早慶日本史 講義 第4講 古代:律令国家の変質と貴族政治の成立

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目次

第一章 律令国家体制の再編と変容:桓武・嵯峨朝の挑戦

1. 律令国家の動揺と再編の胎動

1.1 律令国家体制の確立とその内在的限界

  • 律令国家体制の構築と発展: 7世紀後半、東アジアの国際的緊張と国内の政治変動を経て、日本列島の国家形成は転換点を迎えた。天智天皇の近江令(諸説あり)、天武・持統天皇の飛鳥浄御原令を経て、唐の中央集権的統治システムを模範とした本格的な**律令国家(りつりょうこッカ)建設が進められた。この骨格を法典として完成させたのが、8世紀初頭の大宝律令(たいほうりつりょう、701年制定)であり、社会変化に対応して改訂された養老律令(ようろうりつりょう、718年頃撰定、757年施行)であった。特に大宝律令は、刑部親王や藤原不比等らが中心となり編纂され、律(刑法)6巻、令(行政法・民法など)11巻から成り、以降の日本の法体系の基礎となった。 律令体制は、天皇を頂点とするピラミッド型の支配構造を築き、全国の土地と人民を国家が一元的に支配する公地公民(こうちこうみん)**原則を基本とした。目的は、強力な中央集権体制による安定した財政基盤(租税収入)と軍事力(徴兵制)の確保を通じて、国内秩序を維持し、唐中心の東アジア国際秩序の中で国家の威信を高めることにあった。壮麗な都城(藤原京、710年遷都の平城京)建設、体系的な官僚機構整備、全国的な地方行政組織確立、班田収授法や租庸調制といった経済・財政制度導入、国史編纂(『古事記』『日本書紀』)などは、この律令国家建設の具体的な現れである。
  • 律令体制の構造的骨格: 律令国家の統治機構は、以下の要素から成っていた。
    • 中央官制(二官八省制): 国家祭祀を司る神祇官と国政全般を統括する太政官の二官を最高機関とした。太政官の下には、中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、そして**宮内省(くないしょう)**の八省が置かれ、実務を分担した。中央官僚は、官位相当制に基づき、家柄や能力に応じた位階に対応する官職に任命され、位階に応じて封戸、位田、**季禄(きろく)などの経済的特権や、蔭位の制(高位者の子孫に一定の位階を与える制度)などの身分的特権を享受した。太政官の大臣、大納言、中納言、そして参議といった高官は議政官(ぎじょうかん)**と呼ばれ、国政の重要事項を合議した(公卿会議)。
    • 地方統治制度: 全国は畿内と七道に分けられ、その下に**国・郡・里(後に郷(ごう)に改編)という行政単位が置かれた。国には中央から国司(守・介・掾・目の四等官)が派遣され、国の行政・司法・軍事を統括した。郡には、地方豪族が郡司(ぐんじ)として世襲的に任命され、国司の指揮下で実務を担当した。末端の郷・里には、有力農民から郷長(ごうちょう)や里長(りちょう/さとおさ)**が任命され、人民把握や徴税の最前線を担った。
    • 人民支配(公地公民原則): 国家は原則6年ごとに全国の**戸籍(こせき)**を作成し、人民の氏名、年齢、性別、続柄、身分(良賤の別)を把握した。**賤民(せんみん)には五色の賤(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)**があり、良民とは異なる法的・社会的地位にあった。課税・徴兵の基礎台帳として、**毎年、計帳(けいちょう)**が作成され、課役対象の成人男性(正丁)らを把握した。これらに基づき、**班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が施行された。これは6歳以上の良民男女に口分田(くぶんでん)**を班給し、死亡時には国家に収公(返還)する制度であった(原則男性2段、女性3分の2。奴婢は良民の3分の1)。国家による人民の直接把握(公民)と土地の原則公有(公地)により、均質な小農民経営を創出し維持することを目指した律令国家体制の根幹であった。
    • 税制(租庸調制): 財政は口分田や人民からの税で支えられた。主要な税は租・庸・**調(ちょう)であった。租は口分田収穫稲(原則約3%)を納める地税で、主に地方国衙の財源となった。庸は成人男性に課される労役(年間10日)の代納物として布などを都へ納める人頭税。調も成人男性に課される人頭税で、絹・糸・布や地域の特産物を都へ納める物品税であった。これらの庸・調を都へ運ぶ運脚(うんきゃく)も農民の大きな負担だった。その他、国司が人民を年間60日限度で徴発する労役の雑徭(ぞうよう)、公的な稲の貸付とその利息(当初年利5割、後に3割)である出挙(すいこ)(私的な私出挙(しすいこ)も存在)、さらに成人男性への兵役(へいえき)義務があった。兵役には、諸国の軍団に徴発される兵士(原則食糧・武器自弁)、都の警備にあたる衛士(えじ)、九州北辺の防衛にあたる防人(さきもり)**などがあり、いずれも農民に重い負担を強いた。
    • 法体系(律令格式): 律令国家は律(刑法)と令(行政法・民法など)を基本法とする法治主義を標榜した。社会変化に対応するため、律令を修正・補足する格(きゃく)(単行法令)が随時発布され、さらに律令や格の施行細則である式(しき)も整備された。これら律・令・格・式が一体となり、国家統治の法的基盤を形成した。
  • 律令体制の内在的限界と矛盾: 壮大かつ精緻な律令国家体制であったが、その理想主義的な設計は、施行当初から日本の実情との間に乖離を生じさせ、構造的な限界と矛盾を内包していた。
    • 人口増加と口分田不足: 班田収授法は人口増加により根底から揺さぶられた。人口増は新たに班給すべき口分田の絶対的不足を各地で引き起こし、班田の継続を困難にし、公地公民原則を形骸化させる要因となった。
    • 重税・重労働負担と農民層の分化: 租庸調、雑徭、兵役といった重い負担は農民経営を圧迫した。特に人頭税的な負担は家族構成により変動し、零細農民には耐え難く、口分田を捨てて**逃亡(とうぼう)したり、戸籍登録されず移動する浮浪(ふろう)となる者が増加した。課役逃れのための偽籍(ぎせき)**も横行し、国家による正確な人民把握は困難になった。一方で、富を蓄積する富豪層が形成され、多くの農民は貧困化するなど、農民層の階層分化が進行した。
    • 土地制度の硬直性と生産力の地域差: 口分田を基礎とする土地制度は硬直的で、全国一律の基準は地域ごとの生産力の違いや自然条件の差を十分考慮しておらず、不公平感を生んだ。
    • 中央集権と地方の実情との乖離: 交通・通信手段が未発達な時代、中央政府が国土の隅々まで実情を把握し適切に統制することは容易ではなく、制度の硬直化を招いた。 これらの限界と矛盾は徐々に顕在化し、8世紀後半には深刻な動揺を引き起こす。

1.2 奈良時代末期の動揺:政争の激化と皇統の転換

8世紀後半、奈良時代末期には、律令国家体制が内包した矛盾が噴出し、国家は深刻な危機に直面した。**平城京(へいじょうきょう)**が天平文化を開花させ、**東大寺(とうだいじ)**の大仏が造立されるなど、華やかな繁栄の裏側で、政治混乱、経済・財政破綻、社会不安が深刻化し、律令国家体制の根幹を揺るがしていた。

  • 公地公民原則の崩壊と経済・財政の混乱:
    • 墾田永年私財法(743年)の帰結: 口分田不足対策として出されたこの法令は、有力貴族や大寺社による大規模な土地開発と私有地集積(墾田地系荘園=初期荘園)を加速させた。これは公地公民制を根底から覆し、国家による人民支配を困難にし、戸籍制度の形骸化を一層進めた。
    • 財政破綻の深刻化: 人民把握の困難化と、荘園拡大に伴う**不輸(ふゆ、租税免除)**権獲得により、国家の徴税対象が減少し、租庸調制は深刻な機能不全に陥った。特に庸・調収入は激減し、国家財政は慢性的に逼迫した。加えて、**聖武天皇(しょうむてんのう)**期の大規模な造寺・造仏事業や度重なる遷都も財政を圧迫した。朝廷は、財政難対策として本朝十二銭と呼ばれる銅銭を発行したが、品質低下や発行量調整の失敗、**蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい)**がかえって退蔵を招くなど、貨幣価値下落とインフレを引き起こし、経済混乱を助長した。
  • 社会不安の増大:
    • 農民層の困窮と抵抗: 重税、労役、度重なる飢饉や疫病(特に735-737年の天然痘は藤原四子を含む多数の死者を出した)により、多くの農民は困窮。逃亡・浮浪が後を絶たず、反乱も発生した。740年の藤原広嗣の乱は、政権への不満と地方の社会不安が結びついた大規模な反乱だった。
  • 政治的混乱の激化と仏教勢力の台頭:
    • 権力闘争の常態化: 藤原氏(四家)が勢力を拡大する一方、皇族や他氏族(橘氏、大伴氏など)との間で激しい権力闘争が繰り返された(長屋王の変、橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱など)。これらの政争は政治の停滞と混乱を招いた。
    • 道鏡問題と仏教政治介入への反発: 藤原仲麻呂の乱後、**孝謙上皇は重祚して称徳天皇となり、僧道鏡(どうきょう)を重用。道鏡は太政大臣禅師、法王に昇り詰め、政治に深く介入した。この仏教勢力の異常な台頭は、伝統的な貴族層の強い危機感と反発を招いた。769年には宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)が発生。称徳天皇が和気広虫(わけのひろむし)を使者として神意を問わせたところ、「道鏡を皇位につければ太平になる」との神託があった。これを不審に思った弟の和気清麻呂(わけのきよまろ)**が改めて宇佐へ赴き、「天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人(道鏡)は早く掃除すべし」という神託を持ち帰ったとされる。これにより道鏡の皇位簒奪は阻止されたとされるが、清麻呂は一時左遷された。この事件は仏教勢力の政治影響力を抑制する必要性を貴族層に強く認識させた。
  • 皇統の転換:天武系から天智系へ(770年):
    • 天武系皇統の断絶: 770年、称徳天皇が後継者を指名せず崩御。子がおらず、有力な天武系皇族もいなかったため、壬申の乱(672年)以来約100年続いた天武天皇系の皇統が断絶するという重大事態が発生した。
    • 光仁天皇の即位と天智系への回帰: 称徳天皇崩御後、藤原永手、藤原百川、**藤原良継(よしつぐ)**らが中心となり、**天智天皇(天武天皇の兄)の孫・白壁王を擁立。これが光仁天皇(こうにんてんのう、在位770-781年)**である。この皇位継承は、天武系の政治路線からの転換を図る政治的刷新の意図を含んでいた。
    • 光仁朝の改革:律令「再建」への模索: 光仁天皇は、藤原百川らの補佐のもと、官人削減や緊縮財政、地方行政の綱紀粛正など、律令国家体制の「再建」に向けた努力を開始した。これらの改革は、次代の桓武天皇による本格改革への道筋をつけた。 このように、8世紀後半の奈良時代末期は、律令国家体制の矛盾が噴出した危機と転換の時代であり、この危機を乗り越え、新たな時代を拓くべく桓武・嵯峨天皇が登場する。

1.3 桓武・嵯峨朝の位置づけ:律令国家の再編と変容への挑戦

奈良末期の危機を背景に、天智系への皇統交代を経て即位した桓武天皇(かんむてんのう、在位781-806年)と、その事業を継承・発展させた子・**嵯峨天皇(さがてんのう、在位809-823年)**の時代は、日本古代史における重要な転換期である。彼らの治世は、律令国家が直面した構造的限界に対し、**律令の基本枠組みを維持しつつも、変化した実情に合わせて制度や運用を修正・変容させる(「再建」と「変容」)**ことで、国家体制の再構築を図った挑戦の時代であった。この両朝の取り組みが、その後の平安時代の基礎を築いた。

  • 律令制の「再建」と「変容」という二つの側面: 桓武・嵯峨両朝の改革は、「再建」と「変容」という二側面を持つ。
    • 「再建」の側面: 律令制の理念(天皇中心の中央集権、公地公民、法治)を維持・回復しようとする指向性。財政緊縮、綱紀粛正、班田励行命令(形式的になるが)、律令法整備など。
    • 「変容」の側面: 律令制が実情に合わない現実を認識し、律令の規定からの逸脱や新たな制度(令外官(りょうげのかん))の創設など、律令制の枠組み自体を修正・変化させていく側面。 両朝の政策はこの二つのベクトルが複雑に絡み合って展開された。
  • 桓武天皇の果敢な挑戦と新王朝の基盤確立: 桓武天皇は、天智系新王朝の初代として、強力なリーダーシップで大胆な改革に着手した。
    • 遷都による政治空間の刷新: 旧来勢力の影響が強い平城京から、まず**長岡京(ながおかきょう、784年)へ、最終的に平安京(へいあんきょう、794年)**へと遷都。これは政治空間を刷新し、天皇主導の新秩序樹立を目指す強い意志の現れだった。
    • 蝦夷政策の積極展開とその転換: 東北の**蝦夷(えみし)支配拡大を目指し、大規模な軍事遠征を繰り返した。坂上田村麻呂らの活躍で成果を上げたが、莫大な軍事費と人民負担が国家財政を逼迫させ、民衆を疲弊させた。晩年には徳政相論(とくせいそうろん)**を経て、軍事と造作(平安京造営)の中止・縮小を決断し、民力休養を重視する現実路線へ転換した。
    • 軍事制度の改革: 実効性を失った**軍団制(ぐんだんせい)を原則廃止し、地方の郡司子弟や富裕農民から選抜される少数精鋭の健児制(こんでいせい)**を導入。国内治安維持と農民の兵役負担軽減を図った。
    • 財政再建策の推進: 租庸調制の動揺に対応するため、**公営田(くえいでん)や官田(かんでん)といった国家直営田を設定し、土地からの直接収入確保を図った(人別課税から土地課税への移行)。国司不正監察のため勘解由使(かげゆし)**を設置し、地方財政の透明化と中央統制強化を図った。
    • 仏教政策の転換: 奈良仏教の政治介入への反省から、その影響力を抑制。唐から新仏教(天台宗・真言宗)を伝えた**最澄(さいちょう)や空海(くうかい)**を支援し、新たな鎮護国家仏教として育成した。 桓武の改革は精力的で多方面にわたり、天智系新王朝の基盤を固め、平安時代への扉を開いたが、多大な財政負担と人民への犠牲も強いた。
  • 嵯峨天皇による制度整備と安定化: 桓武没後、平城上皇との対立(薬子の変)を経て即位した嵯峨天皇は、父の改革路線を継承しつつ、より安定した統治体制確立と制度整備に注力した。
    • 天皇親政基盤の強化と令外官の設置: **薬子の変(くすこのへん、810年)克服で権力基盤を確立。天皇の意思決定を迅速・機密裏に行う秘書官的機関として、令外官の蔵人所(くろうどどころ)を新設。これは太政官機構を補完・代替し、天皇親政を支えるとともに律令官制の変容を促した。京内の治安維持のため、警察・司法権を統合した実効的な検非違使(けびいし)**も令外官として設置した。
    • 法体系の整備(格式編纂): 律令条文と社会実態の乖離に対応するため、格(単行法令)と式(施行細則)を体系的に編纂。藤原冬嗣らに編纂させた**弘仁格式(こうにんきゃくしき、820年成立)**は日本初の体系的な格式で、行政・司法の基準を明確化し、律令制を現実的に運用する法的基盤となった。これは「格式政治(きゃくしきせいじ)」への移行を示した。
    • 文化の振興: 嵯峨天皇自身が優れた文人であったことから、漢詩文中心の**弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがんぶんか)**が開花。『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』といった勅撰漢詩集が編纂された。 嵯峨朝は制度整備を通じて政治的安定をもたらし、平安初期の社会・文化の成熟に貢献した。
  • 歴史的意義と次代への遺産: 桓武・嵯峨両朝の改革は、奈良末期の危機を克服し、律令国家体制を延命させ、平安初期の安定の基礎を築いた点で大きな歴史的意義を持つ。しかし、公地公民原則の崩壊や土地私有化の進展といった構造的問題は解決できず、むしろ令外官設置や格式政治への移行は、律令制の変質を加速させた。また、嵯峨朝における藤原北家(冬嗣)の重用は後の摂関政治へ、地方における国司権限強化や荘園の発展は**荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)**への移行を準備した。 結論として、桓武・嵯峨両朝は、律令国家体制の「再建」を目指しつつ、現実対応を通じてその「変容」を進めた時代であり、古代から中世への重要な過渡期を形成した。

2. 桓武天皇による国家再建事業

桓武天皇は、天智系新王朝の初代として、父・光仁天皇の路線を継承しつつ、国家体制の抜本的な再建と天皇権力強化を目指し、精力的な改革を展開した。

2.1 新都造営と王権の刷新:長岡京から平安京へ

桓武天皇の最も象徴的かつ大規模な事業が平城京からの遷都であった。これは旧体制との決別と新王朝の権威確立を目指す、極めて政治的な意味を持つ大事業だった。

  • 遷都の動機:旧体制からの脱却と新王朝の基盤確立:
    • 旧都の弊害打破: 南都仏教勢力の影響力抑制、旧貴族勢力・政争からの脱却。
    • 新王朝(天智系)の権威確立: 天武系王権との差別化、桓武天皇自身のリーダーシップ発揮(母方高野新笠の出自や渡来系氏族秦氏などの技術・経済力活用も背景か)。
    • 地理的・経済的利点の追求: 水陸交通の便(淀川水系)、都市基盤の刷新。
  • 長岡京(ながおかきょう)への遷都(784年)とその挫折:
    • 選地と造営: 784年、**藤原種継(ふじわらのたねつぐ)**らの建議で山背国乙訓郡長岡へ遷都。種継が造長岡宮使として推進。
    • 問題発生と政局混乱: 785年、種継が暗殺され、首謀者として**大伴継人(おおとものつぐひと)**らが処罰、大伴氏が打撃を受ける。
    • 早良親王(さわらしんのう)事件と怨霊への恐怖: 種継暗殺に関与した嫌疑で皇太子・早良親王が廃され、配流途上で憤死(または自害)。その後、桓武近親者の死や災厄が続き、早良親王の**怨霊(おんりょう)の祟りと恐れられた(後に崇道天皇(すどうてんのう)**と追贈)。
    • その他の要因と再遷都決定: 怨霊への恐怖に加え、洪水被害、水質問題など複合的要因により、わずか10年で再遷都を決断。
  • 平安京(へいあんきょう)への遷都(794年):千年王都の始まり:
    • 選地と名称: **和気清麻呂(わけのきよまろ)**らの建議で山背国葛野郡宇太村へ。**四神相応(ししんそうおう)**の地に合致するとされた。794年、「万代の安泰」を願い「平安京」と命名。
    • 都市計画(条坊制): 唐の都・長安(ちょうあん)をモデルとした条坊制(じょうぼうせい)。東西約4.5km、南北約5.2km。中央の**朱雀大路(すざくおおじ)左京(さきょう)右京(うきょう)**に二分。
    • 中心施設(大内裏): 北辺中央に、内裏、朝堂院、豊楽院、諸官庁が集まる**大内裏(だいだいり)**を設置。
    • その他の施設: 南端中央に羅城門(らじょうもん)、左右に官寺の東寺(とうじ)と西寺(さいじ)(西寺は後に荒廃)。左右京に官営市場の東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)
    • 意義: 平安京建設は桓武のリーダーシップと新王朝の権威を示す国家プロジェクトだった。旧来のしがらみから解放され、天皇中心の新秩序を視覚的に確立。その後約1100年間、日本の首都であり続け、政治・文化の中心として発展した。

