【基礎 日本史(通史)】Module 17:日清・日露戦争と帝国主義

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは明治政府が内政の改革に邁進し大日本帝国憲法の制定と帝国議会の開設によって近代的な立憲国家の骨格を築き上げた様を見ました。そしてその過程で国民的な悲願であった不平等条約の改正にも成功への道筋をつけました。国内の近代化に成功し欧米列強に比肩する国力を持ち始めた日本。その次なる関心は国家の安全保障と経済的利益を求めて国外へと向かいます。本モジュールでは明治日本が朝鮮半島をめぐって清(中国)そしてロシアという二つの巨大な大陸国家といかにして戦争へと至ったのかそしてその勝利がいかにして日本を欧米列強と並ぶ「帝国主義」国家へと変貌させたのかその過程を探ります。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず日本の対外膨張の第一歩となった琉球処分と台湾出兵を見ます。次に朝鮮の開国をめぐる江華島事件と日朝修好条規の締結を分析します。そして日清戦争の直接的な引き金となった朝鮮国内の甲午農民戦争の実態に迫ります。日本が圧倒的な勝利を収めた日清戦争の経過と下関条約の内容そしてその勝利がもたらした三国干渉の屈辱を探ります。その後日本が欧米列強の一員として参加した義和団事件と外交的な勝利であった日英同盟の締結を分析します。そして日本の国家の命運を賭けた日露戦争の勃発とポーツマス条約による講和そしてその内容に不満を抱いた民衆による日比谷焼打事件を見ます。最後に日本の大陸進出が韓国併合という植民地支配にいたる過程を考察します。

  1. 琉球処分と台湾出兵: 日本が近代的な国境を確定させるための最初の対外行動とその意味を探る。
  2. 江華島事件と日朝修好条規: 日本が西洋列強を模倣し朝鮮に対して「砲艦外交」を展開した様を分析する。
  3. 甲午農民戦争: 日清戦争の引き金となった朝鮮の国内民乱がなぜ国際戦争へと発展したのかそのメカニズムを解明する。
  4. 日清戦争の勃発と日本の勝利: 近代化を成し遂げた日本が伝統的な大国・清をいかにして打ち破ったのかその勝因を探る。
  5. 下関条約と三国干渉: 戦争の勝利がもたらした栄光とロシアなど列強の介入による屈辱という体験がその後の日本に何をもたらしたかを見る。
  6. 義和団事件: 日本が欧米列強と肩を並べて中国に出兵した事件が日本の国際的地位をいかに変化させたかを考察する。
  7. 日英同盟の締結: 日本が「世界の工場」イギリスと軍事同盟を結ぶという画期的な外交的勝利の背景を探る。
  8. 日露戦争の勃発: 満州と朝鮮の権益をめぐり巨大なロシア帝国との戦争に日本がなぜ踏み切ったのかその決断の背景を分析する。
  9. ポーツマス条約と日比谷焼打事件: 日露戦争の講和条約の内容とそれに不満を抱いた国民の暴動が意味するものを探る。
  10. 韓国併合と植民地支配: 日露戦争の勝利が最終的に日本の韓国に対する植民地支配をいかにして確立させたかその過程を追う。

このモジュールを学び終える時皆さんは明治日本が国家の独立を守るための富国強兵から領土と権益を拡大する帝国主義へとその姿を変貌させていく光と影に満ちた歴史を深く理解することになるでしょう。


目次

1. 琉球処分と台湾出兵

明治新政府が取り組んだ近代国家建設の重要な課題の一つが曖昧であった国境を確定させることでした。特に南西諸島の琉球王国(現在の沖縄県)は江戸時代を通じて薩摩藩(島津氏)に服属しながら同時に中国の清王朝にも朝貢を行うという両属の状態にありました。新政府はこの曖昧な状態を解消し琉球を完全に日本の版図に組み込むことを目指します。その過程で起こったのが日本初の近代的な海外派兵である台湾出兵でした。

1.1. 琉球王国の両属

琉球王国は15世紀に成立した独立国でした。しかし1609年に薩摩藩の侵攻を受けて以来薩摩の支配下に置かれながらも独立国としての体裁を保ち清王朝との朝貢関係(冊封関係)も継続していました。

この日中両国への両属という体制は琉球王国にとっては両国間の貿易の利益を得るための巧みな生き残り戦略でした。

1.2. 琉球藩の設置

1871年の廃藩置県の後明治政府はこの琉球の帰属問題を明確にするため行動を開始します。1872年政府は琉球国王・尚泰(しょうたい)を「琉球藩王」とし華族に列しました。そして琉球王国を日本の「琉球藩」と位置づけました。

これは琉球が日本の国内の一部であることを一方的に宣言するものでした。

1.3. 台湾出兵(1874年)

琉球の帰属問題が日中間の外交問題へと発展するきっかけとなったのが1871年に起こった宮古島島民遭難事件でした。

  • 事件の発生:琉球の宮古島の船が台湾に漂着し乗組員66人のうち54人が台湾の先住民によって殺害されるという事件が発生しました。
  • 日本の抗議と清の返答:日本政府は宗主国である清に対して厳重に抗議し賠償を求めました。しかし清の政府は「台湾の先住民は清の直接統治の及ばない『化外の民(けがいのたみ)』である」として責任を回避しました。
  • 出兵の決行:この清の返答を逆手に取ったのが政府の中心人物であった大久保利通らでした。彼は「清が統治権を放棄するのであれば日本が実力で現地の秩序を回復する」という論理で台湾への出兵を決定します。この出兵には明治六年の政変で下野した西郷隆盛らに同調する不平士族たちの不満を国外に向けるという内政的な狙いもありました。

1874年西郷従道(さいごうつぐみち、隆盛の弟)を司令官とする約3600の兵が台湾に派遣されました。日本軍は先住民の村々を攻撃しこれを制圧しました。

1.4. 琉球処分(1879年)

