早慶日本史 講義 第3講 古代:律令国家の展開

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目次

第二章:律令国家の展開と繁栄(奈良時代)―平城京の時代と律令政治の光と影―

大宝律令の制定と平城京への遷都(710年)により、日本の古代国家は律令に基づく統治が本格的に展開される**「奈良時代」(8世紀)へと入ります。本章では、この平城京を中心とした約70年間に焦点を当て、律令国家が繁栄の頂点を迎える一方で、激しい権力闘争や社会矛盾といった影の部分も顕著になる、その光と影**に彩られた時代の全体像を探ります。奈良時代は、古代国家の仕組みが確立し、華やかな天平文化が花開いた重要な時期です。

この時代、平城京は壮大な国際都市として繁栄し、律令に基づいた政治が運営されました。しかしその内実は、藤原氏の台頭と皇族との対立(長屋王の変など)、そして聖武天皇の時代の社会不安(疫病、反乱)とそれに対する仏教(鎮護国家思想)への傾斜、さらには道鏡の登場など、権力闘争と政局の変動が絶えませんでした。経済面では、班田収授制の実施と動揺、**墾田永年私財法(743年)**による土地制度の変化が見られます。文化面では、遣唐使などを通じた国際交流を背景に、天平文化と呼ばれる仏教美術や文学が隆盛を極めました。

早慶などの難関大学入試においても、奈良時代は極めて重要な範囲です。政治史(主要な天皇・権力者・政変)、律令制度の運用と変容(土地・税制)、天平文化(仏教美術、文学、国際性)、対外関係(遣唐使、新羅・渤海)について、体系的な知識と、それらの関連性を深く考察する能力が求められます。

本章では、奈良時代の幕開けから政治・社会・文化・国際関係の各側面を解説し、律令国家が最も輝きを見せるとともに、次代への変容の萌芽も現れたこの時代の多面的な実像に迫ります。古代国家展開の重要な段階を学びましょう。

1. 奈良時代の幕開け:平城京遷都と律令国家の本格始動

大宝律令(701年)の制定により法的枠組みが整った律令国家は、8世紀初頭、平城京への遷都(710年)をもって本格的な始動を告げます。本セクションでは、この奈良時代の幕開けを画する遷都に焦点を当て、その背景、唐の長安をモデルとした新都・平城京の構造と機能、そして地方における国府・郡家の整備について解説します。平城京の誕生は、律令国家体制が実質的に動き出したことを象徴する重要な出来事でした。

元明天皇による平城京遷都は、水運の利便性や唐文化の模倣による国家威信向上、政治基盤強化など複合的な理由から断行されました。条坊制に基づく計画都市である平城京は、北辺中央に宮城(大内裏)を置き、政治・儀式の中枢機能を集約、京内には官寺や市なども整備された国際性豊かな帝都でした。また、地方にも国府や郡家が整備され、中央集権的な統治ネットワークの拠点とされました。

早慶などの難関大学入試においても、平城京遷都(710年)の意義、平城京の構造(条坊制、宮城など)、そして国府・郡家の役割に関する知識は、奈良時代理解の基礎として不可欠です。これらの都市・行政拠点が律令国家の統治システムの中でどのように機能したのか、その理解と考察が求められます。

本セクションでは、平城京遷都を軸に、律令国家が本格始動した奈良時代の始まりの様相を探ります。壮麗な帝都と地方統治拠点の姿から、古代国家の具体的な姿を学んでいきましょう。

1.1. 藤原京から平城京へ:遷都の背景と複合的理由

平城京遷都(710年)直前まで首都は、持統・文武・元明三天皇が宮を置いた藤原京(694年遷都)であった。藤原京は大和三山に囲まれ、日本初の本格的条坊制を採用した計画都市で、その規模(東西約5.3km、南北約4.8km)は後の平城京・平安京に匹敵する壮大なものであった(近年の発掘調査で判明)。藤原宮を京域中央やや北寄りに置くなど独自のプランを持っていた。

しかしこの画期的都からわずか16年で平城京へ遷都された背景には、いくつかの複合的理由が考えられる。

  • 地理的・物流的要因の改善:
    • 水運の利便性: 平城京予定地(奈良盆地北部)は佐保川が大和川に合流し、木津川水系とも接続容易だったため、瀬戸内海(難波津)や琵琶湖方面への水運便が格段に向上。これは全国からの重税(米や地方産物)輸送や対外交通路確保上、極めて重要な利点だった。藤原京はやや内陸で水運便で劣っていた。
    • 土地の広さと地形: 平城京予定地は藤原京周辺より広大で平坦な土地が確保でき、より大規模で整然とした都城建設に適していた。また北に丘陵、東に山々を望み、風水思想(後述)からも好ましい地形とされた可能性がある。
  • 政治的・思想的要因:
    • 唐・長安城のより忠実な模倣: 平城京都市プランは、唐首都・長安城を藤原京以上に強く意識し、その構造(宮城を京域北端中央に配置し、南へ朱雀大路を貫通させる形式)をより忠実に模倣しようとしたと考えられる。これは確立した律令国家としての威容を内外に示し、唐中心の東アジア国際秩序の中に日本が独自の地位を占めることを示す狙いがあったと推測される。
    • 旧勢力からの脱却と権力基盤の強化: 新都建設は、飛鳥地方の豪族や寺院(旧都勢力)の影響力を相対的に弱め、遷都を主導した元明天皇や藤原不比等ら新指導層の権力基盤強化の意図もあったと考えられる。遷都はしばしば人心一新と新政治秩序構築の契機とされる。
    • 風水思想の影響: 都の立地選定や都市計画には、中国伝来の風水思想(四神相応など)も影響した可能性が指摘されている。平城京の北に山、南に開けた土地、東に川、西に道という地勢が、理想的立地とされたのかもしれない。

これらの複合的要因が絡み合い、708年に元明天皇により遷都の詔が発せられた。造営工事は急ピッチで進められ、多くの資材と労働力が全国から動員され、わずか2年後の710年3月には遷都が強行に近い形で実現した。