2.2 蝦夷政策の積極展開と政策転換:版図拡大と民力休養の狭間

桓武天皇は、新王朝の威信確立と支配領域拡大を目指し、東北地方の**蝦夷(えみし)**に対する政策(東北経営)に強い意欲を示した。大規模な軍事遠征を繰り返したが、多大な犠牲と財政負担を伴い、最終的に政策転換を余儀なくされた。

  • 蝦夷と律令国家の関係: 「蝦夷」は律令国家が支配に服さない東北地方の人々を指した他称。その実態は多様な集団の総称。律令国家の蝦夷政策の目的は、表向きは王化(天皇の徳による教化)だが、現実には**資源(金、馬など)獲得、労働力確保、王土王民思想(おうどおうみんしそう)**に基づく版図拡大といった政治的・経済的動機が強かった。奈良時代から城柵(例:多賀城、秋田城)設置と征討を進めたが、蝦夷の抵抗は根強かった。
  • 桓武朝による大規模な蝦夷征討: 桓武は父・光仁天皇の抑制的な方針を転換し、積極的な軍事行動を開始。
    • 第一次征討(789年)と紀古佐美の敗北: 紀古佐美率いる大軍が、胆沢地方で蝦夷の族長**阿弖流為(アテルイ)**らのゲリラ戦術に大敗(巣伏の戦い)。軍団制の弱点を露呈。
    • 第二次征討(794年)と征夷大将軍の任命: 軍制再編に着手。794年、大伴弟麻呂を初代征夷大将軍に任命。副将軍に**坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)**を起用。
    • 第三次征討(801年)と坂上田村麻呂の活躍: 797年、征夷大将軍に就任した田村麻呂が801年に北上し、蝦夷側の拠点に大打撃を与え大きな戦果を上げた。
  • 胆沢城(いさわじょう)・志波城(しわじょう)の築造と支配線の北上:
    • 胆沢城築造と鎮守府(ちんじゅふ)移転(802年): 蝦夷勢力の中心地・胆沢に胆沢城を築き、陸奥国の軍政機関・鎮守府を移転。支配領域が北へ大きく前進。
    • 阿弖流為(アテルイ)・母礼(モレ)の降伏と処刑(802年): 抵抗が困難になった阿弖流為らが投降。田村麻呂は助命を願い出たが、都の公卿の強硬論により河内国で処刑された。
    • 志波城(しわじょう)築造(803年): 胆沢城のさらに北方に志波城を築造。支配線をさらに北へ拡大する意図だったが、後に南へ移転(徳丹城)。
  • 軍事・財政負担の増大と政策転換(徳政相論):
    • 二大事業の負担: 蝦夷征討と平安京造営は国家財政を極度に逼迫させ、人民に過重な負担(兵士徴発、**兵粮米(ひょうろうまい)**調達、資材・労働力確保)を強いた。
    • 徳政相論(とくせいそうろん、805年): 桓武が「当今急務」について意見を求めた際、参議・藤原緒嗣が「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作とにあり」と二大事業の中止を強く主張。参議・菅野真道は継続を主張したが、桓武は緒嗣の意見を採用。
    • 桓武天皇の決断と意義: 蝦夷征討の中止(胆沢・志波城維持は継続)と平安京造営の縮小を決定。律令国家の理念より現実的な財政状況と民衆負担を考慮した苦渋の決断。膨張路線から民力休養・国内安定重視の現実路線への転換点であり、律令国家が限界を認識したことを象徴する出来事だった。
  • 蝦夷政策の歴史的評価:
    • 成果: 律令国家の支配領域を北へ拡大させ、後の奥羽地方発展の基礎を築いた。坂上田村麻呂は英雄として語り継がれた。
    • 限界と課題: 多大なコストと犠牲の上に成り立っていた。徳政相論は膨張政策の限界を示した。異民族への理解や共生の視点は乏しく、征服と支配という一方的な関係が基本だった。蝦夷との関係はその後も不安定な状況が続いた。

2.3 軍事制度改革:軍団制廃止と健児制への移行

蝦夷政策の過程で露呈した**軍団制(ぐんだんせい)の弱体化と非効率性に対応するため、桓武天皇は軍事制度の抜本的改革に着手。軍団制の原則廃止と、それに代わる健児制(こんでいせい)**を導入した。

  • 軍団制(ぐんだんせい)の形骸化:
    • 制度: 諸国に軍団を置き、成人男性(正丁)から一定比率で**軍丁(ぐんてい)**を徴兵し、訓練・警備・防衛・征討に従事させる国民皆兵的システム。
    • 問題点: 農民負担過重(食糧・武器自弁(じべん))、質の低下(貧困化、装備不足、兵役逃れ)、実戦能力欠如(紀古佐美軍の敗北が証明)。
  • 健児(こんでい)制の導入(792年):
    • 経緯: 軍団制の弊害と実戦での苦戦から、792年、辺境・要地を除き諸国の軍団を原則廃止し、健児制を導入。
    • 健児の性格と任務:
      • 選抜: 一般農民からの徴兵ではなく、地方郡司の子弟や弓馬に優れた富裕農民から志願・推薦で選抜。武芸に通じた人材確保を目指す。
      • 少数精鋭: 各国の定員は軍団より大幅に少なく、少数精鋭の武力。
      • 任務: 国衙に所属し、国司指揮下で国府や正倉警備、国内**治安維持(盗賊追捕など)**といった警察的任務に従事。
  • 健児制導入の目的と意義:
    • 民力休養(農民負担の軽減): 一般農民を過重な兵役負担から解放し、農業生産に専念させ民力回復を図る(徳政相論に先立つ動き)。
    • 効率的な国内治安維持力の確保: 形骸化した軍団に代わり、少数精鋭の健児で国内治安維持に必要な武力を効率的に確保。
    • 地方支配層の再編と国家機構への組み込み: 軍事力の主体を一般農民から地方有力者層へ転換。**兵農分離(へいのうぶんり)**の萌芽とも見なせ、彼らを国家の軍事・警察機構に組み込み地方統制強化を図る意図も。
  • 限界と影響、そして歴史的位置づけ:
    • 限定的な軍事力: 国内治安維持には効果があったが、大規模な対外戦争や辺境防衛には不十分。
    • 武士への繋がりについての議論: **武士(さむらい)**発生との直接的な系譜関係は慎重な議論が必要。健児は官人としての性格が強く自立した武士とは異なるが、武士が成長する社会的土壌形成の一因となった可能性は指摘できる。
    • 歴史的位置づけ: 国民皆兵的な軍事原則からの大きな転換。社会状況変化と国家財政制約に対応し、軍事力合理化を目指した桓武の現実主義的改革の一環。律令国家体制が自己変容を遂げる過程を示す重要事例。

2.4 財政再建と民力休養:財源確保と律令原則の狭間

桓武朝は二大事業で国家財政が極度に逼迫し、民衆負担が増大した。桓武天皇は歳出削減と歳入確保から財政再建に取り組み、民衆負担軽減のための**民力休養(みんりょくきゅうよう)**策も講じたが、これらは律令財政原則からの逸脱や変質を促す結果ともなった。

  • 財政逼迫と律令税制の動揺:
    • 歳出の増大: 平安京造営と蝦夷征討で国家支出が莫大に膨れ上がった。
    • 歳入の減少: 律令税制(租庸調)は、班田制崩壊、逃亡・浮浪・偽籍蔓延、荘園拡大(不輸権獲得)などで徴収機能が著しく低下。特に庸・調の未納が増大し財政基盤が揺らいだ。
  • 民力休養策:人民負担の軽減措置:
    • 雑徭(ぞうよう)の減免: 徳政相論での藤原緒嗣の意見も踏まえ、805年、年間の上限を原則半分の30日以内に軽減。
    • 正税(しょうぜい)出挙(すいこ)利息率の調整: 年利5割と高かった公的な稲の貸付利息を**年利3割(三分)**に引き下げ(恒久化は不明)。
  • 財源確保策と律令財政の変質:
    • 公営田(くえいでん)・官田(かんでん)の設置: 租庸調に代わる財源確保策として国家直営田を設置・奨励。公営田は国衙が人民を使役して経営し、収穫物を国衙運営費(特に国司俸禄・公廨稲(くがいとう))に充当。官田は中央官庁が畿内などで田地を経営し中央政府の財源とした。これらは人別課税から土地収益重視への転換を示したが、人民の労役(雑徭)に依存し新たな負担を生む側面もあり、公地公民原則からの逸脱と律令財政の変質を象徴した。
    • 勅旨田(ちょくしでん)の増加: 天皇の勅旨で設定される勅旨田が増加・拡大。天皇家の私的経済基盤強化を目的としたが、公地公民原則をさらに侵食し、国家の公的財政基盤を縮小させる一因となった。
    • 交易の振興: **渤海(ぼっかい)**など海外交易を通じた利益(交易利潤)を国家財源として確保しようとした可能性も指摘されている。
  • 行政監察の強化:勘解由使(かげゆし)の設置(797年): 地方財政の乱れ、特に国司(受領)の不正行為を是正し、中央統制を強化するため新たな監察機関を設置。
    • 設置背景: 国司交替時の引継ぎ文書である**解由状(げゆじょう)**の手続きが形式化し、不正が見逃されるケースが多かった。
    • 職務と監査プロセス: 797年、太政官の下に令外官として**勘解由使(かげゆし)を設置。諸国からの解由状の内容を厳しく審査・監査し、不正がなければ受理(勘解由使印を押印)、受理されて初めて新司は前司から国印(国衙の公印)**を引き継ぎ政務を開始できた。
    • 意義と限界: 国司の不正抑制、地方財政透明化、中央集権維持を目指した。設置当初は効果を上げたが、後に受領側の巧妙な帳簿操作や中央有力者への働きかけで監査機能は次第に形骸化。しかし、国司の行政責任明確化や後の受領支配展開に一定の影響を与えた。
  • 桓武朝財政政策の評価: 律令制の枠組みを維持しつつ現実の危機に対応しようとする現実主義的努力だった。民力休養策は一定の効果をもたらした可能性があるが、公営田・官田や勅旨田は律令原則からの逸脱を意味し、律令財政の変質を不可逆的にした。根本的な構造問題は解決できず、財政難は次代へ引き継がれた。

2.5 仏教政策の転換:南都抑制と平安新仏教の育成

奈良時代、仏教は鎮護国家思想のもと国家保護で隆盛したが、大寺院が強大な経済力と政治的影響力を持ち、道鏡問題のように国政に深く介入する事態も招いた。桓武天皇はこの反省から仏教政策を大きく転換。旧来の南都仏教勢力を抑制し、国家鎮護の役割を純粋に担う新仏教を育成しようとし、平安仏教の新たな展開を促した。

  • 南都仏教(奈良仏教)への抑制策:
    • 遷都による物理的隔離: 平城京から長岡京・平安京への遷都で、大寺院の政治への直接的影響力を排除。新都では大寺院建設を抑制。
    • 特権の抑制: 特定大寺院の過度な経済的特権(荘園、封戸)を抑制。
    • 僧侶への統制強化: 僧侶の質低下や政治活動を問題視し、規律強化のための法令(**僧尼令(そうにりょう)**遵守徹底など)を発布。**僧綱(そうごう)**制度を活用し国家統制を強化。
    • 造寺・造仏の制限: 財政逼迫もあり、奈良時代のような莫大な国費を投じての大規模事業は原則抑制。 ただし、仏教そのものの否定ではなく、あくまで過度な政治介入や経済特権を問題視した。
  • 平安新仏教への期待と支援:最澄と空海: 桓武天皇は、旧来の学派的で世俗化した南都仏教とは異なる、山林修行を重んじ国家鎮護を純粋に担う仏教に期待。唐から新しい仏教を学んできた二人の僧、**最澄(さいちょう)と空海(くうかい)**が、桓武・嵯峨天皇の支援で平安仏教の二大宗派を開く。
    • 最澄(さいちょう、767-822)と天台宗(てんだいしゅう): 早くから比叡山で法華経中心の天台教学を学ぶ。桓武に評価され804年遣唐使(還学生)として渡唐。天台教学・密教・禅・戒律を学び帰国後、桓武の支援で比叡山に延暦寺を創建し、天台宗を開祖。法華経の「一切衆生悉有仏性」を根本とし、包括的な仏教思想を提唱。南都からの独立を目指し、独自の**大乗戒壇(だいじょうかいだん)**設立を願い続け、死後実現(827年)。
    • 空海(くうかい、774-835)と真言宗(しんごんしゅう): 最澄と同じ804年に遣唐使(留学生)として渡唐。長安で密教の正統継承者・恵果に師事し奥義を授かり帰国(806年)。次第に嵯峨天皇の信任を得、816年**高野山(こうやさん)開創を許可され(金剛峯寺創建)、823年には官寺・東寺を下賜され真言宗の根本道場(教王護国寺)とした。宇宙の真理たる大日如来(だいにちにょらい)**を本尊とし、**三密(さんみつ)修行による即身成仏(そくしんじょうぶつ)を説いた。その教義と加持祈祷(かじきとう)**などの儀礼は、国家安泰や現世利益を願う天皇・貴族に広く受け入れられた。
  • 平安二宗(天台宗・真言宗)の特色と意義:
    • 山岳仏教: 比叡山延暦寺、高野山金剛峯寺に代表されるように、世俗化した南都から離れた山中に拠点を置き、厳しい修行や学問を重視。
    • 鎮護国家思想の継承と密教の隆盛: 両宗派(特に真言宗と天台宗の密教=台密(たいみつ)。真言宗は東密(とうみつ))は、その呪術力で国家安泰や病気平癒などを祈る役割(鎮護国家)を期待され、朝廷・貴族の保護で発展。
    • 仏教中心地の移動と影響: 仏教の中心地は奈良から平安京周辺(比叡山、高野山)へ移動。平安二宗はその後の日本仏教に決定的影響を与え、鎌倉新仏教の多くも比叡山出身者によって開かれた。桓武・嵯峨朝の仏教政策は日本仏教史の大きな転換点となった。

3. 嵯峨天皇による律令運用体制の整備

父・桓武の大規模改革は課題も残した。嵯峨天皇(在位809-823)は父の路線を基本的に継承しつつ、律令国家体制を安定運用し、変化した社会状況に対応させるための制度整備に重点を置いた。嵯峨朝は「創建」から「整備」の時代へ移行し、平安初期の安定と文化成熟をもたらした。

3.1 天皇親政と権力基盤の安定:薬子の変と蔵人所の設置

嵯峨天皇の治世初期は、兄・平城上皇との権力闘争に見舞われたが、これを克服する過程で、天皇親政を支える新たな制度が創設された。

  • 薬子の変(くすこのへん、平城太上天皇の変)(810年):
    • 背景(二所朝廷): 譲位した兄・平城上皇が平城京で、寵愛する尚侍・藤原薬子とその兄・藤原仲成らに影響され、**還都(かんと)**や重祚を画策。平安京の嵯峨天皇と平城京の平城上皇という二所朝廷が並立し対立が深刻化。
    • 経過: 810年9月、嵯峨天皇は先手を打ち、平城上皇の命令を停止、薬子の官位剥奪、仲成を捕縛(後に射殺)。激怒した平城上皇は薬子と挙兵し東国へ向かおうとしたが、嵯峨天皇が坂上田村麻呂らを派遣し脱出路を封鎖。平城上皇は出家、薬子は自殺した。
    • 影響: 薬子の変の迅速な鎮圧で嵯峨天皇の権力基盤が確立。上皇の政治介入の危険性を示し、平安前期の上皇権力抑制の一因に。事件を主導した藤原式家は打撃を受け後退。
  • 天皇親政の志向と藤原北家(冬嗣)の台頭: 薬子の変を乗り越えた嵯峨天皇は天皇親政強化を目指し、鎮圧に功績のあった藤原北家の藤原冬嗣を重用。冬嗣は初代蔵人頭に任命されるなど信任を得て急速に勢力を伸張。これが後の藤原北家による摂関政治への道を開く契機となった。
  • 令外官(りょうげのかん)の嚆矢(こうし):蔵人所(くろうどどころ)の新設: 薬子の変の教訓と天皇親政円滑化のため、天皇直属の新たな秘書官的機関を創設。
    • 設置背景: 天皇の意思を迅速・正確に下達し、機密情報を管理・処理する必要性が痛感された。律令制下の**中務省(なかつかさしょう)**などでは対応困難に。
    • 創設(810年): 令外官として蔵人所を設置。平安時代の令外官設置の重要な始まりであり、律令官制変容を象徴。
    • 役割と機能: 天皇側近として侍従し、①詔勅伝達、②機密文書管理・奏上、③訴訟取次、④宮中庶務などを担当。天皇が太政官ルートを経ず、より直接的・機動的に政務に関与可能に。
    • 構成: 長官の蔵人頭(定員2名、初代は藤原冬嗣と巨勢野足)、下に五位蔵人、**六位蔵人(ろくいのくろうど)**など。蔵人頭は天皇に最も近い要職となり、後の摂関政治期には権力への重要ステップとなった。
    • 律令官制への影響: 本来、中務省などが担った機能を吸収・代替し、太政官とは別ルートで天皇の意思を伝達。正規の官僚機構の役割を相対化・侵食し、律令官制の変容・形骸化を促す要因となった。

