早慶日本史 講義 第2講 古代:律令国家の成立

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目次

第二章 大王権力の確立と東アジア世界:ヤマト政権の飛躍と変容(5~6世紀)

旧石器時代が終わりを告げ、最終氷期の終焉に伴う温暖化という大きな環境変動の中で、日本列島には新たな文化の時代が花開きます。それが、世界史的に見ても稀有な、1万年以上にわたって続いた**「縄文時代」**です。本章では、土器の発明という技術革新を契機とし、狩猟・漁撈・採集を基盤としながらも、定住化を進展させ、豊かで複雑な精神世界を育んだ、この魅力あふれる縄文時代の全体像を多角的に探求してまいります。縄文文化は、その後の弥生文化、さらには現代にまで繋がる日本文化の重要な基層を形成したと考えられており、その実像を理解することは日本史学習の根幹をなすものと言えるでしょう。

この長大な縄文時代を理解するために、本章ではまず、時代の定義や「縄文」という名称の由来、そして1万数千年に及ぶその時間的な射程を確認します。次に、縄文文化が展開した舞台である完新世の自然環境、特に温暖化に伴う縄文海進や植生の変化が、人々の生活にどのような影響を与えたのかを見ていきます。続いて、土器型式学に基づいた縄文時代の時間的な変遷(編年)を追い、草創期から晩期までの6つの時期区分における文化の移り変わりを概観します。そして、縄文時代を象徴する土器そのものに焦点を当て、その技術、形態・文様の変化、そして生活にもたらした意義を深く掘り下げます。さらに、狩猟・漁撈・採集といった多様な生業活動の具体的な姿と、近年注目される**「縄文農耕」論争についても触れます。また、人々の暮らしの場であった集落がどのように発展し、定住生活が本格化していったのか、特に三内丸山遺跡に代表される大規模集落の存在意義も考察します。加えて、土偶や石棒、環状列石や墓制などを通して、縄文人の豊かな精神世界**を探り、交易ネットワークによって列島規模で結ばれていた社会の広がりにも目を向けます。最後に、縄文人自身の身体的特徴や、最新のDNA分析が明らかにしつつあるその系統と現代日本人との繋がりについても解説します。

早慶をはじめとする難関大学の入試においては、縄文時代は極めて重要な出題範囲です。各時期の年代、文化の特徴、代表的な遺跡・遺物に関する正確な知識はもちろんのこと、**環境変動との関わり、技術革新の意義、社会の複雑性、精神文化の多様性、地域性、そして近年の研究動向(年代観の見直し、DNA分析など)**といった多岐にわたるテーマについて、深く理解し、多角的に考察する能力が求められます。

本章を通じて、縄文時代を単なる「原始時代」としてではなく、自然と共生しながら高度な技術と複雑な社会、そして豊かな精神性を育んだ、ダイナミックで魅力的な時代として捉え直し、その全体像と歴史的な意義についての理解を深めていただくことを願っています。

1. 古墳時代中期(5世紀):巨大古墳と武人たちの時代 – 大王権力の頂点

4世紀に確立した前方後円墳体制は、続く5世紀(古墳時代中期)に入ると、ヤマト政権の大王権力がまさに頂点を迎えたことを示す、壮大な展開を見せます。本セクションでは、この古墳時代中期に焦点を当て、日本史上空前絶後となる巨大古墳の築造と、それに伴う文化や社会の変化、特に武人としての王の性格が前面に現れてくる様相を解説します。この時代の理解は、ヤマト政権の権力基盤と古墳文化の最盛期を知る上で不可欠です。

5世紀の最大の特徴は、築造の中心地が奈良盆地から大阪平野(河内・和泉)へと移り、大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)などに代表される、墳丘長400mを超える巨大前方後円墳が集中して築かれたことです(百舌鳥・古市古墳群)。墳丘の形態も前方部が広大化し、造出が発達するなど、権力を視覚的に誇示する演出が強化されました。また、副葬品は前期の呪術的性格から一変し、大量の武器・武具や馬具が中心となり、形象埴輪も人物や動物(特に馬)が隆盛するなど、大王や豪族の武人的性格が色濃く反映されるようになります。埋葬施設にも横穴式石室導入の兆しが見られ始めます。

早慶などの難関大学入試においても、古墳時代中期のこれらの特徴は極めて重要です。巨大古墳群(百舌鳥・古市)、副葬品の変化(武具・馬具中心)、形象埴輪の隆盛などを正確に把握し、それが大王権力の絶頂や武人的性格の強調とどのように結びつくのかを考察する能力が求められます。

本セクションでは、巨大古墳の出現、墳丘・埋葬施設・副葬品・埴輪の変化といった中期古墳文化の具体的な内容を通して、ヤマト政権の権力が頂点を極めた5世紀という時代の特質とその背景を探ります。

1.1. 巨大古墳の出現:河内・和泉への中心移動と百舌鳥・古市古墳群

4世紀代奈良盆地(大和)の巨大前方後円墳(大王墓級)は、5世紀に入ると築造中心地を大阪平野の河内・和泉地域へ劇的に移す。背景には国際港難波津に近く大陸・半島交通・外交拠点として、また新経済基盤として大阪平野の戦略的重要性増大、この地域基盤の有力豪族(渡来系氏族含む)との連携強化等が指摘される。ここに日本史上空前絶後の巨大古墳群、古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)と百舌鳥古墳群(堺市)が出現。これらは2019年に**「百舌鳥・古市古墳群:古代日本の墳墓群」として世界文化遺産**登録された。

  • 古市古墳群: 大阪平野東南部、5世紀前半~6世紀前半に誉田御廟山古墳はじめ200m~400m級巨大前方後円墳集中。
    • 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(羽曳野市):墳長約425m。全国第2位。伝応神天皇陵。5世紀前半築造推定。
    • 仲津山(なかつやま)古墳(藤井寺市):墳長約290m。伝仲姫命陵。5世紀中頃。
    • 市野山(いちのやま)古墳(藤井寺市):墳長約230m。伝允恭天皇陵。5世紀後半。
  • 百舌鳥古墳群: 大阪平野北西部、主に5世紀中頃~後半に大仙陵古墳はじめ巨大古墳築造。
    • 大仙陵(だいせんりょう)古墳(堺市):墳長約486m。全国第1位、日本最大古墳。伝仁徳天皇陵。三重周濠含め全長約840m。世界最大級墳墓。5世紀中頃築造推定。
    • 上石津ミサンザイ(かみいしづみさんざい)古墳(堺市):墳長約365m。全国第3位。伝履中天皇陵。5世紀中頃。
    • ニサンザイ古墳(堺市):墳長約290m。宮内庁治定なしだが巨大。5世紀後半。

これらの巨大古墳築造は、前期古墳を遥かに凌駕する労働力・資材・高度計画性・技術結集であり、これを可能にした5世紀ヤマト政権(特に応神・仁徳朝とされる時期)大王権力がまさに頂点にあったことを示す。

1.2. 墳丘形態の変化:権力誇示の空間演出

中期古墳は巨大さだけでなく、墳丘形態・付属施設にも権力視覚的誇示と儀礼空間性格強める変化が見られる。

  • 前方部の広大化・高まり: 前期では撥形開き後円部より低かった前方部が、中期には幅広く高く長大化。前方部比重増、後円部との高さ差縮小。前方部が付属空間でなく後円部と並ぶ重要空間認識、あるいは前方部儀礼(王位継承儀礼等)重要性増示唆。
  • 造出(つくりだし)の発達: 墳丘側面(くびれ部等)に祭祀儀礼用舞台のような方形突出部造出設置が一般化。造出上に家形埴輪・器財埴輪等集中配置多く、儀式具体様子復元手がかり。
  • 二重・三重の周濠: 大仙陵古墳のように墳丘周囲に二重・三重周濠と周堤巡らされる例も出現。墳墓規模さらに壮大に見せ聖域性高めると共に、掘削土を墳丘盛土へ効率利用する合理的側面も。

これらの変化は、古墳が単なる埋葬施設でなく、大王絶大権力視覚的誇示し人々圧倒する巨大モニュメント、あるいは王権正統性示す壮大儀式空間としての性格を一層強めたこと示す。

1.3. 埋葬施設の変革:横穴式石室の導入と家形石棺

中期には埋葬施設構造にも大変化の兆し。大陸からの新技術・文化流入と葬送観念変化反映。

  • 横穴式石室の導入: 5世紀中頃以降、朝鮮半島(百済・伽耶地域)から新埋葬施設横穴式石室伝来、次第に普及開始。墳丘側面から水平通路**羨道(せんどう)通り奥の遺体安置主室玄室(げんしつ)**に至る構造。
    • 追葬可能: 従来の竪穴式石室・粘土槨が基本的に一棺一主体前提密閉に対し、横穴式石室は入口塞げば後から追葬可能。普及は古墳が個人墓から家族墓・氏族墓へ性格強める大契機に。
    • 普及のタイムラグ: ただし中期(5世紀)ではまだ一部古墳(特に渡来人関連や地方小古墳)採用にとどまり、畿内巨大古墳(大王墓級)では依然伝統的竪穴式石室(墓壙内石棺形式)主流。全国的一般化は後期(6世紀)から。
  • 石棺の大型化と多様化:
    • 長持形石棺: 畿内巨大古墳では、竪穴式石室(墓壙)内に家屋屋根状蓋持つ長大箱形長持形石棺(主に凝灰岩製)使用。極めて格式高く大王クラス限定か。
    • 家形石棺: 5世紀後半頃から横穴式石室普及と関連し、実際の家屋(切妻造・入母屋造)形模した家形石棺登場。凝灰岩等で作られ当時建築様式知る手がかり。

これらの変化は朝鮮半島からの新葬送文化流入と、死後世界観・家族観変化(追葬受容)反映。

1.4. 副葬品の変化:武具・馬具中心へ – 武人としての王の表象

中期副葬品は、前期の呪術・司祭的性格から様変わりし、鉄製武器・武具や新登場馬具といった武人的・軍事的性格強く示す遺物が中心。当時の大王・豪族が対外軍事活動・国内支配で武力極めて重視したこと反映。

  • 武器・武具の質・量の充実:
    • 甲冑: 大量副葬。短甲(前期から存在)に加え、多数鉄小札連結の挂甲(けいこう)(甲・冑セット)新登場し主流に。挂甲は乗馬戦闘に適し朝鮮半島伝来新タイプ。兜にも衝角付冑等特徴的。
    • 刀剣: 長大鉄製直刀多数副葬。金銀装飾豪華な装飾付大刀もあり権威象徴意味合いも。
    • 弓矢: 鉄鏃も引き続き重要で大量出土。
  • 馬具の出現と普及: 5世紀、馬制御用馬具(轡、鐙、鞍セット)が武器・武具と共に副葬開始。朝鮮半島から乗馬風習・騎馬技術本格伝来、ヤマト政権軍事力中核に騎馬隊導入の画期的出来事示す。馬具は鉄製実用品だけでなく金銅製豪華装飾馬具も多く、馬所有・騎乗が支配者層ステータスシンボルだったこと示す。鐙出現は騎乗戦闘様式に大変革。
  • 渡来系遺物の増加: 馬具他、金銅製冠・耳飾り・帯金具、銀象嵌等装飾鏡、初期須恵器など、大陸・半島影響強く受けた、あるいは渡来人製作・舶載と考えられる遺物増加。活発な対外交流と渡来人技術者活躍反映。
  • 農工具など: 鉄製農工具(鋤先、鍬先、鎌等)も副葬例増加、農業生産力向上や支配基盤強化示すか。

これらの副葬品変化は、5世紀ヤマト政権大王・豪族が前期司祭的首長から強力軍事力背景の武人性格を強く帯びたことを明確に示す。前方後円墳体制も軍事的同盟関係側面強めたと考えられる。