この日本の軍事行動に驚いた清はイギリスの仲介のもとで日本との交渉に応じます。交渉の結果清は日本の出兵を正当な行動と認め遭難者への見舞金を支払いました。

この清の態度は琉球の民が日本の国民(臣民)であることを国際的に承認したことを意味しました。

この外交的勝利を背景に政府は琉球の日本への完全な編入を断行します。

1879年政府は軍隊と警官を琉球に派遣。琉球藩の廃止と沖縄県の設置を宣言し琉球国王・尚泰を東京に移住させました。これを「琉球処分」と呼びます。

この一連の出来事によって日本の南の国境は画定しました。しかしそれは琉球の人々の意思を無視した一方的な併合でありその後の沖縄の歴史に複雑な影を落とすことになります。また台湾出兵は日本が富国強兵の成果を背景に初めて東アジアの国際秩序に武力で挑戦した事件であり日本の帝国主義的な対外膨張の第一歩でもありました。


2. 江華島事件と日朝修好条規

琉球を併合し南方の国境を画定させた明治政府。その次なる関心は国家安全保障の最重要課題である朝鮮半島へと向けられました。「朝鮮半島がもしロシアのような敵対的な大国の手に落ちればそれは日本の心臓に突きつけられた刃となる」。この強い危機感が明治の指導者たちを動かしていました。彼らは朝鮮を清の冊封体制から切り離し日本の影響下に置くことを目指します。そしてその目的を達成するために用いたのがかつてペリーが日本に対して用いたのと同じ手法「砲艦外交」でした。1875年の江華島事件とそれによって結ばれた日朝修好条規は日本が西洋列強の帝国主義を模倣しアジアの隣国に対して不平等条約を強要する側に回ったことを示す画期的な出来事でした。

2.1. 朝鮮の鎖国政策と日本の開国要求

当時の朝鮮(李氏朝鮮)は日本の江戸時代と同様に厳しい鎖国政策(衛正斥邪、えいせいせきじゃ)をとっていました。明治新政府は発足以来朝鮮に対して何度も国交樹立を求めましたが朝鮮側は日本の国書が旧来の形式と異なることなどを理由にこれを拒否し続けていました。

政府部内では武力を用いてでも朝鮮を開国させるべきだという征韓論が燻り続けていました。

2.2. 江華島事件(1875年)

1875年9月日本の軍艦「雲揚(うんよう)」が朝鮮の首都・漢城(ソウル)に近い港である江華島(こうかとう)沖で測量と称して挑発的な示威行動を行いました。

これに対し朝鮮側の砲台が警告の砲撃を加えると雲揚はこれを口実に圧倒的な火力で反撃。砲台を破壊し島に上陸して略奪行為を行いました。これが「江華島事件」です。

この事件は偶発的な衝突ではありませんでした。それはペリーが浦賀で行ったのと同じように相手を威嚇し交渉のテーブルにつかせるための日本側による意図的な挑発行為でした。

2.3. 日朝修好条規(1876年)

日本政府はこの事件を口実に朝鮮に対して条約の締結を強く迫りました。黒田清隆(くろだきよたか)を全権大使とする交渉団が軍艦を伴って派遣され武力的な圧力を背景に交渉が進められました。

抵抗する力のなかった朝鮮政府はやむなくこれを受け入れ1876年2月日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)が締結されました。この条約は江華島条約とも呼ばれます。

2.4. 不平等条約としての性格

この日朝修好条規は日本が朝鮮と結んだ最初の近代的な条約でした。しかしその内容は幕末に日本が欧米列強と結んだ条約と同様の不平等条約でした。

  • 第一条「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権を保有せり」:一見すると朝鮮の独立を尊重する条文に見えます。しかしその真の狙いは朝鮮が清の冊封国であるという伝統的な関係を否定し朝鮮を清の影響下から切り離すことにありました。
  • 釜山(プサン)など三港の開港:朝鮮は釜山の他に二つの港を開港し日本の貿易を受け入れることを約束させられました。
  • 日本の領事裁判権(治外法権)の承認:朝鮮で罪を犯した日本人は朝鮮の法律ではなく日本の領事が裁くという領事裁判権を認めさせられました。
  • 関税自主権の否定:日本からの輸入品に対して朝鮮が関税をかける権利(関税自主権)が認められていませんでした。

2.5. その後の展開

この条約を皮切りに朝鮮は欧米列強とも次々と不平等条約を結ばされその門戸を世界に開くことになります。

日本は日朝修好条規によって朝鮮における政治的・経済的な影響力を飛躍的に高めました。しかしそれは朝鮮の民衆の反発を招きまた朝鮮の宗主国を自認する清との対立を深刻化させる原因ともなりました。

かつてペリーの黒船に脅され不平等条約の屈辱を味わった日本が今度は自らが黒船となって隣国に不平等条約を強要する側に回った。この事実は日本の近代化が単なる西洋化ではなく西洋の帝国主義の論理そのものを内面化していく過程であったことを示しています。そして朝鮮半島をめぐる日本と清の対立は次の日清戦争へと不可避的に繋がっていくのです。


3. 甲午農民戦争

日朝修好条規の締結以降朝鮮半島における日本の経済的進出は著しいものがありました。日本の商人は朝鮮の米や大豆を安く買い付けイギリス製の安い綿製品を売りつけることで莫大な利益を上げました。しかしその一方で朝鮮の農村は疲弊し民衆の生活は困窮を極めます。この経済的な混乱と政治の腐敗に対する民衆の不満が1894年「甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)」(東学党の乱)として爆発しました。この朝鮮国内の内乱はそれを鎮圧するという名目で日清両国が軍隊を派遣する国際紛争へと発展。日清戦争の直接的な引き金となったのです。

