【基礎 政治経済(経済)】Module 9:国民所得の決定理論(ケインズ経済学)
本モジュールの目的と構成
Module 8では、私たちはGDPや物価、失業率といった指標を手に、一国の経済という巨大な森の「大きさ」や「健康状態」を測定する方法を学びました。いわば、国の経済の健康診断書を読み解くスキルを身につけたのです。しかし、診断書は「結果」を教えてくれますが、「原因」までは教えてくれません。なぜ、ある年の経済成長率は高く、別の年にはマイナスに落ち込むのでしょうか。なぜ、多くの人々が働きたくても働けない「失業」という病が、長く続いてしまうことがあるのでしょうか。国民全体の所得の大きさ、すなわち国民所得の水準は、一体、何によって決まるのでしょうか。
この、マクロ経済学の最も根源的で中心的な謎に、革命的な答えを提示したのが、20世紀最高の知性の一人、ジョン・メイナード・ケインズです。彼が世界大恐慌の渦中で発表した理論は、それまでの経済学の常識を根底から覆し、現代に至るまで、各国の経済政策に絶大な影響を与え続けています。
本モジュールは、この「ケインズ革命」の核心に迫り、国民所得が決定されるメカニズムを、その論理の骨格から体系的に理解することを目的とします。これは、経済という巨大なエンジンの仕組みを解き明かし、政府がそのエンジンをどのように「調整」しようとするのか、その設計思想を学ぶ旅です。
この知的な探求は、以下の10のステップで構成されます。
- マクロ経済の二大巨頭:まず、経済全体の需要の総計である「総需要」と、供給の総計である「総供給」という、マクロ経済学の主役となる二つの概念を定義します。
- ケインズ革命の核心:「供給が需要を生む」という古典的な考え方を覆し、「需要こそが供給(=国民所得)の水準を決める」という、ケインズ理論の根幹をなす「有効需要の原理」の重要性を学びます。
- 消費を決める最大の要因:総需要の最大の構成要素である「消費」が、何によって決まるのかを分析します。「消費関数」と、所得が増えたときにどれだけ消費が増えるかを示す「限界消費性向」という、人間の行動を読み解く鍵となる概念を探求します。
- 消費の裏側にあるもの:消費されなかった所得である「貯蓄」が、どのように決まるのか、「貯蓄関数」を通じて理解します。
- 経済の気まぐれなエンジン:総需要のもう一つの重要な要素である「投資」が、いかにして企業の将来への期待(アニマルスピリッツ)に左右される、不安定な性質を持つのかを分析します。
- 所得が決まる瞬間を可視化する:ケインズ経済学の標準的な分析ツールである「45度線分析」を用いて、総需要と国民所得が釣り合う「均衡国民所得」が、どのようにしてグラフ上で決定されるのか、そのメカニズムを視覚的に理解します。
- 小さな一滴が、大きな波紋を呼ぶ:政府の公共投資などが、なぜその何倍もの大きさの国民所得を生み出すのか。経済全体に連鎖反応を引き起こす「乗数効果」という、ケインズ理論の最もダイナミックなメカニズムを解き明かします。
- 理想と現実のギャップ:経済の均衡点が、必ずしも完全雇用を達成しているとは限りません。失業が存在する「デフレ・ギャップ」と、経済が過熱する「インフレ・ギャップ」という、二つの不均衡状態を分析します。
- 新旧理論の対決:ケインズが登場する前の「古典派経済学」が、なぜ世界大恐慌を説明できなかったのか。価格の伸縮性を信じる古典派と、政府の役割を重視するケインズの思想を比較し、「ケインズ革命」の歴史的意義を学びます。
- 政府は救世主か?:ケインズ理論が導き出す政策的な結論、すなわち、不況期に政府が積極的に介入し、有効需要を創出することで、経済を完全雇用へと導くべきであるという、政府の役割について考察します。
このモジュールを修了したとき、皆さんは、日々のニュースで語られる「景気対策」や「経済政策」の背後にある、深い理論的根拠を理解し、現代社会を動かすマクロ経済のダイナミズムを、自らの頭で考え抜くための、強力な知的枠組みを手にしているはずです。
1. 総需要と、総供給
ミクロ経済学では、個別の市場における「需要」と「供給」が、どのようにして価格と取引量を決定するかを分析しました。マクロ経済学では、この視点を国全体へと拡大し、経済全体の需要と供給の動きを捉えようとします。そのための中心的な概念が、総需要 (Aggregate Demand, AD) と総供給 (Aggregate Supply, AS) です。
