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【基礎 世界史(通史)】Module 16:帝国主義の時代
本モジュールの目的と構成
19世紀後半、ヨーロッパとアメリカで完成された国民国家は、第二次産業革命という新しいエンジンを搭載し、これまでの人類史になかったほどの強大な力を持つに至りました。鉄鋼、化学、電力を基盤とする新しい工業は、国内市場だけでは飽き足らず、新たな市場、安価な原料供給地、そして何よりも有り余る資本の投下先を、全世界に求め始めました。本モジュールで探求するのは、この工業化された国民国家が、その有り余る経済力と軍事力を背景に、地球上の未植民地化地域を、猛烈な勢いで分割・支配していく「帝国主義(Imperialism)」の時代です。これは、かつての大航海時代における植民地主義とは質的に異なります。それは、金融資本の論理に貫かれ、ダーウィンの進化論を捻じ曲げた社会ダーウィニズムによって正当化され、そして剥き出しの国家間競争の様相を呈した、新しいグローバルな支配の形態でした。アフリカ大陸が、ヨーロッパ列強の会議室で、地図の上に引かれた直線によって分割され、太平洋の島々が、海軍基地として、次々と、領有されていく。この「世界の分割」をめぐる、列強間の熾烈な競争は、やがて、後戻りのできない、硬直的な、同盟関係を、ヨーロッパに、生み出し、世界全体を、破滅的な、大戦争の、淵へと、追い込んでいくことになります。本モジュールは、この、帝国主義の、構造的な、特徴と、その、具体的な、展開、そして、それが、いかにして、第一次世界大戦の、避けられない、原因を、準備したのかを、解き明かすことを、目的とします。
この、地球規模の、角逐の時代を、体系的に、理解するため、本モジュールは、以下の、学習項目で、構成されています。
- 帝国主義の成立とその特徴: 第二次産業革命がもたらした独占資本主義と金融資本の成立がなぜ海外への資本輸出と植民地支配を必然的なものとしたのか、その経済的なメカニズムと思想的な背景を分析します。
- イギリスの帝国主義政策(3C政策): 世界最大の帝国を維持しようとするイギリスがアフリカを縦断し(カイロ、ケープタウン)アジア(カルカッタ)へと繋ぐ壮大な「3C政策」をいかにして推進したのかを探ります。
- フランス、ドイツ、ロシアの帝国主義: 普仏戦争の敗北から立ち直ろうとするフランス、遅れてきた強国として「世界政策」を掲げるドイツ、そして不凍港を求めて南下を続けるロシア。各国の帝国主義政策の特徴と衝突を考察します。
- アフリカ分割とベルリン会議: 「暗黒大陸」アフリカがなぜわずか数十年でヨーロッパ列強によって完全に分割されてしまったのか、その悲劇的な過程と「ベルリン会議」が果たした役割を解明します。
- アメリカの帝国主義: フロンティアの消滅と米西戦争を経てモンロー主義を乗り越え、カリブ海と太平洋へとその支配を広げていくアメリカの新しい帝国主義の姿を検証します。
- 太平洋地域の分割: 列強の海軍基地や石炭補給地として太平洋の島々がいかにして分割され、その伝統的な社会が破壊されていったのかを詳述します。
- 日清・日露戦争と日本の台頭: 明治維新を経て近代化を達成した非西欧国家日本が、いかにして朝鮮半島をめぐり清そしてロシアとの戦争に勝利し、帝国主義列強の一員として台頭したのかを分析します。
- 三国同盟と三国協商: 帝国主義的な対立が深まる中でヨーロッパがドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」とイギリス・フランス・ロシアの「三国協商」という、二つの敵対的な軍事ブロックへと、いかにして分裂していったのかを追います。
- バルカン戦争: 「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島でオスマン帝国の衰退とスラブ系民族のナショナリズムが列強の思惑と絡み合い、二度にわたるバルカン戦争がいかにして大戦の危機を高めたのかを探ります。
- 第一次世界大戦前夜の国際関係: 武装平和、建艦競争、そして二度のモロッコ事件。ヨーロッパがいかにして全面戦争がもはや避けられない緊張状態へと達したのか、その最後の数年間を分析します。
本モジュールを通じて読者は帝国主義が単なる領土的野心ではなく近代資本主義とナショナリズムがその論理的な極点にまで達した必然的な帰結であったこと、そしてその内部に自己破壊的な世界大戦の種を孕んでいたことを深く理解するでしょう。
1. 帝国主義の成立とその特徴
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの主要な資本主義国家は、その対外的な膨張の様相を大きく変化させました。それまでの自由貿易を基調とする植民地政策とは一線を画す、より攻撃的で包括的な全世界の分割と支配を目指す新しい段階へと移行したのです。この新しい動きは「帝国主義(Imperialism)」と呼ばれます。帝国主義は単に領土を拡大したいという政治的な野心だけでなく、19世紀後半に本格化した「第二次産業革命」によってもたらされた資本主義の構造的な変化と分かちがたく結びついていました。独占資本の形成、金融資本の支配、そして商品の輸出に代わる資本の輸出。これらの新しい経済的な要請がナショナリズムや社会ダーウィニズムといった思想と結びつき、列強を地球上のあらゆる資源と市場をめぐる熾烈な生存競争へと駆り立てたのです。
1.1. 経済的背景:第二次産業革命と独占資本主義
帝国主義が成立した最も根本的な原因は、19世紀後半に欧米で進展した第二次産業革命による資本主義の質的な変容にあります。
- 第二次産業革命: 第一次産業革命が蒸気機関と石炭を動力源とし綿工業などの軽工業を中心としていたのに対し、第二次産業革命は電力と石油という新しいエネルギー源を活用し鉄鋼、化学、電機といった重化学工業を中心としました。
- 重化学工業の特徴: これらの新しい産業は軽工業とは異なりその設立と運営に莫大な設備投資を必要としました。巨大な製鉄所や化学工場を建設するためには個々の資本家が持つ自己資金だけでは不十分であり、銀行からの巨額の融資が不可欠でした。
- 独占資本主義の成立: この巨大な設備投資を回収し安定的な利潤を確保するため企業は過酷な価格競争を避け互いに協定を結んで市場を支配しようとする動きを強めました。
- 独占の形態: ドイツでは企業が独立を保ちながら価格や生産量を協定する「カルテル」が発達しました。アメリカでは市場を独占するため同業種の企業が一つ巨大なトラスト(企業合同)へと吸収・合併されていきました。
- 金融資本の支配: 巨大な産業資本(工業資本)と巨額の資金を融資する銀行資本は株式の持ち合いなどを通じて次第に一体化していきました。こうして銀行が産業を支配する、あるいは両者が融合した強力な「金融資本」が国家の経済全体を支配する新しい段階へと移行しました。これが「独占資本主義」です。
1.2. 帝国主義の経済的メカニズム
この独占資本主義の段階に達した資本主義国家は、国内市場だけではその活動を維持できなくなり必然的に海外へとその活路を求めざるを得なくなりました。このメカニズムを理論的に分析したのがイギリスの経済学者ホブソンやロシアの革命家レーニンでした。
- ホブソンの理論: ホブソンは独占資本主義の下では富が一部の資本家に集中し大多数の労働者の賃金は低く抑えられるため、国内の購買力が生産力に追いつかない「過少消費」の状態が慢性的に発生すると考えました。その結果国内では有利な投資先を見つけられなくなった過剰な資本がより高い利潤を求めて海外の後進地域へと投資される(資本輸出)と説明しました。
- レーニンの理論: レーニンはその著書『帝国主義論』の中で帝国主義を「資本主義の最高のそして最後の段階」であると定義しました。彼によれば金融資本は国内市場を完全に分割し終えると次には世界の市場、原料供給地、そして資本の投下先をめぐって国際的な独占体同士が争い、最終的には地球上の領土そのものを列強が分割し尽くす段階へと至ると主張しました。
これらの理論に基づいて帝国主義の経済的な特徴をまとめると以下のようになります。
- 資本輸出の優位: 従来の商品の輸出に代わって鉄道建設、鉱山開発、プランテーション経営といった事業への直接投資あるいは後進国の政府への借款(借金)といった「資本輸出」が海外経済関係の中心となります。
- 植民地領有の必要性: 輸出した資本を安全に守り高い利潤を確保するためにはその投資先の地域を政治的、軍事的に直接支配下に置く植民地として領有することが最も確実な方法となります。植民地はまた本国の産業のための安価な原料(綿花、ゴム、石油など)を独占的に確保し、同時に本国の工業製品を売りつける排他的な市場としても機能しました。
1.3. 政治的・思想的な背景
この経済的な要請をさらに後押ししたのが19世紀後半のヨーロッパを覆っていた政治的、思想的な風潮でした。
- 極端なナショナリズム: イタリアとドイツの統一はヨーロッパの国際関係を不安定化させ列強間の国家的な対抗意識を極度に煽りました。国民は自国の偉大さを示す象徴として海外植民地の獲得を熱狂的に支持しました。植民地の広さが国威のバロメーターと見なされたのです。
