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【基礎 世界史(通史)】Module 13:市民革命の時代
本モジュールの目的と構成
前モジュールで探求した17世紀から18世紀のヨーロッパは、絶対王政の壮麗な建築物が聳え立つ一方で、その土台を内側から突き崩す理性と権利という新しい思想が静かに、しかし力強く育まれた時代でした。本モジュールは、この「啓蒙思想」という知的ダイナマイトがついに旧体制(アンシャン・レジーム)の堅固な壁を爆破し、近代世界の政治的景観を永遠に作り変えていく「市民革命の時代」を扱います。「代表なくして課税なし」という叫びが響いたアメリカの植民地で、そして「自由・平等・友愛」の旗が翻ったフランスの首都で、かつては哲学者の書斎の内にあった抽象的な理念が、大衆を動かす具体的な政治的スローガンへと転化し、世界史を動かす巨大な物質力となったのです。この時代に始まった一連の革命、いわゆる「大西洋革命」は、君主主権から国民主権へ、身分制社会から市民社会へという不可逆的な歴史の転換を告げるものでした。本モジュールは、この革命の時代が理想を追求する輝かしい情熱と、理想を実現しようとする過程で生まれた凄惨な暴力、そしてその革命の理念がナポレオン戦争を経て世界へと拡散していく光と影に満ちたダイナミックなプロセスを解き明かすことを目的とします。
この激動の時代を体系的に理解するため本モジュールは以下の学習項目で構成されています。
- アメリカ独立革命: 七年戦争後のイギリス本国の政策転換が、いかにして北米13植民地の反発を招き、啓蒙思想を武器とした世界初の植民地独立と共和制国家樹立への道を切り拓いたのか、その過程を分析します。
- 合衆国の成立: 独立を勝ち取った元植民地が、緩やかな連合からいかにして人民主権、連邦制、三権分立という近代的な原則を体現した「合衆国憲法」を制定し、世界史上類のない実験的国家を創造したのかを探ります。
- フランス革命の勃発と人権宣言: ヨーロッパ絶対王政の典型であったフランスで、旧体制の構造的矛盾がどのようにして爆発し、バスティーユ牢獄の襲撃を経て近代市民社会の基本原則を謳い上げた「人権宣言」の採択へと至ったのかを解明します。
- 立憲君主制から共和政へ: 当初は穏健な改革を目指したフランス革命が、国王の逃亡未遂や外国からの干渉戦争の脅威の中でいかにして急進化し、王政の廃止と共和政の樹立、そして国王自身の処刑という過激な段階へと突き進んでいったのかを追います。
- ジャコバン派の恐怖政治: 内外の危機の中で革命を防衛するという大義名分の下、ロベスピエール率いるジャコバン派がいかにして独裁権力を掌握しギロチンを用いて反対派を粛清する「恐怖政治」を実行したのか、その論理と帰結を考察します。
- ナポレオン=ボナパルトの台頭: 革命の混乱と恐怖政治への反動の中から、一人の天才的な軍人ナポレオンがいかにして国民の圧倒的な支持を得てクーデタを成功させ、フランスの新たな支配者として登場したのかを検証します。
- フランス第一帝政: 革命の申し子であったはずのナポレオンがなぜ自ら皇帝の座に就き強力な独裁体制を築いたのか、そしてナポレオン法典の編纂など彼がフランス社会に残した恒久的な遺産とは何だったのかを分析します。
- ナポレオン戦争: 天才的な軍事戦略によってヨーロッパ大陸の大部分を席巻したナポレオン戦争が単なる侵略戦争ではなく、フランス革命の理念をヨーロッパ各地に広めるという意図せざる結果をもたらした側面を詳述します。
- 諸国民の解放戦争: フランスによる支配と改革が皮肉にも被支配地域の「国民」意識(ナショナリズム)を呼び覚まし、スペインのゲリラ戦やロシア遠征の失敗を経てヨーロッパ諸国民がナポレオン打倒のために蜂起する過程をたどります。
- ラテンアメリカ諸国の独立: ナポレオン戦争によるスペイン・ポルトガル本国の混乱を好機として、アメリカ独立革命やフランス革命の理念に鼓舞されたシモン=ボリバルらの指導者がいかにしてラテンアメリカ諸国の独立を達成したのかを探ります。
本モジュールを通じて読者は「市民革命」が単一の出来事ではなく、大西洋を挟んで相互に影響を与え合いながら展開した一連の連鎖反応であったことを理解するでしょう。それは近代的な「国民国家」「憲法」「人権」といった概念が、理想と現実の間の激しい相克の中から血と涙を代償として、いかにして生み出されたのかを学ぶ知的な探求の旅となります。
1. アメリカ独立革命
18世紀半ばイギリスは七年戦争でフランスに勝利し、世界最大の植民地帝国としての地位を確立しました。しかしその輝かしい勝利こそが、皮肉にも帝国そのものを揺るがす巨大な亀裂を生み出す原因となりました。戦争によって生じた莫大な財政赤字を解消するためイギリス本国政府が北アメリカの13植民地に対して、それまでの方針を転換し課税と統制を強化しようとしたのです。これに対し植民地の人々は「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて激しく抵抗しました。この対立は単なる経済問題を越え、ジョン・ロックらの啓蒙思想に深く影響された植民地の人々の自由と権利をめぐる根本的な思想的対立へと発展していきました。そして1775年ついに両者の間で武力衝突が勃発し、世界史における最初の本格的な市民革命でありまた最初の植民地独立戦争である「アメリカ独立革命」の幕が切って落とされたのです。
1.1. 革命の原因:イギリス本国の政策転換
17世紀初頭から北アメリカ大陸の東海岸には、イギリスから渡ってきた人々による13の植民地が設立されていました。これらの植民地はそれぞれが独自の議会を持ち、本国から比較的自由な高度な自治を享受していました。イギリス本国も植民地が本国の産業に必要な原料を供給し工業製品の市場となってくれる限り、その内政に細かく干渉しない「有益なる怠慢」と呼ばれる政策をとっていました。
この比較的良好であった本国と植民地の関係を根底から覆したのが、七年戦争(北米では「フレンチ・インディアン戦争」と呼ばれる、1756-1763)でした。
- 七年戦争の帰結: イギリスはこの戦争でフランスを破り、カナダとミシシッピ川以東の広大な領土を獲得しました。これによりフランスの脅威が北米大陸から一掃されたため13植民地の人々は、もはや防衛のために本国の軍事力に依存する必要性を感じなくなりました。
- 財政問題と政策転換: 一方でイギリス本国はこの世界大戦の遂行によって、国家財政が破綻寸前になるほどの巨額の借金を背負い込みました。本国政府と議会はこの戦争で最も利益を得たのは安全を確保された13植民地であると考え、帝国の防衛費の一部を植民地自身に負担させるのは当然の権利であると判断しました。こうして「有益なる怠慢」の時代は終わりを告げ、イギリスは植民地に対する一連の新しい課税・統制政策を打ち出していきます。
1.2. 「代表なくして課税なし」:対立の激化
イギリス本国議会が次々と制定した植民地への課税法案は、その内容以上にその一方的なやり方が植民地の人々の政治的な権利意識を強く刺激しました。
- 印紙法(1765年): 新聞、証書、トランプに至るまで植民地内のあらゆる印刷物に印紙を貼ることを義務付け、課税するこの法律は特に弁護士やジャーナリストといった言論を担う知識人層の激しい反発を招きました。植民地の人々は各地で反対集会を開きイギリス製品の不買運動(ボイコット)を展開しました。
- タウンゼンド諸法(1767年): 茶、ガラス、紙、鉛、塗料といった輸入品に関税をかけるこの法律もまた激しい反対運動に遭いました。1770年ボストンではイギリス兵が抗議する市民に発砲し、数人の死者を出す「ボストン虐殺事件」が発生して両者の敵意はますます深まりました。
これらの反対運動の根底にあったのが「代表なくして課税なし(No taxation without representation)」というイギリス立憲主義の基本原則でした。植民地の人々は自らが代表を送っていないイギリスの本国議会には、植民地に直接税金を課す憲法上の権利はないと主張したのです。彼らにとってこれは単なる税金の問題ではなく、イギリス臣民として当然保障されるべき財産権と自由が侵害されているという根本的な政治問題でした。
この対立を決定的なものにしたのが「茶法(1773年)」です。これは経営難に陥っていたイギリス東インド会社の茶を、植民地で独占的に安く販売できるようにすることで会社を救済しようとする法律でした。しかしこれは植民地の茶の密貿易商人の利益を脅かすものであり、また本国議会が依然として茶への課税権を放棄していないことを示すものでした。
これに憤激したボストンの急進派市民(「自由の息子たち」)は1773年12月、先住民のモホーク族に変装して港に停泊していた東インド会社の船を襲撃し、積荷の茶箱をすべて海に投げ捨てました。これが「ボストン茶会事件」です。
この破壊行為に激怒したイギリス本国政府はボストン港の閉鎖やマサチューセッツ植民地の自治権の剥奪といった、一連の懲罰的な強圧的諸法(植民地側は「耐えがたき諸法」と呼んだ)を制定しました。
もはや対話による解決は不可能であると悟った13植民地の代表者たちは1774年、フィラデルフィアに集まり第1回大陸会議を開催し、本国との通商を断絶し団結して抵抗することを決議しました。
1.3. 独立戦争の勃発とトマス・ペインの『コモン・センス』