- 総需要 (AD)総需要とは、一国経済全体で、ある一定期間内に、人々(家計、企業、政府、そして海外)が購入しようと意図する、国内で生産された最終生産物(財・サービス)の総額のことです。これは、三面等価の原則における「支出面」から国民所得を捉えたものに相当し、以下の4つの要素から構成されます。\[\text{AD} = C + I + G + (X – M)\]
- C (Consumption):民間最終消費支出。家計による財やサービスへの支出。総需要の中で、最も大きな割合を占めます。
- I (Investment):国内総固定資本形成(民間住宅投資、民間企業設備投資、公的固定資本形成)と在庫品増加の合計。企業の設備投資や、個人の住宅購入などが含まれます。
- G (Government Spending):政府最終消費支出。政府が、公務員の給与や、公共サービス(教育、防衛など)のために購入する財やサービスへの支出。
- (X – M) (Net Exports):純輸出。輸出(X)から輸入(M)を差し引いたもの。
- 総供給 (AS)総供給とは、一国経済全体で、ある一定期間内に、企業が生産し、供給しようと意図する、最終生産物の総額のことです。これは、三面等価の原則における「生産面」から国民所得を捉えたものであり、実質GDPそのものを表していると考えることができます。
マクロ経済の均衡は、この総需要(AD)と総供給(AS)が一致する点で達成されます。しかし、この二つの関係性をどのように捉えるかについて、経済学の学派の間で、大きな見解の相違があります。
ケインズ経済学が革命的であったのは、この総需要と総供給の関係性について、それまでの常識を覆す、新しい視点を提示した点にありました。
2. 有効需要の原理
ケインズが登場する以前の、アダム・スミスやリカードに代表される古典派経済学 (Classical Economics)の世界では、マクロ経済は、**「セイの法則(Say’s Law)」**によって支配されていると考えられていました。
セイの法則とは、**「供給は、それ自らの需要を創り出す」**という命題です。
この考え方によれば、企業が何かを生産(供給)すれば、そのために支払われた賃金や利潤が、必ず誰かの所得となり、その所得が、生産されたものを購入するための需要となって、戻ってくるはずだ、とされます。したがって、経済全体で、生産物が売れ残る(=総供給が総需要を上回る)という、全般的な供給過剰は、原理的に起こり得ない、と考えられていました。もし一時的に失業が発生しても、賃金という価格が柔軟に下落することで、やがて労働市場は完全雇用の状態に自動的に回復する(市場の自動調節機能)と信じられていたのです。
しかし、1929年に始まった世界大恐慌は、この楽観的な古典派の世界観を、無残にも打ち砕きました。大量の失業者が街にあふれ、工場は生産設備を持て余し、経済は、完全雇用とはほど遠い、深刻な不況から、自力で回復する気配を見せませんでした。
この悲惨な現実を説明するために、ケインズが提示したのが、有効需要の原理 (Principle of Effective Demand) です。
有効需要の原理とは、**「供給が需要を生むのではなく、需要こそが、国民所得(=生産、供給)の水準を決定する」**という、セイの法則とは正反対の考え方です。
ケインズによれば、人々が将来への不安などから、所得の一部を消費せずに貯蓄に回したり(貨幣の退蔵)、企業が将来の売れ行きを悲観して、投資を控えたりすれば、供給されたものがすべて需要されるという保証は、どこにもありません。
有効需要とは、単なる「欲しい」という欲望(潜在的需要)ではなく、実際に購買力(お金)に裏付けられた、現実の需要のことです。
企業は、この有効需要の大きさを予測し、それに見合う分だけしか、モノを生産しません。いくら生産能力(潜在的な総供給)があっても、実際に売れる見込み(有効需要)がなければ、生産は行われず、雇用も生まれないのです。
したがって、一国の国民所得や雇用量は、その国の生産能力によって決まるのではなく、経済全体に存在する有効需要の大きさによって、決定される、とケインズは主張しました。
この視点の転換は、コペルニクス的転回にも匹敵するものでした。これにより、ケインズは、なぜ経済が、大量の失業を抱えたまま、長期にわたって停滞しうるのか、そのメカニズムを、初めて理論的に説明することに成功したのです。問題は供給側ではなく、需要側にある、と。
3. 消費関数と、限界消費性向
有効需要の原理によれば、国民所得の水準は、総需要の大きさによって決まります。では、その総需要の構成要素の中で、最も大きな割合を占める**消費(C)**は、一体、何によって決まるのでしょうか。
