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【基礎 世界史(通史)】Module 19:第二次世界大戦
本モジュールの目的と構成
本モジュールでは、人類史上最大規模の惨禍となった第二次世界大戦を、単なる戦闘の記録としてではなく、20世紀の世界システムを根底から揺るがし、現代に至る国際秩序の原型を形成した巨大な地殻変動として捉え直すことを目的とします。我々は、戦間期に胚胎したイデオロギーの対立、経済ブロック化の帰結、そしてヴェルサイユ・ワシントン体制の構造的欠陥が、いかにして全世界を巻き込む総力戦へと至ったのか、その複雑な因果の連鎖を解き明かしていきます。この学習を通じて、歴史を動かすマクロな力と、個々の国家や指導者の選択が織りなすダイナミズムを理解し、現代世界が直面する諸課題の歴史的源流を洞察するための知的基盤を構築します。
本モジュールは、以下の10の学習項目で構成されています。これらは、大戦の勃発から終結、そして新たな世界秩序の萌芽までを、時間的・空間的な連関を重視して体系的に追体験できるように設計されています。
- アジアにおける秩序崩壊の序曲:満州事変と日中戦争世界恐慌後の日本の動揺と、それが国際連盟の無力さを露呈させ、世界的な侵略行為を誘発する最初のドミノとなった過程を分析します。
- ヨーロッパにおけるヴェルサイユ体制の解体:ナチス=ドイツの領土拡大ヒトラーの巧妙な外交戦略と、英仏の宥和政策が、いかにしてヴェルサイユ条約を形骸化させ、ナチスの野心を助長したのかを検証します。
- イデオロギーを超えた権謀術数:独ソ不可侵条約とポーランド侵攻敵対するはずのナチズムとスターリニズムが手を結んだ衝撃的な外交革命の背景と、それが第二次世界大戦の直接的な引き金となったメカニズムを解明します。
- 電撃戦とヨーロッパの席巻:第二次世界大戦の勃発ポーランド侵攻からフランス陥落、そしてバトル・オブ・ブリテンに至る戦争初期の様相を追い、ナチス・ドイツの軍事的優位とその限界点を考察します。
- 史上最大の地上戦:独ソ戦の開始ナポレオンの悪夢を彷彿とさせるヒトラーの致命的な決断が、いかにして大戦の主戦場を東方に移し、戦争の性格をイデオロギー殲滅戦へと変貌させたかを論じます。
- 戦争のグローバル化:太平洋戦争の開戦日米交渉の決裂から真珠湾攻撃、そして東南アジアへの侵攻まで、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争が一つの「世界大戦」へと統合される決定的な瞬間を捉えます。
- 転換点と総力戦の様相:連合国の反撃スターリングラード、ミッドウェー、ノルマンディー上陸作戦など、各地の戦局を転換させた決戦の意義と、連合国が総力戦体制を構築し勝利を掴むまでのプロセスを詳述します。
- 文明の奈落:ホロコーストナチズムの人種思想がもたらした組織的・工業的な大量虐殺の実態を、その思想的背景から実行プロセスに至るまで、人類史の汚点として深く考察します。
- 戦後世界秩序の設計図:ヤルタ会談とポツダム会談勝利を目前にした連合国首脳たちが、いかにして国際連合の創設やドイツの戦後処理を決定し、同時に冷戦の火種を生み出していったのかを分析します。
- 核時代の幕開けと帝国の終焉:日本の降伏と戦争の終結原子爆弾の投下とソ連参戦という二重の衝撃が日本の降伏を促した過程を追い、第二次世界大戦の終結がもたらした世界的影響を総括します。
このモジュールを通じて、我々は歴史を暗記すべき事実の集合体としてではなく、現代を理解するための「思考の方法論」として学びます。それでは、破局への道筋と、そこから人類が何を学び、何を学ばなかったのかを探求する旅を始めましょう。
1. 満州事変と日中戦争
1.1. 序論:ワシントン体制の動揺と日本の閉塞感
第一次世界大戦後、アジア太平洋地域には「ワシントン体制」と呼ばれる国際秩序が構築されました。これは、アメリカの提唱により、海軍軍縮、中国の主権尊重・機会均等などを原則とするもので、日本の膨張を抑制し、協調外交の枠組みに組み込む狙いがありました。しかし、この体制はいくつかの構造的な脆弱性を抱えていました。第一に、この秩序はヨーロッパにおけるヴェルサイユ体制と同様、戦勝国である列強の現状維持を優先するものであり、中国のような主権を部分的にしか回復できない国や、日本のように資源に乏しく現状に不満を抱く国の利害と必ずしも一致しませんでした。
1929年に始まった世界恐慌は、この脆弱な国際秩序に決定的な打撃を与えます。各国が自国の経済的利益を優先し、平価を切り下げ、高い関税を課すブロック経済圏を形成し始めると、自由貿易を前提とした国際協調の理念は急速に色褪せました。特に、広大な植民地を持たず、満州(中国東北部)を生命線と見なしていた日本にとって、この経済的孤立は深刻な脅威でした。国内では農村の疲弊と失業者の増大が社会不安を煽り、議会政治への不信感が募る中、軍部、特に関東軍は、満州の権益を武力によって確保し、日本の経済的苦境を打開しようとする急進的な思想を強めていきました。彼らにとって、満州は単なる市場や資源供給地ではなく、将来の総力戦に備えるための戦略的縦深であり、日本の生命線そのものだったのです。
一方、中国では、1928年に蒋介石の国民政府が北伐を完了させ、一応の国内統一を達成していました。蒋介石は、関税自主権の回復など、ワシントン体制の枠内で主権を取り戻す「革命外交」を推進すると同時に、国内の共産党勢力の掃討を最優先課題としていました。しかし、ナショナリズムの高揚は、日本の持つ満州権益、特に南満州鉄道(満鉄)の利権を回収しようとする動き(利権回収運動)を活発化させ、これが関東軍の危機感を一層煽るという悪循環を生み出していました。このように、ワシントン体制の動揺、世界恐慌による経済的ブロック化、そして日中双方のナショナリズムの高まりという三つの要因が複雑に絡み合い、満州の地は一触即発の火薬庫と化していたのです。
1.2. 満州事変の勃発と「満州国」の建国
1931年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路が爆破される事件が発生しました。これは関東軍が自ら仕掛けた謀略であり、彼らはこれを中国軍の仕業と断定し、ただちに行動を開始しました。これが満州事変の始まりです。関東軍は、日本政府や軍中央の不拡大方針を無視して戦線を拡大し、わずか数ヶ月のうちに満州の主要部を占領してしまいました。
この事態に対し、中国国民政府は、国内の共産党対策を優先する「安内攘外」(まず内を安んじて、しかる後に外を攘う)方針のもと、日本軍への直接的な抵抗を避け、国際連盟に提訴するという外交手段に訴えました。国際連盟は、イギリスのリットンを団長とする調査団を派遣します。しかし、調査団が現地で調査を行い、報告書をまとめる間にも、関東軍は既成事実を積み重ねていきました。
1932年3月、関東軍は、清朝最後の皇帝であった溥儀を執政として擁立し、「満州国」の建国を宣言しました。これは、日本の権益確保という当初の目的を超え、満州を中国本土から完全に分離独立させるという、より野心的な計画の実行でした。日本政府は、軍部の独走を追認する形で「満州国」を承認します。建前の上では、満州人、漢人、モンゴル人、朝鮮人、日本人が共存する「五族協和」の王道楽土を掲げましたが、その実態は、関東軍が政治・経済・軍事の全ての実権を握る日本の傀儡国家に他なりませんでした。
1932年10月、リットン調査団は報告書を国際連盟に提出します。報告書は、日本の行動を自衛権の発動とは認めず、満州国も日本の傀儡であると認定しました。一方で、満州における日本の権益の存在も認め、満州に国際管理下の自治政府を樹立するという妥協案を提示しました。しかし、1933年2月、国際連盟総会がこの報告書を採択し、日本軍の撤退を勧告すると、日本代表の松岡洋右はこれを不服として総会を退場。翌3月、日本は国際連盟からの脱退を正式に通告しました。これは、日本がヴェルサイユ・ワシントン体制という国際協調の枠組みから完全に離脱し、孤立と独自の勢力圏構築への道を歩み始めたことを意味する、決定的な転換点でした。国際連盟が、その主要メンバー国である日本の侵略行為に対して、経済制裁などの実効的な措置を取れなかったことは、その権威を著しく失墜させ、後に続くイタリアやドイツの侵略行為を誘発する一因となったのです。
1.3. 日中全面戦争への道
満州事変後も、日中間の緊張は緩和されることなく、むしろ拡大の一途をたどりました。日本は、満州国の権益を保護するという名目で、華北地域への進出(華北分離工作)を画策します。これは、華北を国民政府の支配から切り離し、日本の影響下に置こうとするもので、中国側の強い反発を招きました。中国国内では、共産党が「抗日民族統一戦線」の結成を呼びかけ、国民政府に対して「内戦停止・一致抗日」を求める声が急速に高まっていきます。
決定的な転機となったのが、1936年12月の西安事件です。共産党討伐の督促に訪れた蒋介石が、配下の張学良(満州事変で故郷を追われた軍閥)によって監禁され、国共内戦の停止と抗日を要求されたのです。この事件は、共産党の周恩来の仲介もあって解決され、結果として第二次国共合作が事実上成立しました。これにより、中国は「安内攘外」から「一致抗日」へと国策を大きく転換させ、来るべき日本との全面対決への備えを固めることになりました。
そして1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突する事件が発生します。当初は現地での不拡大方針が模索されましたが、日本の近衛文麿内閣は、中国側に強硬な態度で臨むことを決定し、大規模な派兵を行いました。中国側も断固として抵抗したため、事態は瞬く間に全面戦争へと拡大していきます。これが日中戦争の始まりです。
