【基礎 世界史(通史)】Module 12:ヨーロッパ絶対王政の時代

当ページのリンクには広告が含まれています。
  • 本記事は生成AIを用いて作成しています。内容の正確性には配慮していますが、保証はいたしかねますので、複数の情報源をご確認のうえ、ご判断ください。

本モジュールの目的と構成

前モジュールで探求した大航海時代とそれに続く経済変動は、ヨーロッパの政治秩序に巨大な地殻変動をもたらしました。海外から流入する富、拡大する商業ネットワーク、そして深刻化する宗教対立という激動の中で、中世以来の地方分権的な封建国家は解体され、その跡地から国王が官僚と常備軍を手中にして国家の全権力を掌握する強力な中央集権国家「絶対王政」が誕生します。本モジュールは17世紀から18世紀にかけてヨーロッパを席巻したこの絶対王政の時代を、その栄光と矛盾、そして内側からそれを突き崩していく新しい思想の胎動という多面的な視点から解き明かすことを目的とします。西ヨーロッパにおける典型としてのスペインとフランス、それとは全く異なる道を歩んだイギリス、そして三十年戦争の廃墟から新たに台頭する中東欧の強国プロイセン、オーストリア、ロシア。これらの国家が覇権をめぐって繰り広げるダイナミックな国際関係と、その背景で進行していた人類の世界観を根底から覆す「科学革命」と「啓蒙思想」。これらが複雑に絡み合い次の時代である「市民革命の時代」を準備していく壮大な歴史のドラマを探求します。

この複雑で決定的な時代を理解するために本モジュールは以下の学習項目で構成されています。

  1. スペイン絶対王政の全盛と衰退: 「太陽の沈まぬ帝国」と謳われたスペインがアメリカ大陸からの銀を背景に築いた栄華と、その富がかえって国内産業の空洞化を招き絶え間ない戦争によって衰退していく「繁栄の逆説」を分析します。
  2. フランス絶対王政とルイ14世: 「太陽王」ルイ14世の下で完成されたヨーロッパ絶対王政の典型を、ヴェルサイユ宮殿という壮麗な舞台装置、コルベールの重商主義政策、そして繰り返される侵略戦争という光と影の両面から考察します。
  3. イギリス革命(ピューリタン革命、名誉革命): 大陸の絶対王政化の波に抗い国王と議会が二度にわたって激しく衝突したイギリス革命の過程を追い、なぜこの国だけが異なる政治体制への道を歩んだのかを探ります。
  4. 立憲君主制の確立: 革命の帰結として国王の権力が法(憲法)によって制限され議会が国政の主権を握るという「立憲君主制」が世界で初めて確立される過程と、その歴史的意義を解明します。
  5. プロイセンとオーストリアの台頭: 三十年戦争後のドイツで軍国主義をテコに急速に強国化したプロイセンと、多民族国家の困難を抱えながらも大国の地位を維持しようと改革を進めるオーストリアという二つの新しいプレイヤーの登場を分析します。
  6. ポーランド分割: 強力な中央集権化に失敗した国家が隣接する絶対王政国家の草刈り場となり、地図の上から姿を消すという悲劇を通じてこの時代の国際政治の冷厳な現実を考察します。
  7. ロシア帝国の成立と西欧化政策: 後進国であったロシアがピョートル大帝という規格外の君主の強力なリーダーシップの下、いかにして野蛮な西欧化改革を断行しヨーロッパ列強の一員へと変貌を遂げたのかを検証します。
  8. ヨーロッパの国際戦争(七年戦争など): 宗教に代わって「国家理性」と「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」が国際関係の原則となる中で、ヨーロッパ全土と海外植民地を巻き込んで繰り広げられた七年戦争などの国際紛争の実態に迫ります。
  9. 科学革命: コペルニクスからニュートンに至る宇宙観・自然観の根本的な転換が、いかにして「神の意志」に代わって「自然法則」という新しい世界像を提示し近代的な知の枠組みを創造したのかを探ります。
  10. 啓蒙思想: 科学革命によって確立された「理性」の光を人間社会や政治制度そのものに当て、王権神授説や身分制度といった旧来の権威を批判し革命の思想的武器を準備したロック、モンテスキュー、ルソーらの思想を分析します。

本モジュールを通じて読者は絶対王政という政治体制の構造的理解にとどまらず、それが近代的な国際関係そして近代的な世界観そのものといかに深く結びついていたのかを体系的に把握することができるでしょう。それは現代世界の政治と社会の原型がこの時代の権力と知性のダイナミックな相互作用の中からいかにして生み出されたのかを理解する旅となります。


目次

1. スペイン絶対王政の全盛と衰退

16世紀後半ヨーロッパにおいて絶対王政という新しい国家形態を他国に先駆けて、そして最も壮大なスケールで体現したのがハプスブルク家が統治するスペインでした。特にフェリペ2世(在位1556-1598)の治世においてスペインはアメリカ大陸の広大な植民地(ヌエバ・エスパーニャ)とヨーロッパにまたがる広大な領土を支配し、「太陽の沈まぬ帝国」としてその栄光の頂点を迎えます。アメリカ大陸のポトシ銀山などから流入する莫大な富を背景にスペインはヨーロッパ最強の軍事力を誇り、カトリック世界の擁護者としてその政治的・文化的影響力は絶大なものがありました。しかしその輝かしい繁栄の陰では帝国を内側から蝕む深刻な構造的矛盾が進行していました。アメリカ大陸の富は皮肉にもスペイン経済の活力を奪い、絶え間ない戦争はその国力を消耗させました。フェリペ2世の死後スペインは「長い17世紀」と呼ばれる緩やかでしかし決定的な衰退の時代へと入っていきます。

1.1. 全盛期:フェリペ2世と「太陽の沈まぬ帝国」

フェリペ2世は父である神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)から、スペイン、ナポリ、シチリア、ミラノ、ネーデルラント、そして広大なアメリカ植民地という巨大な遺産を受け継ぎました(オーストリアと神聖ローマ皇帝位は叔父のフェルディナント1世が継承)。さらに1580年にはポルトガル王位も兼ねることになり、ブラジルやアジアのポルトガル植民地をも手中に収め、文字通り世界中に領土を持つ最初の「世界帝国」の君主となったのです。

彼の統治はマドリード郊外に建設された壮大で厳格なエル・エスコリアル宮殿に象徴されます。修道院と宮殿が一体化したこの建物は彼が世俗の君主であると同時に敬虔なカトリックの信仰者であり、官僚的な文書を通して広大な帝国を統治する「書類王」であったことを物語っています。

彼の治世における「栄光」は主にカトリックの擁護者としての軍事的成功によって示されます。

  • レパントの海戦(1571年): フェリペ2世はローマ教皇、ヴェネツィアと同盟(神聖同盟)を結び、当時地中海で猛威を振るっていたオスマン帝国の海軍とギリシア沖のレパントで激突しました。この海戦でスペインを主力とする連合艦隊はオスマン艦隊に決定的な勝利を収めました。これは長年にわたってヨーロッパを脅かしてきたオスマン帝国の西方への拡大を阻止する上で画期的な勝利であり、キリスト教世界全体の凱歌として称賛されました。

この時期スペインの首都マドリードは帝国の政治的中心として栄え、文化面でも画家のエル・グレコや作家のセルバンテス(『ドン・キホーテ』の作者)などが活躍する「スペイン黄金世紀」を迎えました。その国力と威信はまさに天下に並ぶものがないように見えました。

1.2. 衰退の構造的要因:繁栄の逆説

しかしこの壮大な帝国の繁栄は極めて脆弱な土台の上に成り立っていました。アメリカ大陸の富といういわば「ドーピング」に依存した経済は、スペイン社会の健全な発展を深刻に歪めてしまったのです。

第一の要因:経済的空洞化

  • 価格革命の直撃: アメリカ大陸から流入した膨大な銀はスペイン国内にヨーロッパのどの国よりも激しいインフレーション(価格革命)を引き起こしました。物価、特に生産コストが高騰したためスペイン国内の毛織物業などの産業は国際的な価格競争力を完全に失ってしまいました。人々は自国で生産された高価な製品よりもネーデルラントやイギリスから輸入される安価な製品を買い求めるようになりました。
  • 富の国外流出: スペイン国王はアメリカの銀を国内の産業育成に投資するのではなく、そのほとんどをヨーロッパ各地で繰り広げる絶え間ない戦争の戦費や外国製品の輸入代金の支払いに充ててしまいました。その結果アメリカ大陸の銀はスペインを素通りしてアムステルダムやロンドンの銀行家、あるいはフランスやイタリアの商人たちの懐へとまたたく間に流出していきました。スペインはアメリカの富をヨーロッパへと流し込む単なる「漏斗(じょうご)」の役割しか果たせなかったのです。
  • 産業構造の脆弱性: 牧羊業を営む特権ギルド(メスタ)が国内の農業よりも優先されたため穀物の自給率も低く、食糧さえも輸入に頼るという歪んだ経済構造になっていました。富の源泉が汗水流して働く生産活動ではなく植民地からの収奪にあるという意識は、貴族階級だけでなく社会全体に労働を軽視する風潮を蔓延させました。