1.2. 平城京の構造と機能:律令国家を象徴する壮麗なる帝都

平城京は律令国家の政治・経済・文化の中心として、唐長安城をモデルに、壮大かつ計画的に建設された国際都市であった。

  • 規模と条坊制:
    • 規模: 京域は東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形区域を基本とし、東側(左京)北東部には外京と呼ばれる張り出し部分(東西約1.6km、南北約2.1km)が付加。総面積約25平方キロメートルに及び、当時の日本列島では比類ない規模を誇った。
    • 条坊制: 京域内は東西・南北に等間隔で走る直線道路により碁盤目状に整然と区画。南北の坊間路と東西の条間路で区切られた大きな区画を**「坊」と呼び、各坊は小路で縦横に3分割され、計16の「坪」**に細分化(1坪約130m四方)。この条坊制は土地管理、住所表示、都市計画の基本となり、律令国家の秩序と合理性を象徴した。
  • 宮城(きゅうじょう、大内裏、だいだいり):国家統治の中枢
    • 位置と構造: 京域北辺中央に東西約1.3km、南北約1kmの広大な区画を占める宮城(平城宮)。周囲は高さ5m以上の築地塀と濠で厳重に囲まれ、南面中央には正門・朱雀門がそびえ、南へ朱雀大路が伸びていた。
    • 機能: 天皇居住空間の内裏、政務・儀式空間の朝堂院、そして二官八省はじめ官衙群の三つの主要機能区画から構成。
      • 内裏: 天皇の私的生活空間。天皇、后妃、皇子女らが居住。構造詳細は不明だが複数の殿舎が廊下で結ばれる形式か。
      • 朝堂院(第一次・第二次大極殿院): 天皇が臣下を引見し政務を執り、元日朝賀や即位礼など国家的儀式を行う最重要公的空間。中心に巨大な大極殿、南に広大な広場(朝庭)と朝集殿が配置。平城宮跡発掘で創建当初(元明・元正朝)の第一次朝堂院と聖武天皇期新造の第二次大極殿院の二時期遺構確認。第二次大極殿はより壮麗な建築様式(二階建て構造か)と推測。
      • 官衙群: 朝堂院東西や北側に太政官、八省、その他官庁建物が計画的に配置され、多数官人が日々執務。律令国家行政システムが物理的に集約された場所。
  • 京内の主要施設と都市生活:
    • 朱雀大路: 宮城朱雀門から京域南端羅城門(未完成か)まで、都中央を南北貫通、幅約70m~85mのメインストリート。国家的儀式や外国使節歓迎行列にも用いられ、都の威容を示す装置でもあった。
    • 寺院(官寺): 京内・外京に国家保護の大規模官寺が多数建立。東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺、元興寺(これに法隆寺と西大寺を加え南都七大寺と称されることが多い)などが代表。壮大な伽藍は都市景観を荘厳にし、仏教文化中心地となった。特に外京に広大な寺域を占めた東大寺は国家仏教の象徴。
    • 市(東西市): 京内朱雀大路を挟み、左京に東市、右京に西市の官営市場設置。全国からの物資が取引され、経済活動中心。市司が管理し、取引時間、度量衡、物価統制なども実施。取引は物々交換中心だが、和同開珎など貨幣も限定的に使用されたと考えられる。
    • 貴族・官人の邸宅: 条坊制に基づき割り当てられた宅地に、位階・身分に応じ貴族・官人邸宅建設。特に宮城近く一等地に有力貴族(藤原氏、長屋王など)の広大邸宅集中。長屋王邸跡から木簡10万点以上出土し、当時の貴族生活、人脈、宮廷関係、貢進システム実態などを具体的に知る極めて貴重な情報を提供。
    • 一般民衆の住居と生活: 多くの一般庶民(工人、商人、農民、雑役従事者など)も京内居住。多くは条坊外縁部や裏通りなどに比較的小さな住居(掘立柱建物など)を構えて生活か。水は井戸から得たが、人口密集による衛生問題(ゴミ・屎尿処理など)や食糧供給問題も深刻だったと推測される。
  • 人口と国際性:
    • 人口: 正確な数字不明だが、近年の研究では最盛期(8世紀中頃)に10万人超、最大15万~20万人に達した可能性も指摘。当時日本総人口(推定500万~600万人)から見ても極めて大規模な都市であった。多様な階層が集住する活気ある(しかし問題を抱えた)大都市。
    • 国際性: 当時の東アジア国際交流の重要結節点。遣唐使を通じ最新唐文化流入、新羅・渤海使節も頻繁来訪。さらに大仏開眼供養会には唐僧・鑑真やインド僧菩提僊那、ベトナム僧仏哲などが参加し、遠く南・東南アジアとの交流もあったことを示す。正倉院宝物には唐文物だけでなく、ペルシア(ササン朝様式漆胡瓶、カットグラス)や**東ローマ帝国(ビザンツ)**影響のデザインのガラス器(白瑠璃碗)なども含まれ、シルクロードを通じた広範な文化交流ネットワークに平城京が位置づけられていたことを物語る。多くの渡来人も都で活躍し、平城京の国際性を豊かにした。

平城京は律令国家の権力・繁栄・国際性を象徴する壮大な帝都だったが、造営・維持には莫大な国家財政と人民労力が投入され、人口集中に伴う都市問題も抱えていた。784年、桓武天皇により長岡京へ遷都されると政治的中心役割を終え、急速に衰退し京域の多くは農地に還った。しかしその壮大な都市計画理念と豊かな文化遺産は後の平安京へ受け継がれ、日本都城史における輝かしい一時代を画した。

1.3. 地方における国府・郡家の整備:律令支配の拠点

中央の平城京と連携し、律令統治を地方隅々まで浸透させるため、地方でも行政拠点である国府と郡家の整備が本格的に進められた。

  • 国府(国衙、こくが):各国の政治・文化の中心: 各国に置かれた国司政務機関の国府(国衙)は、律令制施行に伴い計画的に建設・整備。多くの場合、地理的中心や交通要衝、見晴らし良い台地上などに立地。中心に国庁と呼ばれる政務・儀式の場(正殿、脇殿、曹司、国庁院など、平城宮朝堂院縮小版構造が多い)が設けられ、他に国司館、事務官衙、正倉(多数の倉庫群、校倉造が多い)、工房、厨などが計画的に配置。国府は単なる行政機関ではなく、国の政治・経済・軍事・文化中心地として機能。全国各地の国府跡(例:武蔵国府跡、下野国庁跡、常陸国府跡、周防国衙跡)発掘調査から、その規模・構造、出土遺物(木簡、墨書土器など)により、律令時代の地方支配の具体相を知ることができる。特に東北経営拠点として陸奥国府と鎮守府が置かれた多賀城跡[宮城県多賀城市]はその規模・重要性で特筆される。
  • 郡家(郡衙、ぐんが):在地支配の最前線: 各郡に置かれた郡司政務機関の郡家(郡衙)も律令制下で整備。立地は交通路結節点や郡司在地豪族拠点近くが多かった模様。国府より小規模だが、政庁(郡庁)、正倉(調・庸など一時保管)、工房、厨家などの施設が確認され、地方行政最前線基地として徴税、人民把握、命令伝達などの実務が行われた。郡家は中央派遣国司と在地社会末端民衆を結ぶ重要結節点。郡衙跡発掘(例:上野国新田郡家跡、駿河国志太郡衙跡)も進み、律令支配が地方社会にどう根を下ろそうとしていたかを具体的に示す。

これらの国府・郡家整備は、律令国家が目指した中央集権的支配体制を地方レベルで物理的に具現化しようとする試みであった。しかし建設・維持にも多大コストがかかり、また中央統制がどこまで有効に機能したかは地域差・時代差を考慮する必要がある。

2. 律令政治の運営:天皇・貴族・官僚が織りなす権力闘争と政策

大宝律令の制定により法的な体制が整った律令国家ですが、その実際の政治運営は、天皇、皇族、そして有力貴族(特に藤原氏)たちの間で繰り広げられる複雑な権力闘争と、相次ぐ社会不安(疫病や反乱)への対応の中で展開していきました。本セクションでは、**奈良時代前半(8世紀前半、主に元明・元正・聖武天皇の治世)**に焦点を当て、律令国家が本格的に始動する中で、政権担当者がどのように移り変わり、どのような政策が打ち出され、またどのような政争や事件が起こったのか、その具体的な政治過程を探ります。

平城京遷都後の政治は、当初、律令編纂にも深く関与した藤原不比等の強い影響下にありましたが、彼の死後は皇族の長屋王が一時政権を主導します。しかし、長屋王の変(729年)で藤原氏(藤原四子)が政敵を排除し権力を確立。ところが、その藤原四子も天然痘の大流行(737年)で相次いで死去し、代わって橘諸兄が政権を担います。この間、藤原広嗣の乱(740年)や頻繁な遷都が繰り返されるなど政情は不安定で、聖武天皇は仏教による鎮護国家を強く志向し、国分寺建立(741年)や東大寺大仏造立といった大規模な事業を進めました。

早慶などの難関大学入試においても、この奈良時代前半の政治史は極めて重要です。主要な天皇・政権担当者、長屋王の変や藤原広嗣の乱といった政変、三世一身法(723年)、国分寺建立、大仏造立などの重要政策、そして天然痘流行や遷都といった出来事を正確に理解しておく必要があります。これらの権力闘争と政策展開が相互にどう影響し合ったのか、その歴史的背景や意義を考察する能力が求められます。

本セクションでは、元明朝から聖武朝後半に至る奈良時代前半の政治の動きを、権力闘争と政策展開の両面から解説します。律令国家確立期の複雑でダイナミックな政治過程を学び、この時代の本質に迫りましょう。

2.1. 元明・元正天皇の治世(707年~724年):律令国家の始動期と藤原不比等の絶大な影響力

平城京遷都を実現した**元明天皇(女帝)と、その娘で譲位を受けた元正天皇(女帝)**の治世(合わせて707年~724年)は、大宝律令施行と定着、養老律令編纂(718年)、和同開珎鋳造(708年)、諸国への風土記編纂命令(713年)、国史『日本書紀』完成(720年)、そして人口増に伴う土地問題対応策である三世一身法発布(723年)など、律令国家体制確立とその本格運用が開始された重要時期であった。