1775年4月ボストン近郊のレキシントンとコンコードで、植民地の民兵(ミニットマン)とイギリスの正規軍との間で最初の武力衝突が発生しました。この銃声はアメリカ独立戦争の始まりを告げるものでした。
第2回大陸会議はバージニアのプランテーション経営者でありフレンチ・インディアン戦争での軍務経験を持つジョージ・ワシントンを、植民地軍(大陸軍)の総司令官に任命しました。
しかしこの時点でも多くの植民地の人々は完全な独立を望んでいたわけではなく、あくまでイギリス帝国内での自治権の回復を目指していました。この躊躇していた人々の心を独立へと決定的に向かわせたのが1776年1月に出版された一冊のパンフレットでした。それがイギリス生まれの思想家トマス・ペインが執筆した『コモン・センス』です。
このわずか50ページほどの小冊子の中でペインは、それまで多くの人々が神聖視していたイギリスの君主制そのものを「世襲の圧政」であると痛烈にこき下ろし、植民地がイギリスから完全に独立し市民の自由と権利を保障する新しい共和制の国家を樹立することは歴史の必然であり、また世界の自由のための大義であると極めて明快で情熱的な言葉で訴えました。『コモン・センス』は出版されるや否や植民地全体で数十万部が読まれる空前のベストセラーとなり、独立への世論を一気に燃え上がらせたのです。
結論としてアメリカ独立革命は帝国の財政再建というイギリス本国の現実的な要請と、植民地で育まれた独自の自治の伝統と啓蒙思想に基づく権利意識とが正面から衝突した結果でした。それは大英帝国内の「親子喧嘩」として始まりましたが、やがて君主制からの決別と新しい共和制国家の樹立という近代史における最も重要な政治的実験へと発展していくことになるのです。
2. 合衆国の成立
アメリカ独立戦争は単にイギリスからの政治的独立を勝ち取るための戦いであっただけでなく、啓蒙思想家たちが夢見た理想の政治体制を現実の世界に初めて打ち立てようとする壮大な社会実験でもありました。独立を宣言し苦難に満ちた戦争を勝ち抜いた元植民地の人々は、次にいかなる国家を建設するのかという前例のない難問に直面します。当初の緩やかな国家連合(邦)の試みが失敗に終わった後、彼らはフィラデルフィアの一室に集い激しい議論の末に人類の政治史における金字塔となる「アメリカ合衆国憲法」を創り上げました。この憲法に体現された人民主権、連邦制、三権分立といった諸原理は、その後の世界の多くの国々の憲法制定のモデルとなり近代共和制国家の最も重要な原型を形成したのです。
2.1. 独立宣言と独立戦争の勝利
1776年6月大陸会議はバージニアのトーマス・ジェファーソンを中心とする委員会に、独立宣言の起草を命じました。そして7月4日フィラデルフィアで採択された「アメリカ独立宣言」は、単にイギリスからの独立を宣言しただけの文書ではありませんでした。それはジョン・ロックの自然権思想を色濃く反映した革命の大義と新しい国家の理想を高らかに謳い上げた、啓蒙思想の政治的マニフェストでした。
宣言は「すべての人間は平等につくられ、造物主によって生命、自由、そして幸福の追求を含む奪うことのできない権利を与えられている」と断言します。そして政府の目的はこれらの権利を保障することにあり、もし政府がこの目的を破壊するならば「人民はそれを変更、または廃止し新しい政府を設立する権利を持つ」とロックの抵抗権(革命権)を明確に主張しました。
しかしこの崇高な理想を掲げて始まった独立戦争の道のりは極めて困難なものでした。装備も訓練も不十分な大陸軍は世界最強を誇るイギリスの正規軍の前に当初敗北を重ねました。しかしジョージ・ワシントンの粘り強い卓越したリーダーシップの下大陸軍は冬のデラウェア川を渡る奇襲作戦などで士気を維持し戦いを続けました。
戦争の国際的な転換点となったのが1777年のサラトガの戦いです。この戦いで大陸軍がイギリス軍に大勝したことを受けて長年の宿敵イギリスに一矢報いる機会を窺っていたフランスが、正式にアメリカとの同盟を結び参戦を決定しました。さらにスペインやオランダもアメリカ側で参戦し独立戦争はイギリス対ヨーロッパ諸国の国際戦争の様相を呈しました。またロシアのエカチェリーナ2世の提唱で北欧諸国などが結成した「武装中立同盟」もイギリスの海上封鎖を牽制し間接的にアメリカを支援しました。
フランスのラ=ファイエット侯爵のような義勇兵の参加やフランス海軍の支援は、戦局をアメリカに有利に傾けました。そして1781年バージニアのヨークタウンの戦いでワシントン率いる米仏連合軍はイギリス軍の主力を降伏させ、戦争は事実上終結しました。
1783年のパリ条約でイギリスはアメリカ合衆国の独立を正式に承認し、ミシシッピ川以東の広大なルイジアナをアメリカに割譲しました。こうしてアメリカは独立を勝ち取ったのです。
2.2. 連合規約から合衆国憲法へ
独立を達成した13の元植民地(州)が最初に採用した国家の基本法が「連合規約(Articles of Confederation)」でした。これは各州がほぼ完全な主権を維持し中央政府である連合会議の権限を極めて弱く制限した国家連合(邦)の体制でした。各州はイギリス本国の強力な中央権力に苦しめられた経験から、新しい中央政府が専制的になることを極度に恐れていたのです。
しかしこの弱い中央政府は国家を統治する上で多くの深刻な問題を露呈しました。
- 課税権の欠如: 連合会議には直接国民に課税する権限がなく、各州からの任意の拠出金に頼るしかありませんでした。そのため常に財政は破綻状態で独立戦争中の兵士への給料の支払いも滞りました。
- 通商規制権の欠如: 連合会議には州と州の間の通商を規制する権限がなかったため、各州が互いに保護関税をかけ合うなど経済的な混乱が生じました。
- 軍事力の欠如: 中央政府は常備軍を持つことができず国内の治安維持にも支障をきたしました。1786年マサチューセッツで独立戦争後の不況と重税に苦しむ農民たちがシェイズに率いられて武装蜂起した際(シェイズの反乱)、連合会議はこれを鎮圧する有効な手段を持たずその無力さを露呈しました。
これらの混乱を通じてワシントン、ジェームズ・マディソン、アレクサンダー・ハミルトンといった指導者たちは、このままではアメリカが無政府状態に陥りヨーロッパ列強の干渉の餌食になってしまうという強い危機感を抱きました。そしてより強力で実効性のある中央政府を樹立するため連合規約を根本的に改正する必要があるとかんがえるようになりました。
2.3. フィラデルフィア憲法制定会議
1787年5月12の州(ロードアイランドは不参加)の代表たちがフィラデルフィアに集まり憲法制定会議が開催されました。ジョージ・ワシントンを議長とするこの会議では数ヶ月にわたる激しい議論が繰り広げられました。
会議の主要な論点は強力な中央政府の必要性を認める「連邦派(フェデラリスト)」と、各州の権限を重視し中央政府の権力強化に警戒する「反連邦派(アンチ・フェデラリスト)」との間の対立でした。また人口の多い大州と人口の少ない小州との間で議会での代表権のあり方をめぐっても深刻な利害対立がありました。
これらの対立を乗り越えるため様々な「大妥協」が図られました。例えば議会を各州の人口に比例して代表を送る下院と各州が平等に2名の代表を送る上院の二院制とすることで、大州と小州の利害が調整されました。また奴隷制をめぐる南北の対立に関しては奴隷の人口を5分の3として下院の議席数を計算するという妥協が成立しました(ただしこれは後に南北戦争の火種となる)。
そして1787年9月ついに「アメリカ合衆国憲法」の草案が完成しました。この憲法が確立した統治の基本原則は啓蒙思想の理念を現実の政治制度へと昇華させた画期的なものでした。
- 人民主権: 憲法の前文は「われら、合衆国の人民は…(We the People of the United States…)」という言葉で始まります。これは政府の権威の源泉が君主や神ではなく人民そのものにあるという「人民主権(国民主権)」の原理を明確に宣言するものです。
- 連邦制: 国家の権限を国防、外交、通貨発行などを担う中央の「連邦政府」と住民に身近な行政を担う「州政府」とで分担する「連邦制」を採用しました。これにより中央政府の効率性と各州の自主性の両立を図りました。
- 厳格な三権分立: モンテスキューの思想に基づき連邦政府の権力を法を制定する「立法府(議会)」、法を執行する「行政府(大統領)」、そして法を解釈する「司法府(連邦裁判所)」の三権に厳格に分離しました。さらに大統領の法案拒否権や議会の弾劾権、裁判所の違憲審査権といった精巧な「抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)」の仕組みを導入し、いずれかの部門への権力の集中を防ぐ工夫がなされました。
この憲法草案は各州の批准を経て1788年に正式に発効しました。そして1789年最初の選挙でジョージ・ワシントンが初代合衆国大統領に選出され、新しい連邦政府が発足しました。
さらに個人の自由と権利を保障する条項が憲法本文には欠けているという反連邦派の批判に応える形で、1791年信教・言論・出版の自由などを保障する「権利章典(修正第1条から第10条)」が追加されました。
こうして成立したアメリカ合衆国は世襲の君主や貴族を持たず成文憲法と人民の代表によって統治される史上初の本格的な近代共和制国家となりました。その誕生は旧世界の絶対主義と身分制社会に対する強力なアンチテーゼであり、世界中の自由を求める人々に大きな希望とインスピレーションを与えることになるのです。
3. フランス革命の勃発と人権宣言
