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【基礎 世界史(通史)】Module 15:国民国家の形成とアジアの動揺
本モジュールの目的と構成
1848年の「諸国民の春」がヨーロッパの保守反動体制であるウィーン体制を最終的に打ち砕いた後、歴史の潮流は大きく二つの方向に流れ始めました。本モジュールで探求するのは19世紀半ばから後半にかけて世界の政治地図が決定的に塗り替えられていく、この二つの巨大な歴史的プロセスです。一つはヨーロッパと北アメリカにおける「国民国家」の完成です。1848年に一度は挫折したイタリアとドイツの統一はもはやロマン主義的な理想ではなく、ナポレオン3世やビスマルクといった現実主義的な政治家たちが主導する鉄と血の「リアルポリティーク(現実政治)」によって達成されます。アメリカ大陸では国家の分裂を賭けた壮絶な南北戦争を経て、強力な中央集権国家としてのアイデンティティが確立されました。そしてもう一つの潮流はこうして完成されつつある西欧の強力な国民国家が、その圧倒的な工業力と軍事力を背景にアジアの広大な伝統的帝国群をいかにして揺るぶり従属させていったかというプロセスです。アヘン戦争に敗れた清朝中国、インド大反乱を経て直接支配下に置かれたムガル帝国、そして植民地化の波に洗われる東南アジア。この西欧からの衝撃に対し日本の明治維新はアジアで唯一、自発的な国民国家建設へと舵を切る例外的な応答を示します。本モジュールは西欧における国民国家形成の最終段階とそれがアジアにもたらした巨大な動揺という、近代世界システムの成立における光と影の相克を深く解き明かすことを目的とします。
この激動の時代を多角的に理解するため本モジュールは以下の学習項目で構成されています。
- フランスの第二帝政: 1848年革命の混乱の中から登場したルイ・ナポレオンが、いかにして皇帝ナポレオン3世となり独裁と国民投票を組み合わせた統治でフランスの工業化を推進しヨーロッパの国際政治を攪乱したのかを分析します。
- クリミア戦争: 「東方問題」を背景に勃発しウィーン体制を支えてきた列強間の協調を完全に破壊したこの戦争が、なぜイタリアとドイツの統一への扉を開く国際政治の転換点となったのかを探ります。
- イタリアの統一: マッツィーニの理想、カヴールの現実主義的外交、そしてガリバルディの英雄的な軍事行動という三人の指導者の役割を軸に、分裂状態にあったイタリアがいかにして「リソルジメント(国家復興)」を達成したのかを追います。
- ドイツの統一とビスマルク: プロイセンの首相ビスマルクが仕掛けた三度の巧みな戦争(対デンマーク、対オーストリア、対フランス)を通じて、彼がいかにしてオーストリアを排除しドイツ帝国の戴冠へと至る「鉄血政策」を完遂したのかを解明します。
- アメリカの南北戦争: 奴隷制をめぐる対立が、いかにして合衆国を二つに引き裂く未曾有の内戦へと発展し北部の勝利が国民の再統合と産業国家としての飛躍をいかにしてもたらしたのかを考察します。
- アヘン戦争と南京条約: イギリスが仕掛けたアヘン戦争が、なぜ清朝中国の伝統的な国際秩序(華夷秩序)を打ち砕き香港の割譲や治外法権を認める最初の「不平等条約」へと至ったのかを検証します。
- 太平天国の乱: アヘン戦争の敗北が引き金となりキリスト教の影響を受けた洪秀全が指導したこの巨大な反乱が、清朝の支配体制をいかに内部から揺るがしその後の中国史に深刻な影響を与えたのかを分析します。
- インド大反乱: イギリス東インド会社の支配に対するインド人傭兵(シパーヒー)の反乱が、いかにして全インド的な抵抗運動へと発展しムガル帝国の終焉とイギリスによる直接統治(インド帝国)の始まりを告げたのかを詳述します。
- 東南アジアの植民地化: イギリスによるビルマ・マレー半島支配、フランスによるインドシナ半島支配、オランダによるインドネシア支配など西欧列強による東南アジアの分割植民地化の過程を探ります。
- 日本の開国と明治維新: ペリー来航という外的衝撃に対し日本がいかにして徳川幕府を打倒し「明治維新」という上からの急速な近代化改革を断行して、西欧型の国民国家建設の道を歩み始めたのかその特異な応答を分析します。
本モジュールを通じて読者は19世紀半ばが西欧で国民国家体制が完成し、その力が非西欧世界へと圧倒的な形で展開され始めた現代世界のグローバルな構造を決定づける極めて重要な転換期であったことを深く理解するでしょう。
1. フランスの第二帝政
1848年の二月革命で成立したフランス第二共和政は六月蜂起で労働者階級の急進的な要求を弾圧した後、急速に保守化の道をたどりました。革命の混乱と社会主義の脅威に疲れた農民層やブルジョワジーは「秩序の回復」を強く望んでいました。この国民的な渇望を背景に1848年末の大統領選挙で圧倒的な支持を得て当選したのが、かつての偉大な皇帝ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオン(1808-1873)でした。彼の「ナポレオン」という名前はフランス国民にかつての栄光と安定を想起させ絶大な魔力を持っていました。彼はこの国民的な人気を巧みに利用しクーデターによって共和政を打倒し1852年に皇帝ナポレオン3世として即位します。こうして始まった「第二帝政」の時代は国民投票によって正統化された独裁政治(ボナパルティズム)の下でフランスの産業化を強力に推進する一方で、ヨーロッパの国際秩序を攪乱する野心的でしばしば矛盾に満ちた外交政策を展開する栄光と破滅の20年間でした。
1.1. ルイ・ナポレオンの権力掌握と帝政の成立
大統領に就任したルイ・ナポレオンは議会と対立しながらも着実に自らの権力基盤を固めていきました。そして大統領の任期が切れ再選が憲法で禁じられていることを知ると彼は武力による権力掌握を決意します。
1851年12月2日彼はクーデターを実行し議会を解散させて反対派議員を逮捕しました。この日は伯父ナポレオン1世がアウステルリッツの戦いで輝かしい勝利を収めた記念日であり彼の歴史への強い意識を示しています。彼はこのクーデターの是非を国民投票に問い圧倒的な賛成を得て独裁的な権限を持つ10年任期の大統領となりました。
さらに翌1852年彼は再び国民投票を実施し皇帝に即位することへの賛意を取り付けナポレオン3世として第二帝政を開始しました。フランス革命で打倒されたはずの帝政が国民の圧倒的な支持によって再び復活したのです。
このナポレオン3世の統治スタイルは「ボナパルティズム」と呼ばれいくつかの特徴を持っています。
- 権威主義的な統治: 彼は議会の権限を大幅に縮小し報道の自由を制限するなど警察国家的な手法で国内を統治しました。政治的な自由は抑圧されました。
- 国民投票(プレビシット)の利用: 一方で彼は自らの独裁を国民の直接的な支持(国民投票)によって正統化しようとしました。これは人民主権の理念を独裁体制の道具として利用する新しいタイプの権威主義でした。
- 経済発展の重視: 彼は国民の支持を維持するため政治的な自由の代わりに経済的な繁栄と物質的な豊かさを国民に提供しようとしました。
1.2. 国内政策:経済発展とパリ大改造
ナポレオン3世の治世はフランスの産業革命が本格的に進展した時代でした。
- 工業化の推進: 彼は鉄道網の建設を積極的に支援し国内の交通網を飛躍的に発展させました。これにより国内市場が統一され石炭業や製鉄業が大きく成長しました。またサン=シモンの思想に影響を受けクレディ・モビリエのような投資銀行の設立を奨励し産業への資金供給を円滑にしました。自由貿易も推進し1860年にはイギリスとの間で英仏通商条約を締結し関税を引き下げました。
- パリ大改造: 彼の治世を最も象徴する事業がセーヌ県知事オスマンを起用して行われた大規模なパリ改造計画です。革命の温床となりがちだった暗く不衛生でバリケードを築きやすい中世以来の入り組んだ路地は一掃されました。その代わりに軍隊が迅速に移動でき見通しの良い広大な並木道(ブールヴァール)が碁盤の目のように建設されました。上下水道も完備され公園や広場そして壮麗なオペラ座などが建設され、パリは近代的で衛生的な華麗な「花の都」へと生まれ変わりました。この都市改造は公衆衛生の向上と都市景観の美化という目的だけでなく、民衆の反乱を物理的に困難にするという高度に政治的な目的も持っていました。
これらの政策によってフランス経済は大きく発展し1855年と1867年にはパリで万国博覧会が開催され第二帝政の栄華はその頂点を迎えました。
1.3. 対外政策:栄光の追求と破滅
ナポレオン3世は伯父ナポレオン1世のような軍事的な栄光を追求しフランスの国際的な威信を回復させることを外交の最大の目標としました。彼はウィーン体制を破壊しヨーロッパの国際秩序をフランス中心に再編成しようと様々な戦争や外交に積極的に介入しました。しかしその政策はしばしば場当たり的で矛盾をはらんでおり最終的には帝国の破滅を招くことになります。
- クリミア戦争(1853-1856): 聖地管理権問題を口実にロシアと対立するオスマン帝国をイギリスと共に支援して参戦しました。この戦争に勝利したことで彼はウィーン体制を支えてきたロシアとオーストリアの連携を断ち切りヨーロッパの国際政治における調停者としての地位を高めました。
- イタリア統一戦争(1859年): イタリアの統一を目指すサルデーニャ王国の首相カヴールと密約を結びオーストリアとの戦争を支援しました。その見返りとしてフランスはサヴォイアとニースを獲得しました。
- アロー戦争(1856-1860): イギリスと共に清朝中国に出兵し北京を占領してさらなる開港と通商の自由を認めさせました。
- インドシナ出兵(1858年): ベトナムにおけるカトリック宣教師の殺害を口実にスペインと共に出兵しサイゴンを占領して後のフランス領インドシナ連邦形成の第一歩を記しました。
- メキシコ出兵(1861-1867): 彼の外交政策の中で最大の失敗となったのがメキシコへの軍事介入です。アメリカが南北戦争で介入できない隙を突き彼はメキシコに傀儡政権を樹立しようと試みましたが、メキシコ民衆の激しい抵抗と南北戦争終結後のアメリカの圧力により屈辱的な撤退を余儀なくされました。
