【基礎 世界史(通史)】Module 18:戦間期の世界

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本モジュールの目的と構成

第一次世界大戦という未曾有のカタストロフはヨーロッパの古い帝国群を粉砕しその跡地にヴェルサイユ体制という新しい国際秩序を打ち立てました。本モジュールで探求するのはこの大戦の終結から第二次世界大戦の勃発までの約20年間、すなわち「戦間期」と呼ばれる時代です。この時代はしばしば二つの大戦の間の単なる幕間として捉えられがちですが、その実態は新しい時代のあり方をめぐる激しい思想的、政治的、経済的な実験と闘争の時代でした。1920年代世界はアメリカの経済的繁栄を背景とした「束の間の安定」を謳歌し国際協調の精神が一時的に高まります。しかしその華やかな表面下ではヴェルサイユ体制への不満や新しい社会思想の胎動が静かに、しかし着実に進行していました。そして1929年ニューヨークのウォール街から始まった世界恐慌という経済的な大津波は、この脆い安定を粉々に打ち砕き世界を根底から揺さぶります。恐慌が生んだ大量失業と社会不安は自由民主主義への深刻な不信を招き、ソ連のスターリン体制、イタリアのファシズム、そしてドイツのナチズムといった強力な全体主義国家が新たな時代の救世主として多くの人々の心を捉えていきました。本モジュールはこの戦間期という時代を理想主義的な国際協調の試みとその挫折、アジアにおける民族運動の本格的な高まり、そして世界恐慌を分水嶺として世界が、いかにして自由民主主義、共産主義、ファシズムという三つの異なるイデオロギーのブロックへと分裂し、再び破滅的な世界大戦へと突き進んでいったのか、そのダイナミックで悲劇的な過程を解き明かすことを目的とします。

この複雑で現代史の直接的な起源をなす時代を理解するため本モジュールは以下の学習項目で構成されています。

  1. 1920年代の欧米(束の間の安定): アメリカの「永遠の繁栄」とドーズ案やロカルノ条約に象徴されるヨーロッパの一時的な安定期が、いかにして実現されたのかその光と影を分析します。
  2. ソヴィエト連邦の成立とスターリン体制: レーニンの死後権力を掌握したスターリンが、いかにして反対派を粛清し五カ年計画と農業集団化を通じてソ連を強力な工業国家へと変貌させたのか、その独裁体制の実態に迫ります。
  3. イタリアのファシズム: 戦後の混乱の中から登場したムッソリーニが、いかにしてファシスト党を率いて権力を掌握し世界で最初のファシズム国家を創り上げたのか、そのイデオロギーと手法を解明します。
  4. トルコ革命: 敗戦によって解体の危機に瀕したオスマン帝国でムスタファ・ケマルが、いかにして祖国を解放しカリフ制の廃止など徹底した世俗主義改革を断行して近代国家トルコを建設したのかを検証します。
  5. インドの非暴力・不服従運動: ガンディーの指導の下インドの民衆が「非暴力・不服従」という独自の抵抗運動を通じて、いかにしてイギリスの植民地支配を揺るがし独立への道を歩み始めたのかを分析します。
  6. 中国の国民革命: 孫文の死後蒋介石が率いる国民党が共産党との協力を経て、いかにして軍閥を打倒し中国の統一を達成したのか、そしてなぜその直後に内戦へと突入したのかを詳述します。
  7. 世界恐慌: 1929年のニューヨーク株式市場の暴落がなぜ全世界を巻き込む空前の経済危機へと発展し国際的な協調体制を破壊してしまったのか、そのメカニズムを探ります。
  8. アメリカのニューディール政策: 世界恐慌に対しフランクリン・ローズヴェルト大統領がいかにして国家による経済への積極的な介入政策(ニューディール)を通じて資本主義の修正を試みたのかを分析します。
  9. イギリス・フランスのブロック経済: 恐慌に対応するためイギリスとフランスがいかにして自由貿易を放棄し自国の植民地との排他的な経済圏(ブロック経済)を形成し世界の分裂を加速させたのかを考察します。
  10. ドイツのナチズム: ヴェルサイユ体制への不満と世界恐慌による社会不安を背景にヒトラー率いるナチスがいかにして合法的に権力を掌握し、人類史上最も破壊的な全体主義体制を築き上げていったのかその過程を追います。

本モジュールを通じて読者は戦間期が単なる平和の時代ではなく第一次世界大戦が残した問題と世界恐慌という新しい危機が交錯する中で、現代世界を規定するイデオロギー的な対立の構図が形成された極めて重要な時代であったことを深く理解するでしょう。


目次

1. 1920年代の欧米(束の間の安定)

第一次世界大戦が残した深い傷跡とヴェルサイユ条約が生んだ数々の政治的緊張にもかかわらず1920年代の欧米世界は、表面上平和と繁栄の時代を謳歌しました。戦争の最大の受益者となったアメリカ合衆国がその圧倒的な経済力を背景にヨーロッパの復興を支え、国際政治の舞台では一時的に協調の精神(ロカルノの精神)が支配しました。特にアメリカでは「永遠の繁栄」が約束されたかのような熱狂的な好景気が訪れ自動車とジャズに象徴される新しい大衆消費社会が花開きました。しかしこの「狂騒の20年代(Roaring Twenties)」の輝かしい繁栄はその足元に深刻な構造的問題を隠し持っていました。ヨーロッパの安定はアメリカの資本に依存した脆弱なものでありアメリカの繁栄もまた過剰な信用供与と株価の投機的なバブルの上に成り立つ砂上の楼閣でした。この1920年代の「束の間の安定」は1929年の世界恐慌の到来と共に一夜の夢のように消え去り世界は再び混乱と対立の時代へと突き落とされることになるのです。

1.1. ヨーロッパの国際協調

戦後のヨーロッパにおける最大の不安定要因はヴェルサイユ条約がドイツに課した巨額の賠償金問題でした。ドイツ経済はインフレと生産の停滞に苦しみ賠償金の支払いは滞りました。1923年フランスとベルギーはこれを口実にドイツの工業地帯であるルール地方を軍事占領し国際的な緊張は頂点に達しました。

この危機を収拾しヨーロッパ経済を安定の軌道に乗せたのがアメリカの主導で策定された新しい賠償金支払い計画でした。

  • ドーズ案(1924年): アメリカの銀行家ドーズを委員長とする専門家委員会が作成したこの案は、ドイツの賠償金支払い能力に合わせて年間の支払額を緩和しさらにドイツ経済の再建のためアメリカ資本から大規模な借款をドイツに供与するというものでした。このドーズ案によって次のような資本の循環システムが生まれました。
    1. アメリカの民間資本がドイツに投下される。
    2. 復興したドイツはその資金でイギリスフランスに賠償金を支払う。
    3. イギリスやフランスはその賠償金で大戦中にアメリカから借りた戦時債務を返済する。この「ドーズ案のメリーゴーラウンド」とも呼ばれる資本の循環によってドイツ経済は息を吹き返しヨーロッパ全体の経済が安定しました。

経済的な安定は政治的な緊張緩和にも繋がりました。

  • ロカルノ条約(1925年): スイスのロカルノで開かれた会議でドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、イタリアなどの西ヨーロッパ諸国は相互の安全保障に関する条約を結びました。この条約の核心はドイツ、フランス、ベルギーの国境線(ラインラント)の現状を関係国が相互に保障し二度と武力でこれを変更しないことを約束したことです。このロカルノ条約はヴェルサイユ条約のように一方的に押し付けられたものではなくドイツが初めて対等な立場で参加し自発的に西方の国境線を認めたという点で画期的でした。この和解の精神は「ロカルノの精神」と呼ばれヨーロッパにつかの間の平和ムードをもたらしました。この条約の締結を受けて1926年ドイツは国際連盟への加盟を認められ常任理事国となりました。
  • 不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定、1928年): 国際協調の機運が最高潮に達したのがこの条約の締結でした。フランスの外相ブリアンとアメリカの国務長官ケロッグの提唱で結ばれたこの条約は、「国家の政策の手段としての戦争を放棄する」ことを宣言し紛争の解決を平和的な手段に訴えることを約束するものでした。当初は15カ国で調印されましたが最終的にはソ連を含む63カ国が参加しました。しかしこの条約には侵略の定義や違反国に対する制裁措置が全く定められておらずその実効性は極めて乏しいものでした。それは平和への願いを表明した道徳的な宣言に過ぎず1930年代の侵略行為を食い止める力は全くありませんでした。

1.2. アメリカの「永遠の繁栄」

1920年代ヨーロッパが戦争の傷跡から徐々に立ち直りつつあった頃アメリカ合衆国は歴史上前例のない経済的な大繁栄の時代を迎えていました。大戦を通じて債務国から世界最大の債権国へと転換したアメリカは世界の経済と金融の中心となりました。

この「狂騒の20年代」は第二次産業革命の成果が本格的に開花した時代でした。

  • 大量生産・大量消費社会の到来: ヘンリー・フォードが開発したベルトコンベア方式による大量生産システムは自動車の価格を劇的に引き下げ、T型フォードは一般の中産階級にも手の届く「大衆車」となりました。自動車産業の発展は鉄鋼、石油、ゴムといった関連産業の成長を促し経済全体を牽引しました。自動車と並んでラジオや冷蔵庫、洗濯機といった新しい家庭電化製品も次々と普及し人々の生活様式を一変させました。広告産業が人々の消費意欲を刺激し分割払い(クレジット)といった新しい販売方法が普及したことで「大量生産・大量消費」という現代に繋がる新しい社会のモデルがこの時代に確立されたのです。
  • ジャズ・エイジと大衆文化: 都市には高層ビル(摩天楼)が林立しジャズ音楽が響き渡り映画が新しい大衆の娯楽として人気を博しました。伝統的な価値観から解放された若い女性(フラッパー)が短いスカートで街を闊歩するなど文化的な解放感に満ち溢れていました。

