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早慶日本史 講義 第3講 古代:律令国家の展開
第一章:律令制度の確立―古代国家の設計図とその構造―
7世紀半ばの大化の改新を契機として、日本の古代国家は大きな変革期に入ります。それまでの氏族連合的な性格を残したヤマト政権から、天皇を中心とし、体系的な法典に基づいて全国を統治する中央集権的な国家体制、すなわち**「律令国家」へと大きく舵を切ったのです。本章では、この古代日本の国家システムを根底から規定した「律令制度」の確立過程に焦点を当て、その設計図とも言える法典の編纂から、国家を動かすための政治機構、官僚制度、司法、身分、そして経済基盤となる土地・人民支配**に至るまで、その構造と機能を多角的に解き明かしてまいります。律令制度の理解は、古代から中世にかけての日本の政治・社会を理解する上で不可欠な基礎となります。
この律令国家建設の道のりは、まず国家統治の基本法となる律令法典そのものの編纂から始まります。隋・唐という東アジアの先進的な法体系を継受しつつ、日本の国情に合わせて変容させていく過程、そしてそれを補完する格・式の制定について見ていきます。次に、その法典に基づいて構築された中央(二官八省制)および地方(国郡里制)の政治機構が、どのように国家統治を担ったのか、その骨格を明らかにします。さらに、その機構を実際に運営した官人(官僚)たちの制度、すなわち官位相当制や蔭位の制、任用・昇進システム、そして彼らの義務と特権について解説します。加えて、法に基づく秩序維持を目指した司法制度の仕組みとその実態、社会の根幹を規定した身分制度(良賤制)、そして国家の経済的基盤であった**土地と人民に対する支配の仕組み(公地公民制、戸籍・計帳、班田収授法、租庸調制など)**についても詳しく検討します。
早慶をはじめとする難関大学の入試においては、律令制度に関する知識は極めて広範かつ詳細に問われます。律令法典の編纂過程と内容、二官八省や国郡里制といった統治機構、官位相当制や蔭位の制などの官人制度、律や五刑・八虐などの司法制度、良賤制とその内実、公地公民制・班田収授法・租庸調制といった土地・人民支配の仕組みなど、各制度の具体的な内容と機能を正確に理解しておく必要があります。さらに重要なのは、これらの諸制度が相互にどのように関連しあい、律令国家というシステム全体を構成していたのか、その構造的な理解と、理念と現実の乖離や制度の変容過程をも含めて考察する能力です。
本章を通じて、古代日本が目指した中央集権国家の「設計図」である律令制度の全体像を体系的に学び、その精緻な構造と機能、そしてそれが内包していた課題や日本的な特色についての理解を深めていただくことを願っています。この知識は、続く奈良・平安時代の歴史を読み解く上での確かな羅針盤となるでしょう。
1. 律令法典の編纂:東アジア法体系の継受と日本的変容
7世紀、ヤマト政権は天皇を中心とする中央集権的な国家体制の確立を目指し、その統治の根幹として、隋・唐をモデルとした体系的な法典、すなわち**「律令(りつりょう)」の編纂・整備を進めました。本セクションでは、この古代国家形成における最重要課題の一つであった律令法典の編纂過程に焦点を当て、大化の改新(645年)での構想から、近江令(?)、飛鳥浄御原令を経て、大宝律令(701年)で完成し、さらに養老律令へと受け継がれていく流れを解説します。また、律令を補完した格・式の役割や、中国法体系を継受しつつも日本の国情に合わせて変容した日本的特色**についても考察します。
律令(刑法の「律」と行政法等の「令」)に基づく統治は、従来の氏族制的な秩序とは異なる、成文法による体系的・統一的な国家支配を目指すものでした。その編纂は、白村江敗戦後の国家体制強化や壬申の乱後の権力集中といった政治的背景と密接に関わりながら、段階的に進められました。特に701年の大宝律令の完成・施行は、日本が名実ともに律令国家としての体制を法的に確立した画期的な出来事です。
早慶などの難関大学入試においても、**律令編纂の各段階(大化改新~大宝・養老律令)、各法典の意義、律令の内容骨子、格・式の役割、そして日本の律令の独自性(神祇官重視など)**に関する知識は極めて重要です。これらの法体系が古代国家の統治システムをどのように規定し、また時代とともにどう変化していったのかを理解し、考察する能力が求められます。
本セクションでは、律令法典という古代国家の骨格が形成されていくプロセスを追い、その内容と日本的な特色を明らかにします。律令国家体制の法的基盤についての理解を深め、古代史の重要な転換点を学んでいきましょう。
1.1. 律令編纂の前史:7世紀における国家形成と法典整備への道
体系的な法典に基づく統治への志向は7世紀前半に萌芽が見られるが、本格化は7世紀半ば以降である。
- 大化の改新(645年)とその後の模索:中央集権化への胎動: 645年の乙巳の変による蘇我氏本宗家の滅亡は、古代国家史の大きな転換点であった。政変後、孝徳天皇、中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足(後の藤原鎌足)ら新政権は、唐の律令制度を意識した改革(大化の改新)に着手したとされる。『日本書紀』には改新の詔として、①公地公民制、②国郡制整備と地方官派遣、③戸籍・計帳作成と班田収授法施行、④統一的租税制度(租庸調制)確立といった中央集権的政策が掲げられている。ただし「改新の詔」の史実性、特に内容や施行時期には後世の潤色・創作の可能性が指摘され、学界で議論がある(肯定説、段階施行説、大幅懐疑説など)。しかしこの時期、氏姓制度に基づく部民制の廃止・再編、地方行政区画の画定(評制整備)、戸籍作成の試み(庚午年籍(670年)の前提)など、後の律令制に繋がる改革が開始されたことは、考古学的成果(前期難波宮構造、地方評衙跡など)からも裏付けられる。この時期の改革は体系的・網羅的ではなかったかもしれないが、律令国家建設への重要な第一歩であった。
- 白村江の敗戦(663年)と体制強化の必要性: 新政権の大きな課題が朝鮮半島情勢への対応であった。百済復興支援軍が白村江で唐・新羅連合軍に大敗(663年)したことは国家存亡の危機感を高め、国内統治体制、特に軍事・防衛体制強化を喫緊の課題とした。対馬・壱岐や九州北部への防人配置、水城・大野城・基肄城といった朝鮮式山城築造、都の近江大津宮への遷都(667年)などはこの危機感の表れである。こうした中、強力で効率的な中央集権体制構築の法的基盤として、体系的法典の整備が急がれた。
- 近江令(668年制定説):最初の体系的法典編纂の試み: 『日本書紀』には、天智天皇治世下(668年)に令22巻が制定されたと記される。これが近江令である。現存せず、内容や施行実態は不明な点が多く、存在自体を疑問視する説(藤原仲麻呂らによる創作説など)もある。しかし、天智朝で唐律令を参考に日本の実情に合わせた体系的行政法典の編纂が試みられた、あるいは準備が進められたことは、近年の研究で有力視されている。存在したならば日本最初の体系的な令法典となる。
- 壬申の乱(672年)と天武天皇による集権化: 天智天皇死後、後継者をめぐる壬申の乱は大海人皇子(天智天皇の弟)が勝利し、天武天皇として即位した。天武天皇は反対勢力を排除し、天皇の権威を絶対化(神格化)させるとともに、皇親政治と呼ばれる皇族中心の強力な政治体制を推進した。八色の姓制定(684年)による氏姓制度再編、官僚制整備、飛鳥浄御原宮造営、富本銭とされる貨幣鋳造(683年頃)、国史編纂開始命令など、多分野で中央集権化を強力に進め、律令国家の基礎を実質的に固めた。
- 飛鳥浄御原令(689年施行):律令国家への確かな一歩: 天武天皇は治世末期681年に律令編纂を命じた。これは律令両方の編纂を目指したが、令が先行し、天武天皇死後、皇后の持統天皇時代の689年に施行された。これが飛鳥浄御原令(全22巻)である。これも現存しないが、大宝令の直接的な母体となった重要法典と考えられている。近江令(仮に存在したとして)が試作的段階だったのに対し、飛鳥浄御原令は、天武・持統朝の強力な政権基盤の下で編纂・施行され、官僚機構、地方行政、身分制度など律令国家の基本構造を具体的に規定した、より実効性ある法典であったと推測される。この令施行により「天皇」号や国号「日本」使用が法的に確立したとする説も有力である。
1.2. 大宝律令(701年制定・施行):律令国家体制の完成
飛鳥浄御原令を土台としつつ、最新の東アジア情勢(特に唐の法制度)に関する知識を反映させ、より体系的かつ網羅的な国家基本法典として完成したのが大宝律令である。日本における律令国家体制の完成を画する歴史的な法典と言える。
- 編纂の経緯と背景: 飛鳥浄御原令施行後も律令編纂事業は継続された。特に、持統天皇から譲位された文武天皇(天武・持統の孫)時代(在位697年~707年)に入ると、律令の全面的な完成に向けた動きが加速する。背景には、690年代末~700年代初頭の東アジア情勢の変化(唐の則天武后による周王朝建国と国際関係変動など)や、国内統治体制の一層の整備・強化の必要性があったと考えられる。文武天皇は700年に**刑部親王(天武天皇の子)**を総裁に任命し、**藤原不比等(藤原鎌足の子)、粟田真人(遣唐使経験者)、下毛野古麻呂ら皇族、貴族、実務官僚、学識経験者からなる編纂チーム(律令撰定者)**を結成させ、最終作業にあたらせた。彼らは飛鳥浄御原令を基礎に、遣唐使が持ち帰った最新の唐律令(永徽律令、651年制定・施行)を大幅に取り入れ、日本の国情に合わない部分を修正・削除し、あるいは独自規定(例:神祇関連)を追加するなど、約4年の集中的作業を経て701年(大宝元年)8月3日に律令を完成させ、直ちに施行した。この迅速な完成と施行は、当時の政権の強い意志とそれまでの蓄積を示す。
- 構成:律と令の二本立て: 大宝律令は唐の形式にならい、律6巻と令11巻から構成された。
