、非常に重要な情報を含んでいますが、数式のままではその全体像を直感的に把握するのは難しいかもしれません。そこで、これらのとびとびのエネルギー準位を、視覚的に分かりやすく表現するために用いられるのが「エネルギー準位図(Energy Level Diagram)」です。

7.1. エネルギー準位図の描き方

エネルギー準位図は、通常、以下のようなルールで描かれます。

  • 縦軸:縦軸は、エネルギー(\(E\))を表します。上に行くほどエネルギーが高く、下に行くほどエネルギーが低い(より安定な状態)ことを示します。
  • 横線(準位):電子が存在を許された、それぞれの定常状態(量子数 \(n\) の状態)に対応するエネルギー \(E_n\) の値を、水平な直線で表します。それぞれの線には、対応する量子数(\(n=1, 2, 3, \dots\))が書き添えられます。
  • エネルギーの値:各準位の横や縦軸に、具体的なエネルギーの値(通常は電子ボルト eV 単位)が示されます。
    • 水素原子の基底状態(\(n=1\))のエネルギー \(E_1\) は、約 -13.6 eV です。
    • 励起状態のエネルギーは、\(E_n = E_1 / n^2 = -13.6 / n^2\) (eV) として計算できます。
      • \(n=2\) の準位: \(E_2 = -13.6 / 4 = -3.40\) eV
      • \(n=3\) の準位: \(E_3 = -13.6 / 9 = -1.51\) eV
      • \(n=4\) の準位: \(E_4 = -13.6 / 16 = -0.85\) eV
    • イオン化準位: \(n \to \infty\) の準位は、\(E_\infty = 0\) eV となり、電子が原子核の束縛から解放された状態を表します。これがエネルギーの基準となります。

7.2. エネルギー準位図の特徴

水素原子のエネルギー準位図を描いてみると、いくつかの重要な特徴が見て取れます。

  • 不連続性(量子化):エネルギー準位は、連続的な帯ではなく、とびとびの線として存在しています。電子は、これらの線の上のエネルギー状態しかとることができず、線の間のエネルギー値を持つことは許されません。
  • 準位間隔の不均一性:エネルギー準位の間隔は、均等ではありません。量子数 \(n\) が小さい領域(エネルギーが低い領域)では準位間の間隔が広く、\(n\) が大きくなるにつれて、準位間の間隔は急速に狭くなっていき、やがて \(n \to \infty\) で連続的な状態(イオン化状態)に繋がっていきます。

7.3. 電子の遷移とスペクトル系列の視覚的表現

エネルギー準位図の最大の利点は、ボーアの第二の仮説(振動数条件)を、非常に直感的に理解できることです。

原子が光を放出するプロセス(輝線スペクトル)は、この図の上で、ある高いエネルギー準位(\(n_i\))から、より低いエネルギー準位(\(n_f\))へと、電子が遷移する様子を「下向きの矢印」として描くことで表現されます。

そして、この矢印の「長さ」が、二つの準位のエネルギー差 \(E_i – E_f\) を表し、放出される光子1個のエネルギー \(h\nu\) に、そのまま対応します。

この視点に立つと、前章で述べた水素原子の各スペクトル系列が、エネルギー準位図の上で、明確なグループとして視覚化できます。

  • ライマン系列(紫外線):様々な励起状態(\(n_i=2, 3, 4, \dots\))から、基底状態(\(n_f=1\))へと落ちる遷移のグループです。矢印の長さが最も長くなるため、放出される光子のエネルギーが最も大きく、紫外線領域に対応します。
  • バルマー系列(可視光):より高い励起状態(\(n_i=3, 4, 5, \dots\))から、第一励起状態(\(n_f=2\))へと落ちる遷移のグループです。ライマン系列よりは矢印が短く、可視光領域に多くの線が含まれます。
  • パッシェン系列(赤外線):さらに高い励起状態(\(n_i=4, 5, 6, \dots\))から、第二励起状態(\(n_f=3\))へと落ちる遷移のグループです。矢印はさらに短くなり、光子のエネルギーも小さくなるため、赤外線領域に対応します。

エネルギー準位図は、単なるグラフ以上のものです。それは、原子の内部構造と、それが外部とどのように相互作用(光の放出・吸収)するのかを、一目で理解させてくれる、量子論の世界の「地図」なのです。