3.1. 朝鮮国内の状況

19世紀末の朝鮮(李氏朝鮮)は深刻な問題を抱えていました。

  • 政治の腐敗:王妃である閔妃(びんひ)とその一族(閔氏一族)が政治を壟断し役人の売官汚職が横行していました。
  • 日本の経済的侵略:日本の商人が米を大量に買い付けたため朝鮮国内で米不足と米価の高騰が起こり民衆の生活を直撃しました。また安い日本の工業製品の流入は朝鮮の伝統的な手工業を破壊しました。
  • 民衆の不満:農民たちは政治の腐敗と経済的な困窮そして外国勢力の進出に対して強い不満と危機感を抱いていました。

3.2. 東学の拡大と農民蜂起

このような社会不安の中で農民たちの間に急速に広まったのが「東学(とうがく)」という新しい宗教でした。東学は崔済愚(チェ・ジェウ)が開いた宗教で儒教・仏教・道教に民間の信仰を融合させたものでした。西洋のキリスト教(西学)に対して「東の学」を意味します。

東学は「斥洋倭(せきようわ)」(西洋と日本を排斥する)という排外的な思想と社会の変革を求める思想を掲げ困窮する農民たちの心を捉えました。

1894年全羅道(ぜんらどう)の役人の不正に端を発し東学の幹部であった全琫準(ぜんほうじゅん)を指導者とする大規模な農民の反乱が勃発します。これが甲午農民戦争です。反乱軍は「輔国安民(ほこくあんみん、国を助け民を安んずる)」をスローガンに掲げ各地で政府軍を破り一時は全羅道一帯を占領するほどの勢いでした。

3.3. 日清両国の出兵

自力で反乱を鎮圧できないと判断した朝鮮政府は宗主国である清国に対して援軍の派遣を要請しました。

清国はこれに応じ1885年に日清間で結ばれていた天津条約(朝鮮に派兵する際は互いに事前通告するという条約)に基づき日本に通告した上で約2800の兵を朝鮮に派遣しました。

しかし日本はこの機会を待っていました。日本は「朝鮮国内の日本人居留民を保護する」という名目で清国を遥かに上回る約8000の兵力をただちに朝鮮に派遣したのです。

日本の迅速な派兵に驚いた朝鮮政府と農民軍は急いで和議を結び反乱は一旦終結します。そして朝鮮政府は日清両国軍の撤退を要求しました。

3.4. 日本の強硬策と開戦へ

清国は撤兵に同意しました。しかし日本はこれを拒否します。日本の目的はもはや農民反乱の鎮圧ではなくこの機会を利用して朝鮮における清国の影響力を完全に排除し朝鮮を日本の支配下に置くことにあったからです。

  • 朝鮮王宮の占拠:日本軍は1894年7月クーデターを起こして漢城の王宮を占拠。そして親日的な人物である大院君(だいいんくん)を担ぎ出して親日政権を樹立しました。
  • 豊島沖海戦:さらに日本海軍は朝鮮の牙山湾沖で清国の艦隊を奇襲しこれを撃破します(豊島沖海戦)。

これらの日本の軍事行動によって日清両国はついに戦争状態に突入。1894年8月1日両国は互いに宣戦布告し日清戦争が正式に始まったのです。

甲午農民戦争は朝鮮の民衆が自国の矛盾を自らの力で改革しようとした内発的な運動でした。しかしその内乱が結果として日清両国の介入を招き朝鮮半島を戦場とする国際戦争の引き金になってしまったのです。そしてこの戦争の最大の受益者は日本であり最大の犠牲者は朝鮮の民衆でした。


4. 日清戦争の勃発と日本の勝利

朝鮮半島における権益をめぐる日本と清国の対立はついに1894年(明治27年)8月日清戦争として火を噴きました。眠れる獅子と恐れられた大国・清に対し近代化を成し遂げたばかりの新興国・日本が挑むこの戦いは多くの欧米列強が清の圧勝を予測するものでした。しかし蓋を開けてみれば戦いは日本の圧倒的な一方的勝利に終わります。この勝利は日本の国際的地位を飛躍的に向上させましたが同時に東アジアの国際秩序を根底から覆すものでもありました。本章では日清戦争の経過とその勝因を探ります。

4.1. 戦争の経過

日清戦争の主な戦場は朝鮮半島と中国東北部の遼東半島そして黄海でした。

  • 平壌(ピョンヤン)の戦い:1894年9月朝鮮半島にいた日本陸軍の第一軍は平壌に陣取る清国軍を攻撃。激戦の末これを陥落させ朝鮮半島から清国軍を駆逐しました。
  • 黄海海戦(こうかいかいせん):平壌の戦いとほぼ同時に黄海で日本の連合艦隊と清国の北洋艦隊との間で近代的な艦隊同士の本格的な海戦が行われました。清国艦隊はドイツ製の最新鋭の巨大戦艦「定遠」「鎮遠」を擁していました。しかし日本の連合艦隊は司令長官・**伊東祐亨(いとうすけゆき)**の巧みな指揮のもと速射砲を駆使した戦術で次々と清国艦隊を撃破。黄海の制海権を完全に掌握しました。
  • 遼東(りょうとう)半島への侵攻:制海権を確保した日本軍は中国本土へと侵攻。山県有朋が率いる第一軍は鴨緑江を渡り遼東半島に侵入。大山巌(おおやまいわ오)が率いる第二軍は遼東半島に上陸しわずか一日で清国の重要軍港である**旅順(りょじゅん)**を陥落させました。この際日本軍による多数の捕虜や市民の虐殺事件が起こったとされています(旅順虐殺事件)。
  • 威海衛(いかいえい)の攻略:1895年1月日本軍は山東半島にある清国北洋艦隊の最後の拠点威海衛を海と陸から攻撃。北洋艦隊は降伏しその提督は自決しました。

こうして清国は陸海軍ともに主力を失い戦争を継続する能力を完全に喪失しました。

4.2. 日本の勝因

なぜ新興国である日本が眠れる獅子・清国をこれほど圧倒的に打ち破ることができたのでしょうか。その勝因は単に兵器の優劣だけでなく国家の近代化の度合いの差にありました。

