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【基礎 世界史(通史)】Module 17:第一次世界大戦とロシア革命
本モジュールの目的と構成
1914年の夏ヨーロッパは「ベル・エポック(良き時代)」と呼ばれた長期の平和と繁栄の頂点にあるように見えました。しかしその文明の薄い表皮の下では前モジュールで探求した帝国主義の対立、剥き出しのナショナリズム、そして硬直化した軍事同盟システムが世界を未曾有の破局へと導く時限爆弾の導火線に火がつくのを待っていました。本モジュールで探求するのはサラエヴォで放たれた一発の銃声が引き金となりヨーロッパ文明そのものを崩壊の淵へと追いやった人類史上最初の総力戦「第一次世界大戦」と、その戦争の巨大な圧力の中から全く新しい社会システムを掲げる国家が誕生した「ロシア革命」です。この二つの出来事は単に並行して起こったのではなく相互に深く結びついた一つの巨大な歴史的変動でした。戦争は革命の触媒となり革命は戦争の行方を左右しました。この大戦と革命を通じてハプスブルク家、オスマン家、ホーエンツォレルン家、そしてロマノフ家というヨーロッパの歴史を長らく支配してきた四つの巨大な帝国は歴史の舞台から姿を消しました。そしてその廃墟の中からアメリカが世界の新たな主役として登場しヴェルサイユ条約と国際連盟という新しい国際秩序を構築しようと試みます。しかしその試みは多くの矛盾をはらみ次の時代のさらなる悲劇の種を蒔くことにもなりました。本モジュールはこの旧世界の最終的な崩壊と現代世界の原型が形作られていく激動の過程を解き明かすことを目的とします。
この20世紀の始動を告げる巨大な地殻変動を理解するため本モジュールは以下の学習項目で構成されています。
- サライェヴォ事件と第一次世界大戦の勃発: ヨーロッパの火薬庫バルカン半島で起こった一人の皇太子の暗殺事件が、いかにして列強の硬直した同盟システムを連鎖反応させわずか一ヶ月でヨーロッパ全土を巻き込む大戦争へと発展したのか、その破滅的なメカニズムを分析します。
- 総力戦体制: これまでの戦争とは全く異なり国家がその経済、産業、国民生活のすべてを戦争遂行のために動員する「総力戦」という新しい戦争形態の実態とそれが社会にもたらした変化を探ります。
- 西部戦線の膠着と塹壕戦: 短期決戦の目論見が外れ機関銃と鉄条網に守られた塹壕(ざんごう)が戦場を支配する中で、兵士たちがいかにして何年にもわたる不毛で悲惨な消耗戦を強いられたのかその実態に迫ります。
- ロシア革命(三月革命、十一月革命): 総力戦の重圧に耐えきれず内部から崩壊したロシア帝国で、なぜ二度の革命が起こり当初のブルジョワ革命からレーニン率いるボリシェヴィキによる世界初の社会主義革命へと至ったのかを解明します。
- ソヴィエト政権の成立: 権力を掌握したボリシェヴィキがいかにして単独講和、内戦の勝利、そして戦時共産主義を通じて世界初の社会主義国家「ソヴィエト政権」の基礎を固めていったのかを検証します。
- アメリカの参戦とドイツの敗北: ドイツの無制限潜水艦作戦がなぜ中立を維持していたアメリカの参戦を招き、その圧倒的な国力が大戦の最終的な勝敗をいかにして決定づけたのかを分析します。
- パリ講和会議とヴェルサイユ条約: 戦勝国がパリに集まり新しい世界秩序を構築しようとした講和会議で、ウィルソンの理想主義と英仏の現実主義がいかに衝突しドイツに過酷な条件を課すヴェルサイユ条約が生まれたのかを詳述します。
- 国際連盟の設立とその限界: 戦争の惨禍を繰り返さないためウィルソンの提唱で生まれた世界初の集団安全保障機構「国際連盟」の理念と、アメリカの不参加や軍事的制裁能力の欠如といったその構造的な限界を探ります。
- ドイツのヴァイマル共和政: 敗戦と革命の中から生まれたドイツの新しい民主共和国がヴェルサイユ条約の屈辱、天文学的なインフレーション、そして左右両派からの攻撃にさいなまれながらいかにして困難な船出を強いられたのかを分析します。
- ワシントン体制: ヨーロッパとは別に戦後のアジア太平洋地域における新しい国際秩序を構築するため開かれたワシントン会議と、そこで確立された海軍軍縮や中国の主権尊重といった「ワシントン体制」の実態とその意義を考察します。
本モジュールを通じて読者は第一次世界大戦とロシア革命が19世紀的な楽観主義と帝国主義の時代の最終的な破産宣告であり、20世紀というイデオロギーの対立と大衆の動員の時代の血塗られた幕開けであったことを深く理解するでしょう。
1. サライェヴォ事件と第一次世界大戦の勃発
1914年6月28日ボスニアの州都サライェヴォはオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻の訪問で祝賀ムードに包まれていました。しかしこの日この街角で放たれた数発の銃弾がヨーロッパ全土を、そして最終的には全世界をそれまで人類が経験したことのない未曾有の大殺戮へと導く巨大な雪崩の最初の小石となることを誰が予想できたでしょうか。サラエヴォ事件はそれ自体はバルカン半島の民族問題を背景とした一つのテロ事件に過ぎませんでした。しかし帝国主義的な対立と硬直した同盟システムによってヨーロッパ全土が極度の緊張状態にあった当時、この事件は各国が抱える恐怖と野心そして誤算を連鎖的に爆発させる完璧な引き金となってしまったのです。事件後の約1ヶ月間いわゆる「七月の危機」においてヨーロッパの指導者たちは次々と破滅的な決断を下し、自動操縦のように全面戦争へと突き進んでいきました。
1.1. 事件の背景:「ヨーロッパの火薬庫」
事件の舞台となったボスニア・ヘルツェゴヴィナは1908年にオーストリアが併合した地域であり多くのセルビア人が住んでいました。彼らはオーストリアの支配に反発し隣国のセルビア王国との統一を熱望していました。セルビアは「大セルビア主義」を掲げオーストリア領内の南スラブ系民族の統合を目指しており、その背後にはスラブ民族の盟主としてバルカン半島への影響力拡大を狙うロシアがいました。
一方のオーストリア=ハンガリー帝国にとってこのセルビアのナショナリズムは、自国領内の多くのスラブ系民族の独立運動を誘発しかねない帝国の存立を脅かす最大の脅威でした。オーストリアとセルビアの対立はまさに一触即発の状態にあったのです。
暗殺の実行犯はガヴリロ・プリンツィプというボスニア在住のセルビア人の青年ナショナリストでした。彼はセルビアの民族主義的な秘密結社「黒手組(ブラックハンド)」の支援を受けていたとされています。
1.2. 七月の危機:破局への連鎖反応
サラエヴォでの暗殺事件の報を受けたオーストリア政府首脳部はこれをセルビアの国家的なテロ行為であると断定し、この機会にセルビアを完全に叩き潰しバルカン半島におけるナショナリズムの脅威を根絶しようと決意しました。しかしセルビアに手を出せばその背後にいるロシアが黙ってはいないでしょう。
- ドイツの「白紙小切手」: オーストリアは同盟国であるドイツに支援を求めました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と政府はオーストリアの強硬策を全面的に支持し、もしロシアが介入してきた場合にはドイツがオーストリアを助けて参戦することを約束しました。この無条件の支持表明はオーストリアにいわば「白紙小切手」を渡したようなものでありオーストリアの強硬姿勢をますます大胆にさせました。
- オーストリアの最後通牒: ドイツの支持を確信したオーストリアは7月23日セルビアに対し国家主権の侵害を含む到底受け入れ不可能な10箇条からなる最後通牒を突きつけ、48時間以内の回答を求めました。
- 開戦へのドミノ: セルビアはロシアの支援を期待しつつも戦争を避けるため最後通牒のほとんどの条項を受け入れましたが、唯一オーストリアの役人がセルビア国内で捜査活動を行うという条項だけは主権侵害であるとして拒否しました。これを口実にオーストリアは7月28日セルビアに宣戦布告し首都ベオグラードへの砲撃を開始しました。
このオーストリアの行動はヨーロッパ中に張り巡らされた同盟システムを自動的に作動させるスイッチを押してしまいました。
- ロシアの総動員: 7月30日セルビアの保護者を自任するロシアはオーストリアの行動に対抗するため全軍に対する総動員令を発令しました。
- ドイツの参戦: ロシアの総動員はドイツにとって直接的な脅威でした。ドイツはロシアに動員停止を要求しましたがこれが無視されると8月1日ロシアに宣戦布告しました。
- ドイツのフランスへの宣戦布告: ドイツの戦争計画(シュリーフェン・プラン)はまず西方のフランスを電撃的に打ち破り、その後に全力を東方のロシアに向けるという二正面作戦を前提としていました。そのためドイツはロシアの同盟国であるフランスに対しても8月3日宣戦布告しました。