ケインズは、この問いに対して、「消費の最も重要な決定要因は、所得、特に、税金を引いた後の自由に使える所得、すなわち可処分所得である」という、極めて実践的な答えを提示しました。この、所得と消費の関係を、数式で表したものが消費関数 (Consumption Function) です。
3.1. 消費関数
ケインズ型の消費関数は、最もシンプルな形では、以下のように表されます。
\[
C = C_0 + cY
\]
- C:消費支出の総額
- Y:国民所得(ここでは、簡単化のため可処分所得と同じとします)
- \(C_0\) (\(>0\)):基礎消費(独立消費)これは、所得がたとえゼロであっても、生命を維持するために最低限必要となる、消費支出のことです。人々は、所得がなくても、貯蓄を取り崩したり、借金をしたりして、この基礎消費を賄います。
- c (\(0 < c < 1\)):限界消費性向これは、次に説明する、消費行動における最も重要な概念です。
3.2. 限界消費性向(Marginal Propensity to Consume, MPC)
限界消費性向 (MPC) とは、所得が1単位(例えば、1万円)増加したときに、そのうちの何割が、消費の増加に向けられるかを示す比率のことです。
これは、消費関数のグラフにおける傾きに相当します。
\[
c = \text{MPC} = \frac{\Delta C}{\Delta Y}
\]
(\(\Delta\)は増加分を示す)
- 例:もし、あなたの所得が1万円増えたときに、あなたは、そのうちの8,000円を消費に回し、残りの2,000円を貯蓄に回したとします。この場合、あなたの限界消費性向は、\(\Delta C / \Delta Y = 8,000円 / 10,000円 = 0.8\)となります。
ケインズは、この限界消費性向(c)について、「0より大きく、1より小さい」という、重要な心理的な法則を仮定しました。
- \(c > 0\):所得が増えれば、人々は消費を増やす。
- \(c < 1\):しかし、所得が増加した分を、すべて消費に回してしまうわけではなく、その一部は貯蓄に回される。
この、限界消費性向という、比較的安定したマクロの行動パターンをモデルに組み込んだことが、ケインズ経済学の大きな特徴の一つです。
3.3. 平均消費性向(Average Propensity to Consume, APC)
限界消費性向(MPC)と区別すべき概念として、平均消費性向 (APC) があります。
これは、所得全体のうち、何割が消費に向けられているかを示す比率です。
\[
\text{APC} = \frac{C}{Y}
\]
ケインズ型の消費関数では、所得(Y)が増加するにつれて、基礎消費(\(C_0\))の割合が相対的に小さくなるため、平均消費性向(APC)は、次第に低下していく、という特徴があります。
4. 貯蓄関数
所得のうち、消費されなかった残りの部分は、貯蓄 (Saving, S) されます。したがって、消費と貯蓄は、表裏一体の関係にあります。消費の動きが分かれば、貯蓄の動きも、自動的に決まります。
4.1. 貯蓄の定義
国民所得(Y)は、家計にとっては、消費(C)されるか、貯蓄(S)されるかのいずれかです。(ここでは、簡単化のため税金は無視します。)
したがって、以下の基本的な関係式が成り立ちます。
\[
Y = C + S
\]
この式を変形すると、貯蓄は、所得から消費を差し引いたものとして定義できます。
\[
S = Y – C
\]
4.2. 貯蓄関数(Saving Function)
この定義式に、前のセクションで学んだ消費関数 \(C = C_0 + cY\) を代入することで、所得と貯蓄の関係を示す貯蓄関数を導き出すことができます。
\[
S = Y – (C_0 + cY)
\]
\[
S = -C_0 + (1 – c)Y
\]
この式が、貯蓄関数です。
- \(-C_0\):所得がゼロのときの貯蓄は、基礎消費(\(C_0\))を賄うために、貯蓄を取り崩す(借金をする)額と等しくなります。
- (1 – c):これは、所得が1単位増加したときに、貯蓄がどれだけ増えるかを示す比率であり、次に説明する「限界貯蓄性向」です。
4.3. 限界貯蓄性向(Marginal Propensity to Save, MPS)
限界貯蓄性向 (MPS) とは、所得が1単位増加したときに、そのうちの何割が、貯蓄の増加に向けられるかを示す比率です。
