- 本記事は生成AIを用いて作成しています。内容の正確性には配慮していますが、保証はいたしかねますので、複数の情報源をご確認のうえ、ご判断ください。
【基礎 世界史(通史)】Module 14:ウィーン体制と19世紀前半の世界
本モジュールの目的と構成
ナポレオンの巨大な帝国がワーテルローの野に崩れ去った後、ヨーロッパの君主たちはフランス革命とそれに続く戦争がもたらした25年間の混沌に終止符を打ち、旧来の秩序ある世界を取り戻そうと試みました。本モジュールで探求するのはこのナポレオン後のヨーロッパを再建しようとする保守反動の動き、すなわち「ウィーン体制」の成立とその揺らぎの時代です。オーストリアの宰相メッテルニヒを主導役として革命前の「正統な」君主と国境を復活させようとする復古主義の潮流は、革命がヨーロッパの人々の心に植え付けた新しい理念、すなわち「自由主義」と「ナショナリズム」という抑えがたい力と真っ向から衝突します。このモジュールは復古的な秩序を維持しようとするウィーン体制の国際政治と、その下で自由と国民的統一を求めて繰り返される革命や独立運動の間の激しい緊張関係を主軸として描きます。さらにこの政治的対立の背景で静かに、しかし社会の根幹を覆していくもう一つの巨大な力、すなわち「産業革命」の進展とそれがもたらした新しい社会階級や「社会主義」という新しい思想の誕生も併せて考察します。ウィーン体制という束の間の安定が1848年のヨーロッパ全土を巻き込む革命の嵐によって、いかにして最終的に崩壊していくのかそのダイナミックな歴史の連鎖を解き明かします。
この反動と革新が交錯する複雑な時代を理解するために本モジュールは以下の学習項目で構成されています。
- ウィーン会議と正統主義: ナポレオン後の新秩序を決定するためヨーロッパの君主たちが一堂に会したウィーン会議の華やかな舞台裏と、そこでフランスの外相タレーランが提唱し会議の基本原則となった「正統主義」の理念を分析します。
- ウィーン体制の成立: 正統主義と勢力均衡を原則として成立した保守的な国際秩序「ウィーン体制」と、それを維持するための神聖同盟や四国同盟といった君主間の協力体制の実態を探ります。
- ドイツ・ロシアの自由主義運動: ウィーン体制の圧政に対しドイツの学生組合(ブルシェンシャフト)やロシアの青年貴族将校(デカブリスト)が起こした初期の自由主義・ナショナリズム運動とその挫折を考察します。
- ギリシア独立戦争: ウィーン体制の原則に反して列強がオスマン帝国からのギリシア独立を支援したという例外的な事例を通じて、ロマン主義や各国の思惑が保守的な国際秩序にいかに亀裂を生じさせたかを検証します。
- フランスの七月革命: ウィーン体制の牙城であったフランスでブルボン復古王政が打倒され富裕ブルジョワジーの利益を代表する「七月王政」が成立した革命の経緯と、それがヨーロッパ各地に与えた衝撃を分析します。
- イギリスの自由主義的改革: 革命ではなく漸進的な改革を通じて自由主義的な社会を成熟させていったイギリスの独自の道を、選挙法改正や穀物法の廃止といった一連の改革から解き明かします。
- 産業革命の進展: ヨーロッパ大陸にも波及した産業革命が都市化、新しい社会階級(産業資本家と労働者)の形成、そして交通網の発達を通じて人々の生活と社会構造をいかに根底から変容させたかを詳述します。
- 社会主義思想の誕生: 産業革命がもたらした劣悪な労働条件や貧困といった新しい社会問題に対し、理想社会を構想した初期社会主義からマルクスとエンゲルスによる科学的社会主義(共産主義)に至る思想の潮流を探ります。
- 1848年革命(諸国民の春): フランスの二月革命をきっかけとしてウィーン、ベルリン、ブダペスト、ミラノなどヨーロッパ全土を席巻した革命の連鎖「諸国民の春」が、自由主義とナショナリズムの旗の下にいかに展開したかを追います。
- ウィーン体制の崩壊: 1848年革命が最終的には保守派の反撃によって鎮圧されながらも、なぜメッテルニヒを失脚させウィーン体制を事実上崩壊させる決定的な転換点となったのかその歴史的意義を総括します。
本モジュールを通じて読者は19世紀前半のヨーロッパ史がウィーン体制という蓋の下で沸騰する自由主義とナショナリズムのエネルギーが、幾度もの噴出を経てついに蓋そのものを吹き飛ばしてしまう壮大な弁証法的プロセスであったことを理解するでしょう。
1. ウィーン会議と正統主義
1814年ナポレオンがエルバ島へ流刑に処されると、25年近く続いたフランス革命とナポレオン戦争の嵐によって混乱したヨーロッパの秩序を再建し新しい国際システムの青写真を描くため、関係国の君主や宰相たちがオーストリアの首都ウィーンに集まりました。この「ウィーン会議」はヨーロッパの歴史上でも類を見ない大規模で華やかな国際会議でした。しかし各国の利害が複雑に絡み合い領土の再配分をめぐる駆け引きが続いたため議事はなかなか進展しませんでした。当時の風刺画に「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されたように連夜の舞踏会の裏で繰り広げられたのは、冷徹な国益の追求と革命の再発をいかにして防ぐかという保守的な君主たちの必死の模索でした。この難航する会議に一つの理論的な支柱を与えその後のヨーロッパの政治秩序を方向づけたのが、フランス革命前の状態を「正統」と見なす「正統主義」という理念でした。
1.1. 会議の主役たちと各国の思惑
ウィーン会議を主導したのはナポレオン打倒の中心となったイギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアの四大戦勝国でした。
- オーストリア: 議長国として会議を主催したのはオーストリアの外相クレメンス・フォン・メッテルニヒでした。彼は老獪な外交官であり徹底した保守主義者でした。多民族国家であるオーストリア帝国にとってフランス革命が広めた自由主義とナショナリズムは、国家の存立そのものを脅かす最も危険な思想でした。彼の最大の目標は革命前の君主制によるヨーロッパの秩序を回復し今後いかなる革命的な動きも封じ込める強力な保守的な国際体制を築くことでした。
- ロシア: ロシア皇帝アレクサンドル1世はナポレオンを破った最大の功労者としてウィーンに乗り込んできました。彼は神秘的なキリスト教思想に傾倒しておりヨーロッパに神聖な君主間の盟約を築くことを夢見る一方で、ポーランドの領有など領土的な野心も隠しませんでした。
- イギリス: イギリスの外相カースルレー(後にウェリントン公)が追求したのはより現実的な目標、すなわち「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」でした。イギリスはナポレオン時代のフランスのような一国がヨーロッパ大陸を支配する覇権国家が二度と出現しないことを、国益の観点から最も重視していました。
- プロイセン: プロイセンの首相ハルデンベルクはザクセン王国の併合を狙うなどナポレオン戦争を通じて強大化した自国のさらなる領土拡大を目指していました。
そしてこの会議に敗戦国として参加しながら巧みな外交手腕で列強の間に割って入りフランスの国益を最大限に守ったのが、フランスの外相シャルル=モーリス・ド・タレーランでした。彼はナポレオン帝国の外相も務めた変節の政治家でしたがその現実感覚は卓越していました。
1.2. 基本原則:正統主義と勢力均衡
会議が各国の領土的要求のぶつかり合いで紛糾する中タレーランは、会議の全ての決定を貫くべき一つの高尚な理念として「正統主義(Legitimism)」を提唱しました。
- 正統主義: これはフランス革命以前のヨーロッパの君主および王朝の統治権は神聖で伝統に基づく「正統」なものであり、ナポレオンによってなされた国境の変更や君主の交代はすべて不当なものとして元の状態に戻されるべきであるという原則でした。この原則は一見すると敗戦国フランスにとって不利なように見えます。しかしタレーランの真の狙いは別にありました。この原則を受け入れさせることで彼はフランス・ブルボン朝もまた「正統な」王朝の一つであることを列強に認めさせ、戦勝国が革命後のフランスを分割したり過酷な賠償を課したりすることを防ごうとしたのです。さらにこの原則はプロイセンが狙うザクセン併合(ザクセン王もまた正統な君主である)を牽制する効果も持ちました。メッテルニヒをはじめとする保守的な君主たちはこの正統主義が革命の理念である人民主権を否定し君主の世襲的な権利を擁護するための極めて有効なイデオロギー的武器であることに気づき、これを会議の基本原則として採用しました。
この正統主義とイギリスが主張する勢力均衡という二つの原則が、ウィーン会議における領土再編の指針となりました。
1.3. ウィーン議定書:新しいヨーロッパの地図
1815年3月ナポレオンがエルバ島を脱出しパリに帰還したというニュース(百日天下)は、対立していた列強を再び団結させ会議の最終的な妥結を促しました。ワーテルローでナポレオンが最終的に敗北した直後の1815年6月、会議の最終的な合意文書である「ウィーン議定書(ウィーン最終議定書)」が調印されました。