- イギリスの参戦: シュリーフェン・プランを実行するためドイツ軍は中立国であるベルギーに侵攻しました。ドイツはイギリスが大陸の紛争に介入しないことを期待していましたがベルギーの中立を保障するロンドン条約の署名国(signatory)であったイギリスはこれを見過ごすことができませんでした。またドイツが英仏海峡沿岸の港を支配することはイギリスの安全保障にとって致命的な脅威でした。8月4日イギリスはドイツに宣戦布告しました。
こうして三国同盟側(中央同盟国:ドイツ、オーストリア。イタリアは参戦せず後に連合国側で参戦)と三国協商側(連合国:イギリス、フランス、ロシア、セルビア)との間で、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦争が始まってしまったのです。
1.3. 短期決戦の幻想と戦争への熱狂
開戦当初ヨーロッパのほとんどの国々では戦争に対する熱狂的な支持が渦巻いていました。各国政府はプロパガンダを通じて自国の戦争が正義の防衛戦争であると国民に信じ込ませました。
パリ、ベルリン、ロンドン、ペテルブルクの街頭では若者たちが国旗を振りかざし「クリスマスまでには家に帰れる」と信じて意気揚々と兵役志願の列に並びました。社会主義者の国際組織である第二インターナショナルもそれまでの反戦の誓いを忘れ各国の社会主義政党は自国の戦争遂行を支持する(城内平和)という決定を下し、国際的な連帯はナショナリズムの熱狂の前に霧散しました。
誰もがこの戦争が過去の戦争のように数週間か数ヶ月で終わる短期決戦であると信じて疑いませんでした。しかし機関銃や大砲といった新しい兵器の圧倒的な防御力がもたらす現実を誰も正しく理解していませんでした。ヨーロッパは4年以上にわたる血腥い消耗戦という地獄の淵へと盲目的に突き進んでいったのです。
2. 総力戦体制
第一次世界大戦はそれまでの人類の歴史が経験したいかなる戦争ともその規模と性格において根本的に異なっていました。ナポレオン戦争でさえその戦闘は特定の戦場に限定され国家の資源のごく一部を用いて行われるプロの軍人たちの戦いでした。しかし第一次世界大戦は国家がその存亡を賭けて保有するあらゆる資源、すなわち経済力、工業力、そして国民一人一人の労働力と精神力までをもすべて戦争遂行という唯一の目的のために動員し尽くす「総力戦(Total War)」という全く新しい形態の戦争でした。前線の兵士だけでなく銃後の国民もまた戦争の重要な担い手となり国家による強力な統制の下で戦争を支えることが求められました。この総力戦体制への移行は各国の社会と経済のあり方を根底から変容させ、20世紀という新しい時代の特徴である大衆動員と国家による社会への全面的な介入の時代の幕開けを告げるものでした。
2.1. 総力戦の構成要素
総力戦体制はいくつかの相互に連関した要素から成り立っていました。
- 国民皆兵と大量動員:戦争の長期化と塹壕戦でのおびただしい消耗は各国に前例のない規模の兵力を要求しました。各国は徴兵制を通じて数百万、数千万人規模の若者を戦場へと送り込みました。もはや戦争は一部の職業軍人のものではなく国民全体の義務となりました。
- 経済の国家統制:この巨大な軍隊を維持するためには膨大な量の兵器、弾薬、食糧が必要でした。そのため各国政府はそれまでの自由主義的な経済原則(レッセ・フェール)を放棄し国家の経済活動全体を強力な統制下に置きました。
- 計画経済の導入: 政府は軍需生産を最優先するため重要な産業(鉄鋼、石炭、化学など)を管理下に置き原料の配給や生産量の割り当てを行うなど計画経済的な手法を導入しました。ドイツの戦時経済を指導したヴァルター・ラーテナウはこの分野の先駆者でした。
- 食糧の配給制: 食糧不足が深刻化すると各国は国民に対してパンや肉、砂糖といった生活必需品を切符によって配給する制度を導入しました。
- 科学技術の総動員:戦争の勝敗は兵士の勇敢さだけでなく科学技術の優劣にもかかっていました。科学者や技術者たちは国家のために動員されより強力な新兵器の開発にその知能を注ぎ込みました。
- 新兵器の登場: 機関銃や長距離砲の性能が向上しただけでなく航空機(偵察機から戦闘機、爆撃機へ)、戦車、潜水艦(ドイツのUボート)、そして毒ガス(塩素ガス、マスタードガスなど)といった新しい殺戮兵器が次々と戦場に投入され戦争の悲惨さを増大させました。
2.2. 銃後の社会変容
総力戦は前線だけでなく銃後の国民生活にも深刻で広範な影響を及ぼしました。
- 女性の社会進出:男性たちが大量に戦場に動員されたためその労働力の穴を埋めるために女性たちが軍需工場や交通機関、官公庁といったこれまで男性の職場とされていたあらゆる分野に進出しました。彼女たちは戦争遂行に不可欠な役割を果たしその社会的な地位は大きく向上しました。この戦争への貢献が戦後多くの国で女性参政権が認められる大きな要因となりました。
- プロパガンダと思想統制:戦争が長期化し国民の生活が困窮する中で政府は国民の戦意を維持し厭戦気分を抑え込むため、あらゆるメディア(新聞、ポスター、映画など)を利用した大規模なプロパガンダ(政治宣伝)を行いました。
- 敵意の煽動: 敵国を人間性を欠いた野蛮な怪物として描き国民の憎悪を煽り立てました。
- 情報の統制: 政府は検閲を強化し前線での敗北や不利な情報を隠蔽し戦争に対するいかなる批判的な言論も非国民として弾圧しました。
- 国家機能の拡大:総力戦を遂行するため国家は国民の生活のあらゆる側面に介入するようになりました。経済の統制から思想の統制、そして国民の健康管理に至るまで国家の機能と権限は戦時中に飛躍的に拡大しました。この傾向は戦後も継続し20世紀の「大きな政府」の時代の基礎を築きました。
2.3. 総力戦がもたらした帰結
総力戦は近代社会のあり方を根本的に変えました。
- 国家間の格差の露呈: 総力戦は各国の総合的な国力、特に工業生産力、技術力、そして社会の結束力が試される舞台でした。この過酷な消耗戦の中でロシアやオーストリア=ハンガリーといった前近代的な社会構造を抱え工業化が遅れていた帝国は、その矛盾を露呈し内部から崩壊していきました。
- 「勝者なき戦争」: 戦争は連合国側の勝利に終わりましたがその代償はあまりにも大きなものでした。戦勝国であるイギリスやフランスも膨大な人的、物的な損失を被りその国力は著しく疲弊しました。戦争によってヨーロッパは全体としてその国際的な地位を相対的に低下させ、代わってアメリカや日本といった新しい勢力が台頭してくるきっかけを作りました。
- 暴力の日常化と過激思想の台頭: 4年以上にわたる総力戦は社会における暴力の敷居を著しく低くしました。戦争の極限状況を経験した世代は政治的な対立を話し合いではなく暴力で解決しようとする傾向を強めました。この社会の過激化と戦争がもたらした経済的混乱は、戦後イタリアのファシズムやドイツのナチズムといった全体主義のイデオロギーが台頭するための肥沃な土壌を準備することになったのです。
結論として総力戦は戦争を単なる軍事的な出来事から社会全体の現象へと変えました。それは近代国家がその国民と資源をいかに効率的に動員し管理できるかという能力を競う壮大な実験であり、その過程で国家と社会そして個人との関係を永久に変容させたのです。第一次世界大戦の本当の恐ろしさは戦場での死者の数だけでなくそれが20世紀のその後の歴史を規定する新しい社会の論理を生み出してしまった点にあると言えるでしょう。
3. 西部戦線の膠着と塹壕戦
1914年8月第一次世界大戦が始まった時各国の将軍たちも兵士たちもそして銃後の国民も、誰もがこの戦争が数ヶ月で終わる短期決戦であると信じていました。特にドイツ軍がその国家の命運を賭けて立案した「シュリーフェン・プラン」は、まず主力を西部に集中させ中立国ベルギーを突破してフランス軍を包囲殲滅し6週間でパリを陥落させるという電撃戦の計画でした。しかしこの楽観的な目論見は開戦後わずか一ヶ月でマルヌの戦いで脆くも崩れ去ります。その後スイス国境から北海に至る約700キロの西部戦線では両軍が深く塹壕(ざんごう)を掘り鉄条網と機関銃で守りを固める前代未聞の膠着状態が現出しました。以後約4年間にわたってこの塹壕線を舞台に繰り広げられたのは数メートルの土地を奪い合うために何十万という兵士の命が無駄に失われていく、人類史上最も不毛で悲惨な消耗戦でした。この「塹壕戦(Trench Warfare)」の経験は戦争のロマンを完全に打ち砕き兵士たちの心に深い傷跡を残し20世紀の文学と芸術に暗い影を落とすことになります。
3.1. シュリーフェン・プランの破綻
ドイツの戦争計画のすべてはシュリーフェン・プランの成功にかかっていました。二正面(対フランス、対ロシア)での戦争を余儀なくされたドイツにとって動員に時間のかかるロシアが本格的に戦闘態勢を整える前に、西部のフランスを迅速に屈服させることが絶対条件でした。
