【基礎 世界史(通史)】Module 11:大航海時代と世界の一体化

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本モジュールの目的と構成

前モジュールで探求したアジアの巨大帝国群が、大陸内部の秩序と繁栄を謳歌していた15世紀末、ヨーロッパの西端に位置するイベリア半島の小国から放たれた数隻の帆船が、人類史の潮流を永遠に変える、大いなる航海へと旅立ちました。本モジュールで探求するのは、この「大航海時代」と呼ばれる、ヨーロッパ人による爆発的な海外進出の時代です。それは、香辛料や黄金への渇望、キリスト教布教の情熱、そして未知の世界への探求心といった、多様な動機が絡み合って生まれた、壮大な冒険の物語でした。しかし、その輝かしい冒険の光の裏には、先住民文明の破壊、奴隷貿易という非道、そして富の収奪という、深い影が投げかけられています。この時代を経て、それまで孤立していたアメリカ大陸やアフリカ、アジア、ヨーロッパは、初めて恒常的な一つのグローバル・ネットワークの中に結びつけられました。本モジュールは、この「世界の一体化」が、いかにして始まり、それが地球上の富と権力の配分をいかにして不可逆的に作り変え、近代世界システムの土台を築き上げたのか、その光と影の両面から、深く構造的に解き明かすことを目的とします。

この地球規模の歴史的転換を理解するために、本モジュールは以下の学習項目で構成されています。

  1. 大航海時代の背景とポルトガル・スペイン: ヨーロッパを大航海へと駆り立てた経済的、宗教的、技術的な諸要因を分析し、なぜその先陣を切ったのが、レコンキスタを完了したばかりのポルトガルとスペインであったのか、その歴史的必然性を考察します。
  2. コロンブスのアメリカ大陸到達: 一人の航海者の壮大な誤算が、いかにしてヨーロッパとアメリカという二つの「旧世界」と「新世界」の出会いを引き起こし、その後の歴史を決定づける分水嶺となったのかを探ります。
  3. マゼランの世界周航: 地球を一周するという、人類史上初の壮挙が、いかにして地球の真の姿を実証し、ヨーロッパ人の世界観を根底から覆したのか、その過酷な航海の軌跡を追います。
  4. アステカ帝国、インカ帝国の滅亡: なぜ、わずかな数のスペイン人征服者(コンキスタドール)が、高度な文明を誇ったアメリカ大陸の二大帝国を、かくもたやすく滅ぼすことができたのか、その要因を多角的に分析します。
  5. コロンブス交換: 新旧両大陸の接触が引き起こした、動植物、病原体、そして文化の相互交換が、地球全体の生態系と人類の食生活、人口動態に、いかにして今日にまで及ぶ巨大な影響を与えたのかを解明します。
  6. 「価格革命」: 新大陸からヨーロッパへともたらされた膨大な量の銀が、いかにして激しいインフレーションを引き起こし、中世以来の封建的な社会経済構造を破壊し、資本主義の台頭を促したのかを検証します。
  7. 「商業革命」: 世界貿易の中心が地中海から大西洋岸へと移行する中で、株式会社や証券取引所といった新しい経済システムが、いかにしてヨーロッパの商業活動を質的に変革し、その経済的覇権を確立したのかを分析します。
  8. 大西洋三角貿易と奴隷貿易: ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ三角貿易の構造、特にその中核をなしたアフリカ人奴隷貿易の非人道的な実態と、それが三つの大陸に与えた深刻な影響を詳述します。
  9. 国際分業の始まり: 大航海時代を経て形成された、ヨーロッパを「中心(コア)」とし、アメリカ大陸やアフリカを「周辺(ペリフェリー)」とする、新しい世界規模の経済的分業体制の成立過程を探ります。
  10. 絶対王政の成立: 海外植民地からの富の流入と、グローバルな商業活動の展開が、いかにしてヨーロッパ各国の王権を強化し、封建貴族の力を抑え込む「絶対王政」という新しい国家体制の経済的基盤となったのかを考察します。

本モジュールを通じて、読者は、大航海時代が単なる地理上の発見の物語ではなく、現代に至るグローバルな世界の政治・経済構造の起源をなす、極めて重要な歴史的転換期であったことを理解するでしょう。それは、人類が初めて「一つの世界」として繋がった瞬間の、希望と悲劇に満ちたドラマを解き明かす、知的な航海となります。


目次

1. 大航海時代の背景とポルトガル・スペイン

15世紀後半、ヨーロッパの世界観は、依然として地中海を中心とした、限定的なものでした。アジアは、マルコ・ポーロの『世界の記述(東方見聞録)』によって伝えられる、黄金と香辛料に満ちた、半ば伝説的な遠い土地であり、アフリカの南端や、大西洋の彼方に何が存在するのかは、ほとんど知られていませんでした。しかし、この内向きで閉ざされたヨーロッパの世界観を突き破り、人々を未知の大洋へと駆り立てる、いくつかの強力なエネルギーが、この時代に同時多発的に成熟しつつありました。経済的な欲望、宗教的な情熱、そしてそれを可能にする技術的な革新です。そして、これらのエネルギーが最も凝縮された形で噴出したのが、ヨーロッパの辺境ともいえるイベリア半島の二つの王国、ポルトガルとスペインでした。

1.1. ヨーロッパを駆り立てた三つの動機

大航海時代を始動させた原動力は、単一のものではなく、三つの主要な動機が複雑に絡み合った複合的なものでした。

第一の動機:経済的欲望(香辛料と黄金)

最も直接的で強力な動機は、アジアの物産、特に香辛料(胡椒、丁子、肉桂など)に対する、ヨーロッパ人の渇望でした。当時のヨーロッパでは、食肉の保存技術が未熟であったため、香辛料は、味気ない保存食の風味を改善し、また肉の臭みを消すために、欠かせない貴重な調味料でした。さらに、医薬品や香料としても用いられ、その価値は金と同等にまで高騰することもありました。

しかし、これらの香辛料がヨーロッパの食卓に届くまでには、極めて長く、多数の中間商人を経由する、非効率的な交易ルートをたどらなければなりませんでした。

  1. 原産地: 香辛料の多くは、インドネシアのモルッカ諸島(香料諸島)や、インド、セイロン島などで生産されました。
  2. イスラーム商人の独占: これらの物産は、まず現地のイスラーム教徒の商人たちの手に集められ、インド洋を横断して、紅海やペルシア湾の港へと運ばれました。
  3. 陸路輸送: そこから、ラクダの隊商(キャラバン)によって、エジプトのアレクサンドリアや、シリアのベイルートといった、東地中海の港湾都市へと陸送されました。
  4. イタリア商人の独占: 最終的に、これらの港でアジアの物産を独占的に買い付け、ヨーロッパ各地に販売していたのが、ヴェネツィアやジェノヴァといった、イタリアの都市国家の商人たちでした。

このように、生産者から消費者の手に渡るまでに、幾重もの関税と、商人たちの中間マージンが上乗せされるため、香辛料の価格は、ヨーロッパでは法外なものになっていたのです。さらに、15世紀半ばにオスマン帝国が東地中海地域を支配下に置くと、この伝統的な交易ルートは、政治的にも不安定となり、ヴェネツィア商人などが支払う通行税も増大しました。

この状況を打開するため、ヨーロッパの商人や君主たちは、イタリアとイスラームの商人を介さずに、アフリカを迂回するか、あるいは西に向かうことで、香辛料の原産地であるアジア(インディアス)に直接到達する、新しい海上ルートを開拓できないかと、真剣に考え始めたのです。この「直接交易路の発見」こそが、大航海時代の最大の経済的目標でした。また、『世界の記述』が伝えた、黄金の国ジパング(日本)や、カタイ(中国)の莫大な富への憧れも、人々の冒険心を強く刺激しました。

第二の動機:宗教的情熱(キリスト教の布教)

経済的欲望と並んで、もう一つの強力な推進力となったのが、宗教的な情熱、すなわちキリスト教(カトリック)を、未知の世界の異教徒たちに広めたいという、布教への強い願いでした。これは、十字軍運動以来の、イスラーム世界に対する対抗意識の延長線上にありました。

特に、当時のヨーロッパでは、東方のどこかに、イスラーム勢力を挟撃してくれる、プレスター・ジョンという名の、強力なキリスト教国の王が存在するという伝説が、広く信じられていました。この伝説上の王と連携し、イスラーム勢力を打倒するという夢想も、探検家たちの動機の一つとなりました。大航海時代は、単なる商業活動ではなく、異教徒をキリストに改宗させる「聖戦」としての一面を、色濃く持っていたのです。

第三の動機:科学技術の進歩

こうした経済的・宗教的な動機を、実際の航海として実現可能にしたのが、ルネサンス期を通じて発展・改良された、科学技術の進歩でした。

  • 航海術の発展: 羅針盤(コンパス)が改良され、外洋でも正確に方角を知ることができるようになりました。また、天体の高度を測定して、船の現在位置の緯度を割り出すための道具であるアストロラーベや四分儀が、イスラーム世界から伝わり、実用化されました。これにより、沿岸の目印が見えない外洋でも、長期間の航海が可能となったのです。
  • 地理学の知識: 15世紀、古代ギリシアの地理学者プトレマイオスの『地理学』が、ラテン語に翻訳されて、広く読まれるようになりました。この書物は、地球球体説を支持しており、コロンブスのような西回りでのアジア到達という着想に、理論的な裏付けを与えました。ただし、プトレマイオスの地図は、地球の周長を実際よりもかなり小さく見積もり、アジア大陸を東方に大きく引き伸ばして描いていたため、結果的にコロンブスの「壮大な誤算」を誘発することにもなります。
  • 造船技術の革新: 遠洋航海に適した、新しいタイプの帆船が開発されました。それが「キャラヴェル船」です。この船は、比較的小型で喫水が浅く、小回りが利きました。そして、追い風を受けて高速で進むための角帆(スクエアセイル)と、逆風の中でもジグザグに進むことができる三角帆(ラテンセイル)の両方を備えており、様々な風の状況に対応できる、優れた航行性能を持っていました。

これらの要素が組み合わさることで、ヨーロッパ人は、それまで「恐怖の海」であった大西洋へと、敢然と乗り出していくための、精神的・技術的な準備を整えたのです。

1.2. なぜポルトガルとスペインだったのか?