1.3. 繁栄の影

しかしこの輝かしい繁栄の下では深刻な社会・経済的な問題が進行していました。

  • 構造的な問題:
    • 農業不況: 戦時中に増産された農産物が戦後ヨーロッパの農業の回復と共に過剰となり農産物価格は慢性的に低迷しました。多くの農民が困窮し都市との経済格差が拡大しました。
    • 富の偏在: 繁栄の果実は一部の富裕層や大企業に集中し労働者や農民への分配は不十分でした。国民の購買力は生産力の増大に追いついていませんでした。
    • 過剰な信用供与と株式投機: 人々はこの好景気が永遠に続くと信じ込み借金をしてまで株式市場に資金を投じました。株価は企業の実態的な価値とはかけ離れて投機によって異常な高騰を続けていました。
  • 保守的な社会風潮:
    • 禁酒法: 道徳的な観点からアルコールの製造・販売を禁止する禁酒法が施行されましたがこれはアル・カポネに代表されるようなギャングによる密造酒の製造・販売を横行させ、かえって犯罪を増大させる結果となりました。
    • 移民への反感: 大戦後南・東ヨーロッパからの移民が増加するとWASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)を中心とする保守層の間で移民排斥の動きが強まり、1924年には出身国別に移民の数を厳しく制限する移民法が制定されました。クー・クラックス・クラン(KKK)のような白人至上主義の秘密結社も勢力を拡大しました。

結論として1920年代は一見平和で豊かな時代でしたがその国際協調はアメリカ資本という一本の糸でかろうじて繋がれた脆弱なものであり、その国内の繁栄もまた投機というバブルの上に成り立つ極めて不安定なものでした。1929年10月ニューヨークのウォール街でこのバブルが弾けた時それは単にアメリカ経済の崩壊だけでなくこの束の間の安定の時代そのものの終わりを告げる弔鐘となったのです。


2. ソヴィエト連邦の成立とスターリン体制

1917年の十一月革命で権力を掌握したボリシェヴィキでしたがその後の過酷な内戦と戦時共産主義の失敗は、ロシア経済を完全に破綻させ国民の生活を困窮のどん底に突き落としました。内戦に勝利したレーニンはこの危機を乗り切るため社会主義の理想を一時的に後退させ資本主義的な要素を一部導入する「新経済政策(NEP)」へと舵を切ります。そして1922年世界初の社会主義国家「ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)」が正式に成立しました。しかし1924年に革命の偉大な指導者レーニンが死去するとその後継の座をめぐって党内では激しい権力闘争が始まります。この闘争に最終的に勝利したのがそれまで目立たない存在であった書記長のヨシフ・スターリンでした。彼はライバルであるトロツキーらを次々と失脚させ権力を一身に集中させるとNEPを放棄し上からの革命として急進的な「社会主義建設」を開始します。五カ年計画による強引な工業化と農業の全面的な集団化。このスターリンの革命はソ連を後進的な農業国から短期間で強力な工業国家へと変貌させましたがその過程では数百万、数千万人の農民の餓死や反対派の大規模な粛清といったおびただしい犠牲が払われました。スターリン体制は20世紀の歴史に巨大な足跡を残す全体主義国家の一つの原型となったのです。

2.1. レーニンの遺産:NEPとソ連の成立

1921年内戦は終結したものの戦時共産主義による食糧の強制徴発は農民の激しい反発を招き各地で反乱が頻発していました。特にクロンシュタット軍港での水兵の反乱は革命の最も忠実な支持者であったはずの彼らが反旗を翻したという点で、ボリシェヴィキ政権に大きな衝撃を与えました。

この危機に直面したレーニンは政策の転換を決断します。1921年彼は「新経済政策(NEP)」の導入を宣言しました。

  • NEPの内容:
    • 食糧の強制徴発を廃止し農民が現物税を納めた後の余剰生産物を市場で自由に販売することを認めました。
    • 小規模な私企業の経営や私的な商業活動も部分的に復活させました。
    • ただし銀行、鉄道、大規模工業といった国家経済の根幹をなす部分は国家の管理下に留めました(「司令部」の確保)。

このNEPによって農民の生産意欲は回復しソ連経済は壊滅的な状況から急速に立ち直りました。

政治面では1922年12月ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国はウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ザカフカースの三つのソヴィエト共和国と連合して「ソヴィエト社会主義共和国連邦」を結成しました。建前上は各共和国が対等な立場で連合する連邦制国家でしたがその実態はロシアが主導権を握りすべての権力がモスクワの共産党中央に集中する高度な中央集権国家でした。

2.2. スターリンとトロツキーの権力闘争

1924年1月レーニンが病死すると党内ではその後継者をめぐる権力闘争が激化しました。その中心となったのが二人の対照的な人物でした。

  • レフ・トロツキー: 革命の英雄であり赤軍の創設者。卓越した理論家で雄弁家でもあった彼はレーニンの後継者の最有力候補と目されていました。彼はロシア一国だけでは社会主義を建設することは不可能でありドイツなどの先進国で革命を起こさせその支援を得なければならないとする「世界革命論(永続革命論)」を主張しました。
  • ヨシフ・スターリン: グルジア(ジョージア)出身の彼は理論家や雄弁家としては凡庸でしたが党の書記長として人事権を握り地道な党務を通じて自派の勢力を着実に拡大していました。彼はトロツキーの世界革命論に対抗し資本主義世界に包囲されたソ連が当面一国だけで社会主義を建設することは可能でありまたそうすべきであるとする「一国社会主義論」を唱えました。

この論争は世界革命が起こる兆しの見えない中で「一国社会主義論」がより現実的な路線として多くの党員の支持を集めました。スターリンはジノヴィエフやカーメネフといった他の有力者と結んでトロツキーを孤立させ1927年彼を党から除名し国外追放に追い込みました(トロツキーは後にメキシコでスターリンの刺客によって暗殺される)。

2.3. スターリン体制の確立:工業化と農業集団化

ライバルをすべて排除し1920年代末までに党内の絶対的な権力を掌握したスターリンはNEPを放棄し、ソ連を西欧の資本主義国家に対抗できる強力な軍事・工業国家へと変貌させるための壮大な社会改造に着手します。

  • 五カ年計画(1928年~):スターリンは国家計画委員会(ゴスプラン)を通じて国民経済の発展を計画的に管理する「五カ年計画」を開始しました。第一次五カ年計画は農業国ソ連を工業国へと転換させることを目標に掲げ特に鉄鋼、石炭、電力といった重工業部門に資源が集中的に投下されました。この強引な工業化は国民、特に農民の多大な犠牲の上に成り立っていました。生活必需品の生産は後回しにされ人々の生活水準は著しく低下しました。しかしスターリンはプロパガンダを通じてノルマを達成した労働者を英雄として称賛する(スタハノフ運動)など国民の勤労意欲を煽り計画を推し進めました。その結果1930年代を通じてソ連の工業生産は驚異的な成長を遂げソ連はアメリカに次ぐ世界第二位の工業国へと躍進しました。この成果は同時期に世界恐慌で苦しんでいた資本主義世界の知識人たちに計画経済の優位性を印象づける効果を持ちました。
  • 農業集団化:この急激な工業化を支えるための資金と食糧を確保するためスターリンは農業の分野でも暴力的な革命を断行しました。NEPの下で力をつけていた裕福な農民(クラーク)を「階級の敵」として絶滅(清算)し、すべての個々の農家をコルホーズ(集団農場)やソフホーズ(国営農場)といった大規模な集団農場に強制的に統合しました。この「農業集団化」政策は自らの土地や家畜を奪われることに抵抗する農民たちの激しい反発を招きました。多くの農民が家畜を屠殺し収穫物を隠しました。スターリンはこの抵抗を容赦なく弾圧し数百万人のクラークをシベリアなどに強制移住させました。この混乱の結果農業生産は壊滅的な打撃を受けウクライナを中心に数百万人の餓死者を出す大飢饉(ホロドモール)が発生しました。

2.4. 大粛清と個人崇拝

1930年代半ばスターリンは自らの独裁体制を盤石なものにするため党、軍、そして社会のあらゆる階層におよぶ大規模な粛清(テロル)を開始します。

  • 大粛清(大テロル): 1934年党の有力者であったキーロフが暗殺された事件をきっかけにスターリンは秘密警察(NKVD、後のKGB)を駆使して、かつての政敵であったジノヴィエフやブハーリンといった古参のボリシェヴィキたちを次々と「外国のスパイ」などの無実の罪で処刑しました(見世物裁判)。粛清の波は赤軍の有能な将校たちや多くの知識人、技術者、そして一般市民にまで及び、数百万人もの人々が処刑されるかあるいは強制収容所(グラーグ)へと送られました。
  • 個人崇拝とスターリン憲法: この恐怖政治と並行してスターリンは自らをレーニンの唯一の正統な後継者であり誤りのない偉大な指導者として神格化する「個人崇拝」を徹底しました。1936年に制定された新しいソ連憲法(スターリン憲法)は建前上は普通選挙や言論の自由など世界で最も民主的な権利を保障していましたが、その実態は共産党の指導性が明記されたスターリンの一党独裁を法的に裏打ちするものでした。