計画通りドイツ軍はベルギーの中立を侵犯しフランス北部に深く侵攻しました。しかしいくつかの誤算が重なります。ベルギー軍の予想外の頑強な抵抗、そしてイギリス海外派遣軍の迅速な到着がドイツ軍の進撃を遅らせました。
そして1914年9月パリの目前まで迫ったドイツ軍はマルヌ川のほとりでフランス・イギリスの連合軍の決死の反撃に遭います(マルヌの会戦)。パリのタクシーまでが兵士の輸送に動員されたこの戦いでドイツ軍の進撃はついに阻止され後退を余儀なくされました。
このマルヌの敗北によってドイツの短期決戦の計画は完全に破綻しました。両軍は互いの側面を包囲しようと北へ北へと競い合うように戦線を延ばしていき(「海への競争」)、やがてその戦線はスイス国境からイギリス海峡に面するフランダース地方の海岸線まで達してしまいました。もはや包囲する側面はなくなり両軍はその場で地面を掘り自らの陣地を守るしかなくなったのです。
3.2. 塹壕という地獄
こうして西部戦線に出現した塹壕システムは極めて複雑で精巧な地下要塞でした。
- 塹壕の構造: 最前線の攻撃用の塹壕から後方の支援壕、予備壕、そしてそれらを結ぶ交通壕が網の目のように張り巡らされていました。塹壕の前には何重にも鉄条網が設置され機関銃の陣地が巧みに配置されて敵の突撃を待ち構えていました。
- 塹壕での生活: 兵士たちの生活は筆舌に尽くしがたいほど悲惨でした。塹壕の中は常にぬかるみ雨が降れば水浸しになりました。ネズミやシラミが大量に発生し兵士たちは不衛生な環境の中で絶えず伝染病の脅威にさらされました。食事も粗末で単調でした。そして何よりも彼らを苦しめたのは敵の狙撃兵やいつ飛んでくるか分からない砲弾の恐怖でした。多くの兵士が戦闘ではなくこの日常的な砲撃によって命を落としたりあるいは精神を病んだり(シェルショック)しました。
- 「ノーマンズ・ランド(無人地帯)」への突撃:この膠着状態を打破するため両軍の司令官たちが考え出した唯一の戦術は、大規模な準備砲撃の後に歩兵を塹壕から出して敵の陣地に突撃させるという単純で自殺的なものでした。兵士たちは重い装備を身につけ上官の笛の合図で塹壕を飛び出し、両軍の塹壕の間に広がる砲弾でえぐられた不毛の地帯「ノーマンズ・ランド(無人地帯)」を駆け抜けなければなりませんでした。しかし彼らを待ち受けていたのは準備砲撃を生き延びた敵の機関銃の十字砲火でした。兵士たちは鉄条網に絡まりあるいは機関銃の餌食となってなぎ倒されるように死んでいきました。
3.3. 不毛な大量殺戮:ヴェルダンとソンム
この塹壕戦の狂気を最も象徴しているのが1916年に行われた二つの大規模な会戦です。
- ヴェルダンの戦い: 1916年2月ドイツ軍はフランスの精神的な支柱であったヴェルダン要塞に対して大規模な攻勢を開始しました。ドイツ軍の目的は要塞を占領すること自体よりもむしろフランス軍をこの一点に引きずり込みその血を流し尽くさせる(出血させる)という恐るべき消耗戦を仕掛けることでした。フランス軍は「彼ら(ドイツ軍)を通すな!」を合言葉に決死の防衛戦を戦いました。約10ヶ月にわたって続いたこの戦いで両軍は合わせて70万人以上の死傷者を出しましたが戦線はほとんど動かずドイツ軍の目的は達成されませんでした。
- ソンムの戦い: ヴェルダンのフランス軍を救うため同年7月イギリス軍はソンム川の流域で大規模な攻勢を開始しました。イギリス軍は一週間にわたる猛烈な準備砲撃の後に突撃を開始しましたがドイツ軍の防御陣地は健在でした。突撃初日だけでイギリス軍は約6万人の死傷者を出すというイギリス陸軍史上最悪の一日を記録しました。この戦いではイギリス軍が秘密兵器である「戦車」を史上初めて投入しましたがまだ技術的に未熟であり戦局を覆すには至りませんでした。ソンムの戦いも数ヶ月にわたって続き両軍の死傷者は100万人を超えましたが得られた土地はごくわずかでした。
これらの戦いは何十万という人間の命がいかに無意味に工業的な効率で破壊されていくかという総力戦の非人間的な本質を白日の下に晒しました。
結論として西部戦線の膠着と塹壕戦は近代科学技術が生み出した兵器の破壊力が旧来の軍事思想や戦術を完全に凌駕してしまった結果でした。それはヨーロッパの若者たちの世代全体を肉体的にも精神的にも深く傷つけ戦争に対する英雄的なイメージを永遠に過去のものとしました。レマルクの小説『西部戦線異状なし』に代表されるようにこの戦争の不条理な経験は旧来の権威や価値観に対する根元的な不信感を生み出し、戦後のヨーロッパ社会に深い虚無感と幻滅(ロスト・ジェネレーション)をもたらすことになるのです。
4. ロシア革命(三月革命、十一月革命)
第一次世界大戦という巨大な総力戦の圧力は参戦した各国に極度の緊張を強いりましたが、その重圧に最も早くそして最も劇的な形で崩壊したのがヨーロッパの東の大国ロシア帝国でした。ピョートル大帝以来の上からの近代化にもかかわらずその社会の内部には皇帝による専制政治(ツァーリズム)と大多数の農民を縛り付ける前近代的な農奴制の残滓という深刻な矛盾が温存されていました。この脆弱な社会構造の上に築かれた国家は近代的な総力戦を戦い抜く国力を持っていませんでした。戦争の長期化と相次ぐ敗北、そして銃後の深刻な食糧不足は国民の不満を爆発させ1917年ロシアは二度にわたる革命の嵐に見舞われます。3月の第一の革命(三月革命)は300年続いたロマノフ朝を打倒しブルジョワジーによる自由主義的な臨時政府を樹立しました。しかしこの政府が国民の最大の願いであった戦争の停止を実現できなかった時11月の第二の革命(十一月革命)が起こり、レーニンに率いられた急進的な社会主義政党ボリシェヴィキが権力を掌握しました。これは世界史上初めてマルクス主義の理念に基づく社会主義国家の誕生を意味し、その後の20世紀の世界の歴史を資本主義と社会主義のイデオロギー的対立の時代へと決定的に方向づける画期的な出来事でした。
4.1. 三月革命(二月革命):ロマノフ朝の崩壊
開戦当初ロシアでもナショナリズムの熱狂が渦巻き国民は皇帝を支持しました(首都サンクトペテルブルクもドイツ風であるとして「ペトログラード」と改称)。しかし工業化が遅れていたロシアは近代的な総力戦を遂行する準備が全くできていませんでした。
- 戦争の影響:
- 軍事的な敗北: 兵士の数は多かったものの武器や弾薬が決定的に不足しておりドイツ軍の前にロシア軍はタンネンベルクの戦いなどで壊滅的な敗北を重ねました。兵士の士気は地に落ち脱走兵が相次ぎました。
- 経済的な混乱: 農民が兵士として徴兵されまた輸送機関が軍事に優先されたため都市への食糧供給は完全に麻痺しました。首都ペトログラードではパンを求める市民の長い行列が日常的な光景となりました。
- 政治的な不信: 皇帝ニコライ2世は自ら前線に出て軍の指揮をとりましたがその不在の宮廷では皇后アレクサンドラが怪僧ラスプーチンの影響の下で国政を壟断し、国民の皇帝に対する信頼は完全に失墜しました。
1917年3月8日(ロシア暦では2月23日)国際女性デーをきっかけに首都ペトログラードで食糧を求める女性労働者たちのデモが発生しました。このデモはたちまち他の労働者のストライキと合流し数日で数十万人規模の大衆蜂起へと発展しました。
皇帝が軍隊に鎮圧を命じましたが兵士たちは民衆への発砲を拒否し逆に反乱の側に合流しました。ここにきて皇帝の権威は完全に崩壊しました。1917年3月15日ニコライ2世は退位を余儀なくされ300年以上続いたロマノフ朝はあっけなく滅亡しました。これが三月革命(ロシア暦では二月革命)です。
4.2. 二重権力とレーニンの登場
皇帝が退位した後ペトログラードでは二つの権力が並び立つ「二重権力」の状態が生まれました。
- 臨時政府: 国会(ドゥーマ)の議員たちが中心となって組織したブルジョワジー中心の政府です。立憲民主党(カデット)などが主体となり当初はリヴォフ公が後に社会革命党(エスエル)のケレンスキーが首相となりました。この政府は言論の自由や政治犯の釈放など自由主義的な改革を約束しましたが連合国との協調を重視し国民が最も望んでいた戦争の即時停止を決断できませんでした。
- ソヴィエト: 労働者と兵士の代表者会議(ソヴィエト)も同時に結成されました。ソヴィエトは首都の兵士や労働者の直接的な支持を背景に大きな実質的な力を持っていました。当初ソヴィエトの多数派を占めていたのはメンシェヴィキ(社会民主労働党の穏健派)やエスエルであり彼らは臨時政府に協力的な姿勢をとりました。
この膠着した状況を一変させたのが長年スイスに亡命していたボリシェヴィキ(社会民主労働党の急進派)の指導者ウラジーミル・レーニン(1870-1924)の帰国でした。
ドイツ政府はロシアの戦線を内部から混乱させるため封印列車を用意してレーニンのロシアへの帰国を助けました。1917年4月ペトログラードに到着したレーニンは駅前で有名な「四月テーゼ」を発表しました。
- 四月テーゼ:
- 現在の戦争は帝国主義戦争であり即時終結させるべきである。
- 臨時政府へのいかなる支持も拒否する。
- すべての権力をソヴィエトへ!