日本軍は、緒戦で北京、天津を占領し、さらに上海での激戦の末、国民政府の首都であった南京を占領しました(1937年12月)。この際、日本軍による大規模な虐殺事件(南京事件)が発生したとされています。日本側は、首都を陥落させれば蒋介石政権は降伏するだろうと楽観視していましたが、蒋介石は首都を漢口、さらに奥地の重慶へと移し、広大な国土を盾に徹底抗戦の構えを見せました。
戦争は、日本側の予期に反して完全に泥沼化します。日本は、「東亜新秩序」の建設を声明し、戦争の目的をアジアにおける新たな国際秩序の構築へとすり替えていきますが、戦局を打開する決定的な方策を見いだせないまま、膨大な戦費と人的資源を中国大陸に投入し続けることになりました。この長期化する日中戦争こそが、日本を資源の確保のために南進(東南アジア進出)へと駆り立て、最終的にアメリカとの対立を決定的にし、太平洋戦争へと至る直接的な原因となったのです。満州事変から始まった日本の大陸政策は、国際社会からの孤立を深め、より大きな戦争への道を不可逆的に突き進むことになったのです。
2. ナチス=ドイツの領土拡大
2.1. ヴェルサイユ体制への挑戦の始まり
1933年に政権を掌握したアドルフ・ヒトラーとナチス党にとって、その外交政策の根幹をなすのは、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約によってドイツに課せられた屈辱的な制約を打破することでした。ナチスは、この条約をドイツ民族の正当な権利を奪い、国家の主権を著しく侵害するものとして「強制された平和(Diktat)」と断じ、その撤廃を国民に公約していました。ヒトラーは、巧みなプロパガンダで国民の不満を煽ると同時に、対外的には平和を希求する姿勢を見せかけながら、周到な計画のもとにヴェルサイユ体制の解体を一つひとつ実行に移していきました。
最初の挑戦は、早くも1933年10月、ジュネーヴ軍縮会議からの脱退と、それに続く国際連盟からの脱退でした。これは、ヴェルサイユ条約が定めたドイツの軍備制限を、多国間の枠組みの中で議論することを拒否し、自国の軍備に関する決定権を取り戻すという明確な意思表示でした。国際社会は驚愕しましたが、具体的な制裁措置を取ることはできませんでした。
次にヒトラーが狙いを定めたのは、ドイツの産業の中心地でありながら、ヴェルサイユ条約によって非武装地帯と定められていたラインラントでした。1935年には、住民投票の結果としてザール地方がドイツに復帰し、国民の熱狂的な支持を背景に、ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限条項の破棄と再軍備を宣言します。そして1936年3月7日、ヒトラーは最大の賭けに出ます。ドイツ軍をラインラントに進駐させたのです。これは条約の最も明確な違反行為であり、フランスが軍事行動を起こせば、まだ再建途上にあったドイツ軍はひとたまりもなかったと言われています。しかし、フランスは国内の政治不安と、イギリスが軍事行動に消極的であったことから、有効な対抗措置を取れませんでした。イギリス国内には、ドイツが自国の「裏庭」に兵を進めるのは当然の権利である、とする宥和的な世論も根強く存在したのです。この「ラインラントの奇跡」とも呼ばれるヒトラーの賭けの成功は、彼の政治的威信を国内で絶対的なものにし、同時に英仏の弱腰を世界に露呈させました。ヴェルサイユ体制を支えるべき二大国の結束が脆いものであることを看破したヒトラーは、さらなる領土拡大へと自信を深めていくことになります。
2.2. 「生存圏」の拡大:オーストリア併合とズデーテン危機
ラインラント進駐の成功で自信を深めたヒトラーは、次なる目標として、ヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約で明確に禁止されていた、同じドイツ民族の国オーストリアとの合邦(アンシュルス)を目指します。彼の究極的な目標は、東ヨーロッパにドイツ民族の「生存圏(レーベンスラウム)」を確立することであり、オーストリア併合はその第一歩でした。
1938年2月、ヒトラーはオーストリアのシュシュニク首相に圧力をかけ、親ナチス派のザイス=インクヴァルトを内相に任命させます。シュシュニクが国民投票によって併合に抵抗しようとすると、ヒトラーは軍事侵攻をちらつかせて彼を辞任に追い込みました。そして3月12日、ドイツ軍はオーストリアに進駐。ウィーンでは熱狂的な歓迎を受け、翌13日にはオーストリア併合が宣言されました。イギリスとフランスは、この露骨な条約違反に対して再び抗議するのみで、実力行使には至りませんでした。特にイギリスのチェンバレン首相は、ドイツ民族の自決権を認める形で併合を黙認する姿勢を示し、これがヒトラーをさらに増長させる結果を招きます。
オーストリアを無血で手に入れたヒトラーの次の標的は、チェコスロヴァキアでした。この国は、英仏の同盟国であり、東欧における民主主義の砦と見なされていましたが、国内には約300万人のドイツ系住民が住むズデーテン地方を抱えていました。ヒトラーは、ズデーテンのドイツ系住民がチェコ政府から迫害されていると主張し、彼らの「解放」を口実に、この地方の割譲を強く要求し始めました。チェコスロヴァキア政府は、強固な要塞線を築き、ソ連との相互援助条約を結んで抵抗の構えを見せますが、戦争の勃発を何としても避けたい英仏は、再び宥和政策に傾きます。
事態は、ヨーロッパ全土を戦争の淵に追い込みました。この危機を打開するため、イタリアのムッソリーニの仲介で、1938年9月29日、ドイツのミュンヘンにおいて、イギリス(チェンバレン)、フランス(ダラディエ)、ドイツ(ヒトラー)、イタリア(ムッソリーニ)の4カ国首脳による会談が開かれました。驚くべきことに、この会談には当事国であるチェコスロヴァキアと、その同盟国であるソ連の代表は招かれませんでした。そして会談の結果、英仏はヒトラーの要求を全面的に受け入れ、ズデーテン地方のドイツへの割譲を決定します。これがミュンヘン会談です。チェンバレンは、ロンドンに帰国すると「我々の時代の平和をもたらした」と宣言し、大衆の喝采を浴びましたが、これは宥和政策の頂点であると同時に、その破綻を決定づける瞬間でもありました。
2.3. 宥和政策の破綻と戦争への最終段階
ミュンヘン会談は、一時的に戦争の危機を回避したかのように見えました。しかし、その代償はあまりにも大きく、歴史家チャーチルが「不名誉と戦争の間で、不名誉を選んだ。やがて戦争もするだろう」と喝破した通り、ヒトラーの野心を止めるどころか、むしろ加速させる結果となりました。ヒトラーは、ミュンヘン会談によって、英仏が軍事力を行使してまで小国の独立を守る意思がないことを確信しました。
そして、その確信を裏付けるように、ヒトラーはミュンヘンでの約束をわずか半年で反故にします。1939年3月、ドイツ軍は、ズデーテン以外のチェコ地域(ベーメン・メーレン)を保護領として支配下に置き、スロヴァキアを保護国として独立させ、チェコスロヴァキアという国家を完全に解体してしまいました。これは、もはや「ドイツ民族の自決」という口実すら通用しない、あからさまな侵略行為でした。
このチェコスロヴァキア解体によって、ようやくイギリスのチェンバレン首相も宥和政策の完全な失敗を認めざるを得なくなりました。英仏の世論は沸騰し、両国は外交方針を180度転換させます。ヒトラーの次の標的が、ヴェルサイユ条約によってドイツ領を分断する形で設定された「ポーランド回廊」と、国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒ(グダニスク)であることは明らかでした。英仏は、ポーランドの独立を保障し、もしドイツが侵攻した場合には、武力をもって支援することを約束しました。
ヨーロッパは今や、一触即発の事態に陥りました。ヒトラーはポーランド侵攻の決意を固めますが、彼が最も恐れていたのは、第一次世界大戦の悪夢、すなわちフランス・イギリスとソ連に挟撃される「二正面作戦」でした。この最後の障壁を取り除くため、ヒトラーは世界を驚愕させる外交的奇策に打って出ます。それは、宿敵であるはずの共産主義国家、ソビエト連邦との接近でした。こうして、ヨーロッパの運命は、ナチス・ドイツとソビエト連邦という二つの全体主義国家の手に委ねられることになったのです。
3. 独ソ不可侵条約とポーランド侵攻
3.1. イデオロギーの敵との握手:条約締結の背景
1939年の夏、ヨーロッパの平和は風前の灯火でした。チェコスロヴァキア解体というヒトラーの裏切りによって宥和政策を放棄した英仏は、ソビエト連邦との同盟交渉を急いでいました。ドイツの膨張を抑え込むためには、東のソ連との軍事同盟が不可欠だと考えたからです。しかし、この交渉はいくつかの深刻な障害に直面し、難航していました。
第一に、英仏、特にイギリスのチェンバレン政権内には、ナチズム以上に共産主義への強い嫌悪感と不信感が根強く存在しました。彼らは、ヒトラーの矛先が東方のソ連に向かうことを密かに期待するフシさえあり、ソ連との本格的な軍事同盟には消極的でした。第二に、ポーランドやバルト三国といった、ドイツとソ連の間に位置する国々が、ソ連軍の領内通過を頑なに拒否したことも大きな障害となりました。彼女たちは、ナチス・ドイツと同様に、あるいはそれ以上にソビエトの覇権主義を恐れていたのです。
一方、ソ連の指導者スターリンもまた、西側諸国に対して深い疑念を抱いていました。前年のミュンヘン会談で、ソ連が意図的に交渉の場から排除されたことは、彼に「英仏は、ドイツの侵略の矛先をソ連に向けさせるために、ヒトラーを宥めているのではないか」という強い疑念を植え付けました。英仏との同盟交渉が進展しない中、スターリンは、来たるべきドイツとの戦争に備えるための時間を稼ぎ、かつ自国の安全保障を確保するための、より現実的な選択肢を模索し始めます。