- 社会ダーウィニズム: ダーウィンの「進化論」における「自然淘汰」や「生存競争」の概念を人間社会に不適切に応用した「社会ダーウィニズム」が広く信奉されました。この思想によれば国家や民族の間にも生存競争が存在し、優秀な国家(ヨーロッパの白色人種の国家)が劣等な国家(アジアやアフリカの有色人種の国家)を支配することは自然の法則であり歴史の進歩にとって不可欠であると正当化されました。
- 「白人の責務」: イギリスの詩人キップリングが詩の中で謳った「白人の責務(The White Man’s Burden)」という言葉は、この帝国主義の偽善的なイデオロギーを象徴しています。これはヨーロッパ人がアジアやアフリカの「未開で野蛮な」人々を文明化しキリスト教化することは彼らにとって重荷ではあるが崇高な歴史的使命であるという考え方でした。この人種差別的な優越感は植民地支配の残虐な現実を覆い隠すための便利な口実として機能しました。
結論として帝国主義は第二次産業革命が生み出した独占資本主義という経済的な土台の上に極端なナショナリズムと人種差別的なイデオロギーが結びついて成立した歴史的な現象でした。それは列強を地球上の限られた富と領土をめぐるゼロサムゲームへと駆り立て、その論理的な帰結として全世界を巻き込む破滅的な戦争、すなわち第一次世界大戦へと繋がっていく運命にあったのです。
2. イギリスの帝国主義政策(3C政策)
19世紀後半ヴィクトリア女王の治世の下でイギリスは「世界の工場」としての経済的な絶頂期を迎え「パクス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」と呼ばれる世界的な覇権を謳歌していました。広大な海外植民地(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インドなど)を有しその強力な海軍力(ロイヤルネイビー)は世界の七つの海を支配していました。しかし19世紀末になるとドイツやアメリカといった新しい工業国家の急速な追い上げによってその相対的な国力は低下し始め、またロシアやフランスとの世界的な植民地獲得競争も激化しました。この新しい帝国主義の時代に対応するためイギリスはそれまでの「光栄ある孤立」という外交方針を見直しより積極的で戦略的な帝国主義政策へと舵を切ります。その中心となったのが保守党の植民地相ジョゼフ・チェンバレンらによって推進された、アフリカとアジアにまたがるイギリスの広大な植民地を一つの戦略的な線で結びつけようとする壮大な世界政策でした。その象徴がアフリカ大陸を南北に縦断しようとする「3C政策」です。
2.1. 帝国の生命線:インドとスエズ運河
イギリスの帝国主義政策を理解する上で最も重要な基軸はその広大な植民地の中でも群を抜いて重要であったインドの存在です。インドはイギリスの工業製品のための最大の輸出市場でありまた綿花や茶といった重要な原料の供給地でもありました。さらにインドの富はイギリスの国際収支を支えインド人からなる巨大な植民地軍はアジアにおけるイギリスの覇権を維持するための軍事的な支柱でした。ディズレーリ首相がヴィクトリア女王に「インド女帝」の称号を捧げたようにインドはまさに大英帝国の「王冠の中の最も輝かしい宝石」だったのです。
したがってイギリスの19世紀後半の世界戦略はこのインドをいかにして安全に保持し本国とインドとを結ぶ最短ルート、すなわち「帝国の生命線」をいかにして確保するかに集約されていました。
この帝国の生命線を劇的に短縮させたのが1869年にフランス人のレセップスによって建設されたスエズ運河の開通でした。この運河は地中海と紅海を直接結びそれまでアフリカの喜望峰を迂回しなければならなかったヨーロッパとアジアとの航路を3分の1以下に短縮させました。
当初この運河の建設に懐疑的であったイギリスですがその戦略的な重要性を認識すると方針を180度転換します。1875年保守党のディズレーリ首相は財政難に陥っていたエジプト政府が売りに出したスエズ運河会社の株式を、ロスチャイルド家からの借金で電光石火の速さで買収し運河の経営権の一部を手中にしました。
さらにエジプトの財政破綻とそれに伴う国内の混乱(ウラービーの反乱)に乗じて1882年イギリスはエジプトを単独で軍事占領し事実上の保護国としました。これによりイギリスは帝国の生命線であるスエズ運河を完全にその管理下に置いたのです。
2.2. アフリカ縦断政策(3C政策)
エジプトを支配下に置いたことでイギリスの帝国主義的な野心はさらに南へと向かいます。すなわち北アフリカのカイロ(Cairo)と南アフリカのケープ植民地(Cape Town)を結ぶアフリカ大陸の南北縦断ルートを確保し、イギリスの支配地域を一つの帯として繋げようとする壮大な計画です。
このカイロ(Cairo)とケープ植民地(Cape Town)、そして帝国の中心であるインドのカルカッタ(Calcutta)の三つの都市の頭文字(C)をとってイギリスの世界政策は「3C政策」と呼ばれます。
このアフリカ縦断政策を実現するためイギリスは二つの方向からその勢力を拡大させていきました。
- 北からの南下: エジプトを拠点としてナイル川を遡り南へと進出しました。1880年代スーダンでマフディーを指導者とするイスラーム教徒の大規模な反乱(マフディーの乱)が起こりイギリスは一時撤退を余儀なくされますが、1890年代後半再びスーダンに侵攻しこれを征服しました。
- 南からの北上: 19世紀初頭にオランダから奪ったケープ植民地を拠点として内陸へと勢力を拡大しました。この南アフリカでの膨張を強力に推進したのがダイヤモンドと金の鉱山経営で巨万の富を築いた帝国主義者セシル・ローズでした。彼はケープ植民地の首相となり自らの会社(イギリス南アフリカ会社)を通じて現在のジンバブエやザンビアにあたる地域を征服し、自らの名にちなんで「ローデシア」と名付けました。彼の夢はケープタウンとカイロを結ぶ縦断鉄道を建設することでした。
しかしこのイギリスの南北縦断政策はアフリカ大陸を西から東へと横断しようとするフランスの政策(サハラ砂漠横断政策)とスーダンの地で正面から衝突する運命にありました。1898年ナイル川上流のファショダという村でイギリスの縦断軍とフランスの横断軍が遭遇し、両国は一触即発の戦争の危機に陥りました(ファショダ事件)。最終的にはドイツへの対抗を優先したフランス側が譲歩しイギリスのスーダンにおける優越権を認めましたが、この事件はアフリカ分割をめぐる帝国主義列強の対立の激しさを象徴するものでした。
さらにイギリスの南アフリカ支配を確固たるものにする上で最後の障害となったのが、17世紀に移住してきたオランダ系の移民の子孫(ブーア人、ボーア人)が建国したトランスヴァール共和国とオレンジ自由国の存在でした。これらの国でダイヤモンドと金の鉱脈が発見されるとイギリスはその併合を目論み二度にわたる南アフリカ戦争(ブーア戦争、1880-81、1899-1902)を引き起こしました。ブーア人のゲリラ戦に苦戦しながらもイギリスは最終的に勝利を収め1910年ケープ植民地と二つのブーア人の国を合わせて「南アフリカ連邦」を成立させました。
2.3. 光栄ある孤立とその転換
19世紀を通じてイギリスはヨーロッパ大陸の同盟関係には深く関与せずもっぱら海外植民地の拡大に専念するという「光栄ある孤立」をその基本的な外交方針としていました。しかし20世紀初頭になるとこの方針はもはや維持できなくなります。
その最大の原因はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が推進する積極的な「世界政策」とそれに基づく大規模な海軍力の増強(建艦競争)でした。ドイツの挑戦はイギリスの生命線である海上における覇権(シーパワー)を直接脅かすものでした。
このドイツの脅威に対抗するためイギリスは「光栄ある孤立」を放棄しかつてのライバルたちと手を結ぶという大きな外交方針の転換を図ります。
- 日英同盟(1902年): まず極東でロシアの南下政策に対抗するため新興国日本と軍事同盟を結びました。
- 英仏協商(1904年): アフリカにおける長年のライバルであったフランスとそれぞれの植民地における権益(イギリスのエジプト、フランスのモロッコ)を相互に承認しドイツに対抗するための協力関係を築きました。
- 英露協商(1907年): 中央アジア(ペルシア、アフガニスタン、チベット)における長年のライバルであったロシアとも勢力範囲をめぐる協定を結び和解しました。
この一連の協商によってイギリス、フランス、ロシアの三国間には「三国協商」と呼ばれるドイツを包囲する事実上の同盟関係が成立しました。
結論として19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリスの帝国主義政策は、その広大な既存の帝国を維持し防衛するという観点と新しいライバル(特にドイツ)の挑戦に対抗するという二つの動機によって動かされていました。3C政策に象徴される積極的な領土拡大と三国協商の成立に見られる外交方針の大転換はイギリスがその覇権を守るためにいかに現実主義的に対応したかを示していますが、それは同時にヨーロッパを二つの敵対的な陣営へと分断し世界大戦への道を不可避なものにしていくプロセスでもあったのです。