これは、貯蓄関数の傾きに相当します。
\[
s = \text{MPS} = \frac{\Delta S}{\Delta Y}
\]
貯蓄関数の式から、\(\text{MPS} = 1 – c\) であり、cは限界消費性向(MPC)でした。
したがって、限界消費性向と限界貯蓄性向の間には、常に以下の極めて重要な関係が成り立ちます。
\[
\text{MPC} + \text{MPS} = 1
\]
これは、増加した所得は、必ず「消費される分」と「貯蓄される分」に、きれいに分けられる、ということを意味します。
- 例:限界消費性向(MPC)が0.8ならば、所得が1万円増えたとき、8,000円は消費に、残りの2,000円は貯蓄に回されます。このとき、限界貯蓄性向(MPS)は0.2となり、二つの合計は必ず1になります。
この限界貯蓄性向は、後に学ぶ「乗数効果」の大きさを決定する、もう一つの重要な鍵となる概念です。
5. 投資の決定要因
総需要を構成するもう一つの重要な民間部門の支出が、投資 (Investment, I) です。ここでの投資とは、株式投資のような金融投資ではなく、企業による設備投資(新しい機械や工場の建設)や、家計による住宅投資といった、実物的な資本の増加を指します。
ケインズは、この投資支出を、総需要の中でも、最も不安定で、変動しやすい要素であると考え、景気循環の主な原因と見なしました。
5.1. 投資は何によって決まるか?
では、企業は、何を基準に、設備投資を行うかどうかの意思決定を下すのでしょうか。ケインズは、主に二つの要因を重視しました。
- 資本の限界効率 (Marginal Efficiency of Capital)これは、企業家が、その投資プロジェクトから、将来にわたって得られると「期待」する、予想収益率のことです。
- 例:ある企業が、1億円の新しい機械を導入するプロジェクトを検討しているとします。この機械を導入することで、将来にわたって、年間1,000万円の追加的な利益が得られると「予想」される場合、この投資の予想収益率は、およそ10%となります。
- 利子率 (Interest Rate)これは、投資に必要な資金を、銀行などから借り入れるためのコストです。自己資金で賄う場合でも、その資金を投資せずに貸し出していれば得られたはずの利子、すなわち機会費用と見なすことができます。企業は、投資プロジェクトを検討する際に、(予想収益率である)資本の限界効率 > (資金調達コストである)利子率という条件が満たされている場合にのみ、その投資を実行します。
- 利子率が下落すれば、より多くの投資プロジェクトが採算に合うようになるため、投資は増加します。
- 利子率が上昇すれば、投資の採算は厳しくなるため、投資は減少します。
5.2. 投資の不安定性
ケインズ理論において、消費は、所得の関数として、比較的安定的に決まるものと考えられています。
それに対して、投資は、人々の主観的な「期待」という、極めて移ろいやすい心理的要因に大きく左右されるため、所得の水準とは直接関係なく、独立して、かつ、大きく変動するものと見なされます。
このため、これから学ぶシンプルな45度線分析のモデルでは、まず、投資(I)は、所得(Y)の水準とは無関係に、企業家のアニマルスピリッツによって、ある一定の値に決まる独立投資として扱います。この、気まぐれな投資の変動こそが、経済全体の好況・不況の波を引き起こす、最初の「一撃」となるのです。
6. 45度線分析と、均衡国民所得
ケインズ理論の中心的な主張、「有効需要が国民所得を決定する」という原理を、グラフを用いて視覚的に理解するための、極めて強力な分析ツールが45度線分析です。
この分析によって、一国の経済が、どの所得水準で均衡(安定)するのかを、明確に導き出すことができます。
6.1. 分析の舞台設定
45度線分析のグラフでは、縦軸に総需要(AD)、横軸に**国民所得(Y)**をとります。(※総需要は総支出(AE)とも呼ばれます。)
このグラフに、まず、分析の基準となる一本の特別な直線を引きます。それが45度線です。
45度線は、原点から、ちょうど45度の角度で右上方に伸びる直線です。この線上のどの点においても、縦軸の値(総需要 AD)と、横軸の値(国民所得 Y)は、常に等しくなります。
\[
\text{AD} = Y
\]
この式は、三面等価の原則が示すように、「作られたもの(Y)が、すべて需要される(AD)」という、マクロ経済の均衡条件そのものを表しています。