- 律 (6巻): 刑法典。犯罪類型(罪名)と刑罰(五刑:笞・杖・徒・流・死)を規定。特に国家や天皇、尊属に対する罪である**八虐(謀反、謀大逆、謀叛、悪逆、不道、大不敬、不孝、不義)**は極めて重い罪とされた。律は国家秩序維持の最終的な強制力と位置づけられた。
- 令 (11巻): 行政法、民法、訴訟法、儀式法など、刑法以外のあらゆる分野を規定する包括的法典。官位令、職員令、後宮職員令、東宮職員令、家令職員令、軍防令、儀制令、衣服令、考課令、禄令、宮衛令、厩牧令、倉庫令、医疾令、仮寧令、喪葬令、捕亡令、獄令、営繕令、関市令、雑令、そして人民の身分・家族・土地・租税などを規定する戸令、田令、賦役令などが含まれていたと考えられる(現存せず、養老令や唐令から推定)。令は国家統治システム全体を規定し、社会生活の隅々に及ぶ広範な規範であった。
- 意義:律令国家の完成と新たな時代の幕開け: 大宝律令の制定・施行は、それまでの段階的な改革の集大成であり、日本が律令という成文法に基づく統治システム(律令国家)を名実ともに完成させた画期的な出来事であった。これにより、天皇中心の官僚支配体制と、国家による土地・人民の一元的把握・支配(公地公民制)を基本理念とする国家の枠組みが法的に確立した。この律令は奈良・平安時代を通じて国家運営の基本法典として機能し、日本の政治・社会・文化に決定的な影響を与えた。大宝律令制定に合わせて「大宝」の元号が定められ、この律令に基づき国家的貨幣**「和同開珎」**(708年発行)、そして唐の長安を模倣した新都・平城京(710年遷都)が計画・造営されたことは、律令国家が新たな段階に入ったことを内外に示す象徴的な出来事であった。
1.3. 養老律令(718年編纂、757年施行):大宝律令の修正と継承
大宝律令施行後約20年を経た養老年間(717年~724年)に、再び律令が編纂された。これが養老律令である。
- 編纂の意図と経緯: 大宝律令施行を通じて、条文解釈や運用上の問題点、日本の実情に適合しない点などが明らかになった。そこで、元正天皇治世下の718年(養老2年)、大宝律令編纂の中心人物だった藤原不比等らが中心となり、大宝律令を修正・補訂する形で養老律令の編纂が開始された。これは大宝律令を否定するのではなく、むしろそれをより精緻で、日本の国情に合致したものへアップデートしようとする試みであったと考えられる。
- 内容:大宝律令の踏襲と修正: 養老律令も律10巻、令10巻から構成された(巻数は異説あり)。内容は基本的には大宝律令を踏襲したが、条文の字句修正、配列整理、一部規定の変更・追加などが行われたとされる。律令本文は現存しないが、令については、平安時代の注釈書『令集解(りょうのしゅうげ)』(惟宗直本編)などに条文の大部分が引用・収録され、これにより養老令(ひいては大宝令)の具体的な内容をかなり正確に知ることができる。『令集解』は律令制研究の基本史料の一つである。一方、養老律は逸文しか残っておらず、全容を知ることは困難である。
- 施行の遅延とその背景: 養老律令は718年に編纂完了したとされるが、すぐには施行されなかった。理由は、編纂の中心人物藤原不比等の死去(720年)やその後の政情不安(長屋王の変など)が影響したと考えられる。最終的に施行されたのは、約40年後の757年(天平宝字元年)、孝謙天皇治世下で**藤原仲麻呂(後の恵美押勝)**が政権を握っていた時期であった。仲麻呂は、橘奈良麻呂の変(757年)で反対勢力を排除した直後に養老律令を施行することで、律令に基づく政治秩序再建を掲げ、自らの政権の正統性を確立しようとしたと考えられる。しかし、大宝律令制定から半世紀以上が経過し、社会経済状況も大きく変化していたため、養老律令は施行当初から、その規定と現実社会との間に少なからぬ乖離を抱え込むことになった。
- 意義:律令法体系の完成と規範としての存続: 養老律令は大宝律令を補完・修正し、律令国家の法体系をより精緻なものへと完成させた。平安時代中期以降、律令制が実質的に変容・形骸化していく中でも、養老律令は国家の基本法典としての権威を保ち続け、法的な規範としては参照され続けた。また、その条文や理念は、形を変えながらも後世の法制度(公家法、武家法、幕藩体制下の法など)にも影響を与え続けた点で、日本の法制史上、極めて重要な位置を占める。
1.4. 格(きゃく)と式(しき):変化に対応する生きた法
律令は国家の基本法典であったが、社会の変化や新たな課題に常に対応できるわけではなかった。そこで、律令規定を修正・補足したり、施行細則を定めたりするために制定されたのが格と式である。これらは律令を補完し、律令体制を現実に合わせて運用する上で重要な役割を果たした。
- 格(きゃく): 律令条文を部分的に修正・追加・削除したり、律令に規定のない新事項について定めたりするために、個別に発布された法令(詔・勅・太政官符など)。律令制定後の社会経済や政治状況の変化に対応するための補足的・修正的立法であり、律令規定が時代遅れになったり、不都合が生じたりした場合に制定された。例えば、墾田永年私財法(743年)も、本来の律令(田令)規定を変更するものであり、広義には格の一種と考えられる。
- 式(しき): 律令や格の規定を、実際に官庁で運用するための施行細則や手続きを定めたもの。各官庁の事務手続き、儀式次第、文書様式、必要物品などを具体的に規定し、行政マニュアルとしての性格を持っていた。律令条文が抽象的・原則的な規定であるのに対し、式はそれを具体的な行政運営に落とし込むための、より実務的な規定であった。
- 三代格式(さんだいきゃくしき)の編纂: 奈良時代から平安前期にかけ、多くの格や式が個別に発布されたが、蓄積されると参照や運用が煩雑になった。そこで、平安前期の嵯峨・清和・醍醐天皇時代に、それまでに制定された格や式を、律令に準ずる法典として時代ごとに体系的に編纂する事業が行われた。これが三代格式である。
- 弘仁格式(こうにんきゃくしき): 嵯峨天皇時代、藤原冬嗣らが中心となり編纂。大宝律令施行(701年)から弘仁10年(819年)までの格(820年施行)と、対応する式(830年施行)を収録。
- 貞観格式(じょうがんきゃくしき): 清和天皇時代、藤原氏宗らが中心となり編纂。弘仁11年(820年)から貞観10年(868年)までの格(871年施行)と、対応する式(879年施行)を収録。
- 延喜格式(えんぎきゃくしき): 醍醐天皇時代、藤原時平・忠平らが中心となり編纂。貞観11年(869年)から延喜7年(907年)までの格(907年施行)と、対応する式(927年施行)を収録。
- 意義と史料的価値: 格・式、そして三代格式は、律令国家体制が固定的なものではなく、社会の実情に合わせ法体系を修正・補完しながら運用された**「生きた法」であったことを示す。律令規定が次第に現実と乖離する中で、格・式は律令制の変容過程を具体的に示す重要指標となる。三代格式のうち弘仁・貞観格式は一部しか現存しないが、『延喜式』**は全50巻のうち大部分が現存し、律令制研究の第一級史料である。『延喜式』には、年中行事、官庁規定、儀式手順、神名帳、調・庸の品目・数量、駅馬数、度量衡など、国家運営に関する具体的で詳細な情報が満載で、政治・経済・社会・文化研究に不可欠な史料である。
1.5. 律令法体系の日本的特色:継受と独自性の融合
日本の律令は、隋・唐の律令をモデルとしながらも、日本の社会構造、伝統的価値観、政治的事情などに合わせ、様々な修正・変更が加えられている。この「日本的特色」の理解は、律令国家の本質を探る上で重要である。
- 神祇制度の重視と祭政一致: 唐律令には国家祭祀専門の独立官庁はないが、日本の律令では神祇官が太政官と同格の「二官」の一つとして極めて高い地位を与えられた。神祇官は国家祭祀や卜占を担当。これは、日本の古代社会において天皇の統治が固有の神々への祭祀権と不可分に結びついた祭政一致の理念に基づいていたことを強く反映している。律令導入にあたり、日本固有の宗教的伝統を国家体制の根幹に位置づけた点が大きな特色である。
- 天皇親政理念の反映(中務省の重視): 中央官制(二官八省)において、天皇の側近として詔勅起草・伝達、叙位、宮中儀式などを担当する中務省の地位が、唐の制度(尚書省が行政執行中心)に比べ相対的に高く位置づけられている。これは、律令国家が理念として掲げた天皇親政の思想を反映していると考えられる。天皇の意思決定とその伝達に関わる中務省を重視し、天皇中心の政治システムを構築しようとした意図がうかがえる。
- 氏姓制度との融合・共存: 律令制は理念としては官僚個人の能力・功績に基づく統治を目指したが、現実には古墳時代以来の氏姓制度の要素が色濃く残存し、律令制度に組み込まれた。例えば、位階は氏の格に応じて与えられる傾向があり、特定の氏族が高位官職を世襲する温床となった。また、貴族の子弟が無試験で一定の位階を得る蔭位の制は、氏姓に基づく特権を律令制度に公然と組み込んだ代表例である。これは律令導入にあたり、既存の有力豪族層との妥協や、彼らを新たな支配体制に取り込む必要があったことを示す。
- 家族制度・道徳規範の反映: 律令条文、特に戸令などには、日本の伝統的な家族制度(家父長的要素、直系家族中心など)や、儒教の影響を受けた道徳規範(特に「孝」重視)が反映されている。唐律令を参考にしつつも、家族・親族に関する規定は日本の実情に合わせ修正された。
- 令(教化・行政)重視の傾向: 唐律令が「律主令従」、すなわち刑罰による威嚇を統治の基本とする側面が強いのに対し、日本の律令は、令に基づく行政指導や教化を通じ民衆を善導し社会秩序を維持しようとする「令主律従」の傾向があったとも指摘される(異論あり)。犯罪を未然に防ぐ教化・訓示(令の役割)が重視されたという解釈である。
これらの日本的特色は、律令という外来の法体系を、日本の固有の社会・文化・政治の文脈の中で、いかに受容し、変容させ、定着させようとしたか、その格闘の軌跡を示している。律令は単なる模倣ではなく、主体的な選択と創造の産物でもあった。
2. 律令政治機構:中央集権国家の骨格