この一連の積極的でしばしば無謀な対外政策はフランスの国力を消耗させ、また多くの国々に不信感を抱かせました。特に彼がイタリアやドイツのナショナリズムを支援したことは、やがてフランス自身の国境に強力な統一国家を生み出すという自らの首を絞める結果を招きます。
そして1870年プロイセンの首相ビスマルクの巧みな外交的挑発に乗りフランスはプロイセンとの間で普仏戦争を開始します。しかし周到な準備を整えたプロイセン軍の前にフランス軍はセダンの戦いで壊滅的な敗北を喫しナポレオン3世自身が捕虜となるという屈辱的な結末を迎えました。
この報がパリに伝わると民衆は蜂起し帝政の廃止と共和政の復活を宣言しました(第三共和政)。第二帝政はその誕生と同じように軍事的な敗北によってあっけなく崩壊したのです。
結論としてナポレオン3世の第二帝政は権威主義的な統治の下でフランスの近代的な産業化を実現するという成果を上げました。しかしその支配の正統性を対外的な栄光の追求に過度に依存したため外交的な失敗が即座に体制の崩壊に直結するという脆弱性を抱えていました。彼の時代はフランスが近代社会へと移行していく重要な過渡期であり、その栄光と失敗の両方がその後の第三共和政の歴史を深く規定していくことになります。
2. クリミア戦争
19世紀半ば30年以上にわたってヨーロッパの国際秩序を辛うじて維持してきたウィーン体制は、その内部矛盾によってもはや崩壊寸前の状態にありました。このもろくなった国際システムに最後の一撃を加え列強間のパワーバランスを根本的に再編成する決定的な転換点となったのが、1853年から1856年にかけて黒海周辺を主戦場として繰り広げられたクリミア戦争です。ロシアが衰退しつつあったオスマン帝国の領土をめぐって南下政策を推し進めたのに対し、これを阻止しようとするイギリスとフランスがオスマン帝国側について参戦したこの戦争は、一見すると伝統的な「東方問題」の一環に過ぎないように見えます。しかしその本質と帰結ははるかに重大でした。この戦争はウィーン体制を支えてきた保守的な君主国間の連帯(特にロシアとオーストリアの同盟)を完全に破壊し、ヨーロッパに国益が剥き出しで衝突する新しい国際政治の時代を到来させました。そしてこの権力の真空状態こそがそれまで抑えつけられてきたイタリアとドイツの統一運動が一気に本格化することを可能にする歴史の扉を開いたのです。
2.1. 戦争の原因:「東方問題」と聖地管理権問題
クリミア戦争の根底には18世紀以来ヨーロッパの国際政治を揺るがし続けてきたいわゆる「東方問題」がありました。これはかつてヨーロッパを震撼させたオスマン・トルコ帝国が18世紀以降その国力を著しく衰退させ「瀕死の病人」と揶揄されるようになる中で、その広大な領土と利権をヨーロッパの列強がいかに分割あるいは維持するのかをめぐる複雑な国際問題を指します。
この東方問題における主要なアクターは以下の通りでした。
- ロシア: 皇帝ニコライ1世の下で不凍港を求めて黒海から地中海へと抜けるボスポラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権、さらにはその支配権を獲得しようとする「南下政策」を強力に推し進めていました。その大義名分としてロシアはオスマン帝国内に住むギリシア正教徒の保護権を主張していました。
- イギリス: 世界最大の海洋帝国であったイギリスはロシアが地中海に進出しインドへの最短ルート(スエズ)を脅かすことを国益に対する最大の脅威と考えていました。そのためイギリスの基本政策はロシアの南下を阻止するためのオスマン帝国の領土保全でした。
- フランス: ナポレオン3世は国内のカトリック教徒の支持を得るためまた国際的な威信を高めるため東方問題への積極的な介入を狙っていました。
- オーストリア: 多民族国家であるオーストリアはオスマン帝国内のスラブ系民族のナショナリズムが自国領内のスラブ系民族に波及することを恐れ、ロシアのバルカン半島への進出に強い警戒感を抱いていました。
この複雑な利害関係の中で戦争の直接的な引き金となったのがパレスチナにおけるキリスト教の「聖地管理権」をめぐるフランスとロシアの対立でした。ナポレオン3世がオスマン帝国のスルタンに圧力をかけそれまでギリシア正教徒に与えられていた聖地管理権をカトリック教会に認めさせると、これに激怒したロシア皇帝ニコライ1世はオスマン帝国内の全ギリシア正教徒の保護権を要求し、オスマン帝国がこれを拒否するとその領土であるモルダヴィアとワラキアに軍隊を進駐させました。
これに対しオスマン帝国は1853年ロシアに宣戦布告。当初は両国の間の局地的な戦争でしたが翌1854年ロシアの黒海艦隊がオスマン艦隊を撃破すると、イギリスとフランスはロシアの南下を阻止するためオスマン帝国側に立って参戦することを決定しました。
2.2. 戦争の経過と「近代戦争」の側面
英仏連合軍は黒海のクリミア半島に上陸しロシアの重要な黒海艦隊の基地であるセヴァストーポリ要塞を包囲しました。このセヴァストーポリ要塞をめぐる攻防戦が戦争の中心となりました。
クリミア戦争はいくつかの点で「近代戦争」の最初の現れと見なされています。
- 新しい技術の導入: 蒸気船が兵士や物資の輸送に大規模に使用されまた電信(テレグラフ)が戦場のニュースを本国に迅速に伝えるために初めて利用されました。
- 報道と世論: イギリスの『タイムズ』紙の特派員ウィリアム・ラッセルは戦場から生々しいレポートを送り戦争の悲惨な実態とイギリス軍の無能な指揮を白日の下に晒しました。これは報道が世論を動かし政府の政策に影響を与える最初の本格的な事例となりました。
- 看護活動の改革: 戦場における負傷兵の劣悪な衛生状態が報道されるとイギリスの看護婦フローレンス・ナイチンゲールは看護婦団を組織して現地に赴き野戦病院の衛生環境を劇的に改善させ多くの兵士の命を救いました。彼女の活動は「近代看護」の基礎を築いたとされています。
戦争は約1年間にわたるセヴァストーポリ要塞の包囲戦の末1855年に要塞が陥落し連合国側の勝利に終わりました。ロシアは国内の混乱もあり和平を受け入れざるを得ませんでした。
2.3. 戦争の帰結と国際関係の再編
1856年パリ条約が結ばれクリミア戦争は終結しました。
- パリ条約の内容:
- ロシアは占領地をオスマン帝国に返還し黒海に軍艦を置くことを禁じられました(黒海の中立化)。これによりロシアの南下政策は大きく後退しました。
- オスマン帝国の領土保全と独立が列強によって保障されました。
- モルダヴィアとワラキアは列強の共同保護下に置かれ後のルーマニアの独立の基礎が築かれました。
このクリミア戦争の結果はヨーロッパの国際関係を根底から覆しウィーン体制を完全に終わらせました。
- ウィーン体制の崩壊: この戦争で最も重要な帰結はオーストリアの孤立でした。オーストリアは自国のバルカン半島での利害からロシアを支援せず恩を仇で返すような敵対的な中立を守りました。これに激怒したロシアはオーストリアとの神聖同盟以来の協力関係を完全に断ち切りました。かつてデカブリストの乱の鎮圧を支援してくれたロシアとの同盟を失ったオーストリアはヨーロッパで外交的に孤立し、もはやイタリアやドイツのナショナリズム運動を抑えつける力を失ってしまいました。
- ロシアの改革への道: 戦争の敗北は皇帝ニコライ1世の死と相まってロシアの後進性を誰の目にも明らかにしました。新しい皇帝アレクサンドル2世は国家の近代化の必要性を痛感し農奴解放令(1861年)をはじめとする一連の大改革(「上からの近代化」)に着手することになります。
- イタリア・ドイツ統一への好機: ウィーン体制の国際的な警察機構が崩壊しオーストリアが孤立したことはイタリアとドイツの統一を目指すサルデーニャ王国とプロイセンにとって千載一遇の好機をもたらしました。彼らはこの国際的な権力の真空状態を利用してそれぞれの統一事業を一気に推し進めていくことになるのです。
結論としてクリミア戦争はヨーロッパの列強がウィーン体制の保守的な理念を完全に捨て去り剥き出しの国益(リアルポリティーク)に基づいて行動する新しい時代の幕開けを告げる戦争でした。それはロシアの南下を挫折させオーストリアを孤立させそしてイタリアとドイツという二つの新しい国民国家が誕生するための国際的な舞台を整えた極めて重要な歴史の転換点だったのです。
3. イタリアの統一
19世紀半ばのイタリアはウィーン会議以来「単なる地理的表現」と揶揄されるように多くの小国に分裂し、その北東部はオーストリアの直接支配下にありました。フランス革命とナポレオンの支配はイタリアの人々の心に初めて「イタリア」という一つの国民としての意識を植え付けましたがウィーン体制の下でその統一への願いは厳しく抑圧されていました。しかし1848年革命の失敗を乗り越え19世紀後半イタリアの統一運動すなわち「リソルジメント(国家復興)」はついにその目標を達成します。この偉業はしばしば三人の英雄的な人物の功績として語られます。すなわち若き理想に燃える革命家ジュゼッペ・マッツィーニ(「魂」)、北の小国サルデーニャを率いた現実主義的な政治家カミッロ・カヴール(「頭脳」)、そして南イタリアを解放した情熱的な軍事指導者ジュゼッペ・ガリバルディ(「剣」)です。彼らの異なるアプローチが時に協力し時に対立しながらクリミア戦争後の国際情勢を巧みに利用することで、分裂した半島は一つの「イタリア王国」として生まれ変わったのです。
3.1. リソルジメントの初期:マッツィーニと青年イタリア
1820年代から30年代にかけてイタリアの統一と自由を求める運動は主に「カルボナリ(炭焼党)」という秘密結社によって担われていました。しかし彼らの散発的な蜂起はメッテルニヒ率いるオーストリア軍の弾圧の前にことごとく失敗に終わりました。
この初期の運動の失敗を教訓に新しいアプローチを提唱したのがジェノヴァ出身の革命思想家ジュゼッペ・マッツィーニ(1805-1872)でした。彼はカルボナリの秘密主義的でエリート主義的な性格を批判し統一運動は広く民衆に開かれた大衆的な運動でなければならないと考えました。