第二の要因:絶え間ない戦争と帝国の過剰拡大

フェリペ2世はその治世を通じて帝国の広大な領土のいたるところで、高価な戦争を続けなければなりませんでした。

  • ネーデルラント独立戦争(八十年戦争、1568-1648): 彼の統治下で最も深刻で最も高くついた戦争がネーデルラントの独立戦争でした。当時ヨーロッパで最も商工業が発達していたこの地域でフェリペ2世がカトリックの信仰を強要しプロテスタント(カルヴァン派)を弾圧し、また都市の自治権を奪って重税を課そうとしたため大規模な反乱が起こりました。この戦争は80年にもわたって続き、スペインの財政と軍事力を底なしの沼のように消耗させ続けました。
  • イギリスとの対立と無敵艦隊の敗北(1588年): ネーデルラントの独立運動を支援しまたスペインの銀輸送船団に対して海賊行為(私掠船)を奨励していたエリザベス1世統治下のイギリスに対して、フェリペ2世は制裁を加えることを決意します。彼は当時ヨーロッパ最強を誇った巨大な「無敵艦隊(アルマダ)」をイギリスに派遣しました。しかしこの無敵艦隊は小型で機動性に優れたイギリス海軍と嵐という不運にも見舞われ、壊滅的な敗北を喫しました。この敗北はスペインの海上における覇権が絶対的なものではないことを示し、代わってイギリスが新たな海洋国家として台頭してくる歴史の転換点となりました。

これらの戦争の莫大な戦費はアメリカからの銀収入をもってしても到底まかなえるものではなく、スペイン王室はその治世中に何度も国家破産(支払停止宣言)を宣告するという異常事態に陥りました。

1.3. 「長い17世紀」の衰退

フェリペ2世の死後スペインの衰退は誰の目にも明らかなものとなっていきます。17世紀を通じて有能な君主にも恵まれず三十年戦争への介入でさらに国力を消耗させました。1640年にはポルトガルが再独立を達成しその広大な海外植民地を失いました。

1700年スペイン・ハプスブルク朝が断絶するとその王位継承をめぐってヨーロッパ中を巻き込むスペイン継承戦争が勃発します。この戦争の結果ブルボン家のフェリペ5世がフランスの王位継承権を放棄することを条件にスペイン王位に就くことが認められましたが、スペインはジブラルタルなどの重要な海外領土をイギリスに奪われヨーロッパにおける大国の地位から完全に転落しました。

結論としてスペインの絶対王政は大航海時代がもたらした植民地からの富という外的な要因に過度に依存した、いわば「砂上の楼閣」でした。その富を国内の経済構造を近代的な資本主義体制へと変革するための内的な力へと転化させることに失敗したスペインは、その富の源泉が枯渇し軍事的な敗北が重なるにつれてその壮麗な帝国の張りぼてが剥がれ落ちていくのを止めることができなかったのです。その栄光と没落の物語は真の国力とは単なる富の量ではなくその富をいかにして持続的に生み出し社会を発展させるために活用できるかという構造的な能力にかかっていることを雄弁に物語っています。


2. フランス絶対王政とルイ14世

17世紀後半から18世紀初頭にかけてヨーロッパ大陸において絶対王政という政治体制を最も洗練され最も壮麗な形で完成させたのが、ブルボン朝が統治するフランスでした。その頂点に君臨したのが「太陽王」と称されたルイ14世(在位1643-1715)です。彼の72年間に及ぶ長い治世はフランスがスペインに代わってヨーロッパの政治、軍事、そして文化のあらゆる面で覇権を握った輝かしい「大世紀(グラン・シエクル)」として記憶されています。壮麗なヴェルサイユ宮殿を舞台に繰り広げられた華やかな宮廷文化はヨーロッパ中の君主たちの憧れの的となり、フランス語は外交の公用語としての地位を確立しました。しかしその輝かしい栄光の陰でルイ14世の絶対的な権力は絶え間ない戦争と国内の宗教的不寛容、そして民衆への重税という深刻な代償の上に成り立っていました。彼の治세はフランス絶対王政の栄光の頂点であると同時に、その後の王朝の破綻を準備する長い黄昏の始まりでもあったのです。

2.1. 絶対王政への道:リシュリューとマザラン

ルイ14世が幼くして即位した時フランスの王権はまだ盤石なものではありませんでした。彼の絶対的な権力の基盤は父ルイ13世の宰相であった有能で時に冷徹な二人の聖職者政治家によって着々と築かれていました。

  • リシュリュー枢機卿: ルイ13世の宰相であったリシュリューは王権を強化するため二つの大きな国内勢力の解体に取り組みました。一つはナントの勅令によって国内で半独立的な勢力となっていたプロテスタント(ユグノー)の政治力・軍事力です。彼はユグノーの拠点であったラ・ロシェルを包囲・陥落させ彼らから政治的な特権を剥奪しました(信仰の自由は維持)。もう一つは王権に反抗的な大貴族の勢力です。彼は貴族の城砦を破壊し国王に対する陰謀を容赦なく弾圧しました。外交面ではカトリックの聖職者でありながらハプスブルク家の強大化を恐れ、三十年戦争ではプロテスタント側に立って支援を行うという国家の利益(国家理性)を宗教よりも優先させる冷徹な現実主義を貫きました。
  • マザラン枢機卿: リシュリューの後を継いだマзаранは幼いルイ14世の摂政アンヌ・ドートリッシュを補佐し三十年戦争をフランスに有利な形で終結させました。しかし彼の強引な増税政策とイタリア人であることへの反発から1648年に「フロンドの乱」と呼ばれる高等法院や大貴族たちによる大規模な反乱が起こりました。幼いルイ14世は一時期パリからの逃亡を余儀なくされるという屈辱的な経験をしました。この反乱は最終的に鎮圧されましたが国王の権威が貴族によって容易に脅かされるというこの時の恐怖の記憶はルイ14世の心に深く刻み込まれ、彼が生涯を通じて貴族の力を抑えつけ国王への絶対的な服従を強いる強固な独裁体制を築こうとする強い動機となりました。

2.2. 「太陽王」の統治:「朕は国家なり」

1661年マザランが死去すると22歳になっていたルイ14世は宰相を置かずに自らが直接国家のすべてを統治する「親政」を開始することを宣言します。彼の統治の理念は「朕は国家なり(L’état, c’est moi)」という(後世に作られたとされるが彼の思想を的確に表す)言葉に象徴されています。国家のすべての権威は神から与えられた国王一身に由来するという「王権神授説」を彼は身をもって体現しようとしたのです。彼の統治システムはいくつかの巧みな仕組みによって支えられていました。

  • ヴェルサイユ宮殿という政治装置: ルイ14世はパリ郊外の父の狩猟館があった場所にヨーロッパで最も壮麗で巨大なヴェルサイユ宮殿を建設しました。この宮殿は単なる王の住居ではありませんでした。それは絶対王政を維持するための極めて巧妙に設計された政治的な装置でした。
    • 貴族の無力化: 彼は全国の有力な大貴族たちにヴェルサイユ宮殿に居住することを半ば強制しました。貴族たちは地方の領地から引き離され国王の起床から就寝に至るまで毎日繰り返される複雑で儀式的な宮廷作法に参加することにその精力を費やさなければなりませんでした。国王の寵愛を得て有利な地位や年金を得るための廷臣たちの間の絶え間ない競争と陰謀の中で彼らはかつて持っていた政治的な力を完全に骨抜きにされていきました。ヴェルサイユは貴族にとってまさに「金箔の鳥かご」だったのです。
    • 王の威光の演出: 壮大な宮殿、美しい庭園、そしてバレエや演劇、豪華な祝宴といった華やかな宮廷生活そのものが神にも喩えられる「太陽王」の絶対的な権威と栄光を内外に可視化するための壮大な舞台装置でした。
  • コルベールによる重商主義政策: 親政を開始したルイ14世が財政の再建という最も重要な実務を任せたのが有能な市民階級出身のジャン=バティスト・コルベールでした。彼の推進した徹底した重商主義政策は「コルベール主義」と呼ばれフランス絶対王政の経済的基盤を築きました。
    • 国内産業の育成: 彼は輸入を抑制し輸出を促進するため王立マニュファクチュア(ゴブラン織など)を設立して奢侈品などの国内産業を保護・育成し、また国内の関税を撤廃し運河(ミディ運河など)を建設して国内市場の統一を図りました。
    • 貿易の拡大: 彼はフランス東インド会社などを再建し海外植民地(カナダ、ルイジアナ、インドのシャンデルナゴルなど)の経営にも力を入れ、イギリスやオランダとの世界的な商業競争に本格的に乗り出しました。

2.3. 栄光の代償:絶え間ない戦争と財政の破綻

ルイ14世の治世は「栄光(グロワール)」の追求、すなわち戦争によるフランスの領土拡大とブルボン家の威信の向上のために捧げられたと言っても過言ではありません。彼の親政期間中フランスはネーデルラント継承戦争、オランダ侵略戦争、ファルツ継承戦争、そして彼の治世の最後にして最大の戦争であるスペイン継承戦争と実に4度にわたる大規模な侵略戦争を行いました。

これらの戦争は当初はフランスにある程度の領土的拡大をもたらしましたがその侵略的な政策はイギリス、オランダ、オーストリアといった周辺諸国に強い警戒心と敵愾心(てきがいしん)を抱かせ、彼らがフランスに対抗するための同盟網(反仏大同盟)を結成する結果を招きました。特にスペイン継承戦争(1701-1713)はヨーロッパ全土を巻き込みフランスの国力を極度に消耗させました。この戦争の結果ルイ14世の孫フィリップ5世がスペイン王位に就くことは認められたものの、フランスはカナダなどの広大な海外植民地をイギリスに奪われることになりました。

国内政策においても彼の治世は深刻な負の遺産を残しました。

  • ナントの勅令の廃止(1685年): 敬虔なカトリック教徒であったルイ14世は国内の宗教的統一を絶対王政の完成に不可欠であると考え、祖父アンリ4世が定めたユグノーの信仰の自由を保障する「ナントの勅令」を廃止しました。これによりユグノーに対する激しい迫害が始まり、数十万人にのぼる熟練した技術を持つ商工業者のユグノーたちがプロテスタント国であるイギリス、オランダ、プロイセンなどへ亡命してしまいました。この「頭脳と技術の流出」はフランスの産業と経済に計り知れない長期的な打撃を与えました。