結論としてスターリン体制はマルクス・レーニン主義をイデオロギー的な正統性の源泉としながらその実態は一人の独裁者の下にすべての権力が集中し、秘密警察とプロパガンダによって国民を支配し国家の目的のために個人の犠牲を厭わない近代的な「全体主義」国家でした。それはソ連をナチス・ドイツと戦い抜く強力な工業国家へと変貌させましたが、その過程で自国民の命と自由をおびただしく踏みにじったという暗い影をその歴史に深く刻み込むことになったのです。


3. イタリアのファシズム

第一次世界大戦はイタリアにとって多大な犠牲を払ったにもかかわらずその成果が乏しい「損なわれた勝利(vittoria mutilata)」でした。戦後のイタリア社会はヴェルサイユ条約への不満、深刻な経済危機、そしてロシア革命の影響による社会主義運動の高まりが交錯し極度の混乱と不安定に陥っていました。この既存の政治体制への幻滅と共産主義革命への恐怖が渦巻く混沌の中から強力なリーダーシップと国家の再生を約束する新しい政治運動が急速に台頭します。それが元社会党員のジャーナリストベニート・ムッソリーニ(1883-1945)に率いられた「ファシズム」でした。ナショナリズム、反共産主義、そして暴力の賛美を巧みに組み合わせたこの運動は中産階級や地主、退役軍人たちの支持を集め1922年有名な「ローマ進軍」によって合法的に権力を掌握しました。こうしてイタリアに誕生したファシスト政権は議会制民主主義を否定し国家の下にすべてを統合しようとする「全体主義」の最初の実験であり、その後のドイツのナチズムなど20世紀の歴史に暗い影を落とす新しい政治イデオロギーの原型となったのです。

3.1. 戦後の混乱とファシズムの台頭

イタリアは大戦中に連合国側と秘密条約(ロンドン秘密条約)を結び南チロルやイストリア半島といった「未回収のイタリア」の領有を約束されて参戦しました。しかし戦後のパリ講和会議でその領土要求の一部(フィウメなど)がアメリカ大統領ウィルソンの民族自決の原則に反するとして拒否されると、国内では「裏切られた」という不満がナショナリストたちの間で爆発しました。詩人のダヌンツィオが義勇兵を率いてフィウメを一時占領するなどの事件も起こりました。

経済もまた深刻な危機にありました。戦時中のインフレーションと復員兵による大量の失業は社会不安を増大させました。北イタリアの工業地帯では労働者による工場の占拠やストライキが頻発し農村では小作人による土地の占拠が相次ぎました。ロシア革命の成功はイタリアの社会党や共産党の勢力を拡大させ「イタリアもロシアのようになるのではないか」という共産主義革命への恐怖が地主、資本家、そして秩序の喪失を恐れる中産階級の間に急速に広がっていきました。

既存の自由主義的な政府はこの左右両派からの攻撃の中で有効な対策を打つことができずその権威は地に落ちていました。

この権力の真空状態の中に彗星のように現れたのがベニート・ムッソリーニでした。彼はもともと社会党の有力な幹部でしたが第一次世界大戦への参戦を主張して党から除名された経歴を持ちます。戦後彼は1919年ミラノで「イタリア戦闘者ファッシ」という政治組織を結成しました。

  • 「ファッシ(Fasci)」: この言葉は古代ローマの執政官が権威の象徴として掲げた斧の周りに木の束を結びつけた「束桿(ファスケス)」に由来します。「結束」や「団結」を意味するこの言葉は国家の下にすべての階級が団結すべきであるという彼らの思想を象徴していました。

当初この組織は様々な思想をごちゃ混ぜにした小さなグループに過ぎませんでした。しかしムッソリーニは社会の混乱と人々の不満を巧みに利用してその支持基盤を拡大していきます。彼は一方ではナショナリズムを煽りヴェルサイユ体制への不満を代弁し、他方では反共産主義を鮮明に打ち出し共産主義革命を恐れる資本家や地主、中産階級の強力な支持を取り付けました。

彼の運動の最大の特徴は暴力の積極的な肯定と実践でした。ファシスト党の行動部隊である「黒シャツ隊(Squadristi)」は社会主義者や労働組合の指導者を襲撃しその事務所を破壊するなど暴力的な手段で左翼勢力を徹底的に弾圧しました。警察や軍はこれを見て見ぬふりをし政府もファシズムを共産主義への防波堤として利用しようとしました。

3.2. ローマ進軍と権力の掌握

1922年ファシスト党は国政選挙で議席を獲得しその勢力はもはや無視できないものとなっていました。同年10月ムッソリーニは最後の賭けに出ます。彼は全国の黒シャツ隊に指令を下し首都ローマへと進軍させ政府に権力の移譲を要求しました。これが「ローマ進軍」です。

実際にはこの進軍は数万人の武装した集団が列車でローマに向かうという一種の示威行動であり、軍隊が本気で抵抗すれば簡単に鎮圧できるものでした。首相は国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に戒厳令の発布を求めましたが、国王は内戦を恐れまたファシスト党との妥協を望む軍や資本家の圧力もありこれを拒否しました。そして逆にムッソリーニに組閣を命じたのです。

こうしてムッソリーニは一滴の血も流すことなくクーデターを成功させ1922年10月31日39歳の若さでイタリアの首相に就任しました。

3.3. ファシスト独裁体制の確立

首相となったムッソリーニは当初連立内閣を組織し合法的な手続きを尊重する姿勢を見せながら、徐々にしかし着実に独裁体制を固めていきました。

  • 選挙法の改正: 1924年彼は選挙で第一党となった政党が議会の議席の3分の2を自動的に獲得できるという有利な選挙法(アチェルボ法)を制定しその後の総選挙で圧勝しました。
  • マッテオッティ事件: この選挙の不正を議会で厳しく告発した社会党の指導者マッテオッティがファシスト党員によって暗殺されるという事件が起こると国内外から激しい非難が巻き起こりました。ムッソリーニは最大の政治的危機に陥りましたが彼は逆に開き直り1925年すべての責任は自分にあると宣言しこれを機に一気に独裁へと舵を切ります。
  • 一党独裁体制の確立: 彼はファシスト党以外のすべての政党、労働組合を解散させ言論・出版の自由を奪い秘密警察を設置して反ファシストを弾圧しました。ここにイタリアの議会制民主主義は完全に死滅しました。
  • ラテラノ条約(1929年): ムッソリーニはイタリア統一以来国家と対立していたローマ教皇庁との和解にも成功します。彼は教皇庁とラテラノ条約を結びバチカン市国の独立を承認する代わりに、教皇庁からイタリア王国とファシスト政権の正統性を認めさせました。これにより彼は敬虔なカトリック教徒である国民の支持を固めました。
  • 協同組合(コルポラツィオーネ)国家: ファシスト政権は経済の分野では「コーポラティズム(協同組合主義)」を掲げました。これは労働者と資本家の階級対立を否定し産業部門ごとに両者の代表からなる協同組合を組織し、国家の統制の下で労使の協調と国益への奉仕を図るというシステムでした。しかしその実態はストライキを禁止し労働者を国家の管理下に置くためのものでした。

ムッソリーニは「ドゥーチェ(統帥)」と呼ばれそのカリスマ的な個人崇拝が徹底されました。古代ローマ帝国の栄光の再現を夢見て彼は地中海を「我らの海」と呼びエチオピア侵攻など攻撃的な対外政策を展開し、やがてドイツのヒトラーと結びついていくことになります。

結論としてイタリアのファシズムは第一次世界大戦がもたらした社会の深い亀裂と混乱の中から生まれた20世紀の新しい病理でした。それは自由民主主義の非効率性と共産主義の階級闘争の両方を否定し国家という全体のために個人がすべてを捧げることを要求する「全体主義」のイデオロギーでした。その台頭は近代社会が危機に直面した時人々がいかに容易に「自由」を放棄し暴力的な独裁者に熱狂的な支持を与えてしまうかという危険性を世界に初めて示したのです。


4. トルコ革命

第一次世界大戦はドイツ、オーストリア、ロシアというヨーロッパの巨大な陸上帝国の息の根を止めただけでなく、600年以上にわたって西アジア、北アフリカ、そしてバルカン半島に君臨してきたもう一つの多民族帝国オスマン帝国の命運にも最終的な終止符を打ちました。中央同盟国側で参戦し敗北したオスマン帝国に対して連合国が突きつけたセーヴル条約は、その広大な領土をほとんどすべて解体しアナトリア(小アジア)の中心部さえも列強の勢力圏として分割するという極めて過酷なものでした。この国家存亡の危機に瀕して帝国を内側から蘇らせ全く新しい近代的な国民国家へと再生させる奇跡的な革命を成し遂げたのが大戦の英雄であった軍人ムスタファ・ケマル(1881-1938)でした。彼はスルタン(皇帝)の無力な政府と国土を分割しようとする連合国の両方を敵に回しトルコ国民のナショナリズムを結集して祖国解放戦争を戦い抜きました。そして勝利の後彼はカリフ制の廃止をはじめとするイスラーム世界の常識を覆す徹底した世俗主義と西欧化の改革を断行し「トルコ共和国」を創り上げたのです。このトルコ革命は非西欧世界におけるナショナリズムが帝国主義に勝利した最初の輝かしい事例の一つでありその後の多くのアジア・アフリカの民族解放運動に大きな影響を与えることになります。