この議定書によってヨーロッパの地図は以下のように大きく塗り替えられました。
- フランス: ブルボン朝が復活しその国境はほぼ革命前の1792年の状態に戻されました。タレーランの外交の勝利と言えます。
- ロシア: 皇帝アレクサンドル1世の強い要求が通りポーランドの大部分にロシア皇帝を国王とする立憲王国(ポーランド立憲王国)を建て、事実上その支配下に置きました。
- プロイセン: 念願であったザクセンの北半分とライン川左岸の工業地帯であるラインラントを獲得しました。このラインラントの獲得はプロイセンを単なる農業国家から将来のドイツ工業化の担い手へと変貌させる重要な伏線となります。
- オーストリア: かつての領土であった南ネーデルラント(ベルギー)を放棄する代わりに北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得し、イタリアにおける影響力を大幅に強化しました。
- ドイツ: 神聖ローマ帝国は復活せずオーストリアを議長国とする35の君主国と4つの自由市からなる緩やかな国家連合「ドイツ連邦」が組織されました。これはドイツの統一を望むナショナリストたちの期待を裏切るものでした。
- その他: オランダは南ネーデルラント(ベルギー)を併合してオランダ立憲王国となりフランスに対する北の防壁としての役割を期待されました。スイスは永世中立国として承認されました。イギリスはマルタ島やセイロン島、ケープ植民地といった戦争中に獲得した海外の戦略的拠点の領有を認められ世界的な海洋帝国としての地位をさらに固めました。
結論としてウィーン会議はフランス革命とナポレオン戦争という巨大な地殻変動の後のヨーロッパの新しい国際秩序を力によって定めたものでした。その基本理念である正統主義は君主制の復活と革命の封じ込めという保守的な目的を掲げるものでした。しかし一度革命の洗礼を受けたヨーロッパの民衆の心の中から自由主義とナショナリズムの理念を完全に消し去ることはもはや誰にもできなかったのです。ウィーン会議が築き上げた復古的な秩序はその成立の瞬間から新しい時代の力との長い戦いを運命づけられていました。
2. ウィーン体制の成立
ウィーン会議で描かれた新しいヨーロッパの地図は単なる領土の再配分にとどまるものではありませんでした。それはフランス革命の理念である自由主義とナショナリズムの潮流を堰き止め革命前の「正統な」君主制によるヨーロッパの秩序を永続的に維持しようとする壮大な国際的政治システム、すなわち「ウィーン体制」の土台でした。オーストリアの宰相メッテルニヒを精神的支柱とするこの体制はキリスト教の盟約を掲げた「神聖同盟」と、より実務的な軍事同盟である「四国同盟(後の五国同盟)」という二つのメカニズムによって支えられていました。これらの同盟を通じてヨーロッパの主要な君主国は互いに協調しどこかの国で自由主義やナショナリズムの反乱が起これば共同でこれを弾圧するという、反革命のための国際的な警察機構として機能したのです。ウィーン体制は1815年から1848年までのヨーロッパを規定する保守反動の時代を象徴しています。
2.1. 体制を支える二つの同盟
ウィーン体制を実質的に支えたのは性格の異なる二つの同盟でした。
- 神聖同盟(1815年9月):これはナポレオンを破ったロシア皇帝アレクサンドル1世の個人的な提唱によって結成された極めてユニークな同盟です。彼はヨーロッパの平和を政治的な駆け引きではなくキリスト教の友愛と正義の精神に基づいて、君主たちが相互に助け合うことで実現すべきだと考えました。この同盟には提唱者であるロシア皇帝(ギリシア正教)、オーストリア皇帝(カトリック)、プロイセン王(プロテスタント)が最初に署名し、その後ヨーロッパのほとんどの君主が参加しました。しかしその盟約の内容は「キリスト教の教えに従い、正義、愛、平和の原則に基づいて行動する」といった極めて抽象的で道徳的なものであり、具体的な政治的・軍事的な義務を定めたものではありませんでした。そのため現実主義者であったイギリスの外相カースルレーはこれを「崇高な神秘主義とナンセンスのひとかけら」と酷評し参加を拒否しました。またローマ教皇やイスラーム教国であるオスマン帝国のスルタンも参加しませんでした。神聖同盟は実質的な拘束力を持たない理念的な同盟でしたがウィーン体制下で君主たちが自由主義やナショナリズムの運動を弾圧する際に、その行動を「キリスト教的秩序を守る」という大義名分で正当化するためのイデオロギー的な道具としてしばしば利用されました。
- 四国同盟(1815年11月):神聖同盟とは対照的にウィーン体制をより現実的な軍事力と外交交渉で支えたのが四国同盟でした。これはナポレオン戦争の戦勝国であるイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの四カ国によって結成された明確な軍事同盟です。この同盟の当初の目的はナポレオンの再来やフランスにおける革命の再発を共同で防ぐことにありました。しかしその役割はすぐに、より広範なものへと拡大していきます。同盟国はヨーロッパの平和とウィーン会議で定められた国境線を維持するため定期的に国際会議を開いて協議することを約束しました。この列強が協調してヨーロッパの国際問題を処理するというシステムは「ヨーロッパ協調(Concert of Europe)」と呼ばれ、その後の国際政治の重要な先例となりました。1818年にはブルボン復古王政下のフランスもこの同盟への参加を認められ「五国同盟」となりました。この同盟は神聖同盟よりもはるかに実効性のあるウィーン体制の執行機関でした。
2.2. メッテルニヒの時代:反革命の貫徹
このウィーン体制の設計者でありその最も熱心な擁護者であったのがオーストリアの宰相メッテルニヒでした。1815年から1848年の革命で失脚するまでの約30年間はまさに「メッテルニヒの時代」であり、彼の保守的な政治思想がヨーロッパ大陸を支配しました。
彼はフランス革命のような急進的な変革は社会の伝統的な秩序を破壊し無政府状態と戦争をもたらすだけの破壊的な力であると固く信じていました。特に彼が最も恐れたのがナショナリズムの運動でした。オーストリア・ハプスブルク帝国がドイツ人、マジャール人、チェコ人、ポーランド人、イタリア人など極めて多くの民族を内包する多民族国家であったため、もしナショナリズムの原則(一つの民族、一つの国家)が認められれば帝国はたちまち内部から崩壊してしまうからです。
そのためメッテルニヒはオーストリア国内だけでなくその影響力が及ぶドイツ連邦やイタリアにおいて、自由主義とナショナリズムの運動を徹底的に弾圧しました。彼は大学を監視し出版物を検閲し秘密警察を駆使して革命的な思想の持ち主を投獄しました。
またヨーロッパ協調の枠組みの中で彼は他国で起こった革命運動にも積極的に軍事介入を行いました。1820年代初頭にスペインやイタリアのナポリで立憲君主制を求めるブルジョワジーの革命が起こると、メッテルニヒは列強の会議を主導しそれぞれフランス軍とオーストリア軍を派遣してこれらの革命を武力で鎮圧させました。
2.3. 体制の動揺とイギリスの離反
しかしこの君主たちの団結による反革命の国際システムも盤石ではありませんでした。その内部には当初から亀裂の種が含まれていました。
その最大の亀裂の要因はイギリスの存在でした。イギリスは自国が名誉革命を経て立憲君主制と議会制を確立していたため大陸の絶対主義的な君主たちが他国の内政に軍事介入することに原理的に反対の立場でした。またより現実的な国益の観点からもイギリスのブルジョワジーはラテンアメリカ諸国がスペインから独立し自由な貿易相手となることを望んでいました。
そのためスペイン立憲革命への軍事介入を討議した会議でイギリスは介入に反対しヨーロッパ協調の足並みから離脱していきました。イギリスはウィーン体制の創設国の一つでありながらその反革命的なイデオロギーよりも自国の自由主義的な政治体制とグローバルな商業的利益を優先したのです。
さらに1820年代のギリシア独立戦争はウィーン体制の原則をさらに大きく揺るがすことになります。ギリシア人が「正統な」君主であるオスマン帝国のスルタンに対して反乱を起こした時、ウィーン体制の論理からすれば列強はこれを弾圧すべきでした。しかしこの時には各国の国益と世論がその論理を凌駕したのです。
結論としてウィーン体制はナポレオン戦争後の疲弊したヨーロッパに一時的な平和と安定をもたらしました。しかしそれはフランス革命が解き放った自由主義とナショナリズムという新しい時代の力を力で抑えつけようとする極めて抑圧的なシステムでした。その君主たちの団結も各国の利害が対立する場面では容易に崩れる脆さも抱えていました。ウィーン体制はいわば歴史の流れに逆らって築かれたダムのようなものであり、その下では新しい時代の水圧が日増しに高まっていたのです。