このような相互不信の状況を、ヒトラーは見逃しませんでした。彼は、ポーランド侵攻を目前に控え、西側との戦争が不可避となった場合でも、ソ連との二正面作戦だけは絶対に避けなければならないと考えていました。そこで彼は、イデオロギー上の最大の敵であるはずのスターリンに対し、水面下で驚くべき提案を持ちかけます。それは、独ソ間の不可侵条約の締結でした。スターリンにとって、この提案は西側との不毛な交渉を続けるよりもはるかに魅力的でした。それは、目前に迫ったドイツとの戦争を回避し、軍備を再建する時間を稼げるだけでなく、東ヨーロッパにおけるソ連の勢力圏を拡大するという、具体的な利益をもたらす可能性を秘めていたからです。こうして、互いの戦略的利益が奇妙な形で一致し、ナチズムと共産主義という、本来相容れないはずの二つのイデオロリーが、権謀術数の舞台で手を結ぶという歴史的な瞬間が訪れようとしていました。
3.2. 秘密議定書の衝撃:東欧の分割
1939年8月23日、モスクワにおいて、ドイツ外相リッベントロップとソ連外相モロトフが「独ソ不可侵条約」に調印しました。世界はこのニュースに衝撃を受けました。ファシズムと共産主義の間のイデオロギー的対立は、単なる見せかけに過ぎなかったのかと。しかし、この条約の真に恐るべき核心部分は、その公表された内容にはありませんでした。条約に付随して、外部には極秘とされた「秘密議定書」が存在したのです。
この秘密議定書の内容は、まさに悪魔の契約と呼ぶにふさわしいものでした。それは、ドイツとソ連が東ヨーロッパをそれぞれの「勢力範囲」として分割することを定めたものでした。具体的には、ポーランドをナレフ川、ヴィスワ川、サン川を境界線として独ソで分割し、さらにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、そしてルーマニアのベッサラビア地方をソ連の勢力範囲とすることが合意されていました。
この秘密議定書は、いくつかの点で極めて重要な意味を持ちます。第一に、これはヒトラーにとって、ポーランド侵攻への最後の障害を取り除くものでした。ソ連が背後を突く心配がなくなったことで、彼は安心してポーランドに全戦力を集中させ、その後、西方の英仏との戦いに臨むことができるようになりました。第二に、スターリンにとっては、これは帝政ロシア時代からの念願であった西方への領土拡大を実現する絶好の機会でした。彼は、資本主義国同士(ドイツと英仏)が互いに疲弊しあう間に、ソ連の戦略的緩衝地帯を西側に大きく広げ、国力を蓄えることができると考えたのです。第三に、そして最も悲劇的なことに、この議定書は、そこに名前を挙げられた国々の運命を、当事国の意思を完全に無視して決定づけるものでした。ポーランドやバルト三国は、全体主義国家間の冷徹な取引によって、その独立と主権を奪われることが運命づけられたのです。
独ソ不可侵条約の締結は、英仏の外交努力を完全に無に帰し、ヒトラーにポーランド攻撃の青信号を与えました。彼はもはや、ためらうことはありませんでした。
3.3. ポーランド侵攻と第二次世界大戦の勃発
独ソ不可侵条約締結からわずか9日後の1939年9月1日早朝、ドイツ軍はポーランドへの侵攻を開始しました。ヒトラーは、ポーランド軍がダンツィヒ近郊のドイツの放送局を襲撃したと主張しましたが、これもまた、満州事変における日本の手口を彷彿とさせる自作自演の謀略でした。
ドイツ軍は、「電撃戦(ブリッツクリーク)」と呼ばれる新戦術を初めて本格的に実践しました。これは、航空機による爆撃で敵の指揮系統と交通網を麻痺させ、その混乱に乗じて戦車部隊が敵の防御線を突破し、高速で敵陣深くを突き進むというものでした。旧式の装備しか持たないポーランド軍は、この圧倒的な機動力と破壊力の前にほとんど抵抗できず、次々と撃破されていきました。
ヒトラーは、英仏がポーランドのために実際には戦争に踏み切らないだろうと高を括っていましたが、これは彼の誤算でした。宥和政策の失敗を痛感していたイギリスとフランスは、これ以上の譲歩はナチスの野心を際限なく助長させるだけだと判断しました。ドイツに対して即時撤退を求める最後通牒を発し、それが無視されると、9月3日、両国はドイツに宣戦布告しました。ここに、第二次世界大戦が勃発したのです。
しかし、英仏の宣戦布告は、ポーランドを直接救うことには繋がりませんでした。西部戦線では大規模な戦闘は起こらず、「奇妙な戦争」と呼ばれる膠着状態が続きます。その間に、ポーランドは独ソ両国によって蹂蟙されていきました。9月17日には、秘密議定書の筋書き通り、ソ連軍がポーランド東部に侵攻を開始します。東西から挟撃されたポーランドは、首都ワルシャワの陥落をもって、わずか1ヶ月足らずで国家としての形を失いました。
独ソ不可侵条約という冷徹なリアリズムの産物は、ポーランドという国家を地図から消し去り、ヨーロッパ全土を巻き込む大戦の幕を開けました。スターリンは一時的な安全と領土を手に入れ、ヒトラーは二正面作戦を回避して緒戦の勝利を飾りましたが、この二人の独裁者の間の不信に満ちた協力関係は、やがて史上最大規模の裏切りと殺戮の舞台へと変貌していく運命にあったのです。
4. 第二次世界大戦の勃発
4.1. 西部戦線の「奇妙な戦争」
1939年9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した後も、西ヨーロッパでは奇妙な静寂が続いていました。ドイツ軍の主力がポーランド攻略に集中している間、フランス軍は要塞線であるマジノ線の背後に籠城し、イギリスは大陸への遠征軍の派遣を準備する段階で、大規模な軍事行動を起こすことはありませんでした。この、宣戦布告はしたものの本格的な戦闘が起こらない約8ヶ月間を、ジャーナリストたちは「奇妙な戦争(Phoney War)」あるいはドイツ語で「座り込み戦争(Sitzkrieg)」と呼びました。
この「奇妙な戦争」の背景には、いくつかの要因がありました。第一に、第一次世界大戦における塹壕戦の甚大な犠牲が、英仏の指導者や国民の心に深いトラウマとして刻まれていたことです。彼らは、大規模な攻勢をかけることに極度に慎重であり、できれば防御に徹し、ドイツを経済封鎖によって消耗させる持久戦に持ち込みたいと考えていました。第二に、フランス軍の戦略思想が、マジノ線を中心とした防御第一主義に凝り固まっていたことも挙げられます。彼らは、マジノ線がドイツの侵攻を阻止する鉄壁の守りであると過信し、機動的な作戦への備えを怠っていました。
しかし、この静寂の期間は、ドイツにとってはポーランドでの戦訓を分析し、来るべき西方作戦に向けて戦力を再編・増強するための貴重な時間となりました。ヒトラーは、英仏が本気で攻撃してこないことを見抜き、ポーランドとソ連による分割を完了させると、全軍を西部戦線に転換させました。そして、1940年の春、世界はこの「奇妙な戦争」が、嵐の前の静けさに過ぎなかったことを思い知らされることになります。
1940年4月9日、ドイツ軍は突如、デンマークとノルウェーへの侵攻を開始します(ヴェーザー演習作戦)。これは、スウェーデンから産出される鉄鉱石の輸送ルートを確保し、イギリス海軍による北海からの圧力を排除することを目的とした、戦略的に重要な作戦でした。デンマークは即日降伏し、ノルウェーも英仏の支援部隊を退けて6月には全土が占領されました。この北欧への電撃的な侵攻は、ドイツ軍の次の狙いが西ヨーロッパそのものであることを明確に示していました。イギリスでは、この失敗の責任を問われ、宥和政策を主導してきたチェンバレン首相が辞任。後任には、徹底抗戦を主張するウィンストン・チャーチルが就任し、イギリスの戦争指導体制は大きく転換しました。
4.2. フランスの崩壊とダンケルクの奇跡
北欧での作戦を成功させたドイツ軍は、満を持して西方への大攻勢を開始します。1940年5月10日、ドイツ軍は、中立国であるオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに一斉に侵攻しました。これは、第一次世界大戦のシュリーフェン・プランを彷彿とさせる動きであり、英仏連合軍の主力は、ドイツ軍の主攻勢がベルギー方面から来ると判断し、これを迎え撃つために北上しました。
しかし、これはドイツ軍の巧妙な陽動でした。ドイツ軍の真の主攻勢力であるA軍集団(グデーリアンらの装甲部隊が中心)は、英仏軍が攻め込んでこないと信じていた、森林地帯であるアルデンヌの森を突破するという、大胆かつ奇襲的な作戦を実行したのです。マジノ線がアルデンヌの森の地点で途切れているという防御の欠陥を突いたこの攻撃は、完璧に成功しました。ドイツ装甲部隊はセダンの渡河に成功すると、ドーバー海峡に向かって猛烈な勢いで進撃し、ベルギーに向かった英仏連合軍主力の背後を完全に遮断してしまいました。
包囲の輪が狭まる中、英仏連合軍約40万人は、フランス北岸の港町ダンケルクの海岸に追い詰められました。絶体絶命の状況でしたが、ここで「ダンケルクの奇跡」と呼ばれる出来事が起こります。ヒトラーが、空軍総司令官ゲーリングの進言(空軍だけで敵を殲滅できるという過信)を受け入れ、装甲部隊に謎の進撃停止命令を出したのです。このわずかな時間の猶予を突いて、イギリスは軍艦だけでなく、民間の漁船やヨット、プレジャーボートまでをも総動員した、史上最大の撤退作戦(ダイナモ作戦)を実行しました。5月26日から6月4日にかけて、絶え間ないドイツ空軍の爆撃の中で、約34万人の兵士がイギリス本土へ奇跡的に脱出することに成功したのです。