この律令国家黎明期に政治実権を陰に陽に握っていたのが藤原不比等であった。彼は天智天皇重臣・中臣鎌足(藤原鎌足)の子で、大宝律令編纂中心人物として律令国家設計に深く関与。娘の宮子を文武天皇夫人とし、その間の首皇子(後の聖武天皇)を確実に皇位継承者とする道筋をつけた。さらに娘・光明子を後の聖武天皇皇后とする布石を打った(光明子立后は不比等死後729年実現)。これにより藤原氏が天皇家の外戚として政治的影響力を確保し、将来の繁栄の基礎を盤石にした。不比等は右大臣として太政官重職にありながら、天皇側近として政策決定に深く関与し、養老律令編纂を主導するなど、律令国家形成と安定に多大貢献したが、同時に藤原氏が他貴族を抑え政界主導権を握る道を開いた人物でもあった。彼の存在は律令国家が当初から貴族(特に藤原氏)の政治力学と不可分であったことを示す。

2.2. 長屋王(ながやおう)の政権とその変(724年~729年):皇親政治の一時的復活と藤原氏との暗闘

721年に藤原不比等が死去すると政局は一時不安定化。後継の四人の息子、藤原四子(武智麻呂(南家祖)、房前(北家祖)、宇合(式家祖)、麻呂(京家祖))はまだ政治経験浅く、父ほどの権力基盤確立に至っていなかった。

この状況下で政権主導権を握ったのが、天武天皇の孫(高市皇子の子)にあたる皇族の長屋王であった。長屋王は天皇家との血縁の近さ、優れた学識、不比等の娘(光明子の姉妹)吉備内親王を妻としていたことなどから皇親勢力中心人物として重きをなし、724年には右大臣に昇進(当時左大臣不在)。

長屋王政権(724年~729年)は律令原則に基づいた安定政治運営を目指したと評価される。聖武天皇即位(724年)、元正太上天皇後見体制下で長屋王は政務を主導。この時期、人口増に伴う口分田不足対応のため大規模開墾計画(百万町歩開墾計画、722年)が打ち出され(計画倒れ)、翌年にはより現実的な開墾奨励策**三世一身法(723年)**が発布された。

しかし藤原四子らは、皇親勢力中心の長屋王存在を、自らの影響力拡大、特に不比等の遺志であった光明子立后実現上の最大の障害と見なした。臣下(藤原氏)の娘を皇后とすることには皇族や他有力貴族からの反発も予想され、皇族重鎮の長屋王が反対する可能性は高かった。さらに聖武天皇と光明子の間の皇太子(基王)夭折(728年)後、藤原氏出身でない夫人が生んだ安積親王が有力皇位継承候補に浮上すると、藤原四子の危機感は一層高まった。

そして729年2月、藤原四子はついに長屋王排除に乗り出す。彼らは漆部君足らに密告させ、長屋王が**「左道を学び、国家を傾けようと企んでいる」と誣告**。これを受け朝廷は直ちに式部卿藤原宇合らを将軍とする軍隊を派遣し、長屋王邸宅を包囲。長屋王は弁明機会も与えられず絶望し、妻吉備内親王と子供たちと共に自害した。これが長屋王の変である。この政変で天武天皇以来の皇親政治伝統は大きな打撃を受け、政権は完全に藤原四子(特に南家武智麻呂)の手に帰した。事件直後に念願の光明子立后が実現したことは、この政変が藤原氏による周到な計画であったことを強く示唆する。長屋王邸跡から出土した大量木簡は、長屋王の豪奢な生活、広範な政治・経済的ネットワーク、そして悲劇的最期を現代に伝える。

2.3. 藤原四子の執政と天然痘の大流行(729年~737年):藤原氏政権の確立と疫病による挫折

長屋王の変で政敵を排除した藤原四子は、政権中枢を完全に掌握し、藤原氏主導政治を本格展開。**武智麻呂(南家)**が右大臣(後左大臣)、**房前(北家)**が参議(後内臣)、**宇合(式家)**が式部卿、麻呂(京家)が兵部卿といった要職を占め、兄弟で政権を運営(藤原四子政権)。この時期の象徴的出来事が前述の光明子の立后(729年)。臣下身分からの皇后は史上初で、天皇外戚としての藤原氏地位を不動のものとする画期的出来事だった。光明皇后は仏教への深い帰依心から、悲田院や施薬院設置・運営など社会事業にも熱心に取り組み、慈悲深いイメージを高めた。

しかし栄華を極めたかに見えた藤原四子政権は予期せぬ形で終焉を迎える。735年頃から西日本で発生した**天然痘(史料では「裳瘡」など)**が、737年には全国的に大流行し未曽有の国難となった。当時の人口の4分の1~3分の1が死亡したとも推定されるほど被害甚大。『続日本紀』には貴族から庶民まで多くの人々が病に倒れたことが記録されている。そしてこの疫病の猛威は政権中枢を担っていた藤原四兄弟をも襲い、737年4月~8月に房前、麻呂、武智麻呂、宇合の四人が相次いで病死するという政治史上前例のない事態が発生。これにより藤原氏勢力は一時的に大きく後退し、政局は再び流動化する。この天然痘大流行は人々に大きな衝撃と不安を与え、後の聖武天皇による仏教傾斜を一層深める契機ともなった。

2.4. 橘諸兄(たちばなのもろえ)政権(737年~756年):聖武朝後半の政治と文化の展開

藤原四子の相次ぐ死で権力空白が生じると、代わって政権中心に躍り出たのが橘諸兄であった。諸兄は敏達天皇後裔(美努王の子)の皇族出身貴族だが、同時に光明皇后異父兄(母は県犬養三千代)という関係にもあり、藤原氏とも一定繋がりを持っていた。諸兄は738年右大臣、743年左大臣へ昇進し、聖武天皇治世後半(737年~749年)から孝謙天皇治世初期(~756年頃)にかけて国政を主導した(橘諸兄政権)。

諸兄は唐帰国者で仏教界に影響力持つ僧・玄昉や、同じく唐帰国者で優れた学識持つ吉備真備を政治顧問として重用した。玄昉は興福寺拠点とする法相宗学僧で、聖武天皇母・藤原宮子の病気平癒に関わったことなどから信任を得て僧正まで昇った。吉備真備は下級貴族出身ながら二度の遣唐使経験と多分野の知識を買われ、異例の出世を遂げ右大臣に至る(諸兄失脚後)。彼ら唐帰国組登用は、律令国家運営に最新知識や国際感覚を取り込もうとする意欲の表れであり、天平文化の国際性を豊かにする一因ともなった。

しかし藤原氏、特に宇合(式家)の子藤原広嗣らは、非藤原氏(橘氏、僧侶、下級貴族出身者)が政権中枢を占めることに強い不満と危機感を抱いていた。広嗣は大宰府に左遷されていた740年、ついに「朝政批判、特に玄昉・吉備真備を除け」と主張し九州で反乱を起こした。これが藤原広嗣の乱である。聖武天皇は広嗣要求を退け、大野東人を大将軍とする討伐軍を派遣。反乱は数ヶ月で鎮圧され、広嗣は捕らえられ処刑された。

藤原広嗣の乱は聖武天皇に大きな精神的衝撃を与えた。相次ぐ政変(長屋王の変、藤原四子死、広嗣乱)、天然痘大流行、頻発する天災地変の中で、天皇は社会動揺と人心不安を深く憂慮し、仏教の力で国家安定と平安を取り戻そうとする鎮護国家思想への傾斜をますます強めていく。

また広嗣乱は聖武天皇の頻繁な遷都を誘発する直接的契機ともなった。

  • 相次ぐ遷都(740年~745年):
    • 恭仁京遷都(740年): 広嗣乱の報に聖武天皇は直ちに東国行幸へ出発、途上で遷都決定、山背国相楽郡の恭仁(現京都府木津川市)に新都(恭仁京)造営開始。政情不安な平城京を離れ人心一新を図ったと考えられる。
    • 難波宮への行幸と遷都(744年): しかし恭仁京造営は進まず、平城京貴族反発もあったか、天皇は744年に摂津国難波宮へ行幸し、ここを一時皇都と定めた。
    • 紫香楽宮への遷都(745年): さらに翌745年には近江国甲賀郡の紫香楽宮(現滋賀県甲賀市信楽町)へ都を移した。ここで後述する大仏造立が本格的に開始されるが、宮造営中に山火事・地震など災害相次ぎ、貴族・民衆間にも動揺広がり、これも短期間で放棄される。
    • 平城京還都(745年): 結局、聖武天皇は同年5月には再び平城京へ戻ることを決定。

この約5年間の目まぐるしい遷都は、当時の政治的不安定さ、相次ぐ災厄による社会不安、聖武天皇自身の精神的動揺や仏教への深い傾倒(理想の仏国土建設模索)などを複雑に反映していると考えられる。