度重なる戦争の戦費とヴェルサイユ宮殿の維持費という二つの巨大な支出は、コルベールがあれほど努力して健全化した国家財政を再び破綻の淵へと追い込みました。その負担は免税特権を持つ聖職者や貴族ではなく第三身分、特に農民への過酷な重税となってのしかかりました。

結論としてルイ14世の治世はフランス絶対王政がその最も輝かしい頂点を極めた時代でした。彼の築き上げた強力な中央集権国家とヨーロッパを席巻した華麗な文化は近代フランスの原型を形成しました。しかしその栄光は際限のない領土的野心と宗教的不寛容、そして民衆の犠牲の上に成り立つ極めて高くつくものでした。彼が後の世代に残した莫大な国家債務と不平等な社会構造(旧体制、アンシャン・レジーム)という負の遺産は18世紀を通じてフランス社会の矛盾をますます深刻化させ、最終的にはフランス革命という巨大な爆発を引き起こす直接的な原因となるのです。


3. イギリス革命(ピューリタン革命、名誉革命)

ヨーロッパ大陸でフランスやスペインに代表される絶対王政がその最盛期を謳歌していた17世紀、ドーバー海峡を隔てた島国イギリスでは歴史が全く異なる方向へと舵を切り始めていました。大陸の君主たちが「王権神授説」を掲げて自らの権力を絶対化しようと試みていたのに対しイギリスでは国王の権力は古来からの「コモン・ロー(慣習法)」と国民の代表である「議会」によって制限されるべきであるという考え方が深く根付いていました。この国王と議会のどちらが国家の最終的な主権者であるのかという根本的な問いをめぐる対立は、17世紀のイギリスを二度にわたる血腥い内戦と無血の政変、すなわち「イギリス革命」へと導きました。この一連の革命を通じてイギリスは絶対王政への道を完全に拒絶し、世界に先駆けて「立憲君主制」と「議会制民主主義」の基礎を築き上げるという独自の道を歩むことになります。

3.1. 革命の背景:ステュアート朝と議会の対立

1603年テューダー朝のエリザベス1世が子供のないまま死去するとスコットランド王であったジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位を継承し、ステュアート朝が始まりました。この王朝の交代こそが革命の遠因となります。

  • 王権神授説の導入: スコットランドで比較的強い王権を享受していたジェームズ1世とその子チャールズ1世は大陸の絶対君主と同様に「王権神授説」を信奉し、国王の権力は議会の承認や法による制約を受けるものではないと考えていました。しかしこの思想はマグナ・カルタ以来の「国王といえども法の下にある」というイギリスの政治的伝統とは真っ向から対立するものでした。
  • 宗教問題: ジェームズ1世はイングランド国教会(プロテスタントの一派だがカトリック的な要素も多く残す)の司教(監督)制度を強化し、国王が教会の首長としてその支配を徹底しようとしました。これに対して議会の特に下院(庶民院)で勢力を増していたのが「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれるカルヴァン主義の影響を強く受けた熱心なプロテスタントたちでした。彼らは国教会のカトリック的な儀式を「不純」なものとして批判し、司教制度を廃止してより純粋な長老派の教会運営を求めました。国王の国教会強要政策は彼らの信仰の自由を脅かすものとして強い反発を招きました。
  • 財政問題: 国王は宮廷の経費や対外戦争の戦費を賄うため増税を必要としましたがイギリスでは伝統的に新しい課税には議会の承認が必要とされていました。ジェームズ1世とチャールズ1世は議会の承認を得ずに関税の引き上げや強制的な献金など様々な手段で財源を確保しようと試みました。これに対して議会は「議会の承認なき課税は違法である」と強く抵抗しました。

これらの対立はチャールズ1世の時代に決定的なものとなります。1628年議会は法によらない不当な逮捕や議会の同意なき課税を国王に認めさせないための「権利の請願」を可決しました。これに怒ったチャールズ1世は翌年議会を解散し以後11年間にわたって議会を招集しない「専制政治」を行いました。

3.2. ピューリタン革命とチャールズ1世の処刑

専制政治の均衡を破ったのはスコットランドでの反乱でした。チャールズ1世がスコットランドにもイングランド国教会の祈祷書を強制しようとしたため長老派が多数を占めるスコットランドで大規模な反乱が起こりました。この反乱の戦費を調達するためチャールズ1世は1640年実に11年ぶりに議会を招集せざるを得なくなりました。

しかしようやく招集された議会(長期議会)は国王への協力を拒否し逆に国王の専制政治を厳しく批判し始めました。国王と議会の対立はもはや修復不可能なレベルに達し1642年ついに国王を支持する「王党派(騎士派)」と議会を支持する「議会派(円頂党)」との間で内戦(イングランド内戦)が勃発しました。これが「ピューリタン革命」の始まりです。

内戦の当初は王党派が優勢でしたが議会派の中に一人の傑出した指導者が登場すると戦局は一変します。それが熱心なピューリタンであり地方のジェントリ(郷紳)出身のオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)です。

  • 鉄騎隊と新型軍: クロムウェルはピューリタンの信仰心で固く結束した規律正しい新しいタイプの騎兵隊「鉄騎隊(Ironsides)」を組織しました。さらに彼はこの鉄騎隊をモデルに議会軍全体を能力本位で厳格な規律を持つ「新型軍(New Model Army)」へと再編成しました。この新型軍はネイズビーの戦い(1645年)などで王党派を打ち破り議会派に決定的な勝利をもたらしました。

勝利した議会派の内部では今後の政治体制をめぐって対立が起こります。国王との妥協を目指す穏健な長老派に対してクロムウェルが属するより急進的な独立派は国王の責任を徹底的に追及することを主張しました。また軍の兵士たちの間からは「水平派(レヴェラーズ)」と呼ばれる財産権の平等や普通選挙を要求するさらに急進的な民主主義思想も現れました。

クロムウェルは軍の力を背景に議会から長老派を追放し1649年1月国王チャールズ1世を「専制と国民への反逆」の罪で公開処刑するという前代未聞の決定を下しました。君主が臣民によって裁かれ処刑されたという事実は王権神授説が支配的であった当時のヨーロッパに計り知れない衝撃を与えました。

3.3. 共和政から王政復古へ

国王の処刑後イギリスは歴史上唯一の「共和政(コモンウェルス)」の時代を迎えます。しかしこの共和政はアイルランドやスコットランドの反乱を過酷に鎮圧するなどクロムウェルの軍事的な独裁の色合いを次第に強めていきました。1653年クロムウェルは議会を解散させ自らは「護国卿(Lord Protector)」という地位に就き終身独裁官としてイギリスを統治しました。彼の統治はピューリタンの厳格な道徳に基づき演劇や賭博を禁止するなど国民の生活を厳しく統制したため多くの人々の反発を招きました。

1658年クロムウェルが死去するとその独裁体制はたちまち崩壊します。国民は厳格なピューリタン支配と軍事独裁に疲れ果て安定した伝統的な君主制への復帰を望むようになりました。そして1660年議会はフランスに亡命していたチャールズ1世の息子を国王チャールズ2世として迎え入れることを決議しました。これが「王政復古」です。

3.4. 名誉革命と「権利の章典」

王政復古によってステュアート朝が復活しましたが革命前の状況に完全に戻ったわけではありませんでした。国王の権力は一定程度議会によって制約されるべきであるという考え方は国民の間に広く共有されていました。

チャールズ2世は父の運命を教訓に議会との協調をある程度は図りましたがその弟であるジェームズ2世が1685年に即位すると対立は再び燃え上がります。ジェームズ2世は熱心なカトリック教徒でありカトリックを復活させ絶対王政を再興しようとする時代錯誤な政策を次々と打ち出しました。彼は議会の反対を無視してカトリック教徒を政府や軍の要職に任命し常備軍を強化しました。

イングランド国教会と議会の二つの主要な党派、すなわち国王の権威を重んじる「トーリー党」と議会の権利を主張する「ホイッグ党」は、このカトリック絶対主義への回帰の危機を前に団結します。そして1688年彼らはジェームズ2世の娘でプロテスタントであるメアリと、その夫でオランダ総督のウィレム(英語名ウィリアム)に、軍隊を率いてイギリスに上陸し国民の自由とプロテスタントの信仰を守ってくれるよう密かに招聘状を送りました。

ウィレムがオランダ軍を率いてイギリスに上陸するとジェームズ2世は国民の支持を完全に失い抵抗することなくフランスへと亡命しました。この一滴の血も流されることなく政変が達成されたことからこの出来事は「名誉革命(Glorious Revolution)」と呼ばれます。

翌1689年議会はメアリとウィリアムを共同統治者(メアリ2世、ウィリアム3世)として王位に迎えることを宣言し、その即位の条件として一つの重要な文書への署名を彼らに求めました。それが「権利の章典(Bill of Rights)」です。この文書は国王が議会の承認なしに法律を停止したり課税を行ったり平時に常備軍を維持したりすることを禁じ、また国民の請願権や議会での言論の自由、そして自由な選挙などを保障するものでした。

この「権利の章典」の制定によってイギリスでは国王の権力は議会が制定した法の下にあるという原則が最終的に確立されました。君主主権に代わり議会主権が国家の最高原理となったのです。ここに絶対王政への道は完全に閉ざされ近代的な「立憲君主制」の揺るぎない土台が築き上げられたのです。


4. 立憲君主制の確立

名誉革命と「権利の章典」の制定はイギリスの政治史における決定的な分水嶺でした。それは17世紀を通じて続いた国王と議会の間の主権をめぐる闘争に終止符を打つものでした。国王の権力はもはや神から与えられた絶対的なものではなく国民の代表である議会が制定した法(憲法)によって制限される相対的なものであるという原則がここに確立されました。この「立憲君主制(Constitutional Monarchy)」という新しい政治体制の確立は、イギリスをヨーロッパ大陸の絶対主義国家群とは一線を画す独自の政治的発展の道へと導きました。そしてその後の18世紀を通じて責任内閣制といった具体的な政治の運営メカニズムが徐々に形成されていく中でイギリスの議会制民主主義はさらに成熟していくことになります。