この撤退は、多くの重火器を失うという大きな犠牲を払ったものでしたが、イギリスが戦争を継続するための貴重な人的資源(熟練兵)を救出したという意味で、計り知れない戦略的価値を持ちました。しかし、大陸の戦局はもはや絶望的でした。主力を失ったフランス軍はドイツ軍の進撃を食い止めることができず、6月14日にはパリが無血開城。6月22日、フランスは第一次世界大戦でドイツが降伏文書に調印したのと同じ、コンピエーニュの森の客車で、屈辱的な休戦協定に調印しました。これにより、フランス北部と大西洋岸はドイツの占領下に置かれ、南部にはペタン元帥を首班とする親独的なヴィシー政府が樹立されました。開戦からわずか6週間で、大陸最強と謳われたフランスが崩壊したという事実は、世界に大きな衝撃を与えました。
4.3. バトル・オブ・ブリテン:イギリスの孤独な戦い
フランスの降伏により、イギリスは西ヨーロッパで唯一、ナチス・ドイツに立ち向かう国となりました。ヒトラーは、イギリスが戦意を喪失し、和平交渉に応じるだろうと期待していましたが、首相に就任したばかりのチャーチルは、「我々は海岸で戦う、我々は上陸地点で戦う…我々は決して降伏しない」という有名な演説で国民を鼓舞し、徹底抗戦の意思を明確にしました。
イギリス本土を屈服させるため、ヒトラーは「アシカ作戦」と名付けられた上陸作戦を計画します。しかし、ドーバー海峡を渡って上陸部隊を送るためには、制空権の確保、すなわちイギリス空軍(RAF)を壊滅させることが絶対条件でした。こうして、1940年7月から10月にかけて、イギリス南東部の上空で、ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)とイギリス空軍による、人類史上初の大規模な航空戦が繰り広げられました。これが「バトル・オブ・ブリテン」です。
当初、ドイツ空軍は、イギリスの空軍基地やレーダー施設を標的に、優勢な戦力で攻撃を仕掛けました。イギリス空軍は、スピットファイアやハリケーンといった優れた戦闘機と、本土に張り巡らされた早期警戒レーダー網を駆使して、巧みな迎撃戦を展開しましたが、その損害は甚大で、次第に追い詰められていきました。
しかし、戦局の転換点は、ドイツ側の戦略ミスによってもたらされました。ドイツ爆撃機が誤ってロンドン市街を爆撃したことへの報復として、イギリス空軍がベルリンを夜間爆撃すると、激怒したヒトラーは、攻撃目標を軍事施設からロンドンなどの都市への無差別爆撃(ザ・ブリッツ)へと切り替えさせました。これは、ロンドン市民に多大な犠牲を強いたものの、戦略的にはドイツの敗因となりました。攻撃の矛先が都市に向かったことで、危機的状況にあったイギリス空軍の基地は息を吹き返し、パイロットと航空機の補充・修理の時間を稼ぐことができたのです。
9月15日、ドイツ空軍はロンドンに最後の大規模な空襲をかけますが、再編されたイギリス空軍の激しい抵抗に遭い、多大な損害を出して撃退されました。この日の敗北により、ドイツ側はイギリス空軍の壊滅が不可能であることを悟り、ヒトラーはアシカ作戦の無期延期を決定しました。バトル・オブ・ブリテンは、イギリスの勝利に終わったのです。
この勝利の意義は計り知れません。もしイギリスが降伏していれば、ナチス・ドイツはヨーロッパの支配を確固たるものにし、その後の歴史は全く違ったものになっていたでしょう。イギリスが孤独な戦いを耐え抜いたことで、ナチス・ドイツに対する抵抗の拠点が維持され、やがてアメリカやソ連が参戦した際に、連合国が反攻を開始するための不沈空母としての役割を果たすことになるのです。チャーチルの言葉を借りれば、まさにこれはイギリスにとっての「最も素晴らしい時(Their Finest Hour)」でした。
5. 独ソ戦の開始
5.1. ヒトラーの決断:イデオロギーと戦略の交差点
バトル・オブ・ブリテンでイギリスを屈服させることに失敗したヒトラーは、その視線を東方、ソビエト連邦へと向けました。彼にとって、ソ連侵攻は単なる戦略的選択肢の一つではなく、彼の世界観、すなわちナチスのイデオロギーの核心部分を実行に移すための、いわば聖戦でした。
ヒトラーは、その著書『我が闘争』の中で、ドイツ民族が繁栄するためには、東ヨーロッパの広大な土地を「生存圏(レーベンスラウム)」として獲得する必要があると繰り返し主張していました。そして、その土地に住むスラブ民族は、ドイツ民族に奉仕すべき劣等人種であると見なしていました。さらに、ソ連の共産主義体制を、彼が世界悪の根源と見なす「ユダヤ的ボルシェヴィズム」の牙城であると断じ、これを地上から抹殺することを使命と考えていました。したがって、ソ連への攻撃は、生存圏の確保、人種的支配の確立、そしてイデオロギーの敵の殲滅という、ナチズムの三大目標を同時に達成するための究極的な戦争だったのです。
戦略的な観点からも、ヒトラーはソ連侵攻を不可欠だと考えていました。彼は、イギリスが頑強に抵抗を続ける根源は、いずれソ連がドイツの背後を突くだろうという期待にあると分析していました。もしソ連を電撃戦によって短期間で粉砕すれば、イギリスは大陸における最後の希望を失い、和平に応じざるを得なくなると考えたのです。また、ウクライナの穀倉地帯やカフカスの油田地帯といったソ連の豊富な資源を確保することは、イギリスの海上封鎖に対抗し、長期戦を戦い抜くための経済的基盤をドイツにもたらすはずでした。
こうしてヒトラーは、イギリスとの戦争が終結していないにもかかわらず、二正面作戦という最大の禁じ手を敢えて犯す決断を下します。彼は、ソ連の赤軍を「土台の腐った納屋」と侮っており、数ヶ月の電撃戦で容易に崩壊させることができると信じて疑いませんでした。1940年12月、ヒトラーはソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」を正式に承認し、準備を命じました。この決定は、彼の傲慢さとイデオロギーへの盲信が生んだ、第二次世界大戦における最大の、そして最も致命的な戦略的誤算となるのです。
5.2. バルバロッサ作戦:史上最大の侵攻
独ソ不可侵条約によって油断していたスターリンは、西側からの度重なる警告にもかかわらず、ドイツの攻撃準備を真剣に受け止めようとはしませんでした。彼は、これをイギリスが独ソを戦わせようとするための挑発だと考えていたのです。
1941年6月22日未明、ドイツ軍は、300万人を超える兵力、3000両以上の戦車、数千機の航空機という、人類史上最大規模の侵攻部隊をもって、ソ連への奇襲攻撃を開始しました。北はバルト海から南は黒海に至る長大な戦線で、ドイツ軍は北方、中央、南方の三つの軍集団に分かれ、一斉に進撃を開始しました。
緒戦において、ドイツ軍は圧倒的な成功を収めます。奇襲を受けたソ連空軍は、地上でそのほとんどが破壊され、ドイツ軍は早々に制空権を確保しました。スターリンの大粛清によって有能な指揮官の多くを失っていたソ連赤軍は、組織的な抵抗ができず、混乱状態に陥りました。ドイツ装甲部隊は、電撃戦の戦術を駆使してソ連軍の防御線を次々と突破し、広大なソ連領の奥深くへと進撃していきました。数週間で数十万人のソ連兵が捕虜となり、ベラルーシやウクライナの主要都市が次々と陥落しました。ヒトラーとドイツ軍首脳部は、作戦が計画通りに進んでいることに満足し、戦争は冬が来る前に終結するだろうと楽観視していました。
しかし、ドイツ軍の快進撃の裏で、いくつかの誤算が生じ始めていました。第一に、ソ連赤軍は、大敗北を喫しながらも、ドイツ軍の予想を超えて頑強に抵抗を続けました。包囲されても降伏せず、最後の一兵まで戦う部隊が続出し、ドイツ軍の進撃速度は徐々に鈍っていきました。第二に、スターリンは、ドイツの奇襲に一時的なパニックに陥ったものの、すぐに立ち直り、ラジオ演説で国民に「大祖国戦争」の開始を宣言し、徹底抗戦を呼びかけました。彼は、占領される地域の工業設備をウラル山脈の東方へ疎開させるという焦土作戦を指示し、戦争の長期化に備えました。
さらに、ドイツ軍の内部でも、主攻勢をどこに向けるべきかについて戦略的な対立が生じました。軍司令官たちは、ソ連の政治・交通の中心である首都モスクワへの直接攻撃を主張しましたが、ヒトラーは、まず南方のウクライナの資源地帯と、北方のレニングラードを確保することを優先させました。この戦略変更により、最も重要な目標であるモスクワへの攻撃が遅れることになりました。
5.3. モスクワ前面の冬将軍:電撃戦の破綻
1941年9月末、ドイツ中央軍集団は、満を持してモスクワ攻略作戦「タイフーン作戦」を開始しました。当初、作戦は順調に進み、ドイツ軍はモスクワまで数十キロの地点にまで迫りました。クレムリンの尖塔が、ドイツ軍将校の双眼鏡の中に見えたとさえ言われています。ソ連政府は、首都を東方のクイビシェフに疎開させ、モスクワは陥落寸前かと思われました。
しかし、ここでドイツ軍の前に二つの強敵が立ちはだかりました。一つは、シベリアから急行してきた、ジューコフ将軍率いるソ連の精鋭部隊でした。彼らは、日本の南進政策が確実となり、対日戦の脅威が薄れたことで、極東から首都防衛のために転進してきたのです。そしてもう一つの敵は、ロシアの歴史で幾度となく侵略者を打ち破ってきた「冬将軍」でした。
10月に入ると、秋の長雨(ラスプーチツァ)が始まり、ソ連の未舗装の道路は底なしの泥沼と化しました。ドイツ軍の戦車や車両は身動きが取れなくなり、補給は完全に滞りました。そして11月、例年よりも早く、記録的な厳冬が到来しました。気温は氷点下30度、40度にまで下がり、短期決戦を想定していたドイツ軍には、十分な冬季装備がありませんでした。兵士たちは夏服のまま凍傷に苦しみ、戦車のエンジンオイルは凍りつき、兵器は作動しなくなりました。
この機を逃さず、ソ連軍は12月5日、大規模な反撃に転じました。冬季装備に身を固めたシベリア部隊の猛攻の前に、凍えきったドイツ軍は後退を余儀なくされ、モスクワの危機は回避されました。ドイツ軍は、開戦以来初めての大規模な敗北を喫したのです。