1831年亡命先のマルセイユで彼は「青年イタリア」という新しい革命組織を結成します。
- 青年イタリアの理念: その綱領は明確でした。外国勢力(特にオーストリア)をイタリア半島から駆逐し君主制ではなく神と人民に基づく統一された民主的な「イタリア共和国」を樹立すること。彼はイタリアの再生という使命をロマン主義的な情熱と宗教的な献身の言葉で語り多くの若者たちの心を捉えました。
マッツィーニの組織した蜂起はいずれも失敗に終わりましたが彼の思想は国境を越えて広まりアイルランドやポーランドのナショナリズム運動にも影響を与えました。そして何よりも彼の尽きることのない情熱的な活動はイタリア統一という理念をイタリアの人々の心の中に深く植え付けリソルジメントの精神的な父となりました。
1848年革命ではローマで市民が蜂起し教皇を追放してマッツィーニを指導者とする短命な「ローマ共和国」が樹立されましたが、これもフランスのルイ・ナポレオンが派遣した軍隊によって鎮圧されてしまいました。
3.2. カヴールの現実主義的外交と統一戦争
1848年革命の失敗はイタリアの愛国者たちに重要な教訓を与えました。それはイタリアの統一は民衆の蜂起という理想主義的な手段だけでは達成できず強力な軍事力と巧みな外交戦略を持つ指導的な国家が必要であるという認識でした。
そしてその指導的な国家としての役割を担うことになったのが北イタリアのサルデーニャ王国(正式にはサルデーニャ・ピエモンテ王国)でした。サルデーニャは1848年の対オーストリア戦争に敗れたもののイタリアで唯一憲法を維持し自由主義的な体制を守っていた国家でした。
1852年このサルデーニャ王国の首相に就任したのがカミッロ・カヴール(1810-1861)です。彼は貴族でありながらイギリスの議会政治と経済学を学んだ現実主義的な政治家でした。彼の目標はサルデーニャ王国を中心としてオーストリアの勢力を北イタリアから駆逐し立憲君主制の統一イタリアを建設することでした。
その目的を達成するため彼はまず国内の近代化(富国強兵)に着手します。鉄道を敷設し産業を育成し軍隊を近代化しました。
そして彼はイタリアの統一はイタリアだけの力では不可能であり外国の大国の支援が不可欠であると考えそのパートナーとしてフランス皇帝ナポレオン3世に目をつけました。
- クリミア戦争への参戦: 彼は来るべき対オーストリア戦争で英仏の歓心を得るため直接の利害関係がなかったにもかかわらずクリミア戦争にサルデーニャ軍を派遣しました。これにより彼は戦後のパリ講和会議に席を得ることに成功しそこでイタリアがオーストリアの圧政下で苦しんでいる状況を国際社会に訴えナポレオン3世の同情を引くことに成功しました。
- プロンビエールの密約: 1858年カヴールはフランスの保養地プロンビエールでナポレオン3世と秘密会談を行い密約を結びました。その内容はサルデーニャがオーストリアとの戦争を始めた場合フランスが軍事支援を行う、その見返りとしてサルデーニャはフランス語圏のサヴォイアとニースをフランスに割譲するというものでした。
この密約に基づきカヴールは巧みにオーストリアを挑発し1859年オーストリアに宣戦布告させました。これがイタリア統一戦争(第二次イタリア独立戦争)です。
フランス・サルデーニャ連合軍はマジェンタ、ソルフェリーノの戦いでオーストリア軍を破りロンバルディアを解放しました。このソルフェリーノの戦いの惨状を目の当たりにしたスイス人アンリ・デュナンが後に赤十字社を創設したことは有名です。
しかしナポレオン3世はプロイセンの介入を恐れまたフランス国内のカトリック教徒が教皇領の危機に反発したため突如としてオーストリアと単独でヴィラフランカの和約を結び戦争から離脱してしまいました。この裏切りにカヴールは激怒しましたがサルデーニャはこの戦争でロンバルディアを獲得しました。さらに中部イタリアの諸公国でも革命が起こり住民投票の結果サルデーニャ王国への併合が決定しました。
3.3. ガリバルディの遠征とイタリア王国の成立
カヴールが北と中部の統一を進めている頃南イタリアではもう一人の英雄が劇的な行動を起こしていました。ニース出身の軍事的天才ジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)です。彼は青年イタリアのメンバーであり生涯を共和主義と民族解放のために捧げたロマン主義的な革命家でした。
1860年5月ガリバルディは「千人隊(赤シャツ隊)」と呼ばれる約千人の義勇兵を率いてジェノヴァからシチリア島へと遠征しました。
- 両シチリア王国の征服: 彼の遠征は奇跡的な成功を収めました。シチリアの農民たちの支援を得て彼はブルボン朝が支配する両シチリア王国の軍隊を打ち破りシチリア全土を解放しました。さらに彼は本土に上陸し首都ナポリにも無血入城を果たしました。
ガリバルディの次の目標はローマへと進軍し教皇の世俗支配を終わらせマッツィーニの夢であった共和制の統一イタリアを樹立することでした。
しかしこの動きはサルデーニャ首相カヴールを深刻なジレンマに陥らせました。もしガリバルディがローマを攻撃すればローマ教皇の守護者を自任するフランスのナポレオン3世が軍事介入しすべてが水泡に帰す可能性がありました。またカヴールはガリバルディが共和制を樹立することも望んでいませんでした。
カヴールは先手を打ちサルデーニャ軍を南下させ教皇領の一部を占領しガリバルディの進軍を阻止しました。
ここに二人の英雄の歴史的な会見が行われます。ガリバルディはイタリアの内戦を避けるという大局的な判断から自らの共和制の夢を断念し征服した南イタリアの全領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上しました。
このガリバルディの「偉大な自己犠牲」によってイタリアの南北は統一されました。そして1861年3月トリノで最初のイタリア議会が開催され「イタリア王国」の成立が宣言されました。国王にはサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位しました。
しかしこの時点ではまだオーストリアが支配するヴェネツィアとフランス軍が守備する教皇領(ローマ)が未回収のままでした(未回収のイタリア)。これらの地域の併合はその後のプロイセン主導のドイツ統一の動きと連動して達成されることになります。1866年の普墺戦争の際にヴェネツィアを、1870年の普仏戦争の際にローマを併合しここにイタリアの統一はようやく完成したのです。
結論としてイタリアのリソルジメントはマッツィーニの理想主義が人々の心を鼓舞しカヴールの現実主義的な外交が国際的な環境を整えそしてガリバルディの英雄的な行動がそれを実現するという異なる才能の奇跡的な協奏曲でした。その結果生まれた統一イタリアは多くの課題(南北の経済格差、教皇との対立など)を抱えながらも近代ヨーロッパの主要な国民国家の一員としてその第一歩を踏み出したのです。
4. ドイツの統一とビスマルク
19世紀半ばのドイツはフランクフルト国民議会の失敗の後再び政治的な停滞と分裂の時代に逆戻りしていました。ドイツ連邦の枠組みの中でオーストリアとプロイセンという二つの大国が互いに睨み合い統一への道は閉ざされているかに見えました。しかしこの膠着状態を打ち破りわずか10年足らずの間にドイツの統一を鉄と血によって成し遂げたのがプロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)でした。彼はユンカー(地主貴族)出身の徹底した保守主義者であり自由主義や議会主義を軽蔑していましたが、ドイツ国民の間に燃え盛るナショナリズムのエネルギーを巧みに利用しそれをプロイセン中心の君主制国家の建設という自らの目的のために動員しました。彼の展開した権謀術数の限りを尽くす現実主義的な外交(リアルポリティーク)と周到に準備された三度の戦争は19世紀のヨーロッパ史における最も鮮やかでそして最も衝撃的な国家創造のドラマでした。
4.1. ビスマルクの登場と「鉄血政策」
1861年プロイセンの国王に即位したヴィルヘルム1世は軍隊の近代化と軍備の拡張を計画しましたが、その予算案は自由主義者が多数を占める議会の激しい反対に遭い承認を得られませんでした。国王と議会の対立が深刻化し国王が退位まで考えるという政治的危機の中でこの難局を打開するための切り札として駐仏大使であったビスマルクが1862年首相に任命されました。
議会に登場したビスマルクはその所信表明演説で次のように述べ議員たちを驚愕させまた憤慨させました。
「ドイツが見つめているのはプロイセンの自由主義ではなくその軍備である。…現代の大きな問題は言論や多数決によってではなく(それは1848年の間違いであった)、鉄と血によってのみ解決される」。
この「鉄血演説」は彼の政治姿勢を端的に示すものでした。すなわち彼は議会の予算承認を無視してでも軍備拡張を断行しその軍事力を背景としてオーストリアをドイツから排除しプロイセン主導のドイツ統一を実現するという固い決意を表明したのです。彼は実際にその後4年間にわたって憲法を無視した「無予算統治」を続け軍制改革を断行しました。
この改革によってプロイセン軍は参謀総長モルトケの下で鉄道を利用した迅速な兵員輸送や後装式の撃針銃(ドライゼ銃)といった最新の技術を導入したヨーロッパ最強の軍隊へと変貌を遂げていきました。
4.2. ドイツ統一への三段階の戦争
強力な軍隊を手にしたビスマルクは周到な外交的準備と挑発によってドイツ統一を達成するための三つの限定的な戦争を仕掛けていきます。
第一段階:デンマーク戦争(1864年)
ビスマルクが最初の標的としたのはデンマークでした。ドイツ連邦の北に位置するシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の帰属をめぐってデンマークとの間に紛争が起こると、ビスマルクは宿敵であるはずのオーストリアを巧みに誘い共同でデンマークと戦いました。