6.2. 総需要(AD)曲線を描く
次に、このグラフ上に、経済全体の総需要を示す総需要(AD)曲線を描き込みます。
ここでは、簡単化のため、海外部門を無視し、総需要は、消費(C)と投資(I)からなるとします。
\[
\text{AD} = C + I
\]
- **消費(C)**は、所得の関数 \(C = C_0 + cY\) でした。所得(Y)が増えるにつれて、傾きc(限界消費性向)で増加していきます。
- **投資(I)**は、所得とは無関係な、一定額の独立投資(\(I_0\))と仮定します。
したがって、総需要曲線は、以下の式で表される直線となります。
\[
\text{AD} = (C_0 + I_0) + cY
\]
このAD曲線は、縦軸の切片が基礎消費と投資を合わせた \((C_0 + I_0)\) であり、傾きが限界消費性向(c)である、右上がりの直線です。ただし、傾きcは1より小さいため、45度線よりは、なだらかな傾きになります。
6.3. 均衡国民所得の決定
準備は整いました。マクロ経済が均衡するのは、総需要と国民所得が等しくなる点、すなわちAD曲線と45度線が交差する点Eにおいてです。
この交差点Eに対応する、横軸の国民所得の水準(Y*)が、均衡国民所得 (Equilibrium National Income) となります。
6.4. なぜ交点が均衡点なのか?(自動調整メカニズム)
もし、経済がこの均衡点からずれていた場合、市場の力は、経済を自動的に均衡点へと引き戻そうとします。
- もし Y1 > AD1 (生産 > 需要)の場合:グラフ上で、45度線がAD曲線よりも上にある領域です。企業が生産したものが、売れ残っている状態(意図せざる在庫品の増加)を意味します。在庫を抱えた企業は、次の期の生産を減らそうとします。その結果、国民所得(Y)は減少し、均衡点Y*へと近づいていきます。
- もし Y2 < AD2 (生産 < 需要)の場合:グラフ上で、AD曲線が45度線よりも上にある領域です。生産が需要に追いつかず、商品が品薄になっている状態(意図せざる在庫品の減少)を意味します。企業は、この旺盛な需要に応えるため、次の期の生産を増やそうとします。その結果、国民所得(Y)は増加し、均衡点Y*へと近づいていきます。
このようにして、一国の経済は、この45度線とAD曲線の交点で示される、唯一の均衡国民所得の水準へと、引き寄せられていくのです。この分析は、政府支出(G)や純輸出(X-M)を加えても、全く同様に成り立ちます。
7. 乗数効果の理論
ケインズ経済学が提示した、最も驚くべき、そして強力な洞察の一つが、**乗数効果(Multiplier Effect)**の理論です。
これは、政府による公共投資や、民間企業の設備投資といった、最初の需要の増加(一撃)が、あたかも湖面に投じられた小石が大きな波紋を広げるように、経済全体に波及し、最終的には、その何倍もの大きさの国民所得の増加をもたらす、というメカニズムです。
7.1. 乗数効果のプロセス(直感的理解)
この連鎖反応のプロセスを、具体的な数字で追ってみましょう。
政府が、景気対策として、10兆円の公共事業(新しい橋の建設)を行ったとします。そして、この経済の限界消費性向(MPC)は0.8であると仮定します。
- 第1ラウンド:政府が建設会社に10兆円を支払います。これにより、まず、国民所得(GDP)が10兆円増加します。
- 第2ラウンド:この10兆円は、建設会社の株主や従業員の所得となります。彼らは、MPCが0.8なので、この所得増加分の8割、すなわち \(10兆円 \times 0.8 = 8兆円\) を、新たな消費(自動車の購入や外食など)に回します。この8兆円の消費支出が、新たな需要となり、自動車販売店やレストランの所得を増加させます。
- 第3ラウンド:この8兆円の所得を得た人々もまた、その8割、すなわち \(8兆円 \times 0.8 = 6.4兆円\) を、次の消費に回します。
- 第4ラウンド以降:この「所得の増加 → 消費の増加 → さらなる所得の増加…」というプロセスが、経済全体に、次々と波及していきます。
7.2. 国民所得の最終的な増加額
このとき、国民所得の増加額の合計は、以下の無限等比級数の和として計算できます。
\[
\Delta Y = 10 + 10 \times (0.8) + 10 \times (0.8)^2 + 10 \times (0.8)^3 + \dots
\]
この級数の合計は、初項をa、公比をrとすると、\(a / (1-r)\) で求められます。