4.1. 革命の思想的背景:ジョン・ロック

イギリス革命、特に名誉革命の政治的帰結を思想的に正当化しその後の近代民主主義思想に最も大きな影響を与えたのが哲学者のジョン・ロック(1632-1704)です。彼は名誉革命の直後に出版された主著『統治二論(市民政府二論)』の中で絶対王政の理論的支柱であった王権神授説を根本から批判し、新しい政府の正統性の根拠を提示しました。

  • 自然権と社会契約: ロックによれば人間は政府が存在する以前の自然状態において神から与えられた誰も奪うことのできない基本的な権利(自然権)を持っています。その最も重要なものが「生命、自由、そして財産(Property)」に対する権利です。
  • 政府の目的: 人々が自らのこれらの自然権をより確実に保障するために互いに契約を結び共通のルール(法)を制定し、それを執行するための政府を設立することに同意したのだとロックは考えました(社会契約説)。つまり政府の権力は神から与えられたものではなく国民の同意(信託)に基づいて初めて成立するのです。
  • 抵抗権(革命権): もし政府が国民の信託に背き国民の生命、自由、財産といった自然権を侵害するような暴政(圧政)を行うならば、国民はその政府との契約を解消しそれに抵抗し、さらには新しい政府を樹立する権利(抵抗権、あるいは革命権)を持っているとロックは主張しました。

このロックの思想は名誉革命、すなわち国民の権利を侵害したジェームズ2世を追放し国民(議会)が新しい国王を選んだという出来事を完全に正当化するものでした。彼の思想はイギリスだけでなくその後のアメリカ独立革命やフランス革命にも決定的な思想的影響を与え、近代における自由主義と民主主義の最も重要な理論的基礎となったのです。

4.2. 議会政治の成熟:ハノーヴァー朝と責任内閣制

名誉革命後イギリスの政治システムは国王と議会の力関係の変化に応じて、徐々にその具体的な形を整えていきました。

1714年ステュアート朝のアン女王が子供のないまま死去すると「王位継承法」の規定に基づき、遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世としてイギリス王位を継承しハノーヴァー朝が始まりました。

この王朝交代がイギリスの議会政治の発展にとって予期せぬしかし決定的な追い風となりました。

  • 「王は君臨すれども、統治せず」: ドイツで生まれ育ったジョージ1世とその子のジョージ2世は英語をほとんどあるいは全く話すことができませんでした。そのため彼らはイギリスの複雑な国内政治にほとんど関心を示さず閣議(キャビネット)にも出席しませんでした。
  • 内閣(キャビネット)の発達: 国王が閣議に出席しなくなったため閣議は国王の諮問機関から実質的な国家の最高意思決定機関へと変貌していきました。そして閣僚たちの中から国王に代わって閣議を主宰し議会との調整役を担うリーダー的な存在が必要とされるようになりました。これが「首相(Prime Minister)」の始まりです。
  • 初代首相ウォルポール: この事実上の初代首相と見なされているのがホイッグ党の指導者であったロバート・ウォルポールです。彼はジョージ1世と2世の信頼を得て1721年から約20年間にわたって政権を担当しイギリスの財政を安定させ平和な外交政策を推進しました。彼の時代に「内閣は国王に対してではなく議会(特に多数派を占める下院)に対して連帯して責任を負う」という「責任内閣制」の重要な慣行が形成され始めました。つまり内閣は議会の信任を得ている限りにおいて存続することができ議会の不信任を受けた場合には総辞職するか、あるいは議会を解散して総選挙を行い国民の信を問わなければならないという現代の議院内閣制の基本原則がこの時期に確立されていったのです。「王は君臨すれども統治せず」、そして政治の実権は「議会の多数派に支持された首相率いる内閣が握る」というイギリス独自の立憲君主制のシステムはこうして18世紀前半にその姿をほぼ完成させました。

4.3. イギリスの発展とその世界的影響

こうして政治的な安定を確立したイギリスは18世紀を通じて経済的にも飛躍的な発展を遂げます。

  • 経済的基盤: 農業革命による食糧生産の増大、そして広大な海外植民地とのグローバルな貿易ネットワーク(三角貿易など)はイギリスに莫大な富をもたらしました。イングランド銀行の設立(1694年)は国債システムを安定させ国家が戦争などのために巨額の資金を調達することを可能にしました。
  • グレートブリテン王国の成立: 1707年イングランドとスコットランドは合同し「グレートブリテン王国」が成立しました。これにより国内市場はさらに拡大しました。
  • 七年戦争の勝利: 政治的安定と強力な財政基盤に支えられイギリスは18世紀のヨーロッパの覇権争いにおいて優位に立ちます。特に七年戦争(1756-1763)で長年のライバルであったフランスに勝利したことは決定的でした。この勝利によってイギリスはフランスからカナダとインドにおける植民地の支配権を奪い、世界的な植民地帝国(大英帝国)としての不動の地位を築き上げたのです。

この圧倒的な経済力と世界中に広がる市場、そして政治的な安定と自由な社会環境が組み合わさることによって、イギリスは18世紀後半世界に先駆けて「産業革命」を開始するためのすべての条件を整えることになります。

結論としてイギリス革命は絶対王政というヨーロッパ大陸の主要な潮流から意図的に逸脱し「自由」を国家の基本原理として選択するというイギリスの歴史的な決断でした。この革命が確立した立憲君主制と議会制民主主義は個人の財産権と経済活動の自由を保障し、その後の大英帝国の経済的繁栄と産業革命の揺るぎない政治的土台となりました。それは近代世界における「民主主義」と「資本主義」という二つの大きな潮流がいかにして一つの国で相互に結びつきながら発展していったかを示す最も重要な歴史的モデルケースとなったのです。


5. プロイセンとオーストリアの台頭

17世紀半ば三十年戦争(1618-1648)が終結した時その主戦場となった神聖ローマ帝国(主にドイツ)の地は徹底的に荒廃しその人口は激減していました。戦争を終結させたウェストファリア条約は帝国内の約300の領邦国家にほぼ完全な主権を認めたため神聖ローマ帝国はもはや有名無実の存在となり、ドイツは「神聖ローマ帝国という一つの体、ただし怪物」と揶揄されるような政治的な分裂状態に陥りました。しかしこの中央権力の不在という権力の真空状態の中から17世紀後半から18世紀にかけて二つの新しい強国がドイツのそしてヨーロッパの歴史の主要なプレイヤーとして急速に台頭してくることになります。北のプロイセンと南のオーストリアです。両国はともに絶対王政をその国家建設のモデルとしましたがその道のりは対照的であり、両者の間のドイツの盟主の座をめぐる激しいライバル関係は18世紀のヨーロッパの国際政治を大きく揺り動かしていくことになります。

5.1. プロイセン:軍隊が国家を創った国

プロイセンの奇跡的な台頭の物語はベルリンを拠点とするホーエンツォレルン家という一地方領主の粘り強い国家経営の歴史です。その領土はドイツ北東部のブランデンブルク選帝侯国とバルト海沿岸のプロイセン公国という互いに地理的に隔絶した痩せた土地であり大国となるための資源には全く恵まれていませんでした。

この弱小国家プロイセンをヨーロッパ屈指の軍事大国へと変貌させる基礎を築いたのが「大選帝侯」フリードリヒ=ヴィルヘルム(在位1640-1688)です。三十年戦争の混乱を目の当たりにした彼は小国が大国の間で生き残るためには何よりも強力な常備軍が不可欠であると痛感しました。

  • 常備軍の創設: 彼は地方の身分制議会の抵抗を抑え安定した税収を確保しその財源のほとんどを常備軍の創設と維持につぎ込みました。彼の治世の終わりにはプロイセンはその人口や国力の規模とは不釣り合いなほど巨大で規律の取れた軍隊を保有するに至りました。
  • ユンカーとの協力: 彼はプロイセンの支配階級である地主貴族「ユンカー」の協力を得るため巧みな取引を行いました。彼はユンカーがその領地で農民(農奴)を支配する特権を認める代わりに、ユンカーの子弟たちを常備軍の将校(高級士官)として独占的に登用しました。これによりユンカーは国王への奉仕を通じてその社会的威信を保ち、軍隊は忠誠心の高い有能な指揮官を得ることができました。この国王とユンカーとの強力な結びつきがプロイセンの軍国主義的官僚的国家の根幹を形成しました。

フランスの思想家ミラボーが「プロイセンは軍隊を持つ国家ではない。軍隊が国家を所有しているのだ」と評したようにプロイセンでは国家のあらゆる組織と社会が軍隊を維持し強化するという唯一の目的のために奉仕する極めて合理化された特異な絶対王政が築き上げられていきました。

1701年フリードリヒ1世の時代にプロイセンは公国から「王国」へと昇格します。そしてその子で「兵隊王」とあだ名されたフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は軍隊のさらなる強化と徹底した財政緊縮に努めました。

この父と祖父が蓄積した強力な軍隊と潤沢な国庫を遺産として受け継ぎプロイセンをヨーロッパ列強の一員へと一気に押し上げたのがフリードリヒ2世(大王、在位1740-1786)です。

  • オーストリア継承戦争: 彼は即位するや否や父が手塩にかけて育てた精強な軍隊をためらうことなく実戦に投入します。1740年オーストリアでハプスブルク家のマリア=テレジアが皇位を継承したことに対し女性の相続を認めないという口実で異議を唱え、オーストリア領の地下資源が豊富で工業が盛んなシュレージェン地方に電撃的に侵攻しこれを奪い取りました。このオーストリア継承戦争(1740-1748)とその後の七年戦争を通じてプロイセンはシュレージェンの領有を最終的に確定させヨーロッパにおけるその地位を不動のものとしました。
  • 啓蒙専制君主: フリードリヒ2世は優れた軍人であっただけでなく哲学や音楽を愛する教養人であり、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールと親交を結ぶなど「啓蒙専制君主」の典型とされています。彼は「君主は国家第一の僕(しもべ)」であると公言し信教の自由をある程度認め司法改革や産業の育成にも力を注ぎました。しかし彼のこれらの改革はあくまで国家を富ませ強くするという上からの富国強兵策の一環でありプロイセンの軍国主義的で身分制的な社会構造そのものに手をつけるものではありませんでした。