3. フランス、ドイツ、ロシアの帝国主義
19世紀後半世界の工場として圧倒的な経済力と広大な植民地を背景に世界に君臨していたイギリスの覇権に、ヨーロッパ大陸の三大国フランス、ドイツ、そしてロシアがそれぞれ独自の動機と戦略をもって挑戦状を叩きつけました。普仏戦争の敗北の屈辱から立ち直り国家の威信回復を目指すフランス。遅れてきた工業国として急速な経済成長を遂げ「太陽の下における自らの場所」を求めるドイツ。そして凍らない港を求めて南へ東へとその巨大な陸地を膨張させ続けるロシア。これらの国々の帝国主義はイギリスとは異なるそれぞれの歴史的文脈と地政学的な要請に深く根ざしていました。そして彼らの野心が世界の限られた空間で互いに衝突する時、それは20世紀の悲劇的な対立の直接的な原因を形成していくことになるのです。
3.1. フランス:威信回復のための帝国
フランスの19世紀後半の帝国主義は1871年の普仏戦争の惨敗とそれに続く第二帝政の崩壊という深刻な国家的屈辱感に深く動機づけられていました。ヨーロッパ大陸における覇権を新興のドイツ帝国に奪われたフランス(第三共和政)は、その失われた威信を回復し国民の目を国内の政治的混乱からそらすための代償を海外植民地の拡大に求めました。
その主要な舞台となったのがアフリカとインドシナでした。
- アフリカ横断政策: フランスは西アフリカのセネガルやアルジェリアといった既存の拠点を足がかりに、サハラ砂漠を東へと横断し紅海のジブチと結ぶ広大なアフリカ植民地帝国を築こうとしました。この「アフリカ横断政策」は必然的にアフリカを南北に縦断しようとするイギリスの3C政策と衝突する運命にありました。前述の通り1898年スーダンのファショダで両国の軍隊が遭遇し(ファショダ事件)戦争の一歩手前まで行きましたが、最終的にフランスが譲歩しました。
- インドシナ連邦の完成: フランスはナポレオン3世の時代に始まったベトナムへの侵略を継続し清仏戦争に勝利してベトナムの宗主権を清に放棄させました。さらにカンボジアとラオスを保護国としこれらの地域を統合して「フランス領インドシナ連邦」を完成させました。
フランスの帝国主義はイギリスのように経済的な合理性に基づくというよりは、むしろ政治的文化的な動機が先行していました。彼らは自国の進んだ文明と共和制の理念を世界に広める「文明化の使命(mission civilisatrice)」を、その植民地支配の大義名分としました。しかしその実態は現地の資源の搾取と過酷な支配であったことに変わりはありませんでした。
3.2. ドイツ:遅れてきた帝国主義と「世界政策」
1871年に統一を達成したドイツ帝国はヨーロッパの中央に誕生した新しい巨大な工業国家でした。その初代帝国宰相であったビスマルクは極めて慎重な外交官でした。彼の最大の関心はフランスの復讐を恐れヨーロッパ大陸におけるドイツの安全を保障することにあり、そのために複雑な同盟網を築きフランスを孤立させることに腐心しました。彼は植民地獲得競争がヨーロッパの列強間の不必要な対立を招くと考え当初は帝国主義的な膨張には極めて消極的でした。彼は「私のアフリカの地図はヨーロッパにある」と語ったと伝えられています。
しかし19世紀後半ドイツの産業資本家やナショナリストたちの間でドイツもイギリスやフランスのように海外植民地を持つべきだという世論が急速に高まっていきました。この国内の圧力に抗しきれずビスマルクも1880年代半ばアフリカのトーゴ、カメルーン、南西アフリカ(ナミビア)、東アフリカ(タンザニア)や太平洋の島々を保護領とするなど限定的な植民地獲得に乗り出します。
このドイツの対外政策が根本的に攻撃的なものへと転換するのが1890年若き皇帝ヴィルヘルム2世が老宰相ビスマルクを更迭した後のことです。
ヴィルヘルム2世はドイツの強大な工業力を背景にもはやヨーロッパ大陸にとどまるのではなく全世界でその影響力を拡大する積極的な「世界政策(Weltpolitik)」を掲げました。
- 建艦競争: この世界政策の中核をなしたのがティルピッツ提督の下で進められた大規模な海軍力の増強でした。ドイツは世界最強を誇るイギリスの海軍に挑戦状を叩きつけるかのように巨大な戦艦を次々と建造しました。このイギリスとドイツの「建艦競争」はイギリスに「光栄ある孤立」を放棄させフランスやロシアとの協商へと向かわせる最大の要因となりました。
- 3B政策: ドイツはその経済的な影響力を中東へと拡大するため首都ベルリン(Berlin)、ビザンティウム(イスタンブール)、そしてペルシア湾岸のバグダード(Baghdad)を結ぶバグダード鉄道の敷設権をオスマン帝国から獲得しました。このドイツの中東への進出策は「3B政策」と呼ばれイギリスの3C政策やロシアの南下政策と真っ向から対立するものでした。
この挑戦的でしばしば協調性を欠いたヴィルヘルム2世の世界政策はヨーロッパの国際関係を極度に緊張させドイツの孤立を深めていく結果を招きました。
3.3. ロシア:不凍港を求めて南へ東へ
ロシアの帝国主義はイギリスやフランス、ドイツとは異なり海洋を通じた海外への進出ではなく、広大な陸地の国境を接する隣接地域へとその領土を拡大していく典型的な「大陸帝国」としての性格を持っていました。その行動を一貫して動機づけていたのは冬にも凍らない「不凍港」を獲得したいというピョートル大帝以来の国家的な悲願でした。
19世紀後半ロシアは三つの主要な方向でその膨張政策を続けました。
- バルカン半島への南下: ロシアはオスマン帝国内のスラブ系民族の独立運動を支援するという「パン=スラブ主義」を掲げバルカン半島における影響力を拡大し地中海への出口を確保しようとしました。この南下政策はイギリスやオーストリアとの深刻な対立(東方問題)を引き起こしました。1877年の露土戦争でオスマン帝国に勝利したロシアはブルガリアの独立などを認めさせ一時その目的を達成するかに見えましたが、イギリスやオーストリアの干渉(ベルリン会議)によってその野望は阻止されました。
- 中央アジアへの進出: ロシアは19世紀を通じて中央アジアの遊牧民の諸ハン国を次々と征服しその領土を拡大していきました。このロシアの進出はインドの安全を脅かすものとしてイギリスの強い警戒を招き、両国はアフガニスタンやペルシアを舞台に「グレート・ゲーム」と呼ばれる熾烈な諜報戦と勢力争いを繰り広げました。
- 極東への進出: 19世紀後半ロシアは弱体化した清朝中国に圧力をかけアロー戦争の調停の見返りとして1860年沿海州を獲得しました。ここに彼らは軍港ウラジヴォストク(「東方を征服せよ」の意)を建設し太平洋への出口を確保しました。さらに1891年にはヨーロッパ・ロシアとウラジヴォストクを結ぶシベリア鉄道の建設を開始し満州(中国東北部)への進出を本格化させました。このロシアの極東への進出が朝鮮半島をめぐって同じく大陸への進出を目論む新興国日本との決定的な対立を生み出すことになるのです。
結論として19世紀後半のヨーロッパ大陸の三大国はそれぞれ異なる動機と目標を持ちながら帝国主義的な膨張政策を追求しました。フランスは威信を、ドイツは「太陽の下における場所」を、そしてロシアは不凍港を求めて。彼らの野心はイギリスが支配する既存の世界秩序と、あるいは互いの野心と、世界のいたるところで衝突しヨーロッパをもはや後戻りのできない対立の時代へと導いていったのです。
4. アフリカ分割とベルリン会議
19世紀後半帝国主義の時代が本格化するとヨーロッパ列強の植民地獲得競争はそれまでほとんど未開の地として残されていた最後の大陸、アフリカへとその主要な舞台を移しました。1870年代までヨーロッパ人のアフリカに関する知識は沿岸部の一部の交易拠点に限られその広大な内陸部は「暗黒大陸」として謎に包まれていました。しかしその後のわずか30年ほどの間にこの巨大な大陸はあたかも一つのケーキのようにヨーロッパの国々によって完全に切り分けられ分割されてしまいました。この人類史上最も急速で露骨な領土の争奪戦は「アフリカ分割(Scramble for Africa)」と呼ばれます。この無秩序な分割競争がヨーロッパの列強間の戦争を引き起こすことを恐れたドイツのビスマルクは1884年ベルリン会議を開催し分割の「ルール」を定めました。しかしこの会議は皮肉にも分割のペースをさらに加速させアフリカの人々にとっては、その運命が自分たちの意思とは全く無関係にヨーロッパの会議室で決定されるという屈辱の時代の本格的な始まりを告げるものでした。
4.1. 分割の始まり:探検家とレオポルド2世の野望
19世紀半ばまでヨーロッパ人がアフリカ内陸部に深く踏み込むことを妨げていたのは熱帯病(マラリアなど)の恐怖と交通手段の欠如でした。
しかし19世紀後半になると状況は一変します。キニーネというマラリアの特効薬が発見されまた蒸気船が河川を遡ることを可能にしました。これによりヨーロッパ人の探検家たちが次々とアフリカの奥地へと分け入っていきました。