1.5. 形象埴輪の展開:人物・動物埴輪の隆盛 – 古墳上の儀式と社会の再現

前期末登場形象埴輪は中期に種類・数爆発的増加、古墳墳丘上(特に造出、前方部、テラス等)飾る重要要素に。当時の社会・文化、葬送儀礼様子を生き生きと伝える。

  • 多様な形象埴輪登場: 前期からの家形・器財埴輪(武器、武具、蓋、舟等)に加え、人物埴輪と動物埴輪本格登場し隆盛。
    • 人物埴輪: 武人、巫女、貴人、農夫、鷹匠、力士、琴弾き、踊る男女、首長など、当時社会階層・役割、風俗、儀礼場面反映し多種多様。
    • 動物埴輪: 馬(装飾馬具装着多)、犬、猪、鹿、鶏、水鳥、猿、牛など家畜・狩猟対象、信仰・儀礼関連動物等。特に馬形埴輪多さは馬重要性示す。
  • 埴輪群による場面構成: 単独でなく複数組合せ、何らか場面構成意図し配置。首長居館周り警護武人・儀式巫女・貢物人物配置、首長権威示す儀式(裁判、饗宴、鷹狩り等)や葬送儀礼自体再現したか。
  • 製作技法と表現: 粘土紐積み上げ輪積み技法、比較的低温素焼き。表面赤色顔料(ベンガラ)等彩色も。表現素朴・象徴的だが、当時の服装、髪型、武具、楽器、建築様式等知る貴重資料。
  • 形象埴輪の意味: ①被葬者生前権勢・生活・儀式再現し死後も続くこと願った(死後世界表象)、②葬送儀礼様子具体表現・演出(儀礼再現)、③死者魂守護・邪霊祓い役割(辟邪)、④来訪者へ被葬者偉大さやヤマト政権秩序示す視覚装置、など複合的解釈可能。

形象埴輪隆盛は中期文化豊かさと具体的社会観・世界観、古墳儀礼複雑・視覚的発展示す。

2. ヤマト政権の支配体制強化(5世紀中心) – 古代国家への階梯

5世紀、巨大古墳の築造に見られるようにヤマト政権の大王権力は頂点を迎えますが、その強大な権力を支え、列島規模の支配を可能にしたのは、統治システムの整備・拡充でした。本セクションでは、この古墳時代中期(5世紀)を中心とする時期に、ヤマト政権がどのようにしてその支配体制を強化していったのか、その具体的な仕組みに焦点を当てます。大王権力の変質とともに、後の律令国家の基礎となる諸制度が形作られていく過程を探ります。

この時代の大王は、前期の司祭的性格に加え、軍事的・統治者的な性格を強め、金石文には**「治天下大王」と記されるなど、領域国家の支配者としての意識を高めていきます。そして、その支配を実質的に支えるため、有力豪族を序列化し組織する氏姓(しせい)制度**(特に臣・連制の確立)、専門的な技術者集団や広範な労働力を確保する部民(べみん)制度、在地首長を通じて地方を統治する国造(くにのみやつこ)制といった、より体系的な統治システムが整備・展開されていきました。

早慶などの難関大学入試においても、この時代の**支配体制(氏姓・部民・国造制)**の具体的な仕組みや、大王権力の変質(「治天下大王」)に関する知識は極めて重要です。これらの制度がどのように機能し、ヤマト政権の権力基盤強化と国家形成に貢献したのかを理解し、考察する力が求められます。

本セクションでは、大王権力の強化を示す動向と、氏姓・部民・国造制といった支配体制の内容とその展開について解説します。ヤマト政権が古代国家へと発展していく上での重要なステップを学び、その統治構造への理解を深めていきましょう。

2.1. 大王権力の強化と変質 – 「治天下大王」の登場

5世紀ヤマト政権大王権力は前期より格段に強化、性格も司祭的権威に加え軍事的・統治者的側面強調。

  • 圧倒的権力誇示: 河内・和泉巨大古墳群は他豪族墳墓完全に凌駕、大王が列島内他勢力超越する絶対的とも言える権力握ったこと示す。
  • 武人的性格強調: 副葬品変化(武具・馬具中心化)、朝鮮半島への頻繁軍事介入に見るように、5世紀大王は軍事力重視の「武人」性格強く打ち出した。
  • 「治天下大王」銘出現: 埼玉・稲荷山古墳鉄剣銘(471年説有力)、熊本・江田船山古墳鉄刀銘(5世紀後半)に「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」が「天下」統治と記載。
    • ワカタケル大王: 第21代・雄略天皇(実名:大泊瀬幼武)と同一人物説定説。
    • 「天下」概念: 大王が日本列島広範囲を「天下」と認識し統治する最高君主という領域的支配者意識(天下観)明確表明の画期的史料。
    • 意義: 「治天下大王」称号使用は、ヤマト政権が単なる部族連合盟主から領域国家支配者へ脱皮しつつあったこと示唆、国家意識形成重要段階。
  • 王権世襲化進展?: 応神~雄略の5世紀代大王系譜は記紀で比較的安定した父子・兄弟相続描写。この時期大王位世襲がある程度安定化し王統(王朝)意識形成されつつあった可能性。しかし激しい皇位継承争い伝承も多く常に円滑ではなかった。

2.2. 氏姓制度の整備と展開 – 臣・連制の確立へ

ヤマト政権支配体制中核・氏姓(しせい)制度(有力豪族を氏単位で把握、大王が姓与え地位・職掌定め序列化)は5~6世紀に整備・展開され政権骨格形成。

  • 臣・連制確立: 有力豪族は大きく**臣(おみ)と連(むらじ)**二代表姓に分けられ政権中枢担う。
    • 臣: 主に畿内有力豪族(葛城氏、平群氏、巨勢氏、蘇我氏等)へ。大王家と婚姻結び外戚として影響力持ち、最高位**大臣(おおおみ)**任命資格。
    • 連: 特定職掌(伴)率い大王に仕えた有力伴造氏族(大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏等)へ。世襲的に特定官職担当し大勢力。連姓豪族から大臣と並ぶ最高位**大連(おおむらじ)**任命。
  • その他の姓: 地方有力豪族(旧国造層等)には君(きみ)・直(あたい)、中小豪族・渡来系氏族には造(みやつこ)・**首(おびと)**等与えられ、大王中心階層的身分秩序形成。
  • 有力氏族動向と政争: 5~6世紀はこれら有力氏族間で政権主導権・大王位継承巡る激しい権力闘争。雄略天皇代葛城氏・平群氏粛清伝承。6世紀前半大伴金村失脚、継体天皇擁立等経て蘇我氏・物部氏二大勢力台頭。

2.3. 部民制の拡大と多様化 – 国家を支える人的・物的基盤

ヤマト政権経済・人的基盤支えた部民(べみん)制(特定集団(部)組織し特定生産活動・労役、大王・豪族へ奉仕義務付け)は5~6世紀に大きく拡大・多様化。

  • 部民種類:
    • 品部/職業部: 特定技術・知識持ち手工業生産(錦織部、土師部、陶作部、韓鍛冶部、玉作部等)や特定職務(史部、蔵部、語部等)に従事、生産物・労働力提供。渡来系技術者集団多。
    • 名代・子代: 大王・皇族名にちなみ設定されたとされる部。大王家(皇族)経済基盤支える人的・物的奉仕集団か。
    • 部曲: 有力豪族が私有・支配し経済基盤・私兵力とした人々。大王家も直轄部曲保有。
    • 田部: 大王・豪族直轄地**屯倉(みやけ)**で水田耕作に従事した農民。
  • 組織と管理: 各部は統括する伴造(多くは連姓豪族)に管理・統率され支配体制に組み込まれた。全国各地に設定されヤマト政権経済力・人的資源基盤に。巨大古墳築造・対外戦争物資・労働力も部民制動員か。
  • 意義と限界: 部民制拡大は人民支配をより直接的・組織的に行おうとしたこと示す。後の律令制公民支配へ繋がる過渡的形態。しかし部曲のような豪族私的人民支配も強く残存し、完全な国家一元支配には至らず。

2.4. 国造制の浸透と地方支配 – 列島各地への統制ネットワーク

ヤマト政権地方支配基本仕組み・国造(くにのみやつこ)制(有力在地首長を国造任命、地域支配権世襲承認代わり服属・貢納・軍役等義務負わせる間接統治)は5~6世紀に整備・浸透進んだか。記紀に多国造任命伝承、100超とされる。多くの場合その地域代々力持った首長層(前方後円墳被葬者クラス)が任命され、地域支配正統性得ると共にヤマト政権地方支配末端担う。

  • 役割と義務: 国造は自「国」人民統治、裁判、地域祭祀主宰等権限。一方ヤマト政権へは地域特産物(調・貢)納入、軍役、朝貢等の義務。
  • 限界: 有効システムだったが国造権力は在地社会に根ざし、ヤマト政権統制力弱まれば自立的動き見せる可能性も。6世紀前半筑紫国造磐井の反乱(後述)はその典型。国造制は中央集権化進めるヤマト政権にとって過渡的地方支配体制だった。

氏姓・部民・国造制は相互関連し5~6世紀ヤマト政権支配体制根幹形成。整備・展開は、ヤマト政権がより恒常的・体系的統治システム構築目指したこと示し、後の律令国家への重要階梯となった。

3. 東アジア情勢とヤマト政権の対外政策(5世紀中心) – 「倭の五王」と渡来人

3.1. 「倭の五王」の遣使:『宋書』倭国伝

中国正史**『宋書』倭国伝に、5世紀倭国王讃・珍・済・興・武(倭の五王)**が相次いで南朝宋へ朝貢使派遣、皇帝から称号授与記録。5世紀ヤマト政権実像・対外政策・国際認識知る第一級史料。

  • 遣使時期と目的: 413年(讃)~478年(武上表文)に十数回。主目的は複数。
    • 朝鮮半島軍事優位性の公認獲得: 自称「倭国王」に加え「使持節・都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七(六)国諸軍事・安東大将軍・倭国王」等、朝鮮半島南部(百済、新羅、伽耶諸国)含む広範囲軍事指揮権示す長大称号要求。高句麗に対抗し百済・伽耶連携強化、新羅も影響下に置く意図。朝鮮半島南部でのヤマト政権軍事的・政治的優位性を中国王朝に公認させようとした。
    • 国内王権正統性強化: 中国皇帝から高称号(特に将軍号)獲得で、国内諸豪族に対し大王権威が国際的承認得た最高のものと示し正統性強化。
    • 先進文物獲得: 朝貢は経済・文化交流側面も持ち、中国先進文物(鉄製品、絹織物、書物等)や技術・情報入手も重要目的。
  • 倭の五王比定: 記紀のどの天皇か決定証拠なく諸説。近年有力視される比定(異論多):讃=履中or反正?、珍=反正?、済=允恭?、興=安康?、武=雄略?。特に武=雄略天皇説は478年上表文内容が記紀雄略像や稲荷山鉄剣・江田船山鉄刀銘「ワカタケル大王」と合致し最も有力。
  • 称号獲得成果と限界: 「安東大将軍 倭国王」等得たが、最も望んだ朝鮮半島南部諸国(特に新羅・任那・加羅)軍事都督権は多くの場合認められず。宋王朝が倭国要求全面承認が半島情勢不安定化招くと警戒か。遣使は478年以降しばらく途絶。

倭の五王遣使は、5世紀ヤマト政権が東アジア国際秩序内に自らを位置づけ、地位向上と国益確保目指し活発外交・軍事活動展開した貴重証拠。

3.2. 朝鮮半島への軍事介入:高句麗との対峙と鉄資源確保

倭の五王遣使背景には朝鮮半島でのヤマト政権継続的軍事介入があった。特に4世紀末以降南下強める高句麗との対立深刻化、ヤマト政権は伝統的友好国百済や鉄資源供給地伽耶諸国(倭国側からは任那とも呼称)支援・保護のためしばしば大軍派遣。