4.1. オスマン帝国の解体と祖国解放戦争

第一次世界大戦に敗れたオスマン帝国の首都イスタンブールは連合国軍によって占領されスルタン、メフメト6世の政府はその傀儡と化していました。1920年スルタン政府は連合国とセーヴル条約を結びました。

  • セーヴル条約の内容: この条約はオスマン帝国にとって死刑宣告にも等しいものでした。アラブ地域(イラク、シリア、パレスチナなど)は完全に独立(事実上英仏の委任統治下に置かれる)し小アジア(アナトリア)の東部はアルメニアやクルド人の国家として独立、西部のイズミル地方はギリシアに与えられました。首都イスタンブール周辺も国際管理下に置かれトルコ人の主権が及ぶのはアナトリアのごく一部の内陸部に限定されるという内容でした。

この屈辱的な条約に対してトルコ国民の怒りが爆発します。その抵抗運動の中心となったのが大戦中のガリポリの戦いでイギリス軍を撃退し国民的な英雄となっていたムスタファ・ケマルでした。

彼はスルタン政府の命令を無視してアナトリアの内陸部アンカラに拠点を移し1920年全国から代表を集めて「トルコ大国民議会」を組織しました。このアンカラの新しい議会政府はイスタンブールのスルタン政府を否認し自らこそがトルコ国民の唯一の正統な代表であると宣言しました。

ここにイスタンブールのスルタン政府とアンカラの国民議会政府という二つの政府が並び立つ事態となりました。

ケマルが率いる国民軍はまず東方でアルメニアを破りソヴィエト・ロシアと友好関係を結んで背後の安全を確保しました。

最大の敵はセーヴル条約でイズミル地方を獲得しさらにアナトリアの奥深くへと侵攻してきたギリシア軍でした。1921年から1922年にかけてケマルは自ら軍を率いてギリシア軍との決戦に臨みました(希土戦争)。サカリヤ川の戦いなどでギリシア軍に決定的な勝利を収めた国民軍はついにギリシア軍をアナトリアから完全に駆逐しイズミルを奪回しました。

この輝かしい軍事的勝利はケマルの指導力を不動のものとしヨーロッパ列強ももはやセーヴル条約をトルコに強制することが不可能であることを認めざるを得なくなりました。

4.2. トルコ共和国の成立とローザンヌ条約

軍事的な勝利を背景にケマルは新しい国家の建設に着手します。1922年11月大国民議会はオスマン家による600年以上にわたる君主制「スルタン制」を廃止することを決議しました。最後のスルタン、メフメト6世はイギリスの軍艦で国外に亡命しここにオスマン帝国は名実ともに滅亡しました。

1923年7月ケマル政府は連合国との間で新しい講和条約である「ローザンヌ条約」を締結しました。この条約はセーヴル条約を完全に覆すトルコ外交の大勝利でした。

  • ローザンヌ条約の内容:
    • トルコは東トラキア(イスタンブールを含むヨーロッパ部分)とアナトリア全土にわたる主権を回復しました。
    • 治外法権(カピチュレーション)は完全に撤廃され関税自主権も回復しました。
    • トルコはアラブ地域の領有権を放棄しました。

この条約によってトルコは第一次世界大戦の敗戦国の中で唯一講和条約を自らの力で改定させ完全な主権と独立を達成した国家となったのです。

そして1923年10月大国民議会はアンカラを首都とする「トルコ共和国」の成立を宣言しムスタファ・ケマルがその初代大統領に選出されました。

4.3. ケマル・アタテュルクの改革

大統領となったケマル(後に大国民議会から「アタテュルク(父なるトルコ人)」の称号を贈られる)は、トルコをイスラームの伝統に縛られた後進的な国家からヨーロッパと肩を並べる近代的で世俗的な国民国家へと脱皮させるため上からの革命ともいえる徹底した西欧化改革を断行しました。彼の改革は「ケマリズム」と呼ばれ六つの基本原則(共和主義、民族主義、人民主義、国家主義、世俗主義、革命主義)に基づいていました。

その中でも最も重要で急進的であったのが「世俗主義」の原則の徹底でした。

  • カリフ制の廃止(1924年): スルタン制の廃止後もオスマン家の当主は全世界のスンナ派イスラーム教徒の精神的な指導者である「カリフ」の地位には留まっていました。しかしケマルはこのイスラーム的な権威が新しい国民国家の建設の障害となると考え1924年カリフ制そのものを廃止するというイスラーム世界を震撼させる決断を下しました。
  • イスラームの影響力の排除: 彼はさらにイスラーム法(シャリーア)を廃止しスイスの民法をモデルとする新しい民法典を制定しました。またイスラームの神秘主義教団(スーフィー)を解散させイスラーム暦やアラビア文字を廃止して西欧のグレゴリオ暦とラテン文字(ローマ字)を採用しました。
  • 社会生活の西欧化: 彼はトルコ帽(フェズ)の着用を禁止し西欧風の帽子を奨励しまた一夫多妻制を禁止し女性の参政権(1934年)を認めるなど女性の社会的地位の向上にも努めました。1934年には国民に姓を名乗ることを義務付ける「創姓法」も制定されました。

これらの改革はトルコの社会と文化を根底から作り変えるものであり一部の保守的な層からは強い反発もありましたがケマルはその絶大な権威と指導力で改革を断行しました。

結論としてトルコ革命は帝国主義の圧力と国家解体の危機に直面した非西欧社会が、ナショナリズムの力によっていかに自己を再生させうるかを示した輝かしい実例でした。ムスタファ・ケマル・アタテュルクの指導の下でトルコは多民族のオスマン帝国という古い衣を脱ぎ捨てトルコ民族のアイデンティティに基づく近代的で世俗的な国民国家として生まれ変わったのです。その徹底した世俗主義の道はイスラーム世界の中では極めてユニークなものでありその遺産は現代のトルコ共和国のあり方をめぐる議論の中に今もなお生き続けています。


5. インドの非暴力・不服従運動

第一次世界大戦はイギリスの植民地帝国にも大きな変化をもたらしました。イギリスはその最も重要な植民地であるインドから100万人以上の兵士と莫大な物資を動員し戦争への協力を得ました。その見返りとしてイギリスはインドに戦後の「自治」を約束しました。この約束とウィルソンが提唱した「民族自決」の理念はインドの人々の間に独立への期待を大きく膨らませました。しかし戦後イギリスが示したのは自治の約束を反故にする抑圧的な法律(ローラット法)でした。この裏切りに対するインド国民の怒りと絶望が頂点に達した時、それまでのエリート中心の民族運動をインドの農民や労働者を含むすべての人々を巻き込む大衆的な闘争へと質的に転換させる一人の偉大な指導者が登場します。それがマハトマ(「偉大なる魂」の意)・ガンディー(1869-1948)です。彼が提唱した「サティヤーグラハ(真理の把握)」に基づく「非暴力・不服従」というユニークな抵抗の思想と方法は、大英帝国の支配をその道徳的な根底から揺るがしインド独立への道を切り拓いていく強力な武器となったのです。

5.1. ガンディーの登場とアムリットサル虐殺事件

インドのナショナリズム運動は19世紀末の1885年に結成されたインド国民会議派を中心に進められていました。当初この組織は弁護士や知識人といったイギリスの教育を受けたエリート層が中心でありその要求もインド人の行政への参加拡大など穏健なものでした。

しかし第一次世界大戦後イギリスがインド統治法で限定的な自治しか認めず、それどころか令状なしの逮捕や裁判なしの投獄を認める治安維持法「ローラット法」(1919年)を制定するとインド国民の不満は爆発しました。

このローラット法に抗議するため全国でストライキやデモ(ハルタール)が呼びかけられました。この運動を指導したのが南アフリカで20年以上にわたってインド系移民の権利を守るための非暴力の闘争を指導し1915年にインドに帰国していた弁護士モハンダス・カラムチャンド・ガンディーでした。

ガンディーの指導の下抗議運動が高まる中1919年4月パンジャーブ地方のアムリットサルで悲劇が起こります。ローラット法に抗議するための平和的な集会を開いていた非武装の民衆の群れに対してイギリス軍が無差別に発砲し、数千人の死傷者を出したのです(アムリットサル虐殺事件)。

この事件はそれまでイギリスの「公正な支配」に一縷の望みを抱いていた多くのインド人の心を完全に離反させ本格的な反英闘争へと駆り立てる決定的な転換点となりました。

5.2. 第一次非暴力・不服従運動

アムリットサル事件の後ガンディーはインド国民会議派の指導者となり1920年最初の全国的な大規模な抵抗運動である「非暴力・不服従運動」を開始します。

  • 運動の思想(サティヤーグラハ): ガンディーの闘争の根幹には「サティヤーグラハ」という独自の思想がありました。これは「真理の把握」を意味し自らが信じる真理(正義)のために敵対者の良心に訴えかけ、暴力に対しても決して暴力で報いることなく自らの苦痛を耐え忍ぶことで相手を変革させようとする思想です。この「非暴力(アヒンサー)」の抵抗は単なる消極的な抵抗ではなく強靭な精神力と自己犠牲を要求する積極的な闘争でした。
  • 運動の具体的な内容:
    1. 非協力: イギリスの植民地支配に協力しないこと。具体的にはイギリス政府から与えられた称号の返上、公職の辞任、裁判所や学校のボイコットなどが呼びかけられました。
    2. 国産品(スワデーシ)の愛用: イギリスの経済的支配の象徴であった機械製の外国布(綿製品)をボイコットし、インドの伝統的な手紡ぎ手織りの布(カディ)を着用することを奨励しました。ガンディー自身糸車(チャルカ)を回して糸を紡ぐ姿はこの運動の象徴となりました(スワラージ、自治・独立)。
    3. ヒンドゥー・ムスリムの協力: ガンディーはインドの独立のためにはヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の団結が不可欠であると考え、第一次世界大戦でオスマン帝国が解体されカリフの地位が脅かされていることに抗議するインドのイスラーム教徒の運動(ヒラーファト運動)とも連携しました。