その代表がイギリスの宣教師で探検家であったデイヴィッド・リヴィングストンと、彼を探し当てたことで一躍有名になったアメリカのジャーナリスト、ヘンリー・スタンリーです。彼らの探検の報告はアフリカ内陸部の地理や豊富な天然資源に関する情報をヨーロッパにもたらし人々の関心を強く惹きつけました。
このアフリカの潜在的な富に最初に目をつけたのがベルギーの国王レオポルド2世でした。彼はスタンリーを雇い入れ中央アフリカのコンゴ川流域を探検させ現地の首長たちと協定を結ばせて広大な土地を手に入れました。彼は表向きは科学的、人道的な目的を掲げた「国際アフリカ協会」を設立しましたがその真の目的はコンゴの豊富な天然資源(象牙、ゴムなど)を独占し私的な利益を得ることでした。
このベルギー王の抜け駆け的な行動はコンゴ川の河口に利権を持つポルトガルや他のヨーロッパ諸国を強く刺激し、アフリカの領有権をめぐる無秩序な争奪戦「アフリカ分割」の引き金となったのです。
4.2. ベルリン会議と「有効な占有」
アフリカをめぐる列強間の対立がエスカレートしヨーロッパでの戦争に発展することを恐れたドイツの宰相ビスマルクは1884年ベルリンで国際会議を開催しました。このベルリン会議にはイギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、ベルギーなど欧米14カ国が参加しましたが当事者であるアフリカの代表は一人も呼ばれませんでした。
会議の主な議題はコンゴ川流域の帰属問題と今後のアフリカ分割のためのルール作りでした。
- コンゴの帰属: 会議はレオポルド2世の「国際アフリカ協会」によるコンゴ川流域の領有権を認めこの地域は「コンゴ自由国」としていかなる国の植民地でもない自由な貿易地域とすることが定められました。しかしその実態はレオポルド2世の私的な領地であり彼はその後コンゴの人々をゴムの強制採取に動員し抵抗する者は手首を切り落とすなど極めて残虐で非人道的な搾取を行い巨万の富を築きました。この惨状は国際的な非難を浴び後にコンゴ自由国はベルギーの正式な植民地(ベルギー領コンゴ)へと移管されることになります。
- 分割の原則: 会議は今後のアフリカ沿岸部の領有権を主張するためにはその地域を他の列強に通告しかつ行政機関を設置するなど実質的にその地域を支配していること(有効な占有、あるいは実効的支配)を証明しなければならないという原則を定めました。
この「有効な占有」という原則は単に地図の上で領有を宣言するだけでは不十分であり実際に軍隊や役人を現地に送り込み支配を確立しなければならないということを意味しました。これは皮肉にもそれまで様子を見ていた国々にも先を越されまいとアフリカ内陸部への侵略を急がせる結果を招き、アフリカ分割のペースを一気に加速させたのです。
4.3. 分割の完了
ベルリン会議の後アフリカ大陸はヨーロッパ列強によって猛烈な勢いで切り分けられていきました。
- イギリス: 前述の3C政策に基づきエジプト、スーダン、ケニア、ウガンダといった東アフリカと南アフリカのケープ植民地からローデシア(ジンバブエ、ザンビア)に至る南北の広大な地域を支配下に置きました。また西アフリカでもナイジェリア、黄金海岸(ガーナ)などを領有しました。
- フランス: アルジェリア、チュニジアといった北アフリカからサハラ砂漠を越えてセネガル、仏領ギニアなどの西アフリカ、そして赤道アフリカ、マダガスカル島といった広大な地域をその植民地としました。
- ドイツ: トーゴ、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカを獲得しました。
- ポルトガル: アンゴラとモザンビークという古くからの拠点を維持しました。
- イタリア: エリトリアとソマリアの一部を領有しましたがエチオピアへの侵攻は1896年のアドワの戦いでエチオピア軍に惨敗しその独立を認めざるを得ませんでした。
このヨーロッパ列強の侵略に対してスーダンのマフディーの乱や西アフリカのサモリ・トゥーレの抵抗などアフリカの人々も各地で激しい抵抗を試みましたが、そのほとんどは近代的な兵器(特に機関銃)で武装したヨーロッパ軍の圧倒的な軍事力の前に鎮圧されてしまいました。
1914年第一次世界大戦が始まる頃にはアフリカ大陸で独立を維持していたのは上記のエチオピア帝国とアメリカの解放奴隷が建国したリベリア共和国の二つの国だけとなっていました。
結論としてアフリカ分割はヨーロッパの帝国主義がその最も露骨で野蛮な形で現れた現象でした。アフリカの人々の歴史、文化、民族分布は完全に無視されその運命はヨーロッパの都合で引かれた直線的な国境線によって決定されました。この人為的な分割の遺産は現代のアフリカ諸国が抱える国境紛争や民族対立といった深刻な問題の直接的な根源となり今もなおアフリカ大陸に深い影を落とし続けているのです。
5. アメリカの帝国主義
19世紀を通じてアメリカ合衆国は建国の父たちが警告した旧世界の複雑な国際紛争への関与を避けモンロー教書に象徴されるように西半球における孤立主義的な外交を基本としながら、ひたすら国内の発展と西部への領土拡大(大陸帝国主義)に専念していました。しかし19世紀末この伝統的な方針は大きな転換点を迎えます。南北戦争を経て強力な中央政府と統一された国内市場を確立したアメリカは第二次産業革命の波に乗りイギリスやドイツを凌ぐ世界最大の工業国へと急速に成長しました。そして1890年に「フロンティアの消滅」が宣言されるとその膨張のエネルギーはついに海を越えて海外へと向けられることになったのです。1898年の米西戦争をきっかけとしてアメリカはカリブ海と太平洋に広がる海外植民地を獲得しヨーロッパ列強と肩を並べる新しい「帝国主義」国家として世界の舞台に登場しました。このアメリカの帝国主義はヨーロッパとは異なる独自の性格を持ちながらもその後の20世紀の世界の歴史を大きく左右する決定的な要因となっていくのです。
5.1. 帝国主義への転換:フロンティアの消滅と新しい思想
19世紀末アメリカが海外への膨張政策へと転換した背景にはいくつかの経済的、思想的な要因がありました。
- 経済的要因:
- 工業生産力の増大: 19世紀末アメリカの工業生産は国内の需要をはるかに上回るレベルに達しました。そのため産業資本家たちは製品の新しい輸出市場と安価な原料の供給地を海外に求めるようになりました。
- 1890年代の経済不況: 深刻な経済不況は国内市場の限界を人々に痛感させ海外市場の開拓の必要性を訴える声を強めました。
- 思想的・理論的な背景:
- フロンティアの消滅: 1890年の国勢調査でもはやアメリカ国内に明確なフロンティア(未開拓の辺境)は存在しないと宣言されました。歴史家のフレデリック・ジャクソン・ターナーは「フロンティア仮説」の中でアメリカの民主主義と活力は常に西部のフロンティアが存在したことによって育まれてきたと論じました。このフロンティアが消滅した今アメリカは新しいフロンティアを海外に求めなければならないという考え方が広まりました。
- 海軍力と帝国主義: 海軍軍人のアルフレッド・マハンはその著書『海上権力史論』の中で国家の偉大さは強力な海軍力と海外の海軍基地、そして商船隊にかかっていると説きました。彼のシーパワー理論はセオドア・ルーズベルトなどの政治家に大きな影響を与えアメリカの海軍力増強と海外領土獲得の理論的な支柱となりました。
- 社会ダーウィニズムと「明白な天命」: ヨーロッパと同様にアメリカでもアングロサクソン民族の優越性を信じその進んだ政治制度や文化を世界に広めることは神から与えられた使命(明白な天命、Manifest Destiny)であるという考え方が影響力を持ちました。
5.2. 米西戦争と海外植民地の獲得
アメリカが本格的な帝国主義国家へと踏み出す直接的なきっかけとなったのが1898年の米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)でした。
- 戦争の原因: 当時スペインの植民地であったキューバでは長年にわたってスペインの圧政に対する独立運動が続いていました。アメリカ国内ではキューバの砂糖産業への経済的な利害や人道的な同情から独立運動を支持する世論が高まっていました。特にハーストやピュリッツァーといった新聞王が発行する「イエロー・ジャーナリズム」はスペインの残虐行為を扇情的に報じ国民の反スペイン感情を煽り立てました。1898年2月キューバのハバナ港に停泊していたアメリカの戦艦メイン号が謎の爆発を起こして沈没すると「メイン号を忘れるな!」をスローガンにアメリカの世論は一気に開戦へと傾きました。
- 戦争の経過と結果: 戦争はわずか数ヶ月で工業国アメリカの圧倒的な勝利に終わりました。アジアではアメリカのアジア艦隊がフィリピンのマニラ湾でスペイン艦隊を全滅させカリブ海でもアメリカ軍はキューバとプエルトリコを占領しました。戦後のパリ条約でスペインはキューバの独立を承認しさらにプエルトリコとグアムをアメリカに割譲しました。そしてアメリカは2000万ドルでフィリピンをスペインから「購入」しました。
この戦争の結果アメリカは一夜にしてカリブ海と太平洋にまたがる海外植民地を持つ帝国主義国家へと変貌したのです。
5.3. アメリカ帝国主義の展開
米西戦争後アメリカはその新しい帝国を経営しさらにその影響力を拡大するための積極的な対外政策を展開します。