  • 高句麗との戦闘(広開土王碑文等): 高句麗広開土王碑文(414年建立)に、倭が391、399、400、404年等に百済・伽耶と結び新羅侵攻、救援高句麗軍と激戦したことが高句麗側視点から記録。倭軍は一時新羅首都包囲や伽耶地域占領も、最終的に撃退されたとされる。朝鮮半島南部覇権巡るヤマト政権と高句麗間の長期激しい対立示す。
  • 百済・伽耶への支援と影響力維持: ヤマト政権は高句麗・新羅圧迫に苦しむ百済・伽耶へ軍事支援見返りに、これらから貢納(特に鉄資源)得ると共に政治影響力維持図る。記紀に多将軍派遣伝承。百済とは特に密接関係、百済王族倭国滞在、倭国から百済へ援軍派遣も。伽耶諸国(任那)へは倭国は「任那日本府」なる出先機関置いた説あるが実態・性格・所在地不明点多く現在も議論続く(存在自体疑問視説も)。
  • 鉄資源確保重要性: ヤマト政権にとって朝鮮半島(特に弁韓・伽耶地域)は武器・武具・農工具生産に不可欠な**鉄資源(鉄素材)**主要供給源。伽耶諸国への影響力維持と鉄安定供給ルート確保は死活的に重要。積極的軍事介入背景にこの経済的動機強く存在。
  • 軍事活動実態と限界: 派遣軍は大王直属軍、軍事担当豪族私兵、国造率いる地方豪族軍等から構成か。5世紀騎馬技術導入で戦闘力向上も、大規模海外派兵は多国力消耗し常に成功せず大リスク伴った。

5世紀ヤマト政権対外政策は朝鮮半島への積極軍事介入と中国南朝外交工作連携させ展開。地位向上と経済・軍事利益確保目指したが、高句麗戦苦戦や中国王朝限定的承認等、目標達成には多困難・限界も伴った。

3.3. 渡来人の増加とその影響:技術・文化・制度の伝播

5~6世紀は朝鮮半島戦乱逃避やヤマト政権技術者招聘で、多くの渡来人とその子孫が日本へ移住。彼らは当時日本にない、あるいは未熟な高度知識・技術もたらし、ヤマト政権国力増強・古墳文化変容、後の律令国家建設に極めて大貢献。

  • 渡来人出身地と規模: 主に朝鮮半島**百済、新羅、伽耶(任那)**から多、一部中国大陸ルーツも。特に百済・高句麗滅亡時には王族・貴族含む多数亡命。総数不明だが相当規模か。
  • もたらされた先進技術:
    • 須恵器生産: 朝鮮半島陶質土器技術(轆轤成形、窖窯高温焼成)導入、5世紀中頃大阪府南部陶邑窯跡群等で生産開始。硬質で吸水性低い須恵器急速普及し生活文化一変。
    • 金属加工技術: 高度鉄器生産(製鉄・鍛冶)、金銅製品製作(馬具、装飾品等)、金銀細工、象嵌等技術。武器・武具質向上や豪華威信財生産可能に。
    • 土木・建築技術: 巨大古墳設計・測量・築造技術、瓦葺き建築技術、石工技術(石室、石棺製作)等に渡来人技術導入可能性。
    • 機織・染織技術: 絹織物(錦、綾等)はじめ高度織物生産技術(機織)や染色技術。渡来系秦(はた)氏・漢(あや)氏等はこれら背景にヤマト政権財政基盤支えたとされる。
  • 文化・制度への影響:
    • 漢字・儒教・仏教: 漢字使用本格化、儒教思想知識人層受容開始。後大影響与える仏教もこの時期渡来人経由で私的・公的に伝来(後述)、新思想・文化・芸術もたらす。
    • 氏族形成と政権参画: 多渡来人集団はヤマト政権下で渡来系氏族(秦氏、東漢氏、西文氏等)として組織。特定品部管轄や文筆・外交・財政等実務担当しヤマト政権統治機構で重要役割。
    • 居住地と社会統合: 畿内(特に大和、河内、山城)中心に計画的移住させられ集団居住多。居住地跡遺跡や建立関与寺院跡等発見。徐々に同化しつつ日本社会を変容させた。

渡来人大量移住とその活躍は5世紀以降ヤマト政権国力増強・文化発展に不可欠要素。彼らがもたらした新技術・知識・文化・人材は日本の古代社会を質的に変容させ、次代飛鳥時代以降の律令国家建設や新文化開花へ繋がる極めて重要原動力となった。

4. 古墳時代後期(6世紀):群集墳と政権の変容 – 新たな時代への胎動

6世紀、古墳時代は後期新段階へ。5世紀頂点極めた巨大古墳文化が衰退・変質、地方社会大変化と共にヤマト政権内部でも大動揺生じ、古代国家あり方が転換していく過渡期。律令国家へ続く飛鳥時代への序章とも位置づけられる。

4.1. 巨大古墳の衰退と群集墳の出現 – 地方社会の変容と古墳文化の終焉

5世紀隆盛誇った畿内巨大前方後円墳(大王墓級)築造は6世紀に入ると急速衰退。墳長100m超大型古墳も依然築かれるが規模全体的縮小し数減少。前方後円墳という画一墓制へのこだわりも薄れる。

一方、全国各地(特に畿内周辺、関東、中部、九州等)では丘陵斜面等利用し数十~数百基中小規模古墳(円墳・方墳中心、直径10~30m程度)が密集築造される群集墳がこの時期爆発的出現・増加。

  • 被葬者層変化と拡大: 群集墳被葬者は従来大王・有力地方豪族(国造クラス)でなく、より下位**中小豪族(後郡司クラスか)や有力農民層(村落長等)**まで含まれたか。古墳築造行為(富・権力)が、ヤマト政権支配体制浸透や農業生産力向上、地方社会階層分化進展伴い、より広い階層へ拡大した(古墳文化普及・大衆化)こと示す。
  • 地方勢力成長と自立化: 群集墳出現は中央(ヤマト政権)統制力相対的弱まり(地方統治変化)、地方在地勢力が経済力・政治的自立性高めたことの現れとも。彼らはヤマト政権権威(前方後円墳)縮小模倣しつつ、自地域社会での地位示すため身の丈合った規模・形式古墳競って築造。
  • 古墳文化終焉へ: 群集墳出現は古墳文化が列島隅々まで浸透しピーク迎えたと同時に、前方後円墳象徴ヤマト政権画一的イデオロギー支配揺らぎ始め、古墳自体政治的意味合い希薄化していく過程(古墳文化形骸化・終焉)の始まりでもあった。7世紀に入ると仏教普及による葬送観変化や薄葬化政策影響もあり古墳築造自体急速衰退。

4.2. 後期古墳の特徴:横穴式石室の一般化と装飾古墳

6世紀代後期古墳は規模・分布だけでなく構造・内容にも中期と異なる、あるいは中期開始変化が一般化する特徴が見られる。

  • 横穴式石室一般化: 中期導入横穴式石室は6世紀に全国的急速普及し後期古墳埋葬施設主流に。羨道・玄室構造は追葬容易にし、古墳が個人墓から家族墓・氏族墓へ性格明確に変えること促した。石室構築技術向上、巨石使用・精巧石積みも見られる。石室形態多様化、地域特色現れる(例:畿内石舞台古墳巨大石室、九州装飾古墳石屋形等)。
  • 石棺変化: 竪穴式石室長持形石棺消え、横穴式石室内石棺としては家形石棺引き続き使用他、組合式石棺、石棚等用いられた。
  • 副葬品変化: 内容も変化、より実用的もの増える傾向。
    • 須恵器増加: 須恵器生産全国的広がり普及、副葬品としても大量須恵器(多様器種)納められる。
    • 実用品増加: 武器・武具・馬具引き続き副葬も、加え農工具、工具、土師器ミニチュア炊飯具、紡錘車等、より日常生活密着実用品副葬傾向強まる。被葬者層拡大反映か。
    • 威信財質変化: 銅鏡は小型化・簡略化仿製鏡中心、金銅製豪華装飾品減少。代わり**金・銀耳環や色とりどりガラス玉(トンボ玉等)**等が比較的身近な威信財として広く使用。
  • 装飾古墳出現・展開: 後期古墳中特に九州(福岡、熊本、佐賀等)や関東一部、山陰等で石室壁面・石棺に彩色・線刻・浮彫で文様・絵画描いた装飾古墳出現、地域ごとに特色ある展開。内容は幾何学文様、抽象文様、具象図柄(盾、鞆、靫、大刀、船、馬、鳥、魚、人物等)まで極めて多様。死者守護(辟邪)、死後世界・被葬者生前活躍、所属集団神話・伝承表現と考えられ、地域特色ある展開。後期地方文化豊かさと地域的信仰・世界観多様性示し、当時精神世界知る貴重手がかり。

4.3. ヤマト政権内部の動揺:継体天皇の擁立と磐井の乱

6世紀前半ヤマト政権は大王位継承混乱や地方豪族大規模反乱など深刻内部動揺に見舞われた。5世紀まで支配体制限界と新政治秩序への移行期を示すものだった。

  • 継体天皇擁立(6世紀初頭): 記紀によれば、第25代・武烈天皇に世継ぎなく、遠く越前の応神天皇五世孫とされる男大迹王が、大伴金村・物部麁鹿火らに擁立され大和へ入り継体天皇(第26代)として即位。
    • 異例即位とその背景: 単なる血縁問題でなく、旧大和王統断絶し新王統登場可能性(王朝交替説)や深刻王位継承争い背景可能性等指摘され、ヤマト政権連続性・安定性に大疑問符。
    • 権力基盤不安定さ: 継体天皇は即位後もすぐ大和中心部入れず20年近く河内・山城等転々としたとされ、権力基盤当初極めて不安定だったことうかがわせる。晩年大和に磐余玉穂宮。前王統血引く手白香皇女を皇后に迎え正統性補強図ったか。
  • 磐井(いわい)の乱(527年): 継体天皇代、新羅勢力拡大・伽耶圧迫。ヤマト政権は新羅対抗・任那救援のため近江毛野軍派遣図る。ところが北部九州有力豪族・筑紫国造磐井が新羅と通じヤマト政権へ大規模反乱。
    • 反乱経緯: 『日本書紀』によれば磐井は北部九州勢力下に置き朝鮮半島へ向かうヤマト政権軍進路妨害。ヤマト政権は物部麁鹿火派遣、翌528年筑紫御井郡で磐井討ち鎮圧。
    • 乱背景: ①新羅勢力拡大と連携した磐井外交判断、②筑紫地域磐井強大勢力(独自外交権・軍事力保持可能性)、③ヤマト政権地方(特に九州)統制強化への反発、等複合要因か。福岡県八女市岩戸山古墳(墳長約135m、九州北部最大級、石人・石馬等特徴的)は磐井墓と有力視。
    • 乱影響: 反乱はヤマト政権に大衝撃、地方豪族(特に国造)統制あり方見直し契機に。乱後ヤマト政権は九州支配強化のため屯倉設置進めたとされる。事件は国造制間接統治システム限界示し、ヤマト政権支配体制が新段階(より中央集権的支配へ)へ移行する必要性浮き彫りにした。

4.4. 仏教伝来とその影響 – 新たな思想の波と政争の火種

6世紀半ば、百済からヤマト政権へ仏教が公式伝来。日本の思想・文化史一大転換点、同時に新政争火種とも。

  • 仏教公伝時期と経緯: 公式伝来(公伝)は538年(戊午年)説(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』)と552年(壬申年)説(『日本書紀』)有力。いずれにせよ6世紀半ば、百済聖明王からヤマト政権(欽明天皇)へ仏像(釈迦金銅仏)・経典等公式贈与。
  • 伝来背景: 新羅・高句麗軍事圧迫苦しむ百済が、ヤマト政権軍事支援期待し見返りに当時先進文化象徴仏教提供の外交的意図か。
  • 受容めぐる対立(崇仏論争): 新外来宗教・仏教受容めぐり有力豪族間で激しい意見対立(崇仏論争)。
    • 崇仏派: 大臣蘇我稲目は渡来人関わり深く大陸先進文化に関心、仏教文化や国家鎮護力に期待し積極受入主張。
    • 排仏派: 大連物部尾輿や祭祀司る中臣鎌子らは日本伝統神々(国神)信仰重視、外国神(蕃神)仏受け入れれば国神怒り招き災い起こると主張し強く反対。
  • 初期影響と政争発展: 欽明天皇はまず蘇我稲目に仏像授け私的祭祀許すも、国内疫病流行時、物部・中臣氏らは仏教祟りとし蘇我氏寺焼き仏像廃棄させたと伝わる。仏教当初スムーズに受容されず、日本伝統神祇信仰と緊張関係生み、蘇我氏と物部・中臣氏有力氏族間政争重要争点とも。対立は次代へ引き継がれ丁未の乱(587年)蘇我氏勝利・物部氏滅亡へ繋がる。
  • 文化・社会インパクト: 仏教は宗教思想だけでなく、共に寺院建築、仏像彫刻、絵画、工芸等新芸術、経典(文字文化)、暦法、医学等様々な大陸先進文化もたらす。これら文化はその後の日本社会・文化あり方に計り知れない大影響与える。仏教本格受容・興隆は次代飛鳥時代待つが、6世紀半ば公伝は日本古代文化史一大転換点、新時代到来告げる出来事だった。