プロイセン・オーストリア連合軍はデンマークに圧勝し両公国は両国の共同管理下に置かれました。しかしビスマルクの真の狙いはこの両公国の管理方法をめぐって意図的にオーストリアとの対立を作り出し将来の普墺戦争の口実を準備することにありました。
第二段階:普墺戦争(ふおうせんそう、1866年)
ビスマルクはオーストリアとの決戦に臨むにあたって周到な外交的根回しを行いました。彼はフランスのナポレオン3世に領土的野心をちらつかせて中立を約束させ、またイタリア王国とはヴェネツィアの割譲を条件に軍事同盟を結びオーストリアを外交的に完全に孤立させました。
そして1866年シュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を口実にプロイセンはオーストリアに宣戦布告しました。戦争はプロイセンの圧倒的な勝利に終わりました。鉄道を駆使して迅速に展開し連射速度の速い撃針銃で武装したプロイセン軍は、ケーニヒグレーツ(サドヴァ)の戦いでオーストリア軍をわずか7週間で撃破しました。
戦争の後ビスマルクはオーストリアに対して寛大な講和条約を結びました。彼はオーストリアからの領土割譲は求めずただドイツの問題から手を引くことだけを要求しました。これは将来フランスとの戦争になった場合にオーストリアの復讐心を煽らないための計算された措置でした。
この戦争の結果ドイツ連邦は解体され1867年プロイセンを盟主としオーストリアを除いた北ドイツの22カ国からなる「北ドイツ連邦」が結成されました。憲法が制定されプロイセン王を首長としビスマルクがその宰相となりました。ドイツ統一はここにその大部分が達成されたのです。
第三段階:普仏戦争(ふふつせんそう、1870-1871年)
ドイツ統一への最後の障害は南ドイツのカトリック諸国(バイエルンなど)がプロテスタントのプロイセン主導の統一にためらいを感じていたことと、ドイツに強力な統一国家が誕生することを恐れるフランスのナポレオン3世の存在でした。
ビスマルクはこの二つの問題を一挙に解決するため南ドイツのナショナリズムを煽り彼らをプロイセンの側に引き込むための共通の敵としてフランスとの戦争を計画しました。
1870年スペインの王位継承問題をめぐってフランスとプロイセンの関係が緊張すると、ビスマルクはプロイセン国王がフランス大使に送った電報の内容を意図的に編集しフランスを侮辱するような挑発的な形で公表しました(エムス電報事件)。
この挑発に乗せられたナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告。しかしこれは完全にビスマルクの罠でした。南ドイツの諸国はナショナリズムに駆られてプロイセン側に立って参戦しプロイセン軍は周到な準備の下にフランスに侵攻しました。
戦争はまたしてもプロイセンの圧勝に終わりました。1870年9月セダンの戦いでフランス軍は壊滅的な敗北を喫し皇帝ナポレオン3世自身が捕虜となりました。
4.3. ドイツ帝国の成立
セダンの敗北の報がパリに伝わると第二帝政は崩壊し国防政府が戦争を継続しましたがやがてパリもプロイセン軍に包囲され降伏しました。
そして1871年1月18日ビスマルクはフランスにとって最大の屈辱の演出を行います。彼はドイツの諸侯をかつてルイ14世がその栄華を誇ったヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」に集め、そこでプロイセン王ヴィルヘルム1世を初代「ドイツ皇帝」として戴冠させたのです。
ここにオーストリアを除いたプロイセン中心の統一ドイツ国家「ドイツ帝国」が誕生しました。
講和条約(フランクフルト条約)でフランスはアルザス・ロレーヌ地方をドイツに割譲し巨額の賠償金を支払わされました。このアルザス・ロレーヌの割譲はフランス国民の心にドイツへの深い復讐心を植え付けその後の第一次世界大戦へと繋がる長期的な対立の火種となりました。
結論としてドイツの統一は1848年のフランクフルト国民議会のような自由主義的な下からのアプローチではなくビスマルクという一人の傑出した保守的な政治家の冷徹な現実主義とプロイセンの強力な軍事力によって上から達成されました。その結果生まれたドイツ帝国は立憲君主制の外見をとりながらもその実態は皇帝と首相(ビスマルク)の権力が極めて強く軍国主義的で権威主義的な性格を持つ国家でした。このヨーロッパの中央に突如として出現した強力でダイナミックな新しい帝国はヨーロッパの勢力均衡を根底から覆しその後の世界の歴史を大きく左右していくことになるのです。
5. アメリカの南北戦争
19世紀半ばヨーロッパが国民国家の形成をめぐる動乱に揺れていた頃大西洋の彼方アメリカ合衆国もまた自らの「国民」とは何か、そして国家のあり方をめぐる深刻な内的な対立に直面していました。建国以来アメリカ社会が抱え込んできた最大の矛盾、すなわち「自由と平等を謳う共和国」と「奴隷制という非人間的な制度」との両立不可能性がついに限界に達したのです。北部と南部。工業化が進む商工業の社会と奴隷制プランテーションを基盤とする農業社会という全く異なる二つの社会経済システムは、西部への領土拡大と共に奴隷制の是非をめぐって決定的に対立しました。そして1861年この対立は国家を二つに引き裂く血腥い内戦「南北戦争」(1861-1865)へと爆発します。この戦争は近代史上最初の本格的な総力戦の一つでありその帰結は奴隷制の廃止と連邦の再統一を達成し、アメリカを単なる州の連合体から強力な中央集権的な国民国家へと変貌させその後の世界的な大国への道を切り拓く第二のアメリカ革命とも呼ぶべき画期的な出来事でした。
5.1. 対立の根源:北部と南部の相違
南北戦争の根本的な原因は北部と南部が経済、社会、そして価値観のあらゆる面で全く異なる社会として発展していたことにあります。
- 北部の社会:
- 経済: 19世紀前半北部では産業革命が進展しマサチューセッツなどのニューイングランド地方を中心に繊維工業が発展しました。商工業が経済の中心でありヨーロッパからの移民を含む自由な賃金労働者がその担い手でした。
- 政治思想: 北部の産業資本家たちは自国の工業をイギリスの安価な製品から守るための「保護貿易」を主張しました。また国家の統一と強力な中央政府(連邦政府)を支持する傾向がありました。
- 奴隷制への態度: 北部では奴隷制は早くから廃止されており19世紀半ばにはキリスト教の人道主義的な観点から奴隷制を罪悪と見なす「奴隷制廃止運動(アボリショニズム)」が高まりを見せていました(ギャリソン、ストウ夫人『アンクル・トムの小屋』など)。
- 南部の社会:
- 経済: 南部の経済はタバコ、そして19世紀以降は特に「綿花(コットン)」の大規模なプランテーション農業に全面的に依存していました。イギリスの綿工業の発展は南部の綿花への需要を爆発的に増大させこの綿花生産を支えていたのが約400万人にのぼるアフリカ系の黒人奴隷の労働力でした。
- 政治思想: 南部のプランテーション経営者(プランター)たちは自らの綿花を有利に輸出するため「自由貿易」を主張しました。また彼らは中央の連邦政府の権限を制限し各州が独自の権限(州権)を持つべきであるとする「州権主義」を強く支持し、奴隷制という「南部の特殊な制度」を守ろうとしました。
- 奴隷制への態度: 南部の白人社会は奴隷制を単なる経済システムとしてだけでなく白人の優位性を保証する社会秩序の根幹であると見なしていました。
5.2. 西部への領土拡大と対立の激化
この北部と南部の対立を決定的に先鋭化させたのが西部への領土拡大の問題でした。アメリカが西へ西へとその版図を広げ新しい州が連邦に加盟するたびにその新しい州を奴隷制を認める「奴隷州」とするか認めない「自由州」とするかという問題が連邦議会での深刻な政治問題となりました。
これは上院での奴隷州と自由州の間の政治的なパワーバランスを左右する死活問題だったからです。
- ミズーリ協定(1820年): ミズーリ準州が奴隷州として連邦に加盟することを求めた際北部は強く反対しました。妥協の結果ミズーリ州の加盟を認める代わりにマサチューセッツから分離したメイン州を自由州として加え、またミズーリ州の南の境界線である北緯36度30分以北のルイジアナ買収地には今後奴隷制を認めないという協定が結ばれました。
この協定は一時的に対立を緩和しましたが問題の根本的な解決にはなりませんでした。1850年代に入ると対立は再び激化します。
- カンザス・ネブラスカ法(1854年): この法律はミズーリ協定を事実上覆しカンザスとネブラスカの新しい準州が奴隷州となるか自由州となるかはその地域の住民投票によって決定する(人民主権、あるいは住民主権の原則)と定めました。これによりカンザスでは奴隷制支持派と反対派がなだれ込み流血の内戦状態(「血を流すカンザス」)となりました。
- 共和党の結成: この法律に強く反発した北部の奴隷制拡大反対派は1854年新しい政党である「共和党」を結成しました。共和党は奴隷制のこれ以上の西部への拡大に断固として反対することをその党是としました。
- ドレッド・スコット判決(1857年): 連邦最高裁判所は奴隷のドレッド・スコットが自由州に滞在したことを理由に自由を求めた裁判で、黒人は合衆国の市民ではなくしたがって裁判を起こす権利を持たないという判決を下しました。さらに奴隷は所有者の財産であり連邦議会が準州で奴隷制を禁止することは財産権を侵害する違憲行為であるという判断を示しました。この判決は南部の奴隷所有者を喜ばせましたが北部の世論を激昂させました。
- ジョン・ブラウンの蜂起(1859年): 急進的な奴隷制廃止論者ジョン・ブラウンが奴隷の武装蜂起を促すためバージニア州の連邦政府の武器庫を襲撃する事件が起こりました。彼は捕らえられ処刑されましたが北部では殉教者として英雄視され南部ではテロリストとして憎悪されるなど両者の感情的な亀裂はもはや修復不可能なレベルに達しました。
5.3. リンカーンの当選と南北戦争の勃発
この一触即発の状況の中で行われた1860年の大統領選挙で共和党の候補者エイブラハム・リンカーンが当選しました。彼は奴隷制そのものの即時廃止を掲げたわけではありませんでしたがその西部への拡大には明確に反対していました。