- フィリピン・アメリカ戦争: アメリカはスペインからの独立を助けてくれると信じてアメリカ軍に協力したフィリピンの独立運動家アギナルドの期待を裏切り、フィリピンを自国の植民地として統治しようとしました。これに反発したフィリピン人は今度はアメリカを相手に激しい独立戦争(1899-1902)を戦いましたが圧倒的な軍事力の前に鎮圧されました。
- カリブ海政策(棍棒外交): キューバは形式的には独立しましたがアメリカの軍事介入権などを定めたプラット条項を憲法に盛り込むことを強制され、事実上アメリカの保護国となりました。米西戦争の英雄で大統領となったセオドア・ルーズベルトは「棍棒を手に穏やかに話せ」をモットーにカリブ海地域をアメリカの勢力圏と見なす高圧的な外交(棍棒外交、Big Stick Diplomacy)を展開しました。その最大の成果がパナマ運河の建設です。彼はコロンビアからパナマを独立させその見返りにパナマ運河地帯の永久租借権を獲得し大西洋と太平洋を結ぶ戦略的に極めて重要な運河の建設を開始しました。その後のタフト大統領は軍事力だけでなくドル(資本)を投下して中南米諸国を経済的に従属させようとする「ドル外交」を推進しました。
- 太平洋・中国政策:
- ハワイ併合: アメリカは米西戦争中の1898年太平洋航路の重要な拠点としてハワイを正式に併合しました。
- 門戸開放宣言: 19世紀末中国が列強によって分割される危機に瀕するとアメリカは自国の経済的利益を守るため国務長官ジョン・ヘイが1899年「門戸開放宣言」を発表しました。これは中国の領土保全と機会均等を主張し特定の国が中国を独占的に支配することに反対するものでした。これはアメリカが本格的に東アジアの国際政治に関与していく第一歩となりました。
結論として19世紀末アメリカ合衆国はその建国以来の孤立主義の伝統を破りヨーロッパ列強と並ぶ帝国主義国家へとその姿を変えました。その帝国主義はヨーロッパのような公式な植民地支配だけでなく経済的な支配や政治的な内政干渉といった非公式な形をとることが多いという特徴を持っていました。この新しいグローバルなプレイヤーの登場は20世紀の国際関係をさらに複雑化させその後の二度の世界大戦と冷戦の時代を準備していくことになるのです。
6. 太平洋地域の分割
19世紀後半アフリカ大陸がヨーロッパ列強によって猛烈な勢いで分割されていったのと時を同じくして地球上で最後に残された広大なフロンティア、太平洋の島々(オセアニア)もまた帝国主義の波に飲み込まれていきました。これらの島々はヨーロッパ人にとっては古くから「南洋の楽園」としてエキゾチックな憧れの対象でしたが19世紀末になるとその見方は一変します。蒸気船の時代の到来と共に太平洋はアジアとアメリカ、そしてオーストラリアを結ぶ重要な航路となりその広大な海に点在する小さな島々は蒸気船の燃料である石炭を補給するための基地(貯炭所)や海軍の戦略的な拠点として極めて重要な価値を持つようになったのです。こうしてイギリス、フランス、ドイツ、そして新興のアメリカといった列強はこれらの島々の領有をめぐって激しい争奪戦を繰り広げその結果太平洋のほとんどの地域が19世紀末までにいずれかの列強の植民地あるいは保護領として分割されてしまいました。
6.1. オセアニアの主要な地域と初期の接触
太平洋の島々は地理的、文化的に大きく三つの地域に分けられます。
- メラネシア: オーストラリアの北東に位置するニューギニア島やフィジー、ソロモン諸島など肌の色が黒い人々が住む地域。
- ミクロネシア: マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島など赤道の北に広がる小さな島々の地域。
- ポリネシア: ハワイ、ニュージーランド、イースター島を頂点とする広大な三角形の海域に広がる地域でサモア、タヒチ、トンガなどが含まれます。
18世紀キャプテン・クックらの探検によってこれらの島々の存在がヨーロッパに知られるようになると捕鯨船の乗組員や白檀(びゃくだん)などの希少な木材を求める商人、そしてキリスト教の宣教師たちが次々と訪れるようになりました。
当初これらの接触は散発的なものでしたがヨーロッパ人が持ち込んだ銃やアルコール、そして病原菌は島の伝統的な社会のバランスを大きく崩し、また時には現地住民をオーストラリアのサトウキビ農園などで強制的に働かせる「ブラックバーディング」と呼ばれる非人道的な労働者狩りも行われました。
6.2. 列強による分割の本格化
19世紀後半帝国主義が本格化すると列強はこれらの島々を公式に自国の領土として併合する動きを加速させます。
- イギリス: 太平洋地域における最大のプレイヤーはすでにオーストラリア(1788年~)とニュージーランド(1840年~)を植民地としていたイギリスでした。イギリスはこれらの植民地の安全保障と太平洋航路の覇権を確保するため1874年にフィジーを併合したのを皮切りにニューギニア島の南東部やソロモン諸島の一部などを次々と領有していきました。
- フランス: フランスは1842年にタヒチを保護国としその後南太平洋のマルキーズ諸島などを領有しました。また1853年には流刑植民地(囚人の流刑地)としてニューカレドニアを領有しました。
- ドイツ: 遅れてきた帝国主義国家であるドイツも1880年代からこの地域への進出を本格化させます。ドイツはコプラ(ココヤシの果肉を乾燥させたもの、石鹸やマーガリンの原料となる)の交易などを目的にニューギニア島の北東部(カイザー・ヴィルヘルムス・ラント)そしてビスマルク諸島などを獲得しました。
- アメリカ: アメリカは19世紀半ばから捕鯨船の補給基地としてハワイとの関係を深めていましたが19世紀末に帝国主義へと転換するとその関心はより戦略的なものへと変わりました。前述の通り1898年にハワイを併合し米西戦争の結果グアムを獲得しました。
6.3. サモア分割と分割の完了
列強の利害が最も激しく衝突したのが南太平洋の中心に位置するサモア諸島でした。ドイツ、イギリス、そしてアメリカの三国はそれぞれサモアの内紛に介入し互いに牽制し合い一時は三国の軍艦が港で睨み合う一触即発の事態にまで発展しました。
最終的に1899年三国間の協定によってサモア諸島は西経171度線を境として東側をアメリカが西側をドイツがそれぞれ領有することになりました(イギリスは他の地域での権益を認められる見返りにサモアから手を引いた)。
このサモア分割をもって主だった太平洋の島々の分割はほぼ完了しました。最後まで独立を維持していたトンガ王国も1900年イギリスの保護国となりました。
1914年第一次世界大戦が始まる頃には太平洋の島々で独立を維持している地域はもはや存在しませんでした。
6.4. 分割がもたらした影響
太平洋地域の分割はそこに住む人々の生活と文化に深刻な影響を与えました。
- 伝統社会の破壊: 植民地政府はキリスト教の布教と西洋的な統治システムを導入し島の伝統的な首長制や社会構造、そして独自の文化や宗教を否定し破壊していきました。
- 経済のモノカルチャー化: 島々の経済は宗主国の必要に応じてコプラ、砂糖、あるいはリン鉱石といった特定の産品の生産に特化させられ自給自足的な経済は解体されました。
- 人為的な境界線: 列強は自らの都合で島々を分割したため同じ文化圏に属する人々が異なる宗主国によって分断されるケースも少なくありませんでした。
結論として19世紀末の太平洋地域は帝国主義列強の世界的な戦略ゲームの最後の駒としてその運命を翻弄されました。それぞれの島が持つ独自の歴史や文化は無視されその価値はもっぱら海軍基地や補給港としての戦略的な有用性によって測られました。この植民地支配の経験は20世紀後半の独立後もこれらの島嶼国家が抱える経済的な脆弱性や政治的な課題の根源となり今もなおその影響を色濃く残しているのです。
7. 日清・日露戦争と日本の台頭
19世紀後半アジアのほとんどの国が西洋列強の帝国主義の圧力の前にその主権を侵食され植民地あるいは半植民地へと転落していく中で、唯一日本だけが例外的な道を歩みました。明治維新という急速な自己改革を通じて西洋をモデルとした近代的な国民国家の建設に成功した日本は、今度は自らが西洋列強と同じ帝国主義のプレイヤーとしてアジアの国際政治の舞台に登場します。その矛先が向けられたのが眠れる獅子清朝中国と南下を続ける巨大な熊ロシア帝国でした。日本の大陸進出の生命線と見なされた朝鮮半島の支配をめぐって日本がこの二つのアジアの大国と戦った「日清戦争」(1894-1895)と「日露戦争」(1904-1905)は近代の東アジア史の流れを決定づける重大な転換点でした。これらの戦争における日本の勝利は西洋以外の国が初めて近代的な戦争で西洋列強(あるいはその影響下にある大国)を打ち破った衝撃的な出来事であり日本を世界の主要国(一等国)の仲間入りをさせると同時に、アジアの他の国々のナショナリズムを強く刺激することになったのです。
7.1. 日清戦争:東アジアの旧秩序の崩壊
明治維新後の日本の対外政策の最大の関心事はロシアの南下政策から自国の安全保障をいかにして守るかという点にありました。そしてその安全保障上の生命線と見なされたのが日本のすぐ隣に位置する朝鮮半島でした。もし朝鮮がロシアのような強大な大陸国家の支配下に入ればその脅威は直接日本に及ぶと考えられたのです。そのため日本は朝鮮を清の影響下から切り離し自国の影響下に置くことを目指すようになります。