3. ドイツ・ロシアの自由主義運動
ウィーン体制がヨーロッパに張り巡らせた保守反動の監視網に対して、最初期から反抗の狼煙を上げたのが未来への希望に燃える若者たち、特に大学の学生や青年将校でした。彼らはナポレオンとの解放戦争を通じて初めて「国民」としての意識に目覚め、自由で統一された祖国を夢見ていました。しかしウィーン会議がもたらした現実は彼らの期待を無惨に裏切るものでした。ドイツでは国家の分裂状態が温存されロシアでは皇帝の専制政治(ツァーリズム)が揺るぎないものとされました。この理想と現実のギャップに絶望したドイツの学生たちとロシアの青年貴族たちは1810年代から20年代にかけてウィーン体制への公然たる挑戦を試みます。これらの運動はメッテルニヒらの厳しい弾圧の前にいずれも失敗に終わりますが、その敗北は決して無駄ではありませんでした。彼らが蒔いた自由主義とナショナリズムの種は氷の下で静かに芽吹き後の時代のより大きな革命のうねりを準備することになるのです。
3.1. ドイツ:ブルシェンシャフト運動
ナポレオンの支配に対する解放戦争はそれまで数百の領邦に分裂していたドイツの人々の心の中に、初めて「我々は一つのドイツ国民である」という強烈なナショナリズムを植え付けました。特にこの戦争に義勇兵として参加した大学生たちは戦後自由で統一されたドイツ祖国が実現されることを固く信じていました。
しかしウィーン会議の結果は彼らを深く失望させました。ドイツは統一されるどころかオーストリアを議長とする39の主権国家からなる緩やかな「ドイツ連邦」として再編されただけであり、各領邦では君主による絶対主義的な支配が復活しました。
この反動的な現実に反発した大学生たちは1815年イエナ大学で「ブルシェンシャフト」と呼ばれる学生組合を結成しました。これはそれまでの出身地ごとの学生団体とは異なり全ドイツ的な統一と自由を目標に掲げる政治的な結社でした。彼らは「名誉・自由・祖国」をスローガンとしドイツの統一を象徴する黒・赤・金の三色旗(現在のドイツ国旗の原型)をその旗印としました。
ブルシェンシャフト運動がその頂点を迎えたのが1817年10月に開催された「ヴァルトブルクの祝祭」です。宗教改革300周年とライプツィヒの戦いの戦勝記念を兼ねてヴァルトブルク城に集まった約500人の学生たちはドイツの統一と憲法の制定を訴え、反動的な書物やプロイセンの徴兵制度の象徴などを燃やしてその気勢を上げました。
この学生たちの愛国的な運動にオーストリアの宰相メッテルニヒは深刻な脅威を感じました。そして1819年ブルシェンシャフトの一人の急進的な学生が保守反動的と目された劇作家コッツェブーを暗殺するという事件が起こると、メッテルニヒはこれを絶好の口実として弾圧に乗り出します。
彼はドイツ連邦議会を主導しブルシェンシャフトを禁止し大学に監視官を置き出版物の検閲を徹底するという一連の厳しい弾圧法を決議させました。これが「カールスバートの決議」です。
この決議によってドイツにおける自由主義とナショナリズムの運動は一時的にその息の根を止められ、多くの活動家が投獄されたり亡命したりしました。ドイツは「沈黙の時代」へと入っていきます。しかしこの弾圧はドイツの知識人や市民階級の心の中にメッテルニヒ体制への深い憎悪と反感を刻み込む結果となりました。
3.2. ロシア:デカブリストの乱
ナポレオン戦争はロシアの社会にも予期せぬ影響をもたらしました。ナポレオンを追って西ヨーロッパにまで遠征したロシアの若い貴族出身の将校たちは、そこでフランスの自由な社会や立憲的な政治制度を目の当たりにし、自国の皇帝による専制政治(ツァーリズム)と農奴制の惨状とのあまりのギャップに大きな衝撃を受けました。
彼らは祖国ロシアの後進性を恥じ農奴解放と憲法の制定による立憲君主制あるいは共和制の樹立を目指す秘密結社を次々と組織しました。彼らはロシアの近代化のためには上からの改革ではなく下からの革命が必要であると考えていました。
そして1825年12月(ロシア暦)ナポレオン戦争の英雄であった皇帝アレクサンドル1世が急死し皇位継承をめぐって一時的な混乱が生じると、彼らはついに行動を起こすことを決意します。
12月14日首都ペテルブルクの元老院広場で秘密結社の青年将校たちは約3000人の兵士を率いて新しい皇帝ニコライ1世への忠誠の宣誓を拒否し、憲法の制定と農奴解放を要求して武装蜂起しました。これが「デカブリスト(十二月党員)の乱」です。
しかし彼らの計画は杜撰であり民衆の広範な支持を得ることもできませんでした。ニコライ1世はただちに忠実な軍隊に命じてこの反乱を武力で鎮圧しました。反乱はわずか一日で失敗に終わり首謀者たちは処刑されるかあるいはシベリアへと流刑に処されました。
3.3. 運動の失敗とその歴史的意義
ドイツのブルシェンシャフト運動とロシアのデカブリストの乱は、どちらもウィーン体制の強力な弾圧機構の前にあっけなく鎮圧されてしまいました。その失敗の原因は共通しています。
- 担い手の限界: どちらの運動もその担い手が学生や知識人、青年貴族といった一部のエリート層に限られており社会の大多数を占める農民やまだ未成熟であった市民階級の広範な支持を得るには至りませんでした。
- 理念の先行: 彼らの掲げた自由主義やナショナリズムの理念は当時の社会の現実からやや遊離した理想主義的な側面が強く、具体的な政治プログラムとしては未熟でした。
しかしこれらの初期の運動の歴史的な意義はその失敗そのものにあるとも言えます。
- 後世への影響: ドイツではカールスバートの決議による弾圧がかえって反体制の気運を醸成し1830年の七月革命の影響や1848年革命へと繋がっていく伏線となりました。
- ロシア革命の源流: ロシアでは処刑されシベリアに流されたデカブリストたちはその後のロシアの革命家たちにとって「最初の革命家」として神聖視され、その自己犠牲の精神はナロードニキや後の社会主義者たちに受け継がれていく精神的な源流となりました。
結論として19世紀初頭のドイツとロシアにおける自由主義運動はウィーン体制の反動的な潮流に対する最初の本格的な挑戦でした。彼らは時代の先駆者として強大な権力の前に敗れ去りましたがその行動と精神は決して忘れ去られることはありませんでした。彼らが灯した小さな炎はその後の世代に引き継がれやがてヨーロッパの旧体制を焼き尽くす大火へと燃え広がっていくことになるのです。
4. ギリシア独立戦争
ウィーン体制がヨーロッパに張り巡らせた保守反動の国際秩序に最初のそして最も象徴的な亀裂を入れたのが1821年に始まったギリシア独立戦争でした。バルカン半島で約400年にわたってオスマン帝国の支配下にあったギリシア人たちがナショナリズムの高まりを背景に独立を求めて蜂起したこの戦争は、ウィーン体制の基本原則を根底から揺さぶるいくつかの特異な性格を持っていました。メッテルニヒが標榜した「正統主義」の論理からすればヨーロッパの君主たちは「正統な」君主であるオスマン帝国のスルタンを支持し反乱者であるギリシア人たちを弾圧すべきでした。しかしこの紛争ではヨーロッパ各国のロマン主義的な世論と東地中海における複雑な地政学的な思惑がその保守的なイデオロギーを凌駕しました。最終的にイギリス、フランス、ロシアというウィーン体制の中核をなす列強が反乱軍であるギリシア側に立って軍事介入するという自己矛盾した行動をとったことで、ウィーン体制の国際的な結束はその有効性を大きく損なうことになったのです。
4.1. 独立運動の背景と蜂起
15世紀以来ギリシアはオスマン帝国の広大な多民族帝国の一部としてその支配下にありました。オスマン帝国のミッレト制の下でギリシア人たちはギリシア正教の信仰を維持し一定の自治を認められていました。特に商業や海運業に長けたギリシア人たちは帝国の経済活動において重要な役割を果たし、また帝国の官僚や外交官として活躍する者も少なくありませんでした。
しかし18世紀後半から19世紀にかけてギリシア人の間に独立への気運が急速に高まっていきます。
- ナショナリズムの覚醒: フランス革命がもたらした国民主権と民族自決の理念はバルカン半島にも伝播しました。ギリシアの知識人たちは古代ギリシアの輝かしい古典文明を再発見し自分たちがその栄光の末裔であるという民族的な誇りに目覚めました。そしてイスラーム教徒であるトルコ人の支配からの解放とギリシア人による国民国家の樹立を夢見るようになりました。
- 経済的な発展: ギリシア人の商人や船主たちは地中海貿易で富を蓄積し経済的な実力をつけていました。彼らはオスマン帝国の束縛から逃れ自由な経済活動を行うことを望んでいました。
- 秘密結社の結成: 1814年ロシアのオデッサでギリシアの商人たちが独立を目指す秘密結社「フィリキ・エテリア(友愛の会)」を結成しました。この組織はギリシア本国や国外に住むギリシア人たちの間に急速にそのネットワークを広げていきました。