  1. 軍隊の近代化の差:
    • 日本軍: 徴兵令によって創設された国民軍であり兵士たちは国家への忠誠心と高い士気を持っていました。ドイツやイギリスをモデルとした近代的な訓練と組織的な指揮系統が確立されていました。
    • 清国軍: 軍隊は近代化の途上にありその実態は各地方の軍閥の寄せ集めに近いものでした。兵士の士気は低く指揮系統も統一されていませんでした。
  2. 指導者と政府の能力の差:
    • 日本: 明治維新を経て強力な中央集権政府が確立されていました。政府・軍部・国民が一体となって戦争を遂行する国家総力戦の体制を築くことができました。
    • 清国: 清王朝は末期的な腐敗状態にあり政府内では和平派と主戦派が対立するなど意思統一がなされていませんでした。
  3. 工業力の差:日本は殖産興業政策によって近代的な工業基盤を築きつつあり国内である程度の武器弾薬を生産できました。

4.3. 国民の反応とナショナリズムの高揚

日清戦争は日本国民に大きな影響を与えました。

  • ナショナリズムの高揚:連戦連勝のニュースは新聞などを通じて国民に伝えられ日本中に熱狂的な興奮が巻き起こりました。大国・清を破ったという事実は国民に大きな自信と誇りをもたらし国家としての一体感(ナショナリズム)を飛躍的に高めました。
  • 対アジア観の変化:この勝利は一方で日本人の中に中国や朝鮮といったアジアの隣国に対する優越感と蔑視の感情を植え付けることにもなりました。福沢諭吉の「脱亜論」に象徴されるように「アジアの劣った隣人たちと袂を分かち日本は欧米列強の一員となるべきだ」という思想が広まっていきました。

日清戦争の勝利は日本が近代化の努力の末に手にした輝かしい成果でした。しかしそれは同時に日本が西洋の帝国主義を模倣しアジアの隣国に対して軍事力でその意思を押し付ける道へと踏み出す危険な一歩でもあったのです。


5. 下関条約と三国干渉

日清戦争における日本の圧倒的な勝利は東アジアの国際秩序を根底から覆しました。敗北した清国は日本との講和を余儀なくされ1895年(明治28年)4月日本の下関で講和条約が結ばれます。この下関条約によって日本は莫大な賠償金と広大な領土を獲得し一躍世界の強国の仲間入りを果たしました。しかしその栄光は長くは続きませんでした。日本の急激な台頭を警戒するロシアドイツフランスの三国が条約の内容に横槍を入れ武力を背景に領土の返還を迫ってきたのです。この「三国干渉」は日本の国民に深い屈辱感とロシアへの復讐心を植え付け次の日露戦争へと向かう大きな伏線となりました。

5.1. 下関条約の締結(1895年)

1895年3月清国の全権大使である李鴻章(りこうしょう)と日本の全権である伊藤博文首相陸奥宗光外相との間で講和交渉が下関の料亭・春帆楼(しゅんぱんろう)で始まりました。

交渉の最中に日本の壮士が李鴻章を襲撃し負傷させるという事件が発生し国際的な非難を浴びるなど交渉は難航しました。しかし最終的に清国は日本の要求をほぼ全面的に受け入れる形で下関条約が調印されました。

5.2. 条約の主な内容

下関条約の主な内容は以下の通りでした。

  1. 朝鮮の独立の承認:清国は朝鮮が「完全無欠なる独立自主の国」であることを承認しました。これにより朝鮮における清国の宗主権は完全に否定され日本の朝鮮半島に対する影響力が決定的なものとなりました。
  2. 領土の割譲:清国は遼東(りょうとう)半島、台湾、そして澎湖(ほうこ)諸島を日本に永久に割譲(譲り渡す)ことを認めました。これにより日本は史上初めての海外領土(植民地)を獲得しました。
  3. 賠償金の支払い:清国は賠償金として**2億両(テール、当時の日本の国家予算の約3倍にあたる約3億円)**を日本に支払うことを約束しました。この莫大な賠償金は日本のその後の産業革命や軍備拡張のための重要な財源となりました。八幡製鉄所の建設費用などもこの賠償金で賄われました。
  4. 新たな港の開港:沙市、重慶、蘇州、杭州の4つの港を新たに開港し日本の汽船の乗り入れや工場建設の権利を認めさせました。

この条約は日本にとってまさに大勝利と呼ぶにふさわしい内容でした。

5.3. 三国干渉:栄光から屈辱へ

しかしこの日本の勝利を快く思わない国々がありました。特にシベリア鉄道の建設を進め中国東北部(満州)への南下政策を推し進めていたロシアにとって日本が満州への入り口である遼東半島を手に入れることは自国の野心の重大な障害でした。

ロシアは自らの野望を隠し「極東の平和のため」という名目でドイツとフランスを誘います。そして下関条約調印からわずか6日後の1895年4月23日ロシア・ドイツ・フランスの三国は東京の日本政府に対し「遼東半島を清国に返還するべきである」という勧告を突きつけてきました。

これは単なる勧告ではありません。その背後には三国の強大な軍事力が存在しました。

5.4. 日本の決断と「臥薪嘗胆」

この三国からの強大な圧力に対し日本政府は激しく動揺します。しかし当時の日本にはこの三国連合と同時に戦うだけの力は到底ありませんでした。

政府部内では激しい議論が交わされましたが最終的に首相の伊藤博文は屈辱を忍んでこの勧告を受け入れることを決断します。日本は遼東半島の領有を放棄しその代償として清国から追加の賠償金3000万両を受け取りました。

この「三国干渉」は日清戦争の勝利に沸いていた日本国民に冷や水を浴びせるものでした。

  • 国民の怒り:国民はこれを「煮え湯を飲まされる」ような屈辱であると感じました。そしてその怒りの矛先は特に干渉を主導したロシアに向けられました。
  • 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」:「臥薪嘗胆」という言葉が国民的なスローガンとなりました。これは「将来の復讐を誓いそのための苦労を耐え忍ぶ」という意味の中国の故事成語です。国民は三国干渉の屈辱を忘れることなく「ロシアを討つ」ことを次の国家目標としてさらなる軍備拡張への道を突き進んでいくことになります。