モスクワ前面での敗北は、独ソ戦における決定的な転換点でした。それは、ヒトラーの電撃戦という戦略思想そのものの破綻を意味していました。戦争は、ドイツが最も避けたかった長期的な消耗戦の様相を呈し始めます。独ソ戦は、これ以降、人類史上類を見ないほどの残虐さと犠牲者を伴う、巨大な絶滅戦争へと変貌していくのです。この広大な東部戦線は、ナチス・ドイツの軍事力を際限なく吸い込み続ける巨大な沼となり、その敗北を決定づける最大の要因となっていくのでした。
6. 太平洋戦争の開戦
6.1. ABCD包囲網と日本の窮地
日中戦争が泥沼化する中、日本は打開策を見いだせずにいました。戦争遂行には石油や鉄などの戦略物資が不可欠でしたが、その大半をアメリカからの輸入に依存しているという構造的矛盾を抱えていました。当初、アメリカは中立の立場から日本への輸出を続けていましたが、日本の中国侵略が拡大し、1940年9月に日本がドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結するに至って、その態度は硬化します。アメリカにとって、ヨーロッパのナチズムとアジアの日本の軍国主義が連携することは、世界の民主主義と自国の安全保障に対する直接的な脅威と映りました。
これに対し、アメリカは経済制裁という手段で日本の行動を抑制しようと試みます。まず、屑鉄や航空機用ガソリンの対日輸出を禁止しました。これに危機感を覚えた日本は、援蒋ルート(中国の蒋介石政権を支援する物資の輸送路)を遮断し、かつ東南アジアの豊富な資源(特に石油)を確保する目的で、フランス領インドシナ北部への進駐(北部仏印進駐)を強行します。
この日本の南進政策は、アメリカの態度をさらに硬化させました。1941年7月、日本軍が南部仏印進駐を実行すると、アメリカは在米日本資産の凍結という強硬措置を発動し、そして決定打となる対日石油全面禁輸に踏み切りました。イギリス(British)、中国(China)、オランダ(Dutch)もこれに同調し、日本は主要な石油輸入ルートをほぼ完全に断たれることになりました。これが、日本側から「ABCD包囲網」と呼ばれた経済封鎖です。
この石油禁輸は、日本の国家存亡に関わる死活問題でした。当時の日本の石油備蓄は、平時で2年分、戦時下では1年半分程度しかなく、このままでは海軍の艦船も航空機も動かせなくなり、戦争遂行能力を完全に失ってしまいます。日本は、外交交渉によってアメリカとの関係を修復し、石油禁輸を解除させるか、あるいは武力に訴えてでも南方(特にオランダ領東インド、現在のインドネシア)の油田地帯を確保するかの、二者択一を迫られることになりました。日本は、アメリカとの間で必死の外交交渉(日米交渉)を続けましたが、中国からの全面撤兵などを求めるアメリカの要求(ハル・ノート)は、これまでの大陸での犠牲を無にできないと考える日本の指導部には到底受け入れられるものではありませんでした。交渉が行き詰まる中、日本では開戦論が急速に力を得ていき、東条英機内閣のもと、対米英開戦の決意が固められていったのです。
6.2. 真珠湾攻撃:賭けとしての開戦
1941年12月8日(日本時間)、日本海軍の機動部隊は、ハワイ・オアフ島の真珠湾に在泊していたアメリカ太平洋艦隊に対し、大規模な奇襲攻撃を敢行しました。戦闘機、爆撃機、雷撃機からなる攻撃隊が、戦艦アリゾナをはじめとする多数の艦船を撃沈・大破させ、航空機にも大きな損害を与えました。この攻撃は、軍事的には見事な成功を収め、アメリカの戦艦戦力を一時的に壊滅させました。
この作戦の戦略的な目的は、アメリカの太平洋における海軍力を無力化し、その間に日本が東南アジアの資源地帯を迅速に確保し、絶対国防圏を確立することにありました。日本海軍の指導者たちは、国力で圧倒的に劣る日本がアメリカとの長期戦に勝てないことを理解していました。そのため、緒戦でアメリカに大打撃を与え、戦意を喪失させることで、有利な条件での早期講和に持ち込むという、極めて投機的な、まさに「賭け」ともいえる戦略を描いていたのです。
しかし、この真珠湾攻撃は、戦略的にはいくつかの重大な欠陥を抱えていました。第一に、攻撃当日は日曜日であったため、アメリカの主力であった航空母艦(空母)は一隻も湾内におらず、無傷で残ってしまいました。その後の太平洋の海戦が、戦艦ではなく空母を中心とした航空戦になることを考えれば、これは致命的な失敗でした。第二に、湾内の修理施設や燃料タンクといった、戦争遂行能力を支える重要なインフラを破壊しきれなかったことも、アメリカ海軍の早期の立ち直りを許す原因となりました。
そして、最大の誤算は、アメリカ国民の心理に与えた影響でした。奇襲攻撃は、それまでアメリカ国内で根強かった孤立主義(モンロー主義)の世論を一瞬にして吹き飛ばし、「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、アメリカ国民をかつてないほど強固な反日・戦争支持の世論で団結させてしまったのです。攻撃の翌日、フランクリン・ローズヴェルト大統領は議会で「屈辱の日」と演説し、アメリカは日本に宣戦布告しました。さらに、日本の同盟国であるドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告したことで、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争は完全に一つの「第二次世界大戦」として統合され、文字通り全世界を巻き込むグローバルな紛争へと発展したのです。日本が望んだ早期講和への道は、開戦のまさにその瞬間に、自らの手によって閉ざされてしまったのでした。
6.3. 日本軍の快進撃と「大東亜共栄圏」
真珠湾攻撃と時を同じくして、日本軍は南方作戦を開始し、イギリス領マレー半島への上陸を皮切りに、東南アジア全域で破竹の快進撃を続けました。
開戦からわずか2日後の12月10日、マレー沖でイギリス東洋艦隊の主力、戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻を、航空攻撃のみで撃沈しました(マレー沖海戦)。これは、大艦巨砲主義の時代の終わりと、航空戦力の優位を世界に知らしめた象徴的な出来事でした。
陸上でも、山下奉文大将率いる部隊が、マレー半島を自転車などを駆使して縦断し、1942年2月にはイギリスのアジアにおける最重要拠点であったシンガポールを陥落させました。チャーチルはこれを「英国史上最悪の災厄であり、最大の降伏」と嘆きました。
フィリピンでは、アメリカ・フィリピン連合軍が頑強に抵抗しましたが、5月にはコレヒドール要塞が陥落。オランダ領東インド(インドネシア)の油田地帯も確保し、ビルマ(ミャンマー)も占領して援蒋ルートを遮断しました。開戦からわずか半年で、日本は、西はインド洋から東は中部太平洋、南はニューギニアに至る広大な地域を支配下に収め、その版図は史上最大に達しました。
日本は、この戦争を「大東亜戦争」と名付け、その目的を、欧米列強の植民地支配からアジアを解放し、日本を盟主とする「大東亜共栄圏」を建設することにあると tuyên伝しました。当初、長年欧米の支配に苦しんできたアジアの諸民族の中には、日本軍を解放軍として歓迎する動きも見られました。
しかし、その実態は、日本の戦争遂行のために現地の資源を収奪し、人々を労働力として動員する、新たな支配体制に他なりませんでした。占領地では、日本語教育や神社参拝が強制され、抗日運動に対しては厳しい弾圧が行われました。その結果、当初の歓迎ムードは急速に失望と反感に変わり、各地で抗日ゲリラ活動が活発化していきます。「アジアの解放」という大義名分は、日本の占領政策の過酷さによって、その輝きを失っていったのです。日本の快進撃は、アメリカの巨大な産業力と物量が本格的に戦争に動員されるまでの、限られた時間の中での出来事に過ぎませんでした。
7. 連合国の反撃
7.1. 戦局の転換点(1):ミッドウェーとスターリングラード
1942年半ば、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)の優勢で進んでいた戦局は、二つの決定的な戦いを経て、連合国側への大きな転換点を迎えます。
太平洋戦線における転換点は、1942年6月のミッドウェー海戦でした。真珠湾攻撃以来、快進撃を続けてきた日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊の残存戦力を誘い出して殲滅し、中部太平洋の制海権を完全に掌握するため、ミッドウェー島への攻略作戦を計画しました。しかし、この作戦の最大の鍵であった日本の暗号は、アメリカ側によってほぼ完全に解読されていました。日本艦隊の動向を事前に察知していたアメリカ海軍は、空母部隊をミッドウェー島近海に待ち伏せさせ、万全の態勢で迎え撃ちました。
戦闘の結果、日本海軍は、主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と多数の熟練パイロットを一挙に失うという、壊滅的な敗北を喫しました。一方、アメリカ側の損害は空母1隻にとどまりました。この海戦により、太平洋における日米の海軍航空戦力のバランスは逆転し、日本は戦争の主導権を完全に失いました。これ以降、日本は終わりのない消耗戦へと引きずり込まれ、守勢に立たされることになります。ミッドウェー海戦は、日本の敗北を決定づけた、まさに「運命の5分間」でした。
一方、ヨーロッパの東部戦線では、1942年夏、ドイツ軍は前年のモスクワ攻略の失敗を挽回すべく、南方のカフカス地方の油田地帯の確保を主目標とする大規模な攻勢を開始しました。その過程で、ヴォルガ河畔の工業都市スターリングラード(現在のヴォルゴグラード)の占領が重要な中間目標とされました。ヒトラーは、スターリンの名を冠したこの都市を占領することに固執し、ここに膨大な戦力を投入しました。