8. 線スペクトルの見事な説明

ボーアの原子模型の理論構築は、ついにクライマックスを迎えます。これまでに導出した、量子化されたエネルギー準位の公式と、ボーアが第二の仮説として提唱した振動数条件。この二つを組み合わせることで、かつては単なる謎の経験式に過ぎなかった、リュードベリの公式を、物理学の第一原理から理論的に導出することができるのです。これは、ボーアの理論が単なる思弁ではなく、現実を正確に記述する力を持つことを証明する、決定的な瞬間でした。

8.1. リュードベリの公式の理論的導出

出発点は、ボーアの振動数条件です。

量子数 \(n_i\) の初期状態(エネルギー \(E_i\))から、量子数 \(n_f\) の終状態(エネルギー \(E_f\))へ電子が遷移するときに放出される光子のエネルギーは、

\[ h\nu = E_i – E_f \]

でした。

ここに、前章で導出した水素原子のエネルギー準位の公式

\[ E_n = – \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \frac{1}{n^2} \]

を代入します。

\[ h\nu = \left( – \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \frac{1}{n_i^2} \right) – \left( – \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \frac{1}{n_f^2} \right) \]

共通の係数 \(\frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2}\) でくくりだすと、

\[ h\nu = \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \left( \frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2} \right) \]

次に、光子の振動数 \(\nu\) を、波長 \(\lambda\) を用いて書き換えます。関係式 \(\nu = c/\lambda\) を代入すると、

\[ h \frac{c}{\lambda} = \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^2} \left( \frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2} \right) \]

最後に、この式の両辺を \(hc\) で割って、スペクトル線の波長の逆数(波数)\(1/\lambda\) についての式に整理します。

\[ \frac{1}{\lambda} = \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^3 c} \left( \frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2} \right) \]

8.2. 理論と実験の劇的な一致

この、純粋に理論的な計算から導き出された最終的な式を、かつてバルマーやリュードベリが実験データから見出した、経験的な公式と比べてみましょう。

  • リュードベリの経験式:\[ \frac{1}{\lambda} = R_H \left( \frac{1}{n_f^2} – \frac{1}{n_i^2} \right) \]

両者の式の形は、完全に一致しています。これは、ボーアの理論が、なぜスペクトル線の波数が「整数の2乗の逆数の差」という奇妙な形になるのかを、電子が不連続なエネルギー準位間を遷移するという、明確な物理的描像によって、完璧に説明したことを意味します。

さらに驚くべきは、定数部分の一致です。ボーアの理論は、それまで実験的にしか決められなかったリュードベリ定数 \(R_H\) の正体を、物理の基本定数(電子の質量 \(m_e\)、電気素量 \(e\)、プランク定数 \(h\)、光速 \(c\)、クーロン定数 \(k\))の組み合わせとして、理論的に与えたのです。

\[ R_H = \frac{2\pi^2 m_e k^2 e^4}{h^3 c} \]

ボーアは、当時最も信頼されていたこれらの基本定数の値をこの式に代入し、リュードベリ定数の値を計算しました。

  • 実験による測定値: \(R_H \approx 1.09737 \times 10^7 \text{ m}^{-1}\)
  • ボーアの理論による計算値: \(R_H \approx 1.09677 \times 10^7 \text{ m}^{-1}\)

両者の値は、わずか0.05%程度の誤差で、驚くべき一致を示しました。これは、単なる偶然ではありえません。ボーアが導入した、定常状態、量子条件、振動数条件といった、古典物理学の常識から逸脱した一連の大胆な仮説が、単なる空想ではなく、原子の内部で実際に起こっている物理的な真実を、的確に捉えていることの、何より強力な証拠でした。

ラザフォード模型が説明できなかった、線スペクトルの謎。それは、ボーアの量子論的なアプローチによって、見事なまでに、そして定量的に解き明かされたのです。これは、20世紀初頭の物理学における、最も感動的な理論的勝利の一つとして、今日まで語り継がれています。

9. ボーア模型の成功と限界(水素原子以外への適用)