日清戦争の勝利と三国干渉の屈辱。この栄光と挫折の経験が日本を次の巨大な戦争日露戦争へと不可避的に導いていく最大の原動力となったのです。


6. 義和団事件

三国干渉によって遼東半島を日本から取り上げたロシア。そしてドイツやフランスイギリスといった欧米列強は日清戦争における清国の弱体化を見て取ると待っていたかのように中国分割へと乗り出します。彼らは次々と中国の主要な港湾や鉄道敷設権鉱山採掘権といった利権を獲得していきました。この帝国主義列強による露骨な中国侵略は中国の民衆の間に外国勢力を排斥しようとする激しい排外運動を引き起こします。その最大のものが1900年に起こった「義和団事件(ぎわだんじけん)」でした。日本はこの事件の鎮圧に欧米列強と肩を並べて参加し主要な役割を果たすことでその国際的な地位を大きく向上させました。

6.1. 中国分割の進行

日清戦争後列強による中国分割は露骨な形で行われました。

  • ロシア: 遼東半島の旅順・大連を租借。
  • ドイツ: 山東半島の膠州湾を租借。
  • イギリス: 九竜半島や威海衛を租借。
  • フランス: 広州湾を租借。

中国はまさに瓜の切り身のように列強によって食い物にされ半植民地状態へと転落していきました。

6.2. 義和団の蜂起

この外国勢力による侵略とそれに伴うキリスト教の布教は中国の民衆の間に強い反発と危機感を生み出しました。特に山東省を中心に「義和団(ぎわだん)」と名乗る宗教的な秘密結社が急速に勢力を拡大します。

彼らは「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清を助け西洋を滅ぼす)というスローガンを掲げました。そして「神が乗り移り刀や槍でも傷つかない」という呪術を信じ鉄道や電信といった西洋文明の象徴を破壊しキリスト教の教会を襲撃し宣教師や信者を殺害し始めました。

当初義和団を警戒していた清国の西太后(せいたいごう)を中心とする保守派の政府は次第にこの排外的な民衆のエネルギーを利用して外国勢力を一掃しようと考え始めます。

1900年ついに義和団は清国政府の支持のもと北京に殺到。各国の公使館が立ち並ぶ地区を包囲し籠城する外交官や居留民を攻撃し始めました。

6.3. 八カ国連合軍と日本の参加

自国の公使館と国民が危機に瀕したことを受け日本イギリスロシアアメリカドイツフランスオーストリア=ハンガリーイタリア八カ国は共同で軍隊を派遣し義和団を鎮圧することを決定します。

この八カ国連合軍の中で地理的に最も近くまた大規模な陸軍を迅速に派遣できる日本は連合軍の中心的な役割を担うことをイギリスなどから強く要請されました。

日本政府はこれに応じ連合軍の中で最大規模となる約2万2千の兵を派遣しました。日本の軍隊は北京の公使館の解放作戦においてその規律の高さと戦闘能力の優秀さで大きな役割を果たし欧米列強から高い評価を得ました。

6.4. 事件がもたらした影響

義和団事件は1901年に清国が列強との間で北京議定書に調印したことで終結しました。清国は多額の賠償金の支払いと北京への外国軍隊の駐留を認めさせられその主権はさらに失墜しました。

この事件は日本にとっていくつかの重要な意味を持っていました。

  1. 国際的地位の向上:欧米列強と共同で軍事行動を行いその中で主要な役割を果たしたという事実は日本の軍事力が欧米のレベルに達していることを国際的に証明するものでした。これにより日本は名実ともに列強の一員として扱われるようになります。
  2. イギリスとの接近:この事件での日本の貢献は特にイギリスから高く評価されました。当時ロシアの南下政策に共通の脅威を感じていたイギリスは極東におけるロシアの対抗馬として日本の重要性を再認識します。この共同作戦の経験が次の日英同盟の締結へと繋がる重要な布石となったのです。
  3. ロシアとの対立激化:事件の鎮圧後もロシアは中国東北部(満州)に大軍を駐留させ続けその地を事実上占領しました。これは満州や朝鮮半島に利権を拡大しようとする日本の国益と真っ向から衝突するものでした。

義和団事件は日本が西洋の帝国主義クラブの正式なメンバーとしてそのデビューを飾る舞台でした。そしてその舞台で最も際立ったのがロシアとの深刻な対立でありこの対立こそが次の日露戦争へと続く道のりを決定づけたのです。


7. 日英同盟の締結

義和団事件後ロシアが満州に大軍を駐留させ続けその南下政策を露骨に進める中日本の対ロシア警戒感は頂点に達していました。しかし巨大なロシア帝国と単独で対決することはあまりにも危険な賭けでした。日本はロシアに対抗するための強力なパートナーを国際社会に求めます。そしてその相手として浮上したのが当時「世界の工場」「七つの海の支配者」として世界の覇権を握っていた大英帝国イギリスでした。1902年に結ばれたこの「日英同盟(にちえいどうめい)」は日本の外交史における最大の成功の一つでありその後の日露戦争への道を決定づける画期的な出来事でした。

7.1. 同盟締結の背景

20世紀初頭の国際情勢はイギリスとロシアの対立を軸に展開していました。

  • イギリスの「光栄ある孤立」:19世紀を通じてイギリスは他のどの国とも恒久的な軍事同盟を結ばない「光栄ある孤立」と呼ばれる外交方針を貫いていました。
  • ロシアの南下政策:ロシアは不凍港(冬でも凍らない港)を求めてバルカン半島や中東そして極東へとその勢力を拡大する南下政策を推し進めていました。これはイギリスの世界的な利権と真っ向から衝突するものでした。
  • グレート・ゲーム:特に中国の利権をめぐるイギリスとロシアの対立は深刻でした。ロシアの満州占領はイギリスの中国における商業的利益を脅かすものでした。