18世紀末のフランスはヨーロッパ大陸における絶対王政の最も華麗で洗練された中心地でした。しかしその輝かしい宮廷文化と強力な君主権の内側では社会のあらゆる階層に深刻な矛盾が蓄積され、国家は破綻の瀬戸際にありました。不平等な身分制度、破綻した国家財政、そして社会契約や人民主権を説く啓蒙思想の浸透。これらの条件がすべて揃った時フランスはヨーロッパの旧体制(アンシャン・レジーム)を根底から覆し、その後の世界の歴史を永遠に変えることになる巨大な革命の渦へと飲み込まれていきました。1789年のバスティーユ牢獄の襲撃に始まり、その直後に採択された「人権宣言」にその理念を結晶させたフランス革命の勃発は、近代市民社会の誕生を告げる最も劇的な出来事でした。
3.1. 革命の背景:旧体制(アンシャン・レジーム)の矛盾
フランス革命がなぜあれほど爆発的で徹底的な社会変革となったのかを理解するためには、革命前のフランス社会すなわち旧体制(アンシャン・レジーム)が抱えていた三重の構造的矛盾を分析する必要があります。
第一の矛盾:社会的な不平等
当時のフランスの社会は法的に三つの身分(état)に分けられていました。
- 第一身分(聖職者): 全人口の0.5%にも満たない約12万人の聖職者たちは、国土の約10%を所有する大地主であり、教会が信者から徴収する十分の一税など莫大な収入を得ていました。
- 第二身分(貴族): 人口の1.5%程度約40万人の貴族たちは、国土の約20-30%を所有し農民から封建的な地代を徴収する権利や、軍隊や行政の高級官職を独占する特権を持っていました。
- 特権身分: この第一身分と第二身分は「特権身分」とされ、最大の特権として所得税(タイユ税)などの主要な直接税を免除されるという絶大な恩恵を享受していました。
- 第三身分(平民): 残りの実に98%を占める約2600万人の人々が第三身分でした。しかしこの第三身分は決して均質な集団ではありませんでした。その最上層には大商人、銀行家、法律家といった富裕で教養のある市民階級(ブルジョワジー)が存在し、彼らは経済的な実力を持ちながらも貴族のように政治的な発言権や社会的な名誉を持てないことに強い不満を抱いていました。その下には都市の手工業者や職人(サン=キュロット)が、そして大多数を占める約2200万人の農民がいました。これらの第三身分の人々が国家の全税収のほとんどを負担しており特に農民は国家への税金、教会への十分の一税、そして領主への封建的貢租という三重の収奪に苦しんでいました。
この生まれによって人の権利と義務が決定される身分制社会は、個人の能力や功績を重んじるブルジョワジーの価値観や人間の平等を説く啓蒙思想とは全く相容れない時代遅れのシステムでした。
第二の矛盾:財政的な破綻
フランスの国家財政はルイ14世以来の度重なる対外戦争とヴェルサイユ宮殿での豪華な宮廷生活によって、慢性的な赤字状態にありました。特にアメリカ独立戦争への参戦は宿敵イギリスに一撃を加えることには成功したものの、国家財政にとどめを刺すほどの莫大な負債を残しました。国家歳入の半分以上が借金の利払いに消えていくという破滅的な状況でした。
国王ルイ16世はテュルゴーやネッケルといった有能な改革派の財務長官を登用し、財政再建を試みました。彼らは財政危機を根本的に解決するためにはもはや第三身分への増税だけでは限界があり、これまで免税特権を享受してきた第一、第二身分すなわち特権身分にも課税するしかないという結論に達しました。
しかしこの特権身分への課税案は聖職者や貴族たちの猛烈な抵抗に遭い、彼らは高等法院(司法機関)を拠点として国王の改革案にことごとく反対しました。追い詰められた国王は特権身分への課税を承認させるための最後の手段として、1614年以来実に175年間も開催されていなかった全国の三つの身分の代表者からなる身分制議会「三部会」の招集を1789年5月に行うことを約束せざるを得なくなりました。
第三の矛盾:思想的な変化
18世紀を通じてフランスでは啓蒙思想が知識人層だけでなく広く市民階級にも浸透していました。ルソーの社会契約論や人民主権の思想は絶対王政の理論的支柱であった王権神授説の正統性を根底から揺るがしていました。またアメリカ独立革命の成功は啓蒙思想が単なる理想論ではなく現実の政治体制として実現可能であることをフランスの人々に示す強力な実例となりました。
特権身分が自らの封建的な特権を守るために「王の専制政治」を批判した時、彼らは意図せずして第三身分のブルジョワジーに政治的な目覚めを促してしまいました。第三身分は「特権」ではなくすべての国民に共通の「権利」を要求し始めました。
3.2. 革命の勃発:三部会からバスティーユ襲撃へ
1789年5月ヴェルサイユで三部会が開催されると議論は冒頭から紛糾しました。その最大の争点は議決の方法をめぐる問題でした。
国王と特権身分は伝統的な身分別議決方式、すなわち各身分がそれぞれ一つの議決権を持つ方式を主張しました。これでは第一身分と第二身分が常に協力するため2対1で第三身分の意見は必ず否決されてしまいます。
これに対して第三身分の代表たちは人口比を反映して議員数を倍増させた上で全議員が合同で審議し、一人一票で議決する個人別議決方式を要求しました。
議論が平行線をたどる中6月第三身分の代表たちは自らこそがフランス国民の唯一の正統な代表であると宣言し、独自の「国民議会」を結成しました。これに驚いた国王が議場を閉鎖すると彼らはヴェルサイユ宮殿の屋内球戯場(テニスコート)に集まり、憲法が制定されるまでは決して解散しないことを誓い合いました(テニスコートの誓い)。
この第三身分の断固たる決意を前に国王は渋々特権身分の議員にも国民議会への合流を命じ、ここに憲法制定のための「憲法制定国民議会」が成立しました。
しかしその一方で国王と宮廷の保守派は武力で議会を弾圧しようと軍隊をヴェルサイユとパリ周辺に集結させ、また改革派の財務長官ネッケルを罷免しました。
この動きがパリの民衆の間に伝わると不安と怒りが爆発します。1789年7月14日武器を求めたパリの民衆は圧政の象徴とされていたバスティーユ牢獄を襲撃しこれを占領しました。この事件はそれ自体は小さな出来事でしたが民衆の力が国王の権威を打ち破った象徴的な勝利として、革命の炎をフランス全土に燃え広がらせる号砲となったのです。
地方では農民たちが貴族の館を襲い封建的な権利を示す証書を焼き払う「大恐怖(グランド・プール)」が吹き荒れました。
3.3. 人権宣言:新しい社会の基本原則
革命の熱狂のさめやらぬ1789年8月26日国民議会は新しい憲法の前文となる歴史的な文書を採択しました。ラ=ファイエットらが起草した「人間と市民の権利の宣言(人権宣言)」です。
全17条からなるこの宣言はアメリカ独立宣言と啓蒙思想、特にロックとルソーの思想の影響を色濃く受けた近代市民社会の基本原則を謳い上げた不朽の文書です。
- 基本的人権: 第1条は「人は自由、かつ権利において平等なものとして生まれ、生存する」と謳い身分制社会を根本から否定しました。
- 国民主権: 第3条は「あらゆる主権の原理は本質的に国民に存する」と述べ国王の主権ではなく国民の主権(国民主権)を宣言しました。
- 法の支配と権力分立: 所有権の神聖不可侵そして言論の自由、権力分立といった近代憲法の基本原則が盛り込まれました。
この人権宣言は絶対王政と封建的な特権に基づく旧体制の死亡診断書であり、自由、平等、そして国民の主権に基づく新しい市民社会の誕生証明書でした。その普遍的な理念はフランスを超えて19世紀の全世界の自由主義とナショナリズムの運動に計り知れない影響を与え続けることになるのです。
4. 立憲君主制から共和政へ
1789年の人権宣言の採択はフランス革命の理想を高らかに掲げるものでしたが、その理想を現実の政治体制へと落とし込む道のりは決して平坦ではありませんでした。当初国民議会の主流派を占めていたのは立憲君主派であり、彼らはイギリスのような国王の権力を憲法で制限する穏健な立憲君主制を目指していました。しかし革命の理念を理解しようとしない国王ルイ16世の優柔不断な態度と、革命の波及を恐れる周辺の君主国からの軍事的な圧力が、革命をますます急進的な方向へと押し流していきました。そしてついに王政そのものが打倒されフランスは歴史上初の「共和政」を樹立するという、ヨーロッパの君主たちを震撼させる過激な段階へと突入していくのです。
4.1. 革命の初期段階と1791年憲法
人権宣言が採択された後も国王ルイ16世は封建的特権の廃止や宣言そのものを承認することをためらっていました。食糧難に苦しむパリの民衆、特に女性たちは1789年10月「パンをよこせ」と叫びながらヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王一家をパリのテュイルリー宮殿に連行しました(ヴェルサイユ行進)。これにより国王と議会は常に急進的なパリの民衆の監視下に置かれることになります。
この間国民議会は新しい国家体制の建設を進めました。
- 財政改革: 破綻した国家財政を再建するため議会は教会財産をすべて没収し、それを担保として「アッシニャ」という紙幣を発行しました。
- 行政改革: ギルド(同業組合)を廃止して経済活動の自由を保障し、また国内を均質な行政単位である「県」に再編するなど中央集権的な行政システムを整備しました。
そして1791年9月フランス初の成文憲法である「1791年憲法」が制定されました。