この運動はインド全土に広がり大英帝国を震撼させましたが1922年一部の民衆が暴徒化し警察官を殺害する事件が起こると、ガンディーは「非暴力」の原則が守られなかったとして自ら運動の中止を宣言しました。

5.3. 塩の行進と第二次非暴力・不服従運動

1920年代後半国民会議派の内部ではネルー(初代インド首相)らの急進派が台頭し、イギリスへの要求を自治から完全な独立(プールナ・スワラージ)へと引き上げました。

この高まる独立への機運を背景にガンディーは1930年再び大規模な抵抗運動を開始します。その象徴となったのが「塩の行進」です。

  • 塩の行進: 当時イギリスの植民地政府は塩の専売制を敷きインド人が自由に塩を製造・販売することを禁じ塩に高い税金をかけていました。塩は貧しい人々にとっても生活に不可欠な必需品でありこの「塩の専売法」はイギリスによるインド民衆の搾取の最も分かりやすい象徴でした。1930年3月ガンディーは78人の弟子と共にアフマダーバードの僧院を出発し約400キロ離れたアラビア海沿岸のダンディーの海岸まで24日間かけて歩きました。この行進のニュースは世界中に伝えられ彼が進むにつれて数千数万の民衆がその後に続きました。海岸に到着したガンディーは自ら海水を煮詰めて塩を作り塩の専売法を破りました。この象徴的な行為はインド全土に不服従の合図を送り人々は各地で塩を作りイギリス製品の不買運動や納税拒否などの抵抗運動を開始しました。

この第二次非暴力・不服従運動はイギリス政府を交渉のテーブルに着かせることに成功しました。ガンディーはインド総督と会談し(ガンディー・アーウィン協定)、ロンドンで開かれた英印円卓会議にも参加しました。

5.4. 運動の遺産と課題

ガンディーが指導した非暴力・不服従運動は直ちにインドの独立を達成したわけではありません。イギリスは巧みな分割統治政策でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を煽り(ジンナー率いる全インド・ムスリム連盟との対立)、また第二次世界大戦の勃発などその後の道のりは複雑なものでした。

しかしガンディーの運動はインドと世界の歴史に計り知れない遺産を残しました。

  • 大衆運動への転換: 彼の指導の下でインドの独立運動は一部のエリートだけのものから農民や女性を含むすべての階層の人々が参加する真の国民運動へと発展しました。
  • 新しい抵抗の形: 非暴力という手段が世界で最も強力な帝国を相手に有効な政治的武器となりうることを証明しました。彼の思想と方法は後のアメリカの公民権運動を指導したキング牧師や南アフリカのアパルトヘイトと戦ったネルソン・マンデラなど、20世紀の多くの抵抗運動に深いインスピレーションを与えました。

結論としてガンディーの非暴力・不服従運動はインドのナショナリズムの歴史における決定的な転換点でした。それはインドの人々に自らの尊厳と力を自覚させ大英帝国の支配の道徳的な正統性を内側から崩壊させる静かでしかし強力な革命だったのです。


6. 中国の国民革命

第一次世界大戦後ヴェルサイユ体制の下で中国の主権回復への期待が裏切られたこと(山東省の旧ドイツ権益が日本に譲渡されたこと)をきっかけに、1919年北京の学生たちを中心とする反日・反帝国主義の大規模なデモ、五・四運動が起こりました。この運動は中国のナショナリズムの新しい時代の幕開けを告げるものでありその後の中国革命の方向性を大きく規定しました。この高まるナショナリズムを背景に辛亥革命の指導者孫文は自らが率いる「中国国民党」を再編成し、ソヴィエト連邦と生まれたばかりの「中国共産党」との連携(第一次国共合作)を通じて国内を分裂させていた軍閥勢力を打倒し真の国民的統一を目指す「国民革命」を開始します。この革命は孫文の死後その後継者となった蒋介石の指導の下「北伐」として進められ一時は中国の統一を達成するかに見えました。しかしその過程で国民党と共産党の間の協力関係は血腥い対立へと転じ国民革命はその目的を達成すると同時に長期にわたる国共内戦の時代の始まりともなったのです。

6.1. 五・四運動と国民党の再建

1919年5月4日パリ講和会議で中国の要求が拒否されたというニュースが伝わると北京の学生数千人が天安門広場に集まり抗議デモを行いました。「外は国権を争い、内は国賊を除く」をスローガンに彼らは二十一カ条の要求の撤回や親日派官僚の罷免を要求しました。

この学生運動はたちまち全国の主要都市に広がり商人による同盟罷業(ストライキ)や労働者によるストライキも加わり、全国民的な反帝国主義・反封建主義の大衆運動へと発展しました。これが五・四運動です。

この運動は中国の歴史にいくつかの重要な影響を与えました。

  • ナショナリズムの高揚: 中国国民に国家の主権と統一の重要性を深く自覚させ大衆的なナショナリズムを確立しました。
  • 新しい思想の導入: この運動を担った知識人たちの間では陳独秀の『新青年』などを中心に儒教などの古い伝統を批判し民主主義と科学を重んじる新文化運動が進められており、五・四運動を通じてマルクス主義などの社会主義思想も本格的に中国に紹介されるようになりました。
  • 中国共産党の誕生: 五・四運動の高揚の中で陳独秀や李大釗といった初期のマルクス主義者たちが1921年コミンテルン(国際共産主義組織)の指導の下上海で「中国共産党」を創立しました。

この新しい時代の空気の中で孫文もまた自らの革命運動の再建に乗り出します。彼はそれまでの欧米列強への期待が幻想であったことを悟り1919年広州で「中国国民党」を結成しました。そして彼は革命を成功させるための新しいパートナーとして同じく帝国主義と戦うソヴィエト連邦に目をつけました。

6.2. 第一次国共合作と北伐の開始

ソヴィエト連邦とその指導機関であるコミンテルンは中国の国民革命を支援することを決定します。彼らはまだ弱小であった中国共産党に対して国民党の内部に入り協力して革命を進めるよう指導しました。

1924年孫文は「連ソ・容共・扶助工農」という三大政策を掲げ国民党の改組を断行します。そして中国共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めここに両党の協力体制「第一次国共合作」が成立しました。

ソ連の支援の下広州には黄埔軍官学校が設立され軍閥を打倒するための新しい革命軍(国民革命軍)の幹部が養成されました。この学校の校長には孫文の信頼が厚かった蒋介石が、政治部主任には共産党の周恩来が就任するなど両党の協力は軍事面でも進められました。

1925年孫文が「革命、いまだ成らず」の言葉を残して病死すると国民党の内部では後継者をめぐる対立が起こりますが、やがて黄埔軍官学校を背景に軍事的な実力をつけた蒋介石がその指導権を掌握します。

1926年7月蒋介石は国民革命軍の総司令として軍閥が割拠する中国北部を武力で統一するための大規模な軍事行動「北伐」を開始しました。

北伐軍は各地で軍閥を打ち破り快進撃を続けました。その背景には共産党員が組織した農民や労働者の支援がありました。

6.3. 国共分裂と国民政府の成立

しかし北伐が進展するにつれて国共合作の内部にあった根本的な矛盾が表面化します。

国民党の右派、特にその支持基盤である浙江財閥などのブルジョワジーや地主層は、北伐の過程で共産党が指導する農民運動や労働運動が急進化し自らの財産を脅かすことを極度に恐れました。

蒋介石自身も反共産主義者であり共産党の勢力拡大に強い危機感を抱いていました。

1927年4月北伐軍が上海に入城すると蒋介石はついに共産党との決別を決断します。彼は上海の財閥や秘密結社(青幇)と結託し上海の共産党員や労働組合の指導者たちを一斉に逮捕・虐殺しました。これが「上海クーデター(四・一二クーデター)」です。

このクーデターによって第一次国共合作は完全に崩壊しました。蒋介石は共産党を排除した新しい「国民政府」を南京に樹立し北伐を継続しました。武漢にあった国民党左派と共産党の政府もやがて瓦解しここに国民革命は反共産主義的な性格を明確にしました。

1928年国民革命軍は北京に入城しさらに満州の軍閥張作霖が日本の関東軍によって爆殺された後(張作霖爆殺事件)、その後を継いだ息子の張学良が国民政府に従うことを表明した(易幟)ことで北伐は形式的には完了し中国は一応の統一を達成しました。

6.4. 国民革命の意義と残された課題

国民革命は辛亥革命以来の軍閥割拠の時代に終止符を打ち南京を首都とする国民党による一党独裁的な中央政府を樹立したという点で大きな歴史的意義を持ちます。国民政府は関税自主権の回復など不平等条約の改正にも一部成功しました。