この状況の中イギリスは極東でロシアの南下を食い止めるためのパートナーを探し始めます。そこに浮上したのが日清戦争と義和団事件でその軍事力を証明した日本でした。

7.2. 日本国内の路線対立

一方日本政府部内でも対ロシア政策をめぐって二つの意見が対立していました。

  • 日露協商論:元老の伊藤博文や井上馨らが主張。「満州はロシアの利益、朝鮮(韓国)は日本の利益」というように日露両国で利益の範囲を取り決める(満韓交換論)ことで戦争を回避すべきだという穏健な路線。
  • 日英同盟論:総理大臣の桂太郎(かつらたろう)や外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)らが主張。ロシアとの妥協は不可能でありイギリスと軍事同盟を結びその支援を背景にロシアと対決すべきだという強硬な路線。

当初は伊藤の協商論が有力でしたがロシアが強硬な態度を崩さなかったため最終的に政府の方針は日英同盟の締結へと傾いていきました。

7.3. 日英同盟の成立(1902年)

1902年1月30日ロンドンで日英同盟協約が調印されました。

  • 同盟の主な内容:
    1. 清・韓国における両国の利益の承認: イギリスは日本の韓国における、日本はイギリスの清における、それぞれの優越的な利益を相互に承認する。
    2. 中立義務: どちらか一方の国が他の一国と戦争になった場合もう一方の国は厳正中立を守る。
    3. 参戦義務: どちらか一方の国が他の二カ国以上と戦争になった場合もう一方の国は同盟国として参戦する義務を負う。

7.4. 日英同盟の歴史的意義

この日英同盟の成立は日本にとって計り知れないほど大きな意味を持っていました。

  1. 日本の国際的地位の飛躍的向上:これは有色人種の国家が白人国家である列強と対等な立場で軍事同盟を結んだ歴史上初めてのケースでした。これにより日本の国際的地位は飛躍的に向上し不平等条約改正以来の悲願であった「列強への仲間入り」が外交的に達成されました。
  2. ロシアへの強力な牽制:同盟の第三条は極めて重要でした。これはもし日本がロシアと戦争になった場合ロシアの同盟国であるフランスやドイツがロシアに味方して参戦してきたらイギリスが日本の側で参戦することを意味します。これにより日本はロシアと一対一で戦うことができる外交的な保証を手に入れたのです。
  3. 日露戦争への道:この強力な後ろ盾を得たことで日本の世論は急速にロシアとの開戦へと傾いていきます。日英同盟は日露戦争を戦うための外交的・軍事的な前提条件を整えるものであり戦争への道を不可逆的なものとしました。
  4. アメリカからの資金調達:日英同盟は日露戦争の戦費調達にも大きな役割を果たしました。同盟国であるイギリスやその友好国であるアメリカの金融市場から日本の戦時国債を円滑に発行することが可能になりました。

「光栄ある孤立」を捨ててまでイギリスが日本と同盟を結んだこと。それは日本がもはや単なるアジアの一国ではなく世界のパワーバランスを左右する重要なプレイヤーとして国際社会に認識されたことを示す象徴的な出来事でした。この同盟を武器に日本は国家の命運を賭けた巨大な戦争へと突き進んでいくのです。


8. 日露戦争の勃発

日英同盟という強力な後ろ盾を得た日本。しかし満州や朝鮮半島をめぐるロシアとの対立は依然として解決の糸口が見えませんでした。ロシアは満州からの撤兵を約束しながらもその実行を遅らせ逆に朝鮮半島への影響力を強めようとします。これに対し日本は「満州はロシアの勢力圏と認める代わりに朝鮮は日本の勢力圏と認めよ」という満韓交換論を基本に粘り強く交渉を続けます。しかしロシアが強硬な態度を崩さない中日本国内では「交渉による解決はもはや不可能である」という主戦論が急速に高まっていきました。そして1904年ついに日本は国家の存亡を賭けて巨大なロシア帝国との戦争に踏み切ります。

8.1. 日露交渉の決裂

日英同盟締結後もロシアは満州の占領を続けさらに朝鮮半島の竜巌浦(ヨンアムポ)に軍事基地を建設しようとするなど日本の勢力圏(生命線)と見なされていた朝鮮半島への圧力を強めました。

これに対し日本政府はロシアとの直接交渉によって事態を打開しようとします。しかしロシアは日本の提案をことごとく無視し交渉は完全に暗礁に乗り上げました。

8.2. 日本国内の世論

交渉が行き詰まる中日本国内の世論は沸騰していました。

  • 主戦論の高まり:新聞や雑誌は連日ロシアの脅威を煽り「ロシアの暴慢を討つべし」という主戦論を展開しました。三国干渉以来の国民的な対ロシア感情の悪化もこれを後押ししました。
  • 対露同志会と七博士:東京帝国大学の七人の教授(戸水寛人など)はロシアとの即時開戦を主張する意見書を政府に提出(七博士建白事件)。また対露強硬派の政治家や知識人たちは「対露同志会」を結成し全国で開戦を訴える演説会を開きました。

8.3. 御前会議と開戦決定

国民の熱狂的な主戦論に押される形で政府部内でも開戦論が主流となっていきます。元老の伊藤博文らは依然として戦争には慎重でしたが総理大臣の桂太郎や外務大臣の小村寿太郎そして陸海軍の首脳たちは開戦を決意していました。

1904年2月4日明治天皇臨席のもとで開かれた**御前会議(ごぜんかいぎ)**でついにロシアとの開戦が最終的に決定されました。

これは日本にとって極めて大きな賭けでした。

  • 国力の差:当時の日本の国家予算や工業生産力はロシアの数分の一に過ぎませんでした。
  • 長期戦への懸念:戦争が長期化すれば日本の国力は間違いなく尽きてしまう。短期決戦で勝利し有利な条件で講和を結ぶことだけが唯一の勝機でした。