大航海時代の幕を開け、その初期の段階をリードしたのが、ポルトガルとスペインであったのには、明確な歴史的・地理的な理由があります。

  • 地理的条件: 両国は、ヨーロッパの西端、大西洋に直接面しており、地中海を支配するイタリア商人の影響を受けずに、独自の海上活動を展開するのに、地理的に有利な位置にありました。
  • レコンキスタの完了: 両国は、イスラーム勢力からイベリア半島を再征服する、約8世紀にわたる長い戦い「レコンキスタ(国土回復運動)」を、15世紀末に完了させたばかりでした。(ポルトガルは13世紀半ばに完了)。この長い戦いの経験は、両国に、強力な中央集権的な王権と、宗教的情熱に燃える、戦闘経験豊かな騎士階級を生み出しました。レコンキスタが完了し、国内の「聖戦」が終わると、この有り余る軍事的・宗教的エネルギーは、新たなフロンティアである、海外の異教徒の土地へと向けられることになったのです。
  • 強力な王権: 新航路の開拓は、莫大な資金とリスクを伴う、国家的な事業でした。ポルトガルとスペインでは、レコンキスタを通じて王権が強化され、国内の貴族や商人たちをまとめ上げ、こうした大規模な探検事業を支援する、強力な中央政府が存在していました。

特に、ポルトガルは、早くから国家事業として、アフリカ西岸の探検を組織的に進めました。「航海王子」として知られるエンリケ王子(1394-1460)は、サグレスに航海学校を設立し、航海者や地図製作者を育成し、着実にアフリカ西岸の南下を進めました。彼らの目的は、アフリカの金や奴隷を獲得すると同時に、アフリカ大陸を南に迂回して、インドへ至る航路を発見することでした。

1488年、バルトロメウ・ディアスが、ついにアフリカ南端の喜望峰に到達し、インド洋への道が開かれます。そして1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが、喜望峰を回ってインドのカリカットに到達し、香辛料の直接買い付けに成功しました。これにより、ポルトガルは、東回りのインド航路を開拓し、アジアの香辛料貿易の主導権を、ヴェネツィアから奪い取ることになります。

一方、ポルトガルがアフリカ航路の開拓に集中している間に、そのライバルであるスペインの支援を受けて、西回りでのアジア到達という、より大胆な計画に乗り出したのが、ジェノヴァ出身の航海者、クリストファー・コロンブスでした。こうして、ヨーロッパの世界拡大は、二つの異なる方向から、競争的に開始されることになったのです。


2. コロンブスのアメリカ大陸到達

ポルトガルが、国家を挙げて着実にアフリカ西岸を探検し、東回りでのインド航路開拓を進めていた頃、一人のジェノヴァ出身の船乗りが、それとは全く異なる、より大胆で、常識外れの計画を、ヨーロッパ各国の宮廷に売り込んでいました。大西洋を西に進み、アジア(インディアス)に到達するという計画です。その男の名は、クリストファー・コロンブス(1451頃-1506)。彼の執念と、それを支えた壮大な地理的誤認は、最終的にスペイン女王イサベルの心を動かし、人類の歴史を永遠に変えることになる航海へと、彼を導きました。彼の「到達」は、彼が目指したアジアへの近道を発見するという点では完全な失敗でしたが、その失敗こそが、ヨーロッパとアメリカという、それまで互いの存在を知らなかった二つの巨大な世界を、恒久的に結びつける、歴史の分水嶺となったのです。

2.1. コロンブスの計画:壮大な誤算

コロンブスが、地球が球体であることを信じていた点は、決して彼独自のものではありませんでした。古代ギリシア以来、教養あるヨーロッパ人の間では、地球球体説は広く知られていました。彼の計画の独自性と、そして致命的な欠陥は、地球の大きさの認識にありました。

彼は、マルコ・ポーロの『世界の記述』が伝える、アジア東方の豊かさを信じ、また、フィレンツェの地理学者トスカネリの説や、古代ギリシアの学者プトレマイオスの地理学の知見(ただし誤りを含む)を基に、地球の円周を、実際よりも約4分の3程度に、過小評価していました。さらに、彼はアジア大陸が、実際よりもはるかに東に長く伸びていると信じ込んでいました。

これらの誤った前提を組み合わせた結果、彼は、ヨーロッパの西端から、アジアの東端(彼がジパングやカタイだと考えた場所)までの距離は、わずか数千キロメートルに過ぎないと結論付けました。これは、ポルトガルが苦労して開拓している、アフリカを迂回する長い航路よりも、はるかに短い近道であるはずでした。

彼は、この計画の実現性を、まずポルトガル王ジョアン2世に訴えましたが、王の諮問委員会は、コロンブスの距離計算が非現実的であることを見抜き、これを却下しました。失意のコロンブスは、次にポルトガルのライバル国であるスペインに狙いを定めます。

当時のスペインは、女王イサベルと王フェルナンドの下で、レコンキスタの最終段階にありました。コロンブスの最初の提案は、グラナダ攻略という大事業を前に、すぐには受け入れられませんでした。しかし、1.492年1月、グラナダが陥落し、レコンキスタが完了すると、状況は一変します。国家としての統一を達成し、宗教的情熱と、ポルトガルへの対抗心に燃えるイサベル女王は、ついにコロンブスの計画に最後の望みを託すことを決断したのです。彼女は、コロンブスに「提督」の称号と、発見した土地の総督の地位、そしてそこから得られる富の10分の1を与えるという、破格の契約を結びました。

2.2. 1492年:発見の航海

1492年8月3日、コロンブスは、サンタ・マリア号、ピンタ号、ニーニャ号という、わずか3隻のキャラヴェル船からなる船団を率いて、スペイン南部のパロス港を出航しました。彼が携えていたのは、スペイン国王から、中国の皇帝や日本の君主(彼はマルコ・ポーロが伝える「黄金の国ジパングの君主」を想定していた)に宛てた、親書でした。

カナリア諸島で補給の後、船団は未知の大西洋へと乗り出しました。しかし、コロンブスが想定していたよりも、陸地ははるかに遠いものでした。一ヶ月以上も陸地が見えない航海が続き、乗組員たちの間には、不安と不満が募り、反乱寸前の状態にまで陥りました。コロンブスは、航海日誌を改ざんして、実際よりも短い距離しか進んでいないように見せかけ、巧みに彼らをなだめすかしながら、西へ西へと進み続けました。

そして、出航から70日以上が経過した10月12日の未明、ついに前方のピンタ号の見張りから、「陸地だ!」という待望の叫び声が上がりました。彼らが到達したのは、現在のバハマ諸島に属する、サンサルバドル島(現地ではグァナハニ島と呼ばれていた)でした。

コロンブスは、この地を、アジア(インディアス)の東端に浮かぶ島々の一部であると、固く信じ込みました。彼は、そこに住んでいた、アラワク族系統のタイノ人たちを見て、彼らを「インディオ(Indio)」(インドの人々)と名付けました。これが、アメリカ大陸の先住民が「インディアン」と呼ばれるようになった語源です。彼は、島々で黄金を探し求めましたが、期待したほどの富は見つからず、キューバ島やイスパニョーラ島などを探検した後、翌年スペインに帰国しました。

スペインでは、彼は「インディアス」に到達した英雄として、熱狂的な歓迎を受けました。彼の「発見」のニュースは、ヨーロッパ中に大きな衝撃と興奮をもって伝えられました。

2.3. 「発見」の帰結とトルデシリャス条約

コロンブスの「発見」は、ポルトガルを著しく刺激しました。ポルトガルは、自らが教皇から与えられたアフリカ沿岸の探検独占権を、スペインが侵害したと主張しました。この二つのカトリック国の対立を調停するため、スペイン出身の教皇アレクサンデル6世が仲介に乗り出します。

そして1494年、スペインとポルトガルは、「トルデシリャス条約」を締結しました。この条約は、大西洋上に、アゾレス諸島の西、西経46度付近を通過する、南北の境界線(教皇子午線)を設定し、この線より東側で発見された新しい土地をポルトガルのもの、西側をスペインのものとすることを定めたものです。

この条約は、二つの重要な意味を持っています。第一に、ヨーロッパの二つの小国が、ヨーロッパ以外の全世界を、自らの勢力圏として、文字通り「分割」してしまったという点です。これは、非キリスト教世界の人々の権利を全く無視した、ヨーロッパ中心主義的な世界観の、極めて傲慢な現れでした。第二に、この条約線が、後に予期せぬ結果をもたらした点です。条約締結時、まだその存在が知られていなかった南米大陸の東端(ブラジル)は、この線の東側にはみ出していました。そのため、1500年にポルトガルのカブラルがブラジルに漂着した際、この地はトルデシリャス条約に基づいて、ポルトガル領とされたのです。これが、南米の他の地域がスペイン語圏であるのに対し、ブラジルだけがポルトガル語圏である理由です。

コロンブスは、生涯で合計4度の航海を行いましたが、最後まで、自らが到達した土地が、アジアとは全く別の「新大陸」であることには気づきませんでした。彼が発見したのは、黄金の国ジパングではなく、ヨーロッパ人にとっては未知の、しかし、すでに多様な文明が栄えている、広大な大陸でした。

彼が始めた交流は、ヨーロッパに莫大な富をもたらす一方で、アメリカ大陸の先住民にとっては、病原菌、暴力、そして奴隷化という、破局的な結末の始まりを意味していました。コロンブスの航海は、地理上の「発見」であると同時に、人類史における、最も悲劇的な出会いの一つでもあったのです。彼の航海によって、世界の歴史は、もはや後戻りのできない、グローバル化への道を歩み始めたのです。


3. マゼランの世界周航

クリストファー・コロンブスが、大西洋を西に進んで「インディアス」に到達したと報告した後も、彼が本当にアジアにたどり着いたのか、そしてその先に何があるのかは、依然として大きな謎に包まれていました。特に、ポルトガルがヴァスコ・ダ・ガマの航海によって東回りのインド航路を開拓し、香辛料貿易の利益を独占し始めると、ライバルであるスペインは、西回り航路で香辛料の原産地であるモルッカ諸島(香料諸島)に到達する必要性に、ますます駆られていました。この、当時最も困難で壮大な課題に挑み、コロンブスの夢を完結させ、そして人類史上初めて地球を一周するという偉業を成し遂げたのが、ポルトガル出身の航海者、フェルディナンド・マゼラン(1480頃-1521)が率いたスペインの探検隊でした。彼らの航海は、想像を絶する困難と、おびただしい犠牲を伴うものでしたが、その達成は、地球の真の姿を人類に教え、ヨーロッパ人の世界観を不可逆的に変容させる、画期的な出来事でした。

3.1. 西回り航路への挑戦

マゼランは、もともとポルトガルの軍人として、インドや東南アジアで勤務した経験を持つ、有能な航海者でした。彼は、東南アジアで、モルッカ諸島が、ポルトガルが考えているよりも、さらに東方に位置しているという情報を得ます。この情報と、地球球体説を組み合わせ、彼は、西回りで航海すれば、モルッカ諸島に到達できるはずだと確信しました。