5. 古墳時代の文化と社会(中期・後期) – 技術革新と生活の変化

中期~後期(5~6世紀)は政治・対外関係変化と並行し、生活支える技術・文化、社会あり方も大変化。特に渡来人技術は社会の様々側面で変革もたらした。

5.1. 須恵器の生産開始と普及

5世紀中頃、朝鮮半島から新土器製作技術伝来し須恵器生産開始。日本土器文化画期的出来事。

  • 技術特徴: 精製粘土用い轆轤成形、窖窯高温還元焔焼成硬質土器。青灰色・灰黒色、自然釉かかることあり。
  • 生産拠点(陶邑窯跡群): 日本での生産はまず大阪府南部陶邑窯跡群で渡来系工人集団により開始。ヤマト政権管理下大規模生産行われた日本最大須恵器生産センター。
  • 普及と影響: 須恵器は土師器に比べ硬く丈夫で水通しにくいため、貯蔵用甕・壺、運搬用瓶、食器等として急速普及。当初支配者層威信財(祭祀用具、副葬品)性格強かったが6世紀以降一般日常生活にも浸透し土師器と共に広く使用。生活様式にも変化与えた可能性。陶邑産須恵器全国流通はヤマト政権支配力・物流ネットワーク広がり示す。6世紀後半以降生産技術地方伝播し各地で須恵器窯築かれる。

5.2. 金属器生産の発展

中期~後期は金属器生産技術も大発展。特に鉄器・金工品重要。

  • 鉄器生産進展: 朝鮮半島鉄素材輸入に加え、国内製鉄も6世紀頃から次第に開始か(輸入依存度高)。鍛冶技術向上、より高品質多様鉄製品(武器、武具、馬具、農工具等)生産。鉄器普及は農業生産力向上・軍事力強化に貢献。
  • 金銅製品・金銀細工流行: 銅製品に金鍍金施した金銅製品が特に5~6世紀盛んに作られ支配者層威信財として珍重。馬具、冠、耳飾り、帯金具、装飾付大刀部品等。金・銀用いた指輪、耳環、腕輪等装飾品や刀剣象嵌等も見られる。製作には渡来系高度金工技術必要。
  • その他金属器: 青銅製鏡(仿製鏡)も引き続き製作されたが質・量低下傾向。青銅製武器はもはや実用品でなく祭祀用具性格強める。

金属器生産技術発展はヤマト政権富・権力象徴と共に、技術水準高まりと渡来人技術者貢献示す。

5.3. 生活と信仰の変化

この時代の集落・住居、生業、信仰にも変化。

  • 集落と住居: 集落は開かれた形態一般化、規模拡大傾向。住居竪穴住居依然主流だが6世紀頃カマド設置開始。熱効率高く煮炊き効率向上、燃料節約、食生活・住居内空間利用変化もたらした可能性。掘立柱建物も有力者居館・倉庫・工房等としてより広く使用。
  • 生業: 水稲耕作は鉄製農具普及(限定的か)や灌漑技術改善、牛馬利用(犂耕開始?)等で生産性徐々に向上か。手工業も須恵器生産・金属加工発展に見るように専門化・分業化進む。
  • 祭祀の変化: 古墳祭祀は形象埴輪展開や横穴式石室普及伴い、より具体的で家族・氏族祖先崇拝重視方向へ変化。集落内外祭祀も継続されたが6世紀半ば仏教伝来は従来神祇信仰と異なる新信仰もたらし死生観・世界観にも影響開始。沖ノ島祭祀もこの時期(特に5~7世紀)最も隆盛迎え、金製指輪・金銅製馬具・ガラス製品等国際色豊か奉献品捧げられた。ヤマト政権国家的祭祀が対外関係安泰祈願で重要役割果たしたこと示す。

中期~後期はヤマト政権が内外に力示し古代国家体制整える一方、地方社会成長や新文化・思想流入で社会全体が大きく変容していく時代だった。この時代のダイナミズムが次の飛鳥時代における律令国家建設と華やかな仏教文化開花へ繋がっていく。

第三章 律令国家の成立:古代中央集権国家への道

1万年以上にわたって続いた縄文時代の後、日本列島は約2400年前(紀元前10世紀頃)から紀元後3世紀中頃にかけて、その社会と文化のあり方を根底から揺るがす、まさに**「農耕革命と社会の大変動」**と呼ぶべき時代を迎えます。それが「弥生時代」です。本章では、大陸から伝わった水稲耕作と金属器という二つの革新的な要素が、どのようにして人々の生活を一変させ、定住社会を深化させ、一方で階層化や争いを引き起こし、やがて「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりを生み出していったのか、そのダイナミックな変革のプロセスを総合的に探求してまいります。弥生時代は、現代に繋がる日本社会の基本的な構造が形成され始めた、極めて重要な時代と言えるでしょう。

この大変革の時代を理解するために、本章ではまず、弥生時代の定義とその始まりについて、水稲耕作と金属器がもたらした画期的な意義や、近年の研究による開始年代の見直し(年代論争)を含めて解説します。続いて、弥生時代の根幹をなす水稲耕作が、いつ、どこから伝わり、どのように列島各地へ浸透し、技術を発展させていったのか、その具体的な過程を追います。次に、弥生時代を特徴づける土器、石器、そして新たに登場した青銅器・鉄器といった道具や器物が、技術的にどのように変化し、社会の中でどのような役割を果たしたのかを詳しく見ていきます。さらに、これらの技術的・経済的な変化が、集落のあり方を変え、社会の階層化を促し、争いを激化させ、最終的に「クニ」という政治的な単位を形成させていくプロセスを考察します。加えて、当時の人々の具体的な生活様式や文化、精神世界にも光を当て、弥生文化が大陸からの影響を強く受けながらも、地域ごとに多様な展開を見せた側面も明らかにします。最後に、文字を持たないこの時代の姿を伝える貴重な**中国の歴史書(『漢書』地理志から『魏志』倭人伝まで)**の記述を読み解き、当時の倭国の実像に迫ります。

早慶をはじめとする難関大学の入試においても、弥生時代は最重要時代の一つです。水稲耕作、金属器、弥生土器、集落(環濠集落など)、墓制(階層化)、クニの形成、中国史書の記述(金印、邪馬台国、卑弥呼など)、年代論争といった基本的な知識を正確に習得することはもちろん、これらの要素が相互にどのように関連し合い、社会全体をどのように変容させていったのか、そのプロセスと因果関係を深く理解し、多角的に考察・説明する能力が強く求められます。考古学と文献史学の連携の重要性にも留意する必要があります。

本章を通じて、弥生時代という「大変革の時代」の全体像を掴み、技術革新が社会構造や文化、人々の価値観にまで及ぼした影響の大きさを理解し、後の古墳時代、そして古代国家形成へと繋がる日本の歴史の大きな転換点についての認識を深めていただければ幸いです。

1. 大化の改新(645年~):中央集権化への劇的な第一歩

日本の律令国家建設の直接出発点が、645年(皇極天皇4年)の**乙巳の変(いっしのへん)**と続く一連政治改革、すなわち大化の改新である。この出来事はヤマト政権権力構造を根底から揺るがし、新国家体制への道を切り開いた。

1.1. 乙巳の変(645年):蘇我氏本宗家の滅亡

  • 背景:蘇我氏の権勢とその「専横」への反発: 6世紀末以来、蘇我氏、特に馬子―蝦夷―入鹿と続く本宗家は絶大な権勢を誇った。仏教導入推進、渡来系技術活用で国家運営関与一方、皇位継承に深く介入し、崇峻天皇暗殺(592年)を引き起こすなど天皇をも凌駕するかに見えた。『日本書紀』は蝦夷・入鹿父子時代を**「専横」**として断罪。具体例として、①無許可の祖廟・陵墓造営と人民使役、②甘樫丘私邸の城塞化・私兵配備、③入鹿の子弟を「王子」と呼ばせたこと等を挙げる。後世の潤色可能性もあるが、蘇我氏本宗家への権力集中が深刻な軋轢を生んでいたことは確かであろう。
  • 山背大兄王一族滅亡(643年) – 対立先鋭化: 蘇我氏「専横」象徴、乙巳の変直接引金の一つが山背大兄王(聖徳太子子、有力皇位継承候補)とその一族滅亡事件。入鹿は父蝦夷の反対を押し切り、軍勢を斑鳩宮に派遣し山背大兄王一族を攻め滅ぼした。入鹿が障害となる皇位継承者排除し蘇我氏権力盤石化図った暴挙と受け止められ、中大兄皇子ら反蘇我氏勢力の危機感を決定的に高め、クーデターへの直接動機となった。
  • クーデター計画と実行 – 中大兄皇子と中臣鎌足: 蘇我氏強権支配に対し、天皇中心新政治秩序確立目指す勢力が水面下で打倒計画推進。中心人物は後に天智天皇となる中大兄皇子と、中臣氏の中臣鎌子(後の藤原鎌足)。二人は蘇我倉山田石川麻呂(入鹿従兄弟)を味方に引き入れ、佐伯子麻呂ら武人も加わった。決行は645年6月12日、飛鳥板蓋宮大極殿での「三韓の調」儀式中。石川麻呂上表文読上げ中に佐伯子麻呂らが斬る手はずも、恐れ躊躇したため中大兄皇子自ら飛び出し入鹿に斬りかかり、子麻呂らも続き入鹿斬殺。
  • 蝦夷の滅亡と蘇我氏本宗家終焉: 報を受けた父蝦夷は甘樫丘邸宅に籠もるも、翌日ヤマト政権軍に包囲され、『天皇記』『国記』等重要記録や財宝に火を放ち自殺(一部持ち出されたか)。これにより蘇我氏本宗家は滅亡した。
  • 乙巳の変歴史的意義: 単なる権力闘争にとどまらず、①蘇我氏権力独占体制打破、②天皇中心体制への道を開く、③大化改新の前提となる、重要画期。