しかしその統一は極めて不完全なものであり多くの深刻な課題を残しました。

  • 内戦の始まり: 上海クーデターで壊滅的な打撃を受けた中国共産党は毛沢東らの指導の下農村へと逃れ江西省の瑞金を中心に独自のソヴィエト区を建設しゲリラ戦を開始しました。国民政府はこの「共産匪」の掃討を最優先課題とし長期にわたる「国共内戦」の時代が始まりました。
  • 日本の侵略: 国民政府が内戦にその精力を注いでいる隙を突いて日本の関東軍は1931年満州事変を引き起こし満州国を建国するなど中国への侵略を本格化させていきました。

結論として中国の国民革命は五・四運動で示された大衆的なナショナリズムのエネルギーを背景に中国の再統一を目指した壮大な試みでした。しかしその過程で生じた国民党と共産党のイデオロギー的な対立はこの革命を内側から分裂させその後の中国を内戦と外国の侵略という二重の苦難の時代へと導いていくことになったのです。


7. 世界恐慌

1920年代の「狂騒の時代」を支えていたアメリカの「永遠の繁栄」は1929年10月24日「暗黒の木曜日」にニューヨークのウォール街で起こった株価の大暴落によってその幕を閉じました。この株価暴落は単なる金融パニックにとどまらずそれまでアメリカ経済がその内側に抱え込んできた過剰生産、過剰な信用供与、そして富の偏在といった構造的な矛盾を一挙に露呈させ、アメリカをそして全世界をそれまで人類が経験したことのない規模と深刻さを持つ経済危機「世界恐慌(The Great Depression)」の渦へと叩き込みました。アメリカという世界経済のエンジンが停止したことで恐慌の波は瞬く間にヨーロッパ、アジア、ラテンアメリカへと広がり国際的な金融システムと貿易を麻痺させました。この世界恐慌は1920年代の国際協調の時代にとどめを刺し各国が自国の利益のみを追求する排他的な経済ブロックへと分裂していく経済ナショナリズムの時代を到来させました。そしてこの経済的な混乱が生み出した大量の失業と社会不安こそがドイツや日本でファシズムや軍国主義が急速に台頭するための最も肥沃な土壌となったのです。世界恐慌は第二次世界大戦への道を不可逆的に準備した20世紀最大の経済的カタストロフでした。

7.1. 恐慌の原因:アメリカ経済の構造的矛盾

1929年の大暴落はある日突然起こったわけではありません。その根は1920年代のアメリカの繁栄そのものの中に深く張られていました。

  • 過剰生産と購買力のアンバランス:ヘンリー・フォードに代表される大量生産方式の普及によってアメリカの工業生産力は飛躍的に増大しました。しかしその一方で労働者の賃金の上昇は生産性の向上に追いつかずまた農産物価格の低迷によって農民の所得も伸び悩んでいました。富は一部の富裕層に極端に集中し国民全体の購買力は増大する生産量を吸収するには不十分な状態でした。つまり作っても売れないという「過剰生産」の構造的な問題が存在していました。
  • 過剰な信用供与と株式投機:このギャップを埋めていたのが分割払いやローンといった信用供与(借金)でした。人々は借金をして自動車やラジオを買い企業は借金をして設備投資を拡大しました。特に問題であったのが株式市場における投機熱でした。人々は「株は必ず儲かる」という神話を信じ込み借金をしてまで株式投資に熱中しました(「信用買い」)。これにより株価は企業の実態的な収益力とはかけ離れてバブル的に高騰を続けていました。
  • 政府の自由放任政策:当時の共和党政権(ハーディング、クーリッジ、フーヴァー)は経済への政府の介入を最小限にとどめる「自由放任(レッセ・フェール)」の原則を信奉しておりこの危険な投機熱を規制するための有効な対策をとろうとはしませんでした。

7.2. ウォール街の大暴落と恐慌の深化

1929年の秋アメリカ経済の生産指数の低下などいくつかの不吉な兆候が現れると、永遠に続くかに見えた株価の上昇に対する不安が投資家の間に広がり始めました。

そして1929年10月24日木曜日ニューヨーク株式市場で突如としてパニック的な売り注文が殺到し株価は大暴落を始めました。これが「暗黒の木曜日」です。ウォール街の有力な銀行家たちが協調介入して一時的にパニックを食い止めようとしましたが効果はなく翌週の29日火曜日にはさらに壊滅的な大暴落が市場を襲いました。

この株価の暴落は経済全体に破滅的な連鎖反応を引き起こしました。

  • 金融恐慌: 株式投資に多額の資金を融資していた多くの銀行が不良債権を抱えて倒産しました。銀行が倒産するとそこに預金をしていた一般市民や企業の財産も一夜にして失われました。
  • 生産の縮小と大量失業: 信用が収縮し消費が冷え込んだため企業は生産を大幅に縮小し工場を閉鎖しました。その結果アメリカでは数年のうちに失業者の数が1300万人以上に達し労働人口の4人に1人が職を失うという深刻な事態となりました。
  • 社会不安: 職と家を失った人々が街にあふれ「フーヴァーヴィル」と呼ばれる掘っ立て小屋の集落が各地に出現しました。農村では農産物価格の暴落と旱魃(ダストボウル)が重なり多くの農民が離農を余儀なくされました。

7.3. 恐慌の世界への波及

当時のアメリカは世界最大の債権国でありまた世界最大の工業生産国、そして世界最大の市場でした。そのためアメリカで始まった恐慌は瞬く間に全世界へと波及しました。

  • 国際金融システムの崩壊:恐慌が始まるとアメリカは海外に投下していた資本を一斉に引き揚げ始めました。ドーズ案以来アメリカの短期資本に経済を依存していたドイツやオーストリアは深刻な打撃を受け1931年オーストリアの最大の銀行クレディート・アンシュタルトが破綻したことをきっかけにヨーロッパ全体が金融恐慌に見舞われました。イギリスも金の流出を食い止められず1931年金本位制を停止せざるを得なくなり国際的な金本位制のシステムはここに崩壊しました。
  • 世界貿易の縮小:フーヴァー大統領は国内産業を保護するため1930年極めて高い関税を課す「スムート・ホーリー法」を制定しました。これに対抗して各国も次々と保護関税を引き上げ自国の植民地との排他的な経済圏を形成する「ブロック経済」へと向かいました。その結果世界の貿易額は1929年から数年のうちに3分の1以下にまで激減し世界恐慌をさらに深刻化、長期化させる悪循環に陥りました。
  • 各国への影響:
    • 工業国: ドイツや日本のようにアメリカへの輸出に経済を依存していた国々は失業者の増大と社会不安に見舞われました。
    • 農業国・原料輸出国: ラテンアメリカや東南アジアの国々はコーヒーやゴムといった一次産品の国際価格が暴落したため経済的に壊滅的な打撃を受けました。

唯一世界恐慌の影響をほとんど受けなかったのが世界経済から隔離された計画経済を進めていたソヴィエト連邦でした。この事実は多くの人々に資本主義の終焉と社会主義の優位性を印象づけることになりました。

結論として世界恐慌は1920年代の国際協調の時代を終わらせ各国が自国の利益のみを追求する経済ナショナリズムとブロック化の時代をもたらしました。そしてこの経済的な混乱と対立が生み出した深刻な社会不安こそが民主主義的な解決策を見出せなかったドイツや日本で侵略的なファシズムや軍国主義が大衆の支持を得て台頭してくる決定的な土壌となったのです。


8. アメリカのニューディール政策

1929年に始まった世界恐慌はアメリカ合衆国に建国以来最大の経済的、社会的危機をもたらしました。1300万人以上の失業者が街にあふれ経済システムは完全に麻痺状態に陥りました。「永遠の繁栄」を信じていたアメリカ国民は深い絶望と無力感に打ちひしがれていました。この国難のさなやかに行われた1932年の大統領選挙で国民はそれまでの共和党の自由放任政策にノーを突きつけ、民主党の候補者フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(FDR、1882-1945)を新しい指導者として選びました。ローズヴェルトは「我々が恐れるべき唯一のものは恐怖それ自体である」という有名な就任演説で国民に希望と行動を呼びかけ、その後「ニューディール(新規まき直し)」と呼ばれる一連の大胆な経済復興政策を次々と打ち出していきました。このニューディール政策は国家が経済に積極的に介入し国民の生活を保障するというケインズ的な修正資本主義の考え方を具体化したものであり、それまでのアメリカの自由放任の伝統を根本から覆す画期的な実験でした。

8.1. ローズヴェルトの登場と初期のニューディール

1933年3月大統領に就任したローズヴェルトは直ちに議会に協力を求めその後の「最初の100日間」と呼ばれる期間に恐慌対策のための重要な法律を矢継ぎ早に成立させていきました。彼の政策は三つの「R」すなわちRelief(救済)、Recovery(回復)、Reform(改革)を柱としていました。