- 憲法の内容: この憲法は国民主権と権力分立を基本原則とし、一院制の立法議会を設ける立憲君主制を定めました。国王は世襲の君主として留まるもののその権力は憲法によって厳しく制限されました。
- 制限選挙: しかしこの憲法が定めた選挙権はすべての国民に与えられたわけではありませんでした。一定額以上の直接税を納める財産を持つ市民(能動的市民)にしか選挙権は与えられず、貧しい人々(受動的市民)は政治から排除されました。これは革命の主導権を握っていたのが富裕なブルジョワジーであったことを示すものであり、人権宣言が謳った「平等」の理念とは矛盾するものでした。
この1791年憲法の制定をもって憲法制定国民議会はその目的を達成したとして解散し、新しい憲法に基づく立法議会が成立しました。
4.2. ヴァレンヌ逃亡事件と対外戦争の勃発
穏健なブルジョワジーが主導する立憲君主制が軌道に乗るかに見えた矢先、革命の運命を大きく変える決定的な事件が起こります。
1791年6月国王ルイ16世とその家族は革命に不満を抱き、オーストリアにいる王妃マリー=アントワネットの兄レオポルト2世の助けを借りて国を再建しようとパリを密かに脱出しました。しかしこの逃亡計画は国境近くのヴァレンヌで見つかってしまい、国王一家は屈辱のうちにパリに連れ戻されてしまいました(ヴァレンヌ逃亡事件)。
この事件は国民の国王に対する信頼を完全に失墜させました。これまで国王を擁護してきた立憲君主派の立場は著しく弱まり、一方で国王を廃位して共和制を樹立すべきだという急進的な共和主義の声がパリの民衆やジャコバン=クラブ(政治クラブ)などを中心に急速に高まっていきました。
さらに革命の情勢を緊迫させたのが国外からの圧力でした。オーストリア皇帝とプロイセン王はピルニッツ宣言(1791年8月)を発表し、ルイ16世の安全が脅かされるならば軍事介入も辞さないという姿勢を示し革命を牽制しました。
これに対して立法議会の内部では商工業ブルジョワジーを代表するジロンド派が主導権を握り、国内外の反革命勢力を一掃するためオーストリアに対する開戦を強力に主張しました。国王自身も戦争が始まれば外国の軍隊が介入し自らの権力を回復できるかもしれないという淡い期待から開戦に同意しました。
そして1792年4月フランスはオーストリアに宣戦布告しフランス革命戦争が勃発しました。しかし貴族出身の将校の多くが亡命して士気が低かったフランス軍は当初オーストリア・プロイセンの連合軍の前に敗北を重ね、国境には敵軍が迫りました。
4.3. 共和政の樹立と国王の処刑
この祖国の危機に際して全国から義勇兵がパリに集結しました。マルセイユからやってきた義勇兵が歌っていた「ラ=マルセイエーズ」(後のフランス国歌)は革命の防衛と祖国愛を鼓舞する歌として広まりました。
1792年8月10日プロイセン軍司令官が発した「もし国王一家に危害が加えられるならばパリ市を壊滅させる」という脅迫的な声明(ブランシュヴァイクの宣言)は、パリの民衆の怒りに火をつけました。彼らは国王が外国と通じていると確信しサン=キュロット(短ズボンをはかない労働者階級)と義勇兵がテュイルリー宮殿を襲撃しました。この8月10日事件の結果議会は王権の停止を決議し国王一家はタンプル塔に幽閉されました。
ここに1791年憲法に基づく立憲君主制はわずか1年足らずで崩壊しました。
この政治的混乱と前線での敗北のニュースが広まる中パリでは反革命派の陰謀への恐怖から、民衆が牢獄を襲い囚人たちを次々と虐殺するという九月虐殺が発生しました。
しかしその直後1792年9月20日フランスの義勇兵軍はヴァルミーの戦いでプロイセン軍に奇跡的な勝利を収め、その進撃を食い止めました。この勝利は革命の防衛に成功しただけでなくフランス国民に大きな自信を与えました。文豪ゲーテはこの戦いを目撃し「この日、この場所から世界史の新しい時代が始まる」と記したと伝えられています。
ヴァルミーの戦いの翌日男性普通選挙によって選ばれた新しい議会「国民公会」が召集され、その最初の議決として満場一致で「王政の廃止」と「第一共和政」の樹立を宣言しました。
国民公会の内部では当初穏健なジロンド派が優勢でしたが国王の処遇をめぐって急進的なジャコバン派(山岳派)との対立が激化しました。ジロンド派が国王の処刑にためらいを見せたのに対しロベスピエールを中心とするジャコバン派は、国王の存在そのものが共和政への脅威であるとして即時処刑を強く主張しました。
そして公開された国王が外国と通じていた証拠などもあり裁判の結果、わずかな票差でルイ16世の死刑が決定されました。1793年1月ルイ16世(もはや市民ルイ・カペーと呼ばれた)はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。
この国王処刑という衝撃的な出来事はヨーロッパ中の君主国を震撼させました。イギリスの首相ピットはフランスへの非難の先頭に立ちイギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどを含む「対仏大同盟」を結成しフランス革命への包囲網を狭めていきました。
フランス革命はここにもはや後戻りのできない段階へと突入し内外の敵との全面戦争の中で、さらに過激で血腥い独裁の時代へと進んでいくことになるのです。
5. ジャコバン派の恐怖政治
国王ルイ16世の処刑はフランス革命を決定的な局面へと導きました。国内ではヴァンデ地方などで敬虔な農民たちによる反革命の武装蜂起が勃発し、国外ではイギリスを中心に結成された対仏大同盟の軍隊が四方から国境に迫りました。まさに革命は「内憂外患」の絶体絶命の危機に瀕していたのです。この危機的状況の中で国民公会の主導権を握ったのが、マクシミリアン・ロベスピエール(1758-1794)に率いられた急進共和派ジャコバン派(山岳派)でした。彼らは革命を内外の敵から防衛するという大義名分の下に、あらゆる権力を中央に集中させ反対派を容赦なく粛清する「恐怖政治(Terreur)」を実行しました。この1793年から1794年にかけてのジャコバン独裁の時代はフランス革命の中で最も血腥く、そして最も矛盾に満ちた時期であり、革命がその理想を追求するあまりいかにしてその理想そのものである「自由」を踏みにじってしまうのかという恐るべき逆説を示しています。
5.1. ジャコバン派の独裁と公安委員会
1793年6月パリのサン=キュロット(都市労働者・職人層)の武装蜂起に支持されたジャコバン派は、国民公会からライバルであった穏健なジロンド派の議員を追放し独裁的な権力を確立しました。
彼らがこの独裁を実行するための中核的な機関となったのが「公安委員会」です。これはもともと国防と治安維持を目的とする議会の委員会の一つでしたがジャコバン派の支配下で、事実上の戦時独裁政府として行政、立法、司法の全権を掌握しました。12人の委員からなるこの委員会を通じてロベスピエールは、その揺るぎない指導力を発揮しました。
ジャコバン派の独裁は単なる権力欲に基づくものではありませんでした。その思想的な背景にはルソーの「一般意志」の思想がありました。ロベスピエールは自らを人民全体の利益である「一般意志」の代行者であると信じ、この一般意志に反するすべての個人や派閥の意見(特殊意志)は革命の敵として排除されなければならないと考えました。彼は「徳(Vertu)」に基づく理想の共和制を樹立するためには、一時的な「恐怖(Terreur)」すなわち暴力的な手段が不可欠であると公言しました(「徳なくして恐怖は有害であり、恐怖なくして徳は無力である」)。
この独裁体制の下でジャコバン派は危機を克服するための一連の急進的な政策を矢継ぎ早に実行しました。
- 1793年憲法(ジャコバン憲法): 彼らは男性普通選挙、人民の労働権や教育権などを保障する極めて民主的な内容を持つ新しい憲法を制定しました。しかしこの憲法は戦時の非常事態を理由にその実施が延期され、結局一度も施行されることはありませんでした。
- 封建的特権の無償廃止: 農民の支持を得るためそれまで有償で廃止されることになっていた封建的な地代を、完全に無償で廃止しました。これによりフランスの農民は土地の完全な所有者となり、自立した小土地所有農民としてその後のフランス社会の保守的な安定層を形成していくことになります。
- 徴兵制(国民総動員令): 対仏大同盟の軍隊に対抗するため「国民総動員令(levée en masse)」を発布し徴兵制を導入しました。これによりフランスは100万人規模の巨大な国民軍を創設することに成功しました。愛国心と革命の理念に燃えるこの国民軍は、傭兵中心の旧来の君主国の軍隊を圧倒する強力な戦闘力を発揮しました。
5.2. 恐怖政治(Terreur)の展開
革命を守るという目的はやがて手段を選ばない過激な弾圧へとエスカレートしていきます。
- 革命裁判所と反革命容疑者法: パリには反革命の容疑者を裁くための「革命裁判所」が設置されました。1793年9月に制定された「反革命容疑者法」は「反革命的」の定義が極めて曖昧であったため、公安委員会やその派遣議員が恣意的に人々を逮捕し裁判にかけることを可能にしました。裁判は弁護も証拠も不十分な略式のものであり、有罪判決はほとんど死刑を意味しました。
- ギロチンの猛威: 処刑の道具として多用されたのが「ギロチン」です。人道的で平等な処刑装置として導入されたこの機械は恐怖政治の象徴となりました。パリだけで数千人、全国では数万人がギロチンの露と消えたと言われています。犠牲者には王妃マリー=アントワネットやジロンド派の指導者たちだけでなく、多くの無実の市民が含まれていました。