このテーゼは当初ボリシェヴィキの党内でさえあまりにも急進的であると見なされました。しかし臨時政府が戦争を継続しまた農民が求める土地改革も遅々として進まない中で、レーニンの「平和・土地・パン」そして「すべての権力をソヴィエトへ」という極めて明快で力強いスローガンは戦争に疲れ果てた兵士や労働者、そして土地を渇望する農民の心を急速に捉えていきました。ボリシェヴィキの勢力はソヴィエト内で急速に拡大していきました。
4.3. 十一月革命(十月革命):ボリシェヴィキの権力掌握
1917年の秋ロシアの情勢はますます混乱を深めていました。ケレンスキーの臨時政府が試みた最後の大攻勢も失敗に終わり軍隊の崩壊は決定的となりました。またコルニーロフ将軍による右派の軍事クーデターの試みもボリシェヴィキが組織した赤衛軍(労働者の武装組織)の活躍によって阻止されボリシェヴィキの威信は絶頂に達しました。
レーニンは今こそ武力で権力を奪取する絶好の機会であると判断します。
1917年11月7日(ロシア暦では10月25日)トロツキーの指揮の下ボリシェヴィキの赤衛軍はペトログラードで武装蜂起を決行しました。彼らはほとんど抵抗を受けることなく主要な政府機関を占拠し最後に臨時政府が置かれていた冬宮を攻撃し閣僚たちを逮捕しました。この武装蜂起は極めて計画的に行われわずかな犠牲者を出しただけで成功しました。これが十一月革命(ロシア暦では十月革命)です。
このクーデターの成功と並行して開かれていた全ロシア=ソヴィエト会議でレーニンは権力の掌握を宣言しました。メンシェヴィキやエスエルの穏健派がこの暴挙に抗議して退席する中ボリシェヴィキが主導権を握ったソヴィエト会議は新しい政府である「人民委員会議」の設立を承認しました。議長(首相にあたる)にはレーニンが外務人民委員にはトロツキーが、そして民族問題人民委員にはスターリンが就任しました。
こうして世界史上初めての社会主義を目指す政権が誕生したのです。それはマルクスの予言とは異なり高度に発達した資本主義国ではなく後進的な農業国ロシアで起こりました。そしてそれは議会制民主主義の手続きを経たものではなく少数の前衛的な革命政党による武力による権力奪取という形をとったのです。このロシア革命の特異な性格はその後のソヴィエト国家の運命と20世紀の世界の歴史に大きな影響を与え続けることになります。
5. ソヴィエト政権の成立
十一月革命によって権力を掌握したレーニン率いるボリシェヴィキは直ちに自らが掲げたスローガンを実行に移し新しい社会主義国家の建設に着手しました。しかし彼らの前途は多難を極めました。国内では反革命勢力(白軍)が武装蜂起し国外からは革命の波及を恐れる資本主義列強が軍事干渉を行うなど、新しいソヴィエト政権はまさに内憂外患の絶体絶命の危機に直面しました。この危機を乗り切るためボリシェヴィキは「戦時共産主義」と呼ばれる極端な経済統制と一党独裁体制の強化を断行します。この3年間にわたる血腥い内戦の勝利を通じてソヴィエト政権はその支配を確立し後の「ソヴィエト社会主義共和国連邦」の基礎を築き上げたのです。
5.1. 初期法令とブレスト=リトフスク条約
権力を掌握した全ロシア=ソヴィエト会議はレーニンの提案に基づき新しい政権の基本方針を示す二つの重要な布告を採択しました。
- 「平和に関する布告」: これはすべての交戦国の政府と人民に対して無併合・無賠償・民族自決の原則に基づく即時の講和を呼びかけるものでした。これは帝国主義戦争に疲れ果てた兵士と民衆の心を強く捉える宣言でした。またこの布告の中でボリシェヴィキは帝政ロシアが結んだすべての秘密条約を公開し伝統的な秘密外交を非難しました。
- 「土地に関する布告」: これは地主が所有するすべての土地を無償で没収しそれを農民が使用するために各地の農村ソヴィエトに引き渡すことを定めたものです。これにより農民の長年の悲願であった土地改革が実現され農民層のソヴィエト政権への支持を固める上で決定的な役割を果たしました。
次にレーニンが最優先で取り組んだのが戦争からの離脱でした。ドイツ、オーストリアとの単独講和交渉が始まりましたがドイツ側はロシア領の広大な領土の割譲を要求する極めて過酷な条件を突きつけました。
党内ではトロツキーらがこの「屈辱的な講和」に反対し「戦争もせず平和も結ばず」という態度をとりましたがレーニンは「たとえいかなる犠牲を払ってでも平和を獲得し革命の成果を守る時間稼ぎをするべきだ」と主張し最終的に党を説得しました。
1918年3月ソヴィエト政権はドイツと「ブレスト=リトフスク条約」を結びました。この条約によってロシアはフィンランド、バルト三国、ポーランド、ウクライナといった広大な領土と人口、そして重要な工業地帯を失うという甚大な犠牲を払いました。しかしこれによりソヴィエト政権は対外戦争から離脱し国内の敵との戦いに全力を集中することが可能となったのです。
5.2. 内戦と干渉戦争
単独講和は反ボリシェヴィキ勢力に格好の攻撃材料を与えました。旧帝政派の軍人、地主、資本家、そしてボリシェヴィキの独裁に反対する他の社会主義政党(メンシェヴィキ、エスエル)などは「反革命軍(白軍)」を組織し各地で武装蜂起しました。これに対してボリシェヴィキはトロツキーを責任者として「赤軍」を組織しこれに対抗しました。こうして1918年から1920年にかけてロシア全土を舞台とする血腥い内戦が始まりました。
さらにこの内戦に乗じて連合国も軍事干渉を開始します。
- 干渉戦争: イギリス、フランス、アメリカ、そして日本といった連合国はいくつかの理由からロシアに軍隊を派遣しました。
- ブレスト=リトフスク条約を裏切りと見なし東部戦線を復活させてドイツを牽制するため。
- 社会主義革命が自国に波及することを恐れ白軍を支援してボリシェヴィキ政権を打倒するため。
- 帝政ロシア時代の借款を新政権が破棄したことへの報復と自国の権益を守るため。日本は特にシベリアにおける権益拡大を狙い大規模な軍隊を派遣しました(シベリア出兵)。
この内外からの攻撃に対してソヴィエト政権は絶体絶命の危機に陥りましたが、いくつかの要因から最終的に勝利を収めることができました。
- 赤軍の力: トロツキーの卓越した組織手腕によって赤軍は数百万の兵力を持つ強力な軍隊へと成長しました。
- 白軍の弱点: 白軍は内部で様々な政治勢力が対立しており統一された指揮系統を欠いていました。また彼らが土地を元の地主に返す政策を掲げたため農民の広範な支持を失いました。
- 国民の愛国心: 外国による軍事干渉はロシア国民の愛国心を刺激し多くの人々を「外国の侵略者と戦う」赤軍の側へと向かわせました。
5.3. 戦時共産主義と一党独裁の確立
この過酷な内戦を勝ち抜くためにボリシェヴィキが導入したのが「戦時共産主義」と呼ばれる極端な経済政策でした。
- 戦時共産主義:
- 食糧の強制徴発: 都市の労働者と赤軍兵士に食糧を供給するため農民からその生産した穀物を強制的に徴発しました(食糧割当徴発制)。
- 工業の国有化: すべての工業企業を国家の管理下に置き生産と分配を国家が統制しました。
- 私的商業の禁止: 貨幣経済と自由市場を否定しすべての商業活動を禁止しました。
この政策は内戦に勝利するための資源を確保する上では一定の効果を上げましたが、農民の生産意欲を著しく減退させその結果農業生産は壊滅的に減少し1921年には大飢饉が発生するなどロシア経済を完全に破綻させました。
政治面ではボリシェヴィキは内戦を通じて反対派を徹底的に弾圧し一党独裁体制を確立していきました。
- 憲法の制定: 1918年最初のソヴィエト憲法(ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国憲法)が制定されプロレタリアート独裁が明記されました。
- 一党独裁: メンシェヴィキやエスエルといった他の社会主義政党は非合法化され、ボリシェヴィキ(1918年に共産党と改称)以外の政党の存在は認められなくなりました。
- 秘密警察(チェーカー)の設立: 反革命分子を摘発し粛清するための秘密警察「チェーカー(非常事態委員会)」が設立され「赤色テロル」を実行しました。
1920年末までに内戦はほぼ赤軍の勝利に終わり外国の干渉軍も次々と撤退しました(日本のシベリアからの撤兵は1922年)。
1922年内戦に勝利したロシア・ソヴィエト共和国はウクライナ、白ロシア、ザカフカースの三つのソヴィエト共和国と連合し「ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)」を結成しました。
結論としてソヴィエト政権は世界大戦とそれに続く過酷な内戦という極限状況の中で生き残るために経済の中央集権的な統制と政治的な一党独裁という強権的な体制を作り上げました。この内戦期に形成された強権的な国家のあり方はその後のスターリン独裁へと繋がっていく原型となり、ソ連という国家の性格を深く規定していくことになるのです。
