【基礎 政治経済(政治)】Module 21:日本の政治史(1) 戦前
本モジュールの目的と構成
これまでのモジュールで、私たちは日本国憲法の基本原則や、現代の政治システムについて学んできました。しかし、なぜ戦後の日本が、あれほどまでに徹底した平和主義と国民主権の理念を掲げるに至ったのか、その真の理由を理解するためには、私たちが「乗り越えてきた過去」へと、歴史の光を当てることが不可欠です。本モジュールは、近代国家としての日本が誕生した明治維新から、未曾有の破局である第二次世界大戦の敗戦に至るまでの、約80年間の「戦前」日本の政治史を探求する旅です。
この旅は、単なる年号や事件の暗記ではありません。それは、近代化の光と、その裏で進行した軍国主義化の影という、日本の二面性を理解する試みです。藩閥支配から政党政治へ、そして再び軍部の独裁へ。この激動の時代に、人々はどのような理想を掲げ、どのような過ちを犯したのか。そのダイナミックな政治の変転を学ぶことで、皆さんは現代日本の「原点」を知り、なぜ平和憲法が生まれなければならなかったのか、その歴史的必然性を深く、そして主体的に理解することができるでしょう。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、近代日本の光と影の軌跡を辿ります。
- 近代国家の設計図 ― 明治憲法体制の成立とその特徴: まず、近代日本の骨格を定めた大日本帝国憲法(明治憲法)が、どのような思想の下で、どのように作られたのかを探ります。天皇に強大な権力を集中させた、その「プロイセン式」の設計思想の本質を解き明かします。
- 薩長の支配 ― 藩閥政治と初期議会: 憲法はできたものの、政治の実権は、明治維新を主導した薩摩・長州出身者による「藩閥」が握っていました。この藩閥政府と、民意を代表する初期の帝国議会との間に、どのような激しい対立があったのか、その攻防を描きます。
- 民意の息吹 ― 政党政治の成立と大正デモクラシー: 第一次世界大戦を背景に、日本社会にデモクラシーを求める気運が高まった「大正デモクラシー」の時代。この波の中で、いかにして藩閥政治が後退し、選挙で選ばれた政党が内閣を組織する「政党政治」の慣行が確立されたのか、その歩みを探ります。
- 「普通の人々」が主役へ ― 普通選挙の実現: 大正デモクラシーの最大の成果である「普通選挙法」の成立に焦点を当てます。納税要件が撤廃され、すべての成人男性に選挙権が与えられたことの画期的な意義と、それがもたらした変化を学びます。
- 自由への逆流 ― 治安維持法と思想統制: 普通選挙の実現と、まさに「飴と鞭」のように同時に制定された「治安維持法」。この法律が、いかにして社会主義や自由主義といった、国家が「危険」とみなす思想を徹底的に弾圧し、人々の精神的自由を奪っていったのか、その恐るべき実態に迫ります。
- 軍部の暴走、始まる ― 満州事変と軍部の台頭: 1931年の満州事変を契機に、政府や議会のコントロールを離れた軍部が、独断で対外侵略を進めていく時代の幕開けを描きます。なぜ、誰も軍部の暴走を止められなかったのか、その構造的な原因を探ります。
- デモクラシーの死 ― 政党内閣の終焉: 満州事変以降、軍部の政治的発言力は決定的なものとなり、テロやクーデター未遂事件が頻発します。1932年の五・一五事件によって、犬養毅首相が暗殺され、大正デ修了クラシー以来の政党内閣の時代が、いかにして終わりを告げたのかを学びます。
- 戦争へ向かう全体主義 ― 翼賛体制: 日中戦争が長期化する中、すべての政党は自発的に解散し、「大政翼賛会」という単一の国民組織に統合されます。国民のあらゆる力を戦争遂行のために動員しようとする、この「翼賛体制」が、日本のファシズム体制であったことを理解します。
- 無条件降伏 ― ポツダム宣言と終戦: 太平洋戦争の敗色が濃厚となる中、連合国が日本に無条件降伏を突き付けた「ポツダム宣言」。日本政府が、この宣言の受諾をめぐっていかに逡巡し、最終的に終戦の聖断が下されるに至ったのか、その過程を辿ります。
- なぜ日本は破局に至ったのか ― 戦前日本の政治システムの構造と変容: 最後に、これまでの論点を統合し、明治憲法体制が内包していた構造的な欠陥(天皇の強大な権力、統帥権の独立など)が、いかにして軍部の独走と、破局的な戦争への道を開いたのかを、総括的に分析します。
それでは、現代日本の「前史」である、激動の戦前政治史への旅を始めましょう。
1. 明治憲法体制の成立と、その特徴