大宝律令などの法典によって定められた律令国家は、その理念を実現するために、天皇を中心とする体系的な統治機構を備えていました。本セクションでは、この古代中央集権国家の骨格をなす律令政治機構に焦点を当て、中央における**「二官八省制」と、地方における「国・郡・里(郷)制」、そして首都や要衝に置かれた特別行政区画**が、それぞれどのような構造と機能を持ち、国家統治を担っていたのかを解説します。
律令国家の中央政府は、祭祀を司る神祇官と国政全般を統括する太政官(公卿や弁官・史官などが所属)という二官、そして実務を分担する八省(中務省、民部省など)を基本構造としていました。これは唐の制度を参考にしつつ、神祇官を重視するなど日本独自の特色を持つものでした。一方、地方統治は、全国を国・郡・里(郷)に分け、中央から派遣される国司と、在地豪族から任命される郡司などを通じて、中央の統制を末端まで及ぼそうとする重層的なシステムでした。さらに、都(京職)、難波(摂津職)、そして西国の統治と対外関係・国防の拠点(大宰府)には、特別な行政機関が設置されました。
早慶などの難関大学入試においても、この律令官制(二官八省、国郡里制、特別行政区画)の具体的な仕組みと、各官庁・官職の役割についての正確な知識は、律令国家体制を理解する上で不可欠です。これらの機構が、どのように中央集権的な統治を実現しようとし、またどのような特徴や限界を持っていたのかを構造的に理解し、考察する能力が求められます。
本セクションでは、律令国家が構築した中央・地方の統治機構とその機能を具体的に見ていくことで、古代中央集権国家がどのように運営されていたのか、その骨格を明らかにします。この理解が、律令時代の政治・社会を学ぶ上での重要な基礎となるでしょう。
2.1. 中央官制:二官八省制の構造と機能
律令に定められた中央政府の統治機構は、二官八省を基本骨格としていた。これは唐の三省六部制を参考にしつつ、日本の国情に合わせて改変された独自のシステムである。
- 二官(官庁の最上位):
- 神祇官: 前述の通り、日本律令制特有の官庁。全国の神社祭祀、宮中祭祀、国家祭祀、卜占を担当。長官は神祇伯。太政官と同格に置かれ、祭政一致の理念を体現する重要官庁であった。
- 太政官: 国政全般を統轄し、天皇の意思(詔・勅)を伝達・執行し、八省以下の全行政機関を指揮監督する最高行政機関。唐の三省の機能を統合・再編した役割を持つ。内部は、重要政策を審議・決定する議政官組織と、実務担当の**事務局(弁官局・少納言局)**に分かれた。
- 公卿(議政官): 国政の最高決定会議に参加する最高幹部。律令上の定員は、太政大臣(定員外、則闕の官)、左大臣、右大臣(各1名)、大納言(定員4名)。合議で国政重要事項を審議し、天皇に奏上した。平安時代には定員外の中納言や参議も議政官に加えられ、公卿の範囲は拡大する。
- 少納言局: 天皇への奏上・勅旨伝宣、**内印・外印(天皇御璽・太政官印)**管理、官奏受付などを担当。少納言(定員3名)の下に大外記・少外記が置かれ、文書作成や記録にあたった。天皇と太政官を結ぶ重要部署であった。
- 左右弁官局: 太政官事務部門の中核。左弁官局と右弁官局があり、それぞれが管轄する四省(左:中務・式部・治部・民部、右:兵部・刑部・大蔵・宮内)からの上申文書処理、太政官符作成・伝達、諸官庁間連絡調整、文書事務全般を統括。各局に大弁・中弁・少弁(各局合計で定員各1名、計6名)が置かれ、下に実務担当の書記官である大史・少史(各局定員各2名、計8名)などが多数属した。弁官・史官は、律令国家の文書行政システムを動かす上で極めて重要な役割を担った。
- 八省(はっしょう): 太政官の下で具体的な行政事務を分担。各省には原則として**長官(卿)、次官(輔)、判官(丞)、主典(録)**の四階級の官僚(四等官)が置かれた。
- 中務省: 天皇側近として詔勅起草・公布、叙位事務、侍従、宮中儀式、図書・記録・暦管理などを担当。天皇親政理念を反映し、八省中最も重視された。内記、監物、主鈴、典鑰などが所属。
- 式部省: 文官人事、礼式、雅楽・文雅、大学・国学管理などを担当。人材登用に関わる重要省。大学寮も管轄下。
- 治部省: 氏姓管理、氏族名簿作成、仏事・僧尼管理、雅楽、外交使節接待、喪葬などを担当。
- 民部省: 全国戸籍・計帳管理、班田収授監督、田租・出挙徴収・管理、田野・山川管理、交通などを管轄。国家財政の根幹(土地人民把握、田租収入)に関わる極めて重要省。主計寮・主税寮が所属。
- 兵部省: 武官人事、軍事、駅馬・牧管理などを担当。国防と治安維持に関わる省。
- 刑部省: 全国の裁判(特に重罪)審理・判決、刑罰執行、囚人管理などを担当する最高司法機関。
- 大蔵省: 調・庸など官物や貨幣の出納・保管、度量衡管理、工芸品製作(織部司など)を担当。中央政府の主要財源(現物)を管理。
- 宮内省: 天皇家の家政機関。宮中庶務、食事(大膳職)、酒(造酒司)、掃除(掃部司)、後宮関連事務(中宮職、東宮職など)を管轄。
- その他の主要官司: 二官八省以外にも、特定の機能を担う独立官庁が存在した。
- 弾正台: 全官人(中央・地方)の不正・非違を監察・弾劾する機関。現代の監察機関や警察の一部機能に近い。長官は弾正尹または弾正弼。
- 衛府: 宮城警備、行幸警護、儀仗などを担当する軍事組織。衛門府(左右)、衛士府(左右)、兵衛府(左右)の計六衛府(六衛府)。平安時代には統合・再編(近衛府など)されていく。
この二官八省中心の中央官制は、唐制度をモデルとしつつ、神祇官設置や中務省重視など、日本の実情や思想を反映した独自の構造を持っていた。整然とした官僚システムであり、中央集権体制を象徴したが、運用においては次第に特定氏族(特に藤原氏)による高位独占や、令外官設置による実権移動など、形骸化・変質が進んでいく。
2.2. 地方官制:国・郡・里(郷)による重層的支配
律令国家は中央集権的支配を全国に及ぼすため、地方行政組織も体系的に整備した。全国を**国・郡・里(後に郷)**の行政区画に分け、それぞれに官吏を配置し統治した。
- 国(くに):広域行政単位と中央からの支配
- 設置と範囲: 全国は畿内と七道に区分され、下に約60余りの国(令制国)が設置された。境界や数は奈良・平安時代に変更・新設された(例:712年出羽国設置)。国の規模に応じ大国・上国・中国・下国の等級が定められ、国司定員などが異なった。
- 国司(こくし):中央から派遣される地方長官: 各国には中央(式部省・兵部省)から国司が任命・派遣された。守、介、掾、目の四等官で構成されるのが原則(国の等級により定員は異なる)。中央貴族(多くは五位・六位)から任命され、任期は当初6年、後に4年。天皇代理としてその国の行政・司法・軍事全般を統括し、中央命令を執行する重責を担った。具体的には、戸籍・計帳作成管理、班田収授実施、租庸調・雑徭徴収管理、治安維持、訴訟処理、道路・橋梁整備、神社・仏閣監督など、広範な権限と職務を持った。
- 国衙(こくが)・国庁(こくちょう):地方行政の拠点: 国司が政務を執る役所は国衙または国庁と呼ばれ、通常、国の中心に設置された。国庁には政務・儀式施設(正殿、脇殿など)のほか、国司住居、事務官衙、**正倉(租税保管)**群、工房、厨などが計画的に配置され、多数の役人(国司、史生など)や人々が働いていた。全国各地の国衙・国庁跡発掘調査(例:武蔵国府跡、下野国庁跡、周防国衙跡)から、律令時代の地方支配の実態が具体的に明らかになりつつある。
- 郡(こおり/ぐん):在地勢力を利用した中間支配
- 設置と構成: 国の下にいくつかの郡が置かれた。元々古墳時代の国造の支配領域などを基盤に編成されたと考えられ、律令制下では50戸を1里(郷)とし、数里(郷)~十数里(郷)で1郡を構成した。郡の名称は7世紀には**「評」**表記が用いられたが、大宝律令(701年)以降「郡」に統一されたとされる(「評」字木簡年代観には議論あり)。
- 郡司(ぐんじ):在地豪族の任命と役割: 郡行政は郡司が担当。大領、少領、主政、主帳などの官職があった。中央派遣の国司と異なり、郡司は原則としてその地方の有力在地豪族(旧国造層など)から終身で任命された。これは、広大な国土支配の困難さから、律令国家が地方支配を進める上で、在地勢力の協力を活用せざるを得なかったことを示す。郡司は国司の指揮・監督下で、郡内の戸籍・計帳作成管理、班田収授実務、租税(特に調・庸)徴収・貢進、雑徭人民徴発、治安維持、軽微な訴訟調停など、地方行政実務を担った。彼らは中央政府と末端民衆を結ぶ重要役割を果たした。
- 郡家(ぐうけ/こおげ)・郡衙(ぐんが):郡行政の拠点: 郡司が政務を執る役所は郡家または郡衙と呼ばれた。交通至便な場所や郡司一族拠点近くに設けられることが多かった。国衙より小規模だが、政庁、正倉、厨家、工房などが確認され、地方行政の最前線基地機能を果たした。郡衙跡発掘調査(例:下総国埴生郡衙跡、上野国新田郡家跡)も進んでおり、地方支配の具体相解明に重要である。
- 里(さと/り)・郷(ごう):末端の行政単位と民衆把握
- 郷里制から郷制へ: 律令制施行当初、郡下の末端行政単位は里であった。原則50戸で1里、長として里長が置かれた(郷里制)。里長は有力農民から選ばれ、戸口把握、租税徴収末端業務、命令伝達、民衆教化などを担当。しかし50戸単位はやや小さすぎたためか、715年頃制度が改められ、数里(通常2~3里)をまとめ新たに郷とし、郷の下に行政里が置かれる郷制へ移行した。郷には郷長、里には里正が置かれたとされるが、実態や呼称変遷は複雑で地域差もあったと考えられる。郷の名称には好字二字を用いることが奨励された(713年)。
- 末端支配の実態: 里(郷)は国家が民衆を直接把握し、徴税や労役動員を行う基礎単位であった。しかし里長(郷長・里正)は、国家の末端行政官であると同時に地域共同体の代表者でもあり、国家要求と住民生活の間で複雑な立場にあったと考えられる。