  • 金融危機への対応(救済):就任の時点でアメリカの金融システムは崩壊寸前でした。彼はまず全国の銀行を一時的に閉鎖するバンク・ホリデー(銀行休日)を宣言し経営が健全であると政府が認めた銀行のみを再開させました。また彼は「炉辺談話(ろへんだんわ)」と呼ばれるラジオ放送を通じて国民に直接語りかけ銀行への預金を呼びかけました。この手法は国民の信頼を回復する上で大きな効果を発揮しました。
  • 産業と農業の再建(回復):次に彼は恐慌の根本原因である過剰生産と価格の下落に歯止めをかけるための二つの重要な法律を制定しました。
    • 全国産業復興法(NIRA、1933年): この法律は産業界に対して公正な競争のための生産規約(コード)を自主的に定めさせ生産量の調整や価格の安定を図ることを目的としました。またこの法律には労働者の団結権と団体交渉権を保障する条項も盛り込まれていました。
    • 農業調整法(AAA、1933年): この法律は農産物価格の暴落を食い止めるため政府が農民に補助金を支払って小麦や綿花などの作付けを制限させ生産量を調整することを目的としました。
  • 大規模公共事業による失業対策(救済):ローズヴェルト政権は大量の失業者を救済するため前例のない規模の大規模な公共事業を開始しました。
    • テネシー川流域開発公社(TVA、1933年): その最も象徴的な事業がTVAです。これは恐慌で最も貧しい地域の一つであったテネシー川流域に政府が多目的ダムを次々と建設し安価な電力を供給すると同時に治水、土壌保全、植林といった地域全体の総合的な開発を行うという壮大なプロジェクトでした。TVAは多くの雇用を生み出し地域の生活水準を劇的に向上させました。
    • 市民保全部隊(CCC): 青少年を対象に国立公園の整備や植林といった環境保全事業に従事させました。

8.2. 第二次ニューディールと福祉国家への道

初期のニューディール政策は恐慌の最悪の事態を食い止める上で一定の成果を上げましたがNIRAやAAAが連邦最高裁判所から違憲判決を受けるなどその手法は多くの批判も浴びました。

1935年以降ローズヴェルトはより社会改革の色彩が強い「第二次ニューディール」へと政策の軸足を移していきます。

  • ワグナー法(全国労働関係法、1935年): NIRAの労働者保護条項が違憲とされたことを受けて制定されたこの法律は労働者の団結権と団体交渉権を改めて強力に保障するものでした。これによりアメリカの労働組合運動は大きく発展し産業別組織会議(CIO)などが結成されました。
  • 社会保障法(1935年): 第二次ニューディールの最も重要な成果がこの法律の制定です。これは連邦政府が初めて国民の生活を保障する責任を負うことを認めた画期的な法律でした。
    • 内容: 高齢者向けの年金制度、失業者向けの失業保険制度、そして障害者や母子家庭への公的扶助などを主な内容としました。
    • 意義: この法律によってアメリカはヨーロッパの先進国に遅ればせながら「福祉国家」への第一歩を踏み出しました。それは個人の自己責任を重んじるアメリカの伝統的な価値観からの大きな転換を意味しました。

8.3. ニューディールの評価とその限界

ニューディール政策がアメリカ経済を完全に恐慌から回復させたかどうかについては歴史家や経済学者の間で今も議論が続いています。

  • 評価:
    • 資本主義の救済: ニューディールは恐慌によって崩壊寸前にあったアメリカの資本主義システムを救済し共産主義やファシズムといった極端なイデオロギーがアメリカで広まるのを防いだという点で大きな成功を収めたと評価されています。
    • 修正資本主義への転換: 国家が経済に積極的に介入し市場の失敗を是正し国民の最低限の生活を保障するという「修正資本主義」のモデルを確立しました。イギリスの経済学者ケインズが理論化した有効需要を創出するための政府の財政出動という考え方を実践したものでありその後の先進資本主義国の経済政策の手本となりました。
  • 限界:
    • 経済回復への効果: ニューディール政策は失業率をある程度改善させましたがアメリカ経済が完全に恐慌から脱却し完全雇用を達成するのは第二次世界大戦への参戦による大規模な軍需生産が始まってからのことでした。
    • 人種差別問題: ニューディールは人種差別問題にはほとんど手をつけませんでした。南部の民主党の支持を失うことを恐れたローズヴェルトはアフリカ系アメリカ人の公民権の向上には消極的でした。

結論としてニューディールはアメリカの歴史における重大な転換点でした。それは世界恐慌という未曾有の危機に対して政府の役割を根本的に再定義し「大きな政府」の時代を到来させました。自由放任の古典的な資本主義の時代は終わりを告げ国家が国民の福祉に責任を持つという新しい社会契約がここに結ばれたのです。このニューディールが築き上げたリベラルな社会経済システムは第二次世界大戦後のアメリカの長期的な繁栄の基礎となっていきました。


9. イギリス・フランスのブロック経済

世界恐慌の衝撃は1920年代の国際協調の理念を完全に打ち砕き各国が自国の経済的利益のみを守ろうとする排他的な経済ナショナリズムの時代を到来させました。アメリカがスムート・ホーリー法で極端な保護関税政策に走り世界貿易の縮小に拍車をかけたのと同様に広大な海外植民地(帝国)を持つイギリスとフランスもまた、19世紀以来の自由貿易の原則を放棄し自国の通貨圏と植民地を囲い込む排他的な経済圏「ブロック経済」の形成へと向かいました。イギリスはその広大な英連邦を特恵関税で結びつける「スターリング・ブロック」を、フランスもまた自国の植民地帝国との関係を強化する「フラン・ブロック」を形成しました。これらのブロック経済政策は恐慌の打撃を和らげる上で一定の効果を持ったものの世界経済をいくつかの敵対的なブロックに分断し、ドイツや日本といった広大な海外市場や資源を持たない「持たざる国」の不満を増大させました。そしてこれらの「持たざる国」が自らの生存圏(ブロック)を武力によって建設しようとする動きを加速させ、世界を第二次世界大戦へと導く大きな要因となったのです。

9.1. イギリス:帝国特恵とスターリング・ブロック

19世紀以来「世界の工場」として自由貿易の最大の推進者であったイギリスは、世界恐慌によってその経済的な覇権が根底から揺らぐという深刻な危機に直面しました。失業者は300万人近くに達し1931年には国際金融の中心であったロンドンのシティが機能不全に陥り、ついに金本位制の停止に追い込まれました。

この国難に対処するため1931年労働党のマクドナルド首相は保守党、自由党との挙国一致内閣を組織しました。そしてこのマクドナルド挙国一致内閣が打ち出したのが100年近く続いた自由貿易政策からの歴史的な転換でした。

1932年イギリスはカナダのオタワでイギリス連邦の自治領(カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど)との経済会議(オタワ連邦経済会議)を開催しました。

  • イギリス連邦経済会議: この会議でイギリスと自治領は互いに協定を結び連邦内の国からの輸入品には関税を免除あるいは低くする一方で、連邦外の国からの輸入品には高い関税を課すという「帝国特恵制度」を確立しました。

この帝国特恵制度によってイギリス本国とその広大な自治領、そして植民地(帝国)は一つの巨大で排他的な経済ブロックを形成しました。この経済圏の内部ではイギリスの通貨であるポンド(スターリング)が基軸通貨として通用したためこれは「スターリング・ブロック」あるいは「ポンド・ブロック」と呼ばれます。

この政策はイギリスの工業製品のための安定した輸出市場と食糧や原料の安価な供給源を確保する上で効果を発揮し、イギリス経済は他の国々に比べて比較的早く恐慌から立ち直ることができました。

9.2. フランス:フラン・ブロックの形成

フランスもまた世界恐慌の深刻な影響を受け失業者の増大と政治的な不安定に見舞われました。ファシズム的な右翼団体と左翼の人民戦線との対立が激化するなど国内は分裂の危機に瀕していました。

経済政策の面ではフランスはイギリスよりもさらに保守的で内向きな対応をとりました。フランスは1936年まで金本位制を維持しようとしましたがこれは通貨フランを割高にし輸出の不振を招き恐慌をかえって長期化させる結果となりました。

貿易政策ではフランスもまたイギリスと同様にその広大なアフリカやインドシナの植民地帝国との経済的な結びつきを強化するブロック経済政策を採用しました。

  • フラン・ブロック: フランスは本国と植民地との間の関税を引き下げ一方で圏外からの輸入品には高い関税や輸入割当制を課すことで排他的な「フラン・ブロック」を形成しました。これによりフランスは植民地を本国の産業のための市場および原料供給地としてより一層強く囲い込むことになりました。

9.3. ブロック経済の世界的影響

アメリカの高関税政策、そしてイギリスとフランスのブロック経済の形成は世界経済の構造を根本的に変えてしまいました。

  • 世界貿易の分断と縮小: 19世紀の自由貿易体制は完全に崩壊し世界はいくつかの相互に排他的な経済ブロックへと分断されてしまいました。これにより世界全体の貿易はさらに縮小し恐慌からの回復を一層困難にしました。
  • 「持てる国」と「持たざる国」の対立: 広大な植民地や国内市場を持つイギリス、フランス、アメリカといった「持てる国」はブロック経済を形成することである程度恐慌の打撃を和らげることができました。しかしドイツ、イタリア、そして日本といった広大な植民地や資源を持たない「持たざる国」は、このブロック経済の高い壁によって世界市場から締め出され経済的に追い詰められていきました。

これらの「持たざる国」は自国の経済が生き残るためにはもはや平和的な通商の拡大ではなく武力によって独自の生存圏(経済ブロック)を確立するしか道はないと考えるようになります。