明治維新によって、江戸幕府を倒し、新しい統一国家の建設に乗り出した明治政府。その最大の課題は、欧米列強と対等に渡り合うための、近代的な国家の基本設計図、すなわち憲法を制定することでした。どのような憲法を作るべきかをめぐる、政府内や民間での激しい議論の末、1889年(明治22年)2月11日、**大日本帝国憲法(明治憲法)**が発布されました。
1.1. 明治憲法制定の経緯
- 多様な憲法草案:
- 自由民権運動の中で、民間からは、イギリス流の議院内閣制や、フランス流の国民主権に近い、急進的な内容を持つ私擬憲法(私案の憲法)が数多く発表されました。
- 政府の選択 ― プロイセン憲法をモデルに:
- これに対し、政府の中心人物であった伊藤博文らは、強力な君主権を基礎として、国家の統一と、急速な近代化を成し遂げたプロイセン(ドイツ帝国)の憲法を、日本のモデルとして選択しました。
- 伊藤は、自らヨーロッパに渡って憲法調査を行い、ドイツの法学者グナイストやシュタインから、君主権の強い立憲君主制の理論を学びました。
- 欽定憲法としての発布:
- 憲法の草案は、国民の代表が参加する議会ではなく、伊藤博文を中心とする少数の政府高官によって、極秘のうちに起草されました。
- そして、この憲法は、国民が制定したものではなく、天皇が、自らの意思で、国民(臣民)に恵み与えるという形式(欽定憲法)で、発布されました。これは、憲法の制定権そのものが天皇にあることを示し、その後の憲法体制の性格を決定づけるものでした。
1.2. 明治憲法体制の主な特徴
大日本帝国憲法が創り出した統治システム(明治憲法体制)は、一見すると、三権分立などの近代的な外観を備えながらも、その実態は、天皇に、神聖不可侵の絶対的な権力を集中させるものでした。
- 天皇主権と神権説:
- 主権は天皇にありました(天皇主権)。天皇は、「神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)とされ、その家系(皇統)が、神々の時代から永遠に続くものである(万世一系)とされました。
- 天皇は、国の元首として、統治権のすべてを総攬(そうらん:一手におさめる)する存在と位置づけられました(第4条)。
- 天皇大権 ― 強大な権力:
- 天皇は、議会の関与なしに行使できる、極めて広範な権限(天皇大権)を持っていました。
- 陸海軍の統帥権(統帥大権): 軍隊を直接、指揮命令する最高権限。
- 法律の裁可・公布権、議会の召集・解散権
- 宣戦・講和・条約締結権
- 緊急勅令・独立命令: 議会閉会中に、法律に代わる緊急の勅令を出したり、行政に必要な命令を出したりする権限。
- 天皇は、議会の関与なしに行使できる、極めて広範な権限(天皇大権)を持っていました。
- 議会の権限の制約:
- 帝国議会(貴族院と衆議院の二院制)は、天皇の立法権に協賛(協力し、賛成する)する機関と位置づけられ、その権限は限定的でした。
- 特に、予算については、もし議会が政府の予算案を否決しても、政府は前年度の予算をそのまま執行することができたため(予算編成権の優位)、議会が政府をコントロールする力は、弱いものでした。
- 臣民の権利:
- 国民は「臣民」とされ、その権利は、天皇から恩恵として与えられるものとされました。そして、すべての権利規定には**「法律ノ範囲内ニ於テ」**という留保(法律の留保)が付いていました。これは、議会が法律を制定すれば、いつでも国民の権利を制限できることを意味しました。
この、天皇への権力集中と、それを補佐する各機関が分立し、互いに対立・牽制しあうという構造が、その後の日本の政治の不安定さと、軍部の独走を許す、大きな原因となっていくのです。
2. 藩閥政治と、初期議会
1890年、大日本帝国憲法に基づいて、第一回帝国議会が開かれ、日本は、アジアで最初の立憲国家としての歩みを始めました。しかし、議会は開設されたものの、政治の実際の権力(行政権)を握っていたのは、選挙で選ばれた政治家ではありませんでした。
2.1. 藩閥政治 ― 薩長の支配
明治初期の政治を支配したのは、藩閥と呼ばれる、一部の有力者たちでした。
- 藩閥とは:
- 幕末の討幕運動と、明治維新を主導した、**薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)**の出身者を中心とする、政治家・官僚のグループです。
- 伊藤博文、山県有朋(ともに長州)、大久保利通、西郷隆盛(ともに薩摩)などが、その代表格です。
- 権力の独占:
- 彼らは、憲法制定後も、総理大臣をはじめとする内閣の主要なポストや、官僚機構、軍部の要職を独占し、天皇を補佐するという名目の下に、事実上の政治権力を握り続けました。
- 彼らは、国民の選挙による信任ではなく、維新の功労者であるという実績と、天皇との近さによって、その支配を正当化しました。このような、藩閥による専制的な政治のあり方を**「藩閥政治」**と呼びます。
2.2. 初期議会 ― 藩閥政府 vs 民党
1890年に開設された帝国議会、特に、国民の選挙で選ばれた議員で構成される衆議院は、この藩閥政治に対抗する、唯一の拠点となりました。
- 民党の結成:
- 自由民権運動の流れをくむ、板垣退助の自由党や、大隈重信の立憲改進党といった政党(これらを総称して民党と呼びます)が、第一回総選挙で、衆議院の議席の過半数を占めました。
- 激しい対立:
- 初期議会は、この民党と、山県有朋や松方正義らが率いる藩閥政府との、激しい対立の舞台となりました。
- 民党の主張: 「政費節減・民力休養」をスローガンに掲げ、政府の進める軍備拡張予算に強く反対し、地租(土地にかかる税金)の軽減を求めました。
- 藩閥政府の対抗: 政府は、衆議院が予算案を否決しても、前年度予算を執行できるという憲法の規定を盾に、民党の要求を拒否しました。また、時には、衆議院を解散したり、選挙の際に、警察を使って民党の候補者に大規模な選挙妨害を行ったり(選挙干渉)するなど、強硬な手段で対抗しました。
2.3. 対立から協調へ
しかし、この対立は、やがて、藩閥政府側も、民党の協力を得なければ、円滑な国政運営が難しいことを、認識するようになります。
- 日清戦争(1894-95年):
- 日清戦争が始まると、挙国一致の気運が高まり、民党も政府の軍事予算に協力するようになります。
- 藩閥と政党の提携:
- 戦後、伊藤博文は、自由党と連携するなど、藩閥の側から、政党との協調や、取り込みを図るようになります。
この初期議会における、藩閥と民党の激しい攻防は、やがて、政党の力が、藩閥を凌駕していく「政党政治」の時代への、重要な助走期間となったのです。
3. 政党政治の成立と、大正デモクラシー
20世紀に入ると、藩閥政治の時代は、徐々に陰りを見せ始めます。日露戦争(1904-05年)後の都市化の進展や、産業革命による新しい社会階層(資本家、都市中間層、労働者)の成長を背景に、国民の間で、政治参加への要求と、藩閥の専制に対する批判が、ますます高まっていきました。
この、大正年間(1912-1926年)を中心に、日本社会にデモクラシー(民主主義)を求める気運が、社会の様々な分野で高揚した風潮を**「大正デモクラシー」と呼びます。この風潮を理論的にリードしたのが、東京帝国大学教授の吉野作造**でした。
3.1. 吉野作造の「民本主義」
吉野作造は、天皇主権を定めた明治憲法の枠組みと、民主主義の理念を、いかにして両立させるか、という課題に挑みました。
- 主権(sovereignty)と治権(power):
- 彼は、国家の主権が誰にあるか(主権の帰属)という問題と、その主権を、誰の利益のために、どのように運用するか(治権の運用)という問題を、区別して考えました。
- 民本主義 (Minpon-shugi):
- 主権が君主にあるか(君主主権)、人民にあるか(人民主権)を問わず、その治権の運用において、**「一般人民の利福を目的とし、その意思を尊重する」**政治こそが、民主主義の本質である、と主張しました。
- 彼は、この考え方を、国民主権を意味する「民主主義」と区別して、「民本主義」と名付けました。
- この民本主義の理論は、天皇主権の明治憲法下で、政党内閣や普通選挙といった、民主的な改革を要求するための、極めて有力な理論的支柱となりました。
3.2. 第一次護憲運動と、政党政治への道
この大正デモクラシーの気運が、最初の大きな政治的うねりとなったのが、第一次護憲運動(1912-13年)です。
- きっかけ:
- 長州藩閥の巨頭である桂太郎が、議会を無視して、三度目の内閣を組織したことに対し、政党勢力と民衆が「閥族打破・憲政擁護」をスローガンに、大規模な抗議運動を展開しました。
- 結果:
- この運動により、桂内閣は、わずか53日で総辞職に追い込まれました(大正政変)。
- これは、民衆の運動が、藩閥政府を打倒した、画期的な出来事でした。
3.3. 政党内閣の確立 ― 「憲政の常道」
第一次世界大戦(1914-18年)後の好景気と、世界的な民主主義の高まり(デモクラシーの波)は、日本の政党政治の発展を、さらに後押ししました。