この国・郡・里(郷)の重層的地方官制を通じ、律令国家は中央派遣の国司と、在地豪族の郡司、末端の里長(郷長・里正)を組み合わせ、広範な領域と多数の人民を統治しようとした。しかし、中央統制の浸透度、国司・郡司関係、在地社会実態などは地域や時代で大きく異なり、律令規定通りに整然と運営されていたわけではなかった。
2.3. 特別行政区画:都と要衝の統治
通常の国郡制とは別に、首都や外交・防衛上の重要拠点には特別行政機関が置かれた。
- 京職(きょうしき):首都の行政・司法・警察: 都(京、平城京)の行政・司法・警察を担当する官庁として左右の京職が置かれた。長官は左京大夫・右京大夫。京内戸籍管理、土地家屋管理、市場(東西市)監督、治安維持、軽微な訴訟処理など、首都の広範な行政機能を担った。
- 摂津職(せっつしき):難波津の管理と外交拠点: 古代からの重要港湾で外交玄関口でもあった難波津を管轄する特別官庁として摂津職が置かれた。長官は摂津大夫。難波には副都としての難波宮が置かれることもあり、外交使節応接、瀬戸内海交通管理、淀川水系治水など重要役割を果たした。管轄区域は後に摂津国となった。
- 大宰府(だざいふ):西の守りと外交の窓口: 九州全体を統括し、大陸(唐)や朝鮮半島(新羅)への外交交渉最前線窓口であると同時に、国防(特に新羅防衛)司令部としての役割を担う、極めて重要な地方機関が大宰府であった。現在の福岡県太宰府市に置かれ、遺跡(大宰府政庁跡)は特別史跡。
- 組織と権限: 長官は大宰帥、次官は大弐、判官は大監・少監、主典は大典・少典。帥には親王が任命されることもあり(権帥)、次官以下幹部も中央から有力貴族が派遣されるなど、地位は非常に高く「遠の朝廷」とも称された。府内には中央八省に準じた実務官庁が置かれ、管内(西海道九国二島)の行政・司法・軍事を統括する広範な権限を持った。
- 外交機能: 外国(唐・新羅・渤海など)使節接待、遣唐使・遣新羅使派遣準備、海外情報収集など外交実務を担当。大宰府には外国使節宿泊・接待施設の鴻臚館が置かれたと考えられている(福岡市中央区に遺構)。
- 防衛機能: 新羅に対する最前線基地として、管内には多数の軍団が置かれ、防人が東国などから徴発・配置された。また、博多湾岸には巨大土塁・水城、背後山々には大野城・基肄城といった朝鮮式山城が築かれ、厳重な防衛体制が敷かれていた。
これらの特別行政区画は、律令国家が首都維持管理、外交・交易ルート確保、国防といった国家存立に関わる重要課題に、特別体制で対応しようとしていたことを示す。
律令国家が構築したこれらの政治機構は精緻で体系的だったが、その運用は常に順風満帆ではなかった。官僚間権力闘争、中央・地方利害対立、制度硬直化と現実乖離、財政問題など、様々な課題を抱えながら、律令国家の政治システムは奈良時代を通じて展開し、次第に変容していく。
3. 律令官人制:国家を支えるテクノクラートと貴族
律令国家という巨大な統治機構は、それを実際に動かす官僚、すなわち**「官人」たちによって支えられていました。本セクションでは、この律令国家の人的基盤である官人制度に焦点を当て、官人の序列や地位を定めた官位相当制**、貴族の特権であった蔭位の制、人材の登用・評価システムである選叙・考課、そして官人の供給源や彼らが享受した特権など、古代の官僚制度の仕組みとその実態について解説します。律令国家の運営を担った人々の姿を知ることは、この時代の社会と政治を理解する上で不可欠です。
律令官人制の根幹には、官職とその序列を示す位階を対応させる官位相当制がありましたが、同時に、高位貴族の子弟が有利に官界入りできる蔭位の制も存在し、能力主義と貴族主義が併存する複雑な構造を持っていました。官人の任用や昇進は選叙・考課によって行われ、人材は貴族子弟のほか、中央の大学寮や地方の国学、あるいは貢進によって供給されました。官人は国家への奉仕義務を負う一方、位階に応じて経済的・身分的な特権を享受しました。しかし、この制度も時代とともに変容し、特定氏族の台頭や令外官の設置などにより、次第に形骸化していく側面も見られます。
早慶などの難関大学入試においても、官位相当制、蔭位の制、大学寮、官人の特権(位禄・封戸など)、そして令外官といった律令官人制に関する具体的な知識は極めて重要です。制度の仕組みだけでなく、その理念と実態、そして歴史的な変容について理解し、古代の支配層のあり方や国家システムの機能を考察する能力が求められます。
本セクションでは、律令官人制の基本原則から、官人の登用・昇進、義務と特権、そしてその後の変容までを概観します。古代国家を支えた官僚たちの世界を知り、律令制国家の運営実態への理解を深めていきましょう。
3.1. 官位相当制(かんいそうとうせい):位階と官職の序列システム
律令官人制の根幹をなす基本原則が官位相当制である。これは個々の官職に、それに見合った序列を示す位階を対応させる制度である。
- 位階(いかい):官人の序列と身分を示す等級: 位階は官人の身分的序列を示す等級であり、官職就任の資格要件であると同時に、官人が享受する様々な特権(給与、刑罰優遇、蔭位など)の基準ともなった。位階は最高位の正一位から最下位の少初位下まで30階(後に細分化)に細かく分けられていた。特に五位以上の位階を持つ者は貴族(通貴)とされ、六位以下の下級官人とは昇進、待遇、社会的地位で明確な格差が存在した。
- 官職(かんしき):具体的な職務と地位: 官職は各官庁における具体的職務・地位。律令(職員令など)は各官職の職務内容、定員、そしてその官職に任命されるべき者の相当位階を定めていた。例:太政大臣は正・従一位、左大臣・右大臣は正・従二位、大納言は正三位、卿の多くは従三位~正四位下、国司守は従五位上~従六位下など。
- 原則と実態の乖離(守階・行階): 律令原則では、官人は自身の位階に相当する官職に任命されることになっていた。しかし実際には一致しない場合も多かった。
- 守階(しゅかい): 位階が相当位階より高い者が就く場合。
- 行階(ぎょうかい): 位階が相当位階より低い者が就く場合。こちらが一般的で、有能者抜擢や、適当な位階を持つ者不足、位階上昇遅延などの場合に見られた。特に下級官人からの昇進では常態化。 この守階・行階の存在は、官位相当制が硬直的運用ではなく、ある程度の柔軟性を持っていたことを示すが、同時に位階と官職のバランスが崩れやすい構造的問題を内包していたとも言える。
- 叙位(じょい):位階の授与: 位階は、功績、勤務状況、出自に基づき、原則として天皇によって授与された(叙位)。定期昇進(定考)と、天皇即位、改元、祥瑞、特別功績などがあった場合の臨時叙位(恩赦や行幸に伴う叙位など)があった。
3.2. 蔭位の制(おんいのせい):貴族層の特権と世襲化
律令官人制は建前上能力・功績に基づく登用(考課や試験)を目指したが、現実には蔭位の制という有力貴族子孫に著しく有利な制度が組み込まれていた。これは律令制が貴族社会の現実と妥協した側面を色濃く示す。
- 内容:出自による自動的な位階授与: 蔭位の制とは、高位の親や祖父を持つ子や孫が、一定年齢(多くは21歳)に達すると、無試験・無審査で、父祖の位階に応じ自動的に一定位階(蔭位)を授けられ、官人キャリアをスタートできる制度。律令(官位令)規定によれば、例えば親王・諸王の子は従四位下以上、三位以上の子・嫡孫は従五位下、五位以上の子・嫡孫は六位以下の位階が授けられた。特に従五位下は貴族(通貴)の入口であり、三位以上の子なら自動的に貴族キャリアが保証された。
- 意義と影響:貴族層の再生産と門閥化: 蔭位の制は、安定統治のため支配者層を安定的に再生産する目的があったとされる。しかし一方で、能力・実績に関わらず特定家柄(門地)の子弟が官界上層部への道を約束され、貴族層の世襲化・門閥化を制度的に保障した。これにより律令が目指したはずの能力主義的官僚制理念は大きく損なわれ、五位以上の貴族と、試験や考課で昇進を目指す六位以下の下級官人との間には、越えがたい壁が存在した。この制度は、特定氏族、特に藤原氏が政権中枢を世襲的に独占していく(摂関政治)ための重要基盤ともなった。蔭位の制は、律令国家が内包する貴族制的性格を最も端的に示す制度と言える。
3.3. 官人の任用と昇進:選叙(せんじょ)と考課(こうか)
蔭位の制によらず官人となる道(主に大学寮卒業や貢挙合格)や、全官人の昇進は、選叙と考課という手続きで決定された。
- 選叙(せんじょ):任命と昇進の決定: 官職任命(叙任)や位階昇進(昇叙)を決定する手続きを選叙と言う。主に文官は式部省、武官は兵部省が、候補者の資格、能力、勤務評定(考課結果)などを審査し、最終的に太政官を経て天皇が裁可した。
- 考課(こうか):勤務成績の査定: 考課は官人の勤務成績を査定・評価する制度で、毎年1回、所属官庁長官が部下の勤務状況を評価した(考課令規定)。評価は**「善」「最」「平」「怠」などの等級に分けられ、基準として徳義、才幹、功労、恪勤**などが考慮された(四善などと呼ばれる)。考課結果(考文)は式部省・兵部省へ送られ、位階昇進(通常、数年間の評価累積で判断)や、重要官職任命の判断材料とされた。
- 考課制度の実態と限界: 律令規定上は能力・実績に基づく公正評価システムが目指されたが、実際の運用では、上司主観や人間関係、氏族(門地)などが評価に影響することも少なくなかったと考えられる。考課結果を不服として訴える事例も見られ、公正評価が常に保証されていたわけではなかった。また考課制度の煩雑さや蔭位の制存在などから、能力主義徹底には限界があった。平安時代には考課制度は次第に形骸化していく。
3.4. 官人の供給源:貴族子弟、大学寮・国学卒業生、地方からの貢進
律令国家は膨大な官僚機構維持のため、継続的に人材を育成・確保する必要があった。供給源は主に以下のルートであった。
- 蔭位の制による貴族子弟: 前述の通り、高位貴族子弟は蔭位の制により自動的に官人となれた。彼らは比較的高い位階からキャリアをスタートでき、官界上層部を占める主要供給源であった。
- 大学寮(だいがくりょう)と官吏登用試験(貢挙): 中央(京)には式部省管轄下に官吏養成機関として大学寮が設置された。