当時の朝鮮(李氏朝鮮)は清の冊封国としてその宗主権を認める伝統的な関係にありましたが国内では開国をめぐって保守的な事大党(清に依存する)と日本の明治維新をモデルに近代化を目指す金玉均らの親日的な開化派(独立党)が対立していました。
1894年朝鮮で東学という新興宗教を信じる農民たちが政治の腐敗と外国勢力の進出に反対して大規模な反乱(甲午農民戦争、東学党の乱)を起こすと、朝鮮政府はこれを鎮圧するため宗主国である清に援軍を要請しました。清が出兵すると日本もまた自国の権益を守るという名目で朝鮮に軍隊を派遣しました。
反乱が鎮圧された後も両国の軍隊は撤退せず朝鮮の内政改革をめぐって対立が激化。そして1894年7月ついに日本と清の間で戦争が始まりました。これが日清戦争です。
当時の国際的な予想では眠れる獅子清の勝利が確実視されていました。しかし洋務運動による近代化がまだ表面的であった清の軍隊(特に北洋艦隊)は統一された指揮系統を欠き士気も低かったのに対し、明治維新を経て国民国家としてのまとまりを持ち西欧式の訓練と装備を整えた日本軍は陸戦でも海戦(黄海海戦)でも連戦連勝を重ねました。
7.2. 下関条約と三国干渉
日本の圧倒的な勝利の下に1895年4月山口県の下関で講和条約(下関条約)が結ばれました。
- 下関条約の内容:
- 清は朝鮮の独立を承認する(事実上朝鮮に対する宗主権を放棄する)。
- 遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
- 巨額の賠償金(2億両)を日本に支払う。
- 沙市、重慶、蘇州、杭州の4港を新たに開港する。
- 日本の中国での企業設立権を認める。
この条約は日本の完全な勝利を示すものであり特に台湾の割譲は日本が最初の植民地を獲得し帝国主義国家の仲間入りをしたことを意味しました。また欧米列強はこの条約で認められた中国での企業設立権を最恵国待遇を利用して自らも獲得し、これを足がかりに中国の分割をめぐる競争を本格化させていきます(中国分割)。
しかしこの日本の勝利に待ったをかけたのがロシアでした。ロシアは自らが狙っていた満州への南下の足がかりとなる遼東半島を日本が領有することに強く反発しました。そして同じくドイツ、フランスを誘い三国は日本に対して遼東半島を清に返還するよう強力な圧力をかけました。これが「三国干渉」です。
まだこの三つの大国と同時に戦う力のない日本はこの勧告を受け入れざるを得ませんでした。この屈辱的な経験は日本国民の間にロシアへの強い復讐心を植え付け、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」をスローガンに国家を挙げての軍備拡張へと向かわせる大きな動機となりました。
7.3. 日露戦争:新興国日本の大博打
三国干渉の後ロシアは遼東半島の旅順・大連を租借し満州における権益を着々と拡大していきました。さらに義和団事件後も満州に大軍を駐留させ続けその影響力は朝鮮半島にも及び始めました。
朝鮮半島をロシアの勢力下に置かれることを自国の存亡の危機と捉えた日本はロシアとの対決を決意します。このアジアの新興国が巨大なヨーロッパの帝国に戦いを挑むという無謀とも思える戦争に踏み切る上で日本の大きな支えとなったのが1902年に結ばれた日英同盟でした。ロシアの極東進出を警戒するイギリスとロシアへの対抗上同盟国を必要とする日本の利害が一致したこの同盟は日本の国際的な地位を高め、ロシアとの戦争に際して第三国の干渉を防ぐ上で大きな役割を果たしました。
1904年2月日本は旅順港のロシア艦隊を奇襲攻撃し日露戦争が始まりました。
戦争は日本の国力を遥かに超える総力戦となりました。陸戦では奉天会戦などで辛くも勝利を収めましたが203高地の攻略などおびただしい犠牲を払いました。そして戦争の帰趨を決したのが海戦でした。ヨーロッパから地球を半周してやってきたロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が東郷平八郎司令長官の指揮の下、1905年5月対馬沖で迎え撃ちました(日本海海戦)。この海戦で日本は世界の海戦史上例のない完璧な勝利を収めロシアの戦争継続能力に決定的な打撃を与えました。
7.4. ポーツマス条約とその影響
ロシア国内でもこの敗戦をきっかけに第一次ロシア革命(血の日曜日事件)が勃発し戦争継続が困難となりました。一方日本もこれ以上の戦争遂行は国力・財政の限界でした。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介の下1905年9月アメリカのポーツマスで講和条約(ポーツマス条約)が結ばれました。
- ポーツマス条約の内容:
- 日本の韓国(大韓帝国)に対する指導・監督権を認める。
- ロシアは旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道(南満州鉄道)の利権を日本に譲渡する。
- 樺太(サハリン)の南半分を日本に割譲する。
日本は戦争に勝利したものの賠償金を獲得することができなかったため、国内では条約に不満を抱く民衆による暴動(日比谷焼打事件)が起こりました。
しかしこの戦争の国際的な影響は計り知れませんでした。
- 日本の列強入り: 日本はこの勝利によって朝鮮と南満州における権益を確保し欧米列強と肩を並べる帝国主義国家としての地位を確立しました。日本はその後韓国併合(1910年)へと突き進んでいきます。
- アジアの民族運動への影響: 有色人種の日本が白色人種の大国ロシアを打ち破ったという事実は当時欧米列強の植民地支配に苦しんでいたアジアの諸民族(インド、ベトナム、トルコ、イランなど)のナショナリズムを強く刺激し大きな希望と勇気を与えました。
- ロシア革命への影響: 戦争の敗北はロシアのツァーリズムの権威を失墜させ革命運動を激化させる直接的な原因となりました。
結論として日清・日露戦争は近代化に成功した日本が帝国主義的な膨張政策へと踏み出し東アジアの国際秩序を力によって再編成していく決定的な過程でした。その勝利は日本を世界の主要国へと押し上げましたが、それは同時に中国や朝鮮の人々の犠牲の上に成り立つものでありその後の20世紀の東アジアにおける複雑で悲劇的な対立の歴史の直接的な出発点ともなったのです。
8. 三国同盟と三国協商
19世紀末から20世紀初頭にかけて帝国主義列強が全世界の植民地と市場をめぐって熾烈な争奪戦を繰り広げる中で、その対立の震源地であるヨーロッパ大陸では国際関係が急速に硬直しもはや後戻りのできない危険な状態へと向かっていました。かつてビスマルクが巧みに操っていた柔軟な同盟関係は姿を消しその代わりにヨーロッパは互いに敵意をむき出しにする二つの巨大で固定的な軍事同盟ブロックへと分断されていったのです。一方はドイツ帝国を中心とする「三国同盟」、もう一方はそのドイツの挑戦に対抗するためかつての宿敵同士が手を結んだ「三国協商」です。この二つの巨大な同盟システムはそれぞれが集団的自衛権を掲げ互いに仮想敵国として大規模な軍備拡張競争(特に英独間の建艦競争)を繰り広げました。ヨーロッパはあたかも二つの巨大な武装したキャンプが互いに睨み合う一触即発の「武装せる平和」の状態に陥ったのです。この硬直した同盟システムは本来なら局地的な紛争で終わるはずの問題を自動的にヨーロッパ全体、ひいては全世界を巻き込む大戦争へとエスカレートさせる破滅的な連鎖反応のメカニズムを内包していました。
8.1. ビスマルクの同盟網:フランスの孤立化
1871年にドイツの統一を達成した帝国宰相ビスマルクはその後のヨーロッパ外交の中心人物となりました。彼の外交の基本目標はただ一つ、普仏戦争でアルザス・ロレーヌを奪われたフランスの復讐を恐れフランスを外交的に完全に孤立させることでした。彼は「満足せる国家」ドイツがもはや領土的野心を持たないことを各国に示し自らを「誠実な仲買人」と称してヨーロッパの平和の維持に努めました。
そのために彼は極めて複雑で巧妙な同盟網をヨーロッパ中に張り巡らせました。
- 三帝同盟(1873年): まず彼はドイツ、オーストリア、ロシアという三つの保守的な君主国の間で同盟を結びました。これはフランスの共和主義的な思想が自国に波及することを恐れる君主間の連帯を利用してフランスを包囲する狙いがありました。
- 三国同盟(1882年): 1870年代後半バルカン半島をめぐるロシアとオーストリアの対立(東方問題)が激化し三帝同盟が機能しなくなるとビスマルクは新しい同盟を模索します。彼はまずオーストリアと秘密の軍事同盟(独墺同盟)を結びロシアの攻撃に備えました。さらにフランスのチュニジア占領に不満を抱いていたイタリアをこの同盟に加え1882年「三国同盟」が成立しました。これはドイツ、オーストリア、イタリアの三国が相互に防衛を約束する強力な軍事同盟ブロックでした。