- 原敬内閣(1918年):
- 米騒動で寺内正毅内閣が倒れた後、衆議院の第一党であった立憲政友会の総裁・原敬が、本格的な政党内閣を組織しました。陸軍・海軍・外務の三大臣以外は、すべて政友会の党員で固められたこの内閣は、「平民宰相」として、国民から大きな期待を集めました。
- 第二次護憲運動と「憲政の常道」:
- 原敬の暗殺後、一時的に藩閥系の内閣(非政党内閣)が復活しましたが、これに対して、再び護憲運動(第二次護憲運動、1924年)が起こります。
- この運動の結果、選挙で勝利した護憲三派(憲政会・立憲政友会・革新倶楽部)が、連立内閣(加藤高明内閣)を組織しました。
- これ以降、衆議院の多数を占める政党が、内閣を組織し、政権を担うという**「憲政の常道」**が、慣行として確立されました。
ここに、藩閥政治の時代は終わりを告げ、日本は、つかの間の「政党政治の時代」を迎えることになります。
4. 普通選挙の実現
大正デモクラシーの気運が高まる中で、最も多くの人々が求め、そして、政党政治の時代がもたらした、最大の成果と言えるのが、普通選挙制度の実現です。
4.1. それまでの選挙制度 ― 制限選挙
1890年の第一回総選挙以来、日本の衆議院議員選挙は、一貫して制限選挙でした。
- 納税要件:
- 選挙権が与えられるのは、直接国税を一定額以上納めている、ごく一部の富裕な男性に限られていました。
- 当初は15円以上、その後10円以上に引き下げられましたが、それでも、有権者は、全人口のわずか1〜2%程度に過ぎませんでした。
- 性別要件:
- 選挙権は、男性にしか与えられていませんでした。
4.2. 普通選挙を求める運動の広がり
第一次世界大戦後、産業化の進展とともに、都市のサラリーマンや、工場労働者といった、新しい階層が増大しました。彼らは、納税額は少なくても、高い教育を受け、政治への関心も高く、自らの声を政治に反映させることを強く求めるようになります。
「普選(ふせん)なくして普税(ふぜい)なし」(税金を納めているのに、選挙権がないのはおかしい)といったスローガンが掲げられ、学生、労働者、市民による、**普通選挙を要求する運動(普選運動)**が、全国的な高まりを見せました。
4.3. 普通選挙法の成立(1925年)
この国民的な要求の高まりを背景に、第二次護憲運動の結果として成立した加藤高明内閣は、その最も重要な公約として、普通選挙の実現に取り組みました。
そして、1925年、ついに普通選挙法が、帝国議会で可決・成立しました。
- 内容の画期的な変化:
- 納税要件の完全な撤廃: これまで選挙権の最大の障壁であった、納税額による制限が、完全になくなりました。
- 有権者の拡大: 選挙権が、満25歳以上のすべての男性に、与えられることになりました。
- 影響:
- この法律の成立により、日本の有権者数は、それまでの約330万人から、一気に約1240万人へと、約4倍に激増しました。
- これにより、これまで政治から排除されていた、農民や労働者といった、無産階級(財産を持たない階級)の声が、選挙を通じて、政治に影響を与える道が開かれました。
- これ以降の選挙では、各政党は、これらの新しい有権者層の支持を得るために、社会政策などを、公約に掲げるようになります。
普通選挙法の成立は、日本の民主主義の歴史における、画期的な前進でした。しかし、この「光」の側面と、全く同時に、その「影」となる法律もまた、生み出されていたのです。
5. 治安維持法と、思想統制
1925年、普通選挙法の成立によって、これまで政治の外側にいた、多くの労働者や農民が、有権者となりました。政府と支配層は、この新しい有権者たちが、当時、世界的に影響力を増していた社会主義や共産主義の思想に共鳴し、日本の**国体(天皇制を中心とする国家体制)**や、私有財産制度を、根底から揺るがす存在になるのではないか、という強い危機感を抱いていました。
この危機感への対応として、普通選挙法と、まさに「抱き合わせ」の形で、同じ議会で成立したのが、戦前の日本における思想弾圧の、最も象徴的な法律である**「治安維持法」**です。
5.1. 治安維持法の内容
- 目的:
- この法律の直接の目的は、日本共産党などの、共産主義革命を目指す運動を取り締まることでした。
- 処罰の対象:
- **「国体を変革」すること(天皇制を否定すること)や、「私有財産制度を否認」**することを目的として、**結社(組織)**を組織したり、それに加入したり、あるいは、そのための活動を行ったりした者を、処罰の対象としました。