- 経済統制と非キリスト教化: サン=キュロットの要求に応える形でジャコバン派は生活必需品の価格を統制する「最高価格令」などの経済統制を実施しました。また革命の合理主義的な精神を徹底するため「理性の崇拝」を導入しキリスト教会を弾圧する「非キリスト教化」運動を進めました。グレゴリオ暦に代わり革命暦(共和暦)が制定されたのもこの一環でした。
5.3. ロベスピエールの孤立とテルミドールの反動
ジャコバン派の強力な戦時独裁は対外的な軍事危機を克服する上で一定の成果を上げました。国民軍は各地で勝利を収めフランス国内から外国軍を駆逐することに成功します。
しかし対外的な危機が遠のくにつれて国内の恐怖政治の正当性は失われていきました。ロベスピエールは自らの理想に固執するあまり粛清の手を緩めませんでした。彼はまず自分たちよりも急進的なエベール派を、次に恐怖政治の停止を求めた穏健なダントン派を次々とギロチンに送り、ジャコバン派の内部でも敵を増やしていきました。
もはやロベスピエールの独裁は誰が次の粛清の対象になるか分からないという恐怖と猜疑心を、国民公会の議員たちの間に蔓延させました。そして1794年7月27日(革命暦テルミドール9日)、反ロベスピエール派の議員たちが国民公会で結託しロベスピエールを告発するクーデターを起こしました。
サン=キュロットの支持も失っていたロベスピエールは有効な抵抗もできず逮捕され、翌日彼自身があれほど多用したギロチンによって処刑されました。これが「テルミドールの反動(クーデター)」です。
ロベスピエールの死をもって恐怖政治は終わりを告げ、革命は急進的な段階から穏健で保守的な方向へと大きく揺り戻されることになります。
結論としてジャコバン派の恐怖政治は革命が生み出した最も暗い影でした。それは崇高な「徳」の共和国を建設しようとするユートピア的な理想が現実の危機に直面した時、いかにしてその理想の名の下に残忍な弾圧と独裁へと転化しうるかという痛ましい教訓を示しています。しかし同時に彼らが実行した封建的特権の完全な廃止や国民軍の創設といった徹底的な改革は、フランスに旧体制の残滓を一掃し近代的な国民国家の基礎を不可逆的に築いたという側面も持っていました。この恐怖政治の遺産はその後のフランスそして世界の革命の歴史に複雑な問いを投げかけ続けることになるのです。
6. ナポレオン=ボナパルトの台頭
テルミドールの反動によってロベスピエールの恐怖政治が終わりを告げた後フランス革命はその急進的なエネルギーを失い、穏健なブルジョワジーが主導権を握る新しい段階へと移行しました。1795年に成立した「総裁政府」の時代です。しかしこの政府は左右の政治勢力からの絶え間ない攻撃にさらされ、また深刻なインフレーションと財政危機に悩まされる極めて弱体で腐敗した政権でした。国民は10年にわたる革命の混乱と不安定に疲れ果て、社会に秩序と安定をもたらしてくれる強力な指導者の出現を待ち望んでいました。この時代の閉塞感と国民の渇望を背景に革命が生んだ対外戦争の中で彗星のように現れたのが、若き天才的な軍人ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)でした。彼はその圧倒的な軍事的才能とカリスマ性によって国民的な英雄となり、最終的には軍事クーデターによって総裁政府を打倒しフランスの全権力をその一身に掌握することになります。彼の台頭はフランス革命が生み出した最大の申し子であり、同時に革命の理想であった民主的な共和政の墓掘り人でもありました。
6.1. 総裁政府の不安定とナポレオンの登場
ロベスピエールを打倒したテルミドール派はジャコバン派の急進的な民主主義と経済統制を否定し、有産階級(ブルジョワジー)の利益を代表する新しい憲法(1795年憲法)を制定しました。この憲法に基づいて成立したのが「総裁政府」です。
- 総裁政府の特徴: この政府は権力の集中を極度に恐れ行政権を5人の総裁に立法権を二院制の議会に分散させるなど、極めて抑制と均衡を重視した体制でした。選挙権も再び財産による制限選挙に戻されました。
しかしこの弱体な政府は国民の支持を得ることができませんでした。左からは財産の私有を否定する共産主義的な思想を掲げたバブーフの陰謀が発覚し、右からは王党派の反乱が頻発しました。政府はこれらの危機を乗り切るために常に軍隊の力に頼らざるを得ませんでした。これにより軍人の政治的な発言力が急速に高まっていきました。
このような国内の政治的混乱の中で国民の目を引きつけたのが、対外戦争における華々しい軍事的勝利でした。そしてその勝利の中心にいたのがコルシカ島出身の下級貴族の息子ナポレオン・ボナパルトでした。
彼はフランス革命がもたらした能力主義の恩恵を最大限に受けた人物でした。旧体制下では家柄のない彼が軍の最高司令官になることは不可能でした。しかし革命によって多くの貴族出身の将校が亡命したため彼はその卓越した軍事的才能によって異例の速さで昇進を重ねていきました。
1795年パリで起こった王党派の反乱を得意の砲術で鎮圧した(ヴァンデミエールのクーデター)ことで総裁政府の信頼を得た彼は、1796年イタリア方面軍の司令官に任命されます。
6.2. イタリア遠征とエジプト遠征:英雄の誕生
イタリアに派遣されたナポレオンはそれまで誰も予想しなかった奇跡的な軍事的才能を発揮します。彼は兵士たちを鼓舞する天才的な演説で士気を高め斬新な戦術(敵軍の分断と各個撃破)を駆使してオーストリア軍を次々と打ち破り北イタリアを征服しました。彼は占領地にフランスの衛星共和政を樹立しまたイタリアの美術品などを大量にフランスに送り国民を熱狂させました。カンポ=フォルミオの和約(1797年)でオーストリアに勝利した彼は救国の英雄としてパリに凱旋します。
次にナポレオンはフランスの最大の敵として残っていたイギリスを打倒するための戦略を立案します。イギリス本土への直接上陸は困難であると判断した彼は、イギリスとその最も重要な植民地であるインドとの連携を断ち切るためその中継地であるエジプトへの遠征を提案します。総裁政府も人気が高まりすぎたナポレオンをパリから遠ざけたいという思惑もありこの計画を承認しました。
1798年ナポレオンは大軍を率いてエジプトに上陸しピラミッドの戦いで現地のマムルーク軍に勝利しました。この遠征には多くの学者が同行し古代エジプト文明の本格的な学術調査が行われました。この時発見された「ロゼッタ=ストーン」が後にシャンポリオンによるヒエログリフ(神聖文字)の解読に繋がったことは有名です。
しかし軍事的にはこの遠征は失敗に終わりました。イギリスの提督ネルソンに率いられた艦隊がアブキール湾の海戦でフランス艦隊を壊滅させ、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまったのです。
6.3. ブリュメール18日のクーデター:権力への道
エジプトで足止めを食らっていたナポレオンの元にフランス本国の危機的な状況が伝えられます。イギリスがオーストリア、ロシアなどを誘って第二回対仏大同盟を結成しフランス軍はイタリアなどから撤退を余儀なくされ、国内では総裁政府への不満が頂点に達していました。
ナポレオンは今こそ自分がフランスを救う時であると決断します。彼は軍をエジプトに残したまま少数の側近と共にイギリス海軍の封鎖をかいくぐってフランスに帰国しました。
国民はエジプトでの敗北を知らず英雄の帰還に熱狂しました。ナポレオンは総裁政府の有力者であったシェイエスらと共謀し政府を打倒するためのクーデターを計画します。
そして1799年11月9日(革命暦ブリュメール18日)ナポレオンは軍隊を率いて議会を威圧し、反対する議員を武力で追放して総裁政府を打倒しました。これが「ブリュメール18日のクーデター」です。
クーデターの後新しい憲法が制定されナポレオン、シェイエス、デュコの3人による「統領政府(執政政府)」が樹立されました。しかし実権は圧倒的な人気と軍事力を背景に持つ第一統領(第一執政)ナポレオンの手に集中していました。
フランス国民はこの軍事クーデターを独裁への道として非難するどころか、むしろ熱狂的に支持しました。彼らは10年にわたる革命の混乱と無能な総裁政府の政治にうんざりしており、ナポレオンこそが革命の成果(財産権の保障、封建的特権の廃止など)を守りつつ国内に秩序と安定をもたらし、対外的にはフランスに栄光をもたらしてくれる唯一の人物であると信じたのです。
結論としてナポレオンの台頭はフランス革命の理想であった民主的な手続きが機能を停止し、社会が極度の混乱に陥った時人々がいかに容易に「自由」よりも「秩序」をそしてカリスマ的な独裁者を求めうるかという歴史の現実を示しています。革命の理想主義の時代は終わりを告げ一人の天才の現実主義的な支配の時代が始まろうとしていました。
7. フランス第一帝政
ブリュメール18日のクーデターによって第一統領としてフランスの実質的な独裁権を手中にしたナポレオン・ボナパルトは、国民が彼に期待した通り国内外の混乱を次々と収拾しその地位を不動のものとしていきました。彼は革命の動乱がもたらした社会的な亀裂を修復し安定的で効率的な国家統治のための恒久的な制度を次々と創り上げました。そして国民の圧倒的な支持を背景に彼は終身統領を経て1804年ついに自ら皇帝の位に就き「フランス第一帝政」を開始します。フランス革命は絶対王政を打倒したはずでしたがそのわずか15年後に一人の軍人が創り出した新しい世襲の君主制へと回帰したのです。この一見逆説的な出来事はナポレオンの帝政が旧体制の王政とは全く異なる性格、すなわち革命の成果を受け継ぎ国民の意思に基づくとされた近代的な独裁体制であったことを示しています。