1.2. 新政権の発足と「改新の詔」 – 新国家構想の提示

乙巳の変後、直ちに新政権組織、国家基本方針が打ち出された。

  • 新政権陣容: 皇極天皇譲位、弟軽皇子が孝徳天皇即位。実権は皇太子の中大兄皇子。阿倍内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣に任命(左右大臣制初導入)。中臣鎌足は特別地位の内臣に。ブレーンとして僧旻・高向玄理が国博士に任命され、唐統治システム知識を提供し改革計画立案に影響。
  • 元号「大化」制定と難波遷都: 645年6月、日本初独自元号**「大化(たいか)」**制定。国家自立性・新時代開始宣言。同年冬、都を飛鳥から国際港難波の長柄豊碕宮へ遷都。旧勢力から距離置き改革断行、大陸先進文化導入・国際社会対応目指す意志示す。
  • 「改新の詔」 – 律令国家基本綱領(理想像か?): 大化2年(646年)正月元旦、孝徳天皇が新政権基本方針示す「改新の詔」(全四か条)発布と『日本書紀』は伝える。後の律令国家根幹理念・制度骨格網羅し、大化改新具体的目標示すものとして重視されてきた。
    • 第一条(公地公民制原則): 皇族・豪族土地(田荘)・人民(部曲等)私有支配廃止、全土地・人民の天皇(国家)帰属原則宣言。
    • 第二条(中央・地方行政制度整備): 都整備、国・郡・里行政区画編成、国司派遣・郡司任命、駅伝制、関所・防人等国防体制整備方針。
    • 第三条(戸籍・計帳と班田収授法実施): 国家による人民直接把握のため戸籍・計帳作成と、それに基づく口分田班給(班田収授法)実施方針。
    • 第四条(新税制:租・庸・調): 旧来貢納・労役廃止し、口分田に応じる租、成人男子労役(または代納物)庸、同成人男子への地方特産物調を基本とする全国統一新税制導入方針。
    • 史実性論争: しかし詔の646年正月発布か否かは長年学術論争(大化改新詔論争)。内容完成度高く後の大宝律令等と酷似、当時水準で一挙実施困難との疑問から。現在では「詔文言自体は『日本書紀』編纂時(8世紀初頭)に後の視点から理想化・体系化して創作・追記された部分が多い」との見解有力。646年時点の具体計画書というより、新政権が目指した律令国家建設基本理念・改革方向性示すマニフェストであり、内容は後の「改新政治」で段階的に具体化・実現されたと理解するのが実態に近いとされる。

1.3. 改新政治の初期の施策 – 理念実現への試みと限界

大化年間(645-650年)には「改新の詔」理念実現に向けたいくつかの具体的施策が試みられた。

  • 東国等への国司(使者)派遣(645年): 中央統制力強化のため戸口・田畑調査、豪族紛争調停、武器収公、交通路整備等実施も実効性限定的か。
  • 品部・部曲再編・廃止試み: 公地公民原則に基づき皇族・豪族私有民の国家管理目指すも、豪族の経済・軍事基盤脅かすため強い抵抗予想され実施極めて困難か。完全廃止は天武朝待った可能性。
  • 薄葬令(646年): 身分に応じ墳墓規模・形状・期間、副葬品等を規定。民衆負担軽減、豪族権威抑制、国家による身分秩序統制目的。巨大古墳築造次第に縮小、古墳文化変質・衰退一因に(完全遵守かは不明)。
  • 鐘と櫃設置: 天皇が民の声聞く姿勢示すシンボル的施策か。

初期施策は新政権が理念実現試みたこと示すが、多くは試行的・部分的で全国徹底されず、改革は依然多困難伴った。

1.4. 大化改新の歴史的意義と限界

広義の「大化の改新」は日本古代史で画期的意義持つ。

  • 歴史的意義:
    • 律令国家建設の明確な出発点: 天皇中心中央集権統一国家構想示され具体的改革開始。古代国家新発展段階への決定的転換点。
    • 蘇我氏専横体制打破と権力構造転換: 特定有力氏族主導から、天皇主権原理とし官僚制に基づく統治目指す体制への転換図る大契機。
    • 大陸(隋・唐)制度本格導入: 先進的律令制度・都城制等をモデルとした国家建設が本格的・体系的に目指された。
  • 限界と課題: 短期間で全改革実現、律令国家完成せず。
    • 改革への抵抗: 急進改革は伝統的豪族層から強い抵抗・反発予想。理念と現実ギャップ大きく実施困難伴い妥協・後退余儀なくされたか。
    • 制度未成熟: 国郡里制、国司・郡司任命、全国的戸籍・班田等は膨大時間・労力・試行錯誤要し、大化年間だけで実現不可。全国整備・定着に後半世紀近い歳月必要。
    • 政権内部対立: 新政権内部も一枚岩でなく、後に孝徳天皇・中大兄皇子間対立発生。蘇我倉山田石川麻呂謀反疑いで自殺等、政権基盤必ずしも安定せず。

大化改新は律令国家完成への長い道のりの第一歩であり、その後の**「改新政治」**で、試練経て段階的に進められることになる。

2. 改新政治の展開(646年~701年):試練と中央集権化の進展

大化改新で示された律令国家建設基本方針は、その後約半世紀の「改新政治」で、試練に直面しつつ段階的に具体化、中央集権化が進展。白村江敗戦という対外的危機と壬申の乱という国内最大動乱を経て、国家体制急速強化過程。

2.1. 孝徳朝後半の動揺と白雉(はくち)年間

意欲的改革着手した孝徳天皇だが治世後半(白雉年間、650-654年)には政権内部対立表面化、改革停滞。

  • 中大兄皇子との対立: 改革主導権・進め方・対外政策(対新羅関係等)巡り天皇と皇太子・中大兄皇子間対立深刻化。
  • 有力者相次ぐ死と政変: 大化5年(649年)左大臣・阿倍内麻呂死去。同年、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が讒言され中大兄皇子に攻められ自殺(石川麻呂の変)。政権内部不安定さ露呈。
  • 飛鳥への還都強行と孝徳天皇孤立: 白雉4年(653年)、中大兄皇子は天皇反対押し切り母(前皇極太上天皇)や皇后ら連れ都を難波宮から飛鳥へ戻す強行。孝徳天皇は難波宮に留まり政治的に完全孤立。
  • 孝徳天皇憤死: 失意・憤りの中、翌白雉5年(654年)難波宮で崩御。改革理想半ばで挫折。「白雉」元号は白雉元年(650年)白雉献上を瑞祥として改元。この時期第二次遣唐使派遣も重要。

2.2. 斉明天皇の重祚と対外政策の積極化

孝徳天皇死後、中大兄皇子は即位せず母・前皇極太上天皇が再即位(重祚)し斉明天皇に(在位655-661年)。中大兄皇子実権握りつつ政権安定図ったか。斉明朝では中大兄皇子主導で対外政策再積極化、国内大規模土木工事行われ波乱含み。

  • 北方・南方勢力拡大: 阿倍比羅夫将軍水軍が日本海北上し蝦夷・粛慎と交戦・交歓。南方南島への関与強化形跡も。ヤマト政権領域意識拡大示す。
  • 大規模土木工事と民衆不満: 飛鳥で新宮殿(後飛鳥岡本宮)、巨大石造物、運河(狂心渠)等次々造営。天皇権威誇示だが人民負担大きく「狂たる政」と批判された記述も。
  • 百済救援への傾斜: 東アジア情勢緊迫化。唐・新羅連合勢力拡大し百済・高句麗圧迫。百済存亡危機瀕しヤマト政権へ繰り返し救援要請。斉明天皇・中大兄皇子はこの要請応え国家総力挙げた大規模百済救援軍派遣決定。

2.3. 白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)とその衝撃

ヤマト政権国運賭けた百済救援は古代東アジア史最大級国際戦争・白村江の戦いへ繋がり、日本側大敗北という悲劇的結末に。敗北はヤマト政権に深刻衝撃与え、その後の国家体制あり方を大きく左右。

  • 背景:百済滅亡と復興運動: 660年唐・新羅連合軍侵攻で百済滅亡。遺臣ら抵抗続け復興運動展開。倭国滞在百済王子・豊璋を新王に擁立、倭国へ王帰国と大規模援軍派遣強く要請。
  • ヤマト政権全面介入: 斉明天皇・中大兄皇子要請応え国家存亡賭け全面介入決断。数万人規模大軍、数百隻軍船動員。661年斉明天皇筑紫朝倉宮まで親征するも崩御。中大兄皇子は(即位せず「称制」として)母遺志継ぎ作戦続行。
  • 戦闘経過:壊滅的大敗北: 倭国援軍(主力663年到着)は百済遺民軍と合流、周留城等巡り唐・新羅連合軍と激攻防。663年8月、倭国水軍は白村江で待ち受けた唐・新羅連合水軍と海戦。『日本書紀』によれば倭国水軍は数で勝るも統率乱れ突撃、唐水軍挟撃・火計等で大混乱、「卒は溺れ死ぬ者多く」「倭船四百艘焼き」と描写される壊滅的大敗北喫す。
  • 結果と影響:
    • 百済復興完全失敗: 王豊璋は高句麗へ亡命、周留城陥落。百済王族・貴族ら多数が倭国へ亡命(百済難民)。
    • 深刻な対外的危機感: 未曽有国難。唐・新羅侵攻現実脅威との**深刻な危機感(国防意識)**が広く共有。
    • 中央集権化・律令国家建設決定加速: 対外的危機感が国内体制強化、すなわち天皇中心強力中央集権国家(律令国家)建設を待ったなし課題として急速加速させる最大要因に。国防整備と並行し人民・資源一元把握・動員のため戸籍制度確立、官僚機構整備、統一法典・律令編纂等内政改革が国家存亡かけた急務として強力推進。白村江敗戦は日本の古代国家形成方向性決定づける極めて重大転換点。

2.4. 天智天皇の政治:国防体制の強化と近江令

国難に直面した中大兄皇子は戦後処理・国家体制再建の重責担う。668年正式即位し天智天皇に(在位668-671年、称制661年~)。天智治世は国防体制強化と律令国家建設向け制度整備が精力的に進められた。

  • 国防体制強化 – 西日本防衛ライン構築:
    • **防人(さきもり)・烽(とぶひ)**設置: 対馬・壱岐・筑紫に辺境防備兵と敵襲知らせる烽設置。
    • **水城(みずき)**築造(664年): 大宰府防衛のため博多湾沿低地に長大土塁・濠からなる水城建設。
    • 朝鮮式山城築造(665年~): 大宰府背後(大野城・基肄城)、瀬戸内沿岸(長門城、屋嶋城等)、畿内(高安城)に堅固な朝鮮式山城建設。国土の縦深防衛ライン構築。
  • 近江大津宮遷都(667年): 都を飛鳥から琵琶湖畔近江大津宮へ移転。国防上理由、旧勢力影響力断絶、新都建設等目的か。しかし抵抗・不満強く、後の壬申の乱遠因の一つか。
  • **庚午年籍(こうごねんじゃく)**作成(670年): 全国統一基準で作成された日本初恒久的戸籍とされる。国家が人民直接支配(公民支配)基礎確立の画期的試み。班田収授法実施や確実な徴税・徴兵の理論上基礎に。従来の豪族部民支配から国家直接人民支配へ転換する決定的一歩。
  • 近江令制定?: 『日本書紀』に明記ないが天智代に藤原鎌足ら中心に編纂されたとされる令(行政法)存在が近年有力視。もし存在すれば日本初体系的律令法典試みで後律令編纂の重要基礎となったか。
  • 藤原鎌足死: 盟友鎌足(内臣)は死に臨み大織冠と新姓藤原賜り藤原氏始祖となるも669年死去。天智天皇に大痛手、後の政権運営・後継者問題に影響か。天智政治は国難に対し国防強化・中央集権化強力推進も、急激改革・近江遷都は反発招き政権基盤盤石でなく死後古代最大内乱へ。

2.5. 壬申の乱(じんしんのらん、672年):古代最大の内乱と天武天皇の勝利

天智天皇崩御(671年末)後、後継者地位巡り、天皇子・大友皇子(弘文天皇)と天皇弟・大海人皇子(天武天皇)間で古代史上最大規模内乱・壬申の乱勃発。単なる皇位継承争いでなく、大化改新以来の中央集権化路線帰趨決め、その後の日本国家体制を大きく方向づける決定的戦い。