3.2 法体系の整備と実情への対応:「格式(きゃくしき)」の編纂

社会変化で律令条文が現実と適合しなくなり、修正・補足のための単行法令である**格(きゃく)**が蓄積・散逸し、法体系が複雑化・不明確化していた。嵯峨天皇は、法体系を現実に合わせ再整備・明確化するため、**格式(きゃくしき)**編纂事業を推進した。

  • 律令運用における問題点:
    • 社会変化との乖離: 荘園制進展、土地私有化加速、貨幣経済の限定的浸透、氏族制度変化、令外官登場など、律令制定時と社会・経済状況が大きく変化し、律令規定が実態にそぐわなくなった。
    • 単行法令(格)の乱立と法体系の不明確化: 律令修正・補足のため、天皇の勅や太政官符として**格(きゃく)**が頻繁に発布されたが、体系性に欠け、膨大な量となり散逸や矛盾も発生。法体系の統一性・明確性が損なわれ、行政・司法の混乱を招いた。
  • 「格(きゃく)」と「式(しき)」の概念:
    • 格(きゃく): 律令条文を直接改変せず、規定を修正・補足・削除する単行法令。律令の実質内容を時代変化に合わせアップデートする役割。
    • 式(しき): 律令や格の規定を実際に施行するための具体的な手続き、様式、細則。律令運用のマニュアル、施行細則集にあたる。
  • 弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂(820年成立):
    • 編纂事業: 嵯峨天皇が法体系混乱是正と行政効率化・安定化のため、藤原冬嗣らに命じ、大宝律令施行(702年)から弘仁年間までの約120年間の格と式を収集・整理し、体系的に編纂させた。
    • 完成と内容: 820年完成・施行。『弘仁格』10巻(重要格約300条を分類・整理)と**『弘仁式』40巻**(施行手続き・書式などを体系的に集成)から成る(大部分散逸)。
    • 意義: 日本初の体系的格式。法規の変遷を整理し、当時の行政・司法基準を明確化。行政効率化・統一性向上に貢献し、律令制を現実的に運用する法的基盤を再整備した。律令制変容過程を示す重要成果。
  • 三代格式(さんだいきゃくしき)への展開と「格式政治」の始まり: 弘仁格式後も編纂は継続。貞観格式(清和天皇期)、延喜格式(醍醐天皇期、特に『延喜式』は多くが現存し平安時代史の第一級史料)と続き、これらを三代格式と総称する。格式編纂が進むにつれ、律令本体より格や式が現実の政治行政で重視される**「格式政治(きゃくしきせいじ)」**が定着。弘仁格式編纂は、この「格式政治」本格化の画期であり、律令国家体制の運用における大きな変質を象徴する出来事だった。

3.3 新たな治安維持機構:検非違使(けびいし)の設置

平安京の規模拡大と人口増加に伴い、京内の犯罪や紛争が増加し治安維持が重要課題となったが、既存の司法・警察機関は権限分散や手続き煩雑さから実効的な対応が難しかった。嵯峨天皇は、より迅速かつ強力な治安維持機構として、令外官である**検非違使(けびいし)**を設置した。

  • 既存機関の限界: 律令制下の京内治安・司法は弾正台(監察・摘発)、衛府(逮捕・拘禁)、刑部省(裁判)が分担。権限分散で機動的対応が困難だった。
  • 検非違使(けびいし)の設置と発展:
    • 設置(弘仁年間): 既存機関の限界を踏まえ、嵯峨天皇が弘仁年間に令外官として設置(816年頃説有力)。「非違を検察し、糾弾する使者」の意。当初は臨時職か。
    • 発展と常設化・権限強化: 実効性の高さから重要性を増し、臨時職から常設職へ発展。平安中期には**検非違使庁(けびいしちょう)**という役所を持ち、権限も大幅強化。京内治安に関する広範な権限を一元的に掌握する強力な機関へ成長。
  • 検非違使の役割・権限(警察権・司法権の統合): 最大の特徴は警察権と司法権を統合し、迅速・実効的な治安維持活動を可能にした点。
    • 非違の検察・摘発(弾正台の機能)
    • 犯人の追捕・拘禁(衛府の機能)
    • 罪人の訊問・裁判(刑部省の機能)
    • 刑の執行(軽い刑罰) 事件捜査・逮捕から裁判・刑執行まで一貫して行い、従来の律令機関より格段に迅速・効率的に治安問題に対処できた。
  • 組織: 長官・別当(公卿兼任の名誉職)、次官・佐(四・五位貴族)、判官にあたる尉(実務中心)、書記官にあたる志、そして下級職員の看督長・案主などがいた。
  • 律令官制への影響と後世への影響: 検非違使の権限拡大・集中過程で、弾正台、刑部省、衛府などの権限は侵食・形骸化。蔵人所と並び、令外官が律令官制を変容させた顕著な事例であり、律令国家体制が現実の必要に応じ自己変革を遂げる様子を示す。検非違使は平安時代を通じて京内治安維持を担い、その制度・機能は後の中世武家政権の警察・司法制度にも影響を与えたとされる。検非違使設置は、嵯峨天皇による、律令の枠にとらわれず、都市化が生んだ課題(治安悪化)に実務的に対応しようとした現実主義的改革の現れだった。

4. 桓武・嵯峨朝改革の成果と限界:平安初期の安定と次代への胎動

桓武・嵯峨両朝の治世は、律令国家体制を「再建」しつつ、実情に合わせ「変容」させる改革と挑戦の時代であった。これらの改革は平安初期の安定基盤を築く成果を上げたが、律令制の根本矛盾は解決できず、むしろその変容を加速させ、次代への移行を準備する両義的な性格を持っていた。

4.1 律令「再建」の到達点:成果と安定の創出

両朝の改革は奈良末期の混乱を収拾し、平安初期の政治・社会安定に顕著な成果を上げた。

  • 王権の強化と政治空間の刷新:
    • 遷都による効果: **平安京への遷都(794年)**は、旧都の旧弊から脱却し、天皇中心の新秩序を象徴する上で大きな効果を発揮。天皇権威を高める上で重要な役割を果たした。
    • 令外官設置による実務機能強化: 蔵人所は天皇親政を実務的に支え、検非違使は京内治安を向上させた。これらの令外官は天皇権力を補強し、律令官制の硬直性を補った。
  • 律令制の現実的運用と法体系の整備:
    • 格式政治の確立: 弘仁格式編纂(820年)は、法規を整理し行政・司法基準を明確化。律令制を現実状況に合わせて運用する法的基盤を整備し、行政の効率化・安定化に貢献。律令制に柔軟性を与え、その延命に寄与した側面がある。
  • 辺境支配の再編と民力休養への転換:
    • 東北経営の成果と転換: 桓武期の蝦夷征討は支配領域を北へ拡大。しかし莫大な負担への反省から、晩年の**徳政相論(805年)**を経て、軍事・造作の中止・縮小を決定し、民力休養を重視する現実路線へ転換。
    • 軍制改革の成果: 軍団制廃止と**健児制導入(792年)**は、一般農民の兵役負担を解放し農業生産力維持を図るとともに、地方有力者活用による効率的な国内治安維持体制構築を目指し、民力休養と治安確保の両立を図った点で意義があった。
  • 宗教政策の転換による安定化:
    • 新仏教の育成と仏教界の再編: 南都仏教の政治介入を抑制し、最澄(天台宗)・空海(真言宗)を支援、平安二宗を育成。これらの宗派は鎮護国家の役割を担うとともに、貴族社会の精神的支柱となり、仏教界の勢力バランス変化と政治・宗教関係の新たな段階をもたらした。 これらの成果により、桓武・嵯峨朝には政治的安定が回復し、文化(弘仁・貞観文化)も花開き、平安時代の基礎が築かれた。

4.2 律令制変容と次代への遺産:限界と新たな課題

両朝の改革は成果を上げた一方、律令制の構造的矛盾(特に公地公民原則崩壊と土地私有化、財政基盤脆弱化)を根本解決できず、むしろ改革自体が律令制変容を加速させ、次代の支配秩序(摂関政治、荘園公領制)への道を開く結果をもたらした。

  • 律令制の形骸化の進行:
    • 令外官への権限集中: 蔵人所や検非違使など令外官の権限拡大が、正規官司の役割・権限を侵食・吸収し、律令官制の形骸化と新たな権力構造形成の素地を生んだ。
    • 格式政治の定着: 格式の編纂・施行は、律令本体より格や式が実質的な法規範として重視される格式政治を定着させ、律令の規範力・権威を相対的に低下させ、理念からの乖離を加速。
  • 公地公民原則の崩壊と土地・財政問題の未解決:
    • 土地私有化の進行と班田制の崩壊: 土地私有化の流れ(荘園拡大、勅旨田増加)は止められず、公地公民原則は崩壊、班田収授法は実施不能となり、国家による土地・人民の一元的支配は過去のものとなった。
    • 律令税制の破綻と財政難の継続: 土地・人民支配基盤の崩壊で律令税制(特に庸・調)は破綻し、国家財政困窮は依然深刻な問題だった。公営田などの新財源確保策も根本解決にならず、後の荘園公領制への移行を不可避にした。
  • 中央集権体制の変容と新たな権力構造への胎動:
    • 藤原北家の台頭: 嵯峨天皇による藤原冬嗣重用が、その後の藤原北家伸張の契機に。令外官要職や格式編纂への関与を通じ、北家は天皇との結びつきを強め政治的影響力を増大。これが10世紀以降の摂関政治への伏線となった。
    • 地方支配の変質: 勘解由使による国司監査も長期的には形骸化。地方では国司(受領)が徴税請負人化し、在地有力者(田堵など)が経済力を蓄積し自立化(後の武士階級形成に繋がる)。律令的な中央集権体制が地方レベルで変質・弛緩していくプロセスだった。
  • 総括:古代から中世への重要な移行期として 桓武・嵯峨両朝の改革は、律令国家体制を立て直し、平安時代の安定的なスタートを可能にした点で高く評価される。しかし、改革は律令制の枠内での延命・修正に留まる側面も強く、結果的に律令制の変質と、それに代わる新たな支配秩序(摂関政治、荘園公領制、武家社会)への移行を準備・加速させた。彼らの時代は、古代律令国家が幕を閉じ、中世封建社会が胎動し始める、まさに古代から中世への重要な移行期であり、その「再編と変容」のプロセス理解は、その後の日本の歴史展開把握に不可欠である。

第二章 藤原北家と摂関政治の展開:律令国家体制の変容

1. 平安初期の政治潮流と摂関政治の位置づけ

1.1 律令国家の変容と摂関政治の胎動

桓武・嵯峨両朝による律令国家体制の「再建」と「変容」は、平安初期に一定の安定をもたらしたが、その過程で導入・強化された**令外官(りょうげのかん)や格式(きゃくしき)に基づく政治運営(格式政治)は、律令制度そのものの変容・形骸化を不可逆的にした側面を持つ。天皇の意思決定や行政実務、法体系運用が、律令の定める本来の機構や手続きから乖離する中で、新たな権力構造と政治運営が模索された。

この律令国家体制の構造的変容を背景に、平安中期(9世紀後半~11世紀後半)に展開されたのが摂関政治(せっかんせいじ)**である。これは、天皇の外戚(母方の親族)としての地位を利用した藤原北家(ふじわらほっけ)が、天皇幼少時には摂政(せっしょう)、成人後には関白(かんぱく)として国政の枢要な地位を独占し、事実上の最高権力者として政治を主導した日本独自の貴族政治形態である。

摂関政治の成立は、単に藤原氏の権力欲の結果だけでなく、律令国家体制の矛盾(公地公民原則崩壊、財政難、官僚制機能不全など)と、桓武・嵯峨朝以降の改革がもたらした新たな状況(令外官台頭、格式政治定着、貴族社会成熟、天皇家と藤原氏の姻戚関係)が複合的に作用し、律令国家体制が自己変容する過程で必然的に生じた過渡的な政治システムと理解できる。

1.2 摂関政治の特質と構造

摂関政治は、律令制、特に天皇制の枠組みを形式的に維持しつつ、実質的な運用を大きく変容させた点に最大の特徴がある。その構造と特質は以下に集約される。

  • 外戚関係の戦略的利用: 藤原北家は、代々娘を天皇の后とし、その間に生まれた皇子(外孫)を皇位に就ける**外戚政策(がいせきせいさく)**を戦略的に展開。北家当主は天皇の外祖父・伯父・叔父として絶大な発言力を得た。この外戚関係は、摂政・関白の地位独占と権勢維持に不可欠だった。
  • 摂政・関白の常置化と権限の集中:
    • 摂政: 本来臨時の職だったが、藤原良房(清和天皇摂政、866年)以降、特に藤原忠平の時代を経て、天皇幼少時には藤原北家当主が就任することが慣例化(摂関常置)。
    • 関白: 成人天皇補佐役として藤原基経が光孝天皇から任命されたことに始まるとされ(884年)、忠平時代以降、成人天皇の場合に北家当主が就任することが常態化。関白は天皇への奏上文書を事前に閲覧し(**内覧(ないらん)**権限)、政策決定に深く関与。 摂政・関白は令外官ながら、天皇の代理・最高顧問として人事、立法、外交、財政、軍事など国政全般の事実上の最高決定権を掌握。**太政官(だいじょうかん)**の権能は形骸化し、権力が摂政・関白に集中した。
  • 天皇の権威と摂関の権力の二重構造: 摂関政治は天皇主権を否定せず、むしろ摂政・関白は天皇の権威や神聖性を自らの権力の正統性の根拠とした。天皇も強大な摂関家の補佐を必要とした。天皇の権威(形式的・象徴的)と摂関家の権力(実質的・政治的)が相互依存・補完しあう二重権力構造が特徴。
  • 氏長者(うじのちょうじゃ)としての地位: 摂政・関白は同時に藤原氏全体の首長である氏長者の地位を兼ねることが多く、一族統率、氏人官位への影響力、氏神・春日大社や氏寺・興福寺の管理権、教育機関・**勧学院(かんがくいん)・奨学院(しょうがくいん)**の管理権などを掌握。これが摂政・関白の政治・経済・宗教的基盤をさらに強固にした。

1.3 摂関政治の歴史的意義と本章の構成

  • 歴史的位置づけ:
    • 律令国家体制の変容形態: 律令制を否定・破壊せず、その枠組みを利用しつつ実質的な権力構造と政治運営を変容させた、律令国家体制の日本的な変容形態。律令官制や儀式は貴族社会の秩序維持や権威付けに機能し続けた。
    • 貴族政治と国風文化の頂点: 10~11世紀は平安貴族社会が最も成熟し、独自の国風文化(こくふうぶんか)(『源氏物語』、大和絵、浄土教美術、寝殿造など)を開花させた時代。摂関家は最大の文化パトロンであり、貴族政治とその文化の頂点を極めた。
    • 次代への移行期としての役割: 一方で権力私物化、官僚制腐敗(成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)横行)、地方支配弛緩、社会矛盾拡大(荘園拡大、武士台頭)を深刻化させ、摂関政治衰退と後の院政・武家政権への移行を準備。特に摂関家領荘園の管理・運営における武士の力は、武士階級の成長を促す一因となった。
  • 本章の構成: 本章では摂関政治の成立・展開・衰退を多角的に考察する。まず、藤原北家の権力基盤確立過程(9世紀)を検証(2項)。次に、天皇親政(宇多・醍醐朝)の試みと挫折を分析(3項)。続いて、**藤原忠平による摂関常置確立から道長・頼通父子による全盛期(10世紀後半~11世紀)**までを詳述(4項)。さらに、**摂関政治下の政治運営実態や地方政治・社会変容(受領支配、荘園公領制進展)**を考察(5項)。最後に、東アジア情勢変化が日本の対外関係を通じて摂関政治に与えた影響を探る(6項)。これらの分析を通じ、摂関政治の本質とその歴史的意義を深く理解することを目的とする。「藤氏(とうし)王権」や「王朝国家」体制といった最新の研究動向にも触れる。

2. 藤原北家の台頭と権力基盤の確立(9世紀)

平安初期、桓武・嵯峨朝の律令国家再編過程で、藤原氏、特に**北家(ほっけ)が次第に政界の中心を占めるようになる。嵯峨天皇の信任を得た藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)**以降、北家は政治的影響力を着実に拡大。巧みな婚姻政策と強引な政略で他の有力氏族や藤原氏他家を排除し、9世紀後半には朝廷内の権力をほぼ独占。この権力基盤確立が摂関政治への道を拓いた。