- 再保障条約(1887年): フランスを孤立させるためにはフランスとロシアが同盟を結ぶことだけは絶対に避けなければなりませんでした。そのためビスマルクはオーストリアとの同盟を維持しながら同時にロシアとも秘密の中立条約である「再保障条約」を結びました。これはもしドイツがフランスから攻撃された場合ロシアは中立を守り、もしロシアがオーストリアから攻撃された場合ドイツは中立を守るという極めて曲芸的な内容の条約でした。
このビスマルクの複雑な同盟システムはヨーロッパに一時的な安定をもたらしましたが、それはビスマルクという天才的な外交官個人の手腕に過度に依存した極めて脆弱なものでもありました。
8.2. ビスマルク後の世界政策と同盟関係の再編
1890年若き皇帝ヴィルヘルム2世がビスマルクを更迭するとヨーロッパの外交風景は一変します。ヴィルヘルム2世はビスマルクの慎重な大陸政策を時代遅れと見なしドイツの国力にふさわしい積極的な「世界政策」を追求しました。
その最初のそして致命的な失策がロシアとの再保障条約の更新を拒否したことでした。ビスマルクが最も恐れていた事態、すなわち孤立したフランスとドイツに敵意を抱くロシアが接近するのはもはや時間の問題でした。
- 露仏同盟(1891-1894年): ドイツからの脅威とフランスからの経済援助を背景に共和制国家フランスと専制国家ロシアというイデオロギー的に全く異なる二つの国が軍事同盟を結びました。これによりドイツは東西から敵に挟撃される「二正面作戦」の悪夢に直面することになりました。ビスマルクの外交システムはここに崩壊しました。
8.3. 三国協商の成立
ヨーロッパ大陸で三国同盟と露仏同盟が対峙する中イギリスは依然として「光栄ある孤立」を守っていました。しかし20世紀初頭ドイツの挑戦的な世界政策がイギリスの国益を直接脅かすようになるとイギリスもついにその伝統的な外交方針を転換せざるを得なくなりました。
- 建艦競争: ドイツがイギリスの海上覇権に挑戦する大規模な艦隊の建設を開始するとイギリスはこれを自国の安全保障に対する最も深刻な脅威と見なしました。
- 英仏協商(1904年): ドイツの脅威に対抗するためイギリスは長年の植民地をめぐるライバルであったフランスと歴史的な和解を遂げます。両国はそれぞれの植民地における権益(イギリスのエジプト、フランスのモロッコ)を相互に承認しドイツに対する外交的な協力関係を築きました。これは軍事同盟ではありませんでしたが事実上ドイツを包囲する強力な枠組みとなりました。
- 英露協商(1907年): 日露戦争で極東での南下を阻止されたロシアが再びバルカン半島に関心を向け始めると、ドイツの3B政策に脅威を感じていたイギリスは中央アジアにおける長年のライバルであったロシアとも和解の道を選びます。両国はペルシア、アフガニスタン、チベットにおけるそれぞれの勢力範囲を定め対立を解消しました。
この英仏協商と英露協商の成立によって既存の露仏同盟と合わせてイギリス、フランス、ロシアの三国間には「三国協商」と呼ばれる強固な協力関係が成立しました。
これによりヨーロッパはドイツ、オーストリア、イタリアからなる「三国同盟」とイギリス、フランス、ロシアからなる「三国協商」という二つの敵対的な軍事・外交ブロックへと完全に分断されてしまいました。
この二つの同盟システムは本来なら勢力均衡を保ち戦争を抑止する機能が期待されていました。しかし現実に起こったのはその逆でした。どちらの陣営も相手に対する不信感から際限のない軍備拡張競争に走りまた同盟国が戦争を始めた場合自国も自動的に参戦しなければならないという集団的自衛権の義務がかえって局地的な紛争を世界大戦へと拡大させる危険な「罠」となってしまったのです。ヨーロッパは自ら仕掛けた罠に足を取られ破滅へと向かって歩みを進めていました。
9. バルカン戦争
20世紀初頭三国同盟と三国協商という二つの巨大な軍事ブロックが睨み合うヨーロッパの中で、いつ火を噴いてもおかしくない最も危険な火薬庫となっていたのがバルカン半島でした。かつてこの地域を支配していたオスマン帝国が著しく衰退し「瀕死の病人」と化す中でその支配から脱しようとするギリシア、セルビア、ブルガリア、ルーマニアといったスラブ系あるいはラテン系の諸民族のナショナリズムが激しく燃え上がっていました。そしてこの地域の民族的な対立にオーストリアのパン=ゲルマン主義(ゲルマン民族の統合)とロシアのパン=スラブ主義(スラブ民族の統合)という二つの大国の帝国主義的な野心が複雑に絡み合い、バルカン半島はヨーロッパのすべての矛盾が凝縮された一触即発の地域となっていたのです。1912年から1913年にかけてこの地で二度にわたって繰り広げられた「バルカン戦争」はオスマン帝国のヨーロッパにおける領土をほぼ一掃しましたが、同時に勝利したバルカン諸国間の新たな対立と特にセルビアとオーストリアの間の決定的な敵対関係を生み出し世界大戦の引き金を引く最後の準備を整える結果となったのです。
9.1. 「ヨーロッパの火薬庫」の背景
19世紀を通じてオスマン帝国の衰退は続いていました。ギリシアの独立に続きロシア・トルコ戦争の結果結ばれたベルリン条約(1878年)によってルーマニア、セルビア、モンテネグロが独立しブルガリアが自治国となるなど、オスマン帝国のバルカン半島における支配は大きく後退しました。
このオスマン帝国の弱体化という権力の真空状態をめぐって二つの外部勢力が激しく対立しました。
- オーストリア=ハンガリー帝国: 1867年アウスグライヒ(妥協)によってマジャール人に広範な自治を認める二重帝国となったオーストリアは、ドイツとイタリアの統一によって両地域への影響力を完全に失いその関心をバルカン半島へと集中させていました。彼らはパン=ゲルマン主義を掲げボスニア・ヘルツェゴヴィナを保護下に置くなどアドリア海への出口を求めて南下政策を進めました。彼らにとって最大の脅威は自国領内のスラブ系民族を刺激するセルビアのナショナリズムでした。
- ロシア帝国: ロシアは「スラブ民族の盟主」としてパン=スラブ主義を掲げバルカン半島のスラブ系諸国の独立運動を支援し、不凍港を求めてボスポラス・ダーダネルス海峡へと南下する機会を常に窺っていました。
そしてこの二つの大国の対立に火を注いだのがバルカン半島内部のナショナリズムの高まりでした。
- 青年トルコ革命: 1908年オスマン帝国内で「青年トルコ人」の将校たちがスルタンの専制を打倒し憲法(ミドハト憲法)の復活を求める革命(青年トルコ革命)を起こしました。このオスマン帝国の国内の混乱は周辺国に絶好の機会を与えました。
- オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合: この混乱に乗じてオーストリアはそれまで行政権のみを持っていたボスニア・ヘルツェゴヴィナを1908年正式に併合しました。
- 大セルビア主義: この併合はボスニア・ヘルツェゴヴィナの領有を狙っていたセルビア王国の激しい怒りを買いました。セルビアは南スラブ系の民族を統合し「大セルビア」を建設するというナショナリズムを掲げておりオーストリアとは決定的に対立する関係にありました。
9.2. 二度のバルカン戦争
オスマン帝国のさらなる弱体化とイタリアがオスマン帝国との戦争(伊土戦争)でリビア(トリポリ・キレナイカ)を獲得したことに勇気づけられ1912年バルカン半島の諸国はロシアの後押しで歴史的な同盟を結びます。
- バルカン同盟: セルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアの四カ国は「バルカン同盟」を結成しオスマン帝国内に残るマケドニア地方などのキリスト教徒の解放を名目にオスマン帝国に共同で戦いを挑みました。
第一次バルカン戦争(1912年)
バルカン同盟軍は予想をはるかに超える速さでオスマン軍を打ち破り、オスマン帝国は首都イスタンブール周辺を除くヨーロッパ領土のほとんどすべてを失いました。
しかし戦争が終わると今度は獲得した領土の配分をめぐって勝利した同盟国間で深刻な対立が生じました。特にマケドニアの領有をめぐるセルビアとブルガリアの対立が激化しました。またセルビアがアドリア海への出口を確保することを恐れたオーストリアが介入しアルバニアの独立を認めさせたためセルビアの不満はさらに高まりました。
第二次バルカン戦争(1913年)
領土配分に不満を抱いたブルガリアが今度はかつての同盟国であったセルビアとギリシアに攻撃を仕掛けたことで第二次バルカン戦争が始まりました。この戦争ではルーマニアとオスマン帝国もブルガリアに敵対して参戦しブルガリアは四方を敵に囲まれ惨敗しました。
その結果マケドニアの大部分はセルビアとギリシアによって分割されブルガリアは獲得した領土のほとんどを失いました。
9.3. 大戦への道
この二度にわたるバルカン戦争はヨーロッパの政治情勢に極めて危険な変化をもたらしました。
- オスマン帝国の後退: オスマン帝国はバルカン半島の領土をほぼ完全に失いその衰退を決定的なものにしました。
- セルビアの台頭とオーストリアとの対立: この戦争の最大の勝者は領土を大幅に拡大させたセルビアでした。その国力の増大とナショナリズムの高まりはセルビアを「大セルビア主義」の実現に向けてますます大胆にさせました。そしてその野心の最大の障害はボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合し多くの南スラブ系民族を支配下に置くオーストリア=ハンガリー帝国でした。両国の対立はもはや妥協の余地のない抜き差しならないものとなっていたのです。