- 入学資格: 原則五位以上の貴族子弟、または八位以上の上級下級官人子弟中心だが、優秀なら地方国学からの推薦(貢進生)や一般下級官人でも入学許可の場合があった。定員は約400名、学生は寄宿舎生活、学費は官費。
- 学科(四道): 儒教経典(五経)を学ぶ明経道が最重視。他、中国史書・漢詩文を学ぶ紀伝道(後に文章道)、法律を学ぶ明法道、数学・暦学・天文学を学ぶ算道の四学科(四道)が主要。各学科に専門教官(博士、助教)が置かれた。
- 試験(貢挙、こうきょ): 学生は課程(通常数年~十数年)修了後、式部省実施の官吏登用試験(貢挙)に合格すれば官人任用の道が開かれた。試験科目には秀才(最難関)、明経、進士、明法などがあった(中国科挙とは名称・内容が異なる)。しかし合格は非常に難しく、合格者数も限られたため、大学寮卒業生が高位に昇ることは蔭位出身者に比べはるかに困難だった。大学寮は官僚養成機関として一定役割を果たしたが、蔭位の制により能力主義的人材登用システムとしては限定的な機能しか持ちえなかった。
- 国学(こくがく):地方官吏の養成: 諸国国府に、地方官吏(特に郡司子弟など)養成のため国学が設置された。国司管轄下にあり、儒教・法律・書道などを教えた。卒業生は地方官庁(国衙・郡家)実務官僚(史生など)となったり、優秀者は中央大学寮へ貢進生として推薦される道もあった。しかし設置状況や教育水準は国によりばらつきがあったと考えられる。
- 貢進(こうしん):地方からの人材登用: 上記以外にも、地方から特に才能ある人物(学識、特定技能、武芸など)を中央へ推薦・貢上する貢進という制度があった。これも多様な人材を中央官界へ供給するルートの一つであった。
律令国家は蔭位という貴族的要素と、大学・国学や貢挙といった能力主義的要素を併せ持つ、複合的な官人供給システムを持っていた。
3.5. 官人の義務と特権:国家への奉仕と身分的優遇
律令官人は国家統治を担うエリートとして、国家(天皇)への忠誠と職務精励が求められる一方、身分(位階・官職)に応じ様々な特権が与えられた。
- 義務:
- 服務規律遵守: 律令(考課令、官人服務諸規定)に定められた勤務規定(出勤日数、執務態度、文書処理精度・迅速さなど)遵守。
- 天皇への忠誠: 天皇中心の国家秩序に従い、忠実に職務遂行。
- 考課による評価: 毎年勤務成績査定を受け、結果が昇進・処遇に反映。不正・怠慢が発覚すれば処罰(解官、降格、罰金など)対象(弾正台による監察)。
- 特権: 官人、特に高位者には身分維持と国家奉仕奨励のため手厚い特権が保障された。
- 経済的特権:
- 位禄・季禄: 位階に応じ年2回、絹・絁・布・綿などの物品支給。官人の基本的生活給。
- 位田・職田: 位階(五位以上)や特定官職(大臣、大納言、国司など)に応じ田地が支給され、その土地からの収穫(租)を収入とできた(耕作者から地代徴収権)。有力な収入源。
- 位封・職封: 特に高位の皇族・貴族(三位以上など)や特定功績者、特定官職(大臣など)には封戸と呼ばれる特定の戸が指定され、その封戸から国家に納められる調・庸の全部または一部(通常は半分)を収入として受け取れた。極めて大きな経済的特権。
- 資人・駈使丁: 位階に応じ、身辺世話や家政、雑用などに使役できる人員が国家から支給された。官人生活を支える重要特権。
- 刑罰上の特権: 一般良民に比べ刑罰適用で様々な優遇措置。罪を犯した場合でも位階・官職で刑罰減免(官当)や、銅納入で刑罰代替え(贖銅)が可能。一定位階以上は裁判手続きでも特別扱い。ただし八虐のような重罪は特権適用外の場合あり。
- 蔭位の制: 前述の通り、子孫が有利に官界進出できる特権。
- 経済的特権:
これらの特権は官人の身分・生活を保障し、忠誠心・奉仕意欲を高めるものだったが、同時に官人層(特に上級貴族)と一般民衆との間に大きな経済的・社会的格差を生み出し、固定化させる要因ともなった。
3.6. 律令官人制の変容:有力氏族の台頭と制度の形骸化
律令に規定された官人制は、運用の中で社会変化や政治状況変動に対応しながら、次第に変容を遂げた。
- 特定氏族による官職・学問の世襲化(官司請負制へ): 律令制運用が長期化する中で、特定官庁職務や大学寮特定学問分野(明経道、紀伝道、明法道など)が特定氏族により世襲的に受け継がれ、関連官職を独占する傾向(家業化)が強まった。例:明経道は中原・清原氏、明法道は坂上・中原氏、紀伝道(文章道)は菅原・大江氏など。これは平安中期以降に顕著となる、特定氏族が特定官司業務を請け負う官司請負制へ繋がる動きであった。
- 藤原氏(特に北家)の台頭と摂関政治: 藤原不比等の子孫、特に北家(房前の子孫)は、娘を次々天皇の后とし、生まれた皇子を天皇に擁立することで外戚としての地位を確立し、政治的影響力を飛躍的に増大させた。彼らは太政大臣、左右大臣、大納言といった議政官ポストを独占し、他氏族を排除。平安中期(10世紀後半~11世紀)には、天皇が幼少または女性の場合に摂政、成人後も後見役として関白に就任し、天皇に代わって(あるいは輔佐する形で)国政実権を握る摂関政治が常態化。これにより、律令に定められた太政官組織や天皇親政理念は大きく形骸化。
- 令外官(りょうげのかん)の設置と実権の移動: 律令施行後の社会変化や新たな行政需要に対応するため、律令(職員令)に規定のない新しい官職(令外官)が次々設置された。例:参議、勘解由使、天皇側近として機密文書管理・勅旨伝達を行う蔵人所(長官は蔵人頭)、京内警察・司法担当の検非違使などが代表例。これらの令外官は現実の政治運営で重要役割を担い、次第に律令本来の官制(二官八省など)から実権が移る傾向が見られた。特に蔵人所や検非違使は平安時代の政治運営に不可欠な存在となる。
このように律令官人制は、貴族社会論理(門地、家格)や現実の政治力学、社会変化の中で理念と実態が乖離し、次第に変質・再編された。しかし位階制度や官職名は形を変えながらも、その後の中世・近世、さらに近代に至るまで、日本の社会における序列や権威の象徴として長く影響を残す。
4. 律令司法制度:法に基づく秩序維持とその限界
律令国家は、その統治体制を支えるために、法に基づいた秩序維持システム、すなわち司法制度を構築しました。本セクションでは、この律令国家の司法制度に焦点を当て、その根幹をなす律(刑法)と令(行政法など)の役割、具体的な裁判の仕組み(担当官庁や手続き)、そしてその制度が実際にどのように運用され、どのような限界を抱えていたのかについて解説します。古代国家がどのようにして社会の秩序を維持しようとしたのか、その法的側面を探ります。
律令国家の司法は、犯罪と刑罰を定めた**「律」による威嚇と、行政や社会生活の規範を示し教化を促す「令」によって成り立っていました。裁判は、事件の重大性や発生場所に応じて刑部省や国司などが担当し、特に重罪については中央へ上申する録囚(ろくしゅう)制度が設けられるなど、体系化が図られました。しかし、この精緻なシステムも、中央の統制が地方に及びにくい現実や、法知識の普及不足、手続きの煩雑さといった課題を抱えており、平安時代には検非違使**の登場など、制度の変容も見られました。
早慶などの難関大学入試においても、律(五刑、八虐)と令の基本的な役割、主要な裁判機関と録囚制度、そして律令司法が抱えていた限界やその後の変容についての理解は重要です。法に基づく統治の理念と、その運用における現実との関係性を考察する視点が求められます。
本セクションでは、律令に定められた司法制度の構造とその運用実態、そして限界を明らかにしていきます。古代における「法と秩序」のあり方を学び、律令国家の統治システムへの理解を深めていきましょう。
4.1. 律と令:刑罰による威嚇と教化による指導
律令国家の司法システム基礎には、性質の異なる二つの法典、律と令があった。
- 律(りつ):犯罪と刑罰の体系: 主に犯罪(罪名)とそれに対する刑罰を規定した刑法典で、唐律を基本的に継受。内容は非常に体系的で厳しかった。
- 律名(りつめい): 内容ごとに「名例律」「衛禁律」「職制律」「戸婚律」「厩庫律」「擅興律」「賊盗律」「闘訟律」「詐偽律」「雑律」「捕亡律」「断獄律」といった編に分かれていた。
- 五刑(ごけい): 刑罰基本体系は軽い順に、**①笞(10~50回)、②杖(60~100回)、③徒(1年~3年)、④流(遠・中・近流)、⑤死(絞・斬)**の五段階。犯罪軽重に応じ適用。
- 八虐(はちぎゃく): 特に国家(天皇)や尊属に対する重大犯罪は八虐として規定され、原則減刑(官当・贖銅など)や赦免対象とならない極めて重い罪とされた。具体的には①謀反、②謀大逆、③謀叛、④悪逆、⑤不道、⑥大不敬、⑦不孝、⑧不義の八つ。これらの罪を厳しく罰し、律令国家秩序根幹(天皇支配、家族制度)を守ろうとした。
- 刑罰における身分差: 律は全人民適用原則だが、現実に身分差存在。官当や贖銅特権あり。良民と賤民間では同じ犯罪でも刑罰の重さが異なる場合があった(例:賤民が良民を殺傷した方が重罰)。
- 令(りょう):行政・民事・教化: 行政組織、官人服務規律、人民身分、土地・租税、戸籍、儀式、教育など国家運営と社会生活に関する広範な規定を含む。令には民事紛争解決規定(例:戸令の家族・婚姻・相続、田令の土地境界争い)や、行政上の義務違反罰則(過料、解官など)も含まれ、司法的側面も持った。律令国家の統治理念として、律による刑罰威嚇より、令による民衆教化・指導で社会秩序維持に重点が置かれた(「徳治主義」「礼治主義」)とも考えられる。
4.2. 裁判制度:訴訟と審理の手続き
律令に基づく裁判制度は、犯罪種類、事件重大性、当事者身分、発生場所などに応じ、担当官庁や手続きが定められていた。
- 主な裁判機関:
- 刑部省: 全国から上申される重大事件(特に徒刑以上)の最終審理・判決担当の中央最高司法機関。多くは地方からの上申(録囚)に基づき判断。
- 弾正台: 官人不正・非違事件を独自に摘発・審理・弾劾。
- 衛府: 宮中秩序維持関連事件(不法侵入、武器携帯違反など)について警察権・裁判権の一部。