  • 背景:複雑な皇位継承問題と政治対立:
    • 大友皇子(弘文天皇): 天智後継者として太政大臣任命、近江朝廷改革路線継承立場。近江朝廷官人層支持。天智死後即位したとされるが『書紀』記載なく明治時代まで正式天皇と見なされず。
    • 大海人皇子(天武天皇): 天智同母弟。有力候補者も兄と対立から皇位継承権辞退し吉野隠棲。しかし天智朝急進改革・近江遷都に不満持つ旧来豪族層(特に畿内・東国豪族)等から潜在的期待。
    • 対立構図: 天智**近江朝廷改革路線(新興勢力、中央集権強化)と、それに反発・不満持つ旧来勢力(伝統的豪族、地方勢力)**との、より大きな政治的・社会的対立構造背景。
  • 挙兵と戦闘経過:
    • 大海人皇子挙兵(672年6月): 近江朝廷側からの身の危険察知し吉野で挙兵。伊賀・伊勢経由し美濃へ。
    • 東国勢力結集: 東国豪族多くが応じ数万規模兵力集結。美濃不破関封鎖し近江朝廷東国兵力動員阻止が戦略上重要。
    • 近江朝廷対応: 大友皇子側も畿内・西国豪族に動員命じ迎撃。
    • 主要戦闘: 約1ヶ月間、畿内各地や美濃で激戦。大和方面一進一退。近江・美濃方面は大海人皇子主力軍が東国援軍得て近江へ進撃。
    • 瀬田川決戦: 7月22日、大海人皇子軍が瀬田橋突破、翌日近江宮に迫る。
    • 大友皇子最期と乱終結: 大友皇子は山前へ逃れ7月23日自害。大海人皇子の全面勝利で終結。
  • 壬申の乱意義 – 古代国家体制画期: 日本古代史上、その後政治体制あり方決定づけた極めて重要画期。
    • 天武天皇による専制的権力確立: 武力で皇位獲得し、豪族連合基盤に依存しない強力専制権力確立。後律令国家建設強力推進の大原動力に。
    • 中央集権化・律令国家建設加速: 天武天皇は強大権力背景に天智路線をより徹底継承・推進。律令(飛鳥浄御原令)編纂、官僚機構整備、人民支配強化(部曲廃止等)、天皇神格化等強力推進し律令国家建設加速。
    • 豪族勢力再編: 乱勝敗で豪族地位大変動。近江朝廷側没落、大海人皇子側(特に東国豪族、大伴氏等一部畿内豪族)が新台頭し天武朝政権中核に。権力バランス大変化。
    • 「天皇」号・「日本」国号使用開始?: 天武天皇代からとする説有力。内外へヤマト政権新段階入ったこと宣言。

壬申の乱は単なる皇位継承内乱でなく、大化改新以来改革路線最終勝利確定、天武天皇強力専制支配とそれを基盤とした律令国家体制急速建設への道開いた、古代史決定的分水嶺。

3. 律令国家の形成(673年~702年):天武・持統朝から大宝律令へ

壬申の乱勝利で絶大権力得た天武天皇と、皇后であり夫死後自ら即位し事業継承した持統天皇時代(673年~697年、持統譲位まで)は、日本の律令国家体制が急速整備・確立される「国家形成」時代。両天皇強力リーダーシップ下、律令編纂、官僚制整備、都城建設、国史編纂等精力的に進められ、集大成として8世紀初頭に大宝律令が完成・施行。

3.1. 天武天皇の専制政治と中央集権化 – 理想国家の追求と天皇神格化

天武天皇(在位673-686年)は壬申の乱勝利背景に強力専制君主として君臨。天皇権威絶対化・神格化、皇族重用**「皇親政治」**展開で豪族勢力介入排し、天皇主導中央集権国家体制確立を強力推進。

  • 天皇神格化: 自ら現人神と位置づけ権威宗教的にも高める。「天皇」号使用開始(有力説)、伊勢神宮地位向上、神道国家統治イデオロギー再編成等はその現れか。
  • 皇親政治: 子弟・近親皇族を政権中枢登用。壬申の乱教訓から信頼できる皇族で政権基盤固め豪族影響力相対的低下図るか。一方で皇族間後継者争い誘発要因とも(例:大津皇子謀反事件686年)。
  • 官僚制整備: 天皇専制支配実務的に支える官僚機構整備進展。官位制度改め官職対応関係明確化、朝廷儀礼・服制定める等、官僚秩序確立図る。豪族私有支配部曲廃止方針打ち出し(完全実施には時間かかった)、国家による人民直接支配(公民制)強化図る。
  • **八色の姓(やくさのかばね)**制定(684年): 旧来氏姓制度を天皇との親疎基準に抜本的再編成目指し、新真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置八姓制定。最上位真人・二番目朝臣に皇族系・功臣を位置づけ、旧臣・連より上位とし天皇中心新身分秩序構築、有力豪族明確序列化目指す。皇族地位格段高まり天皇権威強化。朝臣姓得た藤原氏(不比等)等新支配階層台頭契機に。
  • **富本銭(ふほんせん)**鋳造(683年頃): 国家による貨幣発行試み。文字記載ある最古鋳造貨幣とされる。流通範囲都周辺に限られたが、貨幣発行は国家権威示すと共に経済統制強化図る中央集権化政策一環。
  • 律令編纂開始: 国家統治基本法典となる体系的律令編纂命令。近江令参考にしつつ唐律令研究し日本国情に合わせ法典作り開始。天武代未完成も後の飛鳥浄御原令として結実。
  • 国史編纂推進: 国家成り立ち・天皇支配正統性明確化のため国史編纂命令。帝紀・旧辞整理・記録させたとされ、後の『古事記』『日本書紀』編纂事業へ繋がる。

天武治世は強大権力背景に律令国家建設向け諸改革集中的・強力推進。専制政治は後の天皇制あり方に大影響与え、古代国家体制基礎固める上で決定的役割果たした。

3.2. 持統天皇の政治と藤原京遷都 – 律令国家の完成へ

天武天皇崩御後、皇后・鸕野讚良皇女(天智娘)が皇太子・草壁皇子早世等受け自ら即位、持統天皇に(在位690-697年、称制686年~)。持統天皇は亡夫遺志継ぎ、律令国家体制完成へ極めて強力リーダーシップ発揮。

  • 飛鳥浄御原令施行(689年): 天武朝開始令編纂完成、施行。日本初体系的律令法典(令のみか律も存在か議論あり)として後の律令編纂基礎に。官僚制度、地方行政、人民支配等基本規定含んだと考えられ、律令に基づく国家統治本格開始。
  • 庚寅年籍(こういんねんじゃく)作成(690年): 天智庚午年籍以来20年ぶり、全国規模新戸籍作成。飛鳥浄御原令規定に基づき人民を「戸」単位で正確把握、後の班田収授法本格実施(持統朝開始説有力)や徴税・徴兵制度運用基礎資料に。国家人民支配体制大前進。
  • 藤原京遷都(694年) – 日本初の本格的都城: 持統治世最大事業。都を飛鳥浄御原宮から北方藤原京(現橿原市)へ移転。
    • 特徴:条坊制と壮大宮殿: 唐長安モデル日本初本格的条坊制都城。碁盤目状区画(やや歪みも判明)、中央北部に広大藤原宮設置。藤原宮は高塀囲まれ大極殿・朝堂院等備えた壮大宮殿。建物は礎石建て・瓦葺き大陸風壮麗なものと確認。藤原京規模は東西約5.3km、南北約4.8kmと推定され後平城京・平安京より広大。
    • 意義:律令国家象徴: 広大計画的都城建設は天皇中心中央集権律令国家体制確立を内外に視覚的に示す壮大国家プロジェクト。整然都市空間・壮麗宮殿は天皇権威・国家威容象徴し新政治秩序確立印象づけた。藤原京は約16年間(694-710年)日本の政治・文化中心に。構造・理念は後の平城京、平安京へ受け継がれる日本都城史の重要画期。

持統天皇は夫路線継承し大事業成し遂げ律令国家骨格完成。強力な政治手腕・意志は古代女帝の中でも際立つ。

3.3. 大宝律令(たいほうりつりょう)の完成と施行(701年) – 律令国家体制の法的確立

持統天皇から譲位された文武天皇(天武・持統孫、在位697-707年)代に、日本の律令国家体制を法的に完成させる画期的法典・大宝律令が編纂・施行。日本が名実ともに律令に基づく統治システムへ移行した一大事業。

  • 編纂経緯と中心人物: 文武天皇即位後まもなく新律令編纂命令。中心は天武皇子・刑部親王と藤原不比等。先行飛鳥浄御原令基礎としつつ唐律令(特に永徽律令)を主要参照モデルに、日本国情に合わせ取捨選択・修正加え体系的・網羅的律令作成進めた。
  • 完成と施行: 大宝元年(701年)完成。元号「大宝」はこの律令完成記念か。**翌大宝2年(702年)**から全国施行。これにより日本は律・令揃った本格律令法典持つ国家に。
  • 律令内容(概略): 律6巻(刑法)、令11巻(行政法・民法等)。国家基本構造関わる主要規定は以下。
    • 官制(令):
      • 中央官制(二官八省制): 二官(神祇官、太政官)八省体制確立。神祇官上位特徴。太政官(太政大臣、左右大臣、大納言等公卿合議)が政務統括。八省(中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内)が実務分担。他に弾正台、五衛府等。
      • 地方官制(国郡里制): 全国を国・郡・里に編成。国:中央から国司派遣統括。郡:在地有力豪族から郡司任命し国司監督下で担当。里:里長が末端行政担当。特別行政区:京職、摂津職、大宰府設置。
    • 人民支配(令):
      • 戸籍・計帳: 6年ごと戸籍、毎年計帳作成し人民把握基本。
      • 班田収授法: 原則6歳以上良民男女へ口分田班給(一代限り)、死亡時収公。公地公民原則実現図る。
      • 租税制度(租・庸・調・雑徭): (稲)、(労役or代納物)、調(地方特産物)、雑徭(地方労役)基本。他に出挙(公稲利息)、公廨(国司収入源)も。
    • 軍事制度(令): 軍団(正丁から徴発)、衛士(都警備)、防人(九州防衛)設置。
    • 刑罰(律): 唐律モデル五刑(笞・杖・徒・流・死)基本。八虐重罰、官当(官位に応じ刑減免)制度も。
  • 大宝律令歴史的意義:
    • 律令国家体制法的確立: 日本初律・令揃った体系的法典。制定・施行により天皇頂点中央集権律令国家体制が法的に確立。
    • 全国的・統一的支配実現: 全国統一行政組織・人民把握システム・土地制度・租税制度・軍事制度施行し、中央政府全国支配実現の法的根拠に。
    • 後世への長期的影響: 若干修正(養老律令)経ながら奈良・平安時代通じ国家統治基本法典として機能し続け、後世日本法制度・政治体制・社会に長期大影響。
  • 限界: 理念(特に公地公民制・班田収授法)と日本現実社会間には当初から乖離も。律令制は後社会経済変化で徐々に変容・弛緩していく。しかし基本枠組みは古代日本国家・社会規定で決定的役割果たした。

大宝律令完成・施行(701-702年)は大化改新(645年)から始まった約半世紀律令国家建設事業の一到達点、日本古代国家体制確立示す画期的出来事。これにより日本は東アジア律令国家群一員として新時代(奈良時代)迎える準備整えた。

第四章 飛鳥・白鳳文化:律令国家と仏教美術の開花

弥生時代後期に列島各地で形成された「クニ」と呼ばれる政治的なまとまりは、やがてより広域的な統合へと向かい、日本列島における最初の統一的な政治権力、すなわち**「ヤマト政権(王権)」が誕生します。本章では、このヤマト政権が成立し、その支配体制を列島各地へと広げ、発展させていく「古墳時代」**(3世紀後半~7世紀初頭頃)に焦点を当ててまいります。巨大な前方後円墳の築造に象徴されるこの時代は、日本古代国家形成への道を本格的に歩み始めた重要な時期であると同時に、激動する東アジア世界との密接な関わりの中で、その性格を形作っていった時代でもありました。

本章の探求は、まず弥生時代から古墳時代への移行期、すなわち古墳時代の曙から始まります。前方後円墳という新たな墓制の出現と、その背景にある初期ヤマト政権の中枢とされる纏向遺跡の謎に迫ります。次に、ヤマト政権(王権)そのものの形成過程と構造を詳しく見ていきます。政権の頂点に立つ大王(おおきみ)の実像、そして大王を支えつつも時には対立した有力豪族(氏族)たちとの関係性(豪族連合政権としての性格)や、政権中枢の移動などを通して、その権力のあり方を探ります。続いて、前方後円墳体制の展開や埴輪の世界といった古墳文化の具体的な様相と、それを支えたヤマト政権の支配体制(氏姓制度、部民制度、国造制、屯倉など)の仕組みと機能について解説します。さらに、当時の東アジアの国際情勢を踏まえ、ヤマト政権が中国王朝や朝鮮半島諸国とどのような対外関係を築き、また影響を受けたのか(倭の五王の遣使、朝鮮半島をめぐる角逐など)を考察します。加えて、古代日本の社会・文化に多大な影響を与えた渡来人の役割と、その「国際化」の側面にも光を当てます。最後に、ヤマト政権が内外の危機に直面し、大きな変質を遂げていく6世紀の動向(磐井の乱、仏教伝来、蘇我氏台頭、推古朝改革)を追い、古墳時代の終焉と次の律令国家への展望へと繋げます。