5.2. 法律の改正と、弾圧の拡大
治安維持法は、当初の目的を、やがて大きく逸脱し、国民の精神的自由を、根こそぎ奪うための、万能の弾圧ツールへと変貌していきます。
- 1928年の改正(緊急勅令による):
- 最高刑に死刑が追加され、法律は、さらに厳しいものとなりました。
- また、「国体を変革」することを目的とする結社の、目的遂行のための行為をした者も、処罰の対象となりました。この曖昧な規定によって、法律の適用範囲は、無限に拡大解釈される余地が生まれました。
- 弾圧対象の拡大:
- 当初は共産主義者に限定されていた弾圧の対象は、やがて、社会主義者、自由主義者、さらには、政府の戦争政策に批判的な、キリスト教徒などの宗教団体や、大学の教授、学生、芸術家といった、少しでも「反政府的」「非国民」とみなされた、あらゆる人々にまで、拡大していきました。
- 捜査は、**特別高等警察(特高)**が担当し、拷問による自白の強要も、日常的に行われました。
5.3. 思想統制への道
治安維持法は、単なる法律にとどまらず、戦前の日本社会全体を覆う、息苦しい思想統制のシステムの中核となりました。
- 表現の自由の死:
- この法律の存在は、人々から、政府や軍部を批判する自由を奪い、自己検閲を強いる、強烈な萎縮効果を生み出しました。
- 国民は、国家が掲げる「国体」という、単一の価値観に従うことを強制され、多様な思想や意見は、社会から完全に排除されていきました。
普通選挙という「飴」と、治安維持法という「鞭」。この二つが、同時に用意されたことは、大正デモクラシーが内包していた、光と影の二面性を、象徴的に示しています。そして、その後の日本の歴史は、この「鞭」が、「飴」を完全に飲み込んでいく、暗い時代へと突入していくのです。
6. 満州事変と、軍部の台頭
1929年に始まった世界大恐慌は、日本の経済にも深刻な打撃を与えました(昭和恐慌)。企業の倒産が相次ぎ、都市には失業者が溢れ、農村は、生糸価格の暴落などによって、深刻な貧困に喘いでいました。
このような社会不安と、政党政治への不信感が高まる中で、日本の進路を、決定的に変える出来事が起こります。それが、1931年(昭和6年)の満州事変です。この事件をきっかけに、それまで政府のコントロール下にあるはずだった軍部が、政治の主役として、独走を始めることになります。
6.1. 満州事変の勃発(1931年)
- 背景:
- 当時、日本の陸軍(関東軍)は、日露戦争で得た権益(南満州鉄道など)を守るため、中国の東北部である満州に駐留していました。
- 中国国内で、ナショナリズムが高まり、日本の権益を回収しようとする動き(排日運動)が強まると、関東軍の一部将校たちは、「満州は日本の生命線である」として、武力によって満州全土を占領する計画を、密かに進めていました。
- 柳条湖事件:
- 1931年9月18日、関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を自ら爆破し、それを中国軍の仕業であるとして、軍事行動を開始しました。
- 政府の統制の逸脱:
- 当時の若槻禮次郎内閣は、事件の**「不拡大方針」**を決定しましたが、関東軍は、この政府の方針を完全に無視し、戦線を拡大。瞬く間に、満州の主要都市を占領してしまいました。
6.2. 満州国の建国と、国際連盟からの脱退
- 満州国の建国(1932年):
- 関東軍は、清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として、日本の傀儡国家である**「満州国」**を建国しました。これは、日本の侵略行為を隠蔽するための、見せかけの独立国家でした。
- リットン調査団と国際社会の非難:
- 中国の提訴を受け、国際連盟は、リットンを団長とする調査団を現地に派遣しました。
- リットン報告書は、日本の行動を、自衛のためとは認められない、侵略行為であると断定し、満州国を承認せず、満州を国際管理下に置くことを勧告しました。
- 国際連盟からの脱退(1933年):
- この報告書に基づく勧告案が、国際連盟総会で、賛成42、反対1(日本)、棄権1という、圧倒的多数で可決されると、日本の代表であった松岡洋右は、その場を退席。
- そして、日本政府は、国際連盟からの脱退を決定しました。
6.3. 軍部の台頭
この一連の過程で、以下の二つの事実が、明らかになりました。
- 軍部(特に関東軍)は、**政府(文民)のコントロール(文民統制)**を、もはや全く受け付けない、独立した暴走集団と化していること。