ボーアの原子模型が、水素原子の線スペクトルを見事に説明し、リュードベリ定数を理論的に導出したことは、物理学における一大センセーションでした。それは、量子という新しい概念が、原子の謎を解くための鍵であることを、決定的な形で示したのです。しかし、科学の歴史が示すように、一つの理論の真価は、それが説明できたことだけでなく、それが「説明できなかったこと」によっても測られます。ボーアのモデルもまた、その輝かしい成功の裏で、やがてその限界を露呈していくことになります。

9.1. ボーア模型の偉大な成功

まず、このモデルがもたらした、科学史上の重要な成功点を再確認しておきましょう。

  1. 原子の安定性の説明:電子が特定の定常状態にいる限りエネルギーを放出しない、という仮説を導入することで、ラザフォード模型の致命的な欠陥であった「原子の崩壊」の問題を回避し、原子がなぜ安定に存在できるのか、その第一歩となる説明を与えました。
  2. 線スペクトルの謎の解明:エネルギー準位という概念と、準位間の遷移(量子跳躍)によって光子が放出されるという振動数条件を導入することで、なぜ原子のスペクトルが不連続な線状になるのか、その根本的なメカニズムを明らかにしました。
  3. 水素原子スペクトルの定量的再現:ボーアの理論は、単なる定性的な説明にとどまらず、水素原子の線スペクトルの波長を記述するリュードベリの公式を、物理の基本定数のみから理論的に導出し、その値を驚異的な精度で再現しました。これは、量子論が持つ予測能力の、最初の偉大な証明でした。
  4. 水素様イオンへの拡張:ボーアの理論は、水素原子(陽子1個、電子1個)だけでなく、ヘリウムイオン(He⁺, 原子核電荷+2e, 電子1個)や、リチウムイオン(Li²⁺, 原子核電荷+3e, 電子1個)のような、**電子が一個しかない「水素様イオン」**に対しても、同様に高い精度でそのスペクトルを説明することに成功しました。

これらの成功は、ボーアのモデルが、原子の世界における真実の重要な側面を捉えていることを、疑いようもなく示していました。

9.2. ボーア模型が直面した限界

しかし、その成功の範囲は、残念ながら「電子が一個の系」という、非常に限定されたものでした。科学者たちが、ボーアの理論を、より複雑な原子、例えば電子を二つ持つヘリウム原子に適用しようとしたとき、理論は深刻な困難に直面します。

  1. 多電子原子への適用の失敗:ヘリウム原子では、二つの電子が原子核の周りを回っています。この系では、原子核と各電子との間の引力だけでなく、**二つの電子の間に働く、複雑な反発力(クーロン斥力)**も考慮しなければなりません。この「三体問題」(原子核+電子+電子)は、力学的に非常に複雑で、ボーアのモデルのような単純な円軌道の描像では、そのエネルギー準位を正確に計算することができませんでした。ボーアの理論から計算されたヘリウムのスペクトルは、実験値と全く合いませんでした。
  2. スペクトル線の強度と分裂:ボーアのモデルは、スペクトル線の「位置(波長)」については見事な説明を与えましたが、なぜある輝線は明るく(遷移が起こりやすい)、別の輝線は暗い(遷移が起こりにくい)のか、という「スペクトル線の強度」については、何も説明できませんでした。さらに、より精密な分光器で観測すると、水素の輝線の一部(例えば \(H_\alpha\) 線)は、実は一本の線ではなく、非常に近接した複数本の線(微細構造)から成っていることがわかっていました。また、原子に強い磁場をかけると、一本の輝線がさらに複数本に分裂する現象(ゼーマン効果)も知られていましたが、ボーアのモデルは、これらの微細な現象を説明する能力を持ちませんでした。
  3. 理論の不完全性(アド・ホックな仮説):ボーアの理論の最も根本的な限界は、その理論的基盤そのものにありました。定常状態の存在や、角運動量の量子化といった仮説は、なぜそうなるのかという物理的な根拠が示されないまま、いわば「天下り的」に導入されたものでした。それは、古典力学と量子的なルールを、やや強引に「つぎはぎ」した、**半古典的(semi-classical)**な理論であり、首尾一貫した、自己完結的な理論体系ではありませんでした。