彼は、トルデシリャス条約で定められた境界線(教皇子午線)を、地球の反対側まで延長した場合、モルッカ諸島はスペインの勢力圏に入る可能性があると考え、この西回り航路開拓計画を、ポルトガル王に提案しました。しかし、すでに東回り航路で莫大な利益を上げていたポルトガルは、このリスクの高い計画に関心を示さず、これを却下しました。

コロンブスと同様に、故国で計画を拒否されたマゼランは、スペインに渡り、若き国王カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)に、自らの計画を熱心に説きました。ポルトガルへの対抗心を燃やすカルロス1世は、この野心的な計画を承認し、マゼランを提督とする探検隊の派遣を決定しました。その目的は、モルッカ諸島への西回り航路を開拓し、香辛料をスペインにもたらすことでした。

3.2. 苦難に満ちた大航海

1519年9月20日、マゼランは、5隻の船(トリニダード号、サン・アントニオ号、コンセプシオン号、ビクトリア号、サンティアゴ号)と、約270人の多国籍の乗組員を率いて、スペインのサンルーカル・デ・バラメダ港を出航しました。彼の航海は、その当初から、苦難と危険に満ちていました。

  • 南米大陸の探検と反乱: 船団は、大西洋を横断し、南米大陸の沿岸を南下していきました。彼らの当面の目標は、この巨大な大陸を西に突き抜ける、海峡を発見することでした。しかし、季節は冬に向かい、寒さと食糧不足、そして先の見えない航海に、乗組員の不満は爆発します。スペイン人の船長たちは、ポルトガル人である提督マゼランに対して反乱を起こしましたが、マゼランはこれを断固たる態度で鎮圧し、首謀者を処刑して、船団の統率を回復しました。
  • マゼラン海峡の発見: 厳しい冬を越した船団は、さらに南下を続け、1520年10月、ついに大陸の南端に、巨大な海峡を発見しました。この、荒れ狂う海と、複雑な水路が続く海峡を、船団は38日間かけて、慎重に通り抜けました。この海峡は、後に彼の名を冠して、「マゼラン海峡」と呼ばれることになります。この時、1隻(サン・アントニオ号)が、艦隊から離脱し、スペインに逃げ帰ってしまいました。
  • 「太平洋」の横断: 海峡を抜けたマゼランの前に広がっていたのは、どこまでも続く、広大で、穏やかな海でした。彼は、その穏やかさから、この海を「太平洋(Mar Pacífico)」と名付けました。しかし、この「平穏な海」での航海こそが、彼らにとって最大の試練となりました。彼らが想像していたよりも、太平洋は、はるかに、はるかに広大だったのです。約100日間にわたる、陸地の全く見えない航海の間に、船の食糧と真水は完全に尽き果てました。乗組員たちは、飢えをしのぐために、船の備品である革製品を海水で煮て食べ、ネズミを奪い合って食べた、と記録されています。新鮮な野菜や果物の欠乏から、壊血病が蔓延し、乗組員たちは、歯茎から血を流しながら、次々と死んでいきました。

3.3. マゼランの死と地球一周の達成

1521年3月、瀕死の状態にあった船団は、ようやくグアム島にたどり着き、食糧を得て息を吹き返しました。その後、彼らは現在のフィリピン諸島に到達します。

マゼランは、ここで現地のセブ島の領主と友好関係を結び、彼をキリスト教に改宗させることに成功しました。しかし、彼は、この領主を助けて、隣のマクタン島の領主ラプ=ラプとの戦いに介入するという、致命的な過ちを犯します。1521年4月27日、マゼランは、マクタン島の戦いで、多数の原住民の兵士に囲まれ、奮戦の末に命を落としました。偉大な提督は、ついに目的地のモルッカ諸島を目前にしながら、その土を踏むことはありませんでした。

提督を失った船団は、その後も苦難の航海を続けます。船の数が減り、乗組員も大幅に減少したため、彼らは残った2隻の船で、ついに目的地のモルッカ諸島に到達し、貴重な香辛料(丁子)を船に満載しました。

しかし、故国スペインへの帰路もまた、危険に満ちていました。インド洋は、ライバルであるポルトガルの勢力圏でした。2隻のうち、トリニダード号は太平洋を戻ろうとしてポルトガルに拿捕され、残された最後の1隻、ビクトリア号だけが、フアン・セバスティアン・エルカーノの指揮の下、インド洋を横断し、喜望峰を回るという、決死の航海を続けたのです。

そして1522年9月6日、ビクトリア号は、わずか18人の生存者を乗せて、スペインのサンルーカル港に奇跡的に帰還しました。出発から、実に3年近くの歳月が流れていました。彼らが持ち帰った香辛料は、航海全体の経費を補って、なお余りあるほどの、莫大な利益をもたらしたと言われています。

このマゼラン(とエルカーノ)の船団による航海の成功は、人類の歴史と知識に、計り知れない影響を与えました。

  • 地球球体説の実証: 彼らの航海は、西に進み続けることで、出発点に戻ることができるということを、議論の余地なく、物理的に証明しました。これにより、地球が球体であるという事実は、もはや学者の間の理論ではなく、誰もが認めざるを得ない、経験的な事実となったのです。
  • 地球の真の大きさの認識: 彼らの航海は、アメリカ大陸とアジア大陸の間に、ヨーロッパ人が想像していたよりも、はるかに巨大な太平洋が存在することを明らかにしました。これにより、人類は初めて、自らが住む惑星の、正確な地理とスケールを認識したのです。
  • 世界の一体化の象徴: この航海は、地球上のすべての海が繋がっていることを示し、人類が、地球上のいかなる場所へも、船で到達できる可能性を証明しました。それは、グローバルな「世界の歴史」が、まさに始まったことを告げる、象徴的な偉業でした。

マゼランの航海は、人類の知的好奇心と、飽くなき探求心が、いかなる困難をも乗り越えうることを示す、壮大な叙事詩です。それは、ヨーロッパ人が、自らの手で、世界の空間的な広がりを「発見」し、定義づけていく時代の、決定的な幕開けを告げるものでした。


4. アステカ帝国、インカ帝国の滅亡

コロンブスによって「発見」されたアメリカ大陸は、決して無人の荒野ではありませんでした。そこには、アジアからベーリング海峡を渡ってきた人々の子孫が、数万年にわたって独自の文明を築き上げていました。特に、現在のメキシコ中央高原に栄えたアステカ帝国と、南米のアンデス山脈一帯を支配したインカ帝国は、石器時代を基盤としながらも、巨大な都市や精緻な社会組織、そして高度な天文学や建築技術を発展させた、偉大な文明でした。しかし、これらの巨大な帝国は、16世紀、スペインからやってきた、わずか数百人規模の「コンキスタドール(征服者)」と呼ばれる冒険者たちによって、あまりにも短期間のうちに、あっけなく滅ぼされてしまいます。なぜ、数百万の人口を擁する大帝国が、かくも脆く崩壊したのか。その背景には、ヨーロッパ人が持ち込んだ、いくつかの圧倒的な「武器」と、アメリカ先住民文明が抱えていた、構造的な脆弱性が、悲劇的な形で結びついたという、複雑な要因が存在しました。

4.1. アステカ帝国の征服:エルナン・コルテス

アステカ帝国は、14世紀から16世紀初頭にかけて、メキシコ中央高原を支配した、強力な軍事国家でした。首都テノチティトランは、湖上に築かれた、人口20万人を超える、壮麗な水上都市でした。彼らは、精巧な暦を持ち、ピラミッド型の巨大な神殿を築きましたが、その宗教は、神々の機嫌をとるために、戦争捕虜などの心臓を捧げる、生贄の儀式を大規模に行うという、血なまぐさい側面も持っていました。

1519年、エルナン・コルテス(1485-1547)率いる、わずか600人程度のスペイン人部隊が、メキシコ湾岸に上陸しました。彼の目的は、この地に存在すると噂される、黄金の帝国を征服することでした。

コルテスたちが、アステカ帝国を滅ぼすことができた要因は、以下のように分析できます。

  • 軍事技術の圧倒的な格差: スペイン人たちは、鉄製の剣や鎧、クロスボウ(強力な弩)、そして少数の火縄銃や大砲で武装していました。これに対して、アステカの戦士たちの武器は、黒曜石の刃をつけた木製の棍棒や、石の槍、弓矢といった、石器時代のものが主でした。特に、スペイン人が騎乗していた「馬」は、アメリカ大陸には存在しなかったため、アステカの人々は、馬と乗り手を一体の怪物と見なし、恐れおののきました。鉄と火薬、そして騎兵という、ヨーロッパの軍事技術の複合体が、アステカの伝統的な軍隊を、赤子の手をひねるように打ち破ったのです。
  • 疫病という見えざる兵器: スペイン人たちが持ち込んだ、最大の破壊力を持つ「兵器」は、彼らが無自覚に携帯していた、天然痘のウイルスでした。アメリカ大陸の先住民たちは、ユーラシア大陸の病原体に対する免疫を、全く持っていませんでした。天然痘は、スペイン人との最初の接触の後、アステカの人々の間に爆発的に広まり、その人口の半分以上、一説には90%近くが、戦闘が本格化する前に、病によって死亡したと言われています。首都テノチティトランは、スペイン軍に包囲される中で、疫病によって壊滅的な打撃を受け、その抵抗力を完全に失いました。
  • 帝国の内部対立の利用: アステカ帝国は、その周辺の多くの部族を、武力で征服し、重い貢納と、生贄となる捕虜を要求していたため、被支配部族から、強い憎悪を向けられていました。コルテスは、この内部対立を巧みに利用します。彼は、アステカに敵対するトラスカラ族などと、次々に同盟を結び、彼らを道案内や兵士として利用しました。コルテスの軍隊は、その中核はスペイン人でしたが、その周囲には、アステカの圧政からの解放を願う、数万人の先住民の同盟軍が付き従っていたのです。
  • 神話と迷信: アステカには、「ケツァルコアトル」という、白い肌を持つ神が、東の海から再来するという伝説がありました。アステカ皇帝モクテスマ2世は、白い肌を持ち、奇妙な「怪物」に乗って東から現れたコルテスたちを、当初、この神の再来ではないかと恐れ、毅然とした対応をとることができませんでした。このためらいが、コルテスに、首都への無血入城を許し、皇帝自身を捕虜にするという、絶好の機会を与えてしまったのです。

これらの要因が重なり、コルテスは、1521年、疫病と飢餓、そして同盟軍の圧倒的な物量によって、廃墟と化した首都テノチティトランを陥落させ、アステカ帝国を滅亡させました。