- ロシアとオーストリアの代理戦争: セルビアの背後にはパン=スラブ主義を掲げるロシアが、そしてオーストリアの背後には三国同盟の盟主であるドイツが控えていました。バルカン半島におけるセルビアとオーストリアの対立は事実上ロシアとドイツ・オーストリアという二つの巨大な同盟ブロックの代理戦争の様相を呈していました。
結論としてバルカン戦争は「ヨーロッパの火薬庫」にまさに火がつきかかっていることを示す最後通牒でした。オスマン帝国の衰退が生み出した権力の真空地帯は地域のナショナリズムと列強の帝国主義が衝突する絶好の舞台となりました。そしてこの地で高まったセルビアとオーストリアの間の殺意にも似た敵意が1914年6月ボスニアの州都サラエヴォで放たれる一発の凶弾によって爆発する時、三国同盟と三国協商というヨーロッパを縛り付ける時限爆弾の導火線に火がつけられることになるのです。
10. 第一次世界大戦前夜の国際関係
1914年の夏ヨーロッパはその歴史上最も豊かで平和でそして楽観的な時代(ベル・エポック)のただ中にあるように見えました。科学技術は目覚ましい進歩を遂げ経済はグローバルに結びつき人々の生活水準は向上していました。しかしその輝かしい文明の表面下では長年にわたって蓄積されてきた帝国主義的な対立、ナショナリズムの憎悪、そして軍国主義の狂気が地殻のエネルギーのように溜まり破局の時を待っていました。ヨーロッパは三国同盟と三国協商という二つの武装した陣営に分かれ互いに不信感を募らせながら際限のない軍備拡張競争に明け暮れていました。「武装せる平和」と呼ばれたこの奇妙な安定は極めて脆弱で危険なものでした。二度にわたるモロッコ事件やバルカン戦争といった一連の国際的な危機はその度ごとにヨーロッパを大戦の淵へと近づけ、そしてついに1914年6月28日サラエヴォでの一発の銃声がこの張り詰めた平和を永遠に粉砕することになります。
10.1. 武装せる平和:軍備拡張競争
20世紀初頭のヨーロッパの国際関係を特徴づけるのは、平和が外交的な信頼ではなく軍事的な抑止力によってかろうじて維持されているという逆説的な状況でした。
- 陸軍の増強: ドイツの急速な工業化と人口増加はその潜在的な軍事力を飛躍的に増大させました。これに脅威を感じたフランスやロシアも対抗して徴兵期間の延長や鉄道網の整備など陸軍の大規模な増強を進めました。各国は精緻な動員計画(ドイツのシュリーフェン・プランなど)を策定し一旦戦争が始まれば数百万の兵士を数日のうちに前線に送り込むことが可能な態勢を整えていました。
- 建艦競争: 最も熾烈で象徴的であったのがイギリスとドイツの間の海軍力をめぐる競争でした。ドイツが「世界政策」の一環として巨大な戦艦の建造を開始すると海上における覇権を自国の生命線と見なすイギリスはこれを深刻な挑戦と受け止めました。1906年イギリスが画期的な性能を持つ巨大戦艦「ドレッドノート号」を進水させるとこれまでの戦艦はすべて旧式化し両国の建艦競争はさらにエスカレートしました。この建艦競争はイギリスのドイツに対する敵意を決定的なものにし三国協商へと向かわせる最大の要因となりました。
この軍備拡張競争はそれぞれの国で軍部の政治的な発言力を強めまた兵器を生産する軍需産業を肥大化させました。そして国民の間には戦争は避けられない宿命であるという破滅的な雰囲気を醸成していきました。
10.2. 二度の国際危機:モロッコ事件
三国同盟と三国協商の間の緊張関係は植民地をめぐる二度の国際的な危機によって試されました。
- 第一次モロッコ事件(タンジール事件、1905年): フランスが北アフリカのモロッコにおける支配権を確立しようと動いたのに対しドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は自らモロッコの港町タンジールを訪問しモロッコのスルタンの主権と独立を支持すると演説しフランスを牽制しました。これは成立したばかりの英仏協商を試すドイツの威嚇行動でしたが結果はドイツの思惑とは逆になりました。国際会議(アルヘシラス会議)ではイギリスがフランスを強く支持しドイツは外交的に孤立しました。この事件は英仏の結束をかえって強める結果となりました。
- 第二次モロッコ事件(アガディール事件、1911年): モロッコで反フランスの暴動が起こりフランスが軍を派遣するとドイツは再びこれに干渉し軍艦パンター号をモロッコの港町アガディールに派遣しフランスを威嚇しました。この時もイギリスはフランスを断固として支持する姿勢を示しドイツは再び譲歩を余儀なくされました。その見返りにフランス領コンゴの一部を得ましたがドイツの外交的な威信は大きく傷つきました。
これらの危機は戦争には至らなかったもののドイツの挑戦的な外交が三国協商の結束を強固にしドイツ自身の孤立を深めていることを示しました。
10.3. 1914年:サラエヴォの銃声
そして1914年6月28日ヨーロッパの運命を決定づける事件がバルカン半島の小都市サラエヴォで起こりました。
- 事件の背景: サラエヴォは1908年にオーストリアが併合したボスニア・ヘルツェゴヴィナの州都でした。この地域には多くのセルビア人が住んでおり彼らはオーストリアの支配に反発し隣国のセルビア王国との統合を夢見ていました。セルビアのナショナリストたちは秘密結社(「黒手組」など)を組織しオーストリアに対するテロ活動を行っていました。
- 暗殺: この日オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエヴォを公式訪問しました。彼らが市内をパレードしている最中セルビア系の青年ナショナリストガヴリロ・プリンツィプが放った凶弾が大公夫妻を貫き二人は命を落としました。
このサラエヴォ事件はそれ自体はバルカン半島の一つのテロ事件に過ぎませんでした。しかしそれはヨーロッパ中に張り巡らされた同盟システムの時限爆弾のスイッチを押す役割を果たしてしまったのです。
- 最後通牒と開戦: オーストリア政府はこの暗殺事件の背後にセルビア政府がいると確信しこれをセルビアのナショナリズムを完全に叩き潰す絶好の機会と捉えました。オーストリアは同盟国ドイツから全面的な支持の約束(「白紙小切手」)を取り付けた上で7月23日セルビアに対して到底受け入れ不可能な最後通牒を突きつけました。
- 連鎖反応: セルビアがこの最後通牒の一部を拒否すると7月28日オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。これに対しセルビアの保護者を自任するロシアがオーストリアに対して総動員令を発令。するとロシアの動員を脅威と見なしたドイツがロシアに宣戦布告。さらにドイツはロシアの同盟国であるフランスにも宣戦布告し中立国ベルギーを侵犯してフランスに侵攻しました(シュリーフェン・プラン)。そしてベルギーの中立が侵されたことを理由にイギリスがドイツに宣戦布告。
こうしてわずか一ヶ月ほどの間にヨーロッパの主要国は三国同盟側(ドイツ、オーストリア。イタリアは中立を宣言)と三国協商側(イギリス、フランス、ロシア、セルビア)に分かれて次々と戦争に突入していきました。それぞれの国の国民は短期の栄光ある戦争を信じ愛国的な熱狂の中で兵士たちを戦場へと送り出したのです。誰もこの戦争がその後4年以上にわたって続き1千万以上の命を奪いヨーロッパ文明そのものを崩壊の淵へと追いやる未曾有の大殺戮となるとは予想していませんでした。
結論として第一次世界大戦はサラエヴォの一発の銃声によって偶発的に始まったのではありません。それは帝国主義、ナショナリズム、軍国主義、そして硬直した同盟システムという19世紀後半を通じてヨーロッパが自ら育て上げてきた複数の構造的な要因がもたらした必然的な帰結でした。1914年の夏ヨーロッパは自らが掘った墓穴へと夢遊病者のように歩みを進めていったのです。
Module 16:帝国主義の時代の総括:世界の分割と避けられなかった破局
本モジュールが探求した19世紀末から20世紀初頭にかけての時代は第二次産業革命によって強大な力を手にした西欧列強がその論理的な帰結として地球上の富と領土を完全に分割し尽くす「帝国主義」の頂点であった。資本輸出の必要性と剥き出しのナショナリズムが一体となり列強はアフリカの内陸から太平洋の小島に至るまで全世界を自らの勢力圏へと組み込んでいった。このグローバルな生存競争は西洋以外の世界に深刻な動揺と従属を強いた一方で競争の当事者である列強自身の間にも深刻な亀裂を生み出した。ドイツの挑戦的な「世界政策」を軸としてヨーロッパは三国同盟と三国協商という二つの敵対的な武装ブロックへと硬直化し、もはや外交的な柔軟性を失ってしまった。建艦競争と二度の国際危機、そして「ヨーロッパの火薬庫」バルカン半島の紛争はこの巨大な時限爆弾の秒針を着実に進めていった。帝国主義の時代はヨーロッパがその力の絶頂を謳歌した時代であると同時にその力の論理そのものが自らを破滅させる世界大戦へと不可避的に向かっていく壮大な悲劇の序章でもあったのである。