6. アメリカの参戦とドイツの敗北
1914年に始まった第一次世界大戦は1917年二つの大きな出来事によってその様相を一変させました。一つは東部戦線におけるロシアの脱落(ロシア革命)、そしてもう一つはそれまで中立を守ってきた大国アメリカ合衆国の連合国側での参戦です。ドイツはロシア革命によって二正面作戦の重圧から解放され全力を西部戦線に集中できるという千載一遇の好機を得ました。しかしその勝利への最後の賭けであった「無制限潜水艦作戦」が皮肉にも眠れる巨人アメリカを呼び覚ましてしまったのです。圧倒的な工業生産力と新鮮な兵力を持つアメリカの参戦は戦争のパワーバランスを決定的に連合国側に傾け、4年以上にわたる消耗戦で疲弊しきっていたドイツを最終的な敗北へと追い込んでいきました。
6.1. 中立国アメリカとウィルソンの理想主義
戦争が始まった当初アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は国民に対して厳正な中立を呼びかけました。アメリカにはドイツ系、アイルランド系(反イギリス)の移民も多く国内世論は必ずしも一枚岩ではありませんでした。またモンロー主義の伝統からヨーロッパの紛争に巻き込まれるべきではないという孤立主義的な考え方も根強く存在しました。
しかしアメリカの中立は完全な中立ではありませんでした。
- 経済的な結びつき: アメリカはイギリスやフランスとは経済的に深く結びついており戦争が始まると連合国への軍需物資や食糧の輸出、そして多額の借款の供与によって空前の好景気に沸いていました。つまりアメリカ経済は連合国の勝利に大きく依存する構造になっていたのです。
- 国民感情: 多くのアメリカ国民は民主主義国家であるイギリスやフランスに文化的、思想的な親近感を抱き皇帝が支配する権威主義的なドイツ帝国に対しては反感を持っていました。
ウィルソン大統領自身は元々政治学者であり理想主義的な平和主義者でした。彼は戦争の仲介役を買って出て「勝利なき平和」を提唱しましたがその試みは成功しませんでした。
6.2. ドイツの無制限潜水艦作戦と参戦への道
大戦が膠着状態に陥る中制海権を握るイギリスはその強力な海軍力でドイツの港を海上封鎖しドイツを経済的に締め付けようとしました。
これに対抗するためドイツが頼ったのが潜水艦(Uボート)でした。1915年ドイツはイギリス周辺の海域を交戦水域と宣言しこの水域を航行するすべての船舶(中立国の船も含む)を警告なしに撃沈するという「無制限潜水艦作戦」を開始しました。
同年5月ドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を撃沈し多数のアメリカ人乗客が犠牲になるという事件が発生しました。この事件はアメリカの対ドイツ世論を著しく硬化させました。アメリカの強い抗議を受けてドイツは一時この作戦を中止しました。
しかし1917年戦争の長期化で国内の経済が破綻寸前に追い込まれたドイツの軍部は勝利への最後の賭けとして無制限潜水艦作戦の再開を決定します。彼らはこの作戦でイギリスを半年以内に屈服させればたとえアメリカが参戦したとしてもその軍隊がヨーロッパに到着する前に戦争は終わるだろうと楽観視していました。
これは致命的な誤算でした。無制限潜水艦作戦の再開はアメリカの船舶にも被害を与えアメリカの参戦を決定的なものにしました。
さらにその直後イギリスが傍受した一つの電報がアメリカ国民の怒りに火をつけました。それはドイツのツィンメルマン外相がメキシコ政府に送った「もしアメリカが参戦したならばドイツと同盟を結んでアメリカを攻撃せよ。その見返りにかつてアメリカに奪われたテキサス、ニューメキシコ、アリゾナの返還を支援する」という内容の暗号電報でした(ツィンメルマン電報事件)。
6.3. アメリカの参戦とドイツの敗北
1917年4月ウィルソン大統領はついに議会に対ドイツ宣戦布告を要請しました。彼はこの参戦を「世界を民主主義のために安全にする」ための崇高な戦いであると位置づけました。
アメリカの参戦は大戦の流れを完全に変えました。
- 物量と兵力の投入: アメリカはその圧倒的な工業生産力で連合国に膨大な量の兵器や物資を供給しました。また1918年の春から夏にかけて毎月数十万人の新鮮で士気の高いアメリカ兵がヨーロッパの西部戦線に到着し始め連合国軍の兵力は飛躍的に増強されました。
一方ドイツは1918年の春ロシアとの単独講和(ブレスト=リトフスク条約)によって東部戦線から解放された全兵力を西部戦線に投入し、アメリカ軍が本格的に展開する前に勝利を決しようとする最後の大攻勢(春季攻勢、カイザー戦)を開始しました。
しかしこの攻勢は連合国軍の頑強な抵抗の前に失敗に終わりました。4年間の消耗戦で疲弊しきっていたドイツ軍にはもはや余力は残されていませんでした。
1918年の夏から秋にかけて連合国軍はアメリカ軍を先頭に総反撃に転じドイツ軍を次々と後退させていきました。
ドイツの同盟国も次々と降伏していきました。ブルガリア、オスマン帝国、そしてオーストリア=ハンガリー帝国も内部の民族運動の激化によって崩壊し降伏しました。
ドイツ国内でも国民の厭戦気分は頂点に達していました。1918年11月キール軍港で水兵たちが無謀な出撃命令を拒否して反乱を起こしました(キール軍港の反乱)。この反乱はたちまち全国に広がり労働者や兵士の評議会(レーテ)が各地に設立されドイツ革命へと発展しました。
革命の波を前に皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命しドイツ帝国(第二帝政)は崩壊しました。社会民主党を中心とする臨時政府が樹立され1918年11月11日連合国との間に休戦協定を結びました。
こうして4年以上にわたってヨーロッパを破壊し尽くした第一次世界大戦はようやく終わりを告げたのです。
結論としてアメリカの参戦は第一次世界大戦の最終的な帰趨を決定づける最も重要な要因でした。ドイツの無謀な賭けはアメリカという新しい世界の大国をヨーロッパの紛争の中心に引きずり込みその結果自らの敗北を招いたのです。そしてこの戦争を通じて世界の経済と政治の中心は疲弊したヨーロッパから大西洋の彼方のアメリカ合衆国へと大きく移行していく新しい時代が始まったのです。
7. パリ講和会議とヴェルサイユ条約
1918年11月第一次世界大戦の砲声がようやく止んだ時ヨーロッパは深い傷を負い荒廃していました。数千万の若者が死傷し四つの巨大な帝国が崩壊し旧来の社会秩序は完全に破壊されました。この未曾有の大戦の跡地の上に新しい国際秩序をいかにして再建するのか。その壮大で困難な課題に取り組むため1919年1月から戦勝国である連合国の首脳たちがフランスのパリに集まりました。この「パリ講和会議」はウィーン会議以来の大規模な国際会議でありその目的は敗戦国ドイツとの講和条約をはじめとする一連の講和条約を締結し恒久的な平和のための枠組みを築くことにありました。しかし会議の議論はアメリカ大統領ウィルソンが掲げる理想主義的な新しい平和の原則と、戦争の最大の被害者であったフランスやイギリスが求めるドイツへの厳しい制裁という現実主義的な要求との間で激しく揺れ動きました。そして最終的にドイツに対して調印が強制された「ヴェルサイユ条約」はこの矛盾した要求の産物であり、平和をもたらすどころかドイツ国民の心に深い屈辱感と復讐心を植え付け次の時代のさらなる悲劇の種を蒔く極めて問題の多い「勝者の平和」となったのです。
7.1. 会議の主役たち:ウィルソンの理想と英仏の現実
パリ講和会議の実質的な意思決定は主要な戦勝国の指導者たちによって主導されました。
- アメリカ合衆国: 大統領ウッドロウ・ウィルソンは新しい国際秩序のための崇高なビジョンを携えてヨーロッパにやってきました。彼はすでに1918年1月に議会で「十四カ条の平和原則」を発表していました。その内容は秘密外交の廃止、公海の自由、軍備の縮小、民族自決、そして国家間の紛争を平和的に解決するための国際的な機関すなわち「国際連盟」の設立などを含む理想主義的なものでした。彼は「勝利なき平和」を目指し敗戦国に対しても寛大な講話を結ぶべきであると考えていました。
- フランス: 首相ジョルジュ・クレマンソーは「虎」の異名を持つ老練な現実主義者でした。彼の国フランスは戦争の最大の戦場となり国土は荒廃し膨大な人的被害を受けました。彼の唯一の関心はドイツが二度とフランスの安全を脅かすことができないようにその力を徹底的に削ぎ解体することでした。彼はウィルソンの理想主義を甘い夢想であると見なしドイツへの厳しい制裁と巨額の賠償金を強く要求しました。