南部の奴隷州はリンカーンの当選を自分たちの生活様式と財産(奴隷)への直接的な脅威と受け止めました。そして1860年12月サウスカロライナ州を皮切りに南部の11州が次々と合衆国からの脱退を宣言しジェファソン・デヴィスを大統領とする「アメリカ連合国(南部連合)」を結成しました。
リンカーンは合衆国からの脱退は憲法上許されない反逆行為であるとして連邦の統一を維持する断固たる姿勢を示しました。
そして1861年4月南軍がサウスカロライナ州の連邦のサムター要塞を砲撃したことをきっかけについに南北戦争が勃発しました。
当初南部はリー将軍などの優れた指揮官に恵まれまた兵士の士気も高く優勢に戦いを進めました。しかし戦争が長期化するにつれて国力の差が歴然と現れてきます。
- 北部の優位性: 北部は人口(2200万人対900万人、うち350万人は奴隷)、工業生産力、鉄道網、そして海軍力のすべての面で南部を圧倒していました。
- 奴隷解放宣言(1863年): 戦争の大義名分をより明確にし内外の支持を得るためリンカーンは1863年「奴隷解放宣言」を発布しました。これは南部連合支配下の奴隷を解放するという宣言であり戦争の目的を連邦の維持から奴隷制の廃止へと転換させる重要な意味を持ちました。これによりイギリスなどのヨーロッパ諸国が南部に介入する名分は失われまた解放された黒人たちが北軍に参加する道が開かれました。
- ゲティスバーグの戦い: 同年7月ゲティスバーグの戦いで北軍は南軍に決定的な勝利を収めこれが戦争全体の転換点となりました。この戦いの後リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」という有名な一節で知られるゲティスバーグ演説を行い民主主義の理念を改めて世界に示しました。
その後北軍のグラント将軍やシャーマン将軍は南部の経済基盤を徹底的に破壊する焦土作戦を展開し、1865年4月南軍のリー将軍が降伏して4年間にわたる戦争は北部の勝利に終わりました。しかしその直後リンカーンは南部の同調者の俳優によって暗殺されてしまいます。
結論として南北戦争は60万人以上の死者を出したアメリカ史上最も悲惨な戦争でした。しかしこの戦争は合衆国からの脱退の権利を否定し「連邦の統一」を守り抜くと同時に「奴隷制」という建国以来の最大の矛盾を解決しました。これによりアメリカは強力な中央政府の下に統一された国民国家として再出発しその後の西部開拓と急速な工業化を通じて世界的な大国へと飛躍していくための基礎を築き上げたのです。
6. アヘン戦争と南京条約
19世紀前半ヨーロッパがウィーン体制の動揺と産業革命の進展という大きな変動の中にあった頃、東アジアでは清朝中国が依然として世界の中心に君臨する巨大な帝国として安定を享受していました。清朝はすべての外国を中華皇帝の徳を慕って朝貢する格下の存在と見なす伝統的な華夷秩序の中に閉じこもり、ヨーロッパとの貿易も広州一港に限定する極めて制限的な管理貿易(広東貿易)を行っていました。しかしこの中国中心の静かな世界秩序は産業革命を経て圧倒的な工業力と軍事力を手にしたイギリスの自由貿易の要求の前に粉々に打ち砕かれる運命にありました。貿易赤字に悩むイギリスがその解決策としてインド産のアヘン(麻薬)を中国に密輸するという非人道的な手段に訴えた時、両国の対立は決定的なものとなりました。1840年に始まった「アヘン戦争」は近代西洋の軍事力が伝統的なアジアの帝国をいかにたやすく打ち破りうるかを示し、その結果として結ばれた「南京条約」は中国に100年以上にわたる「屈辱の世紀」を強いる不平等条約の時代の幕開けとなったのです。
6.1. 広東貿易の矛盾とアヘンの流入
18世紀後半からイギリスでは中国産の茶の需要が爆発的に高まり茶の輸入が急増しました。しかし当時の中国は自給自足的な経済が完成しておりイギリスの主要な輸出品であった毛織物などの工業製品をほとんど必要としていませんでした。
そのためイギリスは茶の輸入代金を支払うために大量の銀を中国に輸出しなければならず、イギリスから中国への一方的な銀の流出すなわち深刻な貿易赤字に悩まされていました。
この貿易不均衡を是正し流出した銀を取り戻すための「最終兵器」としてイギリス東インド会社が目をつけたのが植民地インドで生産されるアヘンでした。アヘンの吸引は清朝によって厳しく禁止されていましたがイギリスの商人たちは中国の腐敗した役人や秘密結社と結託し組織的なアヘンの密貿易を展開しました。
この三角貿易は極めて巧妙に機能しました。
- イギリスはランカシャー産の綿織物をインドに輸出します。
- インドではその代金でアヘンを栽培・生産します。
- そのアヘンを中国に密輸しその代金として銀を受け取ります。
- そしてその銀で広州で茶を買い付けイギリスに持ち帰るのです。
このアヘンを介した三角貿易によってイギリスは長年の貿易赤字を一気に黒字へと転換させることに成功しました。
しかしその代償として中国社会は深刻な危機に陥りました。アヘンの蔓延は数十万人数百万人規模の中毒者を生み出し人々の心身を蝕み社会の活力を奪いました。またアヘンの輸入代金として今度は中国から大量の銀が国外に流出し始めました。これにより銀の価格が高騰し(銀貴銭賤)銀で納税しなければならない農民の負担が激増するなど経済的な混乱も深刻化しました。
6.2. 林則徐のアヘン厳禁と戦争の勃発
この亡国の危機に強い危機感を抱いた清朝の道光帝は1838年、有能で清廉な官僚であった林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣しアヘンの密貿易を徹底的に取り締まらせることを決意します。
欽差大臣(特命全権大使)として広州に着任した林則徐は断固たる態度で改革に臨みました。彼はまずイギリスの商人たちにすべてのアヘンを没収するよう命令し彼らがこれを拒否すると外国商館を封鎖して彼らを屈服させました。そして没収した2万箱以上のアヘンを石灰と混ぜて海水に溶かし廃棄するという断固たる処分を行いました。
また彼はイギリスのヴィクトリア女王に書簡を送りアヘン貿易の非道徳性を説きその禁止を訴えました。
しかし林則徐のこの正義感に基づく行動はイギリス本国でアヘン貿易の利益に深く関わっていた商人や政治家たちの激しい怒りを買いました。彼らは林則徐の措置をイギリスの自由な通商権と私有財産への侵害であると主張し中国に「報復」するための軍隊の派遣を政府に強く要求しました。
イギリス議会ではグラッドストンなど一部の良識派がアヘン貿易の不道徳性を理由に開戦に反対しましたが最終的にはわずかな票差で遠征軍の派遣が決定されました。
1840年蒸気船を含む近代的な艦隊と陸戦部隊からなるイギリスの遠征軍が中国沿岸に到着しアヘン戦争が勃発しました。
戦争の経過は一方的なものでした。産業革命を経たイギリスの近代的な軍艦と大砲の前には旧式な帆船(ジャンク船)と大砲しか持たない清の水軍は全く歯が立ちませんでした。イギリス軍は沿岸の主要な都市を次々と攻略し長江を遡って内陸の物流の大動脈である大運河との交差点、鎮江を占領し首都北京の喉元である南京に迫りました。
清朝政府はここに至ってようやく抵抗を断念しイギリスの要求を受け入れて和平交渉に応じざるを得なくなりました。
6.3. 南京条約と不平等条約の時代
1842年8月イギリスの軍艦上で清とイギリスの間で南京条約が調印されました。この条約は中国がヨーロッパの国家と対等な国際法の原則に基づいて結んだ最初の条約でしたが、その内容は完全にイギリスの要求を一方的に認める不平等なものでした。
- 南京条約の主な内容:
- 香港島の割譲: イギリスは中国沿岸での貿易と軍事の拠点として香港島を永久に領有することになりました。
- 5港の開港: これまでの広州一港に代わり厦門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海の4港を加えた計5港を開港しイギリス人の居住と貿易を認めること。特に長江の河口に位置する上海はその後の中国貿易の中心地として急速に発展します。
- 賠償金の支払い: 没収されたアヘンの代金と戦費として巨額の賠償金を支払うこと。
- 公行の廃止: 広東貿易を独占していた特許商人組合「公行」を廃止し自由な貿易を認めること。
さらに翌1843年に結ばれた追加条約(虎門寨追加条約)で中国はイギリスに対してさらに二つの重大な主権侵害を認めさせられました。
- 協定関税(関税自主権の喪失): 中国が輸入品にかける関税の税率を中国が自主的に決めることができずイギリスとの協議によって極めて低い水準に固定されること。
- 治外法権(領事裁判権): 中国の開港場で罪を犯したイギリス人を中国の法律で裁くことができずイギリスの領事が本国の法律に基づいて裁判を行う権利を認めること。
- 最恵国待遇: 将来中国が他の外国にイギリスに与えていないより有利な条件を与えた場合、イギリスにも自動的にその最も有利な条件が適用されること。
この南京条約を皮切りにアメリカとフランスも同様の不平等条約(望厦条約、黄埔条約)を清朝に結ばせました。
これらの一連の条約は中国の伝統的な華夷秩序を完全に破壊しました。中華皇帝が世界の中心でありすべての外国は朝貢する蛮夷であるという世界観はもはや通用しなくなり、中国は西洋が主導する不平等な国際関係の網の目に強制的に組み込まれていったのです。関税自主権と司法権という国家主権の重要な部分を失った中国は「半植民地」への道を歩み始めることになります。そして開港と安い外国製品の流入は国内の経済を混乱させまた巨額の賠償金の負担は民衆への増税となって跳ね返り社会不安を増大させました。このアヘン戦争の敗北がもたらした衝撃と混乱こそがそのわずか数年後に中国全土を揺るがす人類史上最大規模の内乱「太平天国の乱」の直接的な引き金となるのです。
7. 太平天国の乱