7.1. 独裁体制の確立と国内改革
第一統領となったナポレオンはまず国内外の危機の克服に取り組みました。
- 対外戦争の勝利: 彼は1800年再び自ら軍を率いてアルプスを越えマレンゴの戦いでオーストリア軍に劇的な勝利を収めました。これにより第二次対仏大同盟は崩壊し1802年にはイギリスともアミアンの和約を結びヨーロッパに一時的な平和をもたらしました。
- 国内の安定: 彼はカトリック教会との関係修復にも乗り出しました。革命中に教会と国家は対立していましたが1801年ローマ教皇との間に「コンコルダート(宗教協約)」を結び、カトリックをフランス国民の「多数の宗教」として認め聖職者の給与を国家が支払う代わりに、教会が革命中に没収された教会財産の返還を要求しないことなどを定めました。これにより敬虔なカトリック教徒が多い農民の支持を固めることに成功しました。
これらの成功によって絶大な人気を得たナポレオンは1802年国民投票を実施し、圧倒的な賛成を得て「終身統領(終身執政)」となりました。彼の独裁体制はここに完成します。
独裁者となったナポレオンはその卓越した行政手腕を発揮してフランスの恒久的な制度的基盤となる一連の国内改革を断行しました。これらの改革は革命の理念である法の下の平等や中央集権的な効率性を具体化したものであり現代のフランスにも深く受け継がれています。
- フランス銀行の設立(1800年): 彼は革命中の混乱で破綻状態にあった通貨と財政を安定させるため、中央銀行であるフランス銀行を設立しました。これにより政府は安定した資金調達が可能となり経済活動の基盤が整えられました。
- 行政・教育制度の整備: 彼は全国の県知事を中央政府が任命する制度を確立しパリに権力を集中させる強力な中央集権的な行政システムを完成させました。また国家に有能な官僚を供給するための高等教育機関(リセ)の制度を整備しました。
- ナポレオン法典(フランス民法典)の制定(1804年): ナポレオンの国内改革の中で最も重要で永続的な意義を持つのが「ナポレオン法典」の編纂です。革命前のフランスでは地域ごとに異なる慣習法が存在し法的な統一がなされていませんでした。ナポレオンは法学者たちに命じてこれらの法を統一し近代的な民法典を創り上げました。この法典は三つの基本原則に貫かれています。
- 法の下の平等: 身分による特権を否定しすべての国民が法の下で平等であることを保障しました。
- 私有財産の絶対性: 個人の所有権を神聖不可侵なものとして強く保障しました。これは革命中に教会や亡命貴族から土地を購入した農民やブルジョワジーの財産を保護するものであり、彼らのナポレオンへの支持を決定的なものにしました。
- 個人の自由と契約の自由: 経済活動の自由など個人の自由な活動を保障しました。ただしこの法典は家父長権を非常に強く認め女性の権利を制限するなど保守的な側面も持っていました。ナポレオン自身「余の真の栄光は40回の戦勝にあるのではない。それは抹殺されることのない余の民法典である」と語ったようにこの法典は近代市民社会の法的な基礎を確立し、その合理性と明快さから彼の征服と共にヨーロッパ各地に広まり多くの国々の民法典の模範となりました。
7.2. 皇帝ナポレオン1世の誕生
国内の秩序を回復し対外的な平和をもたらしたナポレオンの権威は絶大なものとなりました。しかし彼は終身統領の地位に満足しませんでした。王党派の暗殺計画などが発覚する中で彼は自らの権力を世襲のものとし、ブルボン朝の復活を永久に阻止するためには自らが新しい王朝の創始者となるしかないと考えました。
1804年彼は再び国民投票を実施し世襲の皇帝となることへの賛意を問いました。これもまた圧倒的な賛成を得て同年12月2日ナポレオンはパリのノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、「フランス人民の皇帝」ナポレオン1世として即位しました。
この戴冠式は極めて象徴的な演出がなされました。彼はローマ教皇ピウス7世をパリに呼び寄せましたが伝統に反して教皇の手から帝冠を受け取るのではなく、自らの手で冠を頭上に戴き次に皇后ジョゼフィーヌに冠を授けました。これは皇帝の権威が神や教皇から与えられたものではなく自らの実力と国民の支持によって勝ち取られたものであることを示す強烈なパフォーマンスでした。
こうしてフランス第一帝政が始まりました。
7.3. 第一帝政の性格
ナポレオンの帝政は革命前のブルボン朝の絶対王政とはその性格を大きく異にしています。
- 革命の成果の継承: 彼の支配は法の下の平等、私有財産の保障、封建的特権の廃止といったフランス革命の社会的な成果の上に成り立っていました。彼はこれらの成果を破壊しようとする王党派と私有財産を否定しようとする急進派の両方から革命の秩序を守る守護者として、国民特に土地を得た農民とブルジョワジーから支持されていました。
- 国民投票による正統化: 彼の権力は王権神授説ではなく国民投票という民主的な手続きによって正統化されていました。これは人民主権の理念を建前としながら独裁を行う「ボナパルティズム」と呼ばれる新しいタイプの独裁体制の始まりでした。
- 栄光の支配: 彼の帝政は何よりも対外的な軍事的勝利とそこからもたらされる「栄光(グロワール)」によって支えられていました。国民はナポレオンがフランスにもたらす勝利に熱狂しその独裁を許容したのです。しかしこれは裏を返せば彼が勝利し続けることができなくなった時、その支配の正統性も失われることを意味していました。
結論としてフランス第一帝政はフランス革命という巨大な社会変動のエネルギーを、一人の天才がその軍事的なカリスマと行政的な手腕によって収斂させ安定させた体制でした。それは革命の理想であった「自由」を犠牲にする代わりに「平等」と「秩序」そして「栄光」を国民に与えました。ナポレオンが築き上げた諸制度は近代フランス国家の骨格を形成しましたがその帝政を維持するための代償としてフランスそしてヨーロッパは、十数年にわたる絶え間ない戦争の時代へと突入していくことになるのです。
8. ナポレオン戦争
1804年フランス皇帝となったナポレオン1世は、その比類なき軍事的才能を最大限に発揮しヨーロッパ大陸のほとんどをその支配下に置く壮大な征服戦争を開始します。1805年から1812年頃までのこの一連の戦争は「ナポレオン戦争」と総称されます。この戦争は単なるフランスの領土的野心による侵略戦争という側面だけでなく、より複雑で多面的な性格を持っていました。それはフランス革命が生み出した新しい市民社会の原理とヨーロッパの旧体制(アンシャン・レジーム)の君主国とのイデオロギー的な対決であり、また世界の海洋と商業の覇権をめぐるフランスとイギリスとの最終決戦でもありました。そしてナポレオン軍の進軍と共にナポレオン法典に代表される革命の理念がヨーロッパ各地に広められ、その封建的な社会構造を根底から揺さぶるという意図せざる革命の「輸出」という側面も持っていたのです。
8.1. 大陸の覇者ナポレオン:トラファルガーからティルジットまで
1803年アミアンの和約が破れイギリスとの戦争が再開されると、ナポレオンはドーバー海峡に大軍を集結させイギリス本土への上陸作戦を計画します。これに脅威を感じたイギリスの首相ピットはオーストリア、ロシアなどを誘い「第三回対仏大同盟」を結成しました。
ナポレオンはイギリス上陸を断念しその矛先を大陸の敵へと転じます。
- トラファルガーの海戦(1805年10月): フランス・スペインの連合艦隊は地中海でイギリスの提督ネルソンに率いられた艦隊に捕捉され、トラファルガー岬の沖で壊滅的な敗北を喫しました。ネルソン自身はこの海戦で戦死しましたがイギリスは制海権を完全に掌握しナポレオンのイギリス本土侵攻の野望は永久に断たれました。「陸のナポレオン、海のイギリス」という構図がここに決定的となったのです。
- アウステルリッツの戦い(三帝会戦、1805年12月): 海での敗北のわずか一ヶ月半後ナポレオンは陸上で彼の軍事的天才が最も輝いたとされる完璧な勝利を収めます。彼はアウステルリッツの郊外でフランス皇帝(ナポレオン)、オーストリア皇帝、ロシア皇帝(アレクサンドル1世)の三皇帝が相まみえる決戦に臨みました。巧みな戦術でオーストリア・ロシアの連合軍を撃破したこの戦いの結果第三回対仏大同盟は崩壊し、オーストリアはフランスに屈服しました。
この勝利の後ナポレオンはドイツの政治地図を大きく塗り替えます。1806年彼は西南ドイツの諸侯を集めて自らを盟主とする「ライン同盟」を結成させ、彼らを神聖ローマ帝国から離脱させました。これにより中世以来約1000年にわたって続いてきた「神聖ローマ帝国」は皇帝フランツ2世が帝位を辞退したことで名実ともに消滅しました。
これに脅威を感じたプロイセンはロシアと第四回対仏大同盟を結びフランスに戦いを挑みましたが、イエナの戦いでナポレオン軍に惨敗し首都ベルリンを占領されました。
ナポレオンはさらに東に進軍しポーランドでロシア軍とも戦いこれを破りました。そして1807年ナポレオンはロシア皇帝アレクサンドル1世とティルジットで会見し「ティルジット条約」を結びました。この条約でプロイセンは領土の半分を失いその旧領にはワルシャワ大公国などが建てられました。そしてロシアはナポレオンの覇権を認め後述の大陸封鎖令に協力することを約束しました。