これらの限界は、ボーアのモデルが原子の真実の姿を完全に捉えきれてはいないことを示していました。それは、真の理論へと至る道筋を照らし出す、重要な道標ではありましたが、ゴールそのものではありませんでした。物理学は、ボーアのモデルを超えて、電子の波動性や確率解釈といった、さらに奇妙で、しかしより根源的な概念を取り入れた、本格的な「量子力学」の構築へと、進んでいく必要があったのです。

10. フランク・ヘルツの実験:エネルギー準位の実証

ニールス・ボーアが、原子スペクトルの謎を解くために、その理論の根幹に据えた「エネルギー準位」という概念。それは、原子内の電子が、とびとびの不連続なエネルギー値しかとれない、という革命的なアイデアでした。しかし、このアイデアは、あくまでスペクトルという間接的な証拠から導き出された仮説に過ぎませんでした。果たして、原子のエネルギー準位は、本当に物理的な実在なのだろうか?

この問いに、スペクトル観測とは全く異なる、直接的な実験によって、明確な「イエス」の答えを与えたのが、ドイツの物理学者、ジェイムス・フランクとグスタフ・ヘルツが1914年に行った、歴史的な実験です。彼らの実験は、ボーアの理論が発表された直後に行われ、その正しさを裏付ける、極めて強力な独立した証拠となりました。

10.1. 実験の目的とアイデア

フランクとヘルツの実験の目的は、「原子が、電子との衝突によってエネルギーを吸収する際、その吸収の仕方が連続的か、不連続か」を直接調べることでした。

  • もしエネルギーの吸収が連続的ならば(古典論的描像):原子は、衝突する電子から、どんな大きさの運動エネルギーでも、少しずつ受け取ることができるはずです。
  • もしエネルギーの吸収が不連続ならば(ボーアの描像):原子は、そのエネルギー準位の差に相当する、特定の大きさのエネルギーしか吸収できないはずです。中途半端なエネルギーの電子が衝突しても、原子はそれを無視し、エネルギーのやり取りは起こらない(弾性衝突)はずです。

彼らのアイデアは、加速した電子を、原子の気体(彼らは水銀蒸気を用いました)に打ち込み、電子が原子との衝突によって失うエネルギーを測定する、というものでした。

10.2. 実験装置と手順

フランク・ヘルツの実験装置は、真空にされたガラス管の中に、少量の水銀を封入し、加熱して水銀蒸気で満たしたものです。管内には、以下の電極が配置されています。

  • 陰極 (K): 加熱することで熱電子を放出する。
  • グリッド (G): 陰極とグリッドの間に、加速電圧 \(V\) をかける。電子は、この電圧によって加速され、運動エネルギー \(eV\) を得る。
  • 陽極 (P): グリッドと陽極の間には、グリッドに対してわずかに電位が低くなるような、小さな減速電圧 \(V_r\) がかけられている。

実験の手順は、

  1. 陰極Kから出た電子が、加速電圧 \(V\) によってグリッドGに向かって加速される。
  2. 電子は、グリッドGに到達するまでの間に、管内に充満している水銀原子と衝突する。
  3. グリッドGを通り抜けた電子のうち、減速電圧 \(V_r\) のポテンシャルの壁を乗り越えるだけのエネルギーを持っているものだけが、陽極Pに到達し、電流計にコレクター電流 \(I\) として記録される。
  4. 加速電圧 \(V\) の値を、ゼロから徐々に大きくしながら、そのときのコレクター電流 \(I\) の変化を測定する。

10.3. 衝撃的な実験結果とその解釈

測定された、加速電圧 \(V\) とコレクター電流 \(I\) の関係を示すグラフは、物理学の歴史に残る、非常に特徴的な形を示しました。

  • 電圧が低い領域 (V < 4.9 V):加速電圧 \(V\) を大きくしていくと、電子の速度が上がり、陽極に到達する電子の数が増えるため、コレクター電流 \(I\) は、単調に増加していきます。この領域では、電子は水銀原子と衝突しても、エネルギーをほとんど失いません。これは、電子の運動エネルギーが、水銀原子を最も低い励起状態に上げるために必要なエネルギーに達していないため、弾性衝突(エネルギー交換のない衝突、ビリヤードの球の衝突のようなもの)しか起こらないことを意味します。
  • 電圧が 4.9 V に達した瞬間:驚くべきことに、加速電圧が 4.9 V に達した瞬間、それまで順調に増加していたコレクター電流が、急激に減少したのです。
  • 電圧が 4.9 V を超えた領域:4.9 V を超えてさらに電圧を上げていくと、電流は再び増加に転じます。そして、電圧が 9.8 V (= 2 × 4.9 V) に達すると、再び電流の急激な減少が見られ、さらに 14.7 V (= 3 × 4.9 V) でも同様の減少が、周期的に繰り返されることが観測されました。