したがって、
\[
\Delta Y = \frac{10}{1 – 0.8} = \frac{10}{0.2} = 50兆円
\]
となります。
最初の10兆円の政府支出が、最終的には、その5倍である50兆円もの国民所得の増加を生み出したのです。この「5倍」という倍率のことを、乗数 (Multiplier) と呼びます。
7.3. 乗数理論の公式
この関係を一般化すると、乗数は、限界消費性向(c または MPC)を用いて、以下のように表すことができます。
\[
\text{乗数} = \frac{1}{1 – \text{MPC}}
\]
また、MPC + MPS = 1 の関係から、分母の (1 – MPC) は、限界貯蓄性向(MPS)と等しくなります。
\[
\text{乗数} = \frac{1}{\text{MPS}}
\]
- MPCが大きいほど(=MPSが小さいほど)、乗数は大きくなります。人々が、増えた所得の多くを消費に回す(=漏れ出す貯蓄が少ない)ほど、次の需要を生み出す力が強くなり、波及効果が大きくなるからです。
- MPCが小さいほど(=MPSが大きいほど)、乗数は小さくなります。
この乗数効果の理論は、不況期において、政府が財政支出を増やすことが、なぜ経済全体を活性化させる上で、これほどまでに強力な効果を持ちうるのか、その理論的な根拠を提供するものです。
8. インフレ・ギャップと、デフレ・ギャップ
45度線分析が示す均衡国民所得は、あくまで「総需要と総供給が釣り合う点」であり、その経済が持つ潜在的な生産能力を、すべて使い切っている状態(完全雇用)を、必ずしも意味するわけではありません。
ケインズ経済学の重要な洞察は、経済の均衡点が、この完全雇用国民所得の水準から、乖離(かいり)する可能性がある、という点にあります。この乖離こそが、失業やインフレといった、マクロ経済の病巣となるのです。
8.1. 完全雇用国民所得(Full-Employment National Income)
完全雇用国民所得 (Yf) とは、その国に存在する労働力や資本設備といった生産要素が、すべて完全に利用された場合に達成される、潜在的な国民所得の水準のことです。(※摩擦的失業や構造的失業は存在するため、失業率がゼロになるわけではありません。)
これは、経済の「供給能力の限界」であり、一つの理想的な状態と考えることができます。
8.2. デフレ・ギャップ(Recessionary / Deflationary Gap)
もし、経済全体の有効需要が不足している場合、45度線分析で決まる均衡国民所得(Y*)が、完全雇用国民所得(Yf)を下回ることがあります。
\[
Y^* < Y_f
\]
この状態では、経済は、その潜在能力を十分に発揮できておらず、生産設備は遊休し、多くの人々が働きたくても働けない循環的失業が発生します。
このとき、完全雇用を達成するために、不足している総需要の大きさのことを、デフレ・ギャップ (Deflationary Gap) と呼びます。
グラフ上では、完全雇用所得水準(Yf)において、45度線と、実際のAD曲線との間の、垂直方向の距離として示されます。
このギャップを埋めるためには、政府支出を増やすなどして、AD曲線を上方にシフトさせる必要があります。
8.3. インフレ・ギャップ(Inflationary Gap)
逆に、好景気の最終局面などで、経済全体の有効需要が過大になっている場合、45度線分析で決まる均衡国民所得(Y*)が、完全雇用国民所得(Yf)を上回ることがあります。
\[
Y^* > Y_f
\]
しかし、経済は、その供給能力の限界(Yf)を超えて、実質的な生産量を増やすことはできません。
この状態では、人々や企業が、経済の供給能力以上にモノを買おうとしているため、過剰な需要が、生産量の増加ではなく、物価全般の上昇(インフレーション)を引き起こします。これをディマンド・プル・インフレーションと呼びます。
このとき、経済を過熱させずに、完全雇用の水準に戻すために、削減されるべき過剰な総需要の大きさのことを、インフレ・ギャップ (Inflationary Gap) と呼びます。
グラフ上では、完全雇用所得水準(Yf)において、実際のAD曲線と、45度線との間の、垂直方向の距離として示されます。
このギャップを解消するためには、政府支出を減らすなどして、AD曲線を下方にシフトさせる必要があります。