2.5. 聖武天皇の仏教政策:鎮護国家思想の極致と天平文化の隆盛

相次ぐ災厄や政情不安、自身の病弱さなどから、聖武天皇と光明皇后は、仏教の偉大な力で国家安寧を守り万民の苦しみを救済しようとする鎮護国家思想に深く傾倒。その思想は壮大な国家仏教政策として具体化され、天平文化の方向性を決定づけるとともに、その最も輝かしい成果を生む原動力となった。

  • 国分寺・国分尼寺建立の詔(741年):全国への仏教ネットワーク構築: 聖武天皇は741年に、全国国ごとに国分僧寺(金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)建立を命じる詔を発した。国分僧寺には七重塔を建て『金光明最勝王経』『法華経』を安置し国家安泰・繁栄を祈願させ、国分尼寺には『法華経』を安置し滅罪を祈らせることが目的。『金光明最勝王経』はこの経典信奉・読誦で四天王などが国を守護すると説く鎮護国家思想根幹経典。各国はこの詔を受け国分寺・国分尼寺建立を進め(財政負担は各国)、これらの寺院は地方仏教文化中心となるとともに、律令国家支配体制を精神的・宗教的側面から補強する役割を果たした。総国分寺が東大寺、総国分尼寺が法華寺。
  • 東大寺盧舎那仏(大仏)造立:鎮護国家のシンボル: 国分寺建立に続き、聖武天皇はさらに壮大な計画に着手。それが東大寺における盧舎那仏巨大像(大仏)造立。
    • 発願(743年): 743年、天皇は紫香楽宮で盧舎那仏造立を発願する詔を発した。盧舎那仏は**『華厳経』**に説かれる宇宙真理そのもの、あるいは宇宙全体を身体とする仏(蓮華蔵世界の中心)。天皇はこの広大無辺な力持つ仏像を造立し、その功徳で国家災厄を鎮め、全ての人々(生きとし生けるもの)が共に仏法恩恵に浴し悟りの世界へ至ることを願った。詔では「一枝の草、一把の土を持ちて、像を助け造らんと情に願う者あらば、恣にこれを聴せ」と述べ、身分貧富に関わらず全国民が自発的にこの大事業に参加することを呼びかけた。大仏造立を通じ国民全体の心を一つにし、仏教による国家統合を図ろうとする強い意志の表れ。
    • 造営と勧進: 大仏造立事業は後に都が平城京へ戻ると、東大寺で国家総力を挙げて進められた。造営には莫大費用(銅、金、木材、労働力)が必要で国家財政を大きく圧迫。銅調達のため周防国長登銅山などが大規模開発された。技術的にも極めて困難で、国中連公麻呂ら多くの技術者(仏師、鋳物師など)が動員された。民衆からの寄付・協力集めの勧進活動では、当時政府から弾圧されながらも社会事業で民衆から篤い信頼を得ていた僧・行基とその弟子集団が重要役割を果たした。政府は行基を登用し(745年、大僧正位授与)、民衆協力を得ることに成功。
    • 開眼供養会(752年): 約9年の歳月をかけ完成した大仏の開眼供養会が752年4月9日に盛大に執り行われた。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇はじめ約1万人が参列、導師はインド僧・菩提僊那、唐・新羅・渤海など外国使節も参列。雅楽・伎楽なども奉納され、まさに律令国家国力と権威、天平文化国際性と仏教信仰高まりを内外に示す空前絶後の一大セレモニーだった。

これらの大規模仏教事業は天平文化精華である壮大な寺院建築や仏像彫刻を生む原動力となった。しかし同時に、莫大費用は国家財政を著しく圧迫し、人民に重い負担(労役動員、増税など)を強い、律令制矛盾を深める一因ともなった。鎮護国家思想は国家安寧を願う祈りと同時に、人民支配強化・正当化イデオロギー側面も持っていたと言える。

橘諸兄政権は749年聖武天皇譲位後も続いたが、次第に藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が光明皇太后の後ろ盾で台頭すると勢力は衰え、756年頃には政界中心から退く。奈良時代政治は次の段階へ移行する。

3. 支配領域の拡大と境界:律令国家のフロンティア戦略

律令国家は、中央集権的な統治体制を確立するとともに、その支配領域を辺境へと拡大しようと試みました。しかし、その支配は全国一律に浸透したわけではなく、中央の論理と地方の現実との間には常に緊張関係がありました。本セクションでは、律令国家が東北の蝦夷(えみし)や南九州の隼人(はやと)といった、当時の「フロンティア」に住む人々に対してどのような政策を展開し、支配領域を画定・拡大しようとしたのか、その辺境戦略に焦点を当てます。また、その背景にある律令国家の**境界認識(「化内」と「化外」)**についても考察します。

律令国家は、東北に対しては**城柵(多賀城など)**を設置し、軍事遠征(征夷)を行う一方で、服属した蝦夷(俘囚)を懐柔・移配する政策をとりました。南九州の隼人に対しても、反乱を鎮圧した後、朝貢させたり、隼人司を設置して宮廷儀礼に参加させたりする形で支配下に組み込もうとしました。これらの政策は、律令国家が自らの支配領域(化内)を明確にし、その外側(化外)へと影響力を拡大しようとする意志の表れでした。

早慶などの難関大学入試においても、律令国家の東北経営(蝦夷、城柵、多賀城)や南島経営(隼人、隼人司)に関する具体的な政策内容、そしてその背景にある「化内・化外」といった境界意識を理解しておくことは重要です。中央政府と辺境地域との関係性や、異文化との接触・支配のあり方を考察する力が求められます。

本セクションでは、律令支配の地域的な濃淡を踏まえつつ、東北・南九州への支配拡大政策の実態と、古代国家の領域意識について解説します。律令国家がどのようにしてその版図を広げ、境界を認識していったのかを学びましょう。

3.1. 律令支配の浸透度:中央の論理と地方の現実

律令制施行で全国は国・郡・里(郷)に行政区画再編、中央から国司派遣、在地豪族が郡司任命で地方統治制度枠組みは整えられた(第一章参照)。奈良時代を通じこれらの制度運用が本格化し、戸籍・計帳作成、班田収授試み、租庸調徴収、官道整備などが進められ、中央政府による地方支配力は以前に比べ格段に強化された。

しかし律令規定制度が全国一律かつ完全に機能していたわけではない。浸透度や実態は地域により大きな差異があった。

  • 地域差の存在: 畿内や周辺先進地域では中央政府統制が比較的強く及び、律令制度運用も厳格に行われようとした。しかし都から遠い東国や東北・南九州辺境地域では中央統制力は弱まらざるを得ず、在地社会自律性も比較的強く残っていたと考えられる。交通・通信手段限界(情報伝達遅延、物資輸送困難)も中央集権徹底を阻む要因。
  • 理念と現実の乖離: 例えば班田収授法は畿内周辺では人口増による土地不足から実施困難になり、辺境地域ではそもそも律令的土地把握自体が不十分だった可能性。租庸調徴収も木簡など史料から未進や品質不良がしばしば問題となっていたことが窺える。
  • 国司・郡司の役割と在地社会: 中央派遣国司はしばしば自らの利益(蓄財)優先し規定超えた収奪(過酷雑徭、不正徴税)を行うこともあった(強欲国司像は『日本霊異記』などにも描かれる)。一方、在地豪族任命の郡司は中央支配体制末端担う一方で、在地社会での伝統的権力者側面も持ち続け、国司と協力・時には対立しながら地域実情に応じた支配を行っていたと考えられる。律令国家地方支配は、中央論理と地方現実、国司と郡司(在地勢力)間の複雑な力関係の中で常に揺れ動いていた。

3.2. 東北経営(蝦夷(えみし)政策):武力と懐柔による北進

律令国家にとって本州東北地方は、支配拡大と潜在的資源(金(東大寺大仏に陸奥産金使用は有名)、鉄、馬、毛皮など)確保すべき重要フロンティアだった。この地域には蝦夷と呼ばれる、中央政府支配に服さない人々が広く居住。「蝦夷」は特定単一民族ではなく、当時東北地方で稲作を受容せず狩猟・漁撈・採集基盤の独自文化(北海道の続縄文・擦文文化に繋がる系統か)持ち、律令国家統治秩序外にいた人々の総称と考えられる。彼らはヤマト政権時代から中央と接触あったが、律令国家による支配強化にはしばしば武力抵抗した。