そして1821年フィリキ・エテリアの指導者であったアレクサンドロス・イプシランティス(ロシア皇帝の側近でもあった)がオスマン帝国領のモルダヴィアで反乱を起こしたのをきっかけに、ギリシア本土のペロポネソス半島で大規模な武装蜂起が勃発しました。これがギリシア独立戦争の始まりです。
反乱はたちまちギリシア全土に広がり翌1822年ギリシアの国民議会は独立を宣言しました。しかしオスマン帝国のスルタンは反乱の鎮圧に手こずりその宗主権下にあったエジプトの太守ムハンマド・アリーに援軍を要請しました。近代的な軍隊を持つエジプト軍がギリシアに上陸すると戦局は一変し独立軍は壊滅寸前にまで追い込まれてしまいました。
4.2. ヨーロッパの介入とフィロヘレニズム
ギリシア独立戦争のニュースはヨーロッパ中に大きな反響を呼び起こしました。特に知識人や文化人たちの間でギリシアへの同情と支援の気運が急速に高まりました。
- フィロヘレニズム(ギリシア愛護主義): 当時ヨーロッパの文化界では古典古代への憧れと異国情緒を特徴とする「ロマン主義」が全盛でした。ヨーロッパの人々にとってギリシアは民主主義、哲学、芸術の源流である西洋文明の揺りかごでした。そのギリシアがイスラームの「野蛮な」トルコ人によって蹂躙されているという構図は彼らの心を強く捉えました。この「フィロヘレニズム」の熱狂はヨーロッパ各地に広がり多くの義勇兵がギリシアの独立のために戦うべく現地へと赴きました。その中で最も有名なのがイギリスのロマン派の詩人バイロンです。彼は私財を投じて独立軍を支援し自らもギリシアで戦いましたが陣中で病死しました。彼の死はギリシア独立への同情をさらに高める劇的な効果を持ちました。
この強力な世論の盛り上がりはそれまでウィーン体制の原則に忠実に中立を守っていたヨーロッパ各国の政府を動かさざるを得なくさせました。
4.3. 列強の思惑と独立の達成
ギリシア問題に対するヨーロッパ列強の態度は人道的な同情だけでなくそれぞれの冷徹な地政学的な思惑によって決定されました。
- ロシア: ロシアはギリシア人と同じギリシア正教を信仰しておりまたオスマン帝国内のギリシア正教徒の保護者をもって任じていました。さらに、より現実的な目標としてオスマン帝国を弱体化させ地中海への出口であるボスポラス・ダーダネルス海峡の航行権を確保したいという長年の南下政策の野望を持っていました。
- イギリス: イギリスは当初ロシアの地中海への進出を最も警戒しオスマン帝国の領土保全を支持していました。しかしギリシア独立を求める国内世論の圧力と、もしロシアが単独でギリシアを支援すればその影響力が決定的になってしまうという懸念から方針を転換しました。
- フランス: フランスもまた国内のカトリック、自由主義者の両方からギリシア支援の声が高まり、また地中海における自国の影響力を回復したいという思惑から介入に傾きました。
一方メッテルニヒのオーストリアは最後までウィーン体制の原則を守り「正統な」君主への反乱であるとしてギリシアの独立に反対し続けました。
1827年イギリス、フランス、ロシアの三国はオスマン帝国に対して停戦とギリシアの自治を勧告しましたがオスマン帝国がこれを拒否したため三国の連合艦隊をギリシア沖に派遣しました。そしてナヴァリノの海戦で三国連合艦隊はオスマン・エジプトの連合艦隊を壊滅させました。
この海戦の後ロシアは単独でオスマン帝国に宣戦布告し圧勝しました(ロシア・トルコ戦争)。
最終的に1830年ロンドン会議で列強はギリシアの完全な独立を承認しました。ただし列強はギリシアが革命的な共和制国家となることを恐れ初代の国王としてドイツのバイエルン王国の王子オソン1世を送り込みました。
結論としてギリシア独立戦争はウィーン体制の保守的なイデオロギーよりもロマン主義的なナショナリズムの情熱と列強の地政学的な利害が優先されることを示した最初のそして決定的な事例でした。それはウィーン体制の「正統主義」の原則がいかに脆く自己矛盾に満ちたものであるかを白日の下に晒し、その国際的な結束に修復不可能な亀裂をもたらしました。そしてこの成功はヨーロッパ各地のナショナリズムの運動を大いに勇気づけ次なる革命の波へと繋がっていくことになるのです。
5. フランスの七月革命
1820年代ギリシア独立戦争がウィーン体制の国際秩序に東方から亀裂を入れたとすれば、1830年にはその体制のまさに心臓部ともいえるフランスで再び革命の炎が燃え上がりました。ブルボン復古王政の反動的な政治に対するパリの市民たちの不満が爆発しわずか三日間の市街戦でブルボン朝を打倒したこの「七月革命」は、ウィーン会議で押し付けられた正統主義の原則をその発祥の地で覆す画期的な出来事でした。この革命の結果誕生した「七月王政」は大銀行家や富裕な産業資本家といった大ブルジョワジーの利益を代表する政権であり、その成立はフランスが貴族と聖職者の支配する旧体制から資本家階級が主導権を握る新しい段階へと移行したことを示しています。そしてパリで再び掲げられた三色旗はメッテルニヒの圧政に呻吟していたヨーロッパ各地の自由主義とナショナリズムの運動を瞬く間に伝染させ、ウィーン体制を根底から揺るがす一連の連鎖反応を引き起こしたのです。
5.1. 復古王政の反動政治
ナポレオンの没落後ウィーン会議の正統主義の原則に基づいてフランスの王位に返り咲いたのは、処刑されたルイ16世の弟ルイ18世でした。彼は革命前のアンシャン・レジームへの完全な復帰がもはや不可能であることを理解しており憲法(シャルト)を制定し、革命の成果である法の下の平等や所有権の保障などを認めある程度の立憲的な政治を行いました。
しかし彼の後を継いだ弟のシャルル10世(在位1824-1830)は兄とは対照的に革命を心の底から憎悪する極端な反動主義者(ユルトラ)でした。彼は亡命貴族(エミグレ)の指導者でありその治世は革命の成果を一つずつ取り消していく時代錯誤な反動政治の連続でした。
- 亡命貴族への補償: 彼は革命中に土地を没収された亡命貴族に対して巨額の補償金を国債で支払う法律を制定しました。その財源は国債の利子率を引き下げることで捻出されたため国債を保有していたブルジョワジーの強い反発を招きました。
- カトリック教会の復権: 彼は教育におけるカトリック教会の影響力を復活させ神への冒涜を死罪とする法律を制定するなど、反動的な聖職者の勢力を強めました。
- アルジェリア出兵: 国内の不満を外にそらすため1830年オスマン帝国領であった北アフリカのアルジェリアへの出兵を開始しました。これがその後のフランスによるアルジェリア植民地化の第一歩となります。
これらの一連の反動政策は革命を通じて権利意識に目覚めた自由主義的なブルジョワジーやパリの民衆の怒りを増大させていきました。
5.2. 栄光の三日間とルイ=フィリップの即位
1830年シャルル10世の内閣が選挙で敗北すると彼はこの結果を認めず最後の賭けに出ます。同年7月彼は議会の解散、選挙権の制限(納税資格を大幅に引き上げる)、そして言論・出版の自由の停止などを内容とする勅令(七月勅令)を発布しました。
これは事実上のクーデターであり憲法への公然たる挑戦でした。この勅令に激怒したパリの市民、学生、そして労働者たちはバリケードを築き共和主義の旗の下に蜂起しました。7月27日から29日までの三日間パリの市街地では市民と国王軍との間で激しい戦闘が繰り広げられました(栄光の三日間)。
最終的に市民側が勝利を収めシャルル10世はイギリスへと亡命しました。ブルボン朝は再び打倒されたのです。
革命が勝利した後革命の担い手たちの間で今後の政体をめぐって意見が分かれました。蜂起の主役であった学生や労働者たちは共和制の樹立を望みました。
しかし議会の多数を占めていた銀行家や大商人といった富裕なブルジョワジー(自由主義的、立憲君主派)は、共和制という急進的な体制が普通選挙などを通じて貧しい大衆の政治参加を招き自らの財産権を脅かすことを恐れました。
彼らは共和派を抑え込みブルボン家の遠縁にあたる自由主義者として知られていたオルレアン公ルイ=フィリップを新しい国王として擁立しました。彼は「フランス国民の王」として即位しここに七月王政が成立しました。国旗もブルボン家の白旗から革命の三色旗(トリコロール)に戻されました。
この七月王政は「大ブルジョワジーの王国」と呼ばれるようにその政治的な基盤はごく一部の富裕な有産階級に限定されていました。選挙権もわずかに拡大されただけで大多数の中小ブルジョワジーや労働者、農民は依然として政治から排除されたままでした。首相ギゾーの「選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ」という言葉はこの政権の性格を端的に表しています。
5.3. 七月革命のヨーロッパへの影響
パリでの革命の成功はメッテルニヒが築き上げたウィーン体制に深刻な打撃を与えヨーロッパ各地に眠っていた自由主義とナショナリズムの運動を一気に噴出させる連鎖反応を引き起こしました。