5.2. オーストリア:多民族国家の苦悩と改革

プロイセンの宿命のライバルとなったのが南ドイツのオーストリアを本拠地とするハプスブルク家でした。ハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝の位を世襲しドイツにおける最高の権威を誇っていましたが三十年戦争後その権力は名目的なものとなっていました。

オーストリアの国家としての最大の特徴でありそして最大の弱点はその領土がドイツ人、マジャール人(ハンガリー人)、チェコ人、ポーランド人、クロアチア人など極めて多様な民族から構成される複合的な多民族国家(複合国家)であったことです。これらの地域はそれぞれ独自の言語、文化、そして歴史的な特権を持っておりそれらを一つの中央集権的な国家へと統合することは至難の業でした。

この困難な課題に本格的に取り組まざるを得なくなったのがマリア=テレジア(在位1740-1780)です。彼女は父カール6世が生前に各国の承認を取り付けていたにもかかわらずその即位にプロイセンのフリードリヒ2世が異議を唱え、最も豊かであったシュレージェンを奪われたという屈辱的な経験から国家の近代化改革の必要性を痛感しました。

彼女はプロイセンの効率的な統治システムを手本とし行政改革や財政改革を進め軍隊の再建・強化に努めました。彼女の粘り強い努力によってオーストリアは大国の地位を維持することに成功しました。

彼女の息子であるヨーゼフ2世(在位1765-1790、母と共同統治後単独統治)は母のプラグマティックな改革をさらに急進的に推し進めた典型的な「啓蒙専制君主」でした。

  • 急進的な改革: 彼は啓蒙思想の合理主義的な理念に基づきわずか10年の単独統治の間に宗教的寛容令(プロテスタントやユダヤ教徒の信仰の自由を認める)、そして農奴解放令といった数千にのぼる改革の勅令を矢継ぎ早に発布しました。彼は帝国内のあらゆる非合理的な特権や慣習を上から一掃しドイツ語を公用語とする均質で合理的な中央集権国家を創り上げようとしたのです。

しかし彼のあまりにも急進的で理想主義的な改革は貴族、聖職者、そして改革の意図を理解できない農民、さらには独自の民族的伝統を重んじるハンガリーやネーデルラントの強い反発を招きそのほとんどが彼の死後撤回されてしまいました。

結論として18世紀のドイツでは何もないところから軍隊という核を中心に凝縮されていった人工国家プロイセンと、多様な歴史的要素を内包する複合国家としての困難な近代化に苦闘するオーストリアという二つの対照的な絶対主義国家が互いに競い合いそして反発しながらヨーロッパの勢力均衡の重要な一角を形成していきました。このプロイセンとオーストリアの二元的な対立(ドイツ二元主義)はその後の19世紀のドイツ統一をめぐる歴史の主要な伏線となっていくのです。


6. ポーランド分割

18世紀後半ヨーロッパの絶対王政国家群が国益を賭けて熾烈な覇権争いを繰り広げる中で、かつては東ヨーロッパの大国として栄光を誇った一つの国家が国際政治の冷厳な現実の前に地上からその姿を完全に消し去られるという悲劇が起こりました。それがポーランド=リトアニア共和国の分割です。プロイセン、オーストリア、そしてロシアという隣接する三つの強大な絶対主義国家によってポーランドは三度にわたってその領土を蚕食され、最終的には国家そのものが解体されてしまいました。ポーランド分割は強力な中央集権体制を確立することに失敗した国家が近代の主権国家間の競争社会でいかに無力であるかを残酷なまでに示す歴史的な教訓であり、絶対王政の時代の権力政治(パワーポリティクス)の非情な本質を象徴する出来事でした。

6.1. 大国ポーランドの構造的弱点

16世紀から17世紀にかけてポーランドはリトアニアと連合国家(ヤゲウォ朝)を形成しその領土はバルト海から黒海にまで及ぶヨーロッパでも有数の大国でした。その社会は比較的に宗教的にも寛容でありルネサンス文化が花開くなど輝かしい時代を経験しました。

しかしその政治システムは西ヨーロッパや東方の隣国たちが絶対王政へと突き進んでいく中で時代から取り残され国家としての脆弱性を深刻化させていきました。その弱点は主に二つの特異な政治制度に起因していました。

  • 選挙王制: 16世紀後半にヤゲウォ朝が断絶するとポーランドの国王の位は世襲制ではなく国会(セイム)で貴族たちが選挙によって選ぶ「選挙王制」へと移行しました。これにより国王の権力は極めて弱体化しました。国王選挙のたびにプロイセン、オーストリア、ロシア、フランスといった周辺の大国が自国に有利な候補者を擁立しようと露骨な選挙干渉を行い、ポーランドの国内は外国勢力に結びついた貴族たちの派閥争いの草刈り場と化してしまいました。
  • 黄金の自由とリベルム・ヴェト: ポーランドの人口の約10%を占める貴族階級(シュラフタ)は「黄金の自由」と呼ばれる極めて強力な特権を享受していました。その最たるものが国会(セイム)における「リベルム・ヴェト(自由な拒否権)」です。これは国会のいかなる議案も議員である貴族が一人でも反対すればその法案を否決できるだけでなく、その国会そのものを解散させてしまうことができるという極端な全会一致の原則でした。この制度は当初貴族の自由を国王の専制から守るための防波堤として意図されていましたが、現実には国家にとって必要ないかなる改革、例えば税制の強化や常備軍の創設といった中央集権化の試みも貴族の一人の反対やあるいは外国に買収された議員の妨害によってことごとく不可能にしてしまいました。これによりポーランドの国政は慢性的な麻痺状態に陥っていたのです。

常備軍も近代的な官僚機構も持たず国王の権威が地に落ちたポーランドは、18世紀のヨーロッパにあってもはや主権国家というよりは隣接する絶対王政国家たちの意のままに操られる権力の真空地帯となっていたのです。

6.2. 三度にわたる分割

このポーランドの無政府状態に目をつけたのがプロイセンのフリードリヒ2世、オーストリアのマリア=テレジア(とヨーゼフ2世)、そしてロシアのエカチェリーナ2世といういずれも自国の領土的野心に燃える啓蒙専制君主たちでした。彼らは互いに牽制し合いながらもポーランドという抵抗できない獲物を分け合うことに関しては利害が一致しました。

  • 第1回ポーランド分割(1772年):ロシアがオスマン帝国との戦争に勝利しその影響力がポーランドで過度に強大になることを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世が、このロシアの関心をポーランドへとそらすためオーストリアを巻き込んで分割を提案しました。口実としてポーランド国内の宗教的対立や無秩序を挙げ、三カ国は「ポーランドの平和と秩序を回復するため」と称してそれぞれ国境に隣接する領土を奪い取りました。ポーランドはその領土と人口の約3分の1を失いました。
  • 第2回ポーランド分割(1793年):この最初の国難に衝撃を受けたポーランドの愛国的な貴族たちは国家の近代化改革の必要性を痛感しました。フランス革命の影響も受けて彼らは1791年リベルム・ヴェトを廃止し世襲王政と近代的な憲法を導入する画期的な「五月三日憲法」を制定しました。しかしこのポーランドの自主的な近代化と再生の試みは隣国、特にロシアのエカチェリーナ2世にとって自国の影響力を脅かす許しがたい行為でした。ロシアとプロイセンはこの改革に反対するポーランドの保守派貴族と結び、「ポーランドの自由を守る」という名目で再びポーランドに軍事介入し五月三日憲法を破棄させました。そして両国はさらに広大なポーランド領を分割・併合しました。
  • 第3回ポーランド分割(1795年):もはや国家の存亡の危機に瀕しポーランドの愛国者たちはコシューシコというアメリカ独立戦争にも参加した英雄の指導の下、1794年ロシアとプロイセンに対して絶望的な武装蜂起を行いました。しかしこの蜂起は圧倒的な軍事力の前に鎮圧されてしまいました。そして1795年ロシア、プロイセン、オーストリアの三カ国は残されたポーランドの領土をすべて分割し尽くし、ポーランド=リトアニア共和国という国家は完全に地図の上から消滅しました。

6.3. 分割の歴史的意義

ポーランド分割は18世紀のヨーロッパの国際政治の冷酷な本質を浮き彫りにしました。

  • 勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の現実: 三国による分割は一国の覇権を許さず列強間の力のバランスを維持するという「勢力均衡」の原則に基づいていました。しかしそのバランスは小国の主権や生存権を犠牲にすることによって保たれる極めて利己的なものでした。
  • 啓蒙専制君主の偽善性: 分割を主導したフリードリヒ2世やエカチェリーナ2世は自らを理性と進歩の担い手である「啓蒙専制君主」と称していましたが、その行動はいかなる国際法や道義も無視した露骨な領土的野心に基づくものでした。マリア=テレジアはこの不義の行為に涙したと伝えられていますが結局は分割に参加しました。
  • ポーランド・ナショナリズムの源泉: 国家を失ったという悲劇はしかしその後のポーランド人の心の中に強烈な民族的アイデンティティ(ナショナリズム)と国家再興への悲願を刻み込むことになりました。この分割の記憶は19世紀を通じてヨーロッパ各地で繰り返し起こされるポーランドの独立運動の尽きることのない精神的な源泉となっていくのです。