4.2. インカ帝国の征服:フランシスコ・ピサロ

インカ帝国は、15世紀から16世紀にかけて、南米のアンデス山脈地帯に、南北4000キロに及ぶ、広大な領域を支配した、高度な文明でした。首都クスコを中心に、帝国全土を結ぶ精巧な道路網(インカ道)を建設し、キープ(結縄)と呼ばれる、縄の結び目で情報を記録・伝達するシステムを持っていました。彼らは、文字を持たなかったものの、極めて組織化された、中央集権的な社会を築いていました。

この巨大なインカ帝国を征服したのが、フランシスコ・ピサロ(1478頃-1541)です。彼は、読み書きもできない、無学な軍人でしたが、野心と狡猾さに満ちた人物でした。1531年、彼は、わずか180人程度の兵士を率いて、インカ帝国への侵攻を開始します。

ピサロが成功した要因もまた、コルテスと多くの点で共通しています。

  • 軍事技術と騎兵の優位性: 鉄製の武器、火縄銃、そして馬の存在は、インカ軍に対しても、アステカと同様の、圧倒的な心理的・物理的優位性をピサロにもたらしました。
  • 疫病の蔓延: ピサロが到着する数年前、すでに天然痘が、パナマ地峡を経由してインカ帝国に到達しており、猛威をふるっていました。皇帝ワйна・カパックも、この疫病で急死したとされています。
  • 帝国の内乱: ピサロにとって、最大の幸運は、彼が到着した時、インカ帝国が、深刻な内乱の真っ只中にあったことです。皇帝ワйна・カパックの死後、その二人の息子、ワスカルとアタワルパの間で、皇位をめぐる血腥い内戦が勃発していました。ピサロは、この内戦でアタワルパが勝利した、まさにその直後に、彼と接触することになります。帝国は、この内戦によって、すでに疲弊し、分裂していたのです。
  • 奇襲と欺瞞: 1532年、ピサロは、カハマルカの町で、皇帝アタワルパと会見します。アタワルパは、数万人の非武装の兵士を伴って広場に現れましたが、ピサロは、これを奇襲する計画を立てていました。ピサロの部隊は、隠れていた場所から、火縄銃を撃ちかけ、馬に乗って突撃し、大混乱に陥ったインカの兵士たちを一方的に虐殺しました。そして、皇帝アタワルパ自身を、いとも簡単に捕虜にしてしまったのです。
  • 皇帝の神格化という弱点: インカ帝国は、太陽の子とされる「サパ・インカ」(皇帝)を、神として崇める、極めて中央集権的な、神政政治の体制でした。そのため、その頂点である皇帝が捕らえられてしまうと、帝国全体の指揮系統は、完全に麻痺してしまいました。誰も、皇帝の許可なく、軍隊を動かすことができなかったのです。

アタワルパは、自らの解放と引き換えに、彼が幽閉されている部屋を埋め尽くすほどの、莫大な黄金と銀を、ピサロに与えることを約束しました。インカ帝国全土から、金銀の財宝が集められましたが、ピサロは約束を破り、1533年、アタワルパを処刑しました。指導者を失ったインカ帝国は、組織的な抵抗力を失い、ピサロは、その後、首都クスコを占領し、帝国を滅亡させました。

4.3. 征服がもたらしたもの

アステカとインカという、アメリカ大陸の二大帝国の崩壊は、この大陸の歴史と運命を、決定的に変えました。

  • 先住民人口の激減: 征服後の、スペイン人による過酷な統治と、鉱山での強制労働、そして、繰り返し流行したヨーロッパ由来の疫病によって、アメリカ大陸の先住民の人口は、壊滅的に減少しました。
  • 文明の破壊: スペイン人たちは、先住民の宗教を「悪魔崇拝」とみなし、その神殿や偶像、そしてインカのキープのような記録媒体を、徹底的に破壊しました。これにより、何千年にもわたって育まれてきた、独自の文明の記憶の多くが、永遠に失われてしまいました。
  • 植民地支配の始まり: 帝国の跡地には、スペインの植民地が建設され、その広大な土地と、豊富な鉱物資源(特に銀)は、スペイン本国に、空前の富をもたらすことになります。

コンキスタドールたちの征服は、ヨーロッパの視点から見れば、輝かしい英雄的な功績とされました。しかし、アメリカ大陸の先住民の視点から見れば、それは、彼らの世界が、暴力と病によって、理不尽に終焉させられた、黙示録的な大破壊に他なりませんでした。この征服の記憶は、今日のラテンアメリカ社会にも、なお深い影を落とし続けています。


5. コロンブス交換

1492年のコロンブスの航海は、人類史における、最も重大な生態学的事件の引き金となりました。彼の到達によって、それまで約1万年以上にわたって、ほぼ完全に孤立していた、二つの巨大な生物圏、すなわち、ユーラシア・アフリカの「旧世界」と、南北アメリカ大陸の「新世界」とが、再び結びつけられたのです。この接触の結果、両大陸間で、それまで互いの地に存在しなかった、動植物、そして病原体が、意図的、あるいは偶発的に交換され、地球全体の生態系と、人類の社会を、根底から変容させることになりました。歴史家アルフレッド・クロスビーによって「コロンブス交換(The Columbian Exchange)」と名付けられたこの現象は、現代世界の食生活、文化、そして人口動態を形成する上で、計り知れないほど大きな役割を果たしました。

5.1. 旧世界から新世界へ:征服者と破壊者

ヨーロッパ人がアメリカ大陸に持ち込んだものは、彼らの征服活動を助け、新世界の社会と環境を、永遠に作り変えました。

  • 病原体(見えざる最大の殺戮者): コロンブス交換の中で、最も破壊的で、一方的な影響をもたらしたのが、病原体の移動でした。旧世界の人間は、家畜と共に暮らす長い歴史の中で、天然痘、麻疹(はしか)、インフルエンザ、ペスト、チフスといった、多くの感染症に対する免疫を、世代を超えて獲得していました。しかし、アメリカ大陸の先住民たちは、これらの病原体に一度も曝露したことがなかったため、全く免疫を持っていませんでした。その結果、ヨーロッパ人が持ち込んだこれらの病原体は、先住民のコミュニティにおいて、致死率が極めて高い、爆発的なパンデミックを引き起こしました。特に天然痘は、先住民の人口を、場所によっては90%以上も減少させる、壊滅的な打撃を与えました。この「人口崩壊」は、アステカ帝国やインカ帝国の征服を容易にしただけでなく、その後の植民地経営における労働力不足を招き、後にアフリカからの奴隷輸入を加速させる、遠因ともなりました。これは、人類史上最大級の人口上のカタストロフでした。
  • 家畜: ヨーロッパ人は、馬、牛、豚、羊、山羊、鶏といった、多くの家畜をアメリカ大陸に持ち込みました。これらの動物は、新世界の環境と社会に、革命的な変化をもたらしました。
    • : 馬は、輸送と戦争の手段を劇的に変えました。馬に乗ったスペイン人コンキスタドールは、歩兵中心の先住民の軍隊に対して、圧倒的な機動力を持ちました。後に、北米の平原インディアンのように、馬を巧みに使いこなし、バッファロー狩りを中心とする独自の騎馬文化を発展させた部族も現れました。
    • 牛、豚、羊: これらの家畜は、食肉、乳製品、皮革、羊毛といった、新しい資源を供給し、人々の食生活を豊かにしました。しかし、同時に、野生化した家畜の群れは、先住民の伝統的な農地を荒らし、その囲いのない畑を踏み荒らすなど、生態系に大きなダメージも与えました。
  • 植物: ヨーロッパ人は、自らの食生活を維持するために、小麦、大麦、ライ麦、サトウキビ、コーヒー、ブドウ、オリーブなどを、アメリカ大陸に持ち込みました。
    • 小麦: パンを主食とするヨーロッパ人にとって、小麦の栽培は不可欠でした。
    • サトウキビとコーヒー: これらは、特にカリブ海地域やブラジル、コロンビアなどの熱帯地域で、大規模なプランテーション農業の主要作物となりました。これらのプランテーションは、ヨーロッパに莫大な富をもたらしましたが、その労働力は、先住民や、後に導入されるアフリカ人奴隷の、過酷な犠牲の上に成り立っていました。

5.2. 新世界から旧世界へ:食糧革命の使者

アメリカ大陸からも、多くの重要な産物が、旧世界へと渡り、ヨーロッパ、アフリカ、そしてアジアの人々の生活を、大きく変えました。

  • 植物(食糧革命の主役たち): アメリカ大陸原産の作物は、それまで旧世界の人々が経験したことのない、高い生産性と、厳しい環境への適応力を持っていました。
    • ジャガイモ: アンデス山脈原産のジャガイモは、冷涼な気候や、痩せた土地でもよく育ち、単位面積当たりのカロリー生産量が、小麦やライ麦よりもはるかに高い、極めて効率的な作物でした。アイルランド、ドイツ、北欧、ロシアといった、ヨーロッパの寒冷な地域に導入されると、それまでの飢饉の恐怖を軽減し、18世紀から19世紀にかけての、ヨーロッパの爆発的な人口増加を、食糧面から支える、最大の要因となりました。
    • トウモロコシ: メソアメリカ原産のトウモロコシもまた、乾燥に強く、様々な気候に適応できる、高カロリーの作物でした。ヨーロッパでは、主に家畜の飼料として重要になりましたが、アフリカや中国では、山間地などの、米や小麦の栽培が困難な土地で栽培され、ジャガイモと同様に、人口増加を支える重要な主食となりました。
    • トマト: イタリア料理に欠かせないトマトも、もとはアンデス地方の植物でした。当初は毒があると信じられて観賞用でしたが、やがて食用として普及し、地中海地域の食文化を豊かにしました。
    • その他: インゲンマメ、カボチャ、ピーナッツ、そして唐辛子も、アメリカ大陸が原産です。特に、唐辛子は、アジアの食文化、特にインド、タイ、中国の四川料理、朝鮮半島のキムチなどに、革命的な影響を与え、今やそれらの地域の料理に不可欠な要素となっています。
  • 嗜好品など:
    • タバコ: アメリカ大陸の先住民が、宗教儀式で用いていたタバコは、ヨーロッパに伝わると、瞬く間に世界的な嗜好品として広まりました。
    • カカオ: チョコレートの原料であるカカオも、アステカなどで、通貨や高貴な飲み物として利用されていました。ヨーロッパでは、砂糖と組み合わされて、人気の飲み物となりました。
    • 梅毒: 病原体の交換は、完全に一方通行だったわけではありません。コロンブスの船員がヨーロッパに持ち帰ったとされる梅毒は、新世界から旧世界への、唯一の主要な伝染病であったと考えられています。