2.1 藤原氏の出自と北家の勃興の背景

  • 藤原氏の祖:中臣鎌足と藤原不比等: 藤原氏の祖は、**大化の改新(645年)**で中大兄皇子を助けた中臣鎌足とされる(死に際し藤原姓を賜与)。子・藤原不比等は文武・元明・元正朝に仕え、大宝律令編纂に中心的役割を果たし律令国家確立に絶大な功績。娘の宮子を文武天皇夫人(聖武天皇生母)に、**光明子(光明皇后)**を聖武天皇皇后とした(729年)。光明子の立后は人臣初の皇后であり、藤原氏の地位を飛躍的に高め、天皇家との強い姻戚関係の礎を築いた。
  • 藤原四家の分立と競合: 不比等の四人の男子が藤原四家(南家・北家・式家・京家)の祖となった。奈良時代前半、四兄弟は協力して政権を担ったが、737年の天然痘流行で相次いで病死。その後、藤原四家は互いに競合しつつ主導権を争った。
  • 平安初期における北家(冬嗣)の台頭: 平安時代に入ると北家が急速に台頭。
    • 他家の後退: 式家は藤原種継暗殺事件や薬子の変で打撃を受けた。南家も北家ほどの勢力を持てず、京家は早くから勢力を失った。
    • 嵯峨天皇の信任と冬嗣の活躍: 北家の**藤原冬嗣(ふゆつぐ)が優れた実務能力と穏健な人柄で嵯峨天皇の信任を得たことが北家躍進の契機。薬子の変鎮圧に貢献し、初代蔵人頭(くろうどのとう)**に任命され、**弘仁格式(こうにんきゃくしき)**編纂にも中心的役割を果たし右大臣に昇進。
    • 外戚関係の構築: 娘・順子を正良親王(後の仁明天皇)の后とし、その間に**道康親王(後の文徳天皇)**が誕生。冬嗣は次々期天皇の外祖父となり、藤原北家が将来摂関政治を主導する極めて有利な地位を確保した。冬嗣の時代に北家は政界の主流派としての地位を確立した。

2.2 他氏排斥と権力掌握への道:承和の変と応天門の変

冬嗣の子・**藤原良房(よしふさ)**の時代、藤原北家は巧妙かつ強引な政略で皇位継承に介入し、ライバル氏族を排除して権力を強固にしていく。承和の変と応天門の変がその重要な政変である。

  • 承和(じょうわ)の変(842年):
    • 背景: 仁明天皇の治世後半、皇位継承をめぐり緊張。皇太子は淳和上皇の皇子・恒貞親王だったが、良房ら北家は自らの外孫・道康親王の即位を望んでいた。恒貞親王周辺には伴健岑や橘逸勢など反藤原氏的な旧有力氏族が集まっていた。
    • 経過: 淳和上皇、嵯峨上皇の相次ぐ崩御直後、良房は伴健岑・橘逸勢が恒貞親王を擁し謀反を企てていると仁明天皇に誣告。健岑・逸勢は配流(逸勢は途上で病死)、恒貞親王は廃太子・出家させられた。
    • 結果と意義: 皇太子には道康親王が立てられ(850年文徳天皇即位)、良房は次期天皇の外戚(伯父)としての地位を不動にした。伴氏(大伴氏)・橘氏ら有力他氏族が中央政界から排除され、藤原北家の権力集中が大きく進み、摂関政治への道を拓いた。
  • 応天門(おうてんもん)の変(866年):
    • 背景: 文徳天皇崩御後、わずか9歳の惟仁親王(清和天皇)が即位。天皇の外祖父となった良房は太政大臣として実権を掌握。しかし朝廷内には伴善男(伴健岑の子、大納言)や源信(嵯峨天皇皇子、左大臣)ら非藤原氏系の有力者も存在した。
    • 経過: 866年閏3月、朝堂院正門の応天門が炎上。当初、伴善男が源信を犯人だと告発したが、良房らは退けた。同年8月、下級官人・**大宅鷹取(おおやけのたかとり)**が伴善男父子を真犯人だと密告。善男父子は捕らえられ、配流となった。
    • 結果と意義: 真相は不明だが、結果的に最大の政敵・伴氏(大伴氏)が完全に失脚・追放された。事件処理の過程で、良房は清和天皇幼少を理由に正式に摂政に任命(866年8月)。これは人臣初の摂政就任の確実な例であり、藤原北家による摂政・関白独占体制(摂関政治)の制度的な始まりを示す画期だった。

2.3 摂関政治の端緒:基経による関白就任と阿衡の紛議

良房の養子・藤原基経(もとつね)は、摂政の地位を継承し、さらに天皇成人後の補佐役・関白職を創設させ、摂関政治の基礎を最終的に固めた。

  • 基経の権勢と皇位継承への介入:
    • 摂政就任: 873年、陽成天皇(清和天皇皇子、9歳)即位に伴い、天皇の伯父として摂政に就任(妹・**高子(たかいこ/こうし)**が清和天皇女御で陽成天皇生母)。
    • 天皇廃立という強権発動: 陽成天皇の粗暴な行動(883年の源益撲殺風聞)を受け、884年、基経は陽成天皇を事実上廃位させ、仁明天皇の皇子で当時55歳の時康親王(光孝天皇)を擁立。臣下による天皇廃立は基経の強大な権力を示した。
  • 関白(かんぱく)職の創始:
    • 経緯: 新帝・光孝天皇は基経に深く感謝し信任。884年、天皇は基経に対し「万機を摂行せしむべし。関白して奏すべし」との詔を下したとされる。
    • 「関白」の意味: 「関(あずか)り白(もう)す」の意。天皇への奏上文書事前閲覧や政務執行を示す。
    • 意義: 天皇成人後も補佐し事実上の最高権力者として国政を運営する関白という新たな職(令外官)が創始されたとされる。ただし、当初は職掌などが不明確だった。
  • 阿衡(あこう)の紛議(887-888年):関白の地位をめぐる政治闘争:
    • 発端: 光孝天皇崩御後、宇多天皇が即位。基経を関白に任ずる詔勅起草の際、橘広相が中国古典由来の「阿衡」の称号を進言し採用された。
    • 基経の反発と政務ボイコット: 「阿衡」は職掌を持たない名誉職との解釈があり、基経は実質的権限を伴わないとして激しく反発し、政務を拒否。**藤原佐世(すけよ)**に調査させ「阿衡に職掌無し」との報告を得て、橘広相の処罰を宇多天皇に強く要求。
    • 紛議の展開と帰結: 政務停滞の中、若年の宇多天皇は基経の圧力に屈し、詔勅撤回と橘広相失脚を認め、基経は改めて関白として政務を執り権勢を確立。
    • 意義: 形式的には文言解釈論争だが、実質は基経が関白を国政全般統覧の実権を持つ最高職と公認させ、その権威を確立しようとした政治闘争。関白は摂政と並ぶ藤原北家嫡流世襲の最高執政者の地位として明確に位置づけられた。 藤原良房・基経の時代に藤原北家は圧倒的な優位を築き、摂関政治本格到来の政治的・制度的基盤が固まった。しかし、この権力集中は天皇や他貴族の反発も生み、次代の政治潮流へ繋がる。

3. 天皇親政の試みとその限界(10世紀前半):宇多・醍醐朝の挑戦と挫折

基経の没後(891年)、宇多天皇と子・醍醐天皇の二代にわたり、藤原氏を抑制し天皇主導の政治刷新を目指す**天皇親政(てんのうしんせい)**への動きが一時活発化する。しかし、この試みは貴族社会の構造的力学や律令制の限界により挫折し、結果として藤原氏による摂関政治への流れを決定づけた。

3.1 宇多天皇(在位887-897)の親政と菅原道真の登用

阿衡の紛議の経験を持つ宇多天皇は、基経没後、摂政・関白を置かず親政を開始。藤原氏嫡流の権力を牽制し、天皇中心政治を取り戻そうとした。

  • 親政の理念と人材登用: 律令理念に立ち返り、天皇が直接有能な官僚を登用することを目指す。象徴的存在として抜擢されたのが**菅原道真(すがわらのみちざね)**であった。
    • 菅原道真の出自と能力: 代々学問で朝廷に仕えた家系の出身。卓越した漢詩人・学者であり、地方行政にも実績があった。漢学の素養は政治家の必須教養であり(文章経国思想)、道真の学識・実務能力は宇多天皇にとって藤原氏に対抗しうる魅力だった。
    • 異例の昇進: 宇多天皇は道真を蔵人頭、参議、中納言、大納言、最終的に右大臣へと異例の速さで昇進させた。一方、藤原氏嫡流の**藤原時平(ときひら)**は左大臣だったが若年。宇多天皇は道真を信任し、時平と道真を左右の柱として政務を行わせ、藤原氏の権力独占を防ぎバランスを取ろうとした(寛平(かんぴょう)の治)。
  • 遣唐使(けんとうし)停止の建議(894年):
    • 経緯と道真の建議: 894年、遣唐大使に任命された道真が派遣中止を建議。理由は①唐の衰退・混乱(黄巣の乱後、907年滅亡)、②航海の危険増大、③民間商人を通じて情報入手可能、などを挙げた。冷静な国際情勢分析に基づく現実的・合理的な提言だった。
    • 決定と歴史的意義: 宇多天皇は建議を受け入れ派遣中止。以後、日本から中国大陸への公式使節派遣は基本的になくなり(宋代に民間交流は活発化)、日本文化が中国文化の影響から自立し独自の**国風文化(こくふうぶんか)が発展する大きな契機となった。外交政策上も、従来の中国中心の冊封(さくほう)**体制的関係から距離を置き、より自律的な国際関係を模索する転換点となった。 宇多天皇は非藤原氏系人材登用で親政を推進しようとしたが、藤原氏勢力を完全排除できず、譲位後も上皇として政治関与を続けようとしたことが、次代の政争の火種となる。

3.2 醍醐天皇(在位897-930)の親政(延喜の治)と道真左遷

醍醐天皇も父の路線を継承し、摂政・関白を置かず親政を継続。その治世は律令理念に立ち返り、国家財政再建や地方政治規律回復を図ったことから、後世、理想的な**「延喜(えんぎ)の治」**と称えられた。しかし、実態は律令制の矛盾と限界を露呈し、天皇親政の試みが挫折する過程でもあった。

  • 時平・道真体制の継承と昌泰(しょうたい)の変(901年):
    • 当初の体制: 醍醐天皇も当初は父・宇多上皇の意向を尊重し、左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真を重用する体制を維持。
    • 道真への反発と政争の激化: 学者出身の道真の異例の昇進は、藤原氏ら有力貴族の反感と嫉妬を招いた。特に左大臣・時平にとって道真の存在は脅威。また、道真を後押しする宇多上皇の存在も時平らにとって疎ましかった。
    • 讒言(ざんげん)と道真左遷: 901年、時平とその与党(源光ら)は、「道真が醍醐天皇を廃し、娘婿の斉世親王を皇位につけようと陰謀を企てている」と醍醐天皇に讒言。醍醐天皇はこれを信じ(あるいは藤原氏勢力の圧力で受け入れざるを得ず)、道真を大宰権帥として大宰府へ左遷、子弟らも流罪とした(昌泰の変)。道真は失意のうちに配流先で没した(903年)。
    • 政治的意味と影響: ①宇多上皇の影響力排除、②天皇親政を支える非藤原氏系有力者(道真)排除、③再び藤原氏(時平)が政権主導権を確立するための政変。これ以降、学者官僚の大臣昇進は稀となり、**家格(いえがら)**の重要性が再確認され、門閥貴族支配が一層強化された。
    • 怨霊(おんりょう)信仰と天神信仰へ: 道真死後、都での災厄(時平ら関係者の死、疫病、旱魃、930年清涼殿落雷など)が道真の怨霊の祟りと恐れられた。朝廷は道真の罪を赦し官位を復し、「天満大自在天神」として神格化、北野天満宮を創建して祀った。これが天神信仰の始まりで、後に学問の神として信仰を集める。
  • 「延喜の治」の具体的な政策とその実態: 道真失脚後、時平(909年早逝)やその後継者(弟の忠平など)が中心に進めた醍醐天皇期の政治は、律令制理念に立ち返り財政健全化や地方政治規律回復を目指したが、十分な成果は上げられなかった。
    • 延喜の荘園整理令(えんきのしょうえんせいりれい、902年): 公地公民原則維持・回復のため、違法な**勅旨田(ちょくしでん)や王臣家(おうしんけ)**荘園を禁止し、公地編入や班田励行を命令。律令制回帰の意志を示したが、藤原氏自身の荘園には手が及びにくく、土地私有化の流れは止められず実効性は限定的。最後の班田励行命令としても重要。
    • 延喜格式(えんぎきゃくしき)の編纂開始: 時平らが中心となり三代格式最後の延喜格式編纂開始(格:907年、式:927年奏進、967年施行)。大宝律令以降の格・式を集大成し法体系整備・統一を目指す律令制維持への努力を示す。特に『延喜式』は平安時代史の貴重な史料。しかし格式編纂・施行は「格式政治」定着を意味し、律令の規範力低下も招いた。
    • 六国史(りっこくし)の完成と国風文化の萌芽: 正史編纂事業も区切りを迎え、六国史最後の**『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』**が901年完成。905年には醍醐天皇勅命で最初の勅撰和歌集『古今和歌集(こきんわかしゅう)』が紀貫之らにより編纂。和歌が公的地位を得たことは国風文化興隆を象徴する画期。
    • 意見封事十二箇条(いけんふうじじゅうにかじょう、914年)と律令制の限界露呈: 「延喜の治」の理想とは裏腹に、地方政治の深刻な実態を物語るのが、文章博士・**三善清行(みよしきよゆき)**が醍醐天皇に提出した「意見封事十二箇条」。地方政治混乱(国司苛政、郡司衰退、富豪層支配)、財政窮乏(**臨時雑役(りんじぞうやく)**恒常化)、戸籍制度崩壊(逃亡・浮浪・偽籍)、軍事力低下などを詳細かつ痛烈に指摘。律令国家体制が深刻な機能不全に陥り、再建が極めて困難であることを示す重要史料。
  • 「延喜の治」の評価: 天皇親政下で律令理念に立ち返り国家秩序回復を目指した点で理想化されるが、政策の多くは成果を上げられず、社会の構造変化(荘園制進展、受領支配移行、武士萌芽など)を止められなかった。むしろ三善清行の意見封事が示すように、律令制の限界を露呈させ、摂関政治への移行と律令国家体制のさらなる変容を不可避とする結果となった。天皇親政の試みは、藤原氏の権力基盤の強固さと律令制のシステム疲労の前に挫折せざるを得なかった。

4. 摂関政治の確立と全盛(10世紀後半~11世紀):藤原氏支配の黄金時代

醍醐天皇没後(930年)、幼帝が相次ぎ、藤原氏が再び摂政・関白として実権を掌握する流れが定着。特に**藤原忠平(ただひら)**の時代に摂政・関白常設体制(摂関常置)が確立。その後、10世紀後半の藤原氏内部権力闘争(安和の変など)を経て他氏排斥が完了し、藤原北家による政権独占体制が不動となる。そして10世紀末~11世紀、藤原道長・頼通父子が登場すると、摂関政治はその最盛期を迎える。

4.1 摂関常置への道:藤原忠平(ただひら、880-949)の時代

藤原時平の弟・忠平は、兄の早逝後、徐々に中枢に進出し、醍醐・朱雀・村上の三代に仕え、約40年間最高位(摂政・関白・太政大臣)にあり続け、摂関政治の基礎を盤石にした。

  • 摂政・関白への就任と地位の確立:
    • 時平急逝後の台頭: 兄・時平急逝後、順調に昇進し醍醐朝後半には左大臣に。
    • 摂政就任(朱雀天皇期): 930年、朱雀天皇(8歳)即位で、天皇の外叔父として摂政に就任。
    • 関白就任(村上天皇期): 946年、村上天皇(21歳、成人)即位で、外戚ではない(伯父)にも関わらず関白に任命され政務を継続。これは天皇の年齢や外戚関係に関わらず、藤原北家嫡流(氏長者)が摂政・関白として政権を担当することが慣例化しつつあったことを示す。
    • 摂関常置(せっかんじょうち)体制の確立: 忠平時代を通じ、天皇幼少時は摂政、成人の場合は関白が置かれることがほぼ常態となり、その地位は**藤原北家の嫡流(摂関家)**に世襲的に独占される体制(摂関常置)が事実上確立。藤原氏が安定して政権を運営するシステムが整えられ、摂関政治の基盤が固められた。
  • 承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱(935-941年)の鎮圧: 忠平政権下で地方で二つの大規模反乱が発生したが、これを乗り切り、結果的に中央政府の権威(とくに軍事面での地方武士への依存構造)を示すことになった。
    • 平将門(たいらのまさかど)の乱(関東、939-940年): 関東を拠点とする平将門が、一族内紛や国司対立から、国府を襲撃・攻略し関東主要部を制圧。**「新皇(しんのう)」**と自称し、独自の官僚組織を発表するなど、律令国家体制への深刻な挑戦。
    • 藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱(瀬戸内、939-941年): 元伊予国司・藤原純友が瀬戸内海賊を組織化し蜂起。瀬戸内一帯を席巻し、大宰府を攻略・焼討。
    • 朝廷の対応と鎮圧: 朝廷は衝撃を受けたが、関白・忠平中心の政権は追討使を任命。将門は征東大将軍・**藤原忠文(ただふみ)到着前に、現地の平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらのひでさと)**ら武士の力で討ち取られた(940年)。純友は追捕使長官・**小野好古(おののよしふる)**や次官・**源経基(みなもとのつねもと)**らに鎮圧された(941年)。
    • 乱の意義: ①律令国家の中央集権体制弛緩と地方不満、②地方武士の成長、③中央政府正規軍の無力化と鎮圧の地方武士依存、などを明確に示した。しかし反乱鎮圧で忠平政権の権威は高まり、鎮圧に功績のあった武士(平貞盛、藤原秀郷、源経基など)は後の武家社会形成で重要な役割を担う。
  • 村上天皇期の「天暦(てんりゃく)の治」: 村上天皇期(特に天暦年間)は、父・醍醐の「延喜の治」と並び称され、天皇親政が比較的機能し、政治安定・文化栄えた理想的時代として**「天暦の治」**と呼ばれる。勅撰和歌集『後撰和歌集』編纂、**乾坤通宝(けんこんつうほう)**鋳造(流通は限定的)、内裏再建、宮廷儀式整備などが行われた。しかし実権の多くは依然忠平(没後は実頼・師輔兄弟)が掌握しており、天皇親政は限定的。むしろこの安定期に摂関政治基盤が一層強化されたと見るべきだろう。

4.2 藤原氏内部の権力闘争と安和(あんな)の変(969年):他氏排斥の完了

忠平没後(949年)、摂関・氏長者の座をめぐり、藤原北家内部(主に忠平長男・**実頼(さねより、小野宮流祖)**と次男・**師輔(もろすけ、九条流祖)**の系統、さらにその子孫間)で激しい権力闘争が繰り返される。この過程で、藤原氏以外の有力者を中央政界から完全に排除する決定的な事件が安和(あんな)の変(969年)である。