- その軍部の暴走を、結果として、政府も、そして熱狂的な支持を送った国民世論も、追認してしまっていること。
国際社会から孤立し、政府の統制を離れた軍部が、政治の実権を握っていく。満州事変は、日本が、破局的な戦争へと突き進む、後戻りのできない分水嶺となったのです。
7. 政党内閣の終焉
満州事変以降、軍部の政治的発言力は、日に日に増大していきました。軍部は、満州での既成事実を背景に、政党政治家や財界人が、協調外交や軍縮を進めることを「軟弱外交」と非難し、国家の改造を訴えるようになります。
このような、軍部による政治介入の動きは、やがて、テロやクーデターという、より直接的で暴力的な形をとって、政党政治そのものを、死に追いやることになります。
7.1. テロとクーデター未遂の頻発
- 血盟団事件(1932年2月-3月):
- 井上日召が率いる右翼団体が、一人一殺主義を掲げ、前大蔵大臣の井上準之助や、三井合名会社理事長の團琢磨を暗殺しました。
- 二・二六事件(1936年):
- 陸軍の青年将校たちが、「君側の奸(天皇の側近の悪いやつら)を倒し、昭和維新を断行する」と称して、約1500名の下士官・兵を率いて、クーデターを決行しました。
- 彼らは、首相官邸、警視庁などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣らを殺害。東京の中心部を一時、占拠しました。
- この反乱は、昭和天皇の強い意向もあって鎮圧されましたが、この事件をきっかけに、軍部の政治的発言力は、かえって決定的なものとなり、軍部大臣の意向に反するような人物は、もはや首相になることさえできなくなりました。
7.2. 五・一五事件(1932年5月15日)
政党政治の息の根を、直接止めることになったのが、五・一五事件です。
- 事件の概要:
- 海軍の青年将校たちが、首相官邸に乱入し、当時の首相であった犬養毅を暗殺しました。
- 彼らの動機は、政党と財閥が癒着して腐敗していることへの不満や、ロンドン海軍軍縮条約に対する不満でした。
- 犬養首相の最期:
- 首相官邸に押し入った将校たちに対し、犬養は「話せばわかる」と、対話を試みましたが、彼らは「問答無用」と叫んで、犬養を射殺したと伝えられています。この言葉は、言論による政治(議会制民主主義)が、暴力によって終焉を迎えたことを、象徴しています。
7.3. 政党内閣の終焉
この犬養毅首相の暗殺によって、大正デモクラシー以来、約10年間にわたって続いてきた、「憲政の常道」、すなわち、衆議院の多数党の党首が首相となる、政党内閣の時代は、完全に終わりを告げました。
- 挙国一致内閣の時代へ:
- 五・一五事件の後、元老の西園寺公望は、後継の首相に、政党人ではなく、海軍大将の斎藤実を推薦しました。
- これ以降、第二次世界大戦の終結まで、首相は、軍人や官僚が就任するのが常態となり、政党は、もはや政権を担う能力も、意思も、失ってしまいました。
- 斎藤内閣や、その後の岡田啓介内閣は、軍人、政党人、官僚などが協力する挙国一致内閣の体裁をとりましたが、その実態は、軍部の意向を無視できない、極めて不安定なものでした。
言論は、テロの恐怖の前に沈黙し、日本の政治は、軍部が主導する、暗い戦争の時代へと、急速に転がり落ちていくのです。
8. 翼賛体制
1937年、盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が勃発すると、日本の国家体制は、戦争を遂行するために、国民生活のあらゆる側面を、国家の統制下に置く、戦時体制へと、急速に移行していきます。
この中で、国内の政治体制もまた、戦争協力のために、すべての政治勢力を一つにまとめあげる、全体主義的な体制へと再編されていきました。それが**「翼賛体制」**です。
8.1. 新体制運動と、政党の解散
- 近衛文麿と新体制運動:
- 日中戦争が長期化し、泥沼化する中で、国民的な人気を背景に首相となった近衛文麿は、従来の政党政治の対立を乗り越え、強力な指導体制を確立するための**「新体制運動」**を提唱しました。
- 政党の自主的解散:
- この運動に呼応する形で、それまで議会で活動していた社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党といった、すべての政党が、1940年に、自ら進んで党を解散(自主的解党)しました。