5.3. 交換がもたらした長期的帰結

コロンブス交換は、地球全体の歴史に、長期的で、深く、そして多面的な影響を及ぼしました。

  • 世界の人口動態の変化: 短期的には、アメリカ大陸の先住民人口の激減という、悲劇的な結果をもたらしました。しかし、長期的には、ジャガイモやトウモロコシといった、栄養価の高い新大陸の作物が旧世界に広まったことで、世界全体の人口は、爆発的に増加しました。
  • 食文化のグローバル化: 今日の私たちが、当たり前のように口にしている食材の多くが、このコロンブス交換の結果、世界中に広まったものです。イタリア料理のトマト、アイルランドのジャガイモ、タイ料理や韓国料理の唐辛子など、各国の「伝統的な」食文化とされているものの多くが、実は、この500年間のグローバルな交流の産物なのです。
  • ヨーロッパの覇権確立: ヨーロッパは、コロンブス交換から、最大の利益を得た地域でした。彼らは、アメリカ大陸の資源と土地、そして新しい作物を利用して、経済的・人口的な力を蓄え、その後の世界的な覇権を確立するための、強力な基盤を築きました。

結論として、コロンบス交換は、生物学的なレベルで、世界を真に「一体化」させた、巨大なプロセスでした。それは、ある地域にとっては繁栄と人口増加の福音となり、別の地域にとっては死と破壊の黙示録となりました。この交換によって、地球は、より均質化され、相互に結びついた、一つの生態系へと変貌を遂げたのです。私たちは、良くも悪くも、この500年前に始まった、大いなる交換の結果として形成された世界に、今も生きていると言えるでしょう。


6. 「価格革命」

16世紀のヨーロッパ、特にスペインやポルトガルといった大西洋岸の国々は、アメリカ大陸やアジアとの新しい交易ルートから、莫大な富を引き出し始めました。特に、スペインが現在のボリビアのポトシや、メキシコのサカテカスなどで発見した銀山からは、それまで人類が目にしたことのないほどの、膨大な量の銀が採掘され、ガレオン船団によって、ヨーロッパへと輸送されました。しかし、この富の流入は、ヨーロッパ社会に、予期せぬ、そして深刻な経済的混乱をもたらしました。16世紀を通じて、ヨーロッパ全域で、物価が、それまでの数世紀の安定が嘘のように、持続的に、かつ急激に上昇し続けたのです。この現象は、「価格革命(Price Revolution)」と呼ばれ、中世以来の封建的な社会経済構造に最後の一撃を加え、ヨーロッパが資本主義社会へと移行していく上で、決定的な役割を果たしました。

6.1. 価格上昇の原因:アメリカ大陸の銀

16世紀のヨーロッパで、なぜこれほど劇的なインフレーションが発生したのか。その最も主要な原因は、アメリカ大陸から流入した、膨大な量の貴金属、特に銀にあるとするのが、伝統的で、最も有力な説です。この説は、経済学の基本的な理論である「貨幣数量説」によって説明されます。

  • 貨幣数量説: この理論は、社会に出回っている財やサービスの量が変わらない場合、通貨(貨幣)の供給量が増えれば、一つ一つの通貨の価値は下がり、その結果、物価は上昇する、という考え方です。単純化すれば、「モノの量は同じなのに、お金の量だけが2倍になれば、モノの値段も2倍になる」ということです。

16世紀のヨーロッパで起こったことは、まさにこの理論が示す通りでした。

  1. 銀の大量流入: 1545年に、ポトシ銀山が発見されると、スペインは、水銀アマルガム法という、新しい精錬技術を用いて、ここから天文学的な量の銀を採掘しました。この銀は、インカ帝国やアステカ帝国から略奪した金と共に、スペイン本国へと送られました。
  2. 通貨供給量の増大: 当時のヨーロッパでは、金や銀といった貴金属そのものが、貨幣(正貨)でした。アメリカ大陸からの銀の流入は、ヨーロッパ経済圏全体の、通貨供給量を、数倍にまで膨れ上がらせたのです。
  3. 物価の高騰: 一方で、当時のヨーロッパの農業や手工業の生産力は、まだ前近代的な段階にあり、通貨の増加スピードに見合うほど、急速に財やサービスの供給量を増やすことはできませんでした。その結果、増えすぎたお金が、限られた商品を追いかける形となり、あらゆるものの価格、特に生活必需品である穀物の価格が、2倍から4倍にまで高騰しました。

この物価上昇は、まず銀の玄関口であったスペインで最も激しく起こり、その後、スペインが戦費の支払いや、商品の輸入代金として、銀をヨーロッパ各地に流出させるにつれて、フランス、イギリス、ネーデルラント、ドイツへと、波のように広がっていきました。

もちろん、価格革命の原因は、アメリカ大陸の銀だけに還元できるわけではありません。16世紀のヨーロッパは、ペストの大流行から回復し、人口が著しく増加した時期でもありました。この人口増加が、食糧需要を高め、穀物価格を押し上げたという、「人口増加説」も、価格革命の重要な一因として指摘されています。しかし、アメリカ大陸からの銀の流入が、このインフレを、前例のない規模にまで増幅させた、決定的な要因であったことは、間違いないでしょう。

6.2. 社会構造への影響:没落する階級、台頭する階級

この持続的なインフレーションは、ヨーロッパの社会階級に、それぞれ異なる影響を及ぼし、社会の富の分配構造を、根底から揺さぶりました。

  • 没落する封建領主(地主貴族): 価格革命によって、最も深刻な打撃を受けたのが、中世以来の支配階級であった、封建領主や騎士といった、地主貴族層でした。彼らの収入の源泉は、その所有する土地(荘園)から、農民が支払う地代でした。荘園制の崩壊が進む中で、この地代は、労働や現物ではなく、固定された額の貨幣で支払われる(金銭地代)ようになっていました。しかし、インフレが激しくなると、彼らが受け取る、この「固定額」の貨幣地代の実質的な価値は、どんどん目減りしていきました。例えば、100年前に決めた地代が10シルバーだったとしても、100年後には、物価が3倍になっているため、その10シルバーで買えるものの量は、3分の1になってしまいます。収入が事実上、激減していく一方で、彼らが購入する奢侈品などの価格は上昇し続けるため、多くの封建領主は、経済的に困窮し、その土地を手放さざるを得なくなりました。こうして、中世社会を支えてきた封建貴族の経済的基盤は、価格革命によって、決定的に蝕まれていったのです。
  • 台頭する新興階級: 一方で、この経済的混乱の中から、莫大な利益を上げて、新しい社会の担い手として台頭してくる階級もいました。
    • ブルジョワジー(市民階級): 都市の商人や、手工業の親方(マニュファクチュア経営者)といった、ブルジョワジーは、価格革命の最大の受益者でした。彼らは、商品を仕入れて、それを価格が上昇した市場で販売することで、大きな利潤を得ることができました。また、彼らが支払う労働者の賃金の上昇は、物価の上昇に追いつかなかったため、実質的なコストを抑えることができました。
    • 独立自営農民(ヨーマン): 農村においても、比較的裕福な独立自営農民(イギリスのヨーマンなど)の中には、この変動をうまく利用する者たちが現れました。彼らは、生産した穀物を、価格が高騰した市場で有利に販売し、その一方で、領主に支払う地代は、昔ながらの固定額のままでした。彼らは、こうして蓄積した富で、没落した貴族から土地を買い集め、より大規模な、市場向けの農業経営を行う、農業資本家へと成長していきました。

6.3. 資本主義への移行を加速

価格革命がもたらした、このような社会階級の変動は、ヨーロッパが封建社会から、近代的な資本主義社会へと移行していくプロセスを、劇的に加速させました。

  • 封建制の崩壊: 土地と身分的な支配を基盤とする封建領主が経済的に没落し、その代わりに、貨幣と市場を基盤とするブルジョワジーや、資本家的な農民が台頭したことで、封建的な社会経済システムは、その土台を失いました。
  • 資本の本源的蓄積: 価格革命は、富の、大規模な再分配を引き起こしました。没落した封建貴族や、実質的な賃金が低下した労働者から、勃興しつつあった資本家階級へと、富が移動しました。この過程で蓄積された資本(貨幣)が、その後の産業革命など、さらなる資本主義の発展のための、元手(本源的資本)となったのです。
  • 経済精神の変化: 伝統や身分が重んじられた、安定的な封建社会とは異なり、価格革命の時代は、経済的な変動が日常的で、予測不可能な時代でした。このような環境は、リスクを取ってでも、市場の変動をうまく利用し、利潤を最大化しようとする、新しいタイプの企業家精神を育む土壌となりました。

結論として、価格革命は、アメリカ大陸の発見という、地理的な出来事が、ヨーロッパ社会の最も根幹的な部分、すなわち経済構造と階級関係を、いかにして揺り動かしたかを示す、壮大な歴史的実例です。アメリカの銀山から掘り出された銀は、ヨーロッパの物価を狂わせ、封建領主を没落させ、その一方で、新しい資本家階級を育て上げました。それは、中世世界の静かな黄昏を終わらせ、利潤追求のダイナミズムが社会を動かす、近代資本主義の騒々しい夜明けを告げる、革命の号砲だったのです。


7. 商業革命

価格革命が、ヨーロッパ社会の内部構造を、インフレーションという形で揺さぶった、垂直的な変動であったとすれば、「商業革命(Commercial Revolution)」は、ヨーロッパの経済活動の舞台そのものを、地理的に、そして質的に変容させた、水平的な変動でした。大航海時代によって、アメリカ大陸への航路や、アフリカを迂回するインド航路が開拓された結果、ヨーロッパの商業の中心は、それまで1000年以上にわたって文明の十字路であった地中海から、大西洋岸へと、劇的に移動しました。この「地理上の革命」に加えて、世界規模で拡大した、新しい遠隔地貿易を効率的に運営するため、株式会社や証券取引所といった、革新的な金融・経営システムが次々と生み出されました。これらの変化の総体が「商業革命」であり、それは、ヨーロッパ、特に西ヨーロッパ諸国が、その後の世界の富を支配する、経済的な覇権(ヘゲモニー)を確立するための、決定的な基盤を築き上げたのです。

7.1. 商業の中心地の移動:地中海から大西洋へ

中世ヨーロッパの商業は、二つの主要な軸で展開していました。一つは、ヴェネツィアやジェノヴァといった北イタリアの都市国家が、東地中海(レヴァント地方)でイスラーム商人から香辛料や絹織物を買い付け、ヨーロッパ各地に転売する「東方貿易(レヴァント貿易)」。もう一つは、北ドイツのハンザ同盟の都市が、バルト海や北海で、海産物や木材、穀物などを取引する「北方貿易」でした。この二つの商業圏は、アルプスを越える陸路や、フランスのシャンパーニュ地方で開かれる大市などで結ばれていました。この時代のヨーロッパ経済の中心は、間違いなく地中海でした。