  • 背景:皇位継承の不安定さと源高明の台頭:
    • 複雑化する皇位継承: 村上天皇の子が多く皇位継承は複雑化。病弱な冷泉天皇(母は師輔娘・安子)が在位2年で同母弟・円融天皇に譲位(969年)。不安定な皇位継承は藤原氏にとって介入の余地と脅威を生んだ。
    • 源高明(みなもとのたかあきら)の勢力: この時期、非藤原氏系貴族で最も有力だったのが左大臣・源高明(醍醐天皇皇子)。村上天皇の信任を得て権勢を振るい、朝廷内で重きをなした。高明の娘が円融天皇の兄・為平親王に嫁いでおり、もし為平親王が即位すれば高明が天皇外戚となる可能性があった。これは藤原氏、特に師輔の子である**伊尹(これただ/これまさ)、兼通(かねみち)、兼家(かねいえ)**らにとって看過できない脅威だった。
  • 安和の変(969年)の勃発と源高明の失脚:
    • 密告: 969年3月、円融天皇即位直後、**源満仲(みなもとのみつなか)**や藤原善時らが、「左大臣・源高明が、為平親王を擁立し謀反を企てている」と密告。
    • 高明の失脚と関係者の処罰: 関白・藤原実頼や大納言・藤原伊尹らが迅速に行動。高明は謀反の罪で左大臣を解任され、**大宰権帥(だざいのごんのそち)**として大宰府へ左遷。与党と見なされた藤原千晴・橘繁延らも処罰。為平親王は影響力を失った。
  • 結果と歴史的意義:藤原氏による権力独占体制の確立:
    • 他氏排斥の完了: 承和の変、応天門の変に続き、最後まで有力な競争相手となりえた皇族出身大臣・源高明が中央政界から完全に排除された。これにより藤原北家(摂関家)が摂政・関白の地位を独占し、他氏族を事実上政権中枢から排除する体制(**「藤氏(とうし)王権」**体制とも)が確立された画期的な政変。摂関の地位は藤原北家嫡流世襲が確定し、摂関政治は揺るぎないものとなった。
    • 武士の関与: 武士・源満仲が密告者として重要な役割を果たした点も注目。満仲はこの功績で摂関家に接近し、後の清和源氏発展の基礎を築いた。武士が中央政争に関与し影響を与える存在となりつつあったことを示す。 安和の変は摂関政治確立過程の最後の画期であり、これ以降、政治の焦点は藤原氏内部の権力闘争へ移る。

4.3 藤原道長(みちなが、966-1027)による摂関政治の全盛:栄華の頂点

安和の変後も藤原氏内部で権力争いが続いたが、10世紀末~11世紀初頭、兼家の五男・**藤原道長(みちなが)**が類まれな政治的手腕と幸運で競争相手を排除し権力の頂点に立つと、摂関政治はその最盛期を迎える。

  • 権力掌握への道:幸運と政略:
    • 父・兼家の権力掌握: 父・**藤原兼家(かねいえ)**が一条天皇(円融天皇と兼家娘・**詮子(せんし)**の子)即位(986年)で外祖父として摂政・太政大臣となり権力掌握(花山天皇を策略で退位させ一条天皇擁立)。
    • 兄たちの相次ぐ死去: 兼家没後(990年)、長男・道隆、次男・**道兼(みちかね)**が継承したが、995年の疫病流行で二人とも病死。これが五男・道長に絶好の機会をもたらした。
    • 内覧就任と伊周との争い: 道隆・道兼死後、道隆嫡男・伊周(これちか)が後継者と目されたが、道長は姉・**女院・藤原詮子(東三条院)の後押しで内覧(ないらん)**宣旨を獲得し右大臣に就任、実権を掌握。道長と伊周の対立が激化。
    • 長徳(ちょうとく)の変(996年):政敵の完全排除: 伊周・**隆家(たかいえ)兄弟が花山法皇(かざんほうおう)**一行に矢を射かける不祥事を起こすと、道長はこれを利用し二人を左遷。伊周派は完全に失脚し、道長の権力は不動となった。
  • 「一家三后(いっかさんごう)」の実現:外戚政策の極致: 道長の権勢を最も象徴するのが、娘たちを次々と天皇の后とし、比類なき外戚の地位を築いたことである。
    • 長女・彰子(しょうし/あきこ): 999年、一条天皇の中宮に(皇后定子と並立=「一帝二后」)。彰子のもとに紫式部らが集い華やかなサロン形成。後に後一条天皇、後朱雀天皇を産み、道長の権力を絶大なものとした。
    • 次女・妍子(けんし/きよこ): 1012年、三条天皇の中宮に。道長は意のままにならない三条天皇に譲位を迫るなど圧力をかけた。
    • 四女・威子(いし/たけこ): 1018年、孫・後一条天皇の中宮に。 これにより道長は三代の天皇の外戚となり、権力は空前絶後の絶頂に達した(「一家三后(いっかさんごう)」)。
  • 摂政就任と「望月の歌」:栄華の象徴:
    • 念願の摂政就任: 1016年、外孫・後一条天皇即位で摂政に就任。翌年嫡子・**頼通(よりみち)**に譲り太政大臣となったが、その後も「大殿」「御堂」と呼ばれ実権を握り続けた。
    • 「望月の歌」: 1018年、威子の中宮立后祝宴で詠んだとされる歌。「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠(か)けたることも 無しと思へば」。当時の圧倒的権勢を示すものとして、**藤原実資(さねすけ)**が日記『小右記(しょうゆうき)』に記している。
  • 道長の権力基盤の多角性: 強大な権力は外戚関係だけでなく、以下の複合的要素に支えられた。
    • 卓越した政局運営能力
    • 有能な側近・実務官僚の活用(例:藤原行成(ゆきなり、『権記』著者)
    • 氏長者(うじのちょうじゃ)としての権威
    • 莫大な経済力(摂関家領荘園、**成功(じょうごう)**など)
    • 宗教的権威の構築(浄土教信仰、法成寺建立) 道長の時代は摂関政治の頂点だったが、強引な権力集中や一族偏重は、不満や天皇家の自立希求、地方社会矛盾を増幅させ、後の摂関政治衰退と院政移行の遠因を内包していた。

4.4 藤原頼通(よりみち、992-1074)の時代と摂関期の終焉へ:栄華の維持と衰退の兆し

道長嫡男・頼通は父から摂関・氏長者を継承し、後一条・後朱雀・**後冷泉(ごれいぜい)**の三代、**約半世紀(1017年~1068年)**にわたり摂関の地位にあり続けた(史上最長)。頼通の時代は父の栄華が維持され貴族文化が一層爛熟したが、後半には摂関政治の根幹を揺るがす構造変化が顕在化し、摂関期終焉へと向かう衰退の兆しが明確になっていく。

  • 文化の爛熟:末法思想と浄土教美術の極致: 11世紀半ば以降、末法思想が広がり来世への不安感が増大。貴族は阿弥陀如来に帰依し極楽往生を願う浄土教信仰を深めた。この信仰と美意識の結晶が、頼通が1053年に建立した平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)である。優美な姿は鳳凰が羽を広げたように見えることから後に「鳳凰堂」と呼ばれる。堂内には仏師・**定朝(じょうちょう)完成の寄木造阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)**が安置され、**来迎図(らいごうず)**など大和絵風壁画や雲中供養菩薩像で飾られ、建築・彫刻・絵画・工芸が見事に調和し、当時の貴族が思い描いた極楽浄土を現出させた浄土教美術の最高傑作。頼通時代の貴族文化の洗練と爛熟を象徴する。
  • 摂関政治衰退の兆候の顕在化:
    • 外戚関係の断絶: 頼通の代で天皇家との外戚関係が途絶えたことが最大の要因。娘はいたが后とならず、后となった娘(寛子)も皇子を儲けられなかった。頼通は天皇外祖父となれず、父のような強固な血縁的影響力を行使困難に。摂関家の権力の源泉が失われつつあった。
    • 皇位継承の変化と後三条天皇の即位(1068年): 後冷泉天皇に皇子がなく、母が摂関家出身ではない異母弟・尊仁親王(母は禎子内親王)が皇太子となり、1068年後三条天皇として即位。摂関家と直接の外戚関係を持たない天皇の登場は約170年ぶり。外戚政策の破綻と摂関家の皇位継承コントロール喪失を意味し、天皇親政の可能性を大きく開く歴史的転換点となった。頼通は衝撃を受け関白を弟・**教通(のりみち)**に譲り引退。
    • 摂関家内部の対立: 頼通・教通兄弟間の確執が摂関家内部結束を弱めた。
    • 地方社会の変化と武士の台頭: 地方では荘園拡大・集積が進み国家財政基盤はますます揺らいだ。国司支配下や荘園管理者として**武士(もののふ、さむらい)が力をつけ、在地支配と武力を背景に実力者としての地位を確立。特に東北での前九年の役(ぜんくねんのえき、1051-1062年)後三年の役(ごさんねんのえき、1083-1087年)**は、朝廷の介入能力限界と、**源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子ら清和源氏(せいわげんじ)**のような有力武士団(武家の棟梁)の台頭を顕著に示した。武士の力はやがて中央政変にも影響を与える。
  • 院政(いんせい)への移行: 摂関家を外戚としない後三条天皇は、即位後、摂関家牽制と天皇親政復活を目指す政策(延久の荘園整理令、記録荘園券契所設置など)を打ち出した。その意志と政策は皇子・白河天皇に引き継がれた。白河天皇は、1086年に幼い堀河天皇に譲位し**上皇(太上天皇)**となった後も、**院庁(いんのちょう)を設置し院宣(いんぜん)・院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)**を用い、**治天(ちてん)の君(きみ)として政治実権を掌握し続けた。これが院政(いんせい)**の始まりである。院政開始で政治中心は摂関から上皇(院)へ移り、摂関政治は主導的役割を終焉させ、日本の政治史は新たな段階へ移行する。頼通の時代は摂関政治最後の爛熟期であると同時に、その限界が露呈し終焉へ向かう序章でもあった。

5. 摂関政治期の政治運営と社会:公と私の交錯

摂関政治期は、藤原北家が実権を掌握したが、その政治運営は律令制の官僚機構や法体系を維持・利用しつつ、実質的な権力構造や意思決定プロセスを大きく変容させる形で行われた。そこでは公的な秩序と摂関家の私的な「家」の論理が複雑に交錯し、独自の政治・社会システムが形成された。中央の権力構造変化は地方政治にも影響し、律令的支配体制の解体と新たな社会経済構造(荘園公領制)形成を加速させた。

5.1 摂関の権限と政務の実態:公権力の私的運営化

摂政・関白は、天皇外戚、氏長者、摂関(及び内覧)という令外官の公的地位を複合的に利用し、事実上の最高権力者として国政全般に絶大な権限を振るった。

  • 摂政・関白・内覧の広範な権限:
    • 摂政・関白: 天皇代理・最高輔佐役として国政最終決定に深く関与。特に人事権(除目(じもく))への影響力は絶大で、摂関の意向で左右されるのが常態化。政策立案、立法(**格(きゃく)**発布)、外交、財政、軍事などにおいても摂関の承認・主導が不可欠に。
    • 内覧(ないらん): 天皇への全公文書を事前に閲覧し意見を付す権限。摂関が兼任することが多かったが、単独任命もあり(例:道長の内覧宣旨獲得)。政務情報を掌握し、政策決定初期段階から影響力行使を可能にする実質的権力掌握のための重要地位。
  • 氏長者(うじのちょうじゃ)としての権力基盤: 摂政・関白は多くの場合、藤原氏全体の族長・氏長者を兼ね、この地位が権力を多方面から支えた。
    • 一族統率と人事への影響: 氏人の官位昇進に強い影響力。一族結束維持と摂関への求心力向上に重要。
    • 氏神・氏寺の管理: 春日大社・興福寺の管理権掌握。これらは広大な荘園、僧兵・神人を抱え、宗教的権威に加え強大な経済力・軍事力も有し、摂関家は連携を通じて権威・権力を補強(後に強訴に悩まされることも)。
    • 教育機関の管理: **勧学院(かんがくいん)・奨学院(しょうがくいん)**を管理・運営し、人材育成と学術的伝統維持を図る。
  • 政務の場(政務処理の変化):公から私へ: 摂関政治期には、律令制下の公式な政務機関・手続きが形骸化し、摂関家の私的領域で重要決定が行われる傾向が強まった。
    • 太政官(だいじょうかん)の形骸化: 最高政務機関・太政官は存続し公的手続きは行われたが、重要事項を実質的に審議・決定する機能は低下。会議(官政)は儀式化し、重要政策は事前に摂関家内部や側近と調整されることが多くなった。
    • 陣定(じんのさだめ)の役割と限界: 近衛府陣座で行われた公卿による朝議(陣定)は、太政官会議より機動的で摂関期も重要政策決定の場として機能したが、次第に形式化し摂関の意向が強く反映。参加者は公卿に限られ、実務官僚の意見が反映されにくい限界も。
    • 政所(まんどころ)の政治的中枢化: 本来、摂政・関白等の家政機関だった政所が、国政に関する重要事項(摂関家領荘園裁定、人事、財政問題など)の審議・決定の場となり、政治中枢としての機能を持つように。職員の家司(けいし)(私的家臣)が公的政務にも深く関与。政治運営が公的組織から摂関家の私的機関へ重心を移し、摂関政治が「家」の論理に基づく「私的」性格を帯びたことを象徴。
  • 実務官僚層の役割と貴族の日記: 変則的な権力構造下でも、実際の行政事務は専門知識・実務能力を持つ中下級貴族層が支えた。
    • 実務官僚の専門性: 外記、史(さかん)、**弁官(べんかん)**らは、**有職故実(ゆうそくこじつ)**に精通し、複雑な文書作成能力に長け、摂関政治の円滑な運営に不可欠だった。多くは地方国司(受領)経験者。
    • 貴族の日記史料: 当時の政務実態や貴族社会を知る上で、貴族の日記(漢文記録)が重要史料。藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、藤原行成『権記(ごんき)』、藤原資房『春記(しゅんき)』、**源経頼(みなもとのつねより)『左経記(さけいき)』**などは、政治決定プロセス、儀式、人間関係、心情などを伝え、摂関政治研究に不可欠な一次史料。

5.2 地方政治の変容:国司制度の崩壊と荘園公領制の確立

中央で摂関政治が展開される一方、地方では律令的支配体制が急速に解体し、新たな土地支配秩序・**荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)が確立していく時代だった。この変動の中心に国司(こくし)制度の変質、特に受領(ずりょう)**の登場とその活動があった。

  • 国司(こくし)制度の変質:
    • 遙任(ようにん)の一般化と目代(もくだい)支配: 平安中期以降、特に**守(かみ)に任命される上級貴族は任国へ赴任せず京に留まる遙任が一般化。実際の統治は代理人の目代(もくだい)に委ね、目代は現地の在庁官人(ざいちょうかんじん)**を指揮して実務を行った。目代支配はしばしば私的利益追求を反映し、地方疲弊の一因ともなった。
    • 受領(ずりょう)の登場と徴税請負人化: 実際に任国へ赴任し、徴税権等国内統治の実権を握った国司(主に介・掾・目など)を**受領(ずりょう)**と呼ぶように。朝廷は国司に一定額の税(官物、臨時雑役)の中央上納を厳しく義務付け、これが考課の最重要基準に。受領は中央政府の代理人というより、一定税収を請け負う徴税請負人の性格を強め、規定額上納のためには強引な手段も辞さず、余剰収益(私富)は自らのものとすることが半ば黙認された。
  • 受領の強大な権限と貪欲: 受領は任国内で強大な権限を掌握。最大の権力源は徴税権。**検田(けんでん)実施や大田文(おおたぶみ)**作成で徴税基盤把握・強化に努めた。行政権、**警察・司法権(検断権)**も有した。国衙機構(国庁、正倉、国印(こくいん))も掌握。多くの受領はこの権限を利用し莫大な私富蓄積に奔走。加徴(かちょう)、交易利潤横領、官物不正運用(**私出挙(しすいこ)**流用)、公費流用などあらゆる手段を用いた。『今昔物語集』(**信濃守藤原陳忠(のぶただ)**の逸話)や『枕草子』の記述は受領の強欲なイメージを伝える。
  • 成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)の流行と政治腐敗: 受領が蓄積した富は、中央政府や摂関家への働きかけ(寄付・貢物)にも用いられ、その見返りに希望する官職任命(成功)や再任(**重任(ちょうにん))を得た。これは事実上の官職売買(売官・売位)**であり、政治腐敗の現れ。しかし財政難の朝廷や摂関家には重要な財源でもあった。
  • 国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ):地方からの抵抗: 受領の過酷な収奪に対し、現地の郡司層や有力農民(田堵)らが連名で受領罷免を中央政府に直接訴える動きも現れた。988年の**「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらのげ)」**(尾張守・**藤原元命(ふじわらのもとなが)**の非法行為を列挙)はその有名な例。受領支配の過酷さ、地方社会の抵抗、中央政府の地方統制が有効に機能していなかったことを示す。
  • 荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)の確立: 国司制度変質の中で、土地支配体制も律令原則から大きく逸脱し、荘園公領制へ移行。
    • 荘園(しょうえん)の発達(寄進地系荘園の主流化): 権門勢家の私有地・荘園が急速に拡大。特に10世紀後半以降、**開発領主(かいはつりょうしゅ)が国司干渉や課税から自領を守るため、土地を中央の権門勢家(領家(りょうけ))**に寄進し、**不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)の特権を獲得、自らは現地管理者・荘官(しょうかん)(下司・公文など)に任命され実質支配権を確保する寄進地系荘園が主流に。領家はさらに上位の権門勢家(本家(ほんけ))に重ねて寄進(重層的寄進)。荘園は本家-領家-荘官-荘民(百姓・作人など)**という重層的支配・権利関係(**職(しき)**の体系)を持つ半独立的領域となった。摂関家は広大な摂関家領荘園を集積し経済基盤とした。
    • 公領(こうりょう、国衙領)の変質(名田(みょうでん)・負名(ふみょう)体制): 荘園とならず国家支配下にとどまった公領も、国司(受領)が収入確保のため、公領を**名(みょう)と呼ばれる徴税単位に再編成し、田地を名田(みょうでん)**と呼んだ。経営と納税責任は在地有力農民・**田堵(たと)が請け負い(負名(ふみょう))、負名は納税責任を負う一方、経営権と収益を得て在地社会での影響力を強めた(後の名主(みょうしゅ)**層へ繋がる)。負名の地位(負名職)も「職」として世襲化・売買対象となり、公領も荘園に類似した重層的権利関係が形成(公領の「荘園化」)。
    • 荘園公領制の確立: 11世紀頃までに、私領の荘園と実質的に荘園化した公領(国衙領)が、それぞれ重層的権利関係(職の体系)を持ちながら全国の土地をモザイク状に二分して併存する荘園公領制が、中世社会の基本的な土地支配体制として確立。国家による一元的支配から土地を媒介とした多元的・重層的支配秩序への移行を示し、古代から中世への決定的な社会経済構造の転換だった。