アヘン戦争の敗北と不平等条約の締結は清朝の権威を著しく失墜させ中国社会に深刻な動揺をもたらしました。巨額の賠償金の支払いのための増税は民衆の生活を圧迫し開港場から流入する安価な外国製の綿製品は伝統的な手工業を破壊し多くの失業者を生み出しました。こうした社会不安と排外的な民族感情が高まる中1851年中国南部の広西省でキリスト教の影響を受けた特異な宗教思想を掲げる大規模な農民反乱が勃発しました。それが「太平天国の乱」(1851-1864)です。この反乱は単なる農民一揆のレベルをはるかに超え一時は中国の南半分の大部分を支配し南京に首都を置く独自の「国家」を樹立するまでに至りました。14年間にわたって続いたこの内乱は2000万人以上の死者を出したと推定される人類史上最も悲惨な内戦の一つであり、その動乱は清朝の支配体制を根底から揺るがしその後の中国の近代史の歩みを決定づける重大な転換点となりました。
7.1. 洪秀全と拝上帝会
太平天国の創始者であり指導者であったのが洪秀全(こうしゅうぜん、1814-1864)という人物です。彼は広東省の客家(はっか)出身の貧しい知識人でした。彼は官僚になるための登竜門である科挙に何度も挑戦しましたがことごとく失敗し失意の中にありました。
精神的に打ちのめされていたある時彼は病の床で不思議な夢を見ます。夢の中で彼は天に昇りそこで父なる威厳ある老人と兄と名乗る人物に出会い地上に蔓延る悪魔を滅ぼす使命を授けられたといいます。
当初この夢の意味を理解できなかった彼ですが数年後以前に広州でプロテスタントの宣教師から受け取っていた漢文のキリスト教のパンフレットを読み返し衝撃を受けます。彼は夢の中の老人がキリスト教の唯一神「ヤハウェ(上帝)」であり兄がイエス・キリストであると確信しました。そして自らをイエスの弟であり地上に神の国を建設する使命を帯びた神の子であると信じるようになったのです。
この極めて独自に解釈されたキリスト教の教義に中国の伝統的な儒教、仏教、道教の要素を混ぜ合わせた新しい宗教を創始した洪秀全は1843年「拝上帝会」という宗教結社を組織し布教活動を開始しました。
彼の教えは「神の前ではすべての人間は平等な兄弟姉妹である」と説き偶像崇拝を厳しく禁じました。この教えはアヘン戦争後の混乱の中で貧困と差別に苦しんでいた農民や鉱山労働者、そして彼と同じ客家の人々の心を強く捉え拝上帝会は広西省の山間部で急速に信者を増やしていきました。
7.2. 太平天国の建国とその理想
清朝の地方政府がこの不穏な宗教結社を弾圧しようとすると拝上帝会は1851年1月広西省の金田村で武装蜂起し国号を「太平天国」と定めました。「太平」とは中国古来の理想社会を意味します。
洪秀全は自らを「天王」と称し彼の軍隊(太平軍)は厳格な規律と熱狂的な信仰心で結束し清の腐敗した正規軍(八旗、緑営)を次々と打ち破り北上を続けました。彼らは辮髪を切り落とし長髪にしたことから「長髪賊」とも呼ばれました。
1853年太平軍は長江中流域の要衝である南京を占領しここを「天京(てんけい)」と改称して首都と定めました。ここに清朝と中国を二分する巨大な反乱国家が出現したのです。
太平天国はその支配地域で極めて急進的でユートピア的な社会改革を実行しようと試みました。その理想を示したのが「天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど)」です。
- 土地均分: すべての土地は神のものであるとされ国家がこれを管理し男女の別なくすべての人民に平等に分配するという徹底した土地均分制度を目指しました。
- 聖庫制度: 各家庭が生産した収穫物は個人の所有とはならずすべて「聖庫」と呼ばれる共同の倉庫に納められ、そこから生活に必要な物資が平等に配給されるという財産の共有制度を理想としました。
- 男女平等: キリスト教の影響から男女平等を掲げ纏足(てんそく)の悪習を禁止し、また女性も男性と同様に科挙を受験したり軍隊に参加したりすることが認められました。
- 悪習の禁止: アヘンの吸引、賭博、売春、飲酒などを厳しく禁じ厳格な道徳に基づく社会を目指しました。
これらの政策は中国の歴史上前例のない極めて革命的なものであり後の中国共産党の革命にも影響を与えたと言われています。しかしこれらの理想的な政策は戦争が続く混乱の中で十分に実行されることはありませんでした。
7.3. 太平天国の衰退と滅亡
南京に首都を定めた後太平天国はその初期の革命的な勢いを失い内部から崩壊を始めます。天王洪秀全は政治の実権を東王楊秀清らの有能な指導者たちに任せ自らは後宮にこもり享楽的な生活にふけるようになりました。そして1856年指導者たちの間で深刻な内紛が起こり楊秀清らが粛清されるなど太平天国は自らその指導力を失ってしまいました(天京事変)。
一方清朝側では正規軍が全く役に立たない状況を見て地方の有力な漢人官僚たちが自らの手で郷土を守るため私的に軍隊(郷勇)を組織し始めました。
その代表が湖南省の官僚であった曽国藩(そうこくはん)です。彼は儒教の道徳で結束した知識人と地元の農民からなる「湘軍(しょうぐん)」を組織しました。彼の後輩である李鴻章(りこうしょう)も安徽省で「淮軍(わいぐん)」を組織しました。これらの漢人官僚が率いる郷勇は西洋式の最新の武器(洋式銃や大砲)を購入して装備を近代化し太平天国に対する反撃の主力となっていきました。
当初アヘン戦争後の中国の混乱に乗じて権益を拡大しようとしていたイギリスやフランスといった欧米列強も、太平天国が排外的な性格を持ちまたアヘン貿易を禁止していることなどからその存在が自らの通商の利益にならないと判断します。そして彼らは清朝を支援する側に回りイギリス人のゴードンが率いる西洋式の常勝軍(じょうしょうぐん)を組織して上海の防衛などにあたりました。
こうして漢人官僚の郷勇と欧米列強の支援を受けた清朝の反撃の前に内部対立で弱体化していた太平天国は徐々に追い詰められていきました。そして1864年首都天京が湘軍によって陥落し洪秀全はその直前に病死。ここに14年間にわたる大乱はようやく終結しました。
太平天国の乱は清朝に深刻な爪痕を残しました。
- 清朝の権力構造の変化: 反乱を鎮圧した曽国藩や李鴻章といった漢人官僚と彼らが率いる地方軍閥の力が著しく増大しました。これにより満洲人中心の清朝の中央集権的な支配力は相対的に低下しその後の中国は地方の有力者が割拠する時代へと向かっていきます。
- 洋務運動への道: 曽国藩や李鴻章といった漢人官僚たちは太平天国との戦いを通じて西洋の軍事技術の優位性を痛感しました。彼らは乱の鎮圧後「中体西用」(中国の伝統的な思想・文化を本体としながら西洋の進んだ技術を実用的に採用する)をスローガンに軍事工業を中心とする近代化政策「洋務運動」を開始することになります。
結論として太平天国の乱は西洋の衝撃と国内の社会矛盾が結びついて生じた巨大な内乱でした。その急進的な社会改革の理想は挫折しましたがその動乱は清朝の支配体制を根底から揺るがし漢人官僚の台頭と洋務運動という新しい時代の動きを生み出す決定的なきっかけとなったのです。
8. インド大反乱
19世紀半ばイギリスのインド支配は東インド会社という一民間企業を通じて行われていました。しかしその実態は単なる商業活動ではなく巧みな外交と強力な軍事力によってインドの諸侯国を次々と併合・従属させていく露骨な植民地支配でした。イギリスはインドに鉄道を敷設し近代的な行政システムを導入する一方でインドの伝統的な産業を破壊し、その社会や宗教に対する配慮を欠いた傲慢な支配を続けました。この長年にわたる支配への不満と宗教的な屈辱感が蓄積する中1857年、一つの偶発的な事件が引き金となり東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、セポイ)たちが大規模な反乱を起こしました。この反乱は瞬く間に北インド一帯に広がり農民や旧支配層をも巻き込んだ全インド的な民族的抵抗運動へと発展しました。イギリス側からは「シパーヒーの反乱(Sepoy Mutiny)」と呼ばれますがインド側からは「第一次インド独立戦争」とも位置づけられるこの「インド大反乱」は、最終的にはイギリスの圧倒的な軍事力の前に鎮圧されましたがその衝撃はあまりにも大きく、東インド会社の支配を終わらせイギリスによるインドの直接統治すなわち「インド帝国」の始まりを告げる重大な分水嶺となったのです。
8.1. 反乱の背景:イギリス支配への不満
1857年の大反乱は突発的に起こったわけではありません。その背景には約100年間にわたるイギリス東インド会社の支配の下でインド社会のあらゆる階層の人々の間に鬱積していた深刻な不満がありました。
- 政治的な不満:
- 藩王国の併合: 19世紀半ばインド総督ダルフージーは「失権の原則」を導入しました。これはインドの藩王国で正統な跡継ぎがいない場合その藩王国をイギリス領として併合するという強引な政策でした。これにより多くの藩王国が取り潰され旧来の支配者であった王侯貴族たちはその地位と領地を奪われイギリスへの強い恨みを抱きました。
- 経済的な不満:
- 伝統産業の破壊: イギリスの産業革命によって生産された安価で良質な機械製の綿織物がインド市場に大量に流入すると、かつて世界最高水準を誇ったインドの伝統的な手織り綿布産業は壊滅的な打撃を受け多くの職人が失業しました。
- 土地制度の改革と農民の没落: イギリスはザミーンダーリー制などの新しい土地所有制度を導入し近代的な税制を確立しようとしました。しかしこれはインドの伝統的な村落共同体を破壊し固定化された高い税率に苦しむ多くの農民が土地を失い小作人や農業労働者へと転落する結果を招きました。
- 社会・宗教的な不満:
- 西欧化政策への反発: イギリスはインド社会の「近代化」を名目にサティー(寡婦が夫の遺体と共に殉死するヒンドゥー教の慣習)の禁止やインド人に対する英語教育の導入といった西欧化政策を進めました。これらの政策は人道的な側面も持っていましたが多くのインド人にとっては自らの伝統的な文化や宗教を否定しキリスト教を押し付けようとする傲慢な文化侵略と映りました。
- シパーヒーの不満:反乱の直接の担い手となったシパーヒー(東インド会社に雇われたインド人傭兵)たちの間でも不満が高まっていました。彼らはイギリス人の将校から人種的な差別を受けまた海外勤務を強制されるなど自らの宗教的なカーストの規定を破ることを強いられる機会も増えていました。