- ベルギーの独立: 七月革命の影響を最も直接的に受けたのがベルギーでした。ウィーン会議でオランダに併合されていた南ネーデルラント(ベルギー)ではカトリック教徒でフランス語圏の住民がプロテスタントでオランダ語圏のオランダの支配に強い不満を抱いていました。1830年8月ブリュッセルで暴動が起こりそれはたちまち独立を求める革命へと発展しました。イギリスとフランスがこの独立を支持したためベルギーは1831年オランダから独立を達成し立憲君主制のベルギー王国が成立しました。これはウィーン会議で定められた国境線が初めて武力によって変更された重大な出来事でした。
- ポーランドの反乱: ロシア皇帝の支配下にあったポーランドでもワルシャワで士官たちが独立を求めて蜂起しました。しかしこの反乱はイギリスやフランスからの有効な支援を得られず翌年ロシア軍によって無残に鎮圧されてしまいました。その結果ポーダンドは憲法も議会も奪われロシアの一地方としてその支配をさらに強化されることになりました。
- イタリアとドイツの運動: イタリアではカルボナリ(炭焼党)が各地で蜂起しドイツでも憲法の制定を求める騒乱が各地で起こりましたが、これらはずれもオーストリア軍の介入などによって鎮圧されました。
結論としてフランスの七月革命はウィーン体制の正統主義の原則を中心地で打ち破りヨーロッパに1820年代とは比較にならないほどの大きな革命の波を引き起こしました。ベルギーの独立という具体的な成果ももたらしました。しかし革命の波が東方に進むにつれて反動勢力の力は依然として強固であり多くの運動は失敗に終わりました。この結果ヨーロッパは自由主義的な立憲君主制を確立したイギリスやフランス、ベルギーといった西ヨーロッパと、保守的な絶対主義が支配を続けるオーストリア、プロイセン、ロシアといった東ヨーロッパとの間の政治的な亀裂がより一層明確になっていくのです。
6. イギリスの自由主義的改革
19世紀前半フランスが七月革命という激しい政治的変動を経験しヨーロッパ大陸の大部分がウィーン体制の下で保守反動の空気に覆われていた頃、イギリスは革命という暴力的な手段ではなく議会を通じた漸進的な「改革」という道を通じて社会の矛盾に対応し自由主義的な体制を成熟させていくという独自の道を歩んでいました。名誉革命によって確立された議会制民主主義と立憲君主制の枠組みの中でイギリスは産業革命の進展によって生じた新しい社会階級の要求を受け入れ、カトリック教徒の解放、選挙制度の改革、そして自由貿易の確立といった一連の重要な改革を次々と実現していきました。このイギリスの「改革の時代」はなぜこの国だけが大陸のような革命の激動を経験せずに済んだのかという問いに対する一つの答えを示しており、その安定した発展はヴィクトリア朝時代の空前の繁栄(パクス・ブリタニカ)の揺るぎない土台を築き上げたのです。
6.1. 宗教的差別の緩和
イギリスの自由主義的改革の第一歩は長年続いてきた宗教的な差別を撤廃することから始まりました。
- 審査法の廃止(1828年): 17世紀以来イギリスでは「審査法」によって公職に就く者はイングランド国教会の信徒でなければならないと定められており、カトリック教徒やプロテスタントの非国教徒(長老派、クエーカー教徒など)は政治的な権利を著しく制限されていました。産業革命の進展と共に非国教徒の中から多くの有力な産業資本家が登場するとこの時代遅れの差別法への不満が高まりました。そして1828年トーリー党のウェリントン内閣の下でついに審査法は廃止され非国教徒の公職就任が認められました。
- カトリック教徒解放法(1829年): 次の課題はカトリック教徒の解放でした。特にアイルランドでは人口の大多数を占めるカトリック教徒がプロテスタントの支配層によって抑圧されており、オコンネルの指導の下カトリック教徒の政治的権利を求める運動が激化していました。アイルランドの内乱を恐れたウェリントン内閣は翌1829年「カトリック教徒解放法」を制定しカトリック教徒が国会議員になる権利をはじめとするほとんどの公職への道が開かれました。
これらの改革はイギリスの政治をイングランド国教徒という特定の宗派の支配から解放しより幅広い国民に開かれたものへと変える重要な一歩でした。
6.2. 第一回選挙法改正(1832年):腐敗の一掃と中産階級の勝利
19世紀初頭のイギリスの選挙制度は産業革命以前の社会構造を反映した極めて不公平で時代遅れのものでした。
- 腐敗選挙区: 昔は大きな町であったが今では人口が数人あるいは全く いなくなってしまったような「腐敗選挙区」が依然として議席を持ち、その議席は地元の有力な貴族(地主)によって意のままに操られていました。
- 都市への議席の不配分: 一方で産業革命によって数十万の人口を抱える巨大な工業都市へと成長したマンチェスターやバーミンガムといった新しい都市には議席が全く割り当てられていませんでした。
- 選挙権の制限: 選挙権も土地の所有などに基づく厳しい財産資格がありごく一部の富裕層に限定されていました。
この不合理な制度に対して産業革命によって経済的な実力をつけた新しい社会階級、すなわち工場経営者、銀行家、商人といった産業ブルジョワジー(中産階級)の不満は頂点に達していました。彼らは自らの経済的な重要性に見合った政治的な発言権を求めて選挙制度の抜本的な改革を強く要求しました。
フランスの七月革命の影響も受けて改革の機運が高まる中1830年の総選挙で改革に積極的なホイッグ党が勝利しグレイ内閣が成立しました。グレイ内閣が提出した選挙法改正案は貴族が多数を占める上院の激しい抵抗に遭いましたが国王が上院の反対を抑え込むことを約束したため1832年ついに「第一回選挙法改正」が成立しました。
- 改正の内容:
- 人口の少ない腐敗選挙区56区が廃止されました。
- その分の議席がマンチェスターなどの新しい工業都市や人口の多い州に再配分されました。
- 選挙権の資格が緩和され都市では一定の家屋を持つ者、農村では一定の借地料を払う者にまで選挙権が拡大されました。
この改革によって有権者の数は大幅に増加し産業ブルジョワジーが初めて議会に代表を送る権利を獲得しました。これは地主貴族の政治的独占が打ち破られイギリスの政治の主導権が新しい産業資本家階級へと移行していく決定的な転換点でした。しかしこの改革でも都市や農村の労働者階級は依然として選挙権から排除されたままであり、彼らの不満は後のチャーティスト運動へと繋がっていきます。
6.3. 自由主義的改革の進展
選挙法改正によって産業ブルジョワジーの声がより反映されるようになった議会は、その後彼らの利益に合致する一連の自由主義的な改革を次々と実現させていきました。
- 奴隷制の廃止(1833年): 人道主義的な観点と自由な賃金労働の方が奴隷労働よりも効率的であるという経済的な判断から、イギリス帝国全土で奴隷制が廃止されました。
- 工場法の制定(1833年): 産業革命がもたらした劣悪な労働条件、特に児童労働の惨状を改善するため世界で最初の本格的な工場法が制定され年少者の労働時間が制限されました。
- 穀物法の廃止(1846年): 「穀物法」は地主の利益を守るため外国産の安価な穀物の輸入に高い関税をかける保護主義的な法律でした。これに対して産業資本家たちは穀物価格が高いために労働者の賃金を高く維持しなければならないと不満を抱いていました。彼らは「反穀物法同盟」を結成し自由貿易を求めて強力なキャンペーンを展開しました。アイルランドのジャガイモ飢饉が食糧価格を高騰させたことも追い風となり1846年保守党のピール内閣の下でついに穀物法は廃止されました。
- 航海法の廃止(1849年): 穀物法の廃止に続き17世紀以来イギリスの重商主義の柱であった「航海法」(イギリスの貿易をイギリスの船に限定する法律)も廃止されました。
これらの改革によってイギリスは保護貿易から自由貿易へと大きく舵を切りその圧倒的な工業生産力を背景に「世界の工場」として世界経済の中で覇権的な地位を築き上げていくことになります。
結論として19世紀前半のイギリスは革命の激動を避けながら議会という既存の政治的枠組みの中で社会の変化に対応し、一連の自由主義的改革を成し遂げました。この漸進的な改革のプロセスこそがイギリスの政治的な安定の秘訣でありヴィクトリア朝の繁栄を支える強固な社会経済的基盤を形成したのです。
7. 産業革命の進展
18世紀後半にイギリスで始まった「産業革命」は19世紀前半ヨーロッパ大陸へとその波を広げていきました。ナポレオン戦争後の比較的平和な国際環境とイギリスからの技術や資本の導入を背景に、まずイギリスに隣接し石炭などの資源に恵まれたベルギーで、次いでフランス、そして1830年代以降にはドイツでも本格的な工業化が進展しました。この産業革命の波及は単に新しい機械が導入されたという技術的な変化にとどまりませんでした。それは鉄道網の建設に象徴されるように人々の生活の時間と空間の感覚を一変させ都市への急激な人口集中を引き起こし、そして何よりも社会の基本的な階級構造を「産業資本家(ブルジョワジー)」と「工場労働者(プロレタリアート)」という二つの新しい階級へと根本的に再編成する巨大な社会変革でした。