6. 東アジア情勢の変化と摂関期の対外関係:交流と緊張

摂関政治期(9世紀後半~11世紀後半)の日本は、東アジア世界の国際秩序が大きく変動する時代に置かれていた。唐帝国という中心が失われ、複数の国家・民族が興亡・競合する中、日本は独自の対外関係を展開。公式国交には消極的だが、民間レベルでの経済・文化交流を維持・発展させ、時には外部からの軍事的脅威にも直面した。

6.1 10世紀以降の東アジア国際秩序の変動:多極化と流動化

9世紀末~10世紀、東アジアは唐中心の安定体制から、多極的で流動的な状況へ移行。

  • 唐の滅亡と五代十国の分裂時代: 唐は内乱(黄巣の乱)で衰退し907年滅亡。その後中国大陸は**五代(ごだい)十国(じっこく)**と呼ばれる分裂と戦乱の時代へ(約半世紀)。
  • 宋(北宋)の建国と周辺諸国との関係: 960年、趙匡胤が**宋(北宋)**を建国、中国を再統一(979年)。**文治主義(ぶんちしゅぎ)**政策を採用したが、軍事的には周辺異民族王朝に劣勢。
  • 朝鮮半島の変動:新羅滅亡と高麗建国: **新羅(しらぎ)が衰退し、後百済・後高句麗が興り後三国時代へ。後高句麗の王建が918年に高麗(こうらい、コリョ)**を建国、936年に朝鮮半島を再統一。高麗は宋と朝貢関係を結ぶ一方、北方の契丹(遼)と緊張関係。
  • 北方民族の興隆:渤海滅亡と契丹(遼)、女真: 日本とも友好関係にあった**渤海(ぼっかい)は926年に契丹(きったん)**に滅ぼされた。契丹は強大な帝国・**遼(りょう)を建国し、中国・高麗に軍事圧力を加え東アジア国際関係に大きな影響を与えた。後の金・清に繋がる女真(じょしん)**族も満州地域で活動を活発化させ、11世紀初頭には日本沿岸を襲撃(刀伊の入寇)。 このように10世紀以降の東アジアは、唐という中心を失い、漢民族王朝(宋)、征服王朝(遼)、半島国家(高麗)、そして日本が相互に影響・競合する複雑で多極的な国際環境へと変化した。

6.2 遣唐使の停止(894年)とその歴史的意義の再評価

この国際秩序変動期における日本の画期的出来事が**遣唐使の停止(894年)**だった。

  • 背景と菅原道真の建議: 7世紀初頭以来派遣された遣唐使は、唐の制度・文化導入に貢献したが、9世紀後半には唐の国内情勢悪化、航海危険増大、日本側の財政負担などから困難に。838年派遣を最後に中断。894年、遣唐大使に任命された菅原道真が、唐の衰退・混乱、航海危険などを理由に派遣中止を建議。公式使節なしでも来航商人を通じて情報入手可能とも述べ、現実的な判断だった。
  • 停止の決定と影響: 宇多天皇は建議を受け入れ派遣中止。その後唐は滅亡し、以後、日本から中国大陸への公式国交使節派遣は基本的になくなった。
    • 外交姿勢の変化: 中国中心の**冊封(さくほう)**体制的関係観から距離を置き、より自律的でやや内向きな外交姿勢へ転換。
    • 国風文化の成熟促進: 唐からの文化影響が相対的に弱まり、日本独自の**国風文化(こくふうぶんか)**が大きく花開く環境が整えられた。
    • 民間交易への影響: 公式国交途絶で、博多などを拠点とする民間交易(私貿易)がむしろ活発化する素地が生まれ、次の宋代には日中関係の主軸となる。 遣唐使停止は日本の政治・文化の自立性を高める転換点となったが、一方で国際情勢に関する情報収集・対応能力には課題を残した。

6.3 高麗・宋との関係:限定的な公式関係と活発な民間交易

遣唐使停止後の日本は、高麗や宋に対し公式国交には基本的に消極的だったが、民間レベルでの交流・交易は活発に行われた。

  • 高麗(こうらい)との関係: 高麗は建国当初から国交樹立を求めたが、日本(醍醐朝)は受け入れず。理由は外交儀礼上の問題や、高麗を新羅後継と見なし対等関係を踏襲しようとしたことなどか。正式国交はなく、民間交易や漂着民送還など限定的・非公式接触に留まった。刀伊の入寇時には一時協力関係が見られた。
  • 宋(北宋)との関係と日宋貿易: 宋は積極的な海上交易政策を推進。984年に国交樹立を求めたが、日本側(円融朝)は応じず。しかし公式国交がない一方、民間レベルの日宋貿易は極めて活発だった。
    • 交易の拠点と担い手: 多数の宋商が博多(鴻臚館が機能)や敦賀などへ来航。日本からも僧侶(例:僧奝然(ちょうねん))や商人が渡宋。
    • 輸入品と輸出品: 宋からは宋銭、陶磁器、絹織物、書籍、香料、薬品などが大量にもたらされた。特に宋銭は基軸通貨として流通し商品経済発展を促した。日本からは金、銀、銅、硫黄、木材、真珠、高品質な**工芸品(刀剣、扇、漆器、蒔絵など)**が輸出された。
    • 日宋貿易の影響: ①貨幣経済浸透(年貢代銭納化など)、②先進文物流入による学術・技術・美術・生活文化への刺激、③貿易利益が朝廷・貴族・寺社・商人に富をもたらし、摂関期の華やかさもある程度支えた。

6.4 刀伊(とい)の入寇(1019年):外部からの軍事的脅威

遣唐使停止後の比較的平穏な対外関係を揺るがす深刻な外寇事件が**刀伊(とい)の入寇(1019年)**である。

  • 事件の概要: 「刀伊」(高麗人が呼んだ女真族一派の名称)とみられる集団が約50隻の船団で日本沿岸を襲撃。対馬、次いで壱岐を襲い略奪・殺戮・放火、多数を殺害・連行(壱岐では国司・藤原理忠以下多数殺害)。その後九州北部の筑前国怡土・志摩・早良郡などを襲撃。
  • 被害と撃退: 対馬・壱岐は壊滅的被害(壱岐では死者約140名、連行者約270名)。九州北部でも沿岸部で被害が出たが、大宰権帥・藤原隆家(たかいえ)が**大宰府管内の武士団(鎮西(ちんぜい)の兵(つわもの)ども)**を指揮して奮戦、賊船を撃退。
  • 事件の意義と影響:
    • 平安中期における深刻な外寇: 元寇以前では最大規模の外寇で、日本社会に大きな衝撃を与えた。
    • 対外防衛体制の脆弱性: 辺境島嶼部や沿岸部の防御が手薄だったことを露呈。
    • 中央政府の対応の限界: 都への情報伝達や中央からの指示・援軍派遣に時間がかかり迅速対応が困難だったことを示した。
    • 在地武士の役割の重要性: 現地責任者(藤原隆家)と在地武士が主体となって防衛・撃退したことは、国防における在地武士の力の重要性を明確に示し、武士が国家防衛に不可欠な存在となりつつあったことを示唆(後の武家政権台頭を予感)。藤原隆家自身も評価を高めた。
    • 高麗との関係への影響: 事件後、高麗が日本人捕虜一部を救出・送還したことが、結果的に日麗関係改善に繋がり、一時的な使節往来の契機となった。
    • 国際情勢変動の影響: 東アジア大陸の民族移動や紛争が日本列島にも直接的な軍事的脅威をもたらしうることを、当時の貴族社会に改めて認識させた。

6.5 対外関係と摂関政治

摂関期の対外関係は公式国交に消極的(内向き志向)だが、日宋貿易を通じて経済・文化的には外部と繋がり恩恵を受けていた。しかし刀伊の入寇は、その安定が外部脅威で覆されうることを示し、国防における在地武士の重要性を浮き彫りにした。日宋貿易による富が摂関期の繁栄を支えた一方、国防体制弛緩や在地武士依存という構造は、摂関政治の限界と次代への変化の萌芽も示していた。全体として、摂関期の日本は東アジア激動から一定距離を保ちつつ、自国文化・社会発展に重点を置いた時代と評価できる。

7. 摂関政治の歴史的意義と限界:古代から中世への架け橋

摂政・関白が実権を掌握し、藤原北家(摂関家)が政権を主導した摂関政治は、約200年間、平安時代の政治体制の中核をなした。この特異な貴族政治システムは、日本史展開において重要な意義を持つ一方、多くの限界と問題点を抱え、最終的に新たな政治体制へ移行した。

7.1 歴史的意義(成果と積極的評価)

摂関政治は、単なる藤原氏による権力独占や天皇権力形骸化だけでなく、果たした積極的役割や歴史的意義も評価する必要がある。

  • 律令国家体制の変容と継承による安定確保: 律令制が機能不全に陥る中、その基本枠組みを維持・利用しつつ、令外官や格式、政所といった新制度・運営方式導入で律令国家体制を現実に合わせ変容させ、一定期間の政治・社会安定を維持することに成功。律令制を「延命」させる役割を果たし、中世社会へのソフトランディングを可能にしたとも言える。
  • 貴族社会の秩序維持と文化の爛熟: 摂関家を頂点とする序列や家格が重んじられ、貴族社会内部の利害関係が調整された。政治的安定を背景に、優雅で洗練された**国風文化(こくふうぶんか)**が爛熟期を迎えた。摂関家や有力貴族は文化の最大のパトロンであり、文学、和歌、美術、建築、宗教など多分野で日本独自の貴族文化が花開いた。
  • 日本的政治システムの一類型形成: 天皇の権威と摂関の権力が並存・相互依存しながら国家を運営する二重構造は、その後の日本政治史に形を変えながら(例:院政、幕府政治)反復して現れる特徴とも言える。摂関政治はその原型を形成したと見ることも可能(連続性は慎重な議論が必要)。

7.2 限界と問題点(摂関政治の負の側面)

一方で摂関政治はその構造上、多くの限界と問題点を内包し、それらが深刻化することで衰退し、新たな政治体制へ移行した。

  • 権力の私物化と政治の閉鎖性: 摂関の地位が藤原北家(摂関家)に世襲独占され、国政が特定の家門の利益に左右される傾向(権力私物化)が強まった。人事では能力より血縁・家柄が重視され(門閥主義(もんばつしゅぎ))、政治参加が極めて閉鎖的に。政治停滞や国民全体の利益からの乖離を招いた。
  • 官僚制の硬直化と腐敗の蔓延: 家柄重視人事は律令制の能力主義的官僚制を形骸化。さらに官職獲得のための**成功(じょうごう)重任(ちょうにん)**が横行(事実上の売官・売位)。官僚規律を乱し、行政能力を低下させ、政治腐敗を蔓延させた。
  • 地方政治の混乱と中央統制の弛緩: 中央の権力私物化・閉鎖性は地方政治にも深刻な影響。受領職は利権追求の対象となり、任命された受領は過酷な収奪で私腹を肥やした。中央政府(摂関家)は地方からの上納金を重視するあまり、受領の不正を黙認、あるいは十分に監督・統制できず(**勘解由使(かげゆし)**監査も形骸化)。地方社会は疲弊し、中央への不信感が高まり、在地勢力(特に武士)が独自の力を蓄える状況を生んだ。
  • 社会経済構造の矛盾の拡大: 荘園公領制確立で土地支配が多元的・重層化。権門勢家は広大な荘園を集積し強大な経済力を誇ったが、国家が直接支配し税収を得られる公領は減少し国家財政基盤は脆弱化。荘園・公領の複雑な権利関係(職の体系)は紛争(所領相論(しょりょうそうろん))を頻発させ、解決のための在地領主(武士)の武力の必要性を高め、社会不安定要因ともなった。

7.3 結論:古代から中世への移行期における摂関政治

摂関政治は、律令国家体制が内部矛盾と社会変化で変容を迫られる中で生まれた、日本独自の過渡的な貴族政治形態だった。律令制の枠組みを巧みに利用・変容させ一定期間の政治安定を確保し、国風文化を開花させる積極的側面を持つ一方、多くの矛盾と限界を抱え、次なる政治体制(院政、武家政権)への移行を準備した。

11世紀後半、摂関家と外戚関係を持たない後三条天皇登場と、続く白河上皇による院政開始は、摂関政治の限界露呈の結果であり、政治主導権が摂関家から天皇(上皇)へ移行する新時代の幕開けだった。しかし、摂関政治期に形成された貴族社会構造、荘園公領制、そして中央政界と結びつき成長した武士の存在などは、その後の院政期、さらに鎌倉幕府成立以降の日本史に、極めて深く長期的な影響を与え続ける。摂関政治は、まさに古代律令国家から中世封建社会へ移行する、日本の歴史における重要な「架け橋」の役割を担った時代であった。


第三章 律令制の変質と荘園公領制の展開:中世社会への胎動

1. 摂関政治期の社会経済変動と荘園公領制の確立

摂関政治期(10世紀~12世紀初頭)は、中央の政治体制が律令制の理念から大きく変容した時代であり、地方の土地支配と税制においても、律令的原則が崩壊し新たな社会経済構造が形成される決定的な転換期であった。この核心にあったのが、**荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)**と呼ばれる日本独自の土地支配体制の確立である。

摂関政治の展開と荘園公領制確立は相互に深く関連。摂関家自身が最大の荘園領主(権門勢家)として広大な荘園(摂関家領荘園)を集積し、それが強大な権力の基盤となった。また、摂関政治下の中央集権体制弛緩や国司(受領)支配の変質は、荘園拡大や公領変容を一層加速させた。

荘園公領制確立は、単なる土地制度変化ではなく、古代的な国家による一元的土地・人民支配(公地公民)が解体し、土地に対する多様な権利(「職(しき)」)が重層的に絡み合う、中世的な多元的支配体制への移行プロセスそのものであった。この構造変化は、在地武士階級の成長を促し、彼らが新たな政治勢力として台頭する経済的・社会的基盤を提供、最終的に鎌倉幕府樹立へと繋がる、日本社会の構造を根底から変えた画期だった。本章では、荘園公領制の形成・展開メカニズムとその歴史的意義を掘り下げる。

1.1 荘園公領制とは何か:古代から中世への架け橋となるシステム

荘園公領制は、平安中期から戦国時代の太閤検地まで、約600年間、日本の中世社会における基本的な土地支配のあり方を規定した歴史概念である。

  • 荘園と公領(国衙領)の二元的構造: 土地は大きく二つに分かれた。
    • 荘園(しょうえん): 皇族、有力貴族、大寺社といった**権門勢家(けんもんせいか)**を名目的領主(本家(ほんけ)・領家(りょうけ))とする私的領地。多くの場合、国家への租税免除(不輸(ふゆ))や国衙役人の立ち入り拒否(不入(ふにゅう))の特権を有し、国家の公的支配が及びにくい半独立的領域。
    • 公領(こうりょう)または国衙領(こくがりょう): 荘園以外の、国家(朝廷・国衙)支配下にあるとされる公的土地。実態は律令制下の口分田と異なり、国司(受領)管理下で**名田(みょうでん)**に再編成され、現地有力農民(負名(ふみょう))が経営と納税を請け負う形(負名体制)で運営。現地支配・収取構造は荘園と類似(公領の「荘園化」)。 全国の土地は荘園と公領(国衙領)がモザイク状に併存し、両者は相互に影響し合いながら中世の土地支配体制全体を形成した。
  • 重層的な権利関係(職(しき)の体系): 荘園・公領(国衙領)いずれも、一つの土地に対し、複数の主体が重層的に多様な権利(支配権、管理権、収益権、耕作権など)を保有・分有していた点が最大の特徴。この複雑な権利関係は**「職(しき)」**という独自概念で体系化された。
    • 「職」とは何か: 特定の土地や地位に付随する権利・義務、そしてそれに伴う収益(得分(とくぶん))をパッケージにしたもの。単なる役職名ではなく、独立した財産(知行権(ちぎょうけん))のように扱われ、分割・譲渡・売買・相続・寄進・質入の対象となり流通。
    • 「職」の階層性と多様性: 荘園では、本家職(最終権益・名義)、領家職(主要年貢収取権、荘官任命権など)、預所職(荘務管理)、荘官職(現地管理権、徴税権、検断権一部、給田・給名収入)、名主職(名田経営権、一定収益)、作人職(耕作権)など、多様な「職」が階層的に重なり合った。公領でも国司の下で負名職・作人職などが存在。
    • 「職の体系」の意義: 土地をめぐる複雑な利害関係を調整し、各階層の権利を保障する役割を果たした一方、権利関係の複雑化は紛争(所領相論(しょりょうそうろん))を頻発させ、在地領主(武士)の武力や上位領主・幕府の裁判権の重要性を増大させた。
  • 歴史的位置づけ:古代から中世への移行指標:
    • 律令制解体の帰結: 公地公民原則と班田収授法、租庸調制の崩壊・形骸化過程で、それに代わるものとして内生的に形成された土地支配体制。国家による一元的支配から、多様な主体が土地を介して重層的に結びつく多元的支配へ移行。
    • 中世封建社会の基盤: 土地に対する重層的権利関係(職の体系)は、中世封建社会構造、特に武士階級の成長と所領支配(知行)、**主従関係(御恩と奉公)**の経済的・社会的基盤。「御恩」は所領支配権保障(本領安堵(ほんりょうあんど))や新所領給与(新恩給与(しんおんきゅうよ))、「奉公」は家臣の軍役等の義務。
    • 社会全体の構造転換: 単なる土地制度変化に留まらず、政治権力(中央集権→地方分権、公家→武家)、社会構造(身分制変化、在地領主・武士成長)、法慣習(律令→武家法・荘園慣習法(本所法(ほんじょほう)))、経済活動(貨幣経済浸透、在地市場発達、流通活発化)など、古代から中世への社会全体の質的転換を象徴。