これらの政治、経済、社会、宗教のあらゆるレベルでの不満がインド社会の下にマグマのように溜まり爆発の時を待っていたのです。
8.2. 反乱の勃発と拡大
この一触即発の状況に火をつけたのが1857年春に導入された新しいライフル銃の弾薬包(薬莢)をめぐる噂でした。
この弾薬包は装填する際に歯でその先端を噛み切る必要がありました。その弾薬包を覆う紙に牛の脂肪と豚の脂肪が塗られているという噂がシパーヒーの間に広まりました。
牛はヒンドゥー教徒にとって神聖な動物であり豚はイスラーム教徒にとって不浄な動物です。この弾薬包を使うことはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の両方のシパーヒーにとって自らの宗教を汚す許しがたい冒涜行為でした。
この噂が真実であったかどかは定かではありませんがそれは兵士たちの宗教的な恐怖とイギリスへの不信感を爆発させるには十分でした。1857年5月デリー近郊のメーラトでこの弾薬包の使用を拒否したシパーヒーたちが反乱を起こしイギリス人の将校を殺害しました。
彼らはデリーへと進軍しそこでもはや名目上の存在となっていたムガル帝国の最後の皇帝バハードゥル・シャー2世を反乱の指導者として擁立しました。これにより反乱は単なる兵士の反抗からイギリス支配からの解放とムガル帝国の再興を目指す民族的な抵抗運動へとその性格を変えました。
反乱はデリー、ラクナウ、カーンプルを中心に北インドの広範な地域に瞬く間に広がりました。シパーヒーだけでなくイギリスに領地を奪われた藩王国の王妃ラクシュミー・バーイーなどの旧支配層や重税に苦しむ農民たちも次々と反乱に加わりました。
反乱は凄惨を極め反乱軍によるイギリス人の女性や子供を含む虐殺が行われそれに対するイギリス軍の報復もまた極めて残虐なものでした。
8.3. 反乱の鎮圧とインド帝国の成立
当初反乱の勢いに圧倒されたイギリスですが本国から増援部隊が到着しまたシク教徒やグルカ兵といった反乱に加わらなかったインドの他の兵士たちの協力を得ることで体勢を立て直します。
イギリス軍は近代的な兵器と組織力で反乱軍を次々と鎮圧していきました。1858年半ばにはデリーが奪回され皇帝バハードゥル・シャー2世は捕らえられてビルマへと流刑に処されました。ここに16世紀以来続いたムガル帝国は完全に滅亡しました。最後まで勇敢に戦ったラクシュミー・バーイーも戦死し1859年までに反乱は完全に鎮圧されました。
反乱が最終的に失敗に終わった原因としては反乱側に統一された指導部や近代的な国家建設の明確なビジョンが欠けていたこと、そしてその動きが主に北インドに限定され南インドなどを巻き込む全インド的な運動にはならなかったことなどが挙げられます。
このインド大反乱はイギリスのインド統治のあり方を根本から変えさせる大きなきっかけとなりました。
- 東インド会社の解散: イギリス政府と議会は一民間企業である東インド会社に広大なインドの統治を任せておくことの危険性を痛感しました。1858年イギリスは東インド会社を解散させそのすべての権限と領土をイギリス国王が直接統治下に置くことを決定しました。
- インド帝国の成立: これによりイギリスによるインドの直接統治すなわち「イギリス領インド帝国(British Raj)」が始まりました。1877年にはヴィクトリア女王が正式に「インド女帝」の称号を名乗ることになります。
- 統治方針の転換: イギリスは反乱の教訓からインドの伝統的な社会や宗教に対しては不必要な干渉を避けるより慎重な姿勢をとるようになりました。一方で藩王国などの旧来の封建的な支配層を体制の協力者として温存し彼らを通じて間接的に統治する分割統治の政策を強化しました。
結論としてインド大反乱はイギリスの植民地支配に対するインドの人々の最初の規模な抵抗運動でした。それは近代的なナショナリズムの運動とは異なる旧来の秩序を回復しようとする複合的な性格を持っていましたがその敗北はインドの人々の心に共通の国民としての意識を芽生えさせその後のインド独立運動の精神的な原点となりました。そしてイギリスにとってはこの反乱を鎮圧したことでインドをその帝国の「王冠の中の最も輝かしい宝石」として直接支配下に置く新しい植民地主義の時代が始まったのです。
9. 東南アジアの植民地化
19世紀ヨーロッパで国民国家の形成と産業革命が本格化するにつれて列強の関心は工業製品の新しい市場と原料の安定的な供給地を求めてアジアへとますます強く向けられていきました。中国やインドといった巨大な帝国がその圧力の前に屈していく中で古くから東西文明の十字路として多様な文化が栄えてきた東南アジア地域もまた、この西欧列強による植民地化の波に次々と飲み込まれていきました。イギリスがインドと中国を結ぶ中継点としてビルマやマレー半島を支配下に置きフランスが第二帝政の威信をかけてインドシナ半島に進出し、そしてオランダが香辛料貿易以来の拠点であったインドネシアの支配を完成させる。これらの動きを通じて東南アジアの伝統的な王国はその主権を奪われヨーロッパ列強の世界戦略の中に組み込まれていきました。この植民地化の嵐の中で唯一タイ王国だけが巧みな外交戦略によってその独立を維持することに成功します。
9.1. 各地域の植民地化の過程
19世紀の東南アジアの植民地化は主にイギリス、フランス、オランダの三国によって主導されました。
- イギリスの進出(ビルマとマレー半島):イギリスの東南アジアへの進出はその最も重要な植民地であったインドの安全保障と中国市場へのアクセスを確保するという戦略的な動機に強く貫かれていました。
- ビルマ(ミャンマー): 18世紀に成立したビルマのコンバウン朝は領土拡大の過程でイギリス領インドの東方国境と接触し対立するようになりました。イギリスは三度にわたるビルマ戦争(1824-1885)を通じて段階的にビルマを侵略し最終的に1886年ビルマ全土をイギリス領インド帝国に併合しました。
- マレー半島: イギリスは中国貿易の中継拠点として18世紀末にペナン島を獲得したのを皮切りに1819年にはトーマス・ラッフルズがシンガポールを建設しこれを自由貿易港として急速に発展させました。1824年にはオランダからマラッカを獲得しこれらの三つの拠点(ペナン、シンガポール、マラッカ)を合わせて「海峡植民地」を形成しました。その後19世紀後半にはスズ鉱山やゴムのプランテーション開発を目的にマレー半島内陸のスルタン国を次々と保護国化していきました。
- フランスの進出(インドシナ半島):フランスのインドシナへの進出はナポレオン3世の第二帝政期に本格化しました。その動機は経済的な利益よりもむしろイギリスに対抗してフランスの国際的な威信を高めたいという政治的な名誉欲が先行していました。
- ベトナム: 19世紀前半ベトナムの阮(げん)朝がキリスト教の宣教師を弾圧したことを口実としてナポレオン3世は1858年にスペインと共同で出兵しました。その後フランスは段階的にベトナム南部(コーチシナ)、中部(アンナン)、北部(トンキン)を保護国化あるいは直轄領としました。この過程でベトナムの宗主国であった清との間で清仏戦争(1884-1885)が起こりますがこれに勝利したフランスはベトナムに対する支配権を確定させました。
- カンボジアとラオス: フランスはさらに勢力を拡大し1863年にカンボジアを保護国化し19世紀末にはラオスも保護国としました。1887年フランスはこれらの地域を統合して「フランス領インドシナ連邦」を成立させました。
- オランダの進出(インドネシア):オランダは17世紀以来ジャワ島を中心に香辛料貿易の拠点を持っていましたが19世紀に入るとその支配をインドネシア諸島(東インド)全体へと拡大させ本格的な植民地経営に乗り出しました。
- 強制栽培制度: 19世紀半ばオランダはジャワ島で現地の農民にコーヒーやサトウキビ、藍といったヨーロッパ市場向けの商品作物を強制的に栽培させ安く買い上げる「強制栽培制度」を導入しました。この制度はオランダ本国に莫大な利益をもたらしましたが農民の主食である米の作付けが減少し深刻な飢饉を引き起こすなど現地の人々を極度に苦しめました。
- 全域の支配: 19世紀後半から20世紀初頭にかけてオランダはスマトラ島やボルネオ島などそれまで直接支配が及んでいなかった地域にも軍隊を派遣し、アチェ戦争などの激しい抵抗を鎮圧しながら現在のインドネシアにあたる領域全体の支配を完成させました。
- その他の国々:
- スペインとアメリカ: 16世紀以来フィリピンを支配してきたスペインですが19世紀末アメリカとの米西戦争(1898年)に敗れフィリピンをアメリカに割譲しました。フィリピンの人々はアギナルドの指導の下独立を宣言しましたが今度はアメリカとの激しい戦争(フィリピン・アメリカ戦争)を戦うことになります。
- ポルトガル: ポルトガルはティモール島の東半分などを植民地として維持しました。
9.2. 独立を維持したタイ
このヨーロッパ列強による分割の嵐の中で唯一タイ(当時はシャム、ラタナコーシン朝)だけが植民地化を免れその独立を維持することに成功しました。
その最大の要因はラーマ4世(モンクット王)とその息子ラーマ5世(チュラロンコン王)という二人の傑出した国王による巧みな近代化政策と外交戦略にありました。
- 近代化政策: 両国王は西欧の脅威を深く認識しタイが植民地化されることを避けるためには自ら国を近代化するしかないと考えました。彼らは不平等条約を結んで門戸を開放する一方で西洋の技術や制度を積極的に導入し行政改革、軍制改革、奴隷解放、教育制度の整備といった上からの近代化を推し進めました。
- 巧みな外交(緩衝国外交): タイは地理的に西のイギリス領ビルマと東のフランス領インドシナに挟まれていました。タイの国王たちはこの地政学的な位置を巧みに利用しました。彼らはイギリスとフランスの勢力が直接衝突することを望んでいないことを見抜き両国の対立を利用しながら領土の一部を割譲するなどの譲歩を行うことで国家全体の独立を守り抜いたのです。タイは英仏両国の間の「緩衝国」としての役割を果たすことでその命脈を保ったのです。