8.4. 戦争の開始:旅順港への奇襲

1904年2月6日日本はロシアに対して国交断絶を通告。そしてその2日後の2月8日夜日本の連合艦隊は宣戦布告に先立ってロシアの極東における最大の軍事拠点である旅順(りょじゅん)港に停泊していたロシアの太平洋艦隊に対して奇襲攻撃を仕掛けました。

この奇襲によってロシアの艦船数隻に損害を与え日本は開戦当初の制海権争いで有利な立場に立ちます。そして2月10日日本はロシアに対して正式に宣戦布告。ここに日露戦争の火蓋が切られました。

この戦争は朝鮮半島と満州の支配権をめぐる帝国主義国家同士の戦争でした。しかしそれは同時にアジアの新興国である日本が西洋の大国であるロシアの進出を食い止めるための戦いという側面も持っており欧米の多くの国々そしてアジアの被支配民族がその行方を固唾をのんで見守る戦いでもありました。


9. ポーツマス条約と日比谷焼打事件

1904年に始まった日露戦争は日本の国力を遥かに超える巨大なロシア帝国を相手にしたまさに国家の命運を賭けた総力戦でした。戦いは日本の有利に進みましたがその代償として日本は莫大な戦費と多くの人命を失い国力は疲弊の極に達していました。戦争の継続がもはや不可能であることを悟った日本政府はアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに講和の仲介を依頼。1905年アメリカのポーツマスで日露の講和会議が開かれます。このポーツマス条約によって日本は辛くも勝利を手にしましたが賠償金が取れなかったことなどからその内容に不満を抱いた国民が暴動を起こすという後味の悪い結末を迎えました。

9.1. 日露戦争の主な戦い

約1年半にわたる戦争は陸と海で壮絶な戦いが繰り広げられました。

  • 旅順(りょじゅん)攻略戦:ロシア太平洋艦隊の拠点である旅順要塞は極めて堅固であり日本陸軍は乃木希典(のぎまれすけ)大将の指揮のもとで正面からの総攻撃を繰り返しました。しかし甚大な犠牲者を出すばかりでなかなか陥落させることができませんでした。最終的に二百三高地と呼ばれる激戦地を占領しそこから港内のロシア艦隊を砲撃することで1905年1月ようやく旅順を陥落させました。
  • 奉天(ほうてん)会戦:1905年3月満州の奉天(現在の瀋陽)で日露両軍合わせて約60万の兵力が激突する当時としては世界史上最大規模の陸戦が行われました。日本軍は辛くも勝利を収めましたがその損害もまた甚大なものでした。
  • 日本海海戦:陸での戦いと並行してロシアはバルト海にいた主力のバルチック艦隊を日本海へと派遣しました。この地球を半周する大艦隊を迎え撃ったのが東郷平八郎(とうごうへいはちろう)大将が率いる日本の連合艦隊でした。1905年5月27日対馬沖の日本海で両艦隊は激突。東郷大将は敵前回頭(丁字戦法)という大胆な戦法でバルチック艦隊の進路を塞ぎこれをほぼ一方的に撃滅しました。この日本海海戦における奇跡的な大勝利は戦争の趨勢を決定づけるものとなりました。

9.2. ポーツマス条約(1905年)

日本海海戦の勝利によってロシアは戦争継続の意欲を失いました。一方の日本ももはや戦争を続けるだけの国力は残っていませんでした。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介のもと1905年8月からアメリカ東部の港町ポーツマスで講和会議が開かれます。

日本の全権は外務大臣の小村寿太郎(こむらじゅたろう)、ロシアの全権はウィッテでした。交渉は難航しましたが最終的に以下の内容でポーツマス条約が調印されました。

  1. 韓国における日本の優越権の承認:ロシアは日本が韓国において指導・保護・監理の権限を持つことを承認しました。
  2. 遼東半島南部の租借権と南満州鉄道の譲渡:ロシアは旅順・大連を含む遼東半島南部の租借権と長春以南の南満州鉄道の権利を日本に譲渡しました。
  3. 南樺太(からふと)の割譲:北緯50度以南の**樺太(サハリン)**を日本に割譲しました。
  4. 沿海州(えんかいしゅう)の漁業権:沿海州沿岸の漁業権を日本のものとしました。

9.3. 賠償金なき講和と日比谷焼打事件

この条約によって日本は朝鮮半島と満州における権益を確保し南樺太という新たな領土も獲得しました。しかしこの条約には日本国民が最も期待していたものが含まれていませんでした。それは戦争賠償金です。

日本政府は戦争遂行のために国民に重税を課しイギリスやアメリカから多額の借金をしていました。国民は当然ロシアから多額の賠償金が取れるものと信じていました。

しかし賠償金が一銭も取れないという講和条約の内容が新聞で伝えられると国民の不満と怒りが爆発します。「これだけの犠牲を払ったのになぜ賠償金が取れないのか」「弱腰な政府の屈辱外交だ」という声が全国で上がりました。

1905年9月5日講和条約に反対する民衆の集会が東京の日比谷公園で開かれました。この集会は次第に暴徒化し参加者は内務大臣官邸や警察署(交番)新聞社などを次々と襲撃し火を放ちました。この「日比谷焼打事件(ひびやうちやきうちじけん)」は政府が戒厳令を出すほどの大きな騒乱となりました。

9.4. 戦争の歴史的意義

日露戦争は日本の歴史そして世界の歴史に大きな影響を与えました。

  • 日本の国際的地位の確立:有色人種の国家である日本が白人国家である大国ロシアを破ったという事実は世界中に衝撃を与えました。これにより日本は名実ともに世界の一等国として欧米列強に認められることになります。
  • アジア諸民族の独立運動への影響:日本の勝利は欧米の植民地支配下にあったアジアや中東の諸民族に大きな希望と勇気を与え彼らの独立運動を鼓舞しました。
  • 日本の帝国主義化の進展:しかしその一方でこの勝利は日本の帝国主義的な対外膨張をさらに加速させることにもなりました。満州の権益を確保した日本はここを生命線とみなしその後の歴史でこの地をめぐって中国やアメリカとの深刻な対立へと向かっていくのです。