7.1. ヨーロッパ大陸への波及
イギリスで始まった産業革命がヨーロッパ大陸に本格的に波及するのは、ナポレオン戦争が終結しウィーン体制の下で政治的な安定がもたらされた1815年以降のことです。
- ベルギー: 大陸で最初に産業革命を達成したのが1830年にオランダから独立したベルギーでした。ベルギーは豊富な石炭と鉄鉱石の資源に恵まれまた古くから毛織物工業の伝統がありました。イギリスに隣接しているという地理的な利点からイギリスの技術者や機械の導入も容易であり、政府の積極的な支援の下で鉄道建設や製鉄業が急速に発展しました。
- フランス: フランスの工業化はベルギーに比べるとやや緩やかに進みました。フランスはイギリスに比べて石炭資源が乏しくまたフランス革命で土地を得た小土地所有農民が多く存在したため、農村から都市への労働力の移動がイギリスほど急激ではありませんでした。工業もイギリスのような大量生産の綿工業よりも伝統的な絹織物業や奢侈品工業が中心でした。しかし七月王政期(1830-1848)には鉄道建設が本格化し製鉄業や機械工業が発展の軌道に乗りました。
- ドイツ: ドイツの工業化の本格的な離陸(テイクオフ)は19世紀半ば以降となりますがその準備は1830年代に始まっていました。ドイツの工業化の最大の障害は国家の政治的な分裂でした。しかし1834年プロイセンの主導で「ドイツ関税同盟」が結成され加盟国間の関税が撤廃されたことで広大な国内市場が形成されました。これがドイツの工業化にとって決定的な推進力となりました。豊富な石炭(ルール地方など)と鉄鉱石の資源、そして国家の強力な保護政策に支えられドイツの鉄道建設や重工業は19世紀後半イギリスを猛追することになります。
7.2. 社会の激変:都市化と新しい階級の誕生
産業革命がもたらした最も大きな変化は人々の生活の舞台と社会の構造そのものの変容でした。
- 工場の出現と都市への人口集中: 蒸気機関を動力とする新しい機械(紡績機、力織機など)は個人の家内工業では設置できず「工場(ファクトリー)」と呼ばれる一つの建物に集められました。人々は仕事を求めて農村からこれらの工場が集中する都市へと大量に流入しました。マンチェスター、リヴァプール、リヨン、エッセンといった工業都市が急速に膨張し、人類の歴史上初めて都市に住む人々の割合が農村に住む人々の割合を上回る「都市化」の時代が始まりました。
- 新しい二つの社会階級の形成: この工場制機械工業を基盤とする新しい社会はそれまでの身分制社会とは全く異なる二つの敵対的な社会階級を生み出しました。
- 産業資本家(産業ブルジョワジー): 工場、機械、原料といった「生産手段」を私有し労働者を雇い入れて商品を生産しその利潤を追求する新しい支配階級です。銀行家や大商人などもこれに含まれます。
- 工場労働者(プロレタリアート): 生産手段を持たず自らの労働力を資本家に商品として売り賃金を得ることでしか生活できない新しい被支配階級です。彼らは都市の不衛生なスラム街に密集して住み劣悪な労働条件の下で働かざるを得ませんでした。
- 劣悪な労働問題と社会問題: 産業革命の初期段階では労働者を保護する法律はほとんど存在しませんでした。資本家は利潤を最大化するため労働者に一日12時間から16時間にも及ぶ長時間労働を強いました。工場内の環境は不衛生で危険であり労働災害も頻発しました。特に悲惨であったのが女性や子供の労働でした。彼らは男性よりも安い賃金で雇われ危険な機械の掃除や狭い炭鉱の坑道での作業など過酷な労働に従事させられました。都市では急激な人口増加にインフラ(上下水道、住宅など)の整備が全く追いつかずスラム街では不衛生な環境からコレラなどの伝染病が周期的に大流行しました。
7.3. 交通革命
産業革命はまた人々の移動と物流のあり方を根底から変える「交通革命」を引き起こしました。
- 蒸気機関の発明: 18世紀にワットが改良した蒸気機関は当初鉱山の排水ポンプなどに使われていましたが、やがて新しい交通手段の動力源として応用されます。
- 蒸気船: 1807年アメリカのフルトンが蒸気船の実用化に成功し河川や海上交通の速度と定期性を飛躍的に向上させました。
- 蒸気機関車と鉄道: 1825年イギリスのスティーヴンソンが蒸気機関車を実用化し、ストックトン・ダーリントン間で世界初の公共鉄道が開通しました。1830年にはマンチェスター・リヴァプール鉄道が本格的な旅客・貨物輸送を開始しました。鉄道は産業革命の集大成でありまたさらなる発展の起爆剤でした。鉄道は石炭や鉄鉱石といった重い原料や工業製品を安価にかつ大量に内陸部まで輸送することを可能にしました。また鉄道の建設そのものが製鉄業や石炭業、機械工業に巨大な需要を生み出し経済全体を牽引しました。さらに鉄道はそれまで数日かかっていた都市間の移動を数時間に短縮し人々の地理的な感覚を一変させました。それは国内市場の統一を促進し国民としての一体感を醸成する上で大きな役割を果たしました。
結論として19世紀前半の産業革命の進展はヨーロッパの社会を不可逆的に変容させました。それは莫大な富と生産力を生み出し物質的な豊かさの基礎を築いた一方で深刻な貧富の差と劣悪な労働問題、そして資本家と労働者という新しい階級間の敵対関係という深刻な「社会問題」を生み出しました。この新しい社会の矛盾をいかにして解決するべきかという問いが19世紀後半のヨーロッパ社会が直面する最も大きな課題となり、そしてその問いに対する一つのラディカルな答えとして「社会主義」という新しい思想が登場することになるのです。
8. 社会主義思想の誕生
産業革命が生み出した新しい工業社会はそれまで人類が経験したことのないほどの物質的な富を生産する可能性を示した一方で、その富がごく一部の産業資本家の手に集中し大多数を占める工場労働者(プロレタリアート)は貧困と劣悪な労働条件に喘ぐという深刻な社会的な矛盾を露呈しました。この資本主義社会の初期の段階で現れた貧富の差や非人間的な労働といった問題に対して根本的な疑問を投げかけ、私有財産制や自由競争の原理そのものを批判しより平等で協同的な新しい社会のあり方を構想しようとする思想が生まれました。これが「社会主義(Socialism)」です。19世紀前半に登場した初期の社会主義者たちはその理想主義的な性格から「空想的社会主義」と呼ばれます。そして19世紀半ばこれらの初期の思想を批判的に継承し歴史と経済の科学的な分析に基づいて資本主義の崩壊と労働者階級による革命の必然性を説いたのがカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスであり、彼らの思想は「科学的社会主義(共産主義)」としてその後の世界の歴史に計り知れない影響を与えることになります。
8.1. 初期社会主義(空想的社会主義)
19世紀前半のフランスやイギリスで活躍した初期の社会主義者たちは、産業社会がもたらした不正義と非人間性を道徳的な観点から鋭く批判し、理性と説得によって理想的な共同体を建設できると信じていました。
- サン=シモン(フランス): 彼は貴族でありながら産業社会を科学的に分析し、これからは産業家(資本家、労働者、科学者を含む)が社会を指導しキリスト教的な友愛の精神に基づいて計画的に生産を管理することで貧困をなくせると考えました。彼の思想はテクノクラート(技術官僚)による社会統制の考え方の先駆けとも言えます。
- フーリエ(フランス): 彼は資本主義の競争社会が人間の情念を抑圧していると考え、人々が自由に協同して働き生活する「ファランジュ」と呼ばれる理想的な協同組合(生産と消費の共同体)を構想しました。
- ロバート・オーウェン(イギリス): 彼は単なる思想家ではなく実際に紡績工場の経営者でした。彼は「人間の性格は環境の産物である」という信念に基づき自らが経営するスコットランドのニュー・ラナークの工場で労働者の労働時間を短縮し幼児教育のための学校を設立し労働者の生活環境を改善するという画期的な実験を行い成功を収めました。彼は労働組合の結成や協同組合の設立にも尽力しイギリスの労働運動の父と呼ばれています。彼は後にアメリカに渡り財産の共有を原則とする理想的なコミュニティ「ニュー・ハーモニー」の建設を試みましたがこれは失敗に終わりました。
これらの初期社会主義者たちの思想は資本主義の問題を鋭く指摘しその人間的な改革の必要性を訴えた点で重要でしたが、マルクスらは後に彼らの思想を資本主義社会の構造的な力学を理解しておらずまた階級闘争という視点が欠けている単なる「空想」であると批判しました。
8.2. フランスの政治的急進主義
フランスでは七月革命後も政治から排除されていた労働者や中小ブルジョワジーの間に、より急進的な思想が広まりました。
- ルイ・ブラン: 彼は「国家は社会的悪を是正する義務を負う」と考え、国家が資金を提供して「国立作業場」を設立し労働者に働く権利(労働権)を保障すべきであると主張しました。彼の思想は1848年の二月革命で一時的に実現されることになります。