結論としてポーランド分割は絶対王政という強力な中央集権国家が国際政治のアクターとしてしのぎを削る時代において、内部の封建的な分権体制を克服できなかった国家がたどる悲劇的な末路を示しています。それは近代世界の非情な生存競争の論理をまざまざと見せつける歴史の一幕でした。


7. ロシア帝国の成立と西欧化政策

17世紀末のロシア(当時はモスクワ大公国あるいはロシア・ツァーリ国と呼ばれた)はヨーロッパの主要な政治・文化圏から遠く隔絶した、広大でしかし後進的な国家でした。イヴァン4世(雷帝)の恐怖政治とその後の「動乱時代(スムータ)」を経てロマノフ朝が成立したものの、その社会はビザンツ帝国から受け継いだロシア正教の伝統とモンゴル支配の遺産であるアジア的な専制君主制が色濃く支配する西ヨーロッパとは全く異質な世界でした。しかしこのヨーロッパの東の辺境に位置する眠れる巨人を揺り起こしその後の世界の歴史に巨大な足跡を残す大帝国へと強引に脱皮させたのが、ロシア史上最も規格外でエネルギッシュな君主ピョートル1世(大帝、在位1682-1725)です。彼の上からの革命ともいえる徹底した西欧化政策はロシアの社会と文化を根底から揺さぶり、ヨーロッパ列強の一員としての「ロシア帝国」を誕生させたのです。

7.1. ピョートル大帝と西欧への衝撃

ピョートル1世は身長2メートルを超える巨漢でありその身体的なエネルギーと同様に尽きることのない好奇心と強烈な意志力を持った人物でした。彼は幼い頃からモスクワに住んでいた外国人たちと交流し西ヨーロッパの進んだ技術、特に造船術や航海術に強い関心を抱きました。

彼はロシアが内陸国であり不凍港を持たないことが国家の発展にとって致命的な弱点であると痛感していました。彼の治世全体を貫く最大の目標はバルト海か黒海への出口を確保しロシアを海洋国家へと変貌させることでした。

そのためにまず西ヨーロッパの進んだ技術と制度を自らの目で学ぶ必要があると考えたピョートルは、17世紀末身分を隠して自ら大貴族の使節団の一員に加わりプロイセン、オランダ、イギリスなどを歴訪するという前代未聞の視察旅行を敢行しました。

オランダの造船所では一介の職人として自ら斧を振るって船大工の技術を学び、イギリスでは議会を視察しプロイセンでは軍事教練を見学しました。この西欧視察は彼にロシアの圧倒的な後進性と改革の緊急性を改めて痛感させる決定的な体験となりました。

7.2. 上からの西欧化改革

帰国したピョートルは半ば野蛮ともいえる強引さと驚異的なエネルギーでロシアのあらゆるものを西ヨーロッパ風に作り変える大改革に着手します。彼の改革は抵抗する保守的な貴族や聖職者を容赦なく弾圧しながら上から強制的に進められました。

  • 社会・風俗の改革:
    • ひげの禁止: 彼はロシアの古い伝統の象徴であった貴族(ボヤーレ)の長いひげを剃ることを強制し、従わない者には高額な「ひげ税」を課しました。
    • 西欧風の服装: 彼は伝統的なアジア風の長い衣装を禁止し西ヨーロッパ風の短い機能的な服装を採用させました。
    • 暦の採用: 彼はロシア古来の天地創造を紀元とする暦を廃止し、西ヨーロッパで使われていたユリウス暦(ただしグレゴリオ暦より10日以上遅れていた)を導入しました。
  • 行政・軍事の改革:
    • 元老院と省の設置: 彼は古い貴族会議(ドゥーマ)を廃止し皇帝に直属する最高統治機関として元老院(セナート)を設置し、またスウェーデンをモデルとした機能別の中央官庁(コレギア、後の省)を創設しました。
    • 官僚制の整備: 彼は貴族の家柄ではなく国家への勤務年数や功績に応じて昇進できる新しい官等表(テーブル・オヴ・ランクス)を制定しました。これにより家柄のない者でも能力次第で貴族の身分を得ることが可能となり皇帝に忠実な新しい官僚層が育成されました。
    • 常備軍の創設と徴兵制: 彼はプロイセンを手本として西欧式の軍事技術で訓練された巨大な常備軍を創設し、その兵力を確保するため農民からの徴兵制を導入しました。
  • 産業の育成:
    • 軍隊を維持するための武器や被服を生産するため彼は国家主導でマニュファクチュアを設立し鉱山の開発にも力を入れました。

これらの改革はロシアの伝統的な社会構造を根底から覆すものであり保守的な貴族やロシア正教会からは強い反発を受けました。しかしピョートルは反対派を容赦なく処刑しさらには改革に反対した実の息子アレクセイさえも拷問死させるという冷徹さで改革を断行しました。

7.3. 北方戦争とロシア帝国の誕生

ピョートルがこれほど性急に富国強兵策を進めた最大の目的は、当時バルト海の覇者として君臨していたスウェーデンを打ち破りバルト海への出口を確保することでした。

1700年ピョートルはデンマーク、ポーランドと同盟を結びスウェーデンとの間で北方戦争(1700-1721)を開始しました。当初カール12世という天才的な軍事指導者に率いられたスウェーデン軍は優勢に戦いを進めましたがピョートルは敗北に屈することなく軍隊の再建を進め戦争の長期化に持ち込みました。

そして1709年ロシア奥深くまで侵攻してきたスウェーデン軍をポルタヴァの戦いで壊滅させ戦局を決定的に逆転させました。

戦争中の1703年ピョートルはスウェーデンから奪ったバルト海沿岸の湿地に新しい首都の建設を開始します。これがサンクトペテルブルクです。彼はこの都市を「ヨーロッパへの窓」と位置づけ西ヨーロッパの都市計画を模倣した壮麗な石造りの都市を建設しました。この建設事業には多数の農奴が動員され多くの犠牲者を出しました。

1721年ニスタットの和約によって北方戦争はロシアの最終的な勝利に終わり、ロシアはバルト海東岸の広大な領土(エストニア、リヴォニアなど)を獲得しました。この勝利によって長年の悲願であったバルト海への出口を確保したピョートルは同年元老院から「インペラートル(皇帝)」の称号を与えられました。ここに国号も正式に「ロシア帝国」と改められロシアは名実ともにヨーロッパ列強の一員となったのです。

ピョートルの死後ロシアはしばらく宮廷クーデターが相次ぐ不安定な時代が続きましたが18世紀後半ドイツの小貴族の娘から皇后となり夫をクーデターで追放して女帝となったエカチェリーナ2世(在位1762-1796)の時代に再びその勢力を拡大させます。

彼女はフランスの啓蒙思想家と文通するなど「啓蒙専制君主」として振る舞う一方で農奴制をむしろ強化し貴族の特権を拡大しました。外交面では二度にわたるオスマン帝国との戦争に勝利して黒海沿岸への進出を果たし、またプロイセン、オーストリアと共に三度にわたるポーランド分割を主導してその領土を西へと大きく拡大させました。

結論としてピョートル大帝の西欧化政策は伝統的なロシア社会を暴力的に破壊し西欧の技術と制度を移植するという極めて強権的な近代化でした。それはロシアに大国としての地位をもたらしましたが同時に西欧化された貴族階級と伝統的な農奴制の中に取り残された大多数の民衆との間の深刻な文化的・社会的断絶を生み出しました。この断絶と矛盾こそがその後のロシア帝国の歴史を規定し最終的には20世紀のロシア革命へと繋がっていく深い亀裂となったのです。


8. ヨーロッパの国際戦争(七年戦争など)

18世紀のヨーロッパは絶対王政国家群がそれぞれの国益を賭けて複雑な合従連衡を繰り返しながら覇権を争うダイナミックな国際政治の時代でした。17世紀までのヨーロッパの戦争が三十年戦争に見られるように宗教的な対立(カトリック対プロテスタント)を大きな動機としていたのに対し、この時代の戦争はより世俗的で現実的な目標のために戦われました。すなわち王家の領土的な継承権をめぐる「王朝戦争」と海外植民地や貿易の利権をめぐる「商業戦争」です。そしてこれらの戦争の根底に流れていた国際秩序の基本原則が「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」という考え方でした。これは特定の一国がヨーロッパ大陸で圧倒的な覇権を確立することを防ぐため他の国々が同盟を結んでその強大化に対抗し列強間の力のバランスを維持しようとする外交戦略です。この勢力均衡の論理が最も大規模でグローバルな形で展開されたのが18世紀半ばの「七年戦争」でした。この戦争はヨーロッパの王朝間の対立とイギリスとフランスの世界的な植民地争奪戦が結合した史上初の「世界大戦」とも呼ぶべき様相を呈し、その帰結はその後の世界の覇権の行方を決定づける重大な意味を持ちました。

8.1. 王朝戦争と勢力均衡

18世紀のヨーロッパの国際紛争の多くは、ある国の王位継承者が途絶えた際にその継承権を主張する各国の君主たちの間で引き起こされました。これらは「継承戦争」と総称されます。

  • スペイン継承戦争(1701-1713): 1700年スペイン・ハプスブルク家が断絶するとフランスのルイ14世は孫のフィリップ(フェリペ5世)をスペイン王位に即かせようとしました。もしフランスとスペインがブルボン家の下で統合されればヨーロッパに巨大な覇権国家が誕生することを恐れたイギリス、オランダ、オーストリアなどは同盟を結んでフランスと戦いました。戦争の結果フェリペ5世のスペイン王位は承認されたもののフランスとスペインの合同は永久に禁止され、イギリスがスペインからジブラルタルやフランスからカナダの一部を獲得するなどフランスの覇権は阻止されました。
  • オーストリア継承戦争(1740-1748): オーストリアでマリア=テレジアがハプスブルク家の家督を相続したことに対しプロイセンのフリードリヒ2世が異議を唱えシュレージェンを奪ったことから始まりました。フランスやバイエルンがプロイセン側にイギリスやオランダがオーストリア側について戦われました。この戦争でプロイセンはシュレージェンの領有を認められヨーロッパの新しい強国としての地位を確立しました。