日露戦争の勝利は日本に栄光をもたらしましたがそれは同時に国民の大きな犠牲の上に成り立ったものであり日本をさらなる軍国主義への道へと進ませる危険な転換点でもあったのです。


10. 韓国併合と植民地支配

日露戦争における日本の勝利は朝鮮半島(大韓帝国、韓国)の運命を決定づけました。ポーツマス条約によってロシアから韓国における日本の優越権を認めさせた日本はもはや何の障害もなく韓国を自らの支配下に置くための最終段階へと進みます。保護国化から内政権の剥奪そして最終的な併合へ。この段階的なプロセスを通じて日本は韓国の独立を完全に奪い去り約35年間にわたる過酷な植民地支配を開始します。本章では日露戦争後日本がいかにして韓国を併合していったのかその過程を追います。

10.1. 第一次日韓協約と外交権の剥奪

日露戦争中の1904年日本は韓国に対して第一次日韓協約を結ばせました。これにより日本政府が推薦する財政顧問と外交顧問を韓国政府に置くことを認めさせ韓国の財政と外交に深く介入する足がかりを築きました。

10.2. 第二次日韓協約と保護国化

日露戦争が日本の勝利に終わると日本の韓国に対する圧力はさらに強まります。1905年11月日本は**第二次日韓協約(乙巳保護条約、いっしほごじょうやく)**を韓国に強要しました。

  • 外交権の完全な剥奪:この条約によって韓国は外交権を完全に日本に奪われました。これにより韓国は独立国としての主権を事実上喪失し日本の保護国となりました。
  • 統監府(とうかんふ)の設置:日本の韓国支配の拠点として漢城(ソウル)に統監府が設置され初代統監には伊藤博文が就任しました。統監は韓国の外交を指揮し内政に対しても強い影響力を持つ絶大な権限を握っていました。

10.3. ハーグ密使事件と第三次日韓協約

この日本の支配に対し韓国の皇帝・**高宗(コジョン)**は抵抗を試みます。1907年オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に高宗は密かに使者を送り韓国の苦境を訴え国際社会の助けを求めようとしました。これが「ハーグ密使事件」です。

しかしこの試みは日本の妨害によって失敗に終わります。そしてこの事件に激怒した日本はこれを口実に高宗を強制的に退位させました。

さらに日本は同年第三次日韓協約を結ばせます。

  • 内政権の剥奪:この条約によって日本の統監が推薦する日本人を韓国政府の各部署の次官に任命することが定められました(次官政治)。これにより韓国は外交権だけでなく内政権も事実上日本に奪われることになります。
  • 韓国軍の解散:さらにこの協約の秘密協定によって韓国軍は解散させられました。

韓国軍の解散は韓国の民衆の激しい怒りを買い全国で義兵(ぎへい)闘争と呼ばれる武装抵抗運動が激化しました。しかし日本の軍隊はこれを徹底的に弾圧しました。

10.4. 韓国併合(1910年)

内政権と軍事力を奪われもはや国家としての実体を失った韓国に対し日本は最後の仕上げにかかります。

1909年に初代統監であった伊藤博文がハルビンで韓国の独立運動家・**安重根(アン・ジュングン)**に暗殺される事件が起こると日本国内では韓国併合を求める声がさらに強まりました。

1910年8月22日三代統監の寺内正毅(てらうちまさたけ)は韓国政府に圧力をかけ韓国併合ニ関スル条約を調印させました。そして8月29日にこれを公布。これにより大韓帝国は完全に消滅しその領土は日本の植民地となりました。

10.5. 植民地支配の開始:朝鮮総督府

併合後日本は韓国の統治機関として**朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)**を設置しました。

  • 武断政治:初代総督には陸軍大将の寺内正毅が就任。総督府は憲兵警察制度を敷き言論・集会・結社の自由を奪うなど極めて強圧的な武断政治を行いました。
  • 土地調査事業:総督府は土地の所有権を確定させるという名目で土地調査事業を行いました。しかし申告手続きが複雑であったため多くの農民が土地の所有権を認められずその土地を失いました。これらの土地は東洋拓殖株式会社などを通じて日本人に安く払い下げられました。
  • 同化政策:また総督府は朝鮮の伝統文化や言語を抑圧し日本の文化を強制する同化政策を進めました。

日本の韓国併合とそれに続く植民地支配は韓国の人々の民族的な誇りを深く傷つけその後の日韓関係に長く暗い影を落とすことになります。日露戦争の勝利がもたらした栄光は同時に日本の帝国主義がアジアの隣国に大きな苦しみを与える歴史の始まりでもあったのです。


Module 17:日清・日露戦争と帝国主義の総括:列強への道とアジアへのまなざし

本モジュールでは明治日本が富国強兵の道を突き進み帝国主義国家へと変貌していく過程を二つの大きな戦争を軸に追った。琉球処分と台湾出兵で対外膨張の第一歩を踏み出した日本は江華島事件で朝鮮に不平等条約を強要し西洋列強の帝国主義を模倣する側に回った。日清戦争の圧倒的勝利は日本の国際的地位を飛躍させたが三国干渉の屈辱はロシアへの復讐心を国民に植え付けた。義和団事件での貢献と日英同盟の締結によって列強の一員としての地位を固めた日本は国家の存亡を賭けて日露戦争に挑み勝利を収めた。この勝利は日本の独立を確固たるものとしアジアの被圧迫民族に希望を与えたがその栄光の裏で日本は韓国併合という形でアジアの隣国に対する植民地支配を開始した。この時代は日本が欧米中心の国際秩序の中で自らの生き残りをかけて「一等国」へと駆け上がっていく輝かしい成功の物語であると同時にその成功がアジア諸国への優越感と支配という負の遺産を生み出していく悲劇の始まりでもあった。

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