律令政府は東北支配拡大と蝦夷服属を目指し、硬軟両様の政策(蝦夷政策)を展開した。

  • 城柵(じょうさく)の設置と軍事・行政拠点の北上: 蝦夷勢力圏境界地域や支配拠点となる戦略的場所に、軍事基地兼行政機関の城柵を次々設置。これは蝦夷への威圧・防御、支配領域前線基地、交易拠点役割。
    • 初期城柵: 7世紀後半には越後国に渟足柵(647年?)、**磐舟柵(648年?)**設置とされる。
    • 日本海側拠点: 708年頃出羽柵設置、712年出羽国設置後は国府となり、後に秋田城へ発展。
    • 太平洋側拠点(東北経営中心): 太平洋側では724年に大野東人により多賀城(現宮城県多賀城市)創建。多賀城には陸奥国府と蝦夷対策軍事司令部鎮守府が置かれ、大規模政庁、兵舎、工房、倉庫群などが計画的に配置。多賀城はその後も改修・拡張され、平安中期まで東北経営中心拠点として極めて重要役割。多賀城碑(壺碑)には京から1500里、蝦夷国界まで120里などと刻まれ、当時の地理認識を知る上で貴重。
    • さらなる北進: 奈良後半~平安初期には、さらに北方に雄勝城(秋田県)、胆沢城(岩手県、802年、坂上田村麻呂創建)、**志波城(岩手県、803年、同)**などが築かれ、律令国家支配線は段階的に北上。
  • 行政区画の設置・北上: 城柵設置と連動し、律令的行政区画(国・郡)も徐々に北へ拡大。7世紀後半に陸奥国設置(当初は現宮城県南部あたりまで)、712年越後国から出羽郡を割き出羽国設置。その後も両国領域は城柵線北上とともに拡大。
  • 軍事遠征(征夷): 蝦夷が律令国家支配に抵抗したり、城柵や移民集落を攻撃したりすると、しばしば中央から大規模軍隊(征夷軍)が派遣され武力制圧が図られた。奈良時代には藤原宇合や大野東人などが将軍として遠征した記録あり。しかし蝦夷ゲリラ戦術や東北の厳しい自然環境は征討軍を苦しめ、常に律令国家側が優勢だったわけではない。
  • 移民・屯田(とんでん)政策: 律令支配安定、食糧供給・防衛力確保のため、関東・北陸など他地域から農民を集団移住させ(柵戸、夷俘)、未開墾地開墾や食糧生産、城柵警備などにあたらせた。これは移住農民にも大きな負担で逃亡なども発生。
  • 懐柔策(饗給(きょうきゅう)・叙位): 武力制圧だけでなく、服属蝦夷の有力首長には饗応(都・国府に招き宴会でもてなす)や**位階・禄(褒美の品)を与えたり、交易許可などで律令国家秩序内に懐柔・取り込もうとする政策もとられた。服属蝦夷は俘囚と呼ばれ、一部は兵力として利用されたり(特に騎兵)、国内他地域(特に関東など)へ移配(強制移住)**させられたりした。移配俘囚は移住先で差別・摩擦に苦しむことも多く社会問題ともなった。

奈良時代の東北経営は武力(城柵設置、征夷)と懐柔(饗給、叙位、交易)、移民政策を組み合わせ一進一退。律令国家は徐々に支配領域を北へ拡大したが蝦夷抵抗も根強く完全制圧には至らなかった。特に8世紀末~9世紀初頭には伊治呰麻呂の乱(780年)やアテルイ中心の大規模反乱が起こり、坂上田村麻呂による大規模征討(いわゆる三十八年戦争)が行われるなど激しい戦いが繰り広げられる(第三章参照)。

3.3. 南島経営(隼人(はやと)政策):抵抗の鎮圧と異文化の包摂

律令国家は東北と並行し、南九州(現鹿児島県本土・宮崎県南西部)居住の隼人に対する支配強化も進めた。隼人は縄文時代以来の独自文化(言語、風俗、信仰など)持ち、特に楯を持って勇壮に舞う隼人舞は宮廷儀式にも取り入れられるほど特徴的。彼らも古くからヤマト政権と一定関係あったが、律令による画一的支配には抵抗を示した。

  • 大隅国設置と隼人の反乱(720年~721年): 713年、日向国から肝杯・囎唹・大隅・姶羅4郡を割き大隅国が新設され、律令的支配(戸籍作成、班田収授、課役賦課など)が強化されると、これに強く反発した隼人が720年に大規模反乱。反乱軍は大隅国守殺害など激しい抵抗。これに対し朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、西海道諸国兵力動員し鎮圧。戦闘は1年以上及び多くの犠牲者を出したが、最終的に律令軍が勝利し反乱鎮圧。
  • 服属後の処遇:朝貢・移配と隼人司: 反乱鎮圧後、隼人は律令国家支配体制に組み込まれていった。服属隼人は定期的に首長が朝貢。また宮廷には**隼人司という専門官庁(衛門府所属)が置かれ、隼人は交替で上京し、隼人司所属で宮城警備(特に夜間)や重要宮廷儀式(即位礼・大嘗祭など)で隼人舞を披露するなど奉仕。これは隼人の武勇や呪術的力(と考えられた)を天皇権威高めるために利用しようとしたものと考えられる。一方、反乱再発防止や異文化警戒からか、一部隼人は故郷から遠く離れた畿内・近江・若狭など地域へ移配(強制移住)**させられた。移配先地名に「大住」など隼人由来地名が残る場合あり。
  • 周辺地域の編成: 隼人居住地域周辺では、702年頃には唱更国などと呼ばれた地域が薩摩国として編成され、さらに種子島・屋久島には多褹国が置かれるなど、律令的支配領域が南へ拡大。

東北蝦夷同様、南九州隼人も律令国家拡大過程で抵抗・鎮圧・服属の道をたどった。しかし隼人の場合、独自文化(隼人舞)が宮廷儀式に取り込まれるなど、蝦夷とはやや異なる形で律令国家秩序内に包摂されていった側面も見られる。

3.4. 律令国家の境界認識:「化内」と「化外」の世界観

これらの東北経営(対蝦夷)・南島経営(対隼人)は、律令国家が自らの支配が及ぶ文明的領域(「化内」、王化の及ぶ内側)とその外側に広がる異民族(野蛮・未開と見なされた)の世界(「化外」、王化の及ばない外側)とを明確に意識し、その境界を画定、さらに「化内」を「化外」へ拡大しようとしていたことを示す。城柵設置や国境線北上はまさに境界線を物理的に押し広げる行為。

同時に、朝貢や服属儀礼(饗応、隼人舞奉納など)を通じ、化外の民である蝦夷・隼人を見かけ上は天皇の徳に服属する存在として、「化内」秩序内に(ただし差別的に)位置づけようとする、中華思想的な世界観(自国(日本)を東夷世界中心とみなし、周辺民族を教化・支配すべき対象と考える意識、いわゆる小中華思想)も見て取れる。この「内」と「外」を峻別し、「内」秩序を「外」へ拡大しようとする思考様式は、律令国家の対外政策や異民族政策理解の上で重要視点。

4. 経済活動の様相:律令国家の富と民衆の生活

律令国家という巨大な統治システムは、それを支える強固な経済的基盤を必要としていました。本セクションでは、律令時代の経済活動の様相に焦点を当て、国家の富の源泉であった農業生産(特に水稲耕作)、諸手工業の発達、そして交易と流通の仕組み(市、貨幣、交通網)がどのように展開したのかを解説します。また、律令国家の財政運営の実態と、それが民衆の生活に与えた影響についても考察します。

律令国家の経済は、水稲耕作を基礎とし、班田収授制を通じて人民に土地を与え(建前上)、そこから租・庸・調などの税を徴収することで成り立っていました。しかし、人口増加による口分田不足から開墾奨励策(三世一身法、墾田永年私財法)が打ち出され、土地制度は大きく変化していきます。また、官営工房では高度な手工業生産が行われ、都には市が設けられ、和同開珎などの貨幣も鋳造されました。全国を結ぶ官道や駅制も整備されましたが、国家財政は常に厳しい状況にありました。