早慶をはじめとする難関大学の入試においては、古墳時代は極めて重要な学習範囲です。前方後円墳、ヤマト政権の構造と支配制度、対外関係、渡来人、6世紀の動乱と改革など、本章で扱う各テーマに関する正確な知識は当然のこととして、それらを相互に関連付け、政治・社会・文化・国際関係といった多角的な視点から、ヤマト政権の成立・発展・変質のプロセスを深く理解し、論理的に考察する能力が強く求められます。考古学的な成果と文献史料(記紀、金石文、中国史書など)を総合的に活用する視点も不可欠です。

本章を通じて、古墳という巨大モニュメントが築かれた時代の政治権力の動き、社会の仕組み、文化の特色、そして東アジア世界とのダイナミックな関わりを学び、日本古代国家が形成されていく壮大な歴史の展開を深く理解するための一助となれば幸いです。

1. 飛鳥文化(7世紀前半中心):仏教文化の受容と創造の息吹

飛鳥文化は、政治中心が飛鳥(現・奈良県明日香村周辺)にあり、特に推古天皇治世(592-628年)を中心とする7世紀前半に展開した、日本最初の本格的仏教文化である。外来仏教文化を熱心に受容し、それを基盤に日本独自の創造が芽生え始めた文化黎明期であった。

1.1. 時代背景:推古朝の政治と仏教興隆

仏教公伝後、その受容を巡り、先進文化導入に積極的な蘇我稲目・馬子ら崇仏派と、古来の神祇信仰を重視する物部尾輿・守屋や中臣鎌子排仏派が激しく対立。これは政権主導権争いでもあり、最終的に丁未の乱(587年)で蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし決着。これにより仏教受容への道が開かれ、国家的な保護・利用へと進んだ。

丁未の乱後、推古天皇が即位し、甥の聖徳太子(厩戸皇子)が摂政、蘇我馬子が大臣となり協調政治が進められた。聖徳太子は仏教に深く帰依し、その思想(特に『法華経』の万民救済や平和主義)を国家統治の精神的支柱と重視。十七条憲法第二条で「篤く三宝を敬へ」と述べ、仏教を国家・社会の基本原理と位置づけた。遣隋使派遣による大陸文化導入でも仏教を重視。蘇我馬子も仏教を熱心に信仰・保護し、寺院建立は権勢誇示と氏族繁栄祈願の手段でもあった。

聖徳太子・蘇我馬子の保護下、有力豪族も競って氏寺を建立。氏寺建立は、①信仰表明、氏族繁栄・祖先冥福祈願の宗教的目的、②先進文化導入による権威誇示の政治・社会的目的、③氏族結束の拠点、等の意味を持った。結果、飛鳥周辺には、飛鳥寺(法興寺、元興寺)(596年創建、蘇我氏)、四天王寺(聖徳太子伝承)、法隆寺(斑鳩寺)(607年頃創建か、聖徳太子伝承)、中宮寺(聖徳太子母伝承)、広隆寺(渡来系・秦河勝伝承)など多くの寺院が建立され、飛鳥文化は仏教文化として展開した。

1.2. 建築:大陸様式の導入と日本的展開

仏教寺院建立は日本の建築史に革命をもたらした。従来の掘立柱建物に代わり、大陸から礎石、柱、組物、瓦葺き屋根といった堅牢で壮麗な建築技術・様式が導入された。寺院中心部には、塔、金堂、講堂、回廊、中門、南大門等の主要建物(伽藍)が計画的に配置された。

  • 飛鳥寺(法興寺)の伽藍配置(一塔三金堂式): 発掘調査で中央に塔、その北・東・西に金堂を配す特異な一塔三金堂式と判明。高句麗様式の影響と見られ、塔中心は仏舎利信仰重視を示す。本格的瓦使用の始まり。
  • 四天王寺式伽藍配置: 聖徳太子伝承の四天王寺(現存せず)は、南から中門、塔、金堂、講堂を一直線に配し回廊で囲む四天王寺式。中国南北朝様式の影響とされ、後の寺院配置基本の一つ。
  • 法隆寺(斑鳩寺)西院伽藍: 現存世界最古の木造建築群。創建(若草伽藍)と再建論争: 『日本書紀』の天智9年(670年)焼失記事を巡り、現存西院伽藍が聖徳太子創建当初か、焼失後再建(7世紀末~8世紀初頭)かを巡る法隆寺再建・非再建論争が長年続いた。
    • 再建説の有力化: 1939年の若草伽藍跡(焼けた寺院跡、四天王寺式、現伽藍より古い瓦出土)発見により、①創建(若草伽藍)→②670年焼失→③現西院伽藍再建、とする再建説が現在定説。再建時期は**7世紀末~8世紀初頭(白鳳時代)**が一般的。
    • 現存西院伽藍の配置(法隆寺式伽藍配置): 回廊内、左(西)に五重塔、右(東)に金堂を非対称に配す独特の法隆寺式。日本独自の創出で、塔と金堂の双方重視・視覚的バランス考慮の結果か。
    • 建築様式(金堂・五重塔): 再建期は白鳳期とされるが、様式には飛鳥時代の古い要素が色濃く残る。柱のエンタシス(胴張り)雲形斗栱・雲形肘木(曲線的な組物)、卍崩しの高欄などは、中国六朝・北魏様式の影響を示し、国際性と古拙な魅力を伝える(国宝)。

1.3. 彫刻:止利様式と古拙な魅力

仏教伝来は仏像という新彫刻形式をもたらした。飛鳥時代の仏像は、渡来仏師やその弟子により制作され、大陸様式(特に中国・北魏様式)の影響を強く受けた、力強く神秘的な作風を特徴とする。特に鞍作止利(くらつくりのとり)確立の止利様式はこの時代を代表する。

  • 仏師・鞍作止利: 渡来人・司馬達等の孫とされる。蘇我馬子・聖徳太子の庇護下で飛鳥寺釈迦如来像や法隆寺金堂釈迦三尊像など国家的重要仏像制作を担った宮廷仏師。
  • 止利様式の特徴(北魏様式影響):
    • 硬質で左右対称(シンメトリー)な構成。
    • 面長の顔、杏仁形(アーモンド形)の目、鋭い眉、神秘的な古拙の微笑み(アルカイック・スマイル)、仰月形の唇。超俗的・理念的な威厳・慈悲表現。
    • 深く鋭く刻まれ左右対称で装飾的な衣文(えもん)。坐像の**裳懸座(もかけざ)**表現は規則的。
    • 舟形光背には忍冬唐草文様、火焔文様、飛天などを精巧に表現。
  • 止利様式の代表作:
    • 飛鳥寺 釈迦如来像(飛鳥大仏): 606年or609年完成伝承、現存最古仏像(銅造、重文)。大部分後補だが顔貌等に当初様式残る。
    • 法隆寺 金堂 釈迦三尊像: 623年完成銘(信憑性議論あり)、聖徳太子追善供養のため造像(金銅仏、国宝)。中尊像は止利様式の典型で飛鳥彫刻最高傑作の一つ。
  • その他の様式(非止利様式、南朝・百済・新羅影響): より柔和で人間味のある自然主義的な仏像も存在。
    • 法隆寺 夢殿 救世観音像: 聖徳太子等身像伝承(木造、国宝)。止利様式に近い要素もあるが、体つき・衣文はより柔らかい。南朝様式影響の百済仏との関連指摘。
    • 中宮寺 半跏思惟像(伝如意輪観音): 木造(楠)、国宝。右脚を左膝に乗せ思索する姿。優美で穏やかな微笑み、丸みある柔らかな体つき、自然な衣文が特徴。朝鮮三国(特に新羅)の同形式像と強い関連。
    • 広隆寺 半跏思惟像(宝冠弥勒): 木造(赤松)、国宝。中宮寺像に似るが、よりすらりとした体型。新羅渡来仏か渡来系仏師作説が有力。
  • 材質と技法: 主に金銅仏(銅鋳造・金鍍金)と木彫仏(一木造、樟材多用)

飛鳥彫刻は大陸様式影響下、日本の仏師が咀嚼し独自表現を生み出した過程を示し、日本仏教彫刻史の出発点として重要。

1.4. 絵画・工芸:大陸文化の息吹と日本の技

飛鳥時代の絵画・工芸品も仏教導入で新展開、大陸文化(中国六朝、朝鮮三国)の影響を色濃く反映。遺品は少ないが技術水準の高さと国際性を示す。

  • 法隆寺 玉虫厨子: 大宝蔵院蔵、飛鳥時代の工芸・絵画様式を総合的に示す貴重な遺品(国宝)。
    • 構造と装飾: ヒノキ材黒漆塗り、宮殿建築模倣。透かし彫り金銅金具下に玉虫の翅が貼られていた(現存せず)独創的装飾。
    • 須弥座絵: 厨子基壇に仏教説話画(漆絵or密陀絵)。「捨身飼虎図」「施身聞偈図」は人物・山水表現に中国六朝絵画様式影響強く、飛鳥絵画最重要作例。
    • 意義: 建築様式、独創的装飾技法、六朝様式絵画など、飛鳥時代の技術水準・大陸文化受容・日本独自創造を示す傑作。
  • 中宮寺 天寿国繡帳: 聖徳太子妃・橘大郎女らが太子の往生した「天寿国」の様子を偲び刺繍させた帳(国宝、現存断片)。太子や父母、侍者、天寿国情景、「世間虚假 唯仏是真」銘文等。当時の死生観・浄土信仰・太子追慕を伝え、現存日本最古の刺繍遺品としても貴重。
  • 法隆寺 伝橘夫人念持仏と厨子: 金銅阿弥陀三尊像(白鳳様式)と木製厨子(国宝)。厨子扉絵菩薩・天人像に飛鳥様式名残。基壇蓮池表現も優れる。
  • 染織品(法隆寺裂): 法隆寺伝来の飛鳥時代可能性ある多様な染織品。錦、綾、羅、刺繍等。獅子狩文錦などササン朝ペルシャ・中国影響の国際色豊かなデザインは、高度技術とシルクロード文化交流を示す。

これら絵画・工芸品は、飛鳥文化が仏教美術中心ながら、各分野で大陸文化を積極受容し、日本の感性で消化・創造した過程を示す。

1.5. 学術・思想 – 仏教・儒教と国家意識の萌芽

仏教受容に伴い、学術・思想面も新展開。

  • 仏教研究の進展: 聖徳太子は『法華経』『勝鬘経』『維摩経』注釈書(三経義疏)を著したと伝わる(真偽議論あり)。大乗仏教精神の広範な理解を示す。高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聡ら渡来僧が理解・普及に大役割。
  • 儒教思想の浸透: 仏教と並び、儒教も国家統治理念・官僚倫理として重視・浸透。十七条憲法には**「和」「礼」「信」**など儒教的徳目が随所に盛られ、官僚道徳規範として提示。仏教・儒教が相互補完し国家理念形成に影響。
  • 国史編纂の開始: 推古28年(620年)、聖徳太子・蘇我馬子が**『天皇記』『国記』**編纂。現存しないが、ヤマト政権が支配正統性を歴史的に確立しようとする国家歴史意識萌芽を示す重要出来事。後の『古事記』『日本書紀』編纂の出発点。

飛鳥文化は外来仏教文化を軸としつつ、それを主体的に受容・理解し、日本の風土・精神性・国家建設必要性と結びつけ、独自の文化創造を開始。その遺産は後世の日本文化形成の重要第一歩であり礎となった。