- これは、もはや政党が、多様な民意を代表する存在であることを放棄し、国家の戦争遂行という、単一の目的に奉仕する、翼賛組織へと、自ら合流していくことを意味しました。
8.2. 大政翼賛会の発足(1940年)
この政党の解散を受けて、1940年10月、新体制運動の中核となる、全国的な国民組織として**「大政翼賛会」**が発足しました。
- 目的:
- 「大政を翼賛する(天皇の政治を助ける)」ことを目的とし、政府の決定を、国民の末端にまで伝え、戦争への協力を徹底させるための、官製国民運動組織でした。
- 組織:
- 総裁には、現職の総理大臣が就任しました。
- 中央本部が置かれ、その下に、都道府県、市町村、そして部落会・町内会といった、末端の組織に至るまで、ピラミッド型の支配・動員ネットワークが、全国に張り巡らされました。
- 機能:
- 大政翼賛会は、「バスに乗り遅れるな」を合言葉に、国民を戦争協力へと動員しました。
- また、次の総選挙(翼賛選挙)では、大政翼賛会の推薦する候補者以外は、立候補することさえ困難となり、帝国議会は、もはや政府の決定を追認するだけの「翼賛議会」と化してしまいました。
8.3. 日本型ファシズム体制の確立
この大政翼賛会を頂点とする、一党独裁的な国民動員の仕組みを**「翼賛体制」**と呼びます。
これは、ナチス・ドイツや、ファシスト・イタリアとは、その成立過程や形態に違いはあるものの、個人の自由や、多元的な価値を否定し、国民のすべてを、国家(戦争)の目的のために、一つに統合・動員しようとする、日本型のファシズム体制であった、と言うことができます。
国民は、精神的には「国家総動員」のスローガンの下に、そして、組織的には「大政翼賛会」のネットワークの下に、完全に組み込まれ、戦争へと突き進んでいったのです。
9. ポツダム宣言と、終戦
1941年12月、日本は、アメリカ・イギリスとの太平洋戦争に突入します。当初は、快進撃を続けた日本軍でしたが、ミッドウェー海戦の敗北を転機に、戦局は絶望的なものとなっていきました。
1945年に入ると、東京をはじめとする主要都市は、大規模な空襲によって焦土と化し、沖縄では、住民を巻き込んだ悲惨な地上戦が行われ、国民の生活は、破綻状態にありました。
9.1. ポツダム宣言の発出(1945年7月)
このような状況の中、アメリカ、イギリス、中国の首脳は、ドイツのポツダムで会談し、日本に対して、戦争の終結を求める共同宣言を発しました。これが**「ポツダム宣言」**です。
- 主な内容:
- 日本軍の無条件降伏: 宣言は、日本軍に対して、無条件降伏を要求しました。
- 戦後の日本のあり方:
- 日本の主権は、本州、北海道、九州、四国、及び連合国が決定する諸小島に限定される。
- 日本の軍国主義を完全に除去する。
- 戦争犯罪人は、厳重に処罰する。
- 日本国内に、民主主義的な傾向を復活・強化する。言論、宗教、思想の自由、及び基本的人権の尊重を確立する。
9.2. 日本政府の対応と、二つの原子爆弾
この宣言に対し、日本の政府・軍部の首脳たちの意見は、大きく二つに割れました。
- 終戦派: 東郷茂徳外務大臣らは、この宣言を受け入れることで、これ以上の犠牲を避けるべきだと考えました。
- 本土決戦派: 阿南惟幾陸軍大臣ら、軍部の強硬派は、「国体の護持(天皇制の維持)」が保障されない限り、降伏はできないとし、「一億玉砕」を叫んで、本土決戦を主張しました。
日本政府が、この宣言に対して「黙殺」するという態度をとっている間に、アメリカは、戦争を終結させるための、最終手段に踏み切ります。
- 広島への原爆投下(8月6日)
- 長崎への原爆投下(8月9日)
さらに、8月9日未明には、それまで中立を保っていたソ連が、日ソ中立条約を破って、満州に侵攻し、対日参戦しました。
9.3. 終戦の聖断
この二つの原爆投下と、ソ連の参戦という、絶望的な状況に至って、ようやく、日本の最高首脳会議は、ポツダム宣言の受諾を決定します。
しかし、その最終決定の場(御前会議)でも、意見はまとまりませんでした。最終的に、鈴木貫太郎首相が、昭和天皇に決断を仰ぎ、天皇が、自らの意思で、戦争の終結を決断しました(聖断)。
1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言の受諾を、連合国側に通告。
そして、8月15日正午、昭和天皇自らが、ラジオ放送(玉音放送)を通じて、国民に、戦争の終結を告げました。
ここに、15年にわたる長い戦争は、日本の無条件降伏という形で、終わりを告げたのです。
10. 戦前日本の、政治システムの構造と変容