しかし、大航海時代は、この構図を根底から覆しました。

  • ポルトガルのインド航路開拓: ヴァスコ・ダ・ガマが、喜望峰を回る東回り航路を開拓すると、ポルトガルは、アジアの香辛料を、直接、首都リスボンに運ぶことができるようになりました。これにより、ヴェネツィアが独占していた、高価な香辛料貿易は、壊滅的な打撃を受けました。リスボンは、ヴェネツィアに代わる、新しい香辛料貿易の中心地として、急速に繁栄しました。
  • スペインのアメリカ大陸経営: スペインは、アメリカ大陸の植民地から、膨大な量の銀を、セビリアの港に運び込みました。セビリアは、この「新大陸の富」の玄関口として、ヨーロッパ最大の都市の一つにまで成長しました。
  • アントウェルペンの繁栄: 16世紀前半、ヨーロッパ経済のハブとなったのが、ネーデルラント(現在のベルギー)のアントウェルペン(アントワープ)でした。この都市は、地理的にヨーロッパの中心に位置し、ポルトガルがリスボンに運んできた香辛料と、スペインがセビリアに陸揚げした銀、そしてイギリス産の毛織物や、ドイツ・フッガー家の銀などが、すべてここに集積され、ヨーロッパ各地へと配分されていく、国際金融・商業の中心地となりました。

しかし、アントウェルペンの繁栄は、16世紀後半、ネーデルラントがスペインからの独立戦争に突入すると、終焉を迎えます。スペイン軍による破壊と、その後の河口の封鎖によって、アントウェルペンは、その国際港としての機能を失いました。

そして、アントウェルペンに代わって、17世紀のヨーロッパ、ひいては世界経済の覇権を握ったのが、独立戦争を勝ち抜いた、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の首都、アムステルダムでした。アムステルダムは、17世紀を通じて、世界貿易の「覇権都市」として、空前の繁栄を謳歌することになります。

このように、商業革命は、まず、ヨーロッパ経済の中心を、地中海のヴェネツィアから、大西洋岸のリスボン、セビリア、アントウェルペン、そして最終的にアムステルダムへと、ドラマティックに移動させたのです。

7.2. 新しい経営・金融システムの誕生

大航海時代に始まった、世界規模の遠隔地貿易は、従来の個人商人や、家族経営の商会が扱うには、あまりにも大規模で、ハイリスク・ハイリターンな事業でした。一回の航海には、数年の歳月と、莫大な初期投資が必要であり、嵐や海賊、病気などによって、船が帰ってこない危険性も、常に付きまといました。

このような新しいビジネス環境に対応するため、ヨーロッパでは、リスクを分散し、巨額の資本を効率的に集めるための、革新的な経営・金融システムが発明されました。

  • 株式会社の設立: その最も重要な発明が、「株式会社」です。これは、事業に必要な資本を、多くの人々から、株式(ストック)を発行することによって集め、事業から得られた利益は、出資額(株式の保有数)に応じて、配当として分配するという仕組みです。この制度によって、個人の富裕な商人だけでなく、一般の市民も、比較的少額の資金で、ハイリスクな海外貿易事業に参加することが可能になりました。また、たとえ事業が失敗しても、出資者の責任は、自らが出資した金額の範囲内に限定される(有限責任)ため、リスクは分散されました。このシステムを最も効果的に活用したのが、1600年に設立されたイギリス東インド会社と、1602年に設立されたオランダ東インド会社です。これらの会社は、それぞれの国家から、アジア貿易の独占権や、条約の締結権、さらには軍隊の保有や、要塞の建設といった、国家に準じるような強大な権限を与えられていました。彼らは、単なる貿易会社ではなく、アジアにおける、国家の代理人、あるいは「国家内国家」ともいうべき、強力な植民地経営体でした。
  • 証券取引所の開設: 株式会社が発行する株式は、自由に売買することができました。この株式を、不特定多数の人々が、組織的に売買するための常設の市場として、「証券取引所」が設立されました。世界で最初の本格的な証券取引所は、1609年に、アムステルダムに開設されたと言われています。ここでは、オランダ東インド会社の株式などが取引され、投機的な資金が、世界中から集まりました。
  • 銀行と金融技術の発展: アムステルダムには、1609年に、アムステルダム振替銀行が設立されました。この銀行は、為替取引や、手形による決済の安定化を図り、アムステルダムを、ヨーロッパの国際金融センターとしての地位に押し上げました。保険制度、特に海上保険も、この時代に大きく発展し、遠隔地貿易のリスクを軽減する上で、重要な役割を果たしました。

7.3. 世界経済の覇権へ

商業革命を通じて、西ヨーロッパ諸国、特にオランダとイギリスは、世界中の富を効率的に集め、再投資し、さらに大きな富を生み出すという、強力な資本主義システムを構築しました。

  • 世界システムの中核へ: ポルトガルやスペインが、主に貴金属の収奪や、香辛料貿易の独占といった、比較的単純な経済活動に留まったのに対し、オランダやイギリスは、より高度な金融・商業システムを構築することで、世界貿易の「ルールメーカー」となりました。彼らは、アジアの物産をヨーロッパに運ぶだけでなく、アジアの地域間で行われる貿易(中継貿易)にも深く食い込み、莫大な利益を上げました。
  • 産業革命への布石: 商業革命によって蓄積された莫大な資本と、世界中に張り巡らされた市場ネットワークは、18世紀後半に、イギリスで始まる「産業革命」の、重要な前提条件となりました。世界中から集められた富が、新しい技術への投資を可能にし、世界中に広がる植民地が、工業製品の市場と、原料の供給地となったのです。

結論として、商業革命は、大航海時代がもたらした地理的拡大を、ヨーロッパ、特にオランダやイギリスが、経済的な覇権へと転化させるための、決定的なプロセスでした。世界の中心を地中海から大西洋へと移し、株式会社や証券取引所といった、近代資本主義の根幹をなす制度を生み出したこの革命は、その後の数世紀にわたる、ヨーロッパによる、世界の経済的支配を、不可逆的なものにしたのです。


8. 大西洋三角貿易と奴隷貿易

商業革命によって、ヨーロッパ、特に大西洋岸の国々が、世界経済の新たな中心として台頭していく中で、その繁栄の基盤を、最も暗い形で支えていたのが、大西洋を舞台に展開された、大規模な貿易システムでした。それは、ヨーロッパ、アフリカ、そしてアメリカ大陸という、三つの大陸を、一つの巨大な経済的連環の中に組み込んだことから、「大西洋三角貿易(Triangular Trade)」と呼ばれます。この貿易の各辺では、様々な商品が取引されましたが、そのシステム全体を、莫大な利益を生み出すエンジンとして駆動させていた、最も重要な「商品」は、アフリカ大陸から、暴力的に連れ去られた、数百万、数千万の人々、すなわち、アフリカ人奴隷でした。大西洋奴隷貿易は、近代世界システムの形成期における、最も非人道的で、最も罪深い側面であり、その歴史は、三つの大陸のその後の運命に、今日まで消えることのない、深い傷跡を残しています。

8.1. 三角貿易の構造

16世紀から19世紀にかけて、約3世紀以上にわたって続けられた大西洋三角貿易は、一般的に、以下の三つの航路(辺)から構成される、循環的な貿易システムとして説明されます。

  • 第一辺:ヨーロッパからアフリカへイギリスのリヴァプールや、フランスのナントといった、ヨーロッパの港から出発した船は、様々な工業製品を積み込んで、アフリカの西海岸へと向かいました。積荷の主役は、銃や火薬といった武器、ラム酒やブランデーといったアルコール、そして、インド産の綿織物や、ヨーロッパ産の安価な織物、ガラス玉や金属製品などでした。これらの品々は、アフリカ沿岸の、現地の王や商人たちとの、奴隷交換のための、支払い手段として用いられました。
  • 第二辺:アフリカからアメリカ大陸へ(中間航路)アフリカの西海岸の港(奴隷海岸など)で、船は、ヨーロッパから運んできた商品と引き換えに、アフリカ人の奴隷を「買い付け」ました。これらの奴隷の多くは、アフリカ内部の部族間戦争の捕虜や、現地の権力者による「奴隷狩り」によって捕らえられた人々でした。船倉に、鎖で繋がれ、家畜以下の劣悪な環境で、ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた彼らは、大西洋を横断して、アメリカ大陸や、カリブ海の島々へと輸送されました。この、約2ヶ月から3ヶ月に及ぶ、大西洋横断の航海は、「中間航路(Middle Passage)」と呼ばれ、その過酷さと悲惨さで知られています。不衛生な環境、栄養失調、そして絶望から、輸送中に、奴隷の10%から20%が、命を落としたと言われています。これは、人類史上、最も大規模で、最も残酷な、強制移住でした。
  • 第三辺:アメリカ大陸からヨーロッパへアメリカ大陸の港に到着した奴隷たちは、商品として「売却」され、その労働力は、主にサトウキビ、タバコ、綿花、コーヒーなどを栽培する、大規模農園(プランテーション)に投入されました。奴隷を売り払った船は、今度は、これらのプランテーションで生産された、砂糖、綿花、タバコ、糖蜜といった、ヨーロッパで高い需要のある、植民地産の農産物を、船に満載しました。そして、これらの商品を、ヨーロッパに持ち帰り、高値で売りさばいて、莫大な利益を得たのです。この利益を元手に、船主は、再びアフリカへ向かうための、工業製品を買い付け、次の航海へと向かいました。

この、ヨーロッパ→アフリカ→アメリカ→ヨーロッパという、循環的な貿易ルートを通じて、ヨーロッパの商人や船主、そしてプランテーション所有者たちは、巨万の富を築き上げていきました。

8.2. なぜアフリカ人奴隷だったのか?