このティルジット条約をもってナポレオンの大陸における覇権はその絶頂に達しました。彼の一族がスペインやイタリア、オランダの王位に就きヨーロッパ大陸のほとんどの国がフランスの同盟国か衛星国となり、彼の支配に服しました。
8.2. 大陸封鎖令とイギリスの抵抗
大陸を武力で制覇したナポレオンでしたが制海権を握るイギリスを屈服させることはできませんでした。そこで彼がイギリスを経済的に追い詰めるために打ち出したのが「大陸封鎖令(ベルリン勅令、1806年)」です。
これはヨーロッパ大陸のすべての国々に対してイギリスとの通商を全面的に禁止するという壮大な経済戦争の試みでした。ナпоレオンはイギリスをヨーロッパという巨大な市場から締め出すことでその経済を破綻させようと考えたのです。
しかしこの政策はいくつかの理由から失敗に終わりました。
- イギリスの海上封鎖: イギリスはその圧倒的な海軍力で逆にヨーロッパ大陸を海上から封鎖し、フランスやその同盟国の海外貿易を妨害しました。
- 大陸諸国の苦境: 当時産業革命が進みつつあったイギリスの安価で質の良い工業製品や植民地からの砂糖、コーヒーといった商品は、ヨーロッパ大陸の人々の生活にとって不可欠なものとなっていました。大陸封鎖令はこれらの商品の供給を止めまた大陸の国々がイギリスに穀物などを輸出する道を閉ざしたため、イギリス以上に大陸諸国の経済に深刻な打撃を与えました。そのため密貿易が横行し封鎖の実効性はなかなか上がりませんでした。
- ロシアの離反: 特にイギリスへの穀物輸出に経済を依存していたロシアはこの封鎖による経済的苦境に耐えきれず、やがて大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開します。これが後にナポレオンの破滅的なロシア遠征の直接的な引き金となりました。
8.3. ナポレオン支配の二重性
ナポレオンのヨーロッパ支配は被征服地の人々にとって二つの全く異なる顔を持っていました。
- 解放者としての側面: ナポレオン軍は彼らが征服したドイツやイタリア、ポーランドの各地で封建的な特権やギルドの廃止、法の下の平等、信教の自由といったフランス革命の近代的な原理を導入しました。特にナポレオン法典の導入は各地のブルジョワジーから歓迎されそれらの地域の社会の近代化を促進する役割を果たしました。
- 征服者・抑圧者としての側面: しかし同時にナポレオンの支配はフランスの国益を最優先する冷酷な軍事支配でもありました。被征服地はフランス軍を駐留させるための莫大な経費の負担や兵士の徴募を強いられ、また大陸封鎖令によってその経済活動はフランス産業に従属させられました。
この支配の二重性は、やがて被征服地の人々の心の中に複雑な感情を生み出していきます。彼らはフランスがもたらした「自由」や「平等」といった近代的な理念を学びながら同時にフランスという「外国」による支配と搾取に対する強い反発を募らせていったのです。そしてこの反発が「国民」としての自己意識、すなわちナショナリズムへと転化していく時ナポレオンの巨大なヨーロッパ帝国はその足元から崩れ始めることになるのです。
9. 諸国民の解放戦争
ナポレオンのヨーロッパ支配はその絶頂期において鉄壁のように見えました。しかしその巨大な帝国の内部ではフランスによる支配と搾取に対する被支配諸国民の不満が静かに、しかし確実に蓄積されていました。フランス革命が輸出した「自由」と「国民主権」の理念は皮肉にもフランスからの解放と自らの「国民」としての統一を求める新しい力、すなわちナショナリズム(国民主義、民族主義)をヨーロッパ中に呼び覚ます強力な触媒となったのです。スペインで始まった泥沼のゲリラ戦、そしてナポレオンの野望がロシアの冬将軍の前に砕け散った破滅的なロシア遠征。これらの出来事はナポレオンの不敗神話を打ち破りプロイセンをはじめとするヨーロッパの諸国民がフランスの軛(くびき)から自らを解放するための全面的な蜂起、「諸国民の解放戦争」へと雪崩れ込んでいくきっかけとなりました。
9.1. スペインの反乱:泥沼のゲリラ戦争
ナポレオンの帝国を内側から蝕み始めた最初のそして最も深刻な病巣となったのがスペインでした。
1808年ナポレオンは大陸封鎖令に従わないポルトガルを征服するためという口実でスペインに軍を進駐させ、ブルボン家のスペイン王を退位させて自らの兄ジョゼフを新しい国王として即位させました。
この露骨な主権侵害と外国人の王の押し付けは誇り高いスペイン国民の激しい怒りに火をつけました。マドリードの民衆がフランス軍に対して蜂起したのをきっかけに反乱はスペイン全土に広がりました。
正規軍ではフランス軍に到底太刀打ちできないスペインの民衆は聖職者や農民に率いられて小部隊を組織し、フランス軍の補給部隊を襲撃したり奇襲をかけたりする「ゲリラ戦」(スペイン語で「小さな戦争」の意)を展開しました。
このスペインのゲリラ戦争はナポレオンを終生苦しめることになります。
- 「スペインの潰瘍(かいよう)」: ナポレオンはこの終わりのない消耗戦を「スペインの潰瘍」と呼び嘆きました。フランスはこの泥沼の戦争に約30万もの大軍を釘付けにされ続け、その軍事力と財政を大きく消耗しました。
- ゴヤの描いた戦争の惨禍: スペインの画家ゴヤはこの戦争の中でフランス軍によるマドリード市民の虐殺やゲリラ戦の残酷な現実を生々しく描き戦争の非人間性を告発しました。
- ナショナリズムの覚醒: この共通の敵であるフランスに対する抵抗運動を通じてそれまで地方ごとに分裂していたスペインの人々の間に初めて「スペイン国民」としての一体感が生まれました。1812年には反乱の拠点であったカディスで国民主権や立憲君主制を定めた進歩的な「カディス憲法」が制定され、スペインの近代的なナショナリズムと自由主義の出発点となりました。
9.2. ロシア遠征の大失敗
ナポレオンの没落を決定的にしたのが1812年の破滅的なロシア遠征でした。大陸封鎖令を破ったロシア皇帝アレクサンドル1世を懲罰するためナポレオンは同盟国からの兵士も含む60万という史上空前の大軍(グランダルメ)を率いてロシアに侵攻しました。
しかしこの遠征はナポレオンの軍事キャリアにおける最大の誤算となりました。
- 焦土作戦と冬将軍: ロシア軍はクトゥーゾフ将軍の指揮の下ナポレオンとの正面からの決戦を避け広大なロシアの国土の奥深くへと後退しながら食糧や家屋を焼き払う「焦土作戦」をとりました。ナポレオン軍は食糧の補給を断たれ飢えと寒さに苦しみながら進軍を続けなければなりませんでした。
- モスクワ炎上: 9月ナポレオンはついにモスクワに入城しましたが彼を待っていたのはロシア皇帝の降伏ではなく原因不明の大火によって廃墟と化した空っぽの都市でした。
- 悲劇的な撤退: ロシア皇帝からの和平の申し出がないまま冬が近づきナポレオンはついに撤退を決断します。しかし帰路はロシアの厳しい冬将軍とコサック騎兵の執拗な追撃によって地獄と化しました。飢えと凍傷で兵士たちは次々と倒れ60万の大軍のうち生きてロシアを脱出できたのはわずか数千人であったと言われています。
このロシア遠征の壊滅的な失敗はナポレオンの不敗神話を完全に打ち砕き彼の軍事力の中核を失わせました。そしてこの報はナポレオンの支配に呻吟していたヨーロッパの諸国民に一斉に蜂起する絶好の機会を与えたのです。
9.3. ライプツィヒの戦いとナポレオンの没落
ロシアでの敗北を受けてまずプロイセンが立ち上がりました。プロイセンではイエナの惨敗の後シュタインやハルデンベルクといった改革派の宰相によって農民解放や行政改革、軍制改革といった国家の近代化(プロイセン改革)が進められていました。哲学者のフィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という連続講演でドイツ国民の文化的な統一と解放を訴えナショナリズムを鼓舞しました。
1813年プロイセンはロシアと同盟を結びフランスに宣戦布告しました。やがてオーストリア、スウェーデンもこの解放戦争に加わりました。
同年10月ライプツィヒでプロイセン、オーストリア、ロシア、スウェーデンの連合軍とナポレオン軍との間で決戦が行われました。この「諸国民の戦い(Battle of the Nations)」と呼ばれる三日間にわたる大会戦でナポレオン軍は決定的な敗北を喫しました。
この敗北の後ナポレオンのドイツ支配は崩壊し連合軍はフランス本土へと進撃しました。1814年3月連合軍はパリに入城しナポレオンは退位を余儀なくされました。彼は地中海の小島エルバ島の領主として追放されフランスではブルボン朝のルイ18世が即位して王政が復活しました(ブルボン復古王政)。
しかしナポレオンの物語はまだ終わりませんでした。1815年3月彼はエルバ島を脱出して南フランスに上陸し国民の熱狂的な歓迎を受けながらパリへと進軍しました。ルイ18世は逃亡しナポレオンは再び皇帝の座に返り咲きました(百日天下)。
ヨーロッパの列強は再び大同盟を結成しナポレオンの復活に対抗しました。そして1815年6月ベルギーのワーテルローでイギリスのウェリントン公とプロイセンのブリュッヒャーに率いられた連合軍はナポレオン軍との最後の決戦に臨みました。このワーテルローの戦いでナポレオンは完敗し彼の時代は完全に終わりを告げました。
二度目の退位の後ナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナに幽閉され1821年その波乱に満ちた生涯を終えました。