1.2 本章の構成:荘園公領制の成立・展開メカニズムの解明

本章では、荘園公領制の形成・展開メカニズムを段階的に解明する。まず、班田収授法・租庸調制崩壊の構造的要因を分析(2項)。次に、国司役割の変化、特に受領が地方社会に与えた影響と荘園公領制形成の前提条件作りを考察(3項)。続いて、荘園がいかに初期墾田地系から寄進地系へ発展・拡大し、複雑な支配構造(職の体系)と特権(不輸・不入)を確立したかを詳述(4項)。さらに、公領(国衙領)がいかに再編成され、名田・負名体制が成立し実質的に「荘園化」したかを明らかにする(5項)。最後に、荘園公領制確立とその歴史的意義を、中世社会基盤形成、武士台頭、国家権力構造への影響から総合的に考察し(6項)、古代から中世への社会経済構造転換プロセスを立体的に理解することを目的とする。

2. 律令的土地・税制の崩壊過程:公地公民原則の形骸化

律令国家体制の経済・社会基盤は公地公民原則に立脚し、その中核制度が班田収授法と租庸調制であった。しかし、これらの制度は理念と現実の乖離を生じさせ、特に8世紀後半~9世紀に急速に機能不全に陥り崩壊。この律令的土地・税制の崩壊が、荘園公領制形成の決定的前提条件となった。

2.1 班田収授法の形骸化と公地公民原則の終焉

班田収授法は、6歳以上の良民男女に口分田を班給・収公するサイクルを原則6年ごとに繰り返し、土地私有抑制と均質小農民経営維持を目指した。しかし、以下の要因で実施困難・形骸化。

  • 人口増加と口分田の絶対的不足: 奈良時代の人口増加で、収公される口分田より新たに班給すべき需要が上回り、班給すべき土地が絶対的に不足。特に畿内周辺で深刻化し、班田実施そのものが物理的に不可能に。
  • 逃亡・浮浪と偽籍の蔓延による人民把握の困難: 重税(特に庸・調、雑徭、兵役)から逃れるため、**逃亡(とうぼう)浮浪(ふろう)が増加。課役軽減・回避のため年齢・性別を偽る偽籍(ぎせき)**も横行。国家による正確な人民把握は困難となり、戸籍・計帳の信頼性は失われ、班田収授と人頭税徴収の前提が崩壊。
  • 墾田永年私財法(743年)と土地私有化の公認・促進: 口分田不足対応と荒廃田再開発目的で、朝廷は段階的に土地私有を容認。723年の**三世一身法(さんぜいっしんのほう)を経て、743年の墾田永年私財法(けんでんえいねんしざいほう)**で、面積制限付きながら新規開墾地の永年私有を公認。律令国家自らが公地公民原則を大きく後退させる画期的政策転換で、有力貴族、大寺社、地方豪族による大規模な土地開発と私有地集積(初期荘園=墾田地系荘園)を公認・促進。初期荘園はまだ国衙管轄下にあり特権は完全ではなかったが、土地私有観念を広め、後の寄進地系荘園発展の素地を作った。
  • 班田実施の負担と忌避、慣行耕作権の形成: 班田実施は地方行政担当者に膨大な事務・経費負担を強いた。農民側も6年ごとの土地替えを嫌い、慣行耕作権を主張し土地替えを忌避する傾向が強まった。国司側も実施に消極的に。
  • 班田の事実上の停止(902年以降): これらの要因が複合し、班田収授は形式化・実施頻度低下。902年(延喜2年)の延喜の荘園整理令に含まれる班田励行命令が、全国的班田実施に関する最後の公式記録とされる。これ以降、律令制根幹の班田収授法は事実上崩壊し、公地公民原則も名実ともに終焉。土地は国家による一元的管理・配分対象ではなく、多様な主体による私的な所有・経営・相続・売買・寄進の対象へと性格を大きく転換させた。

2.2 租庸調制の変質と新たな収取体系(年貢・公事・夫役)への移行

律令国家財政基盤の**租庸調制(そようちょうせい)も、班田収授法と人民把握システム崩壊に伴い深刻な機能不全に陥り、変質。国家は従来の租庸調に代わる新たな収取体系を模索せざるを得なくなり、結果的に中世を通じて基本的な負担形態となる年貢(ねんぐ)・公事(くじ)・夫役(ぶやく)**中心のシステムへ移行。

  • 租庸調徴収の困難化とその要因:
    • 人民把握の困難と人頭税の破綻: 公民の正確な把握が不可能となり、逃亡・浮浪・偽籍蔓延で、人頭税的な**庸(よう)と調(ちょう)**の安定徴収は極めて困難に。比重は急速に低下。
    • 土地私有化(荘園拡大)の影響: 荘園拡大と**不輸(ふゆ)**権獲得は、国家の徴税対象となる土地・人民を著しく減少させ、租庸調の税収基盤を蚕食。
    • 運脚(うんきゃく)負担の重さ: 庸・調の都への運搬義務(運脚)は農民に過重な負担で、税逃れや逃亡の要因に。
    • 貨幣経済の未成熟と物納の限界: 物納中心システムは、必要物品の変化、品質ばらつき、輸送・保管困難、貨幣経済未浸透などから次第に効率性を喪失。
  • 雑徭(ぞうよう)への依存度増加とその変質: 庸・調徴収が不安定になる一方、国司が人民を直接徴発し国衙運営や国司自身の事業に使役する**雑徭(ぞうよう)は、比較的確実に労働力を確保できる手段として重要性を増した。桓武期に原則半減(年30日以内)とされたことからも農民への重負担がわかる。その後も形を変えつつ存続し、土地面積に応じ賦課されるなど性格を変え、中世の夫役(ぶやく)**へ繋がる労役負担の柱であり続けた。
  • 庸・調の質的変化:代納化・金銭化の萌芽:
    • 代替物納(米納): 庸を米で代納する**雇役(こえき)**のように、本来の物品に代わり米で納入されるケースが出現。
    • 金銭化の動き: 平安中期以降、宋銭流入で一部地域や特定の税で銭貨による代納(代銭納(だいせんのう))も現れ始めた(中世の代銭納化の先駆)。
    • 交易との結びつき: 調・庸物が国司や中央政府に交易品として売却・財源化される(交易雑物(きょうやくぞうもつ))動きも活発化。税収が貨幣経済や市場メカニズムと結びつき始めた。
  • 土地課税(官物)中心への移行: 人別課税(庸・調)破綻の中で、収取体系はより把握・徴収容易な**土地そのものに着目した課税(地税)**へ重心を移動。
    • 租(そ)の変質: 律令下の租は口分田対象だったが、公地公民原則崩壊で荘園など私有地にも**地子(じし)**と呼ばれる土地使用料的負担が課されるように。公領でも従来の租に相当する負担は後述「官物」の一部と観念された。
    • 官物(かんもつ)の登場: 平安中期以降、国衙が徴収する主要税は、土地基準の様々な負担を総称して**官物(かんもつ)**と呼ばれるように。主に米で納入され、国衙財政の中心的な税(基本税)となった。
  • 財政再建策から土地課税強化へ: 朝廷・国衙の財政再建策は結果的に土地からの収取強化へ繋がった。
    • 官営田(公営田・官田)の設置とその限界: 桓武朝以降設置された**公営田(くえいでん)・官田(かんでん)**は、国家が直接土地経営し収穫物を財源とする試みで、土地収益重視を示した。特に公営田は国司俸禄(公廨稲(くがいとう))不足補填目的もあった。しかし経営は人民労役(雑徭)に依存し新たな負担を生み、経営効率や私物化リスクもあり限界があった。むしろ後の土地課税強化への道を開いた。
    • 臨時雑役(りんじぞうやく)の恒常化・増税傾向: 財政窮乏補填のため、本来臨時の様々な賦課が**臨時雑役(りんじぞうやく)**として恒常的に、しかも土地面積基準で賦課される傾向が強まった。実質的な増税で人民負担を増大させ、荘園寄進をさらに促す要因に。
  • 新たな収取体系(年貢・公事・夫役)への集約: 平安中期以降、律令制下の複雑な税体系に代わり、荘園・公領双方で負担は主に以下の三つに集約(中世を通じて基本的な負担形態に)。
    • 年貢(ねんぐ)/ 官物(かんもつ): 主に米で納める基本的な地代・土地税。荘園からのものを「年貢」、公領からのものを「官物」と呼ぶことが多いが実質は類似。土地面積(段別)に応じて賦課が基本。
    • 公事(くじ): 絹、布、糸、油、紙、塩、魚介類、野菜、漆、木材、手工業製品など様々な現物(雑公事(ぞうくじ))や特定の労役(人夫役(にんぷやく))で納める、年貢・官物以外の多様な負担の総称。「万雑公事(まんぞうくじ)」と呼ばれるほど複雑。
    • 夫役(ぶやく): 領主・国衙のため土木工事、運搬、警備などの労役に直接従事する負担。律令下の雑徭が変化・継承されたもの。土地面積に応じて賦課が多かった。 この年貢・公事・夫役中心の新収取体系への移行は、律令国家による**人民への直接支配(人別支配)から、土地を媒介とした間接的・重層的支配(土地支配)**への根本的転換を象徴。この新収取体系が荘園公領制の根幹を支えた。

3. 国司制度の変容と地方支配の変質:受領支配の展開

律令的土地・税制崩壊と新収取体系移行の中で、地方支配の最前線に立つ**国司(こくし)の役割・性格も劇的に変化。中央への税収確保責任を負い、任国で強大な権限を振るう受領(ずりょう)**が登場し、彼らの活動が地方政治・社会を一変させ、荘園公領制形成を強力に推進する原動力となった。

3.1 国司の役割変化:中央派遣官から徴税請負人へ

律令制下の国司は中央から派遣され任国の行政・司法・軍事を総合的に担う地方長官だった。しかし平安中期以降、役割は次第に変質し徴税責任者としての性格を強める。

  • 徴税責任の強化と請負人化: 中央政府は財政窮乏下で国司に対し、任国内からの税(官物、臨時雑役など)の最低納入額(定額)確保と中央上納を厳しく義務付け。考課でも徴税・上納実績が最重要基準に(「責め紀」)。結果、実際に任国へ赴任する**受領(ずりょう)**は、理想的な地方統治者というより、中央政府に一定税収を請け負う「徴税請負人」へ変貌。最重要任務は規定額の税確保・上納となり、そのためには強引な手段も辞さず、余剰収益(私富)は慣例として自らのものとすることが半ば黙認された。

3.2 受領(ずりょう)の登場とその強大な権限

平安中期以降、実際に任国へ赴任し、徴税権等国内統治の実権を一手に握った国司を特に**受領(ずりょう)**と呼ぶように。「受領」は本来、前任者から事務・財産を引き継ぎ責任を「受領」した意だが、転じて赴任国司(実権者)を指すようになった。

  • 受領の出自と任命: 主に**介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)**など中下級貴族が任命。受領の地位は経済的成功(蓄財)と中央政界昇進(成功・重任)への重要ステップ。
  • 受領の強大な権限: 任期中、任国内で極めて強大な権限を掌握。
    • 徴税権: 税の種類・税率・徴収方法決定、賦課・徴収の絶大な権限。権力の最大源泉。**検田(けんでん)実施や大田文(おおたぶみ)**作成で徴税基盤把握・強化。
    • 行政権: 国衙を拠点に国内行政事務全般を処理。現地の**在庁官人(ざいちょうかんじん)**を指揮・監督。
    • 警察・司法権(検断権): 国内治安維持、犯罪者追捕、紛争調停・裁判(検断権(けんだんけん))。私的利益のための濫用も。
    • 国衙機構の掌握: 国司館・**正倉(しょうそう)**管理、**国印(こくいん)**管轄。権威と支配の正統性を担保。

3.3 受領の貪欲と私富蓄積:富と腐敗の源泉

多くの受領は強大な権限と私富蓄積への誘惑の中で、過酷な収奪や不正行為に手を染め莫大な富を築いた。

  • 蓄富の手法:
    • 過酷な収奪(加徴(かちょう)
    • **交易利潤(交易雑物(きょうやくぞうもつ))**の横領
    • 官物・正税の不正運用(**私出挙(しすいこ)**流用、有力者への贈答)
    • 公費流用
  • 文学作品に描かれた受領像: 『今昔物語集』(信濃守藤原陳忠(のぶただ))や『枕草子』の記述は、受領の強欲なイメージを反映。
  • 受領の富の還流: 蓄積した富は**成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)**を通じて中央政界に還流し、朝廷・摂関家・有力寺社の財政を支える側面も。受領経験者が京で文化活動を支援することも。受領の活動は地方を疲弊させる一方、中央の経済・文化を支える役割も果たした。

3.4 遙任(ようにん)と目代(もくだい)支配:不在地主と代理人

守に任命された上級貴族は**遙任(ようにん)**が一般化し、現地支配は代理人・**目代(もくだい)**に委ねられた。

  • 遙任の一般化: 上級貴族は地方勤務を忌避し、収入のみを得て実際の統治は行わない遙任が好まれた。
  • 目代の役割と実態: 遙任国司は家人等を目代として派遣。目代は主君の代理として国衙に入り、在庁官人を指揮して実務を行った。主君の意向(多くは私的利益追求)を受け、時に受領以上に厳しい収奪や不正を行うことも。中央統制が及びにくく、地方支配混乱の一因に。

3.5 地方統治の変質と中央統制力の低下

受領・目代支配の展開は、律令的な中央集権体制を地方レベルで大きく変質させ、中央政府の統制力を著しく低下させた。

  • 成功(じょうごう)・重任(ちょうにん)の弊害: 国司任命で能力より財力・コネが重視され、律令制の官僚制理念を覆し、地方支配を利権追求の場へ変質させた。政治腐敗の象徴だが、財政難の朝廷には重要な「財源」でもあった。
  • 中央統制力の限界(勘解由使の形骸化): 桓武設置の**勘解由使(かげゆし)**も次第に機能不全に。受領の帳簿操作や賄賂で監査機能は形骸化。中央政府が地方実情を正確に把握し国司不正を効果的に取り締まることはますます困難に。
  • 国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)の意味: 受領支配への地方からの抵抗を示すと同時に、中央の通常の監督・監査システムが機能不全だったことを逆説的に示す。訴えが認められれば国司罷免もあったが例外的ケース。

3.6 在地社会の担い手:郡司の没落と田堵の成長

律令制下で重要役割を担った**郡司(ぐんじ)**層も地位を大きく変化させ、一方で公領・荘園経営を担う新たな在地有力者層・**田堵(たと)**が成長し中世社会の主役へ。

  • 郡司層の変質と没落・再編: 郡司の行政権限は受領支配下で大幅縮小。多くは受領の徴税下請け的存在となるか、経済的困窮で没落。一部は受領に協力し在庁官人の中核となるか、受領と対抗し開発領主へ転身する場合も。郡司層は没落・変容・再編を遂げた。
  • 田堵(たと)の成長と大名田堵への道: 平安中期以降、公領・荘園で一定規模の土地(名田)経営を請け負う有力農民層・田堵が著しく成長。農業技術向上背景に土地開発・集積を進め経済力蓄積。中には複数の名田を経営し多数の下人・所従・作人を使役する**大名田堵(だいみょうたと)**へ成長する者も。
  • 田堵(負名・名主)の役割と地位: 田堵は公領では負名(ふみょう)、荘園では**名主(みょうしゅ)**として納税責任を負う一方、土地経営権と収穫物の一部を得分とした。経済力・指導力を持ち、新たな在地支配層として台頭(後の武士階級の母体)。
  • 田堵と受領の関係: 納税をめぐり対立することもあったが(国司苛政上訴)、受領支配に協力し自らの地位安定・向上を図る相互依存的側面も。受領にとっても田堵層の協力なしには円滑な支配・収入確保は困難だった。 国司(受領)制度変容は、律令的中央集権体制を地方レベルで崩壊させるとともに、郡司層の没落・再編と田堵(在地領主・武士の母体)という新たな在地社会の担い手の成長を促した。古代から中世への社会構造転換を示す重要動向。

4. 荘園の発生と重層的支配構造の形成:私領の拡大

律令的土地支配体制崩壊の中で、国家の公的支配を受けにくい私的土地所有形態・**荘園(しょうえん)**が、平安中期以降、全国的に急速な発展・拡大を遂げた。荘園発展は土地権利関係を根本的に変え、重層的支配構造(「職」の体系)を生み出し、中世社会の経済・社会的基盤形成に決定的役割を果たした。

4.1 初期荘園(墾田地系荘園)とその限界

荘園の起源は奈良時代。律令国家は限定的ながら土地私有を容認。

  • 自墾地系荘園の成立: 723年三世一身法、743年墾田永年私財法発布で新規開墾地の私有が公認。有力貴族、大寺社、地方豪族は自力で荒地を開墾(自墾)し、私有地(墾田)を形成・集積。これが初期荘園(墾田地系荘園/自墾地系荘園)。
  • 初期荘園の法的性格と限界: 律令国家体制下で認められ、一定の**輸租(ゆそ)**優遇もあったが、基本的には国衙管轄下。面積制限あり、**不入(ふにゅう)**権は認められず国家支配から完全独立ではなかった。経営面でも不安定要因多く、安定経営は保証されず。

4.2 寄進地系荘園の成立と爆発的拡大(10世紀後半~)