- プルードン: 彼は主著『所有とは何か』の中で「所有、それは盗みである」という有名な言葉を残し私有財産制度を厳しく批判しました。彼は国家の権力をも否定し人々が自由に契約を結び協同する無政府状態(アナーキズム)を理想としました。
8.3. マルクスとエンゲルス:科学的社会主義の誕生
これまでの社会主義思想の流れを大きく転換させその後の社会主義運動に決定的な理論的枠組みを与えたのが、ドイツの思想家カール・マルクス(1818-1883)とその生涯の盟友フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)でした。
マルクスはドイツのユダヤ系の家庭に生まれ大学でヘーゲルの哲学を学びましたがその急進的な思想のためにドイツを追われ、パリ、ブリュッセル、そして最終的にはロンドンで亡命生活を送りました。エンゲルスは紡績工場の経営者の息子でありマンチェスターで労働者階級の悲惨な現実を目の当たりにしマルクスの理論の形成を経済的にも知的にも支えました。
彼らはそれまでの社会主義を道徳的な憤りに基づく「空想」であると退け、自らの理論を歴史と経済の客観的な法則の分析に基づく「科学的社会主義」であると位置づけました。
その理論の核心は以下の三つの要素から構成されています。
- 史的唯物論(唯物史観): 彼らはヘーゲルの弁証法を批判的に継承し歴史を動かす原動力は観念や精神ではなく物質的な生産力(技術、道具など)と生産関係(人々の社会的な関係)の矛盾であると考えました。つまり社会の土台(経済構造)がその上部構造(政治、法律、文化、イデオロギー)を決定するという考え方です。
- 階級闘争史観: 史的唯物論の観点から彼らは「これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である」と断言しました。古代の奴隷と奴隷所有者、封建時代の農奴と領主、そして近代資本主義社会におけるプロレタリアート(労働者階級)とブルジョワジー(資本家階級)の対立。歴史とはこの抑圧する階級と抑圧される階級との間の絶え間ない闘争の過程であると捉えたのです。
- 革命の必然性: 彼らは資本主義社会もまたその内部に自己破壊的な矛盾を孕んでいると分析しました。資本家は競争に勝ち抜くために労働者をますます搾取しその結果プロレタリアートはますます貧困化し階級としての意識に目覚め団結していく。そして周期的に発生する恐慌によって資本主義システムそのものが危機に陥る時プロレタリアートは暴力革命によってブルジョワジーの支配を打倒し生産手段を社会の共有財産とする新しい社会、すなわち階級のない「共産主義社会」を樹立することは歴史的な必然であると結論付けました。
これらの思想を簡潔で力強いマニフェストとしてまとめたのが1848年の二月革命の直前にロンドンで活動していた共産主義者の国際組織「共産主義者同盟」の綱領として発表された『共産党宣言(共産主義者宣言)』です。
「ヨーロッパに亡霊がとりついている。共産主義という亡霊が」という有名な一文で始まり「万国のプロレタリア、団結せよ!」という力強い呼びかけで終わるこの文書は、その後の全世界の社会主義運動と労働運動の最も重要な聖典となりました。
結論として社会主義思想は産業革命が生み出した近代資本主義社会の矛盾に対する根源的な批判として誕生しました。当初は人道的な理想を掲げる空想的な性格を持っていましたがマルクスとエンゲルスによってそれは歴史と経済の法則に基づく科学的な革命の理論へと体系化されました。1848年の時点ではまだごく一部の知識人や活動家の思想に過ぎませんでしたがこの思想は19世紀後半から20世紀にかけて世界中の数億の人々の心を捉えロシア革命や中国革命など世界の歴史を根底から揺るがす巨大な政治的エネルギーとなっていくのです。
9. 1848年革命(諸国民の春)
1848年ヨーロッパはかつてない規模の革命の嵐に見舞われました。フランスのパリで上がった革命の狼煙は瞬く間にオーストリアのウィーン、プロイセンのベルリン、ハンガリーのブダペスト、そしてイタリアのミラノやローマへと燎原の火のように燃え広がり、ヨーロッパ大陸の主要な都市はことごとく革命の熱狂に包まれました。この一連の革命はまるで凍てついた大地から新しい生命が一斉に芽吹くように展開したことから「諸国民の春」と呼ばれます。この革命の担い手たちが掲げた目標は地域によって様々でしたがその根底に共通して流れていたのはフランス革命以来の二つの大きな理念、すなわち憲法の制定や市民的自由を求める「自由主義」と民族の統一や独立を求める「ナショナリズム」でした。ウィーン体制の重苦しい氷を打ち破ったこの1848年革命は最終的には保守派の反撃によってその多くが挫折に終わりますが、その衝撃はあまりにも大きくメッテルニヒを失脚させウィーン体制を事実上崩壊させる決定的な転換点となったのです。
9.1. フランス二月革命:七月王政の崩壊
「諸国民の春」の震源地となったのはまたしてもフランス、パリでした。ルイ=フィリップの七月王政は「大ブルジョワジーの王国」でありその選挙権はごく一部の富裕層に独占されていました。産業革命の進展と共に力をつけてきた中小の産業資本家や知識人、そして都市の労働者たちは選挙権の拡大を求める改革運動を展開していました。
政府が政治的な集会を禁止していたため彼らは「改革宴会(バンケット)」と称する宴会の形式で集会を開き選挙法改正を訴えていました。
1848年2月政府がこの改革宴会の禁止を命じたことをきっかけにパリの学生や労働者、市民たちが蜂起しました。当初ルイ=フィリップは事態を楽観視していましたが国民衛兵が市民の側に寝返るに及んで彼は退位を余儀なくされイギリスへと亡命しました。七月王政はあっけなく崩壊したのです。
この「二月革命」の後詩人のラマルティーヌらを中心とする穏健な共和派のブルジョワジーと、ルイ・ブランらの社会主義者が参加する臨時政府が樹立されました。
- 第二共和政の発足: 臨時政府はただちに共和政を宣言し(第二共和政)男性普通選挙の導入を決定しました。
- 国立作業場の設置: 社会主義者の要求に応える形で失業した労働者を救済するための「国立作業場」が設立されました。これは労働者の「働く権利」を国家が保障するという画期的な試みでした。
しかしこの革命の初期の理想主義的な段階は長くは続きませんでした。
9.2. ヨーロッパ全土への波及:「諸国民の春」
パリでの革命の成功のニュースは電光石火の速さでヨーロッパ中に伝わり、各地で抑圧されていた自由主義とナショナリズムのエネルギーを一気に爆発させました。
- オーストリア(ウィーン三月革命):1848年3月オーストリアの首都ウィーンで学生や労働者、市民が蜂起し憲法の制定を要求しました。この蜂起によって30年以上にわたってヨーロッパの保守反動の象徴であった宰相メッテルニヒは失脚しイギリスへと亡命しました。ウィーン体制はその中心人物を失い事実上崩壊したのです。このウィーンでの革命の影響はハプスブルク家の広大な多民族帝国全体に波及しました。
- ハンガリー: コシュートの指導の下マジャール人たちがオーストリアからの自治、さらには独立を求めて民族運動を起こしました。
- ベーメン(チェコ): プラハを中心にスラブ系民族の自治を求める運動が起こりました(スラブ民族会議)。
- 北イタリア: オーストリアの支配下にあったロンバルディア(ミラノ)とヴェネツィアで反乱が起こりサルデーニャ王国がこれを支援してオーストリアとの独立戦争を開始しました。
- プロイセン(ベルリン三月革命):ウィーンのニュースが伝わるとプロイセンの首都ベルリンでも市民と労働者が蜂起し国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世との間で市街戦が発生しました。国王は市民の要求を受け入れ自由主義的な内閣の成立と憲法の制定を約束しました。
- ドイツの統一運動:三月革命の熱狂の中でドイツ全体の統一を目指す動きも本格化しました。1848年5月ドイツ各地から普通選挙で選ばれた議員たちがフランクフルトに集まり最初の全ドイツ国民議会である「フランクフルト国民議会」が開催されました。この議会は「教授議会」と呼ばれるように多くの法律家や学者が参加し一年近くにわたって自由で統一されたドイツのための憲法草案を討議しました。
このように1848年の春ヨーロッパ大陸はあたかも一つの巨大な革命のるつぼと化したかのように見えました。
9.3. 革命の挫折と反動
しかし「諸国民の春」の輝かしい季節はあまりにも短命に終わりました。1848年の後半から翌年にかけて革命の波は急速に後退し保守派の反動勢力が次々と巻き返しに成功します。
革命が失敗した原因は複雑ですがいくつかの共通した要因を指摘できます。