アメリカ大陸の植民地、特に、カリブ海やブラジル、アメリカ南部のプランテーションでは、なぜ、これほど大規模な、アフリカ人奴隷の労働力が必要とされたのでしょうか。その背景には、経済的な合理性と、人種的な偏見が、複雑に絡み合った、構造的な要因が存在しました。

  1. 先住民人口の激減: 当初、スペイン人たちは、アメリカ大陸の先住民(インディオ)を、エンコミエンダ制などの下で、鉱山や農園での強制労働に従事させました。しかし、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病と、過酷な労働によって、先住民の人口は、前述の通り、壊滅的に減少してしまいました。これにより、植民地では、深刻な労働力不足が発生しました。
  2. ヨーロッパ人労働力の限界: ヨーロッパから、年季契約の白人労働者などが、植民地に渡ってきましたが、彼らは、熱帯の過酷な気候や、マラリアなどの風土病に弱く、また、契約期間が終われば自由になるため、安定した労働力とはなりえませんでした。
  3. アフリカ人への需要: これに対して、アフリカ、特に西アフリカの人々は、ヨーロッパ人から見て、いくつかの「都合の良い」条件を備えていると考えられました。
    • 熱帯気候への耐性: 彼らは、熱帯の気候に慣れており、マラリアなどの熱帯病に対する、ある程度の抵抗力を持っていました。
    • 労働力としての経験: 西アフリカには、もともと農業社会が発展しており、組織的な農作業の経験がありました。
    • 逃亡の困難さ: 故郷のアフリカ大陸から遠く離れた、見知らぬ土地に連れてこられた彼らは、逃亡しても、行く当てもなく、また、その肌の色から、容易に識別されてしまうため、逃亡は極めて困難でした。
    • 既存の奴隷交易網: アフリカ大陸には、イスラーム商人が主導する、サハラ砂漠を横断する奴隷貿易など、ヨーロッパ人が到来する以前から、奴隷制と奴隷交易が存在していました。ヨーロッパの奴隷商人は、この既存のシステムに乗り、現地の権力者と協力することで、効率的に、大量の奴隷を「調達」することができたのです。

これらの要因に、キリスト教徒ではないアフリカ人を、人間以下の存在と見なす、ヨーロッパ人の深刻な人種的偏見が加わり、アフリカ人奴隷の使役は、経済的に合理的で、道徳的にも許される行為であると、正当化されていきました。

8.3. 奴隷貿易が三つの大陸に与えた影響

大西洋奴隷貿易は、この貿易に関わった、三つの大陸の社会に、それぞれ、深く、そして永続的な影響を及ぼしました。

  • ヨーロッパへの影響:
    • 経済的繁栄: 三角貿易から得られた莫大な利益は、ヨーロッパの資本家階級に、巨額の富をもたらしました。この「本源的資本の蓄積」は、18世紀の産業革命を準備する、重要な経済的基盤となりました。特に、イギリスの産業都市、リヴァプールやマンチェスターの発展は、奴隷貿易と、奴隷が生産した綿花に、深く依存していました。
    • 消費文化の形成: 奴隷の労働によって安価に生産された砂糖やコーヒー、タバコは、ヨーロッパの一般市民の生活にも浸透し、新しい消費文化を生み出しました。
  • アフリカへの影響:
    • 人口の喪失と社会の歪み: 奴隷貿易は、アフリカ、特に西アフリカから、数世紀にわたって、最も生産的であるはずの、若い世代の男女を、数千万人規模で奪い去りました。この人口流出は、アフリカ社会の、正常な発展を、深刻に阻害しました。
    • 部族間対立の激化: ヨーロッパ人が持ち込んだ銃は、現地の権力者にとって、奴隷狩りのための、強力な武器となりました。奴隷を獲得するために、部族間の戦争は、より頻繁に、より破壊的になり、アフリカ社会の内部対立を、恒久的に煽ることになりました。
    • 経済の停滞: 奴隷という「人的資源」の輸出が、最も利益の上がる「産業」となったため、健全な農業や手工業の発展は、妨げられました。アフリカ経済は、ヨーロッパに従属する、モノカルチャー的な構造に、深く組み込まれていきました。
  • アメリカ大陸への影響:
    • プランテーション経済の確立: アフリカ人奴隷の労働力は、カリブ海地域や、ブラジル、アメリカ南部における、砂糖や綿花を中心とする、大規模なプランテーション経済を成り立たせる、不可欠の土台でした。
    • 多民族社会の形成: 奴隷として強制移住させられたアフリカ人は、アメリカ大陸に、アフリカの文化、宗教、音楽、言語をもたらしました。彼らの文化は、ヨーロッパ系の文化や、先住民の文化と、複雑に混じり合い、今日のラテンアメリカや、アメリカ合衆国における、多様で、クレオール的な文化の基層を形成しました。
    • 人種問題の根源: 肌の色に基づいて人々を差別し、一方を奴隷として所有するという制度は、アメリカ大陸の社会に、根深い人種差別の構造を植え付けました。この奴隷制の遺産は、アメリカの南北戦争や、その後の公民権運動を経てもなお、現代に至るまで、アメリカ社会が抱える、最も深刻な問題の一つとして、残り続けています。

結論として、大西洋三角貿易は、近代ヨーロッパの資本主義的繁栄を、文字通り、アフリカ人の血と汗と涙の上に築き上げた、グローバルな搾取のシステムでした。それは、世界を一つの経済システムに結びつけると同時に、そのシステムの中に、支配する者と支配される者、搾取する者と搾取される者という、不平等で、人種的な階層構造を、深く刻み込んだのです。


9. 国際分業の始まり

大航海時代を経て、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸、そしてアジアの一部が、一つの広大な交易ネットワークの中に組み込まれた結果、人類の歴史上初めて、地球規模での経済的な分業体制、すなわち「国際分業(International division of labor)」の原型が形成され始めました。これは、各地域が、それぞれ異なる経済的な役割を担い、相互に依存し合う、新しい世界経済システム(近代世界システム)の始まりを意味しました。しかし、この分業は、各地域が対等な立場で、それぞれの比較優位に基づいて、自発的に参加したものでは、決してありませんでした。それは、軍事力と経済力を背景とした、西ヨーロッパ諸国によって、一方的に構築された、不平等で、階層的な構造を持っていました。このシステムの中で、西ヨーロッパは、自らを、高付加価値な製品を生産する「中心(コア)」と位置づけ、他の広大な地域を、安価な原料と労働力を供給する「周辺(ペリフェリー)」として、従属させていったのです。

9.1. 近代世界システムの構造:中心・半周辺・周辺

この、16世紀に形成され始めた、新しい世界経済の階層構造を、理論的に分析したのが、アメリカの歴史社会学者、イマニュエル・ウォーラーステインです。彼の提唱した「近代世界システム論」は、この国際分業の構造を、「中心」「半周辺」「周辺」という、三つのカテゴリーで説明します。

  • 中心(コア):
    • 地域: 16世紀から17世紀にかけて、この「中心」の地位を占めたのは、イギリス、オランダ、フランスといった、大西洋岸の西ヨーロッパ諸国でした。
    • 経済的役割: これらの国々は、強力な中央政府(絶対王政)と、発達した商業・金融システム(商業革命)を背景に、世界経済のハブとして機能しました。彼らは、「周辺」地域から安価な原料(貴金属、砂糖、綿花など)を輸入し、それを加工して、付加価値の高い工業製品(毛織物、綿織物、銃など)を生産し、それを再び「周辺」地域や、他の「中心」地域に輸出して、莫大な利益を上げました。
    • 労働形態: この地域では、封建的な身分的束縛は、価格革命などを経て、ほぼ解体されており、自由な賃金労働者が、主要な労働力となっていました。
  • 周辺(ペリフェリー):
    • 地域: 「周辺」とされたのは、主に、西ヨーロッパによって植民地化された、南北アメリカ大陸と、奴隷貿易によって、このシステムに組み込まれた、西アフリカの一部でした。
    • 経済的役割: これらの地域は、「中心」の経済的繁栄を支えるための、特定の一次産品を、安価に供給する役割を、一方的に割り当てられました。ラテンアメリカは、スペインに銀を供給し、カリブ海地域やブラジル、アメリカ南部は、ヨーロッパに砂糖、タバコ、綿花などを供給しました。
    • 労働形態: これらの一次産品を、安価に、かつ大量に生産するため、「周辺」地域では、極めて収奪的な、非自由な労働形態が、強制的に導入されました。ラテンアメリカの鉱山では、先住民の強制労働が、そして、カリブ海やブラジルのプランテーションでは、アフリカから連れてこられた、人身売買による奴隷労働が、その生産の基盤となっていました。つまり、「中心」における自由な賃金労働の発展は、「周辺」における非自由な強制労働の強化と、表裏一体の関係にあったのです。
  • 半周辺(セミ・ペリフェリー):
    • 地域: ウォーラーステインは、「中心」と「周辺」の中間的な存在として、「半周辺」というカテゴリーを設けます。16世紀においては、かつての経済的中心であった、スペイン、ポルトガル、北イタリアなどが、この地位にありました。また、東ヨーロッパ(プロイセンやポーランドなど)も、これに含まれます。
    • 経済的役割: これらの地域は、「中心」に対しては、穀物などの、やや加工度の低い産品を供給する、「周辺」に近い役割を果たし、一方で、「周辺」地域に対しては、限定的な支配力を行使する、「中心」に近い役割も担う、中間的な存在でした。東ヨーロッパでは、西ヨーロッパの都市への穀物輸出を増やすため、領主が、農民への支配を、逆に強化する「再版農奴制(農奴制の強化)」が見られました。
  • 外部(外部アリーナ):
    • このシステムの外側には、まだ、このヨーロッパ中心の世界経済に、完全には組み込まれていない、「外部」の地域が存在しました。オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、そして中国の明・清王朝といった、アジアの巨大な帝国群や、日本などが、これにあたります。これらの地域は、依然として、自立した強力な経済圏を維持していましたが、香辛料や銀、絹、茶などの交易を通じて、部分的には、この世界システムとの接触を持ち始めていました。しかし、18世紀後半から19世紀にかけて、産業革命を経たヨーロッパの力が、圧倒的なものになると、これらの「外部」の地域も、次々と、この国際分業のシステムの中に、従属的な形で組み込まれていくことになります。

9.2. 分業体制を支えたメカニズム

この、不平等な国際分業体制は、自然に成立したわけではなく、それを維持・強化するための、いくつかのメカニズムによって支えられていました。

  • 軍事的な優位性: ヨーロッパ諸国は、火器や、武装した艦船といった、優れた軍事技術を背景に、他の地域に対して、一方的に、自らに有利な交易条件や、政治的支配を押し付けることができました。コンキスタドールによるアメリカ大陸の征服は、その最も極端な例です。
  • 重商主義政策: 「中心」であるヨーロッパの絶対君主たちは、「重商主義」と呼ばれる、国家主導の経済政策を推進しました。これは、国家の富とは、その国が保有する金銀の量(貨幣)であると考え、輸出を最大限に促進し、輸入を抑制することで、富を国外に流出させず、国内に蓄積することを目指す政策です。そのために、国家は、自国の産業を保護するための保護関税を設け、ライバル国の商人を排除し、自国の商人に貿易の独占権を与える、特許会社(東インド会社など)を設立しました。また、植民地に対しては、宗主国(本国)以外の国と貿易することを禁じ、本国の産業と競合するような工業の発展を抑制し、本国が必要とする原料の生産のみに、特化させる政策(植民地主義)をとりました。これらの政策は、自由な競争を妨げ、「中心」と「周辺」の間の、固定化された分業関係を、人為的に作り出し、維持するための、強力な手段でした。