- イギリス: 首相ロイド・ジョージはウィルソンとクレマンソーの中間に位置し現実的な調停役を務めようとしました。彼は一方ではドイツの海軍力の解体や植民地の剥奪を求めましたが他方ではドイツを過度に弱体化させることがヨーロッパの経済的な復興を妨げ、また共産主義の脅威であるソヴィエト・ロシアへの防波堤を失うことになるとの懸念も抱いていました。
この会議にはイタリアのオルランド首相や日本の西園寺公望全権なども参加しましたが主要な意思決定はこの米仏英の三巨頭によって行われました。重要なことは敗戦国であるドイツやオーストリア、そして革命の混乱の中にあったソヴィエト・ロシアはこの会議から完全に排除されていたということです。
7.2. ヴェルサイユ条約:ドイツへの「懲罰」
数ヶ月にわたる激しい交渉の末1919年6月28日ドイツとの講和条約がかつてドイツ帝国がその成立を宣言した屈辱の場所、ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印されました。この「ヴェルサイユ条約」の内容はドイツにとって極めて過酷で懲罰的なものでした。
- 領土の割譲:
- アルザス・ロレーヌをフランスに返還。
- ポーランド回廊(西プロイセン、ポーゼン)を新独立国ポーランドに割譲。これにより東プロイセンはドイツ本土から分断された飛び地となりました。
- ザール地方の石炭資源はフランスが15年間管理下に置く。
- すべての海外植民地を放棄する。これらの植民地は国際連盟の「委任統治領」として主にイギリス、フランス、そして日本などが分割統治しました。
- 軍備の制限:
- 徴兵制を廃止し陸軍の兵力を10万人に制限。
- 海軍も大幅に制限され潜水艦の保有は禁止。
- 空軍の保有も禁止。
- ライン川左岸の非武装化。
- 賠償金:
- 最もドイツ国民を苦しめ憤慨させたのが賠償金の問題でした。条約の第231条、いわゆる「戦争責任条項(War Guilt Clause)」は戦争のすべての責任がドイツとその同盟国にあると一方的に断定しました。
- この戦争責任を根拠にドイツは天文学的な額の賠償金(後に1320億金マルクと決定)を支払うことを義務付けられました。
この条約はドイツ国民にとっては交渉の余地もなく一方的に押し付けられた「命令(ディクタート)」でありその内容は国家の主権と名誉を著しく踏みにじる屈辱的なものでした。
7.3. 新しいヨーロッパ地図と民族自決の限界
ヴェルサイユ条約に続き連合国は他の中央同盟国とも個別に講和条約を結びました(サン=ジェルマン条約、トリアノン条約など)。これらの条約によってオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国は解体され東ヨーロッパと中東の地図は大きく塗り替えられました。
ウィルソンが提唱した「民族自決」の原則に基づき多くの新しい独立国家が誕生しました。フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリー、そしてユーゴスラヴィア(セルブ・クロアート・スロヴェーン王国)などです。
しかしこの民族自決の原則はいくつかの大きな限界と矛盾を抱えていました。
- 敗戦国への非適用: この原則は主に敗戦国であるオーストリアやロシア帝国の解体に適用されたものでありドイツ人が多く住む地域がポーランドやチェコスロヴァキアに割譲されるなど敗戦国の民族自決はしばしば無視されました。
- 植民地への非適用: この原則はヨーロッパに限定されたものでありアジアやアフリカの植民地の独立は全く認められませんでした。日本の中国に対する二十一カ条の要求も事実上黙認され中国や朝鮮の民族自決の願いは踏みにじられました。
- 少数民族問題: 新しく生まれた東ヨーロッパの国々はそ国境線の内側に多くの少数民族を抱え込むことになりこれが戦後の東ヨーロッパにおける新たな民族対立の火種となりました。
結論としてパリ講和会議とそれが生み出したヴェルサイユ体制は恒久的な平和を築くという崇高な目標を掲げながらその実態は戦勝国の利害と敗戦国への復讐心が色濃く反映された極めて不安定で矛盾に満ちた国際秩序でした。特にヴェルサイユ条約がドイツに植え付けた深い屈辱感はその後のヴァイマル共和政の不安定化を招き、最終的にはアドルフ・ヒトラーの台頭と第二次世界大戦への道を準備する最大の要因となっていくのです。
8. 国際連盟の設立とその限界
第一次世界大戦という未曾有の惨禍はそれまでヨーロッパの人々が信じてきた進歩への楽観主義を粉々に打ち砕くと同時に、二度とこのような悲劇を繰り返してはならないという切実な願いを生み出しました。この平和への渇望を具体的な政治的プログラムとして提示したのがアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンでした。彼の「十四カ条の平和原則」の最も重要な柱として提唱されたのが国家間の紛争を武力ではなく話し合いによって解決し加盟国の安全を互いに保障し合う世界初の恒久的な国際平和機関、すなわち「国際連盟(League of Nations)」の設立構想でした。1920年その本部を永世中立国のスイス、ジュネーヴに置いて発足した国際連盟は人類の歴史における画期的な実験でありその後の国際連合の原型となりました。しかしその崇高な理想とは裏腹に国際連盟はその設立の当初からいくつかの致命的な構造的欠陥を抱えており、1930年代に次々と起こるファシズム国家の侵略行為に対して有効な手を打つことができずその無力さを露呈し最終的には第二次世界大戦の勃発を防ぐことができませんでした。
8.1. 設立の理念:集団安全保障
国際連盟の設立を定めた国際連盟規約はヴェルサイユ条約の第一部に盛り込まれました。その根幹をなす理念は「集団安全保障(Collective Security)」という新しい考え方でした。
これは19世紀の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の外交とは全く異なるアプローチです。勢力均衡が敵対する同盟ブロック間の力のバランスによって戦争を抑止しようとするシステムであったのに対し、集団安全保障はすべての加盟国が協力していずれかの国が侵略行為を行った場合その侵略国に対して共同で制裁を加え平和を維持しようとするシステムです。いわば「一国への攻撃は全加盟国への攻撃と見なす」という原則であり国際社会が一つ共同体として無法な行為に立ち向かうという画期的な理念でした。
8.2. 組織と活動
国際連盟はいくつかの主要な機関から構成されていました。
- 総会: すべての加盟国が参加しそれぞれ一票の議決権を持つ最高議決機関。
- 理事会: イギリス、フランス、日本、イタリアの四カ国を常任理事国とし、いくつかの非常任理事国からなる事実上の最高意思決定機関。
- 事務局: ジュネーヴに置かれ連盟の日常業務を処理する常設の事務機関。
- 常設国際司法裁判所: オランダのハーグに置かれ国家間の法的な紛争を裁く司法機関。
- 国際労働機関(ILO): 労働者の労働条件の改善など社会問題に取り組む専門機関。
国際連盟はその活動期間中にスウェーデンとフィンランドの間のオーランド諸島をめぐる領土問題などいくつかの中小国間の紛争を平和的に解決する上で一定の成果を上げました。また経済、社会、文化、人道的な分野での国際協力、例えば難民救済や奴隷貿易の禁止、アヘンなどの麻薬の取り締まりといった活動では重要な役割を果たしました。ILOや常設国際司法裁判所は後の国際連合にも引き継がれています。
8.3. 構造的な欠陥と限界
しかしその崇高な理想にもかかわらず国際連盟は大国間の深刻な対立や侵略行為を抑止する上で致命的な構造的欠陥を抱えていました。
第一の欠陥:主要国の不参加
- アメリカ合衆国の不参加: 国際連盟の最大の提唱国であったはずのアメリカ合衆国が結局連盟に加盟しなかったことはその権威と実効性にとって致命的な打撃でした。ウィルソン大統領はヴェルサイユ条約と国際連盟規約の批准を議会に求めましたが共和党が多数を占める上院はモンロー主義以来の孤立主義の伝統に立ち返り「ヨーロッパの紛争に巻き込まれる」ことを恐れ批准を拒否しました。世界最大の経済大国であるアメリカの不参加は連盟を当初から手足をもがれた存在にしてしまいました。
- 敗戦国とソ連の排除: 当初敗戦国であるドイツや社会主義国であるソヴィエト・ロシアは連盟から排除されていました(ドイツは1926年に加盟、ソ連は1934年に加盟)。これにより連盟は普遍的な国際機関というよりはむしろ「ヴェルサイユ体制を維持するための戦勝国のクラブ」という性格を色濃く持っていました。
第二の欠陥:制度上の弱点