この二つのギャップの概念は、経済が、必ずしも自動的に完全雇用の状態に落ち着くわけではない、というケインズの核心的なメッセージを、明確に示しています。そして、これらのギャップを埋めることこそが、政府が行うべき経済安定化政策の目標となるのです。
9. ケインズ革命と、古典派経済学の比較
ジョン・メイナード・ケインズが、1936年に主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表したことは、経済学の歴史における、まさに「革命」的な出来事でした。彼の理論は、それまで経済学の正統であった古典派経済学の理論体系を根底から覆し、その後のマクロ経済学と思想、そして各国の政策に、決定的な影響を与えました。
この「ケインズ革命」の意義を理解するためには、古典派経済学が、世界をどのように見ていたのかを、対比して理解することが不可欠です。
古典派経済学の世界観
- 基本命題:「供給は、それ自らの需要を創り出す」(セイの法則)生産されたものは、必ず誰かの所得となり、すべて需要されるため、経済全体での供給過剰や、非自発的な失業は、長期的には存在しない。
- 価格の役割:価格、賃金、利子率は、需要と供給の変動に応じて、**完全に伸縮的(フレキシブル)**に動くと考える。
- もし失業が発生すれば、賃金が下落し、企業はより多くの労働者を雇うため、労働市場は完全雇用に自動的に回復する。
- もし貯蓄が投資を上回れば、利子率が下落し、企業はより多くの投資を行うため、貯蓄はすべて投資に向けられる。
- 政府の役割:市場は、価格メカニズムという「見えざる手」によって、常に最適な状態(完全雇用)へと自動的に調整される(市場の自動調節機能)。したがって、政府が経済に介入することは、この自然な調整を妨げるだけであり、有害無益である。政府の役割は、国防や治安維持といった最小限にとどめるべきだ(安価な政府、夜警国家)。
- 分析の焦点:短期的な景気変動よりも、長期的な経済成長を重視する。
ケインズ経済学の世界観
- 基本命題:「有効需要が、国民所得と雇用量を決定する」(有効需要の原理)将来への不安から、所得がすべて支出されるとは限らず、有効需要の不足が、慢性的で大規模な失業を生み出す。
- 価格の役割:現実の経済では、特に労働組合の存在などにより、賃金は、一度上がるとなかなか下がらない下方硬直性 (Downward Rigidity) を持つと考える。
- 失業が発生しても、賃金が十分に下がらないため、労働市場は、不均衡(失業)を抱えたまま、長期にわたって停滞しうる。
- 政府の役割:市場には、完全雇用を自動的に達成する力はない。経済が、深刻な不況(デフレ・ギャップ)に陥った場合、政府は、**財政政策(公共事業など)**を通じて、不足している有効需要を人為的に創出し、経済を完全雇用へと導く、積極的な役割を果たすべきである(大きな政府)。
- 分析の焦点:「長期的には、我々は皆死んでいる」という有名な言葉に象徴されるように、長期的な均衡よりも、人々が現実に苦しんでいる、短期的な失業問題の解決を最優先する。
革命の衝撃
古典派経済学が、常に晴れ渡った空の下での航海術を説いていたのに対し、ケインズは、世界大恐慌という、未曾有の大嵐の中での、具体的な「救命ボートの漕ぎ方」を示した、と言えます。
彼の理論は、政府が経済に積極的に介入することの、強力な理論的根拠を与え、第二次世界大戦後の多くの資本主義国で、完全雇用の達成と経済の安定を目的とした**ケインズ政策(混合経済体制)**が、広く採用されるきっかけとなったのです。
10. 有効需要創出のための、政府の役割
ケインズ経済学が導き出す、最も重要で実践的な政策的結論は、深刻な不況と失業に苦しむ経済は、自力で回復するのを待つのではなく、政府が、その意図的な介入によって、救い出すことができるし、また、そうすべきである、というものです。
そのための具体的な処方箋が、不足している有効需要を、政府の力で直接的に創り出す、というアプローチです。
10.1. 不況の悪循環
不況期には、経済は、以下のような自己増殖的な悪循環に陥っています。
- 将来への不安から、家計は消費を切り詰め(消費の冷え込み)、企業は投資を手控える(投資の冷え込み)。
- これにより、経済全体の有効需要が不足する。
- モノが売れないため、企業は生産を縮小し、従業員を解雇する。
- 失業の増大と所得の減少が、家計や企業の将来への不安を、さらに煽る。
- これが、さらなる消費と投資の冷え込みを招き、悪循環が深まっていく。
古典派経済学は、この悪循環を断ち切る有効な手立てを持っていませんでした。