結論としてナポレオンの支配はフランス革命の理念をヨーロッパ中に広めるという進歩的な役割を果たしましたが、その支配が外国による抑圧であったがゆえにそれは同時にヨーロッパの諸国民のナショナリズムを覚醒させるという巨大な反作用を生み出しました。このナポレオン戦争を通じて解き放たれた自由主義とナショナリズムという二つの巨大なエネルギーこそが19世紀のヨーロッパの歴史を動かしていく主要な原動力となっていくのです。
10. ラテンアメリカ諸国の独立
18世紀末から19世紀初頭にかけてヨーロッパと北アメリカを揺るがした市民革命の巨大な波は、大西洋を越えてスペインとポルトガルが300年以上にわたって支配してきたラテンアメリカの広大な植民地にも到達しました。アメリカ独立革命の成功とフランス革命が掲げた自由、平等の理念は、植民地で生まれ育った白人(クリオーリョ)たちの心に独立への憧れを植え付けました。そしてナポレオン戦争によって宗主国であるスペインとポルトガルが混乱しその支配力が決定的に弱まった歴史的な好機を捉え、ラテンアメリカの人々はシモン・ボリバルやサン・マルティンといった英雄的な指導者の下に結集し一斉に独立への戦いを開始したのです。この19世紀初頭に集中して起こったラテンアメリカ諸国の独立は、大航海時代以来続いてきたヨーロッパによるアメリカ大陸の植民地支配の時代の終わりを告げる重要な出来事でした。
10.1. 独立運動の背景:植民地社会の矛盾
18世紀末のラテンアメリカの植民地社会は本国によって厳格に管理された階層的な社会構造を持っていました。
- 植民地の社会階層:
- ペニンスラール: 社会の最上位に君臨していたのは宗主国(イベリア半島)生まれの白人「ペニンスラール」でした。彼らは植民地の総督や高級官僚、カトリック教会の高位聖職者といった最も重要な地位を独占していました。
- クリオーリョ: その下に位置していたのが植民地生まれの白人「クリオーリョ」でした。彼らは大地主や鉱山主として経済的には豊かでしたが、ペニンスラールによって政治的な高位官職からは排除されており、本国による重商主義政策(植民地は本国の産業のための原料供給地および製品市場とされ自由な経済活動が制限される)にも強い不満を抱いていました。このクリオーリョ層こそが独立運動の主要な担い手となります。
- メスティーソ、ムラートなど: さらにその下には白人と先住民の混血である「メスティーソ」、白人とアフリカ系住民の混血である「ムラート」、そして先住民(インディオ)やアフリカから連れてこられた奴隷とその子孫が人口の大多数を占め、様々な差別と搾取に苦しんでいました。
- 外部からの思想的影響:
- 啓蒙思想: 18世紀ヨーロッパの啓蒙思想、特に人民主権や社会契約の思想はラテンアメリカのクリオーリョの知識人層にも広まり、本国による支配の正統性に疑問を抱かせました。
- アメリカ独立革命: 隣接する北アメリカで同じ植民地であった合衆国が独立を達成し成功を収めている現実は、クリオーリョたちに独立が可能であるという具体的な希望とモデルを与えました。
- フランス革命: フランス革命が掲げた「自由・平等・友愛」のスローガンはラテンアメリカの人々にも大きな影響を与えました。
その最初のそして最も急進的な現れがカリブ海のフランス植民地サン=ドマング(現在のハイチ)で起こった奴隷の反乱でした。トゥサン・ルーヴェルチュールに率いられた黒人奴隷たちはフランス革命の混乱に乗じて蜂起し、ナポレオンが派遣した軍隊をも打ち破り1804年ラテンアメリカで最初の独立国でありまた世界初の黒人共和国である「ハイチ」の独立を宣言しました。
10.2. ナポレオン戦争と独立運動の本格化
ラテンアメリカのスペイン植民地が一斉に独立へと動き出す直接的な引き金となったのがナポレオンのイベリア半島侵攻でした。1808年ナポレオンがスペイン王を退位させ兄ジョゼフを王位に就けると、スペインの植民地では「正統な国王に対する忠誠」を掲げる自治組織(フンタ)が各地に設立されました。
しかしこの動きは当初の自治の要求からやがて本国からの完全な独立の要求へと急速に転化していきました。この独立戦争を指導したのが二人の偉大なクリオーリョの英雄でした。
- シモン・ボリバル(北方からの解放者): ベネズエラ出身の裕福なクリオーリョであったシモン・ボリバルは「解放者(エル・リベルタドール)」と称され、コロンビア、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ボリビアといった南アメリカ北部の国々を次々とスペインの支配から解放しました。彼はラテンアメリカが一つに統合された大共和国を樹立することを夢見ていました。
- ホセ・デ・サン=マルティン(南方からの解放者): アルゼンチン出身の軍人であったサン・マルティンはまずアルゼンチンの独立を確固たるものにした後、アンデス山脈を越えるという困難な遠征を敢行しチリとペルーの解放を実現しました。
1822年エクアドルのグアヤキルでこの二人の解放者が会見しその後の解放戦争の方針を話し合いました。会見の後サン・マルティンは身を引きボリバルが解放戦争の最終的な指導権を握り、1825年までに南アメリカのスペイン植民地はほぼすべて独立を達成しました。
メキシコでも当初イダルゴやモレーロスといった聖職者が先住民やメスティーソを率いて独立運動を開始しましたが、これはクリオーリョの地主層の反発を招き鎮圧されました。しかしその後クリオーリョの指導者イトゥルビデが独立を達成し一時皇帝となりましたがすぐに共和政へと移行しました。
ポルトガル領であったブラジルはやや異なる経緯をたどりました。ナポレオンの侵攻を逃れてポルトガルの王室がリオデジャネイロに亡命していたため、ブラジルは一時的にポルトガル帝国の中心となりました。ナポレオンの没落後ポルトガル王子ドン・ペドロは本国への帰還を拒否し1822年ブラジル帝国の初代皇帝としてポルトガルからの独立を宣言しました。そのためブラジルの独立は他のスペイン領の国々のような大規模な戦争を経ずに比較的平和的に達成されました。
10.3. 独立後のラテンアメリカとモンロー教書
こうして1820年代半ばまでにハイチを除くラテンアメリカのほとんどの地域が独立を達成しました。ナポレオンの没落後ヨーロッパで成立したウィーン体制(フランス革命前の正統な君主制を復活させようとする保守反動体制)の下で、スペインはラテンアメリカの植民地を再征服しようと試みました。
しかしこのヨーロッパの干渉に強く反対したのがイギリスとアメリカ合衆国でした。
- イギリス: イギリスはラテンアメリカ諸国が独立することでスペインの重商主義的な貿易独占がなくなり、自国の工業製品を売り込み原料を手に入れることができる巨大な自由市場が生まれることを期待していました。そのため外相カニングはラテンアメリカ諸国の独立を支持しその海軍力によってヨーロッパの干渉を牽制しました。
- アメリカ合衆国: アメリカもまたヨーロッパの勢力が自国の裏庭ともいえる西半球に再び介入してくることを警戒していました。1823年第5代大統領モンローは議会への教書の中でヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を原則とする外交方針を発表しました。これが「モンロー教書(宣言)」です。この中で彼はヨーロッパ諸国がこれ以上アメリカ大陸に植民地を建設したり政治的に干渉したりすることに反対すると宣言しました。
イギリスの強力な海軍力とアメリカの外交的な牽制によってスペインの再征服の試みは挫折し、ラテンアメリカ諸国の独立は確固たるものとなりました。
しかし独立後のラテンアメリカの道のりは困難に満ちていました。ボリバルの大コロンビア共和国の夢は各地域の対立によってすぐに崩壊し多くの国ではクリオーリョの大地主層が権力を握り、大多数の貧しいメスティーソや先住民、黒人たちの状況はほとんど改善されませんでした。政治的には強力な軍事指導者(カウディーリョ)による独裁とクーデターが繰り返され社会的な不安定が続きました。また経済的にはイギリスやアメリカの経済的支配下に置かれ特定の一次産品の輸出に依存するモノカルチャー経済の構造に組み込まれていくことになります。
結論としてラテンアメリカ諸国の独立はアメリカ大陸におけるヨーロッパの政治的植民地支配に終止符を打つという歴史的な偉業でした。しかしそれは同時に社会内部の深刻な不平等と外部からの新しい経済的な従属という多くの課題を残す未完の革命でもあったのです。
Module 13:市民革命の時代の総括:理想の噴出とナショナリズムの覚醒
本モジュールが探求した18世紀末から19世紀初頭にかけての「大西洋革命」の時代は、啓蒙思想という知的な火種が旧体制の矛盾という火薬庫に引火し近代世界を誕生させた巨大な爆発であった。アメリカの荒野で「生命、自由、幸福の追求」が謳われパリの広場で「自由、平等、友愛」の旗が掲げられた時、人類は初めて「人権」と「国民主権」という理念を国家建設の普遍的な原理として打ち立てた。この革命のエネルギーはナポレオンという天才的な個人の手を経てヨーロッパ全土を席巻し封建制の残滓を焼き払うと同時に、その灰の中からフランスへの抵抗をバネとした新しい力すなわち「ナショナリズム」を産み落とした。そしてこの波はラテンアメリカの独立を誘発し地球規模で君主の世襲財産であった「王国」を、言語と文化で結ばれた「国民国家」へと作り変えていく不可逆的なプロセスを開始したのである。この時代は近代の政治的理想がその最も純粋で最も暴力的な形で歴史の舞台に噴出した、偉大にして恐るべき創造と破壊の時代であった。