早慶などの難関大学入試においても、律令時代の農業政策(班田収授、墾田法)、手工業、交易・流通(市、貨幣、交通網)、そして租庸調や出挙といった財政・税制に関する知識は極めて重要です。これらの経済システムが律令国家の維持や変容にどのように関わったのか、その仕組みと実態、そして限界を理解し考察する能力が求められます。

本セクションでは、律令国家の経済基盤となった農業、手工業、交易、そして財政運営の具体的な姿を明らかにしていきます。古代国家の富と民衆の生活を支えた経済システムの構造とその展開を学び、律令制社会への理解を深めましょう。

4.1. 農業生産:班田収授制の展開と開墾奨励策のインパクト

律令国家経済基盤は圧倒的に**農業(特に水稲耕作)**に依存。

  • 班田収授の実施状況とその限界: 奈良時代前半は律令規定に基づき班田収授が一定程度実施されたと考えられる(第一章参照)。しかし人口増加(特に畿内周辺)に伴い、班給すべき良質口分田不足問題が深刻化。また偽籍・逃亡増加も正確な人民把握と班田実施を困難に。政府は班田励行を国司に命じたり、班田間隔延長(六年一班→十二年一班)したが、制度維持は次第に困難となり、律令的土地制度は動揺。
  • 開墾奨励策:三世一身法から墾田永年私財法へ: 口分田不足に対応するため、政府は未開墾地開発(墾田)奨励策へ舵を切った。
    • 百万町歩開墾計画(722年): 長屋王政権下計画されたが、目標壮大すぎ実現困難で実効性乏しかったと考えられる。
    • 三世一身法(723年): 新規灌漑施設造って開墾した土地(功食墾田)は三代私有認め、既存灌漑施設利用開墾は本人一代限り私有認める法令。開墾意欲刺激し一定成果あったと考えられるが、期限で国家収公規定が大規模長期投資伴う開墾へのインセンティブを十分引き出すに至らなかった。
    • 墾田永年私財法(743年): 橘諸兄政権下発布のこの法令は日本土地制度史の画期的転換点。位階に応じ開墾面積上限(例:一位500町、六位以下~庶人10町)設けつつも、新規開墾地の永年私有を認めた。これにより期限付きの三世一身法と異なり、開墾土地とその収益が永続的に私有財産となることが法的保障された。
  • 初期荘園(墾田地系荘園)の成立: 墾田永年私財法発布は、財力・労働力(奴婢、家人、浮浪人など)動員できる**有力貴族、大寺社、地方富豪農民(田堵など)**による大規模墾田開発を強力に促進。彼らは未開墾原野・湿地開発、灌漑施設整備などで広大私有地を集積。こうして形成された私有地が荘園の始まり(初期荘園、墾田地系荘園)。特徴は①墾田永年私財法に基づき成立、②荘園領主(開発者)が労働力駆使し直接経営(直営経営)中心、③当初は口分田同様国家へ租納入義務(輸租田)を負っていたこと。しかし荘園領主は次第に政治力・宗教的権威利用し、国家(国司)による租税免除(不輸)を獲得しようと努め始める(第三章参照)。墾田永年私財法と続く初期荘園成立は、律令基本原則公地公民制を根底から揺るがし土地所有あり方を大きく変え、後の荘園公領制へ繋がる道を開いた点で極めて重要歴史的意義を持つ。
  • 農業技術: 奈良時代の農業技術は鉄製農具(鍬先、鋤先、鎌など)使用が古墳時代比で普及しつつあったと考えられるが、木製農具も依然広く使用。水田開発では灌漑技術(井堰構築、水路開削、ため池造成など)が重要役割。条里制による圃場整備も生産性向上に寄与した可能性。稲品種改良なども徐々に進んだと考えられるが詳細は不明点多い。

4.2. 諸手工業の発達:官営工房による高度な技術と民間での生産

律令国家運営(武器、祭祀具、官衙建設など)や天皇・貴族・官人生活(衣服、調度品、奢侈品など)には様々な手工業製品が必要で、生産体制も整備された。

  • 官営工房(官衙工房)による生産:
    • 中央の官営工房: 宮内省・大蔵省などに属する多くの官司(諸司)がそれぞれ専門手工業生産担当。例:内匠寮(建築・工芸全般)、木工寮(木材加工・建築)、鍛冶司(鉄製品・武器)、鋳物司(銅製品・仏像)、漆部司(漆器)、織部司(高級織物)、図書寮(製紙・筆墨・写本)、造酒司(酒造)など。これら工房は宮城内・京内に設けられ、専門技術持つ工人身分・品部・雑戸(多くは渡来系技術者子孫)が官吏監督下で高度技術駆使し、武器・武具、農工具、土器(官衙用須恵器など)、織物(錦、綾など高級絹織物)、酒、漆器、金属製品(銅鏡、馬具、仏具など)、建築材、貴族向け奢侈品などを生産。正倉院宝物の多くはこれら官営工房製作か、唐輸入手本元に製作かと考えられる。
    • 地方の官営工房: 地方**国府(国衙)や郡家(郡衙)**にも武器庫、工房、鍛冶場などが付属し、地方で必要とされる武器・武具製作・修理、農工具生産、貢納物(調・庸)加工・調整、土器(国衙・郡衙使用の須恵器・土師器)生産などが行われた。
  • 民間手工業の展開: 官営工房以外でも多様な手工業生産。
    • 農民による自家消費生産: 農民が農閑期に自家使用の簡単道具(木製農具、籠など)や衣服(麻織物など)生産は広く行われた。
    • 専門工人の活動: 地方にも土器工人(土師器・須恵器)、鍛冶工人、製塩業者、木工職人などが存在し、製品生産し市などで販売、注文生産など。特に製塩は沿岸部で広く行われ、塩は重要交易品、調としても貢納。地方特産織物(例:東国麻布、上野国紬など)も民間レベルで生産され、貢納・交易された。

律令国家は官営工房を通じ高度技術水準を維持・発展させたが、民衆日常生活を支える物品多くは依然民間レベル手工業生産に依存。

4.3. 交易と流通:市・貨幣・交通網の整備と限界

律令国家は全国的支配体制維持と経済活動円滑化のため、物資交換・流通システム整備にも取り組んだが、実態には限界もあった。

  • 市(いち)の設置と機能:
    • 官営市場(東西市): 平城京には朱雀大路挟み左京東市、右京西市の大規模官営市場設置(市司管理)。全国からの様々な商品(米、布、絹、塩、海産物、地方特産物、手工業製品など)取引。市の開日時や商品品質、度量衡なども市司が厳しく管理、物価安定も図られようとした。取引形態は依然物々交換主流だが、貨幣(和同開珎など)も限定的ながら使用されたと考えられる。東西市は平城京経済活動中心、人々の交流場でもあった。
    • 地方の市: 地方でも国府・郡家周辺や港、交通要衝などで定期的に市が開かれたと考えられる。これら地方市では地域内生産農産物・手工業製品や中央から流れた物品などが交換され、地域経済核となった。
  • 貨幣(皇朝十二銭)の鋳造と流通の限界:
    • 和同開珎(708年)鋳造: 唐貨幣制度(開元通宝)モデルに708年、日本初本格流通貨幣とされる和同開珎(銀銭・銅銭)鋳造。律令国家威信示し、物々交換経済から貨幣経済移行促し、交易円滑化、徴税(庸・調一部代納など)・官吏給与支払いにも利用しようとする目的あったと考えられる。政府は鋳銭司設置し貨幣鋳造、使用奨励。
    • 流通促進策(蓄銭叙位令): 政府は流通促進のため711年に、一定額銭貨蓄え政府納入者に額に応じ位階与える蓄銭叙位令発布。貨幣価値高め流通促す異例政策。
    • 流通の限界と皇朝十二銭: しかし当時日本社会は依然現物経済(米、布など)根強く物々交換主流のため、貨幣経済容易には浸透せず。和同開珎材質(銅)価値への信頼も低く、私鋳銭も横行したため、流通は主に都周辺や政府関連取引に限られ、一般民衆日常生活には普及せず。政府はその後も貨幣価値維持・流通促進図るため、万年通宝(760年)、神功開宝(765年)、隆平永宝(796年)など、平安中期(958年乾元大宝)まで計12種銅銭(皇朝十二銭または本朝十二銭と総称)鋳造し続けたが、いずれも流通限定的、次第に貨幣価値も下落。平安中期には国家による貨幣鋳造停止、再び米・絹・布などが主要交換手段となる時代が続く。
  • 交通網(官道・駅制)の整備と役割:
    • 官道(かんどう)建設: 中央(平城京)と地方国府結ぶ幹線道路網(官道)が律令国家成立期に計画的整備。主要ルートとして七道定められ、これら道路は可能な限り直線的に建設、道幅広く(主要道6m~12m以上)、側溝なども設置。中央命令伝達、官吏往来、緊急時軍隊移動などを迅速に行うための国家的インフラ整備。
    • 駅制(えきせい)運用: 官道主要区間に約16kmごとに駅家設置、駅馬と駅子、駅戸が置かれた(駅伝制)。駅家は公的文書携行官吏(駅使)が宿泊・馬乗り換えする施設で、緊急公文書(反乱・祥瑞報告など)迅速中央伝達に極めて重要役割。駅馬利用には駅使携帯の駅鈴提示必要。駅制は基本的に官吏公用に限られ、一般民衆自由利用不可。
    • 伝馬(てんま): 駅制補完として国・郡にも一般官人・公用旅行者用馬(伝馬)準備。
    • 関(せき)設置: 交通要衝(国境、峠、港など)に関所設置、通行人監視(武器携帯者・逃亡者チェック)、徴税、防衛など機能。特に畿内・東国結ぶ要衝の東海道鈴鹿関、東山道不破関、北陸道愛発関は三関と呼ばれ、国家的非常事態(天皇死去、反乱など)には封鎖(固関)されるなど極めて重要視。
    • 交通網維持と限界: これら交通網整備・維持には多大費用と、特に駅戸・沿道住民労力負担必要。駅馬管理・施設維持容易でなく、次第に疲弊。また道路網整備されたが長距離移動には依然多くの時間・労力要し、律令国家中央集権体制維持上の物理的制約ともなった。