これらの戦争では各国は自国の国益(領土、貿易権など)と王家の利益のために昨日までの敵と今日手を結ぶこともためらわない冷徹な現実主義(国家理性)に基づいて行動しました。宗教やイデオロギーは二次的な問題に過ぎませんでした。

8.2. 七年戦争(1756-1763):史上初の世界大戦

オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレージェンを奪われたオーストリアのマリア=テレジアはその奪還を悲願としプロイセンを孤立させるための執念深い外交努力を開始しました。その結果これまで長年の宿敵であったフランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家が同盟を結ぶというヨーロッパの外交史を覆す一大転換が起こりました。これを「外交革命」と呼びます。

この新しい同盟関係を軸として18世紀のすべての対立が流れ込んだのが七年戦争です。

ヨーロッパでの対立:

オーストリアは長年の宿敵であったフランスそしてロシアと同盟を結びプロイセンを包囲しました。これに対してプロイセンはフランスと海外植民地で対立していたイギリスと同盟を結びました。

戦争が始まるとプロイセンはオーストリア、フランス、ロシアという三大国に同時に攻められ絶体絶命の危機に陥りました。しかしフリードリヒ2世の天才的な軍事指揮とイギリスからの財政援助によって奇跡的に持ちこたえました。最終的にはロシアで皇帝が交代し親プロイセン的なピョートル3世が即位したことでロシアが戦争から離脱するという幸運にも恵まれ、プロイセンはシュレージェンの領有を死守することに成功しました。

世界規模での対立(植民地戦争):

このヨーロッパでの戦争と並行してイギリスとフランスは世界の覇権をめぐって北アメリカ、インド、そしてカリブ海の三つの戦域で激しい植民地戦争を繰り広げました。

  • 北アメリカ(フレンチ・インディアン戦争): イギリスの13植民地とフランスの植民地(カナダ、ルイジアナ)がオハイオ川流域の領有をめぐって衝突しました。両国はそれぞれ先住民の部族を味方につけて戦いました。イギリスはウィリアム・ピット(大ピット)の指導の下海軍力でフランスの本国からの補給を断ちケベックを攻略するなど決定的な勝利を収めました。
  • インド(カーナティック戦争、プラッシーの戦い): イギリス東インド会社とフランス東インド会社が現地のインド諸侯をそれぞれ支援する形でインドにおける商業的、政治的な覇権を争いました。1757年イギリス東インド会社のクライブがプラッシーの戦いでフランスが支援するベンガル太守の連合軍を少数の兵力で打ち破りインドにおけるイギリスの優位を決定づけました。

8.3. 戦争の帰結:イギリスの覇権と来るべき革命の足音

七年戦争は1763年のパリ条約とフベルトゥスブルク条約によって終結しました。

  • フベルトゥスブルク条約: ヨーロッパではプロイセンがシュレージェンを最終的に確保しオーストリアと並ぶドイツの強国としての地位を確立しました。現状維持ではありましたが三大国の包囲網を生き延びたプロイセンの勝利と見なされました。
  • パリ条約: イギリスとフランスの間の植民地戦争はイギリスの圧倒的な勝利に終わりました。フランスはカナダ、ミシシッピ川以東のルイジアナをイギリスに割譲しインドからも軍事的に撤退することを余儀なくされました(いくつかの商業拠点は維持)。

この七年戦争の結果はその後の世界の歴史に決定的な影響を及ぼしました。

  • イギリスの海洋・植民地帝国の確立: イギリスはフランスを世界的な競争から脱落させ北アメリカとインドにおける覇権を確立しました。これにより19世紀の「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」へと繋がる第一の大英帝国の基盤が築き上げられました。
  • フランス絶対王政の威信失墜と財政危機: 戦争に敗北したフランスはその国際的な威信を大きく傷つけられまた莫大な戦費はすでに危機的であった国家財政を破綻の淵へと追い込みました。この財政危機が後のフランス革命の直接的な引き金となります。
  • アメリカ独立革命への道: イギリスもまたこの世界大戦の遂行によって巨額の財政赤字を抱え込みました。イギリス政府はこの赤字を埋め合わせるため戦争で最も利益を得たはずの北アメリカの13植民地に対して増税を試みます。これが植民地側の激しい反発を招き「代表なくして課税なし」をスローガンとするアメリカ独立革命へと繋がっていくのです。

結論として18世紀のヨーロッパの国際戦争は勢力均衡という冷徹な論理の下で各国の絶対君主が自国の利益を最大化しようとする生存競争でした。その頂点である七年戦争はヨーロッパの枠を超え全世界の富と領土をめぐるグローバルな抗争となり、その勝者であるイギリスが世界の新しい覇者として君臨する時代の幕開けを告げました。しかしその勝利の代償として生じた財政問題は皮肉にも勝者であるイギリスと敗者であるフランスの双方において旧来の統治体制を揺るがす「革命」の嵐を呼び寄せることになるのです。


9. 科学革命

16世紀から18世紀にかけてヨーロッパでは絶対王政がその権力を確立し国家間の覇権争いが繰り広げられていたそのまさに同じ時代に、思想の世界ではそれらの政治的な変動よりもはるかに深くそして永続的な影響を人類の歴史に与えることになる静かでしかし根源的な革命が進行していました。「科学革命(The Scientific Revolution)」です。これは天動説に代表されるような古代ギリシア以来の伝統的な自然観やキリスト教の教義に基づく世界観が、天文学、物理学、数学といった分野における一連の画期的な発見によって覆され、合理的な観察と実験そして数学的な法則性に基づく新しい近代的な科学的世界観が確立されていく知の大転換でした。この科学革命は自然を神の神秘的な意志が支配する領域から人間が理性によって解明しそして利用できる法則的な機械へと変貌させ、その後の啓蒙思想や産業革命の決定的な知的前提を築き上げたのです。

9.1. 天動説から地動説へ:宇宙観の革命

科学革命の幕開けを告げたのは宇宙の構造に関する根本的な見方の転換でした。

  • 伝統的な宇宙観(天動説): 中世ヨーロッパの宇宙観は古代ギリシアの天文学者プトレマイオスの理論とアリストテレスの自然学、そしてキリスト教の神学が一体となった「天動説」に基づいていました。これは静止した地球が宇宙の中心にありその周りを太陽、月、惑星、そして恒星が回転しているという階層的で目的論的な宇宙像でした。この宇宙観は人間の日常的な感覚に合致するだけでなく地球を神による創造の中心に位置づけるキリスト教の教義とも調和するものでした。
  • コペルニクスの地動説: この1000年以上信じられてきた宇宙観に最初の根本的な疑問を投げかけたのがポーランドの天文学者ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)です。彼は惑星の複雑な動きをよりシンプルに数学的に説明するためには地球ではなく太陽が宇宙の中心に静止しており、地球が他の惑星と同様に太陽の周りを公転していると考えた方が合理的であるという結論に達しました。彼は自らの地動説をまとめた主著『天球の回転について』をその死の直前に出版しました。コペルニクスの地動説はすぐには受け入れられませんでした。それは人間の直感に反するだけでなく地球を宇宙の中心から引きずり下ろし数ある惑星の一つに格下げするものであり、キリスト教会の権威に対する挑戦と見なされたからです。
  • ケプラーとガリレオによる地動説の擁護: 地動説が観測的な事実に基づく科学的な理論として確立されていく上で決定的な役割を果たしたのがヨハネス・ケプラーとガリレオ・ガリレイです。
    • ドイツの天文学者ケプラーはティコ・ブラーエの精密な観測データを数学的に分析し惑星が太陽の周りを完全な円ではなく「楕円軌道」で運動していることを発見しました(ケプラーの法則)。これにより地動説は数学的に精緻な予測能力を持つ理論へと高められました。
    • イタリアの物理学者・天文学者ガリレオ・ガリレイは自ら改良した望遠鏡を初めて天体に向け木星に衛星があることや金星が満ち欠けすること、そして月面にクレーターがあることなどを発見しました。これらの発見はすべての天体が地球の周りを回っているわけではないことや、天界が地上とは異なる完全な物質でできているというアリストテレス以来の考え方を覆す地動説の強力な証拠となりました。彼の地動説の擁護はカトリック教会との深刻な対立を引き起こし彼は宗教裁判にかけられ自説の撤回を余儀なくされましたが、彼の観測的な発見はもはや誰にも覆すことのできない事実でした。

9.2. 近代科学の方法論の確立

科学革命は単に新しい発見が積み重ねられたというだけではありません。それは「知」とは何か、そしていかにして「真理」に到達するべきかという学問の方法論そのものの革命でもありました。

  • フランシス・ベーコンと帰納法: イギリスの哲学者フランシス・ベーコンはアリストテレス以来の演繹的な学問、すなわちまず一般的な原理を設定しそこから個別の結論を導き出すというスコラ学的な方法を批判しました。彼はその代わりに偏見を排して個々の事実を注意深く観察し実験を積み重ねそこから一般的な法則を導き出すという「帰納法」こそが真の知識への道であると主張しました(経験論)。「知は力なり」という彼の言葉は科学の目的が自然を理解するだけでなくそれを人間の生活向上のために支配し利用することにあるという新しい近代的な科学観を示しています。
  • ルネ・デカルトと演繹法: フランスの哲学者ルネ・デカルトはベーコンとは異なるアプローチをとりました。彼は感覚的な経験はしばしば我々を欺くと考え疑うことのできない確実な出発点から論理的な推論(演繹)を積み重ねることで真理を構築しようとしました。その出発点となったのが「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という有名な命題です。彼は宇宙のあらゆる現象を数学的な法則に還元できる機械論的な自然観を提唱しました(合理論)。