- 京職: 首都(京内)発生の軽微犯罪(杖刑以下)や民事紛争(土地、金銭貸借など)裁判担当。
- 国司: 各国第一審裁判機関として、管内発生犯罪(特に杖刑以下の軽微なもの)や民事訴訟を審理・判決。ただし徒刑以上重罪は判決確定できず、調書を作成し中央**刑部省へ上申(録囚)**し承認を得る必要あり。
- 郡司: 郡内さらに軽微事件(喧嘩、窃盗など)調停や、国司への訴え取り次ぎなど、司法末端で補助的役割。
- 訴訟手続き: 律令(主に獄令)に具体的裁判手続きも規定。
- 告発・訴訟(訴え): 被害者・関係者・第三者が担当官庁(主に国司や京職)に訴え出ることで裁判手続き開始。ただし虚偽告発(誣告)や訴訟乱発は逆に処罰(反坐)対象となるなど、訴権濫用抑制規定あり。
- 審理(訊問、じんもん): 受理した担当官司(裁判官)は原告・被告・証人などを召喚し、事情聴取(訊問)を行い、証拠(人証、物証)を収集。自白が重要証拠とされたが、自白しない場合、拷問も限定的に認められた。律令規定の拷問は訊杖で背中や臀部を打つもので、回数や対象者(高齢者、若年者、妊婦など除外)に制限あり。
- 断獄(だんごく): 審理結果に基づき、裁判官が律令条文に照らし犯罪成否を判断し、有罪なら刑罰を宣告すること(判決)。
- 録囚(ろくしゅう): 地方(国司)が徒刑以上の重刑を科す場合、判決を直ちに執行せず、事件調書(罪状、証拠、適用条文、判決案など)を詳細に記録し、中央刑部省(最終的に太政官・天皇)へ上申し承認(覆審)を得なければならない制度。重大刑罰適用について中央政府が最終決定権を留保し、地方官の恣意的判断や誤審を防ぎ、司法権中央集権化を図る重要制度。録囚手続きは慎重審理を促す一方、裁判長期化を招く側面もあった。
- 赦免(しゃめん): 天皇代替わり、改元、祥瑞出現、大規模災害・疫病後などに、天皇恩徳を示す目的で、特定重罪犯(八虐など)を除き、罪人の刑罰を軽減・免除する大赦や特赦がしばしば行われた。刑罰過酷さを緩和し、社会安定を図る機能も持っていた。
4.3. 司法制度の運用実態と限界:法と現実の狭間
律令に定められた司法制度は、古代では画期的なほど体系的で精緻だったが、運用には様々な課題や限界も存在した。
- 中央集権の限界と地方の現実: 録囚制度などで中央による司法統制が図られた一方、京から遠い地方では国司・郡司の裁量が依然として大きく、必ずしも律令規定通りに裁判が行われていたとは限らない。地域慣習法が優先されたり、在地豪族意向が裁判に影響したりすることもあったと考えられる。交通・通信手段の未発達も中央監督を困難にした。
- 法の不知と識字率の問題: 律令条文は漢文で難解な法律用語も多く、一般民衆が内容を正確に理解することは極めて困難だった。識字率も現代と比較にならないほど低かったと考えられる。そのため民衆は権利義務を十分知ることができず、法を知らないことによる不利益を被ったり、官吏による恣意的法解釈や不公正運用に翻弄されたりする危険性があった。政府は律令周知に努めた形跡(例:『養老律』頒布時の宣布など)もあるが、効果は限定的だっただろう。
- 訴訟の負担と長期化: 裁判を起こすこと自体、一般民衆には時間的・経済的に大きな負担だった。また審理手続きの複雑さや、特に録囚制度による中央への上申・覆審プロセスにより、裁判が長期化することも少なくなかった。
- 検非違使(けびいし)の登場と律令司法の変質: 平安初期(9世紀初頭)に、京内警察・司法・訴訟(特に追捕・断罪)担当の令外官として検非違使が設置された。検非違使は従来の律令官制(刑部省、京職、弾正台)枠を超え、迅速かつ強力な権限(逮捕から判決・刑執行まで一貫して行うことも)を行使し、次第に役割を拡大。これは、律令の分業的で手続き煩雑な司法制度が、平安京の治安悪化や社会変化に十分対応できなくなっていたことを示す。検非違使の台頭は、律令司法制度が変容・形骸化していく象徴的現象であった。
律令司法制度は古代日本で「法に基づく統治」理念を掲げ、体系的秩序維持を目指した点で画期的だった。しかし運用は常に社会実態との調整を必要とし、中央集権限界、法周知不足、手続き煩雑さといった課題を抱え、時代とともに変容していくことになった。
5. 律令身分制度:良賤の区分と社会階層
律令国家は、その統治体制を維持するために、社会を構成する人々を法に基づいて明確に区分する身分制度を定めました。本セクションでは、この律令国家の社会構造の根幹をなす**「良賤制(りょうせんせい)」に焦点を当て、人々がどのように良民と賤民**に分けられ、さらにその内部でどのように階層化されていたのか、その仕組みと実態について解説します。この身分制度は、当時の人々の権利や義務、社会生活を大きく規定するものでした。
律令法典は、基本的に**生まれ(血統)**によって人々を良民と賤民に区別しました。人口の大多数を占める良民は、皇族や貴族・官人から一般の公民、特定の技術を持つ品部・雑戸など、内部でさらに階層化されていました。一方、賤民は「五色の賤」(陵戸、官戸、家人、公奴婢、私奴婢)に区分され、良民とは異なり様々な権利が制限され、所有の対象となるなど、法的に低い地位に置かれていました。律令は良賤間の通婚を禁じるなど、この身分秩序を固定化しようとしましたが、限定的ながら身分解放の道も存在しました。
早慶などの難関大学入試においても、良賤制の基本的な仕組み、良民と賤民(特に五色の賤)の具体的な区分とそれぞれの性格、身分間の関係性についての正確な知識は、律令社会を理解する上で不可欠です。この制度が古代国家の秩序維持に果たした役割と、それが内包する差別構造や歴史的な変容について考察する視点が重要となります。
本セクションでは、律令に定められた良賤の区分、良民・賤民それぞれの内部階層、身分間の関係性、そしてこの制度が持つ歴史的な意義と限界について見ていきます。古代日本の社会構造の基本を学び、律令国家の実像への理解を深めましょう。
5.1. 良賤の区分とその根拠:生まれによる基本的な区別
- 良民(りょうみん): 律令国家の基本的構成員で、原則として公民として扱われた。口分田を班給され、租庸調などの税を納め、兵役などの義務を負う、国家の基本的担い手。皇族、貴族、官人、一般農民など、人口の大多数が良民。
- 賤民(せんみん): 良民とは法的に明確に区別され、人身自由や財産所有権など様々な権利が著しく制限された身分。法的・社会的に低い地位に置かれ、多くの場合、国家や個人に所有・隷属する存在。
- 区別の根拠と起源: 良賤の区別は基本的には**生まれ(血統)**で決定。賤民の子は原則賤民身分を継承(「子は母の賤に従う」原則)。また戦争捕虜や重罪犯が賤民に落とされる場合もあった。律令の良賤制直接モデルは中国(唐)律令だが、日本でも弥生・古墳時代以来、首長層、一般民衆、奴婢のような隷属民が存在しており、律令制は既存社会階層を再編・法制化した側面も持つ。
5.2. 良民の内部階層:皇族・貴族から公民・品部雑戸まで
良民内部にも、出自、職能、地位に応じ、明確な階層や区分が存在した。
- 皇族: 天皇とその一族(親王、内親王、諸王など)。法的・社会的に最高地位、特別待遇。
- 貴族・官人: 位階・官職を持ち、国家統治に関わる支配者層。五位以上の貴族(通貴)は蔭位の制や経済的特権(位田・職田・位封・職封など)を享受し、六位以下の下級官人とは大きな格差があった。
- 公民: 一般農民中心の良民大多数。律令国家の基本構成員。口分田班給権利の一方、租・庸・調・雑徭・兵役といった様々な負担(課役)義務あり。
- 品部(しなべ)・雑戸(ざっこ): 特定専門技術をもって朝廷や官庁に奉仕する集団。元々古墳時代の職業部に由来し、渡来系技術者集団が多く含まれた。律令制下で再編成され、官庁(図書寮、内匠寮、織部司など)に所属し、特定物品製作や労役に従事。公民とは区別され、調・庸・雑徭などが免除される代わり、専門的奉仕義務(品部・雑戸の役)を負った。しかし律令制浸透とともに次第に一般公民との差異は薄れ、同化していく傾向にあった。
5.3. 賤民(五色の賤):所有され、権利を制限された人々
律令(戸令など)規定の賤民は、所有関係や性格により以下の五種類に区分され、五色の賤と呼ばれた。賤民は良民と異なり、人格が完全には認められず、一種の「財産」として扱われる側面を持っていた。
- 陵戸(りょうこ): 天皇・皇族陵墓の守衛・管理を世襲的に義務付けられた人々。特定職役に就く賤民で、五色の賤の中では比較的特殊。「戸」単位で把握され、他の賤民に比べ一定の自律性があったとも言われる。
- 官戸(かんこ): 官庁に所有され、官庁雑役や官田耕作などに従事した賤民。家族を持つことは許されたが、身分と所有権は国家(官庁)に属した。
- 家人(けにん): 有力貴族・豪族などに私有され、主人家内労働(家事、雑用)や耕作などに従事した賤民。官戸より主人による人格的支配が強く、比較的自由度が低かったとされる。
- 公奴婢(くぬひ): 官庁所有の奴隷。男性を奴、女性を婢と呼ぶ。人として扱われず、牛馬同様財産(動産)として数えられ、売買・譲与・相続対象。家族を持つことは原則許されず、労働力再生産単位とは見なされなかった。官庁での最も過酷な労働に従事させられたと考えられる。
- 私奴婢(しぬひ): 貴族・豪族や一般良民(富裕層)に私有された奴隷。公奴婢同様、五色の賤中最下層で、人格はほとんど認められず、完全に主人財産として扱われた。売買・譲与・相続対象となり、過酷な労働に従事。良民が私奴婢を所有できる上限数も律令で定められていた。
賤民人口比率は全体から見れば数パーセント程度(地域差あり)と推定されるが、彼らは律令社会最底辺にあって様々な労働を担わされる重要存在だった。
5.4. 身分間の関係と移動の可能性
律令は良賤区分を明確にし、その間の交流を制限しようとした。
- 良賤間の通婚禁止: 律令(戸令)は良民と賤民間の婚姻(良賤交婚)を原則禁止。もし子が生まれた場合、子は賤民身分とされる**「良賤相婚、子は母の賤に従う」**原則があった(解釈には諸説あり)。身分秩序固定化のための規定であった。