9.3. 長期的な帰結:「開発」と「低開発」

16世紀に始まった、この不平等な国際分業体制は、その後の世界の歴史に、決定的な影響を及ぼしました。

  • 南北問題の根源: このシステムは、世界の特定の地域(中心=ヨーロッパ、後の北米、日本など)に、富と技術、そして産業が集中する「開発(development)」のプロセスと、他の広大な地域(周辺=アジア、アフリカ、ラテンアメリカの多くの国々)が、モノカルチャー経済(特定の一次産品の生産に依存する経済)に固定化され、経済的に自立できない状態に置かれる「低開発(underdevelopment)」のプロセスとを、同時に、そして相互に連関させながら、生み出していきました。つまり、「周辺」の「低開発」は、「中心」の「開発」の、必要条件だったのです。
  • 現代世界への継承: この、16世紀に形成された、中心と周辺という、世界経済の基本的な階層構造は、植民地が独立を達成した、第二次世界大戦後も、形を変えながら、本質的には、現代に至るまで、継承されていると、多くの論者が指摘しています。現代の、いわゆる「先進国」と「発展途上国」との間の、経済格差の問題、すなわち「南北問題」の歴史的な根源は、この、大航海時代に始まった、不平等な国際分業のシステムに、深く遡ることができるのです。

結論として、大航海時代がもたらした「世界の一体化」は、バラ色のものではありませんでした。それは、西ヨーロッパを頂点とする、明確な階層構造を持つ、グローバルな経済システムの誕生であり、世界の大部分を、そのシステムに従属させる、長いプロセスの始まりでした。この、不平等な国際分業体制の形成こそが、大航海時代が、近代世界にもたらした、最も重要で、そして最も根深い、遺産であると言えるでしょう。


10. 絶対王政の成立

16世紀から18世紀にかけてのヨーロッパは、大航海時代がもたらした世界規模の経済変動と、宗教改革が引き起こした深刻な社会・政治的動乱が交錯する、激しい転換期でした。この混乱の時代の中から、中世以来の封建的な政治秩序に代わる、新しい強力な国家形態が、ヨーロッパ各地で出現しました。それが、「絶対王政(Absolutism)」、あるいは「絶対主義」と呼ばれる、中央集権的な君主制です。絶対王政は、国王(あるいは皇帝)が、国内のあらゆる勢力を抑え、国家の統治権力を、その一身に集中させた、強力な政治体制を指します。この新しい国家体制の成立は、大航海時代以降の、経済構造の変化と、深く結びついていました。海外植民地からの富の流入と、広域化した商業活動は、国王に、それまで依存していた封建貴族を凌駕する、新しい財源と、新しい同盟者をもたらしたのです。

10.1. 絶対王政の構造:官僚・常備軍・重商主義

絶対王政は、国王が、単に独裁的な権力を振るったというだけではありません。その権力を、国内の隅々にまで及ぼし、安定的に行使するための、いくつかの制度的な支柱を持っていました。

  • 官僚制: 絶対君主は、封建貴族のような、世襲的な中間権力に頼るのではなく、国王にのみ忠誠を誓う、専門的な知識を持った、俸給官僚の集団を、統治の道具として用いました。これらの官僚は、主に、大学で法学を学んだ、市民階級(ブルジョワジー)や、下級貴族の出身者から登用されました。彼らは、国王の命令を、全国に、統一的かつ効率的に実行する、行政機構の中核をなし、徴税、司法、地方行政といった、国家の統治機能を担いました。
  • 常備軍: 中世の軍隊が、国王が、有事に、諸侯(封建貴族)に召集をかけて編成する、非効率で、忠誠心も不安定な、封建軍であったのに対し、絶対君主は、国家の財源で直接雇用され、国王の命令にのみ従う、大規模な、常設の軍隊(常備軍)を維持しました。この常備軍は、火器(大砲や鉄砲)で武装しており、地方で反乱を起こす封建貴族の城を、容易に打ち破る、圧倒的な軍事力を有していました。常備軍は、対外的には、領土拡大や、貿易の利権をめぐる戦争(王朝戦争)を戦うための道具であり、対内的には、貴族の反抗や、民衆の反乱を抑えつけ、国王の権威を保証する、暴力装置でした。
  • 王権神授説: 絶対王政の支配を、思想的に正当化したのが、「王権神授説」です。これは、国王の権力は、神から直接授けられたものであり、人民から与えられたものではない、という思想です。したがって、国王は、神に対してのみ責任を負い、人民や、議会、教会といった、地上のいかなる権力にも、拘束されることはない、とされました。この思想は、国王の権力を、神聖不可侵なものとして、絶対化する上で、極めて強力なイデオロギー的支柱となりました。フランスのルイ14世の時代の、ボシュエなどが、その代表的な論者です。

これらの、官僚制と常備軍という、巨大な国家装置を維持するためには、莫大な、そして安定した財源が必要でした。その財源を確保するために、絶対君主たちが、国家ぐるみで推進した経済政策が、前述の「重商主義」です。国王は、国内の商工業者(ブルジョワジー)を保護・育成し、彼らの経済活動を支援する一方で、彼らから、租税という形で、富を吸い上げました。この、商工業者から得られる税収と、海外植民地からの富こそが、絶対王政の、巨大な国家機構を支える、経済的な大動脈だったのです。

10.2. 経済的変動と絶対王政の社会的基盤

絶対王政は、国王と、二つの対立する社会階級との、絶妙なバランスの上に成り立っていた、と分析することができます。

  • 没落しつつある封建貴族: 価格革命によって経済的に打撃を受け、また、火器の発達によって軍事的な優位性を失った、伝統的な封建貴族は、もはや、国王の権力に単独で対抗する力を失っていました。しかし、彼らは依然として、高い社会的威信と、広大な土地を所有する、有力な階級でした。絶対君主は、彼らから、政治的・軍事的な力を奪う一方で、彼らに、宮廷での名誉職や、軍隊の高級将校の地位、そして免税特権などを与えることで、その社会的特権を保証し、体制の中に巧みに取り込んでいきました。ヴェルサイユ宮殿に集められたフランスの貴族たちは、かつての独立した領主ではなく、国王の栄光を飾る、華麗な、しかし無力な、廷臣(ていしん)と化していたのです。
  • 勃興しつつある市民階級(ブルジョワジー): 大航海時代以降の、商業革命の中で、富を蓄積し、新しい社会の担い手として台頭してきたのが、大商人や、金融家、マニュファクチュア経営者といった、ブルジョワジーです。彼らは、経済的な実力を持ちながらも、身分制度の中では、政治的な発言力が弱く、また、国内の関税や、ギルドの規制、そして貴族の横暴といった、封建的な障害が、自らの経済活動の自由な発展を妨げていることに、不満を抱いていました。絶対君主は、このブルジョワジーにとって、理想的なパートナーでした。国王は、国内の市場を統一し、度量衡や通貨を整備し、海軍力で、海外の交易路の安全を確保するなど、ブルジョワジーの経済活動にとって、有利な環境を、国家の力で提供しました。その見返りとして、ブルジョワジーは、国王に、財政的な支援(納税や国債の購入)を行い、また、官僚として、その統治を支えました。

このように、絶対王政は、没落しつつあった旧勢力(封建貴族)と、勃興しつつあった新興勢力(ブルジョワジー)という、二つの階級の力が、拮抗する、過渡的な時代に、その両者の上に君臨し、両者を巧みに統制することで、自らの絶対的な権力を確立した、特殊な国家形態であった、と理解することができます。

10.3. 各国の絶対王政

絶対王政は、ヨーロッパの各国で、それぞれ異なる形で展開しました。

  • スペイン: 16世紀のスペインは、アメリカ植民地からの、莫大な銀収入を背景に、フェリペ2世の時代に、ヨーロッパ最強の絶対王政を築きました。彼は、カトリックの擁護者として、オスマン帝国と戦い(レパントの海戦)、ネーデルラントの独立運動を弾圧しました。しかし、その富を、国内の産業育成にではなく、絶え間ない戦争と、宮廷の浪費に費やしたため、無敵艦隊がイギリスに敗れたことなどをきっかけに、17世紀には、急速に衰退していきました。
  • フランス: フランスの絶対王政は、17世紀後半、ルイ14世(太陽王)の時代に、その典型的な完成を見ました。彼は、財務総監コルベールの下で、強力な重商主義政策(コルベール主義)を推進し、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建設して、王権の威光を誇示しました。しかし、彼の治世もまた、度重なる侵略戦争と、宮殿の維持費によって、国家財政を、深刻な危機に陥らせました。
  • イギリス: イギリスでは、テューダー朝、スチュアート朝の時代に、絶対王政が試みられましたが、議会の伝統が根強かったため、大陸諸国のような、強力な絶対王政は、確立されませんでした。国王と議会の対立は、やがて、ピューリタン革命と名誉革命という、二つの市民革命を引き起こし、イギリスは、絶対王政ではなく、議会主権の立憲君主制へと、独自の道を歩むことになります。

結論として、絶対王政は、中世の封建国家が解体され、近代的な国民国家が形成されていく、過渡期に出現した、強力な中央集権体制でした。それは、大航海時代以降の、グローバルな経済の変動を背景に、国王が、貴族と市民階級のバランスの上に、官僚制と常備軍を駆使して、国家を統治するシステムでした。絶対王政は、国内市場を統一し、国家としてのアイデンティティを形成する上で、一定の歴史的な役割を果たしましたが、その権力と富が、国王と、一部の特権階級に集中する、その構造的な矛盾は、やがて、ブルジョワジーを中心とする、市民たちの、より一層の政治的権利の要求を、引き起こすことになります。そして、そのエネルギーが爆発する時、絶対王政の時代は終わりを告げ、ヨーロッパは、「市民革命」の時代へと、突入していくのです。


Module 11:大航海時代と世界の一体化の総括:単一世界システムの誕生と不均等な未来

本モジュールが探求した大航海時代は、人類が初めて、地球が限定された一つの空間であることを、物理的に経験した、決定的な転換期であった。それは、ヨーロッパという、ユーラシア大陸の西の半島から放たれたエネルギーが、世界中の孤立した文明を、良くも悪くも、一つの巨大なネットワークの中に、否応なく結びつけていく、壮大なプロセスだった。コロンブス交換は、地球の生態系を永遠に変え、価格革命と商業革命は、資本主義という新しい経済の論理を、世界規模で展開させる原動力となった。しかし、この「一体化」は、決して対等なパートナーシップの始まりではなかった。それは、ヨーロッパを「中心」とし、世界の他の広大な地域を「周辺」として位置づける、不均等で、階層的な、単一の世界システム(近代世界システム)の誕生の瞬間であった。この時代に形成された、富と権力の不均衡な構造と、それを正当化するヨーロッパ中心主義的な世界観は、その後の植民地主義、帝国主義の時代を経て、現代世界の南北問題に至るまで、なおも根深い影響を及ぼし続けているのである。

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