- 革命勢力の内部対立:革命の初期段階では自由主義を求めるブルジョワジーと社会的な改革を求める労働者階級は、共通の敵である絶対主義を打倒するために協力しました。しかし一旦勝利を収めると両者の利害の対立が表面化しました。フランスでは4月の総選挙で農民の支持を得た穏健な共和派が圧勝し社会主義的な改革に否定的な姿勢をとりました。政府が財政を圧迫する国立作業場の閉鎖を決定するとこれに反発したパリの労働者たちが6月に大規模な武装蜂起を起こしました(六月蜂起)。しかしこの蜂起は政府軍によって無残に鎮圧され数千人の死者と多数の逮捕者を出しました。この六月蜂起の敗北はブルジョワジーとプロレタリアートの階級的な亀裂を決定的なものにしフランスの共和政は保守化の道をたどります。
- ナショナリズムの諸刃の剣:オーストリア帝国ではナショナリズムが革命を推進する力となった一方で革命を内部から崩壊させる要因ともなりました。例えば独立を目指すハンガリーのマジャール人たちは自らの支配下にあるクロアチア人やスラブ系民族の自治要求を認めようとはしませんでした。オーストリア政府はこの民族間の対立を巧みに利用しクロアチア軍を使ってハンガリーの革命を弾圧させました。最終的にハンガリーの独立運動はロシア軍の介入によって完全に鎮圧されました。
- 軍隊の温存:多くの君主は革命の初期の混乱の中で一時的に譲歩を見せましたが軍隊の指揮権は手放しませんでした。農民出身者が多く保守的な軍隊は都市の革命的な動きには冷淡であり、一旦体勢を立て直した君主たちが反撃に転じる際の強力な道具となりました。ウィーンやベルリンでは軍隊の力によって革命は鎮圧され自由主義的な議会は解散させられました。
フランクフルト国民議会もオーストリアを排除した小ドイツ主義に基づく憲法を制定しプロイセン国王を統一ドイツ皇帝に選出しましたが、フリードリヒ=ヴィルヘルム4世が「豚の首輪(革命議会からの帝冠)」を受け取ることを拒否したためその試みは失敗に終わりました。
結論として1848年革命はその直接的な目標のほとんどを達成することができず短期的には失敗に終わりました。しかしその歴史的な意義は計り知れません。この革命はウィーン体制という旧来の国際秩序を完全に破壊しました。そして自由主義とナショナリズムがもはや一部の知識人だけの理念ではなく大衆を動かす巨大な政治的エネルギーであることを誰の目にも明らかにしたのです。1848年に提起され一度は挫折したドイツとイタリアの統一、ハンガリーの自治といった課題はその後の19世紀後半のヨーロッパ史の中心的なテーマとして再び浮上してくることになるのです。
10. ウィーン体制の崩壊
1848年の革命の嵐はヨーロッパ大陸を席巻しその保守的な秩序の番人であったメッテルニヒを失脚の淵へと追い込みました。革命そのものは多くの場所で保守派の軍隊によって鎮圧され短期的には失敗に終わったかのように見えました。しかし一度噴出した自由主義とナショナリズムのマグマはもはやウィーン体制という古くなった地殻の下に押し込めておくことはできませんでした。1848年の出来事はウィーン会議で築き上げられた正統主義と君主間の協調に基づく国際秩序がもはや機能不全に陥っていることを誰の目にも明らかにしその崩壊を決定づけました。ウィーン体制は物理的に打倒されたというよりもその存在意義とイデオロギー的な正統性を完全に失ったことで死に至ったのです。その崩壊の跡地からヨーロッパはもはや理念や協調ではなく国益と国益が剥き出しで衝突するより現実主義的な「リアルポリティーク」の時代へと突入していくことになります。
10.1. 1848年革命の直接的帰結
1848年革命は各地で様々な結果をもたらしましたがその最も直接的で象徴的な帰結はウィーン体制の中心人物メッテルニヒの失脚でした。
- メッテルニヒの亡命: 1848年3月ウィーンでの市民の蜂起を前に皇帝は国民の不満を和らげるためメッテルニヒを解任しました。彼はイギリスへと亡命し二度と政治の檜舞台に返り咲くことはありませんでした。30年以上にわたってヨーロッパの保守反動を指導してきた巨人の退場はウィーン体制という一つの時代の終わりを告げる象徴的な出来事でした。
- フランス第二共和政とルイ・ナポレオンの登場:二月革命が生んだフランス第二共和政は六月蜂起の鎮圧後急速に保守化しました。1848年末に行われた最初で最後の大統領選挙で圧勝したのは偉大な皇帝ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンでした。彼の名前は革命の混乱に疲れた農民層や市民にかつての栄光と秩序を想起させ絶大な人気を博しました。彼はやがてクーデターによって共和政を打倒し自ら皇帝ナポレオン3世として帝政(第二帝政)を開始することになります。フランスは再び革命から独裁へと揺り戻されることになりました。
10.2. 体制のイデオロギー的破綻
1848年革命がウィーン体制に与えた最大の打撃は物理的な敗北以上にそのイデオロギー的な基盤を完全に破壊してしまったことにあります。
- 正統主義の終焉: ウィーン体制は革命前の「正統な」君主の権利を守るという「正統主義」をその大義名分としていました。しかし1848年の革命でフランスではブルボン家ではなくオルレアン家の王が追放されオーストリアでは皇帝が一時首都から逃亡しプロイセンでは国王が革命軍に頭を下げました。これらの出来事は「正統な」君主の権威がいかに脆弱で民衆の力の前には無力であるかを示しました。もはや君主の伝統的な権利だけを根拠に国家の秩序を維持することは不可能であることが明らかになったのです。
- 君主間の連帯の崩壊: ウィーン体制は革命の脅威に対して君主たちが国境を越えて連帯し共同で対処するという原則に基づいていました。しかし1848年オーストリアがハンガリーやイタリアのナショナリズムの反乱に苦しんでいる時プロイセンはフランクフルト国民議会からのドイツ帝冠の受け入れを真剣に検討するなど自国の国益を優先する動きを見せました。またハンガリーの独立運動を最終的に鎮圧したのはオーストリアの君主仲間ではなく自国の南下政策の観点からバルカン半島の混乱を恐れたロシアでした。君主間のイデオロギー的な連帯はそれぞれの国家の剥き出しの利害の前には二次的な問題となっていました。
10.3. 新しい時代の到来:リアルポリティークへ
ウィーン体制が崩壊した後の19世紀後半のヨーロッパの国際政治はそれまでとは全く異なる様相を呈します。
- 保守勢力の「近代化」: 1848年の経験はプロイセンのビスマルクやフランスのルイ・ナポレオンといった新しい世代の保守的な政治家たちに重要な教訓を与えました。それはもはや自由主義やナショナリズムの力を単に弾圧するだけでは国家を統治できないという認識でした。彼らは逆にこれらの力を国家の側が巧みに利用し上からの近代化改革や国民的な威信を高める戦争を通じて国民を国家の下に統合していくという新しい統治スタイル(ボナパルティズム)を採用します。
- リアルポリティークの時代: 国際関係ももはや「正統性」や「キリスト教的友愛」といった理念によって導かれることはなくなりました。各国の指導者たちは国益のためであればいかなる手段も辞さない権謀術数が渦巻く現実主義的な外交(リアルポリティーク)を展開するようになります。イタリアとドイツの統一戦争やクリミア戦争といった19世紀後半の紛争はこのリアルポリティークの典型的な現れでした。
結論としてウィーン体制は1848年の革命の嵐によってその息の根を完全に止められました。革命は短期的には多くの場所で敗北しましたがそれはウィーン体制という反動の時代が終わったことを告げる弔鐘(ちょうしょう)でした。メッテルニヒが去った後のヨーロッパの舞台にはもはや復古的な秩序は存在しませんでした。そこにあったのは1848年の革命が解き放ったナショナリズムと社会問題という新しい課題と、それらの力を利用しながら国家間の熾烈な生存競争を勝ち抜こうとする新しい政治の現実でした。ウィーン体制の崩壊は19世紀前半の終わりを告げると同時に19世紀後半の国民国家の形成と帝国主義の時代の本格的な幕開けを意味していたのです。
Module 14:ウィーン体制と19世紀前半の世界の総括:反動の蓋と、沸騰するエネルギー
本モジュールが探求した19世紀前半のヨーロッパはナポレオン戦争という巨大な火山の噴火の後、その活動を無理やり封じ込めようとする壮大な試みの時代であった。メッテルニヒが設計したウィーン体制という名の分厚い「蓋」は正統主義を掲げて革命のマグマである自由主義とナショナリズムを押さえつけようとした。しかしその蓋の下ではギリシアの独立、フランスの七月革命、そしてイギリスの自由主義改革という形で絶えずエネルギーが漏れ出し亀裂を広げていった。そしてもう一つの地殻変動すなわち産業革命は社会の内部に社会主義という全く新しいエネルギー源を生成していた。ついに1848年蓄積された圧力は限界を超え「諸国民の春」という大陸規模の大爆発を引き起こしウィーン体制という蓋を粉々に吹き飛ばしてしまった。この時代の終わりは反動の秩序の最終的な敗北であり19世紀後半のヨーロッパを形作ることになるナショナリズムと社会問題という二つの巨大な力が、抑えがたい奔流として歴史の表舞台に溢れ出した瞬間だったのである。