1942年9月から、スターリングラード市街では、人類史上最も凄惨とされる市街戦が繰り広げられました。両軍は、瓦礫と化した工場や建物の一つひとつをめぐって、一進一退の攻防を続け、おびただしい数の死傷者を出しました。ドイツ軍は、一時は市街地の9割を制圧しましたが、ソ連軍の頑強な抵抗に遭い、完全に占領することはできませんでした。
そして11月、ソ連軍のジューコフ将軍は、大規模な反攻作戦(ウラヌス作戦)を発動します。ソ連軍は、ドイツ軍の主力が市街戦に釘付けになっている隙を突き、防御が手薄だったルーマニア軍などが守る南北の側面を突破し、スターリングラード市内のドイツ第6軍約30万人をそっくり包囲することに成功しました。ヒトラーは、第6軍司令官パウルスに降伏を禁じ、空からの補給による徹底抗戦を命じましたが、冬の到来とともに補給は途絶え、包囲されたドイツ兵は飢えと寒さで次々と倒れていきました。そして1943年2月2日、弾薬も食料も尽きた第6軍は、ついに降伏しました。
スターリングラードの戦いは、独ソ戦における最大の転換点でした。ドイツ軍は、精鋭部隊をまるごと失うという、開戦以来の未曾有の大敗北を喫し、これ以降、東部戦線で戦略的な主導権を握ることは二度とありませんでした。この勝利は、ソ連国民の士気を大いに高め、連合国にナチス・ドイツに対する最終的な勝利を確信させるものとなりました。
7.2. 総力戦体制と「民主主義の兵器廠」
第二次世界大戦は、第一次世界大戦以上に、国家のあらゆる資源(人的、物的、経済的、科学技術的)を戦争遂行のために総動員する「総力戦」の様相を呈しました。勝利の鍵は、単に戦場での戦術的な優劣だけでなく、兵器の生産能力、物資の補給能力、そして国民の士気を維持する能力にかかっていました。
この総力戦において、連合国側、特にアメリカ合衆国が果たした役割は決定的でした。真珠湾攻撃によって参戦したアメリカは、その巨大な産業潜在能力をフル回転させ、瞬く間に世界最大の兵器生産国へと変貌しました。自動車工場は戦車や航空機の生産ラインに転換され、民間企業も政府の管理のもとで軍需生産に協力しました。ローズヴェルト大統領が述べたように、アメリカはまさに「民主主義の兵兵器廠(Arsenal of Democracy)」となったのです。
アメリカの驚異的な生産力は、自国の軍隊を武装させただけでなく、レンドリース法(武器貸与法)に基づき、イギリス、ソ連、中国といった他の連合国にも大量の兵器、車両、食料などを供給しました。特に東部戦線でドイツ軍の主力を引き受けていたソ連にとって、アメリカから供給されたトラックや通信機器、食料は、その戦争遂行能力を維持する上で死活的に重要でした。
また、科学技術の分野でも、総力戦は熾烈な開発競争を生み出しました。レーダー技術の進歩は、バトル・オブ・ブリテンや大西洋の対潜水艦作戦で連合国の勝利に大きく貢献しました。暗号解読技術もまた、ミッドウェー海戦の勝因となったように、戦争の行方を左右する重要な要素でした。そして、この科学技術競争の究極の産物が、マンハッタン計画によって開発された原子爆弾でした。
一方、枢軸国側も総力戦体制を敷きましたが、基礎となる国力や資源において連合国に大きく劣っていました。ドイツは、占領地からの収奪や強制労働によって生産力を維持しようとしましたが、連合国による戦略爆撃が工業地帯を破壊し、次第にその力は削がれていきました。日本は、資源の乏しさに加え、兵站・補給の軽視という構造的な弱点を抱えており、前線では兵士たちが飢餓に苦しむという悲惨な状況が多発しました。物量と生産力における圧倒的な差が、最終的に戦争の帰趨を決する最大の要因となったのです。
7.3. 第二戦線の形成:北アフリカからノルマンディーへ
独ソ戦が始まって以来、ソ連のスターリンは、イギリスとアメリカに対して、ドイツ軍の圧力を分散させるために、ヨーロッパ大陸に第二の戦線(第二戦線)を形成するよう繰り返し要求していました。しかし、英米両国は、大陸への直接上陸作戦には周到な準備が必要であるとして、すぐにはその要求に応じませんでした。
その代わりに、英米連合軍がまず目標としたのが、地中海の制海権を確保し、枢軸国にとって「柔らかい下腹部」と見なされた地域への攻撃でした。1942年11月、アイゼンハワー将軍の指揮のもと、英米連合軍はフランス領モロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)。これと呼応して、東から進撃してきたモントゴメリー将軍率いるイギリス軍が、同年10月のエル・アラメインの戦いでロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団を破り、枢軸国軍は東西から挟撃される形となりました。そして1943年5月、北アフリカの枢軸国軍は降伏し、地中海は連合国の手に落ちました。
北アフリカでの勝利に続き、連合軍は1943年7月、イタリアのシチリア島に上陸。この上陸成功は、イタリア国内のファシスト政権への不満を爆発させ、ムッソリーニは失脚・逮捕されました。後継のバドリオ政権は、同年9月に連合国に無条件降伏します。ドイツ軍は、ただちにイタリア北部を占領し、救出されたムッソリーニを首班とする傀儡政権(サロ共和国)を樹立したため、イタリア半島での戦いはその後も続きましたが、枢軸国の一角が崩れたことの意義は大きいものでした。
そして、スターリンが待ち望んだ本格的な第二戦線は、1944年6月6日、ついに形成されます。この日、「D-デイ」と称され、アイゼンハワーを最高司令官とする300万人以上の英米カナダ連合軍が、フランス北部のノルマンディー海岸に史上最大規模の上陸作戦を敢行しました。ドイツ軍の激しい抵抗に遭いながらも、連合軍は上陸拠点の確保(橋頭堡の構築)に成功。その後、圧倒的な物量と航空支援を背景に、内陸へと進撃を開始しました。同年8月25日にはパリが解放され、連合軍はドイツ国境へと迫っていきました。
ノルマンディー上陸作戦の成功により、ドイツは、東からはソ連軍、西からは英米連合軍に挟撃される、絶望的な二正面作戦を強いられることになりました。東部戦線では、ソ連軍がバグラチオン作戦を発動し、ドイツ中央軍集団を壊滅させてポーランドへと進撃していました。ドイツの敗北は、もはや時間の問題となったのです。
8. ホロコースト
8.1. 反ユダヤ主義のルーツとナチスの人種思想
ホロコースト、すなわちナチス・ドイツによる約600万人のユダヤ人の組織的・計画的な絶滅政策は、人類史上における類例のない蛮行であり、その根源はヨーロッパ社会に深く根ざした反ユダヤ主義と、ナチズム特有の人種イデオロギーの狂信的な結合に求められます。
反ユダヤ主義の歴史は古く、中世ヨーロッパにおいて、イエス・キリストを十字架につけた民として宗教的な偏見の対象とされたことに始まります。キリスト教社会において土地所有などを禁じられたユダヤ人は、金融業や商業などに活路を見いだしましたが、それが逆に彼らを金銭に執着する貪欲な民族であるという経済的な偏見を助長しました。近代に入り、ナショナリズムが高揚すると、ユダヤ人は国民国家に同化しないコスモポリタンな存在として、政治的な疑惑の目で見られるようになります。これら宗教的、経済的、政治的な偏見が、19世紀末には、ユダヤ人を生物学的に劣った、あるいは有害な「人種」と見なす、人種的反ユダヤ主義へと変質していきました。
アドルフ・ヒトラーとナチス党は、このヨーロッパ社会に燻る反ユダヤ主義を巧みに利用し、それを自らのイデオロギーの中核に据えました。ナチスの世界観は、世界史を、優等人種である「アーリア人種」(特にドイツ民族)と、劣等人種である「ユダヤ人種」との間の、絶え間ない闘争の歴史であると捉えるものでした。彼らにとって、ユダヤ人は単なる異教徒や異分子ではなく、アーリア人種の純粋な血を汚し、世界を陰で操ってドイツを滅ぼそうとする、根絶すべき「寄生虫」であり「悪魔」でした。第一次世界大戦の敗北、ヴェルサイユ条約の屈辱、ハイパーインフレーション、世界恐慌といったドイツが直面したすべての災厄は、ユダヤ人の陰謀であるという、荒唐無稽なプロパガンダが国民に繰り返し刷り込まれました。
この人種思想に基づき、ナチスは、ドイツ社会からユダヤ人を段階的に排除し、最終的には絶滅させることを国家の至上目標としました。彼らの政策は、単なる差別や迫害ではなく、ユダヤ人という存在そのものを地上から抹消しようとする、生物学的な絶滅戦争の性格を帯びていたのです。
8.2. 迫害の段階的エスカレーション
ナチスが政権を掌握した1933年から、ユダヤ人に対する迫害は、段階的かつ体系的にエスカレートしていきました。
第一段階は、法的・社会的な排除でした。1935年に制定されたニュルンベルク法は、その象徴です。この法律は、ユダヤ人を「ライヒ市民」から除外し、アーリア人との結婚や性的関係を禁じました。ユダヤ人は、公職から追放され、医師や弁護士といった職業も奪われ、ドイツ社会から完全に隔離されていきました。
第二段階は、暴力の激化と経済的収奪です。1938年11月9日の夜、「水晶の夜(クリスタルナハト)」と呼ばれる、全国規模の組織的なユダヤ人襲撃(ポグロム)が発生しました。シナゴーグ(ユダヤ教会)は焼き討ちにされ、ユダヤ人の商店や家屋が破壊・略奪され、多くのユダヤ人が殺害または逮捕されました。これを機に、ユダヤ人からの資産の没収が加速し、多くのユダヤ人が国外への亡命を試みましたが、各国の受け入れ態勢は十分ではなく、その道は閉ざされていきました。
第三段階は、強制的な集住と隔離です。第二次世界大戦が勃発し、ポーランドを占領すると、ナチスはワルシャワなどの主要都市に「ゲットー」と呼ばれる、壁で囲まれたユダヤ人の強制居住区を設置しました。ゲットー内のユダヤ人は、劣悪な衛生環境とわずかな食料しか与えられず、飢餓と病気によって多くの人々が命を落としました。