- 財産としての扱い: 賤民、特に奴婢は法的に「物」として扱われ、売買・譲与・相続対象。正倉院文書には奴婢売買契約書なども残る。
- 身分解放(放賤)の可能性: 賤民が良民になる道は完全に閉ざされていたわけではないが、非常に限定的だった。
- 放免(ほうめん): 主人(個人所有の家人・私奴婢の場合)が自らの意思で所有賤民を解放すること。
- 国家による解放令: 国家が政策的に特定賤民(主に官戸・公奴婢)を良民として解放することも稀にあった(例:760年代の称徳天皇による大規模官奴婢解放)。仏教功徳思想や労働力構成変化などが背景にあったと考えられる。
- 高齢による解放: 律令には66歳以上の官奴婢は届出により解放(免賤)される規定もあった。 しかしこれらの解放は例外的で、大多数の賤民は生涯その身分に留め置かれた。
- 戸籍への登録と管理: 良賤身分は6年ごとに作成される戸籍に明確に記載され、国家により厳格に管理された。これにより身分に基づく課役賦課や身分秩序維持が図られた。
5.5. 律令身分制の意義と変容:秩序維持と差別の構造
律令国家にとって良賤制は、人民を明確な階層秩序に位置づけ社会安定を維持し、支配体制を確立するための根幹制度だった。特に賤民は貴族・官庁の労働力として、また社会最底辺を構成することで、律令社会構造を支える重要役割を(被支配者として)担った。
しかし生まれにより人の自由・権利が著しく制限されるこの身分制度は、非人間的側面や社会発展阻害側面も持っていた。平安時代に入ると律令制自体の弛緩や社会経済変化(公民層分解、荘園発達)の中で、律令規定の厳格な良賤区分は次第に実態と合わなくなり、形骸化していく傾向が見られた(例:賤民逃亡、解放による人口減少、経済活動による地位向上者の出現など)。
中世以降、律令制下の良賤制度は解体されるが、賤視観念や特定職業・出自への差別意識は形を変えながら日本社会に根深く残り、後世(中世の非人・河原者、近世の穢多・非人など)の被差別民問題へ繋がる。
6. 土地・人民支配制度:律令国家の経済的基盤
律令国家という巨大な中央集権体制を維持するためには、広範な土地と多数の人民を国家がどのように把握し、支配するか、そしてそこからどのようにして経済的な基盤を引き出すか、という課題が極めて重要でした。本セクションでは、この律令国家の統治の根幹をなす土地と人民に対する支配制度に焦点を当て、その基本理念である公地公民制から、具体的な人民把握の台帳である戸籍・計帳、土地制度としての班田収授法、そして人民に課せられた租庸調・雑徭・兵役・出挙といった諸負担まで、国家の経済的基盤を支えたシステムについて解説します。
律令国家は、原則として全ての土地と人民を天皇(国家)のものとする公地公民制を理念として掲げましたが、その現実は貴族の特権などが温存され、完全な実現には至りませんでした。しかし、この理念に基づき、国家は戸籍・計帳を作成して人民を把握し、班田収授法によって人民に口分田を班給(建前上)する一方で、租・庸・調の三税や雑徭・兵役といった重い負担を課しました。また、出挙という公的な貸付制度も重要な財政収入源となりました。
早慶などの難関大学入試においても、これらの**律令制下の土地・人民支配に関する諸制度(公地公民制、戸籍・計帳、班田収授法、租庸調・雑徭・兵役・出挙)の具体的な内容とその仕組み、そしてそれぞれの意義と限界(特に人民への負担や制度の形骸化)**について正確に理解しておくことは必須です。これらの制度が律令国家の経済基盤としてどのように機能したのかを考察する力が求められます。
本セクションでは、律令国家が構築した土地・人民支配の精緻なシステムとその実態、そしてそれが抱えていた課題について見ていきます。古代国家の経済的基盤と人民支配のあり方を学び、律令制社会への理解を深めましょう。
6.1. 公地公民制(こうちこうみんせい):理念と現実の乖離
- 理念:天皇による一元的支配: 公地公民制とは、原則として全国全ての土地(公地)と人民(公民)は天皇(国家)に属するという理念・原則。古墳時代以来の豪族による土地(田荘)・人民(部曲)私有・支配を否定し、天皇による一元的・直接支配実現を目指すもの。大化改新の詔(史実性は要検討)にもその精神が謳われ、律令国家支配の正当性を支える重要イデオロギーとなった。
- 実態:理念の不徹底と特権の温存: この公地公民理念は理想的統治原則だったが、現実には完全には実現されなかった。
- 皇族・貴族・豪族層の特権: 蔭位の制による世襲的地位、位田・職田(事実上の私有地に近い)、位封・職封(封戸からの収入)、資人・駈使丁といった人的支配権など、皇族・貴族・豪族層は依然として大きな経済的・人的特権を律令制度下で保障されていた。
- 寺社への寄進と寺社領: 大寺院・有力神社も国家から広大な田地(寺田・神田)を与えられたり、貴族・民衆から寄進を受けたりして、大規模所領(後の荘園の前身)を形成。これら寺社領も公地公民原則の例外となった。
- 墾田私有の公認: 723年の三世一身法、特に743年の墾田永年私財法により、新規開墾地の私有が公認されると、公地公民原則は根底から大きく揺らぎ、土地私有化(荘園化)が加速していく。
- 地方支配の実情: 地方では国司・郡司(特に在地豪族の郡司)が実質的な土地・人民支配権を握り、中央政府統制が完全に行き届かない側面もあった。
このように公地公民制は律令国家支配を正当化するイデオロギーとしては機能したが、施行当初から多くの例外・矛盾を内包し、現実の土地・人民支配はこの理念と乖離した形で展開していく。
6.2. 戸籍(こせき)・計帳(けいちょう):人民把握の台帳システム
律令国家が広範な人民を把握し、班田収授や課役賦課の基礎とするため、国家的規模で作成・管理したのが戸籍と計帳という二つの台帳であった。
- 戸籍(こせき):人民の基本台帳
- 作成と記載内容: 律令(戸令)規定により6年に1度(造籍)作成される、人民身分関係登録の基本台帳。戸を単位とし(通常複数の家族含む拡大家族)、戸主中心に、全構成員(戸口)の氏名、性別、年齢、戸主との続柄、良賤の別などを詳細記載。国・郡・里(郷)ごとに作成され、正確性が期された。
- 目的: ①班田収授(口分田班給・収公)、②課役(特に庸・調・兵役)対象者確定、③身分関係公証、④犯罪捜査・訴訟での身元確認など、律令国家人民支配の最基本台帳。
- 保存と史料: 作成戸籍は国府で副本保管、正本は中央民部省へ送付、30年間保存規定。一部(断簡)が奇跡的に正倉院文書などに現存(例:「御野国大宝二年戸籍断簡」「筑前国嶋郡川辺里大宝二年戸籍断簡」など)、当時の家族構成(大家族が一般的)、男女比、年齢構成、良賤比率、氏名表記(多様な万葉仮名使用)などを具体的に知ることができる極めて貴重な一次史料。
- 計帳(けいちょう):課税のための台帳
- 作成と記載内容: 毎年1度作成される、主に課役(特に調・庸)賦課のための台帳。戸籍に基づき作成されるが、より課税対象者把握に重点が置かれ、各戸構成員の氏名、年齢、性別のほか、課税上区分(正丁、次丁、中男、少丁、耆、老、残疾、篤疾など)が明記された。
- 目的: その年の調・庸賦課・徴収の基礎資料であり、また戸籍補完、毎年の人口変動(死亡、出生、逃亡、年齢変化による課税区分変更など)把握役割。
- 保存と史料: 計帳も国府と中央(民部省)で保管。一部が正倉院文書などに残存(例:「豊前国仲津郡丁里大宝四年計帳断簡」)、戸籍と合わせ、律令制下の人民支配と租税システム実態解明に重要史料。
- 台帳作成・管理の困難と不正: これら戸籍・計帳作成・管理は、地方官吏にとって極めて重要かつ煩雑な業務だった。正確な台帳作成・維持には膨大な事務作業と人民からの正確な申告が必要だったが、現実には多くの困難が伴った。人民側には重課役を逃れるため年齢・性別を偽る偽籍や、本貫から無断離脱する浮浪や、完全に姿をくらます逃亡が後を絶たなかった。これらは国家による正確な人民把握を次第に困難にし、班田収授や租税徴収基盤を揺るがす大きな要因となった。政府は逃亡者捜索・送還の括浮浪などの対策を講じたが、根本的解決には至らなかった。
6.3. 班田収授法(はんでんしゅうじゅほう):公地公民理念に基づく土地制度
公地公民制理念を土地制度で具体化したのが班田収授法であった。国家が人民(公民)に土地(口分田)を班給し、死後に収公(国家へ返還)するという、律令国家の土地・租税制度の根幹システムであった。
- 班給(口分田の支給):
- 対象: 原則、戸籍登録の6歳以上の全良民男女(公民)。賤民にも身分に応じ良民より少ない面積班給(例:家人・私奴婢は良民男女の3分の1)。
- 基準(班給額): 年齢・性別で口分田面積が定められた(田令)。良民男子:2段(約24アール)、良民女子:男子の3分の2(約16アール)、官戸・公奴婢:良民男女と同額、家人・私奴婢:良民男女の3分の1。
- 手続きと管理: 班給は6年に1度の戸籍に基づき、国司責任下で実施(班田)。新班給年齢(6歳)到達者には与え、死亡者の口分田は収公。班給土地は田図(土地台帳・地図)に記録・管理。全国水田は条里制と呼ばれる碁盤目状区画に基づき整然と区画され、班給・管理が行われたと考えられる(条里制起源・律令関係には諸説あり)。
- 収公(死亡による返還): 班給口分田はあくまで国家からの貸与地であり、受給者**死亡で国家に収公(返還)**が原則。これにより土地私有化・集中を防ぎ、国家による一元的土地管理と、次世代への安定土地分配維持を図った。
- 売買・貸借の制限: 口分田は公地のため、永年売買は原則禁止。ただし耕作不能などの理由で、一定期間(通常1年以内)他人に貸し付けること(賃租)は認められた。
- 班田収授の実態と問題点―理念と現実の乖離―: 律令規定の班田収授法は理想的土地制度に見えるが、運用は当初から多くの困難・矛盾を抱えた。