4.4. 律令財政の運営:現物経済と増大する支出

律令国家財政は主に人民(公民)からの租税収入で賄われ、運営には特徴と課題を抱えていた。

  • 財政収入:租庸調と出挙利稲への依存:
    • 租(田租): 稲で納入、主に地方(国衙)財源(前述)。
    • 庸・調: 布・絹・地方特産物など現物納入、主に中央政府財源(前述)。
    • 出挙(公出挙)の利稲: 国衙貸付稲(官稲)から得られる利息(利稲)は、国衙にとって租と並ぶかそれ以上に重要収入源となっていった(正税)。
    • その他: 交易関税(輸入品など)、官有地(官田)収入、雑徭による無償労働力提供なども財政支える要素。
  • 現物経済: 律令財政最大の特徴は貨幣経済未発達のため、収入大部分が米、布、絹、地方産物といった現物で賄われたこと。
  • 財政支出:多岐にわたる国家経費: 国家支出も多岐。
    • 官人給与: 位禄・季禄(現物支給)、位田・職田収入、高官への位封・職封など。官僚機構維持に大コスト。
    • 宮都建設・維持費: 平城京など壮大都建設、宮殿・官衙維持管理、道路・橋梁などインフラ整備に莫大費用・労働力必要。
    • 軍事費: 軍団・衛士・防人維持、城柵建設・維持、武器・兵糧調達、蝦夷征討・新羅防衛など軍事行動に巨額費用。
    • 仏教事業費: 官寺(国分寺、東大寺、薬師寺など)建立・維持、仏像・仏画制作、大規模写経事業、特に東大寺大仏造立など国家プロジェクトは奈良時代国家財政を著しく圧迫する大要因。
    • 儀式・祭祀費: 天皇即位礼、大嘗祭、元日朝賀など宮廷儀式、神祇官執り行う国家祭祀、諸国神社・仏閣への支出なども重要経費。
    • 社会事業費: 光明皇后設置の悲田院・施薬院運営や災害時**賑恤(貧民救済)**などにも一定財政支出。
  • 財政運営の実態と課題:
    • 現物管理の複雑さ: 財政収入多くが現物だったため、徴収、運搬、保管(正倉管理)、支出(官人現物支給など)に複雑な事務手続き・管理体制必要。民部省(主計寮・主税寮)や大蔵省、地方国司がこれら財政実務担当。正倉院文書に当時の詳細税収・支出帳簿(例:正税帳)多数残り、律令財政実態知る上で貴重史料。
    • 財政難の常態化: 律令国家財政は運営当初から常に厳しい状況にあったと考えられる。貢納物品質のばらつき・未進、運搬中損失、官吏不正蓄財、国家事業(特に宮都建設、軍事、仏教事業)支出増大などが財政圧迫。政府はしばしば財政再建策(官吏削減、経費節減、新財源確保策など)打ち出したが根本的解決至らず、財政難は律令国家が常に抱える課題。例:軍団の段階的縮小・廃止も財政難一因か。

律令国家経済は農業生産基盤としつつ、国家による強い統制・管理下で運営されたが、内実には現物経済依存、地域差、身分差負担不均衡、慢性財政難といった多くの構造的課題が存在。これらの課題は律令体制そのものの変容を促していく。

5. 東アジア世界との交流:遣唐使と国際関係のダイナミズム

律令国家の形成と発展は、当時の東アジア世界との活発な交流なくしては語れません。本セクションでは、古代日本が巨大帝国・唐をはじめ、朝鮮半島の新羅、そして新たに興った渤海といった周辺諸国と、どのように外交関係を結び、文化的な影響を受け、また与えながら国際社会の中で活動していたのか、そのダイナミックな交流の実態に焦点を当てます。律令国家日本の国際的な側面を理解することは、この時代の歴史を複眼的に捉える上で不可欠です。

律令国家にとって最も重要な対外事業の一つが、多大な危険を冒して派遣された遣唐使でした。その目的は、唐の先進的な制度や文化を学び取り国家建設に活かすこと、国際情勢を把握すること、そして唐を中心とする東アジア世界の中で日本の地位を確保することにありました。遣唐使や渡来人を通じて流入した唐文化は、政治・法制から宗教・芸術・生活様式に至るまで、日本の社会と文化に絶大な影響を与え、天平文化の基盤を形成しました。一方で、統一国家となった新羅とは、対立と限定的な交流が併存する緊張関係が続き、その新羅を牽制する目的もあって、北方の渤海とは友好関係が築かれました。

早慶などの難関大学入試においても、律令時代の遣唐使(目的、構成員、航路など)、唐文化の具体的な影響、新羅・渤海との関係性に関する知識は極めて重要です。これらの国際交流が、日本の政治・社会・文化の発展にどのように貢献し、またどのような影響を与えたのかを多角的に考察する能力が求められます。

本セクションでは、遣唐使の派遣、唐文化の受容、そして新羅・渤海との関係という三つの側面から、律令国家が展開した国際交流の具体的な様相とその意義を解説します。当時の東アジア世界における日本の姿を学び、その国際性への理解を深めていきましょう。