- 全会一致の原則: 総会や理事会での実質的な重要事項の議決には当事国を除く全会一致が必要とされました。これは一国でも反対すれば何も決定できないことを意味し連盟の迅速な意思決定を著しく困難にしました。
- 制裁手段の欠如: 国際連盟規約は規約に違反した国に対して経済制裁を課すことはできましたがそれを強制するための独自の軍隊を持っていませんでした(軍事的制裁の欠如)。そのため制裁の実効性は加盟国の協力にかかっていましたが大国が自国の利益に反すると判断した場合制裁はしばしば骨抜きにされました。
これらの限界は1930年代に世界が再び戦争の危機に瀕した時明確に露呈します。
1931年日本が満州事変を起こした時国際連盟はリットン調査団を派遣し日本の行動を侵略と認定しましたが有効な制裁を課すことはできず日本は1933年連盟を脱退してしまいました。
1935年イタリアがエチオピアに侵攻した時も連盟は石油などの重要な戦略物資を含まない不徹底な経済制裁しか課すことができず侵略を阻止できませんでした。
1936年ヒトラー率いるドイツがラインラントに進駐しヴェルサイユ条約を公然と破った時も連盟は無力でした。ドイツも同年連盟を脱退します。
こうして日独伊といった枢軸国が次々と連盟を脱退し侵略行為をエスカレートさせていく中で集団安全保障という連盟の理念は完全に崩壊しその存在意義は失われていきました。そして1939年ドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した時国際連盟はその無力さの中で事実上その歴史的役割を終えたのです。
結論として国際連盟の試みは人類が初めて戦争を違法化し国際的な協調によって平和を維持しようとした崇高な理想の産物でした。その失敗は大国のエゴイズムと理想を支える力の欠如がいかに国際協調を困難にするかという厳しい教訓を残しました。しかしその理念と経験は決して無駄にはならず第二次世界大戦の惨禍の後に、より強力な国際機関すなわち「国際連合」が設立されるための貴重な歴史的土台となったのです。
9. ドイツのヴァイマル共和政
1918年11月キール軍港の水兵反乱をきっかけとするドイツ革命の波の中で皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命し、ホーエンツォレルン家のドイツ帝国(第二帝政)は崩壊しました。そしてその跡地にドイツ史上初めての本格的な民主共和国すなわち「ヴァイマル共和政」が誕生します。この新しい共和国は1919年国民議会が開催された古都ヴァイマルで制定された当時世界で最も民主的と言われた「ヴァイマル憲法」をその基盤としました。この憲法は男女平等の普通選挙、大統領制と議院内閣制の組み合わせ、そして労働者の団結権や生存権といった社会権を初めて保障するなど極めて進歩的な内容を誇っていました。しかしこの理想主義的な共和国の船出はその当初から嵐の中にありました。第一次世界大戦の敗北という重荷、ヴェルサイユ条約という屈辱、そして左右両翼の過激な政治勢力からの絶え間ない攻撃とテロ。これらの困難に加えて戦後の天文学的なハイパーインフレーションは共和国の経済的社会的基盤を根底から蝕みました。ヴァイマル共和政の短い歴史は理想的な民主主義の制度もそれが直面する過酷な政治的経済的条件の下ではいかに脆く崩壊しやすいかという痛ましい教訓を物語っています。
9.1. 革命と共和国の誕生
ドイツ革命はロシア革命のように社会主義を目指す単一の勢力によって主導されたわけではありませんでした。その内部には大きく三つの潮流が存在しました。
- 社会民主党(SPD)主流派: エーベルトやシャイデマンに率いられたSPDの主流派はマルクス主義の政党でありながら議会制民主主義を尊重し、急進的な社会主義革命ではなく穏健なブルジョワジーとも協力しながら民主的な共和国を建設することを目指しました。
- 独立社会民主党: SPDから分かれたより左派的なグループ。
- スパルタクス団(後のドイツ共産党): ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトに率いられた最も急進的な左翼グループ。彼らはロシアのボリシェヴィキをモデルとし議会制を否定し労働者と兵士の評議会(レーテ)によるプロレタリア革命を目指しました。
1918年11月9日ベルリンで革命の動きが高まる中スパルタクス団が「社会主義共和国」の樹立を宣言するのを恐れたSPDのシャイデマンは、独断で国会議事堂のバルコニーから「ドイツ共和国」の成立を宣言しました。こうしてエーベルトを首班とするSPDの臨時政府が樹立されました。
臨時政府の最大の課題はいかにして極左勢力の挑戦を抑えるかでした。エーベルトは革命のさらなる急進化を防ぐため軍の保守的な首脳部と協定を結び軍の力を借りて左翼の蜂起を鎮圧するという困難な決断を下します。
1919年1月スパルタクス団がベルリンで武装蜂起すると政府は軍と義勇軍(フライコール、復員兵からなる右翼的な民兵組織)を投入しこれを血腥く鎮圧しました。この過程でルクセンブルクとリープクネヒトは惨殺されてしまいました。この社会民主党政府による左翼革命の弾圧はその後のドイツの労働者階級の間に共産党と社会民主党との修復不可能な深い亀裂を残しヴァイマル共和政の弱体化の大きな要因となりました。
9.2. ヴァイマル憲法:理想と現実
1919年2月ベルリンの混乱を避けてヴァイマルで国民議会が召集されエーベルトが初代大統領に選出されました。そして同年8月「ヴァイマル憲法」が制定されました。
- 憲法の進歩的な特徴:
- 国民主権: ドイツが国民の主権に基づく共和国であることを明記。
- 男女普通選挙: 20歳以上のすべての男女に選挙権と被選挙権を保障。
- 議院内閣制と大統領制の混合: 国民から直接選挙される強力な権限を持つ大統領と議会(ライヒスターク)の信任に基づく首相(内閣)が並び立つ半大統領制的なシステムを採用。
- 社会権の保障: 「人間らしい生存」を保障する国家の義務や労働者の団結権といった社会権を世界で初めて本格的に憲法に盛り込みました。
しかしこの理想的な憲法はいくつかの深刻な問題点も抱えていました。
- 大統領非常大権(第48条): 大統領に「公共の安全と秩序が著しく妨げられた」場合に国民の基本的人権を一時的に停止し非常事態措置をとる広範な権限を与えていました。この条項は後にヒトラーによって独裁を確立するための合法的な道具として悪用されることになります。
- 比例代表制: 議会の選挙制度に採用された厳格な比例代表制は少数政党の乱立を招き安定した多数派の形成を困難にしました。そのためヴァイマル共和政の内閣は常に不安定な連立政権であり頻繁に交代しました。
9.3. 共和国の苦難:ヴェルサイユ体制とハイパーインフレ
ヴァイマル共和政はその誕生の瞬間から克服不可能なほどの重荷を背負わされていました。
- ヴェルサイユ条約の屈辱: 共和国政府は連合国からの圧力の下国民の大多数が屈辱的と見なしたヴェルサイユ条約に調印せざるを得ませんでした。これにより右翼のナショナリストたちは共和国の指導者たちを「11月の犯罪者」(休戦協定に調印した者たち)や「背後からの一突き」(ドイツ軍は戦場では負けていなかったのに国内の革命家たちが裏切ったという神話)と非難し共和国の正統性を執拗に攻撃しました。
- 賠償金問題とハイパーインフレーション: ヴェルサイユ条約が課した巨額の賠償金はドイツ経済を圧迫しました。1923年1月ドイツが賠償金の支払いを遅らせたことを口実にフランスとベルギーはドイツの最も重要な工業地帯であるルール地方を軍事占領しました(ルール占領)。これに対してドイツ政府は労働者たちに「消極的抵抗」(ストライキ)を呼びかけその賃金を保証するため紙幣を大量に増刷しました。この結果ドイツの通貨マルクの価値は完全に暴落し人類史上例のないハイパーインフレーションが発生しました。物価は数ヶ月で数兆倍に跳ね上がりパンを一斤買うために手押し車一杯の札束が必要になるという異常事態となりました。このハイパーインフレは特に年金や貯金で生活していた中産階級の財産を完全に破壊し彼らの生活基盤を奪いました。この経験は中産階級の間に議会制民主主義への深刻な不信感と秩序を回復してくれる強力な指導者を求める渇望を植え付け後のナチスの台頭の社会的な温床となりました。
この絶望的な危機はシュトレーゼマン首相の下で新しい通貨レンテンマルクの発行やアメリカの支援(ドーズ案)によってようやく沈静化し、1920年代後半ヴァイマル共和政は一時的な安定期(「黄金の20年代」)を迎えます。しかしその安定はアメリカからの短期借款に依存した極めて脆弱なものであり1929年に始まる世界恐慌の波が押し寄せた時、再び致命的な危機に陥ることになるのです。