  • ドイツ: ナチス・ドイツは東ヨーロッパとソ連をその生存圏(レーベンスラウム)と見なしその侵略を正当化しました。
  • 日本: 日本の軍部は満州事変を起こしさらに日中戦争へと突き進む中で欧米のブロック経済に対抗するため日本、満州、中国を中心とする「大東亜共栄圏」の建設を掲げました。
  • イタリア: ファシスト・イタリアもまた地中海とアフリカにおける独自の帝国の建設を目指しました。

結論としてイギリスとフランスのブロック経済政策は世界恐慌という未曾有の危機に対する自己防衛的な対応でした。しかしその排他的で内向きな政策は世界経済のさらなる悪化を招くと同時に「持たざる国」の侵略的な野心を強く刺激する結果となりました。恐慌が生んだ経済的なブロック化は国際社会の協調を不可能にし世界を異なるイデオロギーと経済的利益を持つ敵対的な陣営へと決定的に分断し第二次世界大戦への道を舗装してしまったのです。


10. ドイツのナチズム

世界恐慌がもたらした経済的な破綻と社会的な混乱はヴァイマル共和政下のドイツを直撃しその脆弱な民主主義を根底から揺さぶりました。600万人を超える失業者が街にあふれ中産階級は再びその生活基盤を失い、国民はこの絶望的な状況を打開できない既存の政党政治に深い幻滅と怒りを感じていました。この社会全体の危機感を背景にヴェルサイユ条約への復讐、強力な指導者による国家の再建、そしてユダヤ人という「内なる敵」への憎悪を扇動する一つの過激な政党が国民の心を悪魔的な魅力で捉えていきました。それがアドルフ・ヒトラー(1889-1945)に率いられた国家社会主義ドイツ労働者党、すなわち「ナチス」です。ナチズムはイタリアのファシズムと多くの共通点を持ちながらその人種主義と反ユダヤ主義において比類のない過激さと破壊性を内包していました。1933年ナチスは民主的な選挙を通じて合法的に権力を掌握しその後驚異的な速さでドイツを全体主義的な独裁国家へと作り変え、世界を再び破滅的な戦争の淵へと導いていくことになるのです。

10.1. ヒトラーとナチス党の台頭

アドルフ・ヒトラーはオーストリアの税関職員の息子として生まれ青年時代はウィーンで画家を目指しながら恵まれない生活を送っていました。この時期彼はウィーンの多民族的な環境の中で過激なゲルマン民族至上主義と反ユダヤ主義の思想に触れその世界観を形成しました。

第一次世界大戦に兵士として参加した彼はドイツの敗北とその後の革命、そしてヴェルサイユ条約の屈辱に深い衝撃と憤りを感じました。

戦後ミュンヘンで彼は「ドイツ労働者党」という小さな右翼的な政治グループに参加しその卓越した演説の才能によってすぐにその指導者となりました。この党が後に「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」と改称されます。

1923年ヒトラーはミュンヘン一揆という武装蜂起による政権奪取を試みましたがこれは失敗に終わり彼は投獄されます。しかしこの獄中で彼は自らの政治思想をまとめた著書『我が闘争(マイン・カンプフ)』を執筆しました。

  • ナチズムのイデオロギー:
    • 極端なナショナリズム: ヴェルサイユ条約の破棄とすべてのドイツ民族を結集した「大ドイツ」の建設を主張。
    • 反ユダヤ主義: ドイツが大戦に敗北し苦境に陥っているすべての原因はユダヤ人と彼らが操る国際金融資本、そして共産主義にあるという陰謀論を掲げユダヤ人への憎悪を煽りました。
    • 指導者原理(フューラー原理): 議会制民主主義を否定しすべての権力が誤りのない一人の指導者(フューラー)に集中する独裁体制を理想としました。
    • 生存圏(レーベンスラウム): ドイツ民族が生存し繁栄するためには東ヨーロッパの劣等なスラブ民族を奴隷化あるいは絶滅させてその広大な土地をドイツの「東方生存圏」として獲得しなければならないと主張しました。

1920年代の安定期にはナチスのような過激な政党はほとんど支持を得られませんでした。しかし1929年の世界恐慌がすべてを変えました。

失業と貧困に苦しむ大衆は既存の政党への信頼を完全に失い秩序の回復と力強い未来を約束するヒトラーの扇動的な演説に熱狂しました。突撃隊(SA)や親衛隊(SS)といった党の準軍事組織は街頭で共産党員と暴力的な闘争を繰り広げ人々に「秩序の回復者」としてのイメージを植え付けました。

ナチス党の得票率は選挙のたびに急上昇し1932年7月の総選挙ではついに第一党へと躍進しました。

10.2. ナチス政権の成立と独裁の確立

保守派の政治家たちは当初ヒトラーを軽蔑していましたが彼の大衆的な人気を利用し共産主義の脅威を抑え込むため彼を政権に取り込むことを考えました。そして1933年1月ヒンデンブルク大統領はついにヒトラーを首相に任命しました。保守派は自分たちがヒトラーをコントロールできると考えていましたがこれは致命的な誤算でした。

権力を掌握したヒトラーは驚くべき速さで独裁体制を確立していきます。

  • 国会議事堂放火事件: 1933年2月国会議事堂が炎上する事件が起こるとヒトラーはこれを共産党の仕業であると断定し、ヒンデンブルク大統領に国民の基本的人権を停止する大統領緊急令を出させました。これにより共産党員や社会民主党員など数万人の反対派が一斉に逮捕されました。
  • 全権委任法: この恐怖の雰囲気の中で行われた3月の総選挙でナチスは圧勝はできなかったものの連立を組んで過半数を確保しました。そしてヒトラーは議会に対して立法権を政府(事実上ヒトラー自身)に委ねる「全権委任法」を制定させました。この法律の成立によってヴァイマル憲法は事実上その機能を停止しヒトラーは議会に諮ることなく法律を制定できる独裁的な権力を手中にしました。
  • 一党独裁体制へ: 全権委任法を背景にナチスはナチス党以外のすべての政党、労働組合を強制的に解散させドイツを一党独裁国家としました。1934年ヒンデンブルク大統領が死去するとヒトラーは大統領の地位をも兼ね自らを「総統(フューラー)」と称しドイツのすべての権力を一身に掌握しました。

10.3. ナチス・ドイツの国内政策

独裁体制を確立したナチスは国民の支持を得るためいくつかの成功を収めました。

  • 経済政策: ナチスはアウトバーン(高速道路)の建設やフォルクスワーゲンの開発といった大規模な公共事業と再軍備によって失業者を急速に吸収し数年のうちに完全雇用を達成しました。これによりナチスは多くのドイツ国民から熱狂的な支持を得ました。
  • プロパガンダと国民の組織化: 宣伝相ゲッベルスの指揮の下ナチスはラジオや映画、大規模な党大会といったあらゆるメディアを駆使してナチスのイデオロギーを国民に注入しました。また青少年はヒトラー・ユーゲントに労働者はドイツ労働戦線に強制的に組織され国民生活のあらゆる側面がナチスの統制下に置かれました。
  • 反ユダヤ人政策: そしてナチス体制の最も邪悪な中核をなしたのが人種主義に基づく組織的なユダヤ人迫害でした。1935年ユダヤ人からドイツの公民権を奪いドイツ人との結婚を禁じる「ニュルンベルク法」が制定されました。1938年11月には全国的なユダヤ人に対する暴動「水晶の夜(クリスタルナハト)」が発生しユダヤ人の商店やシナゴーグが破壊され多くのユダヤ人が殺害あるいは強制収容所に送られました。この迫害はやがて第二次世界大戦中のホロコーストという人類史上例のない組織的な大量虐殺へと繋がっていきます。

対外的にはヒトラーは1933年に国際連盟を脱退し1935年にはヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄する再軍備宣言を行い、1936年には非武装地帯であったラインラントに進駐するなどヴェルサイユ体制への挑戦をエスカレートさせていきました。英仏両国は戦争を恐れるあまりこれらの行動を黙認し(宥和政策)、それがヒトラーをますます大胆にさせていくことになるのです。

結論としてナチズムはヴェルサイユ体制の不公正と世界恐慌の絶望という二重の危機の中から生まれた最も破壊的で非人間的なイデオロギーでした。その台頭は民主主義が経済的、社会的な安定という土台を失った時いかにたやすく大衆の熱狂的な支持を得た全体主義的な独裁に取って代わられてしまうかという恐るべき現実を示しています。ナチス・ドイツの出現によって世界はもはや後戻りのできない破滅への道を歩み始めたのです。


Module 18:戦間期の世界の総括:脆い平和と全体主義の台頭

本モジュールが探求した戦間期は第一次世界大戦の廃墟の上に恒久平和という理想を掲げて築かれたヴェルサイユ・ワシントン体制が、いかに脆くまた幻想に満ちたものであったかを証明する20年間の壮大な悲劇であった。1920年代アメリカ資本に支えられた「束の間の安定」の下で国際協調が謳歌されたが、その足元では革命後のソ連がスターリンの全体主義へと変貌しイタリアではファシズムが産声を上げアジアではナショナリズムのマグマが沸騰していた。そして1929年の世界恐慌という地殻変動は、この脆い平和の構造を完全に粉砕した。経済ブロック化が進む世界で自由民主主義は有効な解決策を示せず、その無力さが人々の絶望と不安をナチズムのようなより過激でより全体主義的なイデオロギーへと駆り立てた。戦間期とは第一次世界大戦が解決できなかった問題をより大規模でよりイデオロギー的な第二次世界大戦という形で再び爆発させるための長いそして避けられない序曲の時代だったのである。

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