9.3. 植民地化がもたらした影響
ヨーロッパによる東南アジアの植民地化はこの地域の社会と歴史に深くそして複雑な影響を及ぼしました。
- 人為的な国境線: 列強は自らの都合で国境線を引いたためそれまでの地域の民族分布や文化圏を無視した人為的な植民地国家が形成されました。これが後の独立後の国々における国境紛争や少数民族問題の根源となります。
- モノカルチャー経済への編入: 各植民地は宗主国の経済的な必要に応じて米、ゴム、スズ、砂糖といった特定の一次産品の生産に特化させられました(モノカルチャー経済)。これにより地域の経済は世界市場の価格変動に左右される脆弱な従属的な構造に組み込まれていきました。
- 移民の流入: イギリスはマレー半島のスズ鉱山やゴム農園の労働力として中国やインドから大量の移民(華僑、印僑)を導入しました。これが今日のマレーシアなどにおける複合民族国家の原型を形成しましたが、同時に民族間の経済格差や対立の原因ともなりました。
結論として19世紀の東南アジアは西欧列強の帝国主義的な利害によって分割されその政治的経済的な自立性を奪われました。この植民地支配の経験はこの地域の人々に共通の苦難をもたらし20世紀に入るとそれぞれの植民地で独立を目指す民族解放運動が本格化していく歴史的な土壌となったのです。
10. 日本の開国と明治維新
19世紀半ばアヘン戦争の敗北をきっかけに清朝中国が西洋列強の半植民地化への道を歩み始める中その東の隣国である日本は、200年以上にわたって「鎖国(さこく)」と呼ばれる対外的な孤立政策を維持し徳川幕府の下で平和で安定した封建社会を享受していました。しかしその静かな眠りは1853年アメリカ合衆国の海軍提督ペリーが率いる黒塗りの蒸気船、いわゆる「黒船」の到来によって突然破られることになります。この西洋からの圧倒的な軍事力を背景とした開国の圧力は日本の国内に深刻な政治的危機と思想的対立を引き起こしました。しかし中国とは対照的に日本はこの国家的危機をバネとして旧来の封建的な支配体制である徳川幕府を自らの手で打倒し、「明治維新」と呼ばれる急速で徹底的な上からの近代化改革を断行しました。この明治維新を通じて日本はアジアで唯一西欧列強の植民地化を免れ逆に彼らと肩を並べる近代的な「国民国家」の建設へと邁進していくという極めて特異な道を歩むことになるのです。
10.1. 黒船来航と開国
19世紀に入るとロシアやイギリスの船が日本の近海に姿を見せるようになり幕府は異国船打払令を出すなど鎖国政策をむしろ強化していました。
しかしアメリカ合衆国が西部開拓を経て太平洋岸に到達しまた中国との貿易(太平洋航路)を本格化させると日本はその航路の中継地としてまた捕鯨船の補給基地として戦略的に重要な位置を占めるようになりました。
1853年7月アメリカの東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは4隻の軍艦(うち2隻は蒸気船)を率いて日本の江戸湾の入り口浦賀に来航しました。彼は大統領フィルモアの国書を携え日本の開国と通商を要求しました。巨大な黒い船体から黙々と煙を吐き出す蒸気船の威容は当時の日本の人々に計り知れない衝撃と恐怖を与えました。
幕府は即答を避け翌年の回答を約束しました。幕府首脳部はアヘン戦争における清の惨敗を知っておりアメリカとの軍事的な衝突がいかに無謀であるかを理解していました。
翌1854年ペリーが再び来航すると幕府はその圧力に屈し「日米和親条約」を締結しました。この条約はアメリカ船への食糧や石炭の補給のために下田と箱館の二港を開くことや漂流民の救助などを定めたもので、まだ本格的な通商条約ではありませんでしたが日本の200年以上にわたる鎖国政策に終止符を打つ画期的な出来事でした。
その後1858年初代駐日総領事タウンゼント・ハリスの強い要求の下幕府は「日米修好通商条約」を締結しました。この条約は神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の開港、自由貿易の承認などを定める本格的な通商条約でしたが同時に日本に関税自主権がなく(協定関税)、アメリカ人の治外法権(領事裁判権)を認めるという不平等な内容を含んでいました。幕府はその後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約(安政の五カ国条約)を結ばざるを得ませんでした。
10.2. 幕末の動乱:尊王攘夷から討幕へ
この幕府の弱腰な開国政策は国内に激しい政治的対立を引き起こしました。
- 尊王攘夷運動: 当初反対運動の中心となったのは「尊王攘夷(そんのうじょうい)」の思想でした。これは天皇を尊び外国勢力を打ち払うべしというスローガンであり幕府が朝廷(天皇)の許可を得ずに条約を勅許したことへの批判と排外的なナショナリズムが結びついたものでした。この運動の中心となったのは長州藩(現在の山口県)や薩摩藩(現在の鹿児島県)などの下級武士たちでした。彼らは「天誅」と称して幕府の要人や開国派の思想家を暗殺しまた外国人を襲撃するなどのテロ行為を繰り返しました。
- 公武合体: これに対して幕府は朝廷の伝統的な権威と幕府の武力を結びつけることでこの難局を乗り切ろうとする「公武合体」政策を進めました。
しかし長州藩が下関で外国船を砲撃しその報復として欧米の四カ国連合艦隊に惨敗した事件(下関戦争)や、薩摩藩がイギリス人を殺傷した生麦事件の報復としてイギリス艦隊に鹿児島の城下を砲撃された事件(薩英戦争)を通じて、薩摩や長州の指導者たちは西洋の軍事力がいかに圧倒的であり「攘夷」が不可能であるかを痛感します。
そして彼らの思想は単なる排外主義からむしろ積極的に西洋の技術を導入して国を強くし不平等条約を改正できるような新しい国家を建設するためには、その障害となっている徳川幕府そのものを打倒するしかないという「討幕」の考え方へと転換していきました。
薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通、長州藩の木戸孝允や高杉晋作といった指導者たちはそれまでの敵対関係を乗り越え坂本龍馬らの仲介で「薩長同盟」(1866年)を結び武力による倒幕を目指します。
10.3. 明治維新と近代国家の建設
追い詰められた第15代将軍徳川慶喜は1867年武力衝突を避けるため政権を朝廷に返還する「大政奉還」を行いました。しかし薩摩・長州を中心とする討幕派は徳川家を完全に政治の中枢から排除するため同年末クーデターを決行し天皇を中心とする新政府の樹立を宣言しました(王政復古の大号令)。
これに反発した旧幕府軍との間で戊辰戦争(1868-1869)が勃発しましたが近代的な兵器で武装した新政府軍の勝利に終わり、ここに260年以上続いた江戸幕府は完全に滅亡しました。
1868年元号が「明治」と改められ新しい明治天皇の下で近代的な国民国家を建設するための一連の急速な改革「明治維新」が開始されました。明治政府は「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに欧米列強に追いつくため矢継ぎ早に改革を断行します。
- 中央集権化:
- 五箇条の御誓文: 新政府の基本方針を示しました。
- 版籍奉還(1869年): 全国の藩(大名領)の土地(版)と人民(籍)を天皇に返還させました。
- 廃藩置県(1871年): すべての藩を廃止し代わりに中央政府が知事を派遣する「県」を置くことで日本は初めて統一された中央集権国家となりました。
- 四民平等の実現:
- 封建的な士農工商の身分制度を廃止し法の下の平等を実現しました。武士はその特権を失いました(秩禄処分)。
- 近代的な制度の導入:
- 学制、兵制、税制の改革: 国民皆学を目指す近代的な学校制度、国民皆兵を目指す徴兵令、そして安定した財源を確保するための地租改正(土地所有者に金銭で納税させる)といった三大改革を実施しました。
- 殖産興業: 政府主導で官営模範工場(富岡製糸場など)を設立し西洋の技術を導入して近代産業を育成しました。
- 岩倉使節団の派遣: 岩倉具視を全権大使とし大久保利通や伊藤博文らを含む大規模な使節団を欧米に派遣し不平等条約改正の予備交渉と西洋文明の調査を行いました。
この明治維新は旧来の支配階級であった武士階級が自らの特権を犠牲にしながら主導したという世界史上でも極めて稀な「上からの革命」でした。
結論として日本はペリー来航という外的衝撃に対して国内の政治闘争を経て旧来の封建体制を自ら解体し極めて短期間のうちに西洋をモデルとした近代的な国民国家の建設へとそのエネルギーを集中させることに成功しました。この迅速で徹底した自己改革の能力こそが日本がアジアの中で唯一西洋の植民地化を免れやがては帝国主義の列強の一員として台頭していくための決定的な要因となったのです。その成功はアジアの他の国々とは対照的な輝かしいものでしたが同時にその後の日本の軍国主義的な膨張の出発点でもありました。
Module 15:国民国家の形成とアジアの動揺の総括:リアルポリティークの世界化
本モジュールが探求した19世紀半ばの世界は国民国家という政治形態が西欧において最終的に完成しその力が非西欧世界へと圧倒的な暴力性を伴って展開された時代であった。ヨーロッパではビスマルクやカヴールに代表される現実主義者たちが自由主義やナショナリズムという革命のエネルギーを巧みに手なずけそれを国家統一のための強力な道具へと変えた。アメリカでは南北戦争という壮絶な内戦を通じて国民の再統合が達成された。この完成された「国民国家」は産業革命がもたらした工業力と結びつきアジアの巨大な伝統的帝国へとその矛先を向けた。アヘン戦争、インド大反乱、そして東南アジアの植民地化はこの西欧の新しい力がいかに破壊的であったかを示している。このグローバルな危機の中で日本だけが明治維新という自己変革を通じてこの西欧型の国民国家モデルを自ら導入することに成功した。この時代はヨーロッパ内部の理念であった国民国家が全世界を覆う普遍的な政治形態となり、その論理に従えない社会が淘汰されていく冷厳な「リアルポリティーク」の世界化の始まりを告げるものであった。