そして最終段階が、組織的な大量虐殺です。1941年に独ソ戦が始まると、ドイツ軍の後方で「アインザッツグルッペン」と呼ばれる特別行動部隊が、ソ連領内のユダヤ人や共産党員を組織的に銃殺し始めました。しかし、この方法は効率が悪く、兵士に精神的な負担を強いるものでした。そこでナチス指導部は、より効率的かつ非人間的な方法で、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させる計画を立案します。1942年1月、ベルリン郊外のヴァンゼー湖畔で開かれた会議(ヴァンゼー会議)において、ラインハルト・ハイドリヒの主導のもと、ヨーロッパのユダヤ人問題の「最終的解決(エンドレーズング)」、すなわち絶滅政策の具体的な実施計画が調整・確認されたのです。
8.3. 「最終的解決」:絶滅収容所のシステム
ヴァンゼー会議以降、ホロコーストは「工業的」とも形容される、極めてシステマティックな大量虐殺の段階へと移行しました。その中心的な舞台となったのが、ポーランドの占領地に建設された絶滅収容所でした。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ、トレブリンカ、ソビボルといった絶滅収容所は、単に敵を収容するための施設ではなく、人間を効率的に殺害するためだけに設計・建設された「死の工場」でした。ヨーロッパ中から、ユダヤ人たちは家畜用の貨物列車に詰め込まれ、劣悪な環境で何日もかけてこれらの収容所へ移送されました。
収容所に到着すると、彼らは親衛隊(SS)の医師らによって「選別」されました。労働可能と判断された者は、過酷な強制労働に従事させられ、やがて衰弱死していきました。一方、労働不能と見なされた老人、子供、病弱者、そして母親たちの多くは、シャワー室を偽装したガス室へと直接送られました。そこで、チクロンBなどの毒ガスによって殺害され、その遺体は焼却炉で処分されました。犠牲者から奪われた髪の毛や金歯などは、ドイツの戦争経済のために再利用されました。
この絶滅のプロセスは、官僚的な手続きと分業体制によって、極めて効率的に、そして実行者の罪悪感を麻痺させる形で実行されました。命令を下す者、移送のスケジュールを組む者、列車を運転する者、選別を行う者、ガスを投入する者、死体を処理する者。それぞれが自らの「仕事」を淡々とこなすことで、全体として前代未聞の大量虐殺システムが機能したのです。この「悪の凡庸さ」とも呼ばれる現象は、ホロコーストの最も恐ろしい側面の一つです。
ホロコーストは、ナチスの人種的イデオロギーがいかに狂信的であったかを示すと同時に、近代的な官僚制や科学技術が、ひとたび非人道的な目的に利用された時に、いかに恐ろしい結果をもたらすかを物語っています。この悲劇は、人間の理性が容易に崩壊しうるという事実と、人権や寛容といった価値がいかに脆く、守り続ける努力が不可欠であるかを、後世の人々に重い教訓として突きつけているのです。
9. ヤルタ会談とポツダム会談
9.1. ヤルタ会談:戦後世界の青写真と亀裂の始まり
1945年2月、ドイツの敗北が目前に迫る中、連合国の三大国首脳、アメリカのフランクリン・ローズヴェルト、イギリスのウィンストン・チャーチル、そしてソ連のヨシフ・スターリンは、ソ連領クリミア半島の保養地ヤルタに集まり、戦後の世界秩序に関する重要な取り決めを行いました。これがヤルタ会談です。
会談の主要な議題は、ドイツの戦後処理、東ヨーロッパの将来、そして設立が計画されていた国際連合のあり方でした。
ドイツに関しては、無条件降伏を再確認し、米・英・ソ・仏の4カ国によって分割占領されることで合意しました。首都ベルリンも同様に4カ国で分割管理されることになりました。また、ドイツの非ナチ化、非軍事化、民主化が戦後処理の基本方針とされました。
国際連合については、その基本構想で合意に達しました。特に、安全保障理事会において、アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、中国の5カ国が常任理事国となり、拒否権を持つという「ヤルタの密約」がここで事実上確認されました。これは、大国の協調によって世界の平和を維持しようとする、ローズヴェルトの構想が色濃く反映されたものでした。
しかし、最も困難な議題はポーランドをはじめとする東ヨーロッパの将来でした。西側、特にチャーチルは、ソ連軍によって解放された東欧諸国に自由な選挙を実施させ、民主的な政府を樹立させることを強く求めました。一方、スターリンにとって、東ヨーロッパは、将来のドイツからの侵略を防ぐための戦略的な緩衝地帯であり、ソ連の安全保障の生命線でした。彼は、ポーランドに親ソ的な政府を樹立することを譲らず、最終的には「自由で妨げられない選挙」をできるだけ早期に実施するという曖昧な約束と引き換えに、ソ連が支持するルブリン政府(共産党主体)をポーランドの臨時政府の基礎とすることが認められました。
さらに、極東問題に関しても重要な密約が交わされました。ローズヴェルトは、対日戦を早期に終結させるために、ソ連の参戦を強く望んでいました。スターリンは、その見返りとして、日露戦争で失った南樺太の返還、千島列島の引き渡し、そして満州における日本の権益(南満州鉄道など)の継承などを要求し、ローズヴェルトはこれを承諾しました(ヤルタ協定)。
ヤルタ会談は、一見すると三大国の協調が成功したかのように見えましたが、その水面下では、来るべき米ソ対立の亀裂がすでに生じていました。特に東ヨーロッパの処遇をめぐる西側とソ連の根本的な利害の対立は、戦後の冷戦構造を胚胎させる、最初の兆候となったのです。
9.2. ポツダム会談:首脳交代と深まる不信
ヤルタ会談から約5ヶ月後の1945年7月17日から8月2日にかけて、ドイツの降伏を受けて、連合国首脳はベルリン郊外のポツダムで再び会談を行いました。しかし、この会談の参加者の顔ぶれは、ヤルタの時とは大きく変わっていました。
アメリカは、4月に急逝したローズヴェルトに代わり、副大統領から昇格したハリー・トルーマンが出席しました。トルーマンは、ローズヴェルトと異なり、ソ連のスターリンに対して強い不信感を抱く、断固とした反共主義者でした。イギリスも、会談の途中で行われた総選挙でチャーチルの保守党が敗北し、労働党のクレメント・アトリーが首相として交代しました。三大国の首脳のうち、ヤルタから続けて参加したのはスターリンのみとなり、首脳間の個人的な信頼関係は大きく変化していました。
ポツダム会談の主な議題は、ヤルタで合意されたドイツの戦後処理方針を具体化することでした。ドイツの非軍事化、非ナチ化、民主化、そして経済のカルテル解体(脱カルテル化)の4つの原則(4D政策)が確認されました。また、戦争賠償の取り扱いについても、各国が自らの占領地域から取り立て、ソ連は西側占領地域からも一部を受け取ることなどが決められました。
しかし、会談の雰囲気は、ヤルタの時とは明らかに異なり、不信と対立の色合いが濃いものでした。トルーマンは、ソ連が東ヨーロッパで自由選挙の約束を守らず、次々と共産主義政権を樹立していることに強い不満を表明しました。スターリンもまた、西側がドイツの賠償問題などでソ連の要求に応じないことに反発しました。
この会談の力学を根本的に変えたのが、会談の初日にトルーマンが受け取った、アメリカの原子爆弾実験成功の知らせでした。トルーマンは、この「新しい兵器」の存在をスターリンにほのめかし、対日戦の終結と戦後交渉を有利に進めるための外交的な切り札としようとしました。しかし、スターリンはすでにスパイからの情報で原爆開発計画を知っており、平静を装いながらも、アメリカの核独占に対する警戒感を強め、自国の原爆開発を一層急がせることになります。
対日戦に関しては、会談中の7月26日に、米英中の三カ国首脳の名前で(ソ連はまだ対日中立)、日本に対して無条件降伏を求める「ポツダム宣言」が発せられました。宣言は、日本の軍国主義の除去、領土の限定、武装解除などを要求し、これらが受け入れられない場合は「迅速かつ完全なる壊滅」あるのみ、と警告しました。
ポツダム会談は、第二次世界大戦における連合国の最後の首脳会談となりました。それは、ナチス・ドイツという共通の敵を打倒するための協力関係の終焉であると同時に、イデオロギーと国益をめぐる米ソの対立が、新たな時代の国際関係の基軸となる「冷戦」の始まりを告げる、分水嶺でもあったのです。
9.3. 戦後秩序の形成と限界:国際連合とニュルンベルク裁判
第二次世界大戦の惨禍は、国際連盟の失敗を乗り越える、より強力な国際平和維持機構の必要性を痛感させました。その構想は、ローズヴェルト大統領の主導のもと、ヤルタ会談で具体化され、1945年6月にサンフランシスコ会議で50カ国が国連憲章に署名し、同年10月24日に国際連合が正式に発足しました。
国際連合は、国際連盟の教訓から、いくつかの重要な改善が図られました。第一に、アメリカやソ連といった大国が当初から参加し、普遍的な国際機関を目指したことです。第二に、経済制裁だけでなく、加盟国の軍隊による国連軍を組織し、軍事的な強制措置を取る権限を安全保障理事会に与えたことです。
しかし、国連は、その設立当初から大きな構造的限界も抱えていました。それは、安全保障理事会の常任理事国(米、ソ、英、仏、中)に与えられた拒否権です。この拒否権は、大国の合意なしにはいかなる強制措置も発動できないことを意味し、戦後すぐに始まった米ソの冷戦構造の中で、国連の平和維持機能はしばしば麻痺状態に陥ることになりました。大国の利害が対立する問題に対して、国連は有効な手を打てないという現実は、その後何度も繰り返されることになります。