10.4. エネルギー準位の直接的な証明

フランクとヘルツは、この結果を次のように見事に解釈しました。

  • 4.9 Vでの電流の減少:加速電圧が 4.9 V のとき、電子は 4.9 eV の運動エネルギーを得ます。このエネルギーは、偶然にも、水銀原子が基底状態から第一励起状態へと励起するために必要なエネルギーと、ちょうど一致していたのです。そのため、電子は水銀原子との非弾性衝突(エネルギー交換を伴う衝突)を起こし、自身の運動エネルギーのほぼ全て(4.9 eV)を水銀原子に与えてしまいます。エネルギーを失った電子は、グリッドを通過しても、その先の減速電圧 \(V_r\) の壁を乗り越えることができず、陽極に到達できなくなります。その結果、コレクター電流が急激に減少するのです。
  • 周期的な減少の理由:電圧が 9.8 V のときは、電子はグリッドに到達するまでの間に、二つの水銀原子と非弾性衝突を起こす機会を得ます。一回目の衝突で 4.9 eV を失い、再び加速され、二回目の衝突でもう 4.9 eV を失う、というように、合計 9.8 eV のエネルギーを失います。その結果、やはり陽極に到達できず、電流が減少します。

この実験は、原子が吸収できるエネルギーが、4.9 eV という、とびとびの値に量子化されていることを、直接的に、そして動的に証明しました。これは、ボーアがスペクトル線の分析から間接的に導き出した「エネルギー準位」という概念が、物理的な実体を持つことの、揺るぎない証拠となりました。この功績により、フランクとヘルツは1925年にノーベル物理学賞を受賞しました。

Module 5:ボーアの原子模型の総括:古典と量子の間に架けられた、不完全だが美しい橋

本モジュールでは、ニールス・ボーアが、ラザフォード模型が直面した深刻な危機をいかにして乗り越えようとしたか、その知的格闘の軌跡をたどってきました。彼は、古典物理学の法則が原子の内部では破綻するという現実を直視し、代わりに「定常状態」と「量子条件」、「振動数条件」という、量子論的な新しいルールを大胆に導入しました。それは、物理学の法則を根本から問い直すのではなく、まずは実験事実という「正解」に合うように、理論の側を修正するという、極めてプラグマティックなアプローチでした。

その結果、生まれた「ボーアの原子模型」は、まさに奇跡と呼ぶべき成功を収めます。特に、水素原子の線スペクトルが示す、バルマー系列などの謎めいた数学的規則性を、物理の基本定数のみからなる理論式によって、完璧に再現して見せたのです。それは、原子の内部で「量子化」という、不連続性が本質的な役割を果たしていることを、疑いようもなく示しました。さらに、フランクとヘルツの実験は、ボーアが仮定した「エネルギー準位」が、単なる理論上の道具ではなく、物理的な実体であることを直接的に証明しました。

しかし、その輝かしい成功にもかかわらず、ボーアのモデルは究極の理論ではありませんでした。それは、古典力学の考え方と、量子的なルールを「つぎはぎ」した、半古典的な、いわば過渡期の理論でした。多電子原子の問題を解けず、スペクトル線の強度などを説明できないという限界は、その理論がまだ不完全であることを示していました。

それでもなお、ボーアの原子模型が物理学史において不滅の価値を持つのは、それが古典物理学の旧世界と、本格的な量子力学の新世界との間に架けられた、最初の、そして最も重要な橋であったからです。この不完全だが美しい橋があったからこそ、物理学者たちは、ためらうことなく量子の世界へと渡り、ド・ブロイの物質波、そしてシュレーディンガーやハイゼンベルクによる、より普遍的で抽象的な、真の量子力学を構築していくことができたのです。ボーアのモデルは、その限界点を示すことによってさえ、次なる物理学が解くべき課題を明確にし、その発展を力強く導いたのです。

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