このイギリスの経験論と大陸の合理論という二つの異なる思想的潮流が相互に影響を与えながら近代科学の哲学的な基礎を形成していきました。

9.3. ニュートンによる統合:近代科学の完成

17世紀の科学革命のすべての成果を一つの壮大な体系へと統合し近代科学を完成させたのがイギリスの物理学者・数学者アイザック・ニュートン(1642-1727)です。

彼の1687年に出版された主著『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』は人類の知的歴史における金字塔とされています。

  • 運動の三法則と万有引力の法則: この中でニュートンは地上の物体が従う「運動の三法則」と、リンゴを地上に落とす力と惑星をその軌道に留めている力が実は同じ一つの力であるという「万有引力の法則」を数学的な形式で示しました。
  • 近代的世界観の確立: ニュートンの業績の革命的な意義は天界の運動(惑星の運行)と地上の運動(物体の落下)という、それまで全く別の法則に支配されていると考えられていた二つの現象を単一の普遍的な数学的法則によって統一的に説明してしまったことにあります。これにより宇宙は神がその都度介入する神秘的な領域ではなく人間が理性と数学によって完全に理解し予測することのできる巨大な機械時計のようなシステム(機械論的自然観)であるという世界観が決定的に確立されました。

ニュートン力学の圧倒的な成功は自然界だけでなく人間社会や歴史、政治といったあらゆる領域にも同じような合理的で普遍的な法則が存在するはずだという信念を人々に与えました。この信念こそが次に述べる「啓蒙思想」の直接的な出発点となるのです。

結論として科学革命は人類の世界に対する見方を不可逆的に変えました。それは世界を「なぜ(Why)」という目的論的な問いから解放し「いかに(How)」という法則的な問いの対象へと変えたのです。この知の革命によって人類は自然を客観的に探求しその法則を利用して自らの運命を切り開いていくという近代への扉を開いたのです。


10. 啓蒙思想

17世紀の科学革命がニュートン力学の壮大な体系においてその頂点を迎えた時、その革命的な影響は自然科学の領域にとどまりませんでした。ニュートンが発見したように自然界が合理的で普遍的な法則に貫かれているのであれば、人間社会や政治、経済、道徳といった人間の世界のあらゆる領域にも同じように人間が理性によって発見できる普遍的な「自然法」が存在するはずだ。そしてその理性という光(啓蒙)を当てることによって王権神授説や封建的な身分制度、宗教的な不寛容といった非合理的で時代遅れの伝統や権威(旧体制、アンシャン・レジーム)を打ち破り、人間社会を進歩させ完成させることができる。この科学革命の成果に対する絶大な信頼と人間理性の力を信奉する楽観的な信念こそが18世紀のヨーロッパの知的世界を席巻した「啓蒙思想(The Enlightenment)」の核心でした。この思想は絶対王政の理論的な土台を内側から突き崩しアメリカ独立革命とフランス革命という近代の市民革命の時代を準備するための最も強力な思想的な武器となったのです。

10.1. 啓蒙思想の先駆者:イギリスの思想

啓蒙思想の直接的な源流は17世紀のイギリス革命の激動の中から生まれました。

  • ホッブズと社会契約説: ピューリタン革命の混乱を目の当たりにしたトマス・ホッブズは主著『リヴァイアサン』の中で政府なき自然状態は「万人の万人に対する闘争」であるという悲観的な人間観を示しました。そして人々がこの恐怖の状態から脱するために自らの自然権を放棄し絶対的な権力を持つ主権者(国家)にそのすべてを委ねるという社会契約を結んだのだと主張しました。彼の理論は結果として絶対王政を擁護するものとなりましたがその権力の根拠を神ではなく人民の契約に求めた点で画期的でした。
  • ジョン・ロックと革命権: ホッブズの社会契約説を批判的に継承し名誉革命を思想的に擁護したのがジョン・ロックです。彼の主著『統治二論』は啓蒙思想のバイブルとなりました。ロックによれば自然状態は比較的平和なものであり、人々は「生命、自由、財産」という神から与えられた自然権を持っています。政府の目的は人々が結んだ社会契約に基づきこの自然権を保護することにあります。もし政府がこの信託に背いて国民の自然権を侵害する圧政を行うならば、国民は政府に抵抗しそれを変更・打倒する権利(抵抗権、革命権)を持つと主張しました。彼の思想は権力分立の考えにも触れており後のモンテスキューに大きな影響を与えました。

10.2. フランスの啓蒙思想家たち:フィロゾーフ

18世紀啓蒙思想の中心地となったのはルイ14世の絶対王政の矛盾が最も深刻化していたフランスでした。ここでは「フィロゾーフ(哲学者)」と呼ばれる多彩な思想家たちがサロン(貴族の夫人が主催した社交的な集い)やコーヒーハウスを舞台に活発な議論を交わし、その思想を広めていきました。

  • モンテスキュー: イギリスの政治制度を研究した法学者モンテスキューは主著『法の精神』の中で専制政治を批判し個人の自由を守るためには国家の権力を立法・行政・司法の三権に分け、それぞれを独立させて相互に抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)を保たせる「三権分立」が不可欠であると説きました。この思想はアメリカ合衆国憲法などに絶大な影響を与えました。
  • ヴォルテール: ヴォルテールは啓蒙思想の精神を最も体現した多才な文筆家でした。彼は特にカトリック教会の権威主義と宗教的な不寛容を痛烈に批判し「汝の意見に反対だが、汝がそれを言う権利は命をかけて守る」という言葉に象徴される思想・言論の自由と理神論(神は世界を創造したがその後は自然法則に委ねて介入しないとする考え)を主張しました。また彼はフリードリヒ2世などの啓蒙専制君主とも交流しました。
  • ルソー: ジャン=ジャック・ルソーは他の啓蒙思想家とはやや異なる独自の立場をとりました。彼は主著『社会契約論』の冒頭で「人は自由なものとして生まれた。しかしいたるところで鉄鎖につながれている」と述べ、文明の進歩が人間を堕落させたと批判しました。そして彼はロックの社会契約説をさらに発展させ、個々の人民の特殊な意志(特殊意志)を超えた共同体全体の普遍的な利益を目指す「一般意志(一般意思)」にこそ国家の絶対的な主権(人民主権)が存在すると主張しました。彼の人民主権の思想と文明社会への鋭い批判は後のフランス革命、特に急進的なジャコバン派に最も大きな影響を与えることになります。
  • 百科全書派: ディドロとダランベールが中心となって編纂した『百科全書』は啓蒙思想の集大成ともいえる巨大なプロジェクトでした。この書物はアルファベット順に配列された項目の中で当時のあらゆる学問や技術の知識を合理主義的な観点から解説し、旧来の迷信や権威を批判しました。これは知識を一般大衆に解放し啓蒙の光を広める上で計り知れない役割を果たしました。

10.3. 啓蒙思想の広がりと影響

フランスの啓蒙思想はヨーロッパの宮廷にも広まりプロイセンのフリードリヒ2世やロシアのエカチェリーナ2世、オーストリアのヨーゼフ2世のような「啓蒙専制君主」を生み出しました。彼らは啓蒙思想の合理主義的な側面を利用して上からの近代化改革(農奴制の緩和、信教の自由、司法改革など)を行い富国強兵を目指しました。しかし彼らの改革はあくまで君主の権力を強化する範囲内のものであり、人民主権や権力分立といった啓蒙思想の根本的な政治原理を受け入れるものではありませんでした。

経済学の分野ではフランスのケネーが重商主義を批判し富の源泉は農業生産にあるとする重農主義を唱え、国家による経済への介入を排して自由放任(レッセ・フェール)を主張しました。イギリスのアダム・スミスはこれをさらに発展させ主著『国富論(諸国民の富)』の中で個人の自由な利己心に基づく経済活動が「見えざる手」によって導かれ結果的に社会全体の富を増大させると説き、古典派経済学を創始しました。これらの思想はブルジョワジーの経済活動を理論的に擁護するものでした。

結論として啓蒙思想は科学革命が確立した理性の力を人間社会に応用し、身分制や宗教的権威といった非合理的な束縛から人間を解放し、個人の自由と権利に基づいた進歩的な社会を築き上げようとする壮大な知的運動でした。それは絶対王政のイデオロギー的基盤を根底から揺るがし市民階級(ブルジョワジー)に自らの歴史的役割を自覚させました。こうして啓蒙思想によって理論的に武装した市民たちは、18世紀末ついに旧体制(アンシャン・レジーム)を打倒するための行動に立ち上がります。ヨーロッパは絶対王政の時代から市民革命の時代へと大きくその舵を切ることになるのです。


Module 12:ヨーロッパ絶対王政の時代の総括:栄光の頂点と内なる時限爆弾

本モジュールが探求した17世紀から18世紀のヨーロッパは絶対王政という国家形態がその完成と栄光の頂点を極めた時代であった。ヴェルサイユの壮麗な宮殿、プロイセンの規律正しい軍隊、そしてロシアの西欧化への猛進は、国王という一つの頂点に権力と栄光が集中する新しい秩序の確立を象徴していた。国際関係もまた宗教の軛から解き放たれ、勢力均衡という冷徹な国家理性の下で、地球規模の覇権争いが繰り広げられた。しかし、その輝かしい絶対主義の構造の内部では二つの静かな、しかし強力な「時限爆弾」が時を刻んでいた。一つは科学革命がもたらした「理性」という新しい知のあり方であり、もう一つは啓蒙思想が生み出した「個人の権利」という新しい政治の原理である。絶対君主たちが築き上げた壮大な国家という建築物は、自らがその土台としていた旧来の社会構造と思想的権威を、これらの新しい力が内側から侵食していくのを止められなかった。絶対王政の黄金時代は、それ自体が次の革命の時代を準備する、壮大な序曲でもあったのだ。

目次