一方、戦争の道義的・法的な総括として、戦争犯罪を裁く国際軍事裁判が、ドイツのニュルンベルクと日本の東京で開かれました。特に1945年11月から始まったニュルンベルク裁判は、画期的な意味を持っていました。この裁判では、従来の戦争法規違反(捕虜虐待など)に加えて、「平和に対する罪」(侵略戦争の計画・準備・遂行)と「人道に対する罪」(ホロコーストなどの非戦闘員に対する殺害・絶滅)という新しい概念が導入され、ナチスの主要な指導者たちが個人としてその責任を問われました。
この裁判は、国家の指導者であっても、侵略戦争や非人道的な行為に対しては国際法上の刑事責任を免れないという、重要な原則を確立しました。これは、その後のジェノサイド条約や国際刑事裁判所(ICC)の設立へと繋がる、国際人道法の発展における大きな一歩でした。しかし、この裁判が、戦勝国が敗戦国を一方的に裁く「勝者の裁き」であるという批判も根強く存在します。例えば、連合国側が行った無差別都市爆撃(ドレスデン爆撃など)や原子爆弾の投下といった行為は、裁判の場で問われることはありませんでした。
国際連合の設立とニュルンベルク裁判は、二度とあのような惨禍を繰り返さないという人類の決意の表れでしたが、同時に、大国のエゴイズムや「勝者の正義」という、理想と現実の間の深い溝をも浮き彫りにしたのです。
10. 日本の降伏と戦争の終結
10.1. 終戦への道:沖縄戦と本土空襲
1945年に入ると、日本の敗色は誰の目にも明らかでした。太平洋の島々は次々とアメリカ軍の手に落ち、フィリピンも奪回され、日本の絶対国防圏は完全に崩壊しました。制海権・制空権を失った日本本土は、今やアメリカ軍の直接攻撃の脅威に晒されることになります。
1945年3月、アメリカ軍は、日本本土攻略の最終的な足がかりとして、沖縄への上陸作戦を開始しました。これに対して、日本の大本営は、沖縄を本土決戦の時間を稼ぐための「捨て石」と位置づけ、陸海軍による徹底的な持久戦を命じました。ここから、約3ヶ月にわたる、第二次世界大戦における最も悲惨な地上戦の一つである沖縄戦が始まりました。
日本軍は、神風特別攻撃隊に代表される航空機による特攻や、戦艦大和の海上特攻といった、生還を期さない絶望的な攻撃を繰り返しました。陸上では、首里城地下の司令部を中心とした陣地で頑強に抵抗し、アメリカ軍に多大な出血を強いました。しかし、圧倒的な物量差の前には抗すべくもなく、日本軍は追い詰められていきました。この戦いの最大の悲劇は、戦闘に巻き込まれた多くの一般住民が犠牲になったことです。日本兵による住民の「スパイ」嫌疑での殺害や、集団自決(強制集団死)の強要なども発生し、沖縄県民の4人に1人にあたる十数万人が命を落としたと言われています。6月23日、牛島満司令官の自決によって、日本軍の組織的抵抗は終わりを告げました。
沖縄戦と並行して、アメリカ軍はB-29爆撃機による日本本土への戦略爆撃を本格化させていました。当初は軍事施設を狙った精密爆撃が中心でしたが、日本の木造家屋を効率的に破壊するために、焼夷弾を用いた無差別爆撃へと戦術を転換しました。1945年3月10日の東京大空襲では、一夜にして約10万人の市民が犠牲となり、市街地の広範囲が焼き尽くされました。その後、名古屋、大阪、神戸といった主要都市が次々と空襲を受け、日本の都市機能と国民の生活は壊滅的な打撃を受けました。
この絶望的な状況にあっても、日本の軍部指導層は「一億玉砕」「本土決戦」を叫び、戦争終結への具体的な道筋を描けずにいました。彼らは、ソ連を仲介とした和平交渉に一縷の望みを託していましたが、ソ連がすでに対日参戦を密約していたことを知る由もありませんでした。
10.2. 二重の衝撃:原子爆弾とソ連参戦
日本政府がポツダム宣言に対して「黙殺」するという声明を発表したことで、アメリカは、戦争を終結させるための最終手段を行使する決断を下します。
1945年8月6日午前8時15分、アメリカのB-29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で一発の原子爆弾を投下しました。炸裂した原爆は、凄まจまじい熱線、爆風、放射線を放ち、一瞬にして広島の市街地を壊滅させ、年末までに14万人以上もの尊い命を奪いました。人類史上初めて、核兵器が実戦で使用された瞬間でした。
この広島への原爆投下の報に、日本の指導部は衝撃を受けながらも、まだ事態の深刻さを完全には理解できず、戦争継続の方針を変えるには至りませんでした。
しかし、その3日後の8月9日未明、日本をさらなる衝撃が襲います。日ソ中立条約を一方的に破棄したソビエト連邦が、ヤルタ協定に基づき、満州に駐留する日本の関東軍に対して一斉に攻撃を開始したのです。日本の指導部が和平の最後の仲介役として期待していたソ連の参戦は、その望みを完全に断ち切るものでした。
そして、ソ連参戦と同日の8月9日午前11時2分、アメリカは二発目の原子爆弾を長崎市に投下しました。この爆弾によっても、約7万人の人々が犠牲となりました。
広島・長崎への原爆投下と、ソ連の対日参戦。この二重の衝撃は、ようやく日本の指導部に、これ以上の戦争継続が国家の完全な破滅を意味することを悟らせました。特に、ソ連参戦によって、天皇制(国体)が共産主義革命によって覆されることへの危機感が、降伏への決断を促す大きな要因となったと言われています。
8月10日、御前会議において、ポツダム宣言の受諾が議論されます。軍部はなおも「国体護持」を条件とする徹底抗戦を主張しましたが、最終的に、昭和天皇が自らの「聖断」として、国体護持を条件としながらも宣言の受諾を決定しました。
10.3. 「玉音放送」と戦争の終結
日本政府は、スイスを通じて連合国に対し、ポツダム宣言を受諾する旨を通告しました。これに対し、連合国側は、天皇の地位は「連合国最高司令官に従属する(subject to)」とのみ回答し、国体護持を明確には保証しませんでした。この回答をめぐって再び軍部の一部は反発し、クーデターを画策する動き(宮城事件)さえありましたが、最終的には鎮圧されました。
1945年8月14日、昭和天皇は、再びの聖断により、無条件でのポツダム宣言受諾を最終的に決定しました。そして翌8月15日の正午、天皇自らの声で終戦の詔書を読み上げる、いわゆる「玉音放送」がラジオで全国に放送されました。多くの国民は、この放送によってはじめて日本の敗戦を知りました。
9月2日、東京湾に浮かぶアメリカの戦艦ミズーリ号の艦上で、日本政府および軍の代表が降伏文書に署名しました。これにより、1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦は、6年という歳月を経て、名実ともに完全に終結したのです。
この戦争は、全世界で5000万人から8000万人ともいわれる、人類史上最も多くの犠牲者を出しました。それは、旧来の帝国主義と植民地体制を崩壊させ、アメリカとソ連という二つの超大国が対峙する冷戦の時代を幕開けさせました。また、原子爆弾という新たな破壊兵器の出現は、人類を自らを絶滅させうる能力を手にした核の時代へと突入させました。
第二次世界大戦の終結は、一つの破局の終わりであると同時に、新たな対立と、平和への絶え間ない模索が続く、現代世界の始まりでもあったのです。
Module 19:第二次世界大戦の総括:総力戦が描き変えた世界秩序の座標軸
第二次世界大戦は、人類が経験したことのない規模の破壊と殺戮の末に、世界史の画期をなす巨大な構造転換をもたらしました。その影響は、単に国家の興亡や国境線の変更に留まらず、国際政治の力学、イデオロギーの対立、そして人間の価値観そのものを根底から揺るがしました。
第一に、この戦争は、何世紀にもわたって世界を支配してきたヨーロッパ中心の国際秩序を完全に終焉させました。勝利国であったはずのイギリスやフランスでさえ、その国力を著しく消耗し、かつての帝国を維持する力を失いました。代わって世界の覇権を握ったのは、圧倒的な経済力と核兵器を独占したアメリカ合衆国と、広大な国土と強大な陸軍を持ち、東ヨーロッパを勢力圏に収めたソビエト連邦という、二つの超大国でした。戦後の世界は、この二大国を両極とする、イデオロギーと軍事ブロックの対立、すなわち「冷戦」の時代へと突入します。ヤルタからポツダムへと至る連合国の協議の過程は、共通の敵を打倒するための協力が、新たな対立へと変質していくドラマそのものでした。
第二に、大戦はアジア・アフリカにおける植民地解放の動きを決定的に加速させました。日本の「大東亜共栄圏」構想は、結果として欺瞞に満ちたものでしたが、その緒戦の勝利が、欧米列強の「不敗神話」を打ち砕いたこともまた事実です。戦争を通じて高揚した民族意識と、旧宗主国の国力低下を背景に、戦後、アジア・アフリカの諸地域では独立の動きが燎原の火のごとく広がり、第三世界の形成へと繋がっていきました。
第三に、ホロコーストという文明の理性を根底から問う蛮行と、広島・長崎への原子爆弾投下という科学技術の究極的な破壊力の行使は、戦後の人類に深い問いを投げかけました。それは、人権の普遍性という理念を再確認させ、国際連合の設立や国際人道法の整備へと結実する一方で、人類が自らを絶滅させうる「核の恐怖」と恒常的に向き合わなければならないという、新たな時代の始まりを告げるものでした。
このモジュールで我々が学んだのは、ヴェルサイユ体制の矛盾、世界恐慌、そして全体主義の台頭といった要因が、いかにして破局的な総力戦へと収斂していったかのプロセスです。満州事変から始まった秩序の崩壊は、ヨーロッパでの宥和政策の失敗と共鳴し、やがて独ソ戦と太平洋戦争という二つの巨大な戦域を飲み込んで、一つのグローバルな大戦へと発展しました。その軌跡をたどることは、現代世界を形成した地殻変動の原点を探り、平和がいかに脆く、それを維持するためには不断の努力と理性的な対話が不可欠であるかを、改めて心に刻むための知的作業に他なりません。