10. ワシントン体制
第一次世界大戦はヨーロッパを中心とする国際秩序を根底から揺るがしました。戦勝国であるイギリスやフランスもその国力を著しく消耗させ代わって戦争の最大の受益者となったアメリカ合衆国と日本が新しい世界の大国として台頭しました。特にアジア・太平洋地域ではヨーロッパ列強が大戦に集中している隙に日本が中国における権益を拡大しその海軍力を飛躍的に増強させるなど旧来の勢力均衡が大きく崩れていました。この新しい国際情勢、特に日本の急速な台頭とそれに伴う建艦競争の激化に強い懸念を抱いたのがアメリカでした。ウィルソン政権の国際連盟構想が挫折した後共和党のハーディング政権の下でアメリカはこのアジア・太平洋地域における新しい安定した国際秩序を構築するため1921年から1922年にかけてワシントンD.C.で大規模な国際会議を開催しました。この「ワシントン会議」で結ばれた一連の条約によって確立された戦後のアジア・太平洋地域の国際秩序は「ワシントン体制」と呼ばれます。この体制は海軍軍縮と中国の現状維持を二つの柱とし1920年代の国際協調の時代を象徴する成果とされましたが、その内側には日本の野心を抑え込もうとする列強の思惑があり日本の国内では大きな不満の火種ともなりました。
10.1. 会議の背景:日本の台頭と建艦競争
第一次世界大戦中日本は日英同盟を口実に連合国側で参戦しドイツが中国に持っていた山東省の権益や太平洋の植民地(南洋群島)を奪い取りました。さらに1915年には中国の袁世凱政府に対して「二十一カ条の要求」を突きつけ中国における日本の権益を大幅に拡大させようとしました。
戦後日本はパリ講和会議でこれらの権益を認められ国際連盟の常任理事国となるなどその国際的な地位を飛躍的に向上させました。
この日本の急速な台頭に最も強い警戒心を抱いたのがアメリカでした。
- 中国市場をめぐる対立: アメリカは中国の広大な市場への経済的な進出を目指しており日本の中国における排他的な権益の拡大はアメリカが長年主張してきた「門戸開放」の原則に反するものでした。
- 太平洋の覇権をめぐる対立: 日本がドイツから奪った南洋群島はアメリカ領のフィリピンとグアムを脅かす位置にありました。
- 建艦競争: 戦後日本とアメリカは太平洋の覇権をめぐって大規模な海軍の軍拡競争(建艦競争)に突入していました。この競争は両国の財政を著しく圧迫し戦争の危機を高めていました。
またイギリスもかつての同盟国である日本の海軍力が自国のそれを脅かすレベルに達しつつあることに懸念を抱いていました。日英同盟はもはやアメリカとの関係を悪化させるだけの重荷となりつつありました。
これらの問題を一挙に解決するためアメリカのハーディング大統領とヒューズ国務長官は、ワシントンで軍縮と太平洋・極東問題を討議する国際会議を開催することを提唱したのです。
10.2. ワシントン会議と三つの主要条約
ワシントン会議にはアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五大海軍国と中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの四カ国を加えた計九カ国が参加しました。この会議で採択された主要な条約は以下の三つです。
- 四カ国条約(1921年):
- 参加国: アメリカ、イギリス、日本、フランス
- 内容: 太平洋における各国の島嶼(とうしょ)領土と権益の相互尊重と現状維持を約束しもし紛争が起きた場合は共同会議で解決することを定めました。
- 意義: この条約の締結に伴い1902年以来続いてきた「日英同盟」は発展的に解消されることになりました。これは日本を孤立させたくないイギリスの配慮と日英同盟を極東進出の障害と見なしていたアメリカの強い意向が反映されたものでした。日本は唯一の同盟国を失うことになりました。
- 海軍軍縮条約(五カ国条約、1922年):
- 参加国: アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア
- 内容: 列強間の建艦競争に歯止めをかけるため各国の主力艦(戦艦、巡洋戦艦)の保有トン数に上限を設けるという画期的な軍縮条約でした。その保有比率はアメリカ:イギリス:日本:フランス:イタリア = 5:5:3:1.67:1.67 と定められました。
- 意義: この比率は日本の海軍が強く主張した対米英7割には及ばず日本の国内ではこれを「屈辱的」と見なす海軍軍令部や右翼勢力の強い不満を買いました。しかしこの条約は史上初めて主要国間の軍備に具体的な制限を加えたものであり1920年代の国際協調の時代を象徴する成果とされました。またこの条約には太平洋における新たな海軍基地や要塞の建設を禁止する条項も盛り込まれました。
- 九カ国条約(1922年):
- 参加国: 上記の五カ国に中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルを加えた九カ国。
- 内容: 中国の主権尊重、領土保全、そして「門戸開放」と「機会均等」をすべての締結国が約束するというものでした。
- 意義: この条約はアメリカの伝統的な対中政策である門戸開放の原則を国際的に確認したものであり特定の国(暗に日本を指す)が中国に排他的な権益を設定することを牽制する狙いがありました。この条約の結果日清戦争以来の懸案であった山東省の旧ドイツ権益は日本から中国に返還されまた石井・ランシング協定(日本の中国における特殊権益をアメリカが認めたもの)も破棄されました。
10.3. ワシントン体制の性格とその帰結
こうしてワシントン会議で確立されたアジア・太平洋地域の新しい国際秩序「ワシントン体制」は1920年代のこの地域の安定に一定の貢献をしました。
- 協調の時代: 建艦競争に歯止めがかけられ中国の門戸開放が確認されたことで列強間の緊張は一時的に緩和され国際協調(ヴェルサイユ体制と合わせて「ヴェルサイユ・ワシントン体制」と呼ばれる)の時代が訪れました。日本も幣原喜四郎外相の下でこの体制を尊重する「協調外交」を展開しました。
しかしこのワシントン体制はいくつかの深刻な問題を内包していました。
- 現状維持の論理: この体制はあくまで1922年時点での列強の力関係と権益を現状維持しようとするものであり中国の完全な主権回復や民族自決の要求に応えるものではありませんでした。中国国内ではこの体制を外国による支配の継続と見なすナショナリズムの運動(国民革命)が高まっていきます。
- 日本の不満: 日本では海軍軍縮条約で補助艦の保有が無制限であったためかえって巡洋艦などの建艦競争が激化しました。また一連の条約で大陸における権益の拡大を抑え込まれたことへの不満が軍部や右翼勢力の間で燻り続けました。彼らはこの体制を「英米の支配を容認する屈辱的な体制」であると見なしていました。
結論としてワシントン体制は第一次世界大戦後のアジア・太平洋地域に一時的な安定をもたらした国際協調の成果でした。しかしそれは既存の帝国主義的な権益構造を温存するものであり中国のナショナリズムの高まりや日本の膨張主義的な野心といった新しい時代の力を抑え込むことはできませんでした。1929年の世界恐慌をきっかけに国際協調の精神が失われ日本が満州事変を起こしてこの体制に公然と挑戦する時、1920年代の束の間の平和は終わりを告げアジア・太平洋地域もまた第二次世界大戦へと繋がる暗い動乱の時代へと突入していくことになるのです。
Module 17:第一次世界大戦とロシア革命の総括:帝国の崩壊とイデオロギーの世紀の幕開け
本モジュールが探求した第一次世界大戦とロシア革命は19世紀的な世界秩序の最終的なそして最も悲劇的な自己破壊であった。サラエヴォの銃声は帝国主義とナショナリズムが数十年にわたって蓄積してきた矛盾を一挙に爆発させヨーロッパを「総力戦」という未曾有の自己破壊の渦へと巻き込んだ。塹壕の泥濘の中で進歩への楽観主義は死体と共に埋葬され国家はその存亡をかけて国民生活のすべてを統制する巨大な怪物へと変貌した。この極限の圧力は最も脆弱な環であったロシア帝国を内部から粉砕しその瓦礫の中から「共産主義」という全く新しい社会の実験とイデオロギーを誕生させた。戦争の終結とヴェルサイユでの講和は平和の到来ではなくむしろ敗戦国への屈辱と戦勝国の間の不信、そして民族自決の不徹底という新たな紛争の火種を世界中にばら撒く結果となった。四つの帝国が崩壊し新しい国家群が産声を上げたこの巨大な地殻変動の後に現れたのは国際連盟という理想主義のはかない夢と、その後の20世紀を規定することになる自由民主主義、共産主義、そしてファシズムという三つのイデオロギーが死闘を繰り広げる新しい時代の不気味な夜明けだったのである。