明治維新から、第二次世界大戦の敗戦までの約80年間。日本の政治システムは、なぜ、最終的に、破局的な戦争へと至る、軍国主義の道を選んでしまったのでしょうか。その原因は、この時代に一貫して存在した、明治憲法体制が、その内部に抱えていた、いくつかの深刻な構造的欠陥に、求めることができます。
10.1. 明治憲法体制の構造的欠陥
- 天皇への権力集中と、その空洞化:
- 明治憲法は、統治権のすべてを、神聖不可侵の天皇に集中させていました。
- しかし、現実には、天皇が、自らの意思で、日常的に政治を行うことはなく、その強大な権力は、いわば**「空虚な中心」**となっていました。
- その結果、天皇を補佐する、内閣、軍部、枢密院といった、それぞれの機関が、「これは天皇陛下のご意思(御聖旨)である」と、自らの行動を正当化しながら、互いに主導権を争うという、無責任な権力闘争の構造を生み出しました。
- 統帥権の独立:
- 憲法上、軍隊を指揮命令する権限(統帥権)は、天皇の大権とされ、政府や議会のコントロールが及ばないとされていました(統帥権の独立)。
- この規定は、軍部が、政府の方針を無視して、満州事変のような、独断での軍事行動を可能にする、最大の抜け穴となりました。軍部は、「統帥権の干犯である」という言葉を武器に、政府(文民)からの、いかなる統制(シビリアン・コントロール)も、拒否することができたのです。
- 軍部大臣現役武官制:
- 内閣を組織する、陸軍大臣と海軍大臣は、**現役の武官(大将・中将)**でなければならない、という制度がありました。
- これは、もし軍部が、ある内閣の政策に反対した場合、大臣を推薦しないか、あるいは、現職の大臣を辞任させて、後任を出さない、という手段をとれば、その内閣を、合法的に、成立させないか、総辞職に追い込むことができる、ということを意味しました。
- この制度は、軍部が、政治に介入するための、極めて強力な武器となりました。
- 議会・政党の力の弱さ:
- 前述のように、議会は、予算に対する権限が弱く、また、政党も、国民の幅広い支持を得る前に、軍部の台頭とテロによって、その力を失ってしまいました。
10.2. 体制の変容 ― 破局への道
この構造的欠陥を抱えた明治憲法体制は、大正デモクラシーの時代には、一時的に、イギリス流の議会制民主主義に近い、柔軟な運用(政党内閣の慣行)を見せました。
しかし、世界大恐慌と、満州事変を契機として、その脆弱性は、一気に露呈します。
統帥権の独立を盾に、暴走を始めた軍部は、軍部大臣現役武官制を武器に、政府の主導権を奪い、テロとクーデターの恐怖によって、政党政治を沈黙させました。そして、「空虚な中心」であった天皇の権威を、自らの侵略戦争を正当化するために利用し、国民のすべてを、翼賛体制の下に、戦争へと動員していったのです。
明治憲法が、その制定時に意図していた、君主の権威の下での、各権力の抑制と均衡という、精緻な(しかし、極めて脆い)バランスは、軍部という、憲法の想定を超えたプレイヤーの登場によって、完全に崩壊し、日本を、破滅的な結末へと導いたのでした。この痛切な歴史的経験への反省こそが、戦後の日本国憲法が、国民主権、徹底した平和主義、そして文民統制を、その核心に据えた、根本的な理由なのです。
Module 21:日本の政治史(1) 戦前の総括:近代化の光と、軍国主義への影の軌跡
本モジュールでは、近代国家日本の誕生から、その破局に至るまでの、光と影に満ちた政治の軌跡を辿りました。明治憲法という、天皇に強大な権力を集中させた設計図の下、日本は、藩閥政治の時代を経て、大正デモクラシーという、つかの間の民意の時代を経験しました。政党内閣や普通選挙の実現は、確かに日本の民主主義の大きな前進でした。しかし、その足元では、治安維持法が自由の息の根を止め、世界恐慌の波が、社会の不満を増幅させていました。そして、満州事変を狼煙として、統帥権の独立という構造的欠陥を突き、軍部が政治の主役へと躍り出ます。五・一五事件は、言論による政治の終わりを告げ、翼賛体制は、国民のすべてを戦争へと動員する、日本型ファシズムを完成させました。この破局への道は、決して一部の軍人の暴走だけによるものではありません。それは、明治憲法が内包していたシステムの脆弱性と、それを乗りこなせなかった、当時の政治家、そして熱狂の中で、あるいは沈黙の中で、それを許容してしまった国民全体の、重い歴史の帰結でした。この痛切な過去を直視することなくして、現代日本の平和と民主主義の価値を、真に理解することはできないのです。