平安中期、特に10世紀後半~11世紀に荘園は大きく変化し、**寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)**が主流となり爆発的に増加。受領支配強化と、権門勢家の保護を求める在地有力者の動きが結びついた結果。

  • 寄進地系荘園成立の背景:
    • 受領による収奪強化への対抗: **開発領主(かいはつりょうしゅ)**は自領が受領に不当課税・没収される危険にさらされた。
    • 税負担(官物・臨時雑役)からの回避: 開発領主は自領を国家課税から免れさせ、安定経営基盤確保を望んだ。
    • 土地支配権の安定化・永続化への希求: 開発領主は自領への支配権、特に子孫相続権の法的保障を求めた。
  • 開発領主(かいはつりょうしゅ):寄進の主体: 在地で私領を形成・拡大した有力者層(元田堵、郡司層、下向貴族末裔など)。在地社会の実力者で、しばしば武装(後の武士階層の母体)。
  • 寄進(きしん)のメカニズム:特権獲得と支配権確保の戦略: 開発領主は自領保護・支配権安定のため、土地を名目的に中央の権門勢家(けんもんせいか)(皇族、有力貴族、大寺社)に寄進。
    • 寄進の効果(不輸・不入権の獲得): 寄進を受けた権門勢家(領家(りょうけ))は、政治力・宗教的権威で寄進地(荘園)に**不輸(ふゆ)権(官省符荘、国免荘)を認めさせるよう働きかけ、さらに国衙役人の立ち入りを拒否できる不入(ふにゅう)**権も獲得しようとした。これにより荘園は国家支配から独立した領域へ。
    • 荘官(しょうかん)としての開発領主: 土地寄進の見返りに、開発領主は領家から現地管理者・荘官(しょうかん)(下司、公文、田所、預所など)に任命され、実質的な管理・運営権(荘務権(しょうむけん))を確保。年貢等徴収、治安維持(検断権行使)などを行い、**給田(きゅうでん)・給名(きゅうみょう)**から収入を得て在地支配権を維持・永続させた。
  • 権門勢家(領家(りょうけ)・本家(ほんけ)):重層的領有関係の形成: 領家は荘園の名目領主として不輸・不入権獲得・維持に努め、荘官を任命・監督し、荘園からの収益(領家得分(りょうけとくぶん))を得た。領家はさらに上位の権門勢家(例:皇族、摂関家、中央大寺社)に**重ねて寄進(重層的寄進)する場合があり、この最上位領主を本家(ほんけ)**と呼んだ。本家は最終権益保有者として一定収益(本家得分(ほんけとくぶん))を得るが、通常、直接管理には関与少なかった。 こうして寄進地系荘園の成立・拡大で、日本の土地支配は、荘園領主層(本家-領家)と在地領主層(荘官=開発領主)、耕作民(名主・作人など)が複雑な権利関係(職の体系)で結びつく重層的構造へと大きく変化した。

4.3 荘園の構造:重層的な土地支配と「職(しき)」の体系

寄進地系荘園の最大の特徴は、一つの土地に対し、複数の主体がそれぞれ異なる権利を**重層的(じゅうそうてき)に保有・分有していた点。この複雑な権利・地位・収益の束は「職(しき)」**という日本中世独自の概念で体系化された。

  • 「職(しき)」の概念とその特質: 特定の土地や地位に付随する権利・義務、そして伴う経済的収益(得分(とくぶん))を一体として捉えた概念。単なる役職名ではなく、独立した財産(知行権(ちぎょうけん))のように扱われ、分割・譲渡・売買・相続・寄進・質入の対象となり流通。
  • 荘園における「職」の階層構造(例):
    • 本家職(ほんけしき): 最上位の名義人・本家が持つ。最終権益(本家得分)と名義上の保証。
    • 領家職(りょうけしき): 開発領主から直接寄進を受けた領家が持つ。主要年貢・公事(領家得分)収取権、荘官任命権、上位への訴訟権など。
    • 預所職(あずかりどころしき): 領家から荘務全般を委任された者が持つ。荘官指揮監督、年貢徴収・納入役割と得分。
    • 荘官職(しょうかんしき): 現地管理者・荘官(下司・公文・田所など)が持つ。多くは開発領主らが世襲。現地支配、年貢等徴収・納入、治安維持(検断権)、荘域管理と、見返りの**給田(きゅうでん)・給名(きゅうみょう)**収入(荘官得分)。在地領主(武士)の経済・軍事基盤。
    • 名主職(みょうしゅしき): 名田経営責任者・名主(元有力田堵)が持つ。年貢等納入責任と、名田経営権、一定収益(加徴分など)、一定支配権・耕作権。世襲・売買対象。
    • 作人職(さくにんしき): 実際に耕作する**作人(さくにん、百姓)**が持つ耕作権。不安定な場合多く、永代耕作権(永作権)の場合も。小作料(加地子)支払い義務。
  • 「職の体系」の意義と影響: 一つの荘園(土地)に複数の「職」が重層的に存在し、独立した財産権として認識・流通するシステムを**「職の体系」**と呼ぶ。
    • 権利関係の複雑化と紛争: 「職」の分割・譲渡・相続で権利関係が極めて複雑化し、紛争(所領相論(しょりょうそうろん))を頻発。訴訟制度発達や武力解決(武士役割増大)を促進。
    • 社会の安定と流動性: 一方で、各階層の権利を明確化し相互依存関係を規定することで社会秩序維持機能も。また「職」の流通可能性は社会に一定の流動性をもたらした。
    • 中世的支配構造の基盤: 日本中世の封建的社会構造(特に武士の所領支配)の根幹。

4.4 荘園の特権:不輸(ふゆ)・不入(ふにゅう)権の獲得

荘園が国家支配から自立性を強め、権門勢家や在地領主にとって魅力的となった最大の理由は、**不輸(ふゆ)と不入(ふにゅう)**という二つの重要特権を獲得できたこと。荘園領主が政治的・宗教的権威や影響力を行使して朝廷・国衙に認めさせた。

  • 不輸(ふゆ)の権(租税免除権):
    • 内容: 荘園から国家(国衙)へ納めるべき租税(主に官物、臨時雑役)が免除される権利。全て免除される一円不輸荘と、部分的不輸も多かった。
    • 獲得方法:
      • 官省符荘(かんしょうふしょう): **太政官符(だいじょうかんぷ)や民部省符(みんぶしょうふ)**で正式に承認された荘園。最も強力な不輸権。政治力の強い権門勢家が獲得。
      • 国免荘(こくめんのしょう): 国司(受領)が在任期間中に限り認めた荘園。法的根拠は弱いが慣例として継続も。
  • 不入(ふにゅう)の権(国衙使節の立ち入り拒否権):
    • 内容: 国衙役人(検田使、収納使、**追捕使(ついぶし)、検非違使(けびいし)**配下など)が公務執行で荘園領域内に立ち入ることを拒否できる権利。
    • 意義: 不輸権の実質的確保に重要。不入権確立で荘園は国衙の行政権・警察権・司法権が及びにくい独立領域となり、荘園領主(領家・荘官)による**独自の支配(検断権(けんだんけん)**行使含む)が行われるように。**荘園領主の領主権(りょうしゅけん)**確立の根拠。
    • 獲得方法: 明確な法的文書承認は少なく、むしろ権門勢家の権威や在地領主(荘官)の**実力(武力)**で国衙役人立ち入りを事実上阻止し、慣例として認められていく場合が多かった。**牓示(ぼうじ)**で境界を明示することも。
  • 立荘(りっしょう): 不輸・不入特権を獲得し、国家の公的支配から独立した領域として確立された荘園を**「立荘(りっしょう)」**された荘園と呼ぶ。立荘荘園は中世社会の基本的な社会経済単位として後の歴史に大きな影響を与えた。

5. 公領(国衙領)の再編と名田体制:公領の「荘園化」

荘園拡大の一方、荘園とならず国家(国衙)支配下にとどまった公領(こうりょう)または国衙領(こくがりょう)も、律令制下とは大きく異なる姿へ変容。荘園拡大による税収減に直面した国司(受領)は、残された公領からの収入確保のため、支配・収取体制を再編成。結果、公領も荘園に類似した支配構造、すなわち名田(みょうでん)体制・負名(ふみょう)体制が確立。

5.1 国司(受領)による公領支配の維持・強化策

荘園拡大は国衙が直接支配・徴税できる公領の減少を意味し、中央へ定額税上納責任を負う国司(受領)にとって深刻な問題だった。そのため、受領は荘園拡大に対抗し、残された公領からの収入確保・維持のため、以下の公領支配再編成・強化策を進めた。

  • 検田(けんでん)の実施と実態把握: **検田使(けんでんし)**派遣による田地調査(検注)で、実態把握と課税台帳整備。隠田摘発と課税対象拡大目的も。
  • 大田文(おおたぶみ)の作成: 検田結果等に基づき、国内田地の詳細台帳**大田文(おおたぶみ)**を作成・管理。郡・郷・保ごとに田地面積、種類、名田名称、経営責任者(負名・名主等)、賦課税額を記載し徴税事務の基礎に。
  • 徴税単位の再編(名田体制へ): より効率的徴税のため、公領内田地を**「名(みょう)」**と呼ばれる経営・納税単位に分割・再編成。

5.2 名田(みょうでん)体制の成立:徴税単位としての再編成

平安中期以降、国司(受領)は管轄公領を効率的管理・収取のため、**「名(みょう)」と呼ばれる田地経営・徴税単位に分割・再編成。この「名」単位の田地を名田(みょうでん)**と呼ぶ。

  • 名田(みょうでん)の定義と性格:
    • 徴税単位: 一定額の年貢(官物)・公事・夫役が賦課・徴収される基礎単位。
    • 経営単位: 特定の経営責任者(負名)によって一体的に経営される農業経営単位。
    • 規模: 様々(数町~十数町)。一定面積や収穫量(斗代)基準で設定か。
    • 名称(人名「名」): 経営責任者・**負名(ふみょう)**の名前が付されることが多く(例:「太郎名」)。人別支配から土地単位・経営責任者介した間接支配への移行示す。
  • 名田体制の確立: 公領が名田へ再編成され、名田単位で徴税・支配が行われる体制を名田体制と呼ぶ。荘園拡大に対抗し、国衙が公領からの収入を安定確保するための現実的対応策として普及。

5.3 負名(ふみょう)体制:田堵による経営請負と納税責任

名田体制下で、個々の名田経営と年貢(官物)・公事・夫役納入責任は、在地有力農民・**田堵(たと)**が担うことが多かった。

  • 負名(ふみょう)の定義と役割:
    • 定義: 特定名田の経営と納税を国司(受領)との間で請け負った田堵。「名の責任を負う者」の意。
    • 役割と地位: 国司に納税責任を負う一方、名田経営権と収穫物からの余剰分(加徴米など)を得分とする権利を有。経済力を背景に在地有力者としての地位確立。
  • 負名体制の確立: 負名が名田経営と納税を請け負う形で公領支配が行われる体制。国司は負名を通じて公領収入確保を図った。
  • 負名の世襲化と名主(みょうしゅ)への成長: 負名の地位は多くの場合世襲・固定化。単なる一時的経営請負人ではなく、特定土地と結びついた在地領主としての性格を強め、後の**名主(みょうしゅ)へ。負名(名主)の権利(経営権、収取権)も「負名職(ふみょうしき)」「名主職(みょうしゅしき)」**として「職」化され、世襲・譲渡・売買対象に。
  • 受領と負名の関係: 必ずしも一方的支配・従属関係ではなく、納税をめぐる対立(国司苛政上訴など)と、受領支配への協力による地位安定・向上を図る相互依存的側面も。受領も負名層の協力なしには円滑な支配・収入確保は困難。

5.4 公領の「荘園化」:荘園公領制への道

名田体制・負名体制確立により、公領(国衙領)も支配・収取構造において私領・荘園と著しく類似した性格を持つように。これを**公領の「荘園化」**と呼ぶことがある。

  • 構造的類似性:
    • 土地単位の収取体系: 公領も荘園同様、土地(名田)単位で年貢(官物)・公事・夫役徴収。
    • 在地領主層による経営: 在地有力者・**負名(名主)**が荘園の荘官のように土地経営・徴税の実権掌握。
    • 権利の「職」化: 負名(名主)の権利(負名職・名主職)も荘官職同様**「職」**として観念化され、世襲・譲渡・売買対象に。 公領は現地レベルでの支配・収取構造で実質的に荘園に近い様相を呈した。
  • 荘園との相違点: ただし公領は原則として不輸・不入権を持たず、依然として国家(国衙・国司)の公的管轄下にあった点で法的地位は異なった。
  • 荘園公領制概念の根拠: しかし現地支配・収取構造の類似性から、荘園と公領(国衙領)を全く別個でなく、相互に関連し合い中世の土地支配体制全体を構成したと理解する荘園公領制という概念が歴史学で広く用いられるように。

6. 荘園公領制の確立とその歴史的意義:中世社会の基盤

平安後期、特に院政期までには、私領・荘園と実質的に荘園化した公領・国衙領が、それぞれ重層的支配構造(職の体系)を持ちながら全国の土地をモザイク状に二分して併存する荘園公領制が、中世社会の基本的な土地支配体制として確立。この確立は古代律令国家から中世封建社会への移行を決定づけ、後の日本の歴史展開に極めて大きな影響を与えた。

6.1 中世的土地支配体制への移行完了

荘園公領制確立は、律令国家の公地公民原則に基づく一元的土地・人民支配が完全に解体し、新たな支配秩序が形成されたことを明確に示す。

  • 中世的土地支配の特徴:
    • 私的権利の重層性: 土地に対する**私的権利(所有権、支配権、収取権、利用権、耕作権など)**が単一主体に帰属せず、複数の主体によって重層的に認められ、分割・保有。
    • 「職(しき)」の体系: 多様な権利が**「職(しき)」**として観念化され、独立した財産(知行権(ちぎょうけん))として認識され流通。
    • 権益の分有: 土地からの収益(年貢・公事など)は、権門勢家から在地領主層、**耕作民(作人など)**まで、それぞれの「職」に基づき複雑に分け合う(権益分有)構造。
  • 日本独自の封建制: 「職」の体系を基盤とする重層的土地支配体制は、西ヨーロッパ封建制とは異なる日本独自の展開を示した中世的土地支配体制。

6.2 武士の成長基盤としての荘園公領制

荘園公領制は、**武士(ぶし、さむらい)**階層が在地支配者階級へ成長・発展するための経済的・社会的基盤を提供する上で決定的役割を果たした。

  • 在地領主としての武士: 荘園の荘官(特に開発領主出身者)や公領の負名・名主(有力田堵)など、在地で土地支配の実権・経済力を握り、しばしば武装していた層から多くの武士団が生まれた。
  • 所領支配と武力(「兵の道」): 武士は自らが管理する所領(しょりょう)(名字の地(みょうじのち))への支配権(「職」)を守り拡大するために武装(「兵(つわもの)の道」)。在地治安維持(検断権行使)も重要な役割に。
  • 主従関係の形成(御恩と奉公): 在地武士は所領支配権保障(御恩(ごおん))や紛争解決のため、より強力な武士(武家の棟梁)と主従関係を結び、主君に軍役等の義務(奉公(ほうこう))を果たす見返りに所領保障や新所領給与を得る、土地(職)を媒介とした**「御恩と奉公」**の関係が武士団の結合原理に。
  • 紛争と武力の必要性: 荘園公領制下の複雑な権利関係や土地・用水権めぐる紛争(所領相論)頻発が、訴訟とともに実力(武力)解決の必要性を高め、武士の専門性・社会的役割を増大させる要因に。

6.3 国家財政・権力構造への影響

荘園公領制確立は、国家全体の財政構造や権力バランスにも大きな変化をもたらした。

  • 朝廷(天皇・公家)財政基盤の変化: 国家が直接支配・徴税できる公領減少と荘園不輸権拡大で、朝廷全体の財政基盤は相対的に縮小・脆弱化。一方、天皇・上皇(院)・皇后(女院)、摂関家ら有力公家は自らが本家・領家として**巨大な荘園群(例:院政期の「八条院領」「長講堂領」)**を形成・集積し、そこからの膨大な収入で強大な経済力を維持・拡大。これが院政期の上皇の強大な政治権力の経済的背景の一つ。
  • 寺社勢力の経済力と影響力増大: 有力寺社も全国に広大な寺社領荘園を集積し、宗教的権威に加え強大な経済力を持つように。さらに**僧兵(そうへい)**や神人といった武装集団を抱え、**強訴(ごうそ)**を行うなど中世を通じて政治・社会に大きな影響力を行使。
  • 権力構造の多元化と在地勢力の台頭: 荘園公領制下では、土地支配権・収益権が中央権門勢家だけでなく地方の**在地領主層(武士、荘官、負名・名主など)にも分散。律令制の中央集権的権力構造は解体し、多元的権力構造が形成。在地で実質的土地支配と武力を担う武士層は、承平・天慶の乱や前九年・後三年の役で実力を示し、独自の勢力を形成。12世紀半ばの保元(ほうげん)の乱(1156年)・平治(へいじ)の乱(1159年)で決定的役割を演じ、ついには貴族に代わり国家権力の中心的担い手となり鎌倉幕府(1185年or1192年成立)**を樹立。荘園公領制は武家社会誕生の土壌だった。

6.4 総括:古代から中世への移行期における荘園公領制の重要性

荘園公領制は、律令国家体制解体過程で生まれた、土地に対する重層的権利関係(「職」の体系)を特徴とする複雑な土地支配体制だった。単なる土地制度変容に留まらず、古代的一元的国家支配から、多元的権力主体が土地を媒介に結びつく中世的社会・経済・政治構造への転換を象徴。貴族社会の経済基盤を支え国風文化爛熟を可能にした一方、武士階級成長を促し武家政権成立へ道を開いた。その複雑な構造と展開は中世を通じて日本の社会・文化に深く刻印され、近世の太閤検地による「職」体系解体まで、日本の歴史展開に決定的影響を与え続けた。荘園公領制理解は、古代から中世、そして近世へ至る日本史の大きな流れ把握の最も重要な鍵の一つである。

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