10.2. 政府が果たすべき役割
ケインズは、この悪循環を断ち切るために、民間部門(家計と企業)の支出が期待できない以上、**政府(G)**が、その穴を埋めるべきだと主張しました。
政府は、民間部門とは異なり、将来への不安に怯えることなく、自らの意思で、大規模な支出を行うことができる、唯一の経済主体だからです。
政府が有効需要を創出するための具体的な政策手段が、財政政策 (Fiscal Policy) です。
- 政府支出(G)の拡大:政府が、公共事業(道路、橋、ダムの建設など)への支出を増やすことが、最も直接的で効果的な手段です。政府が支出したお金は、直接、企業の売上や労働者の所得となり、総需要(AD)を押し上げます。そして、乗数効果によって、最初の政府支出の何倍もの大きさの、国民所得の増加が、経済全体に波及していきます。ケインズは、たとえ「穴を掘って、また埋める」ような、一見無駄に見える事業であったとしても、それによって失業者にお金が渡り、彼らが消費に回すことで、経済全体が活性化するならば、何もしないよりは遥かにましである、とさえ考えました。
- 減税(Tの削減):政府が、所得税や法人税を引き下げる(減税)ことも、有効需要を刺激する手段です。
- 所得税減税:家計の可処分所得を増やし、消費(C)を刺激します。
- 法人税減税:企業の税引き後利潤を増やし、設備投資(I)を促進する効果が期待されます。
一般的に、減税は、その一部が貯蓄に回されてしまうため、同額の政府支出の拡大に比べると、国民所得を増やす効果(乗数)は、やや小さいとされています。
10.3. ケインズ政策の遺産
この、政府による積極的な総需要管理政策は、ケインズ政策と呼ばれ、第二次世界大戦後の「大きな政府」の時代における、経済政策の基本思想となりました。
もちろん、後の時代になると、ケインズ政策が、財政赤字の拡大や、インフレーションを引き起こすといった副作用を持つことへの批判(新自由主義など)も高まります。
しかし、大規模な金融危機や、近年のコロナ禍のような、深刻な需要不足に経済が見舞われた際に、各国政府が、大規模な財政出動によって、経済の崩壊を防ごうとするのは、まさにこのケインズが遺した、有効需要の創出という思想が、今なお、経済政策の強力な選択肢として生き続けていることの証左なのです。
Module 9:国民所得の決定理論(ケインズ経済学)の総括:需要こそが王様:ケインズが描いた経済の操縦術
本モジュールでは、マクロ経済学の核心的な問い、「国民所得の大きさは何によって決まるのか」という謎を解き明かすため、20世紀の経済学に革命をもたらしたケインズの理論体系を探求しました。それは、経済という巨大な船の、新たな「操縦術」を発見する旅でした。
私たちはまず、古典派経済学の「供給が需要を生む」という楽観的な世界観が、世界大恐慌という現実の前で無力であったことを見ました。そして、ケインズが提示した有効需要の原理、すなわち「需要こそが、生産と雇用の水準を決定する」という、コペルニクス的転回とも言える、新しい視点を獲得しました。
この原理に基づき、私たちは、総需要の動きを具体的に分析しました。所得の関数である安定的な消費と、将来への期待に左右される不安定な投資。これらの要素が組み合わさって、総需要が形成されるプロセスを学びました。
そして、45度線分析という強力なツールを用いて、総需要と国民所得が釣り合う均衡点がどのように決まるのかを、視覚的に理解しました。
さらに、ケインズ理論の最もダイナミックな側面である乗数効果のメカニズムを解き明かし、政府による小さな一撃が、いかにして経済全体に大きな波及効果をもたらしうるのか、その秘密に迫りました。
また、経済が必ずしも完全雇用を達成するとは限らず、失業を伴うデフレ・ギャップや、インフレを招くインフレ・ギャップといった、望ましくない均衡に陥る可能性を指摘しました。
この一連の分析が導き出す結論は、明確でした。市場の自律的な力だけに任せていては、経済は深刻な不況から脱出できないかもしれない。だからこそ、政府が、財政政策という舵を取り、有効需要を創出することで、経済という船を、完全雇用という目的地へと、積極的に導いていくべきである、と。
ケインズが描いたこの「経済の操縦術」は、その後の世界のあり方を大きく変えました。もちろん、その処方箋にも副作用があり、時代と共に様々な批判や修正が加えられていきます。しかし、経済が深刻な危機に瀕したとき、私たちがいかにしてその危機に立ち向かうべきか、その思考の原点を、ケインズは今なお、力強く示し続けているのです。