5.1. 遣唐使(けんとうし)の派遣:目的、ルート、構成員とリスク

律令国家は唐の先進制度・文化を積極摂取し、また唐中心国際秩序中で対等関係築くこと目指し、危険冒し遣唐使を派遣し続けた。

  • 派遣の目的:
    • 先進文化・制度導入(最重要目的): 律令、仏教、儒教、医学、暦学、天文学、建築、美術工芸、音楽、文学など、唐の高度文化・制度に関する最新知識・技術・文物を組織的に収集・持ち帰り、国家建設・文化発展の糧とすること。
    • 国際情勢把握: 唐中心東アジア政治・軍事状況情報収集し、日本外交・安全保障政策に役立てること。
    • 国交維持と国家威信: 唐との公式外交関係維持、日本が律令に基づく文明国家であることを示し、国際的認知・地位(冊封体制下でない独自地位)確保。
    • (初期には白村江敗戦後の唐との関係修復目的もあった。)
  • 派遣の頻度と期間: 630年最初の派遣以降断続的に派遣。奈良時代は国際情勢比較的安定し、ほぼ20年に1度程度、大規模使節団派遣(奈良時代の主な派遣は702年、717年、733年、752年など)。往復・唐滞在含め数年に及ぶことも。最後の遣唐使派遣計画は894年菅原道真建議で中止され公式派遣途絶。
  • 航海ルートの変遷と危険性: 遣唐使船航海は当時航海技術限界から極めて危険。
    • 北路: 7世紀主に利用、朝鮮半島沿岸北上、遼東半島から山東半島へ渡るルート。比較的安全だが新羅関係悪化で利用困難に。
    • 南島路: 8世紀初頭から試み、九州南部から南西諸島経由、東シナ海横断、揚子江河口付近目指すルート。寄港地確保できるが外洋航海距離長く危険伴う。
    • 南路: 8世紀半ば以降主要ルート、九州(五島列島など)から東シナ海直接横断し揚子江河口付近目指すルート。距離最短だが目印ない広大外洋横断のため季節風・天候影響強く受け、遭難・漂着危険性極めて高い。そのため通常**「四つの船」と呼ばれる4隻程度船団で派遣されたが、全船無事往復は稀で多くの貴重人材・文物失われた。例:752年派遣大使・藤原清河や随員阿倍仲麻呂**は帰路遭難し帰国果たせず。
  • 構成員:多様な専門家集団: 遣唐使船には外交使節だけでなく、様々な目的持つ数百人規模の人々が乗り組んだ。
    • 大使・副使: 外交使節団長。有力貴族・官人が任命。
    • 判官・録事: 大使・副使補佐随員。外交実務・記録担当。
    • 留学生・学問僧: 唐で学問・仏教学ぶエリート。吉備真備、玄昉は帰国後活躍、最澄、空海は平安仏教開く。阿倍仲麻呂のように唐で高官に昇るも帰国せず異国で生涯終えた人物も。当時の日唐間の深い人的交流を示す。
    • その他: 医師、陰陽師、画師、音声生(音楽家)、訳語(通訳)、射手(警備)、航海専門家の船師、梶取、多数**水手(船員)**など、多種多様な専門家・技術者・労働者が同行。

遣唐使派遣は多大国費と人命に関わる大リスク伴う国家的事業だった。しかしもたらされた知識・技術・文物は律令国家形成・発展、天平文化国際性豊かな開花に計り知れないほど大きな貢献。

5.2. 唐文化の摂取と日本文化への影響:模倣と創造

遣唐使などを通じ、当代随一の先進文明・唐の高度文化が政治・宗教・学術・芸術・生活様式あらゆる面にわたり日本にもたらされ、天平文化基調を形成、後の日本文化発展に決定的影響与えた。

  • 政治・法制: 律令制度そのものが唐から継受、格式編纂でも唐法制参照継続。
  • 仏教: 多くの経典・論書(特に南都六宗所依経論)、仏像・仏画様式、寺院建築様式、戒律などが伝来し、日本仏教学術的深化と教団組織整備促した。特に唐高僧・鑑真(688年~763年)は754年に正式授戒制度を確立。後に唐招提寺を開き、日本仏教界(特に律宗)に計り知れない功績。
  • 儒教・思想: 『論語』『孝経』など儒教経典や注釈書が舶載され、大学寮教育通じ官人層基本的教養(道徳規範、政治思想)となった。
  • 文学・歴史: 漢詩文創作が貴族社会で流行(例:『懐風藻』)、中国正史体裁にならった**『日本書紀』**編纂や唐風書道(王羲之書風など)流行。
  • 美術・工芸: 唐三彩影響の奈良三彩、螺鈿・蒔絵・平文など漆工芸、金工・銀工、唐錦代表の高度染織技術、塑像・乾漆像仏像彫刻技法、仏画・世俗画画風(例:薬師寺吉祥天像、正倉院鳥毛立女屏風)など、美術・工芸あらゆる分野に盛唐様式の影響色濃い。正倉院宝物はまさにその宝庫。
  • 音楽・舞踊: 唐楽や林邑楽、度羅楽など外来音楽・舞踊が宮廷雅楽に取り入れられレパートリー豊かに。仮面劇伎楽も呉から伝来(正倉院に多数伎楽面残る)。
  • 生活文化: 官人服装(朝服など)、宮廷儀式、食生活(唐菓子など)、調度品、都市計画(条坊制)、度量衡、暦法(儀鳳暦、大衍暦など)といった生活様々側面にも唐文化影響深く浸透。

ただし重要なのは日本が唐文化を一方的に模倣しただけでない点。律令制度の神祇官重視や氏姓制度組み込みのように、在来伝統や国情に合わせ外来文化を取捨選択し変容(日本化)させる主体的な営みも同時に行われた。この外来文化積極摂取と自国文脈中での消化・変容プロセスの中に、後の国風文化へ繋がる萌芽を見出すことができる。

5.3. 新羅(しらぎ)との関係:対立と交流の併存

朝鮮半島統一(676年)した新羅とは、奈良時代を通じ政治的・軍事的には対立関係にあることが多く、緊張が続いた。

  • 対立の要因:
    • 旧百済・旧高句麗遺民扱い: 日本が滅亡百済・高句麗王族・遺民受け入れ、外交政策に利用しようとしたことが新羅警戒心招く。
    • 渤海建国: 渤海建国後、日本が渤海と連携し新羅牽制しようとしたため対立深まる。
    • 「任那」への固執: 日本側が「任那」故地への権利意識持ち続けたことも外交交渉障害。
    • 朝貢儀礼めぐる対立: 日本側が新羅を格下「朝貢国」扱いしようとしたことに新羅強く反発、使節受入拒否や外交儀礼めぐる衝突あり(例:735年)。
    • 軍事的緊張: 日本側は新羅侵攻警戒し、大宰府中心の九州北部防備(水城、大野城、防人など)厳重化継続。新羅側にも日本遠征計画あったとも言われる。
  • 交流の継続: 政治的対立にも関わらず経済的・文化的交流は完全には途絶えず。
    • 遣新羅使・新羅使の往来: 奈良時代にも遣新羅使が何度か派遣され、新羅からも新羅使来朝(頻度は遣唐使比で少なく関係悪化で中断も)。
    • 民間レベル交易: 民間商人交易は国家間対立とは別に、ある程度継続か。新羅産物品(陶器、金属製品など)が日本にもたらされ、新羅経由で大陸文物・情報もたらされることも。
    • 渡来人・僧侶往来: 新羅から渡来人や留学僧・学問僧往来あり、彼らは仏教・技術・文化伝播に貢献。

新羅との関係は対立と交流が複雑に絡み合ったものであり、律令国家日本対外政策の重要側面だった。

5.4. 渤海(ぼっかい)との関係:友好と連携による対新羅牽制

698年、満州南部~朝鮮半島北部に旧高句麗遺民・靺鞨族により建国された渤海とは、奈良時代を通じ比較的良好な友好関係が築かれた。

  • 関係樹立と使節往来: 727年初渤海使来日以降、奈良時代を通じ日本から遣渤海使、渤海から渤海使が頻繁に往来。日本海横断航路使用。
  • 連携の背景(対新羅戦略): この友好関係背景には両国が共通警戒対象として新羅を認識していた戦略的思惑あり。渤海は南方新羅と国境接し、日本も新羅と緊張関係にあったため、互いに連携し新羅牽制、外交的有利立場確保狙う。
  • 文化・経済交流: 使節往来を通じ文化交流・交易も実施。渤海使は特産毛皮(貂皮など)、人参、蜂蜜など日本にもたらし、日本からは主に絹織物、黄金、水銀など贈与。渤海を通じ唐文化だけでなく大陸北方文化・情報もたらされることも。

日本・渤海友好関係は平安中期(渤海滅亡926年まで)続き、当時東アジア多極的国際関係の一翼担った。

5.5. 平城京の国際性:多様な文化の交差点

遣唐使、遣新羅使、渤海使など公式使節往来や民間交易、多数渡来人(僧侶、学者、技術者、工人など)来日・活躍を通じ、奈良時代首都・平城京は当時東アジア世界国際交流重要拠点の一つとしての性格を強く持っていた。

都には外国使節もてなす施設(後の平安京鴻臚館に繋がる施設)設けられ、様々な言語飛び交い、異国服装・文物日常的に見られたと考えられる。特に唐長安から最新文化・情報絶えず流入し、平城京貴族社会中心に享受された。また前述のようにインド・ベトナム方面から渡来僧も訪れており、交流範囲は東アジアに留まらなかったことを示唆。正倉院宝物に残るペルシア・東ローマ影響品々は、当時の広範な文化交流ネットワークを雄弁に物語る。

このように平城京は律令国家日本政治・経済中心であるとともに、多様文化が交差し融合、新たな創造生まれる活気に満ちた国際都市であった。この国際性が天平文化豊かさと多様性を生む大要因となった。

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