2. 白鳳文化(7世紀後半中心):律令国家形成期の新しい息吹と国際性

白鳳文化は、大化の改新(645年)から壬申の乱(672年)を経て、天武・持統朝(7世紀後半~8世紀初頭)の律令国家体制確立期に展開。「白鳳」は元号でなくこの時期の文化様式、特に美術様式を指す慣用的な呼称。飛鳥文化に対し、新たに東アジアに君臨した唐(特に初唐)文化の直接影響を強く受けた点が最大の特徴。結果、古拙さ・硬質さから脱却し、洗練され、明るく若々しい清新な気風を持つ国際色豊かな文化として花開いた。律令国家建設という国家プロジェクトと東アジアとの緊張感ある関係性が背景にあった。

2.1. 時代背景:天武・持統朝の中央集権化と国際意識

壬申の乱勝利後、天武天皇は強大権力掌握、天皇中心専制支配確立。続く持統天皇も路線継承し、飛鳥浄御原令施行、庚寅年籍作成、藤原京遷都などで律令国家基盤を固めた。この政治的安定と強力リーダーシップが白鳳文化興隆の基盤となった。

律令国家建設は国家威信高揚と新秩序象徴のため文化事業を伴った。国家仏教理念下、官寺(大官大寺、薬師寺等)造営が大規模に進み、最新建築様式や荘厳仏像・壁画が導入された。国史編纂や新都(藤原京)建設も国家正統性・威容示す重要文化事業だった。

白村江敗戦(663年)は唐の強大国力・先進文化を痛感させ、天智・天武朝では国防強化と並行し唐制度・文化(律令、都城計画、仏教美術等)を国家建設モデルとして積極摂取。遣唐使は一時中断も、それまでの情報蓄積や渡来人、新羅交流を通じ、初唐文化は支配者層に強い憧憬を与え白鳳文化形成に決定的影響を及ぼした。

2.2. 建築:新しい伽藍配置と壮麗な様式

白鳳時代は国家事業としての寺院建立が本格化、大陸(特に唐)影響の新しい建築様式・伽藍配置が登場。

  • 国家仏教隆盛と官寺建立: 天武天皇は仏教を国家鎮護の柱とし官費で壮大寺院建立。大官大寺(飛鳥、後の大安寺)、薬師寺(藤原京、皇后病気平癒祈願)等。
  • 薬師寺式伽藍配置(一金堂二塔式): 平城京薬師寺(世界遺産)は、中門正面に金堂、手前左右に**二塔(東塔・西塔)**を対称配置する壮大な構成。唐寺院様式影響とされ、左右対称性重視の華麗で整然とした空間構成は白鳳美意識を象徴(創建時・本薬師寺は一塔式説あり)。
  • 薬師寺東塔: 平城京薬師寺唯一創建当初(奈良時代初頭新築説有力)姿を伝える三重塔(裳階付き六重に見える)(国宝)。「凍れる音楽」と評される絶妙バランスと軽快さは白鳳建築最高傑作とされる。
  • 法隆寺西院伽藍再建: 現存主要建物は白鳳時代(7世紀末~8世紀初頭)再建説有力。古式要素残しつつ、構成・細部意匠に白鳳期新感覚も反映か。
  • 藤原宮: 日本初本格的条坊制都城・藤原京中心の宮殿・政庁。約1km四方宮域、中心に壮大な大極殿、南方に朝堂院。礎石建て・瓦葺き大陸風壮麗建物群は天皇中心律令国家体制の権威・秩序を建築空間として具現化。

白鳳建築は国家事業として唐様式を取り入れ、壮大で整然とした新時代の到来告げる空間を創出した。

2.3. 彫刻:初唐様式の洗練と人間味

白鳳彫刻は飛鳥時代の硬質・神秘的様式から脱却、唐(特に初唐)仏教美術様式影響で、より自然で人間味あふれる洗練された作風へ大きく変化。若々しい生命感と穏やかな気品に満ちる。

  • 様式の特徴(初唐様式共鳴):
    • 自然で立体的な身体表現。豊かで立体感ある肉付け。左右対称・平板から脱し、**三曲法(S字カーブ)**のような動きある自然な姿態。
    • 柔らかく流麗な衣文。浅く柔らかく身体に沿う自然な表現。衣が薄く身体密着し肉体起伏示す表現も。
    • 若々しく人間味ある表情。丸み帯びた自然な顔立ち、整った目鼻立ち。穏やか理知的で若々しい生命感、人間的親しみやすさ。
    • 童子形。幼さ残る愛らしい表現も特徴。
  • 代表作:
    • 薬師寺 金堂 薬師三尊像: 国宝。薬師如来坐像と日光・月光菩薩立像(金銅仏)。堂々量感、優美な三曲法(脇侍)、流麗衣文、慈愛と気品ある表情など、白鳳彫刻様式の典型で最高傑作。台座の異国的な葡萄唐草文様や四神意匠は国際性象徴。製作年代は白鳳時代説・奈良時代初頭説あり議論続くが、様式は白鳳期代表。
    • 興福寺 仏頭: 国宝。元飛鳥山田寺本尊薬師如来像(685年完成銘)頭部(銅造)。若々しく清らかな顔立ち、穏やか理知的表情は白鳳前期代表優品。
    • 法隆寺 夢違観音像: 国宝。金銅観音菩薩立像。均整とれた体躯、ふっくらした顔立ち、自然な衣文に白鳳期(7世紀後半~末頃)特色顕著。
    • 法隆寺 伝橘夫人念持仏: 国宝。金銅阿弥陀三尊像。柔和で気品ある表情、自然流麗な姿態は白鳳後期(8世紀初頭頃)成熟様式示す。
    • 蟹満寺 釈迦如来像: 国宝。銅造釈迦如来坐像。堂々とした像、量感豊かな体躯、力強い衣文に白鳳時代(7世紀末~8世紀初頭)特徴。
  • 新しい素材・技法の導入: 天平期に全盛迎える新技法登場。
    • 塑造: 粘土で造形・乾燥・彩色。日本最古本格的作例は当麻寺 弥勒仏坐像(国宝、白鳳末期~奈良初期)。
    • 乾漆: 麻布を漆で貼り重ねる。脱活乾漆と木心乾漆。軽量丈夫で細部表現可。白鳳期作例少も天平彫刻代表技法へ。
    • 法隆寺 五重塔 初層 塑像群: 国宝。釈迦生涯場面表現の塑造群像(711年完成)。白鳳~天平過渡期の重要作例。生き生きとした表情・動き。

白鳳彫刻は初唐様式を主体的に受容・洗練し、若々しい生命感と気品ある独自の仏像様式を確立。技術・様式は天平時代の多様な仏教彫刻開花へ繋がる。

2.4. 絵画:壁画の隆盛と国際性

白鳳時代は壁画制作が隆盛。古墳石室内部や寺院堂宇壁面が極彩色絵画で荘厳に飾られた。大陸(唐、朝鮮半島)との密接な文化交流を反映した国際色豊かな様式を特徴とする。

  • 法隆寺 金堂壁画: (焼損前の状態として記述)
    • 内容: 金堂内壁面に釈迦・阿弥陀・弥勒・薬師の四浄土図(大壁)や菩薩・飛天像(小壁)描かれた壮大仏教壁画。
    • 様式と国際性: 白土下地に墨線(力強い鉄線描)と鮮やか彩色。豊満写実的人体表現、流麗衣文、立体感出す隈取等はインド・アジャンター、中央アジア・キジル、中国初唐・敦煌壁画等と強い類似。シルクロード経由西方起源様式が唐で洗練され日本へ伝播した国際性象徴の傑作(7世紀末~8世紀初頭制作)。
    • 焼損と文化財保護: 昭和24年(1949年)火災で甚大被害。国民に衝撃与え文化財保護法制定(1950年)契機に。現在焼損壁画は別途保管、堂内には再現壁画設置。
  • 高松塚古墳壁画: 昭和47年(1972年)発見、明日香村の円墳(7世紀末~8世紀初頭)石槨内極彩色壁画(国宝)。
    • 内容: 天井に星宿図(天文図)、四壁に四神(玄武、青龍、白虎、朱雀?)と男女人物群像(西壁女子群像は「飛鳥美人」)。
    • 様式と意義: 様式は大陸(唐、高句麗)影響極めて強い。当時の支配者層(被葬者は皇族に近い有力者か)の大陸文化・思想積極摂取示す貴重証拠。古代絵画史研究を大進展させた。
    • 保存問題: カビ等劣化深刻化し、石材取り出し古墳外施設で修復・保存(2007年~)。古墳内はレプリカ設置。
  • キトラ古墳壁画: 高松塚南方の円墳(7世紀末~8世紀初頭)で平成10年(1998年)以降発見壁画(国宝)。
    • 内容: 四神図(四神揃う)、本格的天文図(天井)、十二支像(獣頭人身、壁面)。
    • 様式と意義: 様式は高松塚と共通点多く大陸影響示す。天井天文図は現存最古級の本格的科学的星図で学術価値極めて高い。十二支像も貴重図像。劣化のため石室から取り外し保存・修復中。

これら壁画は、白鳳絵画技術の到達点、国際色豊かな文化様式、当時の宇宙観・死生観を具体的に示すかけがえのない文化遺産。

2.5. 文学:漢詩文と和歌の萌芽

律令国家形成は文字(漢字)能力を不可欠とし、支配者層で漢詩文創作が盛んに。古来口承の和歌も宮廷中心に洗練され漢字で記録されるように。日本の文字文学本格化前夜。

  • 漢詩文の隆盛: 悲劇皇子・大津皇子大友皇子(弘文天皇)ら優れた漢詩が知られる。7世紀後半~8世紀前半貴族漢詩は、日本最古漢詩集**『懐風藻』**(751年成立)収録。唐詩文影響受けつつ心情・感慨表現試みた様子示す。
  • 和歌の発展 – 『万葉集』への道: 日本固有歌謡・和歌も発展、後の『万葉集』基礎築かれた。
    • 記紀歌謡: 叙事的性格強く形式自由。
    • 『万葉集』初期歌人: 『万葉集』(8世紀後半成立)巻一・二等に白鳳期(天武・持統朝)活躍歌人秀歌多数。額田王(情熱的優美な女流歌人、「あかねさす…」「熟田津に…」)、柿本人麻呂(『万葉集』最大歌人、荘重格調高い長歌・反歌形式完成、「やすみしし…」等天皇讃歌・挽歌・旅情歌等傑作多数、「ますらおぶり」と評される)。
    • その他歌風: 宮廷歌だけでなく、東国生活感情歌う「東歌」、辺境兵士の歌「防人歌」原型となる地方歌も存在か。

白鳳時代は漢詩文と和歌が共に発展、文字記録され始めた重要期。この文学的営為が天平時代『万葉集』完成や漢詩文隆盛へ繋がる。

2.6. 白鳳文化の特質 – 古代文化の若々しい輝き

白鳳文化は飛鳥・天平文化間に位置しつつ独自の輝き持つ魅力的な文化。特質は以下。

  • 清新さと若々しさ: 新国家体制形成期の高揚感や初唐文化との出会いが、文化全体に若々しく明るく清新な気風もたらした。
  • 国際性: 唐文化の直接影響強く、インド、中央アジア、朝鮮半島等様々な地域文化要素融合した国際色豊かな性格。
  • 国家仏教との結びつき: 仏教は国家鎮護の性格強め、官寺建立・国家法会等を通じ文化活動も国家的事業として推進。
  • 伝統と革新の融合: 飛鳥文化伝統継承しつつ、新大陸様式・技術を積極導入・日本的に消化・発展。
  • 天平文化への橋渡し: 培われた技術(塑造、乾漆等)、様式(初唐様式基盤の写実性)、国際性は、次の天平文化のより成熟・壮大・多様な開花へ直接繋がる重要橋渡し役。

白鳳文化は、古代日本が激動東アジア世界で自己確立し独自の国家・文化を築く過程で生み出された、若々しいエネルギーと国際性に満ちた魅力あふれる文化であった。

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