- 班田実施の困難化と形骸化: 律令の六年一班規定は、膨大な事務量、測量技術限界、人民把握困難(偽籍・逃亡)から、全国規模での厳格実施は極めて困難だったと考えられる。特に人口増で班給口分田が不足すると事態は深刻化。奈良時代末期には班田間隔が十二年一班に延長されたが、それでも実施は滞りがちになり、平安時代の902年の班田が記録上ほぼ最後となり、律令規定の形での班田収授は事実上行われなくなった。班田収授制実施状況については、従来は比較的忠実に実施されたと考えられてきたが、近年の研究では当初から限定的だったとする説(地域限定説)や、ほとんど実施されなかったとする説(否定説)も提出され、議論が続いている。
- 土地の質の不均一: 班給口分田は条里制区画でも土地質(肥沃度、水利条件など)にばらつきがあった。班給時の割当基準は不明点が多く、有力者・役人に有利な配分が行われた可能性も否定できない。
- 家族(戸)単位での経営: 口分田は個人班給だが、実際の耕作は家族(戸)単位。そのため戸内労働力多寡、耕作技術、経営能力などで、同じ面積でも収穫量に大きな差が生じ、農民間経済格差拡大の一因ともなった。
班田収授法は理念として人民に最低限の生活基盤(土地)を保障し、安定租税徴収を可能にすることで、律令国家維持に不可欠な制度だった。しかし運用は人口増加、人民移動、土地私有化進展の中で次第に行き詰まり、8世紀以降、律令的土地制度は大きく変容していく。
6.4. 租庸調制(そようちょうせい)と雑徭(ぞうよう):公民を支え、公民を苦しめた負担
律令国家の人民(主に公民)は、口分田班給(建前)の見返りとして、様々な税(租税)や労役(労役地代)を負担する義務を負った。中心となったのが租・庸・調の三税(租庸調制)と、**雑徭と呼ばれる労役であった。これらの負担は主に正丁(21歳~60歳の健康な良民男子)**を対象に賦課され、彼らの生活に重くのしかかった。
- 租(そ):土地(口分田)からの収穫物(稲)税
- 内容: 班給口分田収穫物(稲)に課される税(田租)。税率は収穫量の約3%(1段あたり粟2束2把、後に1束5把に軽減)と定められた。唐制度導入だが日本では稲で納入が一般的。
- 納入と用途: 収穫稲(籾)で納入され、各国国衙正倉に備蓄。租は主に地方(国衙)財源となり、国司・在庁官人給与(の一部)、国衙運営経費、災害時救済食料(義倉の役割も)、出挙元本などに充てられた。
- 庸(よう):本来は労役、多くは布で代納
- 内容: 元々は正丁が年10日間、都へ上り労役(歳役)に従事する義務。しかし遠方民には負担大のため、多くの場合代わりとして布(主に麻布)納入(代納)が一般的。正丁一人あたり布2丈6尺(約7.8m)または同価値の米、塩などで代納。
- 納入と用途: 庸として納められた布などは原則**中央政府(民部省・大蔵省)**へ運ばれ、官人給与(位禄・季禄)や中央官庁経費などに充てられた。
- 調(ちょう):地方の特産物を納める物品税
- 内容: 各地域特産物を現物で納入する税で、これも正丁一人あたり賦課。主な品目は**絹、絁、糸、綿、布など繊維製品だったが、地域により染料(茜、紫草など)、油(荏胡麻油など)、紙、漆、金属(鉄、銅など)、海産物(塩、魚介類、海藻など)、その他手工業製品なども納められた(『延喜式』**に諸国調品目が詳細記載)。
- 副物(そわつもの): 調には主要貢納物(正調)に加え、副物と呼ばれる追加品物(例:農具、塩、酒、油、染料、地方特産加工品など)が課される場合があった。
- 納入と用途: 調も庸同様、原則**中央政府(民部省・大蔵省)**へ運ばれ、官人給与、国家経費、宮廷需要(天皇・后妃衣服、調度品など)に充てられた。調品目は多様で、当時の各地域産業・特産物を知る上で重要。
- 運脚(うんきゃく):庸・調運搬の重い負担: 徴収された庸・調を地方国衙から都まで運搬する義務も人民(主に正丁)に課せられた。これを運脚と言う。運脚は自らの食料負担(自弁)で徒歩長距離移動、往復数ヶ月要することも稀ではなかった。運搬中事故(荷物損傷、盗難)や病気、負担の重さからの逃亡も後を絶たず、人民には極めて過酷な負担だった。『万葉集』にも運脚の苦しさを詠んだ歌が見られる。
- 雑徭(ぞうよう):地方での臨時労役
- 内容: 国司が管轄国内土木工事(堤防・池・溝修築、道路・橋梁整備、官衙建設・修理など)やその他雑役(官衙清掃、物品運搬など)のため、正丁を年60日限度で無償徴発できる労役。都労役の庸(歳役)とは別個の地方負担。
- 負担の重さ: 雑徭は日数(年間60日以内)こそ定められたが、具体的内容・時期は国司裁量部分が大きく、規定超え過重負担となることも少なくなかった。農繁期動員もあり、農民には租庸調以上に苦しい負担の一つだったと言われる。
これらの租庸調および雑徭負担は、律令国家財政とインフラ整備を支える上で不可欠だったが、その負担は公民、特に正丁に集中し、生活を著しく圧迫。負担から逃れるための偽籍や浮浪・逃亡を誘発し、ひいては律令制根幹である公民層分解を促す大きな要因となった。
6.5. 兵役(へいえき):国防と警備の義務
律令国家は対外防衛(特に新羅警戒)と国内治安維持のため、人民(主に正丁)に兵役義務も課した。これも公民の重い負担の一つだった。
- 軍団(ぐんだん):地方の常備軍
- 設置と編成: 全国主要国(辺境・戦略要地除く)に常備軍組織として軍団設置。兵士は各国正丁中、およそ3~4人に1人の割合で徴兵され、一定期間交替勤務。軍団指揮官(大毅、少毅など)は主に地方郡司層などから任命。
- 任務: 国内治安維持、国衙など警備、定期的軍事訓練。有事には防衛や征討軍兵力として動員。軍団は国司指揮下。
- 装備・食糧の自弁: 兵士は武器・武具や訓練・勤務中食糧の一部を自弁する必要があり、経済的負担も軽くない。
- 弱体化と健児制へ: しかし徴兵農民兵士の質(訓練不足、士気低さ)や装備質の悪さなどから、軍団兵士戦闘力は必ずしも高くない。また兵役負担嫌う農民逃亡・忌避も多く、奈良後半~平安初期に軍団制は次第に機能不全へ。このため桓武天皇時代(792年)、辺境(陸奥・出羽・佐渡)と九州(西海道)を除き全国軍団が原則廃止され、代わりに郡司子弟などから選抜された少数精鋭健児が国衙警備などを担う制度へ移行。これは律令的公民皆兵原則が崩れ、軍事力が専門化・在地化していく大きな転換点。
- 衛士(えじ):都(宮城)の警備兵
- 任務と派遣: 都へ上り宮城諸門警備担当兵士。主に東国(関東・東海地方など)軍団兵士から一定数選抜・交代派遣。任期1年。衛士府所属。
- 負担: 都生活費・旅費負担重く、故郷離れての勤務は精神的にも負担。食料一部支給も自弁部分多かったと考えられる。
- 防人(さきもり):辺境(主に九州北部)の防衛兵
- 任務と派遣: 律令国家国防上の最重要課題だった九州北部(特に大宰府管内)防衛(主に対新羅)のため辺境警備就く兵士。主に東国(特に坂東諸国)軍団兵士から徴発され、遠く九州へ派遣。任期3年。
- 負担の過酷さ: 衛士以上に過酷。家族と遠く離れた異郷で、厳しい自然環境や敵襲に備えながら長期間勤務。旅費・装備・食糧負担極めて重く、任期中病気・死亡者も少なくなかった。**『万葉集』**には防人や送る家族の悲痛な心情を詠んだ歌(防人歌)が多数収められ、当時の人々の苦難と国家による強制動員の現実を生々しく伝える(例:「唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母なしにして」)。
兵役もまた公民、特に正丁にとって極めて重い負担であり、生活・農業経営を圧迫し、偽籍・逃亡、反乱の一因となることもあった。軍団制廃止は負担軽減側面もあったが、同時に律令国家軍事基盤が大きく変容したことを示す。
6.6. 出挙(すいこ):国家による貸付とその二面性
出挙は律令国家における重要財政収入源の一つであり、同時に農民経営にも大きな影響を与えた、一種の公的な稲の貸付制度であった。
- 内容(公出挙): 主に春の農作業開始時期(種籾・食糧不足期)に、国家(主に国司管理の国衙正倉)が農民に稲(籾)を強制的に(あるいは半強制的に)貸し付け、秋収穫後に利息(利稲)と共に返済させる制度。これを公出挙と言う。
- 利息率: 非常に高く、律令規定では元本の5割(50%)が一般的(「五割の利」)。農民には極めて重負担のため、後に桓武天皇時代(8世紀末)に**3割(30%)**に引き下げられたが、依然高利だった。
- 目的と機能(救済 vs 財政収入): 元々は凶作・飢饉時に農民に食糧・種籾を貸し付け生活救済する賑恤的な目的も持ったと考えられる。しかし律令国家財政運営において、出挙から得られる利稲が国衙運営経費や官人給与などを賄う重要財源として位置づけられるようになると、次第に財政収入確保側面が強まった。国司は利稲収入目標(正税と呼ばれる)達成のため、農民の必要性に関わらず強制的に稲を貸し付ける(強制出挙)ことも横行した。
- 私出挙(しすいこ): 国家の公出挙とは別に、有力貴族、大寺社、富豪農民などが私的に農民に稲や財物(布など)を貸し付け、高い利息を取ることも広く行われた。これを私出挙と言う。利息率は公出挙以上に高利(時に10割=100%超も)の場合も多く、農民困窮をさらに深める要因となった。
- 農民経営への影響(格差拡大): 高利の公・私出挙は多くの農民経営を圧迫し、返済不能農民が土地(口分田や私有地)を手放したり、有力者に労働力として隷属化(負債奴隷状態)したりする原因となった。これにより一般公民層没落が進んだ。一方、富裕農民(富豪層、田堵)は私出挙を通じ利殖を図り、さらに富を蓄積し、没落農民の土地を集積して経営規模を拡大。出挙制度は律令社会における経済格差拡大と農民層階層分化を加速させる重要要因となった。
このように律令国家は、戸籍・計帳による人民把握、班田収授法による土地管理、そして租庸調・雑徭・兵役・出挙といった多岐にわたる負担を通じ、人民を支配し、国家財政を維持しようとした。これらの制度は古代国家としては極めて体系的で精緻だったが、運用は理念通りにはいかず、多くの矛盾・困難を抱えていた。特に人民への過重負担は偽籍・浮浪・逃亡といった抵抗を生み、農民層疲弊と階層分化を招いた。そしてこれらの社会経済的変化は、律令国家体制そのものを内側から揺